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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
雑煮の歴史と文化
おく
むら
あや
お
奥 村 彪 生
伝承料理研究家
1.雑煮以前に菱花びら餅があった
あった。直接,味噌で味をつけるとお目出度い席
室町時代,足利将軍家では正月に薄くて丸い花
澄ましたのである。
びら餅に菱形に切った紅色の餅を重ねた菱花びら
雑煮の具は見ての通り,縁起のよい海山里の幸
餅を焼いて食べていたようだ。菱花びら餅の記述
で構成している。干アワビは不老長寿を意味し,
は京都の吉田神社の神職をしていた鈴鹿家の日記
目を明るくする。干ナマコは別名俵子と呼ばれて
に出てくる。「昼過主君(義詮か)ヱ菱花ヒラ出
おり,豊作と金運に。結びのしや結びワラビは夫
ル三木(長方形の木片)スルメ煮シメ牛蒡出ル」
婦を結ぶにかける。ワラビは笑う。搗グリは勝つ。
を汚す(味噌をつける)といって縁起が悪いから
さ ん ぎ
つい たち
丸子餅は円満を表し,餅は望に通じ,望みが叶え
[貞治3年(1364)1月朔日]とある。
うちくらのりょう
み
ず
し しょ
安土桃山時代に皇室の内蔵寮と御厨子所を管掌
られる。これらは開運を願う食べ物ばかりである。
していた山科言継卿も領地の大宝卿から届けられ
た花びら餅を雑煮に仕立て,正月を祝ったり,溜
3.公卿や武家も来客の酒肴に用いる
醤油焼(雉焼)にして酒肴にしている。
しゅこう
この雑煮の文化が公卿に伝わるとその名がよろ
宮廷では菱花びら餅を鏡飾りとして用いていた
しくないと言って,烹雑と名を変えた。貴族がこ
が,明治4年からその上に下煮した牛蒡を乗せ,
の烹雑を用いた記録として最も早いのは『山科家
白味噌を塗って折り畳んだ軟らかい包み雑煮を食
礼記』である。先に小笠原流の雑煮の具材を示し
べ始めたと,司川端道喜氏は書いておられる。
たが,それより以前にこの日記に初めて具材と味
2.雑煮は京都生まれ,京都育ち
付けが紹介されている。その記述は「飯田・富松
ほう ぞう
よひ(び),餅ニイリコ(干ナマコ)マルアワビ
(干アワビ),スルメ,マメ(ゆでダイズ)入テタ
雑煮は室町時代に京都で誕生した。足利将軍家
レ味噌ニテクワス,酒候也…」[明応元年(1492)
や上級武家の婚儀に際し,お嫁さんのお色直しの
時,夫婦が末長く,固く結ばれることを祈って
さかずき
さかな
「固めの盃」を交わす酒の肴として用いた。現在
と異なり,両親のみ参列した。
その雑煮の具は安土桃山時代の『小笠原流礼法
秘伝書』によると「御まいり肴」と呼び,「干ア
ワビ,干ナマコ,結びのし,結びワラビ,搗グリ,
コブ,餅」とある。ダイズと大小ムギ,塩で作っ
から み
そ
た唐味噌を水で溶き,煮詰めて布袋で漉した澄ま
たれ み
そ
し味噌(垂味噌)で煮ている。水溶きした唐味噌
なま だれ
に ぬき
を漉した生 垂 に花鰹を加えて煮て漉した煮 貫 も
食品と容器
山科家の雑煮 再現:奥村彪生
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
旧暦8月1日]。この山科家の子孫たちも安土桃
ナズナ,結び昆布」を具にしている[長享2年
山時代になると大切な来客に季節を問わず酒肴と
(1488)正月元旦]。寺ゆえ餅に組む具材は精進で
して用いている。京都は内陸部にあった都ゆえ,
ある。安土桃山時代になると寺方ネットワークで
海の幸の多くは干物であった。干物だから季節を
