小論は、 筆者が最近行っている宋代科挙社会の形成について漸東

鄭県知事王安石と明州士人社会
合
で
詩
格
の
一
が
し
約
般
で
た
百
の
き
士
年
農
る
大
間
工
受
夫
に
商
験
官
も
が
能
僚
近
庶
力
を
世
と
が
頂
的
し
あ
点
な
て
る
と
科
身
下
と
し
挙
庶
国
分
に
認
へ
制
挙
と
位
め
科
度
総
を
な
置
ら
挙
が
数
軸
る
す
れ
受
整
期
の
と
か
る
た
験
備
近 藤 一 成
作
へ
り
中
科
者
時
はじめに
り
ま で 存 続 し た 。
士 - 庶 の 区 別 は
な
た
格
も
位
大きな手がかりを与えてくれる。
本論に入る前に、科挙社会について簡単に定義してお-0
前近代中国社会を構成する二
会という言葉は、近年へ他の研究でもみかけるようになったが'私
は大体'以下のように使用している。
つの要素、支配者と被支配者、統治する側と統治される側を士と庶
に区分けすることは'中国の歴史に一貫していたと考えられる。
挙
の
特
一
つ
で
あ
作
有
り
に
し
合
て
単
域
に
わ
士
う
士
っ
を
地
究
関
が
こ
進
よ
州
の
研
の
期
誰
'
た 士の 農で 工あ 商る は。 固
末
て
は
の
に
た
そ
の
と
朝
っ
間
。
代
タ
れ
ら
挙
清
従
年
る
宋
ー
ら
か
科
は
、
千
あ
、
デ
え
化
宋代
っ
-
一
で
べ
る
与
変
小論は'筆者が最近行っている宋代科挙社会の形成について漸東
(-)
明州を事例に考察する研究の一環であ-、北宋前半期を扱う。
決
あ
約
代
比
す
を
の
会
な
て
で
の
時
に
存
額
数
し
社
は
制
世
た
代
残
解
者
かし士-庶の区分の内実もすなわち何が士であり何が庶であるかは
域
で
近
し
時
、
の
格
と とが くで にき 末る 代。 科
が
定
合
る 実こ 際と にを は可 こ能 のと 読す みる 取。 り
時代によって異なった。 科挙社会とは、科挙制度がこの区分の規準
地
制
開
活
い
一
士
取
る
な
明
な
こ
が
進
み
あ
的
明州の科挙社会を検討する上で、若き王安石の明州都県知事として
い
る
試
の
読
で
定
の活動は'史料の絶対量の少ないこの時期の明州士人社会の考察に
取
郷
州
を
難
科挙社
の
る
質
困
の
あ
特
り
北宋一五〇年間のうち仁宗から徽宗ま
色
の
な
として作用する社会である0
'
か
五
が
三
都県知事王安石と明州士人社会
-
る
業
い。
また科挙を、いかにして官僚にふさわしい人物を選抜する制度
きを挟み、皇祐元年(1〇四九)任満ちて開封に戻るまで'三年足
に知事として赴任し、翌慶暦八年末へ亡父を埋葬するための金陵行
三六
にするか'いかにして公平で不正を許さない制度にするかという議
らずの間この地に滞在した。
年の礼部武を通過、続いて殿武に第四位の好成績で及第している。
けた慶暦元年へ都開封の国子監に赴きそこでの解武に合格して翌二
これよ-以前へ安石は、父益の喪が明
論と試行錯誤が延々と百年間続けられ'ようやく徽宗朝に至って考
えられたあらゆる方法の最後の試みへ科挙廃止・学校による官僚登
用制度が失敗して近世的科挙制度が定着すると'次の南宋では早速、
その任期が終わ-、次に知都県と
上位合格の進士はただちに州の属官を与えられる例に従い'安石は
准南茶判として揚州に赴任した.
各地域独特の進士合格者数の変化が現れるようになった。
明州慶元府は、南宋後半になって合格者数を著し-増加させた特
して明州に来たのである。
慶暦七年、再び知都県に調せらる。
任に在-ては読書を好み文
今に至るも東銭湖に詞有-0
邑人郵江先生王致'
こ
凡そ東
心を水利に押しも湖を波え
都県経遊記有り。
ては、其の嶺、猶お安石を以って名とす。
し。
西十四郷有-、隷する所の川渠'親しく視、民を筋めざるな
堰を築き、堤塘を繕修するにも必ず窮ら其の地を歴す。
章を為-、二日lたび県事を治む。
名宣伝の王安石伝をあげる。
こでは、まずその最も詳細な記載例のlつとして﹃康配仙都県志﹄人
譜の慶暦七年から皇祐元年までの記事に拠る方法が便利である。
明州あるいは都県など歴代地方志の県事の箇所、又は幾つかある年
には﹃宋史﹄三二七など史書の本伝の該当部分を参照するかも薪江、
王安石の場合へ公式の行状が伝わらず'知都県時代の事績を知る
が安石は続けて地方官を希望した。
のl任が終わると館職の肩書きを求め、官も中央を望むものである
通常、進士四位合格ともなれば、地方官
色をもつ。南宋東南地区の州府の進士合格者数は、漸増・維持ない
し不定・漸減の三型に分類され、明州慶元府は漸増の典型である。
報告者は、先にこうした事態の背景として、南宋後半期、明州慶元
府には陸学、呂学、朱子学など新思潮の流入に対し活発に反応した
士人階層の活動があることを指摘した。
一方、南宋明州の史氏へ楼
氏へ江氏など多数の名族については、既に黄寛重教授の著作を始め
Cl凸
多-の優れた研究蓄積がある。
小論は'これらの成果に基づきなが
らへ明州という地域に士人層が出現し、士人社会が形成され展開す
る歴史を考察するl環として'知都県王安石についての史料を手が
かりに'北宋仁宗朝の明州士人社会がどのような歴史的段階にあっ
たのかを検討してみる。
一知都県王安石
北宋仁宗の慶暦七年 二〇四七) 二十七歳の王安石は'明州都県
山上に
貧に安んじ道を楽しむ。
又た孔子廟に因-て学と為
安石へ之れに師事し、妓すれば則ち其
の墓に銘Lへ悼むに詩を以ってす。
運便孫
し、県の子弟を教養す。
慈渓の杜醇に師為らんことを請いへ再
ねんごろ
び詳懇にす0
又た教えを城南楼先生郁及び王秘校該に訪う。
た杜学士に上書し、邑民をして暇に乗じ河を聞かしむ。
更に書を以って司法吏江元吉の廉平を薦む。
諌司に書を上-'其の吏民をして銭を出し人の捕塩するに購わ
しむるを力阻す。
温は'北宋仁宗至和三年(l〇五六)の生まれ、南宋高宗紹興四年
二一三四)の没へ著名な理学家郡薙の子であ-、それ故、この書は
父の政治的立場を反映し、反新法・反王安石色の強いことで知られ
る。
本又
書は伯温晩年の作といわれへその子で﹃閲見後録﹄を著した
那博が父の死後に整理定稿したので(李剣雄も劉特権唐宋史料筆
記叢刊本点校説明中華書局一九八三)知都県王安石のまとまっ
書を読み文章を為-、三日(他版
た事績としては最も早い記事となりへそこには以下のようにある。
王荊公へ明州鄭県に知た-0
堤堰を起こし披糖を決Lt水陸
穀を民に貸し、息を立て以って償わしめへ新陳を
故に配㌫早の初め執政と為るや行う所の法、皆な此れに本
学校を興し、保伍を厳し-し、邑人之れを便
とす。
然れども荊公の法、一邑に行うは則ち可なるも'天下に
して相易きしむ。 弾
の利と為す。
今邑中の経輪闇へ賓聖廟皆なは
之二日)に一たび県事を治む。
凡東西十有四郷、
在任好読書為文章、二日一拍県事。
旧時、贋利・崇法二寺へ皆な両有り。
邑人、便を称す。
嘗て穀を貸して民に与えへ息を立て以って償わせ'新陳をして
相易えしむ。
れを配る。
(慶暦七年も再調知鄭県。
心水利も汝湖築堰、繕修堤培う必窮歴其地。
づ-0
行うは可ならざるを知らざるなり。
至今東銭湖有詞、在
邑人郵江先生王致安貧楽道へ安石師事之、
刻薄の小
請人
慈多
渓杜'功利に急にして'遂に河を決して田と為し'
所隷川渠、摩不親視妨民、有都県経遊記。
山上其嶺猶以安石名。
又因孔子廟為学へ教養県子弟。
又た遣わす所の新法の使者へ
妓則銘其墓へ悼以詩.
