1 台湾総統選挙の情勢について 地域研究部北東

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2015年10月号
台湾総統選挙の情勢について
地域研究部北東アジア研究室 門間 理良
はじめに
台湾では1996 年以来、
台湾住民による直接選挙方式で総統選挙が4 年ごとに実施されている。
次回は2016
年 1 月 16 日(土曜日)に実施されることが決定しており、台湾内部はもとより周辺各国でも徐々に注目度
が高まってきている。さて、過去の総統選挙では以下のような注目点があった。
① 1996 年:初の総統民選の実施。中国の台湾北部・南部海域における短距離弾道ミサイル発射訓練によ
る威圧(前年から続く第 3 次台湾海峡危機)と米クリントン政権による 2 個空母機動部隊の台湾海峡に
向けた派遣。
② 2000 年:中国国民党(以下、国民党)系候補の分裂による三つ巴の選挙戦の展開。選挙直前における
中国の朱鎔基総理による台湾恫喝のテレビ中継と台湾民衆の反発。
投票終了直後における湯曜明参謀総
長(台湾軍制服組トップ)によるシビリアンコントロールへの絶対服従のテレビ放映。民主進歩党(以
下、民進党)の陳水扁・呂秀蓮ペアが得票率 4 割弱ながら当選し、中華世界初の平和的制度による政権
交代を実現。
③ 2004 年:前回では敵味方で戦った藍勢力(国民党系の陣営)有力者が協力して正副総統候補を形成し、
民進党現職正副総統と一騎打ち。投票日前日における正副総統への銃撃事件発生と混乱。藍陣営優位と
思われた情勢から一転してわずか 3 万票差による現職の陳水扁・呂秀蓮ペアが再選。藍勢力の大規模抗
議行動が発生。
④ 2008 年:8 年に渡る民進党政権期の停滞・悪化した対中・対米関係、総統周辺人物の汚職などに対する
台湾民衆の反発の結果、新人同士の争いで国民党の馬英九・蕭萬長ペアが史上最高の得票数(約 766
万票)と得票率(58.44%)を得て当選し、再度の政権交代が実現。馬英九の総統就任直後から対中関
係は劇的に改善に向かい、対米・対日関係も進展。
⑤ 2012 年:安定した対中関係や対外関係を基礎に、馬英九が約 80 万票差で再選を果たす(副総統は呉敦
義行政院長に交代)
。投票日直前に、米国「高官」が蔡英文不支持とも受け取れる不満をメディアに明
らかにした影響もあってか、蔡は予想以上の差をつけられて敗北。また、元々国民党の勝利が予想され
る状況の下の選挙で投票率が過去最低(74.38%)を記録。同時実施された立法委員(国会議員)選挙も、
国民党が過半数を獲得し政権は安定を維持。
本稿は今次で 6 回目となる台湾総統選挙を 2015 年 9 月末時点で情勢分析するとともに、選挙の注目点を
紹介することを目的としている。
台湾総統民選の特徴
20 歳以上の選挙民(約 1800 万人)が 1 票を行使し、比較1位のペアが正副総統に当選する。台湾選挙民
の意識は元々高く、2014 年の統一地方首長選挙の投票率は、直轄市長(6 大市長)選挙で 66.31%、それ以
外の県市の首長選挙では 70.40%だった。しかし、総統選挙の投票率は過去 5 回の平均で 77.9%とかなり
高く、同選挙がとりわけ台湾住民の関心を引いていることが了解できる。
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総統の任期は 4 年で連続 2 期までとなっている。現在の馬英九総統は 2 期目を務めているため、次の総
統選挙は全て新人が争うことになる。また、李登輝総統が 1990 年に国民大会で総統に選出され、1996 年に
総統民選で当選したことも含めると、台湾の民選総統 3 名は全員 2 期を務めている。2004 年のように僅差
の時もあるが、概ね現職有利の状況があったと言える。また、政権は 2 期ごとに交代しており、有権者の
バランス意識も働いていることが看取される。
鍵となる対中・対米関係
総統選挙で台湾の選挙民が最も選挙民が重視する項目として、候補者の対中政策が挙げられる。今次の
選挙で大きなポイントとなるのは「1つの中国」原則と「92 年コンセンサス」を中台交流の基礎とするか
否かである。
「1つの中国」原則とは中国と台湾がともに1つの中国に属している、という考え方で、それ
を確認したやりとりが「92 年コンセンサス」と言われている。但し、1つの中国なるものがどのような政
体であるのかは明示されていない。当然のことながら中国側は中華人民共和国を、台湾側は中華民国を中
国であるとそれぞれ考えている。特に台湾側は「1つの中国」の内容を「各自が述べ合う」としているが、
それを中国側は認めていない。また、台湾の民進党は「92 年コンセンサス」自体が存在しないとの立場を
維持している。中国はこの「1つの中国」原則と「92 年コンセンサス」を民進党に認めさせることで、台
湾独立を防ぎ、さしあたり中台関係の現状維持を確保したいと考えている。
