政黨連合運動の破産 (その二)-帝人事件を焦點として

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政黨連合運動の破産(その二) - 帝人事件を焦點として -
市原, 亮平
經濟論叢 (1954), 73(3): 161-182
1954-03
http://hdl.handle.net/2433/132349
Right
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Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
経湯与論叢
芸者七十三春
替え読
山村部落財政の賀態
尽
政黛主主合運動の破産
市原亮平(1
5
)
ケインズの所得の定義
ー上iE之
(
3
7
)
賃銀水準と雇備の餐動
清 水 義 夫
(
5
7
)
恭
走塁(1)
〔昭和二十九年三月〕
京都大亭鰹溝手舎
政黛連合運動
(そのニ)
││帝入事件を焦貼として││
市
﹃番町合﹄の
平
政集連合運動の破産
第七十三春
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﹁軍部近来の増長振りに封して
さらに九年度予算の編成にかb む
駿
=
主
し判じ出した背景1 1 寸非常時 HH
反動小康時代﹄白到来にもとづく﹁軍・民離間﹂が愛生した事情と理由はどのよ
でもない。
il ﹁番町曾﹂﹁朝銀舎﹂なるグループが政治舞台に登場し、かっこれらを﹁現欣維持﹂陣佳の旗手と
﹁軍・民離間﹂の裂生を利していわゆる﹁現扶維持﹂陣皆が革新軍部民打ちこまんとした棋であったことは Hうま
到来した﹁非常時l 反動小康時伶﹄││農村事情の鎮静化と革新機運の退潮、
らしむるととが最も捷径だとい弘し﹂決論のうえに成ったのであった。この既成政時期連舎の己とろみが、昭和八年に
園家白鴛何とかせねば成らぬと謂ふに一致し、それは結局政黛を純化じ、強化して宜白横暴に射する中流の砥桂た
己の共同謀議は中島商相を原因熊男出向惇が﹃朝飯合﹄に招待した席上てだされた、
シンパサイザハ中島商相を斡旋伎とし、十二月ご十五日に開催された一同集幹部懇談舎に いたって項黙に遣したか、
L 政出馬連令運動は、
売
破
産
昭和八年暮に﹁政黛をゆりうどかすものとして遂に財閥が乗り出すにいたった
原
の
第
政議連合運動の破産
うなものであったか
第七十二巻
強
ノ
、
4
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主導した営の池田成彬が語って円るように、農村
倍
心もっとも弱い一震としての農村の基本矛盾を繁柴の都市
LL
衰徴の長村との一元的社劃立にすりかえ、農木、主義イ
立ワて、恐慌にもとづい℃激化した農村内部の生産関係l 階級封立令所奥の前提として背貸しつつ、白木資本主義
は﹁ナポレオン概念の精髄﹂といわれた農村内部り中問者・小支回屠(自作最中堅・中長上唐・小地主)の階級基盤に
を訴えられて層、演習行動ぞ親しくその生活情況を見ている﹂・兵と結合していた険勤務の革新青年将校合、絞ら
事買、軍部の園家改造運動の動カーになったのは、﹁農村の子弟、中小工業家の子弟て、それらから常にその苦難
の農業恐慌を母胎として護生して吉光事情をあきらかにしている
せる己とと友った︾彼は陸軍の征略、よ浦測事境の官役者に在った﹂己とを指摘し、己の軍・民結合が昭和豆年以降
る危険が生れる﹂己と、さらに﹁国債切下げて巨利を博した財闘にたいする激昂は遂に荒木大将をして質権を握ら
飢餓に頻した米作りと武士道精神白薫陶十うけた軍隊 c、己 C m縁関係によってここに一初めて目本の護展のあb ゆ
杢海兵は哀れむベさ抽出民からたり、殆んどすべての将校は農民出だからてある。農民と兵とのこの結合により、
わないし、世界の大火災にたらたいし ζも限ら左い。何故左ら一日本の陸軍民士の四介の=一は曲障尽からたっているし、
うものであるととを述べ、﹁日本の農民の言語に絶する窮ヌはややもすれば蓬かに大空た火災を吹者おこすかもし
一に農民の窮乏、こに農業岸産様式白非)近代的性格、二一に農村臼過剰人口││日木の鼠の悲劇は己れb の事情K負
コカ旨吉田 N
-RrF﹁ は そ の 著 に 君 主 旨 号 、 号 、F S F のふなかで︹第一部第四章﹁農民の賦態﹂と第五章﹁陸軍﹂)、
不況を母胎とL て軍部と農民とが結びついた祉曾的盛カ弓軍・民﹂結八日ロ Uであったわけであh、 ア ン ト γ ・ツィシ
いうまぞもなく巨大財閥に﹁陣向﹂を強い骨のは、﹁碍向﹂
ー
ム
ー
ノ
、
ヂオロギに身を燥さつづ五・一一九事件、二・二六事件で直接行瑚に訴えた心てあるぜ
他方、
中央官街(軍令・軍
政勤務ゾに出仕する・呉と結合していな ρ ﹁幕僚﹂の革新将校(佐官が中心ゾは、ナチズムやド心﹁一 Q軍事濁裁に圏一
によ
びつつケマル的な﹁上からの革命﹂による政情世帯翠色目指したのであり、一一周。十日ほの雨事件(未怠︺は被 一
A引
づτ策謀されたのである。かくて陸軍内部白ヒェラルヒッシュな統制がくづ一れ、庭士横議の下克上的風潮が禰漫し、
、
軍ω寅質的推進者としτ草新将校の横断的結束ができたりであp(五年における図家改造や一目指す秘寄り向社﹁陽台﹂・﹁小
概曾﹂町一結成υ 彼らを崎ム口として荒木・民崎bD皇道汲将領が軍中植に進川、いわゆる﹁皇道派時代﹂が現出した
のである。
しかもこれら軍主唐および下居心非合法的直接行動││図家改治運動の底には、合法的な無数の農民請願運動が
存在した。す友わち六十三議舎開脅中に自治農民協議舎は六照三高ご千人心、つい J一北停不況封究脅代表は五干名
の農民署名士もヲてそれぞれ陳情、己れを皮切りに都府廓農舎長協議合・金園町村長舎 e無産政昔前@農民組合など
績々請願をお乙な加、議合間舎開舎中の請願件数貨に七八六件代達し、農村匡救議舎の名を以τ川町ばれたりである。
li匡農静願運動はそ白まま濡木陸相と後藤農相とによって新藤内閣の
この軍民を打つτ 一丸とした革新的機運
内政合議にもちこまれ、政府白救農針策となって共位佑したのぞあり、救農陥時議舎(六十三議脅)には一ニヶ年計霊
d
との時局匡救費は農村え購買力を撒布し失業問題十緩和し、他方地方産業民賦活力をあた
ハ昭和七年以降︺白農村匡救事業案が提出され、政府は時局匡救予算として目指計六億国八外に政府資金による地方匡救
