偽りから始まる恋模様 - タテ書き小説ネット

偽りから始まる恋模様 桔梗楓
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︻小説タイトル︼
偽りから始まる恋模様 ︻Nコード︼
N6660BO
︻作者名︼
桔梗楓
︻あらすじ︼
その高校では有名な男がいる。しかしそいつは悪質ともいえる行
動を繰り返していた。
真城紗弓は友人を傷つけられ、怒りにまかせて男をこらしめに行く。
しかし、逆に興味を持たれてしまい⋮。
※大分とゆっくりした話なので、ちゃんとしたR18シーンは大分
と先の終わり頃になります。ご了承ください。
1
1.あれよあれよと恋人役︵前書き︶
高校生活を通した恋愛話です。
のんびりと話をすすめたので、恋を自覚する様やすれ違う様子をの
んびりご覧頂ければと思います。作者的には﹁鈍感カップル模様﹂
です。
2
1.あれよあれよと恋人役
ガシャピシャ!と大きな音を立ててその部屋のドアが開けられる。
そこは明洛高等学校の生徒会室。中にいた数人の生徒役員がキョト
ンとドア側を見た。
﹁たのもー!ここに佐久間怜はいる!?﹂
ドアに立っていたのは一人の女子生徒。黒くクセのない髪をポニー
テールにしており、大きな黒い瞳は少しつり目で眼鏡をかけていた。
やたらと小柄で、そんな彼女の後ろからそっと覗くように、彼女よ
りも背の高い女子生徒が屈んで見ている。
彼女の声に生徒会室にいた男の一人が立ち上がった。
﹁はい、僕がそうですけど、どうかしましたか?﹂
小柄な女子生徒に対して彼は反比例するように背が高かった。近づ
けば、小柄なほうは首をほぼ直角に上へ上げなければ顔が見えない
だろう。
彼女は首をカクッと上げてキッと男を睨んだ。
﹁背が高いわね!ちょっとツラぁ貸しなさいよ﹂
﹁随分と乱暴な物言いをするのですね?﹂
﹁話し方なんてどうでもいいでしょ!?来るの、来ないの?﹂
すると佐久間怜と呼ばれた男は小さくため息をついて、後ろを振り
向いた。
﹁すみません、少し行ってきますね﹂
そう断ると、室内にいた数人の生徒が﹁いってらっしゃーい﹂と軽
く手を振って見送る。
おとなしくついてくる彼を後ろに、小柄な生徒はずんずんと歩いて
いった。
男が連れて来られた場所は体育館の倉庫内。女子にリンチを食らわ
される日が来るとは、と怜はのんびりと思う。
3
小柄な少女はもうひとりの女子生徒に﹁ここで待ってて﹂と言い、
倉庫内にある跳び箱をよじ登り始めた。
そして8段の跳び箱の上に立ち、男を見下ろしてビシッと指を指す。
﹁あんた、佐久間!よくも私のダチを傷つけたわね!﹂
は?と首を傾げる怜に少女がつり目をさらにつり上がらせる。
﹁しらを切っても無駄よ!あんたが来るもの拒まず、誘われたら誰
とでもつきあう、見目もイイから無料ホスト佐久間と影で呼ばれて
いるのはウチの学校じゃ有名なんだからっ!﹂
﹁そんな風に呼ばれてるんですか?さすがに改名をお願いしたいで
すね﹂
﹁改名っていうより、そう言われる行い自体を改めなさいよ!それ
で、私が許せないのは私のダチをその毒牙にかけたこと!⋮覚悟は
できてるでしょうね﹂
怜はのんびりと腕を組み、うーんと言って困ったように笑った。
﹁とりあえず貴女の名前を教えてもらえませんか?僕の名前を知っ
まきさゆみ
ているのにずるいですよ﹂
﹁ずるい!?私は真城紗弓よ。とりあえずあんたにはこれからとび
蹴りを食らわす﹂
﹁ああ︱︱それでその跳び箱に登ったんですね?﹂
﹁そうよ、ちゃんとそこに立ってなさいよ?でやー!くらえ!女の
敵!﹂
そう言うと躊躇なく跳び箱を蹴り、紗弓は怜めがけて足を繰り出す。
本当にやるとは思わなかったのか、横にいた女子が﹁きゃあ﹂と声
を上げた。
しかし︱︱。
ぱふっと音がする。あまり痛い音はしない。
何故なら怜が足をさらりとかわして彼女を抱き留めたからだ。
驚愕の表情を浮かべる紗弓に怜は抱き留めたままにっこりと笑う。
﹁元気な方ですねぇ。本当に僕へ飛び蹴りをしようとした方は初め
てですよ?しかも女性で﹂
4
﹁は、離せー!!﹂
﹁かわいい下着でしたね。白くてフリルつきですか。できれば次は
もう少し明るい所で拝見したいですね﹂
﹁みっ⋮見!?﹂
ぱくぱくと口を開け、顔色を赤くする紗弓をそっと降ろし、怜は笑
顔のままで頷いた。
﹁とりあえず話し合いませんか?そのほうがきっと建設的ですよ﹂
そう言って怜はナチュラルに紗弓の手を取って体育倉庫を出る。
紗弓は慌てて手を振りほどこうとするが、彼の手はがっちりと握っ
ており、ちっとも外れる気配がしない。
﹁はーなーせー!﹂
﹁ふふ、こんな面白そうな⋮いえ、興味深い方とお話するのは久し
ぶりなもので。ゆっくりしていってくださいね?ああ、貴女はもう
いいですよ。紗弓さんについては明日にでも本人から経過を聞いて
ください﹂
心配そうに見ていて、自分はどうしたらいいものかとおたついてい
たがまもる
うえばあ
た、もう一人の女子生徒に軽く声をかけ、怜は半ば紗弓を引きずる
ように生徒会室へ向かった。
みつくにやくも
明洛高等学校の生徒会には4人の有名人がいる。
ざか
会長の光国八雲、副会長の佐久間怜、書記の多賀護、会計の上羽鮮
花だ。
この4人に共通するのは何故かどれも美形揃いだということ。八雲
はカリスマ溢れるキラキラしい男で、紗弓から言わせると﹁チャラ
い﹂。護は可愛い系の美少年といった風で、紗弓と同じ1年という
こともあり、特に上級生の女子生徒からの人気が高い。さらに紅一
点である鮮花は凄みのある美人で、高嶺の花という言葉が実に似合
う。妙に妖艶な雰囲気を持ち、紗弓曰く﹁フジコちゃんみたい﹂だ。
そして佐久間怜。彼もこの生徒会のメンバーに遜色ない程整った顔
をしている。ほぼ八雲と女子の人気を二分していて、造形について
5
よく会長と比較される事が多いが、顔のタイプはまったく違うと紗
弓は思う。
こんな4人が揃っているものだから生徒会は絶大なる人気があって、
ほとんどアイドルのような扱いを受けているのも仕方が無いのかも
しれない。
﹁わはは!体育倉庫に連れて行かれて飛び蹴り食らわされたのお前
!﹂
﹁避けましたよ?﹂
﹁避けたにしても⋮すごいねぇ、あんまり怜にそういう事する人い
ないよね﹂
﹁紗弓ちゃん、よね。かーわいい!その度胸の大きさといい気にい
ったわ。仲良くしましょうね﹂
やたら胸の大きい女︱︱鮮花がソファに座る紗弓ににじり寄ってく
るので、紗弓は何か妙な身の危険を感じてじりじりと離れた。
そんな彼女を、隣に座っていた怜がヒョイと抱え、自分を挟んで逆
の場所に座らせる。
﹁駄目ですよ?鮮花。この子は僕のです﹂
﹁あらあら次は彼女?﹂
﹁そっちじゃないですけど、ちょっと毛色の違う玩具のような。だ
から僕が楽しみ終わるまで駄目です﹂
﹁今玩具って言った!?﹂
がーん、とショックを受けたような顔をして紗弓は怜とも距離を開
ける。ソファの端にしがみつく彼女に怜はくすりと笑って﹁冗談で
すよ﹂と言ったが紗弓はまったく安心できない。
がるる、と紗弓が威嚇しているとにこにことした護が紅茶を乗せた
盆を持って近づいてくる。
﹁まぁお茶でもどうぞ、ええと⋮1年3組の紗弓ちゃんだよね?特
急制裁者、真城紗弓﹂
﹁とっきゅうせいさいしゃあ?何それ、初耳﹂
6
後ろのほうでイスを逆側にして座り、背もたれ部分にひじを乗せた
八雲が目を丸くする。
護はこくりと頷いて、僕もこうやって話すのは初めてですが、と付
け足した。
﹁なあに?紗弓ちゃんって有名人なの?﹂
﹁有名っていうか、まぁある意味、1年の中では目立つ人だよね﹂
紗弓はその不名誉な渾名を知っているので何も言わず紅茶を飲む。
護が言うように、真城紗弓は﹁特急制裁者﹂と1年の中で人目置か
れる存在だった。
なぜそんな名がついたかというと、彼女は﹁風紀委員﹂なのである。
持ち前の責任感の強さで校則違反は許さない。恐ろしい程フットワ
ークが軽くて対処がすばやい。
校舎の裏で煙草を吸っているなんて声を聞けばすぐに走り、風のよ
うな速さで煙草を奪って注意する。
遅刻魔が学校の裏門からこっそり入ろうとすれば、どこから見てい
たのか目の前に現れ、名前にチェックを入れられる。
学校に不要物を持ってこれば、どう嗅ぎ取ったのか︵生徒からは紗
弓センサーと呼ばれている︶現れて、下校時まで没収される。
そんな感じで現れては注意しまくり、不要物を没収し、と徹底した
行動を取るので普通ならば生徒に嫌われていそうだが、彼女のその
バイタリティ溢れる雰囲気と有無を言わせぬ物言いが逆に風物詩と
なってしまい、今では校舎内を走り回る彼女の姿は名物の一つと数
えられている。
また、悪い事をしたとしてもよほどの事態でなければ教諭に告げる
事がなく、嫌味ったらしさもなく、あくまで生徒内の風紀を守る事
を一貫に行動している姿が好ましいのかもしれない。
そんな説明を護から聞いた八雲は﹁へええ﹂と感心した声を出した。
﹁俺、まじで知らなかった。そんな子だったの﹂
﹁まぁ走り回ってるっていっても、登下校の時間や一年の校舎内が
主だからね。二年や三年の校舎とは離れてるし﹂
7
﹁僕も初耳です。風紀委員にとても頼りがいのある一年が入った、
という話は委員長から聞いていましたが、貴女のことだったんです
ね?﹂
面白そうに瞳を揺らして怜が地味に威嚇を続けている紗弓を見つめ
る。
彼女は一旦彼を威嚇するのを止め、紅茶のカップをソーサーに置い
た。
﹁私は私の仕事を完璧にこなしているだけよ。それより、私はここ
に茶ぁ飲みにきたわけじゃないの。アンタが話し合いしようって言
うからきたのよ﹂
正確に言うと拉致された、引き摺られた、という表現のほうが正し
いが、そんな問答で時間を潰すのも嫌になってきたので紗弓はその
まま話を続ける。
﹁とにかく、私は前からあんたのふざけた異性不純交遊が気に食わ
なかったわ。それでもアンタは3年だし、3年は先輩の風紀委員に
任せるべきでしょ?だから何もしなかった。⋮だけど、それは私の
友達に手を出さなければの話﹂
﹁先程からあんたあんたと貴女は言いますけど、名前で呼んでくれ
ませんか?怜って﹂
﹁なんで呼ばなきゃいけないのよ!そんな義理ないわよ女の敵!⋮
とにかく、あんたは私の友達を泣かしたの、悲しませたの。それで
私の堪忍袋はキレたのよ、ぷちーんと。ああ、思い出したら腹立っ
てきた!やっぱり蹴り食らわせないと気がすまないわ﹂
わなわなと体を震わせてから紗弓は立ち上がり、改めて怜に蹴りを
食らわせようと足を回して蹴ろうとする。彼はそんな彼女のふくら
はぎをパシと、難なく片手で掴んでしかも優しくなで上げた。
﹁ぎゃあ!﹂
﹁ああいい。すべすべですね。時々ちくちくする人、いるんですよ
ね。剃りすぎですよね、あれって﹂
そしてそのまま紗弓の脚を唇に近づけてちゅ、とキスをする。
8
彼女は目を見開き、泣きそうな、しかし怒りの表情でわめきながら
足をぶんぶんと振る。
怜は脚をぐいっと引っ張ると、よろけた彼女の腰を支えて再びソフ
ァに座らせた。
慌てて制服の裾を直す紗弓に﹁でも﹂と怜は首をかしげて聞いて来
る。先程のひと悶着がなかったようなするりとした態度にさすがに
紗弓も若干戸惑った。
﹁泣かした、と貴女は言いますが、その女性もまた僕に声をかけて
きた、誘ってきた一人ではないでしょうか。僕は自分から誘うこと
は一切ないんですよ?﹂
すると紗弓は少しむすっとした顔をして﹁そうよ﹂と俯く。
﹁あんたを好きになった友達が⋮多分言ったんでしょうよ。それで
ほどなくあんた達はつきあい始めた。でも⋮2、3回デートして終
わり。あんたは友達を振って、別の人とつきあった﹂
﹁ああ、きっとその辺りで別の女性に誘われたんでしょうね。しか
し、次の方に声をかけられたら別れる、というのはおつきあいをす
る前にちゃんと言っていますよ?そしてそれを了承した方でないと
僕はつきあいません。だから貴女の友達もそれは判っていると思う
のですが?﹂
﹁っ⋮そんなの知らないわよ!でも、友達は泣いてたの。悲しんで
いたのよ!私は彼にとって何だったんだろう、きっと暇つぶしだっ
たのね、って。そんな不誠実な男に弄ばれて、許せるわけないでし
ょ!?﹂
キッとした顔で怜を睨みつける。すこしつり目なその瞳は大きく、
真剣な顔で彼を見ている。
ふいに、彼女の眼鏡が邪魔だな、と怜は思った。
黒フチの部分が彼女の目を少し隠しているのだ。これを取り払って、
ちゃんと瞳を見たい。
一見猫のようでいて、子犬のような丸く黒い瞳を。
﹁⋮ちょっと、聞いてるの?人の話﹂
9
﹁ん⋮ああ、聞いてますよ?つまり貴女は僕をどうしたいのでしょ
う。とりあえず蹴りたいんですか?それで気が済むなら確かにまぁ、
一、二発は受けていいかなと思います﹂
彼女の脚の振り方、体重のかけ方、さらに小柄な身からしてさほど
痛くはないだろうし、と顎を撫でる。
﹁いいの?マジで蹴るわよ、骨折るつもりでやるわよ﹂
﹁骨折ったら問題になるの、貴女ですけどね?けれど、紗弓はそれ
でいいんですか?﹂
﹁⋮何が?﹂
いつの間にか怜以外の顔ぶれは皆、興味深そうに2人を観察してい
る。
若干ニヤニヤしていて楽しそうだ。そんな彼らを少し横目に見なが
ら怜は紗弓に話し続ける。
﹁今回のだけでいいんですか?それだと僕はこれからも女性からの
誘いを断りませんよ。また貴女の友達の一人が声をかけたとしても
僕はわかりませんし、お受けするでしょう﹂
﹁あんたねー⋮その爛れた生活を開き直ってるの、すごく腹立つん
だけど﹂
﹁そう言われましても、そうやって生きてきましたからねぇ。けれ
ど貴女が言うように⋮確かに、僕の日常生活は⋮とくに異性関係に
対して倫理から外れているな、ということは自覚しています﹂
紗弓はつり目の瞳を少し大きくさせて驚く。自覚してたの、と言わ
んばかりだ。
人並みの倫理観は一応持っているので怜は苦笑する。
﹁それに、まぁ⋮さすがに食べ飽きたというか⋮最近はほとんど義
務感でおつきあいしてるような状態なんですよねぇ⋮﹂
はふ、とため息をつく。紗弓はそれを聞いて﹁は!?﹂と声を上げ
た。
﹁だって、前までは誘えばおつきあいしたのに、いきなり、もう面
倒だから止めるって言ったら不公平でしょう?だから何かきっかけ
10
を作って止めたいなぁとは思っていたんです﹂
﹁はぁ⋮﹂
紗弓は少し戸惑っていた。
この男の言うことはまぁ理解できるものの、どこか、何かとても大
事なものがぽっかりと欠如していて、淡々と話す彼の雰囲気につい
ていけない。
﹁結局何が言いたいの?よくわかんないけど、ちゃんとした彼女で
も作ればいいじゃないの﹂
﹁そう!それです﹂
ガシッと怜は紗弓の手を掴む。ひぇっ!と彼女は驚いた顔をして慌
ててぶんぶんと手を振るが、まったく外れる気配がしない。
怜はきらきらとした顔をして紗弓を見つめた。
﹁貴女が僕の彼女役になってください。紗弓はとても真面目で誠実
そうですからね。他の女性の誘いをお断りする時にも貴女が相手と
判れば説得力がありそうですし﹂
﹁はぁ!?なんでそんな事私がしなきゃいけないのよ。そんな義理
ないし、私別にあんたとつきあいたくないし!﹂
その瞬間、ぶはっと八雲が噴出した。肩を震わせて﹁怜につきあい
たくないっていう女初めて見た⋮﹂と呻く。そんな彼を少し半眼で
睨んで、怜は再び紗弓へ顔を向ける。
﹁それでも、僕が女性関係を整理すれば確実に貴女の友達を悲しま
せるということはなくなりますし、学校の風紀もよくなるでしょう。
僕は面倒な女性とのつきあいを止めることができますし、これはい
わゆる、WinWinの関係ってやつですよね?﹂
﹁アンタ一応、風紀を乱してるって自覚してるのね⋮。うー⋮なる
ほど。確かにまぁ、あんたの行いは目に余っていたし、面倒とかい
うのは気になるけど、振りなのよね?あくまで﹂
﹁ええ、僕は僕に興味がない女性を無理矢理どうこうする趣味はな
いですよ?多分﹂
﹁多分ってつけたすなー!!﹂
11
ちなみに怜はまだ紗弓の手を握ったままだ。彼女は手足をばたばた
させて暴れるが、全く振りほどけない。この男の手は手錠かと思う。
﹁そう言われても、そんな気持ちになったことがないので多分とし
か﹂
﹁それから全然WinWinの関係なんかじゃないわ!明らかに私
のほうが損してるじゃないっ!⋮けど、風紀委員としてあんたの乱
れた行動を監視するという面においては意味が出てくるわ﹂
﹁そうでしょう。貴女の正義に対する些細な達成感を満たすことが
できます﹂
﹁⋮あんた、一言余計っていうか、言わなくていいことまで言うの
ね⋮﹂
素直なもので、と悪びれなく言う男を紗弓は睨みつける。
彼女は怜に手を握られながら考える。
この男の思考は妙におかしい。何かが欠落している。何というか、
一部損壊している感じがする。
しかしそれは紗弓にとって問題ではない。何故なら真面目に彼氏彼
女として付き合うわけではないのだ。
彼は3年生。つまり今年で卒業だ。それまで異性不純交遊という乱
れた風紀を正すのは風紀委員として当然の行いではないかと思う。
ちなみに彼女の中で異性不純交遊とは、高校生の立場でありながら
責任のない行動︱︱つまり性行為を指している。
佐久間怜が女生徒の誘いを受け、つきあうというのはそういう行為
も兼ねているというのは公然に出回っている話なのだ。どうして教
諭が注意しないのかと思ってしまうが、そこは色々あるのだろう。
ともあれ彼が﹁振り﹂だと言う事はそういった心配はしなくて良い
し、真面目につきあうわけではないから彼の歪んでいそうな人間性
も関係ない。彼が卒業するまで監視すれば良い話なのだ。
しばらく目を瞑って考え込んでいた紗弓がやおら瞳を開く。
そしてこくりと頷いた。
﹁⋮わかったわ。監視役としてあんたを見張らせてもらう。これは
12
風紀委員長に報告するわよ。ほとんど風紀委員としての仕事みたい
なものだし、あの人は口も堅いから﹂
すると怜は満足したように微笑んで﹁はい﹂と返事をする。
﹁それと、振りでも私とつきあうんだからちゃんと今の彼女とは別
れるのよ。嘘でも二股なんて許さないんだから。そんな事したら絶
交よ、絶交。無視してやるから﹂
﹁あはは、それは困りますねぇ。勿論、それが目的ですし⋮ちゃん
と整理します。そしてこれから他の女生徒に声をかけられてもお断
りします。その時貴女の名前を出してもかまいませんね?﹂
﹁うー⋮仕方が無い。多少の敵視は風紀委員になる時覚悟してたん
だから⋮いいわよ﹂
というより、学校における殆どの女子生徒を敵に回すのではないだ
ろうか、と思う。
しかし仕方が無い。風紀委員とは本来嫌われる職業なのだ。
これも学校の風紀の為、と紗弓は自らが犠牲となることを選ぶ。そ
んな風に決意している彼女を怜は少しだけ真剣に見て、語りかけた。
﹁大丈夫ですよ。そんな事はさせません。僕は自分が気に入った人
間を傷つける人は決して許しませんから。貴女が僕に協力してくれ
る限り、僕は貴女を守りますよ。紗弓﹂
いきなり真面目に言われて紗弓はおたつく。本当にこの男は何を考
えているのかさっぱり判らない。
しかしそこで、ぱちぱちと周りで拍手が起こった。
﹁すごい!怜が真人間への道を歩み始めている!﹂
﹁そうねぇ、そろそろ性病とか大丈夫?とか心配してた頃だし、丁
度良かったわね﹂
﹁あとどっかで失敗して孕ましてねえかなとかな。何せこいつは敬
語とか使って丁寧そうに見えるけど、実は俺達んなかで一番鬼畜っ
ていうか、ヤリいてぇ!﹂
﹁余計なことは言わなくていいんですよ、八雲?﹂
どこから取り出したのか怜は消しゴムを指ではじいて八雲の額にベ
13
シッと当てる。
やっと彼から手を開放された紗弓は早くもじりじりと怜から距離を
取っていた。
﹁だ、大丈夫なんでしょうね。何かあったら速攻警察呼ぶわよ﹂
﹁いきなり警察ですか⋮では携帯をどこかに隠蔽してから、いえ、
冗談です。何もしませんよ、多分﹂
﹁だからその、最後に多分って入れるのやめろー!﹂
﹁保険を入れておかないと不安なんです﹂
やっぱりこの男は危険だと紗弓は判断し、さっとソファを降りる。
カバンを持ち始めたので、怜は首を傾げた。
﹁お帰りですか?﹂
﹁用も済んだし。話もついたし。ここにいる意味はもうないわ﹂
﹁そんな、かりそめでも僕の彼女なんですから。これからも気兼ね
なく遊びにきてくださいね?﹂
というより問答無用でまた拉致りますよと言わんばかりに怜はニッ
コリと笑う。
そんな彼に紗弓は﹁シャギャー!﹂と威嚇してドアへ走っていった。
﹁それじゃ明日から、言ったからにはちゃんと監視するわよ?私。
⋮覚悟しておきなさい!私は容赦しないわよ!﹂
﹁勿論。末永くよろしくお願いします。こちらも貴女にお覚悟と言
っておきましょう。⋮容赦しませんから?﹂
何をー!?と紗弓は叫んで、もういいとばかりに部屋を出る。
ぱたぱたぱた、と早足の音が小さくなっていって、生徒会室に静寂
が戻った。
﹁さすが特急の名を持つ紗弓ちゃん⋮噂に違わず去るのも早いね。
台風みたいだ﹂
しかも走らないで、あくまで早足に抑えてるあたりが風紀委員ぽく
て妙に笑える。
しかし護の呟きに反応する者がいない。普段なら八雲か鮮花が何か
言うのにと振り返ると、鮮花はわなわなと震えていた。
14
﹁可愛い⋮やばい。私、紗弓ちゃん好きになりそう⋮﹂
﹁え、鮮花さん。相手女の子だよ?﹂
﹁ペットにしたい⋮首輪つけて繋げて、エサをあげたい⋮﹂
﹁やっぱりそっちなんだ!?ちょっと安心!﹂
でも彼女が可哀想だから本気で好きにならないほうがいいかな、と
護は思う。
ぶつぶつと﹁ネコミミメイド仕様にして⋮﹂とか﹁快楽だけを仕込
んで⋮﹂など、とても不穏な事を呟く鮮花に、ずっとドアの方向を
見ていた怜が振り向いてにっこりと笑う。
﹁駄目ですよ?鮮花﹂
﹁⋮ん?珍しいわね。いつもはお好きにどうぞ、とか言うのに﹂
﹁彼女は僕が先に見つけた愛玩動物なんですから、僕が楽しむんで
す﹂
﹁やっぱりそっちなんだ!っていうか怜もペット感覚なんだね!?
