将軍義材の生涯 | 義材と越中国 | 中島 信之 1 はじめに 先般,わたしは『将軍義材はなぜ越中国に来たのか』を考察した。足利将軍について,われわれ(少なくとも わたし)は,ほとんど何も知らない。そこで,この度,将軍義材 | とくに越中国とのからみで | について調べ てみようと思った。はたして,何が出てくるか。 2 将軍義材の略歴 足利義材。室町幕府第 10 代将軍。義材よしき→義尹よしただ→義稙よしたねと改名。 生:文正元(1466)年 7 月 30 日,没:大永 3(1523)年 4 月 9 日(7 日とも)。 父は第 8 代義政の弟義視,母は裏松重政の娘。将軍の位には,延徳 2(1490)年 7 月 5 日から明応 2 年 6 月ま でと,永正 5(1508)年 7 月 28 日から大永元年 12 月 25 日(1522 年 1 月 22 日)までと在位。 越中国には,明応 2(1495)年,明応の政変で位を追われてから, 。明応 7(1498)年,越前朝倉氏に頼るまで 約 5 年を越中で過ごした。以後河内に逃れ,さらに周防の大内氏のもとに身を寄せ,大内軍に守られて上洛,将 軍に復帰した。永正 18 年 3 月,堺に出奔,将軍職を解かれた。淡路国や阿波国を転々とし,2 年後に死去。 3 義材の年譜 以下,参考にしたのは,田中, 『足利時代史』[2], 『誰でも読める日本中世史年表』[6],および日置, 『新国史大年 表』[3] である。『足利時代史』からの引用は(田), 『誰でも…』は(吉), 『新国史』は(日)とした。 西暦 文正元・1466 年齢 月・日 事 項 1 7・30 足利義視(今出川殿)の子として誕生。一説に 7・29(日) しばらく義材本人に関する記述はない。父の義視についてみる 応仁元・1467 2 8・2 義視,伊勢に逃れて北畠教具を頼る 応仁二・1468 3 4・9 義政,しばしば義視に書を送り招くが,入洛せず。この日は勅を伝えて招 く 9・11 義政の招きにより,義視入京。12 義政と会見。東軍に入る 11・13 義視,義政と不和になり,密かに比叡山に脱出。西軍に入る 3 5・20 幕府,山城・近江・伊勢の寺社本所領の半済地を義視の領所とする 文明九・1477 12 11・11 土岐成頼,義視を奉じて美濃に帰る 文明十・1478 13 7・10 義政,義視と和睦。このため,義政は義視・土岐成頼・畠山義統らに内書 を出す 延徳元・1489 延徳二・1490 24 25 3・26 9 代将軍義尚歿 4・8 義尚の死を聞き,義視,義材をともなって(美濃より)大津に到る 4・14 義視・義材入京 10・22 義視・義材父子,8 代将軍義政と対面 1・7 義政没。義視の出家を条件に将軍就任が決まった(とのこと) 1 1・13 義材家督(将軍職)を継ぐ。義視後見 7・ 5 将軍位に就く 10 月 幕府,朝鮮に使いを派遣。義材襲職を伝え大蔵経を求める 翌年 10 月大蔵経至る。 延徳三・1491 26 1・ 7 義視歿 4・21 前将軍義尚の遺志を継ぎ,近江の六角高頼の追討令を出す。朝廷に奏して 倫旨および錦旗を乞う 明応元・1493 明応二・1493 28 29 8・22 倫旨下さる(田) 8・27 義材自ら諸将を率いて京都を発し,近江の三井寺光浄院を以て本営をおく 9・12 近江の寺社本所領を兵糧料所とし,奉公衆に分与 12・14 近江より帰京 2・15 畠山政長・尚順父子,斯波義寛らを率い,畠山基家追討のため河内に出陣 2・24 政長,義材に銭 10 万疋(一千貫文)を進上 3・20 政元,密使を派遣し,義材に謀叛するとの意を告げる 4・22 政元,清晃(のちの義高,義澄)を擁立して挙兵。