人又
の上
墳書
墓杜
、重度を壊し膏脱の地たるに至るは'紀るすに勝う可
らず。
(王荊公知明州郵県へ読書為文章へ三日一治県事o起堤堰、決披
又所遣新法使者、多
故配壷丁初為執政所行之法曹本於此、然荊公
嘗貸穀与民立息以償、伸
三七
刻薄小人、急於功利へ遂至決河為田、壊人墳墓重度膏腕之地、
之法行於〓巴則可へ不知行於天下不可也。
厳保伍、邑人便之.
培、為水陸之利へ貸旧
穀時
於贋
民利
へ崇
立息以債へ伸新陳相易へ輿学校へ
伯
今邑中経給閣賓聖廟皆紀之。
上達便孫諌司書力阻其令吏民出銭購入
又訪教子城南楼先生郁及王秘校該。
醇為師、再詳懇。
学士、便邑民乗暇開河。
)
邑人称便。
捕塩へ更以書薦司法吏荘元書之廉平。
新陳相易。
法二寺皆有詞。
この康熊本を含め、都県時代の安石事績の記事は、恐らく郡伯温
﹃閲見録﹄二の安石新法をめぐる記載の冒頭部分を淵源とする。
都県知事王安石と明州士人社会
三八
宋代の明州を検討するときの基本史料である﹃乾道四明図経﹄(以
-)
不可勝紀。
下﹃図経﹄)へ﹃宝慶四明志﹄(以下﹃宝慶﹄)、﹃開慶四明続志﹄(以下
に至るも未だ建てざるなり。
(至聖文聖王廟在県東半里。
)
唐元和九年に建つ。
唐元和九年建。
三舎法へ教養生月へ移瓶県西南半里而成於大観三年。
遭兵火へ至今未建也。
建炎四年
寧二年、三舎法を行いも生員を教養するに因-、県の西南半里
∵、
に移し撒-而して大観三年に成る.
建炎四年、兵火に遣いへ今
至聖文聖王廟、県の東半里に在-。
志﹄)のうち、都県学については﹃図経﹄二両廟に
﹃開慶﹄)、﹃延祐四明志﹄(以下﹃延祐﹄)へ﹃至正四明続志﹄(以下﹃続
この冒頭部分以降は、﹃閲見録﹄の記述を基本として新法評価の箇所
を含め、或いは増添し、或いは削除して元、明、活と書き続けられ'
前記﹃康配州卦県志﹄に至ったのであるo
安石は着任するとへ慶暦七年十一月七冒から十八日まで県内をほ
ぼ一巡する視察に出かけ、管内の農田水利を始めとする諸状況の把
鐘に努めた(都県経遊記)0
この間の宿泊先は'舟中の二泊以外すべ
て慈福院'廉利寺、旗教院、開善院、景徳寺へ保福寺荘、普寧院、
資寺院といった寺院であ-'寺僧との交流は残された詩から知られ
る。
ここからも知県としての安石は'地域社会の現実を自ら直接把
小論に即し'こ
とみえるのが現存﹃宋元方志﹄最初の記載である(多分へ既に失わ
撞し、理解したうえで施策を進めたことが分かる。
の記事のうち地域士人層社会と安石の関係に課題を絞ってみると、
れた北宋﹃大観図経﹄も北宋部分は同様であった思われる)。
ここに
一方、'﹃宝慶﹄一二
とすれば﹃康
求められるのであろうか。 今のところへこの記述の最も早い例は管
見の限りへ至元三〇年(一二九三)秋八月の日付をもつ王鷹麟﹁重
修(郵)県学記﹂(﹃延祐﹄7三)の﹁郵在漠為邸、属会稽郡。
唐属
配州鄭県志﹄の﹁因孔子廟為学、教養県子弟﹂の字句の由来はどこに
というのみで、その具体的な内容は書かれていない。
の知県王安石の伝は'基本的に﹃閲見録﹄の記述を踏襲して﹁興学﹂
は安石が学を興したということは記されない。
記事を祖述し、それぞれ以降のできごとを書き加えている。
多少の異同、増損はあるが、﹃宝慶﹄一二、﹃延祐﹄二二ともにこの
字句の
﹃閲見録﹄の﹁興学﹂と﹃康無都県志﹄の﹁又因孔子廟為学へ教養県
王致以下の士人たちとの交流は次節で考え
子弟﹂の記事および王致、杜醇、楼郁'王該らの士人との交流が先
ず検討の対象になろう。
単なる
ることにして、本節では安石﹁興学﹂の実情について先ず検討する。
実は﹃閲見録﹄の﹁興学﹂の語は﹃宋史﹄安石本伝にない。
省略とも解されるが、それに対し﹃康輿都県志﹄では﹁孔子廟を県
枝葉末節へ些か煩頚であるがへこの﹁興学﹂が
学とした﹂というように輿学がどういうことであったのかが具体的
に書かれている。
﹁孔子廟を県学とした﹂たという記述に変わる経過について考えてみ
たい。
皇
皇朝崇寧二年へ因
明州、建夫子廟於県東〇五代改鄭日郭。
後遷県西南。
宋始立学、王安石宰県へ因
廟為学へ教養県之子弟、風以詩書、衣冠鼎盛。
某、与に聞く有らん。
って子弟を教養せんとす。 願わくは先生、聴-を留め而して之れに
臨み、以って之れが師為るを賜らん
-こ
﹂と
でを。
(.
某.
得.
