凍星さす

凍星さす
遊雅 仁
(一)
「人間が消えていく――都会の中の孤独死――
最近の調査に依ると、身元不明者の病死、自殺、いわゆる行き倒れが急増して
いて、ここ数年その数は全国で三万人を超えるという。官報で『行旅不明人』
として告示されるが問い合わせは殆んど無い。遺体は役所で荼毘にふされ寺で
無縁仏として祀られる。誰にも知られず死んでいく孤独死は特に都会に多い。
家族との絆を切り、地域社会との連携を拒み、社会と断絶して生きそして死ん
でいく。たとえ身元が判明しても遺族が引き取りを拒否するケースもあるとい
う。現在日本の格差社会はますます拡大し、その皺寄せは貧困層を痛撃して精
神の荒廃と共に孤独死は今後も増加していく傾向にあると言われている」
コラム欄の記事をそこまで読んだ時、研究室のドアがノックされた。岸宮五
朗は文字を追いかけながら「どうぞ」と声を掛ける。
「先生、おはようございます」
若く明るい声が届く。入室して来たのは長身の学生だった。眼鏡を外し、新
聞を几帳面に折り畳んで、椅子を半回転させながら立ち上がった。
「やぁ、木之元君か。……今日は卒業式だね」
「ハイ。先生お世話になりました。有難うございました」
学生はハキハキと答え、腰を深く折り、頭を下げた。五郎は壁の時計を見て、
まだ時間は十分にあることを確認し安堵した。
「おめでとう。お父さんも喜んでおられるだろう。お母さんにも孝行するんだ
よ。それに足長おじさんにも感謝しなくちゃね」
木之元駿平には入学時より学費資金が匿名で送られていた。
「ハイッ! 僕もそう思っています。会計事務所に就職が決まっていますので
働きながら公認会計士を目指すつもりです」
「お父さんは土地家屋調査士だったね。お母さんは司法書士。似たような道を
辿るものだね」
五郎は青年の清々しい態度に口調は軽くなった。
カーテンが半分開いた窓から、再礼して出ていった学生の後ろ姿を見送った。
遠くから学生達の弾むような声が聞こえてくる。キャンパスは春の陽光につつ
まれ白く輝いていた。
五郎は久し振りに銀座に出た。夕暮れ時の雑踏の中に身を沈め、ゆっくりと
歩く。暮れかかった空は濃い灰色に覆われているが、ビルの谷間から赤紫色の
残照が細切れに横一線で覗き、ほのかな明るさが残っている。闇が近付くと共
に街灯やショーウインドーの光が輝きを増してくる。芽を出し始めた柳の葉が
灯りで新鮮な黄緑色となり街の通りを彩っている。足早ですれ違う早出の夜の
1
蝶たちのオーディコロンが鼻をくすぐる。春を一杯含んだ風が頬を撫でて過ぎ
て行く。五郎は銀座のこの季節のこの時間帯が好きだった。卒業式や一連の行
事が終わり、浮き立つようななまめかしい都会の春の風情に、心地良い解放感
を覚える。
本屋に立ち寄り、老舗のソバ屋で軽い食事をして時計を見ると七時だった。
このまま帰る気は無い。
(久しぶりに寄ってみるか)と気持ちを定め、春の宵闇
に背中を押されるまま、有楽町の方へ歩いて行った。
「あら、岸宮先生、お久しぶり!」
重いドアを押し開き、数歩中に入るとママのいつもより高い声が飛んできた。
薄暗い照明の奥からジャズが流れている。
「今日はね、生バンドが入っているので混んでいるのよ。先生にもご案内をお
出ししたでしょ。……カウンターでいい?」
「頂いたよ。ご盛況でいいじゃないですか」
左手の入口に近いカウンターの椅子に座った。マスターが慣れた手付きで前
を拭き、おしぼりを出した。
「先生、お久しぶりです」相変わらず無愛想な口調だが、この媚びないスタイ
ルを五郎は気に入っていた。
前方の一段高いステージでは、四名の奏者がライトを浴びて軽快なスイング
ジャズを演奏している。客は身体を揺すったり、手を打ったりしながらステー
ジを注目していた。カウンターの客も体を斜めにして前方を見ている。五郎の
横隣は一つ席を空けて、くたびれたグレーの背広を着た中年の男が背を向けて
座っていた。すっぽり抜けた後頭部が眼につく。
ステージに目を向け飲み始めたが、横の男は時々顔を動かし、キョロキョロ
と店内を見渡しながら乾きものを噛み、グラスを舐めている。暫くすると又、
キョロキョロと眺める。落ち着きが無く、気になる。
演奏が止み、休憩となった。店内の空気は弛み、ざわつきがさざ波のように
満ちてきた。
五郎は知人から紹介されたこの店をしばしば利用していた。深みのある照明
と静かな華やかさを持つ店内。ママの立ち入らない姿勢と寡黙なマスター。落
ち着いた大人の雰囲気があった。研究や論文で疲れた時の癒しの場として憩う
ことが出来る店であった。
「ガタッ」と鈍い音と共に隣からピーナツの殻や小粒のチョコレートが転が
ってきた。隣の男の小鉢が倒れている。マスターが素早い動きで男のカウンタ
ーを拭き、」グラスや小鉢を整えようとした。
「アア、つい手が滑ったんや」
男は慌てる風は無く、立ち上がり五郎の方をうかがい、頭を少し下げた。
「マスター、ワシとこは、だんない、だんない。こちらのお客さんとこ、かも
たって」
男は席に座り直し、何事も無かったように又、チビチビと飲み始めた。
五郎は聞き覚えのある素朴な言い回し方が耳に残った。
「あの――」遠慮がちに話しかけた。
2
「もしかして、お客さんは和歌山県のご出身ではないでしょうか?」
男はゆっくりと振り向き、目を上下に走らせた。
「ええ、そうです。今朝、上京したんです」
「やはりそうですか。先ほどおっしゃった、だんない、だんない、という言葉
で、もしかして、と思ったのです。私も和歌山出身でしてね。小さい時から母
親がよく使っていました。大丈夫のことをだんないって言うのですよね。失敗
してもこの言葉を聞くと本当に安心して大きな安らぎの中で眠れたものです。
いや――、懐かしい言葉をお聞きしました」
「あらまあ、こんな東京のド真ん中のぎんだで同郷の人と出会うとは」
「私も東京で永く居ますが、和歌山の人と出会うのは本当に珍しい」
「和歌山には幾つまでおられたんですか?」男も身を乗り出し話に乗ってきた。
男は席を詰めて座り、会話は進んだ。久し振りに同郷の話をすると、二人に
しか分からない発見をした時は、つい声が大きくなってしまう。時にはのけ反
って笑い合うこともある。周りの客も時々視線を送っていた。
地元の工業高校を出て、ずっとと和歌山で警察の仕事をして、三年前に退職
した、と男は自己紹介をした。今日は知人の三回忌の法事で、孫の顔を見るの
を兼ねて上京した。この店で娘婿と落ち合うことになっているらしい。五郎よ
り二つ年上だった。男の実直な語り口と郷里の先輩であることに敬意を払い、
滅多に出さない名刺を差し出した。
「ほお、国立大学の教授様ですか。これは嬉しい。我々の誉れですね。ワシは
小倉吾一と言います。若い頃は県下を転々と回りましたが、後半は和歌山西署
で刑事を務めておりました」
男の語調が丁寧になり、五郎はたちまち恐縮した。和歌山西署は知っていた。
和歌山市内の一番の繁華街を管轄する重要な警察署だった。
「先ほどは失礼しました。刑事の習性が未だに抜けんで、周りや背後が気にな
るんですわ。それでわだ(わざ)と皿をひっくり返して背後がどんな人物か確
認しないと気がすまんのです」
なるほど、と思った。小倉は赤味を帯びた顔に白い歯をむき出しにして笑っ
た。目尻に小皺が数本刻まれている。
「あっ、来た、来た、花田君、こっち、こっち!」
入口に立った青年に手を挙げて大きい声を掛けた。周りの視線が又、こちら
を向いたが、お構いなしに呼び込んだ。
「お義父さん、遅れてすみませんでした。仕事が長引いちゃって」
濃紺のスーツにオレンジ色のネクタイを締めた長身の青年は、背筋を伸ばし
て歩み寄る。堂々とした体躯だ。
「まあ、ここへ座れや。今、同郷の人と出会うてな、話に付きおうて貰ってた
んや」
眉が濃く眼の大きな整った顔立ちの好男子である。小倉はますます上機嫌に
なってきた。
「岸宮先生、これがワシの娘婿や。この男も警察関係でな、桜田門に勤めてい
るんや」
「同じ刑事さんですか」五郎はしげしげと花田を眺めた。
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「いえ、私は科学捜査のほうで、いわばエンジニアですよ」香り立つ青年はは
にかみながら答えた。
小倉の饒舌が又、始まった。自慢の娘婿なのだろう。娘の佳子は小さい頃か
ら父親の不規則な勤務振りを見ていて「刑事のお嫁さんになるのは絶対イヤ!」
と宣言していた。東京の大学に進学して花田と知り合い結婚したが、花田は警
視庁に奉職していた。「科学捜査のほうだからお父さんのような刑事じゃない
わ」と娘時代の前言は今でも撤回していないと言う。
「女心はわからんものや」小倉は目を細めて苦笑した。花田には女性に職業
を超越させる男の色気があった。
