NTJ ホームページ掲載 見本原稿 ヘブライ書注解

1:1–4 注解(1:3)
〈1:3a〉
NTJ ホームページ掲載 見本原稿
「子は神の栄光の反映、神の本質の刻印であり」
1:3 は、
「その者は」という意味の関係代名詞 o]j で始まり、ここから主語
ヘブライ書注解
は「神」から「子」に変化する。すでに述べたように、多くの学者が 1:3 の
中野 実
定する。たしかに 1:3 に見られる関係代名詞 o]j による導入はキリスト讃歌
背後に初期キリスト教会の礼拝において用いられたキリスト讃歌の存在を想
においてよく見られる特徴であり(フィリ 2:6; コロ 1:15; Ⅰテモ 3:16 を参照)、
さらに 1:3 にはヘブライ書の他の箇所では用いられていない珍しい語(「反
映」avpau,gasma、
「刻印」carakth,r)あるいは表現(
「万物を担う」
、コロ 1:17 を参
照)が見られる。これらの点に鑑みると、1:3 においてヘブライ書の著者は
序文(1:1–4)
キリスト讃歌のようなものを伝承として受け、それを用いている可能性は高
い。しかし、本注解においては、そのような伝承史的な問題にはこれ以上立
ち入ることをせず、むしろヘブライ書の著者が伝承素材を用いつつ、それを
通して何を主張しようとしているかに焦点をしぼりたい。
1:2b において明らかになったように、「子」は世界の初めから終わりまで、
より具体的に言えば、世界の創造の仲保者として、また万物の相続者、統治
者としてすべてに関与される方である。その永遠的な存在である「子」に関
する第三のポイントが 1:3a において、eivmi, の現在分詞 w;n に導かれつつ、語
られる。その際、永遠に変わらない「子」の本性が父なる「神」との関係に
* 2 節までの注解はすでに公開しています。
おいて明らかにされる。それによれば、「子」は「神の栄光の反映」および
「神の本質の刻印」である。これらの表現は別々のことを述べているという
より、むしろ互いに並行関係にあるので、同じ事を別の表現で言い換えてい
る、と考えるのが妥当であろう。
そこでまず、「神の栄光の反映」という表現に注目したい。「栄光」(do,xa)
は、旧約以来新約に至るまで、神ないし天の現実を言い表す典型的な表現の
一つである(ルカ 2:9, 14; ヨハ 1:14 など多数。Attridge 1989:43 参照)。ヘブラ
イ書では、他の新約文書と同様に、栄光は神の「子」であるイエス・キリス
トを特徴づけるものでもあり(2:7, 9; 3:3)、さらには信仰者もそのような神
的栄光へと導かれると約束される(2:10)。
「反映」と訳したギリシア語は、avpau,gasma で、ヘブライ書のみならず、
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新約聖書全体でもここにしか出て来ない語(hapax legomenon)である。ここ
〔= avpau,gasma〕は、ここでは目に見える光、もしくは私たちの目に耐えられ
では、自ら輝く光という能動的な意味にとって「光輝」
「光線」などと訳す
る明るさ、という意味にほかならない」(カルヴァン『新約聖書註解 XIII ヘブ
べきか、あるいは受動的な意味にとって神の栄光の「反射」
「反映」などと
ル・ヤコブ書』久米あつみ訳、新教出版社、2005 年、82 頁参照)。
訳すべきか、しばしば議論になる。古代教会の教父たちはむしろ、これを能
次に、「神の本質の刻印」という表現に目を移したい。ここで「本質」と
動的に理解した。例えば、ヨアンネス・クリュソストモスは『ヘブライ書講
訳したギリシア語は、u`po,stasij である。語源にさかのぼれば、「∼の下に立
話』(2:2 に関する箇所)において「子」を(4 世紀のニカイア信条からの表現を
つもの」という意味であり、そこから派生する色々な意味合いで用いられる。
用いて)
「光からの光」(fw/j evk fwto,j)と呼んでいる(Kittel,“avpau,gasma”508、
例えば、「支え」
「土台」
、
「基礎」といった語源に近い意味合いから、
「実体」
Heen and Krey 2005:10)。しかし、この箇所の宗教史的背景としてしばしば引
「現実」
「企て」「計画」「保証」「確信」という意味合いまで様々である。新
き合いに出される旧約外典『ソロモンの知恵』7:25–26 を見てみると、受動
約聖書での用例は少なく、以下の通りである(Ⅱコリ 9:4; 11:17; ヘブ 3:14;
的にとる可能性も十分にある。それによれば、知恵は「神の力の息吹、全能
11:1)。紀元 4 世紀になると、三位一体論に関する議論の中で、u`po,stasij は
者の栄光(do,xa)から発する純粋な輝きであるから、汚れたものは何ひとつ
