州出四十人数』 - 法然上人鑽仰会

刊十日中沢川二十日
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州出四十人数』
mM制三 h!
例制中関
八日担
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問制凱 l七引ヒHH
一+五日印刷
1982-8
正しい道を進め グ
|長老の教えから
、
五月の東京は目別かった。
、
白川然は大きなサイクルで常にプラスとマイナスの収
、
ることは できな い
。
lH
民営は告白している。
、
、
人聞の寿命もまた同様である。仏弟子の一人
へ1
ソニヤカ
、
。
生命はそこなわれ 死すべき人間
の寿命 は尽きる。小川の水 のように
昼夜は過ぎ行き
ラ
支を合わせていることに気づく。その流れを人間が変え
と
と糠雨あけの遅れで涼しい夏である。こうながめてみる
総雨の前半は、ほとんど雨が降らず、後半は記録的な雨
服してしまうカはない。今年
いかように科学が発途しても 人間に自然を完全に征
ふ
しかし人々はそのことに気がつかない。気がついてい
賢い人々はそのことを知っている。
、
ても、それは違いなにかので・タととのように思ってい
る。ただ
しからばわれわれはいかに生くべきか。
、
怠け者と交っているならば
、
立派に
大海の上では 、人は、小さな木片に乗っ ているなら
ば沈むように
、
〈ソ17
長老)
人間は複雑な社会の中で一人だけでは生きて行
ッタ
・、
生きている 人 でも沈む。それ般に 努力 もしない 怠
、
け志向を避けよ。
今や
かれない。好むと好まざるとにかかわらず 、人々はお 互
いにかかわりあいをもちながら毎日を生きている。そこ
、
にはいろいろな人たちがいる。よき師 よき友と呼べる
〈佐山原良
純〉
人々ばかりではない、正しい追を進む人々を友として設
い 一生をすごしたいものである。
; 八月号 ;
無明と欲と怒りと世尊は永く無
し,人絵師子神徳無量なり 。
一一 『無量!I経』 歎仏ßt
目
次
一一一おほん法路〈下〉一一一
立て前と本音 ・・・・…・・・・・..…・・・....................・・・・・宮
沢
3
弘 …… ( 2 )
(三) (き) (き) (意}
釈呼成道と絡土宗開宗 ...・ H ・...・ H ・...・ H ・...…村
額秀
HI -..... ( 6
)
f一一一一勢至丸さまを懇う
l
無上道を志して...・ H ・.....・ H ・..... ・ H ・ . .. . . ・ H ・ ..…土
佐舜成
…( 8 )
|
勢至丸とその母……....・ H ・...・ H ・ H ・ H ・ . . . ..・ H ・ . ..大
橋俊紘
一(12)
特事I 喜I葡
同心というとと ...・ H ・.....・ H ・..…...・ H ・-……・渡辺社水 …… (17)
<鯵歪丸ものがたり >銘三回
宇宙船往来 ...・ H ・......・ H ・.....・ H ・..…・...・ H ・...布
村桁哉 …・・・ (22)
インド文学の香り…… 『バ ー ガゲ 7 タ ・ プラ ーナ』抄訳(盟〉
主主カ ー リヤ退治 ・ H ・ H ・ H ・ H ・..…-……...・ H ・-小山
浄土句集…...・ H ・.....・ H ・.....・ H ・......・ H ・.....・ H ・-ー
典男
… (27)
悶牛畝沼…… (20)
<表紙. ・巻頭言> 正 し い迫電ピ巡め !!・ ・ H ・ H ・-……・佐
必
u純
念仏ひじり三国志@一一法然をめぐる人々...・ H ・.. 寺
内
大古…… (33)
表紙大函耕三 回一一一
カッ ト
-1-
大正大牢貧術111
おぼん法話
。
P日
我が無セえ
{凶今えよf て
文見Z 甚t か
の聞土保t ら
意待f 敏之致
味受品妙i し
は持2 法すま
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1良 解げ千二
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ま釆t 劫さ
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う義r 遇 2
わたくしは
w ,、ん
と
本
宮急
務沢玄
賀山一口
正明 主主.tf
市光
山
一
聖寺
墜空 5Þ. ぅ
岳事え つけ ヤ
、
人が位かれる有形
、
、
、
、
、
、
、
自
他件、疎遠などであり 学校での国語教育ではそう教え
、
円作、混 管
一 、その他のコ粂について、その心理的
発性
、
反対語を挙げております。
、
この妙取は絶対の真理で代わるものはもう二度と現われな
、
普通これ等の反対語は 欲瞬 怠役、背信 受動性
い。こ のみ教えを今見聞でき 九河に受ける官官びを感謝する。
、
、
経典が 時と場
、
顧 わくば 仏のみ心の真実を確かに領解したい。
この侶 文 こそは
、
その者
人間の立て前に外なりません。
アメリカの心理学省でエリタソンという人は
の生きゆくための指標
経典に一不される仏意は仏教徒いや広く人聞にとって
てレます。
をのベ、人間にとって絶対の道しるべであることを示し
無形の条件や環度、そのいかんに対しても常に真史の理
音
仏税き給えるみ数えは益だ剖聞く、微妙に万人に当てはまる。若山と危機」という本の小で、 dk、助勉、伺刷
次のように解しております。
々
2 ー
目U
〈下〉
て
,
iJ~
-
JL
わたくし述が臼頃お経をあげるときは、 必ず汰の俗文
を
こ
の
l
ェ
百食
、
、
1
ソンは
、
白発性
JP
ている は ず で あ り ま す 。
、
仏祖
それに対して
劣等感
、
、
白律
核実には絶望
、
邦の意説
、
i
、
親
勤勉|
恥
孤独という五仰を準げ若者に対する教育的配慮の本
l
を
、
、
生活必での問民の意識も多様化
、
「物的住かさをAぼ
M達成し 経済面では知織やサー
ビスの重要性が高まり
する学成熟状態に近づいている」と分析しております。
、
物的些かさは精神的蛍かさに反比例し 知識やサービ
スの重要性の高まりは人間が本来蓄えるべき智恵の減退
密
を進め 国民意識の多傑化は人聞の根本本位(例えば宗
相互扶助が国家社会の運営の基本原則とならね.は
前回に述べたとおり
、
、
山泌伶 相宜伸伏刷ま
、
、
、
、
、
決してこの報告を攻
、
、
民衆の国首の時代であった
、
、
しかる
骨肉和食む闘争の時代であり 飢きん、疫
、
民生の銭弊
、
それは大きな腿山人的
恵まれた良き成熟に近づき
つつある時代であるというならば
に、今日は平和で満ち足り
病
武力台顕の
わたくし述がもし 元祖上人ご&陀の時代は戦乱の
去の無力さを反省するのです。
むしろ、この国家社会に対して果して来た宗教の 過
援する意図からではありません。
わたくしがこう申し上げるのは
えまずから、成熟状態とはいえますまい。
、
教心など)の軽視 または否定の傾向を容認するともい
、
質と
その方法について述べています。一体この対照は
何を意 味 す る の か 、 一 考 の 値 い が あ り ま す 。
、
ちょうど前回の原稿を縞集者にお送りしたすぐ後の五
月三十日 新聞各紙は第二次臨調第 一部会報告の概要を
掲載致しました。
、
その中で、「今後ふ、同民の自立、白助を線伴とする
連帯
ています。
、
ならず、行政の役割にも変化が求められている」と述べ
わたくしは
、
、
人間の根
でなも人聞の銀幹とすべきと考え 川家社会の週符の基
本原則や行政の変化に求められるべきものは
幹を強力に顕楓帰する有為の方策でなければならないと思
ません。
誤認
、
という思想は
、
ダ lウィソの進
史観を持たない波面的比較論といわなければなり
います。これについては報告の「文殺政策」で触れてい
先に進めば良くなる
、
ないのを残念に思いました。
・
また「新しい行政のビジョン」では、我 か国の現状
-3-
、
良くなるという社会通念にもかかわらず、仏
化論を誤解するものであるとし、最近議論ほうふつのよ
うですが
、
先きに進む思思くなるというので
教では、本来、そうはいっておりません。キリスト教で
もそのよ うですが
詳しく述べるいとまはありませんが、仏去に正しく拠
す。これは人聞に対する普併です。
れば 、 現 象 は い か よ う に 見
えても本質的には決して良く
フ
はなっていかない。
本質を見き
、
γサルという哲学者は、現象学という手間で、一般
に現象からさかの ぼって 、停 の真実の意味
現象とはかくも不定見なものですから、一円凡必胤では
わめるのは非常に悶拡であると強闘しました。
平和そうに見えても 、よ り奥・ ιく隠微に、人間恕や疎
また
、
末法という言葉を口にすることな
そういう世稀であると自覚することもありま
、
外、闘争が広くはびこっている、と現代を忠誠すること
、
わたくし 達は今
が大切です。
く
、
自坊の檀信徒と共に知思院、百 万遍
宗門徒にとって必要でしょう。
過臼わたくしは
知恩寺、岡山の品供守にお@りを致しました。
、
地口が胸にいだいての川容であり
知恩の加のほ味をこの身で受けとめ、お誕生の意提を
&
rd'
ました。
温ねるというテーマを
、
という
、
いや
今現に元祖様がここにいらっ
、
言うに 一
言一
われぬ体感でありました。
、
この彦拝を過して強く惑じた印象は、今この批にこそ
しゃる
宗祖が必要である
現に-克也様のいらっしゃるそのおん前で、わたくしは
、
おこがましいながら
、
一
以が頗を
元組様が詐導大師
、
一体これで良いのだろうか。今こそ元
Mm慌に臨結して生
きよ、と、乙の不思却な天啓を州内つつ ただ
、
伝わるのを慌し向なかったのであり主す。
この体問は
、
仏教徒が心を新
か 、きっと共通する部分があろうとの実感でした。
に.バ関されたど霊験の何万分の一のものでありましょう
さて、わたくしはこの法話を過して
たに、自らの心の根ぷ宏仏意に求めて生きること、これ
元 秘法然上
前を貫く道筋を、ゆ土宗門徒であれば当、然
この立て
せん。だがここで、まさに恐るべき末法の位の進捗を、
、
、
をあえて立て前とゆしてきたのでありますが