県於此股年臭o方因孔子廟為学以教養子弟。
この間題はこれで解決するのであるが、しかしもう一件へこれに
それは慶暦八年のことになる。
たと推測される。安石が県事になって年を越したというのであれば'
願先生留聴而賜
ある。都県学を県の西南に遷したのは崇寧二年であるから、それ以
臨之へ以為之師。某与有聞鳶)﹂とあ-'王鷹麟の記述はこれに拠っ
王鷹
前は唐に建てられた孔子廟に学が置かれており、それは宋政府の地
方学建学の方針に則した県宰王安石の業績であった、という。
鱗のこの記述によってへ﹃方志﹄の都県学の条と同じ-﹃方志﹄安石
伝の(都県)興学が一つの記事として繋がったのである。
関連して些か気になる安石の文章がある。
時慶暦某年也。
後、林君肇至る。
雑然へ吾有人民於此不可以
′後林君肇至、則日古之所以為学者吾
今劉君居中言於州へ便民出銭へ将修而作之、未
県の子弟を帥い、先生杜君醇を起て之れが師と為し学に興
噴。
この中
それはかれの著作のなか
一般論として、後世の人間が、歴史上のある人物の伝記や年譜を
では著名な作品の一つに数えられる﹁慈渓県学記﹂である。
で安石は
作成するとき、信頼できる情報源として最初に利用する材料は、そ
の本人が書き残した著作であり'それらの編年化が第1に行うべき
-(孔子)廟又た壊れ治めず。
時に慶暦某年な-0
今、劉君居中、州に言い'民を
作業となる。
これは今まで引用した知都県時代の安石行状の記述に
して銭を出さしめ、将に修め之れを作らんとするも、未だ為す
及ばずして去る。
も該当Lt﹃康配転県志﹄に記載される諸事項は'次節で述べる問題
王療鱗が記し、﹃康
-古の学を為す所以は吾れ得て見ざれども、法は吾れ以って循
を除いて殆どが安石の残した著作に対応する。
興部県志﹄に至るまで書き継がれた﹁因(孔子)廟為学へ教養県子
即ち民の銭に因-'孔子廟を作-、今の云
然-と難も吾れ人民を此に有せば、以って教
わざるべからず。
三九
不得而兄へ而法者吾不可以母循也。
及為而去。
(-廟又壊不治。
す。
る。
う所の如-、而して其の四勇を治め、学舎講堂を其の中に為
え無かるべからず。
弟﹂の字句についても、安石が執筆し﹃臨川先生文集﹄七七に収録
後に開封に
された﹁請杜醇先生入県学書二﹂(﹃王文公文集﹄五)が史料来源であ
ろう。
杜醇は慈渓の士人で孝友が郷里に称されていた。
在った安石は'越からの客人があると彼の近況を尋ね、その計報に
話を元に戻すと、在野の賢人杜醇
接したときは追悼の詩を作っている(﹃臨川先生文集﹄九悼四明杜
醇。
﹃王文公文集﹄四四傷杜醇)。
方に孔子廟に因り学と為し以
を県学の教師として招聴したが、固辞されたために書いた書簡の第
lには﹁某へ県を此に得て年を股ゆ。
都県知事王安石と明州士人社会
則
無教。
噴。
即国民銭へ作孔子廟へ如今之所云、而治其四勇、為学舎
講堂其中、帥県之子弟へ起先生杜君醇為之師而興於学。
と記し、杜醇は慈渓県学の教師として招碑されたという。
﹃図経﹄を
始め、この学記を収録する﹃方志﹄は'慈渓県令劉在(居)中が再
建を試みたという慶暦某年を﹁五年﹂とし(但し歴代方志に県令劉
在(居)中の名はみえない)、また﹃宝慶﹄以降の慈渓県学の項には
慶暦八年、令林肇徒於県治
﹁学、旧在県酉四十歩O皇朝薙輿元年(九八四)県令李昭文建先聖殿
居其中。
端洪元年(九八八)令張穎記。
る以上、文脈からは都県学のことと判断せざるを得ないことも確か
である。
こうした暖昧さは残るが、ここでは'王安石
-が
)県知事とし
て積極的に明州の在地士人層に働きかけへ県学での学生指導を要請
し、結果的に杜醇は都県と慈渓県南学において﹁教養子弟﹂するこ
とになったのであり、それが後世に伝承される安石興学の明確なイ
メージとして王癒鱗によって元初に整理されたことに注意しておき
たい。
むしろここで重要なことは﹁慈渓県学記﹂に示された'王安石の
慈渓県のために﹁学記﹂を記しただけでな-、ここでも書簡を杜醇
-﹂と'安石﹁学記﹂の記述をふまえた解説を付している。
し。
(-猶日州之士満二百人乃得立学。
に於いて慈渓の士、学有るを得ずして'孔子廟を為-ること故の如
す﹁猶お目く、州の士も二百人を満たせば乃ち学を立つるを得。
まず安石が﹁学記﹂のなかで記
に送り、慈渓令林肇が再建した県学の教師に招碑したことになって
孔子廟如故)﹂の背景には、慶暦四年三月十三日の詔があることを前
県学に対する強い思い入れである。
いる。
安石の文集には杜醇宛書簡は同時期の二通しか残されていな
提にしておかねばならない。
之東南一里。都県宰荊公王安石記之、胎書招邑人宿学杜醇為諸生師。
いから、慶暦八年にはさらに別の杜醇宛書簡が書かれていたのであ
学の設立が議論されてお-'節度州に限-州学設置が許された景祐
安石は
ろうか。先に釈然としないと述べた理由は'文集にある杜醇宛二通
是
逆にも
当時は慶暦新政の一環として地方州県
於是慈渓之士不得有学、而為
が実は慈渓県学への招稗に関連する書簡ではなかったのかという疑
四年(一〇三七)に続き、それ以外の州にも設置を認める詔がこの
(3)
とき降された。
その規定の一つに州学の学生が二〇〇人以上である
場合には独自に県学を置-ことができるとの条件があった。
﹁学記﹂によれば県令林肇は場
所を県治の東南に移し、廃されていた孔子廟を再建して、その中に
し二〇〇人に満たなければ'孔子廟か県の官庁の建物を学舎にする
問が完全に払拭されないからである。
学校を設けたので﹁因孔子廟為学﹂との表現は当然ながら慈渓県に
のである。明州の県学が全て孔子廟に付属していた理由はここにあ
ったので、管下の県学は独自の建物を設置することができなかった
明州学は学生が二〇〇人に達しなか
ことで代用する規定であった。
しかし書簡内に﹁某得
も当てはまるし、﹃宋元方志﹄都県学の解説文に〓具して王安石興学
の記載がないことも納得できるからである。
県於此捻年臭. 方因孔子廟為学以教養子弟﹂と明確に述べられてい
に は 、 宋 の 真 宗 へ 仁 宗 時 代 は ﹁ 儒 林 之 草 昧 也 。当 時 潰 洛 之 徒 、 方 萌
芽而未出﹂であ-、戚倫'孫復、胡瑳らが正学を興し、韓埼、苑伸
る。
こうした状況下でも王安石は﹁学記﹂で学校の欠くべからざるこ
明らかとなり、李之才、郡薙らが経術で学問を起こした'こうした
滝へ欧陽傍らは廟堂に在-、学校が四方に遍-広がりへ師偏の道は
木を断り土を持つこと浮
とを強調する。﹁其の陵夷の久しきに至れば、則ち四方の学廃さる。
而して廟を為り以って孔子を天下に紀る。
ことを渡洛の学の先駆けという人がいる。
しかし、かれらは﹁跨州
連郡﹂でようや-数人を得ることができるのでありへかれらのよう
州県の吏、春秋に其の属を帥
蓋し廟の作
な 先 生 を 得 る こ と 大 変 難 し い 。そ れ に 比 べ て 我 が 郷 里 の 五 先 生 は 、
屠'道士の法の如-王者の像を為る。
い其の堂に釈実するも、学士は或いは蔦れに預からず。
(至其陵夷之久、
わずか百里の間に集っているのでありへそのことは極盛というべき
るは学廃さるよ-出で、而して近世の法へ然るな-。
則四方之学者廃、而為廟以紀孔子於天下へ新木捲土如浮屠道士法為