神の「位格」を表わす語として用いられるようになるが、そのような意味合
その中に入り込まない。知恵は永遠の光の反映(avpau,gasma)、神の働きを映
いをヘブライ書に読み込むことはできない。この箇所は、1:3a 前半の「神
す曇りのない鏡、神の善の姿」(新共同訳、旧約続編『知恵の書』7:25–26)で
の栄光の反映」と並行関係にあり、神の「栄光」と対応していることを考慮
ある。avpau,gasma はそこで、鏡のイメージと共に用いられており、知恵は
して、ここでは u`po,stasij を(神の)「本質」あるいは「実体」と訳しておき
神の光を照り返す「反射」
「反映」の意味で理解されているようである。ま
たい。
たヘブライ書を用いている最古の証言と多くの学者が見なす(本書の緒論を
ここで「刻印」と訳したギリシア語は、carakth,r である。これも、新
参照)使徒教父文書『クレメンスの手紙Ⅰ』36:2 において、この箇所(1:3)
約聖書ではここでしか用いられていない珍しい語(hapax)である。これは、
への言及が見出される(「この方は神の主権の反映〔avpau,gasma〕であり」)。そ
印鑑の(押されてできた)刻印、印影のことを意味する。「子」が神の本質の
の文脈でも「子」は神の御顔を映し出す鏡のような存在だと見なされている
「刻印」であるという事は、
「子」が神の本質と一致することを示すと同時に、
が故に、第一クレメンスにおいても「反映」
「反射」という意味で理解され
「子」を通して神の本質、実体が目に見える仕方でこの世に対して完全に表
ているように思われる。いずれにせよ、ヘブライ書では、後の教会教父たち
わされていることを意味する。
が問題にしたような、父なる神と同質の「子」の本性といった事柄が問題に
なっているのではない。むしろ、
「子」を通して神の言葉が伝えられ、
「子」
〈1:3b〉
を通していかに神の栄光が映し出され、人間に啓示されるかという出来事に
「その力ある言葉によって万物を担いつつ」
より関心が向けられている。また、次に続く「神の本質の刻印」との関連で
1:3b では、fe,rwn という分詞(動詞 fe,rw の現在分詞)に導かれつつ、「子」
考えると、神の栄光を反射する「子」の独自な啓示的役割にヘブライ書の関
のアイデンティティに関する第四のポイントが語られる。1:3a における第
心はあるように思える。それ故、ここでは「反映」という訳を採用しておき
三のポイントと同様、現在分詞が用いられているが、それによってここでは
たい。この関連で興味深いのは、カルヴァンの解説である。
「神の本体の中
「子」の現在の働きについて語られる。
に光輝はあまりに強く輝くので、キリストを通して照らされるのでなければ、
ここで「万物」と訳した ta. pa,nta は、明らかに 1:2b の「万物」(pa,nta)
私たちの眼はこの光輝でくらんでしまう。……『輝き』と訳したギリシア語
および「世界」(aivw/nej)と密接にむすびついている。すなわち、永遠的存在
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である「子」が相続するように定められた「万物」
、およびすでに創造にお
しかし、ヘブライ 1:3b において興味深いのは、そのような万物の保持の
いて仲保者として関わった「世界」を、「子」は今や担い、導く働きをして
業が「子」に帰されている点である。父である神と子である方(=イエス)
いる、という事実を 1:3b は語っている。
が創造の業においてのみならず、万物の保持の業においても結びついている。
ここで理解のむずかしい点は、(ここでは「担う」と訳した) 動詞 fe,rw の
このようなキリスト論的思索の背景には、しばしば指摘されるように、神の
厳密な意味合いである。最も基本的な意味は「運ぶ」
「担う」であり、ヘブ
属性である、人格化された知恵やロゴスに関する思索があると考えられる。
ライ書でも数回用いられる。しかし、それぞれに独特な意味合いが加えら
例えば『ソロモンの知恵』において、人格化された知恵が万物の保持者とし
れている。例えば、6:1 では受動態で、(ある目標へ向かって)「動かされる」
て描かれている。「知恵はひとりであってもすべてができ、自らは変わらず
「進む」という意味合いで、9:16 では「運び出す」という意味から派生して、
にすべてを新たにし、世々にわたって清い魂に移り住み、神の友と預言者と
法的な概念として「正式に確立する」という意味合いで(Attridge 1989:256)、
を育成する」(7:27)、「知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、慈し
さらに 12:20 および 13:13 では「耐える」という意味合いで用いられている。
