「歌うアイステッズヴォッド」 における労働者の身体: 19 世紀後半における

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「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体 :
19世紀後半におけるウェールズ民衆のイメージに関する
考察
森野, 和弥
静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇. 51, p. 179192
2001-03
http://dx.doi.org/10.14945/00004191
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静岡大学教育学部研究報告 (人 文・ 社会科学篇)第 51号 (2001.3)179∼ 192
「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体
―-19世 紀後半 にお けるウェール ズ民衆 のイメージに関す る考察 一―
n
︲ n
The Worker's Body in the Choral Eisteddfod; the Image of the
Gwerin in the late 19th Century Wales
森
野
和
弥
Kazuya MORINO
(平 成 12年 10月 10日 受理 )
0.イ ン トロダクシ ョン
本論 は、Morino(1995)に 続 くもの として、18世 紀末 に復興 されたウェールズの民族文化大
祭アイステ ッズヴ ォッド(eisteddfod)が 、 ウェールズにお ける民族的アイデ ンテ ィティの構築
や「伝統文化」 の発展 に果 た した役割 を跡付 けようとするものである。
19世 紀 は産業革命 の進行 と共 に労働者階級 の台頭 が英国で見 られた時期 で ある。南部 の炭鉱
地帯 を中心 に産業化 してい くウェールズ において、 アイステ ッズ ヴォッドは労働者 を内側 に取
り込む ことに より、新 たなナ ショナル 0イ メージを作 り出 してい く。民衆、 ウェールズ語 で言
う ところの「 グウェ リン」 (gwerin)の ウェールズの登場 で ある。本論 では、上流階級 の音頭取
りの もとで文学的祭典 の色合 いの濃 かったアイステ ッズヴ ォッドが、19世 紀 の中盤 か ら後半 に
かけて、 コー ラル 0コ ンペ ティションの要素 を増 や しなが ら「民衆」 のアイステ ッズヴ ォッ ド
ヘ と移行 してい く過程 を考察 してい きたい。
アイステッズヴォッドは、 ウェールズ語定型詩の コンテス トを中心 に、文学的創作 や音楽 の
演奏・ コーラスな どを競 うウェールズ文化 の祭典 で、 その起 源 はバ ル ドと呼 ばれる詩人 の競技
会 (13世 紀 )に さかのぼるとされ、現在 では、 ロイヤル・ ナ ショナル・ アイステッズヴ ォッ ド
の名 の もとに、年 1回 、南北 ウェールズで交互 に場所 を変 え開催 されてい る。先 の論考 では、
18世 紀後半 に活発化す るウェールズの文化復興運動 のいわば白眉 としてアイステ ッズヴ ォッ ド
が復活 され、 ドル イ ド (古 代 の神官)や 古代遺跡 な どのイメージを借 りる ことで「伝統」や「権
威」を演出 しなが ら、19世 紀中盤 に南北 ウェールズ を統一 する規模 の、「ナ ショナル な」式典 と
して整備 されてい った経緯 を跡付 けた。 ここで は、 アイステ ッズ ヴォッドを媒体 に生産 され る
「 ウェールズ」 のナショナル・イメージの根拠 は、 ドル イ ドやバ ル ドが表象す る古代 に置 かれ、
そうしたイメージの発信者 となったのは主 としてジェン トリや国教会 の高位 聖職者、 あるい は
ロン ドンの富裕 なウェールズ系住民 で あった。
一 方、19世 紀半 ばか ら一般化す る「 ウェールズ人」 の 自己定義 は、 ウェールズ語 を話 し、 ノ
ンコンフ ォー ミス ト (非 イ ングラ ン ド国教会教徒 )で ある労働者、 つ まリグウェ リンを中心 と
した ものになってい る。従 って、上述 したような初期 のアイステ ッズ ヴォッドと、19世 紀後半、
ノンコンフォー ミス トを中心 に行われた新 しい「民衆」 のアイステ ッズヴ ォッドの間 には一見
森 野
和
弥
大 きな断絶 が あるように思われ る。 だが果 た して本当 にそ うで あったのだろうか。
一般的 には、上・中流階級 による「上 か らの」アイステ ッズヴ ォッド、 ドル イ ドのバ ーディッ
ク・ アイステ ッズヴ ォッドが労働者 を中心 とす るアイステ ッズヴ ォッド、 グウェ リンの コー ラ
ル・ アイステ ッズ ヴォッドヘ移行す るのは、1847年 の「ブルー・ ブ ックス」 (the Blue Books)
の影響 として捉 えられてきた (た とえば P.MOrgan,1983)。 ブルー・ ブ ックス とは、ィ ングラ
ン ドの教育視察官が まとめた 3巻 か らなるレポー トの ことで、 ウェールズ住民 は教育、 モ ラル
の水準 が低 く、 それはウェールズ語 のモ ノグ ロ ッ トで ある こ とに原因が あるとの報告がなされ
ていた。 ブルー・ ブ ックス はノ ンコンフォー ミス トを中心 としたウェールズの教育者 0社 会改
革論者 らに衝撃 と義憤 を与 え、 ウェールズ大学や国立図書館 の建設運動 に発展 してい くととも
に、 ナショナル 0ア イステ ッズヴ ォッドについて も、民衆 の教化 と科学・ 知識 0近代的産業 の
発展 の場 として活用 してい くための改革 がなされてい くことになる。 ノンコンフ ォー ミス トの
アイステ ッズ ヴォッドにおける労働者 のクフイアの活躍 は、 ドル イ ドやバ ル ドの古代イメー ジ
に典拠 した初期 のアイステ ッズヴ ォッドが、 ブルー・ ブ ックス とい う外圧 によ り、 きわめて ド
ラマ ティックかつ根本的 に内容上の変化 を生んだ事 を端的 に示 した もの と従来 は解釈 されてき
た。 しか し19世 紀後半 にお けるグウェ リンのアイステ ッズ ヴォッドヘの移行 は、 そのような歴
史上のある一点 を指 し示す ものではな く、実際 には、 それ までの上流階級 を中心 とする文学的
祭典 としてのアイステ ッズ ヴォッドとい う大枠 を崩 さないで、あ るい は二つが両立 しなが ら、
グウェ リンのアイステ ッズヴ ォッドヘ移 ってい ったので あ り、根本的 にアイステ ッズヴ ォッド
