「重森三玲について」講演要旨

岸和田城庭園(八陣の庭)国名勝指定記念講演会
「重森三玲について」講演要旨
講師:重森千靑(重森庭園設計研究室代表)
日時:平成 26 年 12 月 13(土)午後2時から
【講演要旨】
重森三玲について
明治 29 年(1896):8 月 20 日、岡山県上房郡賀陽町吉川で生まれる。現在の吉備中央町にあたり
ます。大正4年(1915):18 歳にて初の作品、天頼庵茶室を造ります。三玲の建築設計第一作目です。
これは、現在吉備中央町の記念館に移設されており見学ができます。非常に面白い建物で、床の
間が3つある。これは茶室の考えからしたらとんでもないもので、三玲自身も後に「赤面するもの」
と話していますが、あえてその時の心境を表現するために残したとしています。
大正6年(1917):日本美術学校入学。卒業までの間、日本美術全般に渡って勉強をして、庭園と
建築の基礎固めをおこないます。
元々重森は美術などに興味を示し、
絵画をいくつか残しています。
今からみれば非常に面白い絵画なのですが、デッサン力に劣ると評され、挫折をしています。
大正9年(1920):日本美術学校研究科卒業。地元、岡山にある豪渓を原始森林公園として登録で
きるように話を推し進める役割を果たします。私はこの濠渓には重森の石組の原型があるように思
えます。
また、地元の吉川八幡神社の本殿を指定文化財にするために奔走し、東京から文化庁の調査官を
招聘することになるなど、文化的活動、そして文化財保護活動など、様々な活動を行います。この
時に生家の庭に庭園を作りますが、これが現在も生家跡に残っています。
大正 13 年(1924):天頼庵庭園作庭 (28 歳)。正確には大正 14 年 1 月 2 日に完成。重森三玲の庭園
設計第一作目となります。
昭和4年(1929):京都に移ります。
昭和 7 年(1930):京都林泉協会設立。
昭和 10 年(1935):
「新興いけ花宣言」を掲げて「新興いけ花協会」を作る (勅使河原蒼風・中山文
甫・桑原専慶などと) この中で、従来の華道を否定する方向に動き、以下の宣言をします。
“我々は一つの宣言をする。日本新興いけばなの発火と創造とを。
我々は新しいものを求める。仮想された古い物ではない、真に生き生きとした現代
の思想や感情や表現を要求する”
“雅号を捨て本名を用いること”
“一切の懐古的感情を斥けること”
“形式的固定をしりぞけること”
“花器の制限を斥けること”
しかし、これは当然ながら従来の華道の世界からは反発を招き、ほとんど新しい流れを生み出す
ことなく終わります。
昭和 11 年(1936):第一次全国古庭園実測調査開始(重森、鍋島、福井、早尻、下川、清水)
昭和 13 年(1938):12 月末にて第一次全国古庭園実測調査終了。
こういった一連の実測調査により、三玲の基礎が形成されます。全国各地の庭園を実測することに
より、庭園の技法、思想等を会得したのでしょう。
昭和 14 年(1939):重森は会得した庭園技法を使うことなく作庭活動を始めます。今回八陣の庭と同
時に指定された東福寺の本坊庭園はこの時期に作庭されます。
昭和 24 年(1949):いけばな研究グループ「白東社」を創立します。
昭和 46 年(1971):第二回全国の庭園実測調査開始。
昭和 50 年(1975):3 月 12 日没。 享年 79 歳。
重森の代表的な庭園について(写真で説明)
春日神社庭園
昭和 09 年(1934)(奈良県)
稲妻型の鑓水が重森らしい表現です。
東福寺本坊
昭和 14 年(1939)(京都府)
東福寺光明院
昭和 14 年(1939)(京都府)
西南院庭園
昭和 27 年(1952)(和歌山県)
岸和田城庭園
昭和 28 年(1953)(大阪府)
最も表現を突き進めた庭園です。
