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解答例
本文は筆者の経験をもとに、本人が「寛容」と考える態度が、多数派から少
数者への「上から目線」に陥りかねないことを指摘している。
そもそも「寛容」とは一般に「他人の欠点や過ちをも広い心で受け入れる」
「他人の全てを受け入れる」と
という意味で用いられる。つまり「寛容」とは、
いう美徳にもなるが、そこには他者の「欠点」というものが前提とされている。
しかし、本来、単に社会における少数者であることが誰かの欠点であるはずは
ない。このように考えると、記事の指摘する「上から目線の寛容」とは、本来
対等であるはずの人と人との関係において、無意識のうちに〈許すもの〉と〈許
されるもの〉という不均衡な関係を作り出してしまう状況を指すといえる。
もちろん、このような「寛容」も、少数者が公然と差別の対象とされる社会
に比べれば、現代日本の成熟した姿を示すのだろう。しかし、筆者の学生時代
のエピソードが示唆するように、上から目線の寛容に甘んじることは他者の存
在に思いを馳せる想像力の欠如につながる。たとえば性的少数者を冗談の種に
することは、その冗談が当事者を直接的に傷つけるだけでなく、
「この場には性
的少数者など存在しないから、軽口を叩いてもかまわない」という暗黙の前提
を押しつけることで、当事者に自分の存在そのものを「なきもの」として扱わ
れたような疎外感を与えることにもなる。私たちに誰かを差別し、傷つける意
図がないなら尚更、このような無自覚な暴力から脱する努力をすべきである。
そのためには私たち一人一人が、自らの信じる当たり前を疑い「自分はこう
いう感じ方をしている。でも隣の人は違うかもしれない」という問題意識を持
ち続けることが不可欠だ。なぜなら、無自覚な暴力を脱するには、まずは少数
者の存在に意識的に目を向けることが必要だが、一方で記事も指摘するように
少数者の存在は目には見えないことも多い。とすれば、その注意が「同性愛に
関する冗談を言ってはいけない」など、個別的・具体的な形に留まる限り、別
の言葉が、別の形で、誰かを傷つけてしまう恐れがあるからだ。
性別、人種、国籍、宗教など、多様な価値観や感じ方をもつ人々が共存する
には、人々があくまでも互いに対等な存在として尊重し合うことが大切だ。そ
のためには、一朝一夕になせることではないとしても、人々が自分と他者の違
いに目を向け、自らの価値観を相対化する意識的な努力を続ける必要がある。