アルジェリアの現代史と日本講義資料

フランス支配とアルジェリアのイスラム
マグレブ三国は、地中海を挟んでヨーロッパと向かい合っている。ここでイスラム過激
派が台頭することは、ヨーロッパの安全保障に影響を及ぼしかねない。地理的に近いヨー
ロッパ諸国には、マグレブからの移民が旧宗主国のフランスなどに移住している。
マグレブ→アラビア語で「日の没するところ」という意味である。アラブ世界の中心から
見れば、西に位置するので、その名前がついた
マグレブ三国→東からチュニジア、アルジェリア、モロッコとなる。
人口は、チュニジアが1、175万人、アルジェリアが3、349万人、モロッコが3、
051万人。アルジェリアはアフリカの中では二番目に面積の広い国
それぞれの国の国民性には特徴があり、チュニジアは「乙女」、アルジェリアは「獅子」、
モロッコは「漁師」と形容されている
アルジェリア→熾烈な戦争を経て、フランスから独立を勝ち取った。また、アルジェリア
のイスラム過激派は市民の大量虐殺を行うなど、凄惨な方法で自らの主張を訴えている
※外国人まで含めてテロの対象となったアルジェリアは別として、チュニジアやモロッコ
は、観光資源が多く、多くの外国人観光客が訪れている。イタリアのローマからチュニジ
アの首都チュニスは飛行機で、一時間で結ばれているように、マグレブ三国はヨーロッパ
と地理的には近隣関係にある。古代においては、チュニジアの都市国家であるカルタゴは、
ローマと三度にわたるポエニ戦争を戦った。実際、美しい海岸線を目玉にリゾート国家と
して売り出しているチュニジアには、ドイツなどヨーロッパから多くの観光客が訪れてい
る。こうした地理的な近さのために、ヨーロッパ諸国はマグレブ三国の動静に無関心では
いられない。
フランス支配とは何であったのか
※ヨーロッパの植民地主義がイスラム世界に進出するに従って、ヨーロッパのキリスト教
宣教師たちは、イスラム世界に対するヨーロッパの「勝利」はキリスト教の教義によるも
のと考え、イスラム世界の後進性を「イスラム」によるものと断定した。彼らは、ヨーロ
ッパの近代的発展は、宗教や文化としてキリスト教に本来備わっている優越性によるもの
と考えていた。フランスは、アルジェリアを足がかりにアフリカのキリスト教化を考える
ようになった。
フランス⇒アルジェリアからサハラ深部へと進出し、原地の住民たちにフランス語の使用
を強要していく。そして、1881年にはチュニジアを、また1912年にはモロッコを
保護領とした。
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フランス⇒19世紀の末までに、フランス、イタリア、スペインから20万人をアルジェ
リアに移住させ、アルジェリアの全耕地の40%にあたる230万ヘクタールの農地を開
墾させた。最も肥沃な土地は、ヨーロッパの農業会社に当てられた。
フランス⇒100万人以上の植民者(コロン)と莫大な資源をアルジェリアに投入したが、
フランスのアルジェリアに対する進出は、イスラムよりも優越していると考えられたキリ
スト教の宗教的情熱によっても裏づけられていた
※ヨーロッパ植民地主義はイスラム世界に地殻変動ももたらすことになり、イスラム世界
では二元的価値観が根づくことになった。チュニジアのあるムスリムは、ヨーロッパ植民
地主義によってもたらされた二元性とは、経済的にはスーク(市場)を中心とする伝統的
セクターとヨーロッパの商業スタイルに基づく近代セクター、また階層的には原地の民衆
とフランス植民者、また都市はメディナ(伝統的な商店街)とヨーロッパ・スタイルの市
街に分類されたものだと語った。
⇒アルジェリアでは、徹底的なフランスへの同化政策が図られる。アルジェリアは、チュ
ニジアやモロッコの「保護領」とは異なって、フランスの領土の一部とされてしまった。
アラビア語に代わってフランス語教育が行われた⇒また、イスラム法は廃止され、フラン
スの法律が導入される。さらに、ウラマー(イスラムの聖職者)は、教育、法、社会福祉
に対する管理を剥奪されることになった。こうしてフランス支配は、アルジェリア社会の
イスラム的性格を希薄にしていった。アルジェリアでは、1962年の独立時にはイスラ
ムの宗教学校すらなく、アルジェリア人の経営による教育機関は警察学校だけだった。
←このように、フランスの植民地支配は、伝統的意識の強いムスリムの目から見れば、単
に外国支配を受けただけでなく、文化的な「屈辱」をももたらした。イスラムの価値は多
いに損なわれ、イスラムに裏打ちされた社会は自然な発達を阻害された。つまり、フラン
スによっていきなり「文化革命」を強いられた状態となった。ヨーロッパ植民地主義は、
ムスリムの過去の栄光やプライドを傷つけるものばかりでなく、その物質主義的文化は、
イスラムに具現化された神聖な、宗教的原理に対する「脅威」とも保守的なムスリムたち
には感じ取られた。
アルジェリアの独立戦争⇒1954年11月に創設された「民族解放戦線(FLN)」によ
って担われた。民族解放戦線は、フランスの軍隊がベトナムでの戦争で士気が低下してい
