名県令・楫取素彦(18)立身出世より至誠に徹し

名県令・楫取素彦(18)立身出世より至誠に徹し
長い間書き続けてきた楫取素彦について、まとめに入ることにしたい。最後は「日本近
代史のなかでまだ光が十分に当てられていない楫取素彦の生き様をどう評価し、今後どの
ように語っていくべきか」と言うことである。
楫取県令が去ったあと、群馬県の教育は不振の時代を迎えた。医学校、女学校は財政難
を理由に廃止となり、中学校もストライキが頻発し運営が困難になった。そこで、群馬県
中学校長に迎えられたのが、まだ二十八歳の若さであった沢柳政太郎である。沢柳は在任
期間が二年余りであったが見事に群馬県の中等教育を立て直し、仙台に移り第二高等学校
長となり、東北帝国大学を開学し初代総長になった。
沢柳は東北帝国大学、京都帝国大学の総長をつとめた教育者としても、文部次官をつと
めた行政官としても、またペスタロッチを研究する研究者としても一流で、文部大臣にな
れた可能性があったにもかかわらず、成城小学校を設立し大正自由主義教育を始めた。
なぜ高位高官を捨て小学校をつくったのかというと「本当の教育とは駆け引きをしない
ことである。これからは本当の教育をする」という理由からであった。沢柳政太郎を評価
する場合、文部次官や京都帝国大学総長といった肩書きで評価され、一切の肩書きを捨て
「駆け引きをしない本当の教育をしようとした」点はあまり 評価されない。
昨年、防府市の顕彰会では『男爵楫取素彦の生涯』という本を出した。その 中で、楫取
の書簡を踏まえ「男爵」という位は本人も含め納得がいかなかったのではないかという指
摘がある。維新に功績のあった山口県人は侯爵一名、伯爵五名、子爵七名、男爵四名が選
ばれている。また逆に、前橋市のある人が「防府市の顕彰会はさすがである。男爵と付け
た本を出した」。群馬県の顕彰もこれをまねるべきであると筆者に助言した。
筆者の評価は観点が違う。楫取は立身出世より至誠に徹した生き方をした。その結果、
群馬県知事(地方官)の地位に甘んじ、爵位も男爵であった。儒教では官位などは「人爵」
といい、それよりも「天爵」を重んじる。楫取素彦は「群馬県令を天爵にした男」という
べきなのである。
群馬学は筆者が最初に提唱したものであるが、その群馬学とは、地域の人々の幸せを祈
り、その実現に努力してきた先人を発掘することであり、讃えて語り伝えることである。
そうすれば偏差値だけを尺度とする教育を変えられるし、本当の地域づくりが出来るから
である。