伝わり,奈良興福寺や大阪石山本願寺,上野(現
問わずに使える便利さがあった。
群馬県)の永楽寺などの寺院でも祝っている。大
群雄割拠の戦国時代になると,織田信長はお互
阪の石山本願寺(浄土真宗中興の祖といわれる蓮
いの信頼を固めるために徳川家康を安土城に招き,
如が開山。その末子の実従の日記)では師走の25
饗宴(式三献形式)の初献の酒肴として雑煮を出
日の大掃除のあとでも祝っている。また正月の雑
している。また豊臣秀吉は朝鮮に出兵する武士達
煮には組付と称して数の子や海老,昆布などが添
に,肥前(現佐賀県)名護屋で茶会を催し,雑煮
えられている。これがのちに組重に変容する。そ
を振舞っている。また,自ら前田利家邸を訪れた
して戦国末期には京都の大商(大きな商店)でも
時は雑煮が最初に出され,酒を献盃されている。
祝うようになり,具は金閣寺のものと似ているが,
信長や秀吉が用いた雑煮の具は小笠原流に準じた
ダイコンが加わり,ナズナは菜の花になっている。
ものであろう。
寺院や大商では味噌汁だったと考えられる。
4.正月に雑煮を祝ったのはいつごろか
江戸初期の儒家である貝原益軒によると三ケ日
5.江戸初期,雑煮の味付けは垂味噌と
味噌仕立て
餅を食べるのは,中国で正月に固い飴(膠牙錫)
江戸初期,武 蔵 国 狭 山で書かれた地方料理も
を食べたり,立春の日に春餅(春巻)をすすめる
加わっている『料理物語』[寛永20年(1643)]に,
こうづけ
おおだな
からがせい
む さ し のくに さ や ま
ちゅんぴん
「雑煮は,中(辛)みそ又すまし(垂味噌)にて
習俗に習ったのではないかとしている(日本歳時
記)。
も仕立候。…」とあり,具は先に挙げたものが列
さて,正月の雑煮祝いの記述で最も早いのは,
挙されている。このころまだ醤油は普及していな
先に紹介した京都吉田神社の日記である。「上刻
い。
ウタイ(謡曲) 初 祝,その後に雑煮御酒被下」
6.京都では江戸中期に貧乏人も雑煮
を祝う
はじめのいわい
[北朝貞治3年(1364)1月2日]とあり,3日,
8日にも祝っている。
その後,正月に雑煮を祝う文化は禅林(寺)に
雑煮は京都で誕生してから庶民にまで普及する
も広がり,京都北山にある鹿苑寺(金閣寺)では
のは早い。雑煮は京都生まれの京都育ちといえる。
冷や酒に添える雑煮は「丸小餅,豆腐,サトイモ,
京都の年中行事を書いた『日 次 記 事』に『今 朝
ろくおんじ
ひ なみ き
りょうせんぞうにを
じ
け
さ
く ら う
良 賤 食 二雑煮一』
[貞享2年(1685)元旦]とある。
このころは昆布だしを用い,白(甘)味噌仕立で
ある。昆布でだしを引く文化は室町時代からあり,
白味噌は戦国末期か江戸初期にあったと言われて
いる。京都の市民の雑煮の具が分かるのは江戸後
期の商家の記録である。文政7年(1824)の記録
では午前4時ごろに起き,「年男(一家の主人か
長男)が汲んだ若水とおけら火(大晦に八坂神社
きよ
でもらう浄められた火種)で雑煮を煮る。雑煮,
もち,頭いも,こんぶ,大根,小いも,花かつほ
鹿苑寺(金閣寺)の雑煮 再現:奥村彪生
食品と容器
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▪ 雑煮の歴史と文化▪ かけ」とある。1700年代初めごろから京都では雑
しかし,開府当初江戸城で正月に雑煮祝をしたか
煮祝いが儀礼化している。年の初めの邪気を祓っ
どうかは分からない。おそらく元禄のころ将軍綱
た若返りの水と浄められた火で稲魂が宿る丸小餅
吉の家老であった吉良上 野 介義央のころは祝っ
