⑮T4作戦について

T4 作戦
<NEWS の概要>
T4 作戦は、ナチス・ドイツで優生学思想(生物の
日時 2015/1/13
文責:浦田健人
遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする
科学的社会改良運動)に基づいて行われた安楽死政
策である。1939 年 10 月から開始され、1941 年 8
●処分について
処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や
月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。
遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反
「T4」は本部の所在地、ベルリンのティーアガルテ
抗、不潔、同性愛者なども含まれていた。T4 組織の鑑
ン通 4 番地を短縮したもので、第二次世界大戦後に
定人、精神科医のヴェルナー・ハイデとパウル・ニッ
付けられた組織の名称である。この作戦の期間中の
チェらは、各地の精神医療施設等から提供されたリス
犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも 7 万
トに基づいて「処分者」を決定した。
「処分者」は、郵
273 人に達し、その後も継続された安楽死政策によ
政省から譲られた灰色に再塗装されたバスに乗せら
り 20 万人以上が犠牲になったと見積もられている。
れ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。
移送された者はガス室に入れられて処分された。建物
<調べたこと>
外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、そ
●作戦の経緯
の一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運
1938 年から 1939 年にかけて、重度の身体障害と
ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が
知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少
心がけられており、温かいコーヒーやサンドイッチが
年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。
ふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、
この訴えを審議したナチ党指導者官房長のフィリッ
フェノバルビタール注射による殺害、飢餓による殺害
プ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラントは、
も含まれている。また、作戦の「中止」後はガスより
その後の安楽死政策の中心人物となった。
も毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。
1939 年 10 月「T4 作戦」が正式な発表もなく開
始、しかし 1940 年 7 月 9 日に匿名の政府高官から
<感想など>
の投書があり、裁判官のクライシヒが告発したが、
安楽死というものに対して現代では自分で選ぶもの
ヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、ク
という考えが進んでいるが、T4 作戦は人に選ばれて安
ライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を
楽死処分されるというもので、今までの安楽死の考え
罷免された
とは少し違うものだった。動物のように人を処分する
キリスト教会の一部から強い反対があった。ローマ
中に人権という考えがないため、とても恐ろしいと思
教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められない
った。
という決定を行った。
1941 年 8 月 24 日、ヒトラーはボウラーに対して
また、調べているうちに優生学が戦後の日本の中に
もあったことがわかって驚いた。
安楽死の中止を口頭で命令した。しかしこの命令で
はハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみで
あり、他の施設では規模が縮小されたのみで安楽死
<次回の人のテーマ・理由>
作戦は継続されていた。
優生保護法について
終戦後、関係者はニュルンベルク軍事裁判、ニュル
日本の優生学について調べている中で出てきた法で
ンベルク継続裁判の医者裁判などの法廷にかけられ
(参考:あれば)
す。現在の社会にも関係していることだったので、次
た。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医
回のテーマとして取り上げてみました。
者裁判によって有罪が確定し、処刑された。