総統が良好な対米関係を構築できるかどうかも、台湾の選挙民にとっては大きな関心事である。陳水扁
総統は 2002 年 8 月に中台は別の国であるという意味の「一辺一国論」を提起したり、2004 年の総統選挙時
に中台関係のあり方に関する「公民投票」を実施したりするなど、中国のみならず米国からも中台関係に
緊張をもたらす「トラブル・メーカー」であるとの批判があったとされる。これに対して馬英九総統は「独
立せず、統一せず、武力行使せず」の「三不政策」を掲げ、
「ピース・メーカー」を自認した。中国側もそ
のような馬英九政権を歓迎して、中台交流を加速させてきた。米国は中台の緊張緩和を歓迎しており、馬
英九政権との関係も良好と見られている。
今次総統選挙では、既に民進党の蔡英文候補(同党主席)が 2015 年 5 月末から 2 週間訪米し、総統候補
者として初めて国務省の訪問を許されるなど米国当局関係者から異例とも言える厚遇を受けた。2012 年選
挙の時と異なり、蔡が中台関係の現状維持の方針を明確に打ち出していることが厚遇の一因だが、米国が
蔡英文当選の可能性が高いことと、現在の米中関係が緊張していることを見越したうえでのこととも思わ
れる。なお、国民党の公認候補である洪秀柱と親民党公認候補として立候補を表明している同党の宋楚瑜
主席は、9 月末時点で依然訪米していない。
総統公認候補のプロフィール
蔡英文(民進党)
1956 年 8 月、屏東県生まれ。女性。客家の出。台湾大学法学部卒業、ロンドンスクール・オブ・エコノ
ミクスで法学博士取得。大学教員を経て、李登輝政権時にブレーンとして李総統の「二国論」発言に重要
な役割を果たす。2012 年は総統選挙に挑むが敗北。党主席として 2014 年の統一地方首長選挙に大勝し、波
に乗る。前回の総統選挙前に訪米した際には冷遇されたが、今次訪米では国務省内で高官と会談を行った
ことからもわかるように好意的待遇を受けている。各種メディアが行う総統候補への支持率調査でも常に
トップを走る。
洪秀柱(国民党)
1948 年 4 月、台北県(現新北市)生まれ(祖籍は江蘇省)
。女性。第 1 期(1990-93 年)から 8 期連続し
て立法委員(国会議員)を務める。第 8 期で女性初の立法院副院長に就任(現職)
。中国文化学院を卒業後、
10 年間教職にあったため、教育関係に高い関心を抱く。中国との政治協議を進めて「両岸平和協定」を調
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印するとの考えを持つ。背が低いが政治の舌鋒の鋭さから「小粒の唐辛子」とのあだ名があるが、今回は
出馬が期待されていた朱立倫国民党主席や王金平立法院長よりも知名度が低く、支持率では苦戦中で、党
内からは「柱を換えろ」
(洪秀柱を降ろせ)の声も出ていると報じられている。
宋楚瑜(親民党)
1942 年 3 月、湖南省生まれ。国立政治大学卒業。ジョージタウン大学で政治学博士取得。蔣経国の英文
秘書として政界入り。行政院新聞局副局長、同局長などを歴任後、国民党秘書長を務め、李登輝政権を党
の側から支えた。その後台湾省長に高得票率で当選、就任。蔣経国をまねた政治スタイルと服装で台湾省
をくまなく回り、省長の政治資源を使った「ばらまき」型政治で民衆から支持を得た。李登輝とは良好な
関係にあったが、李が進めた台湾省凍結に反発して関係が悪化。総統選挙への出馬を表明して国民党を離
れ、2000 年に無所属で総統選に立候補。国民党の連戦を超える 2 位を確保し存在感を示した。その勢いに
乗って親民党を立ち上げる。2004 年総統選挙では連戦総統候補とともに副総統候補として出馬するも惜敗。
2012 年総統選挙では総統候補として立候補したが惨敗を喫した。今次総統選挙は前回よりも勢いがあり、
支持率調査では洪秀柱を抑えて第 2 位につけることもあるが、漸減傾向が見られる。
もう一つの鍵を握る立法委員選挙
政権の安定性を考える上でもう1つ重要な要素は、立法委員選挙の情勢である。2000-08 年の陳水扁政権
期の立法院は国民党を中心とする藍勢力が過半数を占めてきた。そのため、政権についた陳水扁総統は李
登輝政権最後に国防部長を務めた唐飛(国民党籍)を行政院長(首相に相当)に指名した。国民党籍で外
省人の唐飛を行政院長に選んだ背景には、①中国と米国に対して、中国が攻撃してこない限り台湾独立は
宣言しないとの公約を重要人事からも明らかにした、②台湾内に対しては、全民政権という形で藍勢力と
も融和的な政権運営を行うことで、立法院からの掣肘をできるだけ受けないように図った、③外省人が圧
倒的多数を占める台湾軍高級幹部の民進党政権に対する反発心を抑える、などの意図があると見られた。
だが、国民党との合意がないままに行政院長になったため、唐飛は半年もたずに辞任した。以後は民進党
の重鎮が次々と行政院長の座についたものの、総統府・行政院(民進党)と立法院(国民党を中心とする
