Title Author(s) Citation Issue Date Type 明治における二重の創造的対応 : 士族授産企業「小野田 セメント」の事例から 米倉, 誠一郎 同志社商学, 63(5): 1-24 2012-03 Journal Article Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/23108 Right Hitotsubashi University Repository (365) I 明治 における二重の創造的対応 : 士族授産企業 「 小野田セメ ン ト」の事例 か ら 米 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ 倉 誠 一 郎 は じめに 財政再建 と士族解体 士族授産企業 小野田セメン ト 小野田セメン トの革新性 結 語 Ⅰ は じめ に 1 868年, 日本の下級武士 たちは 268年続 いた徳川政権 を打倒 し,新 たに明治政府 を 打 ち立てた。 日本はアジアの中で もいち早 く近代化 の道 を進み,植民地化の危機か ら脱 したのであった。 こう書 くと維新政府 はい とも簡単 に封建制 を打倒 し,近代国家が きわ めてスムースに成立 したかの錯覚 に襲われる. しか し,200年以上 にわたって築 き上 げ られた精微 な分権 的 システムを打倒 し,新たな中央集権 システムを打 ち立てることがい かに困難 な作業 だったのかは,現在の 日本の状況か らして も想像 に難 くない。第二次世 界大戦後か らわずか 50年程度続 いた 自民党政権 が崩壊 してか ら現在 に至 るまで,既 に 20年近 くが過 ぎ去 った とい うの に,い まだ政治的混迷 は収 まってい ない。その現代 に i n e ト 比較 して,迅速 な通信や輸送手段が未発達な当時,200年 に もわたる慣性モメン ト( t i a ) を断ち切 り,新 たな政権 を樹立す ることは想像 をはるかに上回る困難 な事業 だった 9世紀半 ばのアジア地域 は英清 アヘ ン戦争 に代表 され る植民地争 のである。 しか も, 1 奪戦の渦中にあった。その中で,統一政府 を樹立す るとい うことは,中央集権政府 を確 立す る作業 にとどまらず,列強諸 国か らみて も強固な政治的 ・経済的基盤 を確立す ると いうことに他 な らなかった。 さらに,新政権 の中枢 に登場 した下級武士 たちは,年齢 も若 く統一国家 を運営す る と 8 67年,薩摩 の長老 といわれた西郷隆盛,大久 い う経験 も皆無であった。維新前年の 1 保利通で さえ 40歳 と 37歳。長州の筆頭であった木戸孝允 3 4歳,井上馨 は 32歳で,伊 藤博文はまだ 26歳 に過 ぎなかった。無血革命 の立役者坂本龍馬は 32歳で この年 に暗殺 され,明治初期 の外交 ・財政 を担 った大隈重信 も 29歳 になったばか りであ った。彼 ら は幕末憂国の志士ではあって も,近代 国家 を運営す る政治家で も官僚で もなかった。 こ 2 (366) 同志社商学 第63巻 第 5号 ( 2 01 2年 3月) うした幕末の志士 たちを維新政治家 ・維新官僚 に成長 させ たのは,列強諸国 と対時 しな ければな らない とい う外交的 自覚 と,独立のために も不安定 な財政基盤 を立て直 さなけ ればな らない とい う経済 自立心であった。 明治初期の外交 と財政 を担 った大隈重信 をは じめ とす る幕末の志士 たちが,外交 を通 1 じて独立国家の官僚か ら政治家 になっていったことについては別稿で述べた。本稿の課 題 は,外交問題 に端 を発 した財 政問題 が,彼 らを維新政治家 ・官僚 に したばか りで な く, さらには彼 らの出身母体である士族層解体 を必然化 した状況 を明 らかす ることであ る。財政再建のために出身母体 を解体す るとい う課題 において,維新官僚 たちは きわめ て創造的な対応 を示 した。旧武士階級 とい う身分 を公債で買い入れ, さらにその公債 を 産業資本に転換す る とい う構想 を措いたのである。ただ し, こうした構想 もその担い手 となる創造的対応者す なわち企業家がいなければ実現 は しなかったO明治維新 に廟 して は既 に多 くの研究蓄積があるが,封建制解体 と工業化 における士族層の具体的役割 につ 2 いて実証的に検証 した研究は少ない。 明治の革新的制度変革のあ り方 と,それに適応 した旧士族層の創造的な対応 ( c r e a t i ve r e s pons e) を明 らかにす ることが本稿の課題である。 Ⅱ 財政再建 と士族 解体 明治政府は成立早 々,徳川幕府の外交的無知 と列強諸国の胴喝外交 に乗 じた,欧米商 人たちの金貨流 出に対応 しなければな らな くなった。 1 854年 に結 ばれた安政条約 にお いて,徳川幕府 は一分銀 311枚 をメキシコ銀貨 1 00 ドル と究換す ることを一方的に約束 させ られていた。 この条約上の比率 に 目を付 けた外国商人たちは, メキシコ銀貨 4枚で 2枚 を買い,その 1 2枚 で小判 3枚 を買 った。小判 3枚 は海外 において地金 とし 一分銀 1 2枚分 の価値があ ったため,労せず して 3倍 の利益 を得 ることが て売ればメキシコ銀 1 3 出来たのである。 さらに,維新後明治政府が大量発行 した不換紙幣である太政官札 もそ の究襖 を巡 って,外 国商人たち との紛争 をもた らしていた。 この混乱 を収拾す るために 横浜に派遣 されたのが,外交副知事 になったばか りの大隈重信であった。長崎 における キ リス ト教問題で手腕 を示 し,横浜外国商人 との折衝のために急速横浜 に派遣 された大 隈が,横浜で発見 した事実はこの混乱の根幹 は外交問題ではな く, 日本の財政問題す な 」r 1 拙稿 「 志士か ら日本人へ 外交官大隈重信 一橋 ビジネス レビューjvol 58 -4,2 01 1年春号 2 -番体系的なものは,吉川英造 r 士族授産の研究j.有斐臥 1 935年であ り.詳細 な士族企業のサーベ イは優れているが,身分の資本への転化 とい う視点あるいは具体的な事例分析 はない。最近では,落合 弘樹 丁 秩禄処分J 中公新書,20 05年が秩禄処分のプロセスを丹念 に追 っているが.授産企業の分析は ない。 3 この経緯 は岡田俊平 r 幕末維新の貨幣政策1,森山書店.1 955年や三上隆三 r 江戸の貨幣物語」東洋経 済新報社. 1 996年に詳 しいO 明治における二重 の創造的対応 ( 米倉) (367)3 わち内政問題であるとい うことであった。 倒幕が達成 されて も,中央集権化が順調 に進みんだわけではなかった。幕府直轄領は 抑えた ものの,行政機構 も徴税権 も各藩に温存 されたため,新政権 は税収不足 を補 うた めに不換紙幣の増発 を続けた。 また,規律の緩 んだ各藩 も貨幣改悪に加 えて,独 自に藩 幣を不規則 に発行 し続 けた。その結泉 新政府 は大量の金貨流出に悩 まされただけでな く,不換紙幣の扱いを巡 って外国商人たちと頻発す る係争に巻 き込 まれたのであった. 横浜における外交問題が実は日本の財政問題 と気づいた大隈は,当時会計事務掛であ った由利公正 を痛烈 に批判 し,統一貨幣発行 と財政再建 を具 申 した。その結果, 1 869 ( 明治 2) 年大隈はい きな り由利の後任 として大蔵大輔 に任ぜ られた。大隈は廃藩置県, 地租改正,官営工場の建設による殖産興業 など様 々な財政改革 を試みたが,明治財政 を 改革 し,究換紙幣の発行 を実現す ることは出来なかった。 1 869 ( 明治 2) 年の推計か ら 見ると,明治政府の総収入は硯米高約 1 98万石で,総支出は内外債の利子 を含めれば約 . I 324万石 とな り, 1 26万石が赤字であった。 しか も,政府が直轄支配で きていたのは全 国 3000万石の うち 800石足 らずで,多 くは依然 旧藩主層によってコン トロールされて いた。 さらに,不平等条約のために 1 8 76 ( 明治 8) 年に至 って も, 日本国の関税収入は 全収入の僅か 3. 2パーセ ン トに しか過 ぎず,明治政府 にとって国内総収入 をその支配下 に置 くことが急務であった。 しか も,近代 国家樹立のためのインフラス トラクチ ャー整 備,洋式軍隊の確立,輸入防過のための殖産興業振興 など,近代化政策のための財政支 出は増大する一方であった。 0月か ら翌 72年 1 2月 までの歳 出 5044万 円余 の内, その財政難 にあ って,1871年 1 家禄 ・賞典禄 ・寺社禄 といった華士族 に対す る秩禄 は 1 607万円余に達 し,政府支 出の 5 うち約 32パーセ ン トを占めるにいたっていた。士族階級 は新政府 にとって大 きな財政 負担であるばか りか近代国家樹立の阻害要因になっていたのである。 この事実は,維新 功労者で もあった下級士族 にとって新政権への失望に もつなが った。 しか し,外交問題 と財政問題 に直面 しなが ら志士か ら維新官僚 に成長 した新政権 の リー ダーたちに とっ て,士族解体 に私情 を挟 む余地はな くなっていった。 とくに.貨幣統一 を果た し,正貨 流出を止め,健全なる財政再建 を課題 とした大隈財政にとって秩禄経費は早急 に削減す べ き対象であった。 明治維新の推進者であった下級武士たちは革命主体であると同時に,解体 されるべ き 封建体制の構成貞で もあった。徴兵制に基づ く富国強兵や封建制 を否定する四民平等 と いった明治政府のスローガンは, まさにそれ らを打 ち立てようとす る武士階級の存立基 盤 を否定す るものだった。かつての同胞 ・戟友で もあ り, しか も一定程度の武力 を所有 4 前掲丹羽 r 明治維新の土地変革1. 1 20ペ-ジ。 5 田中彰 r 体系 日本 史 5明治維新J, 日本評論社 , 1 967年 . 1 48ペー ジ。 4 (368) 同志社商学 第6 3巻 第 5号 ( 201 2年 3月) する武士階級の解体 は,新政府 にとって決 して易 しい課題ではなかった。 1 .版籍奉還 ・家禄奉還 ・徴兵制度 藩政解体の第一歩は, 1 869 ( 明治 2) 年に行われた版籍奉還であ り,これによ り各大 名の領地 と領民は天皇へ返還 された。