忠臣蔵の 足跡をたどる

岡野先生の不動産歴史探訪 不動産の歴史シリーズも11回目になります。今回は、
不動産そのものからはちょっと外れますが、年末といえ
ば日本人には 「忠臣蔵」という訳で、多くの人達が同じ
忠臣蔵の
足跡をたどる
ように歩いたであろう、吉良邸から泉岳寺への道のりを
筆者も歩いてみました。毎年この季節になるとテレビ番
組では必ずと言って良い程放映されますし、ツアーもあ
るようですが、実際に歩いてみる機会は意外と無いのが
現実です。不動産に携わる限りは、やはり実査(現調と
も呼ぶようですが・・・ )は必須です(マスター資格の講
習でもその様に言った記憶があります)。
さて今回は、元禄14年( 1701年 )3月14日の松の
廊下からスタートです。地下鉄東西線竹橋駅から数分の
距離にある皇居東御苑の北桔橋門(きたはねばしもん)
から入場し天守台の横を進んで行きますと、松の廊下が
あった場所に石碑(写真1)があります。江戸城中で2番
目に長い廊下(写真2はその模型)で、廊下に沿った襖絵
岡野 淳
青山リアルティー・アドバイザーズ株式会社顧問
早稲田大学大学院ファイナンス研究科・
中央大学商学部 非常勤講師
早稲田大学国際不動産研究所 招聘研究員
(ARES マスター M0600008)
に松と千鳥が描かれていたことからその名が付いたとい
われています。平日の昼間にもかかわらず、多くの外国
人の方々が見学をしていました。
この刃傷沙汰から1年9か月後の元禄15年12月15
日未明、赤穂浪士たちは本所松坂町(両国)の吉良邸へ
討入りしますが、元々吉良邸は今の呉服橋辺りにありま
したが、元禄14年8月19日に屋敷替えによって本所に
移転しています。当時の江戸城近辺の地図を見ると、時
代によって場所は異なりますが、元の吉良邸の徒歩圏内
に奉行所があったことが分かります。史実はどうであれ、
緊急時に幕府の手勢が駆け付けようとしても、本所は橋
を渡る必要がありますし、討入りし易いように移転させた
というのは案外本当かもしれませんね。
ところで、討入りに先立ち、大石内蔵助は浅野内匠頭
の奥方である揺泉院が幽閉されていた三次浅野土佐守
おかの じゅん
早稲田大学商学部卒業、三井信託銀行(現三井住友信
託銀行)勤務後、株式会社スペースデザイン社長など
を経て、青山リアルティー・アドバイザーズ株式会社顧問。
早稲田大学大学院ファイナンス研究科及び中央大学商
学部 非常勤講師
早稲田大学国際不動産研究所 招聘研究員
不動産証券化マスターで、マスター養成実務講座 202
「不動産ファイナンス」の講師でもある。
の下屋敷に挨拶に訪れ、歌舞伎などで有名な 「南部坂雪
の別れ」のシーンとなる訳ですが、この南部坂、現在の
赤坂氷川神社の辺りですから、ARESの前住所からも近
いななどと思いつつ討入りの現場である本所吉良邸跡に
到着です(写真3)。当時の吉良邸は2,550坪もの広大
な屋敷(東西132m、南北62m )だったようで、僅か47
人での討入りとなると、上野介を探すのも結構大変で
January-February 2015
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写真1 皇居東御苑内「松の廊下跡」
筆者撮影
写真 2 「松の廊下模型」江戸東京博物館 筆者撮影
あったろうことが想像されます。現在はその一部が復元
号線の交差点のすぐそばです)に寄り道です。ここは田
され公園となっていますが、園内には首洗い井戸や供養
村右京太夫の屋敷跡で、浅野内匠頭が切腹した場所でも
碑などがあります。
あります(写真5)。
両国から約2時間強の道のりとなり、結構疲れますが、
浪士たちは、討入り後の休息のため、隣地の回向院へ
赴きますが、立入を拒まれたこともあり、この場所から浅
当時の人達の健脚ぶりは相当なものであったのだろうと
野内匠頭が眠る泉岳寺へ向かうことになります。両国か
改めて思います。ようやく到着した泉岳寺は曹洞宗の寺
ら隅田川沿いに南下し、永代橋を渡るルートを選択しま
院ですが、駒澤大学の発祥の寺院の一つとしても有名で
す。本来両国からだと、両国橋を渡る方が一般的かと思
す。門前には色々な旗が立ち上っていましたが、よくよ
われますが、この場合武家屋敷を通り抜けることになる
く見てみると、マンション建設反対の文字が。どうやら門
上、15日は大名・旗本の登城日に当たっていたことからい
前隣地に8階建てのマンション建設計画があり、景観の
らぬトラブルを避けるため、両国橋ルートを回避したとさ
保存を訴えて寺院や近隣が反対活動をしているようです。
近時、観光資源や景観等が各地で問題になっています。
れています。
永代橋を渡った浪士たちは、霊岸島を抜け稲荷橋を渡
泉岳寺周辺は長らく3階建てまでという地元住民の申し
ります。 既に取潰しされてなくなっていたはずですが、
合わせがあったようですが、建築協定ではなかったよう
現在の聖路加病院の直ぐ傍が、浅野内匠頭の上屋敷が
です。景観も大事ですが、不動産事業者にとっても死活
あったところだったので(写真4)、その横を通過しつつ
問題です。上手く調整が付けば良いのですが、赤穂浪士
築地本願寺前を通過、汐留橋に出て、現在の第一京浜国
の面々もヤキモキしてその成り行きを見守っているので
道沿いに南下し、金杉橋、将監橋を通り泉岳寺に辿り着
はないでしょうか。
皆さんもたまには、散歩がてら歴史の跡を辿ってみて
きます。浪士たちは第一京浜を南下しましたが、筆者は
途中、日比谷通りの新橋4丁目付近(日比谷通りと環状2
写真 4 浅野家屋敷跡
筆者撮影
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写真 3 吉良邸跡 筆者撮影
ARES 不動産証券化ジャーナル Vol.23
は如何でしょうか。
写真 5 浅野内匠頭切腹の場所
筆者撮影
写真 6 泉岳寺 筆者撮影