の概念 が変わ って しまったわけではない と思われる。
本論 では、この二つのアイステ ッズヴ ォッ
ドを橋渡 しす る存在 として、1830年 代 のアベ ルガヴニー (Abergavenny)の アイステ ッズヴォッ
ドを考 えるところか ら始 めたい。
1. Abergavenny1830s
MorinO(1995)で 示 したように、近代的 アイステ ッズヴ ォッドの復活 は18世 紀末 の ロ ン ドン
に端 を発 して い る。バ ル ドの後継者 を 自称 す るイオ ロ・ モル ガヌー ク (`Iolo Morganwg',
Edward Williams:1747‐ 1826)が ロ ン ドンのプ リムローズ ヒル (PrimerOse Hill)で ゴルセ ッ
ズ (Gorsedd)と い うバ ル ドの儀式 を復活 した (実 はイオ ロによる発明)と きだ。 この稀代 の詐
欺師 をウェール ズヘ の望郷 の念 か ら支援 したのが、ロ ン ドン在住、ウェール ズ出身 の ロン ドン
・
ウェルシュだった。彼 らの創始 したグ ィネズ ィギオ ン協会 (Gwyneddigion Society)は 、ウェー
ルズのアイステッズヴ ォッドの開催 にかかわ り、1819年 にはアイステ ッズ ヴォッドとゴルセ ッ
ズの儀式 はカマーゼン (Camarthen)で 結 びつ くことになる。 この とき、地元 ウェール ズか ら
バ ックア ップしたのは、バ ー ジェス主教 (Bishop Thomas Burgess:1756… 1837)を 中心 とし
たイ ングラ ン ド国教会 の面々 だ。 ノンコンフォー ミス トの影響 で民衆 の心が離 れてい った と感
じていた教会 は、アイステ ッズ ヴォッドで民衆 の心 を勝 ち取 ろ うとしたのだった。
1819年 のアイステ ッズヴォッドの成功 によ り、その後 ウ ェール ズ各地 で様 々 な規模 のアイス
テッズヴォ ッ ドが開催 されるよ うになる。 と りわけ南 ウェールズのマーケ ッ トタウ ン、 アベ ル
ガヴニーで は1834年 か ら1853年 の間 に10回 のアイステ ッズ ヴォッドが 開 かれた。 アベ ル ガヴ
ニーでのアイステッズヴォッドは、 ジェン トリや聖職者 による
「上 か らの」アイステ ッズヴ ォッ
ドではあったが、「民衆」が重要な構成要素 として登場 していた点、注 目すべ きである。 そして
民衆 のクローズ・ アップは、主催者 の一人 で あるラノーバ ー夫人 (Lady Llanover,Augusta
「歌 うアイステッズヴォッド」 における労働者 の身体
181
Hall:1802… 1896)の 労働者 に対す る関心 のあ り方 と無縁 ではない。
ラノーバ ーの家 は、昔 なが らのジェン トリや国教会 の主教 といった上流階級 ではな く、産業
革命 の生み出 した新興 ジェン トリであ り、労働者 に対す る興味が よ り強 かった と推察 される。
夫人 の夫ベ ンジャ ミン・ ホール (Beniamin Hall:1802‐ 1867)は アベルカー ン (Abercam)に
炭鉱及 び製鉄所、 リムニー (Rhymney)に 製鉄所 を所有 し、1832年 モ ンマス (MOnmouth)の
M.P.に 選 ばれ、1838年 には準男爵、1859年 にはラノーバ ー男爵 になってい る 産業革命 の生み
出 した典型的な新興 ジェン トリであ り、 ノンコンフォー ミス トのシンパ だった。 この時代 ロマ
1。
ンティシズム を背景 に農民 の理想化 されたイメージが登場 して くるが、 ラノーバ ー夫人 の場合
はたんなる民衆 に対す るロマ ンテ ィックな関心 ばか りではなかった と思われ る2。 夫 の工場 で雇
用す る労働者 の教育 や福祉、健康、生活の向上 とい った問題 は、工場 の生産性 にもかかわるこ
とで あったか らだ。 お りしもラノーバ ー夫人 がアベ ルガヴニーでアイステ ッズヴ ォッド開催 に
かかわった1830年 代 は、中流階級 が労働者 の健全 な娯楽 について問題提起 をしだす時期 で ある
「健全 さ」 (`respectability')は 旧来 の支配階
(Croll,1992,18)。 新興 ジ ェン トリに とって も、
級以上 に敏感 にな らざるをえない ところであった。 ラノーバ ー は自分 の抱 く「健 全 さ」 の基準
を労働者 にも要求 し、 ウェールズ民衆 のイメージ作 りに腐心する ことになる。
ラノーバ ー夫人 が労働者 に 目 を向 ける先導役 となったの は、 トマ ス・ プライ ス (Thomas
Price:1787-1848)で ある。 1847年 のブルー・ブ ックス を遡 る こと 4半 世紀前、彼 はウェルシュ
プール (Welshpool)の アイステ ッズ ヴォッドで、 ウェールズ語 を話す教養 あるグウェ リン像 を
提供 してい る。
The Welsh language is at the present day to the Welsh peasant a much more
cultivated and literary rnediunl of knowledge than English is to the Englishman
of the same class...Show me anotherlanguage in the world in which such a body
of knowledge is found in the hands of the coFrmOn people。
(Quoted in G.Evans,
1988,224).
彼 は、クム デ ィ (Cwmdu)に ウ ェールズ語 で教育 す る学校 を設立 し、それ に触発 された ラノー
バ ー夫人 は、 ス ラ ン ドヴ ェ リ校 (Llandovery College)の 用地 をウ ェールズ語 での教育 を条件
に買 い求 めて い る。 また ラ ノーバ ー夫人 は 自分 の敷地 内 に ウ ェール ズ 語 で サ ー ヴ ィス を行 う
チ ャペ ル を建 て るな どウ ェールズ語 の振興 を常 に考 えて いた3。
さ らに、 ラノーバ ー夫人 は「 モ ラル高 い」 ウ ェールズ民衆 の身体 を包 む「民族衣装」 も創造
して い る (森 野、 1998)。 アベ ルガ ヴニ ー のアイ ス テ ッズ ヴォッ ドで は、開会 に あた って街 の沿
道 に夫人考案 の「民族衣装」 をま とった民衆 が居 並 び、陽気 な歓声 と共 に到着す る主教、M.P.
