第1ヨハネ書簡注解 - 日本キリスト教団出版局

NTJ ホームページ掲載 見本原稿
第 1 ヨハネ書簡注解
三浦 望
序文(1:1–4)
1
日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─第 1 ヨハネ書簡 三浦望(2014.10.16 公開)
1:1–4 翻訳
1:1–4 形態/構造/背景
d
序文(1:1–4)
ヨハ 1:1 e ヨハ 3:15-16; 10:28 f ヨハ 15:27 g ヨハ 16:22
2. 形態/構造/背景
紀元 4 世紀のエウセビオスによる『教会史』(Historia Ecclesiastica, II, XXIII.
24-25) では、Ⅰヨハネは既に「七つの公同書簡」(Catholic Epistles/General
1. 翻訳
1a
Epistles)のひとつとして受け入れられている。つまり、これはキリスト信徒
初めからあったもの、
一般に向けて送られた書簡であり、パウロの書簡とは異なり、特定の個人
わたしたちが聞いたもの、
や共同体に宛てられた書簡ではない。しかしながら、この書簡はギリシア・
わたしたちが 目で見たもの、
ローマ時代の手紙に共通した形式、また新約文書における書簡の形式を踏ん
わたしたちがよく見て、 わたしたちの手が触れたもの、
でいない。古代ギリシア・ローマ時代の手紙の形式は、Ⅰ前書き、Ⅱ本文、
生命の言について。
Ⅲ後書きの三部構成が基本であり、Ⅰの前書きは、さらに(1)Prescript(差
b
c
出人〔主格〕superscriptio、受取人〔与格〕adscriptio、前書きの挨拶 salutatio〔祝
2
─ この生命が現れました。
福の挨拶 caivrein の不定詞がよく使われる〕
)と、
(2)Proem(祝福の祈り eu;comai、
d
感謝の祈り euvcariskw/、 神への執成しの祈り mnei,an poiou,meno/j、喜びの表現 cara,,
御父のもとにあり、わたしたちに現れた
この 永遠の生命を、
e
evca,rhn)に分けられる。Ⅱ、Ⅲヨハネが一応こうした形式を踏襲しているの
わたしたちは見て、あなたがたに 証しし、
に対して、Ⅰヨハネは以下で詳しく述べるように特殊な始まりを呈してい
告げ知らせるのです。
る。しかも、Ⅱヨハネのように、特定の共同体(教会)に宛てられた手紙で
f
も、Ⅲヨハネのように特定の個人に宛てられた手紙でもなく、またⅠペト
3
わたしたちが見たもの、聞いたものを、
ロやコロサイのように、回覧状/回状(circular letter) でもない。しかしそ
あなたがたにも告げ知らせるのは、
うかと言って、純粋に文学的な作品、もしくは神学的な内容を取り扱う説
あなたがたも、わたしたちとの交わりに与るようになるためです。
教(homily)や訓話(sermon)でもない。差出人(書き手)は受取人(読み手)
わたしたちの交わりとは、
を意識して内容を構成しており、書き手には手紙を書く必要に迫られた具体
御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
的な状況があり、「書く」(gravfw, 2:1, 7, 8, 12, 13[2 回])・「書いた」(e;graya,
2:13, 14, 21, 26; 5:13)と手紙によるコミュニケーションであることを繰り返
4
そして、わたしたちがこれを書き送るのは、
わたしたちの 喜びが満ち溢れるようになるためなのです。
g
し、内容的にも牧会書簡や他の公同書簡と同様に司牧的勧告に終始している。
また、4 節で述べられる「喜び」は手紙の前書き(Proem) 特有の表現でも
ある。したがって、多少特殊であるとはいえ、「書簡」として取り扱うこと
a
c
2
ヨハ 1:1 ヨハ 1:14
b
が適切であると言える。
ルカ 24:39; Ⅰコリ 2:9; トマス福音書 17; クレメンスの第一の手紙 34:8
3
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1:1–4 形態/構造/背景
1:1–4 形態/構造/背景
しかしながら、書簡の形式で冒頭に来る「前書き」の代わりに、この書簡
1:1「わたしたちが目で見たもの、わ 1:14「わたしたちはその栄光を見た」
たしたちがよく見て」
(evqeasa,meqa th.n do,xan auvtou/)
(o] e`wra,kamen toi/j ovfqalmoi/j h`mw/n(
o] evqeasa,meqa)
は「序文」で始まっている。
「序文」は、一般的に著作・文章の導入部とし
て本文から区別され、本文の内容を要約する役目を果たす場合もあるが、こ
こでの「序文」は後述するように、ヨハネ福音書の「序文」(ヨハ 1:1-18)を
意識してこれに倣ったものを書簡の初めに置いたと思われる。(この意味でも
書簡の形式を踏んでいない。)
ここで取り扱う 1:1-4 は、Ⅰヨハネにおいては「序文」として機能してい
る。既に書簡全体の構成で述べたように(「ヨハネ第一書簡の構造」参照)、Ⅰ
1:1「生命の言について」
(peri. tou/ lo,gou th/j zwh/j)
1:2「この生命が現れました」
(h` zwh. evfanerw,qh)
ヨハネの全体の構成については、研究者の間で意見が一致していない。し
かし、少なくとも 1:1-4 に関する部分についてだけは、手紙全体の中で一
つのまとまりを構成しているという点で、ほとんどの研究者が同意してい
る。その一方で、序文の構成自体に関しては、研究者の間でも意見が分か
れている。手紙の冒頭部分に重要な神学的テーマを盛り込むために重ねて
手を加えた結果が、このような複雑な文法に至ったとする研究者もいれば
(大貫 1989:609)、支離滅裂であるとしてこの部分を否定的に評価する研究者
1:2「御父のもとにあり」
1:1「神と共にあった」
h=
n
pro.
