Title 戸籍のはなし-日本史雑記貼5- Author(s) 今西, 一 Citation

Title
戸籍のはなし-日本史雑記貼5-
Author(s)
Citation
大学進学研究 (1985), 6(6): 50-53
Issue Date
URL
今西, 一
1985-03
http://hdl.handle.net/10252/5133
Rights
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Barrel - Otaru University of Commerce Academic Collections
教室で語る学問
日本史雑記枯⑤
雪l
今西
昨年から中医残留孤児の場合,両親が見つか
0日の間,教区教会の手によ
ところが中世ーでは 4
らなくとも日本へ帰国が許可されるようになっ
って教会堂に婚約を「公示」しなければならな
た。従来,その厚い壁となっていたのは, 日本
い。その簡に,あの男には他に著書がいるとか,
民・品部・雑戸・賎民等の律令的な身分秩序と,
人戸籍への復帰の問題て、ある。しかも,その
絞戚からの異議が出れば二人は結婚できない。
カパネ(姓)という律令以前の伝統的な身分秩
9
8
2
年 l月,中国残留孤児の
援を破ったのは, 1
この「公示」は,教会から役場に変わり, 1
0日
序と,二つの称序から成り立っている。ところ
徐明さんが,東京家庭裁判所に就籍許可の訴え
間に短縮されたが,今日のフランス民法6
3・6
4
が古代社会にもカパネを持たない人々がいる。
を行い,勝利したことがひとつの契機であった。
条に義務づけられている o これが r6月の花嫁」
天皇と賎民(渡戸は例外), r
f
じ外の民 J (綴爽,
の窓味であり,このようにして重婚を防いだの
熊星雲等々)である。「化外の民」はおくとして,
である。
奈良時代の賎民は,人口の l割以下の存在であ
今聞は,民族差別
r
私生児」差別,女性差別J
,
部落差別,京主戦差別等々と深い結ぴつきをもっ
ている戸籍の歴史を素描してみたい。
ジ ュ … / .プライド
B月の花嫁
、
,
個
酬
幽
・
.
世界の近代l!l家のなかで,戸籍というものを
しかし,ヨーロッパでも強行な身分登録を行
こでは,氏姓の決定の意味を考えてみよう。
王宮人・公
日本の古代の身分秩序は,玉医.E
I
t,
う
向
、
)
った(沢悶吾-"奈良時代民政経済の数的研究J
った例はある。ひとつは紀元前後のローマ帝国
と震われている。この l割以下の賎民が,天臭
の綴民地,パレスチナにおいてである。しかも
市!jをふくめた律令制の身分秩序の根幹をなした
当待のユダヤ社会では,妓が「私生児」を生む
のである。
持っているのは日本だけである, と言言うと奇異
と父が自分の孫をしめ殺すほど,結綬を絶対視
カパネは天皇が与え,カパネを持つ良民は王
な感じを持つ人も多いだろう。なかには台湾や
する土地であった。そこで愛人ヨセフの子を生
土の玉氏であり,カパネを持たない j
浅突は家苦言
ん
た
、 7 リアは私生児」イエスをローマ帝国の
に
と河じ存在と考えられていたのである。令制l
登録から隠すためにも馬小屋で育てなければな
おける奴緯は,売員・格統等の容体として,財
らなかったのである。いまひとつは,ナチス政
物または家畜と対比されている。「化外の民」の
にとれば, 1
9
3
3
年に朝鮮戸籍令が施行され,そ
権下の 1
9
3
8年
,
蝦夷・熊霊聖書事にも同じ原蕊が貫徹している。し
の延長線上に,慈名高い日本式の「氏」を強制!
