1 イスラムの三日月地帯の紛争 -特にボスニア紛争を例に

 イ ス ラ ム の 三 日 月 地 帯 の 紛 争
- 特 に ボ ス ニ ア 紛 争 を 例 に し て -
Ⅰ 「 イ ス ラ ム の 脅 威 」 の 検 討
イスラム→キリスト教やユダヤ教など他の宗教や文明と対立する視点や行動は希薄
キリスト教世界との対立→オスマン帝国の衰退に伴うイギリス、フランス、ロシアなど 植民地主義勢力の進出を契機
オスマン帝国の弱体化を図り、帝国内のキリスト教徒(特に東欧のナショナリズムを煽り、
オスマン帝国と敵対させる→キリスト教徒、ムスリム・ユダヤ人の対立が明確に
ヨーロッパにおけるナショナリズムの発生や高揚→歴史的に見れば、イスラム世界とヨ ーロッパ・キリスト教世界の対立をもたらし、強めていくものであった
欧米諸国が経済的にも先進国であり続けるのに、イスラム諸国は社会・経済的矛盾を 深刻にさせるばかりであったという現実→ムスリムの欧米キリスト教世界へのコンプ レックスを増幅させる→こうしたムスリムの側にあるコンプレックスもまた、イスラ ム政治運動家などによる欧米の価値観を否定する動きにならざるを得ない
イスラム政治運動家たち→欧米法の導入や、欧米モデルの近代化が結局イスラム世界 の現実にそぐわず、むしろその後退をもたらすものと否定
北アフリカ、バルカン、パレスチナ、コーカサス、湾岸、インド・パキスタン、アフガ ニスタン、中央アジアに至る円弧を描く「イスラムの三日月」地帯→紛争が多発
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要因として、ハンチントンの「文明の衝突論」に見られるように、イスラムが紛争の中 心的役割を果たしていることが強調されがちであるが、むしろこれら地域の①政治の正 当性の問題、②経済構造の問題、あるいは③民族的要因など複雑な要因が絡んでいる
①政治の正当性の問題
政治腐敗、抑圧的政治、統治能力の欠如など
②経済構造の問題
国内格差(民族、地域、都市と農村など)
③民族的要因
民族的ファクター→「イスラムの三日月」地帯で紛争が発生する重要な要因
宗教=民族的アイデンティティーを構成する重要なファクター
キリスト教徒との「断層線」に位置するヨーロッパのムスリムたち→イスラムは民族 的アイデンティティーの根幹をなす→ボスニアの紛争では、人種や言語については同 系統であるにもかかわらず、宗教的相違がことさら強調され、セルビア人による「民 族浄化」も行われた。西欧で発生したナショナリズムに基づく「一民族=一国家」とい
う「国家的擬制」の中で、キリスト教徒がナショナリズム概念に強く訴えると、ムスリ
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ムの側でも「イスラム」という宗教に固執せざるを得ない
※「イスラムの三日月地帯」での紛争要因→イスラムという宗教そのものではなく、政 治、経済、民族などの要因、またこれらの要因が重なり合って紛争が引き起こされてい
る場合が多い
イスラム→多くの場合、民族的アイデンティティーの中核になったり、また国内経済格 差 が 顕 著 で あ る 場 合 、 社 会 的 平 等 を 説 く 宗 教 的 原 理 か ら イ ス ラ ム に 訴 え な が ら公正な富の配分を求める運動になったりする
※今後、「国民国家」概念に起因する各民族間の不平等な社会・経済状態、また国家間 の経済利権などをめぐる対立、パレスチナ問題、さらに国内経済格差、権威主義的体制
や政治腐敗などの問題が改善されない限りイスラムに訴える紛争や、イスラムに解決の
原理を求め、反欧米の立場をとるイスラム政治運動の成長は決して止むことはないであ
ろう
ボスニア紛争の当事者であった東方正教会キリスト教、ローマ・カトリック、またムス リムからなる対話→バルカン地域の平和の確立にとって重要であることは強調すべくも ない←これらの宗教の対話は、とりわけ民族主義的傾向が強いバルカンにおいて、その 傾
向を和らげることができるであろう。
Ⅱ バ ル カ ン ― 正 教 会 と イ ス ラ ム の 対 立 構 造
※東方キリスト教世界は、東ヨーロッパの民族性と結びついて発展した。すなわち、正教
会の発展は、各民族の文化を背景とするものであり、礼拝にはそれぞれの民族の言語が
使用されるようになった。そして、東方正教会は、地域における民族主義成長の媒介と
なり、当初はイスラムよりもローマや教皇に対して反目していたのである。この地域に
オスマン帝国が進出してくるに従い、ローマとの競合はなくなり、正教会は、オスマン
帝国の行政官との協力を余儀なくされる。
オスマン帝国支配下でクリスチャンの民族的アイデンティティーの維持に貢献したのは、や
はり正教会のキリスト教であり、さらに19世紀と20世紀に東欧におけるキリスト教
国家成立の運動の核となったのは、やはり正教会の信仰であった→このように、オスマ
ン帝国支配下で抑圧されていた正教会の活動は、ナショナリズムの高揚とともに、イス
ラムと敵対する歴史的伝統を育んできたといえ、それは西方のカトリック世界のイスラ
ムとの関わりとは明らかに異なっている。
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それゆえ、多様な民族が入り交じるバルカンのキリスト教とイスラムの境界は、最も感
情的な対立を孕み、両者の「文化の衝突」が顕著に表れているといえる。その対立は、
冷戦後のボスニア紛争で明確に表れたように、ソ連邦の崩壊はバルカンで長い間忘れら
れていた紛争要因を再び台頭させることになった。
Ⅲ ボ ス ニ ア ・ ヘ ル ツ ェ ゴ ビ ナ の イ ス ラ ム ― 「 文 明 の 衝 突 」 ?
