7巻 4号 (1975年5月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

東
京
理
学
大
学
-7巻
昭和
目
―
50年 5月
8
男 …… (
9
一
≪学部消息≫
7
野
4
朝
吉 …… (
二 …… (
径 …… (
子 …… (
3
原
2
藤
昌 謙 直 文 鎮 洋
永丸辺水
私の読んだ本 (20)
「大学を開 く」
4号
次
弥 田渡清
北京 の春
固体表面 の触媒作用 について
大学構内向ケ丘 貝塚
「 キ リンのまだ ら」を読んで
学術情報検索 システム
T0011Rの 公開について
部
…
…
(
(11∼ 14
=、
あ 0腸
1.4)
岩手県宮古地 方 の 自亜 紀層産矢石 氏
"力
^sp.(×
‐ ″ Sp.が あけた穴
とそれ に つ り″ ′
-1_
矢石 GClemnitCS)は 鉄砲 の弾 丸 の よ うな形 を し
た石灰 質 の棒 で,新 生代初期 に絶滅 したイ カの仲
間 の外套 につつまれ た 甲羅 の先端部 (幹 )の 化石
で ある。 甲羅 には輸 につづい て ガスで満 た され た
多 くの部屋 か らな る房錐 と呼 ばれ る部分 があ る。
そ してこ の浮 力 のあ る房錐 は 口や 腕 のあ る頭部 と
輸 との間 に位 置 してこの生物 体 のバ ラ ンス を保 つ
のに役立 っていた らしい。
白亜紀 の矢石 の表面 には しば しば多数 の細 長 い
小 さな穴があけ られ てい る。 これ は フジツボ に近
縁 な甲殻類 で貝殻 に 穴 をあ け る尖胸 目 KAcrotho‐
raCiCの に属す るツボ ムシ と呼 ばれ る生 物 が 住 ん
でいた跡 で あ る。 穴は矢石 の全 表面 に一 様 に分布
し, しか も皆同 じ方 向 を向い てい る。 も しもこの
生物 が死 んで幹 が海 底 に沈 んだ後 にッボ ムシが付
着 したの な らば,穴 は精 の片面 に限 られ ,又 現 在
の海 底 の貝殻 にッボ ムシがあ けた穴 と同様 に,そ
の方 向 もでた らめな筈 であ る。 そ こで あ る人 は こ
の生物 が生 きて遊泳 してい る時期 にツボ ム シが付
着 し,水 の動 きに影響 され て 穴 の方 向 がきま った
と考 え,そ れ を も とにこの生 物 は成熟す る と精 を
外套 か ら外 にむ きだ し,通 常 は 日の方 向 に向 って
泳 いだ と推論 した。 しか し死 後腐 敗 して軟体 部 が
な くなった矢石 が,ガ スで満 た され た房錐 を上 に
重 い聡 を下 に して海 中 をぶかぶ か浮済 していた時
期 に,ッ ボ ムシが付着 した とい う可能性 も考 え る
必要 があ りそ うだ。
(花 井哲 郎 :地 質 )
一
示
レL
■■
春
の
水
ヽ
弥
昌
吉 微 学 。名誉教授
)
3月 末か ら 4月 初 にかけ,2週 間ばか り中国へ旅行 し
た。吉り
│1幸 次郎氏を団長 とす る政府派遣 の学術文化代表
1員
に
として加え られたか らである。東大理学部に関
団
日,小 堀 さんに会 った折 `北 京 の春 'と い う題 で,理 学
部 の `広 報'に 書 いて下 さい ませんか,と いわれた。短
係 の近 い団員 として,茅 先生や工学部 の森 口さんがお ら
い ものな ら, とい うことでお引受け した次第 である。
れたが,団 員 の中には人文科学方面 の方が多か った。 ど
に出た記事や これか ら出る記事があ ることであろ う。先
一一お引受け したまでのことが長 くなって しまった 。
'に 加え られ ることにな った の
か,私 としては知 る由もないが,昨 年申国か ら来 られ た
東京新 聞に書 いた こ とをそ のまま繰 り返 してもしかたが
ない し,専 門的な ことや 細かい ことは 他 の 機会 に譲 っ
同様 の代表団 の中に著名な数学者華羅庚先生がお られた
て,こ こでは ご く大まかな一般論だけを書 くこ ととしよ
ので,私 も再会する ことが で きれば, と思 った。またJヒ
う。
京大学 の段学復先生 とは専門分野 も近 くかねて文通 もあ
った。東大数学教室 出身 の劉環温君 も北京 におられ るこ
第 1に ,社 会制度 の差違 のことで ある。ゴヒ
京 で も,そ
の
こ
のほかの町で も,町 角 目につ くと ろに `毛 主席万才
とを知 ってい た。私は ず っと前一-1931年 と 1934年
に一―昔 の中国を通過 した ことがあるだけで,中 国は私
に とって未知 の国であったが,機 会があれば知 りたい と
思 っていた。中国出身で現在 カ リフォルニア大 におられ
とい った こと,あ るいは毛主席語録か らのことばが大 き
うして私が この
`代 表団
'
く書かれ てい る。 こち らの新聞で,あ る大学 の中国語 の
先生 (中 国系 の方 )が `毛 主席万才 ' とい うような こと
をいわれた のに対 し,同 じ大学 の他 の
(日
本人 の)先 生
る数学者陳省 身 氏 も,こ のごろは ときどき 中国へ 帰 ら
れ ,そ の途次 日本に立寄 ってゆかれ る。そのほか前か ら
知 っている欧米 の数学者 で中国へ行かれた方 もあ り,そ
創造的社会主義革命的新形式'と あ り,あ らゆ る批判を
が非難 された とい う記事を見 た。中国 の新 しい憲法 (第
13条 )に は
`大 鳴,大 放,大 弁論
,大 字報,是 人民群衆
のお話 も伺 っていた。彼我学術交流を図 るのは,も ちろ
歓迎 しているようであるが,`社 会主義 'と か `毛 主席万
ん結構なことなので,外 務省か らこの訪中団に加わ らな
才'は ,中 国ではやは り公理 のようにな ってい るのでは
いか とのお話 のあった とき,す ぐ承諾 したのであった。
あ るまいか。
日中両国は,一 葦帯水 とも 同文 同種 と も いわれ る一
方,`近 くて遠い国'と もいわれ てい る。国交回復や 日中
航空協定 の締結等があ って,だ いぶ `近 く'な った とは
いえ,社 会制度が全 くちが ってい るこ とは周知 の とお り
であ る。吉り
│1団 長 も,両 国 の差違点を よ く認識す ること
第 2に ,こ うい った異なる制度下におけ る交流は可能
か,と い うこ とがある。東京新聞に も書 いた ことで ある
が,自 然科学 の方面 では,人 文科学方面な どと比べ て
,
す ぐに も交流 に とりかか ることがで きそ うである。中国
で も生産を高めて全人民 の住みやす い国を建設す るこ と
か ら交流はは じまらなければな らない, といわれた。
今度あちらへ行っては じめて知 ったのであるが,日 中
を 目標 とし,そ のためには 自然科学が有用な こと,あ る
交流は もうかな り盛んに行われ ているようで ある。私 た
`科 学 に国境はない'か
ちが北京にいた間に も,日 本か らの何組か の訪中団に会
った。仙台市か ら来 られた市長を団長 とす る百名以上 の
若 い方たちの団体 もあった。中国 には対 日友好協会 とい
うのがあ り, そ こで通訳 , ホテル等 のつご うの つ く限
り,日 本側 の希望 に応 じて受け入れ られ るだけは,次 々
と迎えてい るのであ る。
それ で もまだ中国 のことは,日 本 の一般 の方 々に とっ
て
`珍
しい'の であろ う。吉り
│1団 長は,朝 日新聞に,曾
野綾子さんはサ ンケイ新聞に報告を書いてお られた。私
も東京新聞に求められ て,`自 然科学部門 の日中交流'に