である。これがゲルマン民族の優性保護のため
かも,奈良時代のカパネを持つ 5
0
0数十万人の
にという名目で,残忍なユダヤ人虐殺に利用さ
良民たちは,自分たちが「良人の共同体」として
れたことは有名である。歴史上,二度とも最大
賎民や「化外の民」を賎視しているうちに,自
の被害者はユタャ人である。
分たちもまた一万余人の官吏,百数十人の貴族,
韓国にも存在するではないか, と反論する人も
いるかもしれない。しかし,台湾や韓国の戸籍
は
,
日本統治時代の「遺産j である。緯習を例
する創氏改名が行なわれたのである。例えば金
l
立金固に,張 i
土張本にと変えられていった。
ヨーロッパには戸絡がない。中世では教会簿
があり,現在では身分登記簿や家族手帳がある
ドイツて"行われた身分の登録法
古代の戸籍
戸籍のはなし
なっていることに気がつかなかったのである。
だけである。それでは震婚はどのようにして防
いだのか,
えが
という疑問が当然出てくる。その答
r6月の花嫁は幸せになる J というフラン
スの諺にある。
7
世紀に食族やフ、ルジョアが扉
フランスでは 1
十数人の公卿,天皇家のための国家的な奴隷と
f日本書紀』で戸籍を作ったとされるのは,祭
神天皇の B.C.85年,雄田島天皇の待代 (A.D.456
これが王土王民思想のカラクりである。
また,古代スパルタの奴隷は,特別な衣服,
-479年),顕宗天皇の 4
8
5年,大化改新f
去の孝徳
きわめて緩い頭髪と決められており,古代中国
天裏の 6
5
2
年,天智天皇の 6
7
0年の長♀羊謡,
でも「蒼頭奴熔」といわれる坊主頚青衣」と
て、仕切った独立の寝室を持つまで,一家が一つ
8
9年の長道年籍等々がある。崇神天
持統天皐の 6
決められていた。これに対して臼本では,持統
のベッドに寝なければならなかった。したがっ
皇の Z
時代というのは,弥生侍代中期であるから
天長の自寺代に「百姓」には黄色,奴にはき衣と
)1ちされたのは
論外であるが,戸籍が初めて法帝1
いう認が出されており,養老の衣服令では家人
て男女は,愛を交わすのに室内より度外,夜よ
り日中を好んだのである。そのため厳しい冬は
禁欲生活を強いられ,春の復活祭を待ち望んだ
のである。そして 4月は,婚約の季節となる。
V",{也 、
〈旬そ師会
庚午年籍からと言われている。それでは,なぜ
・奴枠に「様、主主衣J(ツルパミの笑で染めた黒衣)
立法制{じされたのか。それは教科書にある
戸籍 l
を予言せるように決められている。しかし,これ
通り, f)工回収授や氏姓の決定のためである。こ
らは「朝廷公事J,国家の儀礼にさいしての澱色
5
3
ラ2
規定である。日本の古代で賎民の身分襟識が,
ではなくて,宗門改肢のイデオロギー的な機能
たのである。このことは,山陰地方では金持ち
ために必須であり(徴兵行政機能),③戸主の地
それほど顕著に発透しなかったのは,戸籍によ
について,ひとつの仮説を述べておきたい。
立狐滋きの君主の伝承として伝えられる(千葉徳
位を篠定して,③村「共肉体」の持っていた結
苦
言
婚承認め機能を奪った,ものである。しかも,
る身分差別を確認し綾持する方法が凝立してい
禁数手段としての宗門改綬であるから,当然,
たからである。従って戸籍のなくなる中世社会
転ぴ切支丹,切支丹類族などの扱いが問題とな
F地域と伝ゑ.1)。何々の家筋という差別も,
1
7
世紀後半の「家」の交代のなかで再編されていっ
ヨーロッパの法律婚主義は,一夫一婦告日深刻の
ほど,身分擦識がやかましくなってくる(黒回
ってくる。それらの扱いを決めた 1
6
8
7
(貞享 4)
た。「宗門改綬Jのキリシタンや検多・非人への
確立宣言であったのに対して,
日出男「史料としての絵巻物と中世身分毒I
J
J
年の 8ヵ条のなかに,次のような…節がある。
稜姓差別,キりシタンや機多・非人の別様化は,
義の採用 (
7
5年 1
2月9日 ) は 妥 の 公 認 一 夫
きりしたん
ころぴむうさず
一,最初切支丹ニテ転不申以前ノ子ハ,男女
げ歴史評論J3
8
2号〕他)。
この家筋・家柄の差別を拡大していったのであ
レ
なおヨーロッパていも 1
3
世紀の後半からユダヤ
人には安色いマークと尖り中富子が強制され(阿
トモ本人同然ノ義ニ後間,本人ノ内へ苦手入
可読副長:箕b
f
去ノ子ハ親族ノ i
勾へ喜入可
ベク
部謹也「中 f
訟の星の下て".1),事足鮮の被差別民自
ヲ
Q
。
日本の法律婚主
多著書告Ijの公認(同年 1
2月1
7日)と殆ど同時に行わ
れている。戦前の日本では夫の貞子桑」という
観念、は…度も成立せず,
壬申戸籍以後
1
自民法てすま姦通葬とし
て「婆の会操Jだけが関われたのである。
被申事。
自
また, 1
8
9
7
(明治3
1
)年に公布・施行された i
干には頭を丸め竹で繍んだ手話量の使用が許さ
有名な文言であり,村落調査でも「キリシタン
維新政府は, 1
8
7
1
(明治 4)年戸籍法を公布し
れている(安学植訳繍 rア 1
)ラン峠の旅人た
吟味触書」などとしてよく見かける。商綴がキリ
篠を廃し,翌72
年から戸籍を作成
て,宗旨人別 I
ち
"
,
)
。
シタンの時に生まれたそ子はキリシタンで,転宗