費三億固)を計上した
J
えるポ γプ白迎へ水とたり 、いはばとから白官僚的 2 1スてはあったが圏内市場
l 開護主義 D路線全しめしていた。
第七十三巻
ム
第
是E
士
二
事費、教曲買事業の進捗はそれまで不況の底にあった農村経済に﹁救農 f ンアレ﹂の刺激をあたえ、従来革新l 右翼
政業謹合運動の破産
、
ノ
政撲謹合運動の破産
第七十三者
一六阻
五
段
ノ
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問を務し、海軍も開制した
L
c
註
L をあからさまにしたのてある。兵と結合することにエり農民とも結びついていた
のであるが、陸軍に沿ける﹃皇道訴時代﹂波落の一歩を示す荒木退陣の理由として、さ
がある様であるが、かくのどときはその思議すると無意識たるとぷ刊はず問肪上の立場上看過する能はざる事柄である﹂との車
筑窪行の必然的要求たる問防力の増強口ため軍事珠鐸の計上せらるるについてこれを以て軍氏陣聞の妊周目どして策動する人士
掛政築謹令淑は九年度珠算編成を利用して﹁軍・民離間﹂の宜俸をお乙なりたが、これにたいし陸軍は八年十二月十日に﹁悶
b に、﹁合法 7 ァツショ汲﹄といわれた統制沃軍闘が軍中植に撞頭し始めたという新事態士指摘しなければなbない‘
に乱年一月に陸相主僻した
本家的た高橋財政によっτ軍制され昼に闘したむてあり、﹁荒木桐恨むに足らずとする聾が内部から治己り、彼はつい
陸相は農民子算心敗北・救農費の削減等によづて立脚地をうし社づた ν │ │彼 自 閉 念 右 翼 的 社 革 新 政 策 が 金 融 資
皇 道 沃 青 年 持 校 に 工 っ て 軍 政 心 中 植 に 送 り 己 ま れ 、 し た が っ て 大 胞 と と も に バ タ l 士も揮ばざるをえたかった荒木
にたいする敗北)、﹁軍・民離間
に九年度予算編成主めぐってあたかも救農士吉ごとく振舞ってきた軍︻叫仰の笠態が露呈され包買の抽出警の﹁軍事現竺
が、さb に陸軍が統師権主荷日勤する己とにより勃殻剛進展をみた満洲事後は軍事費の飛躍的な膨脹を要請し、己こ
かかる情勢は従来軍部の念進運動と結びモれの悲盤となっていた農民運動を小康化し軍部かb遠ざけたりである
のである。
勾
かくて農村事情は一腹鎮静し小康化し、政治面ても寸非常時l 反動小康時代﹂が到来、革新機蓮防相誕糊していった
いでい士のに U、七年を﹁精機﹂として農村主八年からは﹁特殊なる不景気む局面﹂に立ち直させることができた。
運動の一温床になっていた京北その他兇作地帯を余揮で潤ほし、生糸の値上りと相侠って(六年には恐慌の﹁底﹂に畑
第
六年白三月・十月雨事件(クーデタ来
乙己て青年将校は幕僚佐官が首導する圏家改一泊運動なるものが政権慾にからむ不純たも
宅もそも陸軍部内に皇道祇・統制源白三軍闘が食生し抗争主始めたのは、
逐 Uを端緒としててあ担、
のであると判断し、ひたすb 兵と結合しつつ政治構想ぬきの昭和紳刷新白断行を決意、幕僚佐官らの草動陣訟を去っ
た山である。両事件目失敗により合法主義に持じた幕僚分子は赤間(鎖)軍事課長を核とし亡﹁統制派﹂に結束し
への歩み容りを示す週刊明でもあったのとあ
L)
念進的非合法
てゆき、青年将校に押し出された荒木l真崎らの皇道派持領に劉抗、一路勢力む摘大を閣るのであるが、モれは同
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時に、統制一祇が間接的に大財閥に結びつき容財閥的傾向を強め(青年将校のいろ﹁金構ファッショ化
合
主誌を清算し(﹁会武令悌的微沼化﹂υ、 二百にしイいえば﹁恒・則 抱
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るG I iこのようた統制派の容財肉化と勢力撰火は軍内部の事情にもとづくとともに、他面モれは外部よりする大
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財閥の政治工作の成果てもあコたとい んよう。
1金融資本は、必死む﹁碍向工作によって嵐む緩
軍@民結合を軸にした反財閥の到流にたいし蹴醇した蓄財関
和主はかp ヲつ間援に急進的軍部にたいし倒らきかける心を忘れなかった。すなわち、改黛内閲が葬られて後に中
間内閣士奏請、軍部と妥協しつつ立憲勢力白更生による政時事政治えの復元をはかった﹁自由主義的﹂元老・主目勢
﹁束京裁判﹂における鈴木貞一 (統制ポυ被告。木戸孝一被告白﹁口述書﹂によれば、ーー
刀ハ西国寺方公、牧野内大厄ら︺は、沓財関l 金融資本の意図に遁 AFしながら三月事件後軍部え鰯ずを伸ばしている
のであって
鈴木口述虫司 il ﹁私の内外政局糊に相怖い影響を及ぼしただHでなく、私の会生活の最終段階をして行政官、政治矛たらしむる
如く決定したのは近衛公、木戸民、原田男との交遊である。彼等はよく払に陸軍の内情を聞いた。殊に昭和六年、七・八月
知七十三巷
一六五
第三世
前後彼等の陸軍に劃する関心は著しく高まつ十6 というのはその頃山上いわゆる三月事刊の噂が流布され、首時彼等が秘書官主
政黛連合運動的破声
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政骨州連合運動の破産
第七十三谷
一六六ニ
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Lて仕えていた、内大臣牧野伯及び元老西岡寺会が陸軍将校の非合法連副に心痛きれ、情報や一集めたりとれらの人々を統御させ
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る方策を研究させていたからである。﹂(仔貼
市原﹀
市原註︺ 1lE午原判男邸ニ至リ沼衛公、井ヒ伎、鈴木中佐ド曾食シ、今回
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一見老・世間勢力の綱チてお一る
ては園家維新を企査するか如く宣俸して来た﹂﹁更に重胃閥、軍関を背景とし、且っその脊騎部に潜んで此の一遁の暗躍明動の
JrzrFTm旭川ν一般国民に到し
棋は彼の重臣関、民政黛官僚、新官僚のどときと不即不離の相互依存を以て官庁官ずrr町い?
