(業務用参考資料) BOJ Watching 日本銀行分析レポート ノーベル経済学賞と金融政策 発表日: 発表日:10月 10月14日 14日(木) ∼キッドランド=プレスコット・モデルと日銀のコミットメント∼ (No.B (No.B-22) -22) 第一生命経済研究所 経済調査部 担当 熊野英生( 熊野英生(5221-5223) 5221-5223) 2004 年のノーベル経済学賞は、キッドランドとプレスコットが受賞した。彼らは、金融政策における予 想の働きが、期待を考慮しない政策効果を低下させる可能性を示唆した。実は、ここ数年の日銀も彼らの 議論の枠内で苦悩している。量的緩和解除の 3 条件は、インフレ容認の政策バイアスを逆手に取ったもの と理解できる。だが、インフレ目標に踏み込まないのは、長期金利上昇のリスクのためだと考えられる。 キッドランド=プレスコット・モデル キッドランド=プレスコット・モデル 2004 年のノーベル経済学賞は、カーネギーメロン大学 のフィン・キッドランド教授と、アリゾナ州立大学のエド (図表1)政策運営にはインフレを許して しまうバイアスがつきまとう ワード・プレスコット教授に決まった。2 人の研究成果で 金融政策の有効性を問う斬新な研究として知られている。 本稿では、2 人のモデルが、今の日本の金融政策に対して、 どのような示唆を与えるのかという論点を考えてみたい。 インフレ率 あるキッドランド=プレスコット・モデル(1977 年)は、 そこで、まず、キッドランド=プレスコットの議論から紹 介しておこう。 失業率が落 ち着く地点 中央銀行 が達成したい 誘惑に駆られる 失業率 インフレを加速 させない失業率 この論文が発表された 70 年代は、オイルショックに端 を発するスタグフレーションを経済政策が止められなかっ 失業率 たという時代背景がある。1976 年には、合理的期待形成 学派のロバート・ルーカス(1995 年ノーベル経済学賞)が、マクロ計量モデルで不変と仮定されている構 造パラメーターは、民間部門が政策の変化に応じて変わり得るため、そうした計量モデルを用いて行われ る経済政策には問題があるという有名な「ルーカス批判」を行った。このルーカスの問題提起は、民間部 門が経済政策にどう反応するかという予想(期待形成)を織り込まなくては、経済政策は十分な有効性を 失ってしまうという指摘であった。キッドランドとプレスコットは、この民間部門の予想という点をモデ ルに組み込んで、金融政策の有効性の低下を論じたものである。 具体的には、FRB がトレードオフにある失業率とインフレの関係の中で「低い失業率+ゼロ・インフ レ」を目指したとする。例えば、失業率を△2%低下させるのに、どうしても+1%のインフレ率上昇を余 儀なくされるような状況下で、FRB がゼロ・インフレを目指すと宣言した時である。その後の FRB の行動 は、失業率低下という成果を追い求めるあまり、金融緩和の状態を据え置きがちになる政策選択を採って しまう(図表1)。そのために、後々、FRB はインフレ率の上昇を容認してしまうことになる。これは、 金融政策にインフレ容認の政策バイアスがあるということである。 民間部門は、金融政策にこうした政策バイアスが存在することを最初から織り込んでいて行動する。す ると、FRB が宣言するゼロ・インフレを信じないため、雇用者は消費を増やすような反応を起こさない。 雇用者はインフレ容認が起こる分、購買力が変わらない(つまり、実質賃金上昇率=名目賃金上昇率−物 本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所経済調査部が信ずるに足 ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された 内容は、第一生命ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。 -1- (業務用参考資料) 価上昇率が高まらない)として、消費を増やそうとしないからだ。この構図は、民間部門の期待が FRB の 政策バイアスを事前に予想するために、景気刺激効果は薄まり、失業率を低められないというパラドック スである。図表1で言えば、FRBが達成したいと考える水準まで失業率は下がらずに、結果的に期待イ ンフレ率だけが高まるかたちになる。 この FRB のゼロ・インフレ宣言が、時間が経過した後で裏切られるというパターンは、時間的非整合 (Time Inconsistency)の問題と言われる。キッドランド=プレスコット・モデルのインプリケーション は、経済政策には時間的非整合の問題がつきまとうので、政策効果は予想を踏まえた民間部門の行動によ って無効になってしまうということを示したことである。それならば、政策スタンスは、政策バイアスを 排除できない裁量主義よりも、バイアスを厳格に排除したルールに徹した方が好ましいということになる。 また、その議論から派生して、中央銀行には、物価安定という単一の目標を課すことが望ましく、さら に中央銀行総裁はインフレを嫌うような保守的な人物がふさわしいということになる。 