版籍奉還 とは実質的に 2 00年 と続いた封建体制の 終蔦 を意味 し,武士階級 にとっては鎌倉幕府以来続いた既得権の返納であった。そのた め,その扱いや手続 きは意図的に暖味にされ,かつ戊辰戦争 における官軍側の戦功 を武 士階級に与 える形で緩衝 された。この戟功に対す る報奨金は賞典禄 と呼ばれ,その額 74 万 5750石 ( 2 0万 33 76両)は国家財政の 3割 に達 した。 また, この賞典禄 は旧藩主 ・ 家臣団に篤 く配分 され,封建体制の打倒の報償であ りなが ら旧体制 を温存す る方向で進 め られた。 まさに, こうした緩衝案が初期維新政権 の脆弱性 と半封建性 を物語 ってい 6 る。 しか し,この乱発 された賞典禄 自体が後 に明治財政をさらに圧迫 し,武士階級の存 続基盤解体 を速める原因 となったのである。 版籍奉還に次いで明治政府 は,「 一門以下平士 に至 る迄総て士族 と可称事」 と,各藩 の藩士 をすべて士族 と改称 した。 ここで,は じめて士族 とい う社会階級が誕生 し,明治 日本には華族 ・士族 ・平民 とい う三つの階級が出現 した。 しか し,各藩には家老か ら下 級徒士 にいたるまで さまざまな階層があるため,すべてを士族 と称することには抵抗が あ り,各藩では上土,中士,下士,あるいは一等か ら九等 などの等級 を付 けて士族の中 にも階級 を維持 しようとした。 しか し,翌 1 8 70年 9月の薄利制定に したがって,「 士族 卒の外別に級あるべか らざる事」なる通達が出され,旧武士階級は士族 と卒の二階級 に 7 改め られた。卒族 とは下級士族や足軽′ J 、 者など准士族 というべ き階層である。 こうして出現 した士族 ・卒階級が封建階級 としての特権 を失ってい くのは早 くもその 翌年か らであった。明治政府の掲げる 「四民平等」は,幕藩体制 を担 って きた武士 を他 の階級 と全 く同等 と見なす ものであった。 1 871 ( 明治 4) 午, まず新政府 は華士族平民 8 相互の婚姻 を認め,翌年には訴訟 を扱 う白州上での四民平等が明記 された。階級間婚姻 の 自由や白州上での平等は, まさに明治の大義 を示す ものだが,士族にとってはこれま での存在理由の否定 に他 ならなかった。 さらに同年,それまで士族によって独 占されて きた官職 も四民平等が適応 され,政治 ・行政の中心 を成 して きた武士階級はその独 占権 6 この点について.丹羽邦夫は 「この貨典禄 をめ ぐる対立が.大 きな政争 とな らなかったのは,なお官僚 群形成が未熟であ り,内政面において.領主的統治策 と対置すべ き彼 らの政策が未だ醗成 さd tるにいた っていない」と述べているが.官僚制国家の樹立はこれか ら先のことだったのであるO ( 丹羽前掲昔.79 ページ。) 7 士族の成立 ・解体そ して授産については吉川秀造 r 士族授産の研究j 有斐臥 一九三五年.が最 も体系 的で.ここでの記述はその多 くを同書に依拠 している。下級士族 と卒族の定義は藩 ごとに微妙 な差があ り,かな りの多様性 をもちなが ら藩 ごとに制定 されていったとい う。 8 吾川秀遣 r 士族授 産の研究J, 1 4ペー ジ。「白州上の取扱坂 に於 て尊卑 の分界 を立てず, 官B. 華士族平民に至 る迄同様たるべ き事」 と裁 きの場での平等が明示 された。 明治における二重の創造的対応 ( 米倉) (369)5 も失った。同時に政府 は,士族が士族籍の まま農工商の職 に就 く事 を解禁 した。それ ま では武士が農工商職 に就 く場合 は必ずその籍 を放棄 しな らなければな らず,それが解禁 された とい うことは,士族 とはたんなる名称であって 「 政 を司る特権 的階層」ではない とい う宣言 に他 な らなか った。続 いて 1 873年家禄奉還の布告が な され,士族階級 は封 建制度の基盤である 「 家禄」 を自主的に新政府 に返還す る事 となった。政府 は,家禄 の 返還 は属籍の返還ではない としたが,実 は士族籍 と家禄の分離 は武士階級の消滅の第一 歩だったのである。 なお決定的であ ったのが徴兵制 であった。兵力す なわち軍事力 は,「い ざ鎌倉」 とい う言葉が端的に示す ように,ひ とたび戦時になった ときに奉公 をす ることで平時の俸禄 973 ( 明治 6) 年 に徴兵制 を布告 し,国 を正当化す る武士 の特権であった。明治政府 は 1 民皆兵 を前提 とした中央集権型軍隊編制 を断行 した。国民皆兵 とい う概念は集権 国家樹 立 には不可欠 な考 え方であったが,数百年 間その特権 と して名字帯刀 を許 されて きた 「 兵士 としての武士」 に とっては,その存在意義の決定的 な否定であ った。封建制の支 柱である 「 御恩 と奉 公」 における軍事 的 「 奉公」 とい う特権が な くなれば,御恩す なわ ち俸禄 をもらう根拠 も消失す る。幕末長州で高杉晋作 によって編成 された奇兵隊は,士 族 に限 らず農民で さえ強力 な軍隊 を構成で きる可能性 を開いていた。その意味で,高杉 晋作 は単 に雑草的な混成部隊 を作 っただけでな く,明治政府の徴兵制 に対す る自信 を植 え付 けていたのである。硯 に徴兵制 を推進 したのは晋作 の弟子 山県有朋であった。 こう して既得権益が明治の大義の名の下で次 々と剥奪 されてい くの を見て,維新の実 行者であった士族 とくに下級士族たちの不満 は増大 していった。維新の功績 に支払われ た賞典禄 も実 は旧藩主層や家族 に篤 く,実動部隊であった下級士族 に薄か った。 したが って,不平士族の乱 はまさに維新 に功労のあった藩で続 出 した。 1 8 74 ( 明治 7) 年 に大 隈の出た佐賀では前参議である江藤新平 に率い られた佐賀の乱が勃発 し,大久保利通 に 876年 には熊本の神風連の乱 とそ] ′ 吊二呼応 した福 岡 ( 旧秋 よって無惨 に弾圧 された。 1 月藩)の秋 月の乱,そ して長州 山口において も前参議前 原-誠 に よる萩 の乱 が勃 発 し た。そ して 1 877年 ( 明治 1 0) 年 には,征韓論で下野 していた維新第一の立役者西郷隆 盛 を中心 に鹿児島で蜂起が起 こ り,西南戦争 に繋が ったのである。 2.秩禄処分 と金禄公債の革新性 1 869 ( 明治 2) 午,大久保利通や木戸孝允の主導で版籍奉還 に ともなって家禄奉還 も 行 われ,家禄 は政府か ら支給 され る形 とな り,禄制 は大蔵省が管轄す ることとなった。 翌年 に,先ず公家 に対す る禄制改革が実施 され,華族層 を 「 天皇の藩犀」 として宮 内省 5年間にわた り 1万 5000円が下賜 されるなど篤い保護が進 の統制下 にお き,皇室か ら 1 9 め られたo 6 (370) 同志社商学 第6 3 巻 第 5号 ( 2 0 1 2 年 3月) 公家の改革 に比べて,士族の秩禄処分 は問題の性質か らいって時間がかかった。財政 876 状況がかな り逼迫 して も,士族保護 を主張す る西郷隆盛 らによって,処分の実施 は 1 ( 明治 9)年 8月の金禄公債証書発行条例交布 まで実現 され なか った。 この金禄公債発 行の対象は,大名 とその家臣団約 1 9万世帯であ り, これの発行 と受領 によって旧士族 に支給 された俸禄 は最終的に消滅 した。秩禄処分の もっとも重要 な側面 は,公債発行 に よる士族身分す なわち封建体制その ものの 「 有償撤廃」 とい う側面である。新政府 は士 族 たちの家禄 を一方的に廃止す るかわ りに,彼 らの俸禄 に応 じた金禄公債 を一時発行 し,年 5か ら7分の利子収入 を保証す る形で, 自らの出身母体である旧士族層 との乳控 を最小限に しようとした。客観的にいえば,明治政府 は旧士族層の特権 と身分 を一時金 によって買い取 ったことであ り, また彼 らは自らの身分 を新政府 に売 り渡 した とい うこ とであった。 明治維新 は,260年続いた徳川幕府 を打倒 し,天皇制 とい う絶対王制 を復古 した とい う側面 と,四民平等観 に基づ く市民革命 を遂行 した とい う側面 を同時に もち合わせた革 命であった。市民革命 は封建制度 に安住 した特権階級の既得権益 を破壊 しなければ成立 しない。そ して多 くの場合,多量の流血 を招 くのが常である。 イギ リスの クロムウェル 政権 による弾圧, フランスの ジヤコバ ン党による粛正 など血 なま ぐさい歴史が展開 され 688年の イギ リス 「 名誉革命」が無血革命 の事例 といわれ るが,明治維新 は ている。 1 最 も血 なまぐさ くない革命 であった。 もちろん,維新の過程で坂本龍馬 をは じめ として 多 くの志士や幕軍 ・官軍に多 くの死者 は出ているが.それは市民革命 による旧支配層の 一掃 とい う形の ものではない。 さらに, この無血革命の裏側 には,最終的に旧支配層の 身分 を公債化 し,同時に士族授産政策 を実施 して公債 を産業資本 に転化す る, とい う優 れた政策デザ イン,す なわち 日本の創造的対応が存在 した。 現在の公務員 をい ったん全員解雇 して退職金 も国債 での支給 とし,そ 秩禄処分 を,「 1 0 の うえで必要最小 限の人員で公職 を再編す る とい うような措置」 と例 える解釈があ る が,実態 はそれ以上のイノベ-テ イブな政策デザ イ ンであった。 なぜ な ら,国家公務員 の退職金 を富国策の産業資本へ と転化 し,彼 らの うち進取の精神 をもった もの を近代化 を担 う企業家 ( ア ン トルプルヌア) にまで昇華 させたか らである。 1 876年 ( 明治 9) 午,家禄 を最終的に廃止す るに当たって,明治政府 はそれ までの金 永世禄」 ,「終 身禄」,「年限禄」の 3種 に分類 し,第 1表の ように発行基準 を定 禄 を,「 めた。 約 1億 7256万 円を発行す る結果 となったが,1 000 この金禄公債 は約 32万人の士族 に, 9 吉川秀造 r 士族授産の研究j。 また. 1 884年の華族令制定 によ り蕗位制 を創設 して,元勲や将官 な ど勲 巧者 を華族 に編入す るかたちで華族制度 は補強 され.貴族 院の基盤形成が進め られた。華族制度の拡充 は.後の帝国議会開設による民権派の政局参入 に対す る準備の一環で もあ ったのである。 1 0 落合弘樹 r秩禄処分」, まえが き 1 1ページ。 