「なあ、花田君。なんぼ君らの思い出のあるぎんだの店や言うたかて、ワシに
は尻が落ち着かんわい。やっぱり居酒屋で演歌がええわ」
「お義父さん、ぎんざでしょ」
「花田君、いいんだよ。和歌山の人は“ざ”が“だ”になるんですよ。私も若
い時に東京に来たが随分と方言で悩みました。でもね、方言には温か味があり
ます。無理して直す必要はないですね」
小倉は純朴で正直な人だと思った。五郎の酒量はいつもより上がっていた。
バンドがステージに登場した。周囲の照明が落とされ、前方がライトに照ら
されて四人の奏者が浮かび上がった。デキシーランドジャズが流れ始めると、
席のあちこちから拍手が興った。
「これがジャズちゅうもんか。生で聴いたのは初めてやが、何かこう、身体が
勝手に動いてくるわ。腹の底から揺す振られるようや」
小倉は初めて音楽に耳を傾けたようだ。
演奏が終わり、客がそれぞれ帰って行った。客を送り出したママが後ろのボ
ックス席を勧めてくれた。コーナー席の中央に壁を背にして小倉が座った。
「ワシは四十二年間警察暮らしをしたが、大体の事件は解決してきた。ヒ素入
りカレー事件や市長の収賄事件など大きな事件も手がけた。それがワシのささ
やかな誇りや。しかし、一つだけ未解決の事件が残ってな、もうお宮入りにな
るやろが、それが気がかりで残念でなあ」
落ち着いた席に座り、雰囲気が変わったところで、小倉はしみじみと半生を
振り返る。仕事一筋に生きた男の酒の話は、やはり仕事の話になる。気を許し
た信頼出来る人間への甘えも有り、悔恨の入り混じった仕事の話を正直にポツ
リポツリと語り始めた。
八年前、和歌山市内の駐車場の脇で、不動産会社の社長が殺された。目撃者
も遺留品も無く、金品も奪われていなかった。
「通り魔殺人事件」として捜査さ
れたが何の手掛かりも無く、時間だけが過ぎて行った。
「ガイ者が殺された時の状態は、正座して手を前で組んで額を地面に着けて身
体を折り畳んだように死んでいた。内臓破裂やった。手を組んでいたのは、命
乞いの哀願をしたんやろ、と捜査官は皆そう言うた。しかし、ワシはこれに疑
問を持った」
小倉の眼は細くなり、噛みしめるように当時を振り返る。
人間が死ぬ程の衝撃を受けた時、手は組み合わされているだろうか、何か余
程強い意志が込められていたのではないだろうか、それが気がかりでならなか
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った。捜査会議で再三主張したが取り上げられなかった。その小さな疑問を胸
に、小倉は被害者の身辺と現場を徹底的に洗った。一ヶ月後、現場から二十メ
ートル程離れた溝の中に、小石に隠れた小さな黒い破片を見つけた。周りの小
石には薄く水苔が付いていたが、その破片はまだ新しいものであった。
「ワシは長い傘の先か、ステッキの先では、と考えた。その日は夕方から九時
ごろまで雨が降ってたんや。しかしそんな小さな物に誰も振り向かんかった。
組織の中では、一人は無力や。ワシは今でもそれを持ってるんや。妙に気にな
ってな」
小倉の表情と口調に、報われなかった執念の悔しさが滲み出る。五郎と花田
は俯きながら黙って聞いていた。猫背を一層丸くして無念さを飲み込むように
水割りを一気に飲んだ。
「それからな、こんなおもろい話があった」
自虐的な響きが籠った口振りで、ボソッと喋り始めた。
「仏さんの身辺を洗うていると、不動産取引で結構、イザコザがあった様や。
かなりエゲツないこともしてたみたいや。……仏さんには悪いがな」
怨恨の線でも調べたが全て白だった。その中で印象的なのは殺される一か月
前、訪れた客に驚く程のすっとん狂な声を上げ、口論になったことがある。い
つも冷徹な話し振りの社長が突然大きな声を出したので事務員が覚えていた。
「根来兄ィ!」と発し、ソファーから飛び上がったという。
「根来、言う名前は、ワシも覚えがあった。同じ人物かどうか分からんが、根
来 仁、言うて、昔、紀水会の若頭がおった。念の為調べたが、三十年以上前
に家が火事になって嫁と子どもが死んで、それ以来行方不明や。古い組の者に
聞いたが、皆、死んだと言うし、実家も無いし、戸籍も行方不明となっていて
先は分からん。闇の中や……。それ以上にエグい話は一杯あってね。永いこと
刑事をやっていると、おもろい話は出てくるわ」
小倉は回想にふけていたが、それを断ち切るように花田が声を掛けた。
「お義父さん、佳子と智子が待っていますよ。そろそろ……」
「そやな、智ちゃんが寝てしまうかも知れんな。ぼちぼち帰ろか……。先生、
今日はありがと。東京で頑張ってや」
花田の肩に手を掛けてゆっくり立ち上がり、そろりと歩き出した。執念の老
刑事の姿から好々爺の姿に変わっていた。
一人残った席で五郎は(ね・ご・ろ・じ・ん)と呟いた。この名前を聞いた
時、五郎の表情が変わったことに老刑事は気が付いていなかった。
(二)
岸宮五郎はいつものように「穂高」に入った。昼食後の休憩時間を大学の近
くのこの喫茶店で過ごすのが常だった。いつも座るテーブル席の隣は、三人の
女子学生が占め、賑やかにお喋りをしている。それぞれが春めいた明るい服装
で、店内に可愛い騒がしさが満ちている。店主がコーヒーを運んで来た。ステ
ンドグラスの窓から差し込む春光がコーヒーの湯気を柔らかく浮き上がらせて
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いる。穏やかで華やいだ春の昼下がりである。
しかし、五郎は思いがけなく聞いた「根来 仁」の名前が頭から離れず、陽
春の浮いた雰囲気に浸れなかった。途切れ途切れに現れる根来の姿を思い出し、
詳細に追いかけていた。
大学三年のある日。アルバイトの帰り道、学校の南門の側の洋風レストラン
「西欧亭」に飛び込んだ。今日は家庭教師の月謝が入る日で、一日だけ普段の
学食生活に反撃しようと朝から決めていた。入口に近い席に座り、思い切って、
チキンライスとハンバーグステーキと野采サラダをオーダーし、ポタージュス
ープも付け加えた。こんなハイカラで豪勢な夕食は滅多にない。独り占め出来
ると思うと身振るいが出、涙が滲んだ。ポケットを探り、煙草を取り出すと潰
れたケースの「若葉」が出てきた。今日は、学生の憧れの煙草の「ハイライト」
にしようと、前の煙草屋で大きい声で買い求めて再び席に着いた。
運ばれてきた豪華な食事に集中し、一口一口味わいながら半分まで進んだ時、
聞き慣れた声が耳に届いた。奥のカウンター席に三人の客がビールを飲みなが
らくつろいでいる。二人の女に囲まれた一人の男。男は痩身で角刈りの頭、黒
いダボシャツ。半袖の腕からチラリと彫り物が見える。聞き覚えのある声に耳
を立て、ハンバーグを口に入れチラチラと覗った。頬骨の出た細面の顔立ちに
切れ長の細い目と分厚い唇。掠れた声。――根来 仁だった。
根来は、中学生の頃、彼の家で一緒に勉強をしたこともある、小学校以来の
同級生だ。小さい時から野球に熱中し、中学の野球部ではリーダーとして活躍
した。その俊敏な動きとシャープな打撃は他校でも知られていた。頭は切れ、
勉強も出来た。五郎とはどこかウマが会い、体力に劣る五郎をかばってくれた。
中学生の頃、根来と仲が良い、ということでクラスの番長は五郎に手を出さな
かった。彼は母一人子一人で、小さな長屋の片隅に住んでいた。彼と一緒に勉
強した時は「五郎ちゃんによく教わって、遅れた分を取り戻すんだよ」と母親
は嬉しそうにミカンを運んでくれた。
彼は甲子園に出ることが夢だった。県下随一の進学校のT高校は野球も強く、
前年夏の甲子園大会で準優勝をしている。翌年の春の選抜大会にも出場する強
豪チームだった。先生から「無理」と言われた進学だが、彼はT高校を目指し
た。予想に反して見事に合格した根来は、野球に打ち込んだ。一年生の夏頃か
ら頭角を現し、秋のリーグ戦にはレギュラーとして出場するまでになった。同
級生の間では彼の噂で持ち切りとなり、S高に進んだ五郎の耳にも些細なこと
まで伝わってきた。皆は情報を交わし合い、我がことのように喜んだ。
ところが二年生の春の合宿で頭に暴投を受け、欠場を取り戻そうと激しい練
習に取り組んだ結果、逆に肩を壊してしまい、ボールを投げることさえ出来な
くなった。甲子園を目指した根来にとって、県下一の進学校の授業に附いてい
けず、学校を休む日が多くなり、同級生から暗い情報ばかりが入ってきた。や
がて学校に行かなくなり退学した。
「根来 仁」の名前は立ち消え、同級生達の
ヒーローは眼の前から消えていった。
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その根来が前に居る。別世界の人間として――。
