芥川龍之介の生涯と作品について 所属:文化芸術系ゼミ 1年5組20番 芝原 大悟 第1章 はじめに 第1節 テーマ設定の理由 私が初めて芥川龍之介の作品に出会ったのは、中学三年の春、図書館で「河童」を手 に取った時であった。私はそれまで、文学など全く興味がなく、小説自体あまり読まな かった。よって、彼の小説は当時の私にとって難解であり、目を通すのに苦痛が伴うこ ともあった。しかし、私は、彼の小説の中に、言葉にしようのない“何か ”を 感じ た。 その“何か”に魅かれ、前高生となった私は彼の小説を片っ端から読んだ(今も読破中 である)。 テーマ設定の理由、それは単純な好奇心だ。幼いころから優秀で、 作家として成功を 収め、日本文学界の巨頭となった彼は、我々(読者)に何を伝えようとしていたのか、 また、彼の作品が我々に何を与えるのか、それを研究するため、このテーマを設定した。 第2節 研究のねらい 大正時代の文豪、芥川龍之介。彼の生きた時代は、第一次世界大戦の反動として、経 済不況が続く停滞の時代であった。ソビエト連邦の成立や、社会的運動の世界規模での 頻発により、人々は、思想に混迷していた。また、文壇的にも、自然主義の衰退から白 樺派、そして新感覚派の台頭までの、狭間の時代であった。 現在、これまで続いてきた国家間による関係が、少しずつ崩壊へと向かっている。多 くのテロ組織が蔓延り、日本もその波及に晒されている。また、世界的なインターネッ トの普及により、情報が氾濫し、人々は、真実を求め二次元の世界を彷徨っているよ う に見える。自分はどこへ向かうのか、世界はどこへ向かうのか、我々は常にそれを問う。 芥川が生きた時代も、我々が生きるこの時代も、等しいのではないか。そう考えた私 は、彼が抱えていた、「将来に対する唯ぼんやりとした不安」とは、現代に生きる我々 の心に近いのではないかと思い、彼の作品に込められた思想を研究することで、現世に おける我々の在り方のヒントを得たいと考えた。 第3節 研究内容と方法 第1項 研究の内容 1 芥川龍之介の生い立ち 2 特徴別に分けた作品の考察 3 作品外における芥川自身の思い 第2項 研究の方法 1 主に自身で購入した書籍を用いる。詳しくは参考文献を参照。 第2章 研究の展開 第1節 芥川龍之介の生い立ち 芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日 東京都京橋区入船町に 生ま れる 。 父親は新原敏三。母親はフク(芥川氏)。辰年辰月辰刻の出生にちなみ、『龍之介』と名 付けられた。生後九か月頃、フクが発狂し、龍之介はフクの実兄の芥川道章に預けられ、 それから自身を芥川と名乗る。道章の家は下町の旧家で一家そろって一中節をしていた。 道章は南画、盆栽、俳諧も嗜んでおり、龍之介の文化面の基盤はここで形成されたとい っても過言ではない。 小学時代、学業成績は抜群で、蘆花、鏡花、馬琴、三馬、一九、近松を愛読し、江戸 文学に親しんだ。「西遊記」「水滸伝」も愛好した。中学時代、 学業は変わらず優秀で、 特に漢文において驚嘆すべき力を発揮する。紅葉、露伴、一葉、独歩、漱石、鴎外など 手当たり次第読破した。イプセン、アナトール・フランスにも興味を持ち、このころか ら彼の作品の素質は出来上がっていった。 中学卒業後、第一高等学校に入学。優秀な成績を収め、東京帝国大学 文科大学英文 学科へ進学した。一高時代には、恒藤恭が唯一の友となった。東京帝大在学中の 1914年2月に菊池寛・久米正雄らと共に『新思潮』を刊行した。同誌上に処 女小説「老年」を発表して、作家活動を開始した。 第2節 初期作品の傾向 初期作品は「老年」「ひょっとこ」「手巾」「二つの手紙」「或る日の大石内蔵助」「影」 である。その中でも、「老年」と「ひょっとこ」を考察する。 1 「老年」 ここでは、批評家による解釈の差をみる。 関口安義(以後、関口)『芥川龍之介』(岩波新書、1995年)は、この作品を次 のように要約している。 「物語は房さんという、一生を放蕩と遊芸に費やした男の晩年 のわびしい姿を追って行く。