僕が貴女を守ります、なんてカッコイイこと言うからちょっと感動
してたのに!﹂
思わずつっこんだ護に怜は﹁当たり前ですよ﹂と頷いた。
﹁飼っている犬を守るのは飼い主として当然の事でしょう?エサも
あげますし、可愛がりもするじゃないですか﹂
﹁君は鬼畜だ⋮﹂
この生徒会は皆どこかおかしい。自分も確かにおかしい部分はある
けれどと護ががっくりして、いつもは我先に喋り倒す八雲がずっと
黙っているので彼の方を見た。
八雲は少し真面目な顔をして腕を組み、怜を見ている。彼もそれに
気づいて﹁どうしました?﹂と八雲へ声をかける。
﹁怜、お前どこまで本気なんだ?﹂
﹁さぁ⋮?本気もなにも、今までの人生で本気になったことないで
すから、わかりません﹂
けろりと答える怜に、八雲は小さくため息をついて肩を落とした。
﹁そうだろうな⋮。ま、お前が女を食い捨てる生活に飽きて終わら
15
せたいと思ってるならそれでいいさ。失敗しましたごめんなさいで
終わらせれるような年じゃ、もうないんだし﹂
そこで息をついて、八雲は彼らにとって本当に珍しく、真剣な顔を
して怜に言葉を続けた。
﹁でも、弄ぶような事だけはするなよ。ああいうイイコが傷つくの
は俺、好きじゃない﹂
﹁へぇ⋮本当に珍しい。女性を翻弄して弄ぶのが一番好きな貴方が
言う言葉とは思えませんね?﹂
﹁むぅ、悪意ある誤解だな。俺は俺が好きな女性を等しく愛してい
いたぶ
て、時々遊び相手を選んでるだけ﹂
﹁その遊び相手には容赦なく甚振る癖に?貴方は僕より性質が悪い
ですよ﹂
しかし何となくいいたいことは分かる。あの子で楽しんでも、虐め
て笑いものにし、遊ぶようなことはしてはいけないと。
﹁大丈夫ですよ。僕は八雲と違って悪戯に女性を傷つける事自体は
好きではありません。僕に興味がなければ余計にね﹂
﹁ひでえ!お前は俺を本当に誤解してる!でもさっき紗弓ちゃんに
友達が泣かされた!って言われたばっかりなのに﹂
﹁それは結果、です。忠告を了承してつきあっておいて、別れて勝
手に傷つかれても困ります。そうではなくて⋮僕が故意的に彼女を
傷つけることはしたくないって事ですよ。あ、からかったり、虐め
るのは大好きですけどね?でもそれってペットの飼い主もするでし
ょう?愛情の裏返しみたいな﹂
﹁ああわかる。ホラホラ、お菓子だよ∼?でもおあずけ∼みたいな
ね﹂
﹁そのペット理論から離れられないの、二人とも!?﹂
護のつっこみにあははと笑う怜と鮮花を見て、八雲もふっと笑い﹁
確かにそれはすごくわかるけど﹂と同意した。
﹁ま、分かってるならいいや。俺も彼女があまり悪意にさらされな
いように協力してやろう﹂
16
﹁期待しておきます。それじゃ早速今の彼女さんとお別れしましょ
うかね﹂
怜はポケットから携帯を取り出すと、今現在つきあっている女性に
電話をし、別れを告げる。
﹁次は誰とつきあうの!?﹂と取り乱す女性にこともなげに彼は﹁
1年の真城紗弓さんです﹂と答えた。
こうして次の日には怜の新彼女が真城紗弓だと、ほぼ全校生徒に話
が行き渡るのである。
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2.手懐け開始!?
﹁なーぜーにーこうなった!!﹂
休憩時間。3年の校舎、怜の教室にものすごい怒りを形相にした紗
弓がドアを開いて現れた。
﹁おお、一年の特急制裁者にして佐久間の新彼女、真城紗弓だ!﹂
﹁今校内で最も旬な女子ね。おいでおいで紗弓ちゃん、お菓子あげ
ちゃう﹂
﹁お菓子の持ち込みは校則違反です!風紀委員の先輩仕事して!と
りあえずお菓子は下校時まで没収します知らない先輩っ!﹂
3年の女子生徒からお菓子をふんだくってから紗弓はのんびりと椅
子に座る怜を見つけ、ずかずかと近づく。
﹁ちょっとツラぁ貸しなさいっ!話があるわ!﹂
﹁こんにちは、紗弓。⋮いいですよ?可愛い恋人のお願いですから﹂
すると周りでひゅーひゅーとからかわれる。顔を真っ赤にした紗弓
は﹁行くわよ!﹂と言い捨ててずんずんと教室を出て行った。
﹁佐久間怜!一体どんな話をして彼女と別れたわけ!?なんで昨日
の今日でここまで話が出回ってんの?まさか言いふらしたんじゃな
いでしょうね、佐久間怜!﹂
﹁あんたの次はフルネームですか⋮。まぁいいですけど?僕は普通
に携帯電話で別れを告げただけですよ?紗弓の名前は出しましたが﹂
ということはその元彼女が触れ回ったのか。昨日の今日で。全く佐
久間怜ファンのネットワークは恐ろしい。
朝の登校時から妙に視線を感じたり一部女生徒から敵視されたり、
嫌味を言われたりした。それで嫌な予感はしていたが、教室に入っ
てクラスメートに言われたのだ。﹁佐久間怜とつきあってるって本
当!?﹂と。覚悟はしていたが、いきなりその質問をされるとは思
わなくて紗弓は思わず噴出してしまった。
18
﹁佐久間怜にファンが多いのは知ってたけど正直舐めてたわ。ここ
まで話が広がるなんて⋮。休憩の度に次々と元彼女が教室に来て、
色々とご丁寧に忠告していくし﹂
そこで彼女は少し胡乱な目をして怜を軽く睨む。
﹁忠告。その表情を見るにろくなことを言ってないのでしょうね﹂
﹁そーねー。あんたの所業を事細やかに教えてくれたわよ。私は思
ったわ。佐久間怜に必要なのはそう、去勢よ!﹂
ビシッと彼女は怜に向かって指を指す。相手は背が高いから空に向
かって指しているようにも見える。
しかし彼は軽く顎を撫でた後、妙に真に迫った雰囲気で紗弓に言う。
﹁それは困ります。僕はまだ若いのだからまだまだ楽しみたいです
し﹂
﹁じゃあせめてもうちょっと紳士的に振舞いなさいよ!ああもう最
悪。なんでこんな人と嘘でもつきあわなきゃいけないの⋮歩く猥褻
物って呼んでやるわ﹂
﹁それはまた不名誉な事で。⋮というか、そこまで言うなんて、一
体彼女達はどこまで貴女に話したのですか?一応聞いておきたいの
ですけど﹂
そう聞くと、指を指したままの紗弓は少し間を置いた後、何を思い
出したのかぶわっと顔を赤くする。
﹁それはあの、行為の時にその、あ、あの⋮﹂
﹁ええ、性行為の時に?﹂
﹁ぼ、僕としたいのなら準備はそちらでするべきって言って、あの、
あれを⋮﹂
﹁あれ。あれって?﹂
思わずニヤつきたくなる顔を必死で抑えて怜がそう言うと紗弓は﹁
あれは、あれで⋮﹂と言葉が無くなっていく。
やがて彼女は俯き、声をなくす。おや?と怜が顔を覗き込もうとす
ると、突然紗弓は怜の腹に向かってグーパンチを食らわせてきた。
﹁何言わせるのよ、この変態ー!!﹂
19
﹁ははは、だって赤くなって可愛いから。やっぱりあんまり痛くな
いですね﹂
﹁痛いのはこっちよ!佐久間怜の腹は鉄筋かっ!突き指しそうにな
ったわっ﹂
そう言いながら赤くなった手を振っていると怜はそっと紗弓の手を
取り撫でた。
﹁だめですよ?殴り方というのがあるんです。後で教えて差し上げ
ますから、次からはその方法で殴ってくださいね?﹂
一見マゾのような事を言う男に紗弓は顔を引きつらせた。しかし彼
はあまり気にせず﹁うーん﹂と空を仰ぐ。
﹁それにしても、そんな事まで話すとは。女性って本当にお喋りで
すね?デリカシーがないというか。そんな事を貴女に知らせてどう
したいのでしょうねぇ。⋮ああ、別れさせたいのか﹂
﹁それが目的だとしたら9割成功してるわよ。私は今、佐久間怜と
一生距離をおきたい気持ちで一杯﹂
﹁そんな寂しいことを言わないで下さい。⋮しかし、早めに僕も対
処したほうがいいでしょうね﹂
対処?と紗弓が首を傾げると怜は﹁何でも﹂と首を振る。
彼女はそれにはあまり気にせず俯いて、地面を蹴った。
﹁はーぁ⋮覚悟してたけど⋮面倒くさいなぁ⋮﹂
﹁まぁ貴女はいつも通り生活しててください。別に根も葉もない噂
というわけでもなし、いっそ早めに出回って都合もいいですよ。動
く方は動きますし、諦める方は諦めます。今までも女性が変わる度
に言われた事でもありますからね。⋮さすがに、貴女みたいにあか
らさまな事を言われた事例はありませんが﹂
﹁え、そうなの?皆ああいう事言われてるのかと思ったわ﹂
怜は苦笑する。
今まで、声をかけられその都度鞍替えした女子生徒達。来るもの拒
まずと人は言うが少し違う。怜に声をかける女性には共通点がある
のだ。
20
それはある意味、八雲が手を出す女性を選ぶように。
確かに初心そうな、いかにも男慣れしてなさそうな子が告白をして
くる事もある。しかしそういった女子達は彼の﹁忠告﹂を了承でき
ない。
つきあってもいいですよ、しかし体の関係が込みです。そして他の
女性に声をかけられたらそちらに行くので、その時点でお別れです。
そんな風に言われて﹁それでもいい﹂と答える人は弄ばれたい人か、
ひと時でも怜と関係を持ちたい人。
または体の関係を軽く見ている遊びなれた人くらいだ。
付き合った過去のある﹁元彼女﹂から再び声をかけられる事も少な
くない。
怜のポリシーは同時複数とつきあわない事である。次の人に声をか
けられれば、今の人とは別れる。
しかし彼は一度関係を持った女性と再度つきあう事自体は気にせず、
またつきあった。とっかえひっかえと言うがそういった事情で、あ
る程度女子生徒の中では彼とつきあう人間は限られていたのだ。
そんな彼を全くノーマークだった真城紗弓に取られた。
紗弓を少しでも知る人間ならば判る。およそ彼女の性格からして趣
味ではないはずなのだ。彼女にとって彼は嫌悪の対象であれ、好意
を持つわけがないのである。
確かにその嫌悪感を覆す程の美貌を持ってはいるが、あの﹁条件﹂
を飲むとは思えない。
ならば彼女が意思を曲げるほど彼に惚れたのか?あるいは⋮これが
一部女子生徒、特に怜と関係を持った人間にとって由々しい事態だ
が、怜が本気になったのか。
その判断をつきかねて、とりあえず牽制しやすい紗弓に﹁忠告﹂し
たのだろう。
何となくそんな所かな?と怜は考えた。
ふん、ふん、と一人納得しながら彼はいつの間にか腕を組み、頭の
中で今後の行動を順序立てる。
21
そんな彼を気味悪そうに紗弓は見た。
﹁と⋮とりあえず、その辺のフォローは任せていいの?これフォロ
ーしきれませんとか言うのなら、私はアンタにヘッドロックを仕掛
けなくちゃいけないんだけど﹂
﹁またアンタに降格ですか?ヘッドロックはいいですね。今度やっ
てください。ああでもちゃんとその辺りは対処しておきますよ。僕
の女性関係で貴女に迷惑はかけたくありませんから﹂
﹁もう十分迷惑してるけど⋮って、ヘッドロックかけていいの?割
と首の骨折る勢いでいくわよ﹂
﹁ええ、絶対折れませんし。貴女着やせしてそうな体ですからね。
小柄な割りに。逆に気持ち良さそうです﹂
へ?と紗弓が彼の真意がわからず見上げると彼はじっと彼女の体を
見ている。⋮主に胸を。
ぎゃあと叫んで胸を隠す。
﹁こ、この歩く猥褻物!見るな!目で犯される!﹂
﹁そんな、目で犯すっていうのはもっと違う見方をするんですよ。
次は犯すように見て差し上げますね﹂
﹁見なくていい!全力で遠慮するわっ!とにかくそれが分かったら
いい。私は帰るからね。というか私忙しいんだから!ああもう昼の
見回り殆ど出来なかった⋮﹂
﹁大変ですねぇ風紀委員も。それではまた放課後に﹂
当たり前のように言って手を振ると﹁は?﹂と彼女は顔の表情を歪
める。
すると、はふ、と怜はわざとらしくため息をついてきた。
﹁まがりなりにも僕と貴女は恋人同士なんですよ?少しは仲良い姿
を見せておかないと。一緒に帰りましょうね?生徒会室で待ってま
す﹂
紗弓はとんでもなく嫌そうな顔をした。
◆◇◆◇
22
はぁ、と小さく紗弓はため息をこぼす。今日何回ため息をついたか
分からない。
れんげきょうこ
心配そうに見ていた彼女の友達、昨日怜に喧嘩を売った時一緒にい
た女子生徒、蓮華響子が声をかけてくる。
﹁大丈夫?さゆちゃん⋮﹂
﹁あんまり大丈夫くない。もうやだ⋮早くも後悔中﹂
まさか怜とつきあう事がこんな大事になるとは思わなかった。
何故なら今までは、彼の女性交遊は目立っていたものの、ここまで
騒ぎにならなかったからだ。
また彼女かわったらしいよ?へー、次は?2年の○○さん、といっ
た感じで、何というか世間話の一つに過ぎなかったのである。
それなのに相手が自分になった途端に人から好奇の目で見られ、根
堀葉堀と聞いて来る。
とうとう特急制裁者が、女関係の激しい佐久間怜を矯正しはじめた
のか!とまで言われてしまった。
それはある意味間違っていない。彼女の目的はあくまで怜が高校生
にふさわしくない乱れた生活を改めさせ、それを監視することなの
だ。
しかしそんな事実をおおっぴらに言うわけにはいかない。そんな事
を言えば怜の目的が果たされないからだ。
彼は紗弓を彼女と仕立て上げることで女性関係を絶とうとしている。
本意が知られてしまっては、自分を使った怜の断りも意味を成さな
いだろう。
﹁はぁ⋮人生って、うまくいかないものだわ﹂
﹁その年で人生悟ってどうするの。それにしても私もびっくりだよ。
あの後⋮さゆちゃんに、あの佐久間先輩がつきあって欲しい、なん
て言って来たなんて。本当なの?﹂
﹁ま⋮まーね⋮﹂
間違ってはいない。提案をしてきたのは彼のほうだ。
23
それに佐久間怜もそのように、事情を聞く女子生徒へ説明している
らしい。
﹁ああだめ。こんなの全然私らしくない。ああ、明日は張り切って
朝から校門で制服検査しちゃおうかな﹂
﹁そんな、気分一つで抜き打ち検査なんてしないでよ⋮﹂
どんよりとする紗弓につっこみながらも響子は労わるように背中を
撫でた。
◆◇◆◇
生徒会室をからりと開ける。
そこには生徒会長である光国八雲が一人、パイプ椅子に座っていた。
﹁おや、いらっしゃい紗弓ちゃん﹂
﹁あ、こんにちは。⋮ええと佐久間怜は?﹂
﹁あーごめん。俺がちょっと頼みごとしちゃって。もうすぐ帰って
くると思うよ?﹂
そうですか、と紗弓は頷く。
カタンとドアを閉めて、ドア横でちょこんと立つ。そんな彼女を八
雲はくすくすと見た。
﹁そんな端にいないで。そこのソファに座っていればいいのに﹂
﹁いえ、別に長居するつもりはないので。佐久間怜にここで待てと
言われているだけですから﹂
つまらなさそうに彼をフルネームで呼ぶ紗弓に堪らず八雲がぶはっ
と噴き出す。
﹁あんたの次は佐久間怜?紗弓ちゃん面白いね∼普通に呼んだらい
いのに﹂
﹁普通って⋮例えばどんな呼び方ですか?﹂
八雲が﹁怜とか﹂と言うと﹁絶対嫌!﹂と彼女は間髪入れず反応す
る。
その反応が面白くて彼は﹁佐久間先輩﹂﹁怜たん﹂﹁だーりん﹂な
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ど提案するが、どれも彼女はものすごく嫌そうな顔をして拒否をし
た。
﹁そんな毛嫌いしなくていいのに。女性関係以外は割と普通の男だ
よ?いきなり恋人というのはアレだけど、友達くらいにはなってあ
げてよ。怜、友達少ないからさ﹂
﹁彼が去勢したら考えます﹂
つんと答えると、八雲は﹁去勢って!﹂と腹をかかえて笑い出す。
そんな風に八雲がからかい、紗弓がぶっきらぼうに答えたりしてい
ると書類を持った怜が入ってきた。
﹁書類、もらってきましたよ。⋮あ、紗弓。お待たせしてしまいま
したか?﹂
﹁⋮別にそこまで待ってないから﹂
ふん、と鼻を鳴らしながらそう言うと怜は良かった、と笑い八雲に
書類を渡す。
﹁情報操作のほうはうまくいきそうですか?﹂
﹁ああ。色々流しておいたぞ。ま、数日もしたらなじむだろ﹂
﹁そうですか。八雲のネットワークは広くて助かります﹂
軽く礼を言って怜はカバンを持ち、紗弓へ歩み寄る。
﹁さ、帰りましょうか。そういえば紗弓は何で登校してるんでしょ
う?﹂
﹁私は近所だから徒歩よ。そういう佐久間怜は?﹂
﹁僕は電車です。⋮残念ですね、一緒に電車に乗れるかなぁって思
ったのに﹂
﹁そりゃ残念でしたねぇ。生憎私は歩いて10分よ。ふはは﹂
意味もなく勝利の笑みをうかべる紗弓の肩にさりげなく手を回して
﹁さて﹂と怜は歩き出す。
﹁じゃあ貴女の家の前まで行って、それから僕は一人寂しく帰りま
しょう﹂
﹁ちょっ⋮家の前まで行くとか何!?﹂
﹁だって彼氏ですから。おうちまでちゃんと送って差し上げます﹂
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いらんー!と言いながら紗弓は生徒会室を出る。
八雲は笑みを浮かべたままヒラヒラと手を振ってそんな二人を見送
った。
﹁んー、面白くなりそうだなぁ、これ。観察日記でもつけるか﹂
少し意地悪そうな、楽しそうな笑みを浮かべて、彼は一人呟いた。
結局紗弓の家まで行くというのは彼女が断固拒否し、結局彼女が少
し遠回りして駅まで彼を見送る事になった。
︵なぜ、私がヤツを見送らなきゃいけないのよ⋮っ!︶
イライラとするが、逆に言えばそれくらいで仲の良さとやらが証明
されるのなら仕方が無いとも思う。
ちなみに隣で歩く怜は穏やかな顔をしてのんびりとしている。
二人黙って歩くのも何かと思って紗弓は話題を探した。
﹁⋮す、好きな食べ物﹂
﹁はい?﹂
﹁好きな食べ物は何なのよ﹂
彼の顔を見ずにぶっきらぼうに聞くと、怜はくっくっと笑った。
﹁お見合いみたいですね。んー、僕は何が好きなんでしょう⋮?﹂
﹁はぁ?私に聞かないでよ﹂
﹁そう言われましても、考えたことないですから。⋮では紗弓は?
好きな食べ物﹂
逆に聞かれて紗弓は歩きながら腕を組む。
好きな食べ物⋮確かに言われると、何が好きなんだろうか。何でも
食べる紗弓は具体的に思いつかない。
なので思ったものを上げることにした。
﹁焼肉、寿司、ハンバーグ、学食の酢豚定食、ラ・フルーレのカス
タードたっぷりクリームパン、ちゃんこ鍋、あんみつ、駅前のフル
ーツパーラーにあるスペシャルフルーツパフェ⋮﹂
次々と上げていく紗弓に怜がくすくすと笑う。
﹁一杯ですねぇ。それなら帰りにでも、駅前のフルーツパーラーに
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行ってみますか?﹂
﹁えー、佐久間怜と行くの⋮?﹂
﹁はい。だってつきあってるんですから?それくらいするでしょう
?普通の恋人同士って﹂
そんな事を言われても今まで男性とつきあったことのない紗弓はわ
からない。それに何より。
﹁寄り道は校則違反です﹂
﹁︱︱ああ、そうだった。紗弓は風紀委員でしたね⋮。じゃあ今度
休みにデートしましょう﹂
﹁でぇとー!?﹂
嫌そうに眉を歪める彼女にひるむことなく怜はにっこりとする。
﹁はい。お休みの日なら何か食べても大丈夫でしょう?奢りますよ
?﹂
﹁おご⋮る⋮?﹂
ぴく、と紗弓の肩が動く。彼女に尻尾があればピンと跳ねていそう
で怜は心の内で笑ってしまう。
﹁はい。実は僕もね、少し貴女には悪いことをしたなと思っている
んですよ。殆ど僕の都合で貴女を巻き込んでいますからね?そのお
礼というわけではないですが、ご飯とお茶くらいはご馳走させて下
さい﹂
ぱた、ぱた、と紗弓の尻尾が揺れる。
そんな風に見えてしまう程彼女はご馳走という言葉に揺れ動いてい
て、怜はもう少し押すか、と更に言葉を重ねる。
﹁お昼はそうですね⋮そう、繁華街に枡家というお寿司屋さんがあ
るでしょう?そこにしませんか?﹂
﹁枡家!!﹂
ぴーん、と紗弓の尻尾が跳ね上がる。そこは巷で美味しいと有名な
お寿司屋さんなのだ。しかも回っていない。高校生の身分ではあま
り行く事のない寿司屋に紗弓はとても動揺する。
﹁で、でも高いんじゃ⋮﹂
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﹁僕は2年の頃から家庭教師のアルバイトをしてますし。それに枡
家って、ランチタイムは割とリーズナブルなメニューを出してるん
ですよ﹂
﹁ふ、ふーん⋮そうなんだ⋮。ま、まぁ⋮枡家のお寿司なら⋮考え
ておくわ⋮﹂
ほわほわと寿司に思いを馳せる紗弓を横目で見ながら、拾った子犬
が少しずつ懐いてきた時、拾い主はこんな気持ちになるのかなと怜
は思った。
28
3.興味。それはペットとして?彼女として?