な どの来賓 を歓迎 して い る4。 グゥ ェ リンのアイステ ッズ ヴォッ ドヘ の橋渡 しとして、アベ ル ガ
ヴニ ー で は民衆 が、 この ような形 で表舞台 に立 ったので あ る。 ただ し上流 階級 の庇護 を素直 に
受 け入れ る、 モ ラル正 しい「 きれ い な」民衆 が意 図 されて いたので はあったが。
民衆 に焦点 を当てた とい う点で、 この「民族衣装」の「創造」はアベ ルガヴニー 0ア イステ ッ
ズヴ ォッドの大 きな成果 の一 つで あるが、 この他 にも「民族衣装」同様、民衆 を指 し示す表象
として トリプル・ ハ ープの「創造」が あった。 トリプル・ ハ ープは、普通 のハ ープよ り小 さ く
手 にもつ ことのできる もので、16世 紀イタ リアに起 源が ある とされる。 ラノーバ ー夫人 は、 こ
森
野
和
弥
れをウェールズ古来 の「伝統的」楽器 として復活 させ よ う としたのである。 ジェン トリの館 に
雇 われたハ ーピス トが弾 いていたのはペ ダル式 のハ ー プだった。 そのような職業的ハ ーピス ト
の楽器 としてではな く、 ウェール ズー般民衆 の奏 でる「民族楽器」 として、 トリプル・ ハ ープ
は「創造」 されたので ある。夫人 は トリプル・ ハ ープ を作 る工場 を建 て、 アベルガヴニー・ ア
イ ス テッズ ヴォッドの賞金 として も提供 して い る。 1838年 アベ ル ガ ヴ ニーの アイ ス テッズ
ヴォッドでは、 ブ リジェン ド (Bridgend)生 まれのジョン
・ トーマス (JOhn Thomas`Pencerdd
Gwalia':1826-1913)が 弱冠 12歳 で優勝、 トリプル・ハ ープ をもらってい る。彼 はその後 ロン ド
ンで勉学 を積 み、 ヴィク トリア女王のハ ーピス トを経 て王立音楽学校 のハ ー プの教授 になった
ほか (Stead,1998,116‐ 7)、 「ペ ンケル ズ・グワリア」 のバ ル ド名 でウェールズ人 にも親 しまれ、
ロ ン ドン・ ウェル シュ として故郷 の音楽文化振興 に尽 くす こ とになる。
トリプル・ハ ープの推進者 で ある、 ピアニ ス トにして作曲家 ブ リン リー
・ リチャーズ (Brinley
Richards:1817‐ 85)も 、 ラノーバ ー夫人同様、上流階級 と労働者 を橋渡 しする社会的地位 にい
た とい える。 リチャーズ は、教会 のオルガン奏者 で音楽店経営者 の息子 としてカマーゼンに生
まれ、 1834年 カーデ ィフ城 のア イ ス テッズ ヴォッドで ウェール ズ民謡「 スル ウィン・ オ ン」
(`Llwyn Onn')(The Ash GrOve)の 変奏曲で賞 を取 り、ニ ューカ ッスル (Newcastle)の 公
爵 を始 め とする人 々の後援 を得 て、ロ ン ドン、パ リで音楽 を学 んでい る5。 ゥェ_ル ズ生 まれ と
はい え、彼 はア ング リカ ンで中流階級、 ウェールズ語 も話せ ず、活動 の場 はロ ン ドンだった。
しか し1863年 には、 ケイ リオグ (`CeiriOg')(John ceiriog Hughes)の 詩6を もとに「 プ リンス・
オブ・ウェール ズよ永遠 なれ」 (`God Bless the Prince of Wales')を つ くり人気 を博 し、 ウェー
ルズでのアイステ ッズ ヴォッドにたびたび審査員 としてやってきてい る。 ジョン・ トーマス同
様 ロ ン ドンにいて、 ウェールズか ら奨学金やパ トロ ンを得 てやって くる才能 ある音楽家 のネ ッ
トワー クの中心 で もあった。 ジ ョン・ トーマス は、1872年 ロ ン ドン・ ウェルシュ・ コーラス連
合 (London Welsh ChOral Union)を 結成 してい る。
コー ラル・ トラディション との関連 で述 べ るな らば、1837年 のアベルガヴニーのアイステ ッ
ズ ヴォッドでは、 マ リア・ ジェーン・ ウィリアムズ (Maria Jane Williams)が 、南 ウェール
ズの民族音楽曲集 (Ancient National Airs of Gwent and Morganwg)を 編纂 し賞 をとった
こ とも挙 げてお く必要が ある。 これは1844年 に出版 され、 それ以降相次 いで出版 され る一般向
けウェール ズ音楽曲集 の端緒 となる。 た とえば1845年 には、 ジョン0ト ーマス (JOhn Thomas,
`Ieuan Ddu')の 動 ιαttι ttα %″物s′π′
、1848年 には、前述 のバ ルズ・アラウの ZttJs力 」
γ
助 ψι
が続 き、1860年 代 には同様 の音楽集 が多数出版 された。これ らの集大成 とも呼べ るべ きものが、
1873年 ブ リン リー・ リチャーズ による「 ウェールズ歌曲集」 6物 邸 グ ラ
物 Jas)で あ り、 これ
は第一 次世界大戦 まで聖書 と並ぶ存在 として、「谷」 (南 ウェールズ炭鉱地域 の総称、後述)で
は一家 に一冊 おかれるようになる。 リチャーズ 自身 は労働者 と直接 かかわる ことはなかった と
思われるが、彼 の歌曲集 は、 このよ うな形でウェールズ労働者 の間 にコー ラル・ トラデ ィショ
ンを培 うのに一役買 った とい えよう。
Betts(1978,16)も 指摘す るように、 ラノーバ ー夫人 らが主催 したアベルガヴニーのアイス
テ ッズヴ ォッドはあ くまで もジェン トリのための ものであ り、彼 らの行 うスピーチはほ とん ど
の場合、英語だった。 しか し、1860年 になって「谷」 の発展 とともにウェールズ語 を話す労働
者が合唱隊 となってアイステッズヴ ォッドの壇上 に上がろ う とした時、その布石 は、すでにア
ベル ガヴニー を通 じて用意 されていた とい える。民族衣装 に正装 して祭典 を彩 る民衆、 トリプ
「歌 うアイステ ッズヴォッド」 における労働者の身体
ル・ハ ープ に よる民謡 の演奏 といった ものは、 まだたぶんに、上流階級 の空想 の中の理想的
「民
衆」イメージにす ぎなかったが、 それ らが、炭鉱労働者 が集 まり、生活の場 が形成 され る「谷」
の音楽文化 やチ ャペル の活動 と有機的 に結 びつ くことによ り、後期 のアイステ ッズヴ ォッドは
新 たな展開を遂 げる ことになる。
2. Va!!eys1860s
南 ウェール ズの「谷」 は、産業革命 の影響 をウェールズにおいて もっ とも典型的 な形 で表象
する場所である。地図を開いてみると、ス ウォンジー (Swansea)、 カーディフ(Cardiff)、 ニ ュー
ポー ト (Newport)な どの港 へ向かって、 い くつ もの渓谷 が南北 に平行 に走 ってい るのがわか
る。炭鉱 を中心 とした これ らの「谷」 は、産業革命 の中心 として19世 紀多 くの労働者 を近隣か
ら招 き寄 せ た。上水道の整備 もままな らず、炭鉱夫 たちはの どの癒 しをアル コァル に求 める。
飲 んで騒 いで問題 を起 こす。 これが新興中流階級 の懸念 となる。 た とえば、1847年 、 ドー ラス
(Dowlais)に は200軒のパ ブが あった。 1854年 マーサ・ タ ドヴィル (Merthyr Tydfil)に は、
クールー・バ ッハ (cwrw bach)と 呼 ばれ る不法酒場 を除 いて も506の 酒場 が あ り、川岸の不法