﹁昭和八年の秋には滑藤首相、高橋蒋相を巾心として牧野内府その他財界E頭が軍部維新を伺議し新軍閥とも言ふべき永田
した﹁秘密怪文書﹄には、
て、﹁軍・民離間﹂が表面化した昭和八年暮れにモ白暗躍は耳目を集め、たとえば非合渋波の一皇道沃青年将校が護
嗣川女これを修王してゆけば何上りとしていた﹂統制汲とグルプ的結合をとげるにいたづたのが﹃朝飯倉﹄であっ
切
青年貴族政治家治よび新官僚がこのようにして﹁車道派心主張する上うた念激な凌革は極力排斥し、財閥の弊害も
領袖は﹁陸軍/中ニ一アハ最モ秋諭ラ有スル﹂刊はば公武合間派てあったわ円である
報を集め﹂詐合法運動を﹁統御さ古る方策を研吹きせ﹂たのであって、とくに交沙白多かつ光武問、鈴木の統制派
公が陸軍将校の非合法運動に心痛﹂、原同男、木戸候、bの育年貴族政治家(秘書)を遁じ﹁陸軍の内情を聞﹂さ﹁情
ここにあきb かな上う陀、本新的軍部が二派閥に介裂を見た三月事件直後を機に﹁門大臣牧野伯及び一苅老函悶号
﹂
ガソノ意見ハ大胆鈴木中佐等}異ラズ c
田銀山bJ
附町一一面官三時同一一関スル意見ヲ聴グ。同氏ハ司分ハ陸軍ノ中一一アハ最モ歌論ヲ有スルモノナリト前提シテ話サレタル
ノ事件︹印・一五事件 U ノ前後慮置、後継内閣問題一一ツキ怒訣ス。i│中略││午後六時、再ピ原同邸ニ於テ原町、近衛ト共一永
木戸ロ述香川 l l宍 昭 和 七 年 五 月 十 七 日 付 日 記
静
主働部をなして居るのが伊樺多喜男を中心とする﹃朝飯曾﹄である σ元老・重匝のメッセシジャ 1 ボ lイたる原因熊男、木戸拳
て岡部長景、黒田長和、後除文夫、唐津俊樹然り。而して永田銀山等がその幹部であか。﹂
とある
信白木正之氏は﹃朝甑曾﹄とは﹁陸軍の合法フアツシゾ況の中心人物永閏錨山などと伊碍多専男、後藤丈夫、唐津俊樹、それ
にしさ戸幸一、原田熊男、岡部長景などが中心に集ったもの﹂ E指摘し亡いる。
これらは自由主義元老・重臣勢力が金融資本の意向を過渡的機構的に代行したにすぎないが、同県に政黛政治え D
復元ハ立憲勢力の結集)をたしとげんがためには、金融資本自憶が﹁非常時l 反動小康時代﹄を利し直接乗り出し
て政黛連合エ作に従事しなければたら一ない。ーーだが反財闘の嵐はいまだ熔まず、たとえば泊四成彬をして﹁政黛
と財閥という問題主主も回民泊され亡い士しτと心健ぐづぐづしていると一一一井も附加されてル士九﹂と疑憾せしめ元
事態陀愛りはも仙かった。ここに﹁ヰ商品守政治家、悪くいえば買業界の羽織ゴロとも檎すベむ L 財界世話役・郷誠之
﹃財界世話役﹂とは、そして﹃評町合 L と位、いよかたる性格をにたちも必であろうか。
助男の率いた﹁番町舎﹂グルプが政黛連合の肝煎殺として登場し、奮財閥
1 金融資本の政治工作を代行するのゼ
あるが、
そもそも﹁財界世話役﹂とは、金融資本・蓄財関の意志を代行しこれに奉仕し、財界全般の諸事業・紛手を調停
し世話する役目てある。したがって拠調停第一世││日木産業資本、主義のつ財界世話役﹂たるーーもさうであるが、
亘大財閥以外の中小財関・資本を出身とし己れを蒸盤とし、財界杢曜の意志を公明に代自問するごとく装いつつ、出比
極的に巨大財関の寡頭支配に奉仕するところに﹁世話役﹂の﹁世話役﹂たるゆえんがある。郷男 川
j また中小財関心
第七十三巻
二八七
説
一たる川崎を地盤とし、そり特有な性格によって﹁充分=一井・二一菱の既成の大財閥とも措抗し得た﹂のであるが、
政紫連合運動の破産
第
政革連合運動り破産
事七十三巻
一六八
量
定
の何たるか、
をもっとも明阪に Lめすもの一は、昭和一五年と八年の﹁東電事件﹂
﹁京電﹂かb駆遂して経緯械を
1
仰二一家﹂
ハ一一一計・コ一変・佐官。に誠らせ、
出
1
名優仇同成彬﹂の
さらに昭和ヘ年に
久しい以前から東京一軍燈日経降躍を世目指してきた印州財閥士、モれが金融恐慌さらに解禁恐慌の打撃な
L
事業を救済する等、湖上門資本主義円寄生・額殴的性格を集中的にあらわしていた。
J
郷男の﹁世話佼
的
大呑頭﹂ L稽せられた白てある“
一時事評論││蛍年心ーーは﹁枠町合﹂のメンバーにたいし、
モの昔l l二流財関たる古河を温 H目されて
b見れば、 コ 寸 便
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白の大財閥か
一
変 hT
L
また呑町合 D客員とし℃槍
-財界白本流か九日何人ばモの存在友どは問題に社らなかったもので
玉吃上つ亡いる中島商工大臣だが、今日こそ中島合理伯大巨とか統制大臣!とか加われて大いに問題とぎれているが、
利だから使っておく﹄という程度のもので、まあ高級月給取と別段健うていない。白句
商工曾議所合頭てある。 モむよに男爵て貴族院議員てもある。だが一-井
﹁郷親分は経済連盟・全産運の合長てあり、日本
掌中白人物たることを暴露した。かくのごとく金融安本、とくに-一一井財閥に最もあっく奉仕したがゆえ民﹁一二井白
幻
は自らが割り込んだ東電枇長象台長の地伎を一一井心エ l ゼ Y ト小林一三に謀り引誌して完全に
受けて表顎に陥るや、
ぜあった
ハ京電の諮理)
を制周ιて金融資本1官財閥事業が中小財閥事業を併存・肱牧するのを調停 L促誕し、政府主結び闘庫金をもって大財閣の閥係
通話を中心主する迎盆合祉の大合同、東洋モスリンの整理・京京電陸の整現、製錨大合同隼々多︿宇一致えるが、大戦後の諸恐慌
情彼の果した﹁世話業﹂は、﹁郵船御一本騒動﹂の銀撫、東洋汽舶の郵船えの﹁身賢明談、第十五銀行・川崎桂船の整理、内図
議融恐怖・解禁恐慌により光成され亡いった1lD完成Kも づ と も 露 骨 に 翠 仕 す る 黙 に こ そ あ っ 匂
l!大戦後恐慌・
彼の果した﹁枇詩業﹂の木質は、 金融資本の本格的脚化。成立(大王七年︺以降白金融寡知支阻
第
伊藤忠兵街君は関西てはエ
τは、商工倉議所ては中堅ど己右、
その何れの脅員を見ても大財関
山崎金次郎と宕倉具允君は運迭罵さん
ある-士だそり他の番町舎買にした庭て、後藤園吾、河合良成君は乙れも二流財閥たる川崎の車なる使用人て、先
迷って浪人したばかり抗野護君は比伸長さん
正力桧太郎君は新聞社の一位長さん一
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田
だから存町合員の財界にゐける地位は、大郷男を除い
ヲかbうが、東京てはただω綿糸屋さん
直系の人物てはない。
工業グラフへ顔を出せばまづ脱餐舎の末席に列なるグフスてある。﹂と評定しているが、との己とは営む﹁番町合﹄
のメ YパI永野護氏白、一一一井、三菱を﹁旗本﹂とすれば﹁呑町合﹄はさしづめ﹁町奴﹂でありその町酬に反逆性があ
