コネクト - タテ書き小説ネット

コネクト
蒼木荘
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
コネクト
︻Nコード︼
N3137BA
︻作者名︼
蒼木荘
︻あらすじ︼
高校生、会津弥一が、誰かと繋がる物語。
父親を亡くした事をきっかけに、弥一は母親や友人と距離をおくよ
うになる。
そんな高校二年生の冬、夢の中で知らない、
冷たい、声を聞く。
1
2
1話︵前書き︶
誤字・脱字があったら、大変申し訳ありません。
意味不明だと感じられた場合も、同じくです。
3
1話
声が聞こえる。
僕の声じゃない。
周りは何も見えない。ただ、無理やり胃に押し込むように、音だ
けが体に入り込む。
声が聞こえる。
﹁ネエ、ホントハ、シッテルンデショ?﹂
コンクリートを爪でひっかいたような、カサカサの声だ。
﹁君ノコト、大切って思ってくれる、ヒトナンテ・・・﹂
僕は立っているのか、座っているのかも、
﹁・・・絶対イナカッタヨ?﹂
わからない。
﹁ジブンハ、イクラカ、マシナホウ?﹂
知らない声。カサカサの声。
﹁ヤメテ、ハキソウ。﹂
鏡ヲ見テゴラン。
自分ノ顔ヲ、見テゴラン。
自分ノ声ヲ、聞イテゴラン。
自分ノオナカヲ、触ッテゴラン
自分ノ手ハ、ドンナ匂イ。
自分ヲ、思ッテ、感ジテ、光ヲ当テテ、見テゴラン。
チットモ、好キニナレソウモ、ナイでしょ
4
イイ加減、目ヲアケテ、
早ク早ク。
イヤニナッタラ、イツデモ、
﹁・・・・私に、その席、譲って﹂
﹁・・・ん?﹂
目を開ければ、川越市駅から通り過ぎて三つ目の駅に着いたところ
だった。開いたドアから流れ込む十一月の少し冷たい空気に、鼻の
先がツンとしている。
電車の発車音が鳴っている。安いメロディ。
ぼーっとして、柱に書かれている駅の名前を、たっぷり6秒見つめ
た。現状を飲み込む音が?ぐぅルッ?と鳴ったかのように、やっと
脳が目覚め、僕は急いで椅子から起きた。
発車音。
ドアは閉じてしまった。そして、飲み込む音なんて錯覚だった。
絶え間なく音を垂れ流していたウォークマンの液晶は現在時刻21:
18を示している。はじっこの席に再び座り、頭部を金属製の手す
りに預ける。冷たい。
誰かが触ったのかわからない手すりや、法律事務所の広告だの、網
棚に置き去りにされたスポーツ新聞だのは蛍光灯の光を反射して、
僕の目で焦点を結ぶ。その風景は、無機質で一枚のアルミの板を見
てるみたい。
夜の窓ガラスに僕の姿が映ってる。我ながら、随分と質の悪い目付
だ。いつも不吉にニタニタと”笑っているせぇるすまん”の寝起き
の顔は、きっと今の僕みたいなんじゃないか。
5
加えて残念なことに、寝起きであろうが、起きていようが、僕はこ
んな顔をいつもしている・・・らしい。
不機嫌というか、幸薄いというか、心のスキマだらけの人だって、
無表情がこんな風になることはないだろうに。意識していないのに、
眉間にしわが寄って、切れ長の目は座っている。歯並びがいい方じ
ゃない。口を開けばギザギザの歯。無理して笑って、
うひひ、と口にすれば、間違いなく妖怪・・・らしい。そんな笑い
いや
きら
方生まれて、一度もしたことはないのだけれど。
この顔は嫌だ。この顔、嫌いだ。
僕はウォークマンの停止ボタンを押した。
﹁やっぱ音、ちゃんと切らないと寝ちゃうな。いつも。﹂
それに、・・・変な夢を見てばかりだ。
引きかえして川越市駅に、戻ってくるのに30分もかかった。コン
ビニで立ち読みしてから帰ろうかと思ったが、やめた。
眠い。
どうしてなのか、どうしても、眠い。
駅から、駐輪場に止めてある自転車に乗り、家までは15分。さす
がに、ペダルをこいでいると脳に血が巡り、少し眠気がやわらいだ。
でも早く帰って、寝よう。
僕の家は、市街から少し外れた、田んぼやら、畑やら、名も知れな
い地方スーパーやらが集まる、ほら、言ってしまえば土地価格の低
めの、住宅地。
収穫をとっくに終え、ひび割れた地面をむき出しにした田んぼを横
目に、街灯が少な目の道を自転車で走る。高校卒業まで後、何往復
この道を行き来するんだろうと考えたり、考えなかったりしながら、
毎日この道を自転車で走った。吸い込む空気は、冷たくてほこっり
っぽい匂いがした。
6
見上げた空には、満月が浮かんでた。月が周りの雲を照らし出し、
その形を昼間よりも、くっきりと浮かび上がらせている。市民公園
近くから生えている電気鉄塔も、その恩恵を受けて、青いシルエッ
トとして映る。その風景がほんの少しだけ幻想がかってて、僕はた
まに見えるこんな空と、?田んぼ?と?鉄塔?という組み合わせが
好きだったのだ。
家に着き自転車を止めて玄関の戸を開ける。キッチンの明かりは付
いていた。テーブルにパジャマ姿の母さんが突っ伏して寝てる。今
日も、ずっと仕事だったのだろう。薬剤師である母さんは病院から
指示のある限り、薬を患者に処方し続ける。救急呼び出しとかそう
いう臨時出勤は無いけれども、朝は早く、夜は遅い。
起こさないように、静かに自分の部屋に向かったつもりでも、この
人は絶対起きる。
やいち
﹁あれ?・・・弥一、おかえり。・・・ご飯は?﹂
﹁適当に食べるから。もういいよ。﹂
﹁そう・・・。今日遅かったけど、何かあった?﹂
﹁いや、寝過しただけだよ。﹂
疲れてるなら、栄養剤もらってこよっか?と母さんは言ってくれた
が、薬を飲むほどじゃないので断った。
﹁冷蔵庫に煮物、入ってるからね、温めて食べて。おやすみい。﹂
椅子から立ち上がり、母さんは自分の寝室のドアを開けてベッドに
そのまま倒れこむ。
眠っている母さんの顔は、少し困ったような寝顔だった。
父さんが、いた頃の母さんはまだ元気だったように思う。
冷蔵庫のマグロの煮物を冷たいまま食べて、服を着替えてベッドに
潜る。風呂に入らないで寝るのは、本当はいやだけど、やっぱりお
かしいくらいに眠かったのでそんなことも考える暇もなく眠りに落
7
ちた。
家族だからって、日曜日コメディドラマみたく、絶えず楽しい会話
と笑顔が渦巻く家庭は絶対ない。
気付いたのは、多分小学五年生になった時、父さんの死に顔を見た
時だ。
父さんは僕と違ってよくしゃべる人だった。自分も仕事で忙しいの
にいつも、僕と母さんを気にかけてくれた。元々あまりしゃべるこ
との少ない僕と母さんは、それでも父がいた頃は割と笑いあえた。
小学校の頃、漢字テストの出題範囲を間違えて勉強してしまい。ク
ラス最低点を取って、それをクラスのみんなに笑われたことがあっ
た。口下手な僕は反論もできず、顔を真っ赤にして、涙をこらえて
あいづ
黙っていた。
﹁会津君は、漢字、練習する時間なかった?次は頑張ろうねぇ。﹂
べっとりと貼りつけた笑顔でそう言った当時の担任の顔は、今でも
思い出せる。
小学校のテストは、割と満点なんてホイホイとれるものであったよ
うな気がするし、そして、30点代なんてとってしまった日には、
ひどい扱いを受ける。その日の僕がそうだった。下校の時、僕の下
駄箱は割と悲惨なことになってたと思う。帰り道は誰にも会わない
よう、指定された通学路とは別に道を使い、泣きながら帰った。
父さんは、そんなボロボロだった僕に優しくしてくれた。
帰って僕が一人、部屋で泣いていた時、父は何も聞かずに
﹁弥一、﹃マイキー!﹄一緒にみよう。﹂
なんて言ってた。うちには、オー!マイキーが全シリーズ揃ってる。
もちろん父さんが集めた。今思えば、それは父さんなりの励ましだ
ったんだろうけど、僕は悲しくて悔しくて、
﹁そんなの見たくない!!﹂
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と怒りながらもそう言った。でも、父さんは怪獣みたいに大きく口
を横に広げて言った。
﹁1話だけでいいからさ、見よう!なんか一人で見てもつまんない。
﹂
笑うことに優劣はないと思うけど、多分父さんのは純粋に明るくて、
アホっぽく、そして爽快な笑い方だったんじゃないかと思う。マイ
キーのシュールさより、父の笑いにつられてやっぱり、僕も笑って
しまったし、母さんもクスクス一緒に笑ってて、
ああ、僕と母さんに無いものをこの人が全部もってるんだなあ、と
思っていた。
﹁やいちゃん。次はさ、がんばろうぜっ!お父さん、テスト前に範
囲先生に聞いとくよ、電話で﹂
父さんはいった。
﹁教えてくれるわけないから、別にいいよ。それにもう大丈夫。﹂
僕は、含みも無いお父さんの言葉に笑いながら、そう答えた。もう
大丈夫だよと。
僕は父さんが好きだった。
﹁お父さんね、ちょっと出張いってくるから。ちょっと待っててな。
﹂
怪獣笑顔シリーズゴジラ級で、父さんは僕にそう言って、家を出た。
二日たって、三日たって、一週間たって、母さんとマイキーみて、
一人でマイキー見て、漢字の練習して、
今度は百点取って、・・・病院から電話がかかった。
﹁弥一、お父さんと、・・・お話してあげて。﹂
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母さんに連れられた病室で、父さんは知らない人みたいに痩せてい
た。僕はこんな父さんを知らなかった。苦しそうに悶えながら、も
う喋ることもできなくなってた。周りの医師は、もう成す術がなか
ったようで、俯いている。?ピコッピコッ?と聞こえる電子音は、
父さんの心臓の音。命の音。
﹁おとう・・・さん﹂
問いかける僕の声が聞こえた父さんは、鼻からチューブを通した顔
で、僕を見た。多分、僕だとわからなかったんだと思う。目を細め
じっと見つめられた。窪んだ眼、唇が痛々しく切れ、荒れ果てた肌
をした父さんの顔を見て息が止まった。
父さんはやっと僕に気付いてくれたみたいで、バイキンマンみたい
に歯をむき出しにして笑った。頭を撫でてくれた。僕はどんな顔を
していたのだろう。
﹁お父さん・・・しんじゃうの?﹂
そう聞いた僕に、父さんは困ったみたいに眉を寄せて、それでも口
はバイキンマン笑いをして見せた。
口パクで、?ごめん?と父さんは言った。
病名を後で母から聞いたが、長ったらしい名前であったこと以外、
覚えてない。治る見込みは殆どなかったそうだ。僕に隠して養生生
活を続け、容態が急に悪くなったと母さんに電話が入ったのだ。父
さんはいない。もう笑ってくれない。マイキーを一緒に見てくれな
い。百点取った僕を見てくれない。もう二度と。家に戻って、布団
にもぐりそう考え、
朝まで泣いていた。
声が聞こえた。
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それが、夢なのか。それとも無意識の中で聞いた自分の声なのかは、
分からなかった。
﹁ワタシガ、カワッテアゲルヨ?﹂
ただ、聞いているその声は、いつも擦れたような音で、
﹁ダイジョウブ、アナタハ、不安モ感じない。﹂
たまらなく、切なくて、
﹁キライなものはゼンブワタシガ、持っててアゲル。﹂
言葉で表現できるなら、夜の氷の湖に、たった一人裸足で立ってい
るような、
﹁ダカラ、アナタハ、他ト、繋がラナクテ、いい﹂
冷たさを含む声だった。
キライな、自分は、見ナクテ、いい。
いつかは、キエル、いのち、に心ヲよせることも、しないで。
大丈夫、アナタハ、目をつぶって、まってて。
涙ハ、ワタシガ、かわりに、流すカラ。
誰かと、繋がらなくていい。
私が、かわる。
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﹁・・・え?﹂
携帯電話の目覚ましアラームが鳴っていた。また変な夢を見た。父
さんの夢を見て、それから・・・、あの変な夢にシフトしていた。
途方もない疲労感がのしかかっているような気がする。
夢の内容をもう少し思い出そうとして、しばらく記憶の底を探り・・
・思い出したと同時に、体が震えた。
全ての温度を拒絶する、マイナスの世界。
そして、あの声。
確かにこう言っていた。
﹁かわってあげる・・・﹂
電話のアラームは、鳴りつづけていた。
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1話︵後書き︶
すみません、間違えて短編のほうに投稿してしまっていました。
何話か続けたいので、改めて連続小説に投稿いたします。
何卒よろしくお願い申し上げます。
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2話
夢というのは、必ずその人自身が体験した事が基になって、出来上
がる物だと聞いたことがある。
行った事のある場所、聞いたことのある音楽、出会った事のある人。
寝ている間に脳がその記憶のパーツを繋ぎ合わせて、ドラマチック
な、或いは意味不明なまどろみの空間を作り出す。
人間の脳は非常に良くできており、長い時間を経て忘れ去られた記
憶が、何かをきっかけに夢として再び、抽出されることがある。
覚えの無い夢の内容を、予知夢や神のお告げなどと受け止める人も
いる。
しかし、それは覚えていないだけで、そのシチュエーションは過去
にあったはずである。
じゃあ、僕が聞いたあの声も、本当は僕が知る誰かのものだったん
だろうか?