地帯 は、
「チャイナ」 (`China')と 呼 ばれていた。1860年 には、 カーディフ、 マーサ・ タ ドヴィ
ル、スウ ォンジー、ニース (Neath)に は1700人 を超 える売春婦 が いた とされ る(N.Evans,1988,
この時期 の 物 ′
γ働ク鶴sは 、酔 っ払 いの行状 に対す る中流階級 の批判 に ことかか ない。
磁ノ
「チャイナ」 の売春婦 に とって も酒 は麻薬 のように作用 した ことがわかる。
15)。
Ann Jenkins a China prostitute called upon me..。 she is forty years of age,
married and lived with her husband several years before he gave hilnself up to
drink ―not giving her any support and at tiFneS abused her shamefully¨
.and
falling into bad company she began to drink to excess and at last gave herself
up to prostitutiono National Library of Wales 1/1S4943(B):
1856年 か らは警察 がすべ ての州 や郡 に置 かれ る ことになるが、中流階級 として も労働者 たち
にまっとうな娯楽 を与 える必要に迫 られ る。 ここで選 ばれたのが、音楽 で ある。音楽 はヴ ィク
トリア時代 の もっ とも健 全 で、 もっ とも有効 な社会操作 の手段 と考 えられていた (Best,1979)。
ウェールズのみな らず英国全土 に目を移 してみて も、19世 紀 における労働者 の娯楽 としての音
楽文化 の隆盛 には目を見張 るものがある。 ヨー クシャー な どヴ ィク トリア朝 の炭鉱 0製 鉄業地
帯 では、労働者 のブラスバ ン ドが活躍す る
ラス』 とい う映画 によ く描 かれてい る)。
(こ
れは現在 で も言 える ことで あ り、 た とえば『ブ
労働者 のバ ン ドに関す る最 も古 い記録 は、1817年 、 ウェールズのグウェン ト (Gwent)の ブ
レイナ (Blaina)の 製鉄所 で結成 された もの とされる (Do Evans,1986)。 その後 1844年 には「カ
ヴァルス ヴァ・ ブラスバ ン ド」 (Cyfarthfa Brass Band)が 、 カヴ ァルスヴァの製鉄所 を所有
・ トムプ ソン・ クラシェイ (Robert Thompson Crawshay:1817-79)に よっ
していた ロバー ト
て設立 されてい る。 自分 が建 てた壮大 なカヴァルスヴァ御殿 (Cyfarthfa Castle)で 客 をもてな
すのが 当初 の 目的だった とはい え (Ho Williams,1980,106)、 カヴアルス ヴァ・ バ ン ドを中心
に音 楽 は マーサ の 労働 者 の 中 に確 実 に根 付 い て ゆ く。 チャール ズ・ デ ィケ ンズ (Charles
Dickens)が 編集す るロ ン ドンの雑誌 に載 った以下 のような記述 がそれを示 してい る。
184
森 野 和 弥
When visiting Merthyr was exceedingly puzzled by hearing boys in the
Cyfarthfa works whistling airs rarely heard except in the fashionable
banr。 。ms,。 pera houses or drawing rooms.He afterwards discovered that the
proprietor of the works, Mr Robert Crawshay, had estabHshed among his
workers a brass band.¨ (Iゐ 郷ι
力θ″
l後 ,%お ,May
ll,1850)
クラシェイは、楽団員 に揃 いの衣装 をあつ らえ、優秀 な団員 にはバ ン ドを優先 で きるように
楽 な仕事 を与 え、才能 のある者 と見 ればイ ングラ ン ドか らもリクルー トし(Herbert,1988,62)、
レベル向上 に努 めた。 その 甲斐あ って、 カヴ ァル ス ヴァ・ バ ン ドは1860年 ロ ン ドンのク リスタ
ル・ パ レスで優勝 してい る。
英国全土 では労働者 の音楽文化 とい えば、 この時代、 カヴ ァルスヴァのようなブラスバ ン ド
が代表的だ。 ウェールズの場合、 ブラスバ ン ドも盛 んではあったが、中核 を担 ったのは、 む し
ろコーラスだった。1872年 及 び73年 、南 ウェールズ・コー ラス連合 (South Wales Choral union)
がク リスタル・パ レス (Chrystal Palace)で 優勝 した ことは「歌 の国」 ウェールズの名 を不動
の ものにする。 ウェールズにお けるコー ラスの隆盛 には、 アイステ ッズヴォッドとチ ャペル と
い うウェールズ独特 の文化装置 が大 きな役割 を果 た していたので あ る。
3.チ ャベル とアイステ ッズ ヴォッ ド
3-1
「谷」の音楽文化
アイステ ッズヴォッ ドの起源 はバ ル ドの祭典 と考 えられていた。バ ル ドとはハ ー プ を弾 きな
が ら朗誦す る吟唱詩人 の こ とで あ り、 もともとアイステ ッズ ヴォッドと音楽 の結 びつ きは強
かつた とい える。 19世 紀後半 にかけてのアイステッズヴォッドは、 そ こにさらにコーラスの競
技会 とい う要素 を付加す る ことで、中世 の詩 の韻律規則 などを知 らない一般大衆 で も参加 で き、
賞 を競 うこ とができる、 いわば
「歌 うアイステッズヴォッド」に変容 してい く。詩人 たちがチ ェ
アの獲得 を求 めて詩 の技 を競 い合 う とい うスポーツ的要素 が あった こ とか ら、 アイス テ ッズ
ヴォッドはしばしばウェールズのオ リンピックの名 で呼 ばれた。 アイステッズヴ ォッドで コー
ラスの コンペ テ ィションが行 われるようになると、観客席 の労働者 が 自分 たちのクワイアの勝
敗 を巡 って興奮 し、その様子 はフッ トボールの試合 のようだった と言われる。独唱部門 の賞 は、
ハ ープ を伴 った伝統的 なペニス リオ ン (penillion)に 限 られていたが、1858年 ごろにはハ ープ
なしで もいい こ とになった。1867年 カマーゼンのアイステッズヴォッドではコーラスに も賞金
が与 えられ るようにな り、 マーサ・ タ ドヴィル のクフイアが優勝 してい る (J.H.Davies,1975,
132)。 賞金額 は当時 としてはか な り多 かったよ うで、
血気盛 んな労働者 たちの競争心 を くす ぐっ
てぃた7。 ナ ショナル・アイステ ッズヴ ォッドで高尚な内容 の ミサ曲が歌われていて も、観客 の
方 は勝敗 をめ ぐって賭 けに熱中 してい る(Go Williams,1998)。 ひい きのクフイアが負 けた場合、
審査員 の身 も安全 とはい えず、会場 か ら宿 へ の往復 に護衛 がついた とい う (Stead,1988)。
アイステ ッズ ヴォッドの このような大衆化 を可能 にしたのは、 チャペ ル を基盤 とした
「谷」の