(8:1)。神のロゴスによる世界の保持に関しては、
み深くすべてをつかさどる」
では、1:3b における「万物を担う」とは、一体どういう意味なのであろ
フィロン『夢』(De Somniis)1:241 を参照。以上のような知恵やロゴスをめ
うか? この表現の背景には、万物の創造者である神が、万物の存続のため
ぐる初期ユダヤ教の思索を原動力とし、初期キリスト教の霊的な礼拝を「生
に配慮し、その秩序を維持し、守るという信仰(creatio continua)があると思
活の座」(Sitz im Leben)としながら、キリスト論的な思索は展開され、神の
われる。唯一の神が創造者(creator)にして保持者(sustainer)でもあるとの
子イエスは万物の創造者にして保持者である神を体現する存在である、とす
信仰は、旧約聖書、初期ユダヤ教文書の中にすでに見出される。例えば、詩
る見解にまで達したのである。その事情については、ヘブライ 1:3b 以外の
編 33:4–7 を参照。
「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。主は恵みの業
初期キリスト教テクストからも確認できる。例えば、コロサイ 1 章のキリス
と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。御言葉によって天は造られ、
ト讃歌における「すべてのもの(ta. pa,nta)は彼(=「神の子」)において存
主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせき止め、深
続している(suni,sthmi)」という表現に注目したい(コロ 1:17)。また、使徒
淵の水を倉に納められた」(新共同訳)。ここにおいて、天地創造の神は、地
教父文書『ヘルマスの牧者』「第九のたとえ」14:5 をも参照。「よく聞きな
を慈しみで満たし、カオスの脅威から救い出し、守る神でもある(さらに詩
さい。神の子のみ名は大いなるもので捉えることができず、全世界を支えて
93; 104 も参照)。このような信仰は第二神殿時代のユダヤ教文書においても
いる。だから、もし全被造物が神の子によって支えられているとすれば、神
共有、展開されている。例えば、旧約外典『ソロモンの知恵』(新共同訳では
の子によって召し出され、神の子の名を担い、そのいましめにあって歩んで
『知恵の書』
)では、万物の創造者にして保持者である神への信仰が次のよう
いる人々のことをお前はどう思うか」(荒井献訳、『使徒教父文書』講談社文芸
に語られる。「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させよう
文庫、1998 年、428 頁)。
として、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お
「子」による万物の保持の業は、
「彼(=「子」) の力ある言葉によって」
造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られな
遂行される。「力ある言葉」と訳した部分は文字通りには「力の言葉」であ
かったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出され
るが、属格「の」を定義または描写の属格と見なし(ポーター 1998: 74)、
「力
ないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべて
ある」
「力に満ちた」という意味合いに理解したい。
「言葉」という語は r`hm/ a
はあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。あなたの不滅の霊がす
で、しかも与格である。これは手段を表わす与格と考えられるので、「言葉
べてのものの中にある」(11:23–12:1、新共同訳)。
によって」と訳した。
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1:1–4 注解(1:3)
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神の言葉による万物の創造に関する信仰は、初期ユダヤ教、初期キリス
(「彼のかつての罪のきよめ」
)のみである。ヘブライ書において kaqarismo,j と
ト教において広く共有されているが(創 1:3; 詩 33:6; 知恵 9:1; シラ 42:15; ヘ
いう名詞はこの箇所のみに出てくるが、動詞 kaqari,zein は、9:14、22、23、
ブ 11:3)、ここでは万物の保持の業が神の力ある言葉(4:12) と関連づけら