、
再出発を期すること これが浄土
地球的観点に立って感知し、その認識でご降誕八百五十
年の意義を 噛 みしめ
、
たひたすら依るべきであると
、
こう主張したいのであり
、
人のありのままのご生涯に求め念仏為先のみ教えにた
ます。
、
、
、
「伺依法然上
それを手本として行ずる日常が今こそ必
、
それをそのまま、わたくし迂が
この斌味において 一克也協が「偏依川湾」と由・された
ことを
人」と承わる
、
、
、
そこから発する
、
この外 、 今
何でご降誕八百五十
ただ前線阿弥陀仏と申すこと
、
要なのではな い か と申し上げたいのであります。
このことを自信教入信せずして
念仏為先
年の意裁の顕彰がありましょぅ。
、
ここに民り、また
円今後とも、わたくし江の生きるよすがはない。すべて
がここから発し
9
a
'
d
"
い覚悟
、
、
新しい
、
念仏信者の信条です。こう考えますと 立
、
これを本心の叫びとする生活の自律は
とそう制解して他に思いを散らし他に求めることをしな
時代に向う
、
、
南無阿弥陀仏を称えることこそがわたくし速の
、
て前である仏意〈阿弥陀仏の本願)に即して生き
そる
の
ために
この本昨日は、逃げでも隠れでも
元組上人のありのままのど生出
、
決突の迫であると改めて気付くのであります。
、
本音でなければならず
ない
そうしてわたくしは
を
、
す。
まさしく次のご法措をとおして感得するのでありま
。われはこれ・訪問チも清ざる列なり。十恕の
m法
m愚然
痴
酎,、
L・
as
、
の法然冴が 念仏して往生せんというなり。
、
、
a、札阿川
臨終平生にわたるべし 本願の文町
『いぜい
O学生サになりて念仏ゃん穴わんずらん。
ベAV
O往生の業成就は
別せざるゆえなり。恋心の心も平生にわたると見えた
ツ。
h
O たとい余評を蛍んとも、念仏を中し中しこれをすると
思いなせ。余取をしし念仏すとは思うべからず。
、
最近
、
、
、
、
n らの心ばせと日常生活の規範
、
しかもそのことが尊といのです。
元組上人と直線で結縁を得ょうと努める
それはど自由で
それを以て
前進する語いと放しましょう。ハ了)
、
の基に置き 制的息抑論制入和 AH
の惟の建設を日並して
ことを、放れ衆生と共に来たるべき時代に備えての願行
と
出しています。皆さんが他のご法語をお挙げになるこ
判断と行動化のための尺良を、右のご法務の心の中に吃
わたくしは
ただよくよく念仏を中させ給え。
O心に妄念のいかにも忠われ候はいかかし侠ベき。答。
-5-
認滋§撃参
( ー ) ( 口 ) (法 ) (話)
悦村
釈尊は紀元前五三 O年十二月八日払暁、明けの明星をみて傍りを
、
、
、
、
開き給うた。それは夜でもなく昼間でもなく
光明が崎県にとって
代ろうとする僅かな悶のことであった。釈噂は菩提樹の下に坐って
ようやく其理を悟りかけた時に、魔王が一同地を怒いて攻めてきた。
釈尊は悪魔と闘う不安の中で一夜を明かし、ようやく空が自み始め
ると、長かった閣の世界が消え去ろうとしていた。安堵と希望にも
える自で空を仰ぐと、そこには大きな明星が鮮やかに輝いていた。
こうして苦しかった修行と悪魔の誘惑を乗りきって悟り定開いた釈
尊は 遁世の生活を捨てて広く人々を救う道に向って進むことにな
り 禁欲の生活を捨てて誰でもが修められる楽行の道を広く聞き給
うた。この時の釈噂の歓喜は、やがて其紅の疫を現わし、燦々と輝
く太陽によ って象徴されるものであった。それだけの感激があった
入浬襲の日まで教化を続け給うたのであった。
からこそ
、
れていた。その時 上人が持っていた焦燥ともいえる悩みが一時に
る仏の道を求め得ない悩みを深くしていた。ある自のこと意を決し
て経蔵に入り、手を差し伸べて一番をとり取してみると、そこには
念仏を相続して唱える行が筏楽往生をとげる唯一の行であると説か
、
代随 一の名僧という位評が高くなるにつれて 反って凡夫が救われ
は浄土宗を聞き給うた。上人は多聞広学の学僧として認められ、当
、
春然上人
それから二七 OO余年を経て承安五年ハ一一七五〉の法
ー
6
-
お
せ
雄
秀
瀬
~
刀τC
cフ
開
刀"'
と 浄土
釈尊成道
り、普い悪いも判らない無知の宥である」といっている
、
上人に巧代随一の学的としての見識があったから
のも
、
て安居院の型党法印に高った上人の古楽によれば 「随
消し飛んだ。その時の高びがいかに大きかったかについ
である。ある人が上人ι尋ねていった。
、
現の余りに身の毛がよだっ思いであったし 倣持の余り
、
、
白らを罪悪を行いながら迷いの世界に暮す凡夫に
、
、
上人は叡笑するばかりで 何もいわず に黙っ て いた。
、
「一宗の数義をたてる程のことにどうして儲か特導大
、
のであると 誰もいない所で高戸に唱え 喜び 一
訳が落ち
師の 一文だけを依りどころとしたのでしょうか」
に 、凡夫の行法をすでに阿弥陀仏か定めおき給うていた
るのをとめることができなかった」という。しかしその
師が
前によ人が肝に銘じて感じていたことは 同じく普潟大
するとその僧は上人が返答できないため に黙っ て いるの
この僧もまたれ分の知識の怨皮を知ら
、
一切経
て人々を数う醤薩行を税んでいたからである。法然上人
、
釈尊が明記をみて約りを開いたのは いく陀にわたっ
なかったのである。
、
すぎないといいきっていた雪因業であった。上人はある人
そのヒで阿必陀仏の本献
が強いというが
であると考えた。向も知らない者ほど独り設がりの自信
、
、
深心は初めにわが身を煩悩
に次のように語っていた。
「3n 大師の教えによれば
具足の凡夫であると深く信じ
ただ仏の・本阪を伯じる心が傑心
が苫湾大師の一文によって浄土宗を聞いたのは
、
を傑く Lじ
M る心のことである。もし大師が初めに凡夫と
いう円貨をあげないで
、
末世に相応しく念仏の一行によって
たのである。
すべての凡夫
、
を一人も洩らすことなく数うという法門をうちたて給う
き
門 を開
である。だからこそ上人はわが閑に初めて易符の
、
白他宗の仏3をすべて読破していたから
を五返も読み
、
果して往生であるかどうかと迷
仏の本願を疑ったことであろう」
、
であると説いていたとすれば 十恕や政成の邦を犯して
、
いる苦は白 Hらを卑下し
い
上人は自らを、 「黒い白いも判らない赤子のようであ
ー
7
-
志
を
し
G紳
民職
成;
設住
,
E陀舜 E
震弥
った と 伝 え ら れ て い る 。
廓îli
it阿 但E さ
広、F
、
れる名門時代の悠を迎えて失人とL、押償問とは兵を術
剛押して治安を
r同付するために郷止の伯盟ある貯が任命さ
ほど人のうらやむ身でありながら、ただ一つ不足として
8 ー
-
枇4w
詰戸 土 と
父は父組伝米の稲岡の庄を町L
民 k川
-氏と政び仲せら
て
といわれ、ご本時(上人像)のあたりがご生誕の場所であ れる役職で、父時間は武士として又領主として仰がれる
防久米の押傾使であった父譲問時間の民政跡
誕生守が wl
Eの
Mm
自のお生れにて、現在の
国〈 岡 山 県 〉 久 米 商 会 稲 岡
王丸ハ法然k人〉は境作
道
勢至丸さまを惣 う
上
Oh
今からちょうど八宜
無
御子 が 無 か っ た の で あ る 。
、
しんでいた。
家用 の池を造るべく水源に苦
当時の弓削の村人は、こ の ような事情から日頃の震憤
、
ついに爆発 若き預所の定例は彼等の暴挙を未然に防ぐ
、
だけの力もなく
けたのである。
奇襲に驚かされた接間氏は手薄に防禦の方法もなく乱
ついに稲附の漆間氏の飢に夜肘ちをか
御両親は御子を授からんがために 岩間の大悲 十 一面
、
、
制音に多箱祈願しての一子が勢歪丸であり 後年の法然
ヒ人である。
ほ来氏は一タ剃刀を夢見て悦低され、心身柔品
け
の
川
月満
、
ちてほ胎悩むことなく、出徳院の御手 HRp
二m
年四月七日
時に白幡両流庭前の
、
、
発至丸と繁氏を
、
、
「いつまでも別れたくないお身セちだのに これが今
枕許に呼び寄せ誇々と諭すが如く語られた。
その後父時国の容体は思わしくたく
り、したたる血を制作へたまま
かけ品市に相手の日間に wi
、
入にまかせる状態であった。時に母と共に夢
心見
地で寝
、
正午頃ど降誕
ていた勢至丸は
紫会覆い累積満ち
綜の樹にかかり 御両親のお喜びはいかばかりであった
止するを振切って飛び出し 父の危棋を見るや小矢を射
その災常な騒音に起き上り 人々の制
であろう。
史実 によれば
それ口体
一説には水利用
、
引上げて行ったのが詰切であった。
、
、
地万の '
膏駄の独り子として御両親態愛の下に行った勢
五丸九成の時 突如として一家を授沼せしむる訟劇に出
漆問時間と明石源内武者定明の衝突は
会うことになった。
当時の荘園艦大をめぐる争いと言われ
をめぐる長年の・恒例の怨念とも言われる。
、
生の別れのように思われる。J い遣しをよくよく心して
人間の枇が ιあって学制といわれていても
が一転する危 Kを苧んでいる術であるかも知れない。
、
舟命が尽き傷が給らないだけのこと 決して仇を討つな
敵もまた痛手を被っている。相討ちだ。自分は年取って
、
自
弓
聞い てくれ。敵を恨むではない。敵は自分を傷つけたが
、
、
又緋地の水として極めて恵まれたにも拘わらず
稲岡の圧は自然の地形によって圧民の家々の用水とし
て
削の庄は水を問に引き入れ不足にして、稲岡 bz似み
-9-
、
、
、
しかしほ恭氏はぬ人わ池山Hι仇い、 λ低の弟で山山がし
なつかしむ思い山を品る毎日であった。
、
ょ。若し仇討@りすれば世々に害心を懐きつづけるだろ 帰り 気を転じ多少は気も安らいだものの悲嘆は容易
う。およそ生ある者は死をいたむことは限りがない。内
に消えるものでなく
母は夫時国を採り 執刀至丸は父を
分はこの粧が姉む。相手も又病んでいるにちがいない。
分は無念で命が惜しい。しかし敵A
もが
W惜しいと思
ている叔父税覚の挑めもあって、その寺に入ったのが菩
n
う。早く俗をのがれて自分の菩提を弔ってくれよ。仔が
提守である。
企のる。」
、
ζの菩提寺における六年間の観党得業が
をつくり出した J
ものではなかろうか。
舜を打ちこんでの滋きが上人の求道の心と道心の芽生え
るというより
きて、九歳の景子が父の遺言によって直ちに仏門に入