凱、、、、、、、、、
る、との指摘にもうかがはれる。二、コ一流濁占資本家主集めた﹁番町舎﹄メンバーが、﹁一二井の番頭さん﹂郷に率
いられつつ、一流摘占資本 HH
蓄財関の政蕪蓮合工作を代行せんとす吾、こ己に﹁金融資木白木格的障化成立﹂という
一 Jトと化しさった﹁番町品目﹄の金本質がある
事 情 を 背 景 に 信 財 閥 と 封 立 度 を 深 め づ つ も そ れ に 従 属 し 忠 貨 な エ lゼ
かくて﹁朝袋舎﹄席上中島商相を交えて出附議された政窯史生l 連合の悲本方略は、十二月二十五日の附県幹部懇
談舎となって具髄佑をみたのであるが、己れは﹁詳町曾﹄のメンバー正力松太郎の脚色によるものであった。﹃ぽ
ua
・て、正カ氏が中島男を説いて、己の政民両目黒の合合
最近、郷男を中心とする所謂神町舎の蓮中及び己れと始終共に働いている一波が、或は﹁中島商相は持
同日記﹄は﹁結局この案は正力松太郎氏の提案らしかった︾たほ、郷男の一祇がとれに策臆したことは事貨とみら
れる
来日総理大臣てある﹄という風に、中島男の宣停をやる。
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l!なほ﹃政
政黛蓮合運動 L 心 開 漣 に つ い て 述 べ て い か
を平らせた白は、また他の意味あろうけれども、とにかく、かういう勤さに刀を添える己とに容なbざる番町舎の
行動も、相営に注意する必要があると思向。﹂と﹁番町舎﹂と
第七 i ニ巻
九
事三郎前
暗中島久万吉氏が商工大臣に就任した己自主﹃一詰曹﹄メンバー正力氏の斡?工作に主るものであっャ
政窯蓮合運動の破葎
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政禁謹合運動の破産
揮七十三雀
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﹃番町曾﹄が政築連合に積極的に動いたこ
第
止に悶れい﹁尉関唱と政黛の骨作が立他的に膨を地上へ
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﹁妖星
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奮
L 平沼の影細田下にある・いわゆる﹁官僚ファッショ﹂勢力、さらに政議連合が﹁反軍同
u
一投石さえあれぽ高波を時ぶことはあきらかぜ
一投石、それは九年一月に入って武藤山治の主宰する﹁時事新報﹂にあらわれた﹁枠町舎を暴く﹂たる記事
てあコた。こ己に未曾有の大疑獄﹃帝人事件﹂えの伏線はまったく敷かれるのであるが、事件は営商士づ既成政昔前
ある
力﹂の反財関の動流は、いまや﹁番町舎﹂に旧って流れはじめた
盟 ﹂ で あ れ ば ﹁ 降 魔 の 剣 が 降 さ れ る で あ ろ う ﹂ と 宣 し た 皇 道 汲 荒 木 陸 相 を 中 心 と す る い わ ゆ る ﹁ 軍 部 フ ァ y ショ勢
して登場したとき、
財 閥1 1己とに三井ーーが軍・民の反撲を恐れて政出尋問連合えの直接白政治資金投資を忌み幸町合﹄がモの代役と
G
・重臣勢力白関手としての﹁朝飯
5 ・るようにでもなればそれこそ右副都勢力主正面禁苦ごと静止ロしてい h
界夜話﹄の筆者も酔撲連合l財閥救済運動の﹁黒幕は抑誠之助﹂であると正を措摘、
七
合﹄て合議されたプラシが蓄財関のヱ 1ゼ y f ﹃番町舎﹂白脚色と政治資金Uによって日白目士見たのである
す で に 政 議 連 合 運 動 が 立 値 化 す る ま で の 経 緯 は あ きb かとなった、
(十二月十ニ日付﹀。
O
r
n
頁ロ
波法鮪誠一自滅力職い-一ヱ六頁以下
A
丸山長男﹁日本ファシズム的思想と行動﹂
帝藤劉﹁一了二六-六一頁-
nt県詳主化体
池田成和語、思想と科早・座談官一一十四年一月輩、王四
内部の謹合波と親軍択の内部抗争によヲ亡憤火ーするのゼあり、ゆえにまづ連合運動をめぐる政葉内部抗争の社合 HH
経済基盤について見る乙ととする
下
NB
番町骨幹事、後藤岡蒼﹃番町宮内-一頁小分一貫栄之日本、
昭和九々一月今日日昔、八一一貝 c
巾島久万古﹁政界・財界五十丘一二仁一耳、
京洋銅山静﹁白本抑制例年鞍﹂第十王料、工七七一見
(
5
1
(
8
1i
7
)(
h
)
東京政治経済研究所﹁世界と日本﹂(年刊)三六七頁
(
2
1(
1
)
(
4
) (3)
高官大半﹁軍閥太平記﹂一三四頁以下。
座2)
前掲﹁世界と日本﹂回二八l 九頁。
木下半治﹁日本アァシズム虫﹂中巻、二五一頁以下台
。
栗原百議﹁日本農業前﹂ニO頁
前掲﹁世界正日本﹂三六六頁。
今単勝雄コ一一代思想時﹂一回二頁。
。
岩淵辰雄﹁敗るる日まで﹂ご O頁
豆大頁。
座談官﹁一一・ニ六事件の謎を解︿﹂政建三六年二月曲目一
岩淵前掲害、一四頁以下。
朝日新聞世延記者圃﹁東京裁判﹂静玉幹、一七六頁。
極京軍事裁判酢究﹁木戸日記﹂二同頁。
田中隆吉﹁日木軍閣時間見﹂六二貰 c
池田成彬前掲誌、同頁。
河合哲雄﹁平生飢一一一郎揮﹂四三丸頁。
鈴木茂三郎﹁財非人物語本﹂三O 八頁。
﹁尉界うちおもて﹂改造・九年新年裁、一六O頁 c
東枠制料相世新報・六年八月一日封、一-一八四1EEC
野田豊﹁地下に潜ヲた番町曾﹂政措・九年三月器、一ニ
信夫清三郎﹁大E世治 E l第四巻﹂一 O 三五頁。
頁。
原田熊男﹁酉困寺公と政局﹂第一ニ巷ニO 六、七頁。
永野護﹁番町曾は町奴である﹂詩・=+七年八月置。
中島孔万吉﹁政界・財界五十年﹂一九五頁。
按南隠士﹁政界夜帯﹂三O頁
。
ット﹂悼八輯・﹃番町舎を暴く帝園人絹枯の巷﹄五 O
野中盛隆﹁帝人疑獄﹂一 O 四頁。さ b に﹁時事パンフレ
頁
。
荒木陸相談、調貰八年十二月二十三日韓。
l フ む も と に 恐 慌 切 抜 策 と し て とb れ た 財 政 イ ン フ レ ! シ ョ y政 策 と
維新岡市曹同人害﹁軍関宜ほの大描不謹﹂大眼目第四
髭晴刊。
白木正之[日本政泊真﹂一二九頁︻)
e軍 部 、 官 僚 の イ ュ シ ァ チ
倒倒的倒防凶締
倒制例制倒
~~
成講連合運動の破産
揮七十三巻
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第
銃
五
政 府 の 重 要 産 業 政 策 と は 、 一 再 向 ﹂ 中 心 奮 大 財 閥 の 護 肢 と 結 び つ か ず 、 新 興 コ γツ ェ ル ン 久 原 房 之 助 ・ 鮎 川 義 介