明治における二重の創造的対応 ( 米倉) 第 1表 金禄高 ( 推定現石) 公債の種類 利子 年限 A (37 1)7 秩禄処分の階層別実態 金利の 対旧収 入% 公債受取 公債総 1人平 均 1000円以上 ( 22 0石以上) 5分 ( 1 2 0 2 0石以上) 円以上 6分 7. 75-ll . 00 46 -7 4 1 ( 5 4 , 3 7 7 0 . 2 ) ( 1 8. 0)% 60, 527 ( 2 . 2円以上 石以上) 1 0 7分 l l . 5 0-1 4. 00 88 -98 2 62. 9) 25( , 0 1 3 4 8 . 3 , 9 ) 57 1 , 628 売 買家禄 C 一割 ( 83 , 3 . 7 1 ) 7 3 ( 5 日. , 3 0 34 ) 1 08 ( , 6 8 2 3 . 8 3 , ) 01 3 9, 3 ( 4 5 7 . 4 , 6 ) 57 41 5 2 6 3( 1 1 3 0 , 5 01 ) 7 1 7 4 ( . 6 l o 3 o 8, ) 21 5 55 5. 00-7. 5 0 3 4-44 1 0. 00 合計 人員 5 人 発行額 9 % 3ー41 (1 358 6 円 円 A 公債の 57 「 年限」とは公債額を定めるために金禄高に乗ずる年数のこと。B は金利取得 禄税差引の金禄手取高に対する比率ocの 92% は鹿児島が占め.同県庁発給金禄公債の 額の 6 %を占める 出典 石 井 。 寛 治著 1 976 r 日本 経 済 史」p9 4. 4 円以 上 の 金 禄 ( 5分 付 き) を受 け た の は全 東京 士大族 学の 出版 うちの 会 0. 2% の 旧 藩 主 層 に 83. 7% とい う大 部 分 は 7分利付 き公債 を受 け取 り, その年利 収 入 は 29円 過 ぎず, ったのであ る。利子収入 I l だけで生活 で きるの は ご く少 数の上級士族 のみで, 5銭 しか なか は新 たに職 に就 くか金禄公債 を売却 して急場 の凌 ぎに当て る しか なか った。さ 多 くの もの 877 らに ,1 ( 明治 1 0) 年 の西南 の役 の軍費調達 の ため に乱発 された不換 紙 幣 に 価値 をます ます下落 させ た。士族 の窮乏 は決定 的 になった。政府 は急速 よる イ な ンフ レは公債 878年 8月には政府 に よる公債 の買 い上 げ制度 を設値下が け,額 りを鑑 み て,公債 発行 直後 の 1 円に対 して ,5分利付 き 6 4円,6分利付 き 73円,7分 利付 き 8 3円で買 面 1 00 い上 げことと 879年 1 2月で打 ち切 られたが, わず か 1年半 の間で買 した。本制度 は翌 1 い上 げる 911万 1 000余 円 に上 った。す なわ ち発行 額 の 1 7パ ーセ ン トが, 公債 は 2 られた わず か 1年 半 しか も原価 の 7掛 け程 度で士族 の手 か ら離 れたのであ る。 1 2 それほ ど士族 の窮乏 は激 7% 償 却 した とい う しか ったが ,逆 に言 えば,明治 政府 は 自 らの負債 を 7掛 けで既 に 1 で 一方新 もあ った。 政府 に とって,知識 層 であ り政治 に も強い関心 を もつ士族 せ ,反政府運動 の 中核 に して しまうこ とは好 ま しい事態 で はなか こと た ち を単 に窮乏化 さ る有効 な策 の ひ とつ は,何 らか の役 職 を与 え る こ とだが,公 職 の った。両方 に対 処 しう り, また財 政負担 を増 やす こ とで もあ った。 そ う した中で,政府がポ ス トには限 界が あ たのが 士 ち士 族会 を何 らか 最 も有効 的 な政な対策 策 で あと る。 し 1 1 石 井 寛「 .なわ 東京大 学 出版 ,1 9 76年 の 産業 に就 業 させ る包括 治 族授 r日本産」 経 済,す 史J 8 (37 2) 同志社商学 第63巻 第 5号 ( 2 01 2年 3月) 国内統治の安定化 を図るために,不平士族 を徹底的に取 り締 まる一方,彼 らを産業振興 の担い手 とす る士族授産政策 を推進 したのが内務卿大久保利通であった。 欧米視察で列強 との差 を眼の当た りに した大久保 内は,「国家安寧,人民保護」 を中 心課題 とす る強大 な管轄権 を持つ内務省 を設立 し,地方官の監督や警察機構 の拡充 と同 時に,諸国の勧業政策 ・各種事業の振興 をはかろ うとした。 しか し,同郷 同僚の西郷隆 盛 による征韓論, また大隈初期財政の失敗 によ りその振興 は遅 々として進 まなか った。 大久保 は秩禄処分が決定的 となった段 階で,「国家安寧」の観点か ら本格 的 な士族授 産 の計画立案 に着手す る。 1 88 6( 明治 9)年大久保 は大蔵卿大隈重信 と連名で 「 貸付 局設 立並 びに資本手形発行の儀」 を建議 し,禄制廃止 による余剰金 を元手 に資本貸付機関 を 設け,民間産業への融資 と士族授産事業への資金貸与 を行 うこととした。士族 に対す る 0年 に展 開 した士族授 産事業の中核 となる。 この時期大久保が推進 資本貸与 は,明治 1 した士族授産事業 としては,政府直営 による東北 開墾,福 島における二本松製糸工場支 援一郡 山における安積原野の開発事業 などがある。大久保 は,未聞の原野 を肥沃 な農地 に作 り変えるとい う使命 を既得権 を奪われた士族たちに与 えようとしたのであった。貸 付金 は極めて順調 だったが,大久保が構想 した士族開墾事業 は入植者の旅費や管理費な ど膨大 な経費がかか り.あ ま り順調 に進捗 は しなかった。 一方,貸与 を受 けた士族授産企業 は,当時の主力輸 出品であった製糸業や製茶業 な ど の分野で先駆的役割 を多 くの地方で果た し,漆器,陶芸,織物 な ど特産製造の拡大 に成 功 した例 も稀 でない。 しか し,牧羊業 にみるように,輸入削減の立場か ら欧米の技術 を 直輸入 しようと試みたが,結局 は国内条件 とうま く適合せず失敗 した事業 もある。 この 貸付金制度は帝国議会 開設直前 に減免 され大部分が回収 されなかったため,士族授産事 業 は失敗 だった とす る見方 もある。 しか し,直接事業 としての成功 を達成で きなかった として も,当時の数少 ない知識階級であった士族層が,西洋の技術 や企業 システムを導 入における初期事業 リスクを担 った点,あるいは公債のほ とん どを産業資本 に転化 した とい う点において, この授産事業が 日本近代化 に果た した役割は大 きい。 ヒルシュマイ 士族 は,労働力 と して工業化過程 に吸収 されたばか りでな く,積極 的 ヤー ・由井 は,「 な人 々は,すす んで工業化計画 に協力 した。 この事実 は, 日本の武士階級が,た とえば ロシアの貴族 とちが って,向上心 と倫理感覚 をもつエ リー ト階級であったことを示 して 1 3 いる」, と高 く評価 している。 しか し,明治初期の知識 階層 と しての士族のあ り方や士 族授産 を通 じて公債が どの ように資本 に転化 されたのかについての実態 はほ とん ど触れ られていないのである。 1 3 J .ヒルシュマイヤー ・由井常彦 r日本の経営発展 ●近代化 と企業経営J,東洋経済新報社, 1 97 7年 -1 06ベー ン。 1 04 明治 にお ける二重 の創 造 的対応 ( 米倉) (37 3)9 Ⅲ 士族授産企業 :小野田セメン ト 秩禄処分 と士族授産政策の統合が封建 身分 を公債化 し, しか もそれを近代事業資本 に 転化す る とい う国家 レベルでの創造的対応であったことは既 に述べ た。 しか し,国家が 内憂外患の危機的状況で きわめて創造的な対応 を した として も,その政策 に対 して同 じ く創造的な反応 を示す階層 ( それ こそが企業家 -ア ン トルプルヌアたちなのだ)が存在 しなければ,経済発展 などあ り得 ない。その意味で,後発国の経済発展 には政府や官僚 たちによる制度的対応 と,民間企業家 による企業家的反応 とい う二重の創造的対応が必 要 なのである。 ここでは,小野田セメン トとい う具体的事例 を通 じて,政府の秩禄処分 と授産政策 に企業家的明敏性 ( e nt r e pr e l l e ur i a la l e r t l l e S S ) をもって反応 した士族授産企業 のケースを検証 し,明治における二重の創造的対応 に迫 ってみることとす る。 明治 14年)現在 の山口県小野 田市 に設 ここで取 り上 げる小野 田セ メン トは, 1881 ( 立 された,わが国最初の民間セ メン ト企業である。同社 は深川官営工場 を払い受けた浅 野セメン トとともに,戦前戦後 を通 じて 日本のセメン ト業界 を二分 した 日本有数のセメ 1 4 ン ト製造企業であった。同時に,同社 は政府の士族授産金の貸付 けをうけて設立 された 数少 ない近代企業であった。士族授 産企業のなかで,設立当初か ら近代的工場制度 を採 用 した企業 としては,小野田セメン トを含めて,広島紡績会社 ( 明治 14年設立),岡山 同 20年設立)の四社が挙 げ られ る。 しか 紡績会社 ( 同 16年設立),名古星電燈会社 ( し.広島紡績会社の第一工場 は政府官営工場が払い下 げ られた ものであ り,岡山紡績会 社 は既存の紡績会社 に士族授産金の貸付 けをうけた士族団体が資本参加 した ものであっ た。 また,名古屋電燈会社 は,営業 開始 以前 に政府士族授 産金 の償還が決定 されたた 1 5 め.士族授産 と企業活動 の関係が長期 的 に観察 しがたい。士族授産の気概,資金調達, 技術移転,そ して困難 を極 めた創業期の営業活動等 について,長期的に考察 しうるのは t 6 小野 田セ メン トであ り,その意味 において同社 は代表的な士族授産企業 といえる。 I .萩藩下級士族笠井順八 小野 田セメ ン トは旧萩藩士族笠井順八 ( 1835-1 91 9)によって設立 された。笠井 は 1835 1 4 現在 日本 におけ るシェア第-位 であ る 日本 セ メ ン トの前 身であ る′ ト野 田セ メ ン ト株 式会社 は,1 881年 4) に 「セ メ ン ト聾望造会社」 とい う社 名で現在 の山口県小野 田市 に設立 された。