義材に従う諸将はこれ を聞き,政元に従う 閏 4・25 5・ 2 政元,河内正覚寺を攻撃。政長自殺,義材は上原元秀に投降 義材を龍安寺に幽閉し,次いで元秀邸に移す 6・1? 将軍位を廃さる 6・26 政元,義材の小豆島配流を企てる 6・28 義材,越中放生津に逃れ,神保長誠・慶宗父子に頼る(日は 29) 8月 義材のもとに北陸地方の守護ら(能登の畠山,加賀の富樫,越後の上杉な ど)が参進する。 11・2 義材,再興をはかる内書を九州の諸将に送る。多くの諸将これに応じる 12・27 義高(義澄と改名),元服,将軍宣下(11 代将軍) 西暦では 1495 年 明応三・1494 明応四・1495 29 30 9・21 義材,越中で挙兵 8・14 朝廷,幕府の要請により,朝臣・門跡が義材と連絡を取ることを禁ずる 10・20 義材,高野山の伝法院・粉河寺など衆徒の戦功を賞す 7・28 義材,石見の吉見義隆の戦功を賞して,石見・越前・備中・備後の諸郷を 与える 明応五・1496 31 4・28 遣明船が帰国すると聞き,その際は一艘を兵糧として与えるので,東上し て軍忠に励むようにと大内,大友,島津の三氏に書(内書)を送る (商人は迷惑) 5・27 大友政親,子の豊後守義右が義材に従うので毒殺 明応六・1497 32 9月 越中より京都に入ろうとするが果たせず 明応七・1498 33 9・ 2 義尹と改名。義尹,上洛をはかり,越前一乗谷の朝倉貞景館に入る 明応八・1499 34 7・20 政元,義尹に与する延暦寺衆徒を攻め,根本中堂などを焼く 7・20 朝倉貞景・義尹京都に入るため府中を出陣し,21 敦賀に到る 9・ 5 畠山尚順,義尹に応じて摂津に侵攻。政元,尚順鎮圧のため兵を出す 9・14 畠山義英,兵を率いて摂津へ。政資援助に赴く 9・28 義英ら,尚順の兵を摂津中島で破り,赤沢朝経,尚順軍を諸城で攻略 11・8 義尹,13 日に敦賀を発ち,京に向かわんと,近江堅田の諸氏に協力を求む 11・22 義尹,近江坂本に至るが,六角高頼に敗れて河内に逃れ,ついで周防・大 内義興に頼る 2 明応九・1500 周防の義尹,九州・四国の諸将に助勢を依頼 35 2・13 周防より,肥後の相良為続や薩摩の島津忠朝に書を送り,協力を依頼 3・5 義興,義尹を周防神光寺に迎え,与間口江良村に館を作り入り,援助する 4・10 肥前の渋河刀禰王丸,安芸の毛利弘元に書を送り援助を求む 4月 豊後に使者を派遣し,大友親治に義興と和睦し,共に義尹に協力するよう 求む 5月 文亀元・1501 伊勢貞仍を派遣し,京極政経,山名致豊・尚之,一色義直らに援助を求む 8・12 渋河刀禰王丸を鎮西探題とする 8・28 紀伊粉河寺衆徒に書を与え,畠山尚順に協力するよう命ず 周防の義尹,上洛をはかり,諸将に合力を催促 36 6・13 義尹,入京をはかり,諸国より兵を招集。義興,義尹の命により,信濃 松尾城小笠原定基に書を送り協力を求む この頃,幕府はしばしば大内義興追討令を出す 文亀二・1502 37 1月 龍造寺家和の戦功を賞し,肥前下加瀬の土地を与える 永正二・1505 40 3・1 肥後の菊池政朝・周防の義材と合力し,豊後の大友義長と戦う 11・27 政元,義尹与同の河内の畠山義英・尚順を,浅沢朝経に攻めさせる 永正三・1506 41 1・26 朝経,義英の誉田城を,28 日 尚順の高屋城を攻略 永正四・1507 42 12・15 大内義興,義尹を奉じて上洛を図る。