藤棚の下のベンチにて櫻井 雄司(長野市)

藤棚の下のベンチにて
櫻井 雄司(長野市)
入社して間もなく配属された部署は長野駅近くのビルの一角にあった。バスで通勤し
ていたので、仕事が終われば気兼ねなくお酒を飲めた。ぼくのような独身者や単身赴任
している先輩を中心に居酒屋へ寄って帰る機会が自然と多くなった。
駅前広場の如是姫を見通せる藤棚の下にベンチがあった。いつしかそこは、その夜の
締めの一杯を重ねる場所になった。つまり、居酒屋での晩酌が終わったあとも、真っ
直ぐ一人の部屋へ帰るには物足りず、さりとて権堂のスナックへ二次会に繰り出すに
はお金に余裕がなくて、駅前の自販機で求めた缶ビールを飲みながら、その日最後の
ミーティング(あるいは反省会)をこのベンチで過ごしたのだ。仕事の愚痴、上司の悪
口、気になるOLの噂、話していた内容は様々だったが、酔った心は幾分大きくなり、
明日からは希望あふれる未来が約束されているような、そんな心地よい錯覚に浸って
しまう場所だった。
やがて季節は穏やかに移り、藤の花が人々の目にも鮮やかにアピールする時期を
経て、さらにビールがおいしくなる頃、ぼくは大阪営業所への転勤が決まった。何回
目かの送別会の後、不安と期待が入り混じった気持ちを鎮めるために一人このベンチ
に腰掛けた。
そして長野駅は営業会議などで年に数回立ち寄るだけの場所になってしまった。会
議が終わり恒例の懇親会で久し振りの仲間との一杯が終わると、駅前に足を向ける。
大阪行きの夜行列車を待つわずかな時間を、ベンチに腰掛け如是姫の後ろ姿を眺め
つつ過ごす。明日の朝はまた大阪にいる。最早、不安などは感じていない。酔いのせい
だろうか、ふつふつとわいてくる気持ちを押さえ切れない。如是姫に何事か誓いながら、
改札口へと急ぐ。
「青春時代」と呼んで差し支えない頃の、長野駅前の思い出、記憶に
残る風景である。