j
to.
n
pate,
r
a
(
)
(h=n pro.j to.n qeo,n)
1:3「御父と御子イエス・キリストと 1:14「父の独り子」
の……」
(monogenou/j para. patro,j)
(meta. tou/ patro.j kai. meta. tou/ ui`ou/ 1:17「イエス・キリスト(を通して)」
auvtou/ VIhsou/ Cristou/)
(VIhsou/ Cristou)
1:18「父のふところにいる独り子であ
る神」
(monogenh.j qeo.j o` w'n eivj to.n ko,lpon
tou/ patro.j)
もいる(Kyser 1986:30-34)。多くの場合、何らかの意図的構成やパターンを
見出し、肯定的な評価を試みている(Brown/Freedman 1964:153, 177; Morgan
2005:55-75; 津村 2006:24-28)。また、この序文の構成については、
「囲い込み」
(inclusio)や「交差法」(chiasmus)などが計算されて配置されているという
よりは、後述するように聴覚に訴える効果を狙って音とリズムが重視されて
いるように思われる。
手紙の差出人がヨハネ福音書の序文を意識してこの部分を構成しているこ
1:4「言葉のうちに生命があった」
(evn auvtw|/ zwh. hn)
1:14「言葉は肉となって、わたしたち
の間に宿られた」
(o` lo,goj sa.rx evge,neto kai. evskh,nwsen
evn h`mi/n)
1:5「神は光」(o` qeo.j fw/j evstin)
1:4 「生命は人間たちの光であった」
(h` zwh. hn to. fw/j tw/n avnqrw,pwn)
1:5「神には闇がまったくない」
1:5「光は闇の中で輝いている」
(skoti,a evn auvtw|/ ouvk e;stin ouvdemi,a)
(to. fw/j evn th|/ skoti,a| fai,nei)
とは、以下の通り、使用されている語句の並行性からも明らかである。
さらに、イエス・キリストの在りようを語る際に使用される eivmi, 動詞の未完
【Ⅰヨハネ 1:1-4(5)とヨハネ 1:1-18 における語句の並行性】
了形、
「わたしたち」(一人称複数)という目撃者としての共同体意識、神と
イエス・キリストの父子関係、そして目撃証言を語る際のアオリスト形の使
Ⅰヨハネ 1:1-4(5)
1:1「初めから」(avpV avrch/j)
4
ヨハネ 1:1-18
1:1「初めに」(VEn avrch|/)
用など、福音書と手紙の序文が、語句・時制レベルにおいても神学的内容に
おいても相互に関連していることは否めない。事実、Ⅰヨハネ 1:1-4 は、ヨ
ハネ 1:1-18 を下敷き(背景) として読まなければ、その意味内容の理解は
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1:1–4 形態/構造/背景
1:1–4 形態/構造/背景
極めて困難である。手紙の序文は、ヨハネ福音書序文についての神学的敷
に最後の「生命の言について」が、それらをまとめていると言えよう。
衍・展開であり、福音書序文の神学を前提とし、その一部分(受肉、父子関
しかしさらに、これに続く 1:2 の挿入文がこの文章構造をことさら複雑に
係、目撃証言)を独自の方向で強調する内容となっている。(詳細は「ヨハネ
している。ここは、1 節の最後に登場した「生命の言」を kai, が引き継いで
の第一書簡とヨハネ福音書の関係」を参照のこと。)
「生命」について敷衍する文であるが、3 節との間に突然別の独立文が挿入
1:1-4 は、文法的には複雑な破格構文(anacoluthon) となっている。冒頭
されたと見做すしかない。ネストレ = アーラント第 28 版でも、ここにダッ
から、先行詞のない 4 つの中性の単数関係代名詞が同格で続く。ほとんど
シュを挿入して、前後の 1 節および 3 節と便宜上区分している。(新共同訳
の翻訳では、続く 3 節に登場する動詞「告げ知らせる」(avpagge,llomen)がこ