その時、小柄な男が小走りに入って来て、背を屈めて根来に近づいた。耳元
で何やら囁いている。根来は時々頷き、険しい目付きで聞いている。暫く話を
聞いた後、立ち上がり、男を従えて入口に近づいた。あまりの変わり様に目を
上げられず、身を固くしてスープをすすった。味は無かった。
突然、腕が伸びてきて伝票をワシ掴みにした。
「五郎、この金はワシが払とってやる。お前には世話になったからな」
女を手招きして「払とけ」と命じた。
(僕が居ることを知っていたのか!)五郎は心臓が破裂する程の衝撃だった。
根来と小男は出て行った。あまりの瞬間的な出来事に呆然と座り続けた。
暫くすると「西欧亭」の表からざわついた騒がしい声がいくつも聞こえてき
た。何だろう? といぶかったが、次第に声は大きくなり店内まで響いてきた。
ドアを開け、表に出た。梅雨明けのムッとする暑さが身体にまとわり着いてく
る。店の灯りと街灯が部分的に光を与えているが通りは暗い。暗い通りの真ん
中で数人の男達の塊が出来ていた。
目をこらしてよく見ると、右側で先程の小男が叫んでいる。その後ろに二人
の若い男を従えた根来が立っている。左側には同期の仲間の木之元勇平が立っ
ていた。後ろに二年生の西条と太田が強張った顔付きで続いている。小男が下
がり根来が前に出た。
木之元と根来は沈黙したまま睨み合った。根来の眼光は鋭く、野獣が獲物に
襲いかかるような殺気を感じる。木之元も真正面を向き、一歩も退かない気迫
で根来の重圧に耐えているように見える。
五郎は木之元の側に走り寄った。
「どうした、木之元!」
「五郎、下がっていろ!」
木之元は視線を外さず、大声で制した。
今、どちらかが少しでも動けば、瞬時にして根来は木之元の腕や肋骨をへし
折るだろう。しかし、元ラガーマンの木之元も根来の腰にタックルをかけ、地
面に叩きつけるであろう、と思われる。物凄い緊迫感の中で緊張と殺気が辺り
を支配している。五郎は鳥肌が立った。
事件は三日前に起こった。
北爆が激しくなり、ベトナム戦争がドロ沼化の中で、紀州大学の学生自治会
は木之元をリーダーに「戦争反対」のスローガンを掲げて市中デモを敢行した。
デモ終了後、執行委員の西条と太田は大学近くの居酒屋「ひさご」で食事をし
ながら総括を行なっていた。
奥から大きな声が飛び出した。客は一斉に振り向く。
「なんや、なんや、この店は! 客に虫を喰わす気か!」
女将が飛んで来て平謝りをしたが、怒声は更にエスカレートした。見かねた
西条が割って入ったが、それが火に油を注いだ。
「なんやと――、学生のくせに生意気な!」
7
男は西条の胸倉を掴み、顔を一発張った。
「恥、かかせおって! おもろないわ、帰る!」
男は帰り際、西条達の側に置いてあった自治会の旗を取り上げた。
「あっ! それは……」二人は狼狽した。
「これ、返して欲しかったら、金、持って来い!」
捨てぜりふを残して男が出て行った後、女将が憎々しげに言った。
「あいつはね、紀水会の亀木留造いうて、この町の嫌われ者なんですよ。組織
をバックに弱い者イジメばっかりして。カメやのうてマムシや、て言われてる。
ウチが料理を出した時は虫なんて入って無かった。嫌がらせなんですよ」
二人は木之元に報告し相談した。木之元は暫く腕を組み考えていたが、顔を
上げ、きっぱりと言った。
「分かった。明後日の夜八時、西欧亭の前の路地で……、金は三万だな。……
僕が何とかする。他の学友諸君には言わないように」
更に続け、デモ終了後は先ず自治会旗は片付けてから動くように。自治会旗
は我々の行動の象徴である。と、二人に釘を差すことを忘れなかった。リーダ
ーとしての指導性のある言葉だった。西条が木之元の顔を眺めると、強い意志
と決意の表情が走っていた……。西条が五郎に語った後日談である。
後ろから亀木が喚いていた。街灯が木之元と根来に長い影を落としている。
電球に蛾がぶつかり、ジ、ジ、と音を立てた。暑さは忘れているが額に二筋の
汗が流れてきた。
根来が口を切った。
「学生さん、ワシは紀水会の根来言うもんや。ウチのもんに店でえらい恥をか
かせてくれたらしいな」
低く掠れた声に凄みがあった。
「恥をかかせたつもりはありません。仲裁に入っただけと聞いています」
「ワシら筋もんは、恥かかせられるんが一番の屈辱なんや。弟分が恥かかされ
てワシも黙っておれん。――この落とし前、どう付けてくれんじゃ!」
低い声から一段大きくなり、迫力と威圧感が増した。
その声に木之元は一瞬たじろいだが、冷静な声で押し返した。
「僕は木之元と言います。ここの学生自治会の責任者です。ウチの学生が出し
ゃばってご迷惑をおかけしたことは謝ります。しかし、決して恥をかかせよう
とした訳ではありません。西条君も一発殴られ我慢しました」
根来は黙っているが、睨む目は鋭くなった。
「根来さん、よく聞いて下さい。僕も店に行き、女将さんから事情を聞きまし
た。店の問題に仲裁に入ってくれただけ、と言ってました。自治会旗を返して
欲しければ三万円のお金を用意しろ、とその場で言われたそうです」
「三万のカネ?……」
「我々学生にとって三万円はとても大金です。でも、亀木さんの気分を害した
こともあるでしょう。ここに二万円あります。僕の奨学資金と本とレコードを
売って作りました。これ以上は無理でした。このお金で自治会旗を返して下さ
い」
8
木之元は目を逸らさす、一語一語に力を込めて堂々と言い切った。
根来は下を向き、暫く沈黙した。そして、
「オイ、カメ! ちょっとこっちへ来い」亀木を呼びつけた。
「今、学生さんが言うたこととお前がワシに言うてることは、エライ違うやな
いか」
「へえ、まあ―」あいまいな返事が返ってきた。
「あの店が、ワイらに愛想が悪いんで……、ちょっとイチャモン付けたろ、と
思うて……、そこへ学生がクソ生意気に口出してきやがって……それで旗取り
上げて……」
亀木は背中を丸め、根来に弁明したが、言葉は途切れがちだった。
「それでカネ、要求したんか」
「へえ、まあ……ちょっと」
声は小さくなり、バツの悪そうな言葉となった。周りの者はこの会話を固唾
を飲んで聞いていた。
根来は又、沈黙した。辺りは緊迫した静けさにつつまれている。数秒が経っ
た。五郎にはとても長い時間のように思われた。
根来は黙ったまま「西欧亭」の前へ歩いて行った。店の前のビールケースか
ら一本引き抜くと亀木の側へ立った。次の瞬間、根来はビール瓶を渾身の力で
亀木の頭に叩きつけた。
「ガッシャーン!」、「バリッ!」
瓶の破裂音と「ヒィ――」という亀木の叫び声が同時だった。割れたガラス
の破片が鈍い光となって道路に飛び散った。亀木は頭を抱えて、その場にうず
くまった。周りの一同は一斉に飛び下がった。根来の決断と思い切った行動に
金縛りになり、息を飲んで佇んだ。
「このドアホ! あれだけ堅気の衆に手を出すな、言うとんのがまだ分からん
のか!」
根来はうずくまっている亀木に大声で罵声を浴びせた。
亀木の頭から血が噴き出し、押さえた手の指の間から流れ出している。額か
ら鼻,頬を伝って三本の血筋が顔を染めた。
根来は木之元を見た。
「学生さん、これがワシの落とし前や。これでシマイにしょ」
そして男達に亀木の手当てをし、旗を返すように指示した。持っていた欠け
たビール瓶を道路に捨て、後ろを向いて歩きだした。数歩歩いたところで振り
返った。
「学生さん、木之元さんて言うたかな。――エエ根性しとるな。カネー、大事
にしいや」
木之元に声を掛け、同じ視線で五郎をチラッと見た。鋭い切れ長の目と一瞬、
出会った。そして前を向き、何事も無かったように悠然と大股で歩いて行った。
周りの者は皆、呆然と立ち尽くした。木之元の足の震えは止まらない。暫く
して西条と太田は腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。一度に汗
が噴き出してきて体中をべとつかせる。飛び散ったガラスの破片が道路を細か
9
く光らせ、街灯に蛾が触れ、ジジジと又、音を立てた。誰も声は無かった。
その後、五郎は地方版の新聞記事で紀水会と紀山会の抗争を読む度に、根来
を意識せざるを得なかった。
(三)
岸宮五郎は研究室で次回出版の研究論文の最終稿に没頭していた。今までの
研究結果の集大成と言える一冊で、過去の文献や発表論文を総当たりにして持
論を展開する意欲作として情熱を傾けた。論が行き詰ると恩師の本に戻り、道
を探した。何度この本を手にしたことだろうか。恩師神田先生はヘーゲル哲学
を基に、マルクスの「価値論」研究では第一人者だった。読む度に示唆に富み、
叡智を授かる深い内容を持っている。
書棚に近づき、手垢にくすんだ本の頁を繰ってみる。赤い線や細かい文字の
書き込みが各頁に点在する。格闘の傷跡だ。じっと見つめると、その時々の自