数日こそ紗弓の周りは騒がしかったが、しばらくすると成りを潜め
た。
今だ時々複雑な目を向けられる事はあるものの、面と向かって赤面
するような話はされない。
紗弓が一応噂を拾って聞いてみると、怜が﹁真面目に﹂紗弓とつき
あうことにした。紗弓もそれを了承した。なのでもう他の女性の誘
いは一切受けないと、非常に分かりやすいものである。
更に紗弓に対して八つ当たりや言い掛かりをつけるような真似をす
れば、相応の覚悟をしてもらうと怜が言っていた事も聞いた。
そんな風に怜が言うのは今までなかったので、彼の本気を見た女生
徒達は紗弓に直接何かを仕掛けてくるようなことはなくなった。
後はタイミングが良く自分達のことで騒がれていた時に他のゴシッ
プ話も流れてそちらに興味が移ったというのもある。
他人の興味など、他人事であるほど移りやすいものなのだ。
そんな訳で、紗弓は数日の後には普通の日常を取り戻した。︱︱よ
うに見えて、実は彼女の日常はあの男によって振り回されている。
今も。
◆◇◆◇
4限目の授業が終わるまであと5分。
紗弓は時計を見てからポケットのサイフを確認する。
昼食の時間が始まれば、怒涛の購買戦争がはじまる。廊下を走るわ
けにはいかない紗弓はあくまで早足で売店に行き、目的のパンを手
に入れなければならない。
︵今日こそはあの競争率ナンバーワンのデニッシュサンドイッチを
手に入れてみせるわ!︶
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普通のサンドイッチとは違う、さくさくとした歯ごたえが特徴のク
ロワッサン型デニッシュに、レタスとハム、玉葱が挟んであって、
濃厚なオーロラソースがクセになるあのパン。
一度食べたらやみつき!そんな噂が校内には広まっていて、一度運
よく購入できたあれを食べた時の感動は計り知れない。
もう一度あの感動をと毎回狙っているが、さすがに人気ナンバーワ
ンなだけあって難敵だ。
しかし幸運なことに今の授業は視聴覚室で行われている。この教室
から売店まではとても近い。
狙えるのだ、確実に。紗弓の目がきらりと光る。
チャイムが鳴り、教師が授業を終える。礼をした瞬間に紗弓は足早
に視聴覚室を出た。
その時︱︱。
﹃1年3組、真城紗弓さん。至急生徒会室までお越しください。繰
り返します︱︱﹄
思わず前につんのめり、こけそうになる。
﹁さゆちゃん、なんか呼ばれてるみたいだよ?﹂
響子が後ろからおずおずと言ってくる。できれば空耳であってほし
かったが、彼女が言うからには空耳ではないのだろう。
しかし彼女はキッと顔を上げてから響子へ振り返る。
﹁空耳よ!﹂
﹁ええ?ばっちり聞こえたよ。行ったほうがいいんじゃない?もし
大事な用事だったらどうするの?﹂
﹁真城ちゃん。委員会のことかもしれないじゃない﹂
﹁それに、あの生徒会に呼ばれてるのなら早く行ったほうが身の為
じゃないか?﹂
いつの間にかクラスメートの何人かも近づいて、口早に彼女を急か
す。
たしかにこの学校において生徒会の権力は大きい。そう言われると、
行くしかないじゃないか。
30
デニッシュサンドイッチは諦めよう⋮。紗弓はよろよろと生徒会室
へ向かった。
◆◇◆◇
コンコンとノックを鳴らして、からからとドアを開ける。
﹁失礼します。放送を聞いてきましたが﹂
﹁やぁいらっしゃい紗弓ちゃん、どうぞどうぞ﹂
生徒会室にはすでにフルメンバーが揃っている。昼間から何を集ま
っているんだと思いながら紗弓は部屋に入っていった。そしてソフ
ァに座っている4人を一瞥してから﹁で﹂と話を進める。
﹁用件、なんですか?お昼まだなんで、早くしてください﹂
﹁ええ、紗弓。一緒にお昼を食べましょう﹂
紙袋を掲げて怜がにっこりと笑う。瞬間、ぴきっと彼女のこめかみ
に青筋が入った。一応確認しよう、と紗弓は息を吸う。
﹁もしかして、用件は一緒に昼を食べろって事?﹂
﹁はい。恋人ってお昼とか一緒に食べるものでしょう?﹂
﹁その為にわざわざ校内放送を使ったの?﹂
﹁呼びにいくのは面倒じゃないですか。なので放送部員にあらかじ
めお願いしておいたら、昼休みのチャイム直後に流してくれました。
便利ですよね﹂
おおー?これは、キレてもいいって事だね、と紗弓は心の中で自分
自身に確認する。
いいよ、思いっきりやっちゃって!と心の声が反応した。
ふっと顔を上げると、にっこり笑って怜を手招きする。
﹁はい、なんでしょう?﹂
﹁ちょっと、屈んでくれる?あ、もう少し⋮うんそう、その辺りね﹂
素直に立ち上がってこちらへやってきた怜に紗弓は指示を出す。丁
度いい位置に首があるのを確認して、紗弓はガバッと彼の首へヘッ
ドロックをかけた。思い切り腕に力を込める。
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﹁きーさーまーはー!そんなどうでもいい用件に学校の機材を使う
な!人に迷惑をかけるな!バカなんでしょ!バカとしか思えない!﹂
﹁放送部員さんは喜んで了承してくれましたよ?﹂
﹁そういう問題じゃない!校内放送をこんな私的に使っちゃ駄目っ
て言いたいの!それに私のごはん!デニッシュサンドイッチ!あの
放送がなければ、なければ、手に入っていたはずなのに⋮っこのバ
カー!﹂
ぎりぎりぎりと容赦なく彼の首を締め上げる。
しかし怜はのんびりとしていて、全く痛がる様子はない。むしろす
りすりと胸側に顔を擦り付けてきた。
﹁やっぱり気持ちいいですね。この頬に当たる胸の感触は⋮Eとい
った所でしょうか?﹂
そしてついでのようにむにりと紗弓の胸を掴む。
﹁うん、やっぱり着やせするんですね。とても良いです。あとは感
度ですが⋮胸の大きい方ってあまり感じないっていいますよね?紗
弓はどうなんでしょう﹂
﹁知るかぁーー!このセクハラ男!えろ色情狂!私のデニッシュサ
ンドイッチを返せー!!﹂
むにむにと胸を揉み続ける男を足で蹴って離れ、はぁはぁと息を継
ぐ。悔しくて悲しくて涙がにじんだ。
﹁ちょ、紗弓ちゃん、泣いてるの!?﹂
﹁うええ、デニッシュサンドイッチー!!!こんなどうでもいい用
件なら、無視して買いにいけばよかった⋮っ!﹂
﹁わははは!うける!レアな怜の誘いをどうでもいいって!﹂
護が慌てたり、八雲がゲラゲラ笑ったり、紗弓がデニッシュサンド
イッチと喚いたり、生徒会室は騒然となる。
そんな情景を見ながら鮮花が笑いつつ弁当箱を開けていると、腹を
蹴られたにも関わらずけろりとした怜が再び紗弓に近づいた。
﹁すみません、そのデニッシュなんとかがわからないんですけど、
購買のパンですか?﹂
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﹁そうよ!競争率、人気、味ともにナンバーワン。一度たべたらや
みつき!って有名な購買パンの女王、デニッシュサンドイッチよ!﹂
﹁はぁ、それは単に品数が少ないからだと思いますので、在庫を増
やすように今度言っておきますよ。とりあえず今日の紗弓は昼食を
用意してないんですね?﹂
﹁⋮そうよ、私はいつも購買か学食使ってるの﹂
昼食時間が始まってすでに数分。もうめぼしいパンは残っていない
だろう。
紗弓はがっくりと肩を落としてくるりと怜に背を向ける。
﹁どこ行くんですか?﹂
﹁学食よ。パンが買えないなら学食しかないでしょ﹂
﹁え?ここで食べましょうよ。せっかく呼んだのに。ほら、ラ・フ
ルーレのパンですよ?﹂
﹁ラ・フルーレですって⋮!?﹂
思わず振り返って怜の持つ紙袋を見る。よく見れば確かにそれは、
ラ・フルーレのロゴが入っていた。
おいしいと有名なパン屋である。紗弓も好きだが、その店に行くに
は電車に乗って一つ先の駅に行かなければならない。電車通いの生
徒はよく買っているようだが、紗弓は徒歩で登校するほど家が近い
ので、時々友達に頼んで買って来て貰うくらいがせいぜいだった。
怜はにっこりと笑って紗弓の手を取り、ソファに座らせる。そして
同じように隣に座り、袋を開けてごそごそと中からパンを取り出し
た。
﹁そ、それは⋮カスタードクリームパン!﹂
﹁前に好きって言ってましたよね?﹂
ぴこぴこと紗弓の尻尾が揺れる感覚を掴み、怜は微笑を湛えたまま
でクリームパンを軽くちぎる。
﹁はい、あーん﹂
﹁あー⋮⋮ って!なんでそんな事されないといけないのよ!?﹂
思わず口をぱかりと開けてしまったが、ハッと我に返ってずさりと
33
怜から離れる。
彼はにこにことパンのかけらを持ったままで首を傾げた。
﹁あーん、って基本でしょう?﹂
﹁基本!?あんたは今までの彼女にこんな恥ずかしいことしてきた
っていうの⋮!?﹂
﹁どうでしたかね?まぁいいじゃないですか、過ぎた事なんて。そ
れよりほら、ラ・フルーレのカスタードクリームパンですよ?大好
きなんでしょう?お腹もすいてるんでしょう?﹂
じりじりと怜が距離を詰め、紗弓はどんどんソファの端に追いやら
れる。
目の前にちらつかされるパンのかけらにはたっぷりとしたクリーム
がついており、美味しそうなバニラの匂いが紗弓の腹を刺激する。
﹁う⋮ううっ⋮﹂
﹁ほら、あーん?﹂
﹁くぅ⋮っ⋮あ、あー⋮﹂
とうとうクリームパンの魅力に負けた紗弓は嫌々ながらも口をあけ
る。途端にすっと口の中にパンが入って、舌に乗るカスタードクリ
ームがとろりと溶けた。
もぐもぐと咀嚼する。怜がパンをちぎりながらにっこりと笑った。
﹁美味しいですか?﹂
﹁美味しいわよ⋮﹂
﹁それはよかった。はい、どうぞ﹂
またパンを口に放り込まれる。確かに美味しい。⋮だけどこれを続
けられてはたまらない。
紗弓はもぐもぐと口を動かしながら彼の持つクリームパンをサッと
奪った。
﹁自分で食べるわ。こんなんじゃゆっくり味わうこともできないじ
ゃない﹂
﹁ふふ、紗弓の恥ずかしがり屋さん﹂
つん、と額を突っつかれる。なんだこの状況は。紗弓はもう消えて
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なくなりたいと思った。
ふと周りを見れば八雲は腹を抱えて笑っているし、護も﹁怜が食べ
物で釣ってる!﹂と言いながら笑いを堪えている。
﹁羨ましい、私も餌付けしたい⋮っ!﹂
そして鮮花は弁当の箸を噛みながらぎりりと怜を睨んでいた。
この4人は何かおかしい。今まで関わることがなかったから知らな
かったけど、生徒会がこんなに変な人で集まっているとは思わなか
ったと紗弓は思う。
結局怜からパンを2つほど頂いて、その日の昼食は終わった。
﹁ごちそうさま﹂
ぱし、と手を合わせてお辞儀をする。怜が﹁どういたしまして﹂と
笑った。それを見て紗弓は﹁さて﹂と立ち上がる。
﹁もうお帰りですか?﹂
﹁ええ、もうここに用はないし。それにお昼の見回りをしなきゃ。
今日当番なのよ﹂
﹁ああ、風紀委員の。お疲れ様ですねぇ﹂
と言いながら怜も立ち上がる。見送りでもするのか?と紗弓が思い
ながらドアを開けると彼も自然とついてきた。
﹁⋮なんでついてくるの?﹂
﹁僕もいきます﹂
﹁⋮⋮⋮はぁ?﹂
なんで?と紗弓が嫌そうな顔をしながら聞く。
﹁ただの好奇心ですよ。貴女がどういう風に仕事をしているのか気
になってまして﹂
﹁気にならなくていいわよ!貴方がついてくると絶対ろくなことに
ならなさそうだからついてこないで!﹂
﹁ははは、僕のことは空気か壁のように思ってくれればいいですか
ら、ご自分の仕事を存分になさってください﹂
﹁こんな目立つ空気や壁はいないっての!もうまじでこないで!も
35
うやだこの人ー!﹂
自分に関わってくれるなと言わんばかりに紗弓は早足で廊下を歩く。
余裕の足幅で怜は後ろに続き、結局紗弓は彼を引き連れるような形
で一年校舎へ戻ることになってしまった。
一年のクラスが並ぶ校舎の廊下がどよめきに変わる。
﹁怜さま!?﹂
﹁えっ!?佐久間先輩!どこどこ!?キャー!﹂
﹁とうとう特急制裁者が佐久間怜を連れてきたぞー!﹂
案の定の状況になって紗弓は頭を抱える。そんな彼女の肩を怜がそ
っと支えた。
途端に周りから悲鳴と歓声が上がる。紗弓はさらに頭痛も感じた。
﹁どうしました?顔色が悪いですよ?﹂
﹁あんたが元凶なのよ⋮っ!だーっ離して!私は仕事するのー!﹂
乱暴に彼の手を振りほどいて紗弓は廊下を歩き出す。怜はくすくす
と笑って静かに彼女の後を歩いた。
問答無用で手近な教室のドアを開け、紗弓はザッと周りに目をめぐ
らせる。
獲物を見つけてキラーンと彼女の目が光った。
﹁そこっ!不要物発見!﹂
﹁わっ⋮しまった!﹂
女子達が集まっている所にずかずかと紗弓は近づき、ビシッと指を
指す。
﹁ファッション雑誌に、お菓子。これは下校時まで没収します!﹂
彼女達から雑誌やお菓子をさっと取り上げ、生徒の名前を付箋に書
いて貼る。ポケットから畳んでいたエコバックを取り出し、ざかざ
かと中に入れていく。
﹁ち、しまったぁ。最近真城、おとなしいから油断してたわ⋮﹂
﹁今日も昼から生徒会室に呼ばれてたし、今日は大丈夫って思った
36
のにぃ﹂
﹁あまーい!私はいつでも手を抜いたつもりはないわよ。はい、次
!﹂
教室を出て、次の教室へ入る。
﹁げっ!特急真城だ!やべえ﹂
﹁早く食え、早く!﹂
﹁無理⋮げほ﹂
明らかに狼狽している生徒達を目ざとく見つける。紗弓がそこへ行
くと、配達ピザが机に置いてあった。
﹁こら!学校に宅配ピザを頼まない!﹂
﹁えー?マック持ってきてる生徒はいいのに、なんで宅配はだめな
んだよー﹂
﹁出前頼むなんていち生徒としてふさわしくないに決まってるでし
ょ!どうしてもピザ食べたいなら朝買って持ってきなさい﹂
﹁そんな、朝からピザの匂いすげーする教室嫌だよ!﹂
わぁわぁと生徒達は騒ぐが、紗弓はピザの箱をさっさと片付け、手
に持った。
﹁とりあえずこれは没収。放課後までちゃんと冷蔵庫に入れておく
から、残り食べたかったら取りにくるのね。期限は明日までよ。取
りにこなければこっちで処分するからね﹂
﹁うわ!真城ちゃん後生です!冷めたピザほど不味いものはないん
だよ!﹂
懇願するように縋る男子に紗弓はだーめ、とツンとそっぽを向いた。
すると横で見ていた女子の一人がにやりと笑って、手に持っていた
食べかけのピザを紗弓の口に突っ込む。
﹁むぐ⋮!﹂
﹁はい、真城同罪ー。ほら、あったかいピザ美味しいでしょ?﹂
﹁んっ⋮お、おいしいけど、駄目なものは駄目なのよ!あっ、こら
!﹂
今だ!とばかりに男子がサッと紗弓の持つピザの箱を取り上げる。
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﹁食え!ほら食え!証拠隠滅!﹂
﹁ちょっと!佐久間先輩がいるじゃない!キャー!﹂
﹁こんにちは、皆さん﹂
﹁ひゃぁん怜さまが笑った!ねぇピザ食べてくださーい!﹂
あっという間に人だかりができ、皆がピザを手に取り食べていく。
あれよあれよとピザはなくなって紙箱はくしゃくしゃに固められた
後、ポイとごみ箱に捨てられた。
﹁はい、終わり。ピザなんてどこにもないよ、真城ちゃん﹂
﹁こんなピザのにおいを蔓延させて何を言うのよあんた達は⋮っ!
ていうか佐久間怜もピザ食べてんじゃないわよ!﹂
﹁ああ、すみません。でも美味しかったですよ?﹂
﹁美味しい美味しくないの問題じゃなーい!もうついてこないで!
あんた達も、次やったら承知しないからね!?﹂
ビシッと指で指して通告をし、紗弓は教室を出る。
そんな感じで紗弓は午後の授業が始まる5分前までに雑誌4冊、お
菓子3袋、ピアス一個を没収し、注意したのだった。
﹁面白かったです。また見せてくださいね?﹂
﹁あんたは結局本当に最後までついてきたわね⋮﹂
疲れた顔で睨みつけてくる紗弓を怜は笑って流し切る。
﹁興味がありましたからね?色々参考にもなりました。この学校は
割と自由な校風ですが、ちょっと皆、高校生の割にラフすぎるとこ
ろがありますね。それは良いことですが、さすがにデリバリーを頼
むのはよろしくないかと。もしかしたら部外者を校内に入れている
可能性もありますし⋮。今度校則の検討をしてみます﹂
顎を撫でながらそう言うと、紗弓が目を丸くして怜を見上げた。
﹁い、意外と生徒会役員っぽいことも言うのね⋮﹂
﹁ぽい、と言われても。一応僕は生徒会副会長なんですけどね?﹂
﹁それは名ばかりの下ネタ星人で、顔だけの猥褻物だと思ってたわ﹂
﹁ふふふ、貴女とは一度そのあたりの所をじっくり話し合って、誤
38
解を解かないといけませんね﹂
誤解もなにも、自分の普段の言動を思い返してみればいいと紗弓は
思う。
恥ずかしい言葉を言わせようとしたり、隙を見せれば胸や足を触っ
てきたりするこの男は、女性に対する配慮が無いのだろうか。
ともあれ、昼の授業も始まりそうなので二人は放課後に待ち合わせ
る段取りをして別れた。
しかし、ふと怜は振り返って一年の校舎へ戻っていく紗弓の後姿を
しばし見る。
食べ物に弱くて、仕事に一生懸命。何だかんだといってお人よし。
表情豊かなその顔が変わる度に、あの黒くて大きい目がくるくると
変わり、自分に噛み付く姿は傍から見れば懐いているようにも見え
る。
黒フチの眼鏡をかけて、きっちりしたポニーテールの姿は一見優等
生に見えるが、勉強の面ではそこまで頭が良さそうに見えないのは
何故だろう。
﹁本当に犬みたいな子ですね﹂
ふっと目を和ませて笑う。今まで、まるで日々の服を着替えるよう
に隣にいる女性を替えてきた男は、そういえば異性に対してここま
で﹁可愛がりたい﹂と思ったのは初めてだな、と思った。
﹁性的な興味はそこまでないんですけど⋮ん、それもまた珍しい、
かな?﹂
妙な違和感を感じる。しかしまぁ、大した問題ではないだろうと怜
は3年の校舎へ戻っていった。
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4.紗弓の悩み。甘い翻弄の対抗策
放課後になり、紗弓は帰りの仕度をする。佐久間怜と付き合うとい
う形を取って以来、委員会の会議などの用事がない限りは二人で帰
路を共にするのが最近の常だ。
﹁へあぁ、めんどいなぁ⋮﹂
彼のからかいの言葉を相手するのは酷く疲れる。油断すれば肩に手
を回してきたり、触ってきたりするので、常に気を張っていなけれ
ばならないのも辛い。
全くなんであんな話を受けてしまったのだろう。紗弓の心に﹁後悔﹂
という言葉が湧き上がる。
力なく帰る準備をしていると、紗弓の横から友達の一人が近寄って
きた。
﹁ねぇ、さゆちゃん。⋮佐久間先輩のことなんだけど﹂
﹁⋮ん?﹂
紗弓は隣に立つ彼女を見た。紗弓の友達。彼女は以前、佐久間怜と
別れた時に泣いていた友達なのだ。
彼女が泣いて、傷ついた顔をしていたから紗弓は怒って怜に喧嘩を
売りにいった。
今の状況の原因となるきっかけをつくったのが彼女なのだが、紗弓
は特にそれを恨んでいない。
確かにそれがきっかけで彼と会話し、追い立てられるように偽りの
彼氏彼女となったが、それはあくまで一応紗弓の意思で了承したの
だから。
しかしここ数日、彼とのつきあいに疲れを感じていた紗弓はやや元
気なく友達を見る。
彼女は少し悩むような顔をした後、決意したように紗弓を見つめた。
﹁あのね、佐久間先輩にも釘刺されちゃったけど⋮どうしても気に
なったから、聞いてもいい?﹂
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﹁うん⋮何?﹂
一体どんな釘を刺されたんだと思うが、それは言及せず、彼女の言
葉を待つ。
﹁あのね、さゆちゃんは⋮佐久間先輩の﹁条件﹂飲んだの?それで
今つきあっているの?﹂
﹁⋮条件?なに、それ?﹂
きょとんと紗弓が首をかしげると、彼女は﹁知らないんだ⋮﹂と少
し俯いた。
﹁やっぱり⋮佐久間先輩がそれだけ本気になったって事なのかな。
あのね、佐久間先輩は⋮私がつきあってくださいってお願いした時
﹁条件﹂を出してきたの。それを了承したらつきあいますよ、って
言ってきて⋮私はそれを飲んで、つきあったの﹂
そういえば最初に紗弓が怜と話し合っていた時、彼がそんな事を言
っていた。あの時は怒りで聞き流していたけれど、彼はちゃんと友
達にもその﹁条件﹂を口にしていたのだ。
﹁思い出した。佐久間怜が言ってたわ。つきあうけど、次の人が誘
ってきたらその時点で別れるって。⋮つまり、栞ちゃんとつきあう
時も、彼は前の女性と別れて貴女とつきあって、また違う人に言わ
れたから、栞ちゃんは⋮別れを告げられたのよね?﹂
栞と呼ばれた紗弓の友達はこくりと頷く。
﹁そうなの。だから本当はね、私が泣いたり、傷ついたりするのは
お門違いなの。だって私はそれを了承して佐久間先輩とつきあった
んだもの。わずかな間だったけどすごく幸せだった⋮。あの時の彼
はとても意地悪だけど、それ以外では優しくて、親切な人なんだも
の。⋮誤解してしまうくらい﹂
﹁誤解⋮?﹂
紗弓がまた聞くと、栞は力なく頷き、寂しそうに笑った。
﹁私のこと、本当に好きになってくれたんじゃないかって。誤解し
てしまうくらい彼は優しかったの。⋮でもそうじゃなかったんだ。
数週間つきあって、いきなり彼からメールで別れを告げられた時に
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思い知った。⋮勝手に期待してたんだって。やっぱり﹁あの時﹂の
彼が本当の彼なんだって⋮﹂
﹁⋮ゴメン、質問ばっかりで悪いんだけど、﹁あの時﹂ってなに⋮
?﹂
﹁あの時は、その⋮あの時よ。その⋮シてる、時。さゆちゃんも意
地悪されたでしょう?﹂
言われてやっと紗弓は意味を理解して顔を赤くする。そうか、言わ
れてみれば確かにこの友達も、彼とつきあったということはそうい
う関係になっていたのだ。
﹁あの、その⋮わ、私、そういうのしてないの、あの人とは﹂
﹁⋮⋮え?そ、そうなんだ⋮。私の時のおつきあいは取りあえずそ
れから始まったのに。⋮人から聞いてね、また彼につきあってって
お願いしたら﹁条件﹂さえ飲めば再び恋人になってもらえるの。⋮
そうしてる人もいるんだけど、私はもう、できなかった。心のない
優しさって、辛いし、虚しいんだなって気づいたから﹂
﹁⋮栞ちゃん﹂
彼女は少し泣きそうな顔をしたが、﹁大丈夫よ、もう私はふっきっ
てるから﹂と笑って言った。
﹁でもね、さゆちゃんのことは心配なの。さゆちゃんは私と違って
純粋だし、男の人もあまり知らないでしょう?⋮今回の佐久間先輩
は真面目につきあうって聞いたけど⋮彼の意地悪や、女性に慣れた
優しさを知ってるから。そもそも⋮私が勝手に傷ついて、さゆちゃ
んに泣き付いたから、さゆちゃんは佐久間先輩と話すきっかけを作
っちゃったでしょ?⋮だから﹂
それで罪悪感のようなものを抱いていたのか。それに紗弓は気づき、
真面目な顔をして彼女の肩を優しく叩く。
そしてにっこりと笑った。
﹁大丈夫よ。私と佐久間怜はそんな風にはならないわ。だってあい
つとは⋮あ、いやいや。まぁでも、ヤツの妙な優しさやスキンシッ
プは確かに心臓に悪いよね。心配してくれてありがと。でも⋮私、
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こんな風になってしまったから、栞ちゃんには嫌われちゃったかも、
って思ってた。だから⋮栞ちゃんの心配が、嬉しいんだ﹂
﹁さゆちゃん⋮。私がさゆちゃん嫌うなんてありえないよ?でも、
本当に気をつけてね。私、応援してるから。佐久間先輩が本気にな
ってくれること、さゆちゃんが幸せになってくれること﹂
﹁⋮うん、ありがとう﹂
実は恋人同士なんて嘘なんです、なんて言えない紗弓は栞を軽く抱
いて安心させるように背中を撫でる。
何にしても大事な友達に嫌われてなくてよかったと、心から彼女は
安堵した。
◆◇◆◇
﹁ただいまぁ﹂
そう言って玄関のドアを開けるも答える人は一人もいない。
当たり前だ。今の時間、彼女の親は仕事に出ている。紗弓はぱたぱ
たとスリッパを鳴らせて自分の部屋へ行き、手早く制服から私服に
着替えた。
はふ、と小さくため息をつく。3LDKの賃貸マンションの一室。
そこが紗弓の家である。
短パンとTシャツというラフな格好になった紗弓は冷蔵庫のドアを
開け、中を見回す。
﹁あちゃ⋮。ママったら、頼んでおいたのにまたりんごジュース買
い忘れてる﹂
仕方が無いので麦茶を注いで飲んでいると、冷蔵庫の横側にかけら
れたホワイトボードに磁石で留めた5千円札と、メッセージが書き
込まれていることに気がついた。
﹃夕飯、買っておいて。今日は7時には帰れる、多分﹄
それを見て紗弓は僅かに眉をしかめた後、諦めたようにふっと笑う。
﹁多分、って付け足すなっつぅの⋮﹂
43
まるであの男のようだ。
紗弓は磁石に留めてある紙幣を取ると、部屋に戻って財布に入れた。
ばふ、と音を鳴らせてベッドに寝転がり、壁時計を見る。
4時。惣菜のタイムセールはだいたい6時くらいからなので、その
時間を狙おう。
そう考えてまた長いため息をひとつ。ため息をつくと何かが逃げる
と言ったのは、母親だっただろうか、父親だっただろうか。
紗弓はぼうっと、つい先程駅で別れたばかりの、自分を振り回して
いる男を思い出した。
佐久間怜。
自分の通う高校の生徒会副会長。
腹が立つほどの長身に、すらっとしてシャープな輪郭。目はやや目
尻が上がっていて、自分と同じように少しつり目な感じがする。し
かし自分と圧倒的に違うのはその顔立ちだ。
難癖がつけられないほどその顔は整っており、一見冷たそうな目を
しているのにも関わらず、その丁寧な口調と穏やかな物腰で﹁優し
くて親切ないい人﹂と通っている。
だが、同時に彼はとても女癖が悪いと、まるで真逆のような評価も
得ており、それは真実だ。
見る度に隣を歩く女子生徒が違う、自分からは決して誘わないらし
いが、誘われれば今の女を切って乗り換える。
そんな男、嫌われたり恨まれたりしてもおかしくないのに、そうい
った話を聞かないのはやはり彼の顔がいいからなのか、妙に人を惹
きつけるカリスマのような人徳なのか。
わからないなぁ⋮と紗弓は小さく呟いた。
佐久間怜が分からない。得体が知れない。何を考えているのかさっ
ぱりわからない。
そもそも何故、彼は自分を選んだのだろう。女子生徒の誘いを切る
言い訳に最適だと彼は言うが、別に自分でなくても良いはずなのだ。
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誰でもいいなら、次に誘ってきた女性と真面目につきあってみれば
いいし、最悪学校生徒でなくとも外で出会いを作って彼女にしたら
いい。
そういえば彼は、佐久間怜は、自分を⋮真城紗弓をどう、思ってい
るのだろう。
ただの言い訳の道具?自分に転がり込んできた、たまたま都合の良
かった人間?