10:2 で用いられ、「子」であるイエスの血、いけにえ、すなわちイエスの死、
れるのみならず、「子」の力ある言葉による働きと見なされている。万物
イエスの十字架と結びつけられている。つまり、1:3c における「罪のきよ
をカオスの脅かしから守り、保持する働きを「子」もまた父なる神と共に
め」は、まだそこでは明確に述べられていないにせよ、イエスの十字架、イ
担っている。それが 1:3b の語ろうとしているメッセージである。宗教改革
エスの死を意味していると考えてよいであろう。イエスの十字架、イエスの
者マルチン・ルターは 1:3b に関して、次のように解説する。「この語〔=
死に対する救済的意味づけは、初期キリスト教のまさに出発点(イースター
「万物を担う」〕 によって、神が創造なさった事物に対するなにかあたたか
の直後から)から、すでに様々な仕方で試みられてきた。しかし、ヘブライ
い、いわば愛育する母性の配慮が表現される」(ルター「ヘブル人への手紙講
書のこの箇所において注目すべきことは、イエスの死の救済的意味合いが祭
解(1517/18 年)
」岸千年訳『ルター著作集第二集』10 巻、聖文舎、1988 年、199
儀的言語で語られている点にある。もちろん、これもヘブライ書にユニーク
頁。Backhaus 2009:86 も参照)。
な点ではなく、例えば、すでにローマ書 3:25 などにも見られる傾向である。
「神は、このキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供
〈1:3c〉
え物(i`lasth,rion)となさいました」(ロマ 3:25、新共同訳)。
「もろもろの罪のきよめを行った後」
1:3c において、
「罪」(a`marti,a)という語は複数形で用いられているので、
1:3c では、「子」が何者であるかに関する第五のポイントが語られる。第
「もろもろの罪」と訳しておいた。ここにおいて、罪はきよめられるべき汚
三、第四のポイント(1:3a, b)は現在分詞(「である」「担う」)によって導か
れと見なされている。例えば、神殿、聖所など聖なる場所に人が近づく際、
れていたが、ここではアオリスト分詞(poihsa,menoj「行った」)に変わる。第
身をきよめる事は、古代から現代に至るまで、あらゆる文化の中に見られる
三、第四のポイントでは「子」の永遠の次元および現在の働きに目が向け
習慣である。しかし、ヘブライ書の場合は、人間の罪が問題とされており、
られていたが、第五のポイントにおいては、すでに成し遂げられた過去の
その罪からきよめられる事が聖なる場所に、すなわちヘブライ書の場合、神
出来事、歴史的出来事へと聴衆の注意を向けさせる。「子」は、1:2b で語ら
に近づく条件とされている(10:19–22 を参照)。
れたように、世の初めから創造の器として神に用いられた方である。その
この第五のポイントは、ヘブライ書全体を通して、さらに深く展開され
「子」が 1:3c においては救済の器として用いられる(Attridge 1989:45)。1:2b
ていく。まだ 1:3c においては漠然としたままであるが、「子」による罪の
と 1:3c における poiei/n(「行う」) という動詞の使用に注目すると、両者が
きよめの主題は、2:17 および 4:14 以下において論じられていく大祭司キリ
対応関係にあることが分かる。すなわち、1:2b の「(創造の業をも)行った」
スト論へと発展し、ただ一度限りの完全な(罪を取り去る)犠牲としてのイ
(evpoi,hsen) と 1:3c の「
(きよめを) 行った」(poihsa,menoj) という対応関係に
4
4
エスの死に関する詳しい議論へとむすびついていく。この関連で、例えば、
注目すると、1:3c では「子」による罪のきよめの創造が語られているとも、
9:25–26 に注目。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに
見なしうる(Karrer 2002:117 参照)。
自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになる
それでは、「子」によって新たに創造された「もろもろの罪のきよめ」と
ためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまね
は何であろうか? 「きよめ」と訳した語は、kaqarismo,j である。新約では
ばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身
7 回用いられているが、罪と結びついている例は、この箇所とⅡペトロ 1:9
をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(新
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共同訳)。このようなイエスの死に関する神学的展開の背後において、旧約
字架における死(=罪のきよめの出来事)に続く、
「子」の高挙(=天に挙げら
聖書が、ヘブライ書の場合はとくに七十人訳聖書が大きな役割を果たして
れ、神の右に座った出来事)についてである。同じアオリスト時称が用いられ
いることに注目すべきである。例えば、1:3c と同じ「もろもろの罪のきよ
ている直前の 1:3c と 1:3d とは、時間的にも内容的にも切り離しがたい結び
め」(o` kaqarismo,j tw/n a`martiw/n)という表現が唯一見出される出エジプト記
つきをもった一連の出来事として捉えられている。すなわち、自らの死(十
30:10(LXX)は、大贖罪日(ヨム・キップール)における年に一度の大祭司
字架)において罪のきよめを成し遂げた「子」は、天に挙げられ、世界の支
による罪のきよめの儀式について語っている箇所であり、このような聖書箇
配者として神の右に座られた方なのである。この結びつきが重要なことは、
所がヘブライ書における神学議論の展開に大きな影響を与えている事実を見
10:12、12:2 でも繰り返されている事実から明らかである(Hofius 1976:85)。
逃してはならない(Attridge 1989:46)。
しかしここで注目したい点がある。すなわち 1:3 では復活についてまった
1:3c においては、
「子」がもろもろの罪のきよめを行ったと記されている
く言及されない。実際、ヘブライ書全体を通して、復活に関する言及は比
が、
「行った」にあたる語は poiei/n のアオリスト分詞中動相 poihsa,menoj で
較的わずかである(6:2; 11:19, 35; 13:20)。これに関しては丁寧な吟味が必要
4
4
4
4
4
4
ある。中動相のニュアンスとしては、
「子」が罪の清めを自らにおいて、具
であるが、ヘブライ書の著者は復活と高挙を一つの出来事と見なしていると
体的には自らの死(「自らの血」9:12 を参照)によって成し遂げたという事が
いう理由に基づくのかもしれない(Attridge 1989:46)。復活への言及なしに
暗示されているのであろう(Lane 1991:15)。もちろん、ここで言われている
死と高挙が結びついている同様な例は、フィリピ 2:6–11 の「キリスト讃歌」
「もろもろの罪」は「子」自身の罪ではありえない。ヘブライ書では「子」
にも見られる。「おのれを低くして、死に至るまで従順であられた。しかも
の無罪性が前提されているからである(4:15 参照)。
十字架の死に至るまでも。それゆえ、神は彼を高く挙げ、あらゆる名にまさ
また直後の 1:3d において語られる「子」の高挙の出来事に対して、1:3c
る名を彼に与えられた」(フィリ 2:8–9)。
の罪のきよめの出来事(=死、十字架の出来事)が先行する出来事であるこ
1:3d では、十字架の死に続く「子」の高挙の出来事が、詩編 110:1(七十
とをアオリスト分詞 poihsa,menoj は示しており、その前後関係をはっきりさ
人訳では 109:1) に基づいて表現されている。
「主はわたしの主に言われた。
4
せるため、ここでは「罪のきよめを行った後」と訳しておいた。
『わたしの右側に座していなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足台とす
る時まで』
」(詩 109:1 LXX)。1:3d において「子」の高挙とは、単に天に上っ
〈1:3d〉
たという事にとどまらず、神の右に座した事を意味している。右は栄誉の側
「高い所におられる主権(者)の右に座られた」
というだけではなく(王上 2:19 など)、ここでは誰よりも神に近いことを示
1:3 は非常に中身の濃い箇所で、
「子」のアイデンティティに関するポイ
すのであろう(Hengel 1995:136)。「子」が神の右に座したとは、「子」が神
ントが四つも語られる。
「子」に関する第六のポイントについて語る 1:3d は、
と玉座を共にする唯一無比な関係にある事を示す。もっと具体的に言えば、
そのクライマックスである。文体的に見ると、1:3a–3c の箇所(第三、第四、
「子」は、神の右に座したことによって、世界の支配および救いの完成とい
第五のポイント) はそれぞれ分詞(w;n〔である〕、fe,rwn〔担う〕、poihsa,menoj
う神の偉大な働きに参与する者となり、今も生きて働いている者である事が
〔行った〕)によって導入され、それらはすべて 1:3d に現れる主動詞 evka,qisen
