ヨハネ福音書6章41~51節

主 日集会 2014.6.22
天から下って来た生けるパン
イエスはヨセフの息子である、と彼らは決め込んでいた。もちろん、この点で彼らは間違っていた。イエスは処
たい
女マリヤから生まれ、ヨセフはイエスの父ではなかった。むしろ、私たちの主は聖霊によって胎に宿られたのであ
ふくい んしよ
あん ぐ
ヨハネ福音書6:41-51
じん
てん
くだ
き
ほんせい
い
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、
い
こ
ちち
はは
し
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエ
かれ
てん
くだ
き
い
スではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
かれ
こた
い
ちち
ひ
よ
よみがえらせます(43-44節)
く
6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることは
お
ひ
しよ
かれ
かみ
益であるかを説明する。ユダヤ人たちが主イエスのあかしを拒絶すればするほど、主の教えは難解なものとなった。
おし
か
ちち
6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父
き
まな
もの
き
み
もの
かみ
で
もの
もの
ちち
み
6:46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見
つ
しん
もの
えいえん
も
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
ふ
そ
あ ら の
た
てん
くだ
き
た
くだ
き
い
た
えいえん
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠
い
あた
よ
にく
に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
eva,n tij
if
anyone
the bread
evk
fa,gh| evk tou,tou tou/ a;rtou
eats
of
this
a;rtoj de. o]n evgw. dw,sw
bread
o`
and which
I
tou/
- living the〔one〕 out of
will give
-
-
zh,sei
bread,
ouvranou/
he will live
heaven
kataba,j¥ |
of me
is
for
えらせる」という約束をつけ加えられた。以前見たように、これは、キリストが聖徒を迎えに来臨されることを指
the
age;
学んだ者はみな、わたしのところに来ます(45節)
kai. o`
indeed the
h` sa,rx mou, evstin u`pe.r th/j tou/ ko,smou zwh/j)
the flesh
その願いを持つということもあり得なかっただろう。主は改めて、真の信者をひとり残らず「終わりの日によみが
(3)預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて
having come down:
eivj to.n aivw/na(
to
を受け入れるか、それとも拒むかの選択肢は私たちにある。しかし、そもそも私たちの心に神が語られなかったら、
す。その時、死者はよみがえり、生きている者は姿が変えられる。
(6:51)ギリシャ語・英語/行間訳
evgw, eivmi o` a;rtoj o` zw/n
人は、この節がわかりにくい、と言う。人間が仮に救いを望んでも、結局不可能かもしれないと、この節が教えて
身のみもとに引き寄せようとして下さったお方であることを、最大級の強い表現で教えているのである。主イエス
し
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
てん
心と人生に働きかけて下さらなければ、自分の恐るべき罪過と救い主の必要性に気づくことも決してない。多くの
いると考えるのである。そうではない。この節は、神がまず私たちの人生に働きかけて下さったこと、そしてご自
し
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
am
かいもくけんとう
とを主が解き明かそうとした場合、何をおっしゃっているのか、皆目見当もつかないことだろう。
人間は自分自身では全く絶望的で無力な存在である。自力でイエスのもとに来る力さえもない。御父がまずその
たのです。
I
「光を拒めば、暗いのは道理」なのである。彼らが福音をあざけるのに比例して、福音を受け入れることは困難に
なっていった。もし、主が簡単なことを話しておられるのに彼らが信じないのであれば、それよりもむずかしいこ
から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
ちち
主は、ここで「互いにつぶやくのはやめなさい」と言われた。以下の節は、なぜ彼らのつぶやきが無用であり無
ひと
できません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
よ げんしや
(2)イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄
せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人を
たが
6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
つか
この世に来られた神の御子であると受け入れることを拒否する人は、キリストの本性およびみわざに関する偉大な
真理をことごとく否認せざるを得なくなるのである。
イエスについてつぶやいた。
かれ
たい
る。処女降誕を信じないために、彼らは暗愚と不信仰に陥った。今日も同じである。主イエスが乙女の胎を通して
the
of
world
life.
