毘沙クゼ古窯址群 1971/常滑市教育委員会

常
滑
市
南 釜 谷 古 窯 址
ゲ
上
遺
跡
常滑市文化財調査報告 第 2集
1971
常 滑 市 教 育 委 員 会
常
滑
市
毘 沙 ク ゼ 古 窯 th群
南 釜 谷 古 窯 址
ゲ
遺
跡
上
常滑市文化財調査報告 第 2集
1971
常 滑 市 教 育 委 員 会
知多半 島 の丘 陵 には、総数 3,000基 をか ぞえ る平安 時代末葉 か ら鎌 倉 。室町時代 にいた る古窯 が
存在 し、 その規模 は 日本 最大 といわれてい る。 それ らの吉窯址群 の 中心が常滑 市域 であ り、「 トコ
ナメ」 とい う名 は知 多半 島 の吉窯址群 や、 その古窯製品 の代名詞 と もされ てい る。
ところが この ごろにな り、宅地造成、農地改良 な ど都 市化 の波 は容赦 な くお しよせ、古窯址 の破
ヒ
壊 され る もの数 しれず、伝統産業 を尊重 して発展 の道 をすす もうとす る当市 の方 策 や、私 ど も文イ
財行政 を担 当す る ものに とつ て、 まことに遺 憾 とす るところであ る。
ヒ財 保護審議会 を設置 してか ら、 学術調査 を実施 した昆沙 クゼ吉窯 址や
本報告書 には、 当市 が文 イ
ヒ遺産 を
南釜谷古窯 址 を中心 とした発掘事業 の報告 を所収す ることに したが、 当市 の誇 りとす る文 イ
正 し く把握 し、成 果 を後世 にの こす意 図 にはか な らな い。学術研究 や文化財 の保護 に役立 てていた
だ けれ ば幸 いで あ り、諸賢 の ご批正 をねが いたい ところで あ る。
本 書 の刊行 にあた り、 発掘 に ご協力 いただいた各位 をは じめ、研究 の結果 を提供 していただいた
執筆者諸氏 に対 し深 く謝 意 を表す る もので あ る。
昭 和 46年
4月 10日
常滑市教育委員会
教育長
竹
内
七
郎
1。
口
一一
例
この報告書 は、 昭和 45年 8月 7日 か ら一週 間 にわた り、 常滑市教育委員会 の事業 として学術調
査 を実施 した昆 沙 クゼ第一 。第 二 号窯 の調査報告書 で あ る。
2.知 多半 島 の丘 陵 は、近時宅地造成 な どの土 木 工 事 をは じめ として、地 形 の変貌が い ち じ る し
い。常滑市 もその例 をまぬが れ な い。位 置 や遺 存 状態 な どか ら格 好 の条件 をそな えた古窯 として
調査 した もので あ る。
3.調 査 の結果 は、 毘沙 クゼ第 一 号窯 が 鎌倉時代 中葉、第 二 号窯が鎌倉時代後葉 、 い ずれ も大形奏
を生 産 した もので、 中世苗窯 として は屈指 の規模 をそな えていた。
4.な お本書 には、 昭和 44年 3月 、常滑 市 に文化財保 護審 議会が設置 され た最初 の事業 として発掘
調査 した南釜谷古窯址 の報 告 を掲載 した。南釜谷古窯址 は類 の希れ な古瀬戸系統 の窯 で、窯 構造
もす でに連房式登 り窯 とな り、常滑窯業史 の上 で一 時期 を画 した ものであ る。
5。
さらに鬼 崎北 小学校 の屋 内運動場建設 に と もな い、製塩遺跡 として知 られて いた上 ゲ遺跡 を調
査 したので、 その報 告 を併戴 した。調 査 の時す で に原地形が失 われてお り、製塩炉 址 を検 出 で き
なか つ た。東海地方 の苗代製塩遺跡 として、遺跡 の 性格 を紹 介 す るに とどめた。
6.本 報告書 の刊行 にあた り、 当市文化財 保護審議 会長 の八 木 虎雄氏 か ら題字 を うけた。
本文 の原稿執筆 につ いて は第 二 章 昆沙 クゼ第一 号窯 を磯 部幸男氏、第 四章 毘沙 クゼ第 二 号窯 を
立松宏 。大 下武 の 両氏 にそれ ぞれ分担 を うけた。他 はす べ て 当市 の文化財保護審議会委 員杉崎章
氏 の担 当 であ る。
常 滑 市 教 育 委 員 会
目
次
1
第 四 章
窯 構 造
2.出 土 遺 物
3.小
結
│二
ゼ
ク
毘沙
第 号窯 …… …………………… ……… ……………………・ 16
4
第 二 章
毘沙 クゼ古 窯址群の位置 と地形・ 地質
遺跡 の沿草 と調査の経過 …………………………・T… ………………
1,遺 跡 の 沿 草
2.調 査 の 経 過
昆沙 クゼ第 一 号窯 ・`… … …………・… ……………… ……… …………
第 一 章
第 二 章
8
1・
1.窯
構
造
2.出 土 遺 物
3,小
第 五 章
総
結
括
1.窯
構
・
・… i・ … … .25
'… … … …… ………… ……………… … … …・
造
_
2.出 土 遺 物
付載 第 一
3.奏 の制 作 ―一 経 づ くリーー
南釜谷 首 窯址 ・… ………・………… …… ・………………… … ………・ 32
1.調 査 の経過
:・
2.窯
構
造
3.出 土 遺 物
4.後
記
付載第二
・
・●
・
・
・
・…・
…… Ⅲ
・… ・
・
・
・。
・… Ⅲ
・
・
上 ゲ 遺 跡 ……
……Ⅲ
・
…… …
・… 41
…・
…・
ゲ
1.上 遺 跡 と知 多半島 の製塩遺跡
2.吉 代海浜集落 の構造
3。
4。
上 ゲ遺跡 の調 査概要
東海地 方 の製塩土 器 の変 蓬
挿
図
目
次
一二 三 四 五 六 七 八 九 十
十 十 十 十 十 十 十 十 十
第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第
昆 沙 クゼ 古 窯址 な ら びに 南 釜谷 古 窯 址付 近 の地 図 ・…… … … … …… …
毘沙 クゼ 第 一 。第 二 号 窯付 近 の地 形 図 ・… …… …… … … …… … … … …
2
4
9
毘沙 クゼ 第 一号 窯 の 窯構造 ・… ………… ……… … …… … …… …… ……
毘沙 クゼ 第 一 号 窯 の 出土遺 物 (1)… … … …… …… …・… …… …… … … 11
毘沙 クゼ 第 一 号 窯 の 出 土 遺 物 (2)・ … ……… …… … … …… …… …… … 12
… … …… …・…… … … … 13
昆沙 クゼ 第 一号 窯 の 出土遺 物 (3)・ … … … … Ⅲ
毘沙 クゼ 第 二 号 窯 の 窯 構造 ・… … … ……… … … … …… …… …… … …… 17
… … … …… … … …… … … 19
毘沙 クゼ 第 二 号 窯 の 出土 遺物 (1)中 … … … Ⅲ
昆沙 クゼ 第 二 号 窯 の 出土遺 物 (2)… … …… … … … …… …… …… …… 20
昆沙 クゼ 第 二 号 窯 の 出土遺 物 (3)… … … ,… …… … … … …… … …… … 21
… … … …… … … … … … …… … … 22
毘沙 クゼ 第 二 号 窯 の 出土遺 物 (4)… Ⅲ
大甕 の 窯詰 と焼 台 の 使用 例 ・… … …… … …… …… … ……… … …… …… 26
常滑 窯 製 品 の編 年 …… … …… ……… … …… … …… … … … …… … …… 。27
・
・…… 30
… … …… …… 千
毘沙 クゼ 古窯址 群 にみ られ る押 印文様 ・……・… Ⅲ
四
七
… … … … … …… … …… …… …… … … 33
南 釜谷 古窯址 の窯 構造 …… … … Ⅲ
南 釜谷 古 窯址 の 出土遺 物 ……… …… …… …… … … … … … … … ………・ 35
窯 道 具 ―一 巨 鉢 一― ・…… … …… … …… … … … … …… …… … … 36
八
窯道 具 のい ろい る
九
東海 地方 製 塩 土器 の変 遷
五
六
一
一
一一
一
一
表
第 第 第
付
焼成室内に設 けられた階段状の段 の幅 と比高およびその地 点の床幅 ……………・ 8
甕 の口径 と縁帯の幅 ……………………………………………………………………。10
焼成室各房の大 きさ ………………………………Ⅲ
…………………………………… 34
図
第 二 昆沙 クゼ 第 一 号窯
第 二 毘沙 クゼ 第 一 号窯
第 四 昆 沙 クゼ 第 二 号窯
第 五 毘沙 クゼ第 二 号 窯
①ω Oω ω⑪ ω⑪ O⑪⑪
第 一 昆 沙 クゼ 第 一 号 窯
第 六 昆 沙 クゼ 第 二 号 窯
第 七 南 釜谷 古窯 址
版
次
毘沙 クゼ第 一号窯の全景
毘沙クゼ第一号窯南側壁 の鍬先痕
焼成室よ り分始柱 をとおして燃焼室 をみる
分烙柱付近の大甕による補修状況
焼成室後部 の階段状遺構
毘沙クゼ第一号窯の出土遺物
毘沙クゼ第二号窯 の全景
燃焼室南側壁付近 にみ られ る支柱穴群
焼成室末端の支柱穴群
同上部 分拡大
焼成室両側壁下端 の甕片貼付状況
昆沙クゼ第二号窯 の出土遺物
(上 )
発掘調査遠景
(下 )
南釜谷古窯址遺構 の側面観
第 八 南 釜谷 古 窯址
(上 )
(下 )
隔壁 にみ られ る狭間穴 と狭間卿
南釜谷古窯址の調査状況
第 九 南 釜谷 古窯址
(上 )
木芯 を示す炭化物
(下 )
南釜谷古窯址遺構 の俯かん
第 十 南 釜谷 古窯址
第 十 一南 釜谷 古 窯址
第 十 二 南 釜谷 古窯址
(上 )
南釜谷古窯址全景
(下 )
煙道部よ り焼成室 をみる
南釜谷古窯址の出土遺物
(1)
南釜谷古窯址の出土遺物
(2)
第 一 章
毘沙 クゼ古窯址群 の位置 と地形・ 地質
このた び発 掘調査 を した民 沙 クゼ古窯址 の地 籍 は 、常滑市 多屋宇昆沙 クゼ50番 地 の 3に 区蓋」され
てお り、地主 は名古屋市 在 住 の二 村久 一 氏 等 で あ る。
遺跡 にい た る現地 の 交 通 としては、名鉄電車常滑線 の 終着駅「 常滑」 よ リー 区手前 の 多屋駅 で下
車 す る。駅 か ら西 へい けば間 もな く伊勢湾 の海 にいた り、新 し く海水浴場 として開 けた多屋海 岸 に
で るのであ るが 、古窯 址 は反 対 の丘 陵側 に あ る。す なわ ち駅 のす ぐ東 を名鉄電車 とほば平行 して走
る国道247号 線 にでて 、約300%も 国道 を北 へ のば ると小 さい四叉路 にで るが 、 ここか ら深 く入 りこ
ん だ 多屋 の谷 へ はい る。 多屋 の谷 は常滑市 の中で も、最近 もつ と も人 口の増加す る地 区の一 つ で、
次か ら次 へ 新 しい住 宅が つ くられて い る。道路 の南側 に新 設 の 常滑市立兄 崎南保育 園 をなが め、 さ
こ 300物 もすす む と、道 の北側 に段崖 のみ られ る丘 陵中腹 に、本書 に もその調査経過 を報告 した
らと
南釜谷古窯址 が あ る。 南釜谷苗窯址 は江戸初期 の連房式登 り窯 で 、常滑 の窯業史 の 中 で一 時期 を画
す る もので あつ た。
多屋駅 か ら 1,000%、 やが て道路 に接 した南側 に陣土 池 と称 して 、 この付近 で は比 較 的 に規模 の
大 きい方 の 溜池 々畔 に達す る。道 を さらに束 へ すす めば、 この ごろ入居 を開始 した夢 知県住宅生協
の 多屋 団地 の北 を とお つ て 、常滑市 の前 山 とい う大 野谷 の奥 へ 通ず るので あ るが 、毘沙 クゼ古窯址
の位 置 は、陣土池 を谷 の入 口 とす る南の支 谷 の谷頭部丘 陵 に あ る。 陣土池 は堤 防 の上が 道 とな り、
支谷 の右側 、す なわ ち西縁 にそつ て 、 ど うにか 軽 四輪車 の 通過 で きる小径が通 じてい るが 、 500%
もの ぼつ た ころ谷頭 の丘 陵下 に愛知用水 の桝形 を した マ ンホールが あ る。 ここか ら苗窯 の現地 へ は
約70%、 東 の丘 陵上 に あ るが 、 もう徒歩 でい くしか ない。
常滑市 多屋地 区 も、 ここまで くると、 まつ た くの 谷頭部 であ り、旧常滑 の1也 区 と も隣 りあつ てい
る。車 を利用す る場 合 は、多屋駅 で下車 す るよ りも、終着駅 の 常滑駅 で下車 した方 が 便利 で あ る。
常滑幼稚 園 の前 を とお り、 国道 の バ イバ ス環状 一 号線 と交 叉 して開通 した新道 を利用すれ ば、 さき
にのべ た愛知用 水 の 桝形 マ ンホールの地点か ら約 100夕 の地 点 に駐車 で きる。 と もあれ愛知 用水 の
マ ンホール地点が 、遺跡 へ 通ず る中 継基地 であ る。
小 さい溜池の 間 を縫 うよ うに して 、林 の 中 の道 を約70物 もい くと丘 陵の 頂上 に到着す る。丘 の上
か ら西 を望見す る と、伊勢湾 の 多屋海岸 が展望で き青 さが 美 しい。 そして少 し南 ヘ ロを うつ す と、
常滑 市庁舎 をは じめ市民病 院 な どの建 物 を、緑 の 青葉 の 間 にの ぞむ ことが で き、 その 間 に伝統産業
の 繁 昌を象徴す るか の よ うに、製 陶工 場 の 林 立 した煙突 が立 つ てい るとい う景観 であ る。遺跡 の丘
の す ぐ東 の丘 は、谷 をへ だてて もう住宅生協 の 多屋 団地 で あ る。
遺跡 の あ る支丘 は、 丘 の上がおお むね平担 をな してお り、 と くに束縁 か ら南縁 にか けて約 10基 の
発 を中心 とした古窯址 が 密集 してい る。今次 の 調査 は禿 山 となつ て い る平 担面 の北側 に窯璧 の一 部
が あ らわれてい る 2基 で あ る。北 の方 か ら毘沙 クゼ第 一 号窯 、 さ らに第 二 号窯 と名 づ けることにし
た。
常滑付近 の地質 は第 二 紀新層 の 鮮新世 に属す る もので あ り、 この地 域 では常滑層群 とい われ 、下
部 は尾 張地方 の尾張 爽炭層 のつづ きで あ り、上部 はお な し く猪 高礫 層 に比定 されて い る。
尾張爽炭 層 は、粘土層 や准 砂層 が互 層 をな し、3∼ 4枚 の亜炭層 をは さんでお り、鬼 崎南保育 園付
近 をは じめ、 国道 バ イバ スの環状 一 号線 か ら毘沙 クゼ古窯 へ くる途 中 の掘割 には、 よ く発 達 した露
頭面 がみ られ る。猪 高礫層 は、 うす く粗質 の 亜炭層 をは さみ 、 この地 域 では丘 陵 の上 部 で、尾張爽
炭 層 の上 をおお つ た形 でみ とめ られてお り、粘土層 や砂層 の ほか に礫 層 が ま じるのが 特 色 であ る。
-1-
一
挿図第一
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おな じ粘土層 で も、尾張爽炭唐の粘土は乾燥す ると粉末状にわれ るが、猪 高礫層の それはかたま
る傾向がある。猪高礫層 は丘陵の上部をおお つている関係 か ら、 この層はとくに侵蝕の 度 が 大 き
い。古代 の終末か ら中世にかけて、知多半島の丘陵に窯が築かれるにあたつては、尾張爽炭層 と猪
高礫膚の整合面が、古窯 をつ くる場所 として好んで利用 された ものである。 こ うした ことが、現在
の古窯遺跡にお いて、窯 の上部すなわち焼成室後部か ら煙道部の構造が、侵蝕によつて流失 してい
る場合の 多い理 由の一つであろう。知 多半島 に分布す る古 窯姓 に、陶器生産の原料 を供給 した もの
もこの粘土層 にはかな く、昆沙 クゼ古窯姓の近 くに も随所に露頭をみせてい る。
常滑市内に多数 み られる吉窯址の中で、毘沙 タゼ古窯址は市庁舎な らびに常滑駅よ り車 を利用す
れば15分 、周 辺に多屋 団地が造成 され るとい う開発 の 中で、なお 自然 の景観 をの こし、製品の種類
も大形の甕を主体 とした窯 であ り、 い うなら調査に も探訪に も格好の条件をそなえた古 窯 址 で あ
る。
-3-
第 二 章
1.遺
遺跡 の沿革 と調査 の経過