もしそうなら、そうであるのなら、あまり優しくしないでほしいし、
妙なスキンシップもしないで欲しい。
紗弓だって年頃の女の子なのである。
顔立ちの綺麗な男にからかわれ、迫られ、彼氏は恋人はこうするも
のだと優しく言われ、一緒に下校する。
そんな日々に、ときめきを感じないわけがない。
本当の紗弓はいつもいっぱいいっぱいなのだ。彼に噛み付くのは虚
勢にすぎない。
どきどきする。とても悔しい。ときめきを感じたら負けだと思って
しまう。
何故なら別に彼は自分のことを好いて恋人の形をとっているわけで
はないからだ。
佐久間怜とそういう関係になって早数日。慣れるだろうと思ってい
た感覚は一向に慣れることなく、紗弓の心は動揺しっぱなしで、毎
日どきどきしている。
でも勘違いしてはいけない。女性とつきあうことに慣れているあの
男は、スキンシップも甘い言葉も、挨拶のようなもの。
つまり、彼にとって女性の扱いとはその程度のもので、それにいち
いち反応したり動揺する自分はとても馬鹿みたいなのだ。
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﹁逆にもっと、男に慣れているような人にしたらいいのに⋮鮮花先
輩みたいな。こんな日々があいつの卒業まで続くなんて、本当にや
だ。⋮しんどいなぁ﹂
⋮自分にもし、彼氏ができたら。誰かに告白されて、恋人になりた
くなったら。
彼は自分と離れてくれるだろうか。
﹁そうですか。ではお世話になりました﹂と、自分を解放してくれ
るだろうか。
考えてみたら、してくれそうな気がする。何せ自分だってそんな風
に女性を扱ってきたのだから。
﹁⋮なるほど、そうかあっ!﹂
がばりと起き上がった。
とても良い案を思いついた気がする。よくよく考えてみれば彼が女
性の誘いを断る言い訳として、紗弓が使われる義理などひとつもな
いのだ。
風紀を正すという風紀委員としての義務感で承諾したけれど、自分
に彼氏ができたら、好きな男ができたら仕方が無いのではないか。
紗弓の気持ちをどうこうと言う権利など、彼にはないのだから。
ようやく佐久間怜に対する対抗策を思いついた紗弓はにんまりと満
足顔で一人頷く。
目下問題は告白してきそうな男もいなければ、好きな男もいないの
だが、それは後に考えようと紗弓は起き上がり、学校の宿題を始め
たのだった。
◆◇◆◇
﹁男を好きになる気持ちぃ?はう、紗弓がとうとうそんな色恋っぽ
46
い相談をしてくるなんて、ママは嬉しいわっ!﹂
ビールをぐびぐびと飲んだ後、そう言って彼女はよよよと目頭に指
を乗せて泣きまねをする。
﹁違うの!ママの体験談みたいなのを参考にして、あいつに対する
対抗策を⋮いや、なんていうの?興味よ興味。別に好きな男がいる
わけじゃないんだってば﹂
スーパーで買ってきた弁当を食べながら、紗弓は母親に向かって箸
を指す。
まきれいか
紗弓は弁当だが、母親はビールと解凍枝豆、つまみ兼用のような惣
菜が彼女の夕飯スタイルである。
箸で砂肝の旨辛煮をつまみつつ、母親︱︱真城麗華︱︱は、ふふっ
と笑った。
﹁あたしの体験談なんて⋮そんな大したものじゃないのよ?こう、
ビビッときただけなんだもん﹂
﹁ビビッと?﹂
紗弓の言葉に麗華は頷き﹁こう、ビビッと﹂と、頭から電気を発す
るようなジェスチャーをする。
﹁ええ∼本当に?﹂
﹁そうよぉ∼。そして思ったの。あたしのダーリンはこの人だけだ
って。フフ⋮超奥手だったパパを口説き落とすのはとっても苦労し
たけど、やっと想いが実った時は幸せで嬉しかったなぁ﹂
頬杖をついて麗華はカウンターテーブルの脇に置いてある写真を見
て懐かしそうに笑う。
そこには素朴そうな顔で、優しい目をした男の写真がある。
麗華の夫で、紗弓の父親だ。9年前、彼は病に倒れ、この世を去っ
た。
以後、紗弓と麗華はいわゆる母子家庭として、二人で生活をしてい
る。
麗華は再婚を全く考えていないらしい。彼女は検事の仕事をしてい
て生活困窮はしていないし、そう決意するほど彼女は夫を愛してい
47
た。
高校卒業したら働くと言う紗弓に﹁女でも今は大学をちゃんと出た
ほうがいいのよ﹂と、学びたいことを探せと彼女は言う。
目下それが、母親が娘に課している宿題のようなものだ。
友達、とまでは言わなくても、気がねなく話せる楽しい母親。紗弓
は麗華という母が大好きで、父親も大好きだった。
﹁まぁのろけはおいといて、私が聞きたいのはね?どーやったら男
を好きになれるのかっていう﹂
﹁⋮あんた、初恋もしたことなかったの?﹂
﹁初恋。⋮そういえば無いわね⋮。あんまりこういうの興味なかっ
たのよ。だけど最近そういうのを意識せざるを得ない状況になった
というか、ちょっと性質の悪い男に絡まれてて。そいつに対抗する
為、私はもっと男とか異性交渉術みたいなのを知らなければならな
いのよ!﹂
ぐっと箸を持った手を振り上げる。麗華が﹁おおー﹂と意味もなく
拍手をした。
﹁だから、男ってどうやったら好きになれるの?または告白させる
にはどうしたらいいの?﹂
﹁そうねぇ⋮その何?なんか男に絡まれてるって言ってたけど、告
白でもされたの?﹂
﹁違うわよ!なんていうか⋮からかいが過ぎるっていうかね。恐ろ
しく女子の扱いに手馴れた男が、ちょっかいをかけてくるのよ﹂
へーえ、最近の高校生って進んでるのねぇと感心したように麗華は
ビールを飲み、枝豆をつまむ。
ぴゅっと豆を飛ばして器用に食べた彼女はもぐもぐと咀嚼しながら
﹁それなら﹂と提案を打つ。
﹁そのからかってくる男を好きになったらいいじゃない、もしくは
告白させる﹂
﹁佐久間怜を!?好きになるとかぜっったい嫌!それが嫌だから相
談してんのよ。あいつに告白させる⋮というのはいい案だけど、絶
48
対そんな事ありえないわ﹂
きっぱりと断言する紗弓に、くすくすと麗華が笑う。﹁ありえない
って、そんなのわかんないわよ?﹂と、もう一つ枝豆を摘んだ。
﹁あんたは優しくて頑張り屋で、いい子だもの。ママとパパ、両方
のいいところを取ってとっても可愛いし。コンタクトにして、その
大きな瞳をもっと引き立てて、髪とかも色々アレンジしたらもっと
光るのに。勿体ない子ねぇ⋮もっと自分を磨きなさいな。そうした
ら惚れない男なんていないわよ﹂
﹁それはママが親バカだからそう言うのよ。それにコンタクトは無
理よ。ひどい乱視用のは高いし、髪もこの髪型が一番邪魔にならな
くていいわ﹂
ぶっきらぼうに紗弓が言うと、麗華ははぁとため息をついて﹁我が
娘は自分に対する愛情が足りないわねぇ﹂と枝豆をぱくついた。
﹁あのねぇ、紗弓?女は磨いてナンボなのよ。そりゃママみたいに
美人で仕事ができるようなカンペキデキる女ならそこまでしなくて
も十分モテるけど、紗弓はそこまで頭がいいわけでもないでしょ?﹂
﹁自分をカンペキデキる女なんて評価する人、初めて見たわ。頭が
いいわけじゃないけど、悪いわけでもないもん﹂
﹁平均ってことよね。それじゃあ魅力とはいえないわ。いいこと?
そんな女が唯一磨ける場所、それは自分自身よ。鏡を見て﹃やばい、
私ってなんて綺麗なの﹄って惚れ惚れしちゃうくらい磨ける素材を、
女っていうのは生まれた時から持っているの。男よりずぅっと得し
てんのよ?女に生まれるというのは﹂
そう断言しビールを煽る母親を、紗弓は﹁根拠もないのに、どうし
てそこまで自信たっぷり言えるんだろう﹂と呆れ混じりに見て、つ
まらなさそうに弁当のおかずを口に運ぶ。
﹁⋮磨いたって、あいつが私に惚れるわけないもん﹂
あんなに美形なのだ。自分よりずっとずっと顔が整っていて、正確
な人数なんて知りたくないけど、自分よりもずっと自分自身を磨い
ていて、綺麗な女子ともつきあいをしたのだろう。
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そんな女性を相手しても、彼はその女性に心落ちることなく、つい
数日まで彼女の座を挿げ替えてきたのだ。
⋮佐久間怜が、真城紗弓に惚れるなんて、ありえない。
ひとつ小さなため息をついて弁当を食べ終える。
﹁若いのにため息?ため息をつくと幸せが逃げちゃうんだぞ﹂
﹁ああ、それ、ママの言葉だったんだ。⋮とにかく、私はあいつに
惚れるなんて絶対嫌だし、私がどんなに磨いてもあいつが惚れるな
んて絶対ありえないの。でも、別の男子なら好きになってもいいっ
て思うし⋮そうしたらあいつは私から離れてくれるって思うのよ﹂
麦茶を注いで飲み、そう言うと麗華は﹁そのあたりはよくわかんな
いけどー﹂と言って、ぴこぴこと箸を回した。
﹁ま、他の男でも?もっと自分を磨いたらいいじゃない。そしたら
何人かは告白してくると思うわよ。学校で色目使いたくないと思う
のなら、そうねぇ⋮合コンでもしたら?﹂
﹁合コンって、なんて高校生にふさわしくない催し⋮。うー、でも
学校であんまり男オトコって言ってると立場上、ややこしくなりそ
うだし⋮それならやっぱり、外よね﹂
高校では一応、紗弓は怜とつきあっているという形をとっている。
そんな中、彼女が見栄えをよくして別で男へ色目を使ったりすれば
⋮紗弓の立場は悪くなるだろう。確実に佐久間怜ファンには殺され
そうな気もする。
だけど外ならどうだろう。
学校と関係ないところで素敵な男性に出会って、恋におちた。
そして怜と別れたことにすれば、最初こそ今のように噂にはなって
も、結局怜はまたフリーになるわけだし、彼が好きな女子生徒はま
た彼に声をかけることができる。
風紀上たしかに彼の行動は目につくが、この生活が1年続くかと思
うと正直彼女は音を上げたい。
そこまで風紀委員の仕事に身を捧げているわけでもないし、栞のよ
うに親しい人が傷ついたとしても、その本人が言ったように﹁全て
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を了承した上でつきあっていた﹂のなら、自分がとやかく文句を言
う筋合いはないのだ。
とにかくもう、彼の言動で自分の心が振り回されるのは勘弁してほ
しいと思う。
紗弓はうん、と頷いてカラになったパックを軽くキッチンで洗った。
﹁相談乗ってくれてありがと。とりあえず方針は決まったわ﹂
﹁そう?こんな面白そうな相談ならいつでも大歓迎よ。自分磨きが
したいのならいつでもママに言いなさいな。いっぱい協力しちゃう﹂
麗華はのんびりと笑い、新しいビールの缶を開けた。
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5.行動開始!まずは味方集め
とりあえず味方を作るべきだと紗弓は考える。
まず、自分の中で一番仲のよい友達、響子に事情を話すことにした。
彼女は人より大人しいけれど、実は思ったことはしっかり言う性格
で、紗弓よりずっと頭が良い。
﹁⋮そう、そういう事になってたんだ。噂と違うからびっくりして
たんだけど、少し、納得できた⋮﹂
﹁噂?﹂
﹁ん⋮。佐久間先輩は自分から付き合って欲しい、なんて言ったこ
とがないって聞いてたから。彼女はよく変わるけど、自分からは誘
わない人だって。だからさゆちゃんに﹁つきあってほしい﹂って言
ってきたって聞いた時から⋮。もしかしたら、佐久間先輩がさゆち
ゃんに一目ぼれしたのかな?って思ってたんだけどね﹂
﹁一目ぼれ⋮そんなロマンチックな事に一度として関わったことな
いわよ。⋮つまりそういう事なの﹂
ここは放送室に併設されている部室の一角。
大人しい性格をしていて意外にも響子は放送部員の一人である。内
緒話があると言ってきた紗弓にこの部屋を案内したのは彼女だ。
﹁そっかぁ。⋮で、さゆちゃんは早くも後悔してるって事なのね?﹂
﹁そうです。最初は1年くらい我慢すればいい事かな、と思ってた
けど、これは1年もたないわ。毎日容赦なくからかってきたり、妙
に触ってきたり⋮。私怒ってばっかだし。なんか、毎日すごく疲れ
る⋮﹂
さゆちゃん⋮と呟いて、響子が彼女の背中を労わるように撫でてく
る。
﹁それにっ!私には普段風紀委員としての仕事もあるのよ!それを
昼だなんだと呼び出されるわ、見回りはついてくるわ、それで他の
生徒が騒いでやりづらいわで、はっきりいってあれは営業妨害よ!﹂
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﹁営業妨害って⋮さゆちゃん、委員会の活動は営業じゃないよ⋮?﹂
さりげなくしっかりつっこむ響子に、言葉のアヤよと紗弓は決まり
悪げに呟いた。
﹁と、とにかく⋮なんとなく勢いで了承した私も悪いけど、この妙
な関係が終わるならそれでもいいって思っているの。なんかいい方
法ないかしら、穏便にこう、終わらせる方法。私に好きな人でもで
きたら解決するのかな⋮﹂
﹁そうねぇ、何にしてもこの学校内で彼氏なんて作ったら佐久間先
輩のファンが黙っていないと思うけれど。何というかあの先輩のフ
ァンって⋮こう、らしいから﹂
自分の前に手を出してシュッとまっすぐに伸ばす。
﹁熱烈なファンってこと?﹂
﹁らしいよ⋮?彼以上の男の人なんていない、みたいな?これが生
徒会長の光国先輩なら違うみたいだけどね。さゆちゃんと別れて佐
久間先輩がフリーになることは嬉しいかもしれないけど⋮複雑でし
ょう⋮ね?﹂
一応表面上で佐久間怜は﹁真面目に﹂紗弓とつきあっているという
話になっている。
そんな中、紗弓が別の男と仲良くなれば悪者になるのは勿論紗弓だ。
﹁えー⋮打つ手、なし⋮?﹂
﹁そこまでじゃないけど、どうしても嫌ならやっぱり、佐久間先輩
から終わらせてもらうしかないね?一方的じゃなくて。ちゃんとあ
の人を納得させて、説得できるような材料を作らないと﹂
﹁んと、つまり、佐久間怜に私がフラれたらいいんだ!嫌われたら
いいんだよね?フラれるっていうのはちょっと腹立つけど。別に好
きじゃないし!﹂
立ち上がって力強く言う紗弓に、響子は﹁嫌われるは極端だけど﹂
とくすっと笑う。
﹁佐久間先輩から別れを切り出されるのが一番穏便に終わる方法だ
と思うよ?今までだって別れはすべて、彼から切り出してきたはず
53
だもの。だから、佐久間先輩がさゆちゃんとの関係を終わらせたい
と思うような、納得できるような材料をつくれば、話し合えるでし
ょ?﹂
紗弓はなるほどー、と響子に頷いた。やっぱり彼女に正直に話して
よかったとつくづく思う。
むしろあの日響子を連れて生徒会室に行っておけば、状況は変わっ
ていたのかもしれない。
﹁それで、材料って⋮やっぱり?﹂
目で問う紗弓に響子は﹁そうだね﹂とこっくり頷く。
﹁佐久間先輩が特にさゆちゃんに対して異性の興味を持ってないの
なら⋮。さゆちゃんに好きな人が出来れば別れてもらえると思うよ
?佐久間先輩はそういう所、しっかりしてるらしいから﹂
聞けば彼は絶対に二股といった複数の女性とつきあうような事だけ
はしないらしい。
期間は短いものの、その間は決まった女性だけを相手する。
プライドも高そうな彼はきっと、自分が別の男と天秤にかけられて
いると分かれば紗弓に対して興味を失うだろう。思ったよりも簡単
に彼との縁は切れるかもしれない。
﹁ま、まぁ、でも、この方法は佐久間先輩自身には嫌われてしまう
かもしれないね。ちょっと誠実さに欠ける行動だと思うし⋮﹂
﹁⋮別に、佐久間怜に嫌われてもいいもん。関係が切れたら私とあ
いつは全くといっていい程接点もないんだし、会話することもない
でしょうよ﹂
彼の笑顔、からかった後の楽しそうな顔、時々見せる悪戯っぽい顔
を少し思い出すが、ふるふると首を振る。栞も言っていたではない
か。彼の優しさに心はないと。
﹁あいつは無駄に顔がいいのが悪いのよ、全く⋮。それでどうしよ
う。方針は決まったけど方法が思いつかないわ。学校外で好きな男
を作ればいいのよね?⋮でも、どうしたらいいのかしら﹂
﹁そうだね⋮。私、友達あんまりいないし⋮。男子の友達なんて一
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人も⋮。あ、さゆちゃん。もう一人相談したらどう?ほら、風紀委
員の委員長﹂
﹁園田先輩?⋮ああ!そっか。先輩はこの話知ってるんだった﹂
佐久間怜にも言っていたが、紗弓はこの事情を風紀委員長である3
年の園田稔にも話を通してある。彼はそれはもう紗弓のことを心配
していた。彼に相談すれば何か案をくれるかもしれない。
﹁すっかり忘れてたよ!放課後にでも聞いてみる。⋮ね、あの、響
ちゃん、一緒にきてくれる?﹂
﹁勿論だよ?私アガリ症だから⋮あんまり役に立てないかもしれな
いけど、それでさゆちゃんが安心するなら﹂
響子はにっこりと笑う。
彼女は紗弓以外の前だととてもあがってしまう為、人前だとうまく
意見が言えない。それでも紗弓がいるといないでは大分と違うのだ
が。
紗弓は頷いて、響子の手をしっかりと握った。
◆◇◆◇
放課後になって紗弓と響子は3年の校舎に向かった。稔のクラスへ
行き、彼を呼んでもらう。
﹁真城ちゃん。どうしたの?﹂
園田稔は一見風紀委員長に見えないほど、穏やかでのんびりした顔
をしている。ずれかけた眼鏡がまた愛嬌をさそって、のどかな雰囲
気を持っている。
しかしそれは見た目だけなのは全校生徒が知っているのだ。
彼はにっこり笑って﹁没収です﹂と不要物を容赦なく取り上げ、あ
らゆる校則違反者のチェックは怠らない。そして一切の交渉も許さ
ず、女生徒の甘えた声にも屈しない﹁鉄の意志を持つ男﹂と呼ばれ
ている。
しかし実は隠れファンがやたら多いとも言われていて、彼に叱られ
55
るためにわざと校則違反をしでかす女子もいるらしく、そこは彼に
とって悩みの種らしい。
そんな稔を連れて紗弓はあまり目立たない、屋上に向かう階段の裏
へ移動した。
事情を話し終えた紗弓に、稔は指を唇につけ、うーんと唸る。
﹁そっか⋮もう限界かぁ。まぁそんな所だろうと思ったけど⋮思っ
たより持ったような、持たなかったような?﹂
﹁どっちですか⋮﹂
﹁微妙?でもまぁ、長く続かないだろうなとは思ってたよ。だって
真城ちゃん、どう考えても男慣れしてなさそうなんだもん。佐久間
のちょっかい、流せないだろうし⋮全部真に受けて動揺しまくって
るだろうなぁと思ってたの﹂
その通りです、と言わんばかりに紗弓はしょんぼりと肩を下げる。
稔はくすりと笑ってまぁまぁと彼女の頭を優しく撫でた。
﹁真城ちゃんは真面目で仕事熱心だからね。問答無用で止めるのも
君の自主性を妨げちゃうかな、って様子見てたけど⋮。佐久間のヤ
ツ、偽りのカレカノって自覚あるんだったらもうちょっと手加減し
てあげたらいいのに。あいつはどこか⋮んー⋮そう、女子全員が男
慣れしてるとでも思っているのかね?﹂
どうだろう?と彼はちらりと紗弓の後ろにいる響子を見る。
彼女は恥ずかしそうに俯いて﹁⋮そうかもしれませんね﹂と蚊の鳴
くような声で言った。
﹁と、とにかくそういう事で、何かいい案はないでしょうか﹂
放課後といえば、紗弓は生徒会室に行かなければならない。佐久間
怜と一緒に下校するのは、何というか最近の日課になりつつあるの
だ。
これといった予定もないのに遅れたら、また校内放送で呼ばれるか
もしれない。
なので口早に紗弓は話を本題へ切り出した。
56
﹁そうだね∼佐久間から振るようにするっていうのは僕も穏便でい
い案だと思う。あいつは人の女に興味はないみたいだし、紗弓がそ
うだと分かれば興味を失うと思うよ?そりゃまぁ少しは怒るかもし
れないけど、だからといって逆恨みするようなヤツじゃないから﹂
そう言ってから﹁どうするかなぁ﹂と稔は天井を仰いだ。
やがて何か思いついたのかぽん、と手を打つ。
﹁合コン、っていうのは流石に高校生としてふさわしくないけど、
男友達と一緒に遊ぶのならいいんじゃない?別にそこで無理に男子
を好きになる必要はないけど、異性の友達を作るきっかけ作りには
なるかもしれないでしょ?好きにならなくても、口裏を合わせてく
れる人がいるかもしれないし﹂
ほほぉ、と感心したように稔を見てから紗弓は﹁でも﹂と首をかし
げる。
﹁私、そんな男友達いませんけど﹂
﹁それはこっちで用意するよ。他校のメンバーならいいんでしょ?