と冬野菜を年男がひとつ鍋で煮る。それを年神様
ていただろう。その理由は吉良家が駿府(現静岡
と家族が分かち合って食べる直会としての政事に
県)の高家で,安土桃山のころからあり,今川流
なっている。そのために雑煮箸は両細(菱箸また
を継いだ吉良流作法の家元である。吉良流では雑
は太箸とも言う)になっており,一方は人,片一
煮の餅は四寸四方(約12cm 角)の角餅(のし餅)
方は神様が食べる神人共食用になっている。
で,具はのし鮑,昆布,搗栗,ことのばら(田作
頭芋は人の頭になるようにと一家の主人と長男
り),串鮑,若菜であった。おそらく吉良流に
に入れた。現在もそうしている。子芋は子孫繁栄
のっとった雑煮を祝っていたのではないか。のし
を願う。花鰹をトッピングするのは,雑煮祝は神
餅は敵をのすに通じ,焼けばふくらんで角が取れ,
事であるから,精進(具は野菜で構成されてい
福がくるにつながる。
る)でないことを示すためである。
それを示す資料があり,天保7年(1836)の
なおらい
こうづけのすけ
まつりごと
7.地方へ普及するのは元禄以後である
『東都歳時記』に,徳川家の雑煮に触れ,「餅,大
元禄のころになると貨幣経済が発展して金を
ナマコ),昆布,(干)鮑」とある。もちろん,こ
持った者が社会を動かすようになる。まずは商都
の時代の徳川家の雑煮餅は角餅である。そして第
大阪に伝わる。しかし,大阪の作家,井原西鶴に
11代将軍家斉[文政年間(1823ごろ)]の記録で
よると8年間雑煮を祝えなかった話やサトイモや
は「御臓煮もち,里芋,長菜(小松菜か),青昆
ダイコンばかりの餅なし雑煮の話が出てくる。ま
布,花かつほ」と質素になっている。
た,江戸後期日本一の豪商になる鴻池家も,創立
りの雑煮だったと言う。蕪を輪切りにしたものを
9.雑煮文化の全国化は江戸後期の
武家から
鏡蕪と呼ぶ。ということは年の暮れの餅が搗ける
徳川時代になると各藩の藩主は参勤交代で江戸
か搗けないかで,その家の経営状態が分かった。
住まいをする。その時に将軍家の習わしを学び,
その鴻池家の正徳年間(1711 ~ 1715)の雑煮
国元へ持ち帰る。江戸城で正月雑煮祝はいつごろ
は「松鰹,餅,大根,里芋,焼豆腐,結昆布」で
始まったか分からないが,おそらく元禄のころに
ある。この雑煮に簡単な本膳と三段重の組重(正
はあった。文化12,3年(1815 ~ 16)ごろ,江
月組重の初見で元日のみ)が添えられている。こ
戸の国学者屋代弘賢等が,各藩の雑煮の具と味付
の本膳を年迎膳という。
けを調査した時の返書が18通残っている。その質
大阪近郊の河内にも元禄のころ伝わっており,
問状には「菘(小松菜),いも(里芋),大根,人
石川村の酒屋の正月の記録に出てくる。また,同
参,田作(吉良流の影響か)など,其外に何等の
時代に名古屋にも伝わっており,名古屋城で畳奉
物候やらん」とある。その他の記録と合わせると
行をしていた百石取の朝日文左衛門がある家の婚
藩主と城下の武家とは内容は異なる。武家でも位
儀の席で食べたと日記にしたためている。
によって異なっていた。
8.徳川家の雑煮
味付けは,徳川家では享保のころ(1716 ~ 35)
先に書いたように,江戸幕府を開いた徳川家康
てになるのはそれ以後で,大阪から菱垣廻船や樽
は織田信長の招きで安土城で雑煮を食べている。
廻船で運ばれてくる下り醤油が江戸に入ってから
根,牛蒡,焼豆腐,芋(サトイモ),くしこ(干
つ
者の山中鹿之助のころは餅が搗けず,カブラばか
かぶ
か つ お
食品と容器
あおな