跡 の 沿 革
常滑市 の 多屋 の 谷 と、 大野谷 の奥 の前 山 をむす ぶ道 の 左右 には、古 くか ら多 くの古 窯址群 が 知 ら
れ 、多屋 古窯址群 と称 してい る。
これ らの 吉窯址 は、知 多半 島 の 中央部 で常滑市 と半 田市 の境界 とな り、南北 に長 くつづ く丘 陵か
らわかれ て東 西に の びた支丘 の 先端 に近 く位 置 してい ると もい え るが 、常滑 市 内の古 窯 の 中 で は、
海岸 に もつ と も近 い仲 間 であ る。
毘沙 クゼの 支丘 には、斐 を中心 とした古窯 が 約 10基 以上 も知 られ 、毘沙 クゼ古窯趾群 あ るい は支
群 といわれ る。鎌 倉時代 の 中葉 か ら後葉 にいた る もので あ り、私 た ちが提 I昌 す る常滑地方 にお け る
古窯製品 の 編年 か らい えば、第 二 型式か ら第 二 型式 にいた る もので あ る。
毘沙 クゼ古窯址 の あ る支丘 か ら谷 をへ だてて北 束 の丘 陵 には、最 近 、愛知県 の 住宅生協 に よ る多
屋 団地が造成 され 、古窯 址 の大 部分 が消 滅 して しまつ たので あ るが 、東 の方 には御嶽 山苗窯址群 が
つづ き、平安時代末薬 の 古式 の窯 が 約 10基 み とめ られ、 それ らは甕窯が多 い。一 部 には 山茶碗 の 窯
もみ え る。猪飼英 一 氏 が長 年 の 間 に採集 してい る陶片 の 中 には、慶 応義塾大学 に所 蔵 されて い る国
宝 の秋車文壷 と関連の あ るスス キの文様 がかかれた資 料 もム くまれて い る。
知 多半 島 に分布 してい る古 代末 か ら中世 の苗窯址群 は、総数 を 3,000基 とい われ 、北 は名古屋南
部古窯址群 と接 し、東海市荒 尾 町 の 奥 山や富木 島町 の姫 島、大 府市吉 田付近 の 古窯址群 に は じ ま
り、南 は南知 多町 の大 井 か ら内海地 肉まで 、延 々30余 勘 とつづい た 日本最大 の 古窯址群 であ る。
考察
第二
挿図第二
毘沙クゼ第一 。第二号窯付近 の地形図
-4-
(等 高線比高の単位は効)
戦後、常滑古窯調 査会 に よ る活 動 をは じめ として 、半 田市・ 知 多市 。東海市 な どの 調査事業、 さら
に愛知 県教育委員会 によ る愛知用水 工 事 や 知 多半 島道路 工 事 に関連 した調査 事業 に よ り、お もむ ろ
にであ るが 、古 窯 の構造 や製品 の 内容 につい て も、 その 全貌 をあ らわ して きた。
こ うした中 で 、平 安時 代末葉 の第 一 型式、 な らびに鎌 倉時式 中葉 の 第 二 型式 、 さらに鎌 倉時代後
葉か ら室 町時代 にいた る第 二 型式 は、知 多半 島の古 窯址群 を編年す る三 時期 であ るが 、 そのいずれ
に も発 を中心 として焼 いた窯 と、 山茶碗・ 山皿 を主 として焼 いた窯 が あ る。 さきにの べ た 知多半 島
各 地 にお け る古窯 の 学術 調査 の結果、平 安時代末葉 にの ば る古式 の もの と、室 町時代 に くだ る時期
の もの につ いては、発生 と終末 とい う研究 の重点 もあつ て 、比較的 に豊富 な資料 をえた も の で あ
る。 ところが私 た ちの手 もとにあつ め られ た資料 を検 討す ると、本来 もつ と も数 の 多 い はずの 第 二
型式 すなわ ち鎌 倉時代中葉 に比定 で きる古窯 の 調査例 は、 す べ てが 山茶碗 窯 であ り、何 とか して こ
の 時期 の奏窯 を調査 したい とい うのが 、私 た ちが もとめていた研究 の上 の課 題 で あつ た。
もと もと私 た ちが愛 知県教育委員会 よ り委嘱 されて、知 多半 島の古窯址群 の分布 を集成 す るに あ
つ
た ては、杉崎 が東 海・ 知 多・ 大 府 の三 市 に わた る知 多北 部 を担 当 し、猪飼英一 氏 が 常滑 市、立 松
宏氏 が 東浦町・ 阿久 比町か ら半 田市 を担 当 し、磯部幸 男氏が武豊・ 美浜 。南知 多 な ど知 多南部 を担
当 した もの であ る。
そ うした ことで 私 た ちを毘沙 クゼの現 llへ 案 内 して くれ たの は、猪飼英 一 氏 であつ た。発掘調査
した昆沙 クゼ第 一 。第 二 号窯 か ら南 へ30%も いつ た崖面 に、厚 く堆積 してい る灰原層 はま さし く行
基焼第 二 型式 の鶏 を主 とした もの で あつ た。
表面採集 の過程 において 、 す でに良 好な墾 の 押印文様 の集成、 さ らに三 耳壺 の 陶片 と考 え られ る
資料 を検 出 し、大 きな成果 を期待 した もので あ る。
2.調
査 の 経 過
昭和45年 8月 7日 (金 )曇 と きど き雨
あ いに くの天侯 で あ るが 、本 国よ り毘沙 クゼ古窯址 の 調査 を開始す る。
常滑 高校 の 中 山善夫教諭 が 指導 され る常滑高校社会科研究会 の 生徒 13名 を主力 に した 第 一 号 窯
と、瑞 陵 高校大下武教諭 が 指導 され る名古屋 市立 工 芸 高校郷土研究部 6人 の生徒 を中心 として第 二
号窯 を、同時 に着手 した。
調査貝 としては、第 一 号窯 に武豊小学校教務主任 の磯 部幸男氏 と内海中学 校教諭 の 山下勝年氏が
入 り、他 の森下雅彦氏 (新 田小学 校教諭 )や 応援 して くれ た愛知教育大 学生 の榊原 。岡田の 両君、
名城 大学生 の 片 山正樹君 、大野町 の金物店 主の中村和弘氏 、 ほか に中村氏 の友人 で蟹江中学 校教諭
の 山田氏 は第 二号窯 の 調査 に加 わつ て もらうことに した。杉 崎 は総 括連絡 に あた る。
時 お り小雨 の 降 る日であつ たが 、年前 中かか つ て テ ン トや道具 な どの般 入 をおわ り、年 後か ら本
格 的 に掘 りは じめた。掘 りは じめは 表土 を と りの ぞ くまでか た く難 決 を きわめたが 、古 くか らの盗
掘坑 が上 に も下 に も大 き くあいてい るので、 それ らを結 んで全 体 の構造 を もとめて い く こ と に し
た。
常 石会館 に名 古屋 市立 工芸 の 高 険上が 合宿 で きるよ うに申 しこみ、場所 が用 意 してあ つ たが 、 3
日は ど名古屋か らか よ うとい うの で、 と りあ えず 常滑 高校生 の 中 で遠 方 の ものか ら投宿 させ ること
に した。 中山先生 同宿。
8月 8日 (土 )晴
発掘 の第 二 日日であ る。本 日よ り立松宏 (成 岩 中学校校務主任 )、 新海公夫 (八 幡小学校校務主
任 )、 吉川允夫 (亀 崎小学校校務主任 )の 三 氏 が 来援 して くれ 、 い ずれ も第 二 号窯 に入 つ て も ら
う。
-5-
と くに第一号窯 の方 は盗掘 坑 が ひ どか つ たため、調査 の ピツチが順 調 にすすみ 、南 の側壁 の線 は
ほ とん ど確 実 な線 を検 出 した。 今後 は底 の上 をか きだ しなが ら北側 の 壁 を もとめて い く わ け で あ
る。
第 二 号窯 の方 は、焼成室 の後部 と考 え られ る上 の 方 か ら順次 に上 をめ くり、床面 を露 出 させ てい
くので あ るが 、窯床 の 幅 は意外 に広 い。
8月 9日
(日 )‖ 古
日曜の こととて参観者が多 い。
これ まで の メンバ ーの ほか に午後 か ら日本福祉大 講師 の福 岡猛志氏 や 、常滑焼 の修 業 中 とい う猪
飼青年 も調査 に参加 され た。
伝統 工 芸 の作家 として知 られ る江崎一生氏 もきて いただ き、窯構造 の工 夫 につ いて創造的 なす る
どい推 論 を提 示 され る。
第 一 号窯 の北 壁は い まだた しか め られて い な い。普 通 の窯 よ り五 割方 は幅 の広 い特別 な 例 で あ
る。
第 二 号窯 では焼 成室 の後半 が ほ とん どでで きたが 、両方 の側壁 に そつ た床面 に斐 の 陶片 が 貼 つ て
あ る。 今 までに知 られて い なか つ た 問題 であ る。
猪飼英 一 氏 よ り連絡 あ り。宿痢 の足痛が悪化 して 参加 で きな い 由、現地 を訪れ る人 は誰 し も猪飼
氏 の不在 をいぶか しが るが 、新 聞 の 報道 をたよ りに発掘 の成 功 をいの つ て くれ る氏 の友情 に謝 す。
8月 10日
(月 )日 青
名古屋 市工 芸 高校 OBで 春 日井 市役所 に勤 務 して い る木 田文夫君 や 、県立緑 が丘 商業高校 の野中
教諭が生徒 1名 とと もに新 し く参加 して くれ た。常滑市 陶芸研究所 貝 の 竹 内公 明氏 もわずか の暇 を
もとめて応援 して くれ る。
第 一 時窯 の窯 も床面 は まだ まだであ るが 、焼成室 や燃 焼室 の 両壁 や分煙柱 の位置 が 明 らか にな つ
て きた。南側 の焼成室 の窯壁 には鍬 によ る整形痕が と くによ くみ え る。 焼成室 の 後半 には階段状 の
遺構がみ えるが 、須 恵器 の窯 な どでは一般 的な ことで あ る ものの 、中 世の古窯 では特 色 の一つで あ
る。窯 肉か ら一 括遺物が採集 され るが 、発掘 の前 に想 像 していた鎌 倉中期 に比 定 され る行基 焼第 二
型式 よ りも新 し く、鎌 倉時代 後葉 にあた る第二 型式 に くだ る ものの よ うで あ る。
第 二 号窯 の分烙柱 は折れて い る。
燃焼室 の天丼部 をつ くる時 の支柱 を さした と考 え られ る柱穴 が 南壁 よ り幾本 も発 見 され た。第 二
;窯 の編年 は第 二 型式 に ま ろが い な く、鎌 倉時代 中葉 の もので あ る。
常滑市教 育委員長 の杉 江俊三氏 、教育長 の竹 肉 ヒ郎氏 の案 内 で、 NHKゐ 制作部が特別番組 の取
博 に くる。
江 崎一 生氏 の紹 介 で、東 京 の 女 子人 生 の 守屋 淑 子 さん も発掘 に参加 され る。
8月 11日 (火 )F青
第 一 号窯焼成室 の_L端 に つづ く煙道部 は流れて しまつ た もの と考 えてい たが 、約 1.5物 水平 にの
びて い る焼土面 を発見 した。 また分烙柱 の基部 には大形 の 斐 を縦位 に割 つ て補 強 してあ り、柱の背
後 に も小形 の 斐 が 2個 あてが われて い た。 さらに分烙柱 と北壁 との間の通 焔孔天 丼が遺存 してい る
と考 えていたが 、実際 は崩 れお ちた窯壁 であ つ て 、分烙 位は約 1%ほ どしか残 つ て い な い ことが わ
か つ て きた。
第 二 号窯 の 後 部は切 れて い る。 しか し焼成室 の 後端 蔀 と考 え られ る場所 に特 色の あ る施設がの こ
つ てい た。木 を心 に して ス サを ま じえた粘土棒 を横 にな らべ 、 ダン バ ーの 代用 とい つ た効 果 をね ら
つ た ものであ ろ う。
第 一 ;。 第 ニ ケ
〕と も全長約 17η とい う、 い まだ例 を角│ら な い大 規摸の もので 、窯構造 の細部 に 間
-6-
題 点 を提供 して い る。
ヒ係 の柴垣 勇夫主事 の視察 を うけ る。
愛知県教育委員会文 イ
8月 12日 (水 )晴 の ち曇
作業 を開始 して 間 もな く、常滑市長久 田慶 三 氏 が視察 され 、一 同 を激励 して下 さつ た。 両窯 と も
午前 中 で ほ とん ど発 掘 を終 了。 一 斉 に測 図にかか る。
(杉 崎
-7-
章)
第 二 章
1.窯
毘 沙 ク ゼ第 一 号 窯
造
構
本窯 は焚 口か ら煙 出 しに いた るまで 、 その床面 全体 を遺 存 して いた。 窯 の 全長 は16.5%で あ る。
床面 の傾 斜 は、焚 国か ら燃焼室 にか けて僅か な角度 を もつ てのぼ りは じめ、焼成室 にはい る分烙
柱 の両側 で 約19度 と急 に角度 を増 してい る。脱成室 前部 では約 13度 と一 たん傾 斜 をゆ るめ、中央郡
か ら後都 へ か けて再 び19度 内外 の傾 斜角 を もつ てのぼ つ てい る。 なお焼 成 部 の 中央部 か ら後部 へ か
けては階段状 に段 を 7段 つ くつ てい る。第 7段 日か ら煙 道 へ32度 と急傾 斜 をな して の ぼ り、煙 道 に
な ると再 びゆ る くなつ て煙 出 しに達す るよ うで あ る。煙道 か ら煙 出 しにか けては、熱 を受 けて灰 自
色 にな つ た床面 下の上層 と考 え られ る面 が現地 表面 に露 出 していて、 そ の形 状 を知 ることはで きた
が 、床面傾 斜 を測定す ることはで きなか つ た。
床面 の幅 は、焚 口で 1%、 分焔柱 の 中央 で1.8%、 分烙 住か ら 4%の ぼ つ たあた りが最 も広 く3.4
物 を測 る。 そして階段状 に段 の 設 け られ たあた りか ら次第 に狭 ま り、第 6段 か ら 7段 、煙道 へ とし
ば られ煙 出 しへ はい るところで は90勁 とな る。 煙 出 しは袋状 につ くられて い る。
燃焼室 は焚 口か ら分焔柱 にいた る長 さ約 2,4%の 部分 で あつ て 、床面 は 3度 内外 ののぼ り傾 斜 を
もつ てい る。床 幅 は焚 口で lη 、奥 へ い くに したが つ て開 き分 焔 位 の 手前 で 1.6%と な つ てい る。
両側壁 は焚 日のあた り約70財 の 間は赤 掲色 を呈 し、 それ よ り奥 は よ く焼 け しま り青緑 色 とな つ て い
る。床面 には炭 や灰 が 5勁 内外 の厚 さで堆積 して い た。
焼成室 と燃焼室 の境 界 には分烙柱 が あ り燃焼・ 焼成両室 を区別 して い る。 ここは また床面傾 斜 も
角度 をま し、床 幅 もラツパ状 に開 くと ころにあた る。
焼成室 の横 断面 をみ ると、 その床面 は測定 した 5つ の 計測点 のい ずれで も平坦 な面 を な し て い
る。床面 に続 く側壁 は、焼成室後部 では一 たん外方 へ 開 きなが ら立 ち上が り内彎す るよ うで あ り、
中央部 の床幅 が 最 も広 くな るあた りで は直 ちに内彎 して い る。 そして前壁の側焼 は ほぼ直 角 に立 ち
上が つ たあ と内彎 してい る。燃 焼室 との境 をなす分烙柱中央 の横 聯面 をみ ると、平 坦 な床面 に対 し
て側壁 は外 方 へ 開 いたあ と内彎 してい る。
lRl壁
には整形 の 際 の鍬 のあ とが明瞭 に残 されて い る。 また、焼成 部前 部の側 壁 には補 修 のあ とが
み られ る。
しか しこの窯 で注 目され るのは、焼成部中央部 か ら後 部 へ か けて の床 面 の施 設 であ る。 す な わ
ち、分 焔柱 よ り5%の ところか らは じま る階段状 の 7つ の段 であ る。 床 の幅 と前段 との比 高 の数値
は付表第 1の 通 りで あ る。段 は窯 の 中軸 線 に対 して ほぼ直 角方 向に、不整形 ではあ るが孤 を描 い て
設 け られて い る。各段 の 幅 は、焼成部 の 後部 にな るに したがつて狭 ばま り、第 7段 は 中央部 で40勁
であ る。 そ して段 の比 高 は、同一 の段 で も地 点 によつ て異 な るが 10∼ 20勁 で あ る。 また段 の_ヒ 面 に
付表第 1
焼成室内に設けられた階段状の段の幅 と比高およびその地点の床幅
段
段
の 幅
1
1.3∼ 1.4
1.1∼ 1.3
前 段 との
比
高
床
幅
3.2おv3.4
2.9∼ 3.2
3
4
0.8∼ 0,9
0,8-0,9