救われる遣を求めてくれよ。これが今生の別れの頼みで
、
静かに語られた時間の言葉の中には 当時の知識人の
菩提寺では、嘗って父母から聞き及んでいた菩提樹の
林のドに立って眺却すると、脚下に広い野原につづく沖
数義としての仏教の精神が深く根ざしている。その夜半
一族の手厚いお避に見守られながら悶に向い町内念仏し
山、稲岡やづ削あたりまで泡かに見られ、いつも亡き父
いたことであろう。
刻々に変り深くなるタもやを沼経の後一人淋しく眺めて
、
て眠るがごとくにして此の枇を去ったのである。時に御
への泊憶、のへの務的、-恒例への憎しみの念もあって
、
J忘れがたくして:::」と度々
成四十二段であった。
後年、上人は「父の泊
しかし勢歪丸は 、そ ういうやるせない寄るべのない気
、
如何に聡明とはいえ その真意が分らず 、しかし 夫人は
持ちは一人白分だけでなく人間誰れしも折ふしあるもの
述懐せられたのであるが 当時九歳の勢至丸にとっては
よく理解されたのか一語一語にうなづかれ、深く感銘を
、
これこそ逝を求める因縁と感知し 夜半静まりかえ
で
った本金で一人ど本時の観菅像に令悠祈念することによ
郵送中陰の仏併を修めた後、稲岡の地を離れて史家に
、
受け な が ら も 良 人 と の 別 れ が 悲 し ま れ た 。
10 ー
-
、
、
また生きる新らしい力がわき出づることを感得して
、
って 今までの淋しさか不思混と活訂き 眠り足らぬ身
も
きたのである。
、
耐州の芳氏に同じ相誌をその後
又竜 F の願つての希望にて一口も口「く郎へ上
、
さらに学系を受くるに一を聞いて万を悟り、憶持して
非らずと
忘れることなく日に日に成長 叔父観覚は自身の法器に
、
速く都へ上らせるこ
、
先に良人を突然の悲劇で亡くし、
、
り学ばせたいとの思いを
しかしほにずれぽ
も度重ねられた。
、
、
一同は尽きぬ浪をたむけた。
その胸のうちはいかばかりであろう。浄日を卜して
今また 一子を勉学のためとはいえ
と
父時間の主前 に上洛報告
、
して
、
:。八百五十年前のことながら 予を見送る相棋の
::
方不ι
九十五訟にて故郷 bz
出でて
、
総明利根に
、
泊中つつがなく入
心は普も今も同じ思いであったであ ろ う。
浴、やがて致山して持法u淑
m 光の門に入り
ぬ光
、
ついで叡空上人を師託と仰
k人白から短才を避けて功徳院の阜円に送り、 台
してまととにただ人に非らずといわれた。
数高覧してその深義を究め
ぎ一切経を通覧して唐の善導大師の『観経疏』によって
、
阿弥陀如来ご本聞の誠意を悟り 立ちどころ念仏往生を
、
生身の仏と噂敬され
、
全て学しく数われる追を開顕
宗とし、上は天子より下万民に至るまで奇異の思い・そな
し
された偉大な仏教改本有法然上人。
、
釈尊一生涯を通じて片時も忘れられな
釈尊が御降誕後七日にして ど生母摩耶夫人がこの世を
去られたことは
「かたみとてはかなきおやのとどめてし この別れきへ
母君との別離のやるせない
い慕情の念が*道心に、法然上人もまた幼き時に突如の
、
悲劇によって父君を 亡 くし
生きる喜びを与え
また数われ
、
南無阿弥陀仏の法門を聞いて批の
、
、
る仏教を広められたのである。
人夕食践貧富を問わず
寄るべのない思いが
またいかにせん」
、
母秦氏は一夜ながらに章子の回米整をうるおしこれが今
生の永遠の別れになろうとは:::。尽きぬ別れを円々に
- 11 ー
丸
そ
と
の
5
お ,、
r
,
にこそ候へ。ただとにかく
あけくれ御ゆかしくこそ思ひ参らせ候。われわれ今
日明刊をごしれたきや
あさましき身にて候。ちと御下侯て叫覧じ院へかし
と思ひ多らせ候。さも候はずば、やすくしゃうじ
ハ生死
Vをはなるべきゃうをこまごましるし給へ。そ
おお
大
地
l震は
浜
1fii]し
検
市
五俊 T
可- - ん
住
号本住す
」のお手紙は、法然主人のほ脱がた つたひとりの頼み
慢。
内4
れをりんじうハ臨終〉の普知識、上人とたのみ侯ベ
し。巾たさがあめ山にて伐へども、事をとめ参らせ
母
勢至丸さまを 想 う
至
一筆とりむかひ多らせ候。御坊はるかに見琴らす、
勢
九訟のとき抑制胞をつとめていた父様
-'Eζ-
、
生まれましたが
往生できる
ず
とした、わが子勢至丸に続きあたえられたものと伝えら
、
とと思います。いつかお会いして 、お 話を捌きたいと思
わかりやすく生死をはなれ
う 、そなたは私の
菩提をとむらってほしい」と、設然た
仇討ちをやめてほしい。そして平和な日がおくれ るよ
、
れている消息のなかの一通です。ここで伶殺は「そなた
問時間は 預所限内武者定例の夜援をうけ世を去って
しま rたのです。ム
終にのぞんで、時国は臥司王丸を枕頭
w
に呼ひ 4せ「武家の習いによって遺恨をいだ・き仇討ちを
すれば、必ずまた先方から斬りこんでくるでし主う。そ
には、もう何年となく会っておりませんが、ご元気のこ
っておりました。名たちは今日明Rをも知ることのでき
れに対しまた此方がということになると 、いつにな って
、
往
、
ない、はかない身なのです。できることならば、少しの
も争いはたえません。私の死を最後に無念であろうが
できなければ
、
、
。。
あいだでも結構"です。帰国してもらえませんか。それが
くわしく教えてください。それを臨終のとき
、
「父の遺宮忘れがたく」と後年述懐していますように
る態ぷで遺言し、息たえたということです。
道を
たいことは雨山のようにたくさんあります。どうぞ伶土
Tを
H 絶対
ていて、維れたことがなかったのです。この遺
父の遺したこのことばは、いつも顕の片陥にこびりつい
生の禄となる良い友にしたいと思っています。中し述べ
往生の遣をお鍛え願いたい」と宮っています。
聞くところによると、わが子勢至丸は女人往生の逝を
の唯一の数えと信じて 菩提山守観誌のもとにお子入りし
肱UL
発見したという。私にも往生できる道を教えてほしいと
て、仰となる決意をしたのです。院ムの観賞は以楽氏の
しい-良い師匠につけて知践を身につけさせたい。こう
ぃ。このまま辺郎な山里で朽ちさせるにはあまりにも惜
内んぴ
だが勢至丸の頭脳はすぐれていました。凡人ではな
家したことになります。
、
いう、願いをこめて出された消息とうけとめることがで
おにあたっていたということですから、叔父のもとで出
uuav
きます。
・ι
--s
聞い
勢至丸は長承二三一三三〉年美作間久米南条稲岡荘で
C
、
観,%のこうし
して観覚は母を税得して、かつて臼分が学んだ比叡山に
登らせることにしたのです。
向学心にもえている努至丸にと っても
た好意に異存がありません。かえってそれは望むところ
でもあったのです。
ところが母にしてみますと、勢至丸はたった一人の子
供です。その子を見送り登山させなければならないので
-7ふた
、
比叡山は女人禁
広よ民ゐ
す。菩提寺ならば稲岡の銭から北東に四 十キロ、 母子が
会おうと思えば会うこと もできますが
制の山、比 叡山には女性は登ることが掛目されていませ
二度と会えないかも知れないので
ほは別れにのぞんで
、
、
一断念ながし
かたみとてはかなき親のとどめてし
この別れさえまたいかにせん
、
、
罪深い」が放に 、一
の歌を詠み はなむけにしたということです。
-eb
古代仏教では「女人は障り透く
、
度身を男に変えなければ仏になることはできないと説い
、
ん。立ったら最後
ています。救われたいと願う女性には 男性以上に信心
a
,‘,、
す。登 山 に つ い て 毘 蹴 す る の も 当 然 で す 。
のです。勢至丸の母でも例外ではありません。母は女性
ものであろうか。ここに古代仏教の一つの限界があった
、
、
、
であったばかりに、内側れない生活をおくったとしても
とき乍んでおけばよかったという悔をのこさないために
浄土に生れることはできないのです。
も ぜひ比叡山に登りたいのです」と必りほを納得さ
しのMA
、仰と な
せたのでした。許しをあたえはしたものの、後髭をひか この世でほの願いをふりきり登山した不ぷは
なければ、二重の界をお
っても母ひとり数うことができ
れるような思いであったと思います。
す。しかし、私はもっと勉強をし、すべての人の数われ
になることはできないのです。こんなことがあってよい
と修行を要求しました。それでも女性そのものの身で仏
14 ー
-
。
る追を見出したいのです。しばしの別れをいとい、あの
孝義をつまなければならないことは、十分反知していま
そのとき勢至丸は、母のいますとき、朝夕母に仕え
•.
かすことになります。この世ではもちろんのこと
、
あの
母にまみえることはできない
aq
-寸
-
ら下りて東山にいたころではないでしょうか。十二年間
Eん
山を下ってはならないという定めを守り修行していた鰭
、
世でもともに浄土に生れ
山中であれば、たとえ会いたくても下りて来てほしいと
、
何んね‘
aa
、
、
といった切ない願いがこめられているような気
、
伺
Ft
仮りの身、少しのあひだに無益の引を思ひ
山河も
、
叩州を作り、
、
に接し返 3 をしたため、その中に「位も仮りの位
だが上人には帰る窓志はありませんでした。母の手紙
がします。
でいる
入浴できそうもない ただただ子供の帰りを待ちあぐん
、
母にしてみれば会って健康を確かめたい 今の状態では
、
同で
Mm
いうことはないでしょう。下山すれば自由の・身
、
のです。女性でも武士でも すべての人の往生できる逝
eE'
一一一十年にわたる求遣の女
末性でも往
、
はないものかと
念仏をと
きないこともあるまい、一度ぜひ帰って来てください
、
法然源空と名のり
、
生できることを強調したのは 母への思慕が原悶をなし
、
ていたと みてよいでしょう。
勢至丸が比叡山に登り
、
信んEA
市LUAre-v
、
なえただけで 誰ひとり漏れることなく極楽伶土に生れ
ることができるという専修念仏の教えを発見したのは
承安五ハ二七五〉年のことでした。その後専修会仏をす
問している問なとないと
d
いきっています。
ひとりでも多くの人に知らせなければならないのだ。州
無為にすごしているわけにはいかない。念仏住生の追を
日 として
どうせいつかは死んでしまう身、私としては一
ったこ
一時四仰を雌れたこともありましたが、多くは仰のう
川愉ぃ‘.