江戸情緒の色濃くただよう大川端の料理屋、猫に向かっ てひとりなまめいた語を繰り返す老人、季節は冬、時は夕闇の迫るころ、外には 雪が 降り続くという舞台から浮かぶのは、やり切れないわびしさである。その彼方に、生 きるとは何かの問いかけがある。」これに対し、中村稔(以後、中村) 『芥川龍之介考』 (青土社、2014年)は、関口の解釈を否定した後、こう述べている。 「この情景に むしろ過去の幻に生きる房さんの妖艶で恍惚たる境地を見なくてはならない。過去の 幻に生きることはむしろ房さんの幸せであって、房さんはわびしいわけではない。彼 は楽隠居として生き、また、過去の幻に生きている。どちらが彼の本当の生のかたち なのか。この小説はそう問いかけている。」また、同書で中村は、「芥川は『老年』に おいて、 「生」の真実はどこにあるかという、もっと本質的な問いかけをしていたので あった。」と述べている。私は中村の解釈に賛同する。なぜなら、芥川の「生」の 真実 2 の探求は、初期作品の大きなテーマでもあり、後に取り上げる「ひょっとこ」や、 「手 巾」「鼻」なども同じく、自身の内面における 分裂を描いているからである。 2 「ひょっとこ」 あらすじについては、宇野浩二(以後、宇野)『芥川龍之介』(文芸春秋新社、19 53年)を引用する。 「さて、 『ひょっとこ』は、花見時に、隅田川を上る花見の船(伝 馬船)の上で、塩吹面舞ををどる事のすきな山村平吉が、得意の踊りををどつてゐる うちに、脳溢血をおこして、船の中に、ころがり落て、死んでしまふ、というやうな 話を、独得のしやれた、気どつた、文章で、得意の揶揄と皮肉をまぜて、書いたもの である。」そして宇野は、『ひょっとこ』について、「ある種の批評家などは、「鬼気が せまる、」などといふ。が、私は、ちよいとさう思ふけれど、結局、さうは思はない。 ただ、かぞへ年二十三歳の青年がかういふ小説を書いたことを思ふと、ぞつとする。」 と述べている。これは、芥川の才能に「ぞつと」したということであるのは、言うま でもない。また、 「鬼気がせまる」という批評は、芥川の内部にあった一種の狂気 的な 芸術への感情と捉えることもできるかもしれない。傑作「地獄変」における芸術至上 主義にもつながると私は考える。 一方中村は、 「この主題はドイツ語でいう Doppelgänger の問題にもつながり、芥 川はこのような問題意識を生涯にわたり持ち続けていたと考える。」と述べて いる。Doppelgänger とは、自己像幻視の問題である。この思想は、芥川の人生と 作品における考え方の基礎となったと考えられる。 発狂した母フクを思い、自身の江 戸下町文化的素質と「義仲論」にみられるような木曾義仲への渇望の狭間で葛藤した 芥川は、人間の二面性を問題意識として持ち続け、生涯にわたり外面と内面の齟齬に 苦しんだのではないかと私は考える。 第3節 王朝作品の傾向 芥川龍之介の醍醐味といえば、古典文学に取材した、王朝作品だと語る人も少なくな いのではないだろうか。現に私も、「羅生門」「地獄変」「藪の中」などは彼の作品の中 でも特に愛好していた。その他にも「鼻」「芋粥」「戯作三昧」「龍」「往生絵巻」などが ある。さて、ここでも第二節と同じ方法で「羅生門」と「地獄変」を考察していく。 1 「羅生門」 あらすじは言うまでもない。この作品の大筋は『今昔物語集』巻二九の第十八話「羅 城門登上層見死人盗人語」 ( らせいもんのうはこしにのぼりてしにんをみたるぬすびと のこと)によっており、老婆の話などは巻三十一の第三一話「大刀帯陣売魚嫗語」 (た ちはきのぢんにうををうるおうなのこと)によっている。この小説の焦点は、下人の 心情変化にある。羅生門の楼に登った下人は、棄ててある屍骸をみて、その腐欄した 臭気に思わず鼻を覆うが、 「或る強い感情」が、下人の嗅覚を奪ってしまうという描写 がある。中村はこれを「死のあさましさ、人間という存在の憐れさ」であると述べて いる。果たしてそれだけであろうか。ここで下人のうちに生まれた感情は、後に老婆 を引剥する程までとなるのだ。唯の「あさましさ」 「憐れさ」が、人間をそのような行 3 動へ導くとは考えにくい。この議論は小説の主題にも関わると思うので、今は保留す る。 「羅生門」は次の一説で終わる。 