0.6-0,9
0.16
0.14
0.16
2.6∼ 2.9
2.5∼ 2.6
2.4∼ 2.5
6
7
0.8ハ ャ0.9
0.3∼ 0.6
0。
1.9∼ 2.4
1.6∼ 1,9
(単 位
-8-
18
物)
0
│
│
挿図第二
昆 沙 クゼ第一号 窯の窯構造
0
2n
は第 7段 にみ られ るよ うに、斐 の破片 を並 べ 敷 いた ところ もあ る①
分烙柱 は焚 日か ら 2物 の地 点 に あ り、北 壁か ら34%、 南壁 か ら74勁 と北 に寄 つ て立 て ら れ て と`
た。基 部 の平面 プ ランは縦 110勁 横72Mの 長方形 をな してい る。 また基部 は二 つ害もりに した斐の破
片 が は りつ け られて いた。
この窯 の焼成部 の床面 積 は概算 で 約30″ で あ る。
第 7段 めか ら急角度 をな してのぼ る焼成 室 の 最奥 部 で傾斜角 が 折れ るよ うに変 わ る。 これ は また
床幅 が90勁 に しば られ るところで もあ り、 ことが焼 成部 と煙道 との境界 で あ る。煙道 か ら煙 出 しに
か けで の部 分 は、窯 の 中軸線 に対 して、約20度 北 へ 方 向 をか え長 さ約1.6%、 最大 幅 1.2%の 袋状 を
な し、煙 出 しにあた る部 分 の 径 は約30効 であ る。
2.出
土
遺
物
窯 は天 丼が落 ち込 み 、 その くば みには黄褐色 の土砂 が 堆積 していた。 この 堆積層 の 中 に も奏 の破
片 な ど小量 の遺物が み とめ られ たが 、 それ らは この窯 の周 辺 に散布 していた上器 片 とと もに、丘 陵
頂部 に密集 す る他 の 古窯 の製 品 で あ り別 に採集 して保管す ることに した。
本窯 の遺物 は、赤褐 色 に焼 けた天丼焼 壁 と床面 との間に包 合 されてい た もので 、 山茶碗、斐、壺
の 3種 類 であ る。
山茶碗 (挿 図第 六 の 8∼ 11)い ずれ も焼成室 中央部 で 斐 の上 器片 に ま しつ て検 出 された もので、
4個 体 分 であ る。 うち底 部 のみの 2例 には、 ひ しやげて低 くな つ てはい るが 糎殺痕 のついた高台 が
付 されて い る。 ほか の 2例 は器 高 4勁 口径 13勁 、底 部 の 径 7勁 とやや小形 な作 りで 高台 を もたな い
斐 は焼成 室 の 前部、分烙柱 の近 くに寄 せ 集 め られ た といつ た状態 で 出土 した。 これ らには 口縁 部
の作 りや器形 によ る差異が認 め られ るが 、 ここでは口径45切 以上 の大形 の もの 、25勁 前後 の小形 な
もの 、35翻 前後 の 中形 の もの にわけて述 べ ることにす る。
大形 の 斐 (挿 図第 四 の 1,2第 五 の5)に は、外 反 した 口縁 の 国端 を外 方 か らお さえて幅2.5勁 前後
の縁帯 を作 りだ し、短 い顕部 か ら肩 の張 つ た胴都へ と うつ る器形 の
もの と、 同 じよ うな器形 を もちなが ら口端 を引 き上 げたあ と折 り返
して、外方 か ら整形 して断面が N字 状 にな る口縁 を もつ も の が あ
付表第 二
中形 の 舞 (挿 図第 五 の 1∼ 4,6) 口縁部か ら胴 削 底 部へ とつづ
`、
く資料が得 られ なか つ たので全体 の器形 は詳 らか でないが 、 い ずれ
も短 い顎部 か ら肩 の張 つ た肩 部 へ とうつ る もの であ る。 口縁 には、
4モ
番号
(働
る。前者 には肩 に格子 日の押 印文が め ぐらされて い る。 どち らも引
縁 か ら肩都 までの資料 であ るが 、 変 の最大径 は肩部 にあ り、 その 径
が70勁 を こす もの もあ る。
甕 の 口径 と縁帯の幅
)
縁帯 の 幅
(勁
)
1
45.0
2.4
2
46.0
2.5
1
39.0
1.9
2
35.0
3.0
3.8
外 反す る国縁 の 口端 を外 方 か らお さえて幅 2翻 ほ どの縁帯 を作 つ た
もの と、断面 が N字 状 にな る もの とが あ る。後 者 には縁 帯 の幅 が 3
3
39.0
4
39,0
3,9
財 の ものか ら 3,9勁 の もの まであ る。
5
46.0
4.5
6
37.0
2,0
7
23.0
2.1
小形 の 墾 (挿 図第 五 の7,第 六の 1∼ 4)に 1ま 、 口径22.5初 の ものか
ら26.5翻 の もの まで を入れ た。 外反 した 国縁部 の 口端 を外 方斜 め上
か らお さえた ものや、 ま横 か らお さえて い る もの 、 口端部 を引 き上
げ直行 させ て い る もの な どが あ る。 い ずれ も1.5∼2.0初 の 縁帯 を作
りだ してい る。 挿 図第 六 の 3に み られ るよ うに、 日縁 を折 り返 しそ
の 断面 が N字 状 をなす もの もみ とめ られた。 小形 の 変 は、短 い顎部
か らなだ らか な肩部 へ うつ るといつ た器形 で 、大 形、中形 の 変 にみ
-10-
1
25.0
1.5
2
22.5
1.2
3
26.4
2.5
4
24.0
14
︱︱ 牌P II
挿図第四
昆 沙 クゼ第一号 窯の出土遺 物
―
住)
´
∼
十
彰
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︱ ︺囀 ︱
毘 沙 クゼ第一 号 窯 の出土 遺 物
O
Cm
︱
岳
︱
毘 沙 クゼ第 一号 窯 の出土 遺 物
られ た肩の張 りが やわ らか くな つ てい る。 と くに鋪 図第六 の 2の よ うに、肩 部がな だ らか にな る も
の もあ る。
ほか に、肩部 の みの 出土 であ るが 、 3条 の 沈線 をめ ぐらし、部分的 に頸部 か ら第 2線 にか けて左
傾 、右傾 の 斜 めの 沈線 をを引 き、斜格子状 の 文様 を構成 してい る土 器 が 1例 あ る。
壷 (挿 図第六 の 5∼
7)の 資料 は 4個 体分 で、焼成 室 の 分烙柱近 くか ら出土 した ものであ る。
1例 は短顎壷 で、 口端 はほぼ水平 に切 つ て仕上 げて い る。 やや 内向す る柱部 の 高 さは 4.5勁 で、 く
の 字状 に折 れ曲 つ て肩部 に つづ いてい る。 日径 は22切 であ る。 1縁 部か ら肩部 にか けての 資料 1片
のみで あ り、器形 の 全容 を知 ることはで きな い。
ほかに、 国径 19翻 、外 反す る国縁の 口端 を外 方 か らお さえて 作 りだ した縁帯 を もち、径 15勁 高 さ
7.5勁 の 円筒形 の頸都 が急角度 をな して肩部 へ うつ る器形 の もの (挿 図第六 の 5)、 同 じ器形 で口
径 が21例 とゃゃ大 き くな る もの な どが 3例 あ る。 い ずれ も取部 に 3個 の 耳 を もつ三 耳壺 であ る。焼
成 の 途 中 で焼 け崩 れて い るが 、二 つ の耳 をつ な ぐよ うに取部 に箆 状施文具 に よ る鋭 い沈線 を 1条 め
ぐらした もの もあ る。
3. rj、
結
第一 け窯 は中莉H線 をほぼ束西 に と り、丘 陵の 頂部 にその 斜面 を利用 して築 かれ た客窯 であ る。天
井 にあた る部 分 は崩 れ落 ちていたが 、焚 日か ら焼成室後部 にいた るまで地 下 に埋 ま り、床面 や側 壁
は良好な状態 で遺存 してい た。 煙道、煙 出 しは現地 表面 に露呈 し火 烙 に よ る熱 を叉 けた土 層 が地 山
との境界 を くつ き りとつ けその形状 を知 ることが で きた。
窯 は焚 日か ら煙 出 しまで全 長 16.5物 、床面 の 最大幅 は 3.4物 を測 るこの地 方 きつ ての大規模 な客
窯 であ る。 窯 内 で焼 かれ た製品 は山茶碗・ 壺・ 斐 の三 種類 であ るが 、 その 中心 をなす の は 甕 で あ
る。
窯 の構造 をその床面傾 斜 か ら検 討 してみ る と、燃焼室 は焚 口か らわずか な の ば り傾 斜 を もつ て分
烙柱 の 前面 にいた り、 ここで角度 を増 して焼成室 に つづ いてい る。焼成室 にはい ると一旦 傾 斜 をゆ
るめて中央部 にむか い、階段状 に段 を造 りだ したあた りか ら再 び角 度 を増 し、最奥 淋 は急 角 度 に し
て煙道 へつ な いでい る。煙 道 は緩傾 斜 とな り煙 出 しに達す るよ うであ る。
本窯 は知 多半島古窯 の 饗窯 にみ られ るよ うに、 変 の腰 に直接火烙があた り焼成前 に焼 け崩 れ るの
を防 ぐた め、燃焼室 か ら焼成室 へ うつ る床面 を段 をな して下 降 させ る斐窯 様式 の 範 ちゆ う に 入 ら
ず 、 む しろ山茶碗 な ど小形品 を焼 成す るため、火焔 が床 面 をは うよ うに構築 された山茶碗様式 に近
似 してい る。 ただ形 の上 で 山茶碗窯、斐窯 とい われ る ものの 、現実 には 山茶碗様式 の床面傾斜 を も
つ窯 で割 合 に大 形品 を焼 いてい る知 多町旭大池第一 け窯 のよ うな例 もあ る。 この 場 合は分烙柱 の両
側 に間仕切 障壁 を高 くきず いた り、製品 を窯詰 めす る際大 形品 の 前 に壷 や片 口鉢 な どの よ うな中形
『
1を
配置 して、 火 k/Eが 大形 品 の下胴 部に直接 あた るの を防 ぐな どの 措置が と られて い る。 (註 1)
この 窯 では他 の例 にみ られ るよ うな間仕切焼壁 は その痕跡 もとどめなか つ たが 、 ただ分焔柱基 部
に器 高50勁 前後 の 中形 の 斐が縦位 に割 つ ては りつ けてあつ た。横 に張 り出 していて、分烙柱 の補 修
と も考 えることが で きるが 、む しろ窯詰 めの 終 つ たあ と側壁 まで破 片 を心 に立 て並 べ て焼壁 とした
こと も考 え られ る。 また 、検 出 し測図で きた製品 をみ ると、 口径45M、 最大腹 径70勁 以上 の大形 の
甕 3例 に対 して 、中小形 の 製品 は壺 も入 れ る と14例 を数 え る。 この ことは窯詰 めに あた つ て 、大形
品 の前 に 中小品 を置 き、大 形
『
示 す もので あ ろ う。
Iの
下胴部 に火 烙 のあた るの を カバ ーす る配 置の方 法 を とつ た こ とを
窯構造 にお け るい まひ とつの特 色 は、焼成室 中央 引
`か
-14-
ら後部 へ か けて階段 状 に造 られ た 段 で あ
る。 さきに東浦 町大 原古窯 では焼成室末端 で煙 道部 へ 移 るところに棚状 の段 が もうけ られて いた こ
と。 また巽 が丘 第 一 号窯 では急傾斜 をなす焼成室後部 の床面下 に両側壁 間 にわた る棚 状 の掘 りこみ
が検 出 され た ことが 報告 されてい る。 高
t者 は知 多市大知 山第一 。第 二 号窯 の焼成室後 部 に 中軸線 に
そつ てみ られ た径20勤 前後 の 凹 み と同 じ く窯 内作業 の ための足 場 と考 え られ 、後者 は築窯段 階 にお
ける作業 の 足場 と考 え られてい る。 (註 2)本 窯 に もうけ られた段 は、第 7段 に もみ られ るよ うに
段 の上 面 移土器 片 を敷 き並 べ て整 えてい る ことな どか ら築窯段 階 の足場 として では な く、大規模 な
窯 にお け る製品配 置 や焼成 の 効率 を高 め る手 だて と窯 内作業 を容易 にす るた めの意味 とを兼 ね そな
えた施設 と考 えた い。
なお段 の ない焼成室 前部 では、焼台 を 2個 組 み 合わ せ て使用 してい 冷例 もみ られ た。 ィ
出土 した遺 物 の うち甕 には大小の差異が あ るが 、外 反 した 日縁 の 口端 を引 き上 げた り、外 方 か らお
さえた り、折 り返 して断面 が N字 状 にな るよ うに した りして いて手法 イ
とも差 異が み られ る。 ただい
ずれ も国縁 に縁帯 を もつ とい うことでは同様 であ る。重 は 3例 と も中形 の三 耳重 であつ た。 山茶碗
には高台 を付 した もの とない もの とが あ る。遺 物 は全体 として東海地方 にお ける行基焼第 二 型式 に
編年 で きる もの であ る。 第 一 号窯 は鎌倉時代後葉 か ら室 町時代 初期 に甕 を中心 に した生 産 をす るた
めに築 かれ た ものであ ろ う。
註
1,2
半 田市誌資料編 I所 収「 半 田市 内の知 多窯」 1969年
「 大知 山、旭大池首窯跡」 1970年
半 田市誌編 さん 委員会
東海古文化研 究会
(磯 部幸男 )
―-
15 -
第 四 章
1.窯
構
毘 沙 クゼ第 二 号 窯
造
本窯 は、 丘 陵頂上近 くの斜面 に築 かれ た客窯 であ る。焚 国は真 南 よ り約 52度 は ど西 に偏 して開 国
してお り、本窯 よ りや ゝ下位 に位置す る第 1号 窯 とほ ゞ同規模 の大 形窯 であ る。 表土 の流 出 が 激 し
く、天丼部 はす べ て崩壊 して 、窯 内 を土砂が埋 め尽 くす状態 で あ つ た。 窯 の 全長 は、焚 日か ら煙 道
部の一 部 を含 めて約 15物 余 を計 沢」し、中央 部 での胴 1彰 れ は右 壁側 が 勝 つ て 、全体 の形 にや ゝ歪 み を
与 えてい る。
(1)焚 日付近 お よび燃焼室
分烙 柱 よ り焚 口末端 までの 長 さ約 3物 の部 分 が 、燃焼 室 で あ る。 両壁 は 巾 1.3物 で、 ほ ゞ平行的
で あ る。 床面傾 斜 は、分烙柱 よ り1,4物 の辺 りまで まだ ゆ る く下が るが 、それ以降、焚 口にか けて
ヒす る。床 上 には、全体 にわ たつ て 5勁 ほ ど灰 の堆積 が見 られ、床 自体 の焼 け もか な り良 好 と
水平イ
い え る。 なお 、今 回 の調査 で、坑 日付近 施 設 の 好資料が得 られた の で、触 れてお きた い。 す な わ
ち、分烙柱 よ りや ゝ手前 の 右壁沿 いに 、細 い支 柱列 の遺構が発見 された こ とであ る。確 認 された の
は計 7個 で、いずれ も直径 4∼ 5例 が 計 測 されて い る。差 し込 みの角度 は必 ず し も重直 でな く、幾
ヒ物 の付着 を見 るが 、炭 化木心 は発見 されず、
分 、内、外傾す る ものが あ る。 内側 に僅 か なが ら炭 イ
恐 らくは竹 を使用 した ことと想 像 され る。 また その な らびは千烏状 で あ つ て 、砂質 地 山の側面 か ら
30∼ 40勁 程 内側 に位置 してお り、 ス サ入 り粘土 が 、 その 支柱 を塗 り込 めてい る格好 で あつ た。
築窯 の 過程 において、燃焼 室 の天丼 が どの段階 で、 どの よ うな方 法 でか けわた された もので あ る
か 、久 し く問題 とされて いたが 、解 決 の示嵯 を与 え る もので あ つ た。 なお、 この 点 を裏付 け る もの
として 、分焔柱付 近 の 僅 か な天丼残存 部 において 、 スサの混 じる部分 と、砂質粘 上 の地 山が その ま
ゝ焼 け締 まつ た部分 との明瞭 な区別が見 られ た。 つ ま り、 ほ ゞ分烙柱 を境 い として 、燃焼室部 は、
毎 国の焼成 毎 に、新 た に作 り直 され た事 を物 語 つ てい る。 一 方 、 左壁側 においては、 同様 の遺構が
見 られ ないが 、 ス サ をま じえたは りつ け壁 の末 端 が 、 ほ ゞ右壁支柱列末 端 に対応す る点 か ら考 え、
最 終密 閉施 設の位 置 を確認 し得 ると思 う。
(2)分