音楽文化 で あ り、 その中心 はカノ ン渓谷 (CynOn Valley)に 位置す るアベ ル ダ レ (Aberdare)
の街 で ある。カノンでは1801年 か ら51年 にか けて人 口が、1486か ら14998に 急増 してい る。石炭
の産出は1841年 には12000ト ンだったが、1870年 には200万 を超 え、アベル ダ ンは1870年 代 ロ ン
ザ (Rhondda)が 急激 な産業化 を迎 えるまでは、南 ウェール ズ炭鉱地帯 の中心 として機能 して
「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体
いプ
ヒ。
「谷」へ と集 まってきた。
「谷」へ と労働者 が集中 して くる と共 に、南 ウェールズの村 々の歌 も
それ らは最初パ ブな どで歌われるだけだったが、やがて
「谷」の出版文化 と結 びつ き、村 の歌 は
印刷 され、「谷」の街 で売 られる ことになる。廉価 なバ ラー ドシー トの形 で売 られた、 これ らの
歌 とは別 に、音楽 をより「 リスペ クタブル」 な労働者 の娯楽 とすべ く、 さまざまな出版活動が
19世 紀後半 の「谷」 では準備 されて い った。
ノンコンフォー ミス ト、 エヴァン・ グウィス ト (`Ieuan Gwyllt',John Roberts:1822-77)
は1858年 アベ ル ダ ンで yα 滅た多勧 γ (The Patriot)を 編集 した後、隣町 マーサ・ タ ドヴ ィ
ycだ
「谷」 の労働者 の音楽的
の L (The welsh Musician)を 刊行 してい る。
関心 にこたえるためだった。以前 のウェールズの大衆音楽雑誌 が短命 だったのに対 し、 これは
労働者 の読者 を意識 して作 られていたため、1861年 3月 創刊 か ら1873年 まで続 いた。た とえば、
ルで
aoγ
古典 コーラス曲 にウェールズ語 の歌詞 をつ けた り、ウェールズ語 で音楽用語 が解説 されていた。
ハ イ ドン、ベ ー トー ヴ ェン、 モー ツ ァル ト、あ るい はヴ ェル ディの歌曲、 ロン ドンの コンサー
ト記事 な どが並び、労働者 たちの音楽的素養 を高 める ことが意図 された。 また当時、 ウェール
ズ国内では各地 の音楽協会 によって数 々の コンサー トが開かれていた。 ウェールズの外 か ら音
楽家 がやって くるのはもちろんの こと、 ウェールズの労働者 たち も、労働災害 に遭遇 した同僚
を救 う資金集 めに、あ るい は学校 の建設資金 の足 しに とコ ンサー トを開 い て いた (Ambrose
ycだ αoγ
は、 こうしたウェールズ各地 の様 々な コンサー トの様子 が
の %に
掲載 されてい る。 この雑誌 を含 め、 ウェールズ全域 で、1852年 か ら95年 の間 に14の 音楽雑誌 が
1973,197)。
創刊 されてい る。 これ らの出版 メデ ィア はクラシ ック音楽 の知識 か ら身近 な音楽情報 まで様 々
な音楽情報 を伝 える ことによ り、労働者層 に音楽 を浸透 させてい ったのである。
3-2
チャベ ル と音楽
ウェールズ で は、 ノ ン コ ンフォー ミス トのチャペ ル が1800年 か ら1850年 にか けて1300か ら
3800に 膨れ上 がってい る (G.Williams,1998,21)。 それに加 えアベ ル ダ ンでは、成長 を続 ける
炭鉱産業 の中心地 として、 19世 紀中葉 には大人数収容可能 な建物 が次々 と完成 してい く。国教
会派 の教会、 ニ ュー・ マーケ ッ ト・ ホール (New Market Hall,1852)そ して1500人 収容可能
なテ ンペ ラ ンス・ ホール (Temperance Hall,1858)な どで ある (Ambrose,1973,192)8。 こ
れの建造物 は大人数 の観客 を集 めての コ ンサー トや コー ラス競技会 を可能 にした。 ノ ンコ ン
フォー ミス トにとっては、チャペ ル は単 な る集会所 で、た いてい平屋 の簡素 な代物 だった。従 っ
て、 コンサー トやアイステ ッズ ヴォッドな ど娯楽性 の強 い催 しにもあまり抵抗 な く使用 する こ
とができたのである。 そしてほ とん どのチ ャペ ル には舞台が格納 されていて、必要 な ときには
出 してきて使用 した (ToJ.Morgan,1980,118)。 オペ ラな どの劇場設備 を要するものは ミュー
ジ ック・ ホールの出現 を待 つ ことになるのだが、 チャペ ル の この融通無碍 な点 は、音楽演奏 の
ための恒常的 な建築物 が登場す るまでの橋渡 し的存在 として機能 し、音楽文化 の大衆化 に貢献
した とい える。 このよ うな建物 で、1859年 エ ヴァン・ グウィス トが、 おそら くは最初 の「カマ
ンヴァ
・ガニ (cymanfa ganu)」 と呼 ばれ る賛美歌 を歌 うフェスティヴァル をアベ ル ダ ンで行 っ
てい る (Ambrose,1973)。 グウイス トがカマ ンヴァを開いた意図 は、宗教的、教育的見地 か ら
会衆 の歌 の レベル と知識 を上 げる こ とだった。同様 の意図か ら、 チャペルでは「 アス ゴル 0ガ
ン (ysgol gan)」
とい う歌 の稽古 も開かれるよ うにな り、チャペル は、信仰 そして音楽文化 の
森 野 和
弥
中心 として機能 してい くことになる。 そして このよ うな賛美歌 を歌 う祭 りを可能 にしたのは、
新 しい楽譜読 み取 り法 だった。
1860年 代 に至 るまでのウェール ズは宗教 リバ イバ ル の時代 で ある。新 しい指導者 たちは、歌
の中 に新 しいメ ッセー ジを込める ことによ り労働者 に教 えを伝 えようとした。 この 目的 に大 き
く貢献 したのが、簡便 な楽譜読み取 り法 トニ ック・ ソルフ ァ方式である。 ノンコンフォー ミス
・カー ウェン (JOhn Curwen)に よって1841年 、 日曜学校 で紹介 された この方式 は、
ト、 ジョン
1862年 エレザ ー・ ロバ ーツ (Eleazar Roberts:1825¨ 1912)に よってウェール ズ語 に翻訳 され、
1860年 代宗教的情熱 の下 に瞬 く間 にウェールズに広 まって い った9。 お りしも労働者階級 は文字
の読 み方 をチャペ ルの 日曜学校 な どで習 い始 めた ときで あ り、それに加 えて普通 の五線譜 を読
む ことな ど至難 の業 だったで あろう。 ソルフ ァを通 じて音楽 に親 じむようになった者 も多かっ
た ようだ (Lewis,1976‐ 77)。 前述 の音楽誌 ycだ d。 ″の物 効 にも1866年 8月 か ら1873年 の
最終号 まで、 トニ ック・ ソルフ ァ方式でメ ンデルス ゾー ンな どの曲が紹介 されてい る。 1859年
には、エ ヴァン・ グウ ィス トの L″ attα π q脇 %JJa″ zθ ′ (Congregational Hymn Book)
が トニ ック・ ソルフ ァ方式 で出版 されてい る。459の 賛美歌、詠唱歌、聖歌 を収録 し、
「 19世 紀
ウェール ズで出版 された もっ とも重要な一冊」 (“ the mOst important book published in
nineteenth‐ century