「下人の行方は、誰も知らない。」 この末尾は1915年11月発行の『帝国文学』に発表されたときは次のようであ った。 「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」 また、1917年5月刊行された『羅生門』に収録されたときは 「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」 であった。 1918年7月に単行本『鼻』に収められたときに、 「下人の行方は、誰も知らない。」 となったのは、有名な話である。関口はこの末尾に関して、 「下人のゆくえは、読者一 人ひとりの<読み>にゆだねられることになった」と言っている。この解釈は正しい と思う。前述した「或る強い感情」も同様かもしれない。しかし、末尾の 表現に関し ては、芥川の技術のひとつに過ぎないと私は思う。 中村は、この小説の主題に関して、 「世俗的な道徳ないし倫理の相対性である、と私 は考える。欲望は状況によって支配される、と言いかえてもよいかも知れない。」と述 べている。また、三好行雄は『芥川龍之介論』 (筑摩書房、1976年)で「下人のた ゆたいは、かれの臆病に起因するのではない。下人に真に必要だったのは<許す可ら ざる悪>を許すための新しい認識の世界、超越的な倫理をさらに超えるための倫理に ほかならぬ。下人と老婆の遭遇は認識と認識の出会いなのである。」と述べている。こ の小説の主題は、批評家によって大きく異なるが、 私は、相対的と思われがちな「正 義」と「不義」、つまり「善悪」の新たな関係性について述べていると 思う。それは「善 悪」は紙一重のもので、状況によってどちらにもなり得るという考え方だ。 後に引用 する芥川の手紙の中でも、彼がこのような思想を持っていたことがわかる。 欲望は状 況によって異なる。芥川が我々にそう伝えたかったのであれば、この作品は、 「倫理の 相対性」という認識で正しいと思う。また、下人と老婆二者の間の認識の差は、芥川 自身の二面性の葛藤が起因しているのではないかと私は考える。 2 「地獄変」 私は、芥川龍之介の作品と生涯の関係性を探るうえで、この小説が非常に重要な分 岐点となっていると思う。 『宇治拾遺物語』上巻第三八の「絵仏師良秀、家ノ焼ヲ見テ 悦事」、 『十訓抄』中巻六ノ三五、 『古今著聞集』巻第一一画図第一六の「巨勢弘高地獄 変の屏風を画く事幷びに千体不動尊を画きて供養の事」などを典拠としているといわ れるが、実際にはこれらの古典に拠るところは少ない。あらすじは以下のとおりであ る。 都で評判だった絵仏師、良秀は醜悪な自身とは似ても似つかぬ愛 らしい娘を持って いた。娘は堀川の大殿に見初められ女御として屋敷に上がる。娘を溺愛していた良秀 はことあるごとに大殿に娘を返すよう言上したので、良秀の才能を認めていた大殿も、 機嫌が悪くなっていく。ある時、大殿は良秀に「地獄変」の屏風絵 を描くように命じ 4 る。良秀は、 「実際に見たものしか描けない」ので、絵に描きたいと思っていた燃え上 がる牛車の中で焼け死ぬ女房を用意してくれと大殿に訴える。大殿は異様な笑みを浮 かべつつそれを受け入れた。当日、良秀は、大殿の用意した牛車の中に閉じ込められ た愛娘の姿を見せられる。しかし、良秀は嘆くとも怒るともなく、ただじっとその様 を見つめていた。後日、良秀は見事な地獄変の屏風を完成させる。普段彼を批判する 者も、その出来栄えには舌を巻いた。絵を献上した数日後、良秀は首を吊る。 中村は、この小説について以下のように主張している。 「写実主義といってよい彼の 芸術観を貫徹するためには自らの生を断ち切らなければならなかった。ただ、芸術と はそういう危ういものとしてしか成り立つことができないのだという芥川の思想をこ の作品に見なければなるまい。芥川にとって芸術とはまさに、その死を賭して 成しと げなければならない、人間的なものであった。」これこそ、彼の芸術に対する最高の境 地、 「芸術至上主義」である。芥川も、一人の芸術家として、命を燃やして小説を書い たのだと思う。なお、 『地獄変』は芥川が大阪毎日新聞社の社友となり、毎月50円の 給与を受けることになって最初に発表した作品である。