NIDS NEWS 2015年4月号 イスラエルの『防衛可能な国境』をめぐる議論の歴史 戦史研究センター国際紛争史研究室 餅井 雅大 はじめに 2015 年3月 17 日のイスラエル議会(クネセト)選挙を経て、第4次ネタニヤフ内閣が成立する見 込みである。完全比例代表制のイスラエルでは、選挙後の連立の形成と組閣人事をめぐり最大6週間 の交渉が行われ、対外政策・安全保障政策を含む政権の方針が判明するまでかなりの時間を要する。 国際社会の関心事項である和平問題をめぐっては、選挙前にネタニヤフ首相よりハル・ホマ入植地で の演説においてパレスチナとの「二国家案」を否定する発言があったなか、大統領による組閣要請で は対米関係の修復が強調されるなどの動きが見られ、またブッシュ政権時代から継続的にアメリカか らの批判の対象となっていたハル・ホマ入植地の新規住宅建設計画が凍結されるなど、中長期的な方 針は多様な可能性を秘めている。 歴史を振り返れば、中東和平をめぐる当事者の動向について適宜の現状把握と将来予測を行うこと は、流動的な中東地域情勢と複合し、常に困難なものとなってきた。本稿はイスラエルの安全保障政 策に関する特定の言説を歴史的観点から取り上げ検討することで、現状理解のための資とすることを 目的とする。もっとも、中東和平の問題は、それが一見安全保障上の問題であると規定されたもので あっても、実際には種々の要素が交錯した複雑な問題であると捉えた方が分析に適している場合もあ り、安全保障や防衛の要素を完全に分離して議論することは不可能である。その点に留意しつつ、本 稿の目的は、中東和平におけるこれまでの国際社会の取り組みとイスラエルとパレスチナ自治政府の 両当事者間の合意により形成されてきた緒論点について網羅的に扱うのではなく、イスラエルの安全 保障上の議論において扱われてきた「防衛可能な国境(defensible borders) 」という一つの概念につ いて焦点を当てて議論をすることで、問題の背景の理解につなげることにある。この問題設定は、和 平をもたらすための当事者間の合意に向けて、当然ながら一つの明確な結論を導き出すものではない が、持続的な平和を可能とする当事者間の合意が成立するための経済支援等を通じた環境醸成の継続 が持つ重要性を示唆するものとなる。 「防衛可能な国境」概念 「防衛可能な国境」概念は、イスラエル国防軍(IDF)の公式の表現ではないが、イーガル・アロン による論文を筆頭に、現在でも退役軍人をはじめイスラエルの安全保障に関する議論において中心的 トピックの一つとなっている。 「防衛可能な国境」という言説を創出した人物として代表されるのが、 アロンであるとされる。アロンは建国前のイスラエルの地で生まれ、建国期の精鋭組織パルマッハに おいて司令官を務めた人物であり、ラビン首相(パルマッハにおけアロンの参謀長であった)の閣僚 でもあったイスラエルの政治家である。アロンがフォーリン・アフェアーズ誌に投稿した論文では、 「地域における敵対勢力の組み合わせ如何に関わらず、外国からの支援に頼ることなく、あらゆる地 域紛争において自国を防衛することが可能となる」ことを意味していると考えられる。この概念は歴 1 NIDS NEWS 2015年4月号 史上、1948 年戦争(日本では第一次中東戦争として知られる)により成立した 1949 年 6 月 1 日の停 戦ライン(グリーンライン)が、安全保障上、特に陸上侵攻に対して防衛が不能であることを指摘す るものとなっている。その含意するところは論者により様々であるが、現代においてはこのグリーン ラインを前提としたイスラエルとパレスチナの当事者間の合意された国境であるか否かという論点に つながる。 将来的なパレスチナ国家のヨルダン川西岸地区との関連では以下の点に集約される。すなわち、侵 攻の事態に際して、イスラエルが予備役を動員するまでに 48 時間を要するとされる。過去の正規軍を 相手とした戦争においては、ヨルダン川を経由しての陸上兵力の侵攻があったため、こうした侵攻部 隊がテルアビブをはじめとする地中海沿岸の人口・産業中心地区にいたるまでの対処において、ヨル ダン渓谷にイスラエル国防軍の恒久的プレゼンスを必要とするとしている。現在、ヨルダンと西岸地 区(イスラエルではしばしばジュデア・サマリア地区とよばれる)の国境を構成するヨルダン川に沿 った急勾配のヨルダン渓谷では、第 417 ヨルダン渓谷地区旅団により、様々なシナリオに対してイス ラエル国防省民生官(COGAT)とパレスチナ自治政府との連係のもと、即応体制がとれるよう訓練を行 われているとされる。 他方、専門家においても領土交換などを通じたグリーンラインの微修正により「防衛可能な国境」 の成立は可能であるとする意見もある。パレスチナ側においても、自治区の範囲を最適化するために 調査を続ける専門家が多数存在し、ある意味ではその細部が国際的に注目されている境界線であると いえる。こうした情報の充足は、経済支援等を通じた環境整備と信頼醸成により、当事者間の交渉に より継続的な平和を可能にする解決をもたらしうる希望となる。ここで、これまでの国際社会の協力 を通じた能力構築により、パレスチナの治安維持部隊との治安協力を可能とする信頼醸成が重要とな ってくる。 パレスチナ自治政府の治安維持能力構築とイスラエルとの治安協力 オスロ合意以降、特定の地域において治安維持に責任を持つパレスチナ自治政府の治安能力を構築 するために、アメリカを中心として様々な支援が行われ、またイスラエルとの治安協力も継続的に行 われている。2007~10 年にかけては、キース・デイトン中将のもと、アメリカによるパレスチナ自治 政府治安維持部隊養成プログラムが実施され、アメリカとヨルダンの警察幹部による法の支配のため のジャンダルメ(国家憲兵隊)的な機能が養成された。