マルコ 5:21-24、35~43 節

<タリタ・クム>
マルコ 5:21-24、35~43 節(6 月 28 日)
今日の説教題の「タリタ・クム」は、41 節をみますと、この言葉を用いた後、
わざわざこの言葉を皆が解るように訳しています。
この事は、つまり今日の私達だけではなく、マルコがこの福音書を書いた当時
の人々の中にも、この言葉の意味を説明しなくては、理解できない人達が多くい
た事を暗示しています。
マルコは何故、わざわざ皆が知っている言葉に訳さなくてはならない言葉を用
いていたでしょうか。それは主イエスがこの言葉を使ったからに他ありません。
皆様もご存知でしょう。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、主イエス当時の人々はアラム語と
言う言葉を話し言葉として使っていました。この「タリタ・クム」もアラム語で
す。
アラム語の「タリタ・クム」と言う言葉は、当時は広く使われていた言葉のよ
うです。朝、親が子供を起こす時「起きなさい」と言う言葉をかけるのですが、
その時、この言葉を用いるそうです。
「タリタ」と言う言葉は、
「とても小さいもの、哀れ、可愛そう」と言う意味の
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言葉で、ここでは「小さい子よ」と言う意味として使われています。そして「ク
ム」と言うのは、「起きる」と言う意味の言葉です。
ですから、
「タリタ・クム」は 40 節の説明のように「小さきものよ、起きなさい」
と言う意味です。
そ せ い
先ほど共に聴きました御言葉には、12 歳の少女が死から蘇生した事が記されて
います。この少女は死にました。
12 歳の少女、その少女の傍にイエス様が近づいて来ました。そして手を取って
一言、「タリタ・クム」と言います。「小さき者よ、起きなさい」この言葉と、同
時に少女は死の床から起き上がります。新しい人生が始まりました。
今日は、私たち人間にとって、最も、一般的である病と死の問題に対し、主イ
エスはどう対応しているかが描かれています。
つまり、不治の病、いや不治と思われる病を征し、そして、遂に死をも征する
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主イエスの姿が今日共に聴きました御言葉に語られているのです。つまり、ヤイ
ロの娘を死の床から蘇生させた物語です。22 節を見ましょう。
「会堂長の一人で、ヤイロと言う名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ
伏して」とあります。
会堂長は、イスラエル社会では高い身分、高い地位にいた人でした。私達は「会
堂」と言うと、単に宗教的な機能を果たすところだとばかり、考えがちですが、
しかし、会堂はイスラエルの民らの生活の、たた中に位置していた機関でした。
ここでは、宗教的機能も遂行しますが、それ以上に社会的な機能も果たしてい
まし、学校の役割や裁判所の役割まで果たしていたのです。
それ故、会堂長は、イスラエル人にとっては、社会的に尊敬される名誉ある職
でもありました。
これほどの身分の人であるなら、自ら主イエスの所に来る事は容易な事ではあ
りません。ところで、会堂長がそのようなイエスのところに来て、ひれ伏します。
しかも足もとにひれ伏したのです。
何故主イエスの所に来たのか。彼には大きな悲しみがありました。愛する娘が
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病に伏して、徐々に死が近づいて来ていたのです。自分の幼い子供が死んで行く。
親としての彼は自分の身を削る思いだったでしょう。
娘を生かすためにあらゆる努力を惜しまなかったでしょう。しかし、病が良く
なる事はなく、ますます悪化して行きます。
そこで彼は最後の希望、最後の望みをイエスと言う人に託しのです。
娘の命がかかっている事態に、社会的体面などはどうでもよかったのです。イ
エスの足もとにひれ伏し、しきりに願ったのです。
「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやって
下さい。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
社会的にも、経済的にも力のあるヤイロは、愛する娘の病を治すため、あらゆ
る手を尽くしたでしょう。
しかし、その甲斐なく、娘の病は、ますます重くなり、やがて瀕死状態になっ
た。ヤイロは、人の力の空しさを愛する娘の病を前にして痛感したでしょう。
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すべての力を尽くしても出来ない現実を前にして、ヤイロは最後の望みをイエ
スと言う人に託しました。
この方なら必ず娘は治るだろう。そこに望みをおいて主イエスに願ったのです。
会堂長の切なる願いに答えるように、主イエス一行はヤイロの家に向かいます。
彼は大変嬉しかったでしょう。道を急いでいたでしょう。
まだ、娘は治ってないけど、このイエス様が家について娘に手を置くと、必ず
治るであろう、そのような希望を持って主イエスと、一緒に小走りで道を急いで
いたと思われます。
ところが、道を急ぐ彼らの前に、まるでそれを妨げるかのような出来事が起こ
りました。12 年間も出血が止まらない病で苦しんでいた女性の登場でした。
この話は来週、語らせて頂きます。
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主イエスが 25 節~34 節までの 12 年間の出血の女性の事で時間を費やす間、ヤ
イロの愛する娘は死んだのです。その知らせが届きました。
この会堂長の切なる願いは、娘が死んだと言う知らせによって、完全に絶望と
なってしまいます。25 節~34 節までを飛ばして、35 節です。
「イエスがまだ話しておられる時に、会堂長の家から人々が来て言った。『お
