【 1914】 野市小学校にあった「忠魂碑」 「旅順攻撃に参じた第四十四聯隊は……」 1914 年 4 月 2 日 、香 美 郡 野 市 村 の 野 市 尋 常 高 等 小 学 校 に「 忠 魂 碑 」が 建 て ら れ た( 野 市 村 は 、 1926 年 か ら 野 市 町 。 い ま は 香 南 市 )。 写 真 13 香南市役所の近くの「忠魂碑」 そ の 碑 の こ と が 、 野 市 尋 常 高 等 小 学 校 『 野 市 読 本 』 (1936 年 2 月 5 日 ) に 書 か れ て い る 。 かつては、この「忠魂碑」が校内の東側にあった。 朝鮮と中国東北部を戦場に大日本帝国とロシアがたたかった戦争・日露戦争に出兵して 戦 病 死 し た 野 市 出 身 の 24 人 の 名 前 な ど を 刻 ん で い る 。 読本は、美文調で、この碑をたたえている。 「殊[こと]に日露の役、旅順[りょじゅん]攻撃に参[さん]じた第四十四聯隊[れ んたい]は乃木[のぎ]将軍の麾下[きか。指揮]に属して二〇三高地占領に、東鶏冠山 北方砲䑓[ひがしけいかんざんきたほうほうだい]の激戦に、或[あるい]は名だたる磐 龍山[はんりゅうざん]の夜襲に、血染めの聯隊旗[れんたいき]を汚すまいと、肉弾亦 [また]肉弾の攻撃に聯隊殆[ほと]んど全滅し、壮絶、悲絶の最後を砲煙弾雨[ほうえ んだんう]の中にさらしたのであつた。」 1 「私達の心に呼びかける忠魂に向[むか]つて、郷土の為[ため]、国家の為、弛[た ゆ]まぬ努力と不抜[ふばつ]の決心を、献身の行[ぎょう]にいそしむ事を盟[ちか] はなければならない。其[そ]の時忠魂の人々も安んじて地下に瞑[めい]されることで あらう。」 碑の裏面に刻まれた戦死者の戦死の様子は、すさまじいものだ。 後備役陸軍歩兵軍曹・岡本銘次=「清國盛京省東鶏冠山北砲䑓ニ於テ戦死」 現役陸軍歩兵伍長・岩神一郎兵衛=「清國盛京省東鶏冠山ニ於テ頭部盲貫銃創戦死」 陸軍歩兵伍長・眞島徳治=「東鶏冠山ニ於テ戦死」 陸軍歩兵伍長・加藤菊治=「清國河城附近戦闘ノ際戦死」 陸 軍 歩 兵 一 等 兵・山 本 虎 吉 =「 清 國 盛 京 省 鶏 冠 山 東 北 方 高 地 ニ 於 テ 咽 喉 部 貫 通 銃 創 ノ 為 戦 死」 陸軍歩兵一等兵・西内子之助=「北砲台ニ於テ戦死」 補充兵陸軍歩兵一等兵・野口眞鋤=「北砲台ニ於テ戦死」 ……… いま、この碑は野市小学校内にはない。 探したら香南市役所の近くの橋を渡った所にあった。 右手には大砲の弾のようなものを展示している。後ろの高台には野市町忠霊塔がある。 この碑の下のほうは壊れていたらしく、補修してくっつけている。 この「忠魂碑」は「敗戦後駐留軍の命令によってこれを倒して土中に埋めなければなら なかった。」。そして、「平和克復後掘り起して復旧し」、野市町忠霊塔下に移したとい う (野 市 町 文 化 財 保 護 審 議 会 『 古 里 之 石 碑 』 、 野 市 町 教 育 委 員 会 ) 。 【1917年】 仁淀川町小森の「表忠碑」 「一旦緩急アレハ……」 吾 川 郡 仁 淀 川 町 大 崎 の 町 立 吾 川 中 学 校 の 運 動 場 東 側 の 岡・ 小 森 の「 表 忠 碑 」は 1917 年 8 月の設置(西森真太郎撰・書)。 2 写 真 14 仁淀川町大崎の「表忠碑」 碑 文 は 、 日 清 戦 争 、 日 露 戦 争 に 、 こ の 地 域 か ら も 8 5 人 が 従 軍 し 、 う ち 陸 海 軍 の 24 人 が 戦 死 し た こ と を の べ て い る 。そ し て 、「 一 旦 [ い っ た ん ]緩 急 [か ん き ゅ う ] ア レ ハ 義 勇 公 [ こ う ]ニ 奉 シ 、以 [も っ ]テ 天 壤 無 窮 [て ん じ ょ う む き ゅ う ]ノ 皇 運 ヲ 扶 翼 [ふ よ く ]ス ヘ シ 。」 (も しものときは、勇気を持って公のために奉仕し、永遠に続く皇室の運命を助けるようにし なさい。)という文書もひきながら、この 2 つの戦争で、天皇の威光を海外に示すことが できたと讃えている。 「 一 旦 緩 急 ア レ ハ … … 」は 、大 日 本 帝 国 の 明 治 天 皇 が 、1890 年 10 月 30 日 に 発 布 し た「 教 育 ニ 関 ス ル 勅 語 」 (教 育 勅 語 )か ら の 引 用 だ 。 私の父母の世代は、学校教育のなかで、この勅語をすりこまれた。 小学校・国民学校の奉安殿には天皇・皇后の写真と、この勅語の写しが入っていた。