信仰の神秘−87 「鶏よ、鳴き叫べ」 2015.3.8 ヨハネ 18:12-27、黙示録 21:1-8、創世記 17:1-8 12 そこで一隊の兵士と千人隊長、 およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕えて縛り、 13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅう とだったからである。14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たち に助言したのは、このカイアファであった。 15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合 いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立 っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、 ペトロを中に入れた。 17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一 人ではありませんか。」ペトロは、 「違う」と言った。18 僕や下役たちは、寒かったので 炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあ たっていた。 19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。20 イエスは答えられた。 「わ たしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿 の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。21 なぜ、わたしを尋問するのか。わ たしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話した ことを知っている。」22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、 「大祭司に 向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。23 イエス は答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさ い。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」 24 アンナスは、イエスを縛 ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。 25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人 ではないか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。 26 大祭司の僕の一人 で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒に いるのを、わたしに見られたではないか。」27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、 鶏が鳴いた。 Ⅰ. イエスの教えと弟子 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はヨハネ福音書 18章12節以下です。ここには、ゲッセマネの園で捕らえられた主イエスが、大祭司アンナスのもとに連 行され、尋問されたときのことが伝えられています。しかもヨハネはこの記事を、シモン・ペトロが主イエ スの弟子であることを三度否定した、つまり完全に否定した記事で囲い込んだのです。 ヨハネがここで描く主イエスは、共観福音書のそれと趣を異にしています。共観福音書が描く主イエスは、 あたかもイザヤ書53章の苦難の僕、即ち、わたしたちの罪をすべて負い、黙々と屠り場に引かれる小羊を 彷彿とさせます。マルコはこう描いています。 「大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。 『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』しかし、イエスは黙り 続け何もお答えにならなかった。」マタイもルカも大筋は同じです。 しかしヨハネは違います。ヨハネには、苦難の僕を彷彿とさせるものは何もありません。主イエスは大祭 1 司の問いに沈黙するどころか、積極的に答えているのです。「わたしは、世に向かって公然と話した。わた しはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わた しを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話し たことを知っている」と。 実は、ヨハネは福音書の冒頭で、洗礼者の口を通して、主イエスについて次のように証言しています。 「見 よ、世の罪を取り除く神の小羊だ!」ヨハネは他の福音書記者たち以上に、主イエスを屠り場に引かれる小 羊のように描いてしかるべきなのです。そうであるのにヨハネは、主イエスの受難物語で、苦難の僕とは似 ても似つかない描き方をしているのです。 ヨハネが描くこの場面で共観福音書と明らかに違っているのは、主イエスの描き方だけではありません。 大祭司の中庭で主イエスとの関係を完全に否定したシモン・ペトロの描き方も違っています。まず形式が違 います。マタイとマルコは主イエスが裁判を受けた記事の後に、ルカは裁判の前に、ペトロが主イエスとの 関係を否定した記事を置いています。しかしヨハネはこの記事を二つに分けて、主イエスの裁判の記事の前 と後に置いたのです。 この形式上の違い以上に目立つのは内容上の違いです。マタイとマルコは、鶏が鳴く声を聞いたペトロは、 イエスが言われた言葉を思い出して、「外に出て、激しく泣いた」、「いきなり泣きだした」と結び、またル カは、 「外に出て、激しく泣いた」と記す前に、 「主は振り向いてペトロを見つめられた」という一句を挿入 しています。しかしヨハネが描くペトロは違うのです。外に出て、激しく泣くこともなく、主イエスの言葉 を思い出すこともないのです。ヨハネのこの記事は、「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴い た」で終わっているのです。 共観福音書と趣を異にする主イエスの審問と、ペトロの否認の記事でヨハネは何を描いたのでしょうか。 ヨハネは、大祭司アンナスは主イエスに「弟子のことや教えについて尋ねた」と記します。