嬢さんが亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう』」。
「お嬢さんが亡くなりました。」この一言で、すべては終わりました。ヤイロは、
イエスが来る事によって娘は助かる。そう信じていた。しかし、既に、娘は死ん
だと言う。ヤイロは絶望のあまり、そのまま地べたに崩れ伏す思いがした。すべ
てが崩れ落ちて行くのを感じたでしょう。最後の望みをこの人、ナザレのイエス
に託したのに、あと一歩の所で望みが絶たれてしまったのです。
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このような状況、絶望的な状況の只中で主イエスは語ります。
「恐れる事はない。ただ信じなさい。」
このイエス様の言葉は「恐れないで信じなさい!信じ続けなさい!」と言う言
葉です。
娘が死んだと言う絶望的な時にも、主イエスは信じ続けなさい、とおっしゃる
のです。死は、すべてを飲み込みます。
子供も、若者も、高齢の方も皆飲み込みます。死ぬ確率は 100%です。しかし、
中でも主イエスは、私達に信じる事を求めます。
ヨハネによる福音書の 11 章には、死んで墓に葬られ、4 日も経ったナザロを蘇
らせる事が記されています。その 25 節で主イエスはこのようにお語りになりまし
た。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
「恐れることはない、ただ信じなさい」という主イエスの言葉をヤイロはどの
ような思いで聴いていたでしょうか。彼の思いを無視するかのように主イエスは
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彼の家に向かいます。ヤイロの家では、会堂長の娘の死という現実の前に多くの
人々が集まり、泣き悲しんでいました。
ふ ほ う
会堂長という身分から考えますと、訃報を受けて集まった人々は相当の数だっ
あいとう
たでしょうか。職業的哀悼者、即ち、泣き女と呼ばれる人々も来ていたのかも知
れません。あるいは、そんな時間がなかったとしますと、泣き騒いでいたのは、
家族と近所の人々であったのかも知れません。
その人々に主イエスは語ります。
「何故、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
人々は主イエスのこの言葉を「あざ笑った」と 40 節に書いてあります。
医学的にみて、娘が死んだのは間違いない事でしょう。医者であるルカは、ルカ
による福音書 8 章 53 節で「人々は、娘が死んだ事を知っていたので、イエスをあ
ざ笑った。」と記す事によって、客観的に見れば、娘は既に死んでいたのです。
しかし主イエスは、娘は確かに死んでいるのですが、ここで通常の死を見る見
方を否定しておられるのです。「眠っている」。眠りとは、いずれ目覚めるべきも
のという意味です。
日本語の「永眠」も、死を眠りに例えてはおります。しかし「永遠の眠り」と
しますと、再び覚める事は考えられておりません。しかし、主イエスにおいては、
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死は眠りです。再び目覚めるべき復活を待つ姿であると言うのです。
信仰とは、このように人間の死を「眠り」だと語る主イエスの人格を信頼す
る事です。そこにいた人々は主イエスを信頼せず、あざ笑ったのです。
そのような人々を外に出し、子供の両親と三人の弟子達だけをつれて、子供の
いるところへ入って行かれた主イエスは、「子どもの手を取って『タリタ、クム』
と言われ」ました。
しょうじょ
「少 女 よ、起きなさい。」
「起きなさい」と言葉は、
「復活させる。死んだ者を起
こす」と言う言葉が用いられています。
この声を聞いて、死んだ少女は起き上がりました。主イエスによって死から救
われたのです。
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肉体的な死に対する神様の答えは復活です。復活が確かなものであるのなら、
死を恐れる必要はありません。
復活の希望が確かなものであるなら、死と言う出来事の前で絶望する必要は、
ないのです。約束の御言葉を信じ、主イエス・キリストに対する信仰が求められ
るだけです。
しかし、肉体的な死に劣らないもう一つの絶望は霊的な死です。人々は肉体的
な死は恐れながらも霊的な死については恐れません。
霊的な死というのは、神様と断絶された事を意味します。そのような人は生き
ているように見えても死んだ人です。
ところで神様は私達を愛し、私達を生かすために神様と私達との間に仲保者と
して、イエス・キリストをお送り下さいました。主イエスは神様との関係を断絶
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させた私達の罪を背負い、十字架の上で死んで葬られ、そして 3 日目に復活なさ
いました。
そのイエス様を救い主として信じ受け入れる時、罪は赦され、神様と断絶され
ていた関係も再び回復されるのです。
つまり霊的に復活するのです。そして新しい命を頂き、新しい歩みが始まるの
です。
私達に新しい命を与え、新しい歩みを与えて下さる復活の主イエスは、私達に
死を超えての復活の希望を約束して下さいます。
日々の営みの中で、絶望的な状況の中に置かれた時、どうする事も出来ない状
況に陥っている時、復活の主イエスは近寄って下さいます。
近寄って下さり語って下さいます。
「タリタ・クム!わたしの愛する子よ、愛す
る娘よ、息子よ、起きなさい!」
この主イエスの言葉を聞く時、私達は再び立ち上がれます。
タリタ・クム!起き上がって新しい未来に向かって歩んで行きましょう。
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実は今日、新しい人が一人来る予定でしたが、来週になると、2 人が来る可能性
がありますので、お待ちするようにしました。
お祈り致しましょう。
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