つい て書 いた (4月 17日 夕刊)。 そ の他に も,新 聞雑誌
-2-
いは必要な こと,が 認 め られてい るか らで ある。そ して
らである。
第 3に , しか し
'の 問題があ る。
`そ れだけ で よいか
すなわち,住 みやすい社会 の建設 に役立 てる限 りの意味
においては 自然科学上 の交流を す るが, `気 持 の通 じ合
う'こ とまでは考えな くて よい の か, とい うことであ
る。私 としては,そ れではやは り淋 しい と思 う。科学を
通 じての 交流か ら で も,相 互 に 学ぶべ きところは学ん
で,`人 としての交流'が で きる ように,な るべ く早 くな
れば, と思 うのである。
私たち の訪れたJヒ 京 は,春 とい うにはまだ早か った。
楊柳未だ芽生えず, とい うところであった。本当 の `春
が早 くくれば よいが, と思 うのであ る。 (1975,4.29)
'
団体表面 の解媒作用 につい て
田
「表面を よそお う」 とか「猫をかぶ る」 とかい う表 面
が あるように,表 面 と中味 とが違 ってい ることは珍 しい
ことではない。水素化物 も作 らない金属 (ニ ッケルな ど)
で もそ の表面は水素 と容易 に化学的 に結合 して Ni一Hの
結合を作 り吸着が起 こる。そ の吸着水素が高い反応性を
示す時,水 素添加反応などの触媒作用がみ られ る。 (他
)
方, カ ドミウムや亜鉛, 銀な どは 水素を吸着 しな い。
タングステ ンや鉄
(ア
ンモ ニア合成触媒 の主成分)は
窒素を化学的 に吸着す るが,同 じ遷移金属 で も白金な ど
は吸着 しない しアンモニア合成 の1虫 媒 にはな らない。単
に吸着す るしないだけでな く,同 じくす る場合で も金属
によって吸着状態が異なることも少 くない。赤外分光法
0‖
で認められたこと
であるが,白 金や銅では主に♀のよ
1
O
うに,パ ラジウムや ニ ッケルでは C
MM
M
の ように吸着 し
丸
謙
二
(化 学)
面に関す る情報が増えつつ ある。固体表面 に電子,X線
紫外光,イ オ ン等を照射 して,そ れ に より表面 か ら放 出
され る電子のエネルギーな どを調べ る手法である。低速
,
電子線回折 (LIID),電 子 エネルギ ー損失分光 (ELS),
オージェ電子分光 (AES),紫 外光電子 分 光 (UPS),X線
光電子分光 CXPS),イ オ ン中和分光 CNS)な どである
が,電 子は固体の中を透過す る距離が短い ので極 く表面
か ら出て くるものだけが放 出され る。例えば特定 の波長
の光を照射 して放 出され る光電子 のエネルギーを実測 し
てその電子の結合 エネルギ ーを調 べ るこ とが で き る。
これ ら各種 の 方 法 に よ り,表 面原子 の 幾何 学 的 配 置
(LEED),化 学組成 (AES),表 面 のバ ン ド構造 (UPS)
な どの電子 エネルギ ー図な ど明かにされ るだけでな く
,
吸着前後 におけ るそれ らの変化な どか ら結合性軌道な ど
が明かにされ る。
ておる。それ らを水素で還元 して メタンを生成す る反応
た とえば,パ ラジウム と銀 の合金 において,そ の表面
の組成 は中味 の組成 とはっき り異な り,銀 が多 くな って
は後者 のグループの金属 の上 で起 こる。反応が起 こる起
こらないだけ でな く反応 の選択性が触媒 の種類 に よって
いることがわか る。 しか しそれに一酸化炭素が吸着す る
と,一 酸化炭素はパ ラジウムと仲が よいので,パ ラジウ
いち じるしく異なるのである。 つ ま りきわだ って Spe¨
C■ Cな のである。 この ような固体表面 の Spcci3cityが 表
ムが表面 に引 き出され て くることが観察 され る。
室温 でモ リブデ ン上 にアンモ ニアを吸着 させ るとアン
面 の どのよ うな性質 と結 びついた ものであるか とい うこ
とは,ほ とん どわかっていない。
団体 の表面原子は中味 の ものに比較 して一般に量が少
モニアの N IIが 解離す ることが,高 分解能 オ ージ ェ電
子分光 に より明かにされ る。鉄 の表面 に 100° Cで は窒
素 は解離 しないで吸着す るが 400° Cで は原子 に解離 し
い し,超 高真空下で実験を しない と,残 留気体か らの汚
れが表面を容易にカバー して表面の性質を大 き く変化 さ
て吸着す る。各種気体 と金属 との結合性軌道 も明かにな
りつつ ある。
せ るし,固 体 の中の不純物
とえば微量 の硫黄 )が 比
触媒作用 と言えば,自 然界 で も酵素や光合成な ど莫大
較的容易に表面 に濃縮 され てしま う。表面 の実験そ の も
のが非常 に労力,注 意 と技術を必要 とされ るのはそ のた
な量 の反応が進んでい る。化学工場 において もそ の大半
の反応 は触媒 の助けをか りて進ん でい る。今 日人類 の将
めである。従来,触 媒作用 について も実験値そ の ものの
来 にたちはだか るい くつかの深刻な制約である資源,エ
ネルギー,汚 染 の問題な ど,に 対処す る知恵 の一つ として
(た
再現性が常 に問題であったのは この ような表面 の敏感 さ
とそれを調べ る手段が乏 しか った ことに原因 してい る。
実用触媒 で も何か微量を添加す ると触媒活性が飛躍的 に
向上 した り,あ るいはそ の調製 の仕方, リレキに よりい
ち じるしく異な った活性を示す ことが沢山ある。それ も
何故かわか らないままにな っていた。
最近 ,電 子分光な どの技術が急速 に進歩 し,固 体 の表
-3-
触媒作用 はます ます重要 にな ると考え られ ている。 しか
しそ の本性は少 しずつわか りかけ てはいるもののまだま
だわか らない ことだ らけで ある。わ か らない ものほ ど魅
力があるのか も知れない。秘密 の ヴェールが解かれ て行
く時 のス リルがある。そ して,ひ ょうたん の肌 (表 面 )を
なでなで していた清兵衛 の満足感 がただ ようのである。
大 学構 内向 ケ岡 貝塚
渡
辺
直
径 (人 類 )
今年 の 1月 文化庁か ら,人 類学教室 に保管 され てい る
弥生式壷形土器を国 の重要文化財 に指定 したい,と い う
申 し入れがあ った。 この上器 は明治 17年 (1884)に
当時大学予備門 の生徒 で,後 の工学部教授有坂銘蔵先生
,
が,向 ケ岡貝塚から発 見 され,後 に弥生式土器 の名称 の
し庁 の係官 と談た
因にな った,由 緒あ る標本である。文イ
またまこの土器 の発見地 のことに及んだが,実 は,向 ケ
岡貝塚そ の ものが幻 の遺跡 とな って,既 に久 しいのであ
る。
土器 の発見か ら 5年 後 の明治 22年 (1889)に ,当 時
大学院 の学生 で,後 に人類学教室 の初代教授 にな られた
坪井正五郎先生が,「 帝国大学 の隣地 に貝塚 の眼跡有 り」
とい う報告を東洋学芸雑誌 に発表 された。 この大学隣地
の貝塚 とい うのが向 ケ岡貝塚 のことで,そ の位置 は「僅
かに一筋の住来を隔てたる大学 の北隣,即 ち旧向 ケ岡射
的場 の西 の原,根 津 に臨んだ崖際」 とあ り,「 当今 貝 の
散 じて居 る所か ら上野公園を望んだ景」が,こ こに転載
した先生 の筆 になるスケ ッチで示 してある。例 の壷形土
器 について も,石 版図を入れて,形 態文様 の詳 しい記載