思い出したら、また震えそうだった。
あの声。全部の内臓が凍りつきそうだった。ハッキリした恐怖が今
でも付きまとっている。
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とにかく、いつまでもこうしている訳にもいかない。もう朝の7時
を回った。昨日は、風呂に入ってないし、シャワーを浴びて早く学
校へ行かなければ。
僕は布団から這い出た。冬の朝の冷たい空気はフローリングを経由
し、容赦なく足の裏へ襲いかかってきた。スリッパを履き、部屋を
出てバスルームへ向かう。寝室の前を通り過ぎようとした時、空い
たドアから、まだ寝ている母さんを見た。
いつもは僕が起きる前に、仕事へ出かけるのだが・・・。
﹁今日、土曜日か﹂
母さんは、週一回の土曜日休みだった。たまっている疲れもあるの
だろう、起こさないようにそっとドアを閉めた。
僕は、最近母さんと話さない。反抗期と呼べる代物は、僕には訪れ
た事がなかった。そして、これからも訪れないだろう。母さんも、
基本的な口の数が少ない人で、仕事で帰りも遅く、必然僕とのコミ
ュニケーションは無いに等しくなってしまう。父さんが、いなくな
ってから、僕らの間には隔たりが生まれ始めた。
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二人の無口さを補っていた温かさを持つ父さんが、僕と母さんを繋
いでいた。
もちろん、母さんのことは嫌いじゃなかったし、むしろたまに見え
る恥ずかしげにも笑う母さんこそが、僕は好きだった。
父さんが?出張?に出て、帰らなくなったあの日。
母さんは泣き崩れ、僕はそんな彼女に﹁マイキー!見ようよ。﹂の
優しい言葉も、怪獣みたいに笑いかけることもできなかった。
それでも、その時一緒に母さんと泣き叫んでいれば、親孝行だった
かもしれない。
だけど、僕はずっと部屋にこもり、目をつぶり、耳をふさいでいた。
見たくなかった。髪がひどく乱れ、目が真っ赤になり、テーブルに
頭をコツン、コツンと打ち続ける、母さんの姿を。
聞きたくなかった。口を大きく開き、子供の様に泣き続ける声を。
どうしてなのか、理由はその時わからなかった。
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﹁・・・どうして、なんで・・?あの人が死ぬ理由なんて、無いじ
ゃないっ!
お願い・・・返して、返してよぉぉ。﹂
そんな声がキッチンから聞こえる、その度に喉の奥は、ワイヤーで
締め付けあげられているように痛くなった。
その日、僕は逃げたのだ。泣き続ける母さんから。
悲しみの海に溺れる母さんより、
僕は自分の心の、ちんけな、幼稚な、平らかさ、を選んだ。
そして僕は
わかる、のをやめてしまった。
母さんの言葉をきき、作ってくれた料理を食べ、一緒にテレビを見
る。どれを通しても、僕は母さんの気持ちが、自分に伝わらないよ
うに努めた。
彼女はどう思って、僕といっしょに住み、高校生の僕を養ってくれ
るんだろう?
父さんが死んで、真剣に考えた事がある。
もしかしたら、母さんは生まれた僕なんかより、死んだ父さんの方
がずっと大事だったんじゃないか?そして、父さんが死んだ今、僕
がここにいる理由はいったい・・・。
出来の悪い僕といることで母さんは苦しんでいるのかもしれない。
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水面が波紋を打つように、恐怖が振動する。
僕は死んだ方がいいのだろうか?
鳥肌が立った。
その答えが、分かるヒントを僕は何一つ、知りたくなかった。
そうするためには、
これから、なるべく、僕は。・・・僕は・・・。決めた。
僕は、母さんの顔を見ない。
会話をしない。
触れない。
母さんと、心を、つなげない。
心の言葉を絶対察する事が無いよう、感情の持つセンサーを遮断す
る。
父さんの話は、絶対しない。
そうして、僕は高校二年生になる今日まで、母さんから逃げ続けた。
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冬の寒さで冷えた体をシャワーで温め、学校へ行く仕度を急いで済
ませた。
朝食のシリアルを食べ終えて、キッチンに食器を片づけ、玄関へ向
かおうとした時、母さんが寝室のドアを開けた。
父さんと母さんの、なれ初めは詳しくは知らないけれど、大学の研
究室が一緒で、その頃からの付き合いだそうだ。
母さんは、控えめでありながらも、顔だちが良く、清楚な感じの女
子で、男子からの人気は高かったらしい。
その、当時の面影は今でもちゃんと残っている。顔に、少し皺が浮
かんでいるが、凛とした眉、少し小さめの唇、真っ直ぐな鼻すじ、
目は・・・、
目には隈ができている。やはり疲れているのだろう。
﹁もう学校いくね。﹂
言いながら、僕は玄関のローファーを履く。
﹁・・・ご飯は食べた?﹂
﹁食べた。﹂
キッチンにある、シリアルの袋を指さして答えた。
﹁ああ・・・、コーンフレークね。・・・うん、行ってらっしゃい。
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﹂
﹁いってきます﹂
言いながら、ドアノブに手をかける。
﹁あ・・、待って、ヤイちゃん。﹂
﹁?﹂
僕は振り返って、母さんの顔を見た。
その目は、なんだか少し潤んでいるように見えた。
その瞳で不安げに僕を見つめて、言った。﹁今日、なんだか、・・・
﹂
?ト テ モ ツ メ タ イ ノ。?
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体が、一回だけだけど・・・震えた。
・・・声が・・・。
母さんの声が、
夢で聞いた?あの声?と重なって聞こえた気がした。
心臓と思考が、止まった気がした。吐き出そうとする空気が、肺に
逆流する。
﹁早く帰っておいで。晩ごはん、温かいもの用意しておくから﹂
母さんは笑いながら、言った。
﹁あ・・・、うん、行って・・きます・・・。﹂
一瞬降りかかった不安を振り払い、言って、玄関を出た。
母さんの顔は、見なかった。
鉄塔たちを横目に、自転車で田んぼ道を走り、駅を目指す。ペダル
をこぐ足は重い。
嘘だ。夢の中で聞いた声が聞こえる訳がない。絶対ない。
あの声は、きっと気のせいだ。人の声が別な感じに、聞こえること
21
もあるだろうさ。
ゲームのやり過ぎで聞こえないはずのBGMが聞こえることだって
あるのだ。
うん、大丈夫。母さんも、僕も大丈夫だ。
そう、自分に言い聞かせた。大丈夫なんだと。
根拠もなく、自分に都合よく考える僕の思考回路はポジティブなん
て、真っ当な代物ではなく、ただ、見たくないものから、結局逃げ
ているだけだった、と事が終わった後から気づき、後悔する。
僕の悪い癖だ。
逃げることも、後悔することも。
そして、この日。
僕は後悔をする。
母さんの声が、あの声に重なったあの時に、気付くべきだった。
父さんが、死ぬべきじゃ、絶対なかった。
僕が、いなければよかった。
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どんなに思っても、過去を憎む言葉には、さしあたり何の助けにも
なってくれない。
ただ、言える。
僕は逃げることは、できなかった。
23
2話︵後書き︶
つたない文章、読んでいただき、誠にありがとうございます。
今後とも、定期的に?続けられれば幸いですので、
よろしくお願い申し上げます。
蒼木荘
24
3話︵前書き︶
遅れました。読んでくれる方々、申し訳ございません。
3話目です。
よろしくお願い申し上げます。
25
3話
クリエイティブ
﹃creative﹄・・・﹂
﹁﹃作り出す﹄。﹂
ファクトリー
﹁﹃factory﹄・・・﹂
﹁﹃工場﹄。﹂
冬の電車の中は暖房に誰のものともしれない人の発する体温や、斜
めからの太陽が混ざり込み、その空間自体は、使い古された本を開
いた時と似ているものがある。
﹃みんなが、これ程に密着しながら、平気な顔でいられる事に全く
理解ができない。﹄
満員電車に初めて乗った時はそう思った。
満員ではないにしても、人口密度が着々と高くなりつつある今、こ
の車両にいると、
単独で巣に襲撃をしたが、何匹ものミツバチに囲まれ、彼らの持つ
体温によって息絶えてしまうスズメバチの気分が分かる。実際、数
十人の人間に囲まれたら、僕はどうにかなるだろう、間違いなく。
僕は、ひとの体温が苦手だ。
他人の肌はもちろん、温もりが残った、手すりとか、フォークとか
に触れたくないのだ。
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潔癖症に近いかもしれないが、それとも違う。温度が嫌。理由は僕
自身よくわからないけど、父さんがいなくなってから、この症状が
出だした。
ダウツ
doubts
about﹄・・・﹂
アバウト
僕は右手に持つテキストに載っている次の設問を拾い上げる。
ハヴ
﹁﹃have
﹁あ、それ無理だ﹂
即答を、僕より5cm位背の高い高校生は返す。
﹁・・・﹃∼について疑念を持つ﹄・・・だって。さっき全部覚え
たって言ってたけど????﹂
﹁?単語一発系?は完璧マスターだぞ。﹂
はどっしり
彼は、無表情ではあるが、芯のある、低くめの声で答える。
﹁あ、そう・・・﹂
僕は、笑顔の一つも、上手な返答もできず答えた。
そんな事も気にせず、隣で立つ肩幅の広い男子高校生
大地に根を張る、ガジュマルの樹のような声で続ける。
あいづ
﹁会津は今日の小テスト平気か?なにもしてないみたいだけど?﹂
﹁僕は・・・、今日もういい。どうせ小テストだし。﹂
左手で電車の吊革につかまり、大手出版の英単語出題テキスト﹁﹃
英単語・熟語マスター﹄﹂をガジュマルの胸板に押し当てて、返
した。
こまつ
﹁そんなこと言ってると、また英語の小松のケツバット喰らうぞ?﹂
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﹁五分前までテストの事忘れてた近藤に、言われたく???ない?