までは垂味噌か煮貫であったであろう。醤油仕立
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
のことである。1800年代初めは各藩では味噌汁が
ことで,味付けは味噌汁だった。
多く,醤油と味噌汁両方あるとしているのは水戸
幕末の思い出を綴った『江戸府内絵本風俗往来』
藩で(銚子や野田の地廻りか)
,福山藩ではまれに
によると「中等以上の暮らしをする武家や大商の
醤油があると報告している。伊達藩主はカツオ節
家では小松菜,大根,里芋を通常とし,味噌汁を
でだしを取り,干アワビや身欠ニシンを具にして
用いる所もあり,餅も焼く,湯煮する」
。中等以
いたから仙台味噌の垂味噌ではなかったか。城下
上の暮らしをする家では醤油仕立てのすましが多
の武家は焼ハゼである。日本料理が完成期を迎え
かったが,庶民は未だ味噌汁であった。この江戸
る文化・文政以後,醤油が全国的に流通する18世
の庶民の雑煮が後進地の東日本一帯に伝わり,土
紀後半か19世紀初めには江戸風の醤油仕立ての藩
地土地の産物を用いた。ただし,秋田佐竹藩では
が多くなり,大名のいない京都や大阪を中心に白
安土桃山時代に京都で藩主自ら雑煮を食べた経験
味噌仕立てが残ったと考えられる。そして,福井
があり,江戸初期には正月に雑煮を祝っている。
は赤味噌であった。
11.現在の雑煮文化が確立するのは
明治後半
10.江戸の庶民が雑煮祝いをできるのは
江戸末期 賃搗餅屋が出現してから
明治のご一新で肉食が大っぴらに行われるよう
江戸の街は元禄以後百万都市になるが,山手に
になる。明治44年の『東京年中行事』には,
「雑煮
武家や神職,僧職者など半数が住み,残りの半数
は簡略化され,二,
三種の具を用い,家々で異なり,
の庶民は,山手を造成する時に出た土で江戸湾を
鴨,鶏,牛肉など用いる」とある。江戸末期には
埋め立てた下町に住んだ。その庶民の多くは間口
鴨肉を団子にして用いた例はあるが,鶏肉や牛肉
九尺,奥行二間の三坪六畳の長屋に住んだ。餅を
などを雑煮に用いるなどもってのほかだった。
搗く臼や杵の置く場所もない。武家や社家,寺院,
その明治の後半に全国の雑煮を調査したご仁が
使用人の多い大商では日を定めて正月の餅は搗い
おり,その結果を『名物諸国料理』(明治39年,
たが,長屋住まいのトラさんや八っさんらは賃搗
奥村彪生蔵)に丁載している。それを資料にして
餅を利用した。
雑煮マップを作製したところ,現在とほとんど変
賃搗餅屋(引きずりともいう)が江戸に出現す
わっていない(第1図)。
るのは宝暦(1751 ~ 64)のころらしい。年の暮
その雑煮の型は明治のご一新で各藩で平準化し
の12月15日から大晦日まで賃搗餅屋は早朝から夜
た。武家社会が崩れ,「武家は平民化し,平民は
更まで移動しながら搗いた。その杵の音は江戸四
逆に武家の真似をした一種の下克上だ」と私の恩
里四方に響き渡ったという。
師,篠田統氏(日本の食文化研究の草分け者)が
おおだな
信州から江戸に来ていた俳人小林一茶は『八番
『米の文化史』に書いておられる。そのために雑
日記』[文政4年(1821)]に次の句を残している。
煮の味付けは味噌汁から醤油すまし仕立てに変え
賃搗が隣へ来たと云ふ子哉
た土地が多くある。現在公表されている雑煮は大
のし餅の中や一すじ猫の道
名家のものが幾つかあるが,その多くは明治後半
賃搗は忙しいから,上方のように1ヶずつ丸め
にできたものである。
ていては時間がかかり,商売あがったり。稼ぎを
上げるために一気にのした。少し固くなってから