輸廻妄執のゑいふの位に、こたびMり
m 給ふまじく候」、
、
O二
七)年配流の九%とな
すめたことを理由に、品川元元ハ一
り
法然上人は、美作間で母に別れてからのち、会
ちですごしています。
法然上人といいますと、温厚なもの般かな人といった
ua
dk-v
,、
とがあるのだろうか。このお手紙はいつ前かれたものか
感じが、のこされている木像や門像阿などからうかがう
すでに比叡山か
、
ことができますが、反面白己にきびしい態度をとってい
はっきりしていません。しかし「御下候て御覧じ候へか
し」といっているところからしますと
15 ー
-
。
、
、
金のために生・きるか 法然上人は後者
一
一
一
村瀬
H
秀雄著
新刊
H
H
B6
判八四七頁価六八
『全 訳 山中
勅川
修一
御伝』
好評
H
判四
OO 円一
七四頁価二五 OO 円
『
和訳浄土三部経』
B6
OO 門
山崎川選
択集』
B6 判三八七頁価二五
判二六五頁価
6
取扱い法然上人讃仰会
B
OO 同
二 四OO 円
『和訳 議一六時礼讃』
B6 判五八四頁価三五
『和訳 詩 観経四帖疏』
…『 和訳
一
たのです。それは母に対してでもいえます。人の情から
母はせめてこの世にいるあいだ 、一 日でも
会いたいと思っているのです。夫とたのむ人も、
、
言いますと
よい
上人の九 歳のとき駐を去っています。一人っ子の法然上
人は今都にい ます。一肢
一 の誰かが母の面倒をみていたで
しょうけれども、寂 しい日をすごしていたに追いありま
せん。
一回会ってやればよいのにと思いますが、上人はその
願いを聞かないどころか、母の願いとはうらはらに、二
度と帰ることはしないと、言いきっています。教えを弘
それをさまたげることはできないと言うので
、
めるの が、自分 にあたえられた使命である。尽の愛情に
よって
、
す。これが 宗教者法然のとった態度だったのです。簡の
ために生きる か
の道をえらんだのでした。
、
岡山の誕生寺にある位牌には 母は久安三(二四七〉
年十一月十二日三十七歳で没したと記しています。これ
で修行中亡くなったことになるのですが。
によれば勢歪丸は母泰氏の二十三歳のときの子、比叡山
一
一
一
16 ー
-
つ
、‘ー
、'
、
げ」の歌に関して その考証は明確ではない
これは法然上人の
、
三歳説が定府し
、
立教関宗の年とされてい
、
取り沙汰されてきた結果最近になって四十
法然上人の回心に就てはいろいろと
主
水t
法
_
1
.
.r •
-t t ζ
ないが創作家の観として大いに注目すべきも
f
い"。
る。しかし、それは一応の協定みたいなもの
、
llJ深
内 J,'i.
稲派
王tr
、Tl な
る。宗派学徒ではかくも大胆な断定は持され
作家の推理によって
;本采 u:!. ベ
たk
「第三の回心」を暗示する
のも
だ 、と 引いてい
、
日波主
i
t
.
で、主悦としては多分に鵠の余地を残して
が
由来
と
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ト」
し、
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回
本誌六月号、「念仏ひじり三国志」@ハ寺 のと忠われる。
内大宮〉に、浄土宗が宗歌としている「月か
j
!
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勾,
、
、
従来の学者の説だけを 一応羅列するなら
4ι、
、
、
、
元亨釈芹
、
一、三十三歳説 永満〈万〉元年(一一六五〉
私集百因縁集
二、四十 二歳説 姶遺古徳伝
一一七四年
三、四十三歳説、ハ定説〉
四、五十四歳説、大原談義、文治二年ハ一
一八六
、文治五年説もあり〉
、
、
態管抄
、
、
建永元年ハ一一一
、
、
しかし
、
、
この年の十二月八日、勅免の主旨
、
二月十八日 念仏停止 法然上人四国流罪。
あり。
、
しかもそれは、随所にあったと思われ
以上が法然上人の回心と考えられる年頃で
あり
、
その一一線上に点々と起
、
ということが考えられるのでは
、
総であり
る。これを要約すれば、回心というものは点
ではなく
?h 、‘。
伏するもの
必M'UV4M
、
くては成し得ない行動であると断定してい
、
遠く四問の辺地まで敢然として出かけた、そ
れは資料としての考証裏付けはない法
が然
上人の心中に新たな決意、宗教上の回心がな
不治〉の風光、そして流罪を思総と肯定して
に坐して病老体が見たところ・の月かげ〈摂取
、
年三ニ O七)の冬、七十五歳 小松谷の廃堂
なお寺内大士円氏の三国志によれば、第一の
五、五十 八歳説 これは下山以後、東大寺
三経講説以前という説であって多くの学者が 回心は四十三裁の通説、第二は選択集成る建
久九年の説、そして第三の回心として建永二
支持考証している有力な学説。
、
六 六十三滋より七十二歳の問という説
七十四歳説
、
、
七、六十六歳以後という説 選択集成りし
、
建久九年ハ二九八)
八
05
、
この年 二月十四日 院宣によりて法本房
行空 安楽房遊西が召し捕えられ翌年
- 18-
、
、
この時の法然上
愚管抄の説と一致するものであ
、
第三の回心
、
、
その中の一節に「求遣の縁徳川家康の
、
、
、
岡持
崎市
回心」と題し 師が増上+一寸前の住
ば
論から言うことである。
る。恐らくこの推理は妥当なものと思われ
このたび京都総本山知恩院門主となられた
る。しかし「冬」という雷業から言えばそ
れは七十四歳ハ建永元年)の冬でなくてはなら 藤井突応上人の近著「仏道を歩む」を読め
ない。前記
ると思う。いづれにしても
人の 心中 には悲壮なものがあり
一般的には入
・
、
このことハ念仏
説法)言わずばあるべからず」と流罪にお
「たとひ死刑に行わるとも
、
大樹寺において家康が死生の綴頭に立宗ち
教的に目覚めた経緯を述べられている。即ち
も言うべき一転機があったと見ていいであ
と
、
、
。
ろう。念仏の興行 教化に一死を賭けての挑
は力である
回心とは目覚めであり 確信である。その信
回心とは己証であり
、
戦 とも見るべき行肢がうかがわれる。新しい
、
見方とし て珍震すべき説である。
なお
、
もむかれたのは 法然上人の強い信念であり
、
発箸挺心)にもあたるの
信 ・帰依に通じ発心 (
使命線の発露である と古かれてある。それ
、
、
ではないか。そして それが安心決定の体験
そして回心といい
、
宗放的な
ると思った。
、
は寺内大吉氏の説を裏付けるような趣意であ
、
第三者か
ということか
、。
仏の称名の行に
、
ただただひたすらにありた
実践を通してこそのものである。私もまた念
仏道といい
であり自己自身の内証である限り
、
ら兎角の論議のできないものであるしたが
って いろいろの推定はできる
、
線とし て蛇行する。そして退不退も
日時を一点に限定するので
ら諸説紛 々の学説が出て来たわけである。
、
回心とは年月
はなく
あり得 るものだといい得る。勿論これは一般
19 ー
-
東京宵抗野
ズをとりし牡丹かな
1
牛 畝選
は品静かである。買は熱く冬は水い京であ
惚臨みきを
るが掛川由闘の債の京が一番よいのである。
福岡
地側若祭尚体して法主の船
が咲いている。空気も澄んでいる、こん
日九十四歳で立化された。替潜哨寺には樹
野山はあいらしい。そして朴も高々と花 師昨大本山嘗導寺法学一守口本大僧正は五月二
齢千年の大絡がある。法主の遜化された
一一一盆官制
U
涙の如し。
のである。恰も還化をいたれ
ことを悲しんでいるが如く雨零している
なところに住んでいれぷ長官可ならん。
であるから、開け行〈日本のために、海
開計管紋とは松の折 おを官う。唯仰向は動正 作例むという人恒常ぜられ療に入る
福岡
った、心配なことである。
知人が再円A
相
にかかった、いよいよ寒に入
を桃めつつ開港日本を願った意味の銅像 評病人には集いことが一香禁物である。
行正
で、織に向いているのかも知れん。
帯同間同や双山なる京の宿
大島も伊豆も彼方に霞みけり
-2
0-
舞鍍のポ
真野よし予
同町美しい舞媛のポーズがとられた。社丹
も豪龍平で舞姫の衣袋もまた豪議竃いぞかし
東京
でるう
若緑竜馬の像は山伐に向く
W・
1
京
に行く人は少くなり、銭海も妥を消して
どんな家にも自宅に潟があるから銭湯
銭沿は庶民の名妓りパ浦川被く
評
を豪いてある危っかしいものである。
行く。がたまに残っているところに菖蒲
思
光
代
集
治、
福
ぃ。町の中は騒々しいが寺々を包む双山
i鼠
部
s
田
師昨京で街をとる
ならば官双山がよいらし
弘
時Z
好
図
句
゚
領澱欝窓総
明
土
群馬
~
縮
浄
山坊の大気滋みなり衿の花
岡
鰍際機
傘子
東京 小笠原容制作
お手仰の心静かに新茶の答
東京猪顕
山口三井
実情況子忌の碑文の石の円やかに
山円
海の日や問怠総で樽光寺
三盆
鼠縄開のかすかにゆれて五月風
福岡
h 前淡刈り近き恩給かな
グ
縮問
石仏を品円に待つ獲の衣史
五月時明皇后招き権樹祭
叫円山富貸江
福岡 安藤平次郎
入学児踏切りは列正しおり
融醐尾衣+骨子
切
福岡 江上
允予
著葉風駆けて来る児の髭をそぐ
福岡
母の忌や母の好みし豆の飯
大分丹羽
この寺に来て又蛇に出合うとは
花の副閉門紫門中い大海師
徳間 行正一如子
七条のお袈裟も軽〈更衣
蓬餅美しき師は京有Hも
露
迫
絶筆となりたる色紙器惜しむ
山形
父限る選前に燃のよくとまる
山形松田
裂の花にかかわりもなく際舞い来
東京
釣人の糸の光れる五月雨
福岡
立飯を炊けば炊いたで裟同志
東京 吉田ゆきえ
信号の赤見えかくれ夏木立
上協同淳弥音
法主園野みな
霊
祭
・めの隊法衣
- 21-
山
上
野
田
iミ
う
畝
福岡
東京 米常てる子
繰越しにやさしく鈎〈 mm
梨
た
代
傘
牛
中
木
魚
重量
震
荒
牧
m
1
1
1
1
高
荒
牧
国
俊鋒会や古恩人と膝連ね
京骨川
更衣またも身軽となりにけり
生
山
秀
代
風
新
岡
京
持
慈
光
福ま
中
田
問
良
弁
福
東
松
j
Q
j
ヨ旨
~
田
船
ちかねたようにわたしをさそってんの遠乗りに
中国山脈の暗々の雪が消えて官がおとずれるとま
してくれた瓦だちたち。
ここ史作間ハみまさかのくに〉での楽しい毎日没とも
- 22-
第三回
来
ら九年。
わたしは父と母といっしょに手をあわせていて
たか。
往
勢至丸ものがたり
哉や
字
哲三
の地球へき
わたしが宇宙鉛「なむ号」とともこに
村吉
i
_
いま し も と お ざ か り ゆ く 宇 宙 均
それはわたしの友だち。
布号
一
司且 、,吋
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、,、 .・咽島"'1
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、
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E
わたしは労至九ハせいしまる〉。
一
\夫君,,;ー」三宮I!IV"
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グヨi?'-竺ヨド -