その後.1 8 91年 ( 明治 1 8 93年 に小 野 田セ メ ン ト製造株 式 会社. ) 951 ( 昭和 2 6)年 に有 限責任小野 田セ メ ン ト製造株 式会社 . ) に小 野 田セ メ ン ト株式会社へ と社 名が改称 されてい る。本稿 で使用す る小 野 田セ メ ン トとは, これ らの 社名 を総称 した ものであ る。 1 5 広 島 ・岡山紡績 会社 につ いては.絹川太一 r 本邦綿 糸紡績 史j.第三巻,社 団法 人 日本綿業倶楽都 . 1 938 年 を.名古屋電燈 会社 については, r 未完未定稿本 名古屋電燈株 式会社 史j. を参考 と した。 1 6 この点 につ いては.拙稿 「政府士族授 産政策 と小野 田セ メ ン ト ト 橋論叢 j 第 87巻 第 3号 1 982年 3 月. を参照 されたい。 」 1 0(374) 同志社 商学 第6 3 巻 第5 号 ( 2 0 1 2 年 3月) ( 天保 6)年下級士族有田甚平の三男 として生 まれ,7歳の時に独 身で身寄 りのなかった 同藩士笠井英之進の養子 となった。 この養子縁組 は笠井家の家名存続のためだけの もの 1 7 であ り,その後 も養育 を受 けたのは有 田家 においてであった。嘉永元年長州藩 に藩校明 倫館が再建 ・開講 される と,1 4歳 になっていた笠井 も希望 を もって入学 し,藩校席次 第 2位の好成績 を修 めるにいたった。 しか し,成績上位 3名 に よる藩主への ご進講 に, , 礼学の修行 にまで門地 を以てす るとは不合理で 「身分が低い」 との理由で外 される と 「 ある」 と退学 し,その後は独学で学問 を続けた とい う。笠井の出 自と性格 について よ く 知 ることの出来 る逸話である。 ペ リー来航後,沿岸線警備が強化 される と,長州藩 も相模 の三浦御崎御備場警衛 にあ たることにな り,笠井 もその警備 に徴用 された。その後笠井 は江戸藩邸 に二年 ほ ど勤 め,財務経理官 としての手腕 を見せ てい く。帰藩後 は,呉服方御用紙方,山代裁判所検 視役戸籍方兼帯,御直 目付手子,御蔵元役所筆記役,御撫育方本締役,郡奉行本締役撫 育方産物兼帯 を歴任 ,1 8 68 ( 明治元)年 には若干 3 4歳 に して御蔵元役所本締役 に就い 1 8 ている。 御蔵元 とは藩の財政 を掌 る役所であ り.撫育方 とは藩の商工振興 と新 田開発 など土木 事業 を統括す る役所である。幕末長州藩 にあって,笠井 は藩経営の裏方 まさに銃後の守 りに抹腕 を振 るった。 とくに,それ まではかな り年配の重鎮 たちが就任す る慣習 となっ ていた御蔵元元締役 にわずか 3 4歳 に して登用 された事実 は,笠井の事務方 と しての手 腕 を象徴する ものである。 また,笠井の実力 に加 えて,年少の頃か ら友人であ り長州藩 において高杉晋作 とともに倒幕の立役者 となった佐世八十郎 ( 後の前原-誠)の強い推 1 9 薦があった ともいわれている。 維新後の藩政改革 によって笠井 は会計局庶務方助役 とな り旧藩財政の残務整理 と藩札 8 71( 明治 4 )年 には新 たに発足す る山口県官吏 に転 じて新県政発足 に 整理 に当た り,1 00万 当たる準備 に追われた。 とくに,笠井が旧藩財政整理 を通 じて中央政府 に剰余金 1 円余 りを返納 したことは,彼の事務能力の高 さを示すだけでな く,そのあ ま りに正直 な 性格 を示すエ ピソー ドとして語 り継がれている。多 くの藩はた とえ余剰金があって も過 少 申告 を して,新政府 に対 して隠 し金 を積み上げ ようとす る傾向があったか らである0 1 8 73 ( 明治 6 )午,新政権 の安定化 に向けて政府 は各府県 における殖産興業 を進 める ため,勧業局 を設置 した。その時.山口県大属 になっていた笠井 は,それ までの行政手 1 7 笠井順八 の履歴 に関 しては.伊顔作 - r笠井順八 翁伝J′ ト野 田商工会 「 贈位二 関スル取調 ノ件 一郡長取調書 」r ( 非売 品).昭和 9 年.お よび 知事官房」 ( 山口県文書館所蔵) と藤津清治 「セ メン ト製造会社 設立前 史 ビジネス レビュー」 第 1 4巻 3号 を参照 した。 r 笠井順八翁伝j l l -1 2ページ。 1 9 前原 とは幼少時代か らの付 き合 いであ り.笠井の中央政府への進出 も働 きかけていた とい う。前掲 r 笠 井順八翁伝j.7ページ 1 8 前掲 明治における二重の創造的対応 ( 米倉) (37 5)l l 腕 を買われ山口県勧業局局長に抜擢 された。山口県には旧藩時代か ら藩士たちが積み立 てた 「 非常用積立金」 と一般庶民が飢鐘 など万一に備 えて貯 えて きた 「 各郡備荒積立米 金」,合わせて約 50数万円の現金 と米 500石が存在 していた。新設 された勧業局は, こ の備蓄米金 を運営 して県内の殖産興業に努めることとなったのである。笠井はこの資金 を用いて県内に士族庶民共同の事業 を創 出 し,士族授産 と殖産興業 を統合 して進めるこ 3名の計 21名 を選 出 し, とを思い立つ。 しか も,藩士代表 8名,各郡農工商業者代表 1 合議による事業選定 と運営 を行 うとい うきわめて民主的な方針 を採用 した。彼 な りに維 新 という新たな時代の息吹 を体現 しようとしたのであった。 しか し,この計画は頓挫する。維新遂行の主体 とな りなが らも新政府か ら大 きく報わ れることのなかった下級士族には不平がたま り, また地租改正 による税負担の増加やイ ンフレ圧力にさらさnた農民 も新政府 に対する不満 を強めていた。中央政府にあってそ んな世情 を誰 よ りも強 く認識 していた木戸孝允は, 1 874年 に帰郷す ると,「これか ら世 の中は士族庶民 との階級争 いが起 こるので, ( 中略) この積立金穀 は此際士族庶民 と 夫々に分配 して しまった方が よい」 と,笠井の共同事業に反対 したか らであった。笠井 はこの決定に色 をな したが,維新の元勲 となっていた木戸孝允に反対す る ものはな く. 結局勧業局は士族のための士族授産局 ( 後に士族就産所 と改称) と農商のための協 同会 社 に分裂 させ られ,同局は廃止 された。 この分裂 に強 く反対 して きた笠井は,山口県吏 としての仕事 に限界 を感 じ,「 民間ニテ何 力事業 ヲ発起セ ン ト堅 ク決心」 して県吏 を辞 2 0 職 したといわれる。 2. セメン ト事業 との出会い 木戸の心配は,士族対庶民 とい う対立ではな く,む しろ不平士族の反乱 とい う形で現 8 76 ( 明治 9) 午,笠井 の親友であ った前原-誠 に よる 「 萩の乱」であ 実 となった。 1 る。前原は新政府において兵部大輔 ・参議 とな りなが らも,士族の存立基盤 を崩壊 させ る国民皆兵や秩禄処分 を強 く批判 していた。 とくに,国民皆兵 を巡 っては木戸孝允 と鋭 く対立 した。熊本において太田黒伴雄に率い られた不平士族の反乱 「 神風連の乱」が起 こると,前原はそれに呼応す る形で不平士族約 200人 を率いて 「 萩の乱」 を起 こ した。 不平士族の反乱 に神経 を尖 らせていた明治政府の反応は素早 く,乱は広島鎮台の急襲 を 受けてす ぐに鎮圧 され,前原 ら首謀者は即刻断首の刑 となった。蜂起に当たって前原は 笠井 を乱 には誘わなかった といわれる. F 笠井順八翁伝j は,その頃の笠井の句, 「 風ふけば岸にかたよるうき革の,世 にさか らわぬ身こそやすけj t」 2 0 木戸の主張 には参議であった井上哲 も賛同 し.結局笠井の案は頓挫することとなったO同 r 笠井順八翁 伝j l Oペ ー ジ。 1 2(376) 同志社 商学 3 巻 第5 号 第6 ( 2 0 1 2 年 3月) を取 り上げて,前原は笠井の体制順応的生 き方 を知 っていたために勧誘 しなかったので 2 1 はないか とい う解説 を している。 しか し,この句が彼の体制順応 を表 した ものではな く,む しろその逆であったことは,以下の経緯 を見れば明 らかである。 萩の乱終結後,山口県は皮肉にも浪人 となっていた笠井 を, この乱のために生 じた臨 1月か ら再登庁 し, 時 出費の精算係 に要請 した。笠井 は この要 請 に したが って同年 1 淡々と事務処理 を進め,翌年 5月す ぐさま免官 を願い出ている。幼少の頃より前原 と仲 , が良かった笠井は 「 萩の乱」の清算処理 を進めなが らも,前原の無念 を武力ではな く 殖産興業 による士族救済 とい う形で晴 らさなけj lばな らない と堅 く誓 っていたのであ る。 この潔い退職 と,士族授産企業創設資金調達に当たって提 出された 「 士族就産金拝 借願」の冒頭にある 「 私共籍 を士族 に辱め,素餐の諸 を免れ 自営力食の道に就かんと欲 し」の一文 とを照 らし合わせれば,笠井の心の底 に抑えられた並 々ならぬ決意は伺い知 りえる。 さて,木戸の決定によって山口県の備蓄金米は士族のための 「 士族授産局 ( 後に士族 就産所) 」 と農工商業者のための 「防長協 同会社」に分け られ夫 々の事業 として発足 し た。 しか し,そのいずれ も事業展開が うまくいかずに,やは り笠井の主張通 り大規模 な 共同事業の方が良かったのではないか とい う声が大 きくなっていった。なかで も,当初 木戸案に賛成 した井上馨 も次第に笠井 に同情 し,新規事業構想に様 々な形で支援 してい くこととなる。その一つが. 1 8 7 3( 明治 6 )年に火災にあった皇居の造営 に備 えた大理 石の採掘加工事業のすすめであった。皇居の新造営 に当たって井上は洋風の大理石需要 が起 こることを察知 し.笠井 に山口県における大理石採掘事業の可能性 を示唆 した。笠 井は秋吉村 を中心 に探索 した結果,美弥郡に有望な大理石 を発見 した。 この大理石の品 質は後 に米国セ ン トルイスの世界博覧会で賞 を獲得するほど高い ものであったが,当時 は交通手段が まった くな く,切 り出 し運搬 に莫大 なコス トがかかることが判明 してい た。 コス ト高の問題に加 え,笠井が大理石事業 に強 くのめ り込めなかったのは,彼 には他 に気 になる事業があったか らである。セメン ト製造である。 歴史とは皮肉である。笠井が猛反対 した事業分割の結果設置 さj lた 「防長協 同会社」 8 7 5( 明治 8 )年,浪人中の笠井 の建物が,彼の新事業構想の種 になったか らである。