東日本大震災後の東京電力福島第1原発事故は、 そうした草の生長が制圧され、森に還ることを防ぐ。 家畜にも大きな被害を与えている。半径20km以内 牛が「草刈り機」として働いてくれれば長期間にわ の警戒区域内に取り残された家畜、放射性物質に汚 たって土地を管理できるのだ。一時的にでも警戒区 染された飼料を食べた牛の肉…。こうしたニュース 域に立ち入ることができれば、移動放牧の技術を用 が伝える深刻な状況を招いたのは、言うまでもなく いて牛を管理し、牛たちが野生に戻るのを防ぐこと 家畜ではなく、人間の管理、対応にある。区域内の ができるのではないか。 牛については5月12日、政府が殺処分の方針を打 ち出した。人間の管理ができない以上、野生化する 自生するたくましい草 と危険だから、というのが理由。これに対して家畜 草と牛は密接な関係で結ばれている。典型的な例 への放射性物質の影響などを研究する目的で、牛を がノシバとの関係だ。放牧を続けていると、背の高 生かしておく「サンクチュアリ・ファーム構想」も い他の草は牛に繰り返し食べられ、やがて丈の低い 打ち出されるなど、問題は揺れている。 ノシバが生き残り、ノシバ主体の草地になる。 筆者が5月末、農林水産省に電話で問い合わせる ノシバとは全国どこにでも自生するシバの総称 と、担当者は「内部被ばくした家畜は牛乳も肉も経 (写真下)。アスファルト舗装にも食い込んで繁殖す 済的な価値はゼロであり、管理できなくなったのだ る生命力を持っている。イネ科の単子葉類で、最も から殺処分しかない」。ちょっと待った! 分化の進んだ草種だ。国内各地でさまざまな特性を 草食動 物である牛の舌草刈りの働きを忘れてはいません 持った系統(エコタイプ)として定着している。ラ か? ンナー(葡旬茎)で広がり、春に穂を付ける。密生 「牛は20年近く生きるので、住民が戻ってく るまでの問、土地を管理する役目を与えてはどうか」 するとマット状のターフ(turf)を形成する。仲間 と、熱く説明させてもらった。 のシバ型の草種としては、暖かい地方に育つものと 住民が避難して管理が行き届かなくなった耕作地 は急速に自然に戻ろうとする。牛を放しておけば、 してコウライシバ、バーミューダグラス、寒地型と ↓ノシバ草地の表面 して冬でも青々としているペレニアルライグラス、 ケンタッキーブルーグラス、トールフェスクなどの 品種がある。 ノシバを植えると葉よりも地下茎を増やそうとす るので生長が遅く、草地になるまで4、5年かかる。 放っておいても自然に広がるが、より短期間で放牧 地にするために移植する方法がとられている。ノシ バは生長点が牛の食べ難い根元にあるので、牛に食 べられてもすぐに葉が育ってくる強い再生力に特徴 がある。しかも、いったん定着すると半永久的に利 用できる。そうなれば人間の管理がほとんど不要で、 ↑長年放牧をして美しいノシバ 草地になった水田( 山口県長門市) 同じ場所で継続して放牧ができ、他の場所に移る必 要はない。栄養面でも申し分なく、水分含有率が低 いノシバの牧養力は牧草とほぼ同じとされる。 また草丈の低いノシバ草地には小型ピロプラズマ 病を媒介するマダニが少ないし、見晴らしがいいの で放牧牛の事故や脱柵が少なくなる。 ゴルフ場などのシバには他の雑草を枯らす除草剤 や肥料などが使われるが、放牧用のノシバ草地は、 こうした化学物質は無用だ。言うまでもなく、除草 剤は植物だけでなく、昆虫や水系など生態系への影 響が大きい。繰り返し使用すれば抵抗性のある雑草 の出現につながるし、選択性が高い除草剤の使用は、 自然を単純化し、生物多様性を失わせる。 牛が舌草刈りをするところを間近で見ていると、 「和牛のノシバ放牧』(上田孝道著)によると、高知 長い舌を使って草を巻き込むようにしてバリッ、バ 県の山地酪農家の岡崎正英さんが猶原博士の助言で リッと草を食べている。まるで伸びた部分を刈り 1957年に急傾斜でノシバの茎を移植してノシバ草 取っているような感じだ。同じ草食動物といっても 地を造成したのが国内初という。 ヤギとは大きな違いがある。小笠原諸島の自然破壊 島根県の三瓶山のほか、古くから牛を放牧してい が話題となったノヤギは、植物の葉や芽の部分を食 る高知県や阿蘇山などでは、美しいノシバ草地が見 べ尽くしてしまうと樹皮や根まで食べてしまう。牛 られる。山口県で20年ほど前に始まった水田に牛 は自然にダメージを与えることはなく、ヤギは結果 を放す「水田放牧」が田んぼをノシバ草地へ変身さ 的に自然を破壊してしまうのだ。 せた(写真上)。県のモデル事業として水田放牧に ノシバは食べられた後も、牛との親密な関係を 初めて取り組んだ長門市の農家や、県内初のノシバ 持っている。ノシバの種はワックス状の「コーティ 草地造成に取り組んだ岩国市の農家の放牧場でも見 ま ング」があって種をそのまま 播 いても発芽しにくい 事なノシバ草地ができあがっている。そうした草地 を訪れると、まるで緑のじゅうたんを敷いたように が、牛に食べられると消化管の中でそのワックス状 のものがなくなるのだ。牛の胃袋を経由すると、発 美しい。 芽しやすくなった種が糞に混じって排出される。地 景観の美しさとともに、さらにすごいのは土地の 面に落ちた糞の中にある種は翌春芽を出し、糞はノ 把握力が強いことである。土地に根を張ると、まる シバの栄養になる。あちらこちらに移動しながら糞 でコンクリートのような固さになるので、防災上も をする牛は、上手に種まきをしていることになる。 非常に役立つ。2009年7月、梅雨前線にともなう 牛舎でトウモロコシなどを食べている牛は、ドロ 集中豪雨が山口県防府市を襲った。佐波川沿いの まなお ドロの軟らかい糞をするが、ノシバを食べた牛が出 真尾地区では、特別養護老人ホームを土石流が襲い す糞は、繊維が多いため固い。草地に落ちると雨や 7人が亡くなった。周辺のいたるところで、がけ崩 日光、鳥、虫などによって分解されやすい。 れが発生したが、山を一つ越えたところにある「ふ るさと牧場」は、奇跡的ともいえるほど被害が少な コンクリート並みの硬さ ノシバを利用した牛の放牧で知られるのは、高知 やまち シバを主 体 とする野草地に乳牛を放牧する「山 地 酪 なおは らきょうじ 農」だ。創始者は故猶原恭爾(1902~87年)博士。 かった。山の中にある牧場でなぜ土砂崩れがなかっ たのか。その秘密として考えられるのが、牧場を覆っ たノシバ。人間と牛が長年かかって育てたノシバが、 しっかり土を固定していたのだ。
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