分の姿と感情までが浮かび上がる。暫しの思い出と感傷に身を任せた。
老先生はお元気なのだろうか……。大学時代、ゼミ選択時には迷わず神田ゼ
ミを選んだ。少壮の経済学者として、凛とした先生の後ろ姿に魅かれたからだ
った。ゼミ生の中に木之元勇平がいた。先生を前に二人は激しく議論を交わし、
勉学を競い合い、他のゼミ生を圧倒したこともあった。先生はいつも温厚な笑
顔で見守ってくれていた。平和な学生生活のひと時だった。以来、木之元とは
離れがたい友となっていった。
(木之元……)五郎は研究室の片隅を見つめ、呟いた。想いは彼と青春の日々
に移って行った。
ベトナム戦争の激化と共に、学内改革運動が盛り上がり、平穏な学生生活は
長く続かなかった。若者達の反乱が興った。全共闘が結成され、学園闘争が燃
え上がる。木之元は持ち前の正義感とリーダーシップでたちまち運動の中心人
物となり、デモの先頭に立った。佐世保では頭を割られ、三里塚では腕を骨折
して帰ってきた。五郎は彼を支える理論派として常に行動を共にした。青春の
思い出はヘルメットとバリケードの闘争の連続だった。
その中で硬骨漢の木之元の涙を一度だけ見たことがあったことを思い出す。
バリケード封鎖中の構内に木之元の兄が信州の田舎から訪ねてきた。一月の
寒い日だった。学園紛争の報道で彼の名前は全国的に報じられていた。
五郎は封鎖中の学生会館の中に兄を招き入れ、会議室で木之元と対面させた。
他の学生に席を外して貰い、自分は目立たないように隅のイスでうつむいて座
った。
「勇平、身体は大丈夫か」兄は信州の土産を手渡して訊いた。
「かあちゃんも心配しとる。新聞に名前が載って、世間様に申し訳ないが、あ
の子を信じている。身体が心配じゃと」
小柄な兄は控え目な声で語りかけた。土に生きる素朴さと誠実さが滲み出て
いた。
10
「兄ちゃん、僕は何も悪いことはしていない。当たり前のことを当たり前のよ
うに主張しているだけだ」
「……」
「兄ちゃん、覚えているだろ。僕が高校を卒業する時、内定していた銀行から
就職の取り消し通知が来たのを。片親だからという理由だった。僕に落ち度は
無いのにあんな理不尽さに兄ちゃんも泣いてくれたね。僕も悔しかった。こん
な不公平な差別のある世の中に、はっきりと物を言っていかなければならない
のだよ」
「ワシは無学で難しいことはよう分からんが、……あまり無茶なことはするな
よ」
兄は会議室から周りの会館の内部を覗き込んだ。
「この建物はコンクリート造りだから底冷えするだろ。辺りに火の気もなさそ
うだし」
言い終わると自分のズボンのチャックを下ろし、履いていたもも引きを脱い
だ。
「これは暖かいぞ。これを履いておれ」
木之元は呆然としながら両手で受け取った。そして小さく嗚咽した。
兄は帰って行った。会館の玄関先で見送る木之元の肩に手を掛けると、肩が
震えていた。もも引きに触れると兄の温もりがまだ残っている。五郎はそっと
その場を離れた。
卒業後、五郎は神田先生の指導を受け、東京に出て学者への道を進んだ。
学生運動の挫折と敗北を抱きしめ、ひたすら学問と研究に打ち込む日々を送
った。気が付けば政治の季節は終わっていた。五郎が通う大学の構内に、立て
看板や学生集会は無かった。
年号が昭和から平成に変わり、パソコンの出荷台数がテレビのそれを超える
時代を迎え、「IT革命」という言葉が流行り出す。「革命」の言葉の前に最先
端技術の名が冠されることに違和感を覚えながら、現実に対応し、揺らぎなが
ら生きてきた。
木之元は数度の転職を経験して、土地家屋調査士の資格を取り、浦安市に小
さな事務所を構えて独立した。
三十代、四十代の働き盛りの頃は滅多に会うことは無かったが、五十を過ぎ
てから、しばしば連絡を取り合い歓談した。気の許し合った友との会話は、青
春の輝きへの郷愁と、懐かしい時代回顧に花が咲き、快感と癒しを覚える年代
に入ってきていた。
五十五歳になった年の暮れ。学生仲間だった葉月を加え、三人は新橋の居酒
屋でささやかな忘年会を持った。
「年明けに五郎が大阪の学会へ参加する。僕も仕事の関係で大阪へ行くので日
程を合わせて一緒に行くことにした。帰りに和歌山へ寄って、懐かしい場所を
見学してくるつもりだ。まあ、センチメンタルジャニーってところかな。どう
だ、葉月も一緒に行って大阪で一杯やらないか」木之元が誘った。
「いいな――、俺も行きたいが、宮仕えの身では時間は自由にならないよ……。
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それなら俺の知っている店に寄ってくれないか。以前、単身赴任で大阪にいた
頃、世話になったママさんがいる。先日の電話では最近不景気で客が減ったと
こぼしていた」
「葉月は学生の頃から、新聞会のキャップとして口八丁、手八丁であちこち飛
び回っていたから、そのママさんにも人に言えない裏の世話になったのだろう」
木之元が茶化した。
「想像に任すよ。ママ曰く、毎日のように“謎の老人”が来るのだって」
「謎の老人? 面白そうだな」五郎も身を乗り出した。
「白髪で杖をついて毎日来る。奥の決まった席に座り、黙って小一時間飲んで
帰る。西成のほうの小さな会社の社長さんらしいが、寡黙なのでそれ以上は分
からない。優しそうな穏やかな目をしているらしいよ。店にとっては上客なん
だって」
「分かった。必ず寄るよ」木之元は約束をした。
ぶっきらぼうな会話の中に旧友の友情が溢れていた。五郎はいつもながら有
難く嬉しかった。
年が明けた一月の末。五郎と木之元は宗右衛門町を歩き、葉月の指定した店
を探した。西日本一の繁華街の夜は派手なネオンに彩られ、ごった返している。
放置自転車を避けながら蛇行すると酔客と肩がぶつかる。客より多い呼び込み
屋が数歩行く度に声を掛けてくる。
「社長! どうでっか、乳吸い放題!」ドキ
ッとするストレートな呼び掛けが飛び交う。さすが大阪だ。生地のままの生活
感覚とユーモアに溢れて、逞しい活気に満ちている。
その店は通りから路地に入った、背の高い食堂ビルの地下一階にあった。
「お待ちしていました。葉月さんからお電話を頂いています。とても仲の良い
ご親友ですってね」
背の高い細面の美人ママが愛想よく二人を迎えてくれ、カウンターの中央の
席を勧めてくれた。小振りなその店はカウンターが中心で、後ろに四人掛けの
テーブル席が二つある。奥に飾られた蘭の生花と静かに流れる軽音楽が店を柔
らかな雰囲気に演出している。
グラスを傾けながらママの話を聞いた。物静かでやさしい語り口調が心地良
かった。葉月がカウンターを挟んでママと向かい合い、単身赴任の疲れを癒し
たことが想像できる。
ドアが開き、一人の客が入ってきた。
「いらっしゃい!」明るい声でママが応
じた。
白髪で杖をついている。薄い色のサングラスを掛けていた。
「やれ、やれ、地下の階段にワシ専用のエスカレーターを付けて欲しいね、降
りてくるのがやっとだよ」」
穏やかな冗談を飛ばしながらコツコツと音を立て、定位置の如く、L字型の
カウンターの端に腰を下ろした。
(謎の老人!)二人は顔を見合わせた。
「後で龍二が来るから隣は空けといてくれ」
老人は黙って飲み始めた。
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暫くすると若い男が勢いよく入って来て、老人の側に駆け寄った。
「社長、やっと決まりました。明日の四時です」
「そうか。あしたの四時やな」
老人の声は今までの口調と違い、腹から絞り出すような堅い響きがあった。
若い男は隣に座り、次々と仕事の話を始めた。五郎達もママを入れ、雑談で時
間を過ごした。
先程から五郎は老人の声に、似たような声を感じていた。老人もこちらを時々
うかがっている気配がしたが、思い出せない……。思い思いの会話で時間は過
ぎて行く。
老人がゆっくりと立ち上がった。
「あら、社長さんもうお帰り?」
ママの言葉に返事をせず、老人は五郎に近づいた。
「岸宮……五郎さんですね」
いきなり声を掛けられて五郎はうろたえた。
「はい、岸宮ですが……?」
老人はサングラスを外し、顔を現した。
「ワシですよ。……根来ですよ」
左目の下から顎にかけてケロイド状の長い傷跡があり、頬の肉が引きつって
いる。耳の下から首にかけて赤アザが他の皮膚より盛り上がり拡がっていた。
「エッ! まさか!……本当ですか!」
五郎は驚きのあまり、反射的に椅子から立ち上がった。手がカウンターにぶ
つかりグラスと小鉢が大きく揺れた。
正面に向かい合い、老人の顔と姿を上から下までまじまじと見直した。白髪
で杖を持ち顔に傷はあるが、細面の切れ長の目と分厚い唇、そして掠れた声は
まさしくあの根来 仁だった。
「仁ちゃん!」