また、2014 年にはイタリアの治安警察隊カラ ビニエリとの治安能力向上のための協力が行われている。情報分野においては、アメリカやイギリス の対外情報機関による対騒擾作戦能力への支援が行われているとされる。 こうした取り組みは、イスラエルによる 1967 年の第三次中東戦争以降の占領からの撤退後も、 「防 衛可能な国境」を維持するためのパレスチナ自治政府の能力構築と治安協力体制の確立をもたらすも のとして期待されている。他方で、そもそも政治的解決を待たずにイスラエルの「防衛可能な国境」 と西岸地区における占領の終結の両立が、純粋な治安維持能力で対処できる問題なのかについて疑問 視する論者も存在する。イスラエルの提示する「非武装化」(demilitarization)という条件とそれに 対するアメリカの「非武装状態」 (non-militarization)という提案があるが、パレスチナ自治政府が 概念の段階において「非武装」に関する項目について合意していない。また、 「非武装」のプロセスに は、パレスチナ自治政府の中心であるファタハ系とイスラム過激派組織ハマスとの激しい勢力争いが ともなうことは、これまでの過程が示してきた通りである。いずれにせよ、和平に関心を持つ様々な 2 NIDS NEWS 2015年4月号 アクターとの対話を深めながら、政治的解決の不在を理由に暴力を容認する過激派の伸張を許容する 結果を回避するための継続的努力が求められる。 おわりに――継続的な信頼醸成とその環境の必要性―― 暴力の再発を防ぐために、いかなる枠組みが必要となるのかを客観的に理解することは、国際社会 による働きかけにおいて重要である。和平を実現する当事者において、何を持って「防衛可能な国境」 とするかは、脅威の性質に依存する。多くの議論で「防衛可能な国境」の重要部分とされているヨル ダン渓谷の治安能力についても、イスラエル国防軍の物理的な陸上兵力のプレゼンスを必要とするか、 あるいは非武装化されているが十分な治安維持能力と治安協力の姿勢を示しているパレスチナ政府の 存在があればよいのか、専門家の間でも見解は分かれている。当事者の合意により決定される国境問 題は信頼が確立された環境において成立する。そのために、外部的な環境を設定する枠組み構築のた めの国際社会による恒常的な地域安定へのコミットメントは不可欠である。その観点から、経済支援 等の非軍事分野において、安定した地域秩序の形成に貢献することは、平和を実現するとの観点から 引き続き重視されるべきである。この観点から 2006 年7月に日本政府が提示した「平和と繁栄の回 廊」創設構想は、当事者を含め、あらゆるアクターが目標とする平和と安定をもたらすものとして継 続性を担保することが肝要であろう。英紙フィナンシャル・タイムズは、中東和平カルテット特使を 務めてきたトニー・ブレアイギリス元首相が退任する見込みであると伝えている。日本の「平和と繁 栄の回廊」創設構想にも深い共感を示していたブレア氏による和平に向けた取り組みは、パレスチナ の経済発展を軸にした恒久的な和平のための環境構築にあったとされる。2014 年のアメリカのケリー 国務長官によるイニシアティヴの不調以降、当事者間の交渉が滞る中で経済的繁栄のための枠組みの 継続性が危ぶまれている。当事者の交渉に委ねられるべき国境についての合意が不在の中で、 「二国 家」共存を可能とする経済環境の実現のための継続的な国際社会の支援は、暴力の停止に親和的なパ ラメーターを設定するため不可欠のものである。ヨルダン渓谷における日本独自の構想である「平和 と繁栄の回廊」創設構想は、非軍事的貢献により平和を実現するという戦略の真価が問われる事例で あり、継続性を重視することで平和のためのパラメーターを設定するものと期待される。 主要参考文献 Allon, Yigal. “Israel: The Case for Defensible Borders.” Foreign Affairs Vol. 55, No. 1 (Oct. 1976): 38-53. Dayan, Uzi. “Defensible Borders to Secure Israel's Future.” Israel's Critical Security Requirements for Defensible Borders. Jerusalem: Jerusalem. Center for Public Affairs, 2011. Accessed 28 March 2015. http://www.jcpa.org/text/security/dayan.pdf. Mozgovaya, Natasha. “Former Israeli diplomats in Washington: 1967 borders are defensible.” Ha’aretz, 25 Jul 2011. Barker, Alex, John Reed and Geoff Dyer. “Blair's Middle East role has run out of road.” Financial Times, 15 Mar 2015. (3月30日脱稿) 3 NIDS NEWS 2015年4月号 本稿の見解は、防衛研究所を代表するものではありません。無断引用・転載はお断り致しております。 ブリーフィング・メモに関するご意見・ご質問等は、防衛研究所企画部企画調整課までお寄せ下さい。 防衛研究所企画部企画調整課 4 外 線 : 03-3713-5912 専用線 : 8-67-6522、6588 FAX : 03-3713-6149 ※防衛研究所ウェブサイト:http://www.nids.go.jp
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