交響曲 第五番ハ短調 雑感 宇部市民オーケストラ第3回定期 - So-net

交響曲 第五番ハ短調 雑感
宇部市民オーケストラ第3回定期演奏会に寄せて
宇部市民オーケストラ
団長 佐藤育男
ベートーヴェンの音楽には人間の持つ深い思想がある。このことを初めて感じた作品が第五交響
曲だった。そのフルトヴェングラーの LP を飽きもせず聴いた。ライヴにも行った。山田和男指揮の
日本交響楽団(N 響の前身)が初めてだったが、指揮棒が振り降ろされても暫く音が出てこないの
には驚いた。多分五秒はかかったように思う。その後あれほど派手なアインザッツには御目にかか
っていない。しかし、伝説となっているフルトヴェングラーはまだ長かったらしい。親交のあった
近衛秀麿氏によると「あの背の高い人がこぶしを一番高いところから下まで振り降ろすのです。リ
ズムなんか刻んでいるのではない、ただ拳骨を固めてふるえているんです。それから十三秒数えて
オケが入るという笑い話があります。」ということだ。それでは、団員はいつ音を出すかというと、
コンサートマスターの弓に合わせるのである。宇部市民オーケストラの発足時、オーケストラ活動
の経験がない人もいた。だから誰に合わせるべきかという基本的なことからスタートした。コンサ
ートマスターに合わせるのは今に始まったことではない。
交響曲が誕生するずっと以前からである。
そんななか、ベートーヴェンは自作交響曲の指揮を試みた。第七交響曲の初演は彼の指揮下に行わ
れた。しかし、耳が聞えず全然合わなかったらしい。そこで団員はこれまでのようにコンサートマ
スターに合わせたとのことである。第九の初演では、終わると満員の聴衆から嵐のような拍手が沸
き上がった。しかし、ベートーヴェンはそれに気付かず、傍らのアルト歌手がそっと客席の方に向
き直らせた、というあまりにも名高く哀しいエピソードもある。
さて、印象に残るライヴはコンヴィッチニー/ライプチッヒゲヴァントハウスである。一九五九
年だったと思う。ベートーヴェンチクルス(全曲連続演奏)を大阪フェスティヴァルホールで聴い
た。燻し銀の音色、ゲルマン的造形、そして日本のオーケストラの倍はあるフォルテッシモに感動
した。
レコードでは、数枚のフルトヴェングラー盤である。演奏はそれぞれ異なるがそのどれも最高で
ある。近衛氏は「レコードにはあの雰囲気は絶対入らない」というが、それでも感動する。彼の著
書、「音楽を語る」((門馬直美訳、東京創元新社)には、高い知性と芸術性に裏打ちされた彼の
音楽に対する哲学が語られている。特にベートーヴェンの演奏には即興性が欠かせないという意見
は、私のベートーヴェンを聴くときの基本になっている。即興性に関するフルトヴェングラーの発
言は、「ある有名な指揮者がこう言ったそうです。指揮者がもういなくても充分と思えるまで、長
いあいだプローベをしなくてはいけないと・・。このことは、根本的に間違っています。‥中略‥
これは生きている作品を尊重しない誤ったことなのです。りっぱな名曲はふつうに考えられている
よりもずっと、即興の法則者に支配されているのです‥。」そしてさらに次のように続けている。
「解釈者は完成された楽譜を通して初めてその作品を知るのです。作品に接近する道程は創作者と
逆になるわけですから、その表現には作曲の動機から試行錯誤を経て完成に至るまでの過程を逆に
辿らねばなりません。特に即興性は創作過程の中核にあり、その封じ込まれた魔法を解くことが音
楽における主要な問題となるわけです。」
ベートーヴェンの思考過程は彼のスケッチ帳で辿ることができる。幸運なことにスケッチ帳はほ
ぼ完全な形で残っており五千頁にもおよぶという。第五交響曲についても、あの有名な四つの音符
の動機が既に一八〇三年のエロイカ交響曲の完成以前に現われている。ベートーヴェンはそれから
数年に亙ってこの曲を推敲に推敲を重ねた。信じられないほど短期間に仕上げた「神の子」モーツ
アルトと異なり、「ひとの子」ベートーヴェンはまさに苦しみ悩み自らを奮い立たせて一八〇八年
にやっと完成させた。
でき上がった作品は、
これ以上彫琢することができないほど凝縮されている。
造形は完璧で、交響曲という管弦楽のソナタ形式を極めている。内容も、悲劇、苦悩、安らぎ、憧
れ、歓喜、さらに人間の思想がぎっしり詰まっている。驚くのはこの膨大な内容を三十数分に詰め
込むのに僅か数年間しか要していないことである。その間、ロマンローランが傑作の森と呼んだ十
指に余る傑作を次々と世に出している。これらの曲を聴くとき、人間はこれほどまでに集中して仕
事ができるものかと感動なしには聴けない。なかでも第五は傑出している。私は一曲だけ選べと言