など、ほとんどの邦訳がこれに沿い、翻訳文にもダッシュを加えている。)
れらを総括すると解釈し、ここに動詞を挿入した訳となっている(新共同
文法的に見て 1-4 節は、完結した一文となっておらず、詩のように句を重
訳「…を伝えます」、他)。しかし、o[ で始まる 4 つの関係代名詞の相互関係
ねている。近年の研究ではむしろ、手紙の序文は聴覚に訴える効果を目指し、
も、① 4 つを同格とし、3 節の動詞「告げ知らせる」(avpagge,llomen) と結び
音とリズムを強調して相乗効果を重視した詩文のように構成されたとしてい
つける解釈(Dodd, Brown, Schnackenburg, Strecker, 他多数)、および②最初の
る(Watson 1993:99-123; Dudrey 2003:235-255; Brickle 2012:1-5)。ここでの翻訳
「初めからあったもの」を次の 3 つの主格とみなす解釈(Smalley 1984:3; Culy
文も序文としての原文音読のテンポを考慮し、ギリシア語原典の語順をでき
2004:2)に分かれている。関係代名詞で表現される 4 つの同格を、3 節の動
るだけそのままにして翻訳を試みた。
詞の目的語とし、これらの同格を avpagge,llomen とつなげて解釈するとしても、
他方、こうした文法的な破格を度外視すれば、序文として伝えたい内容は
この動詞には別の目的語(「わたしたちが見たもの、聞いたもの」)があり、さ
明確である。福音書の序文を念頭に置き、イエス・キリストがこの世に受肉
らに続く i[na 以下(「あなたがたも、わたしたちとの交わりに与かるようになる
し、われわれが具体的に認識できる人間として現れたことを宣言し、その目
ためです」) を修飾し、メッセージを伝える目的を語っている。そして、関
撃証言を伝える「わたしたち」という信仰共同体の中に「あなたがた」を招
係代名詞(o[)がいずれも中性単数形であることから、同格の関係代名詞で
き入れること、そしてこの信仰共同体の「交わり」によって「わたしたちの
欠けている先行詞は(少なくとも文法的には)
「ロゴス(言)」(o` lo,goj, 男性単
喜び」が満ち
れるようになることを宣言しているのである。
数名詞)/「生命」
(h` zwh,, 女性単数名詞)のいずれでもない。確かに、ヨハ
ネ福音書においては中性関係代名詞が男性名詞として取り扱われる例は見ら
書簡の差出人・受取人、第一書簡の背景
れるが(ヨハ 3:5-6; 4:22-23; 6:37, 39-40; 17:2, 9-10、Schnackenburg [1984]1992:57;
Ⅱ、Ⅲヨハネが「長老」と名乗る人物からの手紙であるのに対して、Ⅰヨ
津村 25)、これらの事例によって序文の文法的破格を説明するには少々説得
ハネには差出人も受取人も無名のままであり、手紙が記された場所等につい
力に欠ける。
ても一切の記載がない。Ⅰヨハネは多くの点で謎に満ちており、これが意図
また、1 節の最後には、これらの関係代名詞とつながらない「生命の言に
的になされていることは、以下で取り扱う「一人称複数」(「わたしたち」)の
ついて」(peri. tou/ lo,gou th/j zwh/j)が登場する。明らかに、先行する 4 つの同
問題と併せて、内容解釈上極めて重要なことである。差出人は、受取人を
格を敷衍するものでありながら、前置詞 peri. +属格はこれまでの流れと文
「子供たち」と呼ぶが、それが具体的にどのような関わりであるかについて
法的に違和感をもたらす。おそらく連続する中性関係代名詞句は、書き手が
は、テクスト本文からは浮かび上がってこない。また、1:1-4 で繰り返され
伝えたいメッセージそのもの(全体)を指していると推察され、それが「生
る「わたしたち」と差出人(おそらく個人)の関係も不明である。公同書簡
命の言」で端的に表現されていると解釈できよう。したがって、意味内容的
ではありながら、書簡が読まれる場所で「離散した」(Ⅰペト 1:1)信徒一般
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1:1–4 形態/構造/背景
1:1–4 形態/構造/背景