??かなぁと﹂
こんなセリフ、本当は笑いながら、歯切れ良く言うべきなんだけど、
僕だと最大に嫌味っぽい。そんな自分が、嫌いだし、
自分と会話をする、相手の気持ちもきっと同じだろうと思うのだ。
こんどう こういちろう
不器用な僕と隔たりなく会話をこなす彼は?近藤幸一郎?という。
健康的な褐色肌をしており、髪は短く、濃さをちゃんと残し、整え
られた眉をしている。シベリアンハスキーが連想できそうなすっき
りした顔立ち。
僕と彼は現在、高校へと赴く朝の通勤電車にいた。
近藤は英語の小テストが今日の一限で行われる事を全然、覚えてい
なかった。彼は物覚えが悪い。
﹁そういえば今日は・・・﹂と僕がこの話題を振った時、彼はその
キリッとした眉をガンダムみたいに吊り上げ、無言の驚きを僕に示
した後、苦い顔をしてから少しどうしようか悩む。
そして、﹁もうっ、諦めるっぞ、俺!﹂とビシッと言った幸一郎少
年であった。
こまつ ひとし
が、彼は一学期、英語の五段階評価が2︵あひる︶であり、担当英
語教師の小松仁からは、
28
﹃次にあらゆるテストで三割を下回ったら、容赦なく1︵エントツ︶
。﹄との宣告を受けている。その事を僕は指摘し、幸一郎は再度、
頭を悩ませて、
﹃この瞬間、単語だけに命をかけるっ!﹄
とのこと。
僕は、そんな彼に付き合い、英単語を呟いては幸一郎に日本語訳を
答えてもらう、テストを前に学生がよくやるアレを実行中であった。
ちなみに、僕も今日のテストは勉強はしてない。覚えてはいたけど・
・・。
ちなみに小松先生はテニス部顧問であり、その若き日々に磨き上げ
かんば
たスマッシュテクは、現テニス部を県大会上位に導く事と、出来損
ない生徒のケツを、丸めた教科書で容赦なくぶっ叩くことに芳しく、
そのすさまじい威力は後者の方が学校内で有名だった。
﹁あの人、絶対、誰かに刺される。﹂
電車の窓の外の畑を見ながら、僕はボソッと呟く。
僕の学校は、埼玉県にある、農業系大学の付属高校だ。家から、駅
に向かい田舎の地元よりさらに、電車で下った高校。
偏差値は、低くはない⋮と言っておこうかな。
ただ運動部系の活動は積極的な方で、部によっては地方、全国など
の大会では毎年上位をキープしている。しかし、帰宅部として、熱
意をもって毎日家路をたどる僕については、強豪運動部に魅力を感
29
じての入学でもなかった。
﹁将来、良質な土、野菜に適切な水、無農薬栽培などについて、プ
ロの知識を蓄え、職業農家になって日本の食生活を支えていきたい
です。﹂
と入学受験の面接で口走ったのは僕だった。
農家になりたいのは本当だが、前述の大層な理由は建前で
﹁農家になれば、人間関係のイザコザが少なくて済むから。﹂とい
うのが、本音である。
近藤とは小学校時代を共に過ごした仲だ。
互いを知ったのは小学一年生の時。
﹃将来の夢﹄をテーマとした作文発表で、僕が口にした題名は
﹃仮面ライダーになりたい﹄であり、その幼稚なテーマはクラス中
から
散々、散々、散々笑われた。
そして、名前の順番で次に発表したのが、近藤幸一郎少年であり、
彼が高らかに叫んだ題は、
﹁俺は仮面ライダー アマゾンになりたい﹂であった。
なかなか、しぶい。
先生に呼ばれ、﹃二人ともわざとやってんのか﹄と少し説教された。
しかし、僕も彼も、その時初めてお互いのことを知った。打ち合わ
せも何もない。
30
帰り道、僕は近藤と初めて話す。内容は、﹃歴代仮面ライダーにつ
いて﹄だった。二人の会話は予想以上に盛り上がり、ライダー達の
勇姿を話題に、僕と近藤は熱弁を繰り広げた。
僕は、この日から近藤と良く話すようになる。
口下手で友人が少ない僕を何かと、サッカーやら、野球やらに誘っ
てくれたし、家に招いては遅くなって怒られるくらい一緒にゲーム
をした。父さんも、母さんも近藤のことが大好きであった。
そして、高校も現在同じである。
無理して、僕と同じ高校を選択したのか?と以前聞いたことがあっ
た。
﹁違う、弓道がしたい。﹂
というのが近藤の答え。
まと
埼玉屈指と言われる我が高校の弓道部。彼はそこに入部し、毎日、
的を射抜く。真剣なまなざしで弓を構える姿に、ときめく女子も多
いとか。
柔道でも、剣道でもなく、なぜ弓道?と問えば、﹃飛び道具が、一
番強いから﹄とさっぱりとした、返答。
そして、今朝駅につき、僕と近藤は顔を合わせ、現在朝の通学電車
をともにしていた。
﹁﹃ナニナニ、ニタイシテ、ギモンヲ、モツ﹄、﹃ナニナニ、ニタ
イシテ、ギモンヲ、モツ﹄、
31
ナニナニ、二タイシテ⋮﹂
近藤は、さっきから呪文を唱えている。
﹁・・・・なあ、近藤?﹂
窓の外を見ながら僕は、呼びかける。
﹁待て、あと一回言わせてくれ。
﹃ナニナニっ、ニタイシテっ、ギモンヲっ、モツっ﹄。よし、覚え
た!いいぞ、なんだ、会津?﹂
﹁・・・・いや、やっぱいい。﹂
話が飛びすぎで近藤にも訳が分かるはずもない。
・・・今朝の“あの声”。夢の中の声。
妄想じみていて、話すにはバカらしい。
﹁ん、なんだ?遠慮せず、言ってくれていいぞっ!﹂
元気のいい、近藤は、眉毛を“?”の字にして僕を見つめる。
その力強い、瞳を見つめると大丈夫、やはり話そうと思ええた。近
藤は人を馬鹿にしたりする人間ではない。
﹁・・・近藤は漫画とかでよくある、テレパシーみたいに・・・頭
の中で“声”が聞こえるなんてこと、・・・今までなかった?﹂
﹁無いぞ。﹂
﹁あ、そう・・・。﹂
元気のいい、即答は逆に近藤らしくもあった。
﹁なんだ、会津はテレパシーできるのか?﹂
32
﹁いや、できないけど。・・・できないんだけど、・・・最近頭の
中で・・・変な声が聞こえるって言ったら・・・僕、変だよな?﹂
﹁声が・・・聞こえる?﹂
僕は続けた。
﹁・・・最近、変な夢を見るんだ。どこかわからない所で、知らな
い人の声を聞いてる。僕は全く身に覚覚えがないんだけど・・・す
ごく、寂しそうな声なんだ。﹂
近藤は黙って、聞いている。
﹁その夢、今朝も見たんだ。今日の夢は特別、なんだか・・・・寒
かった。・・・声も、やっぱり聞こえた。目が覚めた後、変だと思
いながらも支度して、学校に行こうとした時、・・・母さんと少し
話した。﹂
﹁・・・お袋さんとは、上手くやれてるのか・・・・・・・・?﹂
近藤は、僕が母さんに抱く感情を知っている。結構前に、僕が話し
た。
﹁ううん、相変わらず・・・。いや、その話は今はいいんだ。・・・
それで話をした時、母さんの声が・・・一瞬、夢で聞いた“あの声
”と重なったんだ。あれは、母さんの声じゃ・・・なかったと思う。
﹂
近藤は黙って聞いてくれた。そして、しばらく考え、口を開く。
﹁最近、その手のSF映画とか、漫画を見てそれが夢に出てきた・・
・とか?﹂
﹁僕もそれは、考えた。でも、最近そんなもの、見ても読んでもな
いし、・・・あんな声聞いたこと、今まで一回もない・・・と思う。
﹂
思い出しながら、右手を唇の前にあてる。息が・・・震えている。
33
﹁その声、夢ではなんて言ってた?﹂
近藤の問いかけに、数秒遅れて答える。
﹁・・・﹃カワッテアゲル﹄って。・・・うん、確かにそう言って
た。﹂
﹁主語がないな・・・。何を代わってくれる・・・・・・・んだ?﹂
僕は、夢の内容を思い出そうとするが、時間がたった後のそれは、
至難の業だ。
﹁ごめん、思い出せない﹂
﹁別に、謝ることはないだろ?で、会津はそのことで、何か心配ご
とでもあるのか?﹂
近藤は、こんな話を聞かされても、真剣に相談に乗ってくれるよう
だった。
﹁さっきも言ったけど、・・・母さんが・・・大丈夫かなって。“
声”の事もそうだけど、今日は顔色が良くなかった。今日倒れなき
ゃ、いいんだけど。﹂
﹁そういう心配は、お袋さんに面と向かって言ってやれ。俺に言っ
てどうする。﹂
﹁でも、母さんは僕を⋮﹂
母さんは、父さんがいなくなって、本当に辛そうなのだ。そして、
残った僕は、あの日、あの日から、母さんを見捨てた。思いを切っ
た。
最低の息子。
僕が、どんな言葉で言いつくろうと、母さんは僕の事、きっと・・・
。
﹁お前が、思っている以上にお袋さんはお前を嫌いじゃない。﹂
近藤が、僕の思考を断ち切った。
34
﹁いい加減、それをやめろ。お前も、お袋さんも口下手なのは、俺
だって良くわかってる。俺なんかが口出しできる立場じゃないのも、
知ってる。でも、そうやって、お前が殻に閉じこもってるのを見る
から、お袋さんだって接しづらいんだろう?いつかは腹わって、言
いたいことの一つや二つ、言うなり聞くなりしなきゃ・・・お前も
お袋さん、悲しすぎるぞ?﹂
﹁そんな、急には無理だよ。あの人と一分でも会話を続ける自信が
ない。﹂
僕は、窓を見ながらつぶやく。
近藤は、僕にチェロの優しい重低音のような声で、話す。
﹁大丈夫だ。お袋さんは絶対お前を邪魔だと思ってない。そんな訳
ないだろ、実の息子だぞ?。だから、お前も、実の母親と今日は一
言でもいいから、多く話せ。﹂
近藤幸一郎はぼくの親友だ。本当に、大事な。
彼に言われると、少し、素直になれる気がした。
﹁・・・うん、わかった。そう・・・してみる。﹂
﹁おう、頑張れ!マザコン会津!﹂
﹁うっさい﹂
近藤と話したおかげで、今朝の不安は、取り払われていくようだっ
た。
35
近藤との約束だ。
今日は、家に帰ったら、少しだけ母さんと話すのだ。
そうしよう。
僕は、カバンから英語のテキストを出し、今日の小テスト出題問題
を予習し始めた。
36
3話︵後書き︶
次、いつ出るかわかりませんけど、一生懸命書きます。
