石瀬貝塚 1962/常滑市教育委員会

常 滑 市 教 育 委 員 会
愛 知 県 常 滑 市
石
瀬
貝
太
夫 男郎 章
公春
崎
海 永 螂一
新 久 井 杉︲
1962
常 滑 市 教 育 委 員 会
序
常滑市 は、昭和 29年 4月 1日
三 和、大野、鬼崎、常滑、 西浦 の 5ヶ 町村
(
昭和32年 3月 31日 小鈴谷 の一 部 を合併 )が 合併 して 誕生 した 人 口520∞ の 窯
業 を主 とした市 で あ る。
市 内、三 和 地 区内乗落 の一つ 、通 称「 石瀬 」 の北麓 に竹林 に囲 まれた畑地 が
あ る。 この一 角 に市 立母子寮 の建築 工 事 が着 工 され た ことか らは しな くも発
見 された この 貝塚 は、常滑市立青海中学校 (当 時 の三 和中学校 )教 諭新海公
夫氏 に発掘調査 を委嘱 して昭 和33年 5月 4日 試掘 の トレンチが うがたれ、 同
年 7月 30日 に現地 での調査 を終 了 し、 ここにその 結果 をま とめ上梓す ること
になつた次第 で あ る。
知 多地方 には古窯址 が その丘 陵地帯 には幾千 と存 在 し知 多吉窯址群 と称 され
てい るが 、常滑地域 はその 枢要 な る位 置 にあ り、 これ らについて は当市古窯
調査会及び愛知県・ 文部省等 に よつて調査 され 刊行物 として も世 に 問 われて
きた 。 これ らの 古窯 は平安・ 鎌倉期 の ものであ るが 、 この 貝塚 の よ うに縄文
期 の ものは当市 として は最初 で あ る。
本書 よにつ て 、 当地 に在住 した苗代 入 の生活 の一 端 が うかがわれ ると共 に、
夙 に発掘 調査 され た知 多の 各地 の 貝塚 。遺跡 と関連照 合す る時 この地 方 に在
住 した 古代 人 の生 活 史 の概要 をキ ヤ ツチす ることがで きるで あろ う。 この意
味 において も本調査 は頗 る意義が あ ると思 う。
発掘調査 に 当 り、地 主の水野 よね 。都築房次郎 両氏 の ご理解 あ るご協力 と共
に、学術担 当者 の 日本考古学協会員久永春 男氏 を始 め として、 この道 の先輩
諸 賢か らの絶大 な るご指導 ご協力 に対 し、 こ ゝに衷心 よ りお礼 を申上 げ ると
同時 に今後 の ご指導 をお願 いす る次第 で あ る。
昭 和
37年 3月 15日
常 滑 市 教 育 委 員 会
教育長
都
築
玄
介
例
ロ
1.本 書 は昭和33年 7月 に発掘調査 を実施 した愛知県常滑市金 山宇屋敷 にあ
る石 瀬 貝塚 の報告書 で ある。
2.本 報告書 の刊行 の時期 が遅 延 したのは、調 査 の主体 となつた三 和 中学校
が 、 その直後 (昭 和33年 9月 )に 青海 中学校 として統合移転 したの をは じ
め、 この地方 を襲 つ た伊勢湾台風 に よる被災等 によ り余儀 な くされ たわけ
で あ る。報告書 の 刊行 とは別 に、郷土 クラブ諸君 の活動記録 をま とめた文
集 を用意 したのであ るが、以 上の理 由 のた めに報告 がお くれ て今 日に いた
つ てい る。本書 の 刊行 を機 に その促進 を期 したい 。
3.本 書 を刊行す るにあた り、発掘調 査 を委嘱 した青 海中学校教諭 の新海 公
夫氏 は もとよ り、調 査 の学術担 当者 として御指導 いただい た 日本 考古学協
会員久永春 男氏、先史地理 的考察 のた め現地 踏査 をねが つ た名古屋大学 地
理 学教 室の井関弘太郎助教授、な らび に終始協力 と援助 を暗 まれなか つ た
常滑市立西浦南小学校教頭 の杉 崎章氏 (調 査 当時・ 横須賀中学校在勤 )を
は じめ芳賀陽氏・ 加藤岩蔵氏・ 磯部幸 男氏・ 谷沢靖氏 。田中稔氏 に対 し厚
く感謝の意 を表 したい 。
また地主 の都築房次郎・ 水野 よねの 両氏 には、心 よ く調査 を了承 してい
ただいた御理解 を深 く謝す る もので あ る。
4.本 書 の執筆分担 は次の通 りであ る。
第 一 章 ∼ 第 四章
新海公夫
第五章
久永春 男
第六章
井関弘太郎 。杉 崎
章
それ ぞれ御執筆 を快諾 され研究成 果 の提供 をい ただいた もので あ る。
5。
本書 の表紙題字 は常滑市長久 田慶 三 氏 の揮墓 をいた だいた。厚 く感謝 し
たい 。
愛知県常滑市石瀬 員塚
序
文
常滑市教育委員会教育長
本 文
都築玄介
目 次
第一章
・
石瀬貝塚の位置 ・……………………………………・
1
第二章
・ ………
調査の経過 …………………………………・
2
第二章
遺
・………………………………………………・ 6
跡・
第四章 遺
物 ¨………………………………………………。10
r・
(1)自 然遺物
(2)人
(0
骨
人工遺物
●黙
石瀬貝塚 出上の縄文式上器の相対年代 。
…………●
第五章
・…Ⅲ29
第六章 石瀬貝塚を主 とした大野谷の先史地理的考察 ・
(1)海 進期以前における原地形
(2)海 進期 における大野谷地形
(0
石瀬貝塚 の生活環境
)海 退 期 にゃける大野谷の地形変化
“
図
版
目
次
一
遣跡の遠望 と近景な らびに発掘区状況
二
土器出土状況
二
人骨の埋葬状態 と石鏃
四 第一群土器
五
六
仝
上
第二群土器
七
八
仝
上
第二群土器
九
全
上
十
仝
上
十一
仝
上
十二
仝
上
十三
全
上
十四
全
上
付 表
目 次
1
第2
第3
。
貝類 の組成比率表 ……………………………………………… 10
第4
採集上器片層位別数量表 ………………………………………・ 14
第
自然遺物表 ………………………………………………………・ ■
石器 の トレンチ別出土表 ………………………………………Ⅲ13
挿
囲
目 次
第一
大 野谷 の貝塚 と古 墳
第二
石瀬貝塚 附近 の地籍 図 ・……… …… …… …………
第三
・
・
・
・
・
・……………・
・
・
・
・
・
・
・
・… … 4
第 1ト レンチ …… ・
第四
・………………………・ 7
石 瀬 貝塚 の発掘 区 と地形 ・
第五
発掘 区の 断面 の実測図 "… ………………………・ 8
第六
第 3ト レ ンチ西側断面 "… … ……… i・ …………
第七
人骨 とその埋 葬穴 …… … …… ……………………・ 12
第八
石 鏃実測図 ………………………………………… 。13
第九
第一群土器 の拓影 ………………… ……………… 。17
第十
第 二 群土器 の拓影 …… … ………………………… 。18
第十 一
第十 二
金
1
9
上 ・… … … … … … … … … … … … … … … … … 19
第 二 群 土 器 の 拓 影 …… … … … … … … … … … … …・ 20
第十三
仝
・ 21
上 ・… … … … … … … … … … … … … … … …・
第十 四
全
上 … … … … … … … … … … … … … … … … … 22
第十 五
全
・ 23
上 ・… … … … … … … … … … … … … … … …・
第十 六
愛 知県新城市有海 。上の 平遺跡 出土土器
第十 七
愛 知県新城市有海・ 篠原 遺跡 出土土器 の拓影
第十 八
大 野谷沖合 の伊勢湾等深線 図 ・… …… …………… 29
第十九
大 野谷 の地形図 ・……………… …………… …… … 30
第 二十
試 錐地点地質柱状 図 ………… …………………… 。31
第 二 十一
試錐地点 E附 近 の地 表下層序 の 模式 図 ………… 。31
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偉
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大野谷の貝塚 と古墳
挿図第一
3.束
2.森
1.石
III
畑
西
ド
下 lA
只 塚
rt塚
瀬 「1塚
(縮 尺二万五千分の一)
4. !「
棚 物
ΥW階角=
第一章
石 瀬 貝 塚 の位 置
名古 屋 鉄道常滑線 尾張大野駅 に下車 して、大 野川 の南 岸 に沿 う大野―半 田街道 を遡 る
こと約 1.5ん ″、 周 囲 は一 面 の水 田地帯 とな る。 この水 田地帯 の南 寄 り地帯 を西 に流 れ る
前 山川 の堤 と、街 道 とが接 す る地点 で、 川の堤 に登 つて 南方 を眺 め ると、 す ぐ眼 前 に こ
ん もりした台地上 の森 が あ り、 その北端 の東傾斜 の一 角 に赤瓦・ 自壁 の建 築物 が あ る。
この赤瓦・ 自壁 の建 物 が 常滑市 立母子寮 で あ る。
石瀬貝塚 は、前 山川 の堤 か ら田画道 へ 抜 け、母子寮 前 の緩 い登 り坂 を行 くこ と約
lCXl
坂 を登 りきつ た ところの北 側 で約 200平 方 ″の梅 林 と、 その北 に隣 接す る畑地 にか
けて ひろが つ て い る。 地籍 は常滑市金 山字屋致29番 地 の 1に 属 し、水野 よね氏 (梅 林 )
777、
都築房次郎氏 (畑 )の 所有地 で あ る。
、 ここか ら東北 を眺望 す る と、 狭 い水 田 を隔てて前 山川 の堤 が横
貝塚 の標高 は約 10″ ど
ざ り、 その北 は一面 の水 田地帯 で、 その 中 に前 山川 とほば併 行 して、久米川、次 いで矢
田川が西流 して い る。 この水 田地帯 が吉 くか ら大 野谷 と呼ばれ、 それ を囲んで北 側 に粕
谷・ 矢 田、東 側 に久米 、南側 に前 山・ 石瀬 の 各乗落 が 存在 して い る。
挿図第二
石瀬員塚附近の地籍図
常滑市金山字屋歌地内
-1-
(斜 線は貝塚の位置をあ らわす)
第二章
調 査 の 経 過
昭和31年 2月 、 常滑市 が 母子寮建設 の た め、常滑市 金 山字 屋敷 (通 称「 石瀬」 )地 内
に工 事 をは じめたお り、 当時常 滑市 立 三 和 中学 校 (現・ 常滑市 立 青海 中学校 )の 第 2学
年 に在 学 していた桑 山雅徳・ 水 野隆 二 の 両君 が 、 その現場附近 か ら採集 した数片 の上器
片 と貝殻 とを学校 に届 けて来 た。 この土器片 に よつて、縄支式 上器文化 期 の遺 跡 が所 在
す るこ とが 判 明 した。
翌 日、現 地 を訪ねて見 ると、緩 く東 に向 つて下 る傾斜面 を地均 しして母子寮 建築が進
捗 して い たが 、 その地均 ししたあた りに は自 々 と貝殻類が散乱 し、土器片 も混 つてい る
のが 見 出 され た。
採 上 を行 つ た崖 の南 か ら北 へ の切断面 には 、耕土層下30∼ 40tlPJIの 深 さに黒褐色混土 貝
層が あ らわ にあ らわれて いて、 そ こか ら も数 片 の土 器 片が見 出 され た。 この踏査 に よつ
て、縄文式 土器 を包含す る貝塚 の存在 を確認 し、 また採土作業 に従事 した人 々の談話 か
ら、 貝層 の切 り取 られ た部 分は極 めて僅少 な 巾 で あつ て、主要部分 は現存 す る と推 定 さ
れ たのであ るが 、 これは常滑市 内 で は初 めて の縄文遺 跡 の発見 で あつ た。
その後、 母子寮建築 工事 の進 行 をみは か らつ て、 しば しば現地 を訪れ、遺跡 の範 囲 の
調査 や散 乱土器片 の蒐集 を行 ない 、 その結 果 を常滑市教 育委員 会 に報告 した。
ついで、昭和32年 10月 に、奈良 県文 化 財保存 課主事小 島俊次氏 の来訪 を うけ、知 多半
島 においては 、 特 に伊 勢湾 沿岸 では縄 文遺跡 の 発見例が まだ少 ない こ と、 伊勢湾 を め
ぐる原 始社会文化 の探究 に資す るこ との大 で あ るこ とを指摘 され、調査 の 指針 を示 され
た。 その後、 日本考古学協会員久永春 男氏 が現地 を訪ね、 出土土器 が一 型式 でない こと
を指摘 され調査 に ついてのい ろい ろな御 指導 をい ただ い たので あつ た。