示されたのである(8:1–2; 10:12–13; 12:2 を参照)。
(
「座られました」)にかかっているからである。
ここで用いられている詩編 110:1 は、新約聖書文書中で最も頻繁に用いら
1:3d の主動詞 evka,qisen はアオリスト形で、歴史上の一回的な出来事につ
れる旧約テクストである。初期キリスト教は、イエスの復活という衝撃的な
いて語られている。すなわち、(同じく歴史的一回的出来事である)「子」の十
出来事を神学的に整理しようとする営みの中で、きわめて早い時期に詩編
22
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1:1–4 注解(1:3, 4)
110 編と出会い、それによって豊かなキリスト論的思索の展開することがで
1:1–4 注解(1:4)
(1:3d) と同じ出来事、すなわち「子」の高挙を指していると見てよい。し
きた。初期キリスト教における詩編 110 編の重要性は、それが広く新約文
かしこれもまた、単なる同じ事柄の繰り返しではない。1:4 においては「子」
書の中で暗示、引用されている事実から明らかである(ヘンゲル 2005:182)。
と天使の比較 という新しい視点が加えられて展開され、次のセクション
詩編 110:1 の引用および暗示の箇所としては、マタイ 22:44、26:64、マル
4
4
(1:5–14)への橋渡し的な箇所として機能しているのである。
コ 12:36、14:62、(二次的には 16:19 も)、ルカ 20:42–43、22:69、使徒行伝
1:4 に見られる「子」と天使たちとの「比較」(su,gkrisij) は修辞学的手
2:34–35、ローマ 8:34、Ⅰコリント 15:25、エフェソ 1:20、コロサイ 3:1、ヘ
法であり、二つの事柄、二人の人物を比較することによって、一方を称賛
ブライ 1:3、13、8:1、10:12–13 を挙げる事ができる。さらに詩編 110 編と
し、他方を非難することを目指している(クインティリアヌス『弁論家の教
の関連を示す箇所として、使徒行伝 2:33、5:31、7:55–56、ヘブライ 12:2、
育』2:4:21。邦訳は『弁論家の教育 1』森谷他訳、京都大学学術出版会、2005 年、
Ⅰペトロ 3:22 も加えることができるであろう(Hengel 1995: 133)。ヘブライ
152–53 頁を参照)。このような「比較」という方法は、ヘブライ書全体を通
書では、詩編 110:1 が重要なテクストであるだけでなく、メルキゼデクに関
して用いられている。例えば、1:1–2a では預言者たちと神の子イエス、次
する言及を含む詩編 110:4 もまた、大祭司キリスト論を展開する際に、大き
のセクション 1:5–14 および 2:5–18 では天使と神の子イエス、3:1–6 では
な役割を果たすこととなる(5:5–10; 6:20; 7:1–28)。
モーセと神の子イエス、4:14–10:18 では大祭司と神の子イエス、11–12 章で
興味深いことに、1:3d には「神」という語が用いられていない。七十人
は旧約の英雄たちと神の子イエス(およびキリスト者)との比較が用いられ
訳でしばしば神と結びつけられる「偉大さ」
「主権」を意味する megalwsu,nh
ている。
(申 32:2; 詩 144〔145〕:3; 代上 29:11; ソロ知恵 18:24 などを参照) という語が、
1:4 では、「比較」という手法を用いるために、特徴的な語、文体が用い
同じく七十人訳で神に関連して用いられる「高い所にいる」(evn u`yhloi/j)と
られている。例えば、天使たちの名に「まさる名」の相続という箇所では、
いう形容句(詩 112:5; イザ 33:5)と共に用いられ、婉曲的に神を言い表して
いる(ヘブ 8:1 も参照)。
「まさっている」という意味の形容詞 dia,foroj の比較級 diaforw,teroj(8:6
も参照) が para,( +目的格) という前置詞と共に、そして「子」の天使に
対する優位性を語る箇所では、kratu,j の比較級 krei,ttwn(「さらに良い」「さ
〈1:4〉
らに優れた」の意味) が用いられている。とくに後者の krei,ttwn(あるいは
「彼の相続している名が天使たちの名にまさっているのとちょうど同じほど
krei,sswn)はヘブライ書において重要な神学的キーワードとなっていく(6:9;
に、彼は天使たちより一層優れた者となられた」
7:7, 19, 22; 8:6; 9:23; 10:34; 11:16, 35, 40; 12:24 を参照)。
1:4 は、
「子」のアイデンティティに関する最後、すなわち第七のポイン
これまで 1:2b–3 では、「子」のアイデンティティを神との関係において、