次回もよろしくお願い申し上げます。
37
4話︵前書き︶
4話目です。よろしくお願い申し上げます。
38
4話
電車を降り、そこからさらに、学校指定のバスに乗る事15分で、
僕と近藤は学校に着いた。小テストについては二人とも何とか、通
知表に及ぶ悲惨な事態を回避できる迄には、単語を頭へ放り込んだ。
昇降口で上ばきを履き、階段を登る。
僕らのクラスは、4階のハジから三番目。二年八組だ。全学年クラ
ス数がおよそ30である我が校は、その昔1階分を新しく増築した
歴史を持つ。なので、4階のクラスは、他の階より割と清潔だ。
今日、できたら、近藤に家に来てもらおうか。母さんとの会話も、
近藤と一緒なら気まづくないだろうか。うん、是非来てもらいたい。
﹁なあ、今日、ウチにきて一緒に晩メシ食べてかない?﹂
少し考えて僕の思惑を察したのか、しかし、近藤は申し訳なさそうに
﹁ごめん、今日は無理だ。﹂
と告げる。
﹁今日も、練習遅いの?﹂
残念に思いながら、階段を二段ずつ登る近藤に僕は、問いかけた。
﹁ああ、大会が近いんだ。一日、五十は“的”に当てなきゃ、帰れ
ない。﹂
弓道部内での近藤の的中率は、非常に高い。その実力は、全国大会
39
にも通じる程なのだ。顧問の教師からの期待も大きいし、有名大学
へのスポーツ推薦の話も彼に届いている。
続けて聞いてみる。
﹁そう言えば、近藤は推薦の話って・・・。﹂
﹁・・・ああ、そんなのも・・・あったな﹂
彼は、特に気にもしていない様に答えた。
﹁あったな・・・って、推薦来てる大学ってスゴい所でしょ?弓道
で推薦って、本当に上手くなきゃもらえないって聞くし、何より、
受験に有利で良かったじゃないか。﹂
﹁・・・俺は、弓道続ける気は、無いんだ。﹂
近藤の登る速度が落ちた気がした。
﹁・・・そう・・なんだ﹂
友達として﹃なんで?﹄と聞いてやるのが、普通の対応だと思う。
でも、そうして人様の内情にドカドカと踏み込むのは、不愉快だろ
う。
触れて欲しく無い部分に触れないマナーが、他人も自分も傷付けな
い人間関係構築の“重き”だ。そう僕は、思っている。
話は続けず、このまま黙って4階まで行こう。そう思った時、
ほんの一瞬、前の階段を登る近藤の肩が震えた。
そして、近藤は僕に、顔を向けずに口を開いた。
﹁・・・なあ、会津?﹂
﹁え?﹂
40
間の抜けた返事を返す。
﹁・・・俺達、今高校二年生で、親から学費貰って、勉強とか部活
してるだろ?﹂
近藤の声は少し、抑揚が無い。
﹁俺達はさ、大学へ行ってさ、ハタチ過ぎて、成人式出て、どっか
就職して、結婚して、子供が生まれて、ハゲになるまで働いて・・・
いつかは、・・・いつかはさ、死んじまう。﹂
﹁・・・うん。﹂
僕は、近藤が何を言おうとしてるのか、わからなかった。
﹁大体の奴らは、それが“普通”っていうかもしれない。死ぬ前に
立派な功績を残せれば、悔いは無いかもしれない。好きな誰かと結
婚すれば幸せかも知れない。金があれば、美味しいメシたらふく喰
えるかも知れない。﹂
階段が二段登りから、一段づつになっている。
﹁でも、・・・でもさ、そんな皆が“普通”にやってる、人生って
さ、・・・いつかは、終わるんだぜ。﹂
﹁・・・﹂
もう、4階に着いてしまった。近藤は、僕に背を向けたまま、立ち
止まっている。
﹁死ぬ事がわかっているのに、弓道やる意味なんか無いし、いい大
学に行く意味なんか無いんじゃないのか?・・・就職するのはなん
の為だ?・・・手に入れた名誉は、あの世に持ってけるのか?金は
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?思い出は?﹂
変だ、いつもの彼じゃない。
﹁・・・いつかは、死んじまうなら、−−−−−﹂
大樹の様に、芯のあった声は、今は養分をとことん吸い取られた、
枯れ木の様だ。
近藤は息を吸い込む。
そして、言葉を放った。
オレハ、ナンノ、タメニ、イキテルンダ?
つららを、丸呑みした感覚が襲う。
右手のバックを落としてしまった。しかし、落ちた音は、僕には何
枚も膜を隔てた向う側の様に、くぐもって聴こえた。
−−−−−−−あの声だ。まただ。またなのか?
僕は、動けなくなる。
近藤は、気付いた様に振り返った。
﹁俺・・・あれ?こんな話し.なんでしてんだ?変だな。ハハ・・・
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悪い、今の忘れてくれ。﹂
近藤は今日初めて、笑顔を見せたが、作り笑顔が下手だ。
僕は、戸惑いながら、重たい口調で僕は聞く。
﹁・・・近藤?﹂
﹁ん、なんだ?﹂
﹁大丈夫か?﹂
近藤は、しばらく黙って、
﹁大丈夫だ。変な薬なんかに手を出してない。﹂
と言う。
﹁・・・違うよ、そうじゃなくて﹂
あの声の事を言うべきだろうか。
いや、変な薬を飲んでしまったのは、朝から聞こえもしない声が聞
こえる、僕の方じゃないのか。
様々な考えが渦巻く。そして、
﹁・・・なんでも・・・無い。﹂
僕は、そう言うしかできなかった。
﹁うん、いや、俺の方こそ悪かった。変な話したな。さっきのは、
忘れてくれ。﹂
声はいつも通りに戻っている。
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しかし、あの声が、何回も耳にこびりついて、リピートしている。
・・・ナンノタメニ、イキテル。
なんだろう、この途方もない、感覚は。
なんだろう。底のない、暗い穴を覗き込む様な・・・この何かは。
分からない。
﹁会津、もう行こう。欠席扱いにされる。﹂
僕は、返事をして、近藤を見る。
彼は、目が潤んでいた。
僕は、手が震えていた。
44
4話︵後書き︶
次いつでるか、分かりませんが、
次回もよろしくお願い申し上げます。
45
5話︵前書き︶
5話目です。ダラダラ続けて、すみません。
よろしくお願い申し上げます。
46
5話
夕日は、タイルの床が反射した蛍光灯の光と交わり、教室を照らす。
外からは、野球部の掛け声。近くカラスが鳴く声が、重なっている。
小さな林地帯に囲まれるうちの高校では、山から下りてきた野鳥が
多い。
11月の教室は空調機の垂れ流す、ぬるい空気で満たされていた。
一日中、誰も窓を開けずこの空気を吸っていた。
下校時間になるまで僕には言いようのない、暗鬱がつきまとった。
ずっと今朝方の母さんと近藤の事を思い出している。
潤んだ目、そして“あの声”。
アレと同じ声を間違いなく夢で聞いた。
聞こえた時、“何か”が僕の中に染み渡り、比喩では無く、体温を
根こそぎ奪われた。
二人の涙が滲んだ目が、頭から離れない。
悲しみに押しつぶされそうなあの表情を見た時、ちっぽけなガラス
細工が床に落ちたように、小さな音を立てて、持っている感情全て
が粉々になった。
そして、僕はたまらなく逃げ出したくなった。
何かの特番で、超常現象の科学的解明を論じていたのを思い出す。
47
曰く、パニック状態に、アドレナリンの過剰放出だか、異常な電気
信号の発生だか、ストレス負荷とかが自身に自己暗示をかけ、木の
影、物音などを幽霊の姿、声として認識してしまう、らしい。
だけど僕は、変な薬を飲んでもいない。ストレスが無いとは言わな
いが、病む程では無い。ささやかながら自身の正常さを自覚する。
声が幻聴だとして、あの感覚は、混乱した状態の単なる不安とは違
うと思えた。
あの夢を意識しすぎなのだろうか。
夢で聞いた言葉。同じだった。母さんの時も、近藤の時も、夢の中
でも。
﹁・・・代わってあげる﹂
つぶやいてみても、全く、身に覚えがない。意味も、理屈も分から
ない。
“何を”代わってくれると言うのだろう。
考えても、答えは出ない。もう帰ろう。今日は、気が滅入りっぱな
しで疲れたし、早々に、寝てしまおう。・・・充分に異常だけど、
僕は大丈夫だ。
幻聴が聞こえる程に脳みそが壊れても、僕は誰にも迷惑はかけてい
ないし、恥もかいてない。僕一人の事だ。不安も怖さもお腹にしま
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っておけばいい。
何も難しいことじゃない。
何も。
きっと、その内いつも通りになるんだ。人間の体は、丈夫にできて
いる。
無理に割り切って自分にそう言い聞かせ、帰り支度をする。
気がつけば、クラスの皆も帰宅したか、部活に行ったで、教室はほ
とんど空だった。残った生徒は、耳にイヤホンをつけて机に突っ伏
して、寝てる女子とカードゲームに興じる男子二人のみ。
近藤も、もう部活へ行ってしまった。
僕も、帰ろう。鞄を持って席を立ち、扉の前まで行ってをそれを開
けようとする。
その時、椅子を床を引きずる音、数秒遅れて足音が聞こえてくる。
ゆっくり振り返ると、一人女子生徒がこちらへ向かってくる。
どうやら、机に頭をうずめていたさっきの彼女だった。
赤いマフラーをしていて、イヤホンは耳につけたままだ。
耳を出したショートの黒髪は細い首筋をあらわにし、緩めの7:3
に分けて前髪がピンで留めてある。
少し釣り目で眉は細く、しかし、自然なアーチを描いているので、
鋭い印象は無い。
かじわらさん
確か、名前は・・・、梶原、だったかな。
まっすぐこちらへ向っかって来るので、教室から出て行くのかと思
い、出口を譲ろうと、僕は右に避けた。そのままの速度で僕の前を
49
通り過ぎようとした時、僕より背の低い梶原さんは、チラッと顔を
こちらに向けた。
その時、
彼女の瞳から、涙がこぼれた。
