鄧穎超は、周志英が香港の出身であると聞くと、広東語で話し始めた。周恩来と結婚したあ と、広東省で活動した経験をもつ彼女は、広東語も堪能であったのだ。 母国語でない北京語と日本語を駆使して通訳に奮闘してきた周志英にとって、広東語を使え ることで、どれほど気持ちが軽くなったか。生き生きとした表情で通訳を続けた。 鄧穎超の語る広東語を日本語に訳す彼の言葉に、真剣に耳をそばだてていたのが、中日友好 協会の孫平化秘書長や、中国側の通訳たちであった。皆、広東語がよくわからないために、周 が訳す日本語を聞くまで、鄧穎超が何を話しているのか理解できないのである。 鄧穎超は、山本伸一に言った。 「山本先生は、一生懸命に若い人を育てようとされているんですね。それが、いちばん大事 なことです。どんなに大変でも、今、苗を植えて、育てていかなければ、未来に果実は実りま せん。十年、二十年とたてば、青年は大成していきます。それなくして中日友好の大道は開け ません。楽しみですね」 孫平化たちは、周志英の通訳ぶりを、じっと見てきた。そして、しばしば、周に発音などの アドバイスをしてくれた。 彼が日本で、日本語と北京語を猛勉強したとはいえ、中国の一流の通訳には、どちらの言葉 もたどたどしく、心もとなく感じられていたのであろう。“山本会長は、どうして彼を通訳に 使っているのだろう”と、疑問にも思っていたようだ。 周志英も、実際に中国に来て、通訳としての力不足を思い知らされ、自信を失いかけていた。 しかし、鄧穎超の話に、伸一の深い思いを再確認し、勇気が湧くのを覚えた。 また、孫平化も、永遠なる中日の平和友好を願い、若い通訳を育成しようという伸一の心を 知り、強く共感したという。 孫平化らは、以後、周志英に、公式の場で使う言葉や表現などを、懇切丁寧に教えてくれる ようになった。未来に果実を実らせたいと、伸一と同じ心で臨んでくれたのである。
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