1 はこの協同会社が新設 した石造 りの倉庫見学 に誘われる。そこで 目に したのは,大 きな 「 石 と石 を継 ぐ粉」す なわちセメン トとい う便利 な製品であった。笠井はセメン トが当 時高額の輸入品であることを知 って,その国産化 に強い関心 を抱いていたのであった。 大理石発掘調査 を していた 1 8 7 9( 明治 1 2)午,折 しも長州藩出身の工部省製作頭平 2 1 前掲 r 笠井順 八 翁伝J .2 2ペ ー ジO 明治における二重の創造的対応 ( 米倉) (j77) 1 3 岡道義が帰郷 し,セ メン トの必要性 を各地で説いていた。平 岡は,新政府の造船頭 とし て幕府の横須賀造船所建設 を引 き継 ぎ,その輸入セ メン トの高額 に驚 き, 日本近代化 に とってセメン トの国内製造の必要性 をいち早 く認識 した人物であった。彼 は工部省製作 頭 に転 じた後,同 じくセメン ト国産化の重要性 を認識 していた内務省土木棄大技長宇那 宮三郎 とともにセ メン ト製造の研究 を進め,ついに工部省深川工作局 にセメ ン ト製造所 を開設 した。その意味で,平 岡は 日本セ メ ン ト産業勃興 の父 なる人物 だったのであ る。 笠井 は平 岡の話 を伝 え聞 き,長い間気 になっていたセメン ト製造 にます ます強 く惹かれ るようになった。 笠井がセメン ト製造の希望 を井上 に述べ ると,井上 は大 いに賛成 しただけでな く,笠 井 と同 じく萩藩士荒川佐兵衛 を深川セメン ト工場 における実習生 として斡旋 し,その製 2 2 造法 を学ぶ ことを許 したのであった。 この研修の中で笠井 は,山口の小野田の方が東京 の深川官営工場 よ りも高い競争優位性 をもっていることを確信 した。深川セメン ト工場 が原料である石灰 や石炭 を四国や九州か らの長距離調達 しているのに対 して,小野 田は 石炭産出地であ り石灰 は対岸の四国か ら容易 に入手で きたか らである。 1 880 ( 明治 1 3) 年笠井 は士族 37名の同志 を募 り.セ メ ン ト製造会社 の設立 を断行す る。その資金調達 に当たって,笠井 は 「 士族就産金拝借願」 を山口県に提 出 している。 それが前掲 した 「 私共籍 を士族 に辱め」 とい う一文である。 この文章には,笠井たち 下級士族の屈辱 と怒 りと,近代国家建設のための事業創造意欲 とひたむ きな気概 を読み 取 ることがで きる。以下,その ままの引用 を見てお こう。 「 私共籍 を士族 に辱め,素餐 の謀 を免れ 自営力食の道 に就かん と欲 し,数年来精思 熟慮 し近年一時の 目的 を達すべ き者 を得,依て有志者 と相謀 り一社 を結合 し,協心 践力,下は各 自の独 立 を得,上 は輸 出入の差 に於 て園の為め高一 を補ふ有之 とす. 然れ ども元来無資力の私共,相結合す る と郡,起業 に対 しては多分の資本 を要す る を以て,特 に政府の慈恵 を仰 ぎ,発起の 目的 を達せ ん とす,幸 に御採用被下度偏 に 2 3 奉懇願候」 2 2 その間の経過 を r 笠井順八氏直話筆記j ( 以下 r 直話筆記」.小野 田セ メン ト株式会社本社所蔵)は. 「 東京へ出テ井上サ ン二通 7テ色々拙 シタ処 ガ.井上サ ンモ ソレデハ大理石 ノ方デハ職工 ヲ美術学校へ 入 レ セ メン トノ方デハ深川工作分局へ参 り能 ク研究 シテ見 タラヨカロー ト云 フコ ト二ナ リマ シタカ ラ.工作分局二這入 ] )色々研究 ヲ始 メマシタガ.分局テリ、 原料 ノ石灰石ハ四国.石炭ハ九州 カラ供給 ヲ 仰グ ト云 フ不便 ガアリマスガ.此 ノ小野田ハ石炭ハ手許二アリ.原料石灰石モ対岸二 アレバ.将来大ヰ 二見込アルコ トヲ宇都宮大技長へ哨 シタラ.宇都宮サ ンモ大ヰニ賛成セラレ.従テ万事懇切二教示サ レ マシタ。故二其 旨ヲ井上サ ン二復命 シタラ井上サ ンモ ソー云 フ訳ナラ大理石 ノ金策 ヲ転 ジテセメン トノ 方デ拝借金 ヲ願 フコ トトナ リ」. と述べている。 2 3 「就産金拝借 顧」全文は.井 田幸治編 T 小野 田セ メン ト製造株式会社創業 5 0年史j ( 以下 r 創業 5 0年 931年.36-41ページにあるo 史J と略す ) 1 1 4 (j7 8) 同志社 商学 第63巻 第 5号 ( 201 2年 3月) この拝借願いか らは,徳川幕藩体制の中で忠実 に生 きて きた武士階級が維新期 になって 一転 「 私 ども士族 に籍 を辱 め」 とい わ ざるを得 なか った苦痛 が痛 いほ ど分 か る。 さら に,不労の ままいたず らに国家財政 を浪費す る 「 素餐の譲 り」 を受けていた彼 らの肩身 の狭 さが読み取 れる。 しか し,彼 らはその屈辱 をバ ネに新 た な産業 資本の担 い手 とな り,国産品製造 によ り輸入 を防過 しようとしたのであった。 Ⅳ 小野田セメン トの革新性 小野田セ メン トはまさに武士の誇 りと気概 を込めて設立 されたサムライ ・カンパニー であった。笠井順八 はその創設 に当たって, さまざまな工夫 を凝 らし,武士 の就業,金 禄公債の保全,技術導入 を進めていった。小野田セ メン トの創業期 はただ単 に士族授産 企業のあ り方だけでな く,明治初期の企業が どの ように して会社 とい う概念や近代産業 を移植 していったプロセスを示 している。以下では,その創造的な革新性 を検証 してい こう。 I .出資 ・株式会社形態の革新性 笠井たちが 申請 した士族授 産金 とは,前述 した ように秩禄処分 によって困窮化 した士 族の団体 ・結社等が農工商各種の事業 を発起す るにあたって政府か ら貸 しつけ られる資 金である。貸付 け条件 は きわめて寛大で,政府士族授産政策においては最 も広汎 に行 わ 2 _ I れた施策であった。 笠井の創造的反応 はこの資金調達か らは じまった。第一の イノベーシ ョンは. この資 金の借 り手 として,士族 による資本金 8 万 8000 円の株式会社 を発足 させ たことである0 しか も,単 なる株式会社 ではな く,士族 に発行 された七分利付金禄公債額面 50円に対 して一株 を発行す るとい う公債 出資の株式会社であった。前述 した ように,七分利付公 債 は秩禄処分 において もっとも広範 な士族階級 に交付 された公債であった。新会社 を組 織す るにあたって,笠井 は 自分 と同 じ旧長州藩中下級士族たちを募 り,士族の士族 によ 私共籍 を士族 に辱め」 と書 き下 した る士族のための創業 を実行 したであ る。 ここに,「 笠井たちの反骨の思いがあった。 株式会社制度は明治になって法制化 され,笠井たちの創業 はち ょうど出資に応 じた有 限責任 とい う概念が徐 々に浸透 していった頃であった。坂本龍馬がオランダ語 を満足 に 理解 しない まま株式会社制度の話 を聞 き,その リスク分散 に強 く感心 した とい う話 は有 名だが,株式会社 はまさにイギ リスやオランダで急速 に発達 した近代企業の概念であっ 24 この士族 に対す る政府貸付 けは. 1 879 ( 明治 1 2) 年 3月か ら 1 890 ( 明治 23)3月にわたって実施 さj t その総額 は約 5 25万円に達 した ( 前掲吉川 r 士族授産の研究J) 。 明治における二重の創造的対応 ( 米倉) (379) 1 5 ヱ 5 た。 日本 に存在す らしなかった 「セメン ト製造」 とい う未知のベ ンチ ャーに同胞 を誘 う にあたって,笠井 はこの出資に応 じた リス ク分散 を原則 とす る株 式会社形態 を採 用 し た。 しか し, この株式会社 は現金出資ではな く,公債 による出資 とい う変則形態であっ た。 これが笠井の第二の イノベー シ ョンであった。公債の所有権 は出資士族 に残 したま ま.それ を担保 に借入金 を して資本金調達 をす る とい う形 を とったのであ る。す なわ ち.公債か ら生 じる年 7% の利子 は各株主の所得 とし,彼 らが身分 と交換 した公債価値 を穀損 しない ように細心の注意が払 われたのである。 国立銀行制度が改正 され,士族金禄公債の最 も一般的な投 資先 は各地 に作 られた国立 銀行であ った。国立銀行 には旧藩主層 であ った華族 た ち も多 く出資 し,安定感が あ っ た。 この国立銀行 に比較 してセ メン ト製造 は リスクの高い新規事業であった。 出資者の 不安 を少 しで も払拭す るため,笠井 は新事業創造 に巻 き込 んだ同志 たちに公債の所有権 は残 した まま,年 7% の収入だけは保証す る工夫 を したのであった。下級士族 に支給 さ れた金禄公債 はせいぜい年収の二倍程度であったため,年七分の利子で生活で きるよう なものではなかった.多 くの士族 はそれ を換金 して不慣 j tな商売 に手 を出 した り,不確 実な投資話 に投 資 して元手 を失 うケースが多 々あった。そ うした事例 を知 るにつけ,笠 井は元本の保全 に十分 な気 を配 ったのである。 なお,笠井 たちが政府 に申請 した士族借 入金 は 6万 1 600円であ ったのに対 して,抵 当額が七分利付金禄公債 8万 8000円であ った理 由は,進行す るインフ レー シ ョンのた め に公債市価 が値 下 りして額 面 の七 割 程 度 に な ってい た ため で あ る ( 88, 000×0. 761 , 600)。 イ ンフ レ率 を正確 に割 り引いて申請す る ところに.笠井 の律儀 な性格 が現 れ ている。公債 を抵 当 とした士族授産金の借入れ条件 として,笠井たちは最初の 5年 間を 5年賦 に よる償還 を申請 した。士族 た ちに所有 元金無利据置 ,6年 目よ り年利 4% の 1 88 0( 明治 1 3) 権 を残 しておいて も,20年 は存続で きる計算 だったのである。 しか し, 1 年 8月政府 はこの申請 に対 して借入れ条件 は申請通 りとした ものの,申請額 を 2万 5, 000 2 6 円に減額 して貸付 け を許可 した。 このため笠井 た ちは,差 し当たって必要 な 5万 7050 円 ( 7分利付公債額面 50円.株数 1 443株) を公募す ることと した。松方デ フレ期 に も 2 5 株式会社の革新性 については.大塚久雄 r 株式会社発生史論」 .岩波書店を参照 されたい。 