アフリカの混迷とイスラム世界(国際政治学資料

アフリカの混迷と中東イスラム世界
アフリカ・サーヘル地方の混迷
アルジェリアでの人質事件に見られるように、アラブの春をきっかけとして、イスラム
過激派やその政治組織が勢力を伸長させ、サハラ南縁に至るまでのアフリカ諸国が急速に
テロ活動の拠点となり、欧米を標的に活動するようになっている。
「アラブの春」によって北アフリカでイスラム勢力が台頭している→
リビア=サウジアラビアの支援を受けるサラフィスト(イスラムの純化を考える者)た
ちが政府を乗っ取ることも十分考えられる。リビアの国民評議会のトリポリ軍事委員会の
指導者だったアブデル・ハキーム・ベルハッジュはサラフィストであり、1966年生ま
れ。
フランスのマリへの武力介入
リビアでのイスラム過激派の台頭→アフリカ諸国でのイスラム過激派の活動を勢いづか
せている。
2011年12月、マリの警察は、11月下旬にマリの都市ホンブリー近郊で5人の欧
米人を誘拐した犯人たちを逮捕した。犯人たちはAQIMと関係があると見られているが、
彼らはマリ政府にフランスや米国との親密な関係を断つことを要求していた。マリ政府は
治安強化のためにフランスと米国の協力を仰いでいるが、武装組織はイスラム教徒弾圧の
ために欧米諸国と手を組むのはイスラム法に反する行為であると訴え続けている。
サハラ周辺のアフリカで小型武器や麻薬の流通を資金源としてきたAQIM→あらたに
欧米人の誘拐によって活動資金を得ようとするようになった。←欧米人に対する誘拐は、
マリのほかに、ニジェールやモーリタニアでも見られるようになり、米国政府も国民に対
して渡航の注意を喚起している。
リビアのカダフィ大佐→アフリカのイスラム武装集団に資金援助をしていたが、後ろ盾
であったカダフィ政権が崩壊したことも、アフリカのイスラム過激派を暴発させる要因と
なっている←これらの組織は経済的に豊かで、肥沃な農地をもつクリスチャンの居住地域
に対しても進出の野心を見せるようになり、農地をめぐる紛争であるスーダンのダルフー
ルと同様な構図も北アフリカ各地で現れるようになった
AQIM=1990年代にアルジェリアで創設されたイスラム過激派で、次第にアルジ
ェリアを超えて、サハラ地方各国の部族社会にも次第に根を張るようになった。AQIM
は、リビアのカダフィ政権の崩壊など北アフリカの混乱をその勢力伸張のために開拓する
ようになった。
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※特にリビアの政変によって大量の武器・弾薬がサハラ地方のイスラム過激派に流入し
たこと、それにサハラ地方の度重なる飢饉や深刻な貧困とが重なって大量の新しいメンバ
ーをAQIMに供給することになっている。さらに、モロッコからの西サハラの分離独立
を考え、モロッコ政府の人権侵害を糾弾し続けているポリサリオ戦線も、誘拐、麻薬・小
型武器の流通に手を染めていると考えられ、AQIMにもメンバーを供給するようになっ
た。
イギリスのウィリアム・ヘイグ外相→ヨーロッパの人間を誘拐やテロの標的にするAQ
IMの対策として、2011年暮れに警察や治安の専門家をサハラ地域の国々に送ること
を EU 諸国に呼びかけた。彼はテロ対策の一環としてサハラ地域のインフラ整備にも注意
を向けるべきだと述べている。
イギリス→アルジェリアの治安当局からAQIMに関する情報を得ているが、その対象
国は、セネガル、モーリタニア、マリ、ブルキナファソ、アルジェリア、ニジェール、ナ
イジェリア、チャド、スーダン、エチオピア、エリトリアなどほぼすべてのアフリカ北部
諸国が含まれる。
ナイジェリアのボコ・ハラム→2011年8月にナイジェリアの首都アブジャの国連ビル
に自爆攻撃を行った。この組織はイラクやアフガニスタンのイスラム過激派のように、自
爆攻撃を多用している。
※ボコはナイジェリア北部で使用されるハウサ語で「非イスラムの欧米的教育」、「ハラム」
はアラビア語の「ハラーム」のことでイスラム法によって禁止される行為のことをいう。
つまり、「欧米教育は禁止」という意味。2002年にウスタード・モハメド・ユースフに
よってナイジェリア北部のマイドゥグリで設立され、ナイジェリアの警察・治安部隊との
衝突を繰り返し、ナイジェリアの政治腐敗や弾圧政治を非難してきたが、国連ビルへの襲
撃に見られるように国際的な目標ももつようになった。
ボコ・ハラム⇒欧米の教育がムスリムの堕落をもたらしてきたと考えるが、ナイジェリ
アでは1903年にイギリス支配が始まり、西欧型教育が行われるようになると、一部の
ムスリムはこれに強く反発していった。組織のイデオロギーはモスクや宗教学校で教化さ
れているが、この衣食住が無料で提供される学校に子弟を送るのはパキスタンでも見られ
るように貧困層の家庭である。また、ナイジェリアでは正当な法的手続きを経ない治安部
隊による殺害や拉致が続く。
ナイジェリア→年間一人当たり所得が2、700ドル、また GDP の成長率は年7%に及
ぶが、国民の70%が一日1.25ドル以下での生活を余儀なくされる。特にボコ・ハラ
ムが活動するナイジェリア北部の貧困は深刻で、その住民の72%が貧困層とされる。南
部の27%、ニジェール・デルタ地帯の35%に比べるとはるかに多い(数字は米国ワシ
ントン「外交評議会」資料より)。
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※サハラ以北のアフリカ諸国はかつてのアフガニスタンのように、中央政府の権威の失
墜、飢餓・貧困、アルジェリアなど外国からのイスラム過激派の流入、またアラブの春に
よって武器・弾薬が大量に流入したことなどによって、イスラム過激派がいっそう成長す
る要因がそろいつつある。これらのイスラム過激派は、ボコ・ハラムに見られるように、
自爆攻撃を行うなど、中東イスラム諸国のイスラム過激派の闘争形態をそのまま受け入れ、
欧米との闘争という国際的な視野をもつようになった。
フランス支配とは何であったのか?