であろうへと当時の明州の人材輩出へ学問教育の盛行を讃えている。
この五先生のうち王安石との交流が安石自身の著述によって確認
蓋廟之
作出於学廃、而近世之法然也)﹂と述べへ法的制約のなかで県令林肇
される人物は、前節で触れた杜醇とさらに王敦も楼郁の三人である。
王者像。州県吏春秋帥其属釈実於其堂へ而学士者或不預蔦。
が、まず廟を再建し、その傍らに講堂、学舎を建設したことを'﹁噴、
以下へこれら安石との関係に触れながら、﹃宋元学案﹄六士劉諸儒
林君の為すや、其れ 学 案 の 記 述 を も と に 簡 単 に 五 人 の 略 歴 を 紹 介 す る 。 ﹃ 学 案 ﹄ は 、 安
林君、其れ道有る者か。 夫れ吏は今の法を変える無-、而して古の
賓を失わず。此れ道有る者の能-する所なり。
夫吏者無変今之法、而不
定失
同調として四人を'最後の王説は郵江家学に分類するが、ここで
はかれらの学
問と
系高
統に評は
)﹂
価立 ち 入 ら な い 。
此れに幾からん。(噴、林君其有道者耶。
古之賓。
此有遺著之所能哩。
﹁助教場大隠先生適﹂楊通'字は安道'慈渓の人で大隠山に隠居。
林君之為、其幾於此臭。
するのである。地方学は、安石にとって政治と教化の原点であった。
人 と な り は 重 厚 で 吃 立 し て お - ' 議 論 は 明 断 で 博 - 公 正 で あ る 。名
利に動かされず'人には分け隔てな-接し、隣人が収穫物を盗んだ
﹃宋元学案﹄を実質的に編纂した清の仝祖望は、﹁慶歴五先生書院
れる。
人々は尊敬して名を呼ばず大隠先生と敬称した。
ることをしなかったので'隣人は大いに悔いたという逸話が伝えら
二 慶暦五先生の出現
記 ﹂ を 著 し て 、 郷 土 の 先 賢 を 顕 彰 し た ( ﹃ 鮭 崎 亭 外 集 ﹄ 一 六 )五
0先
学問を伝え聞いた前東西刑獄の孫河は面会を望んだが'避けて会わ
ときも、人の物を盗むには余程深刻な事情があるのであろうと各め
生 と は 楊 適 、 杜 醇 へ 王 致 、 楼 郁 ' 王 説 の 五 人 で あ る 。全 視 望 が 記 す
四一
その徳行・
都県知事王安石と明州士人社会
なかった。先生が越州に出向いたとき'たまたま苑仲滝が知事であ
年の作として﹃文集﹄三五にみえる。
全祖望は、王敦のために安石
が撰したとされる長文の﹁郵江墓誌﹂について、その初出は清の開
性道編、康配州二十五年刻﹃都県志﹄であ-'内容、文体からみて安
り招かれて面談したが、何も求めず伸海はますます先生を徳とした
という。
こうして四〇年間、銭糖の林道や同郡の王敦へ杜醇らと交
石に仮託した後世の作であると断じている。
﹁正議楼西湖先生郁﹂楼郁、字は子文、奉化県の人、都県に移り城
た書と挽辞のみとなる。 このことはまた後で考える。
すると王敦についての情報量は極端に少な-な-、殆ど安石の残し
従うべきであろう。
流しも後進は先生を師とせざるはなく、徳行はますます高く、その
名は京師にまで聞こえるようになったので'仁宗が天下の遺逸を求
める詔を出したときも明州知事飽村が朝廷に推薦して粟島を賜り'
次の知事銭公輔の推薦で将仕郎試大学助教を授けられ'州に招かれ
南に住む。志操高原、学は窮理を以って先と為し'郷人の尊敬する
所であった。慶暦年間、郡県に学校を建てる詔が出され'郷里の
七十六歳で没したが、遺言で墓にはただ﹁宋
隠人之墓﹂と刻まれただけであった。
﹁文学行義﹂あるものを招いて師としたときへ郁が招かれて県学で教
たが固辞したという。
﹁学師社石台先生醇﹂杜醇、石台と号Lへ越の隠君子で慈渓に居住
え'その後州学に転じ十数年間教授した。
郁を始め当時の明州の教授はへこ
郁は'州県学での前後三〇
任ぜられた。しかし﹁禄、親に及ばず﹂として仕官を断念'大理評
静萱らが輩出し、自らも皇祐五年の進士に合格し、野川鹿江主簿に
余年間、その門下から中央、地方の大官となった愈充、豊穣へ哀穀へ
の規定による民間からの登用であった。
登用できるという規定があった。
るが'該当者がいない州県では'民間の学識ある人物を教授として
前節でも述べたこの慶暦
した。
人の評価を気にした-'人から知られることを望まず'郷里
四年の興学の詔では、州県学の教授は原則として有官者が任ぜられ
﹃学案﹄は'この後
では孝友を称えられた。 自給自足の生活を送-、親を養い、経書に
明る-修養に努めも学ぶ者はこれを模範とした。
に前節で触れた安石の書簡を引用Lへ始めに都県学へ次に慈渓県学
先の楊通、杜醇
の師として招かれたといい、﹁二邑之文風﹂は先生から始まったと評
する。
﹁処士王郡江先生致﹂王致、字は君一、都県の人。
の友人であり'道義を以って郷里を化したので諸生は皆な三人を称
れば、継母を養う弟妹がまだ幼いという理由であったという(﹃攻塊
致仕は、五世の孫楼鈴によ
かからずお会いしたい﹂という安石の願いと、書簡の受領を謝する
集﹄八五高祖先生事略)0 楼郁の県学での教授は恐ら-安石赴任前
事の官で致任し、終生家居して終えた。
内容の﹁答王致先生書﹂一通が残されている(﹃臨川先生文集﹄七七)0
のことだと思われるが'安石は郁に﹁-足下の学行は篤美であり、
安石とは書簡の遣り取りがあり、﹁久しくお目に
して先生と敬った。
また七〇年の生涯を清貧と求道で終えた王致を悼む挽辞一首が'後
と
るところです﹂という丁重な書を送ってお-(﹃文集﹄七八)、その
士友に信あ-'海瀬に窮居へ自ら屡空の内に楽しむは'私の仰歎す
会層の教育へ学術の指導者として郷里の尊敬を集めた人々であり'
であるが'いずれも中央、地方に仕官することはな-、地域士人社
これら五先生は布衣へ特恩による授官へ進士合格と肩書きは三様
るが'最も早い該の長子雅でも元豊五年の進士であるから時期的に
既に名族として人材を多数出している楼氏へ王氏の記事が他の数倍
に﹃宝慶﹄八郡志の人物伝にまで遡る。
王説の箇所で﹁-先是有王致亦州開
-﹂
こ
ここで問題と
王安石は'
密接な交流が推測される。 南宋四明の名族としてゆるぎない地位を
こうした状況にあった明州罫県に着任したのである。
(商上三補者旧詩)へ互いに密接な人間関係を有していた。
王説が楊適へ王致を師とし杜醇、楼郁を友としたといわれるように
郷里に教授する
確立する楼氏の最初の進士が郁であった。
﹁銀青王桃源先生説﹂王説へ字は廉求、都県の人。
こと三〇余年へ弟の該は慶暦六年の進士で安石とは詩を応酬する友
葉はいつから使用され、五人を一括りにして慶暦・皇祐年間の明州
したいことは、それでは﹁慶暦五先生﹂、或いは﹁五先生﹂という言
はあったであろう0配州寧九年へ特恩で将仕郎の官を与えられ州長史
を﹁極盛﹂として考えるようになったのかということである。
当然、本人も安石との交流
に補せられたが'相変わらず﹁無田以食へ無桑麻以衣、恰然自得﹂
これまで﹃学案﹄の記述をもとに五先生について紹介してきたが'
人であり、説は弟と盛名を等し-した。
の生活を送り没した。 ﹃学案﹄の銀青とは'没後へ銀青光禄大夫賜金
﹃学案﹄は'いずれも﹃四明文献集﹄を参照したと註記している。
ージと同じく'五先生についても宋末元初の王癒麟が措いた像を現