誰にでも向けられた手紙であるとも言い難く(その点、Ⅰペトロと事情が異な
つ、愛情に満ちた奨励・勧告的な内容を重視した解釈を再評価する傾向が近
る)
、他方で受取人との「交わり」を構築することを目的としている。Ⅰヨ
年の研究者の間で復活している(Perkins 1979; Lieu 1981/2008; Schmid 2004:24-
ハネは、特定の教えに慣れ親しんでいる特定の共同体の存在が前提とされて
41 他多数)。
おり、この共同体の結束をさらに固めることが目指されている。
序文においては、共同体が伝統的に共有・継承する理解として、イエス・
このようにテクスト本文が極めて朧げな概要しか提示していない以上、ガ
キリストの在りよう(本質)を端的に要約し、これを高らかに謳歌・宣言す
ラテヤやⅠコリントと同じように共同体の歴史的状況を詳細に推察し、それ
る。そこから、この神との関わり(「交わり」1:3)において、信従者たちが
を解釈の土台とするにはかなりの注意が必要であろう。20 世紀初頭までの
どのように生きるべきかという倫理的勧告が続く。したがって、ヨハネ書簡
注釈書では、こうした解釈上の留意事項がある程度了解されていた(Westcott
はその構成において例外的で複雑な形になってはいるが、基本的にパウロの
1886:xxxix; Brook 1912:xxvii)。 し か し、Law(1909:25) の 提 唱 以 来、 論 敵
書簡と同じように、神学的核心の主張で始まり(例えば、ロマ 1-11)、そして
に焦点を当てた研究が増え、特に、Bultmann(1973:XXX)の影響下、ヨハ
それを基礎として倫理的勧告を行う(ロマ 12-16)のと似たような構成を提
ネ福音書研究で編集史批評(redaction criticism)が中心的であった時代には、
示している。しかしながら、その壮大な序文の内容に対して、手紙の作者は
手紙は分離主義者たちのグノーシス主義(仮現論)的なキリスト論に対抗し
終始素朴な語りで、実際的かつ倫理的な勧告を行っている。ギリシア語的に
て、キリストの人間性、受肉を強調する神学的意図で書かれたとする解釈が
もレトリックに優れた格調高い文章とは掛け離れており、ヨハネ福音書と比
主流になり、1970 から 90 年代までは、手紙が念頭に置いている「論敵」の
較してもその素朴さは明らかである。初級聖書ギリシア語のテクストとして
存在を意識して手紙の内容そのものを解釈する研究や、論敵の正体を歴史的
ちょうどよいぐらいの限定された語彙と文法・文章構造を駆使して、司牧的
に推察する研究がほとんどであった。特に、この序文自体も「論敵」の主張
な内容の諭し・奨励に終始している。書簡の思考的展開も、似たような事柄
に対抗するために、敢えてこのような知覚動詞を列挙したと解釈される傾向
の繰り返しが多く、取り上げられるテーマもスパイラル(螺旋的)に焦点が
にあった(Brown 175; Schnackenburg 17-24 参照のこと)。
移行しつつ展開する特徴がある。
しかし、ここ数十年は、こうした「論敵」/「論争」を中心とした解釈の
偏重を修正する方向に動いている(「近年のヨハネ書簡の研究動向」を参照のこ
と)
。
「論敵」の存在と論争に焦点を絞り過ぎると、書簡が本来主張している
3. 注解
神学的内容の意味合いを誤解しかねない。書簡は論敵を論駁する目的で書か
れていると言うよりは、離反者たちが去った後の共同体の傷を癒し、
「初め
「注解」は 11 月公開予定です。
から」という信仰の原点に戻り、お互いの信仰と結束を新たにすることを目
的としている。この意味で、この書簡は、受取人である共同体の信徒たちに
対する伝承的な教えの勧告文であり、その教えに留まり信仰を保つことの重
要性を司牧的に励まし諭すことを目的としているからである。もちろん、Ⅰ
「惑わすものたち」2:26、
「偽
ヨハネテクストが「論敵」(「反キリスト」2:18-19、
預言者」4:1ff 等)の存在を意識し、離反者たちを見据えて、これに対処しな
ければならない状況を抱えていることを否定するわけではないが、書簡が持
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