児 童は、毎朝、奉安殿に向かって礼をした。学校の式典では、校長が、うやうやしく、この 勅 語 を と り だ し て 朗 読 し た 。授 業 で は 、こ の 勅 語 を 暗 記 す る よ う に い わ れ た 。こ の 勅 語 は 、 子どもたちを天皇の家来として洗脳していく武器の一つだった。 3 「 表 忠 碑 」 の 文 章 を 読 み な が ら 戦 争 中 の 母 を 思 っ た 。 高 知 市 の 旭 小 学 校 卒 業 の 母 ( 1919 年 12 月 1 日 生 ま れ )は 、戦 後 生 ま れ の 私 に 学 校 の 思 い 出 を 語 る と き は 、い つ も こ の 勅 語 の ことを語り、その全文をそらんじてみせたものだ。 ( 3) 山 東 出 兵 開 始 の 1927 年 5 月 28 日 か ら 1939 年 12 月 31 日 ま で 1)海 外 派 兵 の 概 要 〇 山 東 出 兵 = 1927 年 5 月 28 日 ~ 1928 年 。中 華 民 国 の 山 東 省 へ の 派 兵 。1927 年 の 第 一 次 出 兵 、1928 年 の 第 二 次 出 兵 は 、排 日 運 動 の 解 決 と 居 留 民 保 護 を 名 目 と し て い た が 、実 際 に は南京の蒋介石の北伐によって国民政府の勢力が華北や満州におよぶことを恐れた策 だっ た。 〇 満 州 事 変 = 1931 年 9 月 18 日 ~ 1933 年 5 月 31 日 。1931 年 9 月 18 日 、日 本 の 関 東 軍 は 柳 条 湖 で 南 満 州 鉄 道 を 爆 破 し て 、こ れ を 中 国 軍 の 仕 業 と 主 張 。中 国 軍 に 攻 撃 を お こ な っ た 。 関 東 軍 は 戦 線 を 拡 大 し 、1932 年 3 月 に 清 国 最 後 の 皇 帝・溥 儀 を 摂 政 と す る 大 日 本 帝 国 の か いらい国・満州国をつくり、9 月の日満議定書によって日本軍の駐屯を認めさせ、満州国 を実質的に日本の支配下においた。中国が事件を国際連盟に提訴し、日本は国際的に孤立 し 、 1933 年 3 月 、 国 際 連 盟 を 脱 退 し た 。 戦 闘 は 、 19 33 年 5 月 31 日 の 塘 沽 ( タ ン ク ー ) 協 定により締結した。 〇 上 海 事 変 = 1932 年 1 月 28 日 ~ 5 月 5 日 。 中 国 の 抗 日 運 動 を 抑 え 、 か つ 満 州 事 変 か ら 世界の注目をそらすために日本軍によって企てられた中国人による日本人僧侶襲撃事件を き っ か け に 、 日 本 は 陸 海 軍 を 1932 年 1 月 に 派 遣 し た 。 陸 軍 歩 兵 第 44 連 隊 は 、 2 月 28 日 、 屯 営 を 出 発 、 揚 子 江 の 河 口 の 呉 淞 南 側 に 上 陸 し 、 呉 淞 砲 台 を 占 領 。 3 月 31 日 に 帰 還 。 戦 死 傷 者 1 人 。 日 本 軍 は 、 中 国 軍 の 抵 抗 と 国 際 的 非 難 に よ っ て 3000 人 余 の 死 傷 者 を 出 し て 5 月 末 に 撤 退した。 〇 日 中 戦 争 = 1937 年 7 月 7 日 ~ 1945 年 8 月 15 日 。1937 年 7 月 7 日 、盧 溝 橋 事 件 付 近 で 夜間演習中の日本軍への発砲事件を機に日本は中国軍への攻撃を開始、日中両軍が衝突し た。8 月には上海市内で日中両軍が衝突し、華中にも戦闘が拡大して日中間の全面戦争に なった。 陸 軍 歩 兵 第 44 連 隊 は 、1937 年 8 月 23 日 午 前 4 時 、揚 子 江 岸 の 川 沙 鎮 に 上 陸 。途 中 、百 田 部 隊 ( 高 知 編 成 の 後 備 歩 兵 3 隊 ) の 配 属 を 受 け る 。 1938 年 26 日 、 27 日 に 高 知 へ 。 こ の 作 戦 で 戦 死 者 940 人 、 負 傷 者 1807 人 。 〇 張 鼓 峰 ( ち ょ う こ ほ う ) 事 件 = 1938 年 7 月 31 日 ~ 8 月 11 日 。 満 州 と ソ 連 の 国 境 の 張 鼓峰で日本軍、ソ連軍が衝突したが、ソ連軍の機械化部隊の前に日本軍は打撃を受けた。 陸 軍 歩 兵 第 44 連 隊 は 、 10 月 8 日 、 兵 営 を 出 発 し 、 満 州 北 部 の 守 備 に つ い た 。 