12.雑煮の文化圏は4系統
家人が四角に切った。それを酒樽(一斗樽)か餅
現在,全国で食べられている正月の雑煮を分類
ぶた(長方形の浅箱)に入れた。江戸の長屋住ま
すると4系統に分かれる。
いの人達が正月に雑煮を祝えるのは18世紀以後の
①味噌仕立て,丸餅。京都の公卿・町衆風。京都
食品と容器
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▪ 雑煮の歴史と文化▪ 第1図
かち栗、かや、かずのこ
若菜、焼たいの切り身
明治後半の日本雑煮マップ
江戸時代末期の名残が見え隠れする。
町方は清汁、小かぶとその菜
きな粉、だいこん、ごぼう、
油揚、こんにゃく、するめ、
鮭はららご、塩鮭の服部
、
焼豆腐、だいこん、ごぼう、
鮭のはららご、里芋、油揚
きな粉、だいこん、里芋、
かまぼこ、鮭はららご
、だ
いこん、焼豆腐、里芋、頭芋
・山城伏見の雑煮:京によく似る。
信州松本の雑煮:切
、だいこ
ん、にんじん、ぶり
ごぼう、にんじん、だいこん、
はららご、かまぼこ、せり
、だ
いこん、ごぼう、里芋、豆腐
汁、ぶり、はまぐり
小松菜、里芋、にんじん
川魚、かまぼこの卵とじ
は清汁、里芋、だいこん、ぶり
ごぼう、にんじん、干えび
周防の雑煮:平たい丸
にんじん、油揚、干えび
里芋、こんぶ、みつば
こん、にんじん、里芋、ごぼう
、だ
いこん、にんじん、小鳥の丸
たい、京菜、かまぼこ
清汁、にんじん、ごぼう、
かまぼこ、小松菜
く、清汁、だいこん、
ごまめ、こんぶ、水菜
芋、ごぼう、にんじん、水菜
とり肉、頭芋、だいこん
伊賀の雑
高松の雑煮:丸
、だ
いこん
小松菜、里芋、かまぼこ
油揚、豆腐、里芋、だいこん
清汁、豆腐
、
を焼く、 、だい
こん、里芋、豆腐
白味
、だいこん、焼豆腐、頭芋
、
だいこん、里芋、にんじん
里芋、黒砂糖をかける
奥村彪生作図
第2図
食品と容器
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
を中心に大阪,奈良,兵庫,和歌山の北部,香
の中から変わった雑煮の幾つかを挙げる。青森県
川県(明治39年以後),徳島,福井など。福井
八戸では鯨の黒皮(塩漬の脂身)が入る。鯨のご
や徳島の山間部は赤味噌。他は白味噌である。
とく大きくなることへの願いか。岩手県盛岡のク
②醤油すまし仕立て,角餅。武家(江戸)風。東
ルミだれ。餅につけて食べる。千葉県海岸通りの
日本一帯。
ハバノリ。幅をきかせるといってこれだけトッピ
③醤油すまし仕立て,丸餅。武家(江戸)風と公
ングする家がある。東京都府中市の三日月餅。平
卿・町衆(京都)風の折衷型。西日本。
たい丸餅を3つに切る。愛知県は餅菜(小松菜に
④小豆汁仕立て,丸餅。因幡・出雲地方の都市部。
似る)だけ。名を持ち上げるにかける。福井県の
室町時代の京都の古風がこの地に伝わり,残る。
蕪雑煮。株を上げるに通じる。京都市山間部の甘
室町のころ京都の上流階級では,正月に善哉餅
を祝っていたことは関白一条兼良が著した『尺
素往来』に見える。
なお北海道(北の食文化・アイヌ食文化圏)は
明治以後に移住した人達によって雑煮文化が持ち
込まれ,ここは現在では雑多である。沖縄(南の
食文化・琉球食文化圏)では雑煮祝いはなかった
が,現在,雑煮を作る家が出てきた。雑煮文化は
本州,四国,九州を結ぶ中の食文化(日本型食文
出雲の小豆雑煮 再現:奥村彪生
化圏)であった(第2図)。
13.丸餅,角餅の分岐点は関ヶ原
私は日本のめん食を調査するために2007 ~ 8年
