チェスキーナ(永江)洋子さんはハープ奏者である。しかし、多くの人は、たぶん、彼女のことを、ハープ奏者と してより、イタリアの大富豪の莫大な資産を相続した人として記憶しているにちがいない。 永江洋子さんは、東京芸大音楽科を卒業した後、イタリア政府の奨学金をえて、さらにハープの勉強をするために ヴェネツィアに留学した。そして、そこで、彼女は、レンツォ・チェスキーナ氏としりあい、結婚する。レンツォ・ チェスキーナ氏は、たまたま、イタリアの大富豪であった。ふたりが結婚したとき、チェスキーナ氏が七十一歳、洋 子さんは四十五歳であった。 チェスキーナ氏が大富豪であったり、ふたりの年齢的なへだたりが大きかったりしたため、この結婚は、あちこち で話題にされた。しかも、チェスキーナ氏は、一九八二年に亡くなってしまった。富豪の莫大な資産を相続した未亡 人のことを、当時の雑誌や新聞は、例によって、興味半分で書きたてた。そのうえ、洋子さんは、チェスキーナ氏の 甥にあたる人物から、生前のチェスキーナ氏が洋子さんに残した遺書は偽造されたものだと訴えられた。その遺書に は、チェスキーナ氏の筆跡で、「妻を唯一の法定相続人とする」、と書かれてあった。 チェスキーナ氏の遺書の筆跡が鑑定されたりして、裁判は六年もつづいた。洋子さんにとって、さぞや辛い六年だ ったにちがいなかった。裁判の結果、洋子さんの無罪が証明された。そこでまた、「『ベニスの女王』になった日本 人」といったような記事が雑誌をにぎわした。 ぼくがチェスキーナ洋子さんについて知っていることといえば、おおよそ、その程度のことでしかない。一九八七 年にサントリーホールの小ホールでおこなわれた彼女の、日本における久しぶりのリサイタルも、残念ながらききそ こなっている。当然のことながら、ぼくは、彼女に直接おめにかかったことがない。それでもなお、ぼくには、チェ スキーナ洋子さんについて、どうしても書いておきたいことがある。 欧米の、伝統と由緒を誇るオペラハウスの多くでは、オペラやバレエの上演記録を印刷物にして出版している。こ の種の上演記録には、何年何月何日に、どのようなオペラが、どのような歌い手や指揮者、演出家によって上演され たかが記されている。メトロポリタン歌劇場のものなどは、上下二巻にわたり、総数で一三〇〇頁にもおよぶ、重量 にして五キロほどもある大部なものである。ミラノのスカラ座にもそのようなものがあるし、ウィーンの国立歌劇場 にも、近年のものはまだつくられていないようであるが、古いものはある。 そのような欧米のオペラハウスの上演記録は、単に調べものをするときに、いわゆるリファレンス・ブックとして 重宝するだけではなく、読んでの楽しみがまた格別である。当然、そのようなところに記載されている公演の大半は、 はるか昔におこなわれたものであるから、実際にぼくがきいたものなどみあたるはずもない。しかし、そのような過 去の上演記録を読んでいると、あの歌い手がこういう役柄もうたっていたのかと思うことがあったり、このソプラノ とこのテノールの二重唱はどんなであったろうなどと想像をたくましくしながら、幻のオペラを楽しんだような気分 を味わうことになる。 ヴェネツィアにはテアトロ・ラ・フェニーチェはいう、由緒ということでいえば、欧米のどこのオペラハウスにも 負けない歌劇場がある。映画ファンのなかには、このオペラハウスを、ヴィスコンティの映画「夏の嵐」の冒頭の場 面にでてきた歌劇場としてご記憶の方もおいでかもしれない。ともかく、このヴェネツィアのテアトロ・ラ・フェニ ーチェでは、ロッシーニの「セミラーミデ」やベルリーニの「テンダのベアトリーチェ」、それにヴェルディの「リ ゴレット」や「椿姫」、さらに「シモン・ボッカネグラ」といった、オペラ史上に残るさまざまな傑作が初演されて いる。 そのヴェネツィアのテアトロ・ラ・フェニーチェの上演記録をおさめた本が一九八九年の十二月に出版された。こ の本では一七九二年の、テアトロ・ラ・フェニーチェにおける最初の公演から一九三六年の公演までが記録されてい る。おそらく、いずれ、一九三六年以降の記録をおさめたものも出版されるのであろう。しかし、いずれにしても、 記録であるから、作品名はもとより、歌い手の名前等についても完璧に正確をきさねばならず、そのためには尋常な らざる時間と根気が必要になり、おいそれとはことがはこばないにちがいない。 ところで、そのヴェネツィアのテアトロ・ラ・フェニーチェの上演記録をおさめた本には、ごく小さな活字で、「こ の本は、妻洋子の強い希望により、レンツォ・チェスキーナを記念して、出版された」、と印刷されている。歌劇場 の、ましてテアトロ・ラ・フェニーチェのような伝統のある 歌劇場の上演記録が出版されるということは、オペラの研究 者や愛好家にとってはまことにありがたいことである。しか し、このような本を出版するのは、大変に経費のかかる、し かも地味な事業である。チェスキーナ洋子さんの援助があっ て、はじめて、その経費のかかる、しかも地 味な事業は可能だったにちがいない。 「この本は、妻洋子の強い希望により、レンツォ・チェス キーナを記念して、出版された」、と記された小さな活字を 目にして、ぼくは、チェスキーナ氏も、他の多くのイタリア の人たちのようにオペラがお好きだったにちがいない、と思 った。そして、ぼくは、テアトロ・ラ・フェニーチェのチェスキーナ家のパルコ(ます席)で仲睦まじくオペラを楽 しまれているチェスキーナ夫妻の姿を思い浮かべたりもした。 たとえ父や母、それに親しい友人に先だたれても、残されたぼくらにできることといえば、せいぜいが、命日に花 を手むけることぐらいである。チェスキーナ洋子さんは、亡くなったご主人のために、花ではなく、テアトロ・ラ・ フェニーチェの上演記録を、そっと手むけた。彼女はまた、なんとすてきなプレゼントをなさったのであろうと思い つつ、同時に彼女の亡くなったご主人を思う気持の深さを考えずにいられなかった。 テアトロ・ラ・フェニーチェには、おそらく、おふたりにとって忘れがたい思い出がいっぱいつまっている。そう いう歌劇場の上演記録をレンツォ・チェスキーナ氏の名前を記して出版することで、チェスキーナ洋子さんは、すで に遠いところに旅立たれてしまったご主人とともに、今もなお、幻のオペラをきいておいでなのかもしれない、と思 ったりもした。 ※シグネチャー/1992年10月 ※写真は黒田さん所蔵のテアトロ・ラ・フェニーチェの上演記録
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