37. 正現寺

37.
正現寺
ちゅうようざん しょうげん じ
中 陽山 正 現寺
宗派 浄土真宗本願寺派
茨木市郡山2丁目13番33号
高槻城主和田惟政(わだ
これまさ)は元亀年間(1570
年~1573 年)の初頭、高槻城を本拠と
して高槻・茨木・伊丹を支配しその勢力を更に西へ伸ばそうとする勢いであった。その勢
力に対峙して西側陣営は池田城を本拠とした池田知政がその配下に荒木村重、中川清秀を
従えて立ち向かった。そして遂に、元亀 2 年(1571 年)8 月、勝尾寺川と茨木川の合流地点
である白井河原をはさんで合戦となった。世に言う「白井河原の合戦」である。
この合戦は『白井河原は名のみにして、韓紅(からくれない)の流れとなる』と語られたほど
の激戦であった。この合戦で和田惟政の家臣であった郡山城主高利平太夫(郡兵太夫)は奮戦
むなしく戦場に散った。
正現寺の第十九世中村隆彦住職は平成 19 年に逝去。その中村隆彦住職が昭和 58 年(1983
年)2 月 20 日に発行された【茨木市立三島小学校創立百周年記念誌『みしま』
】に正現寺を
紹介する下記の文章を寄稿されている。
【正現寺は、大永元年(1521)本願寺の第九世法主實如上人の直弟となった玄誓なる人物(僧
か俗人であったかは不詳)が、有志の協力によって創立した】と伝えられている。室町時代
の後半、戦国時代のことである。
『茨木市史』によると、この時期の前後は茨木地方におい
て真宗寺院が相次いで創建された時代であったと書かれており、当寺もその範疇に入るも
のである。
この時の本願寺は山科にあり、實如上人の先代蓮如上人の卓越した教化力、組織力によ
り社会的にも強い影響力を待っていたことが「本願寺年表」から窺い知ることができる。山
科本願寺は天文元年(1532)に焼失し、その後、先に蓮如上人が坊舎を築いていた大坂(当時
は「阪」でなかった)の石山に本山が移されている。石山の地は現在の大阪城の区域とされ、
本山が移されて以降、広大な寺内町が形成され、天正 8 年(1580)織田信長により占拠される
までの間の約 50 年間、
商人の町として栄え今日の商都大阪の基盤を作ったものといわれる。
当寺院についても、こうした時代背景の中にあって、とりわけ蓮如上人の晩年における
摂津地方への教化に呼応した人々が、「万人が平等に往生できる」ことを喜び、力を合わせ
て一寺を建立した気概を窺い知ることができる。
なお、当寺には、本尊の他にもう一体の阿弥陀如来像が保存安置されている。これは、
その昔、(年代不詳)中河原にあった寺の本尊とのことである。(正現寺第十九世住職
中村
隆彦・記)】
郡山には、郡山城の時代に作られたと思われる石仏が多く点在し、それらを住人が正現
寺に持ち込み境内に安置されている。
寺院創建
室町時代の後半、戦国時代の頃、玄誓(げんせん)が本願寺第九世法王實蓮如
上人の直弟となり、当地に住み有志の協力を得て、大永元年(1521 年)2 月、
建立、開祖となった。
本
尊
阿弥陀如来立像 木造 像高 72.0cm 室町~江戸時代作
主たる什物
◎ 阿弥陀如来立像 木造 像高 19.3cm 江戸時代作
◎ 僧形座像 木造 江戸時代作
建 造 物
本堂 入母屋造り、大永元年(1521 年)に建築され建物で、その後、部分的
な修理が施され現在に至る。昭和 48 年(1973 年)、亙を銅版にする葺替え工
事が行われた。
法要・
法要・行事
修正会(1 月 1 日)、永代経法要(4 月)、報恩講(11 月)、彼岸法要、盂蘭盆会
は各檀家を訪問し行う。
住
職
故中村隆彦(なかむら りゅうげん)住職。昭和 31 年、十九世住職に就任
中村隆彦十九世住職は平成 19 年に逝去。現在、ご内儀が坊守を務め、い
ずれご子息が住職に就任される予定。