遺跡 発見か ら約 2ケ 年 を経過 して、地 主 の水野 よね 。都築 房次郎 両氏 の御好意 と常滑
主力 と
市教 育委員会 の特 号Uの 御配 慮 に よ り、 三 和 中学校 社会科郷 土史 ク ラブ (註 1)ん 貧
なつ て発掘 調査 を実施 す る計画 を もち、昭和 33年 3月 3日 、常滑市教 育委員会 か ら文化
財 保護 委員会 へ 久永春 男氏 を発掘 担 当者 とす る発掘 届 を提 出 し、昭和33年 3月 24日 付地
文記第 228号 の承認 書 を得 て調査 の運 び となつ た。
昭和33年 5月 4日 (晴 )
貝塚 の主要部分が、 水野 よね氏所有 の梅 林 とな つて い るので 、 その東端 の崖面 に見 え
る貝 層 と平行 して梅林 の 中央 に南 北 の トレンチ を試掘 す るこ ととした。 5月 の微風 は気
もち よ く作業 をはか ど らせて くれ たが、 梅 の木 か ら梅毛虫 が落 ちて くるの には い ささか
閉 日 した。試掘 のね らいは貝塚 の範 囲 を調 べ るこ と、貝層 の 層序 を検討 し、 す で に採集
され た遺 物 の 中 に 2時 期 が あ る もよ うなので、 それ を確 か め ることにあつ た。
トレンチの 表土 お よび表土下有機 上 層 か らは殆ん ど遺 物 は 出土 せず 、 そ の下 層 の アサ
リの多 い黒褐色混 土 完存貝層 か ら、縄文 と半 割 竹管文・ 三 角形 の彫 刻文 な どを加 えた上
器片 が 2∼ 3片 出上 した。
貝層 上面 には火 に焼 けた跡 が一面 に ひろが つ て いた。焚 火 を して灰 を一面 に散 い た感
じで あ る。
6月 18日
(雨 )
貝塚 発掘 に経験 を重 ね てい る愛 知県知 多郡 横須 賀中学校教 諭杉 崎章氏・ 愛 知県知 多郡
-2-
八 幡 中学校教 諭芳 賀陽氏 と試掘 の結 果 につ いて 協議 し、 発掘 調査の具 体的計 画に つ いて
相談 し、試掘 トレンチ を北方 へ 延長 す るこ と、 これ と十字形 に東西 トレンチ を掘 るこ と
及び各 トレンチの担 当 を次 の諸氏 に 協力 を依 FFiす るこ ととした。
第 1ト レンテ A・
B区 愛 知県知 多郡 八 幡 中学校教 諭
第 1ト レンチ C区
第 2ト レンテ A区
第 2ト レンテ B、
7月 25日
芳賀
陽氏
愛知県知 多多横 須 賀 中学 校教 諭
杉崎
章氏
愛 知県 知多郡 師崎 中学 校教 諭
磯部幸 男氏
C区 愛 知県刈谷市 刈 谷東 中学 校教 諭 加藤岩蔵氏
(晴 )
郷土史 ク ラブ員24名 を動員 して、発掘 予 定地域 の耕土 層 を貝層面 まで掘 り起 す作業 を
午前 中 に行 い、年 後 は 明 日か らの調査 に必 要 な器材・ 器具等 の整備 をす る。
7月 26日
(曇 時 々雨 )
前 日に、計画 した各 トレンチの表上 をはね る昨業 を してお いたので、今朝 は直 ちに貝
層 に調査 の 竹 ベ ラをいれ る事 がで きた。
発掘 の担 当 を委 嘱 した久 永春 男氏 をは じめ各調査 員、 三 和 中学校 では 佐野孝 男校長・
吉川久夫教頭 ほか 数人 の職 員が作業 に加 つた。
む し暑 く、 固 くしまつ た貝 層 を移植 小手 で はが して い く作業 は苦 しか つ た。 その上 に
お
時 り通 り魔 の よ うにザ ア… ツ と降 る雨 が 作業 の進捗 を妨 げ る。
第 1ト レンチでは表上 の厚 さ30fJJJ、 貝 層第 1層 は黒 褐色混土破砕 貝層 とな つ ていて そ
の厚 さ約 10翻 で、 その下 はハ イガ イの 多 い黒褐色混上 完存 貝 層 となつて お り薄 い焼 土 層
が おお つてい る。 この 民層中か らは貝殻文 らしい土 器片が 1∼ 2個 片発見 で きた程度 で
あつ た。
第 2ト レンテ A区 は地盤 が東北 に下 り傾 斜で その 上 に貝層がか な り厚 く積 まれ ていて
その第 1層 は黒 褐色混土破砕 貝層であつ た。 この 層 を掘 り進 めたが土 器等 の 出土 は極 め
て少量 で破砕 貝層 とその下 の アサ リの 多 い黒褐色混土完存貝 層 に うつ る境 に な る位置か
ら黒櫂石製の石鏃 と縄文 の あ る土 器片 を発見 した。
第 2ト レンテ B区 は水道線施設工事 の た めに貝 層 は全 く攪乱 され てお り層序 を見 るこ
とはで きない。 C区 で は比 の トレンテの百端 で 貝眉 は非常 に薄 い ものになつ てい るこ と
を知 る。 そ して貝 層 もほぼ混土貝 llEと 純 貝層 の 2層 で ぁ る。混 土貝層 の下部か ら加 曽利
E式 土器 に類 似 した上器 片数個 を採集 した。
午後 は雨 も本 降 りとなつ たので 母子寮 の一 室 を借 りて本遺跡 の調査 につ いて研 究討議
の会 を もつ た。 なお 、比 の 日朝か ら静 岡県浜 松市 立 博物館 の 向坂 鋼二 氏・ 県立常滑高等
学校教諭 の 中沢 三 千夫氏 の参加 もあつ た。
7月 27日
(晴 )
天 候 はすつか り回復、朝 か ら真夏 の陽光 は容赦 な く照 りつ け る。 トレンテ内は昨 日の
雨 で粘 り、有機質 の異様 な臭気が ただ よ う。 朝 か ら常滑市教 育委 員会 の委 員長水 上義介
氏・ おな じ く教 育長都築玄介氏 、 さ らに常滑 市議 会文 化委 員杉江達太郎氏・ 常滑吉窯調
査会沢 田由治 の各 位が来駕、詳 さに発掘 調査 の 状沙とを視 察 され、郷 土史 クラプ を激励 さ
れ る。 また、 名古屋 か ら田中稔・ 松岡浩・ 大野 実・ 小沢 礎治・ 増子康真 の諸氏が来援、
発掘現場 は洵 に活気 に満 ち、作業 は一段 と進 め られ た。
第 1ト レンテ B区 においては、 A区 と同 様 に貝 層上部 に は焼 けた形跡 がみ とめ られ た。
出土土器 は極 めて少 量で、貝 層の 中央 あた りか ら縄 文 と半割竹管文 と三 角形彫刻文 を加
-3-
えた土器片が検 出 され た。
第 1ト レンチ C区 は第 2ト レンチ A区 につ づ くアサ リの 多 い純 員層が部厚 くひ ろが つ
ていたが上器 は全 く出土せず、単調 な発掘 が丹念 に行 われ た。
第 2ト レンチ A区 は第 1ト レンチ C区 に続 いて、 アサ リの多い純貝 層 が ひろが つて お
り、人 工遺 物 はや は り極 めて少 な く、黒耀石 の打製石鏃 が 1個 、土器 は貝塚 の上 層部 (
黒褐色混土完存 貝 層)か らは縄文 と太 い沈線 のあ る土器、 中層部 (ア サ リの多い黒褐 色
混 土完存貝 層)・ 下層部 (ア サ リの多い黒褐色混土破砕貝 層)か らは、縄文 と竹管文・
三 角形彫刻文 の あ る土器、半割竹管 に よ る爪 形文 を施 した土器、撚 糸文 と沈線 又 は隆線
に刺突文 を施 した土器 が検 出 され た。
なお、 この第 2ト レンチ B区 の純 貝層 において小学校 5年 に在学 す る久 永直 見・ 新 海
規 男の 両君 は貝類 の組成 を調 べ た。
第 1ト レンチを北方 へ 延長 して第 3ト レンチ を設定 した。 これ まで第 1ト レンチA・
B区 を分担 して いた芳 賀陽氏 に発掘 を担 当 していただ く。
第 1ト レンチの担 当は愛 知県立刈谷 高等学校教改 の谷沢靖氏 と交 替 した。
第 3ト レンチの発掘 は今朝 か ら始 めたが極
めてlTI調 に進 んだ 。第 1ト レンチ・ 第 2ト レ
ンチか ら出土す る土器 の量が 少 ないの に対 し
て 、第 3ト レンチか らは非常 に 多量 の土 器 が
出上 した。表土 層 の深部 には行基焼 の 山茶碗
小 皿 を混 合 し、員 層 の上 層部 (黒 褐色混土員
層)か らは、隆線 と太 い沈線、 または太 い沈
線 と箆拙文 を加 えた土 器類 が 多 く出上 し、貝
層 の 中層部 (黒 梱色混 土完存貝 層)か らは、
太 い沈線 と櫛描文・ 太 い沈線 と箆描文・ 太 い
沈線 と太 い隆線 を加 えた上器類 が 多 く出上 し
、貝 lgE下 層部 (ア サ リの多い黒褐 色混 土破砕
貝 層)で は第 1ト レンチか ら出土 す る縄文 と
竹管文 と三 角形彫刻文 の 加 え られ た土 器が 出
上 した。
この トレンテは、南端 か ら4″ ′
地点 の ピツ
挿図第三 第 1ト レンチ
(ア サ リの多い純貝層の発掘 )
トを境 として北 の部分 には有機上 層 のみが 存
在 し、貝 層 は見 当 らな い 。ま た南端 か ら2.5″
半 の地点 と7"の 地点 に は基盤 に達 す る ピツ トが あ り行基焼 を含 む有 機 層 となつてい た。
7月 28日
(晴
イ
)
今 日 も朝 か ら暑 い。
第 1ト レンテ ●第 2ト レンチ・ 第 3ト レンチのセ クシ ヨン を取 る。
第 3ト レンチの南端部 を東 へ 拡張発掘 を行 な う。貝 層上面 を出 して い くと、東端部 の貝
層が攪 乱 されて い ることを発見す る。 しか しその上部 を蔽 う表土 層 には攪 乱 の跡 がみ ら
れ ない。 あ るいは人骨 が埋葬 され て い るので はないか等 と話 しなが ら慎重 に発掘 をすす
めた と ころ、 夕方近 くになつ て、 はた して攪 乱層下か ら人骨 が あ らわれ た。西 南西 に頭
をお く仰臥屈葬 で上体 の周 囲 は大人 の李大程度 の石 でか こまれて い る。
-4-
そ こで今 日を最 終 日と予定 してい た発掘 を明 日まで一 日延長 す ることに した。
本 国は三 和東 小学校長 原祐三氏 が 児童 2名 とと もに発掘 に参加 され た。 児童 は朝か ら
熱 心 にむ し暑 い トレンテの 中 で土 器検 出 に努 力 して いた。
7月 29日
(晴 )
本 国は人 骨 の発掘 に重 点 をおいて丹念 な作 業 をつづ けた。一 方 で は岩橋喜一教 諭 の指
導 の もとに三和 中学 校郷土 史 ク ラブ 民に よ る遺跡 周辺地域 の平板測量 を行 う。
人骨 出上 の報道 で 参観者 が つ めか け、遺跡 周辺 は大 変 な賑 わいで あつ た。
人 骨 はす で に形 成 され ていた貝塚 の一 部 を掘 り起 して埋 葬 した もの と推 定 され、胴部
は保存 が悪 く殆 ん ど溶 解 して しまつてい たが 、頭部 及 び四肢 の部分 はやや 保存 が よかつ
た。 そ して人 骨埋葬後 の新 しい貝 層が うす くその上 を蔽 つ てい ることが わか つ た。 この
こ とは 出土土 器 に上 層 と下層 とで ちがつて い ることが 見 うけ られ るこ とと対応 す るど と
くで あ る。
年後 の 日 も西 山 に お ちかか る頃、人骨埋葬状態 の実測 図 を作成 す る。
7月 30日
(晴 )
郷土史 ク ラブ員 を 2ヶ 班 に編成 して、1班 は発掘現場 の埋 め戻 し作 業、 2班 は本校 で
土 器洗 い を行 う。
昭和34年 5月 5日 (晴 )
名古 屋大 学地理学教室 の井 関弘太郎 助教授 と杉 崎章氏 に現地踏査 をわ ず らわ し、石 瀬
貝塚 を中心 とした縄文時 代 の 生活復 原 を課 題 とした研 究 を委嘱 した。
芳 賀陽・ 磯部幸 男 の 両氏 そ して新海 も参加 し、海岸 か ら大野谷 の奥 へ 向 つ て試錐 作業
をすす め、久米 と前 山の両部落 間 の水 田下 に縄文 時 代海進期 の 汀線 が埋 没浜提 の形 での
こつ てい るこ とを確認 した。
昭和35年 12月 18日 (曇 )
主 として新 海が担 当 して きた出土 土器 の整 理 が一応 完 了 したので 、発掘 調査 を担 当 し
ていただいた久 永春 男氏 をは じめ、杉崎章・ 芳 賀陽・ 田中稔・ 磯部幸 男・ 加 藤岩蔵 の各
位 に参集 をねが い 、出土 した縄文式土器 の型式 分類 を中心 とした研究会 を開 いた。会場
は常滑小学校 家庭科教室 を借用す る。
註
1.