2 6 減額 された理由は この年に始 まった緊縮財政に加 えて山口県で貸付 けらj tた授産金の総額がこの貸付 金を含めて 7万円とな り 全国第四位にあたっていたため各府県のバランスを考慮 したため と考えられ る。 また この貸付け条件はとくに小野田セ メン トに対 してだけ寛大であったわけではない。授産金貸 付けにあたって.政冊は原則的に抵当供出を原則 としていたが.無抵当の貸付 け も数多 く許可 されてい たことより.同社の七分利付金禄公債 による抵当授 出は例外的で さえあった。5カ年元金無利据置.6 年 目より年利 4% の 1 5年賦償還 とい う借)Jl条件 は.政府貸付方内規 r 勧業資金貸渡内規Jの製造事 業部門の貸付け条件 「 据置年限 3カ年以内.返納年限 5カ年以内」に比較すると緩やか といえるが 政 府貸付けの実態はこの内規 より一層寛大であったことが明 らかにされている.事実.同年山口県下の覇 城会社 ( 帆船製造.物品海上輸送業)への授産金 3万円の貸付条件 も,5カ年元金無利据置.年利 4% の】 5年妖慣選であった ( 吉川前掲書 . 1 89ページお よび 561ペ-ジ) 0 1 6(380) 同志社商学 第6 3 巻 第 5号 ( 2 0 1 2 年 3月) かかわ らず公募 は満株 に達 したが創業資金 に足 りず,他 か ら公債証書 2万 351 0円を借 り入れ,それ らを担保 に 3万 5 000円を士族就産所 その他か ら借入れ総額 6万 円で工場 建設 を開始 したのであった。 この創業の経緯 を見て も,秩禄処分 を通 じて 「身分」が 自動的に資本 に転化 したわけ ではない。笠井の ような企業家 たちが さまざまな工夫 を通 じて.「身分」は資本 に転化 していったのである。 2.技術移転の革新性 資金調達の 目処がつ くと次なる課題 は製造技術の移転であった。前述 した ように,笠 井 らは深川セメン ト製造所 に入 り込む一方で,官営工場の興業費概算表 を手 に入れ,そ の比較の うえで新設工場 の建設費 を貸 出 した。 さらに.会社設立が決 まると.官営工場 は荒川佐兵衛引率 に よる 5名の技術伝習生 を受入れ 約 1 0カ月の技術指導 を行 な うと ともに,同社か ら派遣 さj lた大工 に官営工場の図面取 りも許可 している。 こうして新工 883 ( 明治 1 6)年春 にほぼ完 成 した。 この頃.笠井 は井上 の後 を継 い だ工 部卿 場は 1 佐 々木高行 による工場視察 をうけた。工部卿 は視察後, これほ ど大掛か りな工場運営が 技師 もな しに行 われていることに驚 き.官営工場の宇都宮三郎大技長 を官費によって視 察派遣す ることを約束 している。宇都宮 は同社工場 に一週間派遣 され.昼夜 を問わない 2 7 懇切 な技術指導 を行 なった といわれる。 官営工場 については,政商 に対す る安価 な払い下げす なわち財閥形成 とい う単純 な図 式 はすでに否定 され,払い下げを担 える民間企業が既 に生成 していた事実の重要性が指 2 8 88 4( 明治 1 7)年 に浅野総一郎 に払 い下げ られ浅野財 閥形 摘 されている。深川工場 は 1 成の契機 とはなったが,後 に 日本のセメ ン ト市場 を浅野 と二分す ることとなる小野 田に 対 して果た した役割 も重要であった。官営工場 は.技術伝習生の受入れ,最高技術者 に よる技術指導,設備機械の模倣,投資額概算 な ど,小野田セメン トの操業 に対 して多大 な協力 を行 った。 と くに,セ メン ト業 の ような欧米か ら移植 された産業部 門において, 本来民間事業創始者が負 うべ き試行錯誤や リスク負担 を政府官営工場が肩替 りしていた 2 7 前掲 r 直話筆記」 には.r ・ ・明治十六年春二重 リ略 ホ出来 夕折柄.佐 々木工部卿 ガ御用 ヲ以 テ九州地方 へ参 ラレタ故.馬関二於 テ幸 ヒ随行 ノ佐藤書記官ハ同県人デアルカラ.同氏 ヲ介 シテ工場 ノ御一覧 ヲ伺 ヒ出 夕所,見テヤ ロー ト云 7事デ直二工場へ迎ヘテ一覧二供 シタガ.工部卿 ノ申サ レル二ハ是 ダケ ノ仕 構 ヲスルニ技 師モ置 カヌ ト云 フハ余 り二モ大胆デハナイれ 先 ヅ宇都宮 デモ呼 ンデ見七 夕ラ ド- カ トノ 仰 ガア リマ シタガ. 自分ハ ソレハ誠 二 ヨイコ トデ7 1 )マスれ 大技長 トモアル人 ヲ呼 プ二ハ莫大 ノ卦用 ガ入ル.今此困難 シソツアル場合 ナ レバ.少 シノ金デモ工場-掛 ケネバ ナ ラヌ場合 デアル ト答へ タラ. 佐々木工部卿 ハ. イヤ全 クイラヌ宇都宮ハ官 ヨリ出張 ヲ命ズ) L ,ト云 フコ トデ,間モナ ク宇都宮サ ンガ来 ラレタ・ ( 中略)・ ・宇都宮大技長ハ一週間モ事務所へ泊込 ミ 星夜 ノ区別ナ ク教示 ヲ賜 り, 」 と. こ の間の政府 の援助 について述べている。 28 T C.ス ミス r 明治維新 と工業発展J( 杉 山和雄訳).東京大学 出版会. 1 971年.小林正彬 「 政商 と官業 払下げ 日本経営 史講座 2 工業化 と企業者活動j 日本掛 斉新聞社 1 976年 など。 」 .r 明治における二重の創造的対応 ( 米倉) (J古ノ)1 7 事実は重要である。官営工場はそれ自体が近代化 しただけではな く,試行錯誤 を通 じて 工場経営の実践 を積み,その暗黙知的知識 ・体験 を民間移転 した実態は,後発的資本主 2 9 義国家における近代産業の育成 とい う点か ら高 く評価 さj lなければならない。 さて,同社工場建設において もうひとつ注 目すべ きことは,同社工場の主要機器が陸 軍大阪砲兵工廠 に発注 されていたことである。笠井たちは機械類の発注にあた り,工部 省赤羽工作分局,海軍築地兵器製造所,工部省兵庫造船局,陸軍大阪砲兵工廠等で見積 3 0 もりを行 ない,最 も安価であった大阪砲兵工廠 に主要機器 を発注 した。大阪砲兵工廠 は 当時多数の民間用蒸気機械や旋盤等 を製造 してお り,低位にとどまっていた民間の機械 3 1 生産を代替補充 して, 日本の工業化 を切 りひらく先達 となったと指摘 されている。小野 田セメン トの発足 において も,官営兵器工場が生産手段 を提供 していたのである。特筆 すべ きことは,大阪砲兵工廠 をは じめ とす る日本の兵器工廠 には,笠井 と同 じような使 命感に燃 えた多 くの技術者たちが,それまで存在す らしなかった生産手段生産すなわち 機械 を作 る機械の国産化,あるいは民間が必要 とする蒸気機関や諸機械生産のために知 5 ヱ 力を結集 していた事実である。 3. 需要開拓 と品質向上の革新性 小野田セメン トは, まさに木戸孝允,大久保利通,井上馨,大隈重信 ら維新官僚たち が苦悩 して きた 「 平和裏に士族 を解体 し,財政再建 を図るとともに,新たな産業基盤 を 形成する」 とい う複雑な政策意図を体現 した企業であった。 現在の視点か ら見れば,セメン ト製造などは きわめて単純な産業に思えるが,何の知 識や経験 もなかった士族たちにとって,決 して易 しい作業ではなかった。 とくに,明治 1 4年の政変で大蔵卿 を追われた大隈 に代わって登場 した松方正義はすでに危機 的状況 に達 していたインフレーシ ョンを撃退するために, きわめて厳 しいデフレ政策 を断行 し た。 このため.政府の公共事業支出は大幅に削減 され.明治最大の不況が 日本を覆った のである。政府需要 を見込んで設立 された小野田セメン トは,初期の技術的問題 に加え て需要減退 とい う状況の中で出発せ ざるをえなかった。当然のことなが ら.厳 しい景気 後退によって士族授産企業 を含む多 くの新興企業が淘汰 さj lていった。小野田セメン ト 内部にも悲観主義が漂い,多 くの出資者ばか りか社内か らも 「 解散論」が噴出 した。 し 2 9 和 閉寿 次郎編 r 浅野セ メ ン ト沿革 史」.浅野セ メ ン ト株式会社 , 1 9 40年 ( 以下 丁 浅野セ メン ト沿革 史J -91ページによると.深川官営=場 は.明治 5年頃大蔵省管蛸で設立 されて以来.内務省管 と略す). 1 轄.エ部省管轄の下で.宇都宮 を中心 と した技術官僚 たちによって.実験 .拡張等 ・の試行錯誤 を くり 返 し.工部省管轄 となった明治 7年 か ら同 21年 まで に投下 された資本額 ( 興業 賛 ・営業 資 .国庫補填 金等)は約 1 7万 円以上 にのはっていた。 3 0 「第-回営業報告書」お よび r 直語筆記J。 31 小 山弘催 「日本軍事工業発達史」.小 山弘健等著 (日本産業横棒研究L 伊藤書店. 1 9 43年.71ページ。 3 2 鈴木淳 r日本横桟=業 発達 史l 1 8 (j 82) 同志社 商学 第6 3巻 第 5号 ( 201 2年 3月) か し,笠井 らは県内の小規模需要 に応 えなが ら生 き延 びたのである。 厳 しい創業期 を生 き延 びた小野 田セ メ ン トに とって, 1886 ( 明治 19) 年 は大 きな転 換点であった。紙幣整理 と銀本位免換制の確立 を急務 とした松方デ フレ期が終 わ り,そ れ まで抑 え られていた政府建築物の建造や軍事施設の拡充が開始 され,国内景気 の回復 がはか られたか らである。 この景気 回復 は,民間における鉄道会社 ・紡績会社設立 を中 心 とした 日本における第一次企業勃興 ブームにつ なが り,セメン ト需要の拡大 をもた ら した。小野田セメン トに とってこの機会 を逃す ことは許 されなかった。 とくに,国会議 事堂 を中心 とした諸官庁の建設,軍部が反対 していた東海道線の建設計画の再開,呉 ・ 佐世保 における海軍鎮守府の建設計画 を耳 にす ると,笠井は早速東京 に上京 して積極 的 3 3 な需要開拓 を開始 したのであ った。 1886年政府部内で内閣直属の東京臨時建築局が設置 され,幸運 な こ とに同局総裁 は 3 J 当時外務大臣であった井上馨が兼任す ることとなった。笠井 はこの建築局需要獲得活動 を開始 した。 また,東京 と京都 を結ぶ幹線鉄道が,東海道では艦砲射撃 に さらされると い う軍部か らの反対で中山道経由 となっていたのが,鉄道官僚の巻 き返 しによって再 び 3 5 東海道 に変更 されたことも大 きなセメン ト需要 を予想 させた。 さらに,横須賀 に続 く呉 ・佐世保海軍鎮守府建設 も巨大 な需要 をもた らす可能性があった。 松方財政 はデ フ レ政策の一方で, 1882 ( 明治 15年)の朝鮮事件 を契機 に軍拡財政 を 3 6 推進 した財政政策であった。