が してあるが,発 見 の経緯や地点 のことは何 も触れ てい
ない。当時 この貝塚 は,「 地均 らしの為 日々人夫が 往来
す るので,踏 みにじられ る事甚 しく,将 に其 の跡を失わ
ん として」お り,「 思ふ に 此の文が 東洋学芸雑誌 に 載つ
て,読 者諸君 の 日に触れ る頃 には,此 の貝塚 は殆ん ど知
」 とい う状態
れない様 に成つ て仕舞ふでござ りませ う。
であ った。
当の発見者 の有坂先生 は,土 器発見か ら 40年 もたっ
た大正 12年 (1923)に ,は じめて発見 の模様を人類学
「向 ケ岡と云
雑誌 に,次 の ように書 きのこされ て い る。
ふ場所は,大 学 の裏門 の道を矩 てた通 りの向ひ側で,根
津 の街を眼下 に見る丘 であるが,今 日では弥生町の街が
建つ て,遺 跡 の正確な位置 は解 りません。其 の頃弥生町
と云ふ街は無かつた。裏門の筋向ひには陸軍 の射的場が
あって,其 の西北 の方 に貝塚が根津 の裏 の高い丘 の上に
あ った。其の辺は一面 の草原で,当 時 は家な ど一軒 もな
く,兎,雉 な どが居 り狐が出た淋 しい処 であ りました。
私は この向 ケ岡の射的場へ時折遊 びに行 きま したが,此
昂
・
望 フ 園 公 野 上 ,コ 塚 只 岡 ケ 向
でい る,非 常 に気持ち の良い緑 の丘 であ りま した。 17年
3月 1日 に坪井,白 井両君 と知己 と成つたその翌 日,一
緒 につれだ って向 ケ岡の貝塚 に行つて見や うではないか
と言ふので,行 つ て見 た ところが,其 の時 もかな り色 々
な物を堀 り得ま した。此の日私はふ と貝塚 の表面 に壷 の
口が貝 のなかか ら出てを るのを見 出 し,こ れをなほ抜 き
」
「 この壷 は共同研究
出 して見 ると,こ の壷が出ま した。
の材料 として,坪 井君 の処 に預け ま した。 これが弥生町
か ら出た と云ふ ので,後 に弥生式 と命名 された ので あ り
ます。
」 ここで も, 土器の発見地点 については, 詳 しい
ことを述べ てお られない し,遺 跡 の正確な位置す らもは
やわか らない, と発見者 自身が 云 ってお られ る の だ か
ら,ま さに迷官 に入 った のである。
それ で も,昭 和 にな って弥生式上器 の研究が盛んにな
るにつれて,元 祖 の土器 の出土地点を何 とか してつ きと
め ようとい う努力が,多 くの 研究者 に よって重ね られ
た。昭和 31年 (1956)に は,東 京都教育委員会 が,例
の土器 の発見地を都 の史蹟 に指定 したい とい うので,農
学部 の構内を数 ケ処試掘 した こ とがあるが,思 わ しい収
穫 はなか った。上むな く東京都 は,幻 の遺跡を史蹟 に指
定 して,弥 生門か ら出て左 に上 る坂道が,根 津か ら本郷
通 りに向 う言間通 りと合流す る地点 の農学部側に,由 来
を記 した立札をたてた。教育委員会が この地点を選 んだ
根拠 は確か めていないが,恐 ら くさきに引用 した坪井先
生 の「射的場 の西 の原」 とい う記述 と関係があ りそ うで
ある。そ の立札は,そ の後道路拡張工事の際に取 り払わ
れ,現 在弥生門 の方 に下 る坂 道 の途中に移 されてい る。
また,数 年前東京都 の町名整理が行われた際,文 京区 は
の うしろの草原 のところで貝塚を見付け ま した。
「 (そ
」
弥生町 の名称を廃止 しようとした ところ,こ の由緒ある
町名を変更す るとは何事であるか と,地 元住民を中心 と
こは)風 景 の極 めて良い処 で,上 野 の森や不忍池を望ん
す る猛反対 に出会 って,結 局弥生町 の町名 は安泰 で あ っ
-4-
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明治 16年 測量 同 19年 製版 同20年 8月 26日 出版
第 4号
東
京
北
部 (本 郷及小石川 )
五 千分 之 ―
参謀本部陸軍部測量局
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-5-
た。その とき反対運動 の旗頭で,数 年前停年退官 された
工学部 の大田博太郎教授は,も ともと弥生町 の住人 であ
発掘された遺物 とともに,国 の重要文化財 に指定 され る
るが,向 ケ岡貝塚 と壷形土器の出土地点につい て,綿 密
新 しい発見 に強 い関心を示 して,東 京大学 か らの申請が
な考証を試み られてい る。
処 で,こ のたび文化庁か らの申 し入れに関連 して,昨
あれば,そ の地域を国 の史蹟 に指定す るとい う意 向を明
らかに してい る。わが国の先史学史上記念すべ きこの貝
年来文学部考古学研究室 に,旧 浅野邸地区 の一部か ら土
塚が,国 の史蹟 として永久 に保存 され るな らば,こ れに
越 した ことはないので,関 係方面 の了解をえて,然 るべ
器片や貝殻が出土す る, とい う情報が入 っているこ とが
わかった。工学部 9号 館つ ま り総合試験所 の建 物 の 東
ことが決 った。同時に,文 化庁 では今回 の向 ケ岡貝塚 の
木 の跡 に遺物 が露出 して,小 中学生が崖を よじのば って
き措置を総長 にお願 い した。工学 部 もこの遺跡を保存す
ることに賛同 して,予 定 されていた建物建設計画 の一部
を急速変更 して,そ の地域を国 の史蹟指定地域 とす るこ
来 ては,拾 い集めてい るとい うのである。文化庁か らの
とを,総 長 に具 申 した。 これが実現すれば, コンク リー
伐1,崖 ぎわの小高 くな っているところで,昨 年 倒れ た立
申 し入れを機会 に行 ってみ ると,た しかに貝 の層があ っ
て,土 器 の破片 も散 らば っている。 しか も,そ の場所 は
工学部 の建物建設予定地で,4月 には着工す る運びにな
ってい ることがわか った。そ こで,文 学部考古学研究室
トで覆われた旧浅野邸地区 に,僅 かな面積 ではあるが
,
辛 うじて緑がの こることにな るだろ う。東大百年史 に も
書 きのこす記事が一つふえ る ことになる。
ここに掲げた地図は,先 年亡 くなった人類学教室 の山
と協同で,そ の場所 の緊急発掘を行 った ところ,攪 乱 さ
れ ていない貝層 の一部や,弥 生時代 の遺跡 に よくあ る溝
本部陸地沢1量 部地図 の うち,明 治 16年 測量,19年 製版
の遺構な どが現われた。また,5個 体分 のかな り大 きな
の 5千 分 の 1の 地図か ら,本 搬師甘近をやや縮小 して転写
内清男講師が苦心 して蒐集 された,明 治以降各版 の参謀
土器 の破片がひ と塊 りになってみつか ったが,い ずれ も
した ものである。有坂先生が壺を発見 された前 の年 の測
明治 17年 発見の土器 と極めてよ く似 てお り,同 型式 に
属す ることは疑 いない。 これ らの上器片は,文 学部考古
量であるか ら,上 に引用 した坪井,有 坂両先生 に よる
学研究室 で 目下復原中で,来 る五月祭に展示す るため
,
,
向 ケ岡貝塚の位置 の記述 と比べ るのに都合がいい。当時
の大学裏門は今 日の弥生門 に当 り,そ れ に続 く大学 の敷
学生達が張 り切 っているそ うである。
この新 しい発見 に よって,有 坂先生が壷形土器を発見
地 の境界はほぼ現在 の もの と一致 してい る。現農学部 の
された地点は,こ の附近 である公算が大 き くな った。従
来,諸 家 に よって推定 されていた 向 ケ岡貝塚 の位置は