われたら、ひろびろしたエロイカや全人類を包む第九もいいが、この第五をとる。
ベートーヴェン自身も生涯の代表作を完成させつつあることを自覚していたに違いない。
さて、
第一楽章。冒頭の有名な四つの音符(第一∼第二小節)について、フルトヴェングラーは第二小節
で一旦区切らないまま五小節まで一気に続けて演奏する。そして、五小節目のフェルマータを永遠
に続くかと思うほど伸ばしている。「(ウッ)タタタ/ターーン//(ウッ)タタタ/ターーー/
ーーーー/ーーーン」という具合である。この曲の動機が同じリズムで二回繰り返すのではなく、
あとの方はさらに一小節長くて重たいことをはっきり示している。この五小節を際立たせて、その
あとに続く主題と強く区別するためである。一方、ワーグナーなどの古い指揮者は、山田和男もそ
うであったが、最初の二小節だけが主要動機と考えていた。だから「タタタターン」が単純に二回
繰り返されるように聴こえる。しかし、後年フルトヴェングラーの友人シェンカーは、彼の著書「ベ
ートーヴェン 第五交響曲の分析」の冒頭で「これは誤りである。動機は第五小節までの四つの高
さの音の総体とみなすべきである。」(野口剛夫訳、音楽之友社)と主張している。
ところで、私はさきほど、「タタタ/ターーン」の前に「ウッ」という文字を加えた。レコード
では単に「タタタ/ターーン」と聴こえるが、実際の演奏ではその前にある一つの八分休符が大変
な意味を持つ。音楽エッセイストの砂川氏によれば、「この一個が、あの動機をいっぺんに斬新、
飛躍、劇的、衝撃、究極、絶句、その他、格調、凛々、鮮烈、仰天、芸術的高みにした。」という。
(「つべこべいわずにベートーヴェン」東京書籍)やや賑やかに過ぎるが言い得て妙である。この
休止符を指揮者がどのように振るのか興味をそそるところでもある。朝比奈隆のような大指揮者で
さえ運を天にまかせて突入するそうだ。(朝比奈隆「ベートーヴェン演奏」音楽之友社)
さて、この力のこもった出だしを聴くと、この響きはオーケストラ全員による最強奏と思われる
方も多いに違いない。しかし、実際は弦楽器群とクラリネット二本だけの斉奏にすぎない。管楽器
やティンパニーはもちろん入っていない。いかにこの短い響きに力がこもっていることか。この動
機がアレグロ・コン・ブリオのリズムに乗って、第一楽章だけでも実に二七〇回以上も出てくる。
そして、主題と結びつき、対比され、変化して、その後の曲全体にいかに重要な役割を果たしてい
るかを、私の学生時代の指揮者は教えてくれた。そして、この動機は全楽章の主題に関わっていく
のである。
「アレグロ・コン・ブリオ」は、ベートーヴェンがこれまでの交響曲で用いてきたリズムである。
ただのアレグロでない。「コン・ブリオ」、つまり「溌剌とみなぎりあふれる活気をもって」輝か
しさと突進力を併せ持つアレグロである。一方、旋律は雄渾のなかにも悲劇性にあふれ、あたかも
耳の病というベートーヴェンへの苛酷な運命が襲いかかるようでもある。
第二楽章。まずヴィオラとチェロが美しい主題を歌い出す。しかし、歌心にあふれるほどではな
い。前回、私は第七交響曲について寄稿した。そのとき、「ベートーヴェンの緩徐楽章には、モー
ツアルトのような歌でなく、考える要素がある」と申し上げた。ここでもベートーヴェンは、歌い
ながら進んでは次第にゆっくりと立ち留まり、考え込んではまた一層勢い良く歩き出すといったこ
とを繰り返す。これはこの楽章に限ったことではない。モーツアルトの流麗さはない。が、ベート
ーヴェンの本質がここにある。ごつごつしているが熱く滾った血が流れる音楽である。さらには「沈
黙も音楽の主要な要素となる」のである。(吉田秀和著「ベートーヴェンを求めて」白水社)
私は、この楽章でベートーヴェンの思いの深さに初めて触れた。
第三楽章。事実上のスケルツオである。最終部は、ティンパニーが最弱奏で途切れることなく最
終楽章への橋渡しを行う。
第四楽章。その緊張のなか、ヴァイオリンが急に浮上する。そして、全管弦楽を率いてベートー
ヴェンのモットー「苦悩を乗り越えて歓喜へ」の凱歌を高らかに奏する。私は、この何ら曇りのな
いハ長調の音階が大好きである。青きドナウの出だしもドミソで始まるが、これら傑作のメロディ
ーが極く単純な音で構成されていることにも驚く。
今回、宇部市民オーケストラは、まだ第三回ながら、記念すべき 2001 年にこのクラシックの最高
傑作を演奏する幸せに感謝している。そして協奏曲に初挑戦!である。プロのヴァイオリニスト石
井啓一郎氏にもご指導を仰ぎながら、大曲ラロのスペイン交響曲にチャレンジする。
来たる三月四日午後二時、ご来場、ご批評を賜わればこの上ない幸せである。