P12,13 文化財探訪

「虚空蔵さま」と呼び親しまれ、地域の人々に守られてきた
福満虚空蔵尊圓蔵寺。千年をも閲する歴史を刻む寺域には
いわお
ば、碑に潜められたさまざまな物
れた行事。寺域をゆっくり巡れ
けでなく観光客も訪れる遠く知ら
おこなわれる年中行事は、地域だ
裸まいり﹄ほか、毎年季節ごとに
をよじ登っていく勇壮な﹃七日堂
願って堂内の鰐口めがけて打ち綱
が境内へとかけ登り、無病息災を
七日の厳寒期に下帯ひとつの男衆
詣りに訪れる﹃十三講﹄や、一月
た子どもたちが通過儀礼としてお
三日には会津一円の十三歳になっ
丑寅の守り本尊であり、四月十
灯を今にともし続けています。
こともありましたが、臨済宗の法
り、たびたび伽藍を焼失崩壊する
の中では度重なる水害や火災によ
伝えられる古刹で、その長い歴史
古くは大同年間に開山したとも
るのです。
す人々の胸の中に深く刻まれてい
のよりどころとしてこの町に暮ら
る姿は、祈りを超えた、大きな心
れの彩りの中に荘厳な伽藍を見せ
帽子のような雪景色。四季それぞ
な緑黛、秋の絢爛たる錦、冬の綿
りょくたい
春の馥郁とした桜、夏の鮮やか
ふく いく
めて呼ばれる存在です。
まも﹁虚空蔵さま﹂と親しみを込
に建つ圓蔵寺は、地域の人々にい
雄大な眺めを見下ろせる高台の巌
える只見川。舞台からその
うとうと流れる碧水をたた
Cultural asset inquiry
語が聞こえてきそうです。
│中野竹子の書│〈町指定〉
病気の平癒と安産を祈念し建立さ
れた三十三体の観音菩薩像。女性
たちに深く信仰され、
「 観音様祭
り」の行われる4月29日には多くの
参詣者の姿が見られる。
戊辰戦争に殉じ22歳の生涯を閉じ
た会津藩の女性。竹子は文武の誉
れ高く、書は李白の五言絶句の詩
で叔母キサに竹子が贈ったもの。
会津坂下町の法界寺に墓がある。
│おぼ抱き観音│〈町指定〉
│久保田三十三観音│〈町指定〉
「おぼ」とは嬰児のこと。嬰児を抱
く観音様の伝説は各地にあるが、
中でも早坂峠に伝わる伝説は特に
有名。樹齢四百年を越す老松の下
の小堂に安置されている。
│圓蔵寺菊光堂│
│奥之院弁天堂│〈国重文〉
信者の信仰と慰安の場として、平成5年に竣工された八角堂。入口に掲げられて
いる「霊寶殿」の墨跡は大本山妙心寺専門道場師家臥雲庵老大師の命名と筆に成
る。圓蔵寺に附属する宝物が収蔵されている。
現在の菊光堂は文政13年(1830)に落慶、欅材のみを用いた白木造りの、四方椽
二層四稜の大伽藍で、東西12間、巾5間半余の外椽(舞台)があり、堂内欄間を初
め秀れた彫刻が施されている。
室町期に建立された方三間・宝形造・単層堂で、茅葺屋根や釣り鐘型の窓など、典
型的な禅宗様式の特色をもつ。堂内部には極彩色の絵紋様が施され、水難厄除の
願いを込めて弁財天が祀られている。
│人形塚│
│竹久夢二の碑│
│桐樹供養塔│
│頼三樹三郎の碑│
│ウグイ生息地│〈国指定〉
大正ロマンを代表する画家・竹久
夢二の柳津旅行を記念し建立され
た。夢二は昭和5年の夏に柳津町を
訪れ、柳津風景のスケッチと短歌
をのこしている。
昭和11年に会津桐材商同業組合の
人々によって建てられた桐樹の供
養塔。桐工芸品は会津藩の特産物
の一つであり、只見川沿いは会津
桐の名産地である。
勤王の説を唱道した幕末の志士。
弘化3年、柳津を訪れた際に柳津の
情景を詠んだ七言絶句の漢詩を遺
している。明治41年、圓蔵寺境内に