合致す るようである。今回発掘を行 った場所は,地 図 の
,
上記 の東京都が史蹟 の立札をたてた辺 りと,言 間通 りを
根津 の方へ下 る坂道 の北側の数地点が主 であ る。今回遺
跡 の発見 された地域 は,も と水戸藩 の下屋敷 のあった と
ころで,明 治 20年 代 には浅野家の邸 とな り,み だ りに
南か ら東 にかけ ての境界 も,大 体 この地図 の上塀 の線 に
上に印を 入れなか ったので わか りに くいか もしれ な い
が,射 的場 の北 に コの字型 の家屋 のあ るところか らす ぐ
西北方 の,崖 ぎわ に 立木 の 記号 が 集 ってい る附近であ
る。最近,文 学部考古学 の佐藤達夫助教授が,丹 念 に文
献を調べ現地を踏査 して,「 向 ケ岡貝塚は ど こか」 とい
立ち入 ることがで きな くなった。 この邸内の遺跡がそ の
う短い論考を,雑 誌「歴史 と人物」 の 6月 号 に寄稿 され
後探索 されなか ったのは,こ うした事情 に よるのか もし
れない。根津へ下 る坂道 の北 側の丘には,た しかに土器
ている。
や貝殻 の散布 してい る地点があるが,組 文土器が主 で弥
生土器は極めて稀である, とい うのが大方 の一致 した所
見 である。 この丘 と旧浅野邸の丘 とは,元 来一連 の丘で
あった ものが,道 路や建物建設 の際 にそ の間が深 く削 ら
れ て,今 では窪地 となってい る。今回発掘 した遺跡の続
きが,こ の削 られた丘 の上 に延び ていた こ とは明 らかで
あるが,今 となってはその拡が りを知 る由もない。壺形
土器 の発見 された地点 としては,少 な くとも今までに推
序 でだが,近 く恒例の理学部 ビアパ ーテ ィーが催 され
る植物園には,明 治 の頃小石川植物国内貝塚 とよばれた
有名な貝塚がある。明治 10年 (1877)の モールス教授
に よる大森貝塚 の発掘が刺戟 とな って,理 学部生物学科
ではにわかに貝塚熱が盛ん になった。植物園構内の貝塚
は,明 治 11年 (1878)に ,植 物学 の矢 田部良吉教授に
よって発見 された もので,同 年 12月 ■―ルス先生 も加
わ って発掘が行われた。貝塚の位置は,例 年 ビアパ ーテ
ィーの開かれ る本館西側の草地 と大温室 との間 の,道 路
定 された どの地点 よりも,今 回発掘を行つ た地域 の附近
が最 も有力である。
で狭 まれた 芝生 の ところであるも 今 で も注意 して 探せ
ば,細 文土器 の破片や,縄 文人が盛んに採集 し,そ の後
3月 の末,壺 形土器は,同 じく人類学教室に保管 され
ている,明 治 10年 (1877)モ ールス教授が大森貝塚 で
東京湾か ら姿を消 した,ハ イガイの殻な どを拾 うこ とが
で きるだろ う。
-6-
「キ リ ン の ま だ ら」 を 読 ん で
一―平田森三先生 の思 い出――
清
水
文
子 物理 OB)
「キ リンのまだら」 (中 央公論社,1975)は 1966年 に
室 の学生 であった筆者が,東 海村 まで先生 のお供を して
東大物理教室を定年退官 された直後 に慢性白血病 でそ の
写真撮影 のお手伝 いをさせていただいた時 のことな どを
生涯を閉 じられた平 田先生が,生 前 に書かれた文章 の中
思 いお こして感概 の深 い ものであ る。
か ら一般向きの ものをい く篇か選び,先 生の弟子 の一人
である兵藤 申一氏に よってま とめられた ものである。先
「近路 の観測」 はいかに も先生 らしい ユニークな 発想
による興味あ る物理的考察の一例であ る。東大構内には
生 に親 し く教えを受けた学 生 の一人 として,こ の本を ひ
柵等を乗 り越え て芝生を横断す る近路が到 るところにあ
ろ く紹介 させて頂 くとともに,先 生 の遺徳を しのびたい
るが,こ れが どんな条件の ところで発生す るかについ て
と思 う。
先生が丹念 に観測 した結果 につい て述べ られた ものであ
平 田先生が寺田寅彦 の高弟 の一人であ ることは よ く知
られているが,先 生はその研究内容 に とどまらず いわ ゆ
る寺田物理学 の学風 の真髄 までを も引きつがれた最後 の
方 であろ う。 この本にお さめ られた「キ リンの斑模様」
を始め とす る 13篇 のそれぞれか ら,広 く多岐 に渡 った
物理学のほ とん どすべ ての分野で先生が,い かに優れた
洞察力 と直観力 とを持 っておられたかを ,ま たあ くこ と
のない 自然科学 の探究者 であったかを うかがい知 ること
る。柵 に沿 って普通に歩 く場合 の距離 と柵を越えて芝生
を横断 して歩 く場合 の距離 ,柵 の種類 と高 さを観測 した
データが整理 され ている。勿論近路が出来 る条件につい
ては物理的には一つの経験法則が成立 つわけ であるが
ここで種 々のパ ラメーターが問題 とな る。 ここでい うパ
,
ラメーター とは柵を乗 り越える際 に消費す る筋肉的仕事
であった り,精 神的 仕事 であった りす る。面 白いのは こ
のパ ラメーターが東大 の中の人 々の特質を示す もので あ
がで きる。
ることで,も し他 の場所 で類似の観測を行えば叉それぞ
表題 となっている「 キ リンのlaI模 様」 は,キ リンの斑
模様がキ リンの子が母親 の胎内で成長 してい く過程で
れ の特色が出て くるであろ うとい う感想が附 され てい る
内部 の成長が表面 の部分 の成長 に追いつかない時期 に生
ず る割れ 日の一つで あ るとい う大胆な推論に始まる。そ
「真 っす ぐ近路を通 りたいのは万人 の望み で あ る。植
込みや芝生が きれ いに保たれてい ることも,お そ ら く万
してそれが 自然界にみ られ る種 々の 斑模様一一 しま う
れ,ウ ズラ豆―一等 の
ま,と ら,ひ ょう,日 んぼの千害」
人 の望み で あろ う。実際には,そ の両方 の望みが釣 り合
う状態 の下にい くつかの近路がで きる。
」 とい う文 章 に
考察にお よび,遂 には ウズラ豆 の実験的研究を生み,先
生 のライフワークであ る割れ 目の発生 と伝播を中心 とす
る破壊機構 の研究へ と発展 していっ た の で あ る。 1933
は,た だいちがいに近路を是 とせずまた非 ともしない立
,
年 の「科学」 に「 キ リンの斑模様 につい て」 の論文が掲
載 された後,動 物学者 の反論 につづ くはなばな しい論争
については兵藤氏の解説 に詳 しい。
「物質 の表情」
「割れ 目につい て」では,主 としてガ ラ
スの割れ 日について,一 様 に熱 したガラス板を冷水 に徐
々に沈めた時に生ず るもの,鋼 鉄 の球を衝撃 させて生ず
るもの等 々,様 々な方法 に よって発生 した害lれ 目がそれ
ぞれに表情 の異なる有様が,多 くの写真をそえ て議論 さ
れている。ある質量を もった ものが応力 の場へ投げ出さ
れてあち こち動 くとい う簡単 な モデルに もとずいて,割
ことであ る。
場で,物 理的考察の合理性 と,こ れ こそ先生 の人柄 の根
源 ともい うべ き暖か さとい うものとの調和を感ぜず には
い られない。 これは 1941年 当時 の観察を も と に し て
1955年 に理学部会 ニ ュースに発表 された文章 であるが
,
この中で 1955年 におけ る構内 の柵 と近路 との状況を観
測す る有志はないだろ うか と書かれ て い る。 1975年 で
は どの ようで あろ うか。先生 のおっしゃったあのバ ラン