それに対して主 イエスは、 「わたしは、世に向かって公然と話した。 ・・・ひそかに話したことは何もない。・・・ わたしが何 を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」と答えられただけで、弟子については何も触れていませ ん。主イエスの弟子とは何者なのか。この問いに答えているのが、十二弟子の筆頭シモン・ペトロなのです。 ここにイエスを尋問する記事を、ペトロの否認記事が囲い込むヨハネの意図があるのです。教えについては 主イエスが答え、弟子についてはペトロが答えているのです。 Ⅱ. 「その日」の到来 主イエスが公然と語ってきた教えとは何か。主イエスの弟子とは何者なのか。御言に聞きたいと思います。 ある研究者は、ヨハネ福音書の一貫した主要な関心は「比喩と成就」にあると言います。この見方に従えば、 ヨハネは大祭司アンナスの下での主イエスの審問とペトロの否認を〈比喩〉として語り、この比喩に預言の 成就を見ているということです。そのことは 12 節以下、この二つの比喩の導入部からも分ります。 「そこで 一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕えて縛り、まず、アンナスのところへ連 れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死 ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」 この導入句に、ヨハネが主イエスの裁判とペトロの否認の比喩で語ったことがあるのです。「一人の人間 が民の代わりに死ぬ」ということです。この言葉が語られたのは、主イエスがラザロを死人のうちから復活 させた奇跡の後です。多くの人がラザロのことで主イエスを信じたことを知った祭司長たちとファリサイ派 の人々は最高法院を召集し、協議を重ねます。そのとき、大祭司カイアファがこう言ったのです。「一人の 2 人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 ヨハネはこのカイアファの言葉に次のようなコメントを付しています。「これは、カイアファが自分の考 えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったの である。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ、と言ったのであ る。」そしてヨハネは、 「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」 (11:53)という言葉で閉じたので す。 ヨハネが大祭司アンナスの尋問という比喩で語ったのは、このたくらみの成就なのです。ヨハネは、既に 大祭司ではないアンナスを、大祭司の名でイエスに尋問させることで、この裁判は形だけのものであり、既 に主イエスを殺害することは決定していたことを描いたのです。言い換えますと、ヨハネはこの裁判の比喩 で、 「イエスが国民のために死ぬ」こと、否、 「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つ に集めるために死ぬ」時が来たことを描いたのです。 実は、主イエスが「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ」こ とは、主イエスが公の活動を開始されたときから既に、ヨハネの視野の中にありました。主イエスは公生涯 の初め、過越祭を祝うためにエルサレムに上られたとき、神殿の境内で牛や羊や鳩が売り買いされ、両替人 が座っているのを御覧になると、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散ら してこう言われました。 「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」これは預言者ゼカリヤの言葉、 「そ の日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない」(14:21) からとられたものです。つまりヨハネは、主イエ スの宮清めという比喩に、ゼカリヤが語った「その日」、即ち神の救いの完成を見たのです。 それは、主イエスのこの行為を巡ってなされたユダヤ人たちとのやり取りに端的に語られています。ユダ ヤ人たちはイエスに抗議します。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見 せるつもりか」と。すると主イエスはこうお答えになったのです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直 してみせる。」ヨハネは主イエスのこの言葉の意味を次のように説明します。「イエスの言われる神殿とは、 御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言わ れたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」 ヨハネは主イエスの宮清めという比喩で、預言者ゼカリヤが語った「その日」、すなわち天地万物が改ま る日は、キリストが十字架に上げられる日に完成するとしたのです。だからこそヨハネは、主イエスが十字 架に上げられた場面をこう描いたのです。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたことを 知り、『渇く』と言われた。」 そしてヨハネは、弟子たちがこの完成を理解したのは「イエスが死者の中から復活されたとき」であると 記したのです。言い換えますと、主イエスが十字架に上げられる前には、弟子たちは十字架のイエスに対し てまったくの無知、無理解であったということです。このことを端的に描いたのが主イエスの関係を完全に 否定したシモン・ペトロなのです。 Ⅲ. 十字架の躓き ペトロの否認というこの比喩で、ヨハネが何を描いたのかを知るために知っておきたいことがあります。 それは、五つのパンと二匹の魚で主イエスが五千人を満腹させた奇跡物語の顛末です。五つのパンと二匹の 魚で養われた群衆は主イエスを探して後を追います。その群衆に主イエスはこう言われました。 「わたしは、 天から降って来た生きたパンである。・・・わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のこと である。 ・・・人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」この言葉を側で聞 3 いていた多くの弟子が、 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って、 「もはやイ エスと共に歩まなくなった」とき、ペトロは十二弟子を代表してこう言ったのです。