中学の頃のクラスメートとかいるし。僕もついていくから、そっち
も女子の友達を2、3人つれてきたらいいよ。皆で遊ぼう﹂
﹁園田先輩⋮ありがとうございますっ!﹂
紗弓はぺこりとお辞儀をする。稔はいやいやと笑って頭を掻きなが
ら、﹁ただし﹂と付け足した。
﹁服装は高校生にふさわしい格好で来ること。お化粧や過度なアク
セサリーをつけるのは校則違反だからね?食事はお昼までで、夕方
には解散するから。日の落ちた繁華街をうろつくのは風紀的にも防
犯的にもよくないからね﹂
清く正しい風紀委員らしく、彼はしっかり釘を刺すのを忘れなかっ
た。
◆◇◆◇
園田稔に段取りを任せて数日、やっと彼から﹁段取りがついた﹂と
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連絡がきた。
遊ぶ日は月末の日曜日だ。その日まで少し余裕があるので、紗弓は
早速、母親の麗華に相談した。
高校生にふさわしい範囲内で自分磨きをしてみたい。そう言った彼
女に麗華は楽しそうに手ほどきをする。
髪の手入れの仕方、肌や爪の磨き方、服の選び方。
普段、服といえばTシャツに短パンというとてもラフな格好を好む
彼女に﹁そんなんで男が落とせるかー!﹂と麗華は間の休みを利用
して娘を引き連れ買い物に出た。
ついでに学校用とは別に新しい眼鏡も買ってもらう。
細いフチはパールピンクで艶があり、時々光に反射して上品に光る。
レンズも普段使いとは違って少し小振りの楕円形になっていて、若
干視野が狭くなるものの、眼鏡独特の野暮ったさがない。
つるの部分は唐草模様のようなデザインになっていてとてもお洒落
なものである。
新しくてお洒落なデザインの眼鏡をつけるだけで随分と印象が変わ
り、最初こそ初めて会う異性からの印象を良くするためだと思って
いたけれど、自分を磨くというのは思うより楽しいものなんだなぁ
と紗弓は思った。
時々、佐久間怜と帰るのを断って響子と帰り、基本的に寄り道は校
則違反だが、ちょっとだけ自分の家に寄ってもらって、響子と一緒
に爪を磨いたりして見せ合いっこをする。
女同士できゃっきゃと自分を磨く。そんな時間がこんなにも楽しい
とは⋮。紗弓はもっと早くこのことに気づいていれば良かったなぁ
としみじみ感じた。
◆◇◆◇
﹁最近、忙しそうですね、紗弓﹂
﹁そう?⋮っていうか佐久間怜がいきなり私を呼びつけたり、返事
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も聞かずに生徒会室で待ち合わせだって言ってきたりするだけで、
普段の私は忙しいって前にも言ったはずだけど⋮?﹂
そういえば言ってましたね、と今思い出したように彼はのんびりと
言う。
こいつは人の都合を全く考えてないなと思いながら、紗弓は購買の
パンをぱくつく。
昼食の時間、生徒会室。時々彼女は昼に呼び出されてここで昼食を
食べる。
さすがに校内放送で呼ばれることはそうないが、朝の校門前で服装
チェックや遅刻チェックをしている時、ふらりと怜が現れては勝手
に﹁生徒会室でお昼食べましょうね﹂と言って返事も聞かずに去っ
ていくのだ。
それを聞いて無視するのもどうだろうと、仕方なく生徒会室へ通う
紗弓はやはり人が良いといえる。
もぐもぐと口を動かしていると、怜はコンビニ弁当をつつきながら、
どこか腑に落ちない顔でじっと彼女を見た。
﹁紗弓、何か隠してませんか?僕に﹂
﹁隠す⋮って、何を?﹂
軽くとぼける。まさかあんたに振られる為に目下準備中なんですよ
とは言えない。
つんと澄ましてパンを食べ終わり、珈琲牛乳のパックにストローを
刺す紗弓を、彼はまじまじと見て、さらりと彼女の括っているポニ
ーテールに手を伸ばした。
﹁何だか印象が少し変わったというか、髪も綺麗に手入れしてます
し。前よりも丁寧にしてますよね、これ。トリートメントを使って
いるんですか?﹂
なんだこの細かい男は。何故ゆえそこまで分かると紗弓は若干空恐
ろしさを感じる。
すると彼に加勢するように護がつんつんと箸を紗弓に指した。
﹁そういえば紗弓ちゃん、前よりちょっと可愛くなったよね。⋮前
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から素材は良かったと思うけど、磨かれた、みたいな﹂
﹁そうねぇ、爪もぴかぴかに磨いてるし。上手になったわね?本当
はこういうの、私が教えたかったな∼。ねえ、誰かに教わったの?
それとも独学?﹂
鮮花も乗ってきて、にっこりと紗弓に笑う。妖艶なその笑みに同性
ながらも彼女は赤くなって俯いた。
﹁あ、あの、ママ⋮が、そういうの教えるの、好きで﹂
﹁あら、お母さんに?へぇ∼仲いいんだ。私てっきり、オトコでも
出来たのかと思ったわ﹂
彼女の言葉にドキッとする。別に恋人ができたわけではないのに、
妙な罪悪感を感じた。
﹁オトコが出来たって⋮僕という男がいながら何て事を言うんです
か、鮮花﹂
少し機嫌を悪くしたような怜に、鮮花は﹁ごめんなさいね∼﹂と軽
く笑って謝る。
﹁でも、女の子が変わる理由なんて⋮しかも可愛くなるきっかけっ
てだいたいは異性関係だもの?紗弓ちゃんが怜に惚れて、自分磨き
をしたんじゃないなら別で男ができたのかなって思うのも自然じゃ
ない?ね、紗弓ちゃん、別に怜に惚れてるわけじゃないんでしょう
?﹂
鮮花の指摘は殆ど当たっているに等しい。さすがリアルフジコちゃ
んだ。色々と鋭すぎる。
しかしここでばれてしまっては元も子もない。紗弓は声を落ち着か
せるために珈琲牛乳を軽く飲んでから澄ました顔をして言った。
﹁当たり前です。私が佐久間怜に惚れるなんて絶対に確実に120
%ありえません。た、確かに最近⋮爪を磨いたり、髪を手入れし始
めましたけど⋮ママに教わって楽しいから、やってるだけです﹂
八雲が﹁120%ありえないだってうはは!﹂と笑い出す。そんな
彼を怜は面白くなさそうに軽く睨みながら一人呟いた。
﹁何だかそこまで断言されると僕も立つ瀬がないというか、若干腹
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が立ちますね⋮。紗弓?﹂
突然怜は甘い声を出して紗弓の名を呼び、顔を覗き込むように隣か
ら見てくる。
その艶っぽい仕草に彼女はどきどきと狼狽しながらも﹁何よ﹂とぶ
っきらぼうに聞いた。
﹁次の休み、デートでもしませんか?ほら、前にお話してたでしょ
う?﹂
そういえばそんな話もしていたなぁと思い出す。枡屋の昼を奢ると
か、何とか。
しかし次の休みは無理だ。園田稔が段取りをした約束の日なのであ
る。
彼女は少し決まり悪げに俯いて、口早に断った。
﹁⋮ごめん。次の休みはその、先約があるのよ﹂
﹁先約。⋮誰と?﹂
﹁な、なんでそんな事言わなきゃいけないの?﹂
紗弓が少し彼を睨むと、妙に真面目な顔をした怜が言葉を返してき
た。
﹁だって、僕と貴女は恋人同士でしょう?恋人の予定を聞くのって、
当たり前じゃないですか?﹂
﹁そ、そうなの?⋮別に、友達と遊びにいくだけよ。そういう約束
を前からしてたの﹂
正確に言えば自分達は恋人同士ではないのに、彼は時々そういう所
を拘る。
しかしこちらも嘘をついているわけではないのではっきりと彼にそ
う告げると、彼は﹁⋮そうですか﹂と、大人しく引き下がった。
﹁なになに、怜くん。機嫌悪いね∼⋮それは独占欲というやつです
か?﹂
ニヤニヤとからかう八雲に﹁煩いですよ﹂とすげなく返してから、
怜はにっこりと紗弓に笑いかける。
﹁じゃあ、またその次にでも行きましょうね?紗弓の私服姿、見て
61
みたいです﹂
﹁そんなん見て何が楽しいのよ⋮。まぁ、次、予定が空いてたらね﹂
よくよく考えてみれば、あの佐久間怜をここまでぞんざいに扱う女
子はいただろうか。
紗弓は今のやりとりを彼の﹁熱烈なファン﹂に知られたら袋叩きに
合いそうだな、と思う。
そうでなくてもされそうな気もするので、早くこの関係を終わらせ
てしまおうと密かに決意を新たにした。
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6.気合充分!勝負の日。しかし⋮
とうとう約束の日がやってきた。
紗弓は自分の姿をもう一度姿見で確認する。
麗華が言う通り髪をまっすぐに下ろし、控えめなサイドリボンをあ
しらった細身のカチューシャをはめている。
ポニーテールにしても長めな彼女の髪は下ろせば腰上まで届く。
丁寧に手入れした髪は、彼女が手櫛を梳けばさらりと落ちた。
服装は、白の長袖カットソーの上に春らしい水色のニットボレロを
ざっくり着て、ボトムスに履いたベージュ色のキュロットの裾から
は白いレースが品よく覗く。
健康的な白い足を惜しげなく晒すのは少し恥ずかしいけれど、これ
くらい今の女子高生は普通だっつぅのと麗華に言われたのだった。
合皮のポシェットを肩からかけて、こげ茶色のレースアップパンプ
スを履いて紐を縛る。
手首にはワンポイントにふわふわのシュシュを嵌めてみた。
そして最後にいつもの黒フチ眼鏡を外し、新しく買ってもらったお
洒落な眼鏡をかけて、姿見ににっこりと笑う。
﹁ん、可愛い可愛い。我が娘は本当磨けば本物ねぇ﹂
惚れ惚れするわぁ、と後ろから麗華が褒めてきた。そんな彼女に紗
弓は照れたように言う。
﹁はいはい親バカモードは適当にね。おだてたってお土産はないん
だから。いってきまーす!﹂
元気よく家を後にする。
ひらひらと麗華は手を振って﹁あの自己評価の低さは絶対パパ似ね﹂
と笑うのだった。
◆◇◆◇
63
割と規模の大きい駅の近くには繁華街がある。
そこに行けばだいたいのものが買えて、遊べるような施設も揃って
いるので自然とそこには人が集まる。
駅前には小規模だが綺麗な公園があって、花時計と呼ばれる大きな
時計前が待ち合わせに良く使われた。
例にもれず紗弓たちもそこで集まっている。
﹁ん、これで全員か?﹂
﹁そうみたい﹂
﹁今日はよろしくねー。可愛い女の子ばっかりで僕は嬉しいよー﹂
﹁またまたぁ、よろしく!ねぇ取り敢えずどこにいくの?﹂
わいわいと年頃の男女が楽しく予定を話し合う。
園田稔が呼んだのは2人の男。どちらも中学生のころの同級生で今
は違う高校に通っているらしい。楽しげで明るいノリだが、服装は
清潔そうで根が真面目そうな、彼の友達らしい友達と言える。
紗弓のほうも声をかけて呼んだのは違う高校に通う、仲の良かった
友達が一人と響子だ。本当は栞を誘おうかと思ったが事情を知って
いるのは響子だけだし、ここは無難に他校の友達にした。
﹁それにしても、さゆちゃんもきょーちゃんも久しぶりだねぇ、元
気してた?﹂
﹁うん!それなりにね。理紗ちゃんは⋮東高なんでしょ?女子校っ
てどんな感じ?﹂
理紗と呼ばれた紗弓たちの友達は﹁そうだねぇ﹂と笑って答える。
﹁なんて言うか、恥じらいがなくなっちゃうね﹂
﹁ふふっ⋮なあに?それ﹂
﹁女子ばっかりだとさぁ、本当どうでもよくなっちゃうみたいなの。
あれは駄目だね!あとは、そうそう⋮やたらスポーツ系部活の女子
がモテるんだよね。サッカー部とか、弓道部とか﹂
﹁へぇ、女の子がもてるんだ。面白いわね﹂
﹁うん。伝説になる位もててた女子高生もいたんだよ?ずっと前に
卒業したけどね﹂
64
理紗の話に響子が控えめに笑って紗弓も笑う。久々に会う友達と話
すのは楽しいし、園田の友達とも気兼ねなく話し、会話が進んでい
く。今日は晴れだし、思惑は別にしても楽しめそうだなぁと紗弓は
思った。
とりあえず最初はカラオケでしょうと誰かが言い出して、繁華街に
ある大きめのカラオケボックスへ行く。
﹁何うたおー﹂
﹁あたし飲み物入れてくるね。皆なにがいい?﹂
﹁理紗ちゃん気が利くー!俺メロンソーダ!﹂
﹁私も手伝うわ。メモするから待って﹂
﹁さゆちゃん、私が⋮お手伝いいくわ、ここで待ってて?﹂
さすがに男子の中に一人残るのは困るのか、響子が慌てたように紗
弓のメモを取る。
それもそうかと思って紗弓は理紗と響子に任せて待つことにした。
﹁可愛いなぁ、俺男子校だからジョシとのふれあいが嬉しくて、う
うっ﹂
﹁河合は感動しすぎだよ、さっきから。そんなに酷いの?男子校﹂
﹁酷いなんてものじゃない!俺は人生の選択を誤った!﹂
﹁そこまで⋮?恐ろしいな男子校。襲われないようにしろよ﹂
当たり前だー!と河合という男が騒ぎ出す。くすくすと笑って紗弓
はカラオケ機材に備えられた液晶リモンコンで検索を始めた。
タッチパネルでランキングを検索していると、横から﹁あ、その歌
知ってる﹂と園田の友達の一人が反応する。パネルを覗き込むよう
に見るので、自然と紗弓に近づく形になり、思わず顔が赤くなった。
︵もう、何を意識してるの、私⋮︶
紗弓は他人の異性とこうやって遊んだり、カラオケボックスのよう
な狭い空間で一緒になることなど初めてなので、気をつけてはいて
も思春期の娘らしく意識してしまう。
︵こんなことでいちいち反応していたら、あの男には一生敵わない
わ。私はどうにかして他の男子と仲良くなって、あいつと別れる材
65
料を作るのよ︶
むん、と気合を入れなおす。
そして隣に座る男とああだこうだと話をしながら歌う歌を決め、カ
ラオケが始まるのだった。
﹁ふぁー歌った歌った。楽しかったねぇ﹂
﹁まさか途中から知ってるアニソンマラソンになるとは思わなかっ
たけどな!﹂
﹁あははっ!本当だね!しかもきょーちゃん、選ぶ歌が古いしっ!
あれってお母さん世代のアニソンじゃないの?﹂
﹁ご、ごめんね?そういうのしか知らなくて。最近のがわからなく
てつい⋮﹂
﹁響ちゃんらしいよ。私も子供の頃見てたアニメしか知らなかった
んだもの。懐かしかったー﹂
ワリカンで会計を終え、そろそろ昼飯かと稔は腕時計を見た。
﹁昼飯どうする?無難にファミレスかファストフードとか?⋮ほか
に提案あれは各自どーぞ?﹂
﹁お好み焼き!﹂
﹁焼肉!﹂
﹁お前らな、ここに年頃の女子がいるということを忘れるな⋮﹂
手をしゅたしゅたと上げる男性陣に稔が頭を抑える。そんな男子の
やりとりに女性陣は﹁あはは!﹂と笑った。
﹁でも、お好み焼きはいいかも?美味しいお店知ってるの?﹂
紗弓が聞いてみると、お好み焼きと手を上げていた河合がうむ、と
頷く。
﹁ほら、相田知ってるだろ?お好み焼き屋﹃やきやき﹄﹂
﹁あーやきやきね。懐かしい、学校帰りによく行ったなぁ⋮﹂
﹁お前らそんな事してたの!?校則違反だろそれ!﹂
﹁稔は相変わらず風紀委員なんだな。まぁいいじゃん、もう時効で
すー﹂
66
うははと笑って稔の背中をばしばしと叩く。﹁全く﹂と言いながら
稔もそれ以上は追及せずに、眼鏡のずれを直す。
とにかくもそこが美味しくて安いと河合と相田が押すので、そこに
行くこととなった。
◆◇◆◇
所かわって繁華街には規模の大きい本屋がある。
5階建てになっているビルで4階まで本屋、5階は文房具店だ。
その3階の本棚の前に佐久間怜が立っていた。
彼は、目立つ。長身で顔がいいから当たり前といえば当たり前の話
である。
だが横からチラチラと見ていく女性達に全く意識を向けず、彼は黙
々と本を立ち読みする。
ふいに後ろから﹁怜ー﹂と声をかけられた。
怜を惚れ惚れと見ていた周りの女性達は、後ろからてくてくと来た
男を見て更に驚愕する。
明るい茶髪は地毛だろうか、屋内なのに髪がきらきらと光っている
ようにさえ見えた。
まるでテレビの中にいるアイドルがひょっこり現実へでてきたよう。
なんというか、やたらキラッキラとした美形と、少し冷たくて硬質
な雰囲気の美形が揃うと迫力がある。
紗弓は二人の顔がどうこうよりも先に怜の強引さやスキンシップ、
八雲のからかいに怒ったり戸惑ったりする事が多いので気にした風
ではないが、本来ならこれくらい騒がれる男達なのだ。
しかし二人ともこういった周りの反応は慣れているので全く気にせ
ず話し出す。
﹁文房具、買い終わったんですか?﹂
﹁うん。ここのルーズリーフ、質がいいんだよな。ついでにシャー
ペンも新調した﹂
67
じゃーん、と言いながら八雲が怜にシャーペンを見せる。
﹁⋮それ、製図用じゃないですか?﹂
﹁これ使いやすいんだよ。持ちやすくて書きやすい。⋮怜は何見て
たの?﹂
これです、と怜は八雲に向かって本を見せる。
﹁犬のしつけシリーズ。吠えクセの直し方⋮お、お前⋮⋮それ、マ
ジだったのか﹂
﹁いえ、本気じゃないですけど⋮参考になるかなって思って﹂
﹁参考に考えてる時点ですでにマジだよ!俺はお前が恐ろしい!﹂
大げさに顔を覆う八雲を無視して怜は本棚に本を戻す。そしてもう
一冊取り出した。
﹁犬の飼い方、基本編。これが実に参考になりそうだったので⋮そ
れならしつけの専用本のほうが参考になるのかな?と思ったんです
が、あちらは少し違うようでしたね﹂
﹁それでも少し、なんだ。紗弓ちゃん可哀想に⋮﹂
﹁そんな。僕なりに真面目に考えているんですよ?ほらここ見てく
ださい。ほめることが大事なんだそうです。服従関係を強いたり、
体罰や、しつけ道具はかえって犬を反抗させてしまって、余計に言
うことをきかなくなるそうですよ?とても参考になると思いません
か?﹂
﹁うん、俺はその全てを紗弓ちゃんに脳内変換しちゃうから、もう
可哀想でなりません﹂
﹁そうですね⋮勿論叩いたりしたら駄目ですが。道具、⋮道具、か
⋮﹂
ううむ、と怜は真面目な顔で顎に指を添え、悩み出す。
一体彼の脳内で真城紗弓はどんな扱いをされているのだろうと八雲
は思った。
﹁お前⋮さ、そのペット感覚からどうにか脱出できないの?そりゃ、
俺だって気に入った女の子をあれこれ開発したり、えっちぃ子に育
68
てたりするのは好きだけど﹂
﹁八雲の悪趣味には敵いませんよ。そう言われても、他にいい関係
が思いつかないんです﹂
本屋から場所は変わって昼食に、二人は繁華街にあるレストランに
座っていた。
割とリーズナブルなスパゲティ専門店だ。ボンゴレを食べながら怜
が軽く首をひねる。
﹁他にって⋮嘘でもお前らはカレカノでしょ。どうせなら普通につ
きあったらいいじゃん、ちゃんと女の子としてさ﹂
﹁女の子として?そんな風に扱っていいのなら、とりあえず僕は紗
弓をホテルに連れて行ってシますよ?でも紗弓はそれを望んでない
でしょう?僕は八雲のような強姦趣味はないんです﹂
﹁俺もないよ!?っていうかお前はその、とりあえずカラダから始
めるっていう癖、全く変わってないんだな⋮﹂
はー、と軽くため息をついてから八雲もカルボナーラを食べ始めた。
暫く黙々とスパゲティを食べ、カチャカチャとした食器の音と周り
の話し声だけが聞こえてくる。
佐久間怜は、いつからかそういう男になっていた。
女性との関係は、とりあえず肌を重ねる所から始める。それが当た
り前のように思っていた。
なぜなら常に自分に求められていたのは、いつも顔と体だけだった
から。
同時にこれは彼なりの処世術なのか、甘い言葉に優しい物腰も加わ
って、それも彼に求められるステータスの一つになっていく。
今の彼を形成する全てはそれだけ。
次々と変わっていく﹁彼女達﹂も結局目当ては自分の顔と体と、甘
い言葉と優しい仕草。
それさえ押さえておけば勝手に向こうが満足してくれる。愛されて
いると勘違いしてくれる。
69
最初は、他人と肌を重ねるのは楽しかった。ひと時でも気持ちが良
いし、カラダが満たされる。
思春期特有の欲求不満は解消されるし、向こうが望んでこの関係を
作っているというのはとても素直にセックスを楽しむのと同意で、
それもまぁいいかなと思っていた。
しかしいつからか、それを虚しいと思うようになった。
どれだけ抱いても、カラダの欲求を満たしても、いつも何かが満た
されない。
不思議な欲求不満が常に彼の心を占め、そのうち相手の女を服従さ
せたり、無理矢理奉仕をさせたりと、少しずつ彼の性行為がねじれ
て行く。
暇つぶしに玩具を使ったり使わせたり、意地悪な言葉で攻めてみた
り。相手が嫌がったとしても、関係の解消をチラつかせるだけで従
順になる。それを良い事に彼の行為はどんどんとサディスティック
になっていった。
そうすれば、少しだけ自分の不思議な欲求を解消できたから。
征服欲、支配欲。その欲は確かに彼の心を僅かに慰めた。しかしや
はり、どこかとても本質的なものが足りなくて、常に飢餓感を感じ
ている。
とうとう彼は、義務のように女を抱くようになった。自分のカラダ
と僅かな欲を満たすための義務としてセックスの手段をとる。他の
つきあいなど余計で、ついでのようなものだ。
彼にとっては女性との食事も、買い物も、デートも、全て退屈でた
まらない。世の中の男達は何が楽しくて恋人とデートなどしている
のだろうと思う。
それならまだホテルで虐めて突いているほうがましだ。
佐久間怜は割とそういう、致命的な欠陥のある男である。
ただ顔が良くて、他人とのつきあいを円滑にするために親切人の皮
70
を被っているに過ぎない。
﹁さて、俺は用事が終わったけど、どうする?﹂
レストランを出て、文房具を買った八雲が怜に顔を向ける。
﹁そうですね、まだ帰るには早いですし、適当にぶらついてから帰
りましょうか﹂
﹁ぶらつくって⋮具体的にどこを。俺は男と仲良くウィンドーショ
ッピングなんてしたくないです﹂
﹁奇遇ですね、僕もしたくありません。んん⋮とりあえず枡屋がど
こにあるのか確認して、新しくできたアミューズメントのビルがあ
るでしょう?あそこをちょっと覗いてみたいですね。どんなのがあ
るのか﹂
﹁枡屋って、有名な寿司屋?いいけど⋮あと、あの新しいビルって
カラオケとかボーリングとかゲーセンとか何でもあるって言われて
るとこだろ?別に構わないけど、お前ああいうガヤガヤした所、あ
んまり好きじゃないって言ってなかったか?﹂
枡屋に向かって歩きながら、八雲が腕を組んで僅かに首をかしげる。
怜は苦笑して﹁そうですね﹂と同意した。
﹁でも紗弓が好きそうですから。あの子は何となく勝負事にはもの
すごく真剣に取り組みそうなんですよね。一喜一憂しそうというか
⋮きっと見ていて飽きないだろうな、と思ったので﹂
﹁ああ、それはわかる。俺も紗弓ちゃんとボーリングとかしたい!