﹁・・・!﹂
僕は驚いて、彼女に見入ってしまう。
梶原さんも、なぜか驚いて涙が落ちた床をじっと見つめていた。
涙は、タイルにはじかれて夕日と蛍光灯にかき消されそうで、それ
でも反射した光がそこにある事を教えてくれる。
しばらくして顔を上げて僕を見ながら、彼女も固まってしまった。
男子たちはカードゲームを続けている。
そして、口を開いたのは梶原さんだった。
﹁あの・・・ごめん、なんでもないから。﹂
そういって、そっぽを向いた。
僕は、
﹁ああ・・・そう。﹂
ぐらいの返事しかしなかった。
﹁・・・じゃあね。﹂
彼女はそのままドアを出て駆け足気味に立ち去ってしまった。
この場合、追いかけて慰めや相談に乗ったりするのは友人、彼氏的
50
な立ち位置の人間であって僕ではない。ここで、僕がしゃしゃり出
て、﹁どうしたの?なにかあった?﹂とは聞けない。
そう思って、彼女を目で追うだけだった。
いったい、なんなんだ今日は。どうして、みんな僕の前で悲しい顔
をするんだ。僕には、何もできない。したくない。だれも助けられ
ない。
涙を流す人間を、もう見たくない。
﹁きゃっ!﹂
階段のほうから、短い悲鳴と重たい音が聞こえた。カードの男子た
ちも廊下に顔を向けている。
普通じゃない音がした。数秒迷って僕は、階段へと走った。
踊り場には誰もいない。る夕日の帯が、空中に舞う埃を浮かび上が
らせ、光はそれは下の踊り場に向けられている。
すすり泣く声が聞こえた。下に続く階段まで歩み、覗くと、梶原さ
んが両手で顔を擦りながらながら、光からはじかれた影の中で子供
みたいに泣いていた。
﹁・・・痛い・・痛いよう・・。﹂
何か・・・、誰かが、耳のそばでゆっくり息を吸い込む様な音が・・
・した。
51
次の瞬間、暗い冷蔵庫に音を立てて閉じ込められたように錯覚がす
る。シャツの裏側に冷気が入り込む。
また聞こえるのか。
﹁・・・やめてくれ、やだ、聞きたくない。﹂
僕は、耳をふさぎ、目をつぶる。
梶原さんは、泣き続ける。
そして声は彼女のものじゃなくなった。
・・・イ タ イ イタイヨウ
押しつぶすように耳をふさいでも、容赦なく僕に流れ込む声を聞い
て、僕はうずくまるしかなかった。
52
53
5話︵後書き︶
次回も、いつになるか分かりませんが、
なるべく早く出します。
よろしくお願い申し上げます。
54
6話︵前書き︶
ご無沙汰しております。
今回6話目です。
遅くなりまして・・・本当申し訳がありません。
55
6話
﹁会津君、あのさ﹂
高校二年になって半年以上たった今、女子から名前を呼ばれたのは、
数える程しか無い。驚いて返事が詰まる僕の代わりに、ナトリウム
出席の時に一番最初に呼ばれてるでしょ?“会津弥一”
あいづやいち
ランプの下のベンチに腰掛ける梶原さんが鼻声混じりで続ける。
﹁毎日、
君で・・・あってる?﹂
﹁君は梶原さん・・・だよね?﹂
聞き返した僕の声は思った以上に小さい。
かじわらひさこ
﹁そうだよ・・・梶原緋紗子です。﹂
なんとも、滑稽な自己紹介を終えて梶原さんは赤いマフラーに顔を
うずめる。ピンで止めたショートの前髪も今は、タランと垂れ下っ
ている様に見えた。彼女は氷入りのビニール袋を、腫れてしまった
額にしばらく付けていたが、今はそれを離した。
﹁今日の事・・・誰に言わないで欲しいんだけど﹂
・・・今日の事。
分かっている。彼女の今日一日に“あの声”の事は、含まれていな
い。あれは僕にしか聞こえていない。
﹁・・・大丈夫、言わないよ。﹂
ベンチのそばで、間違えてそこに芽生えてしまった植物のように突
っ立つのは、僕だ。
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・・・“あの声”。
一時間くらい前。
階段の踊り場で、泣きじゃくる梶原さんから“声”を聞いた時、僕
は耳を塞いでうずくまり、しばらく動けなかった。ガチガチと歯が
震えた。僕の脳みそが、危機回避を訴えはじめたのは、どれ位後な
んだろうか。
逃げなければ。
あの声から、・・・梶原さんから逃げなければ。
・・
無理矢理に体を直立させ、ぼくは駆け出した。足は驚く程におぼつ
かない。校舎の中をどんな順路で巡り、そこに辿り着いたかは、も
う思い出せない。
気が付けば、保健室のドアを開けていた。
保険の先生は、マグカップを手にヒーターのきいた心地よい温かさ
の部屋で、パソコンに向かい作業中だった。
﹁どこか、怪我でもしたのかな?﹂白衣を着た女性は、優慣れたよ
うに優しくほほ笑む。
僕は今日起こった色々を全部話してしまいたかった。
助けてください。
不幸な目にあってる僕を
助けてください。
先生は笑ったまま何も言わない。薬棚の上に置かれた、有名キャラ
クター人形の笑顔と重なって見えた。
57
﹁・・・怪我した子がいるんです。﹂
叱られた子供のようにそう言うしか、僕にはできなかった。
階段に戻れば梶原さんの姿は無く、教室の自分の席で座っていた。
カードゲームをしていた男子二人が手当してくれたらしく、彼女は
濡れタオルを額に当てていた。先生は、梶原さんを保健室まで連れ
ていく。カード男子達も興が冷めたようにで、一言二言声を掛けて
帰っていく。
誰もいなくなった教室で僕は自分の席に腰をおろし、両手で頭を抱
える。もう、言い訳も強がりも、都合のいい解釈もできない。僕に
は“声”が聞こてしまう。聞こえれば、不安が僕を支配する。
何かが、僕に、なにかをしている。どこへも逃がすまいと、黒い手
が両の足首をガッチリと掴んで居る、そんな錯覚まで感じた途端、
吐き気に襲われる。
﹁ああ・・・うっ・・﹂
我慢できずにトイレまで走り出し、全部もどした。
15分くらいこもって戻れば、日はすっかり落ちていた。
まと
グラウンドの方からは部活動の掛け声も聞こえない。廊下側の窓に
は、夜の暗さを纏った山々のシルエットが映る。無音と暗闇。そし
て無音。
背中を這うような恐怖を感じて、僕は教室から逃げ出した。
・・・なんだよ、何々だよ。
敷地が無駄に広い我が校には、バスが数台入るロータリーがあり、
もちろんここに普通車が入る事もある。そのロータリー沿いのバス
停まで辿り着いてベンチに人の影に、気付く。赤いマフラーに、シ
ョートの髪。
58
梶原さんだった。
目が合い、彼女は首を少し上下して僕に挨拶をした。怪我をしたで
あろう額には、ビニール袋を当てている。僕は、停留所から数歩離
れた位置で立ち止まる。
“あの声”が聞えた彼女の近くにいるべきではないのではないか。・
・・今すぐ、ここから離れるべきだろうか。
僕の表情はそんな思考がまるっきり、反映されたものとなっていた
んだろう。梶原さんが驚いた表情で僕を見ている。
﹁そんな顔して、どうしたの?﹂
少しだけ、ほんの少しだけ笑みがこぼれていた。一人でいたくない。
そんな理由もあり、ぼくはそこから立ち去る事を選べなかった。そ
して何故か、今は彼女から“あの声”を聞く事は無いと思えのだ。
僕の不安の表情を、多分、“ひどく彼女を心配している”と読み取
られたのかもしれない。梶原さんは、ポツポツと怪我の具合を話し
てくれた。
階段から足を滑らせ、転げ落ち頭を打ってしまった事を。
それ程強く打ったわけでは無いのでたぶん大丈夫と言う事を。
ただ、打ち所が打ち所なので、病院に行って一応の検査をして貰う
と言う事を。
病院までは、親が送ってくれる運びとなり、今それを待っているの
だと言う事を。
そして、今日の事。あの涙の事。
﹁今日・・・ふられた。﹂
ばつが悪そうに、そっぽを向いて彼女は言う。
59
﹁泣いたのは・・・だから、それだけだから。﹂
﹁・・・そう﹂
﹃残念でしたね。﹄なんて、そんな“情”がちょっとでも含まれる
様に、極力低く、ゆっくりと僕は言葉を吐く。同時にでっち上げた
慰めを組み立てる自分の脳を嫌う。
誰にも言わないで欲しい。
僕は了解を示したけど、先程のカード男子達はどうしたんだろうか
?彼等も今日の梶原さんについては、
まるやま
知っている事になる。
かのう
﹁ああ、狩野君にも円山君にも同じ様に言っておいた﹂
どうやら梶原さんは、クラス全員の名前を把握している様だ。いや、
この場合半年以上経って、クラスメイトの名前を覚えきれていない
僕の方がおかしいのか。
会話のキャッチボールと言うのは、今どちらがボールを持っていて、
どちらが投げ返さなければならないのか、イマイチ分からないとき
がある。
しばし、無言が続いた。
﹁・・・会津くんも、今日は何か嫌な事あったんじゃない?﹂
数十秒後、口を開いたのは彼女の方だった。
﹁え?﹂
保健室で、僕が助けを求めた心の声と、教室での吐き気が再び押し
寄せて来たが両方押さえ付ける。
そんな僕には気づかずに﹃今から話す事は、これまた内密に﹄と梶
60
原さんは釘を刺して続けた。
﹁私・・・前から、いいなって思ってた人がいて告白しようって決
めてた。彼の方も満更でも無いんじゃないかって、・・・勝手に思
い込んでた。で、いざ告白したら﹃もう、彼女がいるから無理だ﹄
て・・・言われた。﹂
梶原さんはタイヤの空気が抜けていく様な声をしている。
﹁最初は潔く諦められると思った。ほとんどが私の思い込みだった
し、別に私の事を嫌いじゃ無いならまだマシだよね?、って。﹂
・・・でもね、やっぱり、私は悲しくなった。
マフラーの女性は顔をうずめたままだ。
﹁だって・・・私がこんなにも想っているのに、彼は別の誰かとヨ
ロシクやってて、ふられた私の方はこんなにミジメなんだ。耐えら
れないよ、こんな・・・。﹂