トについて語っている箇所である。1:2b の最初(第一)のポイントと 1:4 の
すなわち神の本質と働きに十全に参与する方として描いてきた。しかしそれ
最後(第七)のポイントは「子による相続」というテーマによって結びつい
に対して、1:4 では「比較」という視点が導入され、天使との関係において
ており、それによって「子」のアイデンティティについて語る 1:2b–4 全体
「子」のアイデンティティの特徴(その優位性、卓越性)を明らかにしようと
を囲い込む役割を果たしている。しかし、1:4 では 1:2b と同じことが繰り返
する。なぜ、ここで「天使」が比較の対象として引き合いに出されているの
されているのではない。1:4 には、
「子」による天使たちにまさる「名」の
か? 「子」と天使との関係に関するテーマは、続く 1:5–14 および 2:5–18
相続、およびそれが示す「子」の卓越性という新しい内容が加えられてい
においてさらに展開されていく。「なぜここで天使なのか」についての詳細
る。また 1:4 で第七のポイントとして語られている事柄は、第六のポイント
な議論は、それらの箇所の注解を参照せよ。
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1:1–4 注解(1:4)
1:1–4 注解(1:4)、解説
1:4 における第七のポイントの中心は、すでに述べたように、「子」によ
る「天使たちにまさる名」もまた、「神」(qeo,j)ないしは「主」(ku,rioj)と
る「天使たちにまさる名」の相続、およびそれが示す「子」の卓越性にあ
いう神御自身の名であると理解した方が正しいのではないだろうか。
る。古代世界において「名」(o;noma) とは、単なるタイトル、名称ではな
1:4 の内容を、次のようにまとめることができるだろう。すなわち、神の
く、その保持者の任務、地位、尊厳を意味する(Martin 1983:236–37)。そう
存在と働きに完全な仕方で参与している「子」は、あらゆるもの、とりわ
だとすると、1:4 における神から「子」への名の相続という出来事は、神が
け神に最も近いと考えられている天使たちに対しても卓越した位置を持って
「子」に特別な名を付与したというだけにとどまらず、神の尊厳と権能(例
いる。その事実が「子」の高挙および「まさる名」の授与において明らかに
えば、神の万物に対する支配権)を「子」に委譲するという事実を指すのであ
なった、というのである。たしかに 1:4 において「子」が高挙において「天
る(Grässer 1990:66)。ヘブライ書の著者によれば、それが明らかになったの
使よりも優れた者となられた(geno,menoj というアオリスト分詞)」と記されて
が「子」の高挙、すなわち「子」が神の右に座られた出来事(1:3d)におい
いる。しかし、「子」が高挙において初めて天使より優れた神の子になった
てであった。このように高く挙げられ、特別な名を相続された「子」は、現
という意味をここから読み取るべきではない(同様な例として、ロマ 1:4 を参
在に至るまで神と同じ任務と尊厳を担いつつ、生きて働いている。そのよう
照)。むしろ、永遠の昔から存在している「子」である方の栄光(1:3a)が、
なニュアンスを示すために、1:4 では「相続しておられる(keklhrono,mhken)」
今や罪のきよめとしての死につづく、高挙の出来事を通してはっきりと啓示
という完了形が用いられているのであろう。キリストの高挙とキリストに対
された。それが 1:4 においてヘブライ書の著者の語りたいメッセージである。
4
4
4
4
する特別な「名」の付与との結びつきに関しては、以下の新約聖書の箇所を
参照せよ(フィリ 2:9; エフェ 1:20–21)。
それでは、1:4 で語られている「子」が相続しておられる「名」とは、具
4. 解説
体的には何を指すのであろうか? 現代の多くの注解者は、続く 1:5(詩 2:7
1:1–4 は、ヘブライ書の序文として、重要な役割を果たしている箇所であ
およびサム下 7:14 の引用)とのむすびつきの故に、
「天使たちにまさる名」を
る。ヘブライ書の著者は、高い文学的修辞学的手腕をかたむけながら、この
「子」(ui`o,j) と理解する(Attridge 1989:47、Hofius 1976:90)。しかし、これは
序文を入念に練り上げている。それによって、ヘブライ書の読者(聴衆)が
必ずしも正しいとは言えない。たしかに「子」であることは、
「父」なる神
これから展開される教説や勧告を的確に理解するための基礎、土台を提供し
の尊厳と権能を相続する条件である。しかし、相続において受け継いだも
ようとするのである。
のが「子」という名であるとは言えない。むしろ、
「子」がここで受け継い