「主よ、わたしたちは だれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者である と、わたしたちは信じ、また知っています。」それだけではありません。ペトロは主イエスとの最後の晩餐 のとき、「あなたのためなら命を捨てます」とさえ言ったのです。そのペトロが今ここで、即ち、十字架に 上げられる主イエスを前にして、主イエスとの関係を完全に否定したのです。 ヨハネはペトロの否認というこの比喩で何を描いたのでしょうか。わたしはこのペトロの躓きに、宮清め の結びで語られた、「弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを 信じた」という《信仰の秘義》があると考えています。言い換えますと、人は、十字架のキリストに躓いて 初めて、不信心な者を義とする方_十字架のキリストが救いである、命である、光である_を信じることが できるのです。 この《信仰の秘義》で注目したいのは、〈信仰の父〉と称されるアブラハムが百歳の時に、後継者となる イサクを神から授かった記事です。 アブラハムは七十五歳のとき、 「あなたに子孫を与え、土地を与える」との神の約束を受けます。御言は、 「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と記します。しかし、三年待っても、五年しても神の約束は実 現しませんでした。主の言葉に従って旅立ってから十年目、アブラハムは、エジプト人の女奴隷ハガルとの 間にイシュマエルをもうけます。 御言はこのことがあってから13年間、神はアブラハムに沈黙されたと記します。神はアブラハムが自分 の力で神の約束を実現したことを良しとされなかったのです。 神が再びアブラハムに語られたのは、アブラハム九十九歳の時でした。神はアブラハムに、来年の今頃、 妻サラとの間に子を与えると言われたのです。その神の言葉を聞いたとき、アブラハムは「ひれ伏した。し かし笑って、ひそかに言った」とあります。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が 産めるだろうか」と。 子どもを生むことに関して、このときアブラハムの体は完全に死んでいたのです。アブラハムの笑いは神 の約束に対する完全否定です。そのことはこの笑いの後に語られたアブラハムの言葉に端的に描かれていま す。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように!」イシュマエルはアブラハムが神に13年間 の沈黙を強いた最大の罪、汚点です。アブラハムはそのイシュマエルを神の約束に取って代えるよう申し出 たのです。 神の約束はこのアブラハムの絶望的な不信心を越えて成就するのです。 「イサク(彼は笑う)」が生まれた のです。 十字架のイエスを前にして、主イエスとの関係を完全否定したペトロと、神の約束を笑ったアブラハムが 重なるのです。このとき彼らには、望み得るものなど何もないのです。希望は失望に代わったのです。しか し、と聖書は語るのです。本当の希望は絶望の中にあると。哀歌の詩人は言います。「口をちりにつけよ、 あるいは望みがあるであろう!」この絶望の中の希望、死の内の生命こそ、十字架のキリストを信じる信仰 なのです。そのことをパウロは次のように語りました。「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有 を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた!」 ヨハネが十字架のキリストを前に、三度イエスを知らないと言ったシモン・ペトロの比喩で描いたのは、 まさにこのこと、 「望み得ないのに、なおも望みつつ信じ」る信仰なのです。ヨハネは、 「イエスが死者の中 から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを 4 信じた」と言います。主イエスとの関係を完全に否定したペトロ、神の約束を笑い飛ばしたアブラハム、然 り、不信心な者、罪人、神の敵を救うためにキリストは十字架上げられたのだということを、信じたのです。 この信仰で人は十字架のキリストに何を見るのでしょうか。ヨハネはこの段落を次のように結びます。 「ペ トロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」 鶏は、いつ鳴くのか。鶏は、朝が来たと鳴くのです! キリストが十字架に上げられるとき、不信心な者 を義とする神の救いは完成するのです! 然り、悲しみの夜は過ぎ去り、義の太陽が輝いたのです。黙示録 の著者はそれを次のように語ります。 「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、 もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」然り、 「だれでもキリストにある ならば、すべてが新しくなったのである。見よ、古きは過ぎ去った、すべてが新しくなったのである。」 十字架のキリストを前にしたシモン・ペトロの、主イエスの弟子であることの完全否定、歴史上のキリス ト教にとってもまた、十字架は――それが徹底的にその究極的な帰結に至るまで認識されるなら――躓きで あり愚かさであるということです。 「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」ペトロが主イエスとの関係を完全に否定した そのとき、鶏は、鬨の声を上げたのです。天地万物が新しくなる夜明けが来たと! 神の御子イエス・キリ ストが十字架に上げられる朝が来たと、鶏は鬨の声を上げたのです! 十字架のキリストを信じる者は、義 の太陽が昇る朝日の中を生きるのです。 (祈り) 「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」 「愛する主よ、教えて下さい。 全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、 なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。 主よ、わたしは知っています。 あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」 主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけ、目覚めよと鳴き叫ぶ声を聞き続 ける者として下さい。 5
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