民間の予想を織り込んだ金融政策の運営 キッドランド=プレスコット・モデルをオリジナルのまま理解すると、インフレ時代の陳腐な議論に聞 こえてしまう。今は、インフレを容認する政策バイアスよりも、デフレに十分に対応できない政策バイア スこそが問題視されているからだ。 しかし、応用問題として、キッドランド=プレスコット・モデルを逆方向に理解するとどうなるか。ま ず、中央銀行が不況期ですら将来のインフレ・リスクを恐れるがあまり、思い切った金融緩和ができずに、 デフレ対応がビハインド・ザ・カーブに陥ってしまうという「デフレ容認の政策バイアス」を持つと考え る。「デフレ・バイアス」の存在を前提にすると、中央銀行が金融緩和に踏み切って、その後、インフレ 懸念が台頭するまでは決して利上げを行わないと宣言しても、民間部門は「きっと中央銀行は、景気がよ くなればすぐに利上げを行ってくる」という時間的非整合の予想を抱き、中央銀行のコミットメントに反 応しない可能性がある。 この状況は、2000 年 8 月のゼロ金利解除を失敗した速水日銀に見事に再現された。1999 年の日銀は、 「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢」までゼロ金利解除の延期するというコミットメントを設け たが、2000 年 8 月に潜在的なデフレ構造が払拭できないまま、ゼロ金利を解除した。これは、ゼロ金利継 続に半信半疑であった民間部門にとって、絵に描いたような時間的非整合の行動が採られた格好である。 さらに、2001 年 3 月に開始された量的緩和政策では、時間的非整合の疑惑を晴らすため、「消費者物価 が安定的にゼロ%以上になるまで量的緩和政策を続ける」というコミットメントを設け、金融緩和の解除 を行いにくくした。さらに、福井総裁は、2003 年 10 月に量的緩和解除の 3 条件注を追加することまで行っ ている。現在の福井総裁が、量的緩和解除に対して非常に慎重姿勢を貫いているのも、やはり時間的非整 合の問題に配慮しているためであろう。日銀の金融運営とは、まさに、キッドランド=プレスコット・モ デルが提起した問題を意識的に配慮して運営されているのである。 注:「量的緩和政策継続のコミットメントの明確化」の 3 条件とは、①消費者物価が基調的な動きとしてゼロ%以上である こと、②先行き再びマイナスとなると見込まれないこと、③総合判断として、経済・物価情勢が量的緩和継続をもう必 要としないと判断できること、の 3 つ。 日銀はなぜルールより裁量を好むのか さらに、福井総裁の金融政策運営を考えるとき、速水総裁の失敗を教訓にして、キッドランド=プレス コットの議論を 180 度反対に使い、インフレ容認のバイアスを逆利用している点が重要だ。量的緩和解除 本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所経済調査部が信ずるに足 ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された 内容は、第一生命ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。 -2- (業務用参考資料) のコミットメントに追加された3条件では、①消費者物価が基調的にゼロ%以上、かつ、②先行き再びマ イナスにならない、というインフレ容認の条項がある。この条項があるため、民間部門は「日銀はプラス のインフレ率になってもしばらく様子をみるだろう」と予想を立てて行動する。これは、キッドランド= プレスコット・モデルで扱われたインフレ政策バイアスを意図的に生み出すような政策とも理解できる。 日銀がこの約束を守るとすれば、日銀の政策運営はある程度のビハインド・ザ・カーブにならざるを得ず、 民間部門にはインフレ予想が生じるはずである。この点は、福井総裁が自覚しているか否かは不明である が、暗黙のうちに、インフレ予想を醸成するような運営スタンスになっているとみなせる。 しかし、そうなると、次に、なぜ、日銀はより強力な期待形成を生み出すインフレターゲットに踏み込 まないのかという疑問がでてくる。キッドランド=プレスコット・モデルに倣えば、厳格なルールに基づ く、インフレ目標値を置く方がずっと効果的だということになる。今の「量的緩和政策継続のコミットメ ントの明確化」は、曖昧さを残すという意味で中途半端だと言わざるを得ないのだろうか。 筆者は、この点に関して、日銀はインフレ目標と長期金利のジレンマを念頭に置いていると考える。厳 格なインフレ目標を敷いてしまうと、そのルールが強固であるほどに長期金利の上昇を引き起こしてしま う。そうして引き起こされた長期金利上昇は、景気拡大に先立って起こるために、自己実現的に景気拡大 を阻害することになる。日銀には、長期金利上昇を嫌がる財務省への配慮もあろう。 日銀の裁量主義をどう理解するか 福井総裁は就任以来、厳格なルールを採用しない代わりに、景気に対してハト派的な態度を一貫して守 り、かつ長期金利上昇を抑え込むような裁量主義を採っている。