※ヨーロッパの植民地主義がイスラム世界に進出するに従って、ヨーロッパのキリスト
教宣教師たちは、イスラム世界に対するヨーロッパの「勝利」はキリスト教の教義による
ものと考え、イスラム世界の後進性を「イスラム」によるものと断定した。彼らは、ヨー
ロッパの近代的発展は、宗教や文化としてキリスト教に本来備わっている優越性によるも
のと考えていた。フランスは、アルジェリアを足がかりにアフリカのキリスト教化を考え
るようになった。
フランス⇒アルジェリアからサハラ深部へと進出し、原地の住民たちにフランス語の使用
を強要していく。そして、1881年にはチュニジアを、また1912年にはモロッコを
保護領とした。
フランス⇒19世紀の末までに、フランス、イタリア、スペインから20万人をアルジェ
リアに移住させ、アルジェリアの全耕地の40%にあたる230万ヘクタールの農地を開
墾させた。最も肥沃な土地は、ヨーロッパの農業会社に当てられた。
フランス⇒100万人以上の植民者(コロン)と莫大な資源をアルジェリアに投入したが、
フランスのアルジェリアに対する進出は、イスラムよりも優越していると考えられたキリ
スト教の宗教的情熱によっても裏づけられていた
※ヨーロッパ植民地主義はイスラム世界に地殻変動ももたらすことになり、イスラム世界
では二元的価値観が根づくことになった。チュニジアのあるムスリムは、ヨーロッパ植民
地主義によってもたらされた二元性とは、経済的にはスーク(市場)を中心とする伝統的
セクターとヨーロッパの商業スタイルに基づく近代セクター、また階層的には原地の民衆
とフランス植民者、また都市はメディナ(伝統的な商店街)とヨーロッパ・スタイルの市
街に分類されたものだと語った。
⇒アルジェリアでは、徹底的なフランスへの同化政策が図られる。アルジェリアは、チュ
ニジアやモロッコの「保護領」とは異なって、フランスの領土の一部とされてしまった。
アラビア語に代わってフランス語教育が行われた⇒また、イスラム法は廃止され、フラン
スの法律が導入される。さらに、ウラマー(イスラムの聖職者)は、教育、法、社会福祉
に対する管理を剥奪されることになった。こうしてフランス支配は、アルジェリア社会の
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イスラム的性格を希薄にしていった。アルジェリアでは、1962年の独立時にはイスラ
ムの宗教学校すらなく、アルジェリア人の経営による教育機関は警察学校だけだった。
←このように、フランスの植民地支配は、伝統的意識の強いムスリムの目から見れば、単
に外国支配を受けただけでなく、文化的な「屈辱」をももたらした。イスラムの価値は多
いに損なわれ、イスラムに裏打ちされた社会は自然な発達を阻害された。つまり、フラン
スによっていきなり「文化革命」を強いられた状態となった。ヨーロッパ植民地主義は、
ムスリムの過去の栄光やプライドを傷つけるものばかりでなく、その物質主義的文化は、
イスラムに具現化された神聖な、宗教的原理に対する「脅威」とも保守的なムスリムたち
には感じ取られた。
※独立戦争で、アルジェリアでは、900万人の全人口のうちおよそ150万人のアルジ
ェリア人が命を落とし、また200万人が住む家を失った。また、アルジェリア人の都市
生活者のうち4分の3が職を喪失したと見積もられている。この背景にはフランス人の植
民者がアルジェリアを離れたことが大きく影響していた。
対テロ戦争の負の成果
9・11の同時多発テロの前年である2000年にパキスタン国内で発生したテロの件
数は14件であったのに対して、2009年は実に600件を超えた。テロの激増は米
軍のアフガニスタンでの軍事行動を背景にするものであることは明らかで、さらにアメ
リカがパキスタンの部族地域(アフガニスタンとの国境地域で、パシュトゥン人が多く
居住する)でパキスタン軍がイスラム過激派を制圧するよう圧力をかけ続けた。パキス
タン軍が実際に部族地域で軍事行動を行い、一般住民の犠牲を出すことによって、イス
ラム過激派はパキスタン政府にも反感を募らせるようになっている。
ホームグロウン・テロの増加
欧米諸国でムスリムのホームグロウン・テロが顕在化←主な要因は社会的・経済的格差
ヨーロッパ諸国の極右政党の伸長し、保守化の傾向が強まる→高い出生率で急速に人口を
増やすイスラム教徒に、本来のキリスト教的な価値観を脅かされるとの危機感が背景にあ
る。
さらに厳しい経済情勢でイスラム系は職にも就けず、排除されていく←こうした敗北感や
反発からイスラムの教えに救いを求め、信仰のあつさで欧米人を優越したいとの意識から、
過激思想に染まる土壌が生まれる。
ムスリムの30代前半までの世代→冷戦終結後の「イスラム教徒対キリスト教徒」の対立
が顕在化したいわば「文明の衝突」の時代に育った。
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アフリカ・サーヘル地方
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