スは くずれてい るのではなかろ うか。
「サ ーカスにて」 では, いわば 簡単 な力学 の 問題 の中
に人間 の運動神経 の非常 に洗練 された極致 としての魅 力
が とらえ られ,「 鯨 に話を打つ」では,世 界的 に 有名な
れ 目が 発生 し伝播 してい く機構が 丁寧に解説 され て い
る。特 に放射線を照射す るホ ッ トラボの大 きいのぞ き窓
平頭鈷 の 発明に致 った 経過が 生 き生 きと描がかれ てい
る。 この鯨 との出合いが,後 年 の鯨 のひげか ら鯨 の年令
を推定す るとい うこれ もユニークな研究 に発展 してい く
に生 じた特種な割れ 目につい ての一項 は,当 時平田研究
のである。 この発明の際に鈷 の代 りに,水 中で小銃弾を
-7-
発射 させ,そ の進行の具合や水面 に出て反跳す る様子を
調べ る実験を されたが,あ ま り何回 も耳 の間近かで発砲
したためにいつ の間にかそれ に耐 えるべ く鼓膜が厚 くな
って,大 きな音 に鈍感にな られた とい う話は研究室では
かな り有名 であった。な るほどガラスの衝撃破壊 の実験
の折,皆 が耳を手で押え ている中で,先 生だけは平然 と
涼 しい顔を しておられた こと等 も思い 出され る。
ここで忘れ てはな らないのは この本 の冨1題 「 自然界 の
統計現象」
1に もみ られ るごと く,先 生は生涯を通 じて統
計現象 の研究を発展 させてい られた ことであ る。先生は
った。被爆 の体験を 自か ら筆 に されていた ことを少 しも
知 らなか った。かつてそれは衆知の事実であって も先生
の日か らは直接お聞きした ことは一回 もなか ったか らで
ある。原爆 の落ちた直後 の想像を絶す る悲惨な状況 の も
とでの異常な静か さを とらえた この一篇は,1952年 に書
かれた ものである。 この体験 は この後,先 生 の心 の中で
どのよ うな推移をた どったのであろ うか。決 して 自か ら
は語 られなか ったゆえに,研 究室 の人 々は皆それを十分
に疑 いなが らもあえて “原因が広島 の原爆にあるか知 る
由もない''等 といつ も歯切れ の悪 い言いわ けをつけ て
,
あ らゆる自然現象 の中に本質的に潜在 してい る確率的な
白血病に よる余 りに も早 い先生 との別れを語 るのが常 で
要素を的確に把握 し,統 計現象論に基 づいた独 自の方法
で これを解明 して,簡 潔な法則 に帰納 してい くとい う卓
あった。 しか し筆者は やは り「静寂」を読んだ 上 でな
越 した直観力 と能力 とを持たれていた。既成の理論を用
共に被爆 されてい ることを, しんそ こか ら呪 うものであ
いて計算 した り予測 され る事柄を説明 した りす るのでは
る。
お,先 生 とその後を追 うように亡 くな られた御長男 とが
な く,身 近かな事柄,一 見何で もない事柄,何 が何だか
この本か らも十分に うかがい知れ るような優れた業績
さっば り解 らない事柄を,物 理の問題 として取 り組んで
と独 自の学風 と共に,そ の人柄 の清潔 さ,学 生や弟子に
解明 してい くとい う真 に物理的な人の姿を,こ の本にお
さめられたすべ ての文章か らうかが うことが出来 る。
かつ て筆者が,衝 撃破壊 によるガラスの割れ 目につい
対す る思いや り,そ して常 に温 い気持を持 ってあ らゆ る
人 々に接 しられた大 らかさを思 いお こす時 ,い まさ らの
て山積みのデータを前に して,ど うに も動 きが とれずに
四苦八苦 していた時,先 生 は打てば響 き返す ような反応
の速 さで明確なア ドヴァィスを度 々して下 さった。 この
はで きない。
最後に「病院へ見えた寺 田先生」 の中か ら次 の文を引
用 して私 達 の気持を表す ことで この筆を おこう。
偉大な物理学者である先生がい らっしゃる限 り大丈夫だ
とい う大 きな安心感が,研 究室 の どの人 々の胸にもあっ
「 私は全 く何 もか も忘れ て もっと勉強を して 先生か ら
さらに多 くの ものを学び とる自由が与え られていたので
たに違いない。そ の先生は余 りに も早 く亡 くな られて し
ある。それが 自分には果せなか った とい う悔恨 の念が
先生が亡 くな られ てか ら歳が経つ につれて次第に強 くな
まった。
この本 の最後 の文「静寂」を読んで筆者は一瞬 とまど
ように先生を悼む心を千万言を もって して も尽 くす こ と
,
ってい く。
」
学術情報検索化学 システ ム T00L一 IRの 公開 に つ い て
一
勝
原
鎮
男
(化 学)
東大大型計算機 センター HITAC 8700ノ 8800シ ステム
に附置された高速大容量 (400メ ガバ イ ド)の デ ィスクメ
モ リーを基幹 とす る学 術情報 システムT00レ IRCTokyo
作業を進 めることが 出来 ます。また多量 で詳細な文献 リ
ス トを得たい ときは,バ ッチ処理 モー ドで高速 ライ ンプ
リンターを もちいれば質問をバ ンチ した カー ドで入 力 し
un市 .pn■ ineI」 OrmatiOn tttriCVal)が 完成 し6月 1日
たのち,あ とでゆ っ くり結果を とり出す こ とも可能です。
か ら同 センターの利用者 にひろ く公開利用願えることと
このシステムは利用者が 出来 るだけや さ しく簡単 に利
な りました。利用法 としては TSS,リ モー トバ ッチ,オ
ープンバ ッチ, クローズ トバ ッチな ど種 々の方法 で検索
用 しうるよ う,そ れを第 1に 考えま した。それで AND,
OR,NOTな どの質問形式 の もとに 質問語 (キ ーフニ
可能であ り,こ の うち と くに TSSに よる検索では マ ン
マシンイ ンターフェース機能を生か して対話形式で検索
-8-
ド)を 指示すれば簡単 に検索が可能 で あ ります。
実 例で説明 します と,た とえば,「 ア ミノ酸 の 文献を
さがせ とい う」質問をす る場合 には,SEARCH
AMINO,
うるシステムなので グループで計画すれば強力な研究補
AMINOと
Iま キ ーワー ドで,SEARCIIと ANDは 質問 の
助 とな りま しょう。現在収納 されてい るデータベースは
ケ ミカル アブス トラクツと,ケ ンブ リッジ大学 X線 結
AND ACIDと 指示 します と,
ACID
この場合
形式を指示す るサ ブコマ ン ドです。サ ブコマ ン ドには
この他,DIF,DISPLAY,QSAVE, QUSE,KEEP,
,
晶データベースの二つですが,本 年度中に計算機科学関
係 のデータベース INSPECが ヵΠえ られ る予定です。 シ
ENTER,EXTRACT,DUMP,REMIND,ENDの よ
うな ものが あ ります。 この うち QSAVEは ,自 分 のフ
ステム側 としては,シ ステムの保護 (た とえば メイ ンデ
ィスクの保護,イ 国人別,グ ループ別 ファイルの保護)な
ァイルに質問を貯蔵す ることで,こ こに 自分 の情報 ス ト
ックをつ くっ てお き,QUSEの サ ブコマ ン ドで,後 日
どや デ ィスク容量 の拡張な ど努力せねばな らぬ こ とが残
っていますが,と もあれ この段階 で一般公開を し,ユ ー
ザ ーサイ ドの質問 ファイルの育成な どをお願い したい と
呼び出してつか うことが出来 ます。 こうしてお くと,自
分に必要な 1群 の質問用 キーワー ドを しまっておいて二