ふふ、俺が勝ったらすごい悔しがりそうだなぁ⋮。って、お前、ど
う考えてもそれデートの下見だろ!何か腹が立つ!﹂
がーっと捲くし立てる八雲に軽く笑って怜は流す。
⋮そういえば、確かにこれはデートの下見だ。
頭の中ではいつの間にか紗弓と歩くルートを探して、どう案内しよ
う、どういう話をしようと考えている。
デートなんて、毎回いつも退屈で、早く終わるかホテルにでも行か
71
ないかなと思っていたのに。
自分は紗弓にデートを誘い、今もこうやってどう歩こうか考えてい
る。
⋮どうしてだろう。こんな事は初めてだ。ホテルに誘うことはあっ
ても、ただのデートを誘うことなんて今までなかった。
何故、どうして?やはりそれは︱︱。
﹁犬みたいだから、かな⋮﹂
﹁え、犬?どこどこ﹂
犬好きな八雲は犬を探しだす。そんな彼を無視して怜はすたすたと
歩く。
ペットの飼い主が愛犬を散歩に連れて行くような感覚。時々は広い
公園や遊び場に連れていくと犬は喜ぶではないか。
どうしてもオンナ扱い以外での異性への気持ちがペット感覚から離
れられない佐久間怜はやはりどこか壊れた男だった。
72
7.まるで申し合わせたような偶然
﹁おいしかったねぇー﹂
﹁河合は本当、昔から変わりダネが好きだったな⋮﹂
﹁なんだよ、あんなのちっとも変わってないよ。チーズが4種類入
ってるだけじゃん﹂
﹁あはは、ちょっとチーズの味しかしなかったよね、あれ﹂
皆で好き好きにお好み焼きを頼み、あの味はどうだ、この味はどう
だと食べ合う。
色々な味が楽しめるのは楽しかったし、わいわいと焼くのも盛り上
がった。
﹁河合くん、ひっくりかえすの上手だったわね﹂
﹁フッ⋮あれにはコツがあるのさ。コツは⋮勢いだ!﹂
﹁それコツじゃねー﹂
稔のつっこみに全員があははと笑う。
お昼を終えてどうしようと少し話し合った後、新しくできたアミュ
ーズメントのビルに行こうという話になった。
﹁なに?それ。私知らなかった﹂
﹁わ、私も⋮﹂
目を丸くして聞く紗弓や響子に、男性陣が次々と説明をする。
﹁最近できたんだ。ボーリングとかビリヤードとか、ゲーセンとか、
メダルゲームとか、とりあえず何でも揃ってるんだよ﹂
﹁ここで一日過ごせるんだよな。2階にフードコートもあるし、カ
ラオケもあるんだぜ?﹂
へええ、と女性陣は感心したように相槌を打って、それは楽しそう
だと盛り上がる。
歩いた先には目的のビルがあって、1階はプリクラやクレーンゲー
ムが主のようだった。
﹁どうする?ボーリングとかなら皆でやってもいいと思うけど﹂
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﹁ちょっとばらけよっか。同じ階でさ、好きなように遊んで、適当
に時間つぶしたらまた皆で違う階に行ってみるってどう?﹂
﹁それがいいね。じゃあ取り敢えず1階からさらっとこうよ。クレ
ーンゲームもあるし、プリクラも撮ろ!﹂
理紗が相田の手を取って走り出す。
いつの間にそんな気が合う仲になったのか。自分は全くそう言った
風にできなくて紗弓は驚愕する。
﹁おー、相田のやつ、まんざらでもない顔しおって。よきかなよき
かな﹂
笑いながら河合がやってきて、自分達も行こうと紗弓や、少し尻ご
む響子を中へ誘う。
稔も混じって皆でクレーンゲームに興じたり、プリクラを撮ったり
する。
騒々しい雰囲気が苦手な響子は最初こそ戸惑っていたが、紗弓や稔
がフォローしたり誘ったりして遊んでいれば、だんだんと表情は柔
らかくなって楽しむような顔つきになっていった。
﹁うわっすごい!響ちゃん本当にクレーンゲーム初めてなの?﹂
﹁う、うん。初めて、だよ?﹂
﹁すごいなぁ、もう3つめじゃない。クレーンゲームの才能あるの
かも?﹂
﹁ん⋮そう、かな?えへへ、嬉しい。このぬいぐるみはさゆちゃん
にあげるね﹂
紗弓と稔が褒めると響子ははにかんで笑い、ネコのぬいぐるみを紗
弓に渡す。彼女はそれを嬉しそうに受け取って、むぎゅ、と抱きし
めた。
理紗と相田は別のクレーンゲームで駄菓子を取ることに熱中してお
り、河合はとにかく大きいものが好きなのか、どうやって持って帰
るのだとつっこみたい程の巨大ぬいぐるみを狙っている。
﹁だーっもうだめ、俺は諦めた!このひよこの勝ち誇った目が憎ら
74
しい!﹂
﹁めちゃくちゃ愛らしい目じゃないか。お前の目は節穴だ。⋮まぁ
一通りこの階は遊んだし、上に行くか?おーい、相田、そっちはど
うだ?﹂
﹁ん?いいぜ。駄菓子もなんとか取れたしな﹂
﹁明らかに駄菓子買うよりお金かかったよね、ふふっ﹂
楽しそうに理紗と相田が笑いあう。こうやって自然と仲良くなって
いくものなのか、と紗弓は感心したように二人を見た。
2階はメダルゲームが広がっている。
﹁私⋮メダルゲームも初めてなんだけど、お、お金をかけたりとは
違うの?﹂
おずおずと遊び慣れていない響子がきいてくるので、紗弓はくすり
と笑った。
﹁お金はかけないよ?あそこでメダルを買うの。それを使ってゲー
ムをして⋮んー、メダルを増やすのが目的なのかしら?﹂
﹁ここはメダルの数で景品も交換できるよ?お菓子とか、フィギュ
アとか﹂
稔も口を出して、響子はそうなんだ、と頷いた。
﹁メダル増やしは俺にまかせろー!﹂
河合がそれいけと走ってメダルを買いにいく。
﹁あいつは多分一番にメダルがなくなるタイプだな﹂
横にいた相田がぽつりと言って、河合以外の全員が笑い出す。
ご期待に漏れず河合は一番にメダルがなくなってしょんぼりしてい
て、またも響子が驚異的な速さでメダルを増やしていてそれを恵ん
だりする。
﹁き、響子ちゃんが女神に見える、おお⋮﹂
﹁あ、あの⋮た、たまたま、ですから⋮﹂
﹁たまたまでそんなにメダル増えないわよ。なんかコツでも見つけ
たの?﹂
75
紗弓がそう聞くと、響子は恥ずかしそうに俯いた。
﹁ちゃんと台を見てたら⋮メダルが増えそうな台と、そうでないの
が分かるし、あと⋮ゲーム自体もメダルが増やせそうなゲームと、
そうでもなさそうなゲームがあるって分かったから⋮﹂
﹁君はプロかっ!そんなの普通一見ではわかんないだろ!﹂
﹁そ、そう、かな?人のやっている所とか観察してると、わかりや
すいよ?﹂
響子の恐ろしい観察眼と頭の良さに皆が驚愕する。
くすくすと理紗が笑って﹁きょーちゃんのそういう所、相変わらず
なんだねぇ﹂と言った。
そういった雰囲気で何だかんだと集まっては皆でわいわいと遊ぶ。
スロットの目押しに挑戦してみたり、競馬ゲームで盛り上がったり。
楽しい時間は走るように過ぎていった。
◆◇◆◇
﹁あ、また撮られた。くそっ﹂
﹁⋮ああ、携帯のカメラをまた向けられたんですか?別にいいじゃ
ないですか、どうでも﹂
﹁違う!俺は突如構えられたカメラにポーズを取ることを最近の目
標にしているのだ!﹂
﹁なるほど。八雲らしい前向きな姿勢には時々僕も感心していまい
ます。せいぜい頑張ってください﹂
アミューズメントのビル、3階はいわゆる一般的なゲームセンター
である。
エレベータで5階に行き、順に下へ降りてみようと言う八雲の提案
でこの階まで来た。
﹁それにしても騒がしいですね?2階はメダルゲームらしいですか
ら、2、3階が一番騒がしそうですね﹂
﹁そうだなぁ。でも楽しめそうなのはここと、ボーリングくらいか
76
な﹂
答えながら八雲はふいに横を向いて、ピースをする。
途端にきゃーと声が聞こえて、勝手に写真を取った女性達はきゃっ
きゃと去っていった。
﹁ふっ⋮可愛いなぁ。俺の顔が好きで俺を撮っていく女の子が﹂
﹁貴方は本当に歪曲なナルシストですね﹂
ふぅ、と息をついて怜は髪を軽くかきあげる。先程から自分も勝手
に写真を撮られているのだ。ゲームセンターといった場所は少し暗
くて、沢山人がいる。どさくさに紛れて勝手に撮ってもいいだろう
と思えるのだろうか。
八雲と違って怜は写真を撮られるのが好きではない。だが、もう慣
れてしまっていちいち注意するのも面倒くさい。
紗弓をつれて行くとしてもゲームセンターやメダルゲームはやめて
おいて、5階のボーリングだけにしようかと考えていると﹁あれ?﹂
と八雲が声を上げた。
﹁あれ、園田じゃない?﹂
﹁ん⋮?本当ですね。こんな所で会うなんて珍しい﹂
知っている顔だったので自然と彼に近づき、八雲が声をかける。
﹁やっほー園田。風紀委員長もお休みの日はこんなトコで遊んだり
するんだ?﹂
八雲の声に、何故かとても驚いたような顔をして稔が振り向く。
﹁なっ⋮光国!?お前こそなんでこんな所にいるの﹂
﹁こんな所って、まぁ⋮ちょっと下見のつきあい?みたいな。写真
撮られまくってるからそろそろ帰るけど﹂
﹁写真って何⋮あ、ああ⋮そういう事か。大変だな、お前も﹂
﹁そんなことないさ!俺という顔を携帯電話に残したいという女子
の気持ちはわからないでもない!むしろおおいに理解できる﹂
八雲の言葉に稔がとても嫌そうな顔をした。そして八雲の後ろにい
る怜に気づいて﹁げっ﹂と声を上げた。
﹁なんで佐久間までいるの⋮﹂
77
頭を軽く抑えて稔が唸る。そんな彼を怜はにっこりと笑って挨拶を
した。
﹁こんにちは、園田君。﹁げっ﹂とはまたご挨拶ですね?そんなに
嫌われていたなんて寂しいです﹂
﹁君が寂しいなんて絶対ない。いやまーちょっと、さすがに都合が
悪いっていうかタイミングが悪いっていうか⋮君達は時々こう、空
気読まないね⋮あ、いつもか﹂
﹁僕ほど空気を読む男はいないと思いますけど?⋮⋮ん?﹂
妙にそわそわとあちこちを見回す稔につられたように怜が周りを見
渡すと、ふと、ロングヘアーの女性の後姿が目に入った。
紗弓もポニーテールを解いたらあれくらいの長さになりそうだな、
とのんびりと思う。
何となく、じっと見ているとその女性が横で一緒に遊んでいる男に
顔を向けて笑いかけた。
﹁⋮⋮え、さ、ゆみ⋮?﹂
目を見開く。稔があちゃーとしたばつの悪そうな顔で頭を軽く抑え
た。
﹁え、紗弓ちゃん?どこどこ﹂
﹁あそこ、です。男と遊んでる﹂
指を指すと﹁うお!?まじだ!﹂と八雲がまじまじと見た。
そして彼はそのまま改めて稔へと顔を向き直る。
﹁さて園田稔くん、事情を説明してもらおうか?どうせ一緒なんで
しょ?﹂
にっこりと稔を問いただす。彼ははぁとため息をついてからつまら
なさそうに軽く説明した。
﹁事情っていう程のものはないよ。俺の昔の同級生と、真城ちゃん
と彼女の友達、皆で遊ぼうって話になっただけ﹂
﹁ふぅん、怜って男が紗弓ちゃんにいるにも関わらず誘ったの?﹂
﹁俺は事情を知っている人間だよ?佐久間と真城ちゃんの間に﹃何
もない﹄っていうのを知ってる。少し彼女の息抜きに協力したいと
78
思ったんだ。佐久間はちょっと彼女をからかいすぎ。真城ちゃん、
疲れてたんだよ?﹂
﹁んん?⋮そうか。その理由はまぁ⋮理解はできるけど。それでも
別の男と遊ぶってどうよ﹂
と、稔と八雲は二人で話しだす。しかし怜はひとつも二人の話を聞
いていなかった。
視線の先は彼女だけを写していて、そのまま射殺してしまいそうな
勢いで紗弓を睨む。
長く伸びるロングヘアーは普段の彼女と違って、少し大人びた印象
を覚える。さらりとした髪にはカチューシャが嵌められていて、上
品で清楚な雰囲気を誘う。
白のカットソーに、水色のニットボレロ。学校では校則通りに制服
を着ている為、膝から上は見たことがないのに、今は太ももまで露
になったベージュのキュロットを履き、その白くてすべすべとした
脚を見せ付けるようにさらしている。
更に驚いたのは、眼鏡。いつもの黒フチではない。遠目から見ても
とてもお洒落で可愛らしい眼鏡をかけているのだ。あれなら黒くて
大きなあの瞳の邪魔にならない。
自分に見せたことのない紗弓が、自分ではない男に笑いかけ、楽し
そうに遊んでいる。
知らない男が紗弓を見て笑い、彼女の姿をその目に入れる。
怜の心に今までに感じたことがないほどの激情を感じた。これは⋮
︱︱怒り、だ。
考える前に体が動き出す。自分がこれから何をするなんて、自分で
も全く想像がつかなかった。
﹁あれ、佐久間?おい、佐久間!﹂
﹁え、怜?ちょ、まじか⋮!?﹂
やばい、と二人が彼を追って走り出すが、彼を止めることなどでき
る訳がなかった。
79
◆◇◆◇
紗弓は河合と響子と一緒にパンチングマシーンで遊んでいた。
河合が気合を入れてマシンのパッドを殴りつける。ぴろりーん、と
軽い電子音が鳴って、98の数字が出た。
﹁町の実力者レベルだって!すごいすごい!﹂
﹁俺のパンチに勝てる猛者などいまい!ふははー!﹂
﹁本当⋮ね。私の時は30だったし⋮メッセージは﹁アリより弱い﹂
とかだし⋮やっぱり腕力には自信がないわ⋮﹂
はふ、と感心したようにメッセージを見る響子に﹁響ちゃんはしょ
うがないわよー﹂と紗弓は笑って、自分もコインを入れた。
﹁さてと⋮﹂
はぁ、と意味もなく拳に息を吹きかける。そしてパッドに向かって
拳を殴りつけた。佐久間怜に習った﹁正しい殴り方﹂とやらで。
﹁地獄に落ちろぉぉぉぉー!﹂
ぴろりーん、と電子音が鳴る。
﹁さゆちゃん、今すごい⋮なんていうか、怨念?みたいなのが湧き
出てたよ?わ、すごい。95⋮人並みです、だって﹂
﹁くぅっ、あと1ポイント上だったら河合くんと同じ実力者だった
のに!﹂
﹁それはそれで俺はショックですよ!よかったね!紗弓ちゃん人並
みで!﹂
あはは、と笑いあってさぁ次のゲームをやろうと移動を始める。そ
のすぐ脇で誰かがコインを入れ、すかさずパッドに向かって殴りつ
けた。ガン!とすごい打撃音が鳴ったので思わず紗弓たち三人は振
り返る。
ぴろりーん、と軽い電子音が鳴って、数字は230。﹁すごい!君
は世界王者だ!﹂とメッセージが光った。
河合はその数字を見て﹁すげえ﹂と呟いたが、紗弓はそれどころで
80
はない。顔をひきつらせて、目を大きく見開く。
﹁さ、さ、さ⋮﹂
﹁こんにちは、奇遇ですね。紗弓?﹂
パッドに拳を押したまま、怜は紗弓を見下ろしてにっこりと笑う。
その笑顔は紗弓が今まで見てきた中で一番綺麗で、爽やかで、⋮と
ても禍々しかった。
﹁佐久間怜!?な、なんでこんなトコに!﹂
﹁それはこちらの台詞ですよ?ふふ⋮僕からのデートの誘いを断っ
ておいて、実に楽しそうに遊んでいるんですね﹂
﹁そ、それはこっちが先約⋮﹂
﹁⋮さゆみ?﹂
パッドから拳を外し、怜が紗弓に向かって近づく。長身のその男は
軽く腰を曲げて、紗弓の顔を覗き込むように見た。
そして紗弓の髪をさらりと撫で、手櫛で梳く。さらさらと彼女の黒
い髪がこぼれ落ちた。
﹁こんな風に髪型を変えて、眼鏡を変えて?⋮随分と着飾った格好
をして。⋮貴女は一体何をしにここへ来たのですか?僕の知らない
男と﹂
﹁な⋮何って、あ、遊びに﹂
﹁怜ー!ちょっとお前、待て!お前の思ってるようなことじゃない
って。話を﹂
﹁八雲は黙れ﹂
ビタッと怜が振り返らずに命令する。﹁これはやべぇ﹂と八雲が呟
いた。
﹁なになに?どうしたの⋮って、なにこの超絶イケメン達はっ!?﹂
﹁り、理紗ちゃん⋮?﹂
遅れてやってきた理紗が驚き、そんな彼女を相田が複雑そうに見る。
﹁やぁこんにちは可愛くて名前の知らない女の子とその他君。ちょ
っと色々あってね。あとで説明するから﹂
﹁さく⋮。あ⋮み、光国先輩、違うんです。あの⋮これは﹂
81
最初は佐久間に声をかけようとしたが、さすがに彼の雰囲気が怖す
ぎて、響子が恐る恐ると光国へ声をかける。彼は響子ににっこりと
笑って軽く頭を撫でた。
﹁ああ、君は放送部員の。いつもお世話になってるねぇ。大丈夫だ
よ、僕は知ってるから。でも佐久間がちょっとキレモード。俺もび
っくり﹂
あははーと軽く八雲が笑うが、皆それどころではない。というか状
況についていけないし、何より佐久間怜から立ち上る怒りの空気が
とても怖い。
﹁⋮紗弓、僕の知らない男と着飾って遊びにいくというのは、いわ
ゆる浮気というもの、ですよね?﹂
﹁浮気!?ば、バカじゃないの!そもそもあんたと私はつきあって
すらいないじゃない!﹂
﹁つきあってますよ?彼女として扱っているつもりですが?﹂
﹁それは嘘で、ってことでしょう!?本当に好きでもないくせに、
こういう時だけ彼氏面するんじゃないわよ!﹂
彼女の言葉に、はー、と怜が長いため息をついて乱暴に髪をかきあ
げる。
ぐうの音も出ないでしょ!と意気込む紗弓に、彼は氷のような鋭さ
で睨みつけた。
﹁しつけの本、もっとちゃんと読んでおけばよかった⋮﹂
﹁は、しつけ?何よそれ﹂
﹁反抗的な犬にはどういうしつけが効率的なのか、そこを読み忘れ
ていたんですよ⋮。とにかく、貴女はまだ自覚が足りていないよう
ですね。⋮いい機会ですから教えて差し上げます﹂
す、と怜が紗弓に向かって手を伸ばす。瞬間とても嫌な予感がした
紗弓は咄嗟に離れ、じりじりと怜から距離を取る。
﹁⋮⋮紗弓﹂
﹁っ!教えてもらわなくて結構よっ!﹂
そう言葉を吐くと同時に紗弓は出口に向かって走り出す。⋮ようす
82
るに、逃げたのだ。
去る彼女を見て、怜も無言で走り出す。後はよろしくと言わんばか
りに八雲をそこに置き去りにして。
◆◇◆◇
﹁ふぅん、なるほどねぇ⋮。そんな事情があって俺らを集めたのか﹂
﹁黙ってて悪かった。真城ちゃんが大変そうでね。気晴らしに遊ん
だらどうかなって思ったんだ﹂
﹁別に僕はかまわないよ。普通に楽しかったし?ちょっとビックリ
したけどね﹂
﹁そうねー。まさかさゆちゃんがあんなヤバイ男とつきあってるな
んて⋮やるわね!﹂
いいなぁ共学、楽しそうでー、と完全他人事である理紗は暢気に笑
い、同じような立場である河合も同意するように頷いた。
稔が皆に説明したのは先程八雲に言った事と同じようなものだった。
まさかこれをきっかけに誰か男子と仲良くなって、佐久間怜と別れ
るきっかけを作ろうとしていたなどとは言えない。稔は響子に目配
せをすると、事情を知っている彼女は僅かに頷いた。
一緒に同席した八雲はずず、と珈琲を飲む。ここはよくある珈琲専
門のチェーン店。キャラメルマキアートなどが有名な女子にも人気
な店である。
そこに八雲が座ればやはり目立つ。どこでも彼は目立つが、あちこ
ちからチラチラと女性が見てはきゃあきゃあと言われていて、それ
を八雲は当たり前のように流している。
﹁何というか、すごいっすね⋮慣れてる感の光国さんが主に﹂
河合がじゅーとフラペチーノを飲みながら、男の悲しい対抗心ゆえ
にジト目で見てしまうが、八雲はふっと笑って髪をかきあげた。
﹁実際慣れてるからね!ほら、俺ってば顔がいいから!﹂
﹁あーそれ、自分で言っちゃう人なんだ。減点だねーあはは﹂
83
﹁がーん!でも俺は自分を偽れない人間なんだ。響子ちゃんは知っ
てるよねー﹂
﹁あ、あの⋮私は⋮よく、知らない⋮から﹂
紗弓がいなくなると響子は途端におどおどとしてしまう。彼女を護
るように稔がずい、と八雲と響子の間にイスを持ってきて座った。
﹁とにかく、大丈夫なの?あの佐久間だよ?問答無用でホテルに連
れ込んだりしないだろうね?﹂
﹁いやーそれは⋮さすがにしないと思うよ。あいつのポリシーから
外れるし。無理矢理する趣味はないって本人が言ってたから﹂
﹁そうか⋮なら、いいけど。真城ちゃんにメールしておかなきゃ﹂
手早く稔がメールを打ち始める。本当に心配だ。彼女の足で怜から
逃げられるわけがない。彼女は今ごろ怜に捕まっているだろう。
﹁それにしても、光国も面白がってないでちゃんと注意くらいして
よ?佐久間は女の子に親切で優しいのは認めるけど、思いやりがな
さすぎるんだ。真城ちゃんが戸惑って、困ってたこと位見ればわか
るだろ?﹂
﹁んーそうだな。そこは俺も反省。ただなぁ⋮ちょっと怜も違うっ
ていうか、俺も今、いまいちあいつが読めないんだ。だから悪いけ
ど、もうちょい様子見てあげて?﹂
手を合わせて拝むようなジェスチャーをする。稔は小さくため息を
ついたが、ふと思って聞いてみる。
﹁⋮読めないってどういうこと?もしかして佐久間は今回本気で、
⋮﹃本気﹄なの?﹂
﹁それがわかんないから様子見してるの。でも明らかに今までの彼
女達と紗弓ちゃんの扱いは違うよ。だってあいつ、今まで自分から
デートに誘うこともなければ、昼食や下校を誘うことも⋮というか、
そもそも生徒会室に呼ぶなんてしなかったんだぜ?﹂
それが紗弓相手になってから頻繁に生徒会室に呼び、からかったり
遊んだりしている。彼女との掛け合い漫才のような会話を楽しんで
る風がある。
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それに、八雲が一番気になっているのは︱︱。
﹁あいつは、偽りであろうと自分から﹁彼女になってくれ﹂なんて
言う男じゃなかった。⋮最初はただの好奇心か興味本位かなって思
ってたんだけどさ。⋮いや、もしかしたら怜も最初はそうだったの
かも。⋮だけど今は違う。だんだんと⋮違ってきている。俺はそれ
が何なのか、ちゃんと見たいんだ﹂
してはいけない期待をしている。それを八雲は自覚している。
だから言わない。言えない。軽い注意はするが、踏み込めない。
しかし、それによって紗弓が傷ついたり悲しんだりするのは可哀想
だと思うし、駄目だと思う。
そこがとても難しい。見守っていたいけど、思わず口を出してしま
いそうになる。
﹁光国先輩はもしかして⋮。⋮ううん、何でもない、です⋮﹂