明叢書)に収載されている。 従って、前節の王安石﹁輿学﹂のイメ
が同様に逸文を収集・編纂した﹃深寧先生文小妙技僚編﹄1巻(四
逸文を収集したものであ-'五先生の伝については道光年間に葉熊
の書は、既に散逸した王鷹麟﹃深寧集﹄一〇〇巻へ﹃制詰﹄四五巻の
魚袋を追贈されへ神宗から親筆の勅額を賜った桃源書院が王説の隠
居教授の治に建てられたことに依る(﹃明1統志﹄四六書院)o全祖
望の頃まで、この﹁桃源書院﹂の勅額は伝存し、都県への勅額賜与
の最初であると記文に記している(﹃鰭崎亭外集﹄二二宋神宗桃源
書院御筆記)0
王梓材が言うように、五先生の中では異例の厚遇であ
る。
王説へ該兄弟の子孫からは'以後、多数の進士合格者が出て、
は合わない。やはりここでも厚遇には王安石の存在があると考える
の分量を割いて叙述されていることはともか-、王致については独
この五先生の語は'更
べきであろう。なお﹃学案﹄は﹁郵江先生之従子﹂とするが、説へ
立の項目が立てられていない。
代のわれわれも共有していることになろう。
該兄弟を王敦の坊とする記事は、先の安石撰に仮託された﹁鄭江墓
所師へ至今郡庫以輿楊公適、杜公醇へ楼公郁並両'謂之五先生。
四明の望族としての地位を確立して行-ことに関連すると推測され
誌﹂にみえるだけでありへその真偽については後考を待つ。
四三
但しそこでは、南宋晩期、
郡県知事王安石と明州士人社会
更に﹃図経﹄になると巻
といわれるのみで、州学に五人が配られ五先生と呼ばれていたこと
を言うが'王致本人ついての説明はない。
三の奉化県の人物に楼郁の説明が、巻五慈渓県の逸民の項に楊適が
やや詳細に掲載されるだけで、他の三人についての記述はみられな
い。
従って乾道年間にはまだ五先生の概念は無いか、在ったにして
も特に強調されるわけではなかったといえよう(但し現存﹃図経﹄
結局'今のところ初見は、﹃図経﹄より少し
には欠落部分がある)。
時代の下がる'嘉走六年(二一二二)没の楼鎗﹃攻娩集﹄五一息斎
春秋集註序の﹁慶暦皇祐間、杜へ場、二王及我高祖正議(那)へ号五
先生、倶以文学行誼表率干郷'-﹂であ-、ここに慶暦・皇祐年間
に五先生と号したとあ-、また楼鈴は、既に述べた八五高祖先生事
略にも四明五先生の語を使用している。
管見の限りへ文献上へ明州
北宋仁宗朝の慶暦年
末元初の王療麟によって言説は定型化され、ここでは触れられなか
ったが蓑棉撰﹃延祐﹄がそれを定着させたということができる。
州慶元府士人社会の発展は、自らの来歴の物語を必要としたのであ
る。
全祖望は﹁慶暦五先生書院記﹂において﹁五先生の著述、今に
伝わらず。故に其の微言も亦た開-﹂と、正直にかれらの思想内容
は分からないとしている。 しかし'だからといって慶暦年間の明州
しかし明州は'州学
士人社会の歴史像は後世の想像の産物にしか過ぎないということで
はない。
仁宗朝へ中央政府は地方学の設置を進めた。
明
五先生とは、
同時に正式の学官も置か
在籍学生二百人以上という条件を充たさなかったために県学が設置
できず'規定に従い孔子廟を県学とした。
れず、これも規定に従い在地士人が教師に招かれた。
こうした国制の枠組みと時代の状況の・なかで出現した在地士人層の
典型である。しかも安石が先の﹃慈渓県学記﹄で﹁杜君は越の隠君
の慶暦五先生という表記はこれ以上遡らない。
間、明州地域社会に五人の学識・徳行あ-と評価された士人が存在
子﹂といい、全祖望が﹁五先生へ骨隠約草産、不求聞達﹂﹂(前掲
慶暦年間の明州士人社会は未だその揺藍期
明州都県に赴任した若き王安石は'やがて国政を担い中国史の流
三 王安石の残像
であった。
渡期の存在ともいえる。
﹁書院記﹂)と的確に表現したように、かれらは隠士から士人への過
しかしかれらの存在をどのように認識する
したことは事実である。
ここでは、かれらが明州士人層社会の先賢と
か'あるいはどのようなイメージで捉えたかは必ずしもいつの時期
も同じとはいえない。
して評価されへそのイメージが明確になって行-時期は'南宋半ば
を過ぎてからであるtとひとまず考えておく。
南宋の寧宗朝以降、明州慶元府の進士合格者が激増した背景にへ
この地域の士人社会の発展を想定することは常識といってよいであ
ろう0
そして時期を同じ-して慶暦五先生という言説が出現し、宋
く﹃続志﹄侠文に﹁王安石、嘗て県令為-0
邑人へ其の政を思いへ
れの方向を左右するほどの大改革を実施した人物である。
其の燕休の所に即きて此の闇を作る﹂とあるように、経絡闇は安石
それだけ
でなくへ青苗法を始め新法の多くが都県時代の施策から構想された
とすれば﹃賓慶﹄
﹁重建経論閣記﹂は次のよ
こ
北宋滅亡、中興
中央では新法派に代わって新法否
定の旧法党が政権を握っていたときの建設である。
てた安石耐堂が経輪閥であった。
ともかくへ都県の人士が県令王安石の政治を讃えてへその没後に建
の﹁下に﹂は'二階建ての経論闇のl階にという意味であろうか。
両り'名づけて経絡閥と日う﹂と明記されている。
り'そこには元祐中へ県令が﹁重屋を為り、公の像を肖-て之れを
ときに徐度が撰した﹁重建経論閣記﹂(﹃図経﹄九)に拠る記述であ
両堂を収める建物であった。 これは紹興二十五年、王煙が重建した
その
恰もその揺藍期に刷込まれ
といわれる。地域の人々はその知事の施策を評価し'経論閥や贋利
寺、崇法寺に両を立てて安石を耽った.
たように、明州士人社会では安石への高い評価が南宋末に至るまで
続-。
また四明方志の新法党系人士の叙述についても考えるべきこ
とがある。次にこれについてふれてみたい。
﹃図経﹄二嗣廟附詞堂には、安石詞堂を二か所挙げている。
一つは嘉祐六年二六〇l)に知州銭公輔が立てへ胡宗愈が記の撰
文をした廉利寺の生詞であり'安石の行跡を慕う郷人の願いに応え
後の建炎四年も金軍は両前深-侵入Lへ明州も甚大な戦火を蒙った。
その経緯は﹃賓慶﹄
たという。問題は、もう一つの経輪閥である。
四五
その再建が'
その後も、
一時的な廃止や再建を繰り返しながら安石を配る経絡閥は存続し続
実際は民間からの発意と経費の拠出であることを述べる。
ら出し、公費は一銭も使わず七〇日で竣工した、と。
閣再建のときであるとして再建の許
賓可
慶を求めへ一切の費用は民間か
安石の﹁諸孫﹂が県令として赴任してきたこの機会は'まさに経輪
を指しては安石に思いを致し'文公の徳は忘れたことが無いという。
猶おはっきりと分別できへ県民は常にその治世を語り継ぎへその蹟
うに記す。安石の時代から一百九年も経つのに安石﹁興達の蹟﹂は
の王煙は安石の弟王安国の曾孫にあたる。
新たに赴任してきた県令王樺によってへ翌年、闇は再建された。
その後二〇年を経た紹興二十四年へ
そのときに経論闇も焼失した。
元祐中、邑に宰たる者へ前事の王安石へ
一二都県志一公字の記述が詳し-'そこには次のように記される。
旧へ聴事の西偏に在-0
建炎四年、兵に殿か
乾道四年、令揚布へ王荊公洞を閥の上に移す。
紹興二十五年も令王樺へ重建し、左朝散郎主管台州崇通観
相位に登るを以って詞を閥の下に建立す。
る。
維揚の徐度記す。
閥の旧扇存せず。
嘉定十七年、令張公弼'又
淳勲四年、令挑操、宅堂の北に徒し建
紹配州五年、令呉泰初、重建す.