このことも、彼の一段階上の 芸術を創作する上での原動力となっていたに違いない。初期作品で模索していた「生」 の在り方が、『地獄変』にて芸術至上主義という形で 現れたのだ。また、この思想は、 芥川の中に芸術に対する異様な熱意、狂気を感じさせるものだと私 は考える。 第4節 晩年作品の傾向 芥川龍之介は、35歳で自死する。晩年の作品には、死へといたる芥川の思想の経緯 が読み取れることが多い。「玄鶴山房」「西方の人」「歯車」「点鬼簿」「或阿呆の一生」 など、芥川を代表する名作が生まれた。ここでは、「西方の人」「或阿呆の一生」の二作 を読み解く。 1 「西方の人」 今回の研究では省いたが、芥川の思想を追っていく上で、彼の切支丹小説はどうし ても避けられない。『おぎん』によって宗教の本質をとらえ、自身の生 き方と照らし 合わせた芥川は、『西方の人』を切支丹物の終着点とした。 作中で芥川は「殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のやうに病的な興 味を与へた」と言っている。 芥川のキリスト教への関心の高さは述べるまでもない。 また、 『西方の人』最終章「37 東方の人」の末尾では、 「クリストは「狐は穴あり。 空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」と言つた。彼の言葉は恐らくは彼 自身も意識しなかつた、恐しい事実を孕んでいる。我々は狐や鳥になる外は容易に塒 の見つかるものではない。」と書いている。 私はこの文を、キリスト教を愛すも、信 仰することのできなかった芥川の、最後の 苦しみの声ととらえている。 中村は、『西方の人』について、こう述べている。「正統『西方の人』はキリスト教 徒でないものが見た、そして愛した、キリスト教の肖像である。芥川はついにキリス ト教徒となることはなかった。キリスト教に救いを求めることはなかった。もし救い を求めていたら自死することはなかったのかもしれない。絶望しながらも、なお、救 いを求めることなく、しかも、キリストを愛さずにはいられなかった証しとして正統 5 『西方の人』は存在する。」私は中村の意見に賛同する。もし芥川がキリスト教に救 いを求めていたのならば、自死は防ぐことができたのかもしれない。では、なぜ彼は そんなにも愛したキリスト教を信仰しなかったのか。それは恐らく、自身の分裂を深 めていった芥川が、キリスト教を信仰している自分とは別に苦しむ自分を作り出すこ とができる状態でいて、宗教の本質まで客観視した彼にとっては、キリスト教ではも はや自身を救うことなど不可能であったと考えていたからではないかと推測する。芥 川には、「原始の心」がなかった。 そのことは彼の欠点でもあった。 機知や皮肉に富 んだ文体は、変幻自在の文学は、すべて芥川の「人間らしさ」を象徴するものだと 私 は考える。 2 「或阿呆の一生」 この作品に関しては、芥川自身の人生が描かれていると思ってよい。彼の文学の集 大成であり、人生の集大成でもある。芥川の遺稿でもあり、 諸所に自死を匂わせる表 現が使われている。しかし、今回は敢えて取り上げないこととする。発表の可否は君 に一任するという、昭和2年6月20日付の久米正雄宛ての書面が付されていること を踏まえてのことである。結果として、公表されているが、 芥川自身が積極的に公表 する気ではなかったことから、この小説に文学としてのメッセージ性はなく、彼の人 生観が述べられていると考える。一か所だけ、そんな彼の人生を象徴する部分を引用 する。 「四十九 剥製の白鳥」より「彼は、「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古 道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、 黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるの を感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつ た一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。」 