-昭和六年以降白
四
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政詩型合連動の晴読
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したがって昭和十三年に﹁轄向﹂を完了した
事七十三豊
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虎
た。いま古田尉悶の﹁持向﹂が完
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部門に童心を置いている。軍需生産自資本開侍陀おいて、書則閥は間接・基礎的であるに封 L、新興財閥は直接・結合的である。
を提供する軍需資材1基礎的軍需部門の上にあるに反し、新興コンツェルンは諸に置接的共器製造部門1lk︿に也畢兵器工業
井・三菱・住友(大倉の恥例外)の普財閥は、その主張活動・資本投下部門が緬じて・直控的兵器製法部門よりむしろ基礎安材
左表か b軍事的性格についての新・置阿南財閥の知型を看取 L持る。すなはち一一一つの基本部門に謝する技資闘係を見ると、三
了した昭和十二年上半期に例を唱とり、軍事工業における財閥投資の内容から以上の宜事的性格円差具を検出すると。ーー
と直接持骨 Lて肥大 Lた新血コンツヰルシは﹁軍事的・封睦的・帝問主義﹂の性格が濃厚であ
濁自的であり批判的であり得た官財閥1金融資本は﹁近代的帝国主義﹂の性格担く、これに反し﹁軍事的・封建的・帝閣主義﹂
しく﹁軍事的﹂住持を蹴具している。ーーしかも、満洲事国国以降の軍部の﹁軍事的・封建的・帝闘主義﹂侵出にたいしいちおう
岱日本資本主義の軍事山性持│i従来匝こ担割苫れきたったk
ζ ろの1 lは、蓄財閥1 金融資本にも新興コンツザ一ルにもひと
住
金 供 給 を 見 幻1 l、 嘗 面 の 政 黛 連 合 運 動 に も ・ 政 禁 解 消
l 一園一黛的立場かb参加するにいたった白てあ&。
主地揮として肥大した新興資本は、直接親軍的な動きをしめし││久原房之助や石原庚一郎の革新青年将校えの資
た政誌連合さえもくろんだに反し、軍部。官僚の直接的庇護のもとに軍事インフレをブコとし、化率部門平植民地
る 治 大 友 軍 事 予 算 に は 敢 然 反 封 を 稀 か 、 一 一 眼 図 家 権 力 か ら 畑 倒 立 し た 資 本 主 義 的 合 現 性 を ま も ろ う と しJ 憲 政 擁 護 的
醤財閥は飛躍的な軍事予算の増大によって均壊しえながらも、高橋財政に象徴されるように軍部の要求す
金 融 資 本 HH
利用しそり濁占支配の枠外に進出した新興コンツムルンと白樹立は、ことごとに政治面に反射せざるを得なかった。
l 金融資本と・蓄財閥の﹁将向﹂士
占資本、一主義的ブロックをかたちづくるまざは、侃賢し相割的に後返した蓄財閥
蕎 財 閥 が 踊 跨 を 股 し て 白 木 資 本 主 義 白 準 戦 時 経 済 かb 戦 時 経 済 え の 推 特 に 順 隠 し 、 積 極 的 に 軍 部 と 抱 合 し
晶、石原庚一郎@中島知久平民代表されるーーと結びついて行われた
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耐世帯連合運動自破産
第七十三巻
第三皆
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にとどめざるを得なかった白である
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さえ切ったのてある切かかる﹁一般的政治情勢を観測
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L し、駐日米園大使ジョセフ@C・グル
lは﹁滞日十年﹂ゼ
議舎と平曙無事なりとり予感をもって、事を忽がせにする己とは極めて危険てあ一むことを申上げてゐ勺﹂とたんか
舎の島岡俊維のごときは﹁念のため陀申して置くが、議舎は決して官僚政府白人々がなめて通れるものぞは左い。
おいては、政民雨黛代表はこぞってさきの陸海軍共同心﹁軍民離間馨朗﹂を註しきたって軍部批判に終始し、政支
前にした九年一月三十一日む政民一向葉大舎では、呼醸して議舎政治の擁護とファッショ一反射の気勢をあげ、議曾に
パック。アップする親軍的一園一黛祇との一││は、翌年の第六十五議舎に及んで絶項に達した。議曾の休舎明けを
こり政黛蓮合運動をめぐる封立ll金融資本・﹁呑町舎﹂のパ
クアップする憲政擁護汲と新興コ y yェルン白
は一一十二目の政友舎議員組合に 5hτ 竪念質問を島こ左い、結局、政友曾幹部はご十五百の舎合をつ仰高話拝聴﹂
設仲魔の副主降されるであろう﹂。との時局談話にしめされる軍部ω反撲と呼際して、久隠滅の深津・岡本雨代議士
いのだろう。反軍運用と僕は見ていたいが、賢質がモれで、且ワ闘家のために取bざる行震をなす己と)心らば、常
連合問題については・ ーああいう運動も成功するかどうかは勿論不明だが、政識としてはやって見なければならた
ψ
敵謝した立場から白蓮合運動家が具に一堂に舎して大同園結し得る筈は なかった﹂皇道誠心総動荒木陸相の﹁政黛
があり、巴れと拾抗した立場かb政一亥曾久原紙と民政黛の宮回生衣郎・俵孫一ー乙心接飼があづたのてあるが、己臼
以前に、政友舎の鳩山文相の周旋により政友曾連合沃と民政義の町同忠治@頼母木佐官との聞に連合のため臼接削酬
すなわち、奮財閥のバック・アップと巾島商相・﹁番町合﹄の劃策による政黛漣合運動心本格化する(二十五日)
昭和十二年にいたるまでの闇財閥均すでに連へたような・軍部との抱告の差異に規定づけられているのであるむ
七
回
τ弐 の ご と く 湾 へ た り て あ る み ー ー
政相窯蓮令運動 D将 来 世 卜 し
﹁各政棋は議舎で政府を詰問しているが、これは長い閣彼らがあえてなし得なかったことであるわ
れは政世一仰の権力と自信
v
L して瓦大な陸海軍南軍の支出に愛想をつかしていると信じられることを一声すごしかし政黛はやり
が増加していること、悶全世 乙
遁ぎの危険を胃しているので、すでに憤慨の反響脅あげ始めた陸海軍小壮士官によるテロ清到の再開を招来しつつある。
陸軍も主た海軍も、彼らが大きな糧費を獲得し績けるためには、戦
荒木が陸軍大百を辞職した﹁とは、自由主義者と政款の勝利を意味するものと-般に感じられており、今までよりは公然とサ
ーベルを鴨らすことが寸くなくなるだろうと思われる。