思わず少年期に呼び合った名前を叫び、五郎は絶句した。
学生時代の「西欧亭」での出会いと同じではないか! あの時は凄まじい勢
いのある若頭であり、今日は温厚な老人であるという違いはあっても……。
「仁ちゃんは、三十三年前の自宅の火事で家族ともども亡くなった、と聞いて
いたんですが」
「そういうことになっているがね……」
根来は薄笑いを浮かべた。
事情を察したママが仲を取り持った。
「まあ、偶然の出会いなんですね。どうぞ後ろのテーブルでゆっくりお話をし
て下さい。今、片付けますから」
五郎と木之元と根来はテーブル席に着いた。若い男はカウンターでグラスを
もて遊び、横目でこちらの動静を眺めている。
「あんさんは、あの時の学生さんやな」
木之元を見て意外な表情で言った。
「ええもんやな。長いこと友達同士で続いているのは。羨まし限りや。ワシに
13
は誰もおらん」
五郎はまだ信じられず、穴の開く程見つめた。根来は低い声で静かに“その
後”を語り始めた。
外出中に家が火事である知らせを聞いた根来は、飛んで帰り、妻と幼児を助
け出す為に制止を振り切って、火の中に飛び込んだ。二階に駆け昇り、二人を
抱き上げた時、大きな火柱となった梁がまともに背中を直撃した。
気がついた時は病院のベッドの中で、身体中に包帯が巻かれていた。妻と幼
児は死んでいた。当時は対立していた紀山会の報復という噂もあり、妻子を犠
牲にした痛みと悔恨の情激しく、この道に嫌気がさして紀水会を離れることを
決意した。根来は火事で死んだ、という噂をバラまく工作をして、身を隠した。
偽名を使い、釜ヶ崎に流れてその日暮らしの生活を続け、根来 仁をその道か
ら消した。その後、口入れ屋の稼業に精を出し、今では七名の従業員を使う小
さな会社を経営している。
「ワシの自慢の背中の彫り物もグシャグシャや。その時の怪我で今でも足は不
自由なままや」
頬に残る傷跡は当時の火事の激しさを生々しく物語っている。
「仁ちゃんが死んだと聞いて、私はお母さんが住んでいた長屋を訪ねたことが
あるよ。玄関には“空屋”の張り紙がしてあって、ドアは固く閉まっていた」
「うむ、知っている。あの時、おふくろが裏から入って、最後の片付けをして
いた。表で音がしたので窓の隙間から覗くと、五郎が手を合わせていたという。
後からおふくろが泣いていた。そのおふくろも七年前に死んだがね。お前には
感謝している」
総白髪の頭髪はその後の苦渋に満ちた生活を如実に映しだしている。今迄と
違った世界で生き延びる為には、相当の屈辱と忍従に耐えなければならなかっ
たに違いない。激しいストレスが根来の顔、髪を変えていったと想像出来た。
「ここのママが死んだ美鈴によう似ていてな……。火事の中で抱き起した時、
美鈴が、早く逃げて、ありがとう、あなた……と言った言葉が今でも耳に残っ
ている。あいつはワシだけが頼りやった。それをよう守ってやれんかった。―
―それでワシは毎日ここへ通ってくるんや。ただママの顔を見ているだけやが
な」
根来はチラッとママの方を振り返り、淋しさを含んだママの横顔に、はにか
んだ笑みを浮かべた。過酷な話の中に救いが顔を覗かせた。空気が軽くなり、
ビールの通りが良くなった。
根来には往時の、触れれば切れるような精悍な顔つきは消えている。懐かし
い友と出会い、昔を過去形で語れる幅があった。五郎と木之元も叙々に根来の
話に馴染んでいった。
ところが、次の話に移ると根来の顔は険しい表情となり、細い目に鋭さが戻
った。
「しかしな、一か月前にとんでもない事実が分かったんや。それで明日、奴に
会いに行く」
「奴?……」
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「そうや、奴や。カメや、亀木留造や」
「亀木……?」五郎に記憶はなかった。
「覚えています! あの時、根来さんにビール瓶で頭を割られた人ですね」
木之元が身を乗り出した。事件に関わった責任者として木之元には強烈な印
象が残っていたのだ。
一年前、根来は西成の路上で、行き倒れの男を助けた。男は元紀水会の組員、
沼田だった。病院で治療させ、回復後は自分の会社の仕事を与えて面倒をみた。
しかし、病は再発し、一ヶ月前に死んだ。死ぬ直前に沼田は火事の事実を根来
に喋った。あの火事は亀木の放火だった、と。
沼田は偶然に亀木の一部始終を見ていたのだ。それを知った亀木は沼田に金
を渡し、口封じをして手元に置いた。更に彼に紀山会の仕業と言い振らせた。
警察は失火として片付け、証拠も無く根来が消えて、ほとぼりが冷めた頃、亀
木は沼田を放り出した。組織から弾き出された沼田は落ちぶれ、浮浪者生活の
末、行き倒れとなった。最後のつぐないとして根来に本当のことを言って死ん
でいった。
「今、奴は不動産屋をやっている。羽振りがエエようや。龍二を通して物件
の売買の話を持ちかけたら、乗って来た。それがあしたや。ワシは三十三年前
の落とし前をつけに行く」
根来の表情は強張り、強い意志が見える。
「紀水会の黒豹」と恐れられた眼差
しの凄みが蘇えってきていた。
「その前の日に五郎に会えるとは、何かの縁じゃな。ワシもそう思うて声をか
けたんじゃ。死んだおふくろや女房、子供の引き合わせやと思うて……」
「根来さん、二人で行かれんですか」木之元が訊いた。
「そや、龍二は若いがしっかりしてる」
「でも、その足で大丈夫だろうか」五郎も心配した。
「まあ、なんとかなるやろ」根来は豪胆である。
暫く沈黙が続いた。
木之元は腕を組み何かを考えている様子だったが、やがて顔を上げて言った。
「根来さん、明日は私も同行しましょう!」
「エッ!」突然の申し入れに二人は驚いた。
「三十五年前のあの時、根来さんは僕の目の前で見事な決着をつけられた。あ
の時の“借り”を返しますよ。相手が亀木なら一人でも一緒に行く人間がいた
方がいいでしょう。明日は私も和歌山へ行きますので、夕方に合流しましょう」
「オイ、オイ、木之元、大丈夫なのか」
五郎は木之元の顔を覗き込み、すかさず訊いた。
「大丈夫、大丈夫。根来さんが苦労を重ねて社会復帰されたのは嬉しいじゃな
いか。是非、応援したいし、亀木の話は許せない。五郎、君は明日、大事な学
会だ。ここは僕に任せろ。和歌山には旧友が沢山いるから直ぐ連絡も付けられ
る。根来さんと亀木の再会の場をしっかりと見届けてくるよ。不動産の売買だ
から土地家屋調査士が同行するのは理に適っているだろ」
15
木之元の言い出したら聞かない性格と、不正を憎む精神を知っている五郎は、
一抹の不安を覚えつつも同意の方へ傾いた。
「仁ちゃん、木之元は落ち着いた男だ。何かあっても冷静に対応してくれる。
大丈夫と思う」
五郎達の熱い友情に、根来は信じられない表情で呆然としていた。……
五郎と木之元と“謎の老人”との、大阪での出会いは余りにも劇的であった。
岸宮五郎の根来 仁への記憶はここで終わっている。しかし、次の日、五郎
にとって、生涯忘れることが出来ない事件が興っていた。
(四)
翌日、木之元勇平と根来 仁と安西龍二の三人はJR和歌山駅に集合した。
陽は雲に覆われ、紀伊山脈の稜線は濃い灰色に染まり霞んでいる。街並みの
樹木は枯れ切り、木枯らしに落ち葉がカサカサと音を立てて舞う。真冬の寒々
しい夕暮れ時だった。三人は亀木の事務所ビルへ向かった。
大通りを十分程歩き、路地を曲がって進むと「亀木不動産」の大きな看板が
見えた。
「フーン、これがカメの自前のビルか」
四階建ての細長いビルを見上げて、根来は呟いた。
二階の事務所のドアを開けて三人は中へ入った。事務所の中は意外と広く、
受付けカウンターの奥に六つの机と応接セットが配置されている。四人の男と
一人の女が事務を執っていた。奥の窓際の大きな机で、一人の男がせわしなく
電話をしている。その頭上に神棚が設けられている以外、飾り物は無く、素っ
気ない事務所内であった。
女事務員が三人を応接テーブルへ案内した。暫く待たされて、奥から男が猫
背でゆっくりと現れた。中央の肘掛け椅子に腰を下ろした。薄いサングラスを
掛けている。弛んだ頬と額に小ジワが走り短髪に白いものが混じっている。こ
の男にも歳月は流れていた。根来はサングラスの奥から亀木の動きをジッと見
つめていた。
「わざわざ大阪から来て貰ろうて、ご苦労さんやったなあ」
一言掛けて亀木は煙草に火を付けた。
龍二が三人の紹介と物件の売買の説明をした。
「ワイもボチボチ大阪へ進出しようと思うとったとこや。西成の物件やな。…
…まあ、手始めには丁度エエと思う。もうチョット値段下げて欲しいな。ワイ
も考えとくよって」
亀木は満足気な表情で天井に向けて煙草の煙を吐き出した。
売買の目途が着いたところで、根来が口を開いた。
「社長さん、もう一つ買って貰いたい物件が有るんですよ」