めてよろこんでくれた。
ける父 。 わ た し が 上 手 に 馬 を か け さ せ る と
日をほそ
母は 母 で い つ も わ た し の こ と を 気 に か け て い て く
送ってくれる。
れたから家をで忍ときはかならず手をあわせて見
「どうぞ勢至丸をおまもりください」と。
夏に な れ ば 村 の 子 ど も た ち と い っ し ょ に 池 で の 水
あそび 。 ふ な や 鰹 と も 仲 よ し だ っ た 。
H
、
みんなで食べた款の口。
こっちが大きいHH いやこっちの方が大きい
色ずいた山の木々のトンネルをくぐって架の突ひろ
い。
よ Hといいながら
よかったね
H
H とよろこ
此引の口にはとなり村の子どもたちとの宮令験。
そんな毎日はあの宇宙での
びあえる旅と同じであった。
ああわたしはこの地球への旅をしてよかった。や
、
それは字街船「父号」「符号、「わあわあ号」「ぴ
i|
みんな友だちだった。
、
、
、
ょんぴょん号」 「ざわざわ号」「小火り」 「鯉号、
しかし
それはひどい日照りであった。
稲はどんどんとかれていく。
お寺やお宮でのお祈りのききめもなかった。
畑の作物もとれない。
水あらそいがおこったのはその真。
父漆問時間ハうるまのときくに〉のところへよその
村の武士がやってきたのもそのときである。
その武土は父にむかっていう。
友だち 。 ぴ ょ ん ぴ ょ ん と は ね る た く さ ん の 虫 や さ か
しの村人も閉じほとけさまの子ならばおたがいに助
だといっておられるとのこと。あなたの村の人もわた
mω
な。ざ わ ざ わ と お し ゃ べ り を つ づ け る 木 の 葉 川 の な
「あなたはいつも生きものみんなほとけさまの子
がれ風の音。いつもわたしのあとをついてくる小
にどうか水をわけてもらいたい」
けあうのが本当であろう。困っているわたしの村のため
さしい 父 や 母 。 そ し て わ あ わ あ と さ わ ぐ お お ぜ い の
犬。
ありありと見
部屋の中からきこ・えてくるのは武士の大きな戸だけ
である。
わたしにはだまったままの父の顔が
えるようであった。
でもいいというのか」
そういってわたしの家へおしかけてきて火をつけ
、。
るだろう。そしてもしかしたら殺されるかもしれな
-h
v
それがわかっていても水をわけてやるべきなのか。
n 分の付の行がぎせいになっても
いい の だ ろ う か 。 死 ぬ 人 が で て も 。
よその付のために
それでも父としてはいつも古っている合指の通り
よその村人を助けるべきか、それとも
いのいのちがかかっているのだ。
のいのち宏まもるべきか。
自分の付の人
武土を見送りなからじっと紘がわに立ちつくしてい
、
食べるもののなくなった秋には病気の人や年寄り
がつぎつぎと死んだ。竹馬どっこをしてあそんだわ
わたしのまわりから
かわいそうだった。
いなくなる。
たしの友だちも。
その友だちのさいごも
からだの弱っていた 友だちの父却は 食べものがな
に闘っている人は助けてあげたかっただろう。口分一
くて死んだ。
人がぎせいになってすむことなら。
友だちはそれを 村の水門をやぶって 水をからに し
しかしこんどのぱあいはそれはできないお
。おぜ
- 2
-1-
る父の背中にその思いがにじみ出ていた。
もし こ こ で 武 士 の た の み を き き 入 れ て や っ た ら
その夜よその村の者によって漆間の池の水門はや
った い ど う な る の だ ろ う 。
ぶられて 水はなくなった。
それでなくても少いいのちの水である。
なかよしの鍵はかわききった泥の中で 口をあけ
だい い ち お 百 姓 た ち が だ ま っ て は い ま い 。
「漆聞きまはわれわれを殺すつもりか。村の者が死ん 丸い目が空を見ていた。
b、
べてよかったね。ありがとう。」
てしまったとなり村のせいだとかんがえた。
"しかえしをしてやる、かたきをとってやる山といっ 「なんにもしてあげられなくて君は ぼくや父を
らんでいるんじゃないかい。」
ていた友だちはある夜となり村の武士の家へしのび
わたしがあやまりながらいうと友だちは か・えっ
こむと火をつけた。
「それよりもこれからはぼくの字宙船も思い出して
てなぐさめてくれるように
かんぽれよ
H
お金をくれなくちゃ H
H
雨が降れば『ざあざあ号、
とも
、
しっかり
H いそがし
今
お日さまが照れば『かんかん号 』の宇宙船が。
れるんだ。
いつでもどこへでもだれのところへでも米てく
いから Hともいわないよ。
せん H とも
「そうなんだ。宇宙船はHあなたのところへは行きま
ね Hとはげましてくれるんだね。」
かげでみんなが米てくれて
「ほんとうだね。いろいろな宇宙船と友だちになれたお
らJ
震にはなかよしの宇宙船がたくさんあるんだか
グ』んにちは刈ってとんでくるよ。
くれたまえ。 Hおーい H ってよんでくれればすぐに
友だ ち は そ の ま ま 出 て こ な か っ た 。
われわれのいのちはほとけさまか
H
わたしは父をせめた。
「父上は日ごろ
c
それなのにどうしてなんに
らのおあずかりもの。たいせつにしよH
うといっておら
れるではありませんか
あいさ
わたしの抵の中にうかぶのは 。ナル山
6
込してあげないのですか。だからとうとう友だちは
ー ll」
だまったままの父
λあげてくる
w
』
船「玄 . た ち 号 、
出発のじゅんびもおわったらしく 友だちが
つを し な が ら い う 。
仲よくあそ
「地 臨 時 で は み じ か い 友 だ ち だ っ た け れ ど
- 25-
う
うれしければ司にこにこ号四が。
かなしければ『えんえん号』がきてくれる。」
万のふれあう音わめき戸。
それらのひびきがゆめの中のことのようにながれて
ふたたびまえとおなじ静けさ。
ゆめなのだるうか。
そういう友だちに手をふりながらわたしもあかる
い戸でいった。
手をあわせて
ソグの火がまたたいて母とわたしの影が
手をとりあっている母とわたし。
ょこたわる父。
「宇宙船の往来の旅がこれからも楽しいことを祈る。
さようなら宇宙船『友だち号。』
ロ l
比もとで
いちだんと
だつた。
gせいにしてしまった。そ
これで
H
ζめられているよう
あかるくなった。
ほっとした Hという父のおもいが
ほそく小さい戸ではあったがそのなかには
れでこのように:::」
できないで多くのものを
いけなかった。しかしわしはそれをおこなうことが
「みんなほとけさまの子どもだ。たすけあわなければ
る。父が大きく息をしたのだ。
ゆ
れ
〈つづく〉
- 26-
こうしてぷ・たちな巡ってからまもなくのことであ
る。父と別れることになったのは。
父を殺したのがあのとき「水をわけてもらいたい」
とたのみにきた武土であったのかどうかはわからな
、。
'hv
母にゆりおこされ
ヵ:
ただ明石源内武者定明ハあかしげんないむしゃさだあき
ら)という武士だという。
いつもとかわらぬ晩であった。
ぐっすりと眠っていたわたしは
た。
戸がたおれて とおく近くにきこえる人々のさけび
火
27 ー
-
(血)
勇す
ナ 』抄 訳
典之
-開会+同会 食会食 会女会 食 会 *
占H
・プ ラ l
山3
インド文学の香り :::『lパガ ヴァタ
王
治
に住んでいたのか。話したまえ。至福者はあらゆるもの
んだのか。またその蛇は多くの劫の問、住所としてそこ
至稿者はとのように、蛇を深く限りない水底に押し込
王は質問した。
の蛇を追い払った。
ヤ〉に汚されているのを見て、その清らかさを望み、か
川に蛇カ
l
福徳あるシュカは語る。
物も死んだ。
l
、
しぶきと慈の水の波風に触れて 岸辺では、動物も継
によって、水は煮えたっていた。湖上を飛ぶ鳥も落ちた。
カ l リソディ
リャの湖があった。懇の火
という甘露に喜び、満足しないであろうか。
に遍在し 自分の意のままにどこにでも往する。一体何
、
退
福徳あるシュカは語る。
ヤ
人が、ハ歪術者が身をあらわした)牧人としての気高い行為
カ
-労者タリシュナは、ハl
カpyJ アィ 1川が〉黒い蛇〈カ!日
蛇
激流
、
カダンパ樹に
務 ・必放さ、また彼によって汚された川を見る
・
と、悪人を征服する化身・タリシュナは
川にとびと んだ。
登り、きつくまわしをしめ、てっぺんも笠ゆすって、畿の
蛇の湖は、人聞の首長の落下の衝撃によって握動し、
色の恐ろしい波は、百ダヌスもとんだ。しかし無限のカ
蛇の畿を吐きだし、ハ畿は〉周凶にとびちった。畿の赤茶
をもっ彼にとって何であろう。
象のような足どりをして湖を歩き、長い腕のゆれによ
る水音を聞き、自分の住所が荒らされたのを見ると、蛇
、
、
、
恐れ気もなく遊
消らかな、微笑で突しい顔
黄色い衣の
、
若々しい、黒い
はがまんできず、ねりまわった。
美しい
ハ胸に〉シュり lグァトサ
、
んで いる 、建のような足〈を帯する者〉にかみつき、怒
って、関節をとぐろでまいた。
財
・
芸
・
希望をゆだねている彼
・
担句を股いて、恐れのあまり、泣いているように、立っ
、
、
天に
、
そして彼等自身の聞に発
、
牧草地には接近する恐怖をもの語る 恐ろしい
ていた。
さて
、
、
ハ兄
Y
フ I マとは別に、牛を散歩さ
、
ナングを始めとする牧人は 恐れおの
クリシ品ナが
、
三径の前兆が 地上に
生した。
、
それらを見て
のき
、
彼を生命とし
、
心とする人
これらの凶兆によって、危険が近づいたと考えた。ま
せに外出していることを知る。
たそれを知らない人でも
・
マドゥの子孫 ・弟
ちょっと笑ったが、何も 3 わなか
、
l
川の岸辺に途
ンュナを探しつつ、苓私者の印のあ
、
、
妥まで家畜で生引訂する人々は落胆し
恐れにさいなまれた。
・
子供から老人
は、苦 ・悲
マは
J
、
クリシ品ナの様子を見ょうと出かけた。
l
このような元気のない人々を見て
した。
る足跡が示された道をたどってヤムナ
人々は愛するク
った。
蛇のとぐるにまかれて、未・たかつて見たこともないし のカを知るラ
友
・
ぐさを見せる彼を見て、貌友 ・牧人たちは動絡した。ク
、
大変心配した。タリシュナに
、
恐れに心を乱されて卒倒した。
・
子牛も鳴き
・
憂
・
牡牛
・
苦
リシ品ナに、日己
等は
牛
-28 ー
そこここに
、
蓮
支
・
ひづめ
・
mmづま
-
旗を抑 え た、
・
種族の長の足跡・を、牛や他の足跡の聞に、見わけつつ急
いで行った。
湖の巾で、虻のとぐろにまかれて、身市き山川来ないク
リシュナを、 Ft はなれて川聞の制作辺で見て、また思織を
・
吉穏を思い出した。最愛の伎
至福者クリシ品ナに心を集中して、友』刑
まなざし
・
、
驚いた。
、
失っている牧人、あたりで鳴いている家冶を凡て、心を
乱され
牧女たちは
あるほほえみ
、
愛人の奪われた三界はむなしいものと思
った
。
が蛇にかみつかれているので、央しい苦しみにおそわ
れ
、
、
一次をどっと流し
彼女たちは子供のあとを追って行くクリシュナの母を
気の畿に思い 同じようにおののいて
、
た。めいめいが牧草地での楽しい訴を揺しながら
まる
で死人のような頗で、タリシ品ナの頓に視紘を投げかけ
ていた。
クリシュナを生命とするナンダ今が、ーに入って行こ
うとするのを見ると、タリシュナのカの容を知るラ!?