三 和中学校郷土 史 クラブ員
竹内
公男
竹 内
竹内
士郎
片山
勝治
片山
竹内
孝行
竹内
勘二
竹内
稔
高橋
邦充
竹 内
竹内
幸光
辻野
保史
辻野
和博
林
桑山
恭彦
村上す み子
富田
孝子
久本
芳山
圭子
都築富貴 子
浜 島
司
浜島府次夫
-5-
築都
由也
孝治
竹内
常男
政義
竹内
輝治
正
竹内
忠男
峯 男
良子
第二章
遺
跡
石瀬 貝塚 は比 高約 10ppr、 東京】ヒ方 にむか つ て緩 い下 り傾斜 をなす東面 の地点 に形成 さ
れて いて 、面積約 200平 方 ″′
、東 端 が母子寮 建築工事 のため 切断 され 、 また中央部が南
北 に水 道管施設工事 に よつ て攪乱 されて い る。
現地 表 は、南 の一 部分 は道路 とな り、貝塚 の主要部分 は梅林 になつてお り、】ヒ端部 は
野菜 畑 となつて耕 作 されて い る。
この貝塚 は前述 の よ うに母子寮 建設 の た めの地 均 しが開 始 され た時発見 され たのであ
るが 、 そ の切断面 に あ らわ れ た貝 層 は、耕作等 で攪乱 されて い る様子が認 め られなか つ
たので 、 これに平行 して梅 林 の 中央 に南北 の トレンテ (第 1ト レンチ)を 設定 し、次 に
これ と直交す る トレンテ (第 2ト レ ンチ)を 設定 し、 また第 1ト レンチ を北方 の 野菜畑
に延長 した トレンチ (第 3ト レンテ)を 設定 した。
第 1ト レンチ (挿 図第 五 )
梅 林 の 中央部 に地 均 し工事 にあたつ て作 られ た尾面 に平行 して掘 つ た トレンチで 、南
端 は道路 の側溝 を起点 として、 巾 1.5″ ′
・ 長 さ 6 pp7の トレンチで あ る。
起点 の位置 か ら北 へ 1.5″ 辺 りまで の貝 層 は うす く、耕土 層が厚 くおおい30∼40翻 位
に なつ てお り、北 へ 進 む につれて貝 層が厚 くなつ て、 中央部 で は耕土 層 は約20tVr位 で あ
る。
南端 の部分 では貝 塚 の下層部 で あ るアサ リの 多 い黒裾色破砕 貝層が厚 く、耕土 層下 に
堆積 して、道路 の方 に延 びて い る。
位 の ところか ら北 へ 延 びてい る。 中層 は
貝塚 の上 層・ 中層 は トレンテの南端 よ り 1″ ′
第 2ト レンテ との交点 辺 り (こ の トレンチの南か ら3∼ 4″ ,)で 最 も厚 く30働 位 あ り、
ハ イガ イの多 い黒褐色混 土 完存貝 層 が急 に落 ち こんで、 アサ リの 多 い黒褐 色混土完存貝
層 にか わ つて い る。 そ して、 この第 1ト レンチの北 端 になつて、 アサ リの 多 い黒褐色混
土完存貝 層 の上 部 にハ イガ イの 多 い黒招色混 土完存貝層がの り、 下層 をなす アサ リの 多
い黒褐色混 土破砕貝層が消滅 して い ることが 認 め られた。
基 盤 は南 か ら北 へ 極 めて僅か の傾 斜 が み とめ られ、貝層 は トレンチの南端部 で約20翻
中央部 で40∼ 50翻 、Jヒ 端 部 で 約30tVrと な つてい た。
上部貝 層 中 にはか な りの灰 と炭 化物 が発見 され、 また、貝 層 に混 つてい る土 も焼 けて
い るこ とが認 め られ た。
上 器 の 出土量 は、他 の トレンナに比 して少 な く、上層 の黒褐色混 土破砕 貝層 と中層 の
アサ リ・ ハ イガ イの 多 い黒褐色混 土完 存員層 か ら比較的多 くの第 二 群土器 と小量の 第 二
群土器 の 出土 が あ り、下層 の アサ リの 多 い黒褐色破砕貝層 か らは第 一 群 土器 が 少量 出土
した。
第 2ド レンチ (挿 図第 五 )
第 2ト レンテは、第 1ト レンチの 中央部 において、 それ と十字 に交又す るよ うに、東
西 の方 向に設定 した トレ ンチで あ る。
東 端 を母子寮 の建 築 に よつて切 りお とされた崖 の面 の近 くに定 め、西端 を梅林 の西端
にお いた長 さ約 102pp巾 約 1"の トレンチで あ る。
基 盤 は西 か ら東 に むか つて緩 い下 り傾斜 を示 し、貝層は西 へ 延 び るに したが つ て うす
く、梅林 の西端付近 で 消滅 して い る。
-6-
貝層 の 層序 は、第 1ト レンチ とはば同 じ状態 を示 し、上層 は黒褐色破砕貝 層 で 厚 さ約
中層 は西端 か ら 6″ ι
程東 へ 進 んだ地点 まで は、 ハ イ貝 の 多 い黒褐色混土完存貝層
100「 JJ、
3"地 点 で200VPJ、 6"地 点 では25効 厚 さで延 びて い
レン
た。 それが第 1ト
テ と交又す る地点 で急 に落 ち込 ん で アサ リの 多 い黒褐色混土完存
が この トレンチの 1%地 点 で 10rryr、
貝 層 が のつかつて この トレンチの東端 にむかつて延 びて い ることが 認 め られ た。 下層 は
混 土 率 の少 ない アサ リの 多 い黒褐色混土破砕貝層 で厚 さ約10勁 とな つ ていて、 中層 が最
も厚 く上 。下層 は中層 に比 して約 半分 の厚 み になつてい る。特 に この トレンテの 中央部
は調査経過 の章 で も述 べ た よ うに水道線施設 工 事 のた めに一部 分 に中層 に達 す る攪 乱が
あ る。
土器 の 出土 状態 は、 中層貝層 に最 も多 く、上層貝 層・ 下 層貝層 は非常 に少 な く、 中層
貝 層 か らは主 として第二 群土器 の 出土量 が 多 くこれ にま じつ て第 一・ 二 群土器 が出上 し
下 層貝 層 か らは第 一 群 土器 のみの 出土 をみ た。
第 3ト レンチ (挿 区第 五 )
第 3ト レンテは第 1ト レンチ を北 へ 、 野菜畑 へ か けて10ppr延 長 した もので あ るc
基 盤 は北 へ 進 むに したが つて緩 く下 り、貝 層 は この トレンチの南端 か ら4"の 地点 で 消
滅 して い る。 この トレンチの耕土 層 は第 1・ 2ト レ ンチに比較 して深 く、35∼ 40例 を測
る。耕 上下 に は黒褐色有機 土 層が存 し、 この 層 は トレンチの南端 か ら4%地 点 の ピツ ト
を境 に してゴとの部 分で は15∼20翻 の深 さで基盤 の上 に堆 積 し貝 層 は見 当 らなか つ た。 し
か し南 の部分 で は、 この 層 は きわ めて うす く、 その下 に黒褐色混土破砕貝 層が 10∼20翻
の深 さで堆積 し、 その下 に アサ リの 多 い黒褐色混 土完 存員 層が堆積 して、 中層貝層 をな
してい ることを認 めた。 そ して そ の下層 に混 土 率 の少 ない アサ リの多い黒褐色混 土破砕
貝 層 が うす く踏 みか た め られ た よ うに固 く地 山 には りつ いてい た。
また、 この トレンチで 、南端 か ら前述 の 4"地 点 の ピツ トと同様 に、 2"半 の地点 と
7″ 地点 に黒褐色有機上 層か ら貝 層 を切 断 して基盤 にまで達す る ピツ トが あつた。 その
ピツ ト府は行基焼 を含 む有機上 が つ まつ てお り、 山茶碗 の破片 が採集 され た。
山茶碗 の 出土す るの は貝塚 の外縁 、す なわ ち第 2ト レンチの西端部 に も見 られ ること
F`
石瀬貝塚の発掘区と地形
(等 高線の単位 は傷)
-7-
第 1ト レンテ (西 壁)
第 2ト レンテ (A区 、北壁)
第 2ト レンチ (B・
CⅨ 、南壁 )
第 3ト レンテ (東 壁)
?