〇 ノ モ ン ハ ン 事 件 = 1939 年 5 月 12 日 ~ 9 月 15 日 。 清 朝 が 1734 年 に 定 め た ハ ル ハ 東 端 部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立 宣 言( 1913 年 )以 後 も 、モ ン ゴ ル と 中 国 の 歴 代 政 権 の 間 で 踏 襲 さ れ て き た が 、1932 年 に で 4 きた大日本帝国のかいらい国・満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界 か ら 10- 20 キ ロ ほ ど 南 方 に 位 置 す る ハ ル ハ 河 を 新 た な 境 界 と し て 主 張 し た 。 1939 年 、 満 蒙国境のハルハ河沿岸で、日本軍とモンゴル軍が衝突し、日本軍がモンゴルの後方基地を 爆 撃 し た 。ソ 連 は 、モ ン ゴ ル と の 相 互 援 助 協 定 に よ っ て 航 空 機 と 機 械 化 部 隊 を 繰 り だ し た 。 5 月 の 第 1 次 ノ モ ン ハ ン 事 件 は 両 軍 あ わ せ て 3500 人 規 模 の 戦 闘 で 、 日 本 軍 が 敗 北 し た 。 7 月から 8 月の第 2 次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7 月 1 日 から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも 撃 退 さ れ た 。 日 本 軍 は 12 日 ま で 夜 襲 の 連 続 で 東 岸 の ソ 連 軍 陣 地 に 食 い 入 っ た が 断 念 し た 。 7 月 23 日 に 日 本 軍 が 再 興 し た 総 攻 撃 は 3 日 間 で 挫 折 し た 。8 月 20 日 に ソ 連 軍 が 攻 撃 を 開 始 し て 日 本 軍 を 包 囲 し 、31 日 に 日 本 軍 を ソ 連 が 主 張 す る 国 境 線 内 か ら 後 退 さ せ た 。ハ ン ダ ガ ヤ付近では、日本軍が 9 月 8 日と 9 月 9 日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走さ せた。 陸 軍 歩 兵 第 44 連 隊 は 、 連 射 砲 隊 を 送 っ た 。 停 戦 交 渉 は ソ 連 軍 の 8 月 攻 勢 の 最 中 に お こ な わ れ た 。9 月 16 日 の 停 戦 時 に 、ハ ル ハ 川 右 岸の係争地のうちノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めて いた。 近代的装備における劣勢によって日本軍は死傷者 2 万人を出した。 2)石 碑 【 1932 年 】 香 美 市 土 佐 山 田 町 北 本 町 の 八 王 子 宮 の 鳥 居 の 「 武 運 長 久 祈 願 」 の 鳥 居 香 美 市 土 佐 山 田 町 北 本 町 2 の 13 の 八 王 子 宮 の 鳥 居 の 、 向 か っ て 右 の 柱 に は 「 奉 献 [ほ う けん] 出征軍人」、左手には「武運長久祈願」と彫りこまれている。 「昭和七年[一九三二年]四月二十日」に「山田東町三丁目」が建立したもの。 5 写 真 15 香美市土佐山田町北本町の八王子宮の鳥居の「武運長久祈願」 武運長久は、武人としての命運が長く続くこと。前述の「軍人安全」という言葉より 戦地での手柄をたてなさいという意味が強いと思う。 【 1933 年 】 南国市の岡豊山の「改詰記念碑」 南 国 市 の 岡 豊 山 ( お こ う や ま ) に 「 改 詰 [あ ら た め づ め ]記 念 碑 」 が あ る 。 (表) 君のため尽くす誠は死して後 猶 [な お ]も み く に の 守 り な り け り 昭 和 八 年 [1933 年 ]三 月 戦友戦傷者 武樋亀治 建之 (裏) 労力寄附者 西村信人 松澤五百■ 在郷軍人団 橋村義治 中澤渉■■ 6 青年団 野口實通 川添定■■ 旭 会 山本幾馬 石工 婦人会 橋田稲城 川田■■ 処女団 川添好照 吉木■■ 写真 16 南 国 市 の 岡 豊 山 の 「 改 詰 記 念 碑 」 7
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