主はイザヤ54:13「彼らはみな神によって教えられる」を引用される。神はみことばの教えを通して人々の心に
語りかけられる。
人間の意志もそこにかかわりを持つ。神のみことばの教えに応答し、また御父から学ぶ人が、すなわちキリスト
のもとに来る人である。ここでもまた、神の主権と人間の意志、という二つの偉大な真理が聖書で対比されている
のを見る。救いには神の側と同時に人間の側があることを示しているのである。
【祈りながら考えよう】
(1)ユダヤ人たちは主イエスについて、何をつぶやいているのですか。
(2)人間は自力で主イエスのもとに来る力がないのに、主イエスを信じることが出来るように
なるのはなぜですか。
(4)だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます(46-47節)
神によって教えられる人、とはすべて主イエス・キリストのことを教えられる人のことである。神の教えの中心
的主題はキリストご自身だからである。
47節は、救われる方法に関する記述としては、聖書のすべてを通じて、最も簡潔で明瞭なものの1つである。誤
(3)天から下って来たパンであるイエスは、どのようにして私たちにいのちを与えることが出
来るのですか。
【解
説】
(1)ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスに
解しようにもそうできないことばで、ご自身を「信じる」人はだれでも「永遠のいのちを持つ」
、と主イエスは言わ
あま た
れた。「まことに、まことに」という強調のことばが、以下の重要なことばの導入となっている。新約聖書は数多の
場所で、行いや、律法の遵守、教会の会員となること、また黄金律を守ることによって救われるのではなく、ただ
単純に主イエスを信じることによる、と教えているが、これはその1つである。
ついてつぶやいた。彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、その
イエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。
」(41-42節)
(5)わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました(48-49節)
イエスは、ご自分が「天から下って来たパン」だと主張された。これがただならない主張であることにユダヤ人
ここで、主イエスは今まで話してきた「いのちのパン」とはご自身のことである、と述べられる。
「いのちのパン」
たちは気がついた。「天から下る」というのは、単なる人間、または偉大な預言者であってもできることではない。
とは、言うまでもなく、食べる人にいのちを与えるパンのことである。ユダヤ人たちは先ほど、
「荒野」のマナのこ
そこで、そのことばを受け入れる思いのない彼らは、イエスについて不平をこぼしたのである。
とを持ち出して、それに匹敵するようなすばらしい食物を出してみよ、と主イエスに挑んだ。ここで主は、そのマ
-1-
-2-
主 日集会 2014.6.22
ナを荒野で食べた彼らの父祖たちは、死んでしまったではないか、と指摘された。つまり、マナはこの世でのいの
ちを支えたにすぎなかったのである。食べる者に永遠のいのちを与える力はマナにはなかった。
(6)しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです(50節)
主イエスは、マナと対比して、ご自身のことを「天から下って来たパン」と表現された。だれでもこのパンを食
べるなら「死ぬこと」はない、というのである。とは言っても、肉体が死なない、という意味ではなく、天におい
て永遠のいのちを持つに至る、という意味である。仮に肉体が死んでも、体は終わりの日によみがえり、主ととも
に永遠に過ごすようになるのである。
この節と以下の節において、主イエスは、ご自身を食することについて繰り返し語られた。いったい、何を言お
うとされたのだろうか。文字通り、物理的な意味において人がイエスを食べなければならない、というのだろうか。
言うまでもなく、そのような考えは論外であり、嫌悪すべきものである。しかし、パン裂き集会(聖餐式)で主を
食さなければならないことを主がここで教えられた、という見解もある。つまり、何らかの奇跡的な方法でパンと
ぶどう酒はキリストの肉体と血に変わるのであり、救われるためには、そのパンとぶどう酒にあずからなければな
らない、というのである。しかし、イエスが言われたのはそのようなことではない。前後関係から見て、キリスト
を食する、というのがキリストを信じることである、というのは、はっきりしている。主イエス・キリストを救い
主として信じる私たちは、信仰によって、主を自分の中に摂取しているのである。主ご自身とそのみわざの恩恵に
あずかっているのである。
(7)わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
」(51節)
イエスは「生けるパン」である。ご自身が生きておられる、というだけではなく、いのちを分与されるというの
である。「このパン」を食べる者は「永遠に生きる」。しかし、どのようにしてそんなことが可能なのだろうか。ど
のようにして主が、さばかれるべき罪人に永遠のいのちを与えることができるのだろうか。その答えは、この節の
後半にある。「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。ここで、主イエスは十字
架上でのご自身の死を予見しておられる。
主はご自身の「いのち」を罪人の贖い代として差し出そうとしておられる。主の体は砕かれ、その血は罪のいけ
にえとして注ぎ出されることになっていた。私たちの罪の身代わりの刑罰を、主は受けることになっていた。
しかし、どうして主はそのようなことをなさるのだろうか。この世の私たちが救われるためにそうされた。主が
死なれるのはユダヤ人のためだけでもなければ、選民のためだけでもない。主の死は全世界の人をカバーするだけ
の十分な価値がある。もちろん、全世界の人がみな救われる、という意味ではなく、もしすべての人がイエスのも
とに来たとしても、十字架の主イエスのみわざには、全世界の人を救う十分な価値がある、という意味である。
-3-
-4-