義澄,義尹・義興との和を細川澄 元に諮らせる 永正五・1508 43 1・17 尚順・高国ら,義英を攻撃して陥れる 2・20 幕府,義尹の上洛阻止を西国諸将に命じる 4・16 義澄,義尹の上洛が近いと聞き,近江に逃れる 4・27 義尹和泉堺に到る。高国・尚順らが迎えに出る 6・6 義尹,堺を出る 6・8 義尹,義興を率いて入京。(大内義興,以後 10 年在京) 義尹,高国に細川家宗家継承を承認 永正六・1509 44 7・1 義尹に将軍宣下 7・13 義尹,今川氏親に遠江守護職を与える 11・16 義尹,上杉定実を越後遠江守護とする 5・21 義尹,大内義興に遣明船の勘合を子々孫々まで保証すると約束 10・26 夜,同朋衆判阿弥の手引きで近江甲賀の円珍ら 2 人の賊が幕府に入り,義 尹を刺殺しようとした。義尹は 1 人で奮闘撃退した 永正七・1510 永正八・1511 45 46 1・28 高国・義興ら,近江で義澄を攻めるが敗北 2・28 高国・義興ら,近江で義澄を攻めるが敗北 10・10 義澄,京都回復のため,大友親治父子に助力を求める 7月 阿波の細川澄元挙兵して,摂津等で高国方と戦う 8・14 義澄,近江岡山で没 8・16 義尹・高国・義興ら,政賢らが京都に迫ると聞き,丹波に逃れる 義尹,小早川弘平に安芸郡宇・竹原両荘の地頭職などを安堵 永正十・1513 48 8・24 義尹,高国・義興ら,山城船岡山で澄元らを破る 9・1 義尹入京 2・6 義興に帰国を命ず 2・14 義澄の子義晴と和す 3・17 義興・高国の専横を怒り,近江に出奔 4・13 義興・高国ら,義尹に背かぬと誓書を出す 3 5・3 帰京 11・9 義稙と改名 永正十一・1514 49 10・26 高国,義稙に請い,細川政春を備中守護とする 永正十二・1515 50 7・5 三条高倉に新第造営を開始。12・2 に遷る 永正十四・1517 52 2・4 義稙の三条第を賊が襲うとの流言があり,京都騒擾する 永正十五・1518 53 8・27 義興の周防への下国を許す 12・2 義稙,常御所に遷る 永正十六・1519 54 11・3 義稙,播磨守護赤松義村に澄元と絶交させ,高国との和睦させる 永正十七・1520 55 1・12 京都に土一揆。廬山寺ついで義稙邸を焼く 2・6 義稙,京極高清に京都を守護させる 2・17 澄元,義稙に忠誠を誓う 10・6 (後柏原天皇の)即位式の延引を朝廷に申し入れ,一万疋を献ず 2・11 即位の費用を献ず 3・7 高国の専横を憤り出奔。堺を経て,10 淡路に行き,再起をはかる 4・18 高国,義澄の子亀王丸(のちの義晴)を将軍に迎立しようと,若狭守護武 永正十八・1521 56 田元光を誘う 7・6 大永元・1521 10・23 8・23 改元 淡路から堺に進む。尚順・義英は和睦してこれを迎える。高国は義英を攻 撃。義稙は上洛はかなわず,阿波に逃れる 12・25 大永三・1523 亀王丸を京都に迎える。(28 義晴と改名) 58 4・9 朝廷,義稙を罷免,義晴に将軍宣下(12 代) 阿波撫養で歿 参考文献 [1] 児玉幸多編,日本史年表・地図(第 14 版),吉川弘文館,2008 [2] 田中義成,足利時代史,講談社学術文庫,1979(原本 1923), (所有) [3] 日置英剛編,新国史大年表第 4 巻,国書刊行会,2009 [4] 宮本昌孝,将軍の星(小説集),徳間文庫,2012(所有) [5] 森茂暁,皇子たちの南北朝,中公新書,1988 [6] 吉川弘文館編集部,誰でも読める日本中世史年表,2007,吉川弘文館 4
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