神秘−91 十字架による世界統治

 信仰の神秘−91 「十字架による世界統治」 2015.4.12
ヨハネ 19:17-22、Ⅰコリント 15:50-58、イザヤ 55:1-7
17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」
、すなわちヘブラ
イ語でゴルゴダという所へ向かわれた。 18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。
また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけ
た。
19
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、
ユダヤ人の王」と書いてあった。 20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かった
ので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギ
リシア語で書かれていた。 21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と
書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 22
しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
Ⅰ. 書き換えられた伝承
きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はヨハネ福音書
19章17節以下です。ここには主イエスが十字架につけられた時のことが伝えられています。主イエスが
十字架に上げられるこの場面は、共観福音書と違い、「イエスは、自ら十字架を背負い」という言葉で導入
されます。共観福音書では、特にマルコは、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」
(15:21) が主イエスの十字架を代って負ったと伝えています。二人の息子たちの名前まで上げられていると
いうことは、キレネ人シモンが主イエスの十字架を負ったことは史実であると断定してよいのです。
そうであるのにヨハネは、「イエスは、自ら十字架を背負い」と史実を作り替えたのです。言い換えます
と、再解釈したのです。なぜ? それは、ヨハネが生きていた1世紀末の状況と関係するように思います。
そのころキリスト教会はユダヤ教から異端宣告を受け、ローマから迫害の対象となっていたのです。迫害下
にあるキリスト者にとって、主イエスが自ら十字架を背負い、死地ゴルゴダへ歩まれたことは大きな励まし
となったのではないでしょうか。ヨハネは、「イエスは、自ら十字架を背負い」と伝承を新しく解釈し直す
ことで現実的な意味をもたせたのです。21世紀を生きる私たちも同じです。わたしたちの目の前を、十字
架の御傷が刻まれた復活者イエスが歩いてくださるのです。それなくして自分の十字架を背負いキリストに
従う歩みは一歩たりとも踏み出せないのです。
このように始まるヨハネが描く主イエスの十字架刑の場面で特に印象深いのは、「ナザレのイエス、ユダ
ヤ人の王」と書かれた「罪状書き」です。これまで皆さんと一緒にヨハネ福音書を読んできて、改めて思う
ことがあります。それは、ヨハネはこの「罪状書き」を記すために福音書を書いてきたのではないのかとい
う思いです。 因に、共観福音書では「ナザレのイエス」という表記はなく、「ユダヤ人の王」とだけ書かれています。
しかもヨハネだけが、この罪状書きは三か国語で書かれたとしているのです。その地方の言語であるヘブラ
イ語(=アラム語)、行政用語であるラテン語、そして当時の世界語であったギリシア語です。
つまり、ヨハネはこの「罪状書き」に象徴的意味を込めたのです。十字架につけられたこの方は、ユダヤ
人の王であるだけでなく、全世界の王であるということです。それにしてもなぜヨハネは、十字架のイエス
を世界の王と宣言し得たのでしょうか。ルカは、エマオ途上の二人の弟子への復活顕現物語で、二人の弟子
に、十字架のイエスは王という概念から最もかけ離れた存在であると語らせています。業にも言葉にも力あ
1
る預言者イエスに、ローマからの解放の望みをかけたが、それは十字架で潰えたと! 実は、ヨハネが記した「罪状書き」にも、そのニュアンスが込められています。それはヨハネだけが伝え
る「ナザレのイエス」です。普通この表記はイエスの出身地を指します。しかしこの罪状書きは、単に主イ
エスの出身地を指しているのではなく、ナザレという場所の意味を表現しているのです。
これとの関連で注目したいのは、主イエスがフィリポとナタナエルを弟子にされた時の記事です。ガリラ
ヤへ行く途中、主イエスはフィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と言われます。その後ナタナエルに
出会ったフィリポが、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それ
.........
はナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言うと、ナタナエルはこう言ったのです。「ナザレから何か良い
.........