「ホ――、それは何処ですか?」
「和歌山市内ですがね、高松小学校の前の道路を挟んだ東側の二軒目の家です」
亀木は地図を持ってこさせ、サングラスを頭に掛けて指で追った。指が止ま
16
ったところで、
「エッ!」亀木は驚きの声を上げた。
「こ、ここはワイのうちでんがな!」
大きな声に事務所の人間は一斉にこちらを振り向いた。
「そこは三十三年前、ワシの家でした」
根来はそろりとサングラスを外した。
ただならぬ気配に、亀木は下から舐める様に相手の顔をジックリと覗いた。
「も、もしかして、根来兄ィー!」
「ヒィエ――」亀木は仰天して椅子にのけ反った。
亀木は続ける言葉が無く、信じられない表情で根来の顔を見つめた。
「そうや、根来や、根来 仁や。亀木、久し振りやなあ」
根来は静かだが語気は鋭い。
「仁兄ィ、あんさん生きとったのか!死んだばっかり思うとった」
亀木はうろたえている。煙草をしきりに口に持っていき、せかせかと吸った。
手は震えている。
「ワシはあの火事の時、命拾いしたんや。そやけど、見ての通りや。顔、形が
変わってしもうた。今でも足を引きずっている」
「……」
「亀木、さっきの家のことやがな、あそこはお前に買うて貰いたいんや」
「……何でワイが買わなアカンのや、あそこはワイの家やで」
売買の話で亀木は少し落ち着いたのか、不満気な口調で答えた。
「火事の後、お前が競売であの土地を安う買い取ったのはワシも知っている。
しかしな、火事の原因が問題や」
「あの火事は警察も“失火”としてケリが着いていますワ。まあ、極道の仲間
内では紀山会の仕業という噂も有りましたがね。それでワイが競売でせり落と
して買い取ったんですワ」
亀木はうつむいて煙草の火を消しながら説明したが、手の震えは未だ止まっ
ていない。
「ワシもこの三十数年間、紀山会の仕業とばっかり思うてきた。しかしな、亀
木。一ヶ月前に沼田が死んだ。あいつが西成で倒れていたところをワシが助け
てやったんや。あいつが死ぬ間際にワシに全部言うた!――あの火事は亀木が
やった、と。お前も分かってるやろ!」
根来は亀木を睨み、語気は荒く、大きくなった。亀木は顔を上げられない。
根来の鋭い声に事務所の空気は張り詰めた。木之元も龍二もこれからの展開
を息を詰めて見つめていた。
窓の外は既に暗かった。時々、風が窓を叩き、事務所の不穏な空気を更に冷
やした。
「仁兄ィ、いや、根来さん。いきなりそんな事、言い出しても。……何か証拠
でもあるんかいな?」
「亀木、ワシらの世界に証拠などいらん!やったか、やらんかったか、や!」
根来は畳みかける。
「そんなこと言うても……」
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「人間、死ぬ時はウソは言わん。ほんまの事言うて死ぬもんや!」
亀木は明らかに怯えていた。追い詰められ、怯えながら、下を向き沈黙した。
目をつむり長い沈黙が続いた。
やがて顔を上げ、覚悟を決めた顔付きで根来を正視した。
「そうか、沼田が喋って死にましたか。直接聞いたんやったら、ごまかしても
仕方が無いワ。……ワイもこれでも極道の端くれや。筋通して隠さんと皆話し
ょ。火事のことは証拠も無いし、もう時効やしな」
周りは静まりかえっていた。龍二は事務所内に目を走らせ、男達の動きを牽
制した。木之元は拳を強く握り、ポケットの携帯電話に手を触れた。
亀木は腹をくくったような態度で切り出したが、したたかな計算が見えてい
た。その上で開き直り、長い話を始めた。
「ワイは家が貧乏やったんで、中学出て、直ぐに製鉄所の下請業者に就職した。
安い給料で住み込みやったが、朝から晩まで熱い溶鉱炉からコークスの燃えカ
スを掻きだす作業や。一日終わったら汗が出尽くして人間の干物になってたで。
キツイ仕事やった」
そこまで喋った時、亀木は木之元に気付いた。
「あれ、こっちのあんさん、昔、仁兄ィと張り合った学生さんと違うか。何や
変な組み合わせやな。まあ、エエワ。余計に若い頃を思い出すよって」
亀木は又、煙草に火を付け、一服大きく吸ってから話を続けた。
連日の厳しい労働にも慣れてきた一年後のある給料日。仕事が終り飯場で仲
間と酒を酌み交わした。皆は酔った勢いで「女郎屋へ行こう」と話がまとまり
亀木も誘われた。彼は安い給料でそんな事をすれば仕送りが出来ないと断り、
一人で寮へ帰った。寮にいると酒のせいか頭痛がして、隣の社長の家に薬を貰
いに行った。一階には誰も居なく、二階に上がった。二階では若い嫁が横たわ
って赤ん坊に乳を与えていた。
「社長は出張中で留守やで!」
振り向きもせず、不愛想な言葉が返って来た。亀木はその場に立ち尽くした。
「カメ、何見てんの!早よ、帰り!」
小バカにした声が飛んできた。亀木はその女の姿を見続けた。
薄い下着一枚で横たわり乳房を露出し、赤のパンテイが透けて見える。露な
女体は若い亀木の欲情をそそるのには十分過ぎた。
亀木はたまらず背後から抱きつき、片方の乳房をワシ掴みにした。驚いた女
はあらがったが、赤ん坊に乳を飲ませている弱みもあり、次第に抵抗を止め、
亀木の愛撫を許した。がむしゃらにむさぼりつき、激しく手を動かした。女は
亀木のなすがままに身を任せていった。
「そのうちによ――、乳飲ませながら自分から股―広げてきて……、赤子に乳
やり終わって寝かせたら、ワイの首に抱きついてきよった。顔は火照ってるし、
下はベチョベチョに濡れてた。ワイは初めてやったから早よう終わってしもた。
そやけど又、直ぐに、入れた。若かったんやなあ。これがワイの“童貞喪失記
念日”や、ヘッヘッヘ」
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唇を舐め、横目で皆の反応をうかがいながら薄笑いを浮かべる。
下卑た笑いと下品な言葉の連発に、業を煮やした根来は怒鳴った。
「カメ! そんな話は何の関係があるんじゃ!」
「まあ、待ちぃや、ゆっくりワイの話を聞きなはれ。久し振りやないですか。
話はこれからですワ」
亀木は又、天井に煙を吐き出し、続きを喋り出した。
その後、二日間続けて忍んで行った。三日目の夜。女の腰が急に止まり「ア
ッ」と声を上げた。女の上から振り返ると、社長が後に立っていた。予定より
一日早い帰宅であった。
「ヤバイ!」と思う間もなく、手が飛んできて弾き飛ば
された。倒れた身体に蹴りつける足の音が食い込んだ。列火の社長は亀木を叩
きのめした。鉄工所の現場でたたき上げた社長の腕力にかなう筈は無かった。
「殴る、蹴る、ぶん投げる、と散々にやられた。揚句にその場でクビや。顔は
腫れ上がってるワ、前歯は二本折れてるワ、腹や足のふくらはぎはドス黒く赤
紫色に変色しているワ、ガタガタやった」
クビになった亀木はその後、職を転々としたが、どの職場でも長続きせず、
街の繁華街をうろついているところを紀水会に拾われた。
――普通の子がうらやましかった。中学生の頃、遠足や修学旅行の日は休ん
だ。弁当が無いので昼食時間に校門を抜け出して、離れた公園で時を過ごした
こともしばしばあった。尖らせた五寸釘を樹木に突き刺したり、蟻の巣を壊し
て右往左往する蟻達を眺めて過ごした。卒業後、母親に仕送りをしようとした
が安い給料ではどうしょうも無かった。貧しい家の、小柄で力のない子は人の
目を盗む、こすい(ずるい)生き方をするしかなかった。どこでどう間違った
のか、楽な方へ、楽な方へと進んで行った、と亀木は振り返る。
根来は目をつむり、腕を組んで話に耳を傾けた。亀木の屈折した少年時代の
想いに、同じ匂いを感じていた。
「あの火事の日……」話は核心に入った。
あの日の夜、亀木は根来の家に行ったが何も返事がなく、二階に上がった。
そこには妻の美鈴が畳に座り、赤ん坊に乳を飲ませていた。根来は寄り合いに
出掛けて留守だという。
亀木はその光景をジッと見た。……あの時と同じ。――若い時の光景が蘇り、
劣情が噴き出してきた。亀木は欲情を押さえられなかった。
あの時と同じ様に背後から美鈴を抱きしめたが、美鈴は抵抗した。暴力的に
迫ったが激しい抵抗は止まず、赤ん坊は火がついた様に泣き騒いだ。
「なんや、お前!前はワイの女やったやろ、そんなに兄ィにみさお立てんでチ
ョット位エエやないか」
顔を張り、髪を引っ張って、亀木はしつこく迫った。美鈴は赤児を抱き締め
身を固めてかたくなに拒んだ。赤ん坊の泣き声は増々大きくなり手が付けられ
ない。余りに激しい抵抗に欲情も萎え、近所に聞こえる事をはばかった亀木は、
遂に諦めた。
「分かった、悪かった。今のことは兄ィに言わんといてな、黙っといてくれや」
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弱気になった亀木は哀願し、引き下がった。