宇心理を山由詔置しなくてはならぬ。
否、すでに吹きお己りつつあった。嵐白前鍋れは、
日本資本、主義が﹁一般的危
を一ポムド、ものであろ HTcLと
の
V稽
もし-般的政治樹勢に木曽め改善がありとすれば、それは多分嵐の前日 平
ーーはたして、嵐は}近かった、
機 ﹂ に 陥 っ て かb後 も 依 然 迄 し い 産 業 安 本 家 的 政 治 賢 践 を 替 み き た っ た 武 藤 山 治 が 、 一 耐 俸 の 造 業 ﹁ 時 革 新 報 ﹂ に 操
って一月十八目以降連日掲載した特別記事﹁﹃番町舎﹂を暴く﹂であった。﹁伏魔践の由来﹂﹁商工舎議所乗取り﹂
﹁
ピ l ル 合 同 劇L ﹁﹃帝人﹂乗取り﹂﹁﹃紳鯛﹄乗取り﹂のテ l マ の も と に 郷 誠 之 助 男 を 園 携 す る ﹃ 番 町 舎 ﹂ の メ ン バ
設
ー 河 合 良 成 ・ 永 野 護-E力 松 太 郎 氏 等 、 さ ら に そ の シ yパ サ イ ザ l中 島 商 相 、 鳩 山 文 相 等 が 仮 借 な い 筆 詠 の 槍 玉 に
あげられたのである。
rまで護畏してゆ︿世令経消的背景が取扱
潤帝人事件とその融合経済的意費に閲しては別稿﹁帝人事件の世脅経済的背景﹂及び闘西大皐﹃耀評論集﹄第三春時四時党問政
﹁武藤山滑り時事新報昨代﹂を参照されたい。ここで﹁番町官問題﹂が﹁帝人事件﹂
第七十三巻
一七五
第三日現
回目、政議連合をめ﹁る金融資本家的政築勢力と軍部を中心とした施謝主義的反動勢力との尖鋭な調立があうたからなのである}
は件ている。ll要するに政治資金調達のための﹁帝人株肩替り﹂という利雄活動が、左りたて一﹂念﹂何度陪政泊佑せしめちれた
政議謹合運動の破産
ブ
し
肱撲連合運動の破産
第七十一ニ巻
一七六
践
コ
く
41J
る猛烈な攻撃があ E
c菊池男は、その軍舎の一味合ある﹃日本新聞﹄その他いろんな方面の者慨薗か bしきりに煽てられ、
琵=﹃原田日記﹄は中島間相陣臓の模様を博えていう。 11﹁六日、七日と引鱗いで、貴政院や世議院で中島商工夫臣陀針ず
(
、
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ノ
をもくろむ巣窟となり、昭和十年の岡田内閣倒閣陰謀たる﹁宍皇機開設﹂問題の出島も、園本社と平沼とにあったのである。
﹁園主﹂は大正士一一年、霊殿一郎を中心として、大田堂、荒木貞夫、量点、良時甚三郎、語武夫、業雪一
郎、後藤丈夫轄の結成した超国家主義阻極であって、池田成持、結城壁太郎も参加してい白向。満洲事鑓以後は平招翠問一円閥樹立
f
、
、
のである。かくて同日二月八日、中島商相は引責辞職するにいたった“
性二
の閥謹を迫究した結来、俄仲間風は議舎の内外にまきおこり、政策の直也と権威心回復はまったく査餅に闘しさワた
月八目、政友舎久原祇の阿木一巳がこの間題を取りあげ、各方面の人名をしきりにあげて中島商相と﹃番町合﹄と
相の﹁隼氏前﹂を激しく迫求し、帝人株問題Kおし司直の稜動を促す官稼胤したのである。業議院に治いても、-一
出巾人株肩替り問題の疑惑を質したのを皮切りに、一一月七日の貴族院木曾議ては、﹁園本坑﹂白菊池武夫男が中島商
注
一
ち込まれ、にわかに政治化するにいだった ω-一月-一日貴族院本合議て同和舎・闘直診が綱紀問題を提げて苓町舎の
ささのグルの悪しき致測もこの﹁胤同日記﹄の同開催も、呆然、遁中した。﹁番町合問題﹂は第六十五議合に持
迷惑をされ干しないかと思ム﹄と話したところが、総閣も極めて同感であったじと。
これを披げれば横げるほと、何かに利岡しようといふ気持の奴も出てくるだろうし、とれがために政府がいろんた
して来たので、総理に﹁この問題は、よほど慎重にされないといけない。なかなか複雑した問題のように思ひます-
たのである。 ll ﹁かねて﹃時事新報﹄に掲載されている例の呑町曾の問題について、比聞がかなり喧しく言ひ川
時革新報白﹁者町舎を暴く﹂があたえた世論と政治え白影響を、﹃原同日記﹂は直ちに次のごとく述べかフ予測し
第
またそり演説原案は国本件が作って具えたのであうたが、加索以外のことを感情に立って壇上で言ったために
、議員連中の
それか b他の右傾岡田大同闇結は、寧ろ今回のは大勢よ最も大きなものであリ、
軍捕児ずる唱ととゐどなうた。なほ一保公厨師、菊地男街、及び三室戸子保撃が、或は世主骨の一都中或は国本祉の連中に煽てbれ、
決議案を出さうーとする運動がおとヲてきた。
一方また軍部の万にもいろんた閉さがめるように室博され、如貨に右傾凶の示威運動はさかんになって車るような形習があるの
2
で、還に入日目 E午頃、中島商工大臣はひそかに総理に﹃どうもこれ以上御迷惑をかけてもいけないから、自分は酔めたい﹄主
3
いう意思表示をした ﹂
正ロ
しかも綱紀問題は中島の鮮峨て解消せず、﹁新藤内閣と政友舎をったぐ橋てあり、鈴木綿裁の文住てあ目、且つ
また総裁派と連携祇の問主縫うて、鈴木。休次の聞を綱渡 h
りする複雑た地位にあった﹂鳩山文相も、一ツづいて綱紀
問題の組上にのぼった。三月十五日の衆議院本曾議に沿いて、一身上白熊明と精して査壇した岡本一巴代議士は、
いわゆる﹁王月開演説﹂を行い、樺太工業の訳職事件にからまる鳩山女相の綱紀問題にワいて暴露を治とない、つ
いに三片ご一日、鳩山もまた﹁段惑に制到し、純買なる教育界に及ぼす影響甚だ大たるを恐れる心て、明境止水の心境
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それb の背後に一
を も っ て 、 謹 ん で 骸 骨 を 乞 う ︺ に い た っ た の で あ る 。 二 月 イ 七 日 の ﹃ 原 四 日 記 ﹄ は ﹁ 己 の 運 動 は 政 友 曾 の 内 証ω照
はれて、専b 久原が鈴木振を談滅する、即ち鳩山の勢力を政友舎から駆一巡する逗動てあり、
G
第七十三各
これは勿論、鳩山女部大臣をし
τ いる。
第三競
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い
τ僻職の
部の軍人があるとも一日ひ、憲兵の使肢によるものとも言はれている。﹂と軍部と親軍摂政黛人の暗躍をつたえ、﹁か
τ いるようた風である
う い う と と が あ っ て 、 政 窯 は み づ かb墓穴を掘っ
酔瀧建令運動の破産
七
さbに三月コ一日の白原田日記﹄は﹁岡本一巳民の方には賀川某 k いうヰ沼の子分が連絡をと?て hp、平沼二世と阿本
己むたきに至らしめ、同時に積いて内閤を倒さうとする除試に決まっている ι