後、閣とともに廃さる。
つ。
た荊公洞を重建し、関北の西偏に移す0
(4)
三年、令辞師武、立つ。
﹃乾隆都県志﹄が引
この記述に依ると、王安石が宰相に就いたため、元祐年間の都県知
事がその両堂を経絡閥の下に立てたことになる。
都県知事王安石と明州士人社会
淳配⋮四年の再建時
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経論闇図
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けたのである。 因みに宋版﹃(賓慶)四明志﹄に掲載する都県県治図
には'庁堂の北側に重層の経絡閥がみえている。
の位置を継承し、l番奥まったところとはいえ、諸庁舎を従えるよ
ぅな配置であるO宋丁代、明州独自の'中央政府とは異なる王安石
評価の歴史を象徴していると言えるであろう。
1方、当然のことながら、明州出身の官僚たちの政治的立場はl
様ではない.南宋になると、秦槍、韓催胃、史璽退らいわゆる専権
宰相との距離の敬-方が'本人のみならず一族・姻戚内での確執を
ea:
生みだすことにもな-深刻な問題となるが、北宋の場合は明州出身
の高位の中央官が少ないこともあ戦中央政界の党争が明州地域社
会に直接の影響を与えることは南宋ほどではないようにみえる。
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欄
暦五先生﹂の7人、楼郁に受業した同学で共に中央の高官となった
稜は,
m m^
厚
. - I-
豊穣と壁且の二人は'政治的には互いに逆の立場に在った。
unnnrm nnn.innim
I
I
I
元豊三年に監察御史裏行となると王安穏の不法を弾劾し続けて神宗
にたしなめられたりへ最後は御史中丞として、即位した徽宗に司馬
光へ呂公著を弁護、﹃神宗実録﹄を編纂した章博を﹃安石日録﹄を使
用し、宣仁太后を藤岡したとして非難、ついには墾只・下兄弟を弾
I
劾したが、その後、相位に就いた墾只によって定窺された。
反新法
(6)
の立場を貰いたといえよう。 それに対し壁且は、後述のように反新
法官僚に苛酷な弾圧を加えた張本人である。
しかし両人は,故郷明
(7)
州に在っては、亘の別荘で詩を応酬する伸であったという。
壁畳という名前で筆者が直ちに思い浮かべる事件は、宋代の﹁文
田Ⅰ皿u m
l
t
字の獄﹂として有名な烏董詩案である。
元豊二年へ野亘は蘇拭を死
罪に追い込むべ-彼の詩が天子を侮辱し朝政を誹誘しているとして
(oo)
﹁大不恭罪(大不敬罪)﹂の刑名を挙げて激し-弾劾した。
当時の肩
書は'監察御史裏行。 こうして野亘は'中国史上へ現在に至るまで
多くの人々から敬愛され続ける東牧を刑死させようとした凶暴な敵
省が法律通り奏紗の目録を作成していないという自らの弾劾、調査
のなかで、当の御史台も目録を作成していないとの指摘を受けへそ
れを糊塗する工作をしたり、或いは自分が直学士院のときに規定以
亘の相次ぐ起獄に戦々就々とし
上の厨銭(蝋燭代)を受けたことを逆に弾劾されへ神宗自らの言葉
で二宮降格・勤停の処分を受けた。
という。
その後十数年にして復帰へ知南康軍(そして知荊南府荊湖
ていた士大夫は、その微罪による重罰に遠近を問わず快哉を叫んだ
で弾劾する側であった御史中丞李定、監察御史裏行何正臣などと同
上がおおよその内容であるが'静亘を肯定的に評価する部分は仝
事実、彼の本伝は、鳥董詩案
じ﹃宋史﹄三二九に収められへその記述は彼の酷薄さを証明する事
'3-(
例で埋まっている。
その数例を挙げれば(括弧内は他史料からの補
ない.
最初の配州河路での括田に成績を挙げたことは、そもそも勲河
役としてイメージされるようになる。
足)、新法を批判して流された鄭侠を再び逮捕尋問することを命じら
路経略が間違いであったという評価であるLt最後の﹁関連の功を
況や張商英の件も厨銭や尚書省の奏
逆に学士院での辞令
の執筆が両漠の風あ-と賞賛され、御史中丞として御史に相応しい
抄録目、更には降格勤停の処分にも触れない。
烏童話案に関する叙述も無い。
これに対し、﹃図経﹄五慈渓県人物の壁旦伝は、﹃宋史﹄と同じ
(3)
人物とは思えないほど様相を異にする。
ここには大学の獄の記述も
という一句があることで'むしろ否定的意味合いを喚起させる。
北路鈴轄)として辰・渓蛮の反乱鎮圧に従事Lt陣中で没した。
れた萱はへその持ち物から新法を批判する人名を載せた草稿を見つ
以って直龍圏閣由り待制に進む﹂にしてもへその前に秦京がしたt
元豊の大学の獄は、もともと
け出して写し取-、侠を嶺南に窺するとともに鳩京や王安国らもこ
とごとく処罰を受ける羽目になった。
落第学生の(逆恨みの)告発で始まった些細な収賄案件であったが、
亘は墳末な事まで罪状としも多-の者を連座させて一大疑獄事件に
J;・・.