軍拡財政に伴 う軍事施設拡充は多量のセメン ト需要 を形成 す る。東京臨時建築局に加 えて鉄道 ・軍事の大需要 を獲得す ることは,松方デ フレの景 3 7 気後退で解散論 も出ていた同社 に とって, まさに 「 愁眉 ヲ開 ク」絶好 の機会であ った。 需要 と生産の間に存在す るギ ャップを巧みにキ ャッチ し,その間を埋 める企業家的明敏 性 こそ企業家活動の最 も重要 な視点 といわれるが,笠井 もこの大 きな トレン ドと需給 ギ 3 8 ャップを見逃 さなかった。 デフレ政策終鴛 と景気 回複 を眼前 に して,山口の小 さな士族授産企業が輸入セメン ト や深川セメン ト工場 に対 して信頼性 と価格優位性 を達成す るには,二つの克服 しなけれ ばならない重要課題があった。一つは技術力 -品質であ り, もう一つは生産 ・販売能力 の拡充であった。 とくに,深川工場 はデフレ政策の一環 として浅野総一郎 に払い下げ ら 33 「諸官街圃 倉議事堂 ノ建設 アル ヲ聞テ社 長 出京 シ,昔 時滞京 中周旋 シ居 り.右 ノ外 二モ鉄道線路東 海道 二変換 ノ内意.又ハ.第二 第三海軍範守帝薮州肥前両所 二設立等 二就 テハ.種 々周旋 シ唇 レリ.御用 ヲ 蒙 り愁眉 ヲ開 クノ場 合モ アルベ シ」 ( 小野 田セ メ ン ト本社 所蔵 「セ メ ン ト製造会社 第三 回営 業報告書 明治 1 9年 6月末」 ) 0 3 4 村松 貞次郎 r お雇外 国人 1 5-建築 .土木」 鹿島出版 1 970年 .51 -8 3ペ ー ジ0 35 有沢広 巳監修 r日本産業百年 史」 上巻. 日本経 済新聞社 , 1 972年 .1 01ペ ー ジ. 36 佐藤 昌一郎 「松 方財政 と r 軍拡財 政J の展 開 T 福 島大学商学論集j3 2.33号 .「企業勃興期 における軍 拡財政の展 開 歴 史学研究j2 95号。 37 井 田幸治編 r 創業 5 0年 史J.88ペ ー ジ。 3 8 カーズナー r 企業家 と市場 とは何 か」. 日本経済評論社 .2 001年 」r 」 明治における二重の創造的対応 ( 米倉) (383)1 9 れ,民間企業 となっていたため,小野 田に とっては競争上同社 の品質 と生産能力 にどう 3 9 追いつ くかが最大の課題であった。 笠井はこの上京 において,東京臨時建築局専属の ドイツ人技 師 と会談す る機会 をもっ た。 この会談で ドイツ人技師は小野 田セメン トに専 門技師がいない ことを知 り,建築局 4 0 の需要 を獲得 したければ専 門の技 師 を雇用す ることを勧告 した。笠井 は今後の大規模需 要獲得 に万全の体制 を期すため,専 門技師 を ドイツか ら雇入れる と同時に, ドイツ式製 法 を取 り入れた第二工場 を建設 し生産能力の上昇 をはかるとい うきわめて重要 な決断を 下 したのであった。 創業期の営業状況か らすれば, これかな り無謀 な決断であった。 同社の創業 は,セメ 886年 6 ン トとい う新製 品の需要 開拓 の困難 に加 えて松 方 デ フ レ期 に並行 したため, 1 4 1 月末 までに約 1万 2 0 0 0円の累積損 を出す状態 に陥 っていた。い くらセ メン ト需要の急 増 を眼前 に して も,同社 には,外 国人技術者 を雇用 した り設備拡張 を実施 した りす る資 金的余裕 などなか ったのである。そ こで,笠井 は小野田セメン トが長州藩の士族授 産企 業であること, しか も井上馨 との コネクシ ョンがあることを最大限活用 した。設備拡張 の直接の要 因 ともいえる東京臨時建築局総裁が井上であったことは既 に述べたが,第二 工場建設のために ドイツか ら招樗 された技師の雇入れは外務大 臣井上馨の名の もとで契 4 2 約 され,その後同社 に貸 し下げ らる とい う便宜 も受 けていたのである。 また,第二工場建設資金の調達 において も井上の力は大 きかった。井上が総裁 を兼任 していた山口県士族就産所 か ら建設資金が貸付 け られたか らである。前述 した ように士 族就産所 は木戸孝允の主導の もと笠井の反対 を押 して創設 された団体であ り,笠井の予 想通 り大 きな成果 を上げるに至 っていなか った。当初木戸の提案 に賛同 したが常 々 「 笠 井には悪いことを した」 と思 っていた井上 は,笠井 らの奮闘努力 を意気 に感 じて小野田 の資本金 5万 1 5 0 0円を大幅 に上 回る 7万 5 0 0 0円の貸付 けたのである。 さらに,需要開拓 と販売力向上 に とって も井上の果た した役割 は大 きかった。 山口県 小野田に本拠 を置 く田舎企業 にとって,東京の大需要,東海道本線 をは じめ とす る鉄道 建設, さらには呉 ・佐世保 の海軍鎮守府 な ど全国にわたるをセメン ト需要 に迅速 に対処 することは きわめて困牡 な課題であった。そこで,笠井 は当時三井 とも深いつ なが りを もっていた井上馨の仲介によって,臨時建築局への製品納入は三井物産本社経 由で扱 わ 39 官営深川工場 は. 1 881年に渋沢栄一 との縁故 をベースに政府部内に入 り込んだ浅野総一郎に払い下げ られていた (浅野セメン ト沿革史j ) 4 0 笠井順八氏直話筆記J .小野田セ メン ト株式会社所蔵0 41 「 第三回営業報告書 明治十九年六月末」の決算報告では. 1万 1 887円 29銭の累積欠損が計上 されて いる。 r r 42 「 傭外国人一件 明治二十年七月」 ( 小野田セ メン ト株式会社所蔵)の契約書 には,「 帝国 日本外務大臣 伯爵井上馨君閣下 卜独逸国民 ドク トルプリーグレップ君 トノ間二左 ノ順約 ヲ締結ス」 と記 された後,技 師ブ リーグレソプを同社が旅費給与 を全額負担 して借入れることが述べ られている。 2 0 (3 8 4) 同志社 商学 第6 3巻 第 5号 ( 2 01 2 年 3月) れることを取 り決めたのであ る。 この間の経緯 を同社 の 『 創業 5 0年史』 は以下の よう 4 3 に述べている。 9年 6B,三井物産に委託販売 を嘱 したのが取引の抑 々始めであ 「 東京方面は明治 1 中略)偽 って,20年末,東京建築局への納入は三井物産 を経 由 したのであ った。 ( って互いに歩み寄 った結果,区域並 びに数量 を限定 して一手販売 を委託す ることと な り,内地 は尾三地方か ら北越 を縦断 した以東各地,海外 は支那全土 と し 1ケ月 1 千樽 と定め,契約期 間を≡ カ年 とす ることと した。 ( 中略)之 に依 って東 日本及 び 海外 における販売期間は確立 され,残 るは只だ生産増加の問題のみであった」 1 873 ( 明治 6) 年 に政府 を下野 した井上 と益田孝 によって創業 された先収社が,七六 年井上の政界復帰 にために閉鎖 となるところを,三井家の大番頭三野村利左衛兵 門に引 0年代末 にはすでに 日本 国内 き取 られ三井物産 となった ことは有名だが,同社 は明治 1 4 4 は もとよ り海外輸出入 を手がける総合商社 としての基礎 を築 き始めていた。 この三井物 産 と販売提携 を実現で きたことは,その後の小野田セメン ト飛躍 に取 って大 きな出来事 であった。 松方デ フ レ政策終蔦後の大需要 を見込 んだ第二工場 の建設, ドイツ人技 師の雇 い入 れ,そ して三井物産 を仲介 とした各方面への販売攻勢 は,外務大臣兼東京臨時建築局総 裁兼士族就産所総裁井上馨 との斡旋 を中心 に一挙 に展開 していった。工場建設は,早 く も1 886年 1 0月の株主総会で正式 に決議 され,翌年か ら着工 されることとなった。政府 の士族授産政策 に自主的に応 え, きわめて少額の秩禄公債 を集めて創業 した笠井順八 に とって,厳 しか った創業期 を脱 し新たな需要獲得のために,井上 との関係 を最大化 しな が らあ らゆる手段 をとるのは当然の行為であった。 こうした果敢 な企業活動があったか らこそ,′ 」 、 野田セメン トは官営深川工場の払い下げを受けた浅野セメ ン トと対抗 しなが ら日本市場 を二分す る近代企業へ と成長で きたのである。 しか し,その道程 も単線的に 成功へ と導かれた ものではなかった。以下 に見るように,次か ら次へ と新 たな問題 は発 生す るのであった。 4.独 自技術の確立 と笠井真三の留学 明治 20年代 に入 ると,前述の需要 に加 えて,鉄道会社,紡績会社 を中心 に展開 され ,「山陽,九州,関 た第一次企業勃興 に よる一般民需 も急増 してい った。営業報告書 は 西,大阪等の諸鉄道会社,東京建築局, 日本土木会社 その他諸方か ら注文陸続 なる も, 43 前掲 .ほり 業5 0年 史j 1 3 4-5ペー ジ0 44 三井物 産の成立 に関 しては. 日本経営 史研究所編 r 稿本三井物 産株 式会社 1 0 0年 史J( 上) に詳 しい。 明治 における二重 の創造的対応 ( 米倉) (385)21 いかんせ ん限 りある製造高 に して,その求めに応ず る能わず,遺憾 なが ら謝絶 して」 と 4 5 嬉 しい悲鳴 を上げている。確 かに,松方デ フレ後のセメン ト需要の急増 は同社 の年産約 1万樽弱の生産能力 を上 回 り,年産約 3万博強の第二工場完成が待 ち望 まれる ところで あった。 新工場 は 1 8 8 9( 明治 2 2)年 に完成 したが, ドイツか ら輸入 さj lた主力設備である輪 窯 ( ロー タリー .キル ン)が不調のため,生焼 品が推積す るとい う事態が起 ったのであ る。結 局,製造高 は上昇 した ものの,1 8 8 9年下半期 には 6000余樽 ,1 8 91年上 半期 に 4 6 は7 000余樽 を未成 品 として後期へ繰 り越 さざるをえなか った。輪窯 とは ドイツ人ホ フ マ ンの発明 したセメン ト焼成窯であ り,窯 を回転 させ なが ら焼成余熱 を再利用で きるた め従来の立窯 に較べ燃料費が大幅 に節減で きる構造 をもっていた。 しか し, ドイツで開 発 された新 しい技術 を,環境 も異 な り周辺技術 も未発達 な 日本で実現す るには無理があ った。 とくに,井上の後 ろ盾で雇用 した ドイツ人技師ブ リーグレップに も難点があった。