Wales")(G.Williams,1998,27)と される。彼 は1861年 にも 勧節ψ ケ
P滋 %′ (Treasury of the Children)と い う歌集 を出版 してい る。 ノンコンフォー ミス トの伝統
が トニ ック・ ソルフ ァ とい う新 しい技術 と出会 い、 ウェールズ音楽文化 の核 を形成 してい くわ
けである。 トニ ック・ ソルフ ァ方式な くして労働者 の「歌 うアイ ステ ッズ ヴォッド」 はあ りえ
なかった とい えよう10。
3-3
アイステ ッズ ヴォッ ドと音楽文化
「谷」の労働者 の娯楽 として音楽 が普及 したのは、上述のように音楽 を通 じての宗教的教化
やモ ラル、教養 の向上 とい ったノンコンフォー ミス ト指導者 の思惑 によるところが大 きい。労
働者 の歌 はチ ャペルやテ ンペ ラ ンス 0ホ ール な どでの合唱 を通 じて リスペ クタブル な音楽へ と
変容 し、次第 にその発表 の場 をアイ ステッズ ヴォッドに移す ことになる。労働者 の コー ラス も
アイステ ッズ ヴォッドの壇上では、 ウェールズ歴史中の英雄 を歌 ったカンター タな ど高尚な も
のを歌 うのである。
このようなカ ンター タの例 としては、 オフイ ン・ アラウ (Owain Alaw)の 「タ ウ ィソグ・
カム リ」 (η″卵Qgの 協 %)(The Prince of Wales,1862)が ある。 これには1858年 スランゴ
スレンのアイステ ッズ ヴォッドでチ ェアを獲得 したケイ リオグが歌詞 をつ けてい る。同 じく、
ウェールズ最後 の大公 を題材 に、前述 のジョン・ トーマス ことペ ンケルズ・ グワリア も「 スラ
ウェ リン」 (ι 物膨″π)を 作曲。 これは、1863年 のスウォンジーでのアイステッズヴォッドのた
めに書 かれた ものである。以下、数多 くの国民的 カンター タが作曲 され、 ナ ショナル・ アイス
テ ッズヴ ォッドで歌われ、あるい は審査 曲 にな り広 まってい く。 オワイ ン 0ア ラウの「 グウィ
ル 0グ ワリア」 (Oη J α″
α α)(ウ ェールズの祭 )、 J・ D・ ジョーンズ (J O D OJones)の 「 ス
リス・アル シール」(LJys 4効 物γ)(ア ーサー王の宮廷 )、 1864年 スランディ ドゥノ (Llandudno)
でのアイステ ッズヴ ォッドで歌 われたマーサのエ ドワー ド・ ロレンス (Edward Lawrence of
Jグ
Merthyr)の 「ハ ーンフの包囲」 (説電cグ H物 続め 、1866年 チ ェスター (Chester)で はペ ン
ケル ズ・ グワリアの「ニース谷 の花嫁」 (動 ιBttacグ 物 物 施 滋が 、 そして1870年 にはリー
「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体
187
・ グ リン ドゥール」 (α ″
ル (Rhyl)で エオ ス・ブラ ドウェン (Eos Bradwen)の 「 オフイ ン
α勿
α″ 滋F)が 歌 われてい る。
「谷」 の培 っ
現在 ウェールズ国歌 とされる「わが父祖 の国」 (`Hen Wlad Fy Nhadau')は 、
た労働者 の音楽文化 がアイステッズヴ ォッドを経 てよ り広範 なナ ショナル・ ソングヘ と発展 し
てい った好例 で ある。1856年 ポ ンティプ リッズ (Pontypridd)の 機織業者 ジェイムズ父子 (Evan
and James James)に よってつ くられた この曲 は、最初 は「谷 の歌」 (`Song of the Valley')
と呼 ばれ、労働者 の コーラスで愛唱 されていた。 その後、 1858年 のスラ ンゴスレンでのアイス
「わが父祖 の国 は、バ ル ドと歌
テ ッズ ヴォッドで歌われ、一般 にも広 く知 られ るところとなる。
び とたちの くに」 と続 くこの歌 は、
「歌 の国」 としてのウェールズのナ ショナル・イメージを大
衆化 す るのに寄与 した。
「谷」 の労働者 を集 めたアベル ダ レ統一 クフイア (Aberdare United Choir)が 、 スウ ォン
で一位 を獲得 したのは、1863年 の ことだった。 ナ ショナル・ アイ
ジーのアイステ ッズ ヴォ
'ド
ステ ッズ ヴォッド以外 にも
1860年 代 を通 じて、様 々 な団体 が アイ ステ ッズヴ ォッ ドを主催 し、
そ こで労働者 の合唱が活躍す る。 これ らのアイステ ッズヴ ォッ ドは、従来 のイ ンで はな くチャ
ペ ルやテ ンペ ラ ンス・ ホールで行われた。 ノ ンコンフォー ミス ト運動 の影響 で飲酒 に変 わる労
働者 の余暇活動 として計画 されたか らである。 ウィリアム 0グ リフィズ (William Griffiths,
`Ivander')は 、1860年 9月 、毎年行 われていたニ ース祭 り (Neath Fair)の 日に合 わせて、 テ
ンペ ラ ンス祭 (Temperance Festival)を 行 い、彼 の率 い るテ ンペ ラ ンス合唱隊 (Temperance
Choir)な どが参加 してい る (Go Williams,1998)。 あるい は、1863年 にスウォンジーで開かれ
た 日曜学校主催 のアイステッズヴォッドでは、鉄道会社 が17両 の特別列車 を仕立て、アベ ル ダ
ンか ら1300人 を送 り込んでい る。 ス ウォンジーでは、午前中 は海辺 で遊 んだ りする日程 が組 ま
れていた (Ambrose,1973,195)。 現在 で もそうであるが、 チャペ ルでのアイステッズヴォッド
ではお茶 の時間が あ り、ディナー を用意する場合 もあった。労働者 は集 い、友人 たち と語 らい、
新 しい洋服 を見せ合 い、 た らふ く食 べ る。 そして歌 を通 して 自分 たちが同 じ文化 に属 す る こと
を確認 し合 う。現在 のアイステッズヴ ォッ ドの原型 が 出来上がってきた とい える。
鉄道 が ここで大 きな役割 を果 たす ことになる。 このような催 しは、1853年 ニース谷鉄道 (the
Vale of Neath Railway)に よってアベル ダ レ とマーサが、 ニースそしてス ウォンジー と結 ば
れていなかった ら不可能 だっただろう。 1840年 か ら1870年 にかけてウェールズの鉄道網 が顕著
な発展 を見せ る (Jenkins,1992,225,244)。 以下 に述 べ る、 ロ ン ドン、 ク リスタル・ パ レスで
の南 ウェールズ・ コー ラス連合 の勝利 は、18両 の特別列車 がクワイアをロン ドンまで連れて行
くことに よって可能 となったのである11。
4。
Crystal Pa!ace
南 ウェールズ音楽文化 の中心アベ ル ダ ンの栄光 の頂点 を飾 るのが、1872年 、73年 の ロン ドン、
クリス タル 0パ レスでの南 ウェールズ・ コーラス連合 の優勝 で あ り、 この快挙 は「歌 うアイス
テ ッズヴ ォッ ド」 によって養 われたウェールズ労働者 の音楽 レベル を英 国全土 に知 らしめる こ
とになる。
パ レスは1851年 、大博覧会 (Great Exhibition)の ために建設 された ものだが、
クリスタル 。
・チャ
博覧会以降 はヘ ンデル・フェスティバ ル (Palace's Handel Festivals)、 英国 ブラスバ ン ド