は彼等をおしとどめ七。
、
人聞の泡に従い
自分を原因として女
、
、
一瞬息を
・
子供も大
こうしてハタリシ&ナは〉日分の牧草地の人々が他によ
りどころがないのを見
変苦しんでいるのを知って
ひそめ、蛇の束縛から立ちあがった。
、
、
たいまつのような
・
μで
、
?l 音をたて 身を起こした。鼻先に議・ フラ
、
立ちあがる身体によって、白分のとぐるをゆすられた
シュ
シ
怒って
蛇は、〈彼を〉投げだし、傘状の顕をもちあげ
l
イバンのような、みすえた眼
仰が蛇をもてあそぶよう
Aナは、まるでガルダh
リシュナを克つつ。
y
クリシ
に、とびはねた£たるや、こまたにわかれた舌で口の
両端をなめつつ、大きく聞いた穫の火のような限をし、
好機をうかがいつつ、動きまわった。
、
その動きで力の衰えたハ蛇の〉高い肩を折り曲げ
広い
チャ
・
、
7
フナなど天界の女たちは 喜とび
i-
、
、
大舷や他の袋駅仰をかなで、歌いたたえ 花
・
・シ
HU
頭上の虫干れに触れて、まつかな迎のような足、一切
の
M
京-の師、クリシュナば刈ろうとした。
スラ
・
泊ろうとするクリシュナを見るや、カソダルグ
V9
喫然 、小蚊
-29-
や供物をもって近づいた。
きもをつぶした妥たちは、身体を地上に平伏して、後
に敬礼し、子供をはじめ、手のひらを中空にして合本
ナ〉に保躍を求めた。
突に百もの顕をもっとしても、どの一つも叫仇してハ除 し、邪忠な夫の抑欣を盟み、位陣E
唱を与える#引〈タリシ&
怠したと〉顕を下げようとしないで立ちあがるその顕を、
、
消沈した。
足で蹴り
、
、
押えつけた。こうして彼は、最高林のよ
、
花で供獲された。
、
、
身体を傷つけられ
グリシ品ナの野生的な FR
によって、。4のような
/・
円から血を吐き出し
衣
飾り
・
援の結びも盤
・
出火に過失をばするものであるから。
、
、
、
れを願って浮気な財の女神シ品リーは欲盟を捨て
、
何日
りえない。あなたの起の直に触れる資絡についても。そ
夫について何物の威神力があったのか、私たちには知
4M
論。
道徳が。一切の生命であるあなたはなぜ満足しないの
、
が必要であろうか。あるいは一切生類をあわれむ彼に
、
激に
しい苦行
昔、向日時伐を捨てて、他人を時重した夫
すから。
ように。なぜなら彼の身体的状態が舵ということなので
たとえ怒りがあるとしても、あなたの思忠が必められる
るあなたの刑伎は
あなたの恩恵が私たちにあるように。邪聴な者に対す
に視るあなたは、結果を考えて、刑杖を与えるべし。
身は悪人の絞減のためであるから。敵をも息子をも平等
患者に対する刑杖を持つタリシュナは、足の蹴りによっ 蛇の mk
たちは願う。
て、踏みつけた。蛇は甚しく血を口・鼻から吐き出し
過失を犯した者に刑杖はふさわしい。突にあなたの化
動きまわって 、活力を 失い
しかし怒りによって鼻息もあらく、限から寄を吐き、
、
頭をもちあげた。しかしその頭の上でハタリシ品Vナ
踊は
り
うに
ヱよ
頭をつぶされ
、
助けを助めた。
蛇は、動くもの、静止したものの師、且取商科ナ!iラヤ
ナを心に念じ
一方、胎内に世界を有するクリシュナの、あまりの重
、
さに倒れ、足の蹴りで傘のような頭を破駿された蛇を見
ると、そ の来たちは心を乱し
わない ま ま 、 タ り シ ュ ナ に 近 づ い た 。
30 ー
-
、
、
地界の支配
、
一
解
怒りのままな
ョ l
無知の生れ
、
他のことでは迩しえないものに注し
、
、
、
普いも堅固に苦行を行じた。
、
その足の臨に迭した人々は 天界の取きを盟まず
時の間
王権
、
、
ガの成就
切の地上のもの
。
、
ところでこれなる蛇王は
脱を も望 まない
るおであっても
、
、
た。それを望みつつ 輪廻の輸をめぐりつつ 身体を有
するもの〈埠苑)には 限前に大いなる写楽がある。
主によっ て見守られるべき汝の家米によってなされた
、
愚
行 を出したまえ。
過失は、一度はがまんされるべきである。あなたが何で
あるかを知らない
/
歪稿者よ /恵みたまえ。蛇は生命を失おうとしてい
、
生命を与えよ
あなたの家米である私たちに指示したまえ。あなたの
る。悲しんでいる私たち女に対して
、
一切の恐れから解放される。
蛇の妻たちに称賛され
、
足の打
命令によって私たちは実行すべきである。心のそこから
実行する者は
、
明
m徳あるシュカは語り続ける。
このよう に至福者は
した。
、
l
、
、
かろうじて息安
グリシュナ に言った。
リヤは
撃によって意識を失い 頭をつぶされたものをときはな
、
静かに合悠し
、
務び感官 生気を得た蛇カ
l
リヤは♂う。
し つつ二 元気なく
カ
我 Aは生まれつき邪悪である。怒りは無に
知
よって長
一ニ徳性の来である全世界
、
くつづく。股間のものにとって本性は捨てがたい。思を
/あ
・ なたによって
所有するから。
創造者よ
が創造された。様々の性質 ・勇気 ・能力 ・源 ・極 ・意図
安が。
、
捨てがたい
、
あなたの幻力をどの
、
この世で我々蛇は 本性として怒りを有する。n ら迷
わされている我々は
ようにして姶てょうか。
あなたはここでは、第一原岡・一切知者 ・世界の支配
、ぇ。
、
者である。好意か敵対か考え それを我々に命令したま
福徳あるシュカは統ける。
- 31-
このような言葉を聞くと、目的のために人聞の姿をよ
人間によ
・
て淳受される
そ
接に常むお前は、ためらうこ
・
この川は牛
-F
世界の守必奮を供養し、ガルダhm
を虫印とする彼を満
、
〈第十巻十六章〉
をする査制打クリジュナの思恕によって。
ぷ ・友 ・息子と共に彼は、海中のぬラマナカへ行っ
た。その時からヤムナ i川は惑のないものとなったばか
りか廿認の流れかと思うものになった。遊般で人聞の聾
あいさっして。
そおう至稿者は言った。蛇よ/・お前はここに止まるべき 足させて、そして許された者は喜こぴ 右めぐりをして
。
でない。口分の斑頑
べきである。
となく海へ行け
人々はお前に対する私の命令を覚えているであろう。
の〉恐れをはなれるであろう。
そして朝夕の神明時に、これを歌い、お前たちのハ穐族
u
私が遊んだこの川で水浴して、神々などを水をもって
。
供録する。断食をし、弘を思念し、時敬する そうすれ
ナ伝認の中でも、幻知的な場面である蛇退治の久トl
リ
インドの大ぷにとって今日もなお人気のあるタリシュ
〔解説 〕
スパルナおは、その恐れから、弘の足跡 の印されたお前
ーである。
さてお前はこの湖を鈴て、ラマナカ島に移住すベし。
ば人はあらゆる罪をはなれるであろう
を食べないであろう。
蛇が、特に毒蛇が議蛇として生きるならば、周回のも
を与えることになる。しかしそれ
h
のにその#によって引
・
m を与える時であろう。
一時、人の人たる綜
円であるうか。お盆の
それでは衣々人間の本伎は一体m
マでもある。
福徳あるシュカは 一
山んに続ける。
故もすぐれた装飾品 ・寄
・
l
が務蛇の本位である。この告を与えることか本位である
、
宝石
・
ものの生き方が、このストーリーのテ
このように、駕異の行為を行うタリシ品ナに才われ
花飾
・
て、舵は背骨こび 彼を尊敏した。蛇の妻たちも恭しく。
神々しい衣
軟膏 ・大きな賢官忠信の花飾によって。
- 32-
、
、
当時の花洛で町宮市切れつ
の俗だ
u子
を説き 禁裡の公卿たちから多大の支持を受けていた。
、
、
堅一覚はこの上流社会の捜散にも通じていた。
俗な言い方をすれば
った。
当然
「ああ あの方ですか」
と抑三位兼子の名仰を附いて、日もとを復時にゆがめ
た。後鳥羽院政における影の托力者||
え吃
i 票一よか
寺内会。
抽断のならない相手ですぞ、と宮いたげである。
明週は坊の雌をうかがいながら、品川喰の一端を小山し
「総力の総点にはh
い nとなる人とわしは品た」
にしてみたくなった。
「如何にもL
「利には利を以って説くことじやろう」
「利とゆしても財貨には意外と悟淡たるところがある」
「なるほど」
「その利ではない。治勢の直における利じゃ」
「悶三位が目下最も然になるものは何か」
「おのれの樹勢の邪庇になるものという意す
味か
で」
ー
- 33
念命 32 ・一週ω忘
; ニ;; j
型覚法印は 年齢は若いが父汚態ゆずりの弁舌で仏法
、
察隊、
、
「それは 院の寵愛を 一身に受けている女人ではなかろ
うか」
「・・・・」
・・
mI
覚は黙して答えない。
「女人の敵は女人じゃ」
、
うか。法然はそれほどの仏者なのだろうか。
未だそんな反省を胸で噛みながら安店院をあとにし
た。
切泌が附三欣娘一寸がいる岡崎の餌災邸へ到汗するまで
の問、いま一位判例鴛たちの問題にふれておきたい。
、
あの建永の法難時 熊谷遥生凶は何をしていたのか。
が 、こ れも法然流罪という非法な裁きへの抗議だった、
やがて彼は上品往生を大衆の面前でやってのけるわけだ
作戦を小出しにしながら 明過は次第にそれが確信に
一身に受けている女
人と は ? 」
「誰かな、現在院の龍愛吉
親鷲はどんな卯科で越後へ旅されたのであろうか。い
と鍛者は受けとめている。
ふくれあがってくるのをおぼえた。
知っているくせに盟覚はとぼけているように思えてな
らない。
「わたしにもわからない。卿三位と話していれば明らか ちおうの推理は立ててみたが、さらに突っこんで論証し
いかに甥の盟覚とは言え、手の内のすべてをさらけ出
洩らすのはそこまでだった。
、
してしまうのは得策ではなかった。聖覚も、出追いはして
こない。
、。
、
その
「欽呉抄」は純情の代六的な所組問として後肢の将価も高
所懐としたのはこれが綴 M 自身の述作ではなく
-LV
門弟唯円による聞き引きの笥述だからである。
喰(とりばみ〉の唯問 河和印〈かわだ〉の唯円である。
沙弥法然の身を守ることが、仏法の大事と・同えるだろ 問の唯円と dわれる。
、
「うむ:::仏法大
の 恨だ。ゆかずばなるまい」
どちらも束同の地名だった。「歎典抄」の編述串引は河和
当時、親鴛には唯円という同名の門弟が二人いた。鳥
と辛 口 っ て し ま っ て 明 過 は 、 ち ょ っ と 反 物 す る 。
「これから ゆかれるのか」
ておく必要がありそうである。
一
になろう」
- 34
、
親鴛が亡くなったあと とりわけ関東方面で親驚の教
mユ
鴛
mガ膏ロフコトヲ途
