戦時下における映画監督亀井文夫の抵抗 ―映画『北京』を中心に― 古舘嘉 【研究の概要】 戦時下は、言論の規制や統制が最も強いられた時代であった。1925 年に「治安維持法」 が導入された後、映画界では 1939 年に初の文化立法である「映画法」が施行された。本研 究は、その時期に軍の後援作品でありながら、様々な映画手法を用いて多重の意味を表現し ようとした映画監督亀井文夫(1908-1987)に焦点を当てる。亀井は映画界で唯一、治安維 持法で逮捕され、監督資格を剥奪された人物である。さらに亀井の製作した『戦ふ兵隊』 (1939)は、軍の全面協力のもとで制作されたにも関わらず公開中止となった。 発表者はこれまで『上海』 (1938) 『北京』 (1938) 『戦ふ兵隊』 (1939)の映画分析を行い、 結果として「感情移入」と「反感情移入」を行う表現が繰り返し提示され、戦況が激しくな るにつれて、観客が自ら思考する度合いが大きくなるという手法が使われていたことを明 らかにした。しかし、『北京』に関しては場所と時間の制約があったために、十分な考察を 行うことができなかったことから、今回改めて分析を試みた。 本報告の映画『北京』は、東宝が手がけた支那事変後方三部作の『上海』 『南京』に続く 三作目である。盧溝橋事件から 9 ヶ月後の北京を撮影した作品で、亀井は同行せず、構成と 編集を担当した。戦後、日本にフィルムは残っておらずシナリオでしか確認することができ なかったが、1998 年に米国国立公文書館で発見され、山形ドキュメンタリーフィルムライ ブラリーに複製、収蔵された。しかし、68 分の内冒頭 23 分が欠落している。本報告では再 度作品を検討し、亀井がこの作品に込めた意図を探る。 【研究目的】 『北京』は支那事変後方三部作の三作目として前評判が高い作品であったが、前二作とは 異なり直接事変に言及する構成ではなく、公開後の各メディアの批評は賛否両論であった。 そこで本報告では、 亀井が盧溝橋事件から 9 ヶ月後の北京をどのように描き、 「北京案内記」 の体裁を取りながらも何を訴えようとしたのかを明らかにする。さらには、亀井がこの作品 を「実写に心理的なものをつぎ込んだ実験」と語った意図も考察する。 【先行研究】 『北京』に関する先行研究として、映画研究者の藤井仁子は全体の構成を「古代文明、現 代の民衆生活、新しい未来」となっていることを指摘し、失われた女性的な美としての北京 を表象したと分析している。さらに、この作品を公文書館で発見した阿部・マーク・ノーネ スはカメラに向けられた声や物売り、道路などを例に挙げて、映画における音の迫力を言及 している。しかし、この作品は長い間発見されなかったことや、現在でも視聴できる場所が 限られていることから、研究が進んでいないのが現状である。 【研究方法】 映画の全体像を把握するために、当時の雑誌や新聞、シナリオから冒頭 23 分の欠落部分 について明らかにする。その上で、映画『北京』に見られる映像手法や音の使い方、さらに は描かれた物そのものについての特徴を明らかにし、「北京案内記」を装いながらも作品に 組み込まれた亀井の意図を考察する。 10
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