藍勢力が過半数)は対立し、政権が機能不全のような状態で 8 年間を終える結果となった。
現在の立法院(第 8 期)は、定員 113 議席(小選挙区 72、少数民族枠 6、比例代表枠 35)に対して現員
112 議席で、内訳は国民党 65、民進党 40、親民党 2、台湾団結連盟 3、その他 2 となっている。これまでの
立法委員選挙において、民進党は一度も過半数を獲得したことがないが、次期選挙ではその可能性がある
ことを指摘する台湾研究者もいる。その根拠の1つは 2014 年 11 月 29 日に実施された統一地方首長選挙で
民進党が大勝を収めたことである。この選挙では台湾の 6 大市長の内、台中市・桃園市の 2 市長の座を民
進党が国民党から奪取したほか、高雄市・台南市は確実に民進党が確保し、台北市でも民進党寄りの無党
派市長が誕生した。国民党が余裕で勝利すると見られていた新北市でも、民進党にわずか2万 4528 票差(得
票率で 1.28 ポイント差)に迫られての辛勝だった。他の県市においても民進党が躍進した。民進党が政権
を取るだけでなく立法院で過半数を獲得できれば、議会も多数派を構成することになり、陳水扁政権時に
比して対内的には遥かに安定した政権運営が期待できる。
民進党政権が誕生すれば、中国は圧力を強化
対中関係に関して、洪秀柱は馬英九よりもやや統一志向が高い発言が見られている。宋楚瑜は個人的に
は中国との関係が良いものの、政治家としては台湾の現状維持を望んでいる。中国としては、できればこ
のどちらかに政権を取ってほしいところだが、民進党の政権奪還が確実だと台湾問題を研究する中国社会
科学院台湾研究所の副所長が分析をするほど、蔡英文は優勢を保持している。
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仮に民進党が総統選挙に勝利した場合、どのような事態が考えられるのだろうか。台湾との平和統一を
望む中国は、台湾の民衆を敵に回したいとは考えていない。できるだけ台湾民衆の生活にダメージを与え
ずに、民進党政権の権威を傷つける政策を中国は実施するだろう。考えられるのは、馬英九政権発足直後
に 9 年ぶりにトップ会談を成立させ、以後 2015 年 8 月までに 11 回の会談が行われた海峡交流基金会(台
湾)と海峡両岸関係協会(中国)のトップ会談の停止である。海基会・海協会は馬政権成立後、ECFA など
23 の協定に署名し、中台間の経済・貿易を中心とする交流の促進に寄与してきた。民進党政権が成立した
としても、これらの協定を破棄することはないだろうが、新たな交渉を始めることは避けるかもしれない。
陳水扁政権の時と同様、
「聽其言而觀其行」
(其の言を聴きて其の行を観る)という実質的な無視を決め込
む可能性もある。馬英九政権期には 3 度実施された行政院大陸委員会と国務院台湾事務弁公室という政府
レベルで中台実務問題を取り扱う部門のトップ同士の会談も、棚上げ状態になる可能性がある。
馬英九総統は「外交休兵」
(外交的休戦)を掲げ、援助の多寡で中国と友好国を争奪しないことを提唱し
ていた。台湾を国家として認めていない中国がその提唱に正面から答えることはないが、現実的には、馬
英九政権期の台湾の外交関係は友好国数が 23 カ国で安定してきた。そのような中、2013 年 11 月にガンビ
アが突如台湾との断交を発表して「外交休兵」の終わりかと注目を浴びた。これまでの通例だと、台湾と
断交した国は中国と直ちに国交を樹立してきた。しかし、中国はガンビアと国交を結ばなかったことから、
台湾の「外交休兵」を暗に肯定していると見られる。民進党政権が誕生した場合、このような安定した状
況が変化し、中国と台湾との間で友好国の争奪戦が発生することも考えられる。
また、中国は 1996 年の総統選挙時のような露骨な軍事的圧力をかけることは、台湾民衆の反発を買うこ
とを学んだので控えると思われる。しかし、中国は台湾武力解放の選択肢を放棄したことはない。短距離
弾道ミサイルや巡航ミサイルの更新、長射程防空ミサイル、先進的戦闘機や早期警戒管制機、強襲揚陸艦
などの増加を淡々と進め、サイバー戦の能力も向上させている。台湾を武力解放できる武器・装備を整え
て必要な訓練を行うこと、米軍が台湾海峡有事に介入することを躊躇するような、あるいは拒否するだけ
の戦力を整えることを人民解放軍は一貫して目指している。
おわりに
上記注目点以外に、ペアを組む副総統候補も一定のポイントとなる。一般的には総統候補の弱点を補う
ような人選(政治に強い総統候補に対して経済に強い副総統候補や、若い総統候補に対して老練な副総統
候補など)がなされることが多い。また、選挙戦終盤になると、スキャンダルの暴露合戦などが繰り広げ
られて、支持率に影響を与えることもある。最後まで目を離せないのが台湾の総統選挙なのである。
(2015 年 9 月 28 日脱稿)
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