瑞応院庭園
昭和 31 年(1956)(滋賀県)
中心の巨石を阿弥陀如来とし、25 菩薩が来
今回八陣の庭と同時に国指定名勝となりました。
本坊庭園とは趣の違う庭園です。
高野山の庭園群はほかも国登録になっています。
迎している姿の庭園で、延暦寺の僧侶たちによ
って開眼供養がなされた庭園です。
瑞峰院庭園
昭和 36 年(1961)(京都府)
昭和 36 年(1961)(京都府) 禅語の独座大雄峯
や十字架をモチーフにした庭園など、禅と
キリスト教を表した庭園です。
竜吟庵庭園
昭和 39 年(1964)(京都府)
雲間からの龍の出現が秀逸。代表作です。
北野美術館庭園
昭和 40 年(1965)(長野県)
後期の作品。色遣いと斬新なデザインが秀逸。
住吉神社庭園
昭和 41 年(1966)(兵庫県)
モルタル使用のモダンなデザインと、
竹垣が特徴的。
松尾大社庭園
昭和 50 年(1975)(京都府)
(遺作)磐座は神との対話を試みたものです。
三玲の総作庭数は約 200 弱におよび、このほかに計画案約 30 が知られています。基本的には神
社やお寺の庭園が多く、次に個人の依頼主の庭園が多いです。岸和田城のような公共の庭園は少な
く、大阪の香里園にある以楽園くらいでしょう。
岸和田城庭園の沿革について
三玲の生涯について、お話ししてまいりましたが、ここで八陣の庭が作庭される経緯について、
お話します。みなさん御存じだと思いますが、八陣の庭は岸和田城の保護のために作庭されます。
三玲が当時の市長さんから相談を受け、岸和田城の堀を埋めて公園化するという話を聞き、城の
石垣の美しさは水面からそびえる石垣にあると説明した上で、これらの城跡を守るため、後世に残
る名庭園を造ってはどうか。と提案したのが八陣の庭です。
庭園を造ることにより、城を永久に保存するという意図のもと、作庭が進められました。この点
も他の庭園とは意図が異なり、八陣の庭が国指定名勝となった理由でもあると思います。
一般的に城郭にはよく庭園があります。しかし、そういったいわゆる大名庭園とは趣が異なり、
八陣の庭は枯山水であり、普通、城郭に造られるタイプの庭園ではありません。
岸和田城庭園の意匠・構成について
八陣の庭は枯山水の庭園です。しかし、普通の枯山水の庭ではありません。非常に前衛的であり、
四方正面のみならず、360 度どこからみてもうまく構成されている庭園であり、他に例がないもの
です。従来の日本庭園、枯山水の枠を超えており、重森自身が制約を受けずに最も自由に表現し切
ったのが八陣の庭であるといえます。他の庭園では所有者や、地形、敷地的な制約を受けた上で、
重森らしさを表現していますが、八陣の庭に関しては、最も自由に表現をしており、重森の作庭の
一つの到達点であると言えます。
また俯瞰を意識した構成も他にはないものです。作庭当時はまだ建設されていなかった岸和田城
からの俯瞰も視野に入れて、設計されている点も、他に類をみない構成であるといえます。
この八陣の庭はさらに航空機からの観賞も意識して造られており、実は、近年便利になったネッ
トで「グーグルアース」を開き、岸和田城を見ると、はっきりと航空写真で八陣の庭と分かる形で
映し出されています。重森自身もインターネットでの観賞は考えていなかったと思いますが、意図
を超えた世界でも観賞が可能だということ、この庭の先進性の表れではないでしょうか。
○ご講演終了後、岸和田城庭園に移動し、現地にて庭園の見方について解説をいただきました。
特に、360 度回っても、どこからでも大将の陣とその他の陣が組み合わさり、うまく構成される
ということの説明がありました。砂紋についてもその再現性について説明がありました。
また、天守閣からも展望し、その特異性を見学いただきました。
その後、熱心な質疑応答があり、解散となりました。