名県令・楫取素彦(16)妻につくられた女性観

名県令・楫取素彦(16)妻につくられた女性観
家庭浄化、女性解放のためまず廃娼運動に取り組んだ湯浅治郎の原 点が母にあり、母を
通して治郎の女性観がつくられ、それがキリスト教を受け入れる素地となったのであれば、
廃娼を決断した楫取素彦の女性観はどのようにしてつくられたのであろうか。
クリスチャン議員の斎藤寿雄によれば、明治十五年三月県会で「娼妓廃止ノ建議」が可
決されたとき、楫取県令はニコニコして、これは良い建議だと喜んで受理したという。
楫取は長州藩医・松島家に生まれた。兄と弟がいたが、楫取が四歳のときに父が亡くな
り、兄弟三人は母の手一つで育てられた。次男であった楫取は十二歳で儒官 ・小田村吉平
の養子になり、二十五歳で吉田松陰の妹・寿子と結婚した。
楫取の半生を見るとき、その女性観は寿子夫人を通してつくられたと思う。 寿子が亡く
なると青山墓地に「従五位楫取素彦妻杉氏墓」が建てられた。墓誌銘は楫取が筆をとった
ものであるが、それを読むと楫取の女性観は寿子夫人そのものであることが 確認できる。
長い漢文の墓誌銘にはつぎのようかことが書かれている。
寿子は十六歳で嫁ぎ、夫が尊王党の志士として東奔西走しているときも 、平然として貧
乏の中にも二人の子を育てた。兄・松陰が実家に幽閉されながらも、人を集め尊王攘夷の
大義を講義すると、かたわらで受講した。そのため、夫が投獄され、親戚一同が禍をおそ
れ近づかなくなっても、誰にも頼らずますます夫の進む道(尊王攘夷の大義)を信じた。
筆者がもっとも心を留めるのは、このあとに書かれている「君軆質薄弱久病胸膜醫曰此
若齢苦神職所致」
(君体質薄弱ニシテ久シク胸膜ヲ病ム。医曰ク、此レ若齢苦神ノ致ス所ナ
リト)の一節である。医者から、夫を信じ家庭を守り一人で幕末維新の難局を乗り越えた
苦労が病気の原因であると告げられたときの、楫取の心情はどのようなものであったろう
か。この一節に楫取の自責と妻への哀惜の情が凝縮されている。
群馬県会に「娼妓廃絶の請願書」が提出され、楫取県令が対策を練らせたのが明治十三
年、寿子夫人が亡くなったのが明治十四年一月、楫取が墓誌銘を書いたのが同年九月、
「娼
妓廃絶ノ建議」が可決されたのが明治十五年三月県会、楫取県令が「廃娼の布達」を出し
たのが同年四月。このように辿って行くと、廃娼の動きと寿子夫人の病状の悪化と死は同
時進行していた。
楫取県令が廃娼を決断した原点は妻・寿子にあったと言うことが出来よう。