と2年間にわたり47都道府県を行脚した。ついで
に雑煮も採録した。丸餅,角餅の分岐ラインはう
どんのだしの濃き,淡きの分岐ラインや東西言葉
の違いの分岐ラインとほぼ一致する。
分岐点になる丸餅,角餅が混在する岐阜県大垣,
まつとう
関ヶ原から丸餅は,北は福井県,石川県白峰,松任,
鹿児島の海老雑炊 再現:奥村彪生
加賀を通り,角餅,丸餅が混在する金沢を抜け,
能登穴水から富山県魚津を通過して,新潟県佐渡
を更に北上して山形県鶴岡,酒田と結ばれる。逆
に南下すると滋賀県から三重県名張(飛地として
伊勢)
,和歌山県新宮を西南へ寄ったラインとなる。
しかし,彦根市は丸餅だがすまし派が多い。藩主
の井伊家は遠州出身だから京都風と折衷したので
ある。人の移動で食文化も移動する何よりの証だ。
14.変わり雑煮のいろいろ
宮城県塩竃の干ホヤ雑煮 再現:奥村彪生
雑煮ほど地域の特徴を表した食べ物はない。そ
食品と容器
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▪ 雑煮の歴史と文化▪ 味噌包み餅の具なしの湯雑煮。神戸市長田では鯨
鶏肉は東北,関東,東海,九州などである。北海
肉。昔捕鯨船に乗っていた人がこの地区に多くい
道では豚肉を用いる家がある。長崎は中国の卓袱
る。奈良県山辺のきなこ雑煮。きなこを稲の花に
料理(中国風の料理)の影響を受け,鰤の他に鶏
見立てて餅につけて食べる。福井県小浜では黒砂
団子や干なまこが加わる。
糖をトッピング。香川県では小豆餡餅の白味噌仕
野菜は大根,人参は全国的だが,里芋は関東,
立て。ここは歴史は浅く明治39年(1906)以後で
近畿,中国,四国,九州に多く見られる。ごぼう
ある。鳥取県八頭は栃餅,鹿児島は頭芋に大豆も
は東北に多く,関東や信越,北陸,中国,九州の
やしをかつらにして出世を祈る。
一部に見られる。蕪は福井の他に山口でもよく使
や
しっぽく
ず
う。そして青味は,せりは東北,信越,小松菜は
15.だしにも地方色あり
関東,東海。水菜(またはみぶ菜)は京阪中心に
雑煮の味をうまくするのはだし。だしの文化は
関西や中国地方の一部。ほうれん草は中国地方や
中国伝来だが,室町時代に奈良時代からあった昆
四国の一部である。岩のり(十六島海苔)は鳥取
布(kombu:アイヌ語)や鰹節(麁鰹魚)を使っ
の弓浜や大山。その他三つ葉や高菜など冬野菜が
て引く文化が生まれた。味噌や醤油の製法も中国
中心になっている。
伝来である。雑煮の発生地の京都は昆布。大阪は
鰹節を併用。鰹節は東京を中心に関東,北陸,東
17.なぜ雑煮の具に地方色があるのか
海地方で主に用いる。煮干は青森,山形,茨城,
日本列島はユーラシア大陸の東端に位置する亜
兵庫,香川,山口,高知,宮崎などに及んでいる。
寒帯から亜熱帯までに属する島国である。北から
アゴ(飛魚)は北九州,焼ハゼは仙台を中心に,
寒流が南下し,南から暖流が北上し,日本列島を
東京の葛飾区でも用いる。宮城県塩竈では焼ハゼ
包む。その上,地形が変化に富む。そのために,
の外に焼ドンコ(エゾアイナメ)や干ホヤ,釜石
地域で気候風土が異なるために,産物は異なる。
では生ホヤを用いる。焼干アナゴは広島の尾道,
その産物を利用して雑煮を作るとなるとおのずと
因島。アサリ貝は山口県岩国。草フグは秋田県男
地域色が出る。その上,家柄や職業ならびに収入
鹿,福島県岩城,広島県福山。するめは石川県小
によって中身は異なる。そのことは正月に用いる
松,福岡県久留米。干エビは小豆島や鹿児島市。
魚(正月魚)にもいえる。例えば,45年前,私が