ものがでるだろうか 」(1:46)。 ヨハネはこのナタナエルの言葉に仮庵祭の場面でもう一度触れ、群衆に次のように語らせています。「メ
シアはガリラヤからでるだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書
に書いてあるではないか」(7:42) と。マタイとルカが主イエスの誕生物語で注意深く記すように、メシアに
とって重要な土地は「ユダの地、ベツレヘム」であって、「ナザレ」はメシア(救世主)とは何の関係もな
い土地なのです。 Ⅱ. 生命の提供
主イエスがナザレ出身であるとは、イエスはユダヤ人たちが待ち望んでいた、いわゆる「ダビデ的王」と
してのメシア (軍事的・政治的・カリスマ的救済者) ではないということです。その上でヨハネは、その「ナザレ
のイエス」こそ「ユダヤ人の王」であるとしたのです。
ヨハネはこの「罪状書き」で何を語ったのでしょうか。この直前ピラトが、茨の冠を冠り、紫の衣を着た
イエスを指さして、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、ユダヤ人たちは「わたしたちには、皇帝のほか
に王はありません」と答えています。この発言は、神を金の子牛に取って代えるようなものです。イスラエ
ルにとって王は神ヤハウェです。ヤハウェ以外に王はいません。そうであるのにユダヤ人たちは「(ローマ)
皇帝のほかに王はない」と言ったのです。それは、ユダヤ教が自分の存在にその意味を与えていた希望を自
ら放棄したということに他ならないのです。 この自らの存在に意味を与えていた希望を放棄したユダヤ人たちに、ヨハネはこの罪状書きで、ナザレの
イエスこそ君たちの王であるとしたのです。言い換えれば、
「生命」を提供しているのです。
「ナザレのイエ
ス、ユダヤ人の王」というこの罪状書きの核心は、単にユダヤ教が自分の王を失ったこと、すなわちこの世
が自分の未来を失うことだけにあるのではないのです。それだけのことなら、この出来事は一種の悲劇です。 では、ヨハネはこの罪状書きにどのような思いを込めたのでしょうか。それを知る鍵は「ユダヤ人の王」
という言葉にあります。ヨハネ福音書において「ユダヤ人」は特別な意味、象徴的な意味を持っています。
ヨハネは「ユダヤ人」を主イエスの敵対者と性格規定しています。主イエスに敵対するものの総称が「ユダ
ヤ人」なのです。改めて言うまでもなく、ヨハネの言う「ユダヤ人」は民族的概念ではありません。この世、
、
つまり光に対する闇 のことです。それが民族と誤解され、西欧ヨーロッパ社会では、ユダヤ人に対するホロ
コーストがくり返されたのです。その仕上げがナチス・ドイツです。 共観福音書では、主イエスはファリサイ派の偽善や律法学者の見せかけの義と戦います。しかしヨハネで
は、主イエスはこの世、すなわち「ユダヤ人」そのものと戦うのです。その戦いの頂点がここにあるのです。
ヨハネは十字架のイエスを、「ユダヤ人の王」であるとしたのです。その意図は何か。わたしは、ヨハネが
記す「ユダヤ人の王」の最も優れた注解は、パウロが第一コリント15章の結びで引用した讃美歌にあると
2
考えています。それは次のような歌です。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか」です。然り、「ナザレのイエス」が「ユダヤ人の王」として十字架に
上げられたことで、この言葉が実現した!のです。 ヨハネは、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記すことで、自ら滅びへと突き進むユダヤ人、すなわち
この世、闇、死に、生命を、光を提供しているのです。十字架につけられたナザレのイエスを王として命を
得よ!と。希望の王国は十字架で無に帰したのではなくて、新しい意味で樹立されたのです。十字架は「世
界が造られる前に、(イエスが父の)みもとで持っていた」(17:5) 栄光の顕現なのです。
言い換えますと、ユダヤ人たちが支払った代価、つまり自らの存在に意味を与える希望を放棄したことを
示すこの罪状書きは、預言として理解されるのです。それは罪状書きが三つの言語で記されていることに端
的に示されています。ヨハネは、十字架は全世界に関わる出来事であるとしたのです。「ユダヤ人の王」は
「世界の救い主」であると預言したのです。
これとの関連で思い起こすのは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あ
なたがたに好都合だとは考えないのか」
(11:50)と言った大祭司カイアファの言葉です。ヨハネはこのカイア
ファの言葉を主イエスの十字架を「預言」したものであると言いました (11:50-51)。同じように、この罪状
書きも「預言として理解されるべきである」
(ブルトマン)と言った人がいます。しかしわたしは、この罪状書
きは「預言」というよりも、むしろ預言の「成就」と理解されるべきであると考えます。そう考える理由は、
ヨハネがこの後 28 節で、
「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたことを知り、
『渇く』と言われた。
こうして、聖書の言葉が実現した」と記しているからです。
Ⅲ. 十字架のメシア
では、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」で成就した預言とは何でしょうか。これとの関連で注目したい
のは、イザヤ書55章、特に3節のみ言葉です。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従っ
て、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに!」
......
........