旧ユーゴスラビアのムスリムは世俗化されており、1980年代の調査ではわずか1
8%のムスリムがイスラムの信仰を保持していると答えたが、しかし、ムスリムたちの文
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化的アイデンティティーの構成要素としてイスラムは重要であった。
アリジャ・イゼトベゴビッチ→1990年5月ボスニアのムスリム政党として「民主行動
党」を設立したが、この政党は世俗的な綱領をもっていたものの、そのイデオロギーはイ
スラムの復興を唱えるものであった⇒社会におけるイスラムの復興を説いた50ページの
「イスラム宣言」を出版したことによって、1983年にユーゴスラビア政府によって裁
判にかけられて有罪の判決を受け、1988年にようやく釈放された
民主行動党⇒1990年の総選挙で240議席中86議席を獲得したが、それに対して「セ
ルビア民主党」は72議席を、また「クロアチア民主共同体」は44議席を獲得し、それ
ぞれがボスニアの民族構成比に応じた投票を得た。この選挙結果は、国際社会から認知さ
れたが、しかしボスニアの統合を維持するための有効な国際的支援を得られずボスニアは
旧ユーゴの民族紛争の渦に巻き込まれていく。
イゼトゥベゴビッチ→多民族、多文化、多宗派の融和によって成立するボスニアの建設を
考えたが、この彼の考えに対して国際社会から十分な理解や支援が与えられることはなく、
ボスニアの各民族は、様々な国の支援を受けるようになった。
ボスニアのムスリムの精神的指導者であるムスタファ・エフェンディ・チェリチュ→「ボ
スニアで起こっていることは、ボスニアだけの問題ではない。ボスニアの戦争は世界的
な陰謀であり、これはムスリムが知らなければならないことなのである。ボスニアで起
こっていることはボスニアのムスリムだけの受難ではなく、世界のムスリムに対する屈
辱なのである。
イゼトベゴビッチの政府→イスラム世界と米国からの支援を得るようになった。クリント
ン政権は、紛争の責任をセルビア人勢力に課すことによって、ボスニア問題ではトルコ
と他のムスリム諸国と協調関係を築いた。
トルコ→ボスニア問題に関してムスリム勢力への支援を明らかにし、ヨーロッパ諸国の「二
重基準」を非難していく。アルバニアもまたイゼトゥベゴビッチ政権への支持を明らか
にし、アンカラとの軍事協力協定を締結し、米国に軍事施設の提供を行った。
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こうしたイスラム諸国の意向に敵対していたのは、ユーゴスラビア連邦、ギリシア、ロ
シア連邦など正統派キリスト教諸国であった。ゴルバチョフのソ連も、またエリツィン
のロシアもセルビア人勢力に対する支援を放棄することはなかった。また、ギリシアも
バルカンへのトルコの影響力が増大することを懸念していたが、こうした懸念は旧ユー
ゴのスラブ系住民が共通してもつ感情であった。
過激な傾向をもつ民族主義者はことさらトルコなどイスラム諸国の影響力拡大に対する懸
念を誇大に訴えていくようになる→たとえば、ボスニアのセルビア人司令官、ラトゥコ・
ムラジッチは、正統派キリスト教世界を分裂させ、破壊しようとするムスリムと欧米の「悪
魔のような」陰謀に対する警戒を訴え、その陰謀の次の標的はロシアになると語った。
ロシアの自由民主党のウラジミール・ジリノフスキー→1994年1月にボスニア国家の
正当性を認めないことを明からにし、セルビアに対する攻撃はロシアに対する攻撃である
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とまで発言するようになった。
ムスリム、正統派キリスト教勢力に次ぐ第三の勢力としてスロベニアとクロアチア→カト
リックとヨーロッパ文化の担い手であることを強調し、西欧文化の「砦」であることを訴
えた。ドイツはこれら二つの共和国のパトロンと見なされていたが、ヨーロッパ全体では
旧ユーゴ問題に関しては一つのまとまった方針がとれず、その結果ヨーロッパの外交方針
は控えめなものにならざるを得なかった。1995年を通じてEUの努力は、国連と協力
してユーゴ問題に関する交渉を途絶えさせない努力を継続し、平和維持と人道援助のため
の軍隊を派遣するというものになった。
ボスニア→結局ムスリムが支配するボスニア・ヘルツェゴビナと、セルビア共和国に分割
して統治されることになる
ボスニア紛争は、その多大な人命の犠牲とともに、ボスニアの周辺地域の人々にも深い傷
痕を残すことになった。(東部スレブレニツァでは1995年に6000人以上のムスリム
が虐殺された。犠牲者数は20万という見積もりもある。)
地中海やバルカン地域におけるイスラムとキリスト教を民族アイデンティティーの核とす
る諸民族の間にも深い溝を植えつけることになったことも確かである
※ボスニアの民族的対立感情は容易に払拭し得ないほど残り、ヨーロッパや、イスラム諸
国、またアメリカまで巻き込んだ紛争の火種として依然としてくすぶり続けている
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