iV
1.表 土 層
第 3ト レンチ拡張区 (東 壁)
2.黒 褐色混土破砕貝層
3.ハ ィガィの多い黒褐色混土完存貝層
4.ア サ リの多い黒tB色 混土完存員層
5.混 土率少なくアサ リの多い黒褐色混土破砕貝層
6.水 道管施設工事による攪乱層
7.桐 色土層
挿図第五
発掘区の断面の実測図
8.黒 褐色有機上層
9.行 基焼 を含む有機上層
-8-
か ら、 この貝塚 が有 機 土 層 におおわれて後 に 、 その上 に 山茶腕 を使 用 した時期 の人 々が
居住 してお つ た こ とが考 え られ る。
そ して、縄文式土器 が 今 回の調査 にお いて最 も多量 に 出上 したのが この トレンチ で、
の
そ 出土土 器 の型式 は、他 の トレンテ の それ とはぼ同様 で あ る。 なお、 この遺跡 の 主体
をなす第 亭 群土器 の 出土 量 は、黒褐色有機土 層 の 深部 に最 も多 く見 た。
第 3ト レンチ束方拡 張区 (挿 図第五)
第 3ト レンテの南部 を 3″ の 巾 で、東方 (母 子寮建築工事 で切 断 された崖 の方 向 )へ
2″ 拡張 した。 ここで は層序 は 他 の トレンテ とは異 つ てか な り攪 乱 されていた。基 盤 は
東北 へ 向 つた傾 斜 を示 し、 その基 盤上 に人 骨 が発 見 され た。 その人 骨が埋葬 されて いた
上部 には黒褐色混土破砕 貝 層 が存 し、更 に そ の上層 は暗 褐色土 層がおお つてい た。 これ
に よつて、 この人 骨 の埋 葬 は、黒褐色混土 貝層形成 時期 以前 と考 え られた。
四 つの トレンテ を総合 してみ ると貝塚 をおお う表土 は30∼ 50fPPPの 厚 みで貝塚 の上 層 に
達 し、貝塚 は梅林 か ら北 へ 野菜畑 に わた る約 2oO平 方 ″の範 囲 にみ とめ られ、 中央部 で
お よそ60例 の貝 層 の厚 さを形成 し、上 。中・ 下 の三 層 に区分 され る。
上層 は黒褐色混土 破砕 貝層、 中層 は アサ リの 多 い黒褐 色混土完存 貝層が ハ イガ イの 多
い黒褐色混土完存員層 にのつか るよ うに接 してお り、下層 は混土 率 の 少 ない アサ リの 多
い黒褐色混土破砕貝 層が踏 み 固 め られ たよ うに、基 盤上 に敷 か れてい る。
遺物 の 出土 は、貝層 の 中層 の 端 に 当 る部 分 に多 く、 下層が これ に次 いでお り、貝塚 の
端部 には行基焼 の 山茶腕 が 包 含 された有機上 層が拡 が つ てい ることが 知 られた。
挿図第六
第3ト レンチ西側断面 (柱 穴状小 ピツ トによつて貝層が切断 されている)
-9-
第 四章
遺
石瀬貝塚 において 出土 した遺物 は、貝類・ 獣骨・ 魚 骨 な どの 自然遺物 と、石器・ 土器
な どの人工遺 物、 それ に人 骨 1体 分で あ る。
然
遺
物
本遺跡 か ら検 出 し得 た 自然遺物 は付表第 2の 通 りで あつ た。
類
・ サ ルボオ
・ マ ガキ ●ハ マ グ リ
・ アサ リ
石瀬貝塚 を構成す る貝類 は双殻 類 (ハ イガ イ
●
ノガ
イ
ミル
クイ
10種
シジ
シ
イ
ミ
オオ
類 と、腹足類 (
)の
オ フキ・ カガ ミガ ・ オキ
・
・
アカニ シ 。ウ ミニ ナ・ フ トヘ ナ タ リ
・ バ イ・ ツメ タガ イ)の 5種 類 で 、第 2ト レンチの
貝
B区 で砂利箕 に 1杯 の貝類 を採 取 して比 率 を見 ると、 ハ イガ イが 4分 の 3を 占 め、 アサ
リが残 りの 3分 の 2を 占 めてお り、貝 の 多 くは破砕 され ていた。
付表第 1
あ
さ
(59。
貝類の組成比率表
(久 永直見・ 新海規男)
り
5)
はり
ぉ(280,あぃ
土
学
(3)
これ らの貝類 は浅 海底 に棲 息 した もので、 アサ リ
・ ハ マグ リ
・ オキ シジ ミな どは現在
も遺跡 に近 い伊勢湾 沿岸 の地域 で は遠浅 で千潟 となつ た と ころで採取 され ることか ら、
貝塚 の前面 に現在 ひろが つてい る水 田地帯 が これ らの貝 類 の棲息 した入 海 で あつ て、 そ
の 当時容易 に これ らの貝類 を採 取 して いた もので あ ることが想像 で きる。
貝類 の成長 は現在 と大差 な く殆ん ど同 じ位 で あ る。 ハ マ グ リの穀長 5∼ 6餌 、 ァヵニ
シの殻長 10翻 内外が大 きい方 で あ る。 しか しただ 1福 検 出 され た ミル クイば裁 景 1ltVJ×
16働 で現在 で は この近 くの海岸 で は得 られない貝類 で あつ た。
魚
類
魚骨 は第 2ト レンテの B区 、 層序 は黒褐色 混土完存員 層 か ら出土 した。検 出 された魚
・
骨 は タイが多 くカ ツオ と フグ の骨片各 1個 もあつた。
パイは現在 も伊勢湾 内 で の漁獲 は豊 富 で あ り、季節 に よつ て は糸釣 りに よる磯釣 りで
容易 に漁 獲 もで き る。 また、 フグ は海 水 の表 層或 は表 層 に近 い 部 分 を常 に滞泳 してい る
もので タイ と同様 に この地方 で今 も糸釣 りで漁獲 で きる。 この フグは多少毒 性 を有 す る
ことが 知 られ てい るが、 そ の 肉 は美味 として食用 されて い る もので 、本 貝塚 では その漁
獲 量 に つい ては、検 出骨片 が ただ 1個 とい う点 で採 捕量 の 多少 につい て は計 り知 り難 い
-10-
の Cあ るが 、 同 じ伊 勢湾 にの ぞんだ 知多町八幡 の西 屋敷貝塚 (註 1)に おいては相当量
の採捕 を見 てい る点 か らここで も捕 食 され た事 は考 え られ る もので ある。
付表第 2
自然遺 物表
双殻類
無脊推動物
ハ イガ イ
カガ ミガ イ
アサ リ
サ ル ボォ
シオフキ
ハ マグ リ
マガ キ
ォォ ノガ イ
フ トヘ ナ タ リ
オキ シジ ミ
ミル クイ
′ヽィ
ツメタガ イ
カツオ
哺 乳 類
獣骨 は第 1ト レンチの B区 、第 2ト レンチの B区・
CXか ら検 出 され、 その種 類 は イ
ノ シシ と シカで あつ た。
イノシシ もシカ も共 に森林 性野獣 であ るが 、生態学 的 には、 イ ノシ シは湿沢地 の 多 い
低 い 山性林 地 を好 み、 シカは池沼 に め ぐまれ た 山地 や、飲 用水 さえあれば、時 にはやや
高燥 な深 林 中 に も棲 息 で きるとい われてい る。 (註 2)
この ことは石瀬貝塚 の位置 か ら見 てその四囲 の地形 よ り考 え る と、標 高61″ ιの青 海 山
につづ く丘 陵 とと もに そ の 間隙 にあ る池 沼、 及び伊勢湾 がかつ て更 に入 江 を形成 してい
て 、 その入江 につづ く低湿地 の存在 な どか ら、 イノシシ・ シカの棲 息 には好適 で あ つ た
で あろ う。
海 にの ぞんで築 か れ た貝塚 としてその 多 くを海 か らの獲物 に依存 しなが らも、 一 方 で
は イノシシ ●シカな どの狩猟 も行 われた こと も考 え られ るので あ る。
駐
1.2.直 良信夫「西屋敷貝塚発掘の自然遣物」
(愛 知県知多郡八幡町史資料第 4集
『西屋敷貝塚』所収1958年 )
人
骨
第 3ト レンチ拡張 区 を掘 りさげ てい くと、地 層が攪乱 されて い る こ とを認 めた (挿 図
第 五 、第 3ト レンテ拡 張区断面 図)。 そ して 、基盤 は東 ∼北 に むか つ てゆ るい傾斜 を示
していて 、 その基盤上 に入 骨が理葬 され てい ることを発見 した。 その埋葬 状態 は頭 部 を
西南西 にお き、仰臥屈葬 で あ り、 人骨 の保存程 度 は余 りよ くない 。
人骨 の埋葬穴 は下 層 の 第一 群土器 をム くむ破砕 貝層 を切 つてつ く られ てい る。
そ して、埋 葬穴 の有機土 層 の 中 で人骨 と接 して並 べ られ た よ うに発 見 された上器 は、
この 遺跡 の 第 二 群土器す なわ ち加 曽利 E式 後葉 (石 瀬 型 )の 上 器 で あ る。 さ らに この理
葬穴 を うめたてた土 の上 部 には第 二 群土 器 をふ くむ上層の黒褐色 混土 破砕 貝 層 がの びて
きてい る。
こ うした ことか ら人骨 は、す でに形成 され ていた下 層貝層 を掘 りお こして埋 葬 され た
― ■ ―
もの と考 え られ 、 そ の 時 期 は上 用 の 新 しい 黒 捌 色 混 土 破砕 貝 層 の 成 立 す る以 前 と考 え ら
れ る。
9__C`
1
_100
︵
甥龍︶
嗚
逢
ヽ
ノ
Nキ
挿図第七
人 骨 と そ の 埋 葬 穴
(第 3ト
レンチ拡張区)
付 記
な お人 骨 の 出土 資料 は東 京 大 学 理学 部 人 類 学 教 室 の 鈴 木 尚博 士 に研 究 を委 嘱 した。
同博 士 よ りそ の 結 果 が 穀 告 され る予 定 で あ る。
-12-
人
石
遺
工
物
器
石瀬貝塚 の発掘 に よつ て採集 され た石器 は、打 製石鏃 のみで 、 その数 も未完成品 を含
めて38例 とい う少量 に と どまつ た。 その出土 量 の 内訳 は付 表第 3の 通 りであ る。
付表第 3
石器の トレンチ別出土表
論
│十1÷
石鏃 は何れ も無茎 で、 おお むね三角形 をなす もの と、三 角形 の底辺 の部分 を打 ちか い
た陽快 形 との 2形 態 が あ る。 (図 版 二・ 挿 図第 八 )
石鏃 の原料 とな つ てい る岩石 は黒耀石 と硬砂岩 で あつ て、硬 砂岩 は吉生 層 の地 帯 で産
す る もので丘 陵 の す べ てが 第 二 紀層 に属す る知 多半 島 には比 の層 の露頭 は存在 しない。
遺跡 に近 い地方 で強 い て産地 を求 め る と、尾張北 部 の犬 山か 定光寺 の地域 または海 を渡
つ て渥 美半 島 にいかね ば な らない といわれ てい る。 (註 3)
しか し、石鏃 の材料 とな る程度 の岩石 は 、 その露 頭 す る地域 に行 つて求 めな くて も、
小 さいか た ま りで十 分 で あ り、遺跡周辺 の丘 陵 に大 小 の礫 の形 で存在 し容 易に手 に入 れ
ることがで きた もので あ ると推 察 され てい る。 しか し、黒燿 石 は この地域 で採集 す るこ
とはで きないので 他地方 (お そ らく長野県 の和 田峠地方 )か ら移入 され た ものであ る。
ゴヽ
武 善 為
み
t―
か 含
一
‐
͡
懲
珍
珍
挿図第八
石 鉄 実 測 図
(縮 尺 三分の一)
駐
3.杉 崎章・ 直良信夫・
久永春 男『 西屋敷貝塚 』 (前 掲 )
行 基 焼
第 2ト レンチの 上 層 と第 3ト レンテの上層か らは、俗 に行基焼 といわれ る中 世の吉窯
製品が若干検 出 され てい る。
その量 は大 形 の 甕 の資料 が二 片 と山茶碗 が約 10イ 固体分 な らびに小皿 が 1個 体 で あ る。
行基焼 は 山茶碗 と小 皿 の型 式 を もとに して三 型式 に編年 され 、 それ ぞれ前・ 中・ 後 の
一-13-―
3時 期 に区分 さ11て い る。
4)
(註
本遺跡 の行基 焼製 品 には、 その全体 の 器形 を復 原 で きるよ うな資 料 はな く、す べ てが
細か くわれ た破 片 で あ るが 、小皿 の底部 に高台 が み られず、 しか も未 だ底 面 がせ ま く、
郷形 を保 つ てい ることや 、 山茶碗 におい て器体 の 反 りは幾分 あ る ものの底部 の高台 の 付
け方 が粗雑 で あ るこ とな どか ら、行基焼第 二 型式 の特徴 が み うけ られ る。
箋 の 資料 は肩部 で あ り、押 印が数個付 され てい る。
遺 跡 か ら約 1た
東方 へ 隔 つた知多半島 の丘 陵 中央部 には常滑 古窯址群 (註
"も
5)と 称
され る行基焼 古窯 の濃厚 な分 布 が発見 され てい るが、本遺跡 発見 の 資料 もこの古窯 虫卜
群
で生産 され た もので あろ う。
そ して行基焼 第 二 型式 の時期 は、同型式 の 奨が丘第一号窯 (愛 知県 知多郡 知 多町 )の
熱残 留地磁 気 に よ る年 代測定 (註 6)か らほぼ 13世 紀 と推 定 され てい る。
註
4.杉 崎章・ 渡 辺直経・ 久永春 男『 哭 が丘古窯¶
(愛 知県 知 多郡 知 多町
:』
八 幡 公民館 刊・ 1960年 )
5.沢 田由治「 平 安―一 室 町 の常滑」 (『 世界陶磁 全集 2』 所収・ 1957年 )
6.渡 辺直経「 巽 が丘古窯 の地磁気年 代学 的考察」 (前 掲『 巽 が丘古窯 』所 収 )
h監
縄 文式 上器
今次 の 調査 で 採集 した縄文式上 器 の量 は次 の 表 に掲 げた とお りで あ るが、包 含層 な らび