たこともあって、緒戦は有利に抵抗を行うことができたが、しかし軍事的には近代的装備
をもつフランス軍が圧倒していた。広い領土を有し、石油や天然ガスなど資源に恵まれて
いたため、フランスは容易にアルジェリアの独立を認めようとしなかった。
※独立戦争で、アルジェリアでは、900万人の全人口のうちおよそ150万人のアルジ
ェリア人が命を落とし、また200万人が住む家を失った。また、アルジェリア人の都市
生活者のうち四分の三が職を喪失したと見積もられている。この背景にはフランス人の植
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民者がアルジェリアを離れたことが大きく影響していた。
アルジェリアの急進的なイスラム復興
独立後のアルジェリア政治を主に推進したのは、独立戦争の際に国外でFLNを指導して
いた幹部たちであった。この幹部たちは、政権の座に就くとすぐさま国民の表現の自由を
剥奪し、また労働組合を国家の強い統制下に置いたり、さらに政治犯に対して拷問を加え
たりするなど、独立戦争の成果を次第に踏みにじっていく。フランスの植民地支配の抑圧
に国内で激しく抵抗し、多くの犠牲を払ったアルジェリア人にとって、こうした「国外」
幹部の姿勢は許容し難いものであった。
フランス支配を受けたアルジェリアでは、イスラムの復興は意図的に急速に行なわれた。
学校ではイスラムの宗教教育が施され、北アフリカのムスリムの英雄伝なども教育の場で
教えられた。さらに、行政や教育を従来のフランス語からアラビア語に切り替える試みも
行なわれている。こうした社会や教育の再イスラム化は1990年代初頭までに完遂した
と見られている。
当初の重工業政策の成功⇒アルジェリアの都市化をもたらし、アルジェリアの農村人口は
全人口の3分の2から4分の1となった。さらに出生率は1962年から92年の30年
間に2%から3%に増加していった。84%の都市の人口は6歳から15歳の間の年齢と
なった。
1980年代になると、大半のアルジェリア人は独立後に生まれた世代となり、イスラム
がアルジェリア人の「新たな宗教」となった。アルジェリアにとって打撃だったのは、1
986年に始まる石油価格の下落だった。インフレや失業は深刻になり、こうした経済危
機を背景にして197年8に就任したシャドリ大統領は、1988年に民族解放戦線によ
る一党支配体制を放棄して、複数政党制への移行を明らかにした。このシャドリ政権によ
る多元化措置がとられた直後の89年3月にFIS(イスラム救国戦線)は結成されてい
る。
アルジェリアの社会・経済的混迷、また政治腐敗を背景にして、FISは各地において貧
困層に医療・教育など社会事業を与え、また多数のモスクで政治主張の浸透を図っていく。
政府の腐敗を糾弾し、不合理な政治・社会の是正を唱えるFISは、とくにアルジェリア
総人口の75%を占める職のない30歳以下の青年層の熱烈な支持を集めた。
こうしたFISの運動の高揚←アルジェリア独立戦争を担い、保守的な民族主義の立場を
とる軍隊の将校たちにとっては耐え難いものであった。FISがイスラムの普遍性を訴え
る以上、民族主義だけをことさら強調することはありえない。FISによる「民族主義」
の希薄化は軍の将校たちにとっては認められないことであり、またFISの勢力伸張は体
制内で軍がもつ経済などの既得権益を明らかに脅かすものであった。
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このように、軍部を中心とする体制側の抑圧があったものの、「選挙」という合法的な手段
によって政権の掌握を図るFISの方針に変化はなかった。1991年12月26日、ア
ルジェリア国家の総議席430のうち231議席を確定する総選挙の第一投票が行われ、
その結果FISは188議席を獲得し、圧勝した。翌年1月に行われる予定であった第二
次投票でFISによる政権掌握が確実視された。
←軍部の介入。シャドリ大統領は軍部の圧力によって辞任し、選挙自体も中止された。総
選挙のキャンセル後、FISの若い活動家たちは、
「GIA(武装イスラム集団)」などイス
ラム過激派組織に吸収されていった。これらの組織の中には七九年のソ連軍のアフガニス
タン侵攻後にアフガニスタンに赴き、ソ連軍と戦闘を行っていた「アフガニー」と呼ばれ
るアルジェリア出身の義勇兵たちも含まれていた。イスラム過激派組織の構成メンバーの
多くは内陸部の地方から沿岸の大都市に移住し、都市での劣悪な生活条件に失望してきた
青年層と見られている。
イスラムのマグレブにおけるアルカーイダ(AQIM)←マグレブ諸国、特にアルジェリ
アのイスラム過激派を統合した組織で、2003年のイラク戦争後なってその活動が目立
つようになった。マグレブ諸国における欧米人や欧米の関連施設を標的にしたり、イラク
にメンバーを送ったりするようになった。
AQIMの目標→当初は他の地域のイスラム組織と同様にアルジェリアの軍事政権を打倒
し、イスラム国家をアルジェリアに創設することにあった。しかし、AQIMは、次第に