そこでまず著者が注目するのは「語られる神」についてである。ヘブライ
でいるのは神御自身の名であると考えた方がよいのではないか(Bauckham
書が証言する神は、天の高みに閉じこもって、関わりを避ける神ではなく、
2008:239)。永遠なる神の「子」が相続している神の名とは、例えば、
「神」
常に語りかけ、関わってこられる神である。天地創造の初めより、終わりの
(qeo,j)あるいは「主」
(ku,rioj)であると言えるかもしれない。実際、1:4 の
完成の時に至るまで、言葉を紡ぎ出す方である(ロング 2002:32)。その神の
直後の新しいセクションにおいて、
「子」が二度「神よ」(1:8, 9) と、さら
言葉は、生きている言葉であり、力を発揮して(ヘブ 4:12)、万物を創造し、
に一度「主よ」(1:10) と呼びかけられている。これに関連して、ヘブライ
保持し、救済する言葉である。
1:4 と同様に、高挙のキリストに対する「名」の付与について語っている
しかし、これまで旧約の預言者たちを通して、多様な機会に多様な仕方で
フィリピ 2:9 の場合、
「すべての名にまさる名」は続くフィリピ 2:11 から明
語ってこられた神が、今や終わりの時に「子」によって語り始められた、と
らかなように「主」(ku,rioj)である。以上のことから、ヘブライ 1:4 におけ
著者は序文の冒頭で語る(1:1–2a)。それが意味することは、「子」の到来に
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1:1–4 解説
おいて決定的な時代の転換(終末の開始)が起こったのであり、「子」という
参考文献
人格を通して語られる神の言葉は完全な救い(神に近づく道)を生起させる
Attridge, H. W 1989. The Epistle to the Hebrews. (Hermeneia) Philadelphia:
言葉だ、ということである。
続いて(1:2b–4 において)、著者は、
「子」の本性と働きに関する七つのポ
イントを矢継ぎ早に語る(詳しくは「注解」を参照)。そこで著者は、父なる
Fortress.
Backhaus, K 2009. Der Hebräerbrief. (Regensburger Neues Testament)
Regensburg: Verlag Friedrich Pustet.
神の存在と働きと同じく、創造から終末までをすべてカバーする「子」の
Bauckham, R 2004. Monotheism and Christology in Hebrew1, in Stuckenbruck,
存在と働きについて語りながら、とくに「子」が歴史において成し遂げら
L.T. and North, W (eds), Early Jewish and Christian Monotheism, 167–185.
れた業に読者(聴衆)の注意を向けさせる。それによれば、永遠の存在であ
London/New York: T & T Clark.
る「子」は、人類の歴史の中にまで低く入って来てくださった方であり、自
─ 2008. The Divinity of Jesus in the Letter of the Hebrews, in Jesus and
らの死(十字架)によってもろもろの罪のきよめを成し遂げられた後、すべ
the God of Israel: God Crucified and Other Studies on the New Testament’s
てを卓越した高み(神との近さ)にまで挙げられ、神の主権をゆだねられて、
Christology of Divine Identity, 233–253. Grand Rapids, Mich./Cambridge,
終末的完成に向かって、今も生きて働いておられる方なのである。
U.K.: Eerdmans.
以上の事柄をふまえることによって、ヘブライ書においていよいよこれか
Blass, F, Debrunner, A and Funk, R. W 1961. A Greek Grammer of the New
ら展開されていく(ある意味では難しい)教説や勧告を的確に理解する準備
Testament and Other Early Christian Literature . Chicago & London:
が整うのである。
The University of Chicago Press.
Bornkamm, G 1959. Das Bekenntnis im Hebräerbrief, in Studien zu Antike und
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