「いカミもの」について ータウトの桂離宮評論構想過程に関する研究その 3- AC o n s i d e r a t i o no f“ lkamono" - AS t u d yo ft h eS t r u c t u r eo f T a u t ' sCommentsonKa t s u r aV i l l a, p訂 t3- 宮元健次 MIYAMOTO K e n j i キーワードKeywords [建築史] H i s t o r yo fAr c h i t e c t u r e・[ブルーノ・タウト] BrunoTaut [桂離宮] Ka t s u r aV i l l a・[いかもの] Kit s h u・[評論] C r i t i c i s m はじめに 筆者は前に『日本・タウトの日記①j の記述を通して、タウトの 1 9 3 4 年 5月 7日の二度目の 桂離宮訪問の様子について観察した。タウトはその日の日記の中で桂離宮について「私に新 鮮な或物を啓示する②J(点は筆者による)あるいは「一歩を錯遇すれば殆どふかもゐに堕す るかもしれない②J(点は筆者による)と批評したことについては、既に触れた通りである③。 『日本・タウトの日記 Jをみると、タウトはこの「いかもの」という言葉を多数用いているこ とがわかる。 そこで、本考察では、タウトの桂離宮評論において重要な表現であると思われる「いかも のJという言葉について、主に『日本・タウトの日記①』の記述から分析を試みようとするも のである。以下、まず「いかもの」という言葉の意味について考えてみたい。 1.i いかもの」の意味について 「いかもの」の意味について、タウトの著作の中に「いかものといんちき④Jと題されるエ ッセイがある。これは昭和 1 1年 1月27日から 28日にかけて書かれ、英訳が当時の英文雑誌 I ] a p a ni np i c t u r e s J に掲載されたものである。 いかものに相当するドイツ語はキッチュ(Ki t s c h ) であり、この日本語とまったく同じ意味 内容をもっている、即ち芸術たることを欲しながらついに芸術になり得ないような「芸術」 を意味する。「いかもの」の元の形はおそらく「いかさまなもの」であろう。又「いんちき」 の意味も含まれているとみられる。 「いかもの」について -111- タウトのエッセイはさらに続いている c 日本でいかものという言葉を口にすると人が笑う、しかしいんちきと言えば尚さら笑うの である。とにかく再語ともいきいきとした内容をもって民衆のうちに通用しているから、香 しからぬ芸術や身の入っていない仕事に関するくだくだしい論議をこれによって省くことが できるのである@。 ょうするに、「いかもの Jとは、本物の芸術ではなくその「似せもの j といった意味ととら えることができょう。 2 . r 関本@タウトの日記』における「いかものJの記述の検討 1 9 3 3年 5月 4日の初のタウトの桂離宮訪問の日は、かれの誕生日でもあった竺タウトはそ の日の日記に「今日は恐らく私の一生のうちで最も善美な誕生日であったろう勺と記してい る。又、桂離宮を通して「日本は眼に美しい国である勺という絶讃の言葉もこの日の日記に 書いたタウトであったが、その 2日後の日記から、「いかもの」という言葉が散見されるよう になる。 1933年 5月 6日、タウトはパトロン下村正太郎の京都東山の茶室に招かれた後、大阪へ行 き⑥、大阪毎日新聞社と大阪朝日新聞社を訪れた。その時の日記は次の通りである 朝日新聞社の新築家屋一施工はなかなか賛津だ。屋上にスケート場やテニスコートがある。 日本料理部はいかものだ。その他の室は比較的よい。大阪の市街を眺めながらお茶を飲む、 h アメリカを想起させる l 注目すべきは「いかもの j という言葉が日記の中でここに初めて使われたということであ る。その後タウトは、この「いカミもの Jを武器に、タウトを悩ませる日本の堪えがたい建築 を次々に批判して歩くのである。 