世界的規模の闘争に訴え、マグレブ、西ヨーロッパ、イラクをその活動の視野に入れてい
く。AQIMは、イラク、ソマリア、チェチェンなどより広範な地域での活動と連帯を訴
えるようになった。AQIMの目標はアルカーイダと同一ものであることを訴えた。AQ
IMの指導者であるアブデルマレク・ドゥルークダールは、フランスとアメリカはアルジ
ェリアの不敬虔な政府を支持し、ムスリムに対する十字軍に専念していると訴える。
AQIM→軍に対して待ち伏せ攻撃を行ったり、トラックに搭載した爆弾を爆破させたり
して政府の施設を標的にしている。またサハラ砂漠を旅行する外国人を誘拐し、身代金を
得ることによって活動資金を得ていたとされている
AQIM→2006年12月にアルジェリア郊外で2台のバスを襲撃し、数人の外国人を
負傷させた。2007年4月にはアルジェで爆弾テロを起こし、23人を殺害した。20
07年12月にはアルジェで爆弾テロを行い、41人が亡くなったが、その中には一七人
の国連職員も含まれていた。2008年6月にはスペインの警察当局がAQIM の細胞を
摘発している。それに先立って2007年12月にはパリ郊外でAQIMの細胞が摘発を
受けた。AQIM の活動家は、イギリス、ドイツ、イタリア、ポルトガル、オランダで逮
捕されるなど、西ヨーロッパ全体に活動が広がっている様
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アルジェリア民主人民共和国 People's Democratic Republic of Algeria)
2008 年 4 月現在(外務省ホームページより)
一般事情
1.面積:238 万平方キロメートル(内、砂漠地帯約 200 万平方キロメートル)(アフリカ第
2 位)
2.人口: 3,349 万人(2006 年、IMF)(国土の 7%内に集中)
3.首都: アルジェ
4.民族・人種: アラブ人(80%)、ベルベル人(19%)、その他(1%)
5.言語: アラビア語(国語、公用語)、ベルベル語(国語)、フランス語(国民の間で広く
用いられている)
6.宗教: イスラム教(スンニー派)
7.略史
年月
略史
1962 年 7 月
フランスより独立(当時、人口は 1 千万人)。
1965 年 6 月
軍事クーデター、ブーメディエンヌ政権の成立。
1979 年 2 月
シャドリ大佐、大統領に就任。
1989 年 2 月
憲法改正。
1992 年 1 月
シャドリ大統領辞任。国家最高委員会設立。
1994 年 1 月
移行期間の大統領としてゼルーアル大統領就任。
1995 年 12 月
複数政党制下初の大統領選挙、ゼルーアル大統領が選出。
1996 年 11 月
憲法改正国民投票の実施、多数の支持により憲法改正案が承認。
1997 年 6 月
国民議会(下院)選挙が実施され下院が設立。
同国史上初めて複数政党で構成される国民議会が開会。
1997 年 12 月
国民評議会(上院)選挙が実施され、上院が設立。
1999 年 4 月
大統領選挙、ブーテフリカ大統領が選出。
2002 年 5 月
国民議会(下院)選挙を実施。
2002 年 10 月
統一地方選挙を実施。
2003 年 5 月
ブメルデス県を震源地とする大規模地震が発生。
2004 年 4 月
大統領選挙、ブーテフリカ大統領が再選。
2007 年 5 月
国民議会(下院)選挙を実施。
2007 年 11 月
統一地方選挙を実施。
政治体制・内政
1.政体: 共和制
2.元首: ブーテフリカ大統領(1999 年 4 月~)
3.議会: 従来、一院制であったが、1996 年 11 月の憲法改正により二院制に移行
4.政府
(1)首相 アブデラズィズ・ベルハデム(2006 年 5 月~)
(2)外相 ムラド・メデルチ(2007 年 6 月~)
5.内政・治安
(1)1992 年よりイスラム原理主義過激派によるテロが活発化し、国内情勢は悪化。
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(2)1995 年、初の複数候補による大統領選挙で選出されたゼルーアル大統領は、テロ対
策の強化を含めた内政・治安情勢の正常化に尽力。
(3)一連の民主化プロセスが進められる中、1999 年 4 月に行われた大統領選挙でブーテ
フリカ大統領が選出。ブーテフリカ大統領は、国内テロにより悪くなったアルジェリ
アのイメージを改善するために、とりわけ G8 等先進諸国との外交を積極的に推進し、
2001 年 9 月 11 日のテロ以降、アルジェリアに対する先進国のイメージも改善されて
きている。
(4)また、ブーテフリカ大統領は、2006 年に実施された「平和と国民和解のための憲章」
に代表される国民和解政策、テロリストの掃討作戦等、内政・治安情勢の安定化や、
市場経済の導入による経済改革にも積極的に取り組んでいる。
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