その他鶏がらや豚肉,エソ,ボラ,干椎茸など実
飛騨高山で聞き書をしたころ,金持は塩鰤(飛騨
に多士済済である。しかし,現在ではだしの素を
鰤),中流は塩鮭か塩鱒,下流は塩鯖で,それ以
使用する家庭が増えており,地方色がだんだん薄
下は塩いかであった。それすら買えない家があり,
れている。
仕方なく油揚を使ったという。
うっぷるい
あら か つ お
16.タンパク質源にも郷土色
豆腐と油揚げは信越,関西。凍豆腐は東北,信
18.正月迎えは生命の更新,精進の
若返りの儀礼
越。鮭は新潟,青森県弘前など。鰤は飛騨,信州,
先に京都における正月の雑煮祝いは儀礼化して
丹後(京都府宮津や舞鶴も含む),但馬,丹波,
いると書いた。皇室の図書寮に勤務していた茶の
南紀,中国,山陽,北九州。鯨は,黒皮を用いる
研究家であった林左馬衛氏宅では,古風にのっと
のは青森県八戸,赤身は神戸市長田。車エビは東
り,大晦日の夕食(神迎膳)が済んでから左馬衛
京。イワシすり身は富山。かまぼこは全国的。宮
氏ご自身が身を清め,装束を正して神社に詣でて
城県塩竈では干ホヤ,広島はカキ貝を用い,山口
隠 ったという。西日本では江戸時代から土地に
県岩国ではアサリ。これら貝類はだし兼用である。
よって日を決めて神宮(伊勢)や金毘羅宮に詣で,
食品と容器
こも
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
元旦の朝までに帰ることもしている。ひと時隠る
祝膳の主役として定着した。まさに一味同心[後
ということは擬死を意味する。除夜の鐘を境にし
白河法皇起請文(文治3年5月1日)その2カ月
て生き返る。これを日本民俗学では擬死再生とい
後に源頼朝が使っている]を計る食べ物であった。
う。
た。太陽が沈むと一日の始まり,ために神迎膳を
20.雑煮は文化財的食べごとの遺産
である
する家が現在も東北に多く残る。また正月を迎え
その雑煮を煮る浄火を汚さないために,中国の
る時節は春近しであった。春になると草木の新芽
寒食[冬至から百五日目の清明(春分のころ)に
がいっせいに萌える。草木の生命の更新である。
春の新しい火を迎えるための作り置きの食べ物]
人も同じように生命(精神)の更新をはかって来
の思想の影響を受け,三箇日分の煮染を大晦日に
る年も家内安全,商売繁盛,豊農,豊漁を願って
作り,重詰にした,と考えられる。
新年を迎えた。
重詰料理は時代と共に内容は変わり,今やフレ
19.雑煮は家族,親族の結束をはか
る食べ物だった
ンチやイタリアン,中国風の料理が詰められてい
元旦早朝に起床し,1年最初の若水を汲み,浄
り変わることなく継承されている。ある若い夫婦
められた火を用いてひとつ鍋で煮る雑煮は,聖な
の家では元旦は主人,2日は嫁,3日は創作雑煮
る水と浄めの火の力の合力によって煮られた,人
とバラエティー型にしている。だが,現在は雑煮
間に活力を与える聖なる食べ物だったのである。
を煮るのはほとんど主婦である。雑煮は昔ほどの
それを分かち合って食べることにより,家族なら
厳かさは失われたが,まさに文化財的食べごとと
びに親族の結束をはかるための装置として正月の
いえる。缶詰にして永久保存したいものである。
明治以前は月の満ち欠けを基準にした暦であっ
食品と容器
はん し
る。それに対し,雑煮は主人型か嫁型かといった
力関係でその家の雑煮は変わるものの,代々あま
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2015 VOL. 56 NO. 1