した。この7
2
年の戸籍が壬申戸籍である。幕末
家族居住の指定,婚姻の承諾,縫婚の節度等三
?去に生まれた子はキリシタンでない,と説いて
長
州
、l
i
警の戸籍中長仕法舎に起源があり, 6
8
年の京
郎の軽{散なる権利を掲げて,これを戸主権と名
いる。今日では信じられない不合理な考え方で
都市中戸籍法を綬て採用されたと言われている。
づけ,戸主権と戸主の財産権との相続を称して
あるが,これが江戸時代の種姓綴である。食径
7
1年の戸籍法は四良平等」を譲っており,江
家督棺統と云ふ,前古無類の新制度と云ふべし,
戸籍であるのか,という議論がある。現在では,
の子は賞;種, j
浅民の子は生まれながらにして賎
戸時代の族属(身分別)主義から属地(居住別)
擦を挙げるべ
「戸籍史料としては,本来は人別 I
民である。 1
7
世紀の後半というのは,このよう
主義に改変しているが,その32則には議多・非
家禄家封の{亭廃されたる今臼に適用せんとす,
な種姓観が強化される時代である。
人等の「名前番出」しを決めている。したがっ
歴史を無視したるの立法 J
m県など少数の県
て7
1年から戸籍を作成した兵1
見えたる私法.1)と批判される。この!日民法に
民法は,法学者中国言葉によって「今日の民法は
とんしん
宗門改帳と種姓観念
人別様と宗門 E
文様とは,どちらが江戸待代の
きであって,普通漠然と考えられている如く『宗
むげん
門改版』をあげるべきではない J という窓見が
通説となっている。江戸時代にも,荻生担保が
庶民の隠ても無関の銭」という話が流行し
ている。
…-封建時代に於ける家禄家封の相続原射を,
(
W徳川時代の文学に
では,旧い賎税:を記した例もある。しかし,維
よって,家父長的な戸主権が確立し,女性の氏
その箸 r政 談 』 の な か で 戸 籍 卜 云 ノ ¥ 先 ハ 人
来世のことはともあれ,ただもうこの世の
新政府は翌7
1年 8月28日に賎称の廃止令を出し
にしても母方の姓を名のっていた慣習が消滅す
別絞ノ事也」と諾っている。そして, 1
7
世紀後
仕合せを祈り,ずっと以前に壊めてしまった
土地方官が誤まって記
たので,王晃子干の壬申戸籍に l
る。近代日本の戸籍制度は,戸主権と家資格統
半の主主文・延3r期に,人別帳に宗門を記入する
という無街の鐙のあり所を捜し出して,全身
したなどの例外を徐いて賎称は記されていない。
を柱とする家父長的な「家」制度に帰結した。
といラ方法が採られ,キリシタン禁圧のための
を打ち込みわが一代のうちに今ーたび長者
また,江戸時代中期以降の宗旨人思Ij帳は,隠居
宗門改i
阪と人lJ
J
I
阪とが合体して宗旨人lJI
J
l
1
授が作
になし給え。二子供の代には乞食になろうとも,
した父及ぴその妾(当主の母)を家族の末尾に
られる(大石慎三郎「江戸時代における戸籍に
只今効 I
t給え」と,一念が地獄へも通ぜよと
記しているのが普通であったが,3"申戸籍では
石母閏正「古代の身分秩序J
1
9
6
3
年(W日本古代国家論
ついて J
)
。しかし,島原の乱を中心、とするキリシ
ばかり突くのであった。
じめて尊卑・男女・長幼の儒教的家族秩序イデ
山中永之{右「日本近代毘家の形成と法律婚主義J 1-3,
1
9
6
5・6
6
年(,波大法学 56-58
号)
福島正夫 r日本資本主義と「家」制度J1
9
6
7
年,東京大
学出版会
大石悦三良¥
1w
i
i
It
射
す7
喜の機迭と家制度J1
9
6
8
年,御茶
タン袋、圧が強化された寛永年間(1624-44年)
をへだてること 30-40
年の寛文年間(1661-73
井原商鶴『日本永代蔵』巻三(五)
1
7
世紀の後半には階層変動や新 I
Bの「家J の
オロギーが貫徹し,記載の綴序が逆になった
(福島正夫編 ~r 家」制度の研究』資料編 1 。
)
i
化される
年)に,なぜ宗旨人別綬の作成が法市J
交代が激しく,古い「家」が没落し,新興階級
その後, 1
8
7
5
(明治8
)年,太政官Z
逮2
0
9l
}
に
よ
のか,
という点になると通説の説明はアイマイ
の新しい「家」が台頭してくることがよくあっ
って婚姻又ハ養子養女ノ取組,若クハ其縫婚
である。封建的小農民の「自立」や壇家市1]度の
土来t
止は無関地獄に溶
た。そうすると人々は,彼 l
車産縁」を役所l
こ届け出ることを強制した法律婚主
F寺疫の
土金持ちになれるという「無関の鐙」
ちても今生 l
義かー成立する。この制度は,①人民移動の実態
を突いた人間だ,
を把握し(行政警察的機能),②兵役簿の作成の
成立から説明する意見もある(大桑斉
思怒』他)。ここでは,そのことに深入りするの
と言って新興階級を羨望視し
〈参考文獄〉
第 1 部ßJ ,岩波 ~l吉)
の水害廃
朝尾隆弘「近世:の身分叡l
と賎F
;
J1
9
8
1年 (w部 落 問 題
研 究J 6
8
一
号
)
木村尚三郎 F色めがね西洋草紙J
1
9
8
1年(魚 1
1
1文庫)
佐藤文明・貝原、浩「戸籍J1
9
8
1年,現代書館
井ヶ密良治 r明治民法と女性の権手IjJ1
9
8
2年('日本女
性史」第 4巻近代.東京大学出版会)