に土 器 型式 か ら以下 に述 べ る 3群 に大 別 され る。
付表第 4
ト レ ンテ
華ト
レ
ン
1テ
採集土器片層位別数量表
上
凍
有文
層
都
度
部
胴
部
8
底
部
2チ
度
蔀
口 縁 部
,4E
胴
部
テ区
亡
蔀
層
出
の礼 有文 1無 文
土
│そ
の他
87
10
13
4
395
7
89
44
676
4
2
7
:
1
ユ
45
行基
0
狸一
・
一
部一部
199
31
2
361
141
1
口 縁 部
底
胴一
土取作業
第拡
│そ
下
一3
部
5
185
土
1
10
8 ∞
一
胴
2
5
0
騎
・一
3テ
口 縁 部
出
3
1
零 ト
レ
ン
層
44
2
2
第ト 口 縁 部
レ
ン
中
無文 その 礼 有 文 1無 文
口 縁 部
胴
土
出
2
13
邪
10
15
23
10
│
三
1互 十
第 一 群土器
第 一 群 土 器 は、 下層 の混土 率 の少 ない アサ リの多 い黒梱色混土破砕貝 層 (2T・ 3T
ら出土 してお り、 黒褐色 を呈 し、質 が もろ く焼成 は よ くな い。 そ して器形 は
3T拡 )か
す べ てが 鉢形土 器 で あ る。 半割竹管 を主要 な施文 具 とし、 日辺 部 の直立 乃至外反 りした
-14-
器形が多 く、文 様 に よつ て次 の 様 に類 別で きる。
割竹管 に よつて 口辺 外面 にいわゆ る爪形 ?刺 突 文 を加 えた もの 電霧 寄}i工 3)
九
(2)半 割竹管 に よつ て胴 部 に爪形文様 を連続 して加 えた もの (霞
屡露 亀τIB)
(3)半 割竹管 に よつ て平行線 を引 き、 その凸起 した部 分 に爪形 を刺突 した もの、及び半
割竹管 を うつ む けに圧 しつ け、隆線 状 とな つ た部 分 に爪形文 を加 えた もの
(1)半
(雹
九 銑
展露 寛
:き
(4)竹
)
管 に よつ て平 行線 状 に沈線 を施 し、 その沈線 に囲 れ た部分 に縄文 を施 した もの、
及 び沈線部 にむか つて三 角形 の刺突彫刻文 を施 した もの (雷 屡雷色 鋸Ξ謎)
九
(5)半 割竹管 に よつ て何 条 かの平行線 を施 し文 様化 した もの
発ェ説)
(霞 震蜜
九
(6)縄 文 のみ施 した もの 、 及 び田辺部 の 内側 に まで縄 文 を施 した もの
駕短辞)
(雷 麗
以上、第一群土器 として類 別 した土器 の うちには西 日本的 な要 素 と東 日本 的 な要素 と
が見 られ るが 、本 貝塚 では それは き りはな し難 い一 群 を形成 してい た。
この地方 の 中期 前葉 におかれ る土器型式 であ る。
第 二群 土器
第 1ト レ ンチ、第 2ト レンテか らの出土 は極 めて 小 量 で数 片 に どどま り、第 3ト レン
テか らの 出土 が主 で あ る。
第
1、
第 2ト レンテ では、 中層 の ハ イガ イの 多 い黒褐色混 上 完存員層・ アサ リの 多 い
黒褐色混土完存 貝層 に包含 され、第 3ト レンチでは 、 やは り第 1ト レンチ、第 2ト レン
テ と同 じ層 と下層の混土 率 の少 ない アサ リの 多 い黒褐色混土 破砕貝層 の上 部 か ら出上 し
てい る。 暗褐色 を呈 す る外 反 りの深鉢形が 多 く、文 様 に よつ て次 の類 別が で きる。
(1)波
q笑
霞
号
状 口縁 をな し、 二 条 の太 い沈線 を平行 に施 し、 その囲 みの 内 に縄文 を施 した もの
・
十
Iェ :)
(2)平 口縁 であ つて 、 ヘ ラ状施 文具 に よつて平行線・
渦文・ 楕 円形等 の沈線 を加 え、区
十
all内 に縄文 を加 えた もの (霞 棄
1:κ 翌)
屡
(3)ヘ ラ状施文 具 に よつ て沈 線 を加 え、区占
1内 の一 部 に刺突 を施 し文 様化 し、他 の区 all
fi参
内 1こ 縄文 を力日えた もの (霞 屡棄
定i:)
十
部 を隆線 に よつて 区書Jし 、 その内部 に縄文 を加 えた もの 幅 屡蒙
経)
一
第
(5)ヘ ラ状施文 具 に よつ て沈線 を施 し、撚糸文 を加 えた もの
幅 屡 壱 究弓 )
等
第
(6)平 たい組 状 の粘土 をは りつ けて 口縁部 を作 つ て い る もの (霞
∼20・ 25)
屡 英
十
(7)口 縁部 を波状 に して変化 を与 えた もの (霞 棄
ち
2)
屡
(8)口 縁部 に粘土紐 を加 え、 その部分 に刺突 して支 様 とした もの
(4)胴
(霞
23∼ 25)
十一 。
第°
屡英 男τ
3と
露
割竹管 に よつ て何 条 かの 沈線 を施 し文 様化 して い る もの (雷 屡第を
τ鑑)
以上、第 二 群土 器 として あげ た ものは 出土量か ら言 つ て最 も少 ないのであ るが、知 多
(0)半
7)の 第 一 群土 器 として類 別 され、咲畑式上器
と命 名 され てい る もの と型式 を同 じくしてお り、 関東地方 において加 曽利 E式 土器 の新
半島 の先端 に近 い南 知多町咲畑貝塚 (註
しい時期 の もの と関連 が 考 え られ る もの であ る。
ただ し(5)と して類 別 した ものは、咲 畑貝塚 では発 見 され てい ない。
-15-
第二群土器
第 二 群土器 は石 瀬 貝塚 の主 体 をなす土器群 で、第 1ト レンチ・ 第 2ト レ ンテ・ 第 3ト
レンテ と もに 多量 の 出土 をみ た。
その出土 の層序 は、第 1ト レ ンテ においては ハ イガ イの 多 い黒褐色混土 完存貝層・ ア
サ リの 多 い 黒褐色混土完存貝層 で あ り、第 2ト レ ンテにおいては、下層 の混土 率 の少 な
くアサ リの 多 い 黒褐色混 土 破砕 貝 層 の上部 に見 られ、第 3ト レンチにおいて は、黒褐色
有機上 層 の深部 に その 出土 が 見 られ、拡張 区 では ハ イガ イの 多 い黒褐色混土 完存貝層 の
深部 か ら多量 の 出上 を認 めた。
多 くは褐色 を呈 し、器形 は鉢形 で あ るが 、把手 の付 け られ た もの もあ る。
ラ状施文 具 に よつて太 い沈線 で 区画 し、 その内部 に沈線 で斜 線列 を加 えて文 様化
(1)ヘ
した もの (雷屡宍
(2)ヘ
1元
iΞ うf)
ラ状施文具 に よる太 い 沈線 で区画 し、 その内部 に刺突 を加 えて文 様化 した もの
。
三勇
十
定監
!子
究
雹屡
)
第 三
縁部 に刺突列 を加 えて い る もの (霞 屡 卒 観寛鶴)
)ヘ ラ状施文 具 に よつて太 い 沈線 に よつ て渦紋 を描 いて文様化 した もの
(3)日
第三 定認
屡車 器
(霞“
)
(5)粘 土組 に よる隆線 をめ ぐ らし、更 に沈線 を加 えて図様 化 した もの
鋸
信屡竿!予 _霊 τ
つ
の
紐によ て隆線を施し、一面に櫛状施文具によつて斜位に条線文を施したも
(6)粘 土
三
(置 震
竿± 箭π認
)
)
(7)口 縁 や 、二 条 の 沈線 内 にハ の字状 の刺突文 を連続 して施
生三多
定な
3)
幅展筆
した もの
土紐 に よつて 隆線 を施 し、 隆線上 に連 続 して刺突 を加 えた もの、及 び その下部 に
三
・十四
縦 列 に櫛 状 の沈線 を施 した もの 信 屡寧三
男庄齢)
(9)粘 土紐 に よつて隆線 を施 し、 隆線 の部分 に圧痕列 を加 えて文 様 とした もの
(8)粘
(雹
寛
3:)
三T十 三誘
屡
李
tOヘ ラ状施文具によつて太い沈線を多数施 し、その間隔内に細い沈線 を施 して文様化
の幅展竿
したも
主甲
益干3狂劫4)
等 々で あ る。
これ らの要素 か ら第 二 群土 器 として分 類 した これ らの土器 は縄文文 化 中期末葉 に比 定
で きる もの と考 え られ、西 三 河台地 にお け る刈谷市 山 の神遺跡 (註
8)出 土 の土 器 に酷
似 してい る。
註
7.磯 部幸 男・ 井 関弘太貞Б
・ 杉崎
章・ 久永春 男 『 咲畑貝塚』
(愛 知県 知 多郡 師崎 町師崎 中学校
8.加 藤岩蔵『 山 の神遺跡 と天子 神社貝塚』
1960年 )
(刈 谷市文化財 保護委員 会
(新 海 公 夫 )
―-16-―
1961年 )
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第二群土器の拓影
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第二 群 土器の拓影
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第五章
石瀬貝塚出上の縄文式上器 の
相対年代
石瀬 貝塚 の貝層 は上 。中・ 下 三 層 か ら成 つていた。下層 はアサ リの多い 黒褐色混土破
砕貝層 で、薄 く広 く堆積 して い るが、 ところ どころ とぎれ てい る部 分 も見 られ る。中層
は黒褐色混土 完存 貝層 で、地 点 に よつて アサ リの 多 い 層 とハ イガ イの 多 い層 とが あ り、
下層貝 層 の とざれ てい る部分 に も堆積 し、 また下 層貝層 が 終 つてい る第 1ト レンテ南部
か らさ らに南方 の道路 の方 へ も広 がつていて、堆積年 代 を異 に した別個 の貝 層 であ るこ
とがわか る。上層 は黒褐色混土破砕 貝層で、 ほぼ貝塚 全面 を蔽 うてお り、第 2ト レ ンテ
西 端 の 中層貝層 が 終 つた地点 では直接 下層貝層上 にのつていて、 一 見独立 した貝層 の如
くであ るが、包 含す る土 器 は それが被覆 して い る貝層 とその型式 を― に し、実 は被覆 さ
れ てい る貝 層 の表 層 が踏 み しだかれ た り、耕 され た りして、破砕 した もので あつた。 す
なわ ち石瀬 貝塚 の貝層 は基本 的 には下 層 の黒褐色 混土破砕 貝層 と、 中層 の黒褐色混土完
存 貝層群 とか ら成 り、中 層 の 黒褐色混土完存 貝層群 は時期 に よつて アサ リの多い層 を形
成 し、 またハ イガ イの 多 い 層 を形成 したので あつた。
石瀬 貝塚 出土 の縄文式土器 は、 そ こで包 含 層の 層序 に よつて、 下 層貝層出土土器 と中
層貝層群出土土器 とに大 別 され る。
下 層貝層 出土土器
下層貝層 出土土 器 は、 器形 はす べ て鉢形 で、半割竹管 を主要 な施 文手段 とす る。 しか
し文称 の加 え方 に よ り、 それ は 4類 に類 別 され る。
a類
半割竹管 の弧 を仰向 けに して、土器面 に斜 めにお しつ けて、連続爪形文 を形成 し
た もの (挿 図第九 1∼ 10)。
b類
半割竹管 の弧 を障 向 けに して引 いた隆線 の よ うな見 か けの 中高 の平行線 の上面 に
、 やは り備 向 けの半割竹管 を斜 めにお しつ けて形成 した隆起爪形文 (挿 図第九11∼ 13
・ 15)お よび粘土紐 をは りつ けた隆線 上に隆起爪形文 を加 えた もの (挿 図第 九22)。
C類
無文 または縄文 を地文 として施 した器 面 に、半割竹管 に よ る平行線 で意 匠 を描 い
ただ けの もの (挿 図第 九29∼ 39)。
d類 縄文地 に半割竹管 に よ る平 行線 で意 匠 を描 き、 その平行線 に沿 うて、縄文 が施 さ
くさび
れ てい る部 分 に楔状 に三 角形 の彫 刻 を連続 して加 えて あ る (挿 図第 九24∼ 28)。 平行線
内 に隆起爪形文 を加 えた もの (挿 図第九23)も あ る。
この うち a類 お よび b類 は、 この地方 では縄文文化前期 の 中葉 か ら後葉 にか けて盛行
す る手法 で あ るが 、 d類 は中期初頭 にいたつて一 般化す る (註 1)手 法 で あ る。 そ して
うえ ひ ら
注意 すべ きは豊川 中流 の新城市 有 海字 上 の平遣跡 (註 2)で は、 d類 が a類・ b類 を伴
なわないで単純 に発 見 されて い ることであ る (挿 図第十 六 )。
上 の平遺跡 出土土器 が 関
東地方 の五領 台式土器 と親 縁 関係 を有す る土器型式 で あ る ことについて は、 か つて触れ
た ことが あ る (註
3)が 、石瀬 貝塚 下層貝層出土土器 はす なわ ち d類 を メル クマール と
して その時期 が中期初頭 に 位置 づ け られ る とと もに、 また二 系統 の土 器型式 が複 合 した
様相 であ ることが 知 られ る。
―-24-
挿図第十六 愛知県新城市有海・ 上の平遺跡出土土器
(約 】大)
中層貝層群出土土器
中層貝層辞出土土器 も器 形 はすべ て鉢形 であ り、形態 と文様 に よつ て、次 の 8類 に類
別 され る。
a類