焔
柱
平 面 として はほぼ80翻 ×80初 の 規模 であ るが、補修 の跡 が 著 し く、
『 E確 に は計 測 し得 なか つ た。
築 窯 時 に おいて は、地 山 を掘 り残 して利用 した のか も知れ ない。補修 のお りに変 を埋 め込 んでお
り、 それ をスサ入 り粘土 が巻 く状態 であ つ た。 燃焼室 に近 い側 のは ゞ中央 に、炭 化木心 の跡が見 ら
れ るがやは り分焔柱修復時 の もの であ ろ う。
●)焼
成
室
分烙柱 よ り煙 道 部までの部分 で、長 さ約 10%を 計測す る。 左壁側 に比 し右壁 の膨 らみが大 きくな
つ て い る。 中央都 での床面傾斜 は約 18度 で あ り、分 焔柱 にいた るまで、 その傾 きは殆ん ど変 わ らな
い。本 窯 の 場 合、注 目すべ きは、両壁沿 い に変片 を貼 り付 けた状態が見 られ るこ とで、 は つ き り
壁 内 に塗 り込 め られ た もの もあ るが 、大 部分 は単 に貼 り付 けた とい う感 じであ る。 床面、壁共補修
の形跡 が あ り、 塗 り込 め甕片 の場 合は その補修用途 を考 えて良 いだ ろ うが、他 の 多 くはむ しろ断熱
の役割 りとす べ きであ る。 15%に 及 ぶ大形窯 であ り、地 山 を伝 つ て逃 げ る熱 の大 きさを想 えば、 当
然 この 様 な工夫 は為 されて よい だ ろ う。 壁 の状況 は、下 降す るほ ど、良 く焼 け しま り、釉 の美 し く
落 し、砂
か ゝつ た部分 もあ る。 しか し上部 では、殆 ん ど貼 り付 けた粘土 (ス サ をま しえない)も 象」
貿地 山が赤 く焼 けた肌 を見せ るのみであつ た。
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毘 沙 クぜ第 二 号 窯 の票 構 造
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(4)煙 道・ 煙 出 し
窯幅がせ ば まつ て焼成室 も末 端 とな ると、傾 斜 が な くな り、約 200勁 の幅 で 100勁 水平 に奥 へ 延
び、 やがて垂 直 に立 ちあが るの で あ るが 、垂直壁 は約 15物 が残 存す るのみで 、 それ よ り上部 は流失
して しまつ てお り、明 らか にす ることはで きなか つ た。 この水平面 は火 あ そび と もみ られ る部分 で
あ つ た。水 平面 の奥 に立 ちあが つ た垂直壁 の 中程 に、直径約 5翻 の柱穴 が 斜状 にあけ られ、芯 とな
つ た柱 を、 ス サ入 りの 壁土様の粘土 で巻 い た痕跡が 5個 な らん で認 め られ た。煙 道・ 煙 出 し部構築
の際 に設 け られ た遺構 と考 え られ る もの であ る。
2.出
土 遺
物
毘沙 クゼ第 二 号窯か らの出土遺 物 は、 巨大 な窯 にふ さわ し く、す べ てが大 形 斐 、中形 甕、大 形重
で、知 多半 島古窯 固有 のいわゆ る三筋壺 の類 の 中形重 は全 く検 出なれ なか つ た。 また 山茶碗 も小破
片 が 3片 出土 したのみで、計沢!も で きなか つ た し、本 窯 の焼成 にかか る ものであ るか ど うか も判断
しかねた。窯 内 か ら多量 の上 器片が 出土 したが 、火力 がかか り過 ぎ、 い わ ゆ る焼 けつ ぶ れの状態 の
ものが 多 く、計 測 で きた もの は12個 体 にす ざなか つ た。
(1)大
形
壺
太 い欺都 が なだ らか にひ ろが つ て 肩都 へ と移 行 し、 その区別 は明確 でな く、上胴部 で最 も幅が ひ
ろが る。直上 した欺部 は 口辺 部 にいた つ て はぼ直 角 に外反 し、 口縁端面 は下端 をやや 内 lRllに 傾斜 さ
せて面取 りが施 され 、断面が逆三角 形 を呈 す る。 4個 体 出土 したがいずれ も口径が20勁 前後、最大
胴径が35∼ 40勁 、高 さ40∼ 45翻 と推 定 され る大形壺 であ る。 (挿 図八 の 1∼ 4)
歎部 か ら肩 部 に移 行す るあた りに耳 が 3個 付 され 、 い わゆ る三 耳壷 の形態 を もつ のであ る。 中央
に縦位 の貫 通孔 を もつ のが本 来 であ ろ うが、孔 はな く装飾 的 な ものであ る。 (挿 図八 の 1∼ 2)
また、欺部 に窯印様 の鋭 い箆 が きを もつ もの (挿 図八 の 3)も あ るが 、 内部 を観察す ると、輸 積
み 手法 に よつ て作 られた痕跡 が きわ めて明瞭 であ ること もその特色の一 つ とい え よ う。特 に顎部 と
肩都 の圧着面 の 内側 にははがれの生 じた ものが 多 い。 これは底 部 か ら胴部 、肩 部 へ と輪積 み手法 に
よつ て作 られた もの に、 ロ ク ロに よつ て 引 いた顎部 、日辺 部 を最後 に圧着 した もの と思 われ る。頸
部 か ら肩部 にか けての なだ らか さや 口歌 の太 さは、 それ らの作業 を容易 な らしめたであろ う。
中 には歌部 と口辺 部 の 間 に外 側か ら帯 状 に粘土 を盛 りあげて補修 した例 もみ られ る。 (挿 図八 の
2)こ れ らの重 には印 花文 はみ られ ない。
(2)大 形斐 。中形 餐
口径が55勁 あ り、最大胴径 、高 さと もに80勁 を推定 させ る大形斐 であ る。 口辺 部 の 手法 は前述 の
大形壺 と同 じ く端面 を逆三 角形 に仕上 げてお り、 内面 には輪積 み手法 の痕跡 を明瞭 に残 してい る。
(挿 図 の九 の 5)
また 、 国径35勁 PNl外 、最大胴径50勁 、高 さお よそ50勁 を推定 させ る中形 の 舞が 2個 体 あ り、肩部
に格子状 の印花 文 を廻 らして い る。 口辺 部 の作 りは大形斐 と同様 であ るが、収部 と上胴 部 の接 着 面
にひび割れ を生 じ、突帯 状 に粘土 を貼 りつ けて補修 した もの もみ られ る。 (挿 図九 の 6)
(3)/1ヽ
,レ
発
口径20M内 外、最大胴径、高 さと も25勁 ltl外 を推 定す る小形墾 で、 口辺 部 の製作手法 は大形饗、
中形変 と同一 であ るが 、大 形 、中形 斐が 、 上胴 部 に最 も張 りが強 く、下 胴器 に行 くに従 つ て細 るの
に対 して 、小形 甕 は 中胴部 に最 も張 りが強 く、全体 に球 形 に近 い提灯形 をなす ①強 い張 りを もつ た
中胴部 に格子状印花 文列 を配 した例 もみ られ る。 (挿 図十 一 の11)
壷 、 斐 と も還 元烙 で焼成 され 、冷却段階 において酸 イ
ヒを来 して い るの で、肌 は赤 茶色 を呈 してい
る。
-18-
0
挿図第八
毘 沙 クゼ第二号 窯 の 出土遺 物
-19-
10cm
―- OZ ――
〇 ︺00ヨ
旧田 岡 田 田 劇 日 則 旧 門
一
/ / / √ /͡
/
戸
9
︱︱ 囀牌 II
毘 沙 クゼ 第 二 号 窯 の 出土 遺 物 (3)
0
10cm
0
挿図第十一
1ocm
毘 沙 クゼ 第 二 号 窯 の 出土 遺 物
一- 22 -―
3. /Jヽ
結
毘沙 クゼ第 2号 窯 は最大窯 幅 3.3物 、 全長 15%を 越 え る知多半 島古窯址群屈指 の大窯 で あ るこ と
は、窯構造 の ところで も述 べ た通 りであ るが 、窯 構造 の面 か ら一 、二 の 問題点が あ るので指摘 して
お きた い。
もと もと害窯 を築窯す る際 は、適 当な傾斜地 と微粘土混 りの砂質層 が選 定 され るのであ るが 、 そ
れ は1300度 に も及 ぶ 高熱 が 窯 内全体 にかか つ た場 合、木節系統 の知 多半 島の粘土 では高熱 に耐 え ら
れず、 へ た りの生 ず るこ とが 多 く、従 つ て耐火力 の あ る砂層 を選 定す るとい うことと、 も う 一 つ
は、構築 の場合 、分烙柱 を掘 り残 し、焼成室 を トンネ ル状 に掘 りすす み 、地 表面 をその まま天丼 部
とす るため、砂 質層 は掘 り抜 き易 い利点 が あつ た。 しか し、 この 利点 は破損 し易 い とい う欠点 に も
つ なが るわ けで、特 に煙 出 しや焚 国の よ うな末端 は当然 破損 が考 え られ るわ けで あ る。 ま た 大 形
の甕 な どを出 し入 れす る際 に も、 その出入 国はあ る程度 の大 きさは必要 であつ たであ ろ う。 しか し
窯 の焚 国は還 元烙焼成 の場合、焼成完 了 の 直前 のあ る時点 において空 気 を遮 断す る必 要 が あ る た
め、 あま り大 き くす るわ けにはいか ない。従 つ て 、焚 口は焼成 の都 度作 り直 していた ことが予想 さ
れていたのであ るが 、本窯 で その痕跡 が認 め られ たの は収 穫 であつ た とい え よ う。
す なわ ち、分烙 柱 よ り手前 の燃 焼室 、焚 日付近 の 両壁 の中段か ら直 径約 5勁 前後 の七 個 よ り成
る柱穴 群 が 検 出 され 、柱穴 内 に炭 イ
ヒ物 の 充填 が一 部 には認 め られた。両 lFdに 穿 たれた柱穴 は千 島状
となつ て左 右相対 せず 、必ず し も整然 とした ものではない。 しか し、掘 り込 まれ た方 向か ら復原す
る と、焚 口お よび燃 焼室 の天丼 を ドー ム形 に しつ らえ るた め心 とした ことが 、分烙柱付近 のスサ混
じ りの粘上部分 とと もに十 分 に うか が え るのであ る。す なわ ち、焼成 す べ く整形 され た半製 品 を窯
内 に搬入 した後 に両壁 の 中段 に弓状 または叉 状 に心 を さし、 それ を もとに ス サ混 じ りの粘上 で覆 い
なが ら天丼 を構 築 してい つ た もの と推察 され 、 その 部分 は製品搬 出 の 際 には取 りこわ した もので あ
ろ う。
同様 の ことが 煙道部か ら煙 出 しにか けて も検 出 され た。 す なわ ち、焼成室上 部 の末 端 が やや水 平
になつ た火 あそび と考 え られ る部分 の最奥 の、窯 の 中lll線 に直角 で しか も垂直 に立 ちあが つ た壁が
認 め られ、 その壁 に焚 き国 と同様 の遺構が認 め られ たのであ る。 直径 約 5Mの 柱穴 は壁 の全 体 にわ
た つ て等 間隔 ではないが ほぼ一 列 に並んで 5個 斜 めにあ け られ、 スサ を混 じた壁 土状の粘 土 で柱 を
巻 きつ けた痕跡 も明瞭 で あつ た。 これ は、す でに穿 たれた穴 ヘ ス サ入 りの粘土 を巻 きつ けた直 径 約
5勁 の竹 状 の 柱 を入れ 、 それ を心 に して煙道・ 煙 出 しあ るいは火 あ そび と考 え られ る部分 の天 丼 を
構築 した もの と推 定 され るのであ る。 当然 その柱 の末 端 は掘 り残 され た地 山で しか も焼成 室 の天丼
部 を構成 して い る部分 へ と連 なつ たであ ろ う。前述 の ご と く砂質層 で侵蝕 を受 け易い ため、煙 出 し
部 の構造 を明 らか にす る ことが で きなか つ たのは残念 であ るが 、煙道・ 煙 出 し部 と も焼成 の都度、
構 築 され た例 証 として提 示 したい。焼成 のた びに煙 道・ 煙 出 し部 を構 築 し直 した とい うこ とは、 そ
の 部分 の lPc弱 性 もさる こ となが ら、焼成室上端付近 の製品 (比 較的小物 で あ ろ う)の 出 し入 れ と、
窯 内作業 の 明 りと りとい つ た利点 が 、 この よ うな大 窯 では格別重要 な ことで あつ たのではなか ろ う
か。
毘沙 クゼ第 二 号窯 で焼成 され た製品 は大形壺 と大 、中、小 の甕 であ るが 、 その 日縁部 の製作手法
か ら、知 多半 島古窯の編年 中第 2型 式 の後 半 に置 き、 その絶対 年代 を鎌 倉時代 中葉か ら後葉 に求 め
たい。 大形重 には知 多半 島で は比 較 的少 ない耳 が三個付 され た ものが あ り、 い わゆ る三 耳壷 の形態
を備 えてい る。 しか も、耳 がす でに紐 を通す とい う機能 を失 つ て装飾 的に取 りつ け られて い るとい
うこと もつ け加 えてお きたい。
遺物 は全 外 に暗緑 色の 自然和1が かか り、 多量 の燃料 に よる降灰 と高温 のかか つ た ことを示 してい
- 23-
るが、前述 の よ うに知 多半 島の粘土 は耐火 度 が低 く、温度 が 少 しあが りす ぎると大形製品 は 自重 で
べ た りをみせ るので あ る。本 窯 もその 例 に もれず、分烙柱 近辺 に多 くの焼 けつ ぶ れ た甕 を 検 出 し
た。
中形甕 と大形壷 は、 口辺 部 か ら頸部 にか けては回転台 移用 い、底部 か ら上胴部 にか けて は輪積 み
に よつ て製作 した の ち、両者 をつ な ざ合 わせて一 個体 とした と思 われ るの であ るが、接着 され た と
思 われ る部分 の外側 に、突 帯状 に補修 の跡 がみ られ る ものが 2個 体 出土 してい る。 これ は粘 土 で作
りあげ て乾燥す る段階 で生 した ひびを補修 した もの と推 定 され る。粘土 は採集 地点 に よつ て その成
分 の度合 が 多少異 り、従 つ て乾燥段階 にお け る収縮率 も異 るのであ る。 これ らの 製品 は恐 ら く胴部
か ら頸部 にいた る部分 と日辺 部 と別地 点 の粘土 によつ て作 られ、 それ を接 合 したため起 つ た収縮 率
の ズ レに よつ て生 じたキ ズ であ ろ う。 しか し、 それ らを放棄 す ることな く補 修 して窯入 れ をした と
い うことは、製作 の 厳 しさを示す もの であ ろ う。
印花文 を もつ た もの は8個 体 の 斐 の うち、 わずか3個 体 で、す でに印花 叩 きに よつ て輪積 み部分 を
叩 き締 め る必要 性 の うす くなつ た ことを物語 つ てい る。
(立 松 宏 。大下 武 )
…… 24 -―
第 五 章
1.窯
構
括
総
造
常滑 を中心 として、剣1多 半 島 の丘 陵にみ られ る古窯 は、客窯 といわれ る もの であ る。
焚 口に つづ いて燃焼室が あ り、床面 の 中央か ら天 丼 にまでたて られ た分焔柱 の部分 を境界 として焼
成室 に うつ る。 焼成 室 は後部 の床幅 をひ きしめて煙道 部 に接 続 し、最後 は煙 出 しにお よん でい る。
毘沙 クゼ第 一 号窯 は、焚 日か ら煙 出 しにいた る古窯 の全長 17物 をはか る。第 二 号窯 も、 15物 の長
さが残存 してい るが、煙 道部 を亡失 してい るの で、 お そ ら くは これ も全長 17%前 後 の もので あつ た
で あ ろ う。 知多半 島や渥 美半 島 そして瀬戸地 方 な ど、東海地方 の 中世古窯 の 全体 を通 じて、 17物 と
い う苗窯 の長 さを もつ ものは、渥 美半 島 の大 ア ラ コ第 二 。第 六 号窯 の よ うな特別 な例 (註 1)が 知
られ るの みであ る。 普通 に大 規模 な もの として あ げ られ る常滑 の窯 は、全長 15物 程 度 が 普 通 で あ
り、 こ うした意味 で も昆沙 クゼ古窯址 は最大級 の 古窯 で あ る。
毘沙 クゼ古窯址群 は大形 の 斐 を中心 として焼 い た窯 で あ り、焚 国か ら燃焼室 を とお り焼成室 の前
へ
部 と、床面が ほぼ水平 にすすん でい る。 しか し普 通 に甕 をや く窯 の構造 として知 られ る ものは、