大阪朝日新聞社社屋はその第 1番目に他ならなかったが、その日以後も、日記はほとんど 毎日のように「いかもの Jを連用し、タウトの口癖のようにもなっていくように思われる。 大阪朝日新聞社へ行った翌々日にあたる 5月 8日、タウトは今度は奈良へ行った叱村落の 、子どもや女性たちの顔は「あどけない勺と表現している。 たたずまいは「精楚J その他もタウトは、とても快適に時を過したのであったが、奈良からの帰途について、少 し不快を覚えている叱 帰路一奈良の土産物はもういかものに堕していると言-っていい、だがなかには非常に美し いものもある。男女の神髄の人形があった。社殿の御厨、参拝者がスタンプを捺してもらっ ている。一一 奈良行きの翌日の 5月 9日、今度は京都帝国大学工学部建築学教室について日記は次のよ ← 112, - 龍 谷 大 学 国 際 セ ン タ ー 研 究 年 報 (2003)第 12号 うに記している⑧。 午後京都大学を訪ねた、藤井教授が教室を案内して下さる。廊下に学生の設計図がならべ てあった、いずれも世界的流行にかぶれたいかものだ。モスコウと少しも変らない。新入学 生が作業している。石膏模型の募集がある、西洋のもあったが日本家屋の構造模型にはいく つかすぐれたものがあった失 また、その翌日の 5月1 0日の日記では、大阪大丸百貨庖が次のように批判されている⑨。 下村氏の大丸大阪庖の関底日、設備はいい、しかしこれが建設なのだろうか。屋上庭園、 食堂は半分が日本食部で半分が洋食部である。陳列品の照明、キモノを着せた人形、『質 、、、、j の 高さが見られる。地下が 3階になっている、建築家は階上の百貨庖のと同じ人、いかものだ。 劇場めいたゴシック風、だが明るい。お土産をもらう⑨。 その後、京阪地方で約 2週間を過したタウトは、 5月1 8日特急富士で東京へ向う⑩。 おそらく胸中には「いかもの」ではない新しいものに出会う期待が高鳴っていたに違いな い。それは大平洋であり、富士山であり、首都東京だ、ったのであろう。日記によれば、大平 洋は車窓から挑めることができた⑩。しかし富士山は雲に隠れていて見えなかったへそれで も十分満足できたらしい。 ところが東京、というよりも横浜あたりからすでに始まっていた「首都圏」の印象は、期 待を裏切ってひどいものであった⑩。 横浜の近くになると建設はだんだん無味乾燥なものになる、移しい電力線。やがて東京に 近づく、ひどく貧弱な建築だ、それでも線路の片側には多少すぐれた家屋がないでもない。 この遠の日本家屋は京都とはまるきりちがっている。床がもっと高いようだ。それから高層 ・ k i oはKio ・ t oの反封物だ、⑩。 建築のある中心地。これはたまらない!なるほど、 To 「これはたまらない!Jというのが桂離宮を見て涙を流した同じタウトの口から飛び出し IO-TOとTO-KIOの綴りの逆転 た首都圏の感想であった。桂離宮のある京都と東京は、彼に K を思っかせるほど印象が異なっていたのである。日本の首都は、それまでにも何らかの批判 ントを受けていたのだが、かつてこれほどまでに見事に斬りきざまれたことはなかっただろ 。 つ 列車はようやく東京へと到着し、帝国ホテルへと向う⑩。東京駅のプラットフォームでは下 村、石本氏のほかに十人ばかりの建築家、ロシア人夫妻も出迎えてくれる。自動車で帝国ホ テルへ、ーホテルのなかは頭を押えつけられるような感じだ(この建築の外観もそうだが)。 芸術的にはいかものだ。どこもかしこも大谷石ばかり、そのうえ到るところに凹凸があって 挨の溜り場になっている(まったく非日本的だ)、仰々しい寺院気分一これが『芸術』なの だろうか。さまざまな階段はさながら迷路である、空間の使用はこのうえもなく非経済的だ。 ライトに深い失望を感じる⑩。 「いかもの」について 1 1 3一 タウトを出迎えた人物の中の「石本 Jとは石本喜久治で、タウトを日本に招待した「日本 インターナショナル建築会Jの上野伊三郎の仲間である。