﹂と趨ペ
(語)
第七卜三春
第
涜
るにいたった白てあ目品。
九万育氏は、
相 官中
﹁島明
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ο
F といふこと
二月中に大日木図枠
内閣首脳者は事態を諮問献し・内閣を存続する
﹃番町舎﹄及び台湾銀行白関係者の
﹂ と あ る0 4沼 系 司 法 官 僚 の 斎 藤 圃 岡 田 雨 中 間 内 閣 倒 悶 の た め り 暗 躍 は 、 あ ま り に も 明 ら か で あ る つ
一斉検皐となり、五月に入るや大蔵省首脳部に波及するにいたった
議舎中に不気味友片隣を見せた帝人問題は、議舎が絡了して四月に入るや、
か協議せりとの暗込あり
項 ﹂ 陀 よ れ ば 。 │ │ ﹁ 津 雲 代 議 士 及 川 宇 耽 検 事 及 び 将 校 教 名 は 虎 の 門 曙 に 於 て 、 主 日 夜 樹 容 に 官 合 L、五O両 元 事 件 に 闘 L 何 事
津雲閣利代議士ハ久原汲)に少壮図本位系検事が一枚加わった政措陰謀であったといわれ、憲兵障が常時蒐集した情報﹁探聞事
びて掠たかと今夏の如︿感慨を川町ろ L た諦だ﹂ k選 べ て い る の ー ー さ ら に 同 国 内 閣 を 屠b んとした床女五十両一万事件は、甲車部と
b かに検察障にバる新規の政治的陰謀で、目的は時藤内閣打倒にあり、一説の接手が此に比盛安で伸
久高官氏等白枇賄罪比明らかなp、との想定のもとに﹁帝人事件﹂の脚色は成り、事態はさb に念角度に政治化す
口
人株肩替りに闘し策動した﹃番町舎﹄員河合良成・永野護氏等の背任・鱈賄罪、とれに連累・政路を利用した中島
ツショ﹄勢か﹂に、すたはち決期政権を狙う平沼の影響下にあった関本位系の黒凹・枇杷同検事ω手によって、帝
剛
山
リ
は黒田検事に命じ月余にわたって蒸礎調査をおこ志わしめた“かくてその結果、﹁市新勢力と結托した﹁検事ファ
民衆黛執行委員長かb のものを含めて三遁の帝人格肩替りに闘する告訴献が提出され、東京地方裁判局宮城検事玉
から投しさられて、議合政治の統制外に盤隠する司法権力の手に念速に移されはじめてい円た
ーーがすでに、番町舎・帝人問題は議舎内ての政争営事者1 1
憲政擁護派政篤人と貌軍祇政黛人とのーーの手中
c憂えていたととをつたえている。
は 、 結 局 陸 軍 政 治 の 賃 現 自 前 提 に な り は せ ん か c きういろととは非常に悶る﹂ 1
h
rに も 閥 保 町 あ る や う に 冒 う 者 も あ る ﹂ と 治 之 、 さ ら に 古 島 一 雄 氏 が し き り に 平 沼 内 閣 の 出 現 在 心 配 し ﹁ 平 沼 を 出
政議連合運動。破産
4二
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旨主活 へ
たが、
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大蔵省高官(銀/宮与の壊滅的な牧容によって、内閣の政治責任色札障する聾は軍・民に喧しくな
り、七月コ一日つ ρに 祷 藤 首 相 は 紬 辞 職 を 決 行 す る に い た っ た り ? ? の
黒田大蔵衣官(事什被告l 市原)の岩村検事E に宛てた
ι出たものではなかったのであるかι、帯藤内閣の剖潰は畳︿悪質の陰謀
相官﹃柑背中盤且惇﹄は、一清藤子慣に最後の決意をなさ L めたのは、
0
﹂と遁べている。
嘆願書であったが、これがまた一向に黒田氏の員意か
Lf﹁はな山
によった正しか評
綱辞職白翌々日には、中島前商相が召喚・牧容され、翌八月下旬にはゴ一土前蔵相が喚問され・九月十三日比及ん
て 備 誼 罪 ゼ 牧 容 さ れ た 。 軍 部 と ブ ァ ? ? ョ 司 法 官 僚 と 親 軍 訳 政 黛 人 目 ト ー ォ 勢 力 は 、 政 黛 連 合 運 動 D周 旋 人 ・ 中 島
一七九
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﹁ 酉 図 寺 公 と 政 局 第 三 巻 ﹂ ニ 四 ニ1 一
一
一
頁
。
白木E之﹁日本政問且昭和編﹂一七九頁。
﹁西箇寺公正政局第三巻﹂ニ三王頁
矢部貞拍網﹁近衛文麿│上巻﹂=九七頁。
AA
寸旦勝雄﹁三代思想蜂﹂一六七頁。
﹁酉閣寺公と政局i第三巻﹂一一一八頁。
国人絹の巻﹂﹁同神鋼乗取りの巻﹂参照。
﹁時事パシプレット﹂第八・九韓、﹁番町曹を暴︿│帝
六七百司
ジョセフ・c ・グル 7 ﹁滞日十年人
111飽くたき政治陰副部の態酬として。
日本﹂=一六八頁 o
1ζ
(石川語 U 上容一 E
商 相 、 鳩 山 文 相 を 二 人 た がb閣 外 に 放 逐 す る は 勿 論 、 連 合 運 動 白 援 助 者 ・ ﹃ 番 町 合 ﹄ 閥 係 者 を 法 網 に 打 翠 し 、 時 胴 藤
内闘を葬りさったのゼある“
十一月説、一回主頁 1
岡崎一一一郎﹁日本ファシズム k金融委本﹂前議・二十三年
A 原房之助の青年将校え的資金供且に闘 L ては、﹁西閣
寺公主政局1 1第五巻﹂丘O頁、同じく石原賢一郎の資
﹁調査月報﹂︹持株官位整理委員骨)第二巻第四接、回
金供奥 K闘しては祷藤蹴﹁ニ・三大﹂七七・一四三頁。
大頁。
問東京政措経済研究所﹁世界
白木正之﹁日木政築史│昭和縞﹂一七回頁。
事七十三容
五
虎
川向荒木陸相時局談・讃買・八年十二 H 二十三日。
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政黛連骨運動の破産
第
け)
(
8
)
(凶倒 (
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司同(I時(叫
(
1
)
(
2
)
(
3
)
政撲連合運動の破産
同右、ニ四四頁。
一
頁
。
第七十三巻
戸
、
官
事
暁
中島久万吉﹁世昇財界五十年﹂三一二頁。
O
四
年四月皆、大一一一 1四頁。
﹁持藤質惇 11
時三巻﹂五九三頁。
岩淵辰雄﹁十一月﹃士官革校﹄事件﹂・中央公論二十一
日前倒
側
﹁近宿丈腎上各﹂二七O頁 c
図民合館﹁公民静庫番町官事件特軒続﹂ 一五六一六
五
a
d
すでに燭れたごとく、三井の絹裁的存在・池
1
﹁軍部自主計
結城続相とそ心要請に工づて一同銀綿裁に就いた一財閥心碍向﹂の士十一
J
導入物池田成彬とのコンピによヲτ、三・三六事件直後の・急進かつ革新的色彩の騒い馬場財政
との抱合を内容としつつ注意深く笠現された