ここで語られた「わたしはあなたたちと とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した 真実の慈しみのゆえに」
とは、サムエル記下7章の「ナタン預言」のことです。ナタン預言が語られたのは、ダビデが南ユダと北イ
スラエルの統一王国の王となり、神の箱を王の都エルサレムに運び上げた後のことです。「王は王宮に住む
ようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えなった」のです。それは神の民イスラエルが
歴史上最も栄えた時代です。 ダビデは契約の箱が天幕に置かれたままであることに心を痛め、神殿建立をナタンに相談します。そのと
き主がナタンに顕われ、こう言われたのです。ダビデがわたしの家を建てるのではない、わたしが「(ダビ
デ)のために家を興す」(11)と。ここで初めてダビデは、契約の箱を中心にして集まったヤハウェの民、
イスラエルの王となったのです。ナタン預言が初めてダビデを聖なるイスラエルの伝承の中に受容したので
す。 このナタン預言は、何世紀にもわたって驚きを与え、つねに新しく解釈されました (サムエル下7章)。最古
、、
の層 (11、16) では、ヤハウェの約束はダビデのみ に向けられています。「あなたの家、あなたの王国は、あ
なたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と。それより新しい層におい
、、、、、、
ては、すべての関心はダビデの子孫 へとそれています。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あな
たの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(12) と。さらに時代が進むと、この
、、 、、、
偉大な約束は王冠を戴く者から神の 民全体 へと移ります。「あなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御
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自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました」(22-24) と。 ......
この預言が今、第二イザヤによって取り上げられたのです。「わたしはあなたたちと とこしえの契約を結
ぶ」と。第二イザヤがこれを語ったのは、神がダビデに約束した「あなたの家、あなたの王座」が奪い去ら
れたバビロン捕囚の状況下です。第二イザヤはすべてが失われた状況下で、神の約束を無にすることなく、
神の成就の可能性にいかなる限界もつけずに、来るべき世代に伝えたのです。しかもこのダビデの光は、苦
難の僕の歌の後で語られていることから分かるように、預言者は伝統的なダビデ的メシアの理想を廃棄した
のです。
このナタン預言は捕囚後、第三イザヤ (イザヤ書56
66章) によって取り上げられます。それをルカは、
主イエスの公の活動の冒頭に引用しました。「イエスがお育ちになったナザレ」で「いつものとおり安息日
に会堂に入り」、係の者から巻物を受け取ると、主イエスは次の箇所を朗読されたのです。
「主の霊がわたし
の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわた
しを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人
を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(4:18、19。イザヤ 61:1−2a)。 ここまで読むと主イエスは巻物を係の者に返して、こう言われたのです。「この聖書の言葉は、今日、あ
なたがたが耳にしたとき、実現した!」実に、ナタン預言から千年後、その成就が宣言されたのです。しか
し、その言葉を聞いた人々の反応は、神の約束の成就を祝う喜びではなく、主イエスに対する怒りであり、
殺意であったとルカは記します。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の
外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(4:28−29)。 イスラエルはソロモン亡きあと、南北に分裂して以来千年近く、他国に蹂躙されてきたのです。第三イザ
ヤは、主イエスが朗読した箇所の直後にこう記しています。「わたしたちの神が報復される日」(61:2b)。会
堂にいた人々は主イエスが語る成就に、政治的メシア王を期待したのです。しかし主イエスは、「わたした
ちの神が報復される日」の前で、朗読を突如打ち切られたのです。もはや復讐はない、ということでしょう
か。然り、キリストが十字架に上げられることで、わたしと他者とを隔てる敵意という隔ての中垣は取り壊
されたのです。政治的次元では、わたしと他者とを隔てる敵意の壁は厚く、高くなるだけです。主イエスは
この敵意の壁を打ちこわすために、十字架への道を歩まれたのです。十字架の御傷が刻まれた復活者イエス
は、今も、わたしたちの目の前を歩いておられるのです。 わたしたちが、ピラトが掲げた罪状書き、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」を預言の成就であると言う
のはこの意味においてです。ヨハネは、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記すことで、自ら滅びへと突
き進むユダヤ人、この世、闇、死に、生命を提供しているのです。十字架につけられたナザレのイエスを王
として、命を得よ!と。主イエスは言われます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分の
もとへ引き寄せよう」(12:32)。この「すべての人」には主イエスに敵対するものすべて、即ち「ユダヤ人」
も含まれているのです。 それを端的に語っているのが、主イエスの次の言葉です。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、
わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移って
いる。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生
きる!」(5:24-25)。 わたしたちはこの「声」をどこで聞くのでしょうか。ヨハネがパンの奇跡の講話で伝えているのは、主の
晩餐においてです。ペトロにこう語らせたのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6:68)。希望の王国は十字架で無に帰したのではなくて、新
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しい意味で樹立されたのです。十字架は「世界が造られる前に、
(イエスが父の)みもとで持っていた」
(17:5)
栄光の顕現なのです。
(祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。
全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
主よ、わたしは知っています。
あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけ、主の晩餐に神の声を聞く者とし
て下さい。
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