八丈島、 流人たちの生活と平均寿命 木更樹 作実 「流人の島」として江戸時代から広く知られ ている八丈島、その流人の歴史は慶長11年 (1608)に関ヶ原の合戦に敗れた、豊臣家 五大老の一人であった宇喜多秀家が、八丈島 に流された時に始まっている。 それから明治4年までの265年間に、東 京都公文書館所蔵の「流人明細帳」によると、 1898人が流されている。 そこで1898人の流人の中から、島で病 死した流人でその年齢が流人名細帳で確認で きる、552人を拾い出して死亡時の年齢を 書き出した。そしてその年齢を合計すると 30. 137歳であった。この年齢を552人 で割ると、一人の死亡平均年齢が、54. 59 歳になった。 江戸時代の庶民の平均寿命がわからないか ら、この54. 59歳という流人たちの平均寿 命については、良いものか悪いものか、私には なんともいえないが物の本によると五十の賀 と言って、50歳になった時に祝っていたと 言うから、その年齢を552人が平均寿命で 超えていることから、54. 59歳は決して悪 い平均寿命ではないと、私は思う。 それに流人たちの常食は朝と昼は芋で、晩 は粟にアシタバなどの野菜を多く入れて、 宇喜多秀家の墓 → 島酒の碑 お粥にして食うのが一般的だったというから、 それに大工や屋根葺きなどの手に職を持って この平均寿命は驚きに価する。農地の少ない いる流人は、その職を活かして生活すること 島では穀物の収穫量が少なく、特に米の飯は が出来たから、一般的な流人より楽な生活が 島の人でも盆と正月ぐらいしか食うことが出 出来た。 来なかった。 それに八丈島は「女護ヶ島」と呼ばれていた それでも八丈島は流人にとっては、決して ように、女性の人口が男性の人口を上回って 住みにくい島ではなかったようだ。罪人たち いたから、女性が男性に寄せる関心も高かっ もそれをご赦免になって帰国した流人たちか た。それで流人たちは島の女性と親しくなっ ら聞き知っていたから、奉行から八丈島流罪 て、現地妻を娶った。この妻たちのことを水汲 と裁決を申し渡されると、一様にホットした 女と言って、地役人も島の人たちも黙認して 表情になったと言われている。 いて、差別もしなかった。 それではまず流人の住居の方であるが、流 女性の次は酒であるが、八丈島では農耕地 人が流人船で八丈島につくと、抽選で島内に が少ないうえに、しばしば塩害等にも遇って ある5つの村に割り当てられた。そして流人 米の収穫が少なかったから、代官から酒造禁 を預かった村では農家の五人組みが九尺二間 止令が出ていた。この酒造禁止令に島の人た の小屋を造ってくれた。九尺二間とは江戸の ちが困っているのを、流人の1人が見かねて、 庶民の住む裏長屋と同じ広さである。 自分の故郷薩摩で行われていた甘藷から焼酎 島の人が流人にやってくれるのはこれだけ を作る製法で、法に触れないで焼酎を作り、島 であったが、島の人と一緒に働いていれば、 の人たちに酒を与えた。これが島酒と呼ばれ 何とか生きていけるように計らってくれた。 て、今も八丈島の冠婚葬祭に出る酒である。
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