月に鷲足した﹁軍・財協力政策一の櫓い手、結城・池聞のコンピ財政にwたって、軍需費改算における資本と軍部
との結合を一歩前進せしめたのである。かかる絶封主義勢カと金融資本1蓄財閥との直接的結合は、昭和十二年一一
てあり、昭和十年に設置を見た﹁内閣審議舎しには、三井の池田成彬・一二菱の各務謙吉が参加して財閥と図家権力
liとくに軍部l lと﹁新官僚 L を媒介にして接慨し始めたの
内閣審議曾・内閣調否局)を遇じて直接絶劃主義勢力│
金融資米自 H蓄財閥はインナ 1・キャビ、ネットないし内閣諮問・調査機関ハ爾藤内閣の五相曾議・内政曾議、岡田内閣の
化しさって Hた
遠さかり、インフレ長黙に立ち直ったこ流産業資本と﹁準略戦時経済﹂に肥大した新興軍需産業費木の微力志集圏と
旧成彬は、昭和十一年に既成政黛えの政治献金を最後的に打ち明り、絶縁していたのである“既成政翼は政権から
っていた政黛の連合が成功し得たい己とは、事前にあ去しらかだった
政議連令運動は、岡田内閣時にいたっても再燃した︼ーーしかし、もはや吉った︿金融資本l蓄財閥の支持を失
(同住6
)Q
司
官﹂といわれたーーは着々修正され、﹁準戦時経済障制﹂のスローガンは、
ωない
差し障り
b れ途行された白である。
L に置きかえ
詑
﹁革新﹂の合言葉はいづしか﹁軍財抱合
﹁生産力撰充﹂に、
骨精一割豊太郎入閣の報に到して数表した悲国間一蹴ハ安田館行頭取)の談話 hl﹁士務大 Eとして財界の事情に精誼した結城壁ー究郎
氏が入閣されたことは喜ばしいことで、財界が結誠氏を推 Lたーというわけでもないけれども、必ずや同氏は一般財界を代表した
積りで、財界の躍をよ︿取p入れた財政経博政策を建てられるこ唱とと思う。なお財界とLて特に結誠氏に期待したいのは、従燕
疏隔の傾向のあワた軍部と財昇の聞に立づ亡、雨者の意見をよく疏通するように斡旋することで、乙れによづて軍部、財昇相互
の認識が深められて諜牌の生ずる偉地をな︿して貰いたいものだと思う。﹂に見られるような﹁軍・財抱骨﹂えの期待は、結蚊
1 池間財政 K Zワて質現を見たもの k u,え上う。
一方軍部は、すでに寺内﹁粛軍﹂政策によって、民間右翼と軍部との漣闘士断も、暴渡的・反財閥的た青年将校
む ﹁ 図 録 改 造 ﹁ 運 動 を 抑 制 . 二 克 化L、 軍 の 中 植 を 嘗 損 し た ﹁ 統 制 沃 ﹂ は 生 産 力 披 充 に 眼 を 向 け て ﹁ 庚 装 闘 防 ﹂ の
観鮪から、積極的に金融資本とり抱合を周りつつあった。林内閣の成立に際し裂した、次のごとき反安本、子義的傾
向一掃を旨とした陸軍の容財閥的繋明はこのことをものがたる。ーー
r
﹁巷間軍があたかも腔叩阿佐町四一 U U品川胤rhQ酔 を要望し、延いては財界の混晶を京たすような事態に士到ちしむるものである、
ιって、これが智頭に首っても書激なる鑓草
というが如き言語がある様であるが、軍の希望するところは時世に受口したヰ新で
r次第であゐ﹂。
の却って不利なる影響を粛し、殺果のないくらいの事は十分承知してい
h
vた る の で あ る
G
1
構力との結合関係から脆落した
か く て ﹁ 特 向 ﹂ を 完 了 し た 蓄 財 閥U 金融資木は、観念的反財閥的色彩を清算した軍部と抱合し、 従 来 心 開 障 を 脆
して、 敵 手 経 済 の 要 請 す る 軍 需 産 業 績 充 白 貨 質 的 措 営 者 と な る に
事七十三巻
第
量
定
五
と 己 ろ の 、 軍 部 側 ピ は 皇 道 源 ・ 財 閥 側 て は 新 興 コ y y A ル yは 、 以 降 、 統 制 決 軍 部 と 醤 財 関 金 融 資 本 の 政 治 経 済
政議連合運動の破産
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政議連合運動の破商
的へグモニーにまった︿従属する己ととなる。
第七十三巻
第
鵠
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したのであり、
L は三百六十五回という未曾有の公判凶教を重ね紛糾をきわめた末、厳かに判決が下さ
は明瞭である n いまや﹁軍・財﹂は﹁抱合﹂
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﹃番町官﹄関係者たる被告側も軍部をパックと L 1検察ファッショ﹂と攻撃され℃きた検事側もまた﹁抱合﹂し
b も勝って利益にならぬ﹂(昭和十二年八月二十日付大阪朝日 U によってこのこ
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松鉢護士カ最終列決の下るまえにもたちした談話││﹁ Fhtfトル骨知ヤ山引わい m酔争九日 hfhrhrん
が、もはや﹁軍・財抱合﹂をなし時えた唱和十二年に何ら貨質的意義をもちえな︿なヲたのは賞品である。帝人事件の被告側平
活昭和九年においては、軍部に相釘的な針立1 矛盾をみせた替用閥にたいする正撃'として政治的意義をもちえた﹁帝人事件﹂
昭 和 九 年 初 頭 と 十 二 年 十 月 にb げ る 金 融 資 本 ( お よ び そ の エ 1ゼント﹃局町曾﹄ U と 軍 部 白 的 立 と 抱 合 と を し め す べ
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く、﹁帝人事件﹂の稜端と終束とは余りにも政治的てありすぎたのであぶ也
れたのである。││白く、会被告は無界であり、本事件はまったくの空中槙関てある、と“
月五日、問題の﹁帝人事件
癒着が完成士見た昭和十三年十
己 の 濁 占 資 本 主 義 白 ﹃ 祈 ら し い 保 件 の も と で の ・ 軍 部 と 金 融 資 本 の 新b し い 結 合 HH
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︹本論丈は丈部省軒革助成金に負うものであるJ
﹁婿藤質惇l 第三容﹂五八九1 九三頁。
同右。
li ﹁恰かもスペインの戦争の如﹂︿、﹁牢・肘﹂のうち﹁どちbが勝ヲても利益にならぬ﹂
なければ々らなかったのである。
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﹁日本絹静年報﹂第二十七輯、二六九頁。
持株骨社整理委員官﹁日本財閥主その解控﹂四八頁。
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