明 治期 には多 くの 「お雇い外 国人」が さまざまな技術移転 に尽力 した といわれ,優j lた業 績 を残 した人物 もいたが,当時極東の名 もない島国に来 る外 国人技術者の中には本国で は使い物 にな らない ような人物 も少 なか らずいたのである。 プ レーグレップ もその一人 であった。そ こで,小野田セ メン トは井上の仲介 をもって当時東京職工学校 ( 東京工業 大学の前 身)教授 であった ゴッ ドフリー ド ・ワグネルを同社 に招精 し,その原因究明 を 委託 した。 ワグネルはブ リーグ レップの設計 した輪窯 ( ロー タリー ・キル ン)に問題が あることを発見 し,す ぐに輪窯生産の中止 と新 たな立窯二基 の建造 を奨めたのであ っ た。 笠井 は涙 を飲 んで最新鋭設備輪窯での製造 を中止 し,新たに立案二基 を建設す ること を決断 したが,同時に さらなる一大決心 を した。それは,笠井の次男真三 を技術習得の ために ドイツに留学 させ ることであった。 この留学 を実際に奨めたのは井上馨であった 4 7 とい うが,その裏 には順八の強い希望があった とい う。 8 7 3( 明治 6 )年 に順八の次男 として生 まれ,山口高等学校予科 に進学 し 笠井真三は 1 た秀才 とくに数学 に優 j lた学生であった。井上 は第二工場完成の来賓 として小野田に滞 在 した時に,予科 にいた其三 に将来の希望 を訊ねた。真三は, 45 「第七 回営業報告書」 は,「販路 ノ点二於テハ 日二月二増進 ノ状 ヲ呈 シ.山陽九州関西大坂等 ノ諸鉄道曾 社東京建築局 日本土木魯社其他諸方 ノ注文陸横 ナルモ,如何セ ン限 リアル製造高二 シテ 其求 メ二歴ス ル能ハス 遺憾 ナカラ謝絶 シテ僅 カニ旧来 ノ得意先 .即チ神戸鎖道局.佐世保海軍鏡守府,馬関砲台等 ノ御用二充 ル ノミニ止マ レリ 之二依 テ視 ル時ハ.新工場落成- ヶ年四万樽 ヲ製出スルモ製品停滞 ノ掛 念 アルマ シキ見込 ナ リ」. と第二工場の完成 を待 ちわびている。 4 6 「第九回営業報告書 明治二十二年下半期」.お よび 「第 1 0回営業報告書 明治二十三年上半期 」 4 7 笠井真三の記述の関 しては.笠井真三伝漏話委員会編 「 笠井真三伝J( 非売 品)小野 田セ メ ン ト株式会 954年.に多 くを依 っている。 社. 1 2 2(3 8 6) 同志社商学 第6 3 巻 第 5号 ( 2 01 2 年 3月) 「日本は急流 の多い国ですか ら, この河水 を利用すれば。水力 は電気 を用意 に起 こ す ことがで きます。電気工学 は,比較的新 しい学問ですか ら, 自分 は上級 の学校 に 行 って, この学問 を したい と思い ます」 と答 えたが,井上 は, 「 面 白い希望であるが,親が酒屋であるのに,件が醤油屋 とい うわけには行 くまい。 お前の親父がセメン トをやって居 るか ら,やは りお前 もセメン トやっては どうだ」 と説得 した。真三は頑固で容易 に之に応 じなかったが,井上 も三 日にわたって説得 を続 け,真三は ドイツに留学す ることを決意 したのである。 1 890 ( 明治 23) 年,当時 】8歳 になった笠井莫三 は, リューマチ治療 のために一時帰 国す るワグネルに同行 し,セ メン ト製造 の科学 的研 究 を深 め るため に ドイツに留学 し た。真三は井上 と順八の期待 に応 え,ハ ンブルグ工業学校か らブラウンシュワイ ヒ大学 896年 ミュ ンヘ ン大学 で見事博士号 を取得 した。博士論文 は まさにセ メ ン ト に進み, 1 工学の基礎 をなす 「 含水珪酸笠土鉱物の性 質」 に関す るものであった。同年真三 は帰国 し,小野田セ メン ト技師に任ぜ られ,その後取締役 を経て 1 91 8( 大正 7) 年 には第三代 目代表取締役社長 に就任 したのである。その間で特筆すべ きことは,真三 は小野 田セ メ ン ト業務の傍 ら, 1 908年京都大学 に 『 ボル トラ ン ド凝結 に関す る研 究』 を ドイツ語 で 提 出 し京大博士号 を取得す るなど,セメン ト製造 に関す る基礎研究 を地道に続 けていた ことである。彼 は 日本のセメン ト業界 にあって浅野セメン トと並 んで事業拡大 を推進 し ただけでな く,セメン ト技術の発展 に関 して も強い リーダー シップを発揮 した。 維新 の志士 たちを真 の国家官僚 に成長 させ たの は, まさに外 交 問題 であ った。同時 に.明治の企業家たちを真 に世界 の ビジネスマ ンに成長 させ たのは世界野 中に身 を置 き,その最先端技術や経営 に直接接す る機会 だったのである。印象深いのは,明治の企 業家たちが技術や経営能力習得のために自らの子弟や従業員 を数多 く海外 に留学 させて いることである。三菱財閥における岩崎小弥太や もそ うであったが,小野田 とい う山口 の士族授産企業 において も世界 と比肩す るとい う目線 は同 じだったのである。 5. 海外展開 と三井物産 士族授産企業か らの脱皮 さて,東京臨時建築局は 1 887 ( 明治 20) 年 9月に内閣直属か ら内務省官韓 に移 され 総裁 も井上か ら内務次官芳川顕正 に交代 した。同時に,同局 はそれ までの諸官街集中建 築 とい う大計画か ら消極的方針 に転 じて,国会議事堂 も仮議事堂の建設で当座 をまかな 4 8 888 うことを決定 した。 このため.小野 田セメン トの三井物産 を経 由 した製品納入 も, 1 明治 における二重の創造的対応 ( 米倉) (387)23 年下半期 を限 りに終了 している。 1890年 11月に立案が完成 し第二工場の増産体制がや っと整 ったが, この頃には第一次企業勃興 ブーム後の反動的金融恐慌 を契機 とした景気 後退がは じまっていたのである。 生産能力 を増強 したばか りの小野 田に とって,国内需要の減退 は死活問題 となった。 このため,同社 は三井物産 を頼 りに海外市場の開拓 に着手 し,上昇 した生産力の一部 を 輸出に振 り向ける努力 を開始 した。同社 の 『 創業 50年 史』 には, 1891年 2月に三井物 4 9 三井元方評議』 産 と海外一手販売権契約 を結 んだ とされている。ただ し,同年 12月の 『 には,三井物産上海支店か ら 「 急 々多量販売の 目略 もない うえは, この一手販売権 は解 5 0 約すべ し」 との意見書が評議 されている。三井物産の現場では重量がか さみ品質管理が 難 しいセメ ン ト輸 出に対 しては慎重 な見方が強かったのである。 この段階でいわゆる三 井の海外一手販売権が確立 した とは考 え られないが,同年 「 三井物産会社本支店将来営 業科 目」 には,上海,香港の両支店に小野田の代理店 としての営業課 目が明記 されてお 5 1 り,三井物産が同社の海外市場 開拓 を担 ったことは間違いない。国内需要の不振 に対 し て,小野田セメン トは山口 とい う地理的優位性 を活か して早 くも中国市場 を目指 したの である。 また,輸 出だけでな く,海外生産に関 して も一九〇七年 には大連 に出張所 を開 設 して,大連工場建設準備 に入っている。 もちろん, この海外進 出を主導 したのは笠井 其三であった。 なお, この一手販売権の成立 と生産拡大 によって小野田セメン トは士族 に限っていた出資者 を広 く一般投 資家に拡大 し, Ⅴ 結 妻丘 口に 1 以上,維新の中核 を成 した士族たちは,中央集権的明治政府 を樹立す る過程で, 自ら の出身母体である士族階級 を解体す る とい う困難 な作業 に立 ち向かわ ざるをえなか っ た。その過程で明治政府は士族の俸禄 を金禄化 し,それ を数年分 にわたる公債 として発 行 して秩禄 を一挙 に処分す る方策 にた ど りついた。厳 しい財政事情 と過激化 しつつあっ た士族不満 に対応す るとい うやむえぬ側面 もあったが,身分 を公債化す るとい う近代政 治革命 においては創造的な対応であった。 もちろん,財政事情か らいって多 くの士族が 給付 さゴ 1た公債 の利子 だけで生活で きるような レベルではなかった。 したがって,政府 は士族 を生業 につける とい う士族授産政策 を同時に実施 しなければな らなかったのであ る。 士族授 産政策 には,未開の地 を開墾 し豊かな農地に変換す る とい う農政策 と,士族 を 8 9 0 1 村松 貞一郎前掲書 ,6 8-83ペ ー ジ。 前掲 r 創業 5 0年 史j 1 3 5ペ - ジo 「 明治 2 4年元方評議 」 ( 物産 9 4).三井文庫所蔵 三井文庫病 r 三井事業 史j 資料篇三 三井文庫 .1 97 4年 .23 0ペ ージO 24 (388) 同志社 商学 第6 3巻 第 5号 ( 201 2年 3月) 商工業 に転 身させ るあるいは新 しい産業の移植振興者 にす るとい う殖産興業政策 に大別 す ることがで きる。殖産興業政策 における士族の役割 に関 しては,俗 にい う 「 士族の商 法」や松方デ フ レ期 と重 なった事業 の困難性 か ら,従来高 い評価 はな されて こなか っ た。 しか し,一方で明治 における数少 ない知的エ リー トとして士族が果た した役割 を高 く評価す る声 もある。 しか し.それが どの ようなプロセスにおいて評価 されるべ きもの であるか とい う実証研究は きわめて少ない。本稿 は,その空 白を埋めるための士族授産 企業の代表例である′ J 、 野田セ メン トの実証研究であった。その実証か ら読み取れるよう に.明治初期の士族たちは 「 無為徒食」 との非難の中, さまざまな革新的対応 を繰 り返 してセメン ト産業 を日本に移植 し,近代化の礎 を築いていったのである。そ こには明 ら かに明治維新 を遂行 し,その成功故 に解体 された士族の無念か ら出た成功への執着があ り, また数少ない知識層 と しての組織や技術 に対す る希求の精神があった。 日本近代化 とい う大 きな需要創 出に機敏 に対応 し.投資先行型の工場拡張や,他社 に先駆 けた ドイ ツ人技師の雇用 といった きわめて先進的な取 り組みの展 開。 さらには.創業者 自らの子 息 を ドイツ留学 させ,セメン ト製造の科学的アプローチの実践 な ど,明治期士族の一部 は知的エ リー トとしてのエー トスを十分 に備 えた創造的対応 を行 っていったのである。
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