詩碑が建立された。
弘 法 大 師 が 霊 木で 虚 空 蔵 菩 薩を
彫った際、只見川に投じた木屑が魚
淵のウグイになったと伝えられる。
ウグイの群生は珍しく、現在も霊魚
として手厚く保護されている。
柳津町の月光寺には一幅の女の
幽霊図が因縁話とともに伝わって
います。
為田幽村著﹁おろくじ沢縁起﹂に
よると、昔、柳津村で悪疫が流行し
毎 日 の よ う に 死 人 が 出 た た め 、藩
命でおろくじ沢に焼き場をつくり
遺体を焼いていた。そのころ、虚空
蔵菩薩の霊験を聞いた女巡礼が病
平 癒 の 一 心 で や っ て き た が 、長 旅
の疲れからか倒れ息を引き取っ
た 。女 を 哀 れ に 思 っ た 人 々 が 葬 式
を出し、墓穴も準備したが、役人が
悪 疫 に よ る 死 者 と し て 、強 制 的 に
おろくじ沢の焼き場で灰にされ、
そのままにされてしまった。一方、
女の墓穴からは清水が湧き出し
た。やがて、手桶を持って水汲みを
依頼してくる女の幽霊が目撃され
る よ う に な り 、住 職 が 七 日 七 晩 墓
穴近くの馬道に通い幽霊の絵姿を
描きあげて本堂の一隅に貼り四十
九日間供養をしたところ幽霊は現
れなくなったという。
欠かさず供養が行われています。
現 在 で も 、盆・彼 岸・命 日 等 に は
良寛和尚︵一七五八∼一八三一︶
は越後国出雲崎に山本家の長子と
し て 生 ま れ ま し た 。十 八 歳 で 出 家
し、厳しい禅の修行を重ね、生涯無
一 物 の 行 乞 僧 と し て 、土 地 の 人 々
と 苦 楽 を 分 か ち 、そ の 純 粋 で あ た
たかな心と豊かな人間性は生き仏
と し て あ が め ら れ ま し た 。逸 話 も
多 く 、深 い 学 識 か ら 生 ま れ た 数 多
く の 漢 詩 や 和 歌 、書 を 後 世 に 残 し
ています。
良 寛 和 尚 は 文 化 十 四 年︵ 一 八 一
八 ︶六 十 歳 で 柳 津 を 訪 れ 、香 聚 閣
︵圓蔵寺︶を参詣した際に柳津の情
景を二編の長詩に詠んでいます。
昭 和 六 十 一 年 に 、そ の う ち の 一 編
﹁也奈伊津の香聚閣に宿り早に興
き て 眺 望 す ﹂の 詩 を 刻 ん だ 詩 碑 が
建 立 さ れ 、こ の こ と が 縁 で 柳 津 町
と新潟県三島郡出雲崎町は姉妹都
市 と な り 、現 在 も 交 流 が 続 い て い
ます。
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さまざまなゆかりを持つ文化財が点在します。
修行僧が滝にうたれ荒行を行った
糸滝の前には忿怒形の不動尊を
祀った不動尊堂があり、糸滝の落
口左側岩壁にも不動尊(舟形光背)
が安置されている。
つきみが丘に建立された
良寛和尚像と詩碑
境内だけでなく、深い木々に覆われ森閑とした一帯にも
│糸滝不動尊│
昭和62年の発掘調査の結果、縄文
中 期 ∼末 期 頃 の堅 穴住 居 跡や土
器、石器などが多数出土。そのうち
深鉢土器など61点が平成6年に県
重要文化財(考古資料)の指定を受
けた。
│宝物殿│
大正期における児童文学運動の一
つともいえる人形の供養塚。こけ
し型の石像には小川芋銭の筆で
「人形塚」と刻まれ、観音像と600余
個の人形がおさめられている。
文化財探訪
と
│石生前遺跡出土品│
〈県重文〉