階段を降りる時、亀木に恐怖心が湧いてきた。脳裏に若い頃に受けたひどい
仕打ちがフラッシュバックした。それは階段を一段降りる毎に閃く。
もし、根来に知れたらあの程度の怪我では済まないだろう。頭をビール瓶で
割られたこともある。――殺されるかも知れない。殺される! 殺される! 戦
慄と恐怖が全身を覆い、血の気が引いていくのが分かった。身体全体が震えて
きた。「頭の中は真っ白になった」と亀木は言う。
美鈴は遠い処から流れてきた身寄りのない女だった。貧しい生い立ちと幸薄
い人生を過ごしてきた。常に日陰に回り、控え目に生きてきた。キャバレーで
働いているところを亀木と知り合い、互いの生い立ちに共鳴した二人は結びつ
いた。しかし、亀木は美鈴の弱みにつけ込み、次第に横暴になっていった。僅
かばかりの蓄えは巻き上げられ、給料もその日に持って行かれた。それでも美
鈴は「私の人生はこんなもの」と自分に言い聞かせて、耐えた。徐々に暴力が
ふるわれる様になり、耐えきれず、根来に助けを求めてきた。根来は再三、亀
木に注意し、警告したが態度は変わらなかった。遂に根来は美鈴を引き取った。
「私のような女をここまでしてくれて……もったいない」涙を流し、ささやか
な安穏の日々に感謝した。修羅場に立つ根来を一番に心配し、帰宅すれば嬉し
そうな顔で出迎えた。
「仁さんの為なら命も惜しくない」と、献身的に尽くした。
そこまでして子供とワシの為に身を守ったか……。根来の頭の中に、美鈴の
面影と遠い癒しの日々が浮かぶ。
二階では赤ん坊の泣き声が続き、あやす母の声が聞こえてくる。子供のいる
家庭への“ねたみ”が亀木に大きく拡がった。
「何んでワイだけが……、ワイだ
けが……」――恐怖から被害妄想が頭の中を占拠した。全てを破壊してしまい
たい欲求が燃え上がる。
亀木は台所へ回った。鍋一杯に油を満たし、布巾、新聞紙に油を沁み込ませ
てカーテンの下へ引き込んだ。油が煮えたぎり発火する迄に時間が掛かる。そ
の間に遠くへ逃げてアリバイを作ろうと考えた。――そしてガスレンジに火を
付けた。
それを沼田が裏窓から見ていたのだ。
亀木は一気に喋り切った。
亀木の態度には後悔や懺悔の色など全く無かった。顔には、全てを語った快
感と、戦慄と恐怖に打ち勝ち完全犯罪を成し遂げた人間の勝ち誇った笑みさえ
浮かんでいた。
根来は腕を組んだまま動かなかった。
重苦しい沈黙が続いた後、口を開いた。
「亀木、今お前が喋ったことが全部本当なら、お前は自分の子供を焼き殺した
ことになる」
「エッ!何だと!」
亀木は理解出来ない表情で根来の顔を覗き込んだ。一同の目は一斉に根来の
20
顔に集中した。
「確かに美鈴はお前の女やった。しかし、お前が美鈴にむごい仕打ちばっかり
するから、お前と話をつけてワシが引き取った。お前も承知の上や」
根来は怒りを抑え、低い声で反論を始めたが、その語句には鋭い刃が隠され
ていた。
美鈴が根来の家にやって来た時、美鈴は身ごもっていた。それを承知で根来
は受け入れた。
「亀木の子です。堕ろさせて下さい」と懇請したが根来は許さな
かった。
「折角の子宝や。しっかり産んで育てよう。男の子やったらワシが出来なかっ
た野球をやらそう」そう言って美鈴を慰め励ました。
「亀木、あの子の名前は、ワシの仁と亀木留造の造をとって“仁造”と名付け
たんや」根来の語気は更に鋭くなった。
「ゲエー!」
亀木は至近距離から銃で撃たれた様に、椅子の背に弾き飛んだ。
「お前に時効は無いんじゃ!」
根来はとどめを刺す言葉を叩きつけた。
亀木は椅子にもたれたまま首をうな垂れて黙った。又、長い沈黙が流れた。
ようやく顔を上げ、小さい声で言った。
「分かった、分かりましたよ。仁兄ィ。いや、根来さん。……あの高松小学校
の前の家は買わせて貰います。いくらで買うか、検討させて下さい。後日、連
絡します。……今日のところはこれでお引き取り下さい」
亀木の顔から傲慢さは消え、悄然となっていた。
ビルの外に出ると通りは暗かった。上空には鎌のような月が光っていたが、
辺りはビルの窓明かりと街灯だけで足元は暗い。風は止んでいた。
「さすが根来さんですね。圧倒的な迫力でした。凄い光景を見させて頂きまし
た。五郎にしっかり報告しますよ」
若い頃の鋭さに歳月と苦労が加わった分、重厚な威圧感と凄みがあった、と
木之元は言う。
「しかし、世の中には悪がいるもんですね。犯罪者でありながら、あのふてぶ
てしい居直りの態度は、僕には信じられない」
「奴も精一杯生きてきたんじゃろ。どこかでボタンの掛け違いがあった。ワシ
にはよう分かる」
「社長、これから亀木はどう出てくるでしょうか。本当に金は払うんでしょう
か?」
「うむ、今日のところはこれでエエやろ。ワシは金などどうでもエエんじゃ。
あいつがこれからどう出てくるかやな。龍二決して油断するな」
「ハイッ」
暗い通りを五分程歩いた時、前方から四つの人影が近付いて来た。
「あんさんらよ――、通行の邪魔や。もっと脇へ寄れや」
ドスの利いたゆっくりした声で、前をふさいだ。ジリジリと近付いて来る。
三人は脇の駐車場へ退いた。四つの影はそれを追うように近付く。一人が一歩
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前に出た。
「ウチの社長がよ――、二度とあんさんらに来てほしゅうない、言うてんのや」
男が突然、そろりと短刀を抜いた。月の明かりに鈍く光る。プロだ! 根来
は瞬時に分かった。三人が二、三歩下がった時、横の背の高い男が根来めがけ
て襲いかかってきた。龍二が咄嗟に動いた。男の腹部に強烈な蹴りを入れた。
「グェー!」呻き声を上げ、よろけながら横転した。龍二は腰を落とし、根来
の前に立った。短刀を振りかざした男が正面から襲ってきた。低い構えから右
足を高く蹴り出して男の胸を打った。更に左足で脇腹を蹴り込んだ。男はのけ
反って駐車場に倒れた。脇から小太りの男が突進してきた。
「危ない!」一言発した木之元は、その男に体当たりをして、タックルをかけ
た。腰に決まったタックルで男は仰向けに倒れ、コンクリートに頭を打ち付け
た。
龍二の蹴りで、二人は呻きながら駐車場にのた打ち回っている。コンクリー
トに頭を打ち付けた男は動かない。もう一人は逃げ去った。
根来は小さいブロックに腰を掛けた。木之元と龍二もその隣に座った。
「やれ、やれ。奴の仕業やな。二人とも大丈夫かな。龍二、だから油断は出来
んぞ」
「ハイッ」
騒ぎが収まり、余裕が出ると根来は静かに話始めた。
「ワシはこの歳になって思うのやが、こんな醜い顔になって生き続けるのもワ
シの心の仕業やな、と思うている」二人は根来の顔を見た。
「ワシは小さい頃から野球が上手く、勉強もそこそこ出来た。それで周りはチ
ヤホヤしてくれて、ワシも頑張った。しかし、知らん内に自分中心になってい
て、ほかの者を見下すようになっていた。練習を休んでもすぐ追い抜ける、と
傲慢になっていた」しみじみとした口調で根来は続ける。
「性に合わんもんは、親でも先生でも言うことは聞かんかった。肩をこわして
野球が出来んようになった時、全てがイヤになった。周りが皆、敵に見えた。
嫌がることをわだ(わざ)として暴れた。世間に背を向けることが生きがいに
なったんや。極道になって、背中にごっつい彫りものをしたのがその現れや。
邪魔な者は叩きつぶしてきた。前に大きな石があれば粉々に砕いて進んだんや。
避けて回り道することなど考えられなんだ。それがどれだけ恨みを買うとった
か、解ろうともせんかった。しかし、どっかで仕返しが来るんや。今日のカメ
の話を聞いて、よう分かった。あいつもワシと同じや。少しは懲りたかと思う
たが、人間、そう変わらん。奴の顔も醜かった。心に夜叉が居る限り、このザ
マや」
重い話になったので、話題を変える為に木之元は立ち上がり、スボンの裾を
払いながら感心したように言った。
「しかし、龍二さんのキックは凄いですね。一発で相手を倒すのだから。大し
たものだ」
「龍二はね、キックボクシングの四回戦ボーイなんですよ。ワシのところで働
いて練習に通っている。まあ、ワシの秘書兼ボディガードです」
「社長には感謝しています。暴走族だった俺を面倒みてくれて、ここまで仕込
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んでくれたのですから」
「龍二は日本一、いや、世界一になるのが夢でしてね」
「若い人が夢を持つのはいいことですね。私も若い頃は夢や正義感に満ち溢れ
ていました」
「木之元さん、今日は本当に有難う。助かりました」
「さっきのタックルは咄嗟に出たのですが、我ながら見事に決まりましたよ。
試合であんなタックルが決まっていれば、もっと勝てたんでしょうがね。ハッ
ハッハ」