今の日銀の態度は、キッドランド=プレ スコットの議論を全く踏まえていないように見えるが、こ れをどう理解したらよいのだろうか。 その理由を考えると、日銀が今の経済情勢では失業率と (図表2)インフレを加速させない失業率 までの改善 インフレ率のトレードオフが生じていないと判断している からであろう。両者のトレードオフ関係が明確になるのは、 昇した後だと考えられる。そうしたインフレを加速させな い失業率は、NAIRU(ナイル、Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)と呼ばれる。日銀は NAIRU に対応 インフレ率 需給ギャップが解消し、実質 GDP 成長率がある程度まで上 インフレを加速 させない失業率 する経済成長率に至るまでは、長期金利を刺激するような 能動的なコミットメントは得策ではなく、暗黙にインフレ 容認を行うという受動的スタンスを採った方が得策だと考 失業率 えているのであろう(図表2)。 なお、日本において、失業率と消費者物価の間に、トレードオフの関係が存在し、さらに NAIRU に相当 する失業率が確認できるかどうかを実際のデータからみてみよう。確かにデータを 1988 年∼2004 年まで とってみると、トレードオフの双曲線が描けるのだが、金融不安が起こった 1997 年末以降でみると、トレ ードオフの関係は緩やかになっている(図表3)。この期間はまさに日本が本格的なデフレ経済に陥った 異常な状態であったため、景気過熱を心配はなく、デフレを解消することが政策的に最優先されるべき局 面である。実際、今次景気回復局面(2002 年 1Q∼)では、失業率がピーク比△0.7%低下するのに、消費 者物価のマイナス幅は+0.7 ポイントしか上昇方向に変化していない(図表4)。日本経済のインフレ感 本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所経済調査部が信ずるに足 ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された 内容は、第一生命ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。 -3- (業務用参考資料) 応度は、1995 年以前と 1997 年末以降では、大きく異なっているように見える。 ※あえて NAIRU のようなものを読み取ろうとすれば、1995 年頃の失業率 3%がそれに相当するだろう。ただし、厳密に NAIRU 仮説を考えると、労働市場における雇用のミスマッチや、物価の財・サービス需給に対する弾力性などを考慮しな ければならない。NAIRU を計測するには、もっと注意深い試算が必要になってくる。 (図表3)日本のフィリップス曲線<長期> 3.5 3.0 1988年~2004年 0.4 ( 2.5 0.6 1991年1Q 0.2 除 く 生 鮮 2.0 1.5 0.0 前 年 比 % 0.5 0.0 -0.2 1997年4Q 1.0 2.0 3.0 1995年2Q -0.4 失業率% 1988年1Q 0.0 -0.5 除 く 生 3.0 鮮 ) ) 1.0 (図表4)日本のフィリップス曲線<拡大版> 消 費 者 物 価 4.0 5.0 6.0 1997年4Q 1991年1Q 1997年~2004年 ( 消 費 者 物 価 失業率% 3.5 4.0 4.5 前 年 比 % 5.0 5.5 2004年7-8月 2002年からの 今次回復局面 -0.6 -1.0 -0.8 -1.5 出所:総務省「消費者物価指数」、「労働力調査」 -1.0 出所:総務省「消費者物価指数」、「労働力調査」 2002年3Q 一方、日銀が 2004 年春頃にインフレ参照値について前向きに議論した時期があったが、この議論はイン フレを加速させない失業率を達成した後で、物価の跳ね上がりをコントロールしながら、金融政策を運営 する世界の話だったと考えられる。失業率とインフレ率のトレードオフが現われるくらいに経済成長が進 んだ段階では、キッドランド=プレスコットの議論のように、インフレ参照値のようなかたちでルールの 色彩を帯びた運営方式が検討されるということであろう。 今の日銀の政策は、長期金利を刺激しないことを優先させ、多少のインフレ期待ならば容認するという 微妙な運営を行っている。インフレ期待に関しては、受動的にインフレ進行を許容するというかたちで、 長期金利上昇という副作用が発現しないようにしていると考えられる。その受動的な態度が、裁量主義に 基づいた景気ハト派志向にみえるのだろう。 本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所経済調査部が信ずるに足 ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された 内容は、第一生命ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。 -4- 6.0
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