何かを感じ取った響子が顔を上げたが、やがて小さく首を振って俯
いた。
85
8.最速鬼ごっこ。尋問タイム
結果として紗弓は、ビルを出てすぐに捕まった。
全速力で階段を降り、自動ドアから飛び出したところでパシッと手
を掴まれる。
﹁はい、捕まえました﹂
後ろでくすりと笑う声がする。はぁはぁと息を切らせながら振り返
ると手を掴んだまま涼しい顔をして怜がにっこりと笑う。
﹁なんで、はぁ⋮息ひとつ⋮はぁ切らせてないの、よ⋮。むかつく
⋮﹂
﹁これくらいではなかなか。さぁこちらへどうぞ?﹂
そう言って有無を言わさずビルとビルの間へ連れて行く。
薄暗いそこで彼は紗弓の手を離して、彼女を挟み込むように両手で
壁をつく。
﹁さて⋮これでゆっくりお話ができますね、紗弓?どういうつもり
でしょうか﹂
﹁ど、どういうつもり、っ⋮て?﹂
﹁あの男は誰ですか?先約があるというのはあの男達と遊ぶことで
すか?﹂
﹁そ、そう⋮よ。園田先輩の友達なの⋮。あとは私の同級生と⋮な
んで?どうして駄目なの?﹂
おびえながらも紗弓はしっかりと怜を睨んで言葉を発する。
がり、と壁をつく怜の手が壁を引っかく音がした。
﹁⋮どうして?貴女は僕の彼女でしょう?普通、しないんじゃない
ですか?﹂
﹁だから、彼氏面しないでって言ってるじゃない。あんたは女子か
らの誘いを断る為の理由付け、私はあんたの監視。そういう関係で
しょう?なのにどうしてそこまで怒られなきゃいけないのよ﹂
﹁それでも僕達は表面上彼氏彼女という立場だからです。あの状況
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をうちの学校の人が見たらどう思われるでしょうか?軽率だと、不
誠実だと言われるのは貴女のほうですよ、紗弓﹂
﹁っ⋮そ、それは⋮﹂
紗弓は眼を泳がせる。それは確かに考えないようにしていたリスク
のひとつだ。
しかしリスクを負わねば今の状況を打開できないと思った。そうい
った事が怖くて動けなかったら自分は1年近くも佐久間怜に振り回
される日々が続く。
それは、困るのだ。何故かは考えたくない。考えたら、認めたくな
いものを認めてしまいそうになるからだ。
﹁紗弓⋮。遊ぶ以外に何か目的があったんじゃないですか?⋮癪で
すが、僕とのつきあいに疲れて息抜きを求めていたのなら、貴女は
園田になど相談せず、同級生の友達と遊んだりするはずです﹂
ものすごい図星を刺されてしまった。確かに紗弓は自分から異性の
知り合いと遊びたいなどお願いするような人間ではない。いつの間
にこんな⋮自分を知られていたんだ、と心の中で驚いた。
怜はそんな狼狽する紗弓をじっと見て、形のよい目を細めた。そし
て彼女を計るように見る。
﹁もしかして⋮。あの男達の誰かと、個人的に﹁遊ぶ﹂つもりで園
田に頼んだのですか?それなら理解はできます。貴女がこんな⋮着
飾った格好をしている事も﹂
壁から手を離して、紗弓の唇に親指をつける。ぐっ、と力を込めて
彼女の唇を拭った。
﹁色つきリップ、ですか?貴女らしいですね。この唇で、男を口説
き落とすつもりだったんですか?﹂
淡々と怜が紗弓へ質問を畳み掛ける。
紗弓は目の前の男を殆ど気力で睨みながら頭の中で懸命に考えた。
佐久間怜は今すごく怒っている。正直、ここまで怒るとは思ってい
なかった。
自分だって女性に対してとてもだらしがないではないか。つきあっ
87
て欲しいと言ってくる女に次々と乗り換えるこの男の行動理念など、
紗弓はなにひとつ理解できない。
だが、逆に考えればこれはチャンスではないだろうか。こんなに怒
らせて、さらに彼を怒らせるような事を言えば怜は自分から興味を
失うかもしれない。この不安定な関係を切ってくるかもしれない。
呆れられてもいい、軽蔑されてもいい。紗弓はもうこれが意地なの
か、それとも別の理由で切にこの関係を止めたいと思っているのか、
自分でもよくわからなくなっていた。
すっと息を注いで、至近距離にいる怜を睨む。ぐっと拳に力を入れ
た。
﹁そ、⋮そう⋮よ﹂
ぴくり、と怜のこめかみが反応する。それを確認しながら紗弓は言
葉を続ける。
﹁あ、アンタとのつきあいに疲れたのよ。正直しんどいの。いっつ
も私を振り回して、勝手に予定を決め付けて⋮。だから⋮別の男子
と遊んでみて、仲良くなれたらって思ったのよ﹂
﹁⋮仲良く?貴女はそういう事を言う人とは思わなかったんですけ
どね﹂
﹁何が?と、とりあえずそういう事よ。私はあんたと話したりして
る時よりも、他の男子とかと遊んでるほうがずっと楽しいの。⋮だ
から、もう、いいでしょ?あんたは私じゃなくて、別の女子でも探
して︱︱ひゃっ⋮なに⋮っ!?﹂
紗弓が必死に捲くし立てていると、怜はスッと顔を近づけて、耳に
唇を寄せる。
はぁ、と彼の息がダイレクトに耳にかかり、紗弓は自然と肩をすく
ませた。
そして怜は︱︱。
﹁︱︱犯してやろうか﹂
88
舐めるように︱︱呟く。
同時に彼の手は紗弓の腕を掴み、腰に手を回した。
﹁んっ⋮な、何!?ちょっと⋮っ!﹂
﹁別に他の男でもいいなら、僕でも構わないでしょう?男の構造な
んて誰も同じですよ﹂
﹁意味がわからないんだけど!やめっ⋮きゃ!﹂
ちゅ、と耳の裏に唇がつけられる。路地の暗がりで紗弓と怜は密接
にもみあっていた。
彼の手がそろりと背中をなでられる。もう一方の手は紗弓の手首を
掴み、身動きを封じる。
もう片方の手でどんなに押しても、叩いても、一向に解かれない怜
の腕に、紗弓は必死で体をよじって抵抗した。
﹁考えてみればこれが一番早い方法ですよね。貴女が今誰に飼われ
ているのか⋮自覚させてあげます﹂
首筋をつぅ、と舐められて紗弓はくすぐったさと怖さで首を振る。
﹁やだっ!やめて!なんでこんな事するのよ。やだぁ!﹂
﹁どうせ初めてでもないくせに。貴女のカラダに一人男の痕が刻ま
れるだけですよ。どうせ他の男とも遊ぶつもりだったんでしょう?
なら一人増えたところでどうって事はないじゃないですか﹂
﹁えっ⋮!?﹂
何か今、ものすごい事を言われた気がする。とても、とても不名誉
な事を。
﹁ちょっとまっ⋮待って!待って⋮っ!⋮待ちなさいよこらぁ!﹂
ベシッと容赦なく怜の頭をはたく。彼の不埒な手はやっと止まって、
ものすごく機嫌の悪そうな顔で紗弓を睨んだ。
﹁何ですか?ああ、場所ですか⋮さすがにここでするのは面倒です
ね﹂
﹁ちがーう!そこじゃなくて⋮ああ、それも無視できない問題だけ
ど。⋮じゃなくて、私が初めてじゃないって⋮!?それって、あ、
アレ、のことを言ってるのよね?﹂
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﹁アレ?セックスのことですか?﹂
あけすけに言う彼に赤面しつつも紗弓はこく、と頷く。彼は﹁そう
ですが?﹂と胡乱な目で言った。
﹁っ⋮!わ、私。経験なんてないわよ⋮っ!あんたにこうやって触
られてるのだって初めてなんだから!人をそんな、あちこちで男と
そういうのシてるみたいに言わないでよ!﹂
はぁ?と怜は呆れたような顔をして彼女を見てくる。
﹁さっき男と遊ぶだの、仲良くしたいだの言ってたじゃないですか
?今更なにを⋮﹂
﹁はぁ!?それはあれよ、デートしたり、カラオケ行ったり、ゲー
センで遊んだりって意味よ。ってアンタはそんな風な解釈してたの
かっ!なんでもかんでもエロく脳内変換してるんじゃないわよバカ
ー!﹂
ぎゃーっと紗弓が腕を振り上げて怒るが、怜はそれでも人を疑った
ような顔をして睨んだあと、小さくため息をつく。
﹁はぁ⋮それで?解釈が違うから貴女は経験がないと﹂
﹁そうよ。全くびっくりしたわ、いきなりそんな事言うから⋮﹂
誤解が解けたと思って紗弓は安堵の息をつく。全く、自分をそんな
風に見ていたなんて、つくづく不名誉な見られ方をしていたものだ。
ちょっと腹も立ってくる。
しかし紗弓の思いとうらはらに、怜は呆れたような声を出し、斜に
構えて紗弓を見た。
﹁そういうの、もういいです。⋮はぁ、紗弓はそういった嘘はつか
ないと思っていましたが。やはり女性というのは皆同じなんですね
⋮﹂
明らかに落胆したような雰囲気に、紗弓は反応せざるを得ない。
﹁ちょ⋮どういうことよ﹂
﹁だからそういった、経験がないとか、初めてだとか。ついてすぐ
ばれるような嘘は不愉快なんですよ?別に僕は処女信仰というわけ
ではないのですから⋮むしろ、面倒そうなのでどちらかというと遠
90
慮したいと思う位なんです。だからそういう嘘はつく必要なんてあ
りませんよ?﹂
表情なく淡々と言う男に、紗弓は﹁こいつは何か多大なる誤解をし
ている!﹂と慌てて手を振って、彼の口を止めた。
﹁待って待って待ってー!﹂
ガッと彼の口に手のひらでフタをする。大人しく黙った怜に、紗弓
は自分の名誉の為に必死で言い募った。
﹁なんで嘘なんて決め付けるの!?酷すぎるわよそれ!だいたいア
ンタにそんな嘘ついてどうなるってのよ。意味がないじゃない﹂
﹁さぁ、僕にもそんな嘘をつく意味なんて理解できませんが。どう
やら、女性は﹁初めて﹂と言えば男は喜んでくれると思っているん
でしょうかね。僕は初めてだとか経験済とか興味がないですし、ど
ちらにしてもすぐばれるのだから、それならいちいち言わないでほ
しいと思います﹂
﹁な、なんですぐばれるの⋮?﹂
﹁見ればだいたいわかりますよ。あと、入れれば殆ど確実にわかり
ます﹂
どこを?何を?と思ったけれど、彼の呆れたような雰囲気に呑まれ
て詳しく聞けない。
紗弓がだまっていると、彼も紗弓に手を出す気がそがれたのか、彼
女を置いて一人路地を出ようとする。
慌てて紗弓は怜の後ろ姿に声を上げた。
﹁ちょっと!話がまだ終わってないんだけど!?﹂
﹁終わりましたよ。先程は苛立ってつい。⋮失礼しました。本気で
貴女をどうにかしようなんて思っていませんよ。⋮ただ、僕は今貴
女と別れてしまうと、その後の対応が非常に面倒なんです。だから
申し訳ありませんがもう少しつきあってくださいね?僕が卒業した
ら改めて、男を作るなり、セフレを作るなり好きにしてください﹂
﹁待てーーーー!!﹂
ガシッと怜の服のすそを掴む。引きずられるように紗弓は路地から
91
出た。
﹁全く私の誤解が解けてない!あんた、私のことまだその、し、し
たことあるって思ってるでしょう?﹂
﹁まだ言いますか?そんな必死に嘘を並べなくても僕は貴女に手を
出す気はないって⋮﹂
﹁そうじゃないっ!私の名誉の問題なのよこれは。あんたにこれか
ら1年、ずっと﹁そういう女﹂だって誤解され続けるのが腹立つの
!いいこと?私はしてない。したことない。む、胸だってあんたに
触られたのが初めてなのよ!ああ、思い出したらむかつく!このセ
クハラ男!﹂
﹁わかりました、すみませんでした。⋮これでいいでしょう?不愉
快ですからもうこの話は終わりにしましょう﹂
絶対にこの男はわかっていない。紗弓は確信した。なぜか理由は分
からないけれど、佐久間怜という男は女性に対してものすごい猜疑
心を持っている。女性不信と言ってもいいくらい、彼は人の言うこ
とを信じようとしない。
何があったのか、何が彼をこうしたのか。その疑問は浮かぶけれど、
目下問題は紗弓の貞操に関する不名誉な誤解だ。﹁遊んでる女﹂な
んて思われながら彼と1年過ごすなど、屈辱で耐えれるわけがない。
どうすれば誤解が解けるのか。彼は﹁見ればわかる﹂と言っていた。
何を見せれば分かるのか。それは判らないけれど、それを確認させ
ないことには彼の誤解は解けないと紗弓は思う。
話は終わったと。紗弓に興味をなくしたように歩き出す怜の背中に、
紗弓は言った。
﹁み⋮みたら、いいじゃない﹂
ぴたり、と彼の足が止まって、軽く紗弓へ振り返る。その表情に色
は、無い。
﹁みれば⋮わかるんでしょう?なら、見たらいいじゃないのよ﹂
﹁⋮何言ってるか分かってるんですか?ご自分で﹂
﹁うるさいわね!あんたは見れば判るって言ったじゃない!だから
92
確認したら、って言ってるのよ。その代わり、私が言ってることが
本当だったら、全力で謝ってよ。私のことバカにしたんだから。し
っかりその頭を下げて、ごめんなさいって謝るのよ!﹂
ビシッと怜に向かって指を指す。
彼はそれを表情のない顔で受け止め、ゆるく首を傾げた。
﹁ふぅん?⋮そこまで言うのでしたら、見せて貰いましょうか。こ
こでは確認しづらいですし、場所を変えましょう﹂
すたすたと彼は歩いていく。
紗弓はコンパスの長い彼の足についていくように小走りで走ってい
った。
93
9.なにがどうしてこうなって?
﹁こっ⋮ここは!﹂
がーん、と紗弓が立ちつくす。駐車場の出入り口にはヒラヒラとし
た幕のようなものが垂れ下がって、見た目がお城のような白い建物。
パネル部分に休憩と宿泊の値段が書いてある。そこは。
﹁ら、らぶ⋮ほ⋮とかいうとこ⋮?﹂
﹁何してるんですか?入り口はこちらですよ﹂
入り口は背の高い壁のようなもので目隠しされていて、迂回しなが
ら怜は事も無げにすたすたと入っていく。
こんな所に入って何をするつもりだ!と思う。
何より、紗弓にとってここは﹁高校生にあるまじきすぎる所﹂だ。
自然と尻込みをする。逃げたい。すごく逃げたい。だけどここで逃
げたらもう彼の誤解を解くことはできない。
どうしようどうしよう、と頭がぐるぐると回り、ふらりとよろけそ
うになる。
風紀委員としての矜持と、自分の名誉の問題。どちらが大事なのか、
どちらを優先するべきなのか。
ぐっ、とポシェットの紐を掴む。ごく、と喉を鳴らして覚悟を決め
る。
紗弓は震える足で入り口に入っていった。
中は小洒落たエントランスになっている。壁などは殆どが白で統一
されていて、床には赤い絨毯が伸び、怜の立つ所の壁には大きなパ
ネルがあって色々な部屋の写真が蛍光灯に光っていた。
﹁なに⋮?これ﹂
﹁知らないんですか?ボタンを押して部屋を決めるんです﹂
ぽち、と彼がボタンを押すと電子的な声が流れてくる。どうやら押
したボタンのところに行けという事らしい。
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そういえば辺りを見渡しても従業員らしい人が一人として見当たら
ない。
こういうものなのか⋮と思いながら紗弓は恐る恐る彼の後をついて
いき、エレベータに乗る。
目的の部屋にはすでに鍵がかかっている様子はなく、彼が開けるの
を待ってから中へ入っていく。
﹁わ⋮﹂
思わずあたりを見渡して、紗弓は驚いた。
何というか、少女趣味ともいえるほど可愛い部屋だ。小さいお城の
ような建物だと思っていたが、中も同じようにお城の中のよう。
よく見れば凹凸のありそうな壁はすべて壁紙で、どことなくチープ
な感じもするが、ふわふわの絨毯は歩いていて気持ちがいいし、大
きなテレビやふかふかしてそうな二人用のソファなどもある。
あまり見ないように意識はしているがこの部屋の目的を強調するよ
うにやたら大きなベッドがあって、それもふかふかとしていそうだ
った。
紗弓は自然とあたりをきょろきょろして、バスルームなどもドアを
開けて拝見してみる。
﹁わぁ!テレビが!お風呂にテレビがあるわ!﹂
そんなバスルーム初めて見た。それに風呂も大きいし、並ぶボタン
を見ればジャグジーも楽しめる感じだった。
﹁へぇ、すごい⋮ん?なにこの風呂椅子﹂
妙な形のしているイスに首をかしげる。さらに見渡すと、シャンプ
ーなどの並ぶところには用途不明の液体も並んでいる。
ハッとしてこの施設そのものの目的を思い出す。そこはあまり深く
考えないようにしようと紗弓の危機センサーが反応して思考にフタ
をした。
バスルームから部屋に戻ると怜はすでに備え付けのソファに座って
いて、つまらなさそうに紗弓を出迎える。
﹁堪能しましたか?﹂
95
﹁わ、悪かったわよ⋮﹂
決まり悪げにソファまで歩いていき、紗弓は拗ねたように髪を弄っ
た。
﹁さて、それでは時間もないですからさっさと見せて下さい﹂
﹁そ、それなんだけど。何を見せたら⋮いいの?﹂
恥をしのんで聞いてみると、彼は﹁はぁ?﹂といった呆れた顔をし
た。
﹁そこから説明させるんですか?芸が凝ってますね﹂
﹁凝ってないわよ!いいから説明しなさい!もうこの問答も嫌だけ
どわかんないものはしょうがないじゃない!﹂
怜は軽くため息をつくと、す、と指を指した。
﹁そこ﹂
﹁そ、そこ?﹂
﹁⋮そう、ここ﹂
紗弓の下半身を指していた彼は、腕を伸ばして紗弓の秘所あたりを
つん、とつつく。
﹁!!!!﹂
バッと紗弓は彼から離れ、怜につかれたところを手で押さえて隠す。
みるみると顔が赤くなって、紗弓は混乱した。
﹁えっ⋮ここって⋮え?ここ⋮?どうやっ⋮て⋮見せる⋮の?﹂
﹁普通に下着を脱いで、僕に見えるように足を開けばいいですよ?﹂
﹁なぁっ!!!﹂
なんだそれは。全く聞いていない。聞いていなかったから当たり前
か。
しかし想像外だ。想定外だ。どうしてこんな所を、自分でもそうま
じまじと見るような所でもないところを、こんな、出会ってまだ数
週間という男に見せなければならないのか。
紗弓の顔が羞恥と怒りで真っ赤になっていく。わなわなと拳を震え
させて声を上げた。
﹁なんっでそんな所アンタに見せなきゃいけないのよぉぉー!!﹂
96
どかーん、と紗弓の頭が噴火した。
しかしその流れそうなマグマは絶対零度のような怜の声で瞬時に固
まる。
﹁別に僕は見たいという訳ではありません。貴女が見せたいという
からここに連れてきたんです﹂
﹁⋮っ!﹂
ぴきっと紗弓のこめかみに青筋が入るが、確かにそんな事を言った
のは紗弓のほうだ。
思わず黙り、唇を噛む。
そんな事言われても、できない。そんな恥ずかしいマネはできない。
泣きそうになりながら紗弓は力なくベッドへ近づき、すとんと座っ
た。顔を俯かせて床を見る。
﹁休憩時間は2時間ですからね﹂
ぽつりとそう言うと、怜は慣れたようにリモコンを取り出し、テレ
ビを見始めた。
最初の30分は葛藤した。次の30分は落ち込んだ。
︱︱本当に、どうしてこんな事になったのだろう。
最初はただ風紀委員の義務かな、と軽い気持ちで話を受けた。
でも彼の優しさや自然なスキンシップが心に悪くて、音を上げた。
関係を止めたいと思って彼から切られる事を期待し、とりあえず別
の男と仲良くなってみようと今日皆で遊ぶ約束をした。
なのに見つかってしまって。更に怒られそうな事を言ってみたら襲
われそうになって。
挙句怜に﹁初めてでもないくせに﹂と、紗弓の貞操の潔白を全く信
じようとしない。
それが悔しくて、腹立たしくて、耐えられなくて、見たらいいと啖
呵を切った。
⋮そして今、ここにいる。
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紗弓は静かに立ち上がった。
ちら、と怜を見てみれば、彼はずっとテレビを見ているようだった
ので、静かにキュロットを脱ぎ、畳む。下着を外して、少し悩んだ
後にポシェットに畳んで入れた。
︱︱本当に、何をやってるんだろう、私︱︱。
泣きそうになった。でもこれからの事を考えると、何もないままで
終わってしまえば後の学校生活が全く想像できない。
こんな気持ちで日々を過ごすなんて、あいつに振り回されていた日
々より、嫌だ。
﹁い、⋮いいわよ。み、見たら⋮﹂
か細い声でそう声をかけると、怜はぷちりとリモコンで電源を落と
し、立ち上がってから振り返る。
ニットボレロなどは着たままで下だけ何もない。彼女の白い太もも
が露になっていた。
ベッドに座ったまま紗弓は膝を寄せて手で前を隠したまま、キッと
怜を見上げて睨んだ。
彼は軽く片眉を上げる。
﹁では足を開けて、ベッドに乗せて。そうでないと見えません﹂
﹁⋮っ﹂
まるで屈辱だ。紗弓は悔しそうな顔をしながら足をベッドに上げて、
軽く膝を開ける。
途端に露になる彼女の秘所。
それを無感動な目で一瞥して、怜は近づき、ベッド脇の床へ膝をつ
けると紗弓のそこを至近距離で見た。
紗弓の方からは彼は頭しか見えない。
一体何をしているのだろう。紗弓の中心を観察しているようにも思
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える。
そんなところをまじまじと見ないで、と紗弓は目をぎゅっと閉じて
羞恥に耐える。
つぅ、と彼の指が中心部分をなぞった。その瞬間、紗弓の体がびく
っと反応する。
﹁⋮っ!!﹂
思わず声が出そうになったが慌てて自分の手で口を塞いだ。
つい、つい、と線をなぞるように怜は彼女の中心部分を上へ、下へ
往復するようになぞる。
﹁⋮閉じてますね﹂
ぼそ、と呟いたかと思うとぐっと両手の親指を左右に乗せて、紗弓
の花を開いた。
下腹部に冷たい風のようなものを感じる。
彼は花弁の部分をなぞり、何かを確認するように何度も触る。時々
こするように触られて、紗弓はその度にびくびくと肩を揺らすが、
必死で声を出さないように耐えた。
塞いだ手はいつのまにか腕になっていて、服を噛むように歯で挟ん
で声を殺す。
﹁ん⋮本当に、使ってない感じがしますね。色が⋮。もしかして紗
弓、自慰もしてないんですか?﹂
﹁じ、じいってなに⋮?﹂
﹁自分でここを触ったり、擦ったりしたことは?﹂
﹁お風呂で洗うくらいしか、触る機会ないじゃないのよ⋮っ!﹂
はぁっと息を吐いて、怒り出す。お願いだから早く終わらせてほし
い。