ショートの前髪を寸分動かす事無く、梶原さんは続けた。
大好きな人に選んでもらえない事がこんなにも、
﹁知らなかったんだ、こんなの。﹂
惨めで、
別の誰かが彼の隣に立っていると想像するとこん
なにも、妬ましくて、
それでも続いていく毎日を無理矢理過ごしていく
と考えると、気だるくて、
こんな結果を導いた世界も、今までの時間も全
てが、忌々しくて、
61
やっぱり、悲しい。
今までに出会わなかったよ、こんな気持ち。
あー・・・こんちくしょ。
悪態づく梶原さん。それでも愚痴っぽくなく、さばさばと語った。
﹁会津君、教室で君と目が合った時に私が泣いたの、見てたよね?﹂
リノリウムの床にこぼれ落ち、ささやかな光をはなっていた雫を僕
は思い出す。
﹁あの時、君は・・・﹃世界中の悲しい事をお腹いっぱい見て来ま
した﹄って顔をしてた。﹂
・・・幸うすそうとはよく言われるけど、と僕は返す。
﹁そう言うのとは違うと思う。﹂
梶原さんはチラッとこちらを見上げて、また顔をうずめる。そして
こんな風に教えてくれた。
﹁何だか、君をみたらね、
私の持ってるグルグルした感情を、君が私の代わりに飲み込んでる
風に思た。一杯のすごく冷たい水を、無理して飲んでるような・・・
そんな、映像?が一瞬見えた。﹂
﹁・・・よく、わからないよ。﹂
だよね、と目を伏せる彼女。
﹁どうしてかな?そんな風に感じたら、私は泣いてた。そんなヒリ
62
ヒリする水を飲んでるのは私じゃ無くて、君なのに・・・。なんて、
何言ってんだろね、私。﹂
壁に一人でボールを当てるみたいに話す彼女に、何も僕は言う事が
出来ない。
﹁会津くん、君は・・・君も、何か“嫌な事”あった?﹂
そして校門から、シルバーのセダン乗用車が顔を出した。梶原さん
がべンチから立ち上がり、僕の隣に並んだ。
﹁変な事言ってごめん。お母さん来たから、行くね。﹂
僕より背の低い彼女のつむじが見える。後ろの校舎の蛍光灯が、僕
らを照らし、アスファルトに影ができている。
おぼろげで、頼りない二つの影。
そして、どうしてか、梶原さんはトボトボと車道の中央に歩み出る。
どうしたんだろうか?なぜ彼女は、車道に出たのか?
﹁梶原さん、どうしたの?そんなトコ立ってたらひかれちゃう。﹂
梶原さんは、自分の母が運転するセダンをじっと見つめている。
﹁大丈夫だよ・・・ひかれないよ。私がここにいる事、お母さん気
付いてるもん。﹂
今僕からはその横顔が見える。その瞳は濡れて、どこか虚ろだ。
・・・ダイジョウブ、だよ。
﹁え?﹂
車のエンジン音でかき消されそうだったが、今の彼女の声に“あの
63
声”が混じっていたように聞こえたのは空耳か?
車のヘッドライトは、闇ごと梶原さんを消し去ろうとするかのよう
に彼女を照らし出す。
その時、まばたきをした彼女の瞳から頬にその道筋を残して、しず
くが流れた。
それは、僕の脳みそがヤッパリおかしかったからかもしれないのだ
けど、
涙を流す梶原さんが、あの日、病室で父さんの死を目の当たりにし
た僕自身に見えた気がした。
下ばかりを向くまつ毛も。
不機嫌にキュッと縛っている一の字の口も。困った様にシワが寄る
眉間も、ハの字に曲げられ眉も。
何かから逃げ出したくて、でも逃げ出せなくて、途方に暮れた顔も。
きっと、僕はこんな顔をしていたに違いない。
そんな僕に、いつも、いつだって、笑顔を向けてくれた父さんが、
いない。
今、車は減速し始めている。確かにひかれる事は無い。
無いんだけれど。
﹁梶原さん!﹂
自分でも驚く程の大音量が口から飛び出した。車道中央の彼女に走
り寄る。僕は梶原さんの腕をつかんでバス停まで連れ戻した。そう
64
しなきゃいけない気がした。
﹁ひかれちゃうよ?﹂
驚いてた梶原さんも、どうして自分が道の真ん中まで歩み出ていた
のかわからない様子だった。ごめん、と彼女は言いかけたが、僕の
顔を見るなり、それが途中で笑いに変わっていた。
﹁あは・・・ふふ、ごめん。あの、会津くん、顔を変だよ?あはは。
﹂
口の端が少しだけ痛い。どうやら、僕は笑っているつもりらしい。
あの時の父さんを真似して。
﹁会津くんもうちょっと、・・・ふふ、上手く笑えないの?その顔
じゃ、オバケだよ?﹂
キツネみたいに目を細めて笑う女の子。慌てて手を離し、僕は顔を
そむけた。顔が赤くなっているのが、ばれない様に。
セダンはとっくに止まっていた。
﹁会津くん、ありがとね。君も元気・・・出してね。﹂
小走りで走る彼女は最期に僕にふり返り、手を振る。遅れて気付い
たように、手を振り返した。
梶原さんを乗せた車が校門を出たちょうどその時、
僕の携帯電話がメールを着信した。
見ると送り主の欄が、文字化けして読み取れない。スパムメールか
と思い無視しようとしたが、
件名の欄にアルファベットで文字の列が並んでいた。唯一、そこは
65
ni
kaeranaide
yaichi”
一つの意味を成して、こう記されていた。
“ie
・・・“家に帰らないで、弥一”
途端に携帯電話の電源が落ちる。
吸い込まれる黒の画面には、僕の顔以外何も映らなかった。
66
6話︵後書き︶
次回もよろしくお願い申し上げます。
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7話︵前書き︶
皆様こんにちわ、蒼木荘です。
毎回毎回、投稿が遅れて申し訳ありません。
68
7話
駅に着いたの頃には八時を回っていた。昨日のより幾分早めだけど、
土曜日の終業時間を考えると充分に遅い。
ツンとする冷たい空気を鼻の先に感じて駐輪場へと向かう。僕の街
は都心から離れているとは言え、さすがに駅前ともなるとファスト
フード店や居酒屋などで賑わう。今は帰宅ピークを少し過ぎて、人
の流れも落ち着いてきた時間帯の様だ。
連れ立って笑いあう人。携帯電話で話しながら、難しい顔をする人。
無表情に前だけを見て歩く人。
この人達は当然の様に、毎日どこかに向かい、誰かと出会って、何
かを思い、それを毎日自分の部屋に持ち帰って行くんだろうか。
何故かそんな一人一人を、強く意識してしまう僕がいた。
自転車が停めてある駐輪場の広さ自体はそれ程無い。元々は飲食店
だったのを改装して今の駐輪場にしたらしい。その頃の名残で、間
取りは接客ホールとキッチンであった部分に分けられたままだった。
自転車は奥のキッチンで僕の帰りを待ってくれていた。
鍵を外し、通路まで引き出して出口まで転がす。車道に出てサドル
にまたがった僕は、だけれども、走り出せずにいた。
︵どう、考えても・・・。︶
今日起こった全部は、どう考えても非現実だ。
今朝の母さんと近藤、そして放課後の梶原さんから聞こえた、“別
の誰か声”。それは僕がここ最近夢の中で聞いた、あの冷たい声と
同じだった。
さらに梶原さんと別れた後に送られて来た、送信者不明のメール。
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ni
kaeranaide
件名にはアルファベットで
“ie
︵家に帰らないで、弥一︶
yaichi”
と記されていた。送信元アドレスは文字化けしていてわからず、そ
して勝手に電話の電源が落ちた。
その後、再び電源を入れ、受信ボックスを見たが、そこに文字化け
したメールなんて無かった。
もう、ホラーかオカルトに近い体験をした僕は帰りの電車の中で、
しかし、存外落ち着いて今日の事を思い返していた。
母さん、近藤、梶原さん。
浮かんだ彼らの顔はどれも泣き顔だった。
車道でサドルにまたがったまま携帯電話を取り出し、ディスプレイ
を見つめる。
あのメールには、“帰らないで”とあった。
もう一度受信ボックスにある過去のメールから全てを見たけど、や
はりそんなものは無い。
本当に消えてしまったか、或いはそもそも僕の妄想だったのか。も
“直接的な呼びかけ”という
し前者なら、名指しで僕の名前が書かれていたあのメールだけは、
今日起こった事で唯一の僕に対する
事になる。
どうして家に帰ってはいけないのか?
帰らなければ、この不可解な現象から逃げられるのか?
そして、一体誰があのメールを送ったのか?
問いかけても答えは用意されていない。
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聞こえないはずの声。正体不明で意味不明なメール。
息を深く吸い込み、吐き出す。ガム何十個をそのまま飲み込んだ様
な重たい気分だ。
・・・家に帰ることにした。
母さんに今日の事を全部話そう。耳鼻科でも、精神科でも治療を受
けよう。そうする事が、今は正解だと自分に言い聞かせ、僕はペダ
ルをこぎ出した。
乾燥でカピカピの田んぼ道を抜けて見えて来た僕の家は、明かりが
付いていた。いつもと同じ風景に、特別ホッとした。きっと母さん
が晩御飯を作って待っていてくれる。
自転車を車庫に納めて玄関に回った。ドアを開け中に入る。外から
見えた明かりは台所のものだけだった。それ以外の電気は付いてお
らず、窓からの月明かりだけがフローリングを照らしている。
﹁・・・ただいま﹂
返事は無かった。
奥から和風だしのいい匂いがするけど、包丁の音も、ガス換気扇を
付けている気配も無い。出かける用事でもあったんだろうか。靴を
脱ぎ、右足をフローリングの床へと運ぶ。
﹁いないの、かあさ・・・﹂
・・・・・“ぱしゃ”
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・・・なんだ?