日辺 部 はキ ア リバ ー 状 に 内側へ 彎曲 し、器壁 は薄手 で あ る。器 面 に地 文 と して縦
位 の燃糸文 を施 した後 、細 い棒 または箆 に よ る沈線 で意 匠 を描 く。 口辺 部 に局部 的 に
隆線 を再Jえ てあ る例 (挿 図第十 一 %∼ 27)が あ る。 日辺 部 に 2条 の平行線 をひ き、 そ
の 区奎J内 に圧痕 列 を千島 に加 えて、高 く残 された部分が さざなみ状 の波文 を描 く手法
(挿 図第十-26)や 、胴 部 に箆又 は 半割竹管 に よつ て横 t立 に め ぐ らした ジグザ グ文
(
挿 図第十 -31∼ 32)も 特徴 をなす 。
b類
縄文 を地文 とし、太 い沈線 で意 匠 を描 く。 日辺 部 の 形態 に よつ て 2類 に細 別 され
る。
I
口辺 部 が キヤ リバ ー状 をな して なだ らか に 内彎 し、 日縁 は平 らであ る。太 い沈線
に よる渦文 または縦 位 の短線 列 で口辺 部 を数区 に分 け、 その 中間 に不規 則 な偏 円形
や半月形 を区菩1し 、 その 内部 に縄文 を加 え、 その区 allの 下方 には太 い 沈線 に よ る連
弧文 を配 す る構 図 (挿 図第 +13∼ 14)は 特徴的 で あ る。
1
口辺部 は直日ない しわずかに内彎す る形で、 日縁は平 らな もの と波状 をなす もの
とがある (挿 図第+1・
2・ 7・ 10)。
意匠は日辺部に集中せず器休全面に加 え られて
と`る。
C類
と類 と推定 され る胴部破 片 に、瘤 消縄文風 の文様構成 (挿 図第 +8)も 見 られ る。
日辺 部 はキ ア リパ ー状 に 内彎 し、器壁 は薄 手 で あ る。地文 を施 さず、 単純 に沈線
のみで意 匠 を描 く。 口縁 に平行 して 1条 又 は 2条 の横線 をめ ぐ らし、 それ か ら重下 せ
しめ るかの よ うに、 その 下方 に 2条 ない し 3条 の連 弧文 を加 えた構 函 (挿 図第 十 -42
∼弔 )カ デa類 の構 図 に類 似す るの みで な く、 日縁 部 の 2条 の平行線 内 に刺突文 列 を加
え る手法 (挿 図第十 -39・ 43)は 、 a類 の 千鳥圧痕列 の 簡略 化 された もの と見 な して
'
よい であろ う。
d類
口辺部 が やや内彎す る もの と直 日の もの とが あ り、器壁 はやや厚 手 で あ る。地文
を施 さず、太 目の施文器 具 に よる沈線 と刺突文 とで意 匠 を描 く。構 図 に よつて 4類 に
細別 され る。
I
太 い 沈線 に よつ て、渦文 や蕨手文 や長 精 円形等 の曲線文 を単純 に描 いた もの (挿
N第 十 三30∼ 39)。
1 口辺部 には、1条 又 は 2条 の 沈線 でか こんだ不規 則 な長 円形 や半 月形 を配 し、 そ
の 内部 には斜線 (挿 N第 十二 1∼ 5・ 13∼ 14)又 は刺突文 (挿 図第十 二21∼ 22、 挿
図第十 三23∼ 24)を 加 え る。胴部 は 2条 又 は 3条 1組 の重線 で数区 に 分 け、 各区劃
は斜線で うずめる。斜線は縦位 の羽状 に加 えられる例が多 く、 また斜線間に 1条 の
縦位の蛇行線 を加 えた もの (挿 図第十 五81∼ 83)も ある。 2条 の垂線の間に刺突文
夢」を加えた もの (挿 図第十 二17∼ 18)も ある。
Ⅲ 口辺部か ら胴部へ かけて、1条 又は 2条 の沈線 による縦 に長 い楕円形 (挿 図第十
二 6、 第十五79)又 は長方形 (挿 図第十 五77・ 80)を 数個配列 し、図形内は斜線 で
h
うずめる。図形 間に蕨手文や斜線 を加 えた例 (挿 図第十五79)も ある。
口営を内外 に肥厚 せ しめ上面 を平 らにした日縁部 を 4区 分 し、彎曲 した長 楕円形
4個 か ら成 るごとくに作 り、 日唇上面 には刺突文列が力IIえ られている。 なだ らかに
-25-
内彎す る日辺部 には 3条 の横 線 をめ ぐ らし、胴部 は 2条 1組 の垂線 に よつて 8区 分
され、 各区 は交互 に左 傾又 は右 隕 の斜線 で うず め られて い る (挿 区第十 二 10)。
器形 は d類 にほ ゞひ と しいが 、施文手 段 として箆状器 具 と櫛 状器 具 とが併用 され
e類
てい る。構 図 に よつて 2類 に細 別 され る。
I 口辺部 に刺突文帯 をお き、 胴部 には櫛 描 き重線 を配 す る (挿 図第十 三27∼ 28)。
I d― I類 と構 図 を一 にす るが 、区 all内 の充項文 として櫛 描 き斜線 が用い られて い
る (挿 図第十 四65∼ 68070073)。
地支 として櫛 描 き斜線 を用 いた bll(挿 図第十五
75)も あ る。
f類
器形 は d類 にほ ゞひ と しい が、 日辺 部 が外反す る例 (挿 図第十 四53)も ある。施
文手段 として隆線 が用い られ てい る。隆線 の配 し方 に 3種 類 あ る。
1
胴部 を、 やや細 目の隆線 を縦 位 または横位 に走 らせて 区分 し、 隆線 間 には箆描 き
沈線文 (挿 図第十 三40∼ 41・ 46)や 櫛 描 き充項文 (挿 図第十 三 )‐ が 加 え られて い る。
“ 櫛 状器 具 (挿 区第十
I 隆線 と太 い 沈線 とを組 合 せ て 図形 の区 alJに 用 い、 図形 内には
三47、 第十 四62)半 割竹 管 (挿 図第十 四55)な どに よる充項文 が加 え られて い る。
隆線 の外 側の 凹部 に刺突文 列 が加 え られて い る もの (挿 図第十 三47 第十 四55)も
あ る。
Ⅲ
口辺部 か ら胴部 へ うつ る くびれ部 に、圧痕 を加 えた隆線 を横 1立 に絡 げ縄 状 に め ぐ
らして い る (挿 図第十 四51∼ 54・ 61∼ 62)。 胴部 の箆描 き重線 を、 この隆線 を起点
に して引いて あ る例 (挿 図第十 四51・ 54)も 見 られ、 また圧痕 の ない隆線 を垂線 に
した例 (挿 図第十 四58)も 見 られ る。
絡 げ縄 状 に横走 す る圧痕 を加 えた隆線 に環状 の耳 が附加 せ られ てい る例 (挿 図第十
四72)も 見 られ る。
g類
直 日の日辺 部 の口端 を外方 へ 折返 して厚 くし、 口 唇部 に連続 末J突 文 を加 えて あ る
。 器体外面 は無文 で あ る (挿 図第十 -23∼ 25)。
h類
なみ
さざ
直 口の土 器 で器 体外 面 は 無 文 、 薄 い 口 躊部 に連 続 して圧 度 が 加 え られ 、 口縁 が 小
波状 をな して い る (挿 図第 +19)。
a類 にお け る縦位 の撚糸文 を地文 に して沈線 で意 匠 を描 く手法 は、 この地方 では北屋
4)に おいて 盛行 す る手 法 で あ るが、豊川中流 の新城市有 海字篠原遺跡 で
は加 曽利 E式 のi雪 い時期 に対比 せ られ る土器 と伴 なつて発見 せ られて い る (註 5)。 しか
致式土器 (註
し加 曽利 E式 の 新 しい 時期 に比定 せ られ る豊川 下流 の豊川市麻 生 田遺跡 下層 出上 の土器
や、天竜川中流 の 静 岡県磐 田郡 佐久 間町佐久 間遺跡 出土土器 中 には、 この手 法 はす でに
見 られ ない。 また加 曽利 E式 の新 しい時期 に並行 して三河湾浴岸地域 に 分布 した咲畑式
土器 (註
6)の 標 式遺跡 で あ る知 多半島南端 の知多郡南知多町師崎大宇 片名 の 咲畑遺跡
第 1号 貝塚 において も、 a類 はやは り見 られ なかつた。 けだ しその用 い られ た期 間 は長
くはなか つた よ うであ る。 しか しその分布 は広 く西 へ 拡 が り中国地方 で里 木 1式 (註 7
)と 命名 され てい る土器型式 もまた その手法 を一 にす る。
b類 の うち、1類 は ま ざれ もな く咲畑式上器 で ある。 しか し「 類 は施文 手段 か らい う
と I類 とひ としいが、構 図 か らい うとむ しろ d類 と一致 し、 また咲畑第 1号 貝塚 におい
ては、 この I類 が見 られ なかつ た こ とは注意 す べ きで あろ う。
C類 は形態 と構 図 で a類 にほ ゞ一 致 し、 a類 に伴存 した もの と見 て よい で あろ う。
七d類・
ette f類 は、形態 、施 文手段 、構 Nに おいて互い に
す る ところが多 く、
'(通
-26-
相伴 なつて一 つ の 群 を形成 していた もの と して よい。 す なわ ちこれ と同一型 式 の土 器 と
して、刈谷市 山池 町 山の 神遺跡 出上土 器 (註 8)ヵ Iぁ げ られ る。 その構 図 には加 曽利 E
式土 器 の特 徴が明 らか に投影 され てい るが、 口辺 部 の文 様 において 隆線 が退 化 して、太
い 沈線 が文様 の主 体 とな り、胴 部 の隆線 には圧痕 が加 え られ、 刺突 文 と環 状 の耳 が盛
行
す るな どの点 で、 加 曽利 E式 上 器 の最 も新 しい時期 に比 定 され る と共 にい ちじるしい地
方 色 が認 め られ る。 そ して山の 神遺跡 においては資 料 は多 くなかつたが この型式 の土 器
が竪穴 式住居 五Lか ら単純 に発見 され、 a類 や b― I類 は 伴存 しなかつた。
g類 。h類 は 畑 式土器 に も見 られ るが 、施文手 法 の共 通 か ら推 と
す 、 あ るい はなお
味
d類・ e類・ f類 に も伴 な つ た可能性 もあ る。
か くて中層 貝層 群 出土土器 は、 a類 と C類 か ら成 るA群 、 b― I類 に g類・ h類 が 加
わ る B群 、 d類・ e類・ f類 を主 体 とし、 お そ らく b― Ⅱ類 が加 わ り、 あ るい は さ らに
g類・ h類 をも含んだ可能性もあるC群 の3群 に分けられ
、しかもそれは同一型式内に
お け る多 様性 (variety)の 類 別 ではな く、 それ ぞれ別型式 と見 な し うる もので あ つ た。
そ うす るとこの 3辞 の上 器 が、 石瀬 貝塚 におい ては 同一 時期 に並存 して いたのか 、 互
に 先 牛 関係 に あ つて順 次 に交 代 したのかが 問題 とな るが、 貝塚 が梅 林 中 に あつて樹根 が
の び拡 が り、 また と ころ どころ授乱 されて もいて、包 含層 (貝 層 )の 層序 に よつて それ
を明確 にす るにはい た らなかつた。 た ゞ第 3ト レンテにおいて黒褐色有機土 層下部 な ら
び に人 骨埋 葬穴 周辺 か ら、 c群 土器 のみが 単純 に発 見 され 、 A群 な らびに B群 とは独立
して存 した らしい ことが推定 された。 それ は 山 の 神遺 跡 において B群 土器 が見 られず、
咲畑第 1号 貝塚 におい て C群 土器 が見 られ ない こと と呼応 す るところで もあ る。
次 に A群 とB群 との相互 関 係 で あるが、咲畑 第 1号 貝塚 におい ては、 A群 土器 は全然
見 られ なかつた 。 しか しい ま石瀬 貝塚 の A群 土器 と新城市篠 原遺跡 の それ (挿 図第十 七
I
)と を対比 してみ る と、資料 が 少 ないので断定 は まだ早 いが 、 そ こには一 見か な りな様
I
,
挿図第十七 愛知県新城市有海・ 篠原遺跡出土土器の拓影
相 の差異 が 認 め られ る。 そ して篠 原遺跡例 が 先行 したゴヒ屋敷式上器 の それ に近 いの に対
して、石 瀬 貝塚 の A群 土器 は その形態 におい て む しろ b― I類 土器 (す なわ ち咲畑式上
器 )と ほ とん ど一 致 し、 また日辺 部 に連弧文 をめ ぐ らす構 図 は、咲畑式上器の特徴 をな
す構 隠 の一 でで もあ る ことが おi意 を慧 く。す なわ ち石瀬 貝塚 の A群 土器 は、 この種 の施
文手法 を用 い た土器 の最 も新 しいと
イ
!で あつて、 B群 土 器 (す なわ ち咲畑式上器 )に 伴存
一-27-一
したの ではないか と も推 測 され る。 A騨 と B群 の 出土 量が と もに ま こ とに少量 で あ るこ
と も、 また両者が相伴 なつて 1群 を形成 してい たの ではないか との推 測 を浅 くす る。 も
しそ うだ とす ると、石瀬 貝塚 出上 の 縄文 式
li器
は 3群
とな り、 その相 対年 代 は次
57111式
の ご と くな ろ う。
群
i型
メル ク マール とな るJi器 文様
第 二群 トー ーーー ー ーー
ーー
i 型式 I I 下層貝肘
…
―
d類
‐ 1再
型耳 下
百高桑声ぢ
衰
―
相
一
対
年
代
中 期 前 菓
.