その時だった。パーン、パーンと乾いた銃声の音が闇の空気を切り裂いた。
根来と龍二は咄嗟にその場に伏せた。伏せたまま首を振り向けると、木之元の
大きな身体がゆっくりとスローモーションのように崩れ落ちていった。
凶弾に倒れた木之元は二日後に息を引き取った。根来は号泣した。
その二日後、チンピラ組員が銃を持ち自首した。対立していた組織組員と間
違い、誤射したとの理由だった。
(五)
(あれから八年か……)
五郎は研究室の窓からキャンパスを望みながら呟いた。盟友木之元勇平を失
くした空白はどんなに歳月が経っても埋め尽くせない。どこかでいつも彼と会
話をしている。
「これ、どう思う?」、
「この問題についてお前ならどう考える?」
頭の中で常に彼に問うていた。
激しい議論をたたかわせた真剣な顔。放水の中で、しっかりとスクラムを組
んだ腕の温もり。ラーメン屋の屋台の湯気の向こうの顔。冗談を交わした高笑
い。……さまざまな顔が現れる。
社会人となり、遅くして結婚し、遅くして子供が生まれた時、
「駿平って名付けたよ。――平和を駆け抜けて欲しい、という気持ちだ」
嬉しそうに木之元は連絡をしてきた。
木之元が生まれた時、父親は既にマレー沖で戦死していた。子供ができたこ
とを知った父は戦地から母に手紙を送った。
「女の子なら、和子。男の子であれ
ば、勇平。と名付けて欲しい」との短い手紙だった。母は父の平和への想いを
読み取った。普通なら男の子の名前を先に書き、次に女の子の名前を書く。そ
れでは勇平、和子となり、「平和」の文字が浮き出てくる。当時、軍人は勿論、
一般国民でさえ「平和」の文字は禁句であった。それを悟られない為の配慮、
と母は理解した。息子には勇気を持って平和を生きろ、娘には穏やかで平和な
子であって欲しい、との伝言であると確信した。最初の召集で左手の指三本を
失くした傷痍軍人に、再び赤紙が届いた時、
「日本は間違いなくこの戦争に負け
る」と言い残し、軍帽深く征った父を見送った母は、行間からそう読み切った
という。木之元は父の遺志としてこの話を幼い頃から聞かされていて、自分の
一本気な正義感は、小さい頃から平和を希求する親の教えに育まれた、と何度
も五郎に語っていた。五郎にとって忘れられない木之元の思い出の一つであっ
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た。
窓を少し開け、外気を入れる。学生達の賑わう声が遠くから聞こえてくる。
外は五月の晴れ渡った光で輝いている。陽春の香りが室に拡がってきた。
研究室の電話が鳴った。
「岸宮先生、外線です。長谷川さんとおっしゃる方です」交換手が告げた。
「長谷川?……」
五郎の知人や周辺に長谷川という名は無かった。学校関係か出版関係の人か
な、と想像した。
「つないで下さい」
「ハイッ、ではどうぞ」
暫く間を置き、五郎は受話器に向かって自分の名を名乗った。
「……五郎か、久し振りだな」
「エッ? ハイッ、岸宮ですが……どちら様でしょうか?」
もしかしてとまさか、が交差する直感を確かめる為に、もう一度訊いた。
「ワシや。ワシの声、忘れたか」
掠れた声がハッキリと返って来た。
「も、もしかして、根来さん?……」
「根来 仁はもうこの世にいないよ。ワシは長谷川喬介、言うんや」
「……」五郎は絶句して言葉が出なかった。
「駿平君は無事、卒業したか?」
相手は五郎の驚きに構わず、落ち着いた口調で問うてきた。五郎は受話器を
強く握り直し、口を近づけた。全神経が集中している。
「エエ、エエ、きちんと、卒業、していきました」
言葉は途切れがちになっている。喉がヒリヒリと乾いた。手に汗が滲む。
「そうか、それだけが気になってな」
「仁ちゃん! 今どこにいる、元気なのか!」
受話器に向かって叫んだ。
「……木之元さんには世話になりながら申し訳ないことになってしもうた。そ
れが残念でな」
「そうか! 駿平君に匿名で学費を送っていたのは仁ちゃんなんだね。こちら
では“足長おじさん”って呼んで感謝していたんだ」
木之元駿平が大学に入学した時から、匿名で家に金が届き始めた。半年経っ
て不安を感じた母親と駿平が五郎に相談に来た。
木之元君は人格の高い、面倒見の良い男だったから、恩に感じている人は多
い。その内の誰かが善意と好意で送ってくれているのでしょう、と推測し説明
した。卒業して就職したらその人を探し、お返しすることを誓って、親子はご
好意と隠徳に甘えることとした。母親だけの収入の家計には有難かった。駿平
は父の存在の大きさと世の情けを実感した、と何度も感謝の言葉を五郎に伝え
た。
「そんなこと、ワシは知らん。駿平君が無事卒業出来て本当に良かった」
五郎の高揚した声とは対照的に相手の声はあくまでも冷静である。
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「駿平君は会計事務所に就職した。いずれ独立して父親の事務所を継ぐらしい」
「そうか。それを聞いて安心した。……もう二度とお前に会うことはないが、
達者でな」
「仁ちゃん! せめて電話番号でも――」
「五郎、根来 仁はもうこの世にはいない。実は、長谷川喬介も実在しないの
だ。ワシに戸籍を売って一人で死んでいった。そんな奴はワシの周りには仰さ
んおる。誰にも知られず消えていく奴がな。そいつらは皆、無縁仏やが、周り
のみんなは無関心や……淋しい国やで、この国は。いずれワシもそうして消え
て行く。……あばよ」
「仁ちゃん!」
呼びかけた声が終わらないうちに電話は切れた。
五郎は終わった受話器を暫く眺め続けた。カーテンが風に揺れる音だけが聞
こえてきた。
――八年前の二月の終わり。温暖な和歌山市内で珍しく粉雪が舞った。夕方
から細い雨に変わり、九時頃に止んだが風が空気を一層冷やし、街全体を寒さ
で覆っていた。道路は乾いてきたが、十一時を過ぎると更に冷え込んでいた。
「ウッ、寒っ!」白い息を吐きながら猫背を一層丸くして、亀木は駐車場へ
歩いて行く。
「酔いが醒めてきたな。ちょっと小便していこか」
独り言を呟きながら駐車場の塀の前に立った。
「ケッ、あの県会議員もよく言うよ。当選祝いが出来るのもワイらのお陰やな
いか。選挙中は頭下げてワイらに汚いことばっかりさせて、当選したら綺麗ご
とばっかり並べよる。又、腹肥やすな、あいつ」
ブツブツ言いながらブルッと身震いをして、チャックを上げた時、塀に二つ
の人影が映った。
「亀木さんですね」若い男の声が背中からかぶさってきた。
振り向いたが後の街灯の光で顔は見えない。目を細め、手をかざしてよく覗
くが判別がつかない。
「エエ、亀木ですが」と返事をした瞬間、足蹴りが飛んできて、みぞおちに食
い込んだ。「グエッ」と言う間もなく拳が同じところを痛撃した。
「オエ――」汚物が噴き出た。体が曲がったところに、又、蹴りが飛び、大腿
部を激しく打った。ガクッと膝を折り、地面にしゃがんだ脇腹に低い足蹴りが
飛んで横転した。瞬間の出来事だった。意識は未だある。霞む目で一つの人影
を認識した。
「やっぱり、あんさんか……」細い声を出したが、喉から血生臭い塊が噴き出
てきて息が詰まる。二つの影は無言で見下ろしている。
大きく息を吸い込み、地面に手を付いて正座した。
「グエー――」又、塊が込
み上げてくる。ゲボゲボと吐いた。腹を押さえじっとしていると暫くの間、止
まった。
「いつか…こんなことに…なると思うてた。……覚悟は出来てる」
声を絞り出したが、血生臭い塊が波状的に湧き上がる。堪らずゴホ、ゴホと
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吐き出した。
「腹わたが破れたみたいやな」腹を押さえ自虐的な薄笑いを浮かべた。
「思い切ってやってもらおうか……あんさんに……やられたら……本望や」
亀木は腹の前で手を組んだ。揺れる体を必死に支え、正座をし直して目をつ
むった。
暫く間を置き「ビシッー!」と鋭い切り裂き音が唸り、ムチのようにしなっ
た杖が亀木の後頭部に食い込んだ。一拍置いて、ガクッと首が折れ、腰から前
傾して崩れていった。額を地面に着け、折れ曲がった体は動かない。二つの影
は暫く見下ろしていたが、一つの影がしゃがんで亀木の口と鼻に手を当て、や
がて振り返り、頷いた。
二つの影は去って行った。杖を振り下ろした時、衝撃で小さな破片が飛び散
ったことを影達は気が付いていなかった。
折れ曲がった亀木の体は、消えて行く二人に、深々とお辞儀をして拝むよう
な姿であった。手はしっかりと組み合わさっていた。その背中に遥かな凍星の
小さな光がさしていた。――
(完)
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