度 目か らは一 々新たに質問を指示 しな くて も質問を再行
す ることが 出来るわけ です。
また KEEPサ ブ コマ ン ドは,検 索結果 を 自分 のフ ァ
イルにた くわえてお くものです。そ して後刻必要になっ
た とき,ENTERサ ブコマ ン ドで内容を呼び出 し,印 刷
した り,さ らに くわ しい検索 の出発点 にす ることが 出来
ます。また,PERMIT,SEARE,TRNFな い しRECVF
の コマ ン ドは検索質 問 ファイルや検索質問 ファイルや検
索結果 ファイルの貸 し借 り,や りと りをゆ るす もので
,
遠隔地間の研究者間 の協力や,協 同作業 もこれに よって
簡単 に実行 しうることが期待 され ます。
さらに
QUSEサ
ブコマ ン ドは誰 で も,シ ステムの質
問 ライ ブラ リを利用で きるように した もので,従 って
,
個 々の分野 の専門家がつ くった検索 システム,検 索質問
集を,専 門外 の人が よび出して,専 門 の人 の思考 に沿 っ
て検索をすすめることが 出来 ます。
システムは以上の内容を もってお り,こ れで遡及検索
と現況速報検索の両方を行な うことが出来 ます。前者は
現在,一 年分 のケ ミカルアブス トラクツを ファイルにお
さめてお り,後 者は 2週 間毎 に新着 のテープについて実
施出来 ます。遡及検索はゆ くゆ くは 4年 分を 目標 に して
お り,ま た,現 況速報検索は私用 ファイルを各 自用意 し
私の読んだ本
考えてお ります。 利用 マニ ュアルの 請求や 利用 の照会
は,化 学教室藤原鎮男内線 3248に 御連絡下 さい。 また
6月 11日 ,12日 計算 センターで当 システム利用 のため
の講習会が開かれ る予定であ ります。
以上 ,本 システムについ て御紹介申上げ,こ の機会 に
今 日までの本学部 の関係各位,東 京大学大型計算機 セン
ター,文 部省特定研究助成金 の御援助御力添えに深謝す
る次第です。
利用申込
下記要項を記入 の上*,CASデ ー タについては
〒 113東 京都文京区本郷 7-3-1
東京大学理学部化学教室 藤原鎮男
Tel o3)8122111
X線 構造 データについては
内淑
R3248
〒 113東 京都文京区弥生 2-11-16
東京大学大型計算機 センター
センター長室
X線 データ係
Tel(03)812-2111
内線 3650
にお申込下 さい。
*記 入事項
氏名,電 話番号,東 大 セ ンター課題番号
専門分野 または主に興味 のある分野
(20)
飯 田 宗 一 郎 編著
「大学を開 く――大学 セ ミナー・ハ ウス創立十年史 。開館七年史」
(財 団法人大学 セ ミナー・
朝
近郊 ハイキ ングコース として御ワ‖
染だ った多摩丘陵は
野猿峠 の南側に「大学 セ ミナー・ ハ ウス」が開館 したの
-9-
野
洋
ハ ウス 1974)
― (地 理 )
│ま 1965年 7月 で あった。 1972年 11月 には,財 団法人創
立 10周 年 と開館 7周 年 の記念行事 が催 され た。本書
は,そ の記念出版物 の一部 であ るが,1974年 末に発行
されたか ら,正 確には創立 12年 史 。開館 9年 史 とい う
開館か ら七年 の歩 み」 (第 3章 ),「 歓び の歴史を 作 る」
・施設
(第 4章 )で 述べ られているように,何 度 かの募金
べ き内容 となってい る。全編 300頁 足 らず の書物 で ある
の充実を経 て着実 に発展 し,全 く予期 した通 りの効果を
発揮す るようになる。会員協力校数は,当 初 18校 で あ
ったが,1974年 には国公私立合計 40校 に もなっ た。
「 セ ミナー・ ハ ウスをいつ も自主的な経営体 に して お く
が内容は豊富で,一 個人が諸え の困難を排 し自己の理想
を実現 してゆ く感動的 ドキ ュメン トと当代一流 の学者・
教育者が折 りにふれ て開陳す る大学論 の 2本 立てとみ る
ことがで きる。 この 2本 立てについ ては,書 名 に もいえ
る ことである。「大学を開 く」 とは,い ろいろな面で閉鎖
的な 日本の大学を開いて,大 学間 の交流・ 連帯をつ くる
とい うことである。 しか し,一 方 では,国 の補助 と財界
の援助 と大学関係者 の熱意 に よって存続 してい るユニー
クな教育機関,人 呼んで「飯 田学 園」を開設 0運 営す る
とい う意味 に も受け取れ るのである。
教師 と学生が豊かな 自然環境 の中で起居を共 に しつつ
学 ぶセ ミナー・ ハウスの建設は,飯 田宗一郎 (創 立以来
長 らく専務理事を 務 め,現 在館長)と い う一個人が
,
1959年 当時 の大学教育 の 現状を見 て,一 体 これで よい
ものだろうか との疑間を持 った ことに始 まる。当事者な
ら誰れ しも懐 く疑間であろ う。氏 の前歴 は詳 しく書かれ
ていないが,同 志社大,東 京女子大,ICUな ど,キ リ
ス ト教関係 の大学で,大 学行政 に携 って こられた方 とき
く。新制大学 におけ る大学教育,と りわ け一般教育を中
心 とす るマス ●プロ教育には人 と人 との触れあいが欠け
ためには,人 間 の善意 に よって支え られ る維持後援会 の
組織が必要である」 とい う飯 日の発案 に より,江 戸時代
の八王子千人同心にあやか って発足 した「千人会」 の会
員 も,間 もな く 1000人 になろ うとしてい る。740∞ m2
余 のキ ャンパス内には,逆 四角錐 の,楔 を大地 に打ち込
ん だ 姿 の 本館・ 食堂棟 ,サ ービスセンター (浴 室・ 売
店),中 央 セ ミナー館: 宿泊施設 の ユ ニ ッ トハ ウ ス 群
(7群 ,各 群は 10個 近 い ユニ ッ トハ ウス とセ ミナー室か
ら成 る), 講堂兼体育館, 図書館,教 師館,長 期 セ ミナ
ー館,テ ニス コー ト,野 外 ステージな どが,丘 陵 の地形
を巧みに 生か し,風 景を損わない ように 配置 され て い
る。開館以来 1973年 まで の利用状況 は,ゼ ミナール開
催 6,188回 ,宿 泊延人数 291,063で あ る。 ここで開か
れ るゼ ミナールは,最 も一般的なのは大学教師 とそ の指
導学生 に よるものだが,セ ミナー・ ハ ウスの企 画す る大
学共同セ ミナー,国 際学生 セ ミナー,大 学教員懇談会 な
どがある。 この うち大学共同セ ミナーは,こ この看板 と
もいえ るもので,全 国 の大学か ら,参 加者を募集す る。
ていると感 じた氏は,イ ンター・ ユニバ シテ ィの合宿研
修 センターを設け,こ れに よって大学 の理 念 と実態 との
1974年 3月 までに既 に 66回 開催 され ,参 加学 生 延
橋渡 しを しようとの構想を持 った。そ して,ま ず同信 の
5,334,開 催 日数 164日 ,指 導教授陣 579人 となってい
(氏 は クエーカー派 の教会 に属す
)女 子大学長に相 談 し
た ところ,在 京 の有力国立・ 私立大学長 に も話が通 じ
,
次第に理解者が増え,遂 には財界か ら募金す るに至 る。
この間 の事情は,第 1章 「知 らざる径を歩む一―創立以
前 のこと一一」 に述べ られ て い る。60年 安保闘争 の 前
後 で,大 学 も落着かなか った頃である。我が国では未だ
知 られていなかった構想を多 くの大学関係者・ 財界人・
役人に まず理解 して もらい,大 蔵省の許可を得て財団を
設立 し,文 部省 と交渉 して補助金を獲得 し,財 界か らの