ス候シカ-ハ、サテハ初何
MF
モ心-一任七タルコトナラパ、往生ノタメニ千
即チ殺スベシ。然レドそ一
νユ
フマジキトハ軒川フゾト。
コテ知ルベシ。何
やかしだとも言う。
我ラガ心ノ良キヲ
、
求できるか、とたしなめる。それこそ「本願必り」とま
、
親%はそんななまぬるい信心の態度で 真の救いを希
量では一人だって殺せません」とたじたじとなる。
て米い、と制叫鴛は唯円に命令する。唯円は「私ごとき総
心から往生を願うのであれば、今から人間千人を殺し
足して読み日勿くした。
引用が長くなった。大半が仮名文たが適立に慌字
を
Mm
コトヲ仰セノ候ヒシナリ
顕ノ不思意エテ助ケ給フト言フコトヲ知ラザル
バ込シト思ヒ、思シキコトヲパ恕シキト思ヒテ、
ルベシト仰セノ侠ヒシカバ
t
タ害セジト思フト モ
f百人 .千人ヲ殺スコトモア
ルナり。殺日ガ刀心ノ内良民クテ殺サヌユハアラズ。マ
I来
人ユテモ叶ヒヌベキ、叫
ポ
木紋ナキ-ニ=二叫当『
、
えを幽げて布教する門弟が多かった。唯円はこの鼠潮を
ルする要因として、その論理がつねに
一
人殺七ト言ハソニ
嘆き、師の正しい教えを伝承するために、生前の聞き書
きなど を ま と め あ げ た の が 「 歎 呉 抄 」 だ っ た 。
後世において「歎異抄」のぷ価はすこぶる高い。宗品以
「異」を「欺く」から「歎災抄」なのである。
1
、
論叢としてばかりでなく その文章カが近代人の鑑賞に
近代人にアヒ
耐え得るのである。
、
サン候トゆシ候ヒシカ
マタアルトキ唯円房ハ我ガ言フコトヲバ信ズル
恋人正授の論理である。
逆説志向で新鮮であることが指摘できる。よりなまなま
しい迫 真 力 が み な ぎ っ て い る の で あ る 。
11
セノ候ヒシ問
、
例
ラパ言ハソコト途フマジキカト抵サネテ
ヵ、ト仰
バ 、サ
仰セ候ヒシ問 、謹 ゾデ領状申シテ候シカパ
、
へパヒト千人殺ジテンャ、然ラパ往生ハ一定ス
ベシト仰セヒシトキ、仰セユテハ候へドモ
人そコノ九%ノ器量-一テγ
ハツ
殺ベシトモオボへ
- 35-
く査とかわらけなど>
g
- 36-
、
恐ろしい文なである。制誌も、倫理も
いわゆる社会
良践を然観しきって信心の純伎を透析しようとする。
親鴛はこの文章のすぐあとで、典拠として艶党法印の
「唯山崎抄」を引用する。
||弥陀仏イカバカリノカマシマスト知リテカ罪業
ノミナレパ教ハレ鮭シト思フベキ
・
この強力な筆力は現代人をも圧倒する。高度な救済を
!ータトヒ法然盟人ニスカいレマイラセテ、念仏シ
テ地欽ニ -チ
r タリトモ、サラユ後悔久ベカラズ
リケル身ガ、念仏中シテ地獄ニモキサチテ候ハパ
候。ソノユエハ自余ノ行モ励・ミテ仏ニナルベカ
コソ、スカサレ穆リテトイフ後悔モ候ハメ。ィ
定住ミカゾカシ
ズレノ行モ及ピ鍵キ身ナレバ、トテモ地獄ハ一
たとえ法然上人にぶまされ、念仏して地獄へおちても
これを安易に受け止めたら「何を大げさに」というこ
全く後悔しない、と鰻鴛は言い切るのであるe
とになるであろう。鮫義政鋭だけの間勉だったら、地獄
下司(げす〉な宮い方をすれば、こんな文京が碕ける
望むなら、奈落の程調を覗いて米い、と命ずる。
のはこれに迂い災件陵、作担為剣をくぐり抜けてきた者
へおちょうか正しい往生を遂げようが、きらきら柾闘は
る。
だからこそ「歎具抄」の次のような文章も初きでてく
舎町
J
。
しつつ全身全症で阿弥陀仏の数済を信じたことであろ
ストモ:::一
TAA
ニモ山中七、タトヒ恕道-一ワタラ七給フベシトゆ
||上人ハ法然〉ノワタラセ給ハン処ニハ、人ハ伽何
娘覚伯尼への治状のなかで、こう円いている。
まさしく綬鴛は、あの建永の法僻向時、惨酷な処刑右覚 践らない。見届ける♂人もいないわけである。
悟したにちがいない。周婦の斬汁を今日か明閃かと予測
観鴛の都世市芯釘尼は、
U大
L
t
河
年
〈一九二一)に宛見された
だけであるう。
- 37-
、
腕組みしたりの思然ではなかった
、
、
、
些かにひろげてくれる。
t-ー
,.,...., t=
ì...
,
2
机上にもたれたり
、
、
処刑:::藤原定家がその
ー­
のである。
その冒頭で
、
、
、
党仰が伝示してまとめたも
いつのころか不明だが 建永の法鉱山似総としか考えら
ヨシ勅定アリ
アルベカラザル」ヨシコレヲゆシミダラルベキ
明導トシテ「塑迫ノ諸宗ノホカニ別シテゆ土宗
ハジメ行ハルルツイデ-一 、安附院ノ法印盟党ヲ
ヲ破セラレンガタメユ禁中ニテ七日ノ御逆修ヲ
、
ラ一天ニ満テリ。コレユヨリテ カノ立京ノ義
、
ナリシ時 上一人ハ天息)ヨリハジメテ偏執ノ縦
アル時 黒谷聖人〈法然)浄土真宗御奥行サカリ
、
おりの御物語」した内容を
これは親鴛がその子如信ハ本願寺二位〉に向って「おり
「ロ伝紗」は本願寺三位 党如上人の娯述になる。
、
...."....u
z
竺.
であろう。親鴛が直面した地獄とか思遣は なまなまし
い現実であった。逮捕 拷問
、
メ取ラレ 拷問サルト云々。筆端ノ及プ所ニアラズ建
〈永
日記の「明月記」で説 く 「近日 只 一向専修ノ沙汰 捕
、
師の法然もまた同じ奈落の底へ引き.すこ
りま
二年二月九日どという酸鼻をきわめた地獄であった。
そして
れようとしている。
どうして「歎異抄」の
なんらかの暴発 、 狂燥行為があ
、
「口伝抄」の苫き出しは推測の領域を
-38 一
この法然に欲まされて同じ奈落の底へ引きずりこまれ
、
ても「サラユ後悔スベカラズ侯」の親驚であった。
こうした実体験を踏まえずに
、
親驚があの法銀事に
、
弟子どもへ明訓押しきれたであろうか。
あの激越な文章が湧き得たであろうか。恋人正機の磁憶
を
、
ったにちがいない。だからこそ逮捕 越後への流却なの
とはすでに推測した。
推測だけで確たる資料はない。
であろう
磁たるものではないが、それを暗示する記述が絶無で
、
もない。後世の取りつくろいでかなり体裁はととのえら
れているものの
・
.,
、
これを
れない。天屯以下
ていて
、
||
誹議すること
呼岱念仏を倫明う徒雄が天下に充満し
巾シミグラルベキ
H
H
を目的として宮中で「法論 '
一が聞かれた。聖道門の諸宗
府市判官には聖,克己印がえら
。
、
このあと物語風に追うと こんな
った
のほかに浄土宗を新たに立宗させることは是か非か。そ
った。
、
れが法 A の テ ーマとな
ばれたのであ
「口伝紗」の記述を
筋道になる。
。
、
法然は、この法論へ専修念仏教団から誰か代表を送り
、
n体が危うくなるとして
、
その人選に悩
「もしこの時中し破られなば浄土の宗義 何ぞ立せん
こまねばならなかった
や」
教問の存立
む。
やがて決断を下し
だが規鷲は辞迅する。未だ年符く〈沈滞の建永二年同吋で
すら一一一十五歳であった〉法然門へはいって口も伐かった。
、
重大な使命もだしがたく 結局殺鴛は出かけることに
なる。介添人として間連のひじり埠静房西意が同行す
る。
すぐに出てきて規驚
、
温引
宅、
間
まず安m院
m に型覚法印を訪ねると、折から風(
うんしっと読む〉へはいっていたが
を優さしく迎える。
「たとひ勅定なりといえども師範の命をやぷるべから
あまつさえ伶土の宗袋
、
と言って型党は法然の弟子たる立場を明確にする。
ず」
、
「聖道 浄土のニ門を混乱せず
、
御心安かるべき由、中さしめ給ふベ
を申し立てはんベりき。これ然しながら主命よりも師与
を噴くする放なり
し」
、
へ出かけ 堂々と浄土門の数相判釈
かく て親鴛は宮中 ・
、
、
上乗の成果をあげて東山吉水の禅室へ戻ってくる。
に手ぐすねをひいていた聖道僧たちのロを封じた。
、
と純 情 を 指 名 す る の で あ る 。
「普信房その仁たるべき」
のである。型党もまたこれを強く支持して 誹識しよう
を述べ
新し く宗派が樹立されるべき必然性を主張した
門弟たちも
「もっとも然るべき」
と全 員 が 一 致 し て 同 意 す る 。
- 3
9-
、
、
法然に報告する。同行した務純房酋意もそれを裏付け
て、
されただろうか。
型立法印がからんだとすれば、元久元年〈一O
一図
一〉に
ただしこれは「法治」ではなく、山門の弾圧に対して法
比叡山へ送ったいわゆる「登山状」が考えられてくる。
例えぽ、
だ。
解者として比叡山との融和をはかろうとする意図が歴然
スル」などという強い姿勢ではない。念仏門への・以き理
盟党の立坊は法然の門弟として「王命ヨリ師孝ヌ瓜ク
然が担立に忍かせた文作円である。
「西意 二座の説法 聴聞仕まう終りぬ。言語の及ぶと
態度の清々しさを賞め讃え
、
、
スデユ消撰エアタリテ使節ヲ
、
ころにあらず」
と親鷺の発言の正符さ
る。
、
||三百八十余人ノ御門侶ノ中ュ ソノ上足ト雷イ
ソノ影用ト富イ
両立マタ証明ノ発 3z 及プ。
、
「念仏を修せんおは余行をそしるべからず。そしらば即
勤メマシマス所ェ
副部ラタハ多
UL必明ノ伐材 Fに相向ジキモノオャ。
ち弥陀の悲願に叛くべき故なり。余行を修せん者も念仏
しかるをいま
真言止観の窓の前には念仏の行をそし
、
をそしるべからず。また都仏の本寄にたがふが飲なり。
コノコト大帥曹人ノオン時随分ノ面目ナりキ
ら越後流刑までの六年間に宮中でそんな「法論」が実施
一〉の三月ごろと思われる。彼二十九歳の春だ。それか
ところで鋭鷺が法然門へ入ったのは建仁元年三ニ O
をいう。
とある。
もに仏意にそむけり」
同じ聖覚法印か古いたと言われる-唯信抄」では
、
他
いに任して会釈をなす。あに E般にかなはんぞ。ムなと
塔品の説で、法一掃の説法がおこなわれたとき多宝如来が
る。一向専念の床の上には諸余の行をそしる。ともに技
宝格をゆ・さ出させて、訳噂の税法を証明して見せたこと 生制執の心をもて設理をたて、互いにおのおの是非の思
「口伝紗」はこう結んでいる。多宝証明とは法華経の宝
40 ー
-
、
「登山伏」を苫いた時点との聖
カ念仏の絶対性を強調している。
これは矛盾ではなく
、
ただの理解者であったことを物語って
覚の立場の相異であろう。つまり未だ法然設に徹してい
るとは忠われず
いる。
とすればこの定永の法難時に聖覚が宮中へ乗りこんで
、
「王命ヨリ師孝ヲ重タスル」ことはあり得ないであろ
。
是円,,
釈迦四天田像ヲ供
n
現に勝四郎・足家の「明月記」
法は
捕された念仏ひじりた
、
ちが苛限な持問な受けている二月九日からわずか十八
後の記述で「御読経-一於テ
mv
党.