分烙柱 の 背後 にあた る焼成室 の前端部 で数十 Mも 段 をな して下 降 してい る様式 であ る。
この甕 窯 として一般 的 に知 られ る窯 の構 造 で は、焼成室 前部 の床 面 に大形 甕 を窯詰 め した場合、
底 部 か ら下胴部 にか けて火烙 の流れ の死 角 に入 り、製品 の上胴 部 か ら上が よ く焼 けて も、 下胴 部 は
直接 の 火 を うけ ることな く、 意 図的 に半焼 け の 状態 におかれ た ことが 特色 であ る。
ところが、 毘沙 クゼ第 一・ 第 二 ;窯 の場合、 こ うした甕 窯 に好適 の窯構造 を と らず、燃焼室か ら
焼成室 へ 床面 が、 ほぼ水 平 の まま移 行 してい るの は何故 であ ろ うか。
匁1多 半 島 で産 す る粘土 は もと もと耐火度が ひ くく、 こ うした性質 の粘上 を使用 して、大形製品 を
焼成 す る場 合、製 品全体 にわた つ ておな じ調 子で火焔 を与 えてい くと、焼成 の 過程 において、器体
上 部 の正 みにた えかね、 下胴 部 の方 が つ ぶれやす い とい う短所 が あ る。知 多半 島 の粘土 を使用 す る
時 には、 この55点 そお ざな う工 夫 が必要 とな つ て くる。
毘沙 クゼ第一・ 第 二 ;窯 の場合、焼成後 に大 形製 品 を窯 出 しす るにあた り、分焔柱 の付近 を破壊
してい るので、 その遺構 を実 際 にみ ることはで きないが、分 焔柱 の 両側 に、燃焼室 と焼成室 を画す
る間仕 切障 壁 を高 くきづい た例 も他 にはみ られ て い る。 また焼成室 の 中へ 製品 を窯詰 めす るに際 し
て、 製品 の下胴 部 に火 焔が直接 あた らない よ うに配 慮 し、 たが いに死角 をつ くるよ うに つ めてい く
な ど、大形 イ
ヒした窯構造 に と もな う量産 化が はか られた もの で あ ろ う。 さ きにのべ た焼成室前端部
が段 をな してお ちてい るとい う斐窯特 有 の窯 様式 が 、 わ りあ いに古式 の甕 窯 にか ざられて い ること
か らも、 この窯構造 の 合理化が想像 され よ う。
毘沙 クゼ第二 号窯 の燃 焼室 南壁 にそつ て、天 丼 を架構 す るのに使用 した と考 え られ る 支 柱 の 穴
が 、数 か所 つ らな つ て検 出 (図 版第 四の下 )さ れ たのであ るが 、燃焼室 の天丼 は製品窯 出 しの たび
に と りはず されて いて、次 の焼成 にあた り窯詰 めがおわ ると、 そのたびに新 し く作 りなお されて く
る。平安期 の施釉資器 の例 で あ るが、瀬戸市 の 広久手 E谷 古窯 (註 2)ゃ 犬 山市 の赤坂第 一 号窯 で
は、竹賛 子 のあ とが明瞭 な天非壁 の ブ ロツ クを 多量 に検 出 したのであ る。築窯 の最終段階 で燃焼室
の天丼 を架構す るにあた つ ては、燃焼室 の両側 に支柱 にな る材 をわた し、 その上 に竹 を細 縄 であん
だ資子 をかぶせたの ち、 ス サ をま じえた粘土 で厚 く塗 りあげ ていつた よ うであ る。毘沙 クゼ第 二 号
窯 の場合、 柱穴 の 中 に炭 がみ られ ない ことか ら、 支 柱 につかつ た材 はお そ らく竹 であつ た で あ ろ
う。
―- 25 -一
これ とお な し手 法 は 、 第 二 を窯 の 煙
道 部 か ら煙 出 しにか けて も 検 出 さ れ
た 。 焼 成 室 末 端 か ら煙 道 都 へ 移 行 す る
と ころで 切 れ て い るが 、 この 窯 で は畑
道 部 か ら煙 出 しの構 造 を■ 大 した よ う
で 、 径 約 5財 の 支 柱 穴 が 、床 幅 の 全体
に わ た りみ とめ られ、 ス サ入 りの 粘 上
を厚 くま い て い る。
第 一 号 窯 で は 、 燃 焼 室 と焼 成 室 の 境
界 に たて られ て い る分 焔 柱 が の こつ て
お り、 大 形 究 を縦 位 に わ つ た もの や 、
焼 け ヘ タつ て 商FI的 価値 の な くな つ た
挿図第十二
大奏 の窯詰と焼台 の使用例 (底 面 )
中形発 を利用 して補 強 してあつ た。古 墳時代 に は しま る古窯構造 の変遷 の 中 で、分焔住 の 設置 は平
ヒの影 響 として移入 された技 術 であ るが 、燃焼室 を真 一 文字 にすすん だ火 烙
安時代 の初期 に中国文 イ
ぶつか
の流れが、分焔柱 に
り二 つに わかれて両側 の通 焔孔 か ら焼 成室 にすす む とい う。窯 内 の温 度
ヒを支 え焼 成 室 の面 Fliを 拡大す るた めに も大 きな役割 をはたす
を平均 イ
ヒす るのに役 だ ろ、窯 の大 形イ
な ど、量産 と燃焼効 率 の点 で画期 的 な改良進歩 であつ た。
また第 二 号窯 では、焼成 室床面 の 中央両側 にあた り、 窯壁 との境 界 部 に近 く、 幅約40翻 o長 さ約
5%に わた つ て 斐 の破 片 をは りこん でい ることが知 られ た。 保温 の 目的 を もつ もの と考 え られ る。
さらに第一号窯 の焼 成室 では、 中央 よ り上 の床面 が 階段状 を呈 してい ること (図 版第
の上 )が
注 日され てい る。 この部分 が階段状 を呈す ることは、須 恵器 の窯 では応 々み うけ られ ることであ る
が、規模 の大 きい 中世 占窯址 では稀れ な例 であ る。 また焼成 室 において大 形斐 を窯詰 めす る問題 に
ついて言及 した い。 この ことにつ いては度 々 (註 3)ム れ た問題 であ るが、第 二 号窯か ら格好 の資
料 (挿 図第 十二 )カ メえ られ た。第 二 号窯 の側壁近 くに窯詰 め されて いた大形斐 が、焼成 の 失敗か ら
下胴部が くずれ、底部 のみが はずれて床面 に遺 存 していた。英 が えして底面 を検 討す ると、側 壁 と
反対側 に片 よつ て焼 台 が 2個 はめて あつ た。
最後 に、煙道部 に つい て は第 一 号窯 では焼成 室末 端 に つづ いて 企体 の 輪郭 を うかが う遺 4rlが の こ
つ ていた。第 二 号窯 では柱穴 に ス サを巻 いた施 設が指摘 され たが、煙道 の構造 は窯 の機能 の優劣 を
きめ る急所 とされてお り、各古窯 と も焼成 のたびに検討 がか さね られ、 改修 が加 え られて い る。
2.出
土 遺
物
毘沙 クゼ第 二 を窯 の 製品 は、常滑 を中心 とした匁1多 半 島 の 古窯製品 の 中 で、鎌 倉時代 の もので13
世紀 にあた るとされ、第 二 窯 の製品 は半 世紀 もくだつ た14世 紀 の もの と編年 されてい る。
'サ
い ま常滑 を中心 として広 く知 多半 島の南北 か ら発見 されてい る古窯址 の 製品 は、 その器形 や組 み
合 わせ に よ り、 一般 に第 一・ 第 二・ 第二 の三型式 に概括 されてお り、平安時代末葉 の 12世 紀 には じ
まつ た ものが 第 一型式 とされ てい るので あ るが、 第一 型式か ら第 二 型式へ 、第 二 型式か ら第 二 型式
へ 、 そして第 二型式 の 終末 あ るい は次 の型式 へ の 碗芽 な ど、 それ ぞれ過渡 的 な推移 もみ とめ られ、
それ らを加 えた六段階 に 区分が で きる。
毘沙 クゼ 占窯址 の製 4の 特色 につ いてのべ る前 に、 製品 の実 測図 (挿 図第十二 )を もとに しなが
rl「
ら各型式 に ついて紹 介 してみ よ う。
常滑 の窯 として総称 され る知 多半 島 の 古窯製品が論 じられ る坊合、 い つ も例 にだ され
るのが、 京都市 今宮神社 で天治二 年 (1125年 )イ I銘 の四方仏 石 の下 か ら掘 りだ され た三筋壺 であ る
第 一型式
―- 26 -一
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常滑製 品の編年
第一型式 (1∼ 3泡 池第一号窯、 4∼ 10大 知山古窯)、 第二型式への過渡期 (11∼ 18社 山瓦窯、 19∼ 26
梶廻間古窯、27巽 が丘第二号窯、28・ 29旭 大池第一号窯)_、 第二型式 (30∼ 32権 現山古窯、33∼ 35釜 山
挿図第十三
第二号窯、36∼ 38巽 が丘第一号窯 )、 第二型式への過渡期 (39∼ 42巽 が丘第二号窯)、 第二型式 (43∼
46加 世端第一号窯、47∼ 51′ 卜州橋古窯、52∼ 53刀 池第一号窯、54∼ 61加 世端第四号窯)
―… 27 -―
が、 12世 紀 の初 めには、す でに知 多地方 の丘 陵 には古 窯が きずかれ、煙 りをだ していた ことを示 し
てい る。
私 の 調査 した窯 の 中 で、第一 型式 であ ることがた しか め られ た古 窯址 としては、大知 山 占窯の 5
基 とか泡池 第 一 号窯、椎 の 木第一 号窯 な どが あ る。
製品 には 山茶碗・ 山皿・ 耳 皿・ 大形鉢・ 三 筋壷・ 短野壷 。長顎重・ 大形甕 な どがみ られ る。 山茶
碗・ 山皿 と も国縁部が ゆ る く外 反 し、 ま る く腹 の張 つ た器形 で、底部 には仕上 げの よい断 面三 角形
の 高台 が つ け られ てい る。 さ らに大形 養 は器高 や腹径 が70∼ 80物 もあ る例 が あ り、 日縁 器 がす るど
く外反 してい る。
行基焼 の初現 をか ざつ た第 一型式 も、鎌 倉時代 の初頭 にあた る12世 紀 の 終末 か ら13世 紀前葉 にな
ると、第 二 型 式 へ の移 行 がみ られ るよ うにな り、 山lllの 中 に 高台 を そなえた第 一型 式 の もの と、 高
台 のは ぶかれ た第二 型式 の 山皿 が、 おな じ窯 の製部,と して併存 してみ とめ られ るのが 特色 であ る。
そ して この 段階 にな ると社 山瓦窯 址・ 奨 が 丘第 ニ サ窯・ 旭 大地第一 号窯・ 梶廻 間古窯五とな どの 例 が
知 られ てい る。
第 二型 式
常滑地方 の 窯 で、第 二 型式 にあた る例 として知 られ る巽 が丘 第 二 号窯 につ いて、先年
東京大学 理学部 の渡辺直経氏 に熱残 留地磁気 の測定 に よる年代考察 を もとめたのであ るが、 その結
果、 13世 紀 の前 半 または後半 とい う報告 を うけた。 ほか には権現 山古窯址 とか、知 多半 島道路 工 事
関係の古窯調査 で発掘 した釜 山第一 。第 二 。第 二 号窯 や、 深谷 第 一 。第二・ 第二・ 第 五 号窯 な どが
あ る。
製品 の種類 には、第一 型式 にみ られ る ものが 多 くひ きつ がれてい るが 、耳 皿 や短 鋲壺 あ るいは羽
釜 の よ うな器種 は姿 を消 し、重 な ど肩部 の張 りが弱 くなつ てい る ものが多い。 さ らに山皿 には、 高
台 が まつ た く省 l略 され てお り、 そのかわ り底部 を心 もち下方 へ つ きだ して厚 くした作 りだ しの例 が
多 い。
第 二型式 第 二 型式か ら第 二 型式 へ 移行す る段階 の例 として、先年、巽 が丘 第 二 号窯 の年代 に つ
い て、東京大学 の渡辺直経氏 に熱残 留地磁気方位 測定 を委嘱 したが、 13世 紀後半 または19世 紀前半
とい う結果 の報 告 を され た ものであ る。先行す る第 二 型式 に くらべ て山茶碗・ 山皿・ 片 口鉢 と もに
ヒはみ られ な い。 山茶碗の側面 にム くらみが うすれ た り、 山皿 のた けが低 くなつ て
器形 に大 きな変 イ
い るのみで、片 口鉢 に も立派 な高 台 が つ け られ てい る。 ところが、 この 段階 での大 きな特色 は、 変
の 日縁 部 にあ らわれ てお り、 これ まで先端 まです るど く弧 をえがいて外 反 していた形 か ら、 日縁端
の縁帯部 が N字 形 に折 りか え され た形 に変化 してい ることであ る。
そ して第 二 型式が成立 したの は、鎌 倉時代 の 終末 か ら室町時代 へ うつ る時 で、 14世 紀 いわゆ る南
北朝時代 といわれ る時代 であ る。加世端第一・ 第 四 号窯 や小州橋 古窯 さ らに刀 池第一 号窯 で一 括資
料 を検 出 し、 山茶碗・ 山皿・ 片 口鉢・ 三 筋壺・ 小形 扁平壺・ 長野重・ 変・ 陶丸 な ど、 多彩 な製品 を
みせてい る。
山茶碗 の器形 にみ られ た腹部 の張 りはな くな り、狽」
面 はほ とん どまつす ぐになつ てい る。 山皿 は
日径 に比 して底面 の径 が三 分 の二 以上 で、器 高 も低 く文字 どお り皿 形 となつ てい る。斐 の 国縁部 は
縁帯部が N字 状 にたた まれ た器 形 です べ てが統一 され、大小 の 差が はなはだ し く、小形 の もの は下
胴部が み じか くそろばん玉 に近 い器形 となつ てい る。
X
毘沙 クゼ第二 号窯 の 出土遺物 は、鎌 倉時代 にあた る13世 紀 の もの と指摘 したが、前 にの べ た編年
体 系か らい えば第 二 型式 で あ る。甕 な ど大形製品 のみ を焼 いてお り、先行様式 とよ く似 てい るが、
外 反 した 口縁部 の 口縁端が 舌端状 になつ ていな くて、 わず かであ るが 縁帯面がす で にみ とめ られ る
な ど、 先行様式 とこ とな る点 であ る。 さ らに本 占窯址か ら出土す る斐 は 口鍛部 が短 かいが、 工 匠 に
―… 28 -―
よる個人差 と解 訳す べ きであ ろ う。 しいて絶 対年代 をい えば13世 紀 の 中葉 か ら後葉 に比定 され るべ
き ものであ ろ う。
そして第一 号窯 の 出土品 も、大形 の 変 や重 が ほ とん どであ るが、分焔柱 の 補修 な ど窯 の整備 につ
か われ てい る遺 物 と、最 終時 の焼成 でやかれ た製品 の両者が あ る。
窯 の補修 につ かわれ てい る ものの器形 は、 甕 の 口縁部 にみ られ る縁帯面 もわずかで あ り、第 一 号
窯 の それ につづ くもので あ るが、最 終時 の焼 成 品 として出土 した例 は、第 二型 式 に編年 され るべ き
もの で、 国縁端 につ くられ た縁帯 部 が 幅広 くな り、 N字 状 に折 りか え され た形 に変化 してい る。大
きさは腹径 60∼70勁 もあ る ものか ら、30%程 度 の もの まで多彩 であ る。 この 時期 の斐 には もつ と小
形 の もの もあ り、他 の 窯 では10∼ 15勁 程度 の腹径 の もの まで あ る。小形 の もの は下胴部 が 切 れ て短
か いのが 特徴 で あ る。第 一 号窯 の最終時 にお ける焼成 の 品 は、第 二型 式 にあた り14世 紀 の 中葉 と比
定 され よ う。
3.甕
の 制 作 ― ― 紐 づ く リー ー
知 多半 島や渥 美半 島の古窯 においては、 墾 や壼 な ど、大 形 の製品 を仕 上 げ るの に ロ ク ロを使用 し
ていない。粘土 を組状 にして順次 に輪 づみ に してい く方法 で制作 してい る。
この技法 はす で に平安 時代後期 の第一型式 の ころか らは じまつ てお り、大形 の 製品 な どす べ て こ
の方 法 で つ くられ て い る。
腹径 や器高が70勁 もあ るよ うな大形製品 をつ くる場合、粘上 が やわ らか くては、制 作 の途 中 で つ
ぶれ て しま う関係 か ら、輪 づ みの場合 も全体 を一 気 に仕上 げて しま うわ けにはいか ない。 2段 か ら