ンピオ ンシ ップ (National Brass Band Championship)な ど音楽関係 の催 しに使 われていた。
森
野 和
弥
1860年 には、前述 のカヴ ァルス ヴァ・ バ ン ドが優勝 してい る。 クフイアの コンペ ティションを
計画 したのは、 ウェールズに祖先 を持 つ とい うウィラー ト・ ビール (Willert Beale:1824-74)
だった。 ナ ショナル・ アイステ ッズ ヴォッドや フランスの大 コンクール (Grand Concours of
France)に 触発 され、 イ ングラ ン ドで も同様 の催 しを開 こうと考 えたのである (ToA.Davies,
1972)。
1872年 ロ ン ドン、クリスタル・パ レス会社 は、同年 の夏 に、ナ ショナル音楽祭 (National
Music Meeting)を 開催す るこ とを予告する。 1872年 2月 17日 、南 ウェールズの著名 な音楽家
たちがアベル ダ ンに集 まり、夏 のク リスタル・ パ レスの大会 に出場す るため、南 ウェールズ・
コー ラス連合 を結成す る ことになった12。 ここで指揮者 に選 ばれたのが、 カラ ドグ (CaradOg)
ことグ リフィス・ リース・ ジョー ンズ (Griffith Rhys Jones)で ある。
カラ ドグの名声 は、 アイステ ッズヴ ォッドと切 り離せ ない。 1834年 12月 アベル ダ ンの トレカ
ノン(TrecynOn)の 労働者街 に生 まれてい る。父親 は鍛冶屋 で 自分 もその道 を歩 んでいた。1853
年 クーム アヴォン
(Cwmavon)の アイステッズヴォッドに17名 のクワイアを組織 し優勝す る
クフイアの名前「 コール 0カ ラ ドグ・ アプ・ ブラン」 (`COr Caradog ap
Bran')に ちなみ、以後彼 はカラ ドグ と呼 ばれ るようになる。1861年 にはアベ ル ダ レ連合 クワイ
アの指揮者 としてアベ ル ダ ンのナショナル 0ア イステッズヴ ォッドで一位 を獲得 してい る。 と
(T.A.Davies,1972)。
はい え、 ブ リン リー・ リチャーズな どとは異 な り、 ロン ドンの音楽学校 はおろか、正規 の音楽
教育 も受 けた ことはない労働者 だった。
クリスタル・ パ レスの競技会 のためには、指定曲を 8つ 覚 え、当日は初見で 1曲 歌わなけれ
ばな らなかった。200か ら500人 とい う大人数 を集 め、 リハ ーサル をし、 ロ ン ドンまで行 く費用
も莫大 な ものだった。
通常アイステ ッズヴ ォッドでは80か ら100人 編成 の コー ラスが指定曲 2つ
を歌 うことを考 えれば、難 しさが想像 で きる。勝 つ ことは もとより参加するだ けで も至難 の業
だった。 これを可能 にしたのは、 リハ ーサル をお金 を払 って聴 きにい く人 々の存在 だった。各
地 に散 らばった少人数のクフイアを合体 したのが南 ウェールズ・ コーラス連合 だった。 リハ ー
サル はそれ らのクワイアを一箇所 に集 め、 ス ウォンジー、 カーデ ィフ、 ァベル ダ レなどで行わ
れた。 その都度入場料収入 を得 て、 クリスタル・ パ レスヘの費用 にしていた。 カエル フィリー
城 (Caerphilly Castle)で 行 った リハ ーサ ル に は12000か ら15000人 くらい が 集 ま り (J.H.
Da宙 es)、 コー ラスの面 々は、 まさにウェール ズ大衆 に支持 され る ヒーローだった こ とがわか
る。
1872年 、450の 声 でベ ー トーベ ンのハ レル ヤ (`Hallel面 ah to the Father')を 歌 い、 アベ ル ダ
ンに凱旋 した とき、 カラ ドグはバ ー ディック・ チ ェアに座 ってい る。 アイステ ッズ ヴォッドで
詩人 に贈 られる栄誉 の象徴 が、
労働者 の指揮者 に捧 げられたので ある。グウェ リンのアイステ ッ
ズヴ ォッドを象徴 する出来事 だった とい える。新聞 は当日の出来事 を熱狂的 に報 じてい る。
On the arrival of the train at 8.30p.rn.the excitement became intense...loud
cheers were given by the assembled thousands,intellllingled with the bursting
of fog signals,the firing of cannon and what with the ringing of bells and the
playing of bands the scene may be more easily ilnagined than described.
みι
ttπ ππ6,July,19,1873)
“
1897年 、 カ ラ ドグはアベ ル ダ ンの墓 地 に埋 葬 された。民衆 の ヒー ロー、 カラ ドグの銅像 は、
「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体
1920年 7月 10日 アベ ル ダ ンのヴ ィク トリア広場 に立て られた。戦 士で も政治家 で もない人物、
労働者 のクフイア と共 に、アイ ステ ッズ ヴォッドに育 て られた鍛冶屋 の指揮者 が、19世 紀 ウェー
ルズの倉J造 したグウェ リン像 の代表 として、 アベ ル ダ ンの街 に鎮座 してい る。
5。
まとめ
クリスタル・ パ レスの勝利 はウェールズ に「歌 の国」 と呼 ぶに値す る証明書 を与 え、現在 に
いたるウェールズの「ナショナル 0イ メージ」 を形成 した とされる。バ ー ディック・ チ ェアに
座 るカラ ドグは、 しか し、バ ル ドの祭典 としてのアイステ ッズヴ ォッ ドと労働者 を中心 とした
「歌 うアイステ ッズ ヴォッド」の間 に著 しい乖離 が ある ことを示 してい るわけではない。 むしろ
それはアイステ ッズヴ ォッドに参加 した労働者 の コー ラス と王侯貴族 の前 で己の技 を披露する
バ ル ドとの共通点 を物語 るとい えよう。バ ル ドとは歌 うことを職業 とす る詩人、吟遊詩人 で あ
り、高貴 な人々の前 で
「バ ル ドである」
事 を証明す るのがアイステ ッズヴ ォッドだった。労働者
「 リスペ クタブル」
も舞台 の上で整然 と整列 して、ヘ ンデル な どの高尚な曲 を歌 うことがで きる
な存在 で ある こ とを示 す必要 を感 じていたのである。実際 に炭鉱 で働 く労働者 と対比 してみれ
ば、労働者 が二つの身体、 つ まり炭鉱 で額 に汗 して働 き、地元 のパ ブで 自分 たちが故郷 の田舎
か ら携 えてきたバ ラー ドを歌 い踊 る黒 い顔 の身体 と、 アイステ ッズ ヴォッドやチャペ ル のテ ン
ペ ラ ンス祭 で正装 して歌 う「 きれ いな身体」 の二つ を演 じ分 けていた ことがわか る。 その意味
で、
「歌 うアイステ ッズヴ ォッド」はアベ ル ガヴニーのアイステ ッズヴ ォッドの延長上 にあると
い える。
「 きれいな身体」 は資本家 ジェン トリや ブルジ ョワ階級 が労働者 の身体管理のために必要 と
した ものばか りではない。ヽブィク トリア朝英国全体 で、福音主義 や禁酒運動 が労働者 にリスペ
クタブルな市民 の役 を振 り当てる中、 ウェールズでは、 ブルー・ ブ ックスの提示 した野卑 で無