芥川は、一高時代、恒藤恭と、「私たちだけの領する第三の世界」の存在を認 めて から、独り、それを深めていった。常に葛藤と不安の最中にいた彼の文学には、そう いった芥川自身の「悲しみ」が表現されていると私は思う。 そうして、彼は孤独を深めた果てに、死を選ぶこととなる。 第5節 芥川龍之介の思想 芥川の苦悩は、作品内で言葉にされたことはほとんどなかった。代わりに、親友の恒 藤恭との手紙のやり取りの中に、濃厚に表現されている。以下、それを紹介する。(手 紙はすべて大正時代に書かれたものである。正確な月日は省略する。) 「自分には善と悪とが相反的にならず相関的になつてゐるやうな気 がす。……兎に角 矛盾せる二つのものが自分にとつて同じ誘惑力を有する也。善を愛せばこそ悪も愛し得 るやうな気がする也。……同じ故郷より来りし二人の名を善悪と云ふ也。名づけしは 其 故郷を知らざる人々なり。(略)」 「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人との間 の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒すことは出来ない。 イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自 6 分も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそ のまま生き る事を強ひられる。……何故、こんなにして迄も生存をつづける必要があるだらうと思 ふ事がある。僕はどうすればいいのだかわからない。……毎日不愉快なことが必ず起る。 人と喧嘩しさうでいけない。当分は誰ともうつかり話せない。そのくせさびしくつて仕 方がない。馬鹿々々しい程センチメンタルになることがある。どこかへ旅行でもしよう かと思ふ。何だか皆とあへなくなりさうな気もする。大へんさびしい。(略)」 「僕はありのままに大きくなりたい。ありのままに強くなりたい。……そして愛する 事によって、愛さるる事なくとも、生存苦をなぐさめたい。(略)」 芥川は、常に生存することへの苦しみを感じていた。ゆえに、彼の文学の根底には、 「悲しみ」があった。彼は作品内で、種や仕掛けを多用して、その「悲しみ」を訴えよ うとしていたのだろう。 第3章 まとめと考察 第2章をまとめると、芥川は、初期作品で外面と内面の齟齬を問題視し、以後、彼の文 学の基盤としてこのテーマを用いている。王朝物では、模索していた「生」の在り方を、 「芸術至上主義」という形で表現した。この頃、彼は芸術家の鬼として生きる決意をした のであろう。晩年には、迫りくる生存苦がそのまま作品内に濃く現れていて、彼の死に向 かう思想の過程が読み取れる。 「研究のねらい」において私は「現世における我々の在り方のヒントを得たい」と述べ たが、研究を終えてみると、彼の文学は、至って単純なテーマで書かれていることが多か った。しかし、芥川はそれを深く考え、得意の機知と皮肉と修辞を混ぜ込んだ文体で表現 した。ゆえに、我が国の文壇の重要な一角を担う人物として現在も多くの人々に愛されて いるのであろう。彼から学ぶことは多い。特に「生」の真実……我々の真の姿とは何か。 我々は何のために生きるのか。そして、我々はどのように生きてゆくべきか。芥川は、自 身の命をもってしてその問いを投げかけたのではないかと私は考える。 激動の今、彼の言葉は、多くの人々に自己の「生」を顧みる機会をもたらすだろう。そ れを願いつつ研究の結びとする。 第4章 参考文献 芥川龍之介著『現代文学大系 25 芥川龍之介集』、筑摩書房、1963年 宇野浩二著『芥川龍之介』、文芸春秋新社、1953年 関口安義著『芥川龍之介』、岩波新書、1995年 関口安義他『新潮日本文学アルバム 芥川龍之介』、新潮社、2007年 中村稔著『芥川龍之介考』、青土社、2014年 三好行雄『芥川龍之介論』、筑摩書房、1976年 7
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