3段 つ みあげては、 くず れ ない程度の半乾 きにな り、上 がか た くな るまで一 両 日の間 その ままにし
ておいて、次 の段 をつ み あげてい くとい うよ うな工 程 をか さねてい くので あ る。
そして粘土 の輪 と輪 の継 日の接着 を確 実 にす るためにい ろい ろの工 夫 が な され、工程 の 間 の継 目
の面 には、水 を湿 した布 をかぶせ たのはい うまで もないが 、新 しい段 をつ む にあたつ ては、継 目の
外側 には押型 をあてが い、 内側 には一握 り程 度 の大 きさの棒切 れ をあてた り、時 に応 じて は指 もつ
か つ て、両手 で つぶ す よ うに して密着 さしてい つ た もので あろ う。 この場合 の押型 に きざまれ た文
様 が うつつ た ものが、 菱 の 表面 にの こつ た押 印文様 で あ る。
平安 時代後葉 にの ば る第 一型式の甕 な ど、肩部 か ら胴部 にか けて 3段 あ るいは 4段 にわ た る押 印
の列 が み とめ られ る。 これ は輪 づ み技 法 に よる工程 の時 間的 な段階 を示 してい る。古式 の もの は、
と くに器壁が うす く仕上 げ られ てい るが、下 の方 か らこまか く工 程 をわ け、上 の乾燥す るの をまつ
て、 お もむろ に積 み あげてい つた ものであ る。 ところが 鎌倉時代 も中葉 をす ざた第 二 型式 の ころに
な る と、大量生産 の必要 か ら、 この 手間 をはぶ くた めに器壁 を厚 くし、数 段か さねてか ら輪 づ みす
るな ど、輪 づみの 作業 の工 程 回数 を少 な くし、 で きるか ざ り成形 回数 を短縮 してい る。 時代 が くだ
るにつ れ て、斐 の器壁が厚 くなつ てい るの は、 工 程 の短 縮 に よ り能率 をあ げて、大量生産 の需要 に
こたえ るとい う理 由か らで もあつ た。
生産 工 程 の短 縮 とと もに、押 印 の ほ どこされ る輸 づ みの段 は少 な くな り、第 二型 式 の ころ ともな
ると、押 印文様 は つ い に実用 をはなれて、単 な る装 飾 として肩 部 に一 段 のみ点 々 と施文 され るよ う
になつ た。
第 二 型式 にあた る毘 沙 クゼ第二 号窯 か らみ られ た押 印文様 は、挿 図十二 の 3や 4に あげ た もの一
種類 のみであ るが、 第 二型 式 に くだ る第一 号窯 か らは約 十種類 の押 印が検 出 され た。
第 二 号窯 の例 は、格子文様 の上 に斜格線 を加 えた簡単 な ものであ るが、 第一 号窯 の例 は縦線・ 横
線 。斜線 をは ど こしたのみの 簡単 な ものか ら、 それ らをか さねた複雑 な もの もみ られ る。 文 様 自体
も単純 な単位 をなす もののみでな く、挿 図 十四 の 9∼ 14の よ うに単位文様 を 2個 あ るいは 3個 も横
- 29 -一
)
10
20
どξ卍∬三聖E■ ≦ことFPぢ 言PE誕 ヨ言臣F配 ∬こ
挿図第十四
昆沙クゼ古窯址群 tこ みられる押印文様
―- 30 -―
Cm
へ な らべ た長方形 の押 印原体 の 捺印面 を構成 した もの もあ る。 これ ら押 印原体 は古窯址 で生活 をい
となんだ工 匠 た ちの手製 にな る道 具 で あろ う。 工 匠 た ちが おのずか ら愛 用す る例 もあつ たで あろ う
が、窯 の 商標 とまでい うべ きで もない。 しか し時代 が くだ ると注 文者 の選択 とい うか、指定 とい う
こと もあ りうる ことで あろ う。
数 の少 ない特殊 な例 であ るが、第 二型 式 で も後半 にな つ た室 町時代 の ころには、 片 日鉢 の 内面 な
ど輪 づみ成形 とは関係 の ない ところに も押 印 されてお り、末期 には小形重 の肩部 をか ざるために、
わ ざわ ざ小形 の押 印 をつ くつ て施文 してい る もの もあ り、完全 に装飾性 を意 図 した ことを示 してい
る。
なお、第 二 号窯 の 出土例 で あ るが、押 印文様 の 捺 印 され てい る上 にあた る肩部 に、俺 によつ て X
印 をかかれ た資料 (挿 図第 十 四の 4)が あ る。一般 には窯 じるしといわれ てい るが 、実 際の施文 目
的 はわか らない。 現在、 こ うした粘土の輪 づみ技法 は、「 紐 づ くり」 とよばれ る特殊 な テ クニ ツ
クとして継承 され てお り、常滑地方全体 で も数人 の人人 によつ てのみ、伝統 が ま もられ てい る もの
で あ る。常滑市 の文化財 として指定 され てい る松下松長 さん は、 この 紐 づ くり技 法 をつ たえ る仲 間
の代表格 で あ る。大形 の 甕 を範 でな でなが ら、手か げん によつ て紐 の 目を とつ てい くので あ る。粘
土 の組 と い つ て も、 太 さが 径 10勁 ほ ど もあ る棒 の よ うな もので あ り、 これ を手 の先 か ら腕 さ らに
肩 にまでか けあげた り、 か つ いだ りしなが ら、 陶工 自身が制作物 の外側 を、何 回 も後 ず さ りを しな
が ら廻 つ てつ み あげてい くので あ り、作業 自体 もなか なか重労働 で あ る。
ヒ財保 護審議会委員 の 村 田正雑 氏 の父 、伝次郎氏
毘沙 クゼ 占窯址 の発掘 をみ に こられ た常滑 市文 イ
づ
づ
(84才 )は 紐 くり技法 の場合 の 輪 みの段 を よぶ単位 に「 ハ ギ」 とい う言葉 をつか つ て、2ハ ギ
とか 3ハ ギ とい う表現 を され、 さきに粘土の 紐 と仮称 した粘 土の棒 を「 ヨ リコ」 とい われ た。 そし
て この技法 を「 ヨ リコづ く り」 と もよん でお られ た。 コ リコの大 きさにつ いては、 製 品の規模 によ
つ て ことな ると前提 し、 長 さは肩 にか け る程度 であ り、太 さは大 きい 手 で もつ ことが で きるとい う
ことで、 10勁 程 度が最大 であ ろ うと教 え られ た。伝統 的な技法 とと もに、古 い 陶器製作者 の 中 に生
きて いた言葉 で あ ろ う。
機械 工 業が は げ し く押 しよせ る中で、伝統 を きず き、 そ して守 つ て きた
人 々の 保持 され る貴重 な技術 であ る。
注
1久 永春 男・ 小野 田勝―「 愛知県渥 美郡 田原町大 ア ラ コ古窯址群 の調査 」
(1964年 、 日本 考古
学 協会昭和39年 度大 会研 究発表要 旨)
。宮 7E4宗 弘 ほか 瀬戸市考土 サ ー クル『 瀬戸 市 の 古窯 。第 1集 一 平安期― 』所収 (昭 和
42年 、瀬戸市教育委員会 刊)
2杉 崎章
3杉 崎章・ 新海公夫・ 磯 部幸 男・ 猪飼英 一・ 宮川芳照『 大知 山・ 旭 大池古窯址」
(昭 和45年 、
知 多町教育委 員会刊)
(杉
一- 31 -―
崎
主
早
杉崎章『 常滑の窯』 (昭 和も 年、学生社刊 )
付載第一
1.調
査
の
経
南 釜 谷 古 窯 址
過
角1多 半 島西海岸 の 中央部 に位す る常滑市 の 市域 は南北 に長 く、 名鉄電車常滑線 はその半分 まで し
か通 していな い。南釜谷古窯 址 は、終着 の常滑駅 か ら一 区手前 の 多屋駅 で下車 して、東 へ 約 1キ ロ
の地点 にあ る。 多屋駅 の北 か ら支谷 を束へ た どつ て、大野谷 の奥 の前 山部落 へ 通ず る 間道 が あ る
が 、南釜谷古窯址 は、 その道路 にそつ た小高 い丘 陵 の崖面 に露 出 して い る。 (挿 図第 一 )地 籍 は常
滑市 多屋字南釜谷20番 地 で あ り、地 主 は井上芳 一 氏 で あ る。 この付近 には南釜谷 の ほか に、釜谷辻
とい う小字名 もあ り、 以前 には本古窯の ことを釜谷辻古 窯 と称 してい る人 も多か つ た。
占窯址 の付 近 は多屋部落の中 で も、 もつ と も開発 の急が れて い る土地 で、す ぐ奥 には住 宅生協 に
よ る多屋 団地 が造成 され、 手 前 には新 し く鬼 崎南保育 園が開設 され た。
古窯址 の地 点 も、地 形 か ら判断 してみ ると、道路 に接 した台地 で あつ た と思 われ るので あ るが、
道路 の方 か ら土 を取 り、現在 では道路か ら約30"も 奥 にあ る遺跡 の地 点 まで崖 とな り、 その中段 に
古窯址 の床面 が部分 的 に露 出 して い る状 況 で あつ た。
一方、南釜谷古窯址か ら出上す る品 物 は、数 多 い常滑付 近 の 吉窯址か ら検 出 され る行基焼製品 と
は ことな り、釉 の施 され た もので、製品 としては瀬戸地 方 の 品物 に近 い もので あつ て、知 多半 島 の
古窯 の 中 で特異的 な存 在 であつ た。 そ うした意味 で も、常滑 の 陶業史 を考 え る場合、 常滑 の窯 の系
譜 の 中 で南釜谷古窯 址が どん な位 置 をしめ るのか、 どの よ うな役害」をはた して きたのか、誰 れ し も
考 え る重要 な課題 で あつ た。
古窯 は最初 に沢 田由治氏 や令息 によつ て発見 され た といわれ るが、 その後 になつ て多 くの 人 々に
よ りあ ば き掘 られ、 この まま放 置 してお い た場合、資 料価 値 の高 い古窯址が、未調査 の まま崩壊す
る懸念 もあつ て、常滑市教育委員会 では市 に文 化財保 護審議会 を設 置 した最初 の発掘事業 として、
本古窯 の調 査 を と りあげ た ものであ る。 発掘 は昭 和44年 3月 24日 か ら開始 した。
連 日、常滑高等学校 の社会科研究会 の諸君 の参加 をえ、学術担 当は杉崎章 で あ るが、 立松宏・ 猪
飼英 一 。磯部幸 男の諸氏 に調査貝 として応援 を うけた。
窯 の構造が、発掘す る前 に想 像 してい た客窯 でな くて、規 僕の 多 きい連房式登 り窯 とな り、 調 査
期 間 も予定 を延長 して、 つい に春 の 体 H限 中 には完 了で きず、4月 になつ て も土曜、 日曜 と作業 を つ
づ け、全体 の調査が おわ つ たの は 4月 の 15日 で あつ た。
2.窯
構
造
前釜谷古窯 址 は、西 に面 した斜面 に きず かれ てお り、全体 の傾斜が約20度 のいわゆ る連房式登 り
窯 で あ る。
窯 の本体 は、焚 日か ら燃焼室 の部分が水 田の造 成 で立 ち切 られ てい るが、残存す る遺 構 は全 長20
物 をはか る。現存 す る焼成室 は室数 7室 をか ぞえ る。仮 りに下方 か ら第一室・ 第二 室 とllk次 よぶ こ
とにす るが、 前 にの べ たよ うに燃焼室 の部分が けず りとられ てお り、遺存 した窯構造 の 最下部が障
壁 とな つ てい ることか ら、第 一 室 と仮 称 した焼成室 の下 に、最初 の 部屋が まだ存 在 したか も知 れ な
い。 しか し床 幅がす でに しば られ、 せ ま くなつ てい るので存 在 していた として も 1室 の み で あ ろ
う。 これ ら 7室 にわかれ た焼 成室 が段 をな して連続 してい るわ けで あ る。
窯 にむか つて左す なわ ち北側 の窯壁 は、 おおむね全体 にわた り確 認す ることはで きるが、右手 に
あた る南側壁 は土 取 り工 事 で けず られ た崖面 につづい てい るため、 後 部 の数室 では崩 れお ちてい る
―- 32 -―
︱l ωω l︲
挿図第十五
南 釜谷 古 窯址 の窯 構造
0
2m
密
ところ もみ られ る。床幅 もこ うしたわ けで完全 な把握 は困難 であ るが、最
前端 の障壁 の ところで床幅 2.6物 であ り、 もつ とも広 い ところは第五室 に
お け る 3物 で あ る。各室 とも奥行 よ りも床幅 の方 が広 い横 長 の形 を呈 して
お り、各室 の大 きさは別表 に示す とお りで あ る。 それ ぞれ細 部 につ いては
付表第 二
焼成室各房 の大 きさ
房
さまあな
行 も40勁 近 い トン ネル であ る。 その奥 の狭 間穴 とい つ てい る部分 は、 約30
勁 の奥竪が ほ とん ど垂直状態 に立 ちあが り、火烙 の流れが次 の部屋 へ 吹 き
だ してい く仕組みで あ る。垂直 に切 りたつ た壁面 はか た く焼 けてお り、前
床幅
260
相違が み られ る ものの構造 や施 設 につ いては よ く似 た ものであ
eSぁ し
各室 の境界部 に幅40勁 の障壁が つ まれ、 障壁 は格子状 を した狭間脚 の並
列か らな つ てい る。 それ ぞれの脚 の 幅 は20勁 であ り、脚 と脚 の 間隔 も約20
翻 であ る。 そして床面 か らアーテ形 をした天丼 まで高 さ約40翻 を示 し、奥
奥行
280
280
四
290
行
七
単位 勤
室か ら流 れ こんだ火烙 が、 この壁 にぶ ちあた る とと もに、部屋一杯 に入 りこん だ役割 を裏書 きして
い る。狭 間穴 の数 は、 平均 して 7個 であ るが 、 もつ と も幅 の広 い第 五 室 と第 六室 の 間 にみ られ る障
穴 がみ られ る。
これ らの施 設 をつ くりあ げ るの に、本古窯 の段階 では、 い まだ レンガ を使用 してお らず、実 際 に
壁 には 8
4Elの
確認 で きた場所 は数個所 であ るが、木 を心 に して粘土 をま きつ けて つ くりあ げてい た。 (図 版第九
の上 )
焼成室 の 各部屋 に 1個 か 2個 、 13∼ 14勁 角 の支 柱 と思 われ る ものがの こつ てい る。
また左側 の壁 はほ とん どつづ いてい るが、右側 にあた る南側壁 においては、 それ ぞれの部 屋 に入
つ てす ぐ隔壁 につづ いて、 製品 の 出 し入れ とか、薪 の投 げ入 れ に使用 した入 日が付設 されてい た ら
し く焼 け具 合 が ちが つてい た。
そ して天丼 の高 さについては、正確 な資料 はえ られ なか つ た。 隔壁 の 中 で もつ と もよ く遺存 して
い た ところでは約90財 の こつ てい た ところが あ るの で、1物 前後 で ど うにか人 の 出入 に不 自由な く
で きる程度 と考 えたい。
最後部 にあた る第 七室 につづ く狭 間穴 の奥壁 は15勁 ほ どの 高 さで あ るが、 それか ら背後 は煙道 部
で あ る らし く、 幅 は約1,8物 で長 さ1.4物 にわ た り、 やや弱 いが 赤 く焼 けた粘土塊 の段が 2段 にわ た
りみ とめ られ る。段 の 萬 さは 8勁 にす ざない。
3.出
土
遺
物
南釜谷古窯址 よ り出土 した遺物 には多彩 な種類 の 品が あ るが 、 ここには と りあえず製 品 を碗・ 皿
類、茶器類、仏具 類、生活雑器 の 四 つ にわ け、加 えて窯 内で製品 を焼 く場 合 に使 用す る窯道 具 にわ
けてのべ てみ よ う。
(1)碗 ・ 皿 類
a)灰
釉 皿
(挿 図第十 六 の 1)
日径約 14初 、高 さ約 3.5勁 の皿 で、高台 は と くにす るど く仕上 げ られ てい る。胴 部 の全体 に青 み
がか つ た灰 釉 が広 くは ど こされてい る。
b)絵
付 皿
(挿 図第十 六 の 2)
口径約21勁 、高 さ約 3初 の皿 に、富士 山な らびに麓 の松原 を描 い た もので あ る。
絵付 けの顔料 としては、富士 山の 輸郭 や雲 な らびに松 の幹 には、鉄 の釉 を もちい、 山頂 の雪景色
や松 の葉 は長石系 の絵 ぐす りで自 く色 ど られ てい る。
