こちら - サタデープログラム

27th
6/27
サタデープログラム ニュース
講座番号:1番 第1部(09:30~11:00)
一度は聞いておきたい戦争体験
~戦後 70 年・二つの名古屋空襲~
<お話ししていただく方々>
写真
お名前
つしま あずま
都島 東 さん
くが
あさこ
久我朝子さん
昭和 14 年3月 26 日生まれ。小
年 3 月、第 3 高等国民学校卒業。翌月、 学校に昭和 20 年4月に入学。
名古屋陸軍兵器補給廟就職。昭和 20 中学卒業後、37 歳になってから
年 10 月、退職。翌月、愛知県の自動 鍼の専門学校に入学、42 歳の時
車関連会社就職。昭和 57 年、一宮市 卒業。翌年開業し、今に至る。
昭和 4 年 11 月 10 日生まれ。昭和 19
略歴
の建設会社に招聘。平成 8 年退職。
防空壕で寝落ち…(久我さん)
「その日」
、いつも通り空襲警報がなり、いつも通り近くの防空壕に逃げ込みました。
これは、名古屋城の天守閣が焼け落ちた、昭和 20 年 3 月中旬のいわゆる「名古屋空襲」
の一部です。そこで、久我さん宅の近く 111 に、高射砲陣地があったので、付近が狙わ
れたようです。その流れ弾が、久我さん宅の付近に落ちたのであろう、と久我さんは言
っています。
話を戻して、「その日」は、名古屋空襲の中でも、名古屋城の天守閣が焼け落ちたぐ
らいの頃です。空襲警報が鳴った後、近所の人が集まる防空壕へ逃げ込みました。そし
て、皆で避難していたら、いつの間にか寝落ちしてしまったそうです。
その後、目を覚ますと周りにいたはずの近所の人たちがいません。親類もいません。
どうしたことか、と小学校に上がる直前の幼い久我さんは泣きながら出口へ向かいまし
た。すると、自分の息子を探しに来た近所のおばさんが来ていたので、皆が避難してい
る神社のほうへ連れて行ってくれました。
久我さんは、当時 6 歳でした。
皆さんは 6 歳の頃の記憶をどれくらい覚えていますか?
そんなに覚えていないと思います。久我さんもそうですが、この戦争のことだけは鮮明
におぼえているそうです。それだけ、戦争が大変なものだったことがわかります。
びょう
補給 廟 でご飯のために働く(都島さん)
都島さんは、昭和 19 年に今でいう中学校を卒業しました。そのころは、戦局も悪化
して、満足にご飯も食べられませんでした。そこで、都島さんは、補給廟とよばれる、
軍事工場みたいなところへ働きに出ました。というのは、補給廟では昼ご飯が支給され
るからです。
さて、数人の同級生たちと働きに出た都島さんですが、初めは、木工班みたいな感じ
で、武器を入れる箱を作っていました。しかし、そのうちに、なぜか自分だけ牛車の牛
の世話係になったのです。
都島さんも、名古屋空襲の経験者です。まさにこの補給廟で働いていたころに被災さ
れました。都島さんは特に、補給廟にいた時に受けた空襲のことを鮮明に覚えています。
都島さんはいつも通り、牛の世話をしていました。すると空襲警報が鳴ったので、空
を見上げると、B-29 の大編隊が見えるではありませんか。そして、弾倉の扉が開き、
ものすごい量の爆弾が地面に向かって落ちてきました。ちょうどその時、真横に防空壕
があったので、急いで飛び込んで、九死に一生を得たということです。
あとからわかったことですが、名古屋空襲では、東京大空襲と同じくらいの量の爆弾
が落ちています。
当日は…
資料をお配りして、この御二人方に戦争体験を詳しく語っていただきます。
太平洋戦争終結から 70 年たった今、その経験者の方々からお話を直接聞くことは難
しくなってきています。戦争あるいは空襲のことを覚えている最後の世代が、久我さん
の世代ともいわれます。
戦争体験を直接聞く最後の機会として、受講されてはいかがでしょうか。
担当:中学 3 年 G 組 大竹孝直/中学 3 年 J 組 近藤敬佑(文責)
(都島さんの写真:中日新聞社提供)