f類
1
叶1期 後薬の未
そ して第 3群 (型 式 V)土 器 は、 さ きに刈谷市 山 の神遺跡 において方 形 の竪穴 住居 4L
を と もな うこ とがわかつたが 、 出土土 器 が少量 で、 かつ保存 が悪 く、 その特徴 を詳 か に
す ることが で きなか つた。 この たび石瀬 貝塚 において多量の資料 を得 ることが で きて、
それが広義 の加 曽利 E式 土器 の最 も新 しい 時期 に属す ること、 しか しまた刺突文・ 圧痕
を加 えた隆 線 。環状 の耳 の燃行 な ど、 か な りの地方色 を有す ることが確認 せ られた。 そ
こで広義 の加 曽利 E式 上器 の最 も新 しい時期 の この地方 にお け る地方 型 (註 9)と い う
意 味 で、本貝塚 の名 を冠 して石 瀬 型 と して概括 し、今 後 その くわ しい文 化 内容 な らびに
その 分布 圏 の範 囲 な どの調査 をすす めてゆ くことと したい。
註
1.三 角形彫刻 の 出現 は この地方 で もす でに前期末 の十 二 坊台式上器 において見 ら
れ るが 、 それ は多様 な施文 手法 の一 と して、 た また ま用い られ てい るに とどま り
、 まだ一般 的ではな く、 また施 文 の 様相 をやや興 にす る。
2.夏 目邦次郎『 大昔 の 新城』新城 lHJ教 育委員会 1957年
3.夏 目一 平・ 久 永春男『 大 根平』 津 具郷上 資料 保存会 1955年
4.愛 知県渥美郡渥美町石神字 北屋敷 貝塚 出土土器 を標式 とす る。東 海地方 か ら瀬
戸 内東部 にわたつて 分布 してい る。
5.山 本 一三二氏採集 資料 に よ る。
6.磯 部幸 男・ 井関弘太郎・ 杉崎革・ 久 永春 男『 愛 知県知多郡 師崎 it咲 畑 貝塚』師
崎 中学校 1960年
7.鎌 木義 昌・ 木村幹夫「 各地域 の縄 文土器― 中国」 日本 考古学講座 第3巻 1956年
8.加 藤岩蔵『 山の神遺跡 と天 子神社 貝塚』 刈谷市 文化財保護委員 会 1956年
9.そ の 分布 については、現在 まだ知 見 が 乏 しいが、碧海台地 で は山の神遺跡 の ほ
か に、刈谷市 ― ツ本字茶 煎坊遺 跡 が あ り、矢作川 の東 の台地 では 男川 中流 の 岡
崎市 丸 山町村上遺跡 か ら もほ ゞ同 Jli41式 とみな され る土器 が 出上 してい る。 す な
わ ち知 多半島か ら矢 作川 下流 流域 にわ た る地b_tが 知 られてい る。
(久 永 春 男 )
-28-
第六章
石瀬貝塚 を主 とした大野谷 の
先史地理 的 考察
(1)海 進 期 以 前 に お け る 原 地 形
伊 勢湾 の 海 図 をみれば わか るよ うに、 知多半島 の 西 海岸 に沿 つ て、棚状 となつ たほぼ
水 平 の浅 海底 (水 深 6"以 浅 )力 玉
、海岸線 か ら数肋 の 沖合 まで つづ いてい る。 この 部 分
の地質 は、海底 面 下 の極 く浅所か ら、 知 多半島丘陵部 の それ とおな じ新第二 紀 層か らな
つてい る。 この ことか らみ て、上記 の棚状 の 浅 海底 は、知多半 島西 岸が波浪 に よ り削 り
と られ、 その跡 にで きた海蝕 棚 であ ることが うか がわれ る。
大野谷 の 沖合 には、海区 の等深線 を追 つ てみ る と、 棚状 の浅 海底 を さ らに 5″ 内外 え
ぐつ た よ うな谷状 の地形 (挿 図第十八 )力 収
認 め られ る。伊 勢湾灯標 を大 野町 の沖 合 に建
設す る際 この谷状部 において もボ ー リング調査 を行 つたので あるが 、 その結 果 に よ ると
海面 下約 3Cl″ ,ま で、軟弱 な沖 積 層が つづ い てお り、埋積谷 であ ることがわか つた。 この
海底 沈水谷 は、海面 が現状 よ り80∼
lCXl″ ′も低
く伊 勢湾全体 が陸地 となつ ていた決 積 世
末 期 ごろの 、大野谷 の延長部 を示す もので あ る。
その ころの東 海地方 の海岸線 は、耀美半島 の 南方 15∼ 16脱 付近 にあつ た と考 え られ、
現在 の伊 勢湾 は、本 曽川 の河谷 としての陸地 で あ つ た。 もちろん、本流 で あ る木 曽川 に
は、西 側か らは鈴 鹿・ 宮川 な どの支 流 が入 り、 また、知多半島 の 側か らも大野谷 の 川 や
天 自川 が流入 していた。 これ らの支 谷 も現 在 の 谷底面 よ り下方 に 当時 の谷底 を もつ てい
た ことはい うまで もな く、天 白川 の場 合、現 河 口 付近 で-22∼ 25rprの 下部 に その ころの
谷底面 を認 め るこ とがで きる。 大野谷 もそ の例外 でない ことは、上記 の伊 勢湾灯標 ボ ー
リング結果 をみて も明 らか で あ る。言葉 をか えれば 、沖積世初期 の海進現象 が始 ま る前
の大野谷 の原地形 は、現在 の谷 よ り15∼ 307Prほ ど深 い。 また、 もつ と西南 万 へ 延 びて い
た侵蝕 谷 であつ たので あ る。
現在 の大野谷 下流部 の 水 田地柑 は、上記 の ご と き侵鎌 谷 が沖積世 の 海進 に よ り沈水 し
て入江 化 し、さ らにそれ を埋 めたて る沖 積 層 の堆積 に よ り形成 され た沖積地 なので あ る。
同様 な ことは大野 谷 の本 谷 だ けでな く、 神田川 や前 山川 の 谷 について もい え るこ とで あ
る。 ただ、大草 と石 瀬 の両台地 の東 側は、 小規模 では あ るが地 質構造線 (断 眉線 )に 沿
う谷 地 と推 定 す る
こ とが で き る。 し
た が つ て 神 田川・
前 山川 の 谷 は、 断
層線 に 沿 つ て 侵 蝕
が 進 ん で きた断 層
線 谷 で あ り、 それ
が 沈水 し、 さ らに
lfu!積
され て 今 日の
状 態 を里 した もの
挿図第十八
大野谷沖合の伊勢湾等深線図
-29-
と思 わ れ る。
大野谷 は出日の部劣 では大草台地 と青海 山丘陵 とに,こ され た よ うにせ ば まつ てい るが
上記 の よ うな構造線 の影響 もあ つ て、谷 を一歩 さかのばれば、河谷 は十字 状 にひ らけ、
か な り広 い谷底平地 が展 開 してい る。 この ことは、次項 でのべ る海進期 において、 出 日
のせ まい袋 状 の入 江 をな してい た こ とを物語 るのであ る。
(2)海 進 期 に お け る大 野 谷 地 形
大野谷 において発見 され てい る遺跡 の 中 で、最 も古 い ものは縄文 文化前期 (註 1)の
知 多町南粕谷森西貝塚 であ り、台地 の縁辺 に貝塚 が形成 され て い て、す でに この ころ大
野谷 が海進状態 にあつた ことを示 して い る。 この海進 はひ きつづ き縄文文化 中期 の石瀬
貝塚 の時期 (註 2)ま で継続 してい るが 、濃尾平野 において も、 この時期 には現海岸線
か ら20膀 あま りも奥 に美 濃 国庭 田貝塚 (縄 文 中期 )力 :あ るな ど、 日本 各地 に 当時 の海進
現 象 を立証 す る遺跡 が認 め られ る。 なお、 この よ うな海進現象 は、 ヨー ロツパ にお け る
Litorina海 進 と時 間的 に も、 また規模 の点 か らも符合す るこ とが注意 され る。
海進期 に あた つ て、大野谷 に海水 が侵入 した範 囲は、 当時 の入 江 内 に堆積 した海成粗
砂 層 の 分布 に よつて、 そのお お よそ を知 るこ とがで きる。 そ こで、 ハ ン ドオ ー ガ ーな ら
び に検 土杖 に よつて海成粗砂 層 の 分布 を追跡 した結 果、 まず大草 台地 と粕谷台地 をへ だ
て る構造 線 に沿 う谷 は、 その北 方 につづ く知 多町新舞子 か ら日長 の地域 まで、完全 に海
底 とな つ ていた ことを示 して い て、海進 の最盛時 で あ る縄 文前期 か ら中期 にか けて、大
草 台 地 は離 れ島 となつていた こ とが うか がわれ た。
一 方 、谷 の奥 に向 つての海進 の 限界 は、次 に示す よ うな地形的 証拠 か ら、現在 の 4∼
5″ 等 高線付近 にあつ に こ とが推 定 され る。す なわ ち、大野谷 の 下流部 か ら上流 へ 向 つ
却︻ 坤
跡跡 墳 跡
丘
時 浄弾蜘
地 堤堤線点
浜埋地試
縄弥 古歴
凡 例
フ
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罷
挿図第十九
大 野 谷 の 地 形 図
森西 (網皮前期・ 弥生後期)、 石瀬 (縄 文中期)、 東畑 (縄 文後晩期・ 弥生中期)
寺山 (後 期古墳)、 浜田・ 上ゲ (奈 良時代)
(A・ B・ C・ D・ E地 点試錐資料は挿図第二十別掲)
―-30-―
て試錐 調査 を実施 した結 果、森西・ 石瀬貝塚 間
の谷底 (試 錐点 A・ B・ C)に おい ては地表面
か ら70∼ 100筋 におい て海成粗 砂層 に達 したが
それか ら 500″ ほ ど上流 の地点 (試 錐点 D・ 久
米 台地先端 か ら西 へ 約 2∞ ″)で は、同 層面 の
深 さが約 200“ になつ てい る。 これ は粗 砂 層面
が ほぼ水 平 であ るの にたい して、地 表面 高 が上
流 に向 つ て漸次 高 まつ てい る結 果 で あ ることは
挿 図第 二十か らも理解 され、 この よ うな傾 向 は
久米・ 前 山の両台地 間 の 谷地 に入 つ て もつづ い
てい る。 しか るに、挿 図第 二 十 一 の試錐点 E付
近 の 資料 が示す よ うに 4∼ 5″ 等 高線付近 にな
る と急 に粗砂 層面 は浅 くな り、 多少 の起伏 はあ
るが 1″ 検土杖 に よつ て も同層面 に達 す るよ う
な状態 を星す る。
この よ うな粗砂 層 の浅位部、す なわ ち微 高部
は、約20"の 幅 を もつ て谷地 を横 断 してい るが
それ よ り上流 に進 む と粗砂 層面 は急 に深 くな り
有 機質 を多量 に含 む勁黒 の シル ト層が底深 く堆
積 して、深 さ 2″ の試鋒 の限 りでは下 の地 層 を
確認す るこ とがで きなか つ た。 これ と同 じよ う