伯郡
義柏科鹿西意である。あえて筆者H問
も題のひじり 山とし
ておいた。
、
親mm
の介添人として禁襖へ出向き法論を巨細にわた
‘。
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…一
一
一 …
って検分してきたこの特科
Mとはいったい何者であろう
AM
ι
、
嵯峨の二噂院に念仏ひじりたちの迎帯状が現存してい
る
、
七箇条の制誠を定め
O 凹〉いl一月七日 法砂仰が門弟た
これは元久元年〈一ニ
B いた聖覚
てそれを守ることを嘗わせた交名状た。前に
袋。長房卿奉行:::汰デ七仏楽部結顕。庭上二楽・有り。 ちの型道門への暴挙をいましめて
公卿東ノ対代ノ庄ニ在リ、顕兼朝医参ジテ般ヲアゲ公卿
誕q
八
ト九名に日以ぷ。そ
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;相官らの内初を先制.
酬h
に
、
白 身の「沙門出似沼」に始まって、ーい、ん
掛で
川、吋
法印のーな山状」と一迫をなすものである。
、
法然
ヲ召ス。内府以下品引制度。御加持γ
オヌ
ワ」という 仏引を
司祭しているのである。
凶
の門弟
の十七人自に西意の名がある。卓西、住蓮に続く。上起
、
影のようになす場してくる
されているのである。
そればかりではない。建永の法震時にはまっ先に処刑
と いうことができるであろう。
意図から発したと忠われる。
ろげる拍子となりそうなのは
ただこの物一古川で注目したいのは、かっ推測の領域をひ
粉飾であろう。真ポの開祖を法然門下中できわだせたい
やばり「口伝砂」における織田喝の武勿.?
ぇνは筏陀の
41 ー
-
ちなみに死罪を受けたのは安楽
、
、
、
住蓮と性願房 そし
てこの商意の四人である。安来 住越が女性風紀問題だ
、
ったことは知られているが 同意や性願房の邦科は全く
不明 だ 。
、
安来
、
、
化運ともども近江の馬測で析られ
性願M は「一人口ヨリ白挫低下出生
わずかに「摂津国エ於テぷス。佐々木判官ノ沙汰カ」
ス」と引かれ
と丙怠には注があり
たとなっている。
、
n
がこの幹緋凶肉立ではなかったか、
死罪にもとエスカレートしてきたとき、禁中
推測の領同棋をひろげると、法然への官必の断圧がきび
しくなり
へデそをかけた則
とも考えられる。
「口伝紗」が古く禁裡での法論 、 じつはそのデモ行進で
、
、
とは与えられないであろうか。
は苫けまい。ために禁穫での法論という紛飾がなされ
た
さらに親鷲のひじり名である糾空とか苫倍の辿怨から
もこの善綜房酋意が法然門中での高属の上足だったとも
、
、
後世のいぷ弟によって多くの紛飾
、
想像できる。自意が重要人物として登場してくるのは
宗教上の伝品問は
親鴛サイトの資料にのみ限定されるからである。
、
念仏ひじりたちが仰向
、
かくしきれぬ事実がそこに敷設さ
加筆がおこなわれるのは常道だ。額商どおりには受容で
きないにしても案外
れているものである。
それはともかく建永の法燦時
、
、
見逃してはならない事
、
にわが身を姶て 処刑されることもいとわず 彼らの師
法然の身を護り抜こうとしたか
卿三位兼子と対座していた。
、
しかし満繭を匂やかな笑
、
、
笑顔を結ぶような話題ではなかった。天下の一大事
顔で飾っていた。
すべてを聞き終えた旅子は
「このままでは騒ぎがひろがるとおっしゃるのですね」
参内しており
明過はすでに附崎の額出火邸にいる。主人の大院は院に
はなかったであろうか。.内意を先顕に開制鴛も追従して断 実であろう。
、
たちまち捕らえられ、拷問を受けたあと 頭自
庄の 非 を 鳴 ら し て 押 し か け た 。
だが
の西意は死罪。親鴛は未だ小者だったがために一死
等を
、
免ぜられ、越後へ流されたという筋枠内だったのではなか
ろうか。
本願寺の二世や三世が まさか宗組をデモ隊の一員と
42 ー
-
とまではいかないが 、人間の生命がかかわっている。
それでも笑顔が結べるのは、綾子の個性というよりも
いたのである。
「処置は一刻も早い方がよろしいでしょう」
あらためて兼子は名で呼びかけてきた。
「わかりました:::それで、明遍さま」
「何ですか」
宮廷の大奥で政治の枢機にたずさわる女人に共通した
環境であろう。
ボ!ズだった。どんな舵問題、また苦境に追い詰められ
どうなるのです
「そのようにしておきまったあとは
、
鋭く兼子の瞳が光司ている。
、
法然ご M でもおわかりのとおり
、
、
それを
議ぶおの
、
ない織力でございますよ。きょう 法然ご訪は
目といえば
「いいではありませぬか。おなり遊ばせ。専修念仏の頭
笑顔の底で
「まさか・・・・・・」
か。明遍さまが念仏者たちの頭自におなりなのですか」
、
ても笑顔を絶やさない習性が身に付いていた。
明遍は同時に二 人の女人の顔を思いうかべている。
一人は義理の母、父信西入道の一安紀伊ノ二位だった。
、
いま一人は 後白河院の愛妾で明遇自身も情を交わした
、
一戸を銑くだけに留めて
どちらも同じような笑顔をこぼす女たちである。
ことのある高階栄子であった。
「ここは遼原にひろがる火を
、
使うことの出
権力として使おうとしなかった。いいえ
す。あなたには出来ます」
、
明遍は兼子のやわらかい眼差しを避けるようにした。 来ない人なのでしょうね。その点明遍さまは違いま
おくのが上策かと思います」
、
「あの小鬼を 焼きますか」
ハッとなって兼子の顕を凝視したが、笑んだ表情は変
「小鬼・・・・・」
ねっとりと女の体臭が肌へまつわりついてきた感じ
「院にしてもそれほどの御執着はないかと思います。小だ。
、
事足、この院の気持は別の白拍子後の伊賀局へ移って
、
、
らず 安勢も坐る位置も不動だった。
愛車京伊賀町を小鬼と呼んだのは後鳥羽院自身らしい。
身一つうどかさず 画業と気配で相手を奔絡できる不
鬼などと呼びはじめていまずからね」
- 43-
、
思議な 才 能 と い う ほ か は な い 。
院の側近者たちが かねがね洩らしていたものだ。
、
あの剛毅な後鳥羽院が 卿三位にかかると金縛りに遇
、
金ツポマナコで顔は狭く
美女どころ
、
乳人の兼子はそんな訓練で後鳥羽院を飼い馴らし
ったように従順になってしまうという。乳呑み児のとき
から
、
てきたのかもしれない。
口が大きくて
、
か醜女に近いこの老女に 額突がころりと多ってしまっ
法然の弟子証空と密着している事実は
手にしません。わたしをもふ〈めて」
- 3
zu
・
この鹿へきて明遍は初めて胞を割った発言をした思い
・
ψhe ふれ
「明遍さまも純粋な信心者ではなかったのですか」
ハつづく〉
卿三位兼子も初めて声を転ろばせて笑った。
、
、
。
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一六
とくにご紹介します。
。ハガキ印制や案内状等 小物印制にご利用下さ
ど寺院関係の皆様に
。 阿島印刷有限会社
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T山刷中野区弥生町五|八
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U 三八二|一O 一一二
、
、
債引会一
-44 一
た都密もそこにあるのだろう。
「士ロ水ノ僧正もねらいはそこにあるようです」
「吉水ノ僧正が?」
天台座主慈円である。専修念仏を一気に山門へ級収し
てしまおうと意図すると言う。
、
「愚管抄」で慈門が法然や専修念仏の徒を悪しざまに馬
、
広くお願い…
『浄土』誌の購読希望者のご紹介を
、
…申し上げます。昭和五十六年度より年会費誌代を一
一法然
…す。一
な野望を裏付けるか。
鎌倉方が疑惑の隈で見ます」
、
「政路のことはともかく 専修の人たちは純粋に信心の
一念に燃えています。純粋な信心を持っていない者は相
上人
山三 OOO円に艦上げいたしましたが お見限りにな…
一ることなく
どうぞ末永く笠しくお顕い申し上げま"
りながら
。
「しかし吉水ノ僧正では誰も相手にしますまい。第
一、
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淑徳高等学校長
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東山学園長
石井
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一東海高等
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法
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《第 三種郵便物曾可》 毎月ご回一日宛行
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十七年A月一日盟
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第四十 八巻
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