I烏
,喜寿案では拭のみならず、(その詩を所持した
仕立て功績とした。
-唱和したとして)司馬光へ張方平へ花鏡など多-の高官の厳罰を
嘗て自分を引き立ててく
人物十人の推薦がことごと-適材であったとして﹁人を知る﹂と称
要求し'神宗から行き過ぎを各められた。
れた中書検正官張商英が息子(或いは女婿)について依頼してきた
us
そもそも両伝が共通して採録する冒頭の逸話(両伝で多少の相違
になっている。
されたことを記す。 最後の﹁関連の功﹂にしても評価したのは徴宗
しかし尚書
こうして順調に官職を上げへ(読)給事中から権
と暴露、中書の官にもかかわらず自分に請託をしたとして弾劾し職
から追い落とした。
直学士院、御史中丞になると更に弾劾に磨きをかけた0
都県知事王安石と明州士人社会
以
がある)が'両者では仝-別の文脈で語られる。
すなわち壁里が科
挙合格後、最初に赴任した台州臨海県の県尉として'酒の勢いで継
母を罵倒した(叔父の妻を逐う)人物を'服さないとみるや直ちに
手づから首を別ね、自らを弾劾する状を認めて即刻辞職し(﹃図経﹄
では県尉庁の壁に一首を残す)へこれを丞相王安石が見所があるとし
て中央の審官西院主簿に登用した、という出来事である。
四八
述は'これが単なる列伝ではな-'﹁巨星墜つ﹂の偉人伝であること
を示したいかのようである。
﹃図経﹄が収録する詩文のなかで'安石と壁畳の作品は群を抜いて
それに比べ
多い。
壁里という人物を通してみる﹃図経﹄は、﹃宋元四明六志﹄の
なかでもかなり特異な位置にあるといえるであろう。
﹃賓慶﹄八の壁旦伝は、太学の獄には触れないものの、それ以外は
﹃図経﹄と﹃宋史﹄の両者の記事を併せた内容となっていて分量も三
﹃宋史﹄は、
その前に萱は省試を第一で合格したことを挙げへ優秀な文官として
伝の中では最も多い。
ができるのであろうか。
また彼の多くの詩文の収
それでは我々は﹃図経﹄、
結論を出す前に、もう一つ検討しなければならない問題が残され
ている。
それは三伝の史料来源をもう少し細かく検討することであ
る以
。下は推測に過ぎないが'一つの可能性として考えたい。
前節
﹃賓慶﹄を経て﹃宋史﹄にいた.る壁呈像の変遷から何を読み取ること
明州における壁旦像と理解してよいだろう。
観図経﹄から﹃乾通園経﹄まで変わっておらず、これが南宋前半の
録箇所は乾道年間の増添部分にかかるから、壁里の高い評価は﹃大
のような記述であることは当然であろう。
中央政府の指示で編纂された地方志を再録した﹃図経﹄壁旦伝がそ
た﹁大観九城図志局﹂の命で編纂された従事郎李茂誠等撰﹃大観
(12)
(明州)図経﹄を踏襲しているという。
とすれば察京時代の、しかも
た構図になる。
さらに﹃図経﹄は北宋徽宗朝の大観元年に設置され
﹃宋史﹄であり'﹃宋史﹄は﹃賓慶﹄から﹃図経﹄の部分を取-去っ
編纂時期の順から言えば'﹃図経﹄、﹃賓慶﹄も
出発したように見えるが、実は性格凶暴、武断政治を行いへそれが
配遠路経略や晩年の辰渓蛮鎮圧の﹁功績﹂に結びつくしもそうした
性格がその間のさまざまな弾圧事件の根底にあることを示唆する。
さらにこういう人物を登用する王安石と新法の問題点を暗示するの
である。それが﹃図経﹄になると'壁畳は幼少のころから文才を発
揮した偉丈夫であり'特に声律・程文に長じ太学での詞翰は天下一
亘は文筆に優れ博学強記であ
そうした暴力的な未開の風俗を是正するため県尉
と称されたとした上で、臨海県は山と海に挟まれ、慣惇盗奪を俗と
する僻地である。
として行った行為が先の逸話である。
それ故、配州河路で
るが文弱の秀才ではなく果断な決断力と行動力を兼ね備えた文官
であり、その措置を安石は評価したことになる。
は西夏との国境問題が起きたときへ王詔の消極論を抑えへ単騎敵地
それにしても﹃図経﹄
に乗-込んで成果を挙げたのであ-、晩年の辰渓蛮鎮圧の功もその
性格に帰せられる、と言うかのようである。
の最後に'壁里が陣穀する前、洪江の西に大限石が落ちたという記
で検討した﹁慶暦五先生﹂と異なり、静亘は中央政府の高官を経歴
一般的に言えば'行状は実録
し、﹃宋史﹄に伝が立てられたことからも、没後﹁行状﹂が作成され、
それは史館に送られたと考えられる。
李寮は'実録、正史以外に多-の書・史料を参照したと述べる﹃長
編﹄の神宗から徽宗朝部分を淳撃光年に完成・上里Lへまた﹁四朝
正史(国史)﹂編纂にも従事したがへその完成を待たず淳配芋l年に
没している。﹃長編﹄の壁旦関係記事が、編纂途中の実録や正史の静
亘は崇寧二年(二〇
の付伝へ正史の列伝の基になる史料である。
考えるのがやはり最も無理がなさそうである。
明州での壁畳のイメ
原史料が国史院に在ったことは確かで'先述の国史を利用した、と
しかし﹃賓慶﹄の記事の
亘伝と同じものかどうかは確定できない。
また﹁徽宗実録﹂は'
三)の没であ-、もし行状が作成されていれば'時間的に﹃大観図
経﹄がそれを参照することは可能であった。
紹興十一年に元符三年から大観四年までの六〇巻が一旦進呈されて
配州﹁徽宗実録﹂に基づ-﹁四朝国史﹂静亘伝を利用したと考えても
﹃図経﹄に比べ分量も増やした﹃賓慶﹄の壁旦伝は'再編纂された淳
の編纂主任は当初が府学教授方万里、その転出に伴い新任の羅湊が
2)
主宰し一五〇日間で完成させた。
この短期間での編纂を考えると、
は可能であった。﹃賓慶﹄編纂の発議は明州慶元府知事の胡集、実際
る.
従って﹃賓慶﹄編纂者が﹁国史﹂静亘伝を見ることは時間的に
は'淳配州十三午(二八六)であり'﹃賓慶﹄編纂の約四〇年前にな
にようやくできあがっているので、﹃図経﹄編纂者が﹁実録﹂を見た
∴︰H1
可能性はない。一方へ徽宗朝を含む﹁四朝国史﹂の列伝部分の完成
ず'その後へ六〇巻の進呈分も新たに再編纂されて孝宗の淳照四年
堂々たる大伝を作っているのに、高閲伝に、楊時から(伊洛の)学
は詑謬が多い。 元豊の静豆、中興の王次翁には(その必要がない)
志を校勘した清の徐時棟は、仝阻望の﹃賓慶・開慶﹄政文の﹁﹃賓慶﹄
で中央との関係における明州士人社会の個性であった。
の評価の形成と変遷をみてきた。
以上も駆け足で明州における王安石へ﹁慶暦五先生﹂、壁旦各三棟
あろう。
いた。
凶暴な姦人のイメージは'元の﹃宋史﹄列伝で定着するので
あった。南宋末になると否定的な側面も加わ-イメージは変化する
ージは、北宋から南宋半ばまでは文武に長けた偉人としてのそれで
それ程無理はないように思える。
を受けたことや秦櫓の縁組申し出を断った(重要な)ことが書かれ
いるが'大変疎略であるとして修訂を命じられ'それは結局完成せ
﹃図経﹄へ﹃賓慶﹄へ﹃宋史﹄各記事を'それぞれ独自の箇所'どれか
ていないのはどうしてであろう。 僅か百五(十)日で作り上げたと
S)
いうのは尤もなことだ﹂との論評を引用している。
確かにその通り
四九
宋元四明六
社会の独自性を際立たせる側面をもちへその独自怪は何らかの意味
それらはいずれも明州という地域
が'何れにしてもそれは基底において中央史館の描-像と連動して
二つに共通する箇所も三つすべてが記す箇所に分けると'﹃賓慶﹄独
2)
自の記事の多-が﹃長編﹄の壁旦関連記事と共通することが分かる.