な現象 は、久米台地北 側 の矢 田へ 通 ず る谷 で も
また南 の前 山・ 石瀬 の 両台地 間 にあ る谷地 で も
認 め るこ とが で きた。
上記 の こ とき海成粗 砂 層 の微 高地 と、 その背後 にあ る厚 い 湿地性堆積 層 (勁 黒色 の シ
ル ト層 )の 存在 は、 ひ と り大野谷 だ けにみ られ る地形 ではな く、 さ きに筆 者等 が報告 (
註
3)し た南 知 多町 の片名谷 に もその 典型 をみ るこ とが で きた。 もつ と も、片 名谷 の場
合 は、 この微 高地 が 礫質 であ り、 かつ現在 の谷表面 (水 田面 )か ら 1″ 余 の比 高 を もつ
て地 上 に姿 をあ らわ して い る点 、 それが粗砂 か らな り水 田面 下 に理 没 してい る大野谷 の
場合 とやや異 な るが 、背後 に深 い湿地性堆積 層 を もつ こ とか らみ て も、酷似 した地形現
象 とい うこ とが で きる。 そ こで、地形観察 の よ り容 易な片名谷 の微 高地 につい て、 その
成 因 を検 討 してみ る と、 それは あ き らか に、海進時 の入 江 の奥部 に形 成 され た礫嘴状 の
な らば、 同谷 の海進 時 にお け る海水 の侵
標高 5M
の よ うな解訳 を大野 谷 にあては めてみ る
試無E地点
標高4M
浜堤 と解す ることが で きるのであ る。 こ
入 限界、換言 すれば入江 の最 深部 は、 ほ
ぼ この よ うな旧浜堤 の個所 あた りで あつ
た ろ うことが推 定 され るの であ る。
なお 、
大野谷 の旧浜堤 が粗 砂 か らな り、
高度 も片名谷 ほ ど顕著 でないのは、後者
が外 海 の激 しい波浪 の影響 を うけやす い
挿図第二十一
位 置 にあ る ラツバ状 の入江 であ るの に対
―-31-―
試錐地点E付 近の地表下層序の棋式図
して、前 者 はおだやか な袋 状 の入 江 のなか で あつた とい う形成環境 の違 い に もとづ く も
の と思 われ る。
(3)石 瀬 貝 塚 の 生 活 環 境
石瀬貝塚 が立地 してい る所 は、東 と北 に向 つ て開 けた標 高約 10″ Tの 段丘面 にあ り、地
質 は新第二紀 に属す る尾 張英炭 層 (常 滑頁岩 と もい う)の 上 を、 うす くおお つ た第 四紀
決積 世 の熱 田層が基 盤 となつ てい る。 この地域 の熱 田層は、 よ り高位 に あつ たいわゆ る
猪高層が崩壊 して二 次 的 に唯積 した もの と考 え られ、穫岩質 の礫 を多 くム くんで い る。
台地 の 下 には現在 この付近 の部落 にひろ く供給 して い る簡 易水道 の水源井 戸 が あ るが
遺跡 の人人 の 飲料 水 としてはあなが ち台地 の下 に頼 らな くて も、段丘面 に浅 く硬質粘土
層 を主 とす る尾 張英炭 層が あ るた め、追跡 の近 くに も所 々に湧水 がみ とめ られ る。
海進 期 の最 盛 期 に あた る石瀬貝塚 の周辺 景観 に 目 を移 す と、北 方 に島 とな つ てい る大
草台地 をの でみ、東北 方 11″ 余 の所 にはかつて縄文文化前期 に森西 貝塚 が栄 えた粕 谷台
地 と入 江 をは さんで相対 して い る。 当時 の海 は、 谷 の奥 では久米・ 前 山・ 石瀬 をむす ぶ
現在 の標 高 4∼ 5″ の 付近 までお よんでいた らし く、 その あた りに海進 期 の頂点 の 海岸
汀線 を示す浜堤 がみ とめ られ てお り、海水 のお よばない浜堤 の奥 は泥深 い低湿 地 とな つ
てい た ことがみ とめ られ る。 また背後 の丘 陵は60筋 とい う知 多半島 中部 では最 高級 の高
度 を もつ青海 山 の森林 につづ いてい る。
'
貝 層 よ り検 出 した獣 骨 は鹿 と猪 が ほ とん どす べ てで あ る。汀線 をなす浜堤 の奥 に展 開
され る石瀬 。前 山・ 久米 の各台地 間 の湿沢地 付近 の森林 は猪 の好 んで棲息す る環境 で あ
り、生活 の 多 くが猪狩 に さかれ てい た もの と考 え られ る次 第 で あ る。 さ らに鹿 は また毛
皮 や骨 角・ 肉 におい て猪 のお よば ない優 秀性 を もつ た めに、狩猟 の対象 として よろ こば
れ た もので あ り、猪 とちが つ てやや 高燥 な深 林 を好 む こ とか ら、遺跡背 後 の青海 山丘陵
を主 として猟 場 と推 定す るので あ るが、丘 陵斜面 を横 切 りなが ら時 には勇壮 な鹿狩 に興
じていた もの と考 え られ る。
一 方、海産 物 の面 をみ ると、貝類 で は ハ イガ イ・ マガキが圧 倒的 に 多 くみ とめ られ て
い るが、遺跡 の北 方約 200"の 沖積地 (試 錐点 C)を 試錐 した際 に も表上 下700JPrで 海成
粗砂 層 に うつ り、海成 層 を さ らに試錐 す ると表土 か ら 220働 付近 で 多量 の ハ イガ イを検
出 した (挿 図第 二 十 )。 この事 実 をみ て も遺跡近辺 が ハ イガ イの繁殖 に適 した ことを う
か が うので あ る。 マ ガキについては現在 も大野谷近 海 の特産 として知 られて い る。 そ し
て魚類 は大 部 身が砂泥性 の海底 を もつ沿岸近 くで とれ る魚類 で あ るが、一部 には少 々沖
合 にでない と採 捕 で きない例 もみ うけ られて い る。
O)海
退 期 に お け る大 野 谷 の 地 形 変 化
石瀬 貝塚 で代表 され る海進 の最 盛 期 に あた り、大草台地 が離れ島 とな つてい た ことは
さきに指摘 したので あ るが、縄文文化後期 の初頭 にな る と大草台地 に も集落 が い とな ま
れ、大草台地 が陸 つづ きにな つ た こ とを示 してい る。台 地 の内側で 神 田川 の谷 に 向 つ て
立地 し、縄文文化 後期初頭か ら晩期 にい た る東畑貝塚 が これで あ る。台地 の裾 は遺跡 の
あ る地 点 で なお海水 につかつてい るので あ るが 、大草台地 に集落 がみ とめ られ て きた と
い うこ とは、す で に海面 の下降が は じまつて を り、大草 台地 と東 の丘 陵 が陸 つづ きにな
つ た ことを意味 す る もので あろ う。貝塚 をつ く り漁謗生活 を主 として い る とは い え、狩
猟 に大 きく依存 して い る縄文文化人 に とつて は、狩猟 の対象 とな る獣類 の棲 んで いない
―-32-―
よ うな離 れ 島 に集 落 をえ らぶ ことは若 るし く困難 で あつ たか らで あ る。 こ うした理 由か
ら加 曽利 E式 直後 を上 限 とす る東 畑貝塚 の時期 (註
標 とされ る もので あ る。
4)は 大野谷 にお け る海退運 動 の指
海退 が進 み 、知 多半 島 にお け る他 の侵蝕谷 ではす で には とん ど陸 化 してい る時期 にな
つ て も、大 野谷 の場合 は堆積 が はか ど らず長 い年 月 に わ た り潟状 を呈 してい た の と考
も
え られて い る。大草・ 粕谷 の 両台地 には さまれ た神 田川 の谷 の 出 日に、海退 の一 時期 を
不 す小規 模 な浜堤 がみ られ るが 、 そ こに立地 す る浜 田遺跡 は奈良時 代か ら平安時代初期
に比定 され 、古 代製塩器 具 とみな され る角形脚台付土器 の海浜集落 で あ り、 その時 に
期
海岸線が い まだ この遺跡付近 で 停滞 していた ことを物語 つ てい る。
大野 谷 の地形 が袋 形 に奥広 く発達 していて比 較 的 に湾 日部 がせ まい ことや 、 その湾 口
部 をム さぐ砂 州状 の浜堤地 形が海退 期 の海水位 に対応 して さ らに新 しく形成 され たな ど
の理 由で、 谷 の 内部 へ 堆積 物 の供給 が 不充分 とな り、陸化が お てれ長 くラグー シ状 を星
してい る結果 となつ た もので あ る。
こ うした事 情 は弥生文化 の ころになつて も継続 され 、大野谷 の主 谷 は米 作農業 のた め
の水 田 とな りえず、大 野谷 の弥生遣跡 はわずか に主谷 を きざんで い る支 谷 の頭部 で、湧
水 のみ とめ られ るよ うな地 点 をえ らんで小規 模 の足跡が み られ るにす ぎな い。東畑貝塚
・ 森西貝塚 の縄 文遺跡 と複 合 して発見 され る、獅子 懸式 か ら寄道式 にいた る弥生文化中
・ 後期 の遺跡 が これで あ る。
註
1.千 葉県 加茂遺 蹟 の独 木舟 の測定 か ら5,lCICl± 400年 前 とい う年 代が与 え られて い
る。
(ミ
シガ ン大学 ク レー博士 に よる)
2.土 器 型式 か らほぼ同年 代 と考 え られ る千葉県 姥 山貝塚 の木炭 を測定 して
4,546
収
一-38-一
姉勤
4.久 永春男「 咲畑員塚の縄文式土器」
掲 井 杉
r、
前 ′
年・ 愛知県知 多郡師崎中学校刊)
峰
蝶
崎
±220年 前 とい う年 代が与 え られて い る。 (シ カゴ大学 リビー博士 に よ る)
3.井 関・ 杉 崎「 咲畑貝塚 の先史地理 的考察」 (磯 部幸 男編『 咲畑貝塚 』所収 1960
図版
―
石瀬貝塚 の立地―→
中央 の き りひ らか
れた台地 が 貝塚 と
なつ てい る
梅林 と電 柱 の ある畑が
貝塚 とな つ てい る
↓
↑
母子寮建築工 事 のた
めに土 取 工 事 に よつ
てあ らわれ た 貝塚 の
断面
↑
第 1ト レンチ平面
第 3ト レン テ拡 張区 →
東 壁 断面
下層低部 よ り人骨
が検出 された
1.第 1ト レンチ土 器出土状況
2.第 2ト レンチの土器出土状 況
3.番 3ト
レンチの上器出土状 況
4.第 3ト
レンチ拡 jrt区 の上 器出土状況
図版 三
1.人
骨 の 理 葬 状 態
2.石
(第
3ト レンテ拡張区 )
!Ⅷl磯
図版 四
第
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第 二 群 土 器
平成 10年 3月 31日 印刷
昭和37年 3月 31日 発行
石
瀬
貝
塚
掘奔馨 常滑市教育委員会
発行所 常 滑市教育 委 員 会
愛知県常滑市