寄付を募 り,建 設予定地を物色す るな ど,氏 に とっても
る。特 に一般教養 に重点を置 くが,テ ーマは実 に様 々で
あ り,い ずれ も高い学問水準 と広い教養 の うかがわれ る
ものばか りである。参加学生や教師か ら寄 せ られた感想
文 には,恵 まれた環境下で教師 と学生が宿泊 しつつ学ぶ
ことのすば らしさが余す ところな く述べ られ てお り,セ
ミナー・ ハ ウスの使命が申 し分な く果 されてい ることを
実証 してい る。
本書 の特色の一つに,関 係者 。参加者 に語 らせ るとい
うことがある。飯 田は冒頭 で,自 分 ですべ てを書かない
全 く未知 の世界での仕事 であ ったか ら,そ の苦労た るや
のは,書 こ うとす るこ とが「心 には温れ るも,… …,永
久に消え ることのない感動 の一つ一つがあざや かに思い
「前例 のない事業を開拓す る場合に よ く経験す る こ とで
ある」 と簡単 に述べ られてはい るが,実 は大変な もので
出され て,誇 張 した表現 にな ることをおそれ る」ためで
あると述べてい るが,創 立か ら現在 に至 るまでの各種 ド
家族を も巻 き込んで しまっている。信頼感あふ るる豊か
な人間関係,周 囲の人 々の理解 と協力 といった好条件が
キ ュメン ト,催 物 の来賓あい さつ,新 聞・ 雑誌等 の関連
記事 を上手 にE・L列 して自己 の主張を表現 してい るのは見
事 で ある。 また,こ の裏には,セ ミナー・ ハ ウスに関す
,
そろっていたに して も,熱 意 と努力はす さまじい。募金
にあ たっ ては,足 掛 4年 の間 に 40余 の業界団体,200
余 の銀行 。会社を訪問 した とい う。
さて,開 館 した施設は,「 よき若木若芽 の 育ちて一―
ることな ら何で も収録 してお こうとす る職員諸氏のセ ミ
ナー・ ハ ウスに寄 せ る愛情 が うかがえる の で あ る。 た
だ,こ こで気になるのは,関 係者 の書 いた ものや新 聞の
- 10 -
記事 の中に,セ ミナー 0ハ ウスを して大学改革問題 のい
わば「新幹線方式」に位置 づけ ょうとの論調が うかがえ
筆者 は過去何度か セ ミナー・ ハ ウスを利用 させていた
だいたが,横 田基地に発着す る大型輸送機 の爆音に討論
ることで ある。時を経 て大学 の置かれている状況 も変化
し,セ ミナー・ ハゥスの運営・ 企画に携わ る人 々に も交
や眠 りを妨げられた ことを想い出す。財界 の寄付で完成
替 はあったろ うが,少 くとも飯日の発想 の中に,ま た初
期 の賛同者 の考えの中には,こ のよ うな意図はなか った
と思 う。近年,各 地 に単独 の大学 で類似の施設を持つ例
が多い と聞 くが,セ ミナー・ ハ ウスの理念 。実践が既成
大学 の改革へ のモデル とは されて も,こ れを以って免罪
符 とされ てはな らない と思 う。
した と聞か された施設に泊 りなが らヴェ トナムや沖縄 と
の間を頻繁に往来 す る軍用機を間近かに見 るのはす っき
りしない と友人 と苦笑 しあった ものだ った。 ヴェ トナム
に ようや く平和が訪れた今,夜 のゼ ミナール室に聞えて
くるのは,虫 の音 ,風 の音 のみであろ う。静かで美 しい
環境が,も う間近か まで迫 った宅地造成 。分譲住宅地に
より破壊 されない よう祈 りたい。
〈学部消息〉
将来計画委員会か ら学部長あての報告があ り討論 さ
れた。
4月 理学部会合 日誌
)会
″
14 日
15 日
16 日
28 日
)理
(火 )人
(水 )教
(月 )主
(月
任 会 議
1.30-2.30
3.30-5.45
系 委 員 会 2.00-4.50
事 委 員 会 3.00-4.00
会 2.00-5.50
会 議 4.00-5.00
授
任
教 授 会 メ モ
4月 16日
(水 )定 例教授会
理学部 4号 館 1320
教授会にさきだち,藤 井忠 男教授が「Real photonと
Virtual photon」
と題す る講演を された。
1.前 回議事録の承認
2,人 事異動等 の報告
3.人 事委員会報告
(末 元)
4.会 計委員会報告
(佐 佐木)
研究生の期間延長及び入学 につい て
6.転 学科について
5。
議
10.放 射線管理体制について
評 幹
8.科 学研修員 の受入れについ て
9.教 務委員会報告 (花 井)
(斉 藤)
新 ・
貝事
7.日 本学術振興会奨励研究 員の受入れ につい て
教室主任 。施設 の長
12.ヵ リキュラムの件 につい て
員
○印 新
表
植村,下 郡山,日 九
下郡山,日 丸 ,佐 佐木,末 元
,
学部 の放射線管理委員が きまった。
11.学 内規律の件についての報告
委
授 授 授 授 授 授 授 授 授 授 授 授 授 授 授 授 授
日 (金 )主
11
1.30-4.40
学 報 理 文 物 学 化 物 物 類 質 物 理 海 園 施 ︻
ギ
レ
′
物 物 ネ
ニ
数 情 物 天 地 化 生 動 植 人 地 鉱 地 臨 植 地 高
計 委 員 会
教 務 委 員 会
∝∝佐末鏃餅野∝鍼∝鉢竹∝∝釘福小
″
︼騨
︼︼︼嘲]︼︼囀]軸
囀幽榊秘︼
9 日 (水
有馬
(大 木)
人
事
委
会
計
委
末元,伊 藤,稲 本,古 谷,宮 沢
(大 木 )
(弘 )
13.全 学建築委員会 の報告 (植 村)
14.総 合大学院構想 につい て (植 村)
員
佐佐木,岸 保,飯 野i田 村,江
上,宮 沢 (辰 )
-11-
務
委
員
朽津,伊 原,霜 田,鈴 木 (秀 次)
木,江 上,古 谷,飯 島,後 藤
カ リ キ ュ ラ ム
検
討
委
員
山上 会 議所 委 員
ア ル バ イ ト委 員
永日 (豊 )
東大百年史委員
有馬,尾 本
習
高倉
放射線管理委員
斉藤 (正 ),佐 伯,花 井,井 上
将 来 計 画 委 員
学 生 委 員 (全 学)
″ (理 )
学
寮
委
員
教 職 課 程 委 員
黒田, 小松, 小柴 , 海野, 大
朽津
図 書 行 政 委 員
藤原
広 報 委 員 (全 学)
″ (理 )
和 田 (靖 )
外 国人 学 生 委員
学 生相談所 委員
斉藤 (信 )
堀ロ
学
委
員
英文 カ レンダー委員
佐藤 (久 )
ガ イ ダ ンス委員
朽津
高橋 (武 ),飯 田,宮 沢 (辰 ),山
岩堀,荒 田
学内 規 律 専 門 委 員
大木
改
室
和 田 (昭 )
補
佐
藤井 (忠 )
議
会
植村,末 元,野 田
革
長
院,
山本 (祐 )
霜田
協
院,学 生委員 (全 学)
木村 (敏 )
院,奨
水野
事
学
委
員
手
名
氏
発令年 月日
明敏
忠正
浜森
西井
助助
職手手
官
室学理
助
<教
化物
動
異
3.31
50.4.1
50。
異 動 内 容
退
職
高 エネル ギーW/J理 学
実験施設 に配置換
備
考
明治 大学 助教 授
職授
官
教
属質
所地
4月 海 外 渡 航 者
氏
立 見
名
辰 雄
教 授
西 島 和
彦
植
物
教 授
古 谷
樹
化
学
教 授
向 山 光 昭
人 類
講 師
西
雅
日 利
有 馬
貞
朗 人
渡航先国
ドイツ連邦共和国
渡航期間
4.1∼ 4.8
4.
イタ リア
ドイ ツ連邦共和 国
ドイツ民主 共和 国
連合王国
4.
フ ラ ンス
ドイ ツ連邦 共和 国
ア メ リカ合 衆国
タ ンザ ニ ア
ザ イ ール
ア メ リカ合衆国
- 12 -
4.
4.
1∼
7. 18
1∼
7.20
3∼
4.
10∼
51.
4.
4.
10∼ 4.