床ではない何かを踏んだ音を聞いた。そして直ぐにつま先から足首
に向かって、何かが絡みつくような感触があった。何かを踏んだ?
いや、足を突っ込んだ?驚いて足を引き抜き、靴のある位置まで戻
して着地させようする。
・・・“バシャッ”
﹁・・・え?﹂
再び耳に押し込まれたのは、フローリングもコンクリートの玄関を
踏んでも出し得ない音。暗くて足元にある“それ”が分からない。
けど、目を凝らすと床が反射している月明かりが形を変えて揺らい
でいる。
あわてて電気をつけ、それを確かめようとした時、聞き間違いのな
い声が頭に響く。
︵ーーーお願い・・・返して・・・!︶
﹁・・・母さ・・・うッ!﹂
砕けるような頭痛を感じ、目を閉じた。
そして僕はまぶたの裏でそれを見る。
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母さんがいた。
母さんが、台所に立っている。エプロンをつけ、夕飯の支度だろう
か?
考える間もなくノイズのようなものが混じり、映像が変わる。やは
り、母さんはいた。
しかし、今度は落ち着きのあるブレザーとスカートを身に着けてい
る。場所は・・・僕の小学校の教室?
授業参観をした時の・・・?
再び映像が切り替わる。今度は葬式会場が映る。黒の喪服を着てい
るのはやはり母さん。これは・・・お父さんが死んだ時?そして、
また映像は切り替わる。続けていくつも、いくつもの姿の母さんを
見た。今日に至るまでの毎日を一緒に過ごした母さんの姿を、驚く
程正確に、大量に見た。
無茶苦茶に継ぎはいだ映画フィルム、それを目が回るくらい一気に
再生するように映し出される。
僕は一つも欠けることなく知っている。知っていた。
でも、映し出される彼女の顔はどれも泣き顔だった。そこだけは記
憶と違う。
嵐のように変わっていく映像に時間の感覚が失われ、脳が焼き切れ
そうになる手前で僕はやっと目を開けた。
﹁なに・・・いまの?﹂
そして、奥から何か音がしてきた。声じゃない。いや、この音には
聞き覚えがある。でもこの家の中で“それ”が聞こえるなんてあり
得ない。
頭の中が熱い。目眩に似た感覚から、僕は抜け出せないままだ。そ
れでも足元の違和感と奥からの音を確かめようと、なんとか電気を
付けて床を見た。
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﹁・・・・・・ッ?!﹂
照らされた床を見て、
数十匹の爬虫類が、へそから首すじ、頬、そして頭のてっぺんへと
僕の肌の上を素早くうごめく、そう感じさせる鳥肌がたった。
水だ。
おびただしい量の水が、廊下の奥から川のように流れ出していた。
そして、視線を自分の足元までたぐり寄せる。僕の右の足くびは、
すっかり沈んでいる。よく見れば、玄関の脱ぎ場所も全部浸かって
しまっている。20センチ程の深みを持っているようだった。幻聴
に続き、こんなぶっ飛んだ幻覚さえ見るようになったのか?とか、
さっき扉を開けた瞬間にここに溜まった水が飛び出す事もなかった
のは、何故だ?とか、それらを疑問として感じる余裕は、もう無か
った。
﹁なんで・・・・、こんなっ!﹂
︵ーーーあの人が死ぬ理由なんて、無いじゃないっ!︶
再び響く声。脈打つ鼓動に合わせて、頭痛が僕を叩き付ける。
︵ーーーお願い・・・返して、返してよぉぉ。︶
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﹁母さん、いるの?!母さん、・・・母さん!!﹂
泣き出しそうになるのを堪えて叫ぶ。
僕は奥に駆け出す。水は信じられないくらい、冷たい。
僕の視界は揺れ動く。白く、黒く、明るく、暗く。子供がテレビの
チャンネルを次々と変える様に。
足にまとわりつく水を蹴りながら、廊下に突き当たる。外から見え
た明かりのキッチンダイニングがある扉が見えた時、僕は五回の瞬
きをする。
浸水の水圧に耐える潜水艦のハッチのように、ドアから細い水の線
が幾つも弧を描いて吐き出されてた。
七回目の瞬きを終えてゆっくり近づき、ドアノブに手を掛ける。無
意識に息を大きく吸い込む。震える手で僕はドアを引く。
それをきっかけにして僕は思いっきりドアに叩きつけられた。勢い
よく流れ落ちる滝を真横にしたような水流に襲われる。尻餅を着く
より先に僕はそいつに飲み込まれた。
ダイニングには出口を求めていた、膨大な水がため込まれていた。
打ちのめされたままの姿勢の僕は顔まで沈んで呼吸ができなくなっ
て、とうとう我慢ができなくなり、何とか体を立たせる。驚く事に
水位はもう僕の腰にまで達していた。
ダイニングから流れるそれは、もはや荒れ狂う川だ。僕は鉄砲水に
足を取られそうになりながら、なんとかドアの向こう側にたどり着
く。そして、テーブルに突っ伏して水に飲まれそうになっている細
い人影を見つけた。
﹁母さんッ!﹂
叫びかけるが、滝ツボに突っ込まれた様な轟音がそれをかき消す。
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激しい流れに逆らってすぐそばに来て見ても、母さんは動かない。
顔も見えず、返事もない。
まさか・・・
景色が誰かに握りつぶされる紙みたいにグシャグシャになる。
﹁母さん!お母さん!﹂
僕は母さんの肩を掴んでその体を抱き起こした。そして見えなかっ
たその顔を見て、言葉を無くす。顔が何かで隠れて見えなかった。
﹁・・・かあ・・・さん?﹂
その両の目に、絹の様なモノが付いている。長いそれは床の水にま
でたどり着いて激しく音を立てながら、波紋を作る。
・・・違う。絹なんかじゃない
・・・涙だ。
母さんの目から涙が出ている。恐ろしい程の量だ。僕は息の仕方が
思い出せなくなる。
母さんの肩を抱きながら、辺りを見回した。
今にも全部を押し流してしまうかの様な水がそこにはある。そして、
もう一度母さんを見てみる。涙は決して止まる事がなく、辺りの水
へと吸い込まれる。
今、家を飲み込もうとしている、この大量の水・・・。
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﹁・・・これ、母さんの・・涙・・・?﹂
母さんの肩は壊れてしまうくらい、小さかった。
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7話︵後書き︶
最近暑くなり始めて、窓を開けっ放しで寝てしまいました。案の定、
喉が痛くて・・・。
これからの暑くなりそうですが、皆様お体にお気をつけください。
78
8話︵前書き︶
皆様ご無沙汰です。
毎度遅くてすみません。
8話目です。
79
8話
何かの間違いであって欲しい。
そう願いながら、もう一度確かめる。
母さんが、泣いている。目の場所から破裂した水道管の様に涙を流
す。
毎朝シリアルを食べていたはずのダイニングは、氷山にぶつかった
豪華客船が沈没する映画のシーンを再現している。しかし、そこに
生み出された結果は、テレビ画面もスクリーンも介していない。目
が、耳が感じているこの空間を、僕の脳みそは“現実”と判断して
いるようだった。
涙が、家を沈めようとしていた。
止まらない涙の洪水はあらゆる物を道連れにする。メモ帳、箸、鍋、
重みのある椅子さえ流されていく。いずれは僕らも溺れてしまう。
倒れそうになる程の頭痛はまだ消えないけれど、今、すべき事は分
かっていた。
﹁・・・立って、母さん。ここから・・・出よう。﹂
動かない母さんの腕を自分の肩に回す。
涙の水位は胸のあたりまで上がってきていた。あまり時間は無い。
ぐったりとする母さんを支えて廊下へと出ようとする。沈んだ食器
や鍋が足元で邪魔になり、水を吸った服の重みと冷たさも手伝って
思うように進めない。
止まらない頭痛に耐え、僕は誰にでもなく問いかける。
︵本当に・・・これが現実?︶
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慎重に足を運びなんとか廊下側に出ると、狭まりつつある水面と天
井の間に見えた出口までの距離が途方も無く長く感じる。もし、全
身が浸かってしまえば、外までたどり着くのは絶望的だろう。冷え
きった水のせいで感覚が無くなっていく腕にどうにか力を込め、母
さんを沈めないよう前へ進む。壁のカレンダーを通り過ぎ、ダイニ
ングから流された椅子を避けながら、後数歩で出口という時、
その消えそうな声を聞いた。
・・・ゴメン・・ネ
足が止まる。
“あの声”だった・・・気がした。今のは、母さんの口から発せら
れたのだろうか。ゆっくりと顔をそちらへ向ける。
しかし、それっきり何も聞こえてこない。呼びかけよう思ったが、
今は少しでも早くここから出る事が先決だ。一瞬の金縛りを振り払
い、再び奥歯を噛みしめて歩き出す。
どうにか玄関まで達し、安堵を感じる間もなく手をノブに掛ける。
けど、伝わってきたのは、残酷なまでに固い感触だった。
開かない。
何回ノブを捻っても、強く押しても、まるで動かない。鍵はかけな
かったはずなのに。外側に開くドアだから、水圧で開かない訳も無
いはずなのに。
︵どうして・・・どうして︶
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わら
もう別の出口を探している余裕なんて無いだろう。心臓が破裂する
くらい高鳴り、藁にもすがる思いで口を開く。
﹁・・たすけ・・・て﹂。
大声をあげたつもりが、散り散りの音が霧散するだけだった。余り
にも低い水温にいた為なのか、肺がちっとも膨らまない。もう一度
叫ぼうと息を吸い込んだ時、むせ返るくらいの異臭を感じた。
︵なにこの臭い?︶
無機質のようで、どこか生臭さが混じる刺激臭に容赦なく吐気を覚
えた。喉の奥から嫌な味が込み上げてきて、思わず鼻と口を手で押
さえる。
同時に、記憶に沈んだあの日の光景が脳裏に浮かぶ。
忘れられない父さんが死んでしまったあの日だ。
病室のベッドで横たわり、別人の様に痩せた僕の父さん。声が出な
い口を動かして最後に﹃ごめん﹄と僕に伝えたあの時。
今のこの匂いはその時のもの。これは、病院の・・・
﹁病院の・・・消毒液・・﹂
突然、すさまじい破壊音が聞こえ始めた。
低く唸るような音と共に、家中の全てがへし折られ、なぎ倒されて
いるのが、壁越しにわかる。グシャグシャにされていく解体工事の
家が容易に想像できた。消毒液の匂いが一層強くなった気がした。
周りの水はそれに合わせて激しく震える。歯がカタカタとなり始め
たのは、振動が骨まで響いているからなのか、恐怖による身震いか、
区別はつかなかった。
甲高い音と共に壁中に亀裂が走った時、奥の暗闇で動く影を見た。
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廊下の奥に姿を見せた黒い何かは、水面を這うようにキッチンから
忍び出てきたかと思うと、水の上で不気味にうごめいた。獣の唸る
声を発しながら、自身の形状に隆起を作り出し、アメーバのように
ゆっくりと肥大する。そいつが天井にまで届きそうなくらいに巨大
に伸長した光景を見て、僕は言葉を失った。アメーバは自らの質量
が生み出す圧力で通路の壁に悲鳴を上げさせ、意志を持つように廊
下の奥から水ごと飲み込んで近づいてきた。ノロマともいえそうな
遅い動きは、獲物を見つけた軟骨生物を思わせる。
震えたままの僕は目を閉じることも出来ず、ただ見ているしかでき
なかった。
あと数メートルの距離まで近づいたそいつの表面を、月明かりが撫
でる。その緩慢な動きのおかげで、照らされた表面が粒状の集合体
である事が分かった。
円形、もしくは楕円形をした大量のそれを、やはり僕は知っていた。
“くすり”だ。
無数の錠剤やカプセル錠の集合体。それが無秩序に変形し、狭い通
路を右に左にとぶつかりながら近づいてくるのだった。
壁のカレンダーが飲み込まれた。浮かんでいた椅子がバラバラにな
った。ガラスの割れる音がした。
嘘だ。
目に映る全てを否定したい。
涙で、家が、沈む訳ない。
薬が、僕に、襲って来る訳ない。
怖い。助けて。逃げたい。死にたくない。痛くしないでおくれ。終
わりたくない。助けて。助けて。・・・たすけて。
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ありったけの想いが、頭の中で吹き荒れる。
駄々をこねるように首を横に振り続けても、薬たちは手の届く所ま
で全体を寄せてきていた。僕も母さんも、もう少しで飲み込まれて
しまう。
目前の“薬達”の光景を最後に僕は、強く目を閉じた。
一瞬の轟音が鼓膜に打ち付けられ、その後は何も聞こえなくなった。
︵・・・もうすぐ、痛くなる?︶
まだ数秒しか経っていないのか、もう数秒経ったのか、分からない。
死の直前の思考が無意識にゆっくりと進むと言うのは、聞いた事が
ある。いや、もしかしたら、僕はもう死んでしまったのかも知れな
い。
︵・・・それなら死んだ天国か何処かに送られて、・・・僕は父さ
んに会えたりするんだろうか?︶
﹁弥一。﹂
そこまで考えて、ようやく僕が感じたのは痛みでも、圧迫感でも、
水の冷たさでも無く、声だった。
はっきり呼ばれた声に驚き、目を開ける。少しチカチカする視界に
フローリングの廊下が映し出されてくる。
一面を満たす水も、巨大な薬の塊も・・・消えていた。学校に行く
前と同じ、いつもの姿。いつもの僕の家。自分の体に触れてみても
何処も濡れていない。
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・・・夢?もし、そうなら一体どこから?どこまでが?