都県知事王安石と明州士人社会
である。しかし通学が体制正統教学となった後世の眼からではなく、
南宋後半に生きる者の眼を通せば、明州の現実がこのように見えて
いたとも言える訳で、安石へ五先生、萱草二様の評価の変遷はその
意味でも検討に値するであろう。
最後にもう一度王安石に立ち返って小論を終わりたい。
おわりに
安石自身にとり、その私生活においても都県時代は特別であった。
曽葦に依頼した亡き父の墓誌銘の原稿である﹁先大夫述﹂を執筆'
埋葬したことはその一つである。 また、安石撰の墓誌銘のなかで最
慶暦七年四月壬戊前日出
も短-最も印象深い﹁鄭女墓誌﹂がもう一つのできごとを伝える。
噴。
壬午日出葬崇法院之西北。
鄭女者、知都県事臨川王某之女子也。
而生も明年六月辛巳後日人死。
生恵異甚'吾固疑其成之難也。
解 説 す る 必 要 は な い で あ ろ う 。銘 文 は な い 。
坤きである。
さらに安石はへこの娘に詩一編を残している。
五〇
年譜﹂は三十歳ということからか皇祐二年に繋年し、. 顧棟高﹁王荊
国文公年譜遣事﹂は郵女卒の慶暦八年に繋年する。 最も詳しい察上
期﹁王荊公年譜考略﹂は墓誌も詩も載せない。 私は'安石の郵県知
事の任が終わ戦いよいよ明州を離れる皇祐元年の作であろうと考
明州の人々は、
えている。
開封へ向うために西行する安石は、恐らく二度と来るこ
とのない崇法院の娘の墓に別れを告げたのである。
永-﹁郵女墓誌﹂と﹁別鄭女﹂詩を記憶し続けた(仝阻望﹁題王半
山鄭女志﹂﹃館崎亭外集﹄巻三五)0
宋代明州士人社会にとっても'王安石にとっても慶暦年間は、特
別の時期であった。
注
(1)筆者は'明州慶元府について﹁南宋地域社会の科挙と儒学-明州慶元
府の場合-﹂(土田健次郎編﹃近世儒学研究の方法と課題﹄所載汲古書
院 二 〇 〇 六 年 二 月 ) を吾
'女
明州と比較しながら湖州の場合について﹁宋末
( ﹃元
文初
集潮
﹄州
巻呉
一興
〇の
〇士
)人 社 会 ﹂ ( 刊 行 全 編 ﹃ 福 井 重 雅 先 生 古 稀 ・ 退 職 記 念 論
集古代東アジアの社会と文化﹄所載汲古書院二〇〇七年三月)を発
表父
し親
ての
い胸
る底
。か ら の
若い
(2)黄寛重﹃宋代的家族輿社会(東大図書公司二〇〇六年六月)0
( 4 ) 書 、 在 聴 事 之 西元
偏祐
。中 へ 宰 邑 者 以 前 宰 王 安 石 登 相 位 而 建 立 嗣 子 開 之
( 3 ) ﹃ 宋 会 要 ﹄ 選 挙 三 二 三周
。愚 文 ﹃ 宋 代 的 州 県 学 ﹂ 一 九 九 六 年 を 参 照 。
蒲眼憂傷只自攻。
下。 建炎四年、教子兵。
紹輿二十五年へ王燈重建'左朝散郎主管台州崇
通観維揚徐度記。 乾道四年へ令揚布移王荊公欄干閣之上。
後輿閣倶慶。
別鄭女
行年三十巳衰翁。
死生従此各西東。
年 へ 令 張 公 弼 又 重 建 荊 公 嗣 移 於 閣 北 之 西 偏 。閣 之 葦 属 不 存 。
淳配州四年、令眺操徒建干宅堂之北o紹無五年へ令英泰初重建
嘉。
定十七
今夜扇舟来訣汝。
版本によって字句の異同が多少ある。 これは李壁毒註'劉辰翁評点
本に拠り、その評には﹁惨絶﹂とある。 この詩を'虐大和﹁王荊公
賓
(5)注(2)黄氏前掲書。
(2)﹃図経﹄乾道五年黄鼎序によれば'制置直閣張公(張津)が僚属に委
首、以令投撤而去.
才。 -﹂
萱有詩題尉療壁云、1鋒不断姦兇首へ千古蔦知将相
(6)﹃延祐﹄四人物故上豊穣﹁元豊三年安惇薦為監察御史裏行。
王安種目
帝師武立。
潤州召知制詰O安藤在潤飲rV約家為姦利事へ稜力攻之へ不報。 復運輸林
増補したものである)
願負山(顔)
銘先生誕辰百周年国際学術研討会﹂での報告﹁王安石在明州﹂を大幅に改編
研究成果の一部であ-'二〇〇七年三月に北京大学で開催された﹁紀念郵贋
(本稿は文部科学省科学研究費補助金二〇〇七年度特定領域研究﹁東アジ
ア海域交流﹂科挙珪﹁中国科挙制度からみた明州士人社会の形成と展開﹂の
所謂願堂者也o﹂
(5)﹁宋元四明六志﹂校勘記五官豆慶四明志。
﹃長編﹄では欠落している。
れた審官酉院主簿に着任したのが丁優後であったことへ配州河路での活動
を評価したのは鄭民憲であったことなどtである。
なお徴宗朝は現行
(﹂)紙数の関係で﹃賓慶﹂壁呈伝は引用できないが'安石によって抜擢さ
(3)﹃賓慶﹄羅溶序序
。文作成時の肩書は、従政郎新車州録事参軍。
逐入い
疏て
論﹂
章(
惇﹃
誕東
岡洋
宣史
仁研
太究
后﹄
へ三八-三一九七九)を参照。
O)北宋末皇帝の実録編纂過程は'近藤1成﹁南宋初期の王安石評価につ
うに巻五の慈渓県に収録されているので'旧録の記事の可能性が高い。
ねて編纂、散逸していた旧録(大観図経)を得、増添して七巻としへ更
に篇什碑記など五巻を追加へ十二巻にしたという。 重畳伝は'前注のよ
上目改先帝法号
徽宗即位、召為諌議大夫o遷御
撃士へ理数上疏神宗論之0日、安藤事誠有之o朕以其兄安石姑全容之.
安種入政府、穫出為利州路提鮎刑獄。
上目送之.
史中丞'首疏言司馬光・呂公著骨賢直へ不宜以罪難定。
待無罪O横目法有不便誠首改。
察京・下兄弟植薫巳久、著大用必誤囲。
合曾布入相へ稜格論之、首罷稜工部尚書兼侍護へ改磯部尚
神宗賓鈷悉以王安石日録乱去取。
由是皆坐敗。
書0
-﹂。
察京入相、追定司馬光立薫碑へ稜定海州園練副使道州別駕安置台州
除名徒建州。
及入朝(豊)穫嘗薦之。
(7)﹃宋元四明六志校勘記﹄五は﹃延祐﹄の侠文として﹃乾隆都県志﹄一八
から﹁(辞)重初輿豊穣へ周鍔同学於模郡。
有園在西潮へ蹄里輿横へ鍔侶酬。 陳堪、晃詮之成輿蔦。
という文を引いている。 現行﹃延祐﹄本は辞夏伝が欠落している。
(8)近藤l成﹁東吸の犯罪I﹃鳥董詩案﹄の基礎的考察I﹂(﹃東方学会創
立五十周年記念東方学論集﹄所載1九九七)o
(9)﹃宋史﹄三二九列伝八八﹁辞書字信道、明州慈漢人o試磯部第一、調
臨海尉。
民便酒苦逐後母へ至豆前、命執之へ不服、即日起斬之'投劾去。
m
(S)大学の獄についての詳細は'近藤一成﹁王安石の科挙改革をめぐって﹂
(﹃東洋史研究﹄四六-三一九八七)を参照。
(3)﹃図経﹄五慈渓県人物﹁壁呈、字信道、願人也。
生而寓異'魁梧特達。
授台州臨海願尉。
有舜琴歌南風賦捨
老師宿儒知共有遠識'博学強記、為文不立
尤長於聾律・程文、太撃詞輪へ秀優為天下第l。
垂暫時為四培額'言偉志大。
藁。
象人口、流輩服之。
有便酒逐其叔之妻重量前者へ命執之不服即斬其
登治平二年進士第。
海へ其民慣惇盗奪成俗。
都県知事王安石と明州士人社会