瀬戸地方 において も絵付 けの製品が あ らわれ るの は桃 山期以後 の ことであ り、 この製 品 の 存 在
は、 この 窯 の年代 上限 を うかが うの に大 きな意味 を もつ 資料 となつ てい る。
―- 34 -―
削ミ
≧ゴγ 理ヲ
3
/
挿図第十六
南釜谷古 窯址 の 出土遺 物
1.灰 釉皿
2.絵 付皿 3.小 天 目
10茶 釜
‖ .タ ライ 12.!雷 鉢
牛5。 蓋置
6・ 7.香 炉
13.ひ さこ形′壺
一- 35 -一
1ヽ
8.洗
9.こ ぼ し
14.片 口 15,16.陶 錘
底 面 の 高 台 の 中 に そ つ て 、 重 ね焼 きの時 には め た トテの 痕跡 が 4か 所 み とめ られ る。
c)碗
I縁 部 に施 した小 碗 が あ り、 大 き さは (1)の
ま とま つ た器 形 で は な いが 、 飴 和 を
「
a)に あ げた灰 釉
皿 の 程 度 で あ る。
(2)茶
器
類
a)小
天
日
(挿 図第 十 六 の 3)
日径 約 7勁 、 高 さ 4.5翻 の 大 きさで あ り、 真 黒 い 天 日釉 を内 面 は 全面 、 外 面 は商 台 の あた りの み
をの こして 広 く施 T由 して あ る。
b)蓋
(挿 図第 十 六 の 4・ 5)
置
茶 釜 の 蓋 をお くの に つ か われ る筒 形 の 道具 で 、 本 古 窯 の 製 IP,と して 図 に示 した 2例 は 、氏 に 下f台
を もつ もの と もた な い もの で あ るが 、 一 般 的 に は底 の 抜 けて い る例 も多 い 。 底 面 をの こ した 内外 の
が み られ る。
全 面 にわ た り、 茶 褐 色 を呈 した鉄 和Ч
c)こ
し
ば
(挿 図第 十 六 の 9)
日径 約 17翻 、 高 さ10勤 の 大 きさで、 低 い 高 台 を もつ て い る。 胴 部 は下 部 にい た るまで重 Tlに 立 つ
が か け られ てい る。
た厚 手 の 器 で あ り、 日縁 部 か ら下 部 へ 白 い 長 石 系 の 狛ゝ
d)茶
(挿 図第 十 六 の 10)
釜
胴 径 約 20側 の 外 側 に幅 2.5側 の ツ バ を もつ て お り、 日縁 部 はわ ず か に 内傾 して い る。 内面 は全 而
に外 面 は ツ バ の 線 か ら上 に、 茶 褐 色 を呈 した鉄 和れが ほ ど こして あ る。
e)茶
れ
入
灰 釉 の か か つ た丸 い もの 1個 で あ る。
(3)仏
類
具
a)香
炉
(挿 図第 十 六 の 6・ 7)
口径 約 16勤 の もの と13勁 の もの の 2例 を図 に示 したが、 高 さは い ず れ も 7翻 前 後 で あ る。 胴 部 は
底 部 へ か けで わ ずか にせ ま くな つ て お り、底 部 に は 3個 の小 さい足 が 付 され て い る。 内外 の 全面 に
薄 茶 色 の 釉 が ほ ど こ され、 さ らに上 半 部 に は 黒 褐 色 の 鉄 帝Iが か け られ て い る。
b)タ
ラ
イ
(挿 図第 十 六 の 11)
日径 約 38勁 、 高 さは約 23財 の 大 き さで、1.5初 の 器 壁 を もつ て い る。 底 判
付 され て い る高 台 も
`に
亜厚 で あ る。
木 製 の タ ライ を模 してい て 、 竹 の タ ガに 相 当す る凸帯 を、 上 1同 部 に 1条 と下 胴 部 に 2条 め ぐ らし
て い る。 そ して器壁 の企 面 に茶 褐 色 の 鉄 釉 が み とめ られ て い る。
あかばち
沢 田山治氏 は、 この製 品 の用途 を仏前 にそなえ る水 を入 れ た 閉物H鉢 にあててお られ るが、妥 当な
見解 とす べ きで あろ う。
c)仏
器
花
仝面 に茶褐色 の鉄釉 をか け た も の
で、耳 の部分 のみが 検 出 されてい る。
(4)生
活 雑 器
a)橘
鉢
(挿 図第 十六 の 12)
口径 約 35勁 、 底 径 約 14初 、 高 さ20翻
「
弱 の 大 きさで、 鉢 の 内蔵 に 約 10条 の 刻
み 目 を同時 に は ど こす こ とが で きる櫛
で筋 が つ け られ て い る。
瀬 戸 地 方 で は 、 相 鉢 の 生 産 は室 lF末
挿図第十七
一- 36 -一
窯
道
具
―区
鉢―
期 に は じま つ て お り、 初 期 の もの は刻
み 日の 本 数 が少 く、 1組 4本 程 度 で底
面 には施 され て は い なか つ た。 しか し
f窯 の 時 則]に な る と、 底 面一 杯 に つ
木ド
け られ、 側 山iも 相 当 に
れ てとヽる。
b)片
liま
で み とめ ら
旧 (lFh図 第 十六 の 14)
IJ径 も高 さ も約 15勁 の 大 き さで、 半
球 形 を呈 した器 形 で あ る。 にI縁 部 に樋
の よ うなと ざ口 をつ け られ た もの で 、
1.区 鉢 の内部に輪
ドチを入れ、その上に製品をつめた状況
(匡 鉢の底からみる)
底 部 に は低 い 高 台 が み られ る。
一 般 的 な 器 形 で あ るの で 、 い ろい ろ
に使 わ れ るが、 酒 や し よ う油 な ど液 休
状 の もの を樽 か らだす の に もろい る。
c)脆 (挿 図 第 十六 の 8)
セ ン とい つ て い る器 で 、 日径 33勁 、
高 さ15初 の 大 き さで、 ホ 壁 は厚 い 。 底
面 には 3 1Blの 足 が つ い て い る。
所¶理 の 時 、 食 物 や その材 料 をな らべ
るの に使 用 した り、 時 に は ハ ン ブ と称
2.ェ
プ
タ
して 手 を洗 うの に も供 され た。
d)ひ さ ご形 小 邑 (挿 隠第 十六 の 13)
胴 まわ り10勁 強 の小 壺 で 、 中央 が く
びれ、 ひ さ ご形 を呈 して い る。
木 li11は 液休 容 器、 と くに酒 を入 れ る
徳 利 として つ か わ れ た もの と猪 え られ
よ う。
ひ よ うたん の 実 で つ くつ た ひ さご を
模 した器 形 で あ るが、 この 形 は
、
「1本 人 に愛 好 され、 生 活 の 中 へ 'f来
とけ こ
ん だ よ うで あ る。
e)油
さ
し
,41Wtt■ ■■
:■ │││11■1■ il■ 榔
3.左 か ら 足つき ド'││■
チ、円形足 つ き ドチ、よ りひ も、ニ ギ リ
(図 版 第 十二 の 13)
小 形 の上 瓶 形 を した 注 1上 rrで 、 球
形 を した胴 部 の 肩 と注 ざ 1近 くに耳 が
「
あ り、 つ るを通 して い る。 本 古 窯 か ら
は この 胴 科
肩 に何 され た 耳 の 部 分 が
`の
検 出 され、 最 大 腹 径 10勁 5]、 高 さ も 6
勁 程 度 の 大 き さで あ る。
燭 台 や皿 に幻 明油 を つ ぐの に もちい
る道 具 で あ る。
f)陶
錘 (挿 図第 十 六 の 15o16)
漁排 な どの 生 産 に つ か わ れ たお も り
4.焼 台 の上に輪 ドチをすえたところ
挿図第十八
―- 37 -…
窯道具 のい ろい ろ
で あ り、 長 さ 5翻 、 腹 径 3翻 程 度 の 大 きさで あ る。
(5)窯
こう
a)区
道
具
ばち
鉢 (挿 図第十 七 )
エ
ゴ
ロといつてい る もので、 国径 18勁 程度 で、高 さは約 12初 の ものが 多 い が 7∼ 8物 の も
普通 に
の まで あ る。
乃hを ほ どこした品 な どを焼 く時 に、 これ に納 めて窯詰 め した もので あ る。
配鉢 の底 部 は、窯 に詰 め る時 にか さねやす い よ うに底 出 し となつ てい る例が ほ とん どで あ る。
b)ェ
ブ
タ
(挿 図第十 八 の 2)
阻鉢 の フタに使用 した もので あ る。
矩形 をして い るので、匝 鉢 か らはみ だ した部 分 に も、小形 を器物 をな らべ た痕跡 がみ られ るが、
やがて棚板 として発展す る もとになつ た もので あ ろ う。
C)輸
ド チ
(挿 図第十八 の 1・ 4)
形 に大 小 が あ り、 大 形 の もの は焼台 の上 にす えて、大形 の 品や匝鉢 な どが安定す るよ う に し た
り、小形 の ものの 中 には、 匝鉢 の 内部 の底 に入 れて、貴重 な 品 をお さめ るた めの窯詰 めの安定 や、
底 に焼 きひびの入 るの を防 ぐの に使用 され る。
d)足 つ き ド テ (挿 図第十八 の 3)
輪 ドテに数個 の 足が つい た もの で、 品物 の 内底 にす えて、 その 上 に別 の 品物 をか さねてす え るた
めの もの で あ る。
e)円 形足 つ き ドテ
(挿 図第十 八 の 3)
輪 ドテで はな く、 円板形 の 隔板 に数 個 の足 が つ い た もの で、足 つ き ドチ と同様 に もちい られ てい
る。
f)ト
テ
(図 版第十二 の10)
品物 をか さねて焼 く時 につみ あげ る場合 に、密 着 を防 ぐ方 法 として簡単 に任意 の形 の粘 土 をは さ
んだ もので、普 通 に トテ とよんでい る。 橋鉢 に使 用 した もの (図 版第十 二 の10)な ど下部 に刻 み 日
が つ いてい るのでわか る。
g)よ り ひ も (挿 図第十 八 の 3)
匝鉢 と匡鉢 の 間 には さんで隙 間 をな くす る もので、簡単 に手 で ま るめて つ くつてい る。
h)ニ
ギ
リ (IFH図 第十八 の 3)
粘土 を手 でま るめて棒状 に した もので あつ て、 積 みか さねた臣鉢 が安定 して倒 れない よ うにす る
ためにつ か われ てい る。
4.後
記
南釜谷古窯址 を調査 した結果、本 占窯址 は常滑市 内 は もちろん知多半 島 に も類 の まれ な古瀬戸系
統 の古窯址 で あ る ことがわか つ た。 さ らに重要 な ことは、本古窯 址 の窯構造 で あ り、知 多半 島 の 他
の窯 とちが い、す でに連房式登 り窯 の型式 を とつ ていた。
角1多 半 島 には本古窯址 のほか に、 もう 1基 の古 瀬戸系統 の古 窯址が知 られ てい る。 それ は知 多半
島の先 端か ら約 2 kmの 海 上 に うか ぶ南知多町 の 日間賀 島 に存 在 してい た下海古窯址 (注 1)で あ
る。私 は数年 前、 その ころ 日間賀中学校 に在職 して い た宮川 芳照 (現・ 丹葉郡大 口北小勤務 )お な
じ く師崎中学校 に在職 して いた磯部幸 男 (現・ 知 多郡武豊小勤 務 )の 両氏 とと もに、下海吉窯址 の
調査 を担 当 した ことが あ る。
下海古窯址 は分焔 柱 の 背後 にあた る焼 成室 の 前端部床面 に段 が あ り、段 の 下で分烙 柱直 後 にあた
るところに数本 の支 柱 を格子状 にたててい る遺構が あつ た。
―- 38 -―
それか らの ち、 私 は瀬戸 市教育委員会 よ り招 かれて、瀬戸市 の水 野 にあ る昔 田古窯址 の 調査 を担
当す る機 会 にめ ぐまれ たので あ るが、 これが 日間賀 島 の下 海古窯址 とおな じ年 代 であつ て、窯 の構
造 も良 好 な条件 で遺 存 (注 2)し てぃ た。 す なわ ち分烙 柱背後 の焼成 室床面 に、 中軸線 に そつ て 3
本 の支柱が たて られ ていた。昔 田古窯址 や 下海古窯址 の段 階 は、 い まだ連房式登 り窯 とい う形 では
な く、 か つ て楢崎彰一氏 が信楽窯 で調査 した双胴式 の焼成室 を もつ た苗窯 (注 3)と 同 じ築窯 の構
想 で あ るが、 瀬戸地方 の12-合 は地 の利 をえて支 柱 で用 を足 してい ることを指摘 (注 4)し た ことが
あ るよ うに、古来 の客窯 の型式 を うけつ ぐ中 で、窯 の 規模が拡大 され るとともに、半地上式 の登 り
窯 へ 移行 してい く過渡段 階 として評価 され るべ き もの であ ろ う。
瀬戸地方 の古窯 の 中 では、焼成室 を隔壁 によ り前室、後 室 にわ けた例 として小長 曽古窯址が知 ら
れ、製 品 の型式か ら昔 田古窯址 よ りやや先行 す る もの とされ てい る。
そ して昔 田古窯址 につづ く時期 の もの としては、尾 呂古窯址 の存在 が知 られ てい る。
尾 呂の古 窯址 は未調査 で あ り、表面採集 の資料 でみ る知見 にす ざないが、仲 々のす ぐれ た品物が
そ ろつ てい る。 そして編年 的 には、 この たび調査 した南釜谷古 窯址 とはぼ 同一年代 に比 定 されてい
る。学術調査 を され ていないので 明確 にの べ ることはで きないが、遺 跡 の現状 を表面か ら観察す る
範 囲 では、 これ もお そ らく連 房式登 り窯 で あろ うといわれ てい る。 (注 5)
瀬戸地方 においては、小長 曽古窯一→ 昔 田古窯―→ 尾 呂古窯 とい う古瀬戸後期 の変遷 の 中で、在
来 の客 窯か ら連房式 の登 り窯 へ 、窯 の構造 が次 第 に改良 されてい つ た もの であ る。
そ して昔 田古窯址 の時期 には 日間賀島 の 下海古窯址が あ らわれ、尾 呂古窯址 の時期 にはす なわ ち
南釜谷古窯址 とい つ た よ うな形 で、瀬戸地方 で研究 され成 立 した築窯技 術が、 それ までの知 多半 島
にお け る築窯 とは関係 な くもち こまれ た もの であ ろ う。
それ にして も南釜谷古窯址 は、一般 的 な連房式登 り窯 の 築窯 とは ことな り、 い まだ木心 を中心 と
して粘土 で ま きあげて い くとい う初期 的 な方法 であつ て、 レンガ を使用 した新 しい形 とは ちが つ て
い る点 な ど、連房式登 り窯 の 中 では最古 に属す る例 であろ う。
一方、焼成室の各房 に 2個 前後 の支柱が横 に配 置 されてい る もの を、特別 な品物 を焼 くための台
として考 えたの であ るが、 ほ とん どす べ ての支 柱が狭 間穴 の直前 にす えつ け られ てい ることか ら、
狭 間穴 へ すい こまれ 、焼成 室 の次 の房 へ 吹 きあげ られ てい く火烙 の 流れ に対 し、分 烙支 柱 の よ うな
役 目 も呆 した ものであ ろ う。
X
製品 として あげた多彩 な種類 の それ ぞれ は、 ともに古瀬戸 陶器 の後期 を示 す品 であ るが 、 と くに
絵付皿 な ど吉瀬戸 陶器 として も桃 山期 になつては じめて 出現す る技法 で あ り、南釜 谷古窯 の成 立年
代 を示嵯す る もので あ る。
福鉢 の 内面 にみ られ る刻 み 日 も室町時代 の ころの よ うな、 3∼ 4本 の 日を側面 のみ にか きあげた
とい う形 ではな く、す べ て10本 前後 の 日を もつ 器具 を使 用 してお り、狽」面 も相 当 に上 ま で か き あ
げ、底面 も一 杯 に亥」み 目をつ けて効率 を高 めてい る点 な ど、 窯構造 の 面 で初期 の連房式登 り窯 とい
う ことと考 えあわ して、築窯年代 を近 世初期 、強 いて年代 をあげれ ば慶 長 の ころに比 定 され る もの
で あろ う。
常滑地方 の 窯業 が幾 変遷 す る発展 の 中 で 、一 つ の局面 に遭遇 した時、瀬戸 の地 方 か ら指導者 を招
い て新 しい型式 の 窯 を築 き、製品 も瀬戸地方 で普 及 してい る もの をつ くつ てみた。 しか し、 その成
果 は継続す る生産が つづ か なか つ た ことで もわか るよ うに、粘 土 の性質 もちが い需要 もことな る地