床を見つめていると、背中から声が再び聞こえた。
﹁お帰り、弥一﹂
混乱していても、その声の主が誰なのかは分かった。毎日かけてく
れたその言葉が、今は溶けてしまうくらい暖かくて、泣きそうにな
る。
振り返ると、玄関の前に母さんがいた。
瞳からは大量の水は消えて、代わりに小さく輝く一粒の涙を目尻に
貯めている。母さんは少し困ったような笑顔で僕を見ていた。まだ
父さんがいた頃、本当に嬉しい時に見せる顔。
よかった、無事だったんだ。
僕が何かを言おうと口を開きかけた時、
急に母さんは僕を強く抱き寄せた。
突然の抱擁に戸惑ったけれども、流れ込んでくる体温に懐かしさが
込み上げて、口にするはずだった言葉たちが、胸の奥で散っていく。
小さい頃、辛いことがあって泣きそうだった僕を、口下手な母さん
は、ただこうして強く抱きしめてくれた。それはもうずっと昔の事
の様に思えた。
﹁・・・ごめんね﹂
母さんは何故、謝るんだろう?
呟く母さんの腕に力がこもり、ちょっとだけ痛い。
﹁今の私は、この世界も、自分も大嫌い。﹂
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その言葉の意味が分かり兼ねて、僕は何も言えずにいた。
﹁あの人のいない風景も、卑屈になってばかりの自分も・・・私は
もう見たくなかった。こんな世界いらない、明日なんかいらないっ
て思った日もあった。﹂
鼻をすすりながら、聞こえる声が震えている。
﹁・・・でもね、﹂真っ直ぐに僕を見つめて、母さんは言う。
﹁それでも、・・・全部を壊したいくらいに悲しくなった日でも、
あなたが生まれてくれた事を後悔なんて、できなかった。
弥一が今日まで生きてくれて、これからも生きていく。
そう思うと、いつだって嬉しくて仕方なかった。私は弥一に救われ
ていたの。﹂
言い終えると僕から体を離し、母さんは後ろ、玄関の方に振り返り、
ドアノブに手を添えた。軽い金具の音と共に、さっきまで開かなか
ったはずのドアが開いていく。
﹁でも、あなたが私のわがままに付き合わなくてもいいの。これは
私だけの悲しみだから。﹂
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母さんの背中と扉の向こう側に外の景色が見える。
冷たい空気が体を包みこんだ。鼻先が痛くなる十一月の空気。
母さんはそこから僕の左隣へと後ずさり、僕の背中に優しく手を当
てる。
僕の瞳は母さんから、焦点をずらす事が出来ない。僕はいつも、こ
の人から逃げていたはずなのに・・・。目を逸らせば、その瞬間こ
の人が消えてしまう気がした。
﹁母さん、・・・何を言ってるの、わかんないよ﹂
問いかけても、答えてくれない。
母さんは涙で輝く目で何か言いたそうな眼差しを向ける。そして目
を細めて、小さな口から白い歯を見せながら、笑う。
小さな、怪獣みたいな笑顔。
母さんはそのまま、僕の背中を強く前に押し出した。
前のめりになりながら、一歩踏み出す。足先が地面の固さを捉え、
そこから伝わるジンとした痺れに、似た感覚が体中を駆け巡る。
外に出たのは僕一人だけ。
後ろから声が追いかけて来る。
﹁ありがとう、弥一﹂
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﹁元気でね﹂
すぐ振り返る。
そして、見た。
廊下の奥に消えていたはずの“薬のアメーバ”が・・・母さんのす
ぐ後ろに来ていた。
﹁母さん!!﹂
ドアの向こうはさっきまでの世界が再生ボタンを押した様に、動き
出していた。母さんは笑顔のまま僕に手を振り、後ろの異常など意
に介さない様子でドアを閉めていく。
﹁待って!!﹂
捕まえられそうな所まで伸ばした僕の手は寸前で閉まっていくドア
にはじかれた。ドアの隙間から見える母さんは薬に飲込まれていく。
その間も笑顔を絶やさなかった。
溢れ出そうになる薬たちを一粒も漏らさず、ドアが閉じた。
間髪入れず僕はノブに飛び掛かる。引き千切るくらいの勢いで、思
いっ切りドアを引けば呆気なく開いた。
電気の付いてない廊下は、窓からの月明かりに照らされている。そ
こには、水も、薬の集合体も無い。服も濡れずに乾ききっている。
消毒液の代わりに奥から和風だしの香りがする。数分前に家に帰っ
た時と同じ光景があった。やっぱりいつもと同じ僕の家。いつもと
同じ。
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・・・でもそこに母さんはいない。
﹁母さん!﹂
出なかったはずの大声が今更家に響く。僕は靴を脱ぎ捨てて、キッ
チンに走った。さっきと同じように明かりがそこから漏れていた。
︵・・ふざけんな・・・︶
もし、全部が一流手品師のトリックか何かなら、間違いなくそいつ
を僕はぶん殴り、同時に頭を地面に擦り付けて泣きながら、こう言
うだろう。
お願いです・・・返してください。
獲らないでください。帰った時、﹃おかえり﹄と言ってくれるのは、
今この人だけなんです。返して下さい。僕の大事な家族を。返して
下さい。
祈るような思いでキッチンのドアを開ける。
母さんがいた。机に突っ伏している、さっきと同じ姿で。見えない
顔を覗き込むようにゆっくりと僕は近づき、肩を掴み起こして、そ
の体を椅子の背もたれに預けさせた。涙は流れていなかった。
突っ伏していた体の下敷きになっていたそれが、僕の視界に入り込
む。
﹁あ・・ああ・・﹂
誰かの声か思ったら、嗚咽が僕の口から洩れていた。
くすりのアルミ包装が、あった。
いくつも、いくつも、いくつも。いくつもあった。よく見れば、床
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にも落ちていた。
三十以上あると思うが、数える気にはならない。一つ手にとってみ
て見る。
錠剤全てが、開封されている。他のも見て全ての包装からその中身
が姿を消していた。
焦点が揺らぐ目で、ラベリングの薬の名称を見る。
“ハルシオン”と書かれたそれは、いつか眠れない日があった時、
母さんが僕にくれたのを覚えている。
睡眠薬だった。
吐き気と共にさっきの“薬のアメーバ”を思い出す。
ここに散らばる包装の中身・・・・全部の睡眠薬を・・・飲んだ?
母さんが?
そこに含まれる意味を考えた時、僕は泣き出していた。
﹁くう・・うあ・・あ・・﹂
母さんの肩を抱き、必死に揺すっても、ピクリとも動かない。僕は
ただ嗚咽をこぼす。
が、突然、僕は上を向いてのけぞる形で吹っ飛んでいた。
﹁・・・がッ?!﹂
そのまま出来損ないのバック転よろしく、直ぐに地面に背中を叩き
付けて、大の字に寝そべる体型でぶっ倒れた。一体何が起こったの
か?そう考えた瞬間、あごに猛烈な痛みを訴え始めた。鉄の味が口
の中に満たされる。
痛い、なんだこれ、すごく痛い。
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﹁・・・﹂
悶絶する程痛いはずなのに、何故かうめき声も泣き声も出てこない。
身じろぎもせず、天井を見つめる。糸の切れた人形の気持ちを理解
しかけて・・・やめた。
誰かが、しゃがみ込んで僕を見ていた。
その姿は蛍光灯の逆光のせいか、影絵のように黒く見える。仰向け
の僕は無言で、誰だかもわからないその相手を見つめる。誰?
感情が微塵もこもらない声が聞こえる。
﹁おかえり、弥一﹂
声は、・・・女性のようだった。
・・・誰?
僕の顔を覗き込み、その両手を、マグマのように熱いあごへと伸ば
してきた。
﹁・・・このアホ。﹃帰らないで﹄って、言ったのに。﹂
その手に、人間の体温は無かった。
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8話︵後書き︶
読んで下さりありがとうございます。
︵^O^︶もし、感想など頂ければ嬉しいです。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n3137ba/
コネクト
2012年10月18日12時08分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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