又、この中の「ライト Jというの は、世界の四大巨匠のひとりに数え上げられるアメリカの建築家フランク・ロイド・ライト である。このライトが設計した日本での代表作である帝国ホテルですから、タウトにかかつ ては、容赦なく斬りきざまれてしまう。(図 1参照) 図1.帝国ホテル正面玄関(犬 山・明治村に移建保存後 の現状) (筆者揖欝) これは、タウトのライトへの多少のライバル意識があったせいかもしれないが、それに加 えて写真に写された時の効果を狙っているような建築は駄目である⑬、というタウトの信念も あったのかもしれない。なぜならライトは、つねに雑誌等の自分の作品の取材に同行し、写 8 0 それに対しタウトは、建築作品が写真効果を 真を撮らせるアングルまで指示したいという J 重視しではならぬと弟子に言いつけている程である竺そして帝国ホテルは極度に写真むきの 建物であった。それに比べて、写真等なかった時代に八条宮智仁親王が自らのために建てた 桂離宮が、タウトによって「深く心を打つ小児の如き無邪⑤」とその純粋さを愛でられたとし ても当然のことであったのだろう。 こうして帝国ホテルに 1泊した翌日の 5月 1 9日、東京都内の建築を車で、見て廻った際のタ ウトの感想、を日記から書出してみよう⑫。 日本的なものはここにはひとつもない J( 図 2参照) 芝公園の徳川霊廟-- 1 性格というものがまるでない J 丸の内の公共建築 -1 宮城 - fクレムリン宮殿のよう J アメリカ大使館一「ひどいものだ」 ソ連大使館一「モダンだがなかなかいい」 国会議事室 -1 アカデミックな仰々しさを掃きまぜたたまらなく嫌なものだ。(図 3参照) ライトの英国大使館 - f 比較的いい」 商業街 - 1 最悪の蕗業的個人主義 j 東京朝日新聞社 - 1 建築した石本氏自身も小児趣味だと言っている J 一 一 1 1 4 : ; _ _ 龍谷大学国際七ンター研究年報 ( 2 0 0 3 )第 1 2号 図 2 芝・増上寺表門(筆者撮影) 図 3 国会議事堂(筆者撮影) こうして並べてみると、帝国ホテルに限らず、東京中の建築が斬りきざまれたことがわか る。この中で「ライトの英国大使館」呼ばれているものはライトの設計ではなく、タウトの 誤認であるが、この建築をライトの作品と認識した上で「比較的いい」とこれらの中でも例 外的に誉められていることからも、ライトへのライバル心から帝国ホテルを批判したわけで はないことがわかる。 こうして都心部の建物を見物した翌日の 5月20日、タウトは日光へと足を伸した⑬。 この日は車窓から農村や大自然の風景を跳めて大いに満足し、金谷ホテルで昼食ののち、 中禅寺湖畔までパスで行き、まだ水の流れ落ちてない華厳の滝を見てからモーターボートで 湖を楽しんだ⑬。 右には男館山の偉容、左には樹木の茂った山々。荒々しい牧歌調だ。この遁は鹿や熊の狩 獄匿である、狩獄小屋が見える。『赤岩』近くまでいく。湖岸の樹樹が槍のように美しい⑬。 1日、宿泊した タウトが日光の自然を満喫してていることがわかろう。そして翌日の 5月2 ホテルをたって、展望台から雲の関の山々を挑め、良い気分で日光市街へ戻り、気軽な気持 ちで日光東照宮へ立寄ったのである⑭。そして再び憂うつがこみ上げる。 日光の東照宮へ。木深い杉木立、そのなかにすさまじい建築がある。左側の社殿(大猷院 5年あとに竣工した。金色の唐門、装飾品のように『美しい j。建築物の 廟)は東照宮よりも 1 配置はすべてシムメトリー、舷ゆいばかりのきらびやかさ。すべてが戚圧的で少しも親しみ がない。 第 2の社殿(東照宮)、-いかものだ。神馬は厩のなかで頗る御機嫌斜めである、欄間の 3 猿(見ざる、聞かざる、言わざる)。兵隊の列のような配置、なにもかも型にはまっている。 華麗だが退屈、眼はもう考えることができないからだ。鳴龍のある堂(本地堂)、手をたたく と天井に描かれた龍がクルルルと鳴く、珍奇な骨董品の感じ。荘厳を装おうとしているのだ。 床までが漆塗、僅かに俵廊下だけが日本的である。