方 とて期待 したは どではなか つ た もので あろ う。 やは り常滑地方 の窯業 は、低 温度 で焼 け しま ると
い う知 多地方 の粘上 の特性 を生か した大形製品 、す なわ ち大形甕 や大形壺 の生産 に こそ、将来 の生
命 を知 らされ、 それが やが で陶管 の生産 を もつ て代表 され る常滑地 方窯業 の進 み方 を暗示 した もの
―- 39 -―
と考えるべ きであろう。
いつてみれば、常滑窯業 の発展史上 の エ ポツクを画す る一 つである。
註
1.杉 崎章 。宮チ│1芳 照 ,磯 部幸男「 尾張国日間賀島下海古窯址の調査」『 瀬戸市の古窯・ 第 2
集―八 lle古 窯址―』所収
(昭 和44年 、瀬戸市教育委員会刊)
2.瀬 戸市教育委員会の事業として、杉崎が学術担当者となり、瀬戸市考古サークルとともに
調査 した。
杉崎章 。宮石宗弘「 瀬戸市昔田吉窯址群の調査」 (昭 和44年 、 日本考古学協会第35回 総会
研究発表要旨)
3.楢 崎彰■「 滋賀県信楽町中井出古窯址群の調査」
(贈 和43年 、 日本考古学協会第34回 総会
研究発表要旨)
4.た とえば杉崎章 F常 滑の窯』 (昭 和45年 、学生社刊)
5,瀬 戸市史編纂委員宮石宗弘氏 の教示 に よる。
(杉
一- 40 -―
崎
―
章)
付載第 二
1.上
ゲ 遺
上
跡
ゲ遺跡 と知 多半 島の製 塩遺 跡
上 ゲ遺跡 の位 置 は、常滑市立鬼 崎北小学校 の 中 にあ り、屋 内運動場 の敷地 を中心 として校庭 の一
部 にひ ろが つ てい る。地 籍 は常滑市西之 口字上 ゲ61番 地 に属 してい る。
名鉄電車常滑線 の西 之 口駅 を下 車 して西 へ 約 100物 い くと、電車路線 と平 行 して困道277号 線 が通
してい るが 、 国道 にそつ た西 側 に鬼 崎北小学校屋 内体 育館 の屋根 が み え る。遺跡 はその 付 近 で あ
る。
つのがた
大 正 時代 の初年 の ことであ ろ うか、鬼 崎北小学校 の 旧校舎 を建設 す る時 に、北西 の 隅か ら角形 を
した異様 な土器が カ マ スに一 杯 も出上 して注 目をあび た とは、常滑市大 野町 に在 住す る郷 土史研究
家 の 江本半助氏 の談 で あ る。 こ うして上 ゲ遺跡 の存在 につ いては、文 部省 や県 の関係 当局 へ知 られ
てお り、 古 く昭和初年 か ら遺跡地 名表 に登 録 され ていた ものであ る。
しか し、他 の先史遺跡 とは性格 の ちが つ た もので、製塩遺跡 とい う ことが はつ き りして きた の は
昭和30年 の ころの ことで あ る。 その ころよ うや く全 国的 にすす め られ て きた古代製塩 の 研 究 に よ
り、古墳 時代 か ら奈良 時代 につづ く土器製塩 の 遺跡 で あ ることが判 明 して きたので あ る。
全 国では瀬戸 内地方 をは じめ として、若換・ 和泉・ 紀働・ 淡路・ 尾張 。三 河・ 能登・ 佐 渡・ 肥後
な どにわた り、お な じよ うな条件 で遺 跡 が検 出 され て きた。知 多半 島では約30地 点 が知 られ、渥 美
半 島では 6地 点 が知 られ る。知 多半 島 の30地 点 は、先 端 の 師崎地方 や伊勢湾 にそ う東海市付近 に密
集 してい るが 、 日間賀島で は横 穴式 石室 の 中 に副 葬品 として製塩 土器 を もつ た古 墳 が発見 され た り
美浜町奥 田の 海岸 には大 規模 な遺 跡 が知 られ てい る。 そ して上 ゲ遺 跡 は常滑市域 で発見 されてい る
ただ 1か 所 の古代製塩遺跡 で あ る。
ところで知 多半島 の古代製塩遺跡 が一躍 に して全 国的 に有名 になつ たの は、奈良 の平城宮址 の発
掘 で あ り、昭和38年 の第 13久 調査 にあた り多数 の本簡資料が出土 した。 中 に地 方 か ら納 め られ た調
塩 につ け られ た荷札 が あ るの であ るが 、調塩付 札 の 17点 の 中 の 3点 は知多半 島の関係 で あつ た。
にえ しろ
Iよ
かゝ
出土 した木筒 は、南 の方 よ り富具郷野 間里 (天 平元年 )、 贄代郷朝倉里 (天 平元年 )、 番賀郷花
井里 (神 亀 四年 )の 地名 がでてい る。 これ には納 税者 の 名前が記 されてお り、 と くに野 間里 の例 に
は、納税 責任者 であ る郷長 の名 もみ られ、 それ らがす べ て フエベ であ る。天平六 年尾張 国正税帳 で
知 られ る智 多郡 の少 領が ワニ ベ 臣若 麿 であ るな ど、従 来 か らもフエベが尾張 国智 多郡一 帯 に購居 し
てい るこ とが知 られ ていたのであ るが、 フニ氏 とい えば古 代 日本 において、大 和朝延 をと りま く諸
豪族 の 中 で、最初 に東海地方 へ 進出 した もの で あ る。 そ うした ところへ 今度 の平城 宮址木簡 の 調塩
付 札か らうかが え る知 多郡 の 関係者 は完全 に フニベ であつ た とい うことは、 これ らの ことを裏 づ け
る資 料 で あ る。
2.古
代海浜集落の構造
古い製塩 技術 を物が た る言葉 として、古 くか らいわれ万葉集 な どに も「 藻塩 や く」 とい う語句 が
あ るが 、 この 製塩 工 程 をさ らに具体 的 に説 明す ると、海藻 を直 接 に焼 い て塩 をつ くる とい うの では
ない。海水 を濃縮 させ てい く作業 と、 で きた濃 い塩 水 を煮沸 させ てい く仕事 の両段階 を同時 に表現
した もので あ る。 そ して前 にい う海藻 の利 用 は、 この場合 の濃縮 工 程 で あつ て、刈 りとつ た海藻 を
乾燥 させ 、塩 の結晶が十 分 に付着す るとまた海水 をか けて、塩度の高 い水 をつ くり、 これ を くりか
え して濃 度 を高 め る方法 で あ る。
―- 41 -―
業 であ り、濃縮 され た塩水 を小形 の 土器 に入れ て煮 沸
そ して製塩 工 程 の 後段階 はいわゆ る煎
す るの であ る。
'(作
この よ うに して製塩工程 を濃縮 と煎蒸 の両段階 にわ け ることは、今 も昔 もか わ つてい ない。海藻
をつ か つ た濃 縮 工 程 は、 やが で塩 田 とな り、揚浜式 か ら入浜式 へ とすす み、塩水 を煮沸す る煎 終工
L器 か ら鉄釜 とか石釜 を使 用す る方法 に改良 されてい る ものの 、考 え方 と
程 は、中世 にな る と小形三
ししようか
しては、場 在 の近 代 的経営 にお け る流下式製塩 で あつ て も、枝 条架 と流下盤 を組 み 合 せ ていて、原
貝」的 にはかわ つ てい ない。
古代 にお け る土器製塩 の方 法 は、近藤義郎氏 を中心 とす る瀬戸 内海 の喜兵衛 島遺跡 の JHLl査 に よつ
て最初 の成 果 が あげ られ たので あ るが 、喜兵衛島 をは じめ とした製塩遺跡 におい て、 その生産遺構
が次第 に把握 されて きた。 す なわ ち海 にの ぞん だ砂浜 の 中 に、橋 円形平面 の炉 が 検 出 され 、 その周
囲 に作業場 と考 え られ るタタキ面が拡が り、 タタキ面 の後方 に炉 の 作業 で機能 を果 し、破損 した製
塩土器 をか きだ し遺棄 した堆積層 がみ とめ られ る とい う、有機 的 な一連 の生産活動が報 告 されてい
る。瀬戸 内海 の喜兵衛 島 をは じめ、石部 正志氏 の 調査 され た若狭湾 の遺跡 では、炉 の平面 に石が敷
かれ た構造 が検 出 され た。
一 方、遺跡 の生産 内容 が製塩 であつ た とい うことの立 証 について も、科 学 的 な裏 付 けが な され て
い る。 各 工 程 の 中 で塩 イ
ヒナ トリウ ムについ ては可溶性 であ るため検 出で きな いが 、不 溶性 の炭酸 カ
ル シユー ムは多 くの面 に残存 してお り、 と くに炉 の 中 の 敷石 や その直 下 か ら、飴色 の膜状物質 の形
で検 出 で きた といつてい る。
知 多半 島 では、上 ゲ遺跡 とお な じく同一地点 で各 1時 代 にわた り生活が な され た歴 代遺跡 が 多 く、
具体 的 な生産遺構 をみ とめ ることは困難 で あ るが 、護岸堤 防 の外側 で発見 され た南知 多町 の 清水 遺
跡 な どでは、波 によ る侵 蝕 の ために柔 かい部分 が洗い流 され、炭酸 カル シユ ー ムが しみ とお り、 か
た くしまつ た平担面 のみが50%近 くもつづ き、炉 と考 え られ る焼 けた面が点 々 とみ とめ ら れ て い
る。
3.上 ゲ遺跡の調査概要
上 ゲ遺跡 は もちろん塩 の生産遺跡 であ るが 、貝塚 が形成 されて生活址 も近 か つ た。
昭和45年 の 5月 2日 と 3日 の両 日に実施 した調査 は、海岸 繰 と平行 に長 さ10%で 幅 1.5%の トレ
ンチ を設定 し、 つづ いて直角 に長 さ 5%で 幅 1.5夕 の トレンチ を掘 つ てみ た。深 さはいずれ も約 1
%で 、地 山 の海成砂層 に達 したが 、最初 の トレンチの北部 で基盤 の直上 か ら、 奈良時代 の住居址床
面 と推定 され る生活面の検 出 に成功 した。遺跡 が砂地 で こわれやすい点 と、床面の中 央 に コン ク リ
ー ト基礎が打 ち こまれてい ることか ら、 古代漁民 の住居址 を完 全 に復元 で きなか つ たの は惜 しまれ
る。
製塩 の炉 址 につ いては、校 庭 の各所 に焼土 や灰 層が み られ ることか ら、多 くの遺構が近 くに存在
す ることが わか るので あ るが 、発掘 の 範囲 では明 らか にで きなか つ た。 また出土品 につい て は、大
部分 が角形 の脚 を もつ第 4様 式 の製塩土器 で あ り、脚部 の例 を約 100点 も採集 した。
私 は校舎 が新築 され る前 の 状態 を知 つ てい る。す なわ ち調査地点 か ら数 %も 西 へへ だ てて、学校
の敷地 とは段 をな して低 い水 田地帯が み られ たので あ るが 、 この たびの校地拡張 にあた り、水 田が
埋 めたて られ たので あつ た。 いいか えれ ば元の校地 は、 それ 自体 が 占い海岸線 を示す砂堆 で あつ た
わ けで あ る。
砂堆 の西側 で水 田に近 い部分 に製塩遺構が点 々 と露 出 してい た知 見 も多か つ たのであ るが 、水 田
ヒをめ ざした工 事 の ため、遺構 を示す地点 をみ うしなつ て し
の埋 立 て と同時 にな された敷地 の平担イ
まつ たわ けであ る。
一- 42 -―
2
1
4
HV
知 多式
3
▼▼
渥 美式
挿図第十九
蛍
東海地方製塩土器の変遷 (実 測図は縮尺 4介 の 1大 )
第
1・
2様 式
(知 多式いずれも松崎員塚、渥美式 いずれも青山貝塚)、
(中 央・大森遣跡、左右・下浜田遺跡)、
第 3様 式
第 4様 式 (い ずれ も大森遺跡)
4.東 海地方 の製塩土器 の変遷
最後 に上ゲ遺跡 をは じめ とす る知 多半 島 や渥 美半島で知 られ る製塩土 器 につい て紹 介 したい。
東海地方 の製塩土器 は特殊 な脚 を もつ てい るので 、特殊脚台付 土器 と もいわれ る。知 多・ 渥 美半
島 ともそれ ぞれ第 1様 式 か ら第 4様 式 にわ け られ るの であ るが 、渥 美半 島 と知 多半 島 とでは、 その
発生期 の様式 が ことなつ てお り、知 多式 な らび に渥 美式 といわれてい る。す なわ ち知 多半 島 にお け
る第 1様 式 は、袋形 とか筒形 を呈 した脚台の上 に深 鉢形 の外 部 をつ けた器形 で あ る。 それが 第 2様
つ のが た
式 に な る と、 土 器 を炉 の 床 面 へ さす た め に肱l台 の 先 端 を しば り棒 状 とし、先 端 を とが らし た 角 形 と
な つ て い る。 脚 台 部 が 中空 とな つ て い るのが 特 徴 で あ る。 さ らに第
3様 式 に な る と外 観 は 第 2様 式
とま つ た く同様 で あ るが 、棒 状 を した粗 製 の 角 形 脚 台 の 内部 が充 実 して い る。 第 四様 式 に な る と、
鈍 重 の感 が の こつ て い た 第 3様 式 を、 土 器 の安 定 とか 量 産 化 とい う点 か ら改 良 した最 後 の 様 式 で あ
つ た。
一 方 の渥 美 半 島 の 第 1様 式 は 、外 部 が コツ プ状 で 小 形 の 倒外 形 脚 台 を そ な え た土 器 で あ る。 第 2
様 式 とな る と脚 台 部 が 長 くの び た 形 で あ り、 第 1・ 第 2様 式 と も知 多半 島 の 製 塩 土 器 とは系 統 が ち
が つ て い る。
知 多式・ 渥 美 式 と も第 1・ 第 2様 式 は六 世紀 、 第 3様 式 は七 世紀、 そ して 第 4様 式 は八 世 紀 に比
定 され て お り、 上 ゲ 遺 跡 の それ は 、 第 四様 式 が大 部 分 で あ り、 第 3様 式 にの ぼ る と考 え られ る もの
(杉
―- 43 -―
崎
逹
早
が 数 点 み とめ られ て い る。
図 版 第 一
昆 沙 ク ゼ 第 一 号 窯
昆 沙 ク ゼ 第 一号 窯 の 全 景
昆沙 ク ゼ ー号 窯南側壁 の鍬 先痕
図 版 第 二
昆 沙 クゼ 第 一 号 窯
郊
=霧
焼成室よ り分焔柱 をとお して燃焼室をみ る
介 贈柱 付近 の大 甕 によ る補 修状 況
:飴餓
図 版 第 二
昆 沙 クゼ 第 一 号 窯
焼 成 室 後 部 の 階 段 状 遺 構
昆 沙 クゼ 第 一 号 窯 の 出土 遺 物
図 版 第 四
毘 沙 クゼ 第 二 号 窯
毘 沙 ク ゼ第 二号 窯 の全 景
燃焼室南側壁付近にみ られる支柱穴群
図 版 第 五
昆 沙 ク ゼ 第 二 号 窯
焼 成 室 末 端 の 支 柱 穴 群
同 上 部 分 拡 大
(ス サ入 り粘土で支柱をまいてい る)
焼成室両側壁下端 の発片貼付状況
図 版 第 六
昆 沙 クゼ 第 二 号 窯
昆 沙 クゼ 第 二 号 窯 の 出土 遺 物
図 版 第 七
南 釜 谷 古 窯
発
llL
掘
調
査
遠
景
南 釜 谷 古 窯 址 遺 構 の 側 面 観
図 版 第 八
南 釜 谷 古 窯 址
隔壁にみられる狭間穴と狭間脚 (手 前は支柱)
南釜谷古 窯址 の調査状 況
図 版 第 九
南 釜 谷 古 窯 址
木 芯 を 示 す 炭 化 物
(根 掘 りの右側)
│ピ r穎 14浄ョ
1犠 1堪
iギ
:苺
逮
Ⅲ
還
南釜谷古 窯址遺構 の俯かん
図 版 第 十
南 釜 谷 古 窯 址
同上 煙道部よ り焼成室をみる 一一狭間脚のむれ一二
図版第十一
南 釜 谷 古 窯 址
南釜谷古窯址 の出土遺物
1.灰 紬皿
(1)
2.絵 付皿 3.小 天 目
牛5.蓋 置
6.茶 釜 7.こ
ばし
図版第十二
南 釜 谷 古 窯 址
南釜谷古窯址の出土遺物
8.タ ライ
(2)
9.香 炉 10,I雷 鉢 H.片 ロ
12.陶 錘
13.油 さ し
14ひ さ ご形 ′よヽ壺 15.洗
品
非
売
〕
:異 丹〔
与4月 亀
握
鶏
:葎
毘沙 クゼ古 窯址 群
編集 者
発行所
E日
刷所
常滑市字鯉江新開476番 地
常 滑 市 教 育 委 員 会
半
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解
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