5 5
2
︲
理
助教授
藤原
入試 制 度 検 討 委 員
総
物
理
,
上,下 郡山,武 田
人
物
斉藤 (信 ),鈴 木 (秀 次),酒 井
環境安全委員 (全 学)
″ (理 )
高倉
奨
リ 委 員
酒井
代谷,中 井
小堀,木 下,猪 木
学 生 保 健 委 員
カ
翁
竹内 (均 )
教 養 連 絡 委 員
臨
ソトプ
絲 割細賊
教
渡
航
目 的
IFSEG会 議 及 び
GDMB共
SGA―
催金属鉱床成因
論会議 出席
素粒子論 の研究
「光 と発生」国際会議 出席及
び植物細胞 におけ るフ ィ ト
ク ロムの分布 と作用機構 に
関す る研究実施
アメ リカ化学会年会出席及
び研究連絡
中近東お よびア フ リカに対
す る技術協力計画におけ る
霊長類動物 の調査
原子核 の クラスター構造 に
関す る第 2次 国際会議出席
及 び研究連絡
臨 海
教 授
小 林 英
司
化 学
助教授
荒
田 洋
治
物 理
教 授
山
口 嘉
夫
ドイツ連邦共和国
ドイツ民主共和国
アメ リカ合衆国
4.
11∼ 4.
4.
19∼
スイス
アメ リカ合衆国
4.
30∼ 8.
5。
房脳室器官 に関す るシンポ
ジウム出席及び研究連絡
第 16回 核磁気共鳴会議 出席
及 び研究連絡
レプ トン光子 の相互作用 に
関す る国際 シンポジウム出
席及 び高 エネル ギー物理学
の研究
理 学 博 士 学 位 授 与 者
一彦
宍
進雅
日付授与者
名
題
文
のフT究
論
目
Bri■ ouin散 舌
に よる Gd2(M00ム
し
Difcl・ elltiation of vcgctation pattcrn in the subalpinc region of Mt.FLlii
戸 文 雄
也 子 男 之 一智 夫
彬 澄威 信 弘 美康
本場野 川 沢谷 田
同 同 同
山馬藤 相 梅荒森
学位規則第 3
条 2項 該当
同
同
同
同
藤沢
4氏
︲
伊大
昭和 50年 4月
専門課程
物 理 学
植 物
学
富士山の亜高山帯域 におけ る植生パ ターンの分化
半導体多層薄膜 の輸送係数
列車 と トンネルの空気力学
238uの 陽子核分裂 の研究
放射化学的な手法 に よる
ウラン,ア メ リシウムお よびキ ュ リウムの放射化学的研究
X‐ ray
Study of the lntergrowtll of Rhodonite and Py■
るバ ラ輝石・ パ イ ロクスマ ンガ ン石 の X線 的研究
ウラ ンの核分裂 に関す る化学的研究
荷電 スペ ク トロメーター とその応用 に関す る研究
oxllnangitc共 存す
An explicit formula for the diinension of spaccs of Sicgcl nlodular forms
of dcgce two
(2次 のジーグル・ モジュラー形式 のなす空間 に対す る次元公式)
職員永年勤続者表彰
進入学者 について
学部進入学者 につい ては本年度 は,例 年 の如 き部長挨
拶 には じまる進学式は行われず,代 りに「理学部広報―
進学生特集号」が配布 され,各 教室で適宜 ガイダ ンスが
昭和 50年 度 の東京大学職員永年 勤続者 として理学部
では川上幸男 (植 物園),藤 木陽一 (地 物),松 田正太郎
(化 学)の
3氏 が表彰 された。
行われた。学科別 の進学者数 は次の如 くである。
昭和
数
学
50年 4月
理学部進学者
46名
72名
7名
科
物 理 学 科
天 文 学 科
地球物理学科
化
学
科
生物化学 科
生 物 学 科
動
物
学
生 物 学 科
植
物
学
生 物 学 科
人
類
学
地
学
科
地質学鉱物学
地
学
科
地
理
学
向山教授 の授 賞
向山光昭教授 (化 学)は ,こ の度 ``生 理活性物質 の新
合成法 の研究''に 対 して,内 藤科学振興財団 より,内 藤
20名
43名
18名
8名
8名
4名
14名
8名
科学振興賞を授賞 された。
国立十大学 理学部長会議 報告
第 43回 国立十大学 (北 大,東 北大,東 大,東 教大
東工大,名 大,京 大,阪 大,広 大,九 大)理 学部長会議
,
計 248名
尚理学系大学院へ の入学者は,修 土課程 208名 ,博 士
課卸 12名 であった。
が 4月 23,24日 の両 日名大理学部 で開かれ植村学部長
吉野事務長が出席 した。当番校 であ る名大早川学部長を
,
議長に主 として次 のよ うな議題 につい て検 討や情況報告
―- 13 -―
が行われた。なお文部省か らは大崎大学課長他一名が出
理 学部職員学生懇親会 の開催
席 した。
1.野 外実習費の予算措置,野 外実験 。実習施設 の整
備等 に関す る問題
2.事 務官,技 官 の定員増 と事務 の簡素化 につい て
3.経 常校費ち特殊装置維持費 の増額 の問題点
4.設 備更新費,特 別設備費等 の問題点
5.教 官流動情況 の調査結果 とそ の報告
6.建 物 の基準 について,特 に危険物貯蔵庫 の取 り扱
いについ て
7.教 員免許取得方法 の問題点
以上 の他,大 学院設置基準 の施行 にともな う各大学
の措置 の進行情況,各 大学 の大学院 拡充 に関す る将来
構想等について説明や情報交換を行 った。
これ らの討議は当番校 の責任 で要望書 にまとめられ関
(植
係方面 に提 出され る予定である。
村)
)恒 例 の ビア 0バ ーテ ィが小石川植物
園で午後 3時 か ら開かれた。五月晴れの好天 の下,新 緑
を賞でなが ら,多 数 の教官,職 員,学 生が参集 し,春 の
5月 12日
(日
一時をな ごやか にお くるこ とがで きた。
停年退職の佐 々木信雄技官を送る
晶解析 の研究な らびに学生実験
編集後記 :理 学部 5号 館 の 第一期工事 が, 四月末か
ら,竜 岡間近 くの建設予定地で始まっています。``本 郷
の春''の いぶ きを感 じさせる力稿を以て,本 号 も無事刊
行できた ことを,著 者の方 々に厚 く御礼申 しあげます。
せることで有名で した。
また教室随一の能筆家 であると共 に筆跡鑑定では素人
好評の 表紙連載写真 は,本 年 は 町ヒ石」 に いた しまし
た。御愛読 (?)を 願います。叉平田先生 の思い出を書か
れた清水博士の記事は,元 来書評欄に頂いた ものを,編
の域を脱 しておられ るそ うです。理職にも極めて熱心で
集の都合上,本 文に組み入れました。著者および読者の
したか ら同氏独得のひようひようとした風貌 に接 しられ
御了解を得た く存 じます。なお同博士は,現 在上智大助
教授で,物 理教室に御勤務です。臨TIコ 7巻 3号 (前 号)
この 3月 停年退職 された佐 々木信雄 氏は昭和 19年 茅
教授 と共に北海道大学か ら来 られ,繭 来通算 25年 間結
X線 解析 の 指導 に 従 事
され ました。 同氏 の指導は懇切丁寧で一 々自らゃ って見
た方 も多 い と思います。
今後 の御健康 と御活躍を祈 ります。
(桑 原五郎
16頁 理学部卒業者 (209名 )は ,(206名
)
)に 御訂正下さ
ヽヽ
。
助成 金 の推 薦 につ いて
財団法人伊藤科学振興会研究助成金推薦につぃて
RCA助 成金
編集
(7月 31日 まで )
:
聴
貶
[
上記 の通知 が きてお ります ので,御 関心をお持ちの方 は
庶務 の浅沼 さんまで御連絡下さい。
-14-
)理
(動 物 )理
(物 理 )理
(地 理
2号 館 205号 室
2号 館 22号 室
1号 館 461号 室
線 線 線
内 内 内
(6月 14日 まで)
松永研究助成金贈呈候補推薦について
(6月 16日 まで,用 紙は 5月 31日 までに庶務掛)
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