教養 なウェールズ民衆像 に対抗す るために、労働者 の「 きれ いな身体」 は、 なおの こと求 めら
れたのである。 それは、労働者 自身 の意識 の中で内面化 され、賛美歌 や合唱曲 をハ ーモニー も
美 しく歌 う教養高 いグウェ リンヘ と、 自 らの社会的・ 文化的主体 を規定す る。酔 っ払 い、下品
な歌 をがな り立て、卑猥 な冗談 を言 うことも現実 には当然 あっただろうが、 その一 方 で、 日曜
学校 や トニ ック・ ソル フ ァ学校 で音楽的教養 を積 む ことを自 らに求 める労働者 の二面性 は、産
業化 を背景 に社会的上昇 をもくろんで きた新興 ジェン トリや 中流階級 自身 の持 つ二 面性 で も
あったろ う。ジェン トリ及び中流階級 が復興 したバ ル ドのアイステ ッズヴ ォッ ドと、その後 の、
ノンコンフォー ミス トによるグウェ リンのアイテ ッズヴ ォッ ドは、舞台 に上が るのが当代 きつ
ての詩人・ハ ーピス トで あれ、炭鉱労働者 のクワイアであれ、「 リスペ クタブル」 を演 じる点 で
は同質 だった と言 える。 アイステッズ ヴォッドは、 ウェールズ人 が、 イ ングラ ン ドに比肩で き
るようなナ ショナル・ イメー ジを演出 し、広 く英国全土 に流通 させ る こ とがで きた とい う点 に
お いて
(イ
ラス トレイティッ ド・ ロ ン ドン・ ニ ューズで取 り上 げられ るウェールズ に関す る話
題 の多 くは、アイステ ッズヴ ォッドに関する ことだった)、 1ヒ類 のない文化装置 だつた。19世 紀
を通 じて、古代衣装 をまとった ドル イ ドが統帥す る祭典、 そしてバ ル ドのチ ェア リングの儀式
がアイステ ッズヴ ォッドの一般的イ メージとして定着 する一 方、産業革命 の進展 によってジェ
ン トリや 中流階級 の前 に大挙 して出現 した労働者 たちが、 ドル イ ドやバ ル ドとともに、 このナ
ショナル な舞台 を飾 るにふさわ しい役者 として壇上 に並ぶ こ とになったのである。
森 野 和
弥
注】
【
1.彼 の父
じくベ ンジャ ミン
・ホール :1778-1817)は 、南 ウェールズの鉄鉱王 クラシェイ
(後 出)か ら鉄工所 を一部譲 り受 けた。 1806年 か ら1812年 までデボ ン (Devon)、 1812年 か
ら1814年 まではウェス トベ リ(Westbury)の M.P.に 選 ばれてい る。 1814年 には地元の在地
(同
ジェン トリを 向 こ う に まわ して グ ラ モーガ ン (Glamorgan)選 出 の 議 員 に 当選 した
(Fraser,1961)。
2.民 族衣装の復活 について も経済的 な側面 を忘れてはいない夫人だ った。 ウールで織 られた
衣装 を桧舞台 に出す ことによ り、イ ングラ ン ドの コ ッ トンに対 して地元 ウェール ズのウー
ル産業 を振興 させ るとい うこ ともあった (森 野 1998)。
3.動物汐励グ Lθ %αθπМ多
4.fJ」Os姥 虎″ιθ
%あ πN多
"s,Dec.2,1854.参
"s,Oct.25,1845。
照 の こと。
参照 の こと。
5.1770年 代 にはハ ー ピス ト、 エ ドワー ド・ ジョーンズ (Edward Jones)(`Bardd y Brenin')
が ス ラ ンゼ ル ヴェル (Llandderfel)か ら、1807年 に は 作 曲 家 ジョン・ パ リー (John
Pary(`Bardd Alaw'))が デ ンビー (Denbigh)か らロ ン ドンでの勉学 に向 かって い る
(Stead,116)。
6.ケ イ リオグは愛国的イメージ作 りに天賦 の才 を発揮 した。1858年 記念すべ きス ラ ンゴスレ
ン (Llangollen)の アイステ ッズヴォッ ドの リエ イ ンゲルズ (rhieingerdd)(love poem)
部門で賞 を取 った「 マ ヴァヌウ ィ・ ヴァハ ン」 (`Myfanwy Fychan')は 、14世 紀 を舞台 に
した恋愛詩 で、ハ ウェル (Hywel)と い う詩の巧みな羊飼 いが、領主 の娘 マ ヴァヌウィの
愛 を勝 ち取 るとい うものである。ハ ウェル の名 は、中世 ウェールズの賢王ハ ウ ェル・ ザー
(Hywel Dda)を 連想 させ、 マ ヴァヌウ ィは、 スランゴス レンの街 を見下 ろす、 ピクチャ
レス ク絵画 の素材 で もあったデ ィナス・ ブラン (Dinas Bran)の 城 に住 んでい る。 ウェー
ルズのイ コンをち りばめつつ、 ブルジ ョワのパ ー ラーで演 じられ るよ うなウィッ トに飛 ん
だ会話 もで きる、 モラル高 い恋人 たち、 そしてグウェ リン像 を描 き出 した。 ブルー・ ブ ッ
クスに対す るウェールズ側 の返答 とい えた。
7.も ともと「谷」 では小 さい採掘場 が点在す る ことによ り、 それぞれの採掘場 を中心 とした
小 さな村 が、 チャペ ル とイ ンを中心 に独 自の文化 を形成 していた。 このよ うな村人意識 が
クワイア間 の競争意識 をい っそ う盛 り上 げた ことと思われる。
8.マ ーサでは、1856年 にはテ ンペ ラ ンス 0ホ ールが建 て られ、 1868年 にはグラモーガ ン とモ
ンマスのテ ンペ ラ ンス・ コー ラス連合 (Temperance Choral Union of Glamorgan and
MonmOuthshire)が で きてい る。 1862年 には10の クワイア と700人 の団員 が所属 してい る。
9.カ ー ウェンは、1869年 には トニ ック 0ソ ルフ ァ学校 を設立 してい る。修了証書や免許証 を
発行 し、王立音楽学校 な どへ は行 くことので きない労働者 たちに とっては大学 に相当す る
ものだった。ロ ン ドンにあった この学校 ではウェールズ出身者 の上ヒ
率 が多 かった。(F.T.S.
C。 )
10.1881年 マーサ・ アイステ ッズヴ ォッドの審査員 だった J・ スペ ンサー・ カル ウェン (Mr.J.
Spencer Curwen)は 、 ウェール ズにお けるアイステ ッズヴ ォッドとチャペル の結 びつ きを
伝 えてい る。
The subjects were, of course, Biblical. It is impossible to dissociate Welsh music
「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体
from Welsh theology and religion;indeed,Welsh music can only be understood
by realising the intense Calvinistic faith of the people;their deep study of the
Bible;their system for Sunday Schools。
(yの 物%η αθγ,vol.5,1882,287)
11.運 賃 の割 引 もあった (A.Da宙 es,1972)。 鉄道 の重 要性 に関 して は、Ambrose(1973)も
指摘 して い る。
12.y cγααoγ
の 2惚
1872,23.参 照 の こと。
【
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