支那の模倣だが、支那ほど高大な容積を もっていない。配置はシムメトリー、これを破っているところもあるが、しかしそれはなん の意味ももっていない。建築の堕落だ、ーしかもその極致である。日光の町まで自動車、騨 前の賑わい、派手な賢告、とにかく一種の気分がある⑭。 「いかもの」について -115- このタウトの日光東照宮批判は、早い時期からひろく知られてきた。なぜなら桂離宮は 1 6 1 5年頃、日光東照宮は 1 6 1 6年に造宮され、ほぽ同年代に造られた@建物について、タウト は片や桂離宮については涙するほど絶讃し、片や日光東照宮については、斬りさくほどの批 判を浴せかけたからであった。 タウトは、この日始めに行った徳川家光を記る大猷院廟については「装飾品のように f 美 しい j⑭」もので、「舷ゆいばかりのきらびやかさ町であるとまず述べている。(図 4参照) しかしその直後「すべてが威圧的で少しも親しみがない⑬j と痛烈に批判するのである。 又、次の東煎宮については、始めから「ふかもゐ元、⑬」と言い切ってしまう o ( 国 5参照) さらに「華麗だが退屈町だと断言する。 ついには東照宮についてタウトは「建築の堕落だーしかもその極致である町と罵声を浴 せかけたのであった。その瞬間タウトの心をよぎったのは、あの桂離宮のことであったに違 いない。この中で、「眼はもう考えることができない町と述べられているのは、 f 画帖桂離宮 ⑬jの結論に「服は思惟する⑮Jと書いた桂離宮に比してのことであろう。 図 4 大猷暁廟(筆者撮影) 国 5 日光東照宮陽明門(筆者撮塁手) まとめ 以上、主に f日本・タウトの日記j の記述を中心に、タウトの「いかもの Jという言葉に ついて観察してきたが、本考察で明ろかになった事項をまとめれば、おおよそ次のようにな ろう。 r 1 . いかもの Jとはタウトの造語であり、本物の芸術ではなく「似せもの j であるものを 指すこと。 2 .1 9 3 3年 5月 S日の朝日新聞社訪問を記しだ日記に「いかもの」がはじめて思いられた こと。 3 . ヒ記 2の記述以降、主に西欧や中国風のいわゆる非日本的な意匠を指して「しづミもの J と表現したようにみられる。 冒頭で触れた通り、タウトは、桂離宮に関しでも「いかもの j という表現を 2度用いてい るが、タウトが高く評価した桂離宮になぜこの言葉が用いられたのかについては、後に考察 1 1 6-- 龍谷大学国際センター冊究年報 ( 2 0 0 3 )第 1 2号 する予定である。なお本論の一部は拙著『桂離宮・ブルーノ・タウトは証言する j において 考察したものであることを付記しておく。 一ジ のバ w そ N m m汁 T廿附 F﹁U る 9 O 庖す vhoo 情調別枠咋馴 割和昨和問。寸 年 過川昭・庖会 年想到﹄社書版 万構、集版波出 川口論一論出岩島 ﹄評グ築芸・鹿 記宮ン建学年﹄ 日離セ巻 J 創る の桂際 問問す 5 トの国第空 j 言 ウト学集異宮証 タウ大全。の離は タ谷ト年根桂ト 本一龍ウ胤同帖ウ 夕刊四一画タ 7 ﹃刊号。﹃・宮﹃訳 oNm る訳。 照訳の 社 00000 000 雄条ご第あ治条条条条条条鶏条条条東雄一 英の出 j で亥のののののの雄ののの光英ル 著月ト究続月月月月月月の月月月宮著宮 田日五報究島日日日日日日 j 日日日日田ブ 篠 7 例 年 研 藤 4689mm 美 mmn と 篠 一 -mmmmmmmmmm mmmm 著 ・ 著 ト5ウ研継ト555555芸555離ト離 注ウ年刊際のウ年年年年年年工年年年桂ウ桂 びタ依巾国文タおおおおおお﹃おおお﹃タ 著 学論 及・ 1 献ノ著次大同ノ著著著著著著言著著著次ノ次 文ト摘鵡強制ト問調四四四桐鵬問調桐鵡ト鵡 考ブ①宮市本ブ①①①①①①水①①①宮ブ宮 参①②③④⑤⑤⑦⑨⑨⑩⑪⑫⑩⑭⑮⑮⑫ -117- 「いかもの」について
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