彼はふぅんと相槌を打った後﹁それはそれで不健康な話ですね﹂と
呟いて、再び紗弓の花を開き、花芯の部分を浮きだたせるように指
で摘んだ。
﹁ッ⋮!!!﹂
背中に電気でも走ったのかと思った。紗弓は再び腕の服を噛んで声
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を殺す。
まだ、まだ終わらないのか。しかも今のは何かおかしかった。体が
びくびくと勝手に動いて、何故かとても声が出そうになる。紗弓は
いつの間にか体育座りのような状態で膝に顔を隠し、服を噛んで震
える。
﹁皮が被ってますね。へぇ、初めて見ました。こんな風になってる
んですね﹂
感心したように怜は言う。
﹁かわ⋮?ね、ねぇ、もういいでしょ?わかっ⋮たでしょ?もうい
い⋮?﹂
﹁まだですよ?﹂
何言ってるんですか?と言わんばかりに怜は紗弓の懇願を裏切り、
再び紗弓の中心部分に指を這わせる。
こちょこちょとくすぐるように触ってくるので、何かとても泣きそ
うになった。
﹁⋮っ⋮っ!﹂
お願い、早く終わって。何をしているのかさっぱりわからない。
しばらく怜は紗弓の花弁を弄っていたようだったが、ふいに﹁濡れ
ないですね﹂と呟いた。
﹁え、ぬれ⋮?﹂
﹁濡れにくい体質ですか?不便な体ですね⋮﹂
何かとても馬鹿にされた気がする。紗弓はムカッとしたが、次の彼
の行動に全く違う声が出た。
﹁んぁ⋮っ!な、なにを⋮っ!?﹂
﹁濡れないなら、舐めるしかないでしょう?ローションを取ってく
るのも面倒ですから﹂
怜はあろうことか、紗弓の太ももに両手を置いて秘所を舐め始めた
のだ。
無理矢理唾液で濡らすように彼は何度も紗弓のそこを舐め、花弁の
ナカに舌を差し込む。
100
そこだけを舐められているにも関わらず、彼女の全身がざわつく。
まるで体中を舐められているような感覚になり、紗弓は息をも殺す
ように服を噛み、声を殺した。
何だかすごく、声を出すのが屈辱的に思うのだ。声を出したら負け
る気がする。
何故ならこの行為は何もない。ただ、紗弓の貞操を信じてもらう為、
彼はそれを確かめる為にやっていて、何の感情もそこにはないはず
なのだ。
だから声を出したくない。僅かな性知識にあるようなはしたない声
を出したくない。
それでも、それでも、服を噛むだけでは耐えられなくて紗弓の眦に
涙がにじんだ。
怜は感情なくそこを作業のように舐め続ける。舌を差込み、ナカを
刺激すれば濡れにくい彼女でも少しずつ蜜が出てきて潤ってくる。
本当に濡れにくいカラダ。これだと性行為の時、なんて面倒そうな
んだろうと怜は思った。
前戯に時間をかけるなんて時間の無駄だ。指で擦ればすぐにでも淫
らに蜜を流しだす女性のほうがずっと簡単でやりやすい。
そんな風に思いながら、チラ、と怜は顔を上げ、少しだけ目を見開
いた。
紗弓はぎゅっと目を瞑ったまま羞恥に顔を赤らめ、必死に声を出す
まいと耐えている。
腕部分の服を噛み、一言も漏らすものかと意地になっているような
その表情。
その顔を見て、やっと怜は理解した。
紗弓は慣れていない。初めての感覚に、羞恥と屈辱で声を出すまい
と我慢しているのだ。
濡れにくいのは体質ではない。感じまいと耐えているから︱︱。
隠唇の色を見た時からやはり初めてなのだろうか、と思った。陰核
101
が皮に包まれていた時、本当にここを触ったことがないのだと思っ
た。
それでも怜が行為をやめることなく、しかも舐め始めたのは自分自
身どうしてなのだろうと思う。
好奇心、興味本位?とりえあず挿れてみようと思ったのか。
ぺろり、と下から上までゆっくりと舐めてみる。
びくびくと紗弓の肩が反応し、涙をにじませながら目を瞑って、ギ
リ、と服を噛む唇が震える。
何故かとても︱︱とても、腹が立った。
どうして服を噛む?今すぐにでも腕を取って拘束し、声を上げさせ
たい。
はしたなく淫らに嬌声を上げさせて、その煩く啼く口を、この唇で
塞いでしまいたい。
暴力のように紗弓を感じさせてしまいたくなる。
躍起になるように、怜は紗弓の中心を丁寧に舐め始めた。濡れさせ
る為に、なんて作業的なものではなく、感じさせる為に、我慢など
できないように。
声を上げろ、と思いながら舌を使って皮を剥き、顔を出した花芯を
吸う。ちゅっと音が鳴って、紗弓の体が感電したようにびくりと跳
ねた。
﹁⋮はぁ⋮。⋮ッ⋮!!﹂
一度だけ色のついた息を吐くが、まだ耐える。紗弓の意地は本物だ。
結局声らしいものを出したのはそれだけで、知らず怜は舌打ちをす
る。埒が明かないなとやっと舌で攻めるのを止め、体を起こし、彼
女の座るベッドに手をついた。
チッ、と小さな舌打ちが聞こえる。
え、と紗弓が顔を上げると、怜が立ち上がってベッドに手をつくと
ころだった。
﹁な⋮なに⋮?﹂
102
﹁最後の確認ですよ﹂
片膝をベッドに乗せ、ベッドについていないほうの手を秘所に滑ら
せる。
﹁⋮っ!!﹂
びくり、と紗弓の肩が揺れる。思わずまた目を瞑ってしまって、彼
の表情を見ることはできない。
しばらく撫でるように中指で秘所をなぞっていた指は、突如彼女の
ナカへ押し込まれていく。
﹁んっ⋮んんー!﹂
何がどうなっているのか分からない。とりあえず指が、怜の指が紗
弓の腹の中をまさぐるように入っているのはわかる。そこはそもそ
も指を入れるところなのか?義務教育の保健体育では何が入るって
言っていたんだっけ。たしかそこは子供を作るための場所で、パパ
と、ママが︱︱。
ぐにゅ、と指がナカを掻くように動く。
紗弓は何も考えられなくなった。
はぁ、はぁ、と荒い息を吐いて衝動を逃がす。声なんて絶対出した
くないが、息はしないと死んでしまう。
その息すらそっとか細く、隠すように紗弓は息を継ぐ。
怜はずっと無言で、指だけが淫らに動いている。彼はどんな顔をし
て自分を見ているのだろうと紗弓は思うが、同時に見たくないと思
う。今日、殆ど彼の笑顔を見ていない。
いつも笑っていて、優しくて、誤解してしまうくらいおかしそうに
からかってくるのに、今日は自分のせいだけどすごく機嫌が悪くて
無表情で。
そんな顔をして淡々と紗弓を弄っているのだと思うと悲しくて堪ら
ない。
はやく、早く終わって。
紗弓がそう願っていると、それに応えるように怜はその指を奥へ突
き、ぎりぎりまで指を抜いて、また突いた。擦るように指を抜き差
103
しする。
﹁いた⋮あっ⋮!痛い⋮っ!﹂
彼が指でこするたびにナカが痛い。傷口を擦った時みたいにひりひ
りとする。
耐えるとは別に痛覚で涙がにじんで、それは止めることができず、
ぽろりと一筋涙が流れた。
﹁⋮紗弓﹂
息を吐くように名前を呼ばれ、うっすらと紗弓は目を開ける。
目の前には至近距離に怜がいて、彼の中指には血がついていた。思
わず目が見開く。
﹁ち、血がっ!!﹂
﹁はい、血ですね﹂
﹁ですね、じゃないわよ!道理ですごい痛いって思った!酷い!も
うすっごい痛かったのよ!こんなとこ血が出たらどうするのよ!な、
軟膏とか塗ったらいいの⋮っ!?﹂
出血に紗弓が慌てて秘所に指を当てる。まるで生理になった時のよ
うに少量の血がベッドカバーを汚していた。
﹁別に怪我ではないので薬を塗る必要はありませんよ。処女膜が裂
けただけです。⋮まぁ、僕も見るのは初めてですが﹂
まじまじと怜は自分の指につく血を眺める。
確かに、暫くティッシュで秘所を抑えていたら血は止まり、再び出
てくるような事はなくなった。
はぁ⋮と紗弓は息を吐く。処女膜というのはよくわからないが、と
もあれ怪我ではなくてよかった。
そして当初の目的を思い出して、ジト目で紗弓は怜を睨む。
﹁⋮⋮で、どうなのよ。⋮わかったの?﹂
彼はその言葉に指から紗弓へ視線を変え、軽く頷く。
﹁はい。紗弓、貴女は本当に初めてで、性行為の経験がない方だっ
たのですね﹂
﹁そうよっ⋮!だから何度も言ったじゃない!なのに佐久間は全然
104
信じなくてっ!ほら謝って、誠心誠意謝りなさいよー!﹂
むぎゃー!と紗弓が腕を上げて怒ると、怜は素直に床に正座をつい
た。
ものすごく神妙な顔をするので、紗弓も思わず腕を下ろしてしまう。
﹁はい。すみませんでした。僕は紗弓を誤解していたみたいですね。
こんな方法で確認させてしまって、申し訳なく思っています﹂
ぺこり、と頭を下げられた。
あまりに素直な謝罪に、さすがの紗弓も怒りの気持ちを削がれてし
まう。
﹁わ、わかれば⋮いいのよ﹂
﹁でも紗弓?それならそれで僕には理解ができません。どうして今
日あんな⋮園田の友達と遊ぶような事をしていたんですか?そんな
に僕という人間が嫌になったんですか?﹂
﹁う、そ、それは⋮﹂
ここまで来るともう、偽りを口にするのもバカらしくなってきた。
紗弓は素直に気持ちを言おうと思う。それで嫌われてしまったらそ
れはそれで、いい。
﹁佐久間とのつきあいに疲れてたっていうのは本当。⋮だって佐久
間は、優しくて親切で、私の事からかったりするけど、それって嘘
なんでしょう?栞ちゃんが言ってたわ。佐久間の優しさには心がな
いって﹂
﹁心⋮?よくわかりませんが、優しくしたり親切にするだけでは不
満だったのですか?﹂
﹁⋮違うわよ。不満じゃないわ。むしろやめてほしかったの。私と
佐久間はお互いに目的を持った間柄でしょ?もっと事務的に⋮なん
ていうの?あんまり、優しくして欲しくなかったのよ﹂
怜は黙って聞いている。
しかしあまり理解ができていないような感じはする。どういえば分
かってもらえるのかなぁと思いながら紗弓は言葉を続けた。
﹁佐久間が優しくすると、何だか落ち着かなくて、それでなくても
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佐久間は時々私のこと触ったりしてくるし⋮あれもいつやられるか
って気が気じゃなくて。そんなだからね。私、別の男の人を好きに
なったり、恋人になったりしたら佐久間は私との関係を断ってくれ
るんじゃないかって思ったのよ﹂
﹁ああ⋮そういう事ですか。やっと納得がいきました﹂
ようやく怜は立ち上がって、ベッドに座る。長い足を組み、両手を
ベッドについた。
それを横目で見ながら紗弓は決まり悪げに呟く。
﹁結局、あのまま佐久間に見つからなくても、きっと何も起きなか
ったと思うけどね。普通に遊んでただけだし⋮でも、何かしておか
ないとって思ったのよ。佐久間とこの関係を続けてたら、私⋮⋮﹂
そこまで言って、はっと口を抑える。
今自分は何を言おうとした?それは言ってはいけない。咄嗟にそう
思った。
しかし怜は怜で何か考え事をしていたらしく、紗弓の言葉の続きを
聞いてこようとはしない。少しほっとして紗弓は横目で彼を見た。
怜は少し悩むような感じで唇に指を添えた後、紗弓の方へ顔を向け
る。
﹁そんなに⋮。そんなに、偽りでも僕が彼氏というのは嫌ですか?
耐えられないほどに﹂
﹁⋮⋮そ、そこまでって訳じゃないわ。だけど⋮佐久間は何とも思
わないの?私が彼女ってこと。しかも嘘だってこと。それならちゃ
んと好きな人を作って真面目につきあったらいいじゃない⋮﹂
﹁それができないから、紗弓に提案したんですよ?﹂
え、と紗弓は目を開く。思わず眼鏡が下へずれた。
﹁どういう、事?﹂
﹁⋮僕は、人を愛したり、好きになったり、というのがよくわから
ないんです。どうやったら他人って好きになるんでしょうね⋮好き
になったらどんな風に思い、感じるのでしょうか﹂
﹁え⋮ええー⋮?ま、ママは、こう⋮ビビッと来た、って言ってた
106
わよ?﹂
﹁ビビッと?﹂
そう、と頷いて。紗弓は頭から電気を飛ばすように手を動かしてジ
ェスチャーをした。
ふぅん、と怜は考え込むように拳を顎につける。﹁考える人﹂のよ
うな格好だ。
﹁佐久間、あんた⋮何を考えてずっと女の子とつきあってたの?好
きじゃなかったの?﹂
﹁好きではありませんでしたよ。つきあってくれと言われたからつ
きあってただけです。⋮いえ、僕のことはいいでしょう?今は紗弓
の話です。⋮それなら、僕がむやみに触れたり、必要以上に優しく
しなければ大丈夫ということですか?﹂
少し真面目に聞かれて、紗弓は考えた。
しばらく考えて、うん、と頷く。
﹁そうね。普通に友達みたいにつきあってくれたら大丈夫、かも﹂
﹁なら、僕もそうできるように努力します。だから紗弓も⋮もうこ
んな、隠れて男と会うようなことはしないでくださいね。⋮来年の
3月まで、ですから﹂
﹁⋮わかったわ﹂
素直に頷く。別にこういった事態でもなければ自分から男と遊びた
いと思うことはないだろう。
そこまで話し終えてからやっと紗弓は自分の状況に気がついた。
はっと顔を赤くして、キュロットで前を隠す。
﹁あ、あの⋮履く、から。後ろ向いててくれる⋮?﹂
﹁ああ⋮。わかりました﹂
くるりと怜は後ろを向いた。それを確認して、紗弓はポシェットか
ら下着を出して履き、キュロットを履く。
裾を直しているとぽつりと怜が聞いてきた。
﹁さっき、貴女は怒って僕に見せるといいましたが⋮﹂
107
﹁も、もういいわよ。ちゃんと分かってもらえたんだし⋮﹂
﹁いえ。そうではなくて⋮それは、僕でなくても、例えば今日の男
でも⋮同じようなことを言われていたら、貴女はこうやって見せた
のですか?﹂
﹁え⋮?﹂
顔を上げて怜を見る。彼は後ろを向いていて、表情は見えない。
しかし先程のやりとりを全て思い出した紗弓はかぁっと顔を赤らめ
て口早に答える。
﹁み、見せるわけないでしょう!これはあの⋮だって、佐久間と私
は同じ学校だし、関係を切らないっていうのならまた毎日のように
会うでしょうし⋮そ、そうじゃなきゃ、こんなとこ見せないわよっ
!﹂
﹁⋮そうですか﹂
妙に感情のない声で言う。それが気になって紗弓は半眼で怜の背中
を見ながら唇を尖らせた。
﹁何よ﹂
﹁いえ。忠告ですが、他の男性には見せてはいけませんよ?触らせ
るのもよろしくないですね﹂
﹁当たり前よー!もう絶対見せないし、触らせなんてしないわよ!
もう私のこと何だと思ってるのよ!バカバカ!﹂
﹁ふふっ⋮そうですか。良かった⋮﹂
背中越しだが、彼が少し笑ったのを聞いて紗弓は心がほんのり温か
くなる。
ようやく彼の調子が戻ったようだと思って﹁こっち向いていいわよ﹂
と声をかける。
大人しく振り向いた怜は紗弓の姿を見てにっこりと頷いた。
﹁言い忘れていましたが、とても可愛らしいですよ。その姿。良か
ったら僕とのデートの時もそれくらい気合を入れてくださいね﹂
﹁デートの話は続行だったの!?﹂
﹁ええ、それくらいいいじゃないですか。つきあってくださいよ?
108
それでは八雲に連絡しましようか。きっと園田達と一緒にいるでし
ょう﹂
﹁あ!園田先輩からメールきてる!うわ⋮すごい心配されてる。メ
ール返さなきゃ﹂
﹁どちらにしても今からあちらに行くでしょう⋮ああ、八雲?こち
らは終わりました。⋮ええ、はい。はい、気を使わせてしまいまし
たね。申し訳ありません。⋮はい、では紗弓とそちらに向かいます﹂
ぷち、と彼は通話を切り、ポケットに仕舞う。
メールを返信しながら紗弓も帰る身支度をした。
﹁光国先輩、なんて?﹂
﹁大通りにあるカフェショップにいるそうですよ。皆まだ揃ってい
るようですから、いきましょう﹂
﹁うん、⋮謝らないとね﹂
いきなりゲームセンターで怜から逃げ出したのだ。簡単な事情は園
田から聞いたかもしれないが、一言謝るべきだろう。
怜についていくように、紗弓は部屋を後にした。
109
10.淫らな夢のはじまり
﹁あっ⋮んん⋮っ⋮はぁ⋮﹂
甘い、甘い声。
女から発せられる色づいた声は音楽のように奏でられ、自分の耳を
酔わせる。
相手の女が啼く声なんて興味がなかった。それなのにどうしてこの
声は自分を酷く官能的にさせるのだろう。
じゅる、と音を立てて秘所を舐め、蜜を吸う。
蜜を自分の唾液へ交換するように自らの体液をそこに刷り込み、彼
女の花はとろとろと潤っていく。
﹁ひゃっ⋮う、う⋮ん⋮っ﹂
指を使って花弁を割り、花芯を摘む。一番敏感なそこを優しく擦ら
れて彼女は大きく体をしならせて声を上げた。白くなめらかな太股
をやわりと撫でると小さく﹁くすぐったい﹂と呟く。
ならば、と彼女の胸を軟く掴んだ。着やせする大きめの胸は、長身
の自分に相応した大きな手のひらにぴったりと収まり、少し力を込
めれば思い通りに形をくにゃりとかえる。
女は胸の刺激にも敏感で、自分の指に、舌に、ひとつひとつ反応し
てくれる。それがとても嬉しくて︱︱夢中になってその胸を揉み、
花弁を弄る。
きもちいい?と聞けばきもちいいと返してくる。
前戯なんて時間の無駄だと思っていたのに、彼女の嬉しそうな顔が
自分のなにかを満たしていく。
もっと、もっと見たい。感じさせたい。
名前を呼んで、と囁いたら﹁怜﹂と呼んでくれて。
嬉しい。もっと自分の名を呼んで、その甘くて色づいた声で俺の名
前を呼んで。
怜、れい。うん、もっと、もっとだよ?たくさん呼んで。
110
﹁紗弓﹂
ふ、と目が覚めた。
ゆっくりと目を閉じ、再び開ける。
怜は手をふらふらとさ迷わせ、携帯電話を取って見てみれば午前6
時10分。
本来起きる時間より少し早い目覚めだったが、かといって2度寝で
きるような時間ではない。
むくりと起き上がる。頭を振って、目を覚ます。
手早く布団を片付けて制服に着替え、鞄の中身を確認してから部屋
を軽く掃除する。
からりと襖を開ければ縁側から明るい日差しが見えた。
洗面所で歯を磨き、顔を洗う。髪に櫛を入れて整えて、ネクタイが
曲がっていないか等の身だしなみを軽くチェックする。
確認を終えてから彼は静かに居間へと向かった。
﹁おはようございます﹂
にっこりと笑って一言挨拶をすると、すでに居間の座卓には年を取
った老年の男性が一人新聞を読んでいて、怜の姿を見ると軽く頷く。
﹁おはよう﹂
そして短く返事をする。いつもの朝の挨拶だ。
怜が座卓に正座をし、鞄から本を取り出して読んでいると台所から
盆を持った老年の女性が現れた。
﹁あら、おはよう。今日は少し早いのね﹂
﹁おはようございます﹂
本を降ろして女性に向かって頭を下げる。女性は﹁じゃあ私の分、
そちらに回すわね﹂と焼き魚を怜と男の前に置いた。
次々に怜の前に置かれる朝食。
ごはん、豆腐の味噌汁、塩サバ、出し巻き卵。真ん中には白菜の浅
111
漬けときゅうりの糠漬け。
いただきますと口にして、手早く朝食を食べる。
そこに会話はない。女性は自分の魚を焼きに行っているし、男は滅
多に喋らない。
テレビをつける習慣もないので、ただ二人の男が咀嚼する音だけが
静かに響く。
﹁⋮ごちそうさまでした﹂
﹁丁度良かったわ。はい、怜ちゃん、お茶よ﹂
タイミング良く現れた女性はことりと怜の前に湯のみを置く。﹁あ
りがとうございます﹂と礼を言ってから彼はずず、と緑茶を啜った。
﹁そういえば、最近帰るのが早いけど、生徒会のお役目が落ち着い
てきたの?﹂
﹁⋮そうですね。帰りはもっと遅いほうが良いですか?﹂
﹁そんな事ないわよ。遅いよりもずっといいわ?⋮でも、それなら
お夕飯の時間、すこし早めてもかまわないかしら﹂
﹁はい。もし遅くなるようでしたらご連絡します﹂
人受けしそうな穏やかな微笑を浮かべて、優しい口調で女性と話す。
会話を終えてから怜は緑茶を飲み干し、礼を言ってから食器を持っ
て立ち上がる。
台所で食器を洗い、拭いて棚へ返していく。
全てを片付け終えると彼は居間に戻り、鞄を持った。
﹁それでは茂雄さん、友香さん、行ってまいります﹂
﹁いってらっしゃい﹂
友香という女性は笑って手を振り、重雄という男は新聞から少し目
を外して小さく頷いた。
いつもより少し早い朝の商店街を駅に向かって歩いていく。
電車を待つ為にベンチに座っていると、時々ちらちらと女性がこち
らを見て、歩いていく。
人の目も、知らない女性に声をかけられるのも、慣れた。一番嫌な
112
のは勝手に写真を撮られる事。だがそれすらも、注意するほどでは
ない。
ぼうっと目の前の情景を見て、ふと今日の夢を思い出す。
自分は今日、夢の中で紗弓を抱いていた。
現実で女を抱いているような感じではない。それはとても幸せで、
なにかが満たされたような、初めて自分が幸せになったような、不
思議な夢だった。
本来の彼女はそうではない。怜が彼女を抱こうとすれば、彼女はき
っと嫌がるだろうし、甘い雰囲気になどならないだろう。
ならばあれは自分の願望なのだろうか。自分は紗弓とああなりたい
と思っているのだろうか。
佐久間怜は、自分の気持ちや心がよくわからない人間だった。
何でも客観的に見てしまう。自分の心でさえも、他人事のように考
えてしまう。
だからわからない。自分の感情が、願望の先が見えない。
やがて電車が来て、それに乗る。つり革を掴み、車窓から外を見な
がらまたも彼は紗弓のことを考える。
真城紗弓。
元気で明るくて、仕事熱心で、食べ物に弱くて、お人よしな、犬み
たいな女の子。
男を知らなくて、慣れていなくて、怜の行動に戸惑い、困り果て、
彼女なりに策を弄して先日園田の友人達に会っていた。
それはいい。もう解決した事だ。﹁あの後﹂紗弓と共にカフェショ
ップに向かって二人は謝った。
皆はすでに園田から真実を伏せた無難な説明をうけていたようで、
恋人同士の些細な小競り合いだと思っていたらしく、笑って流して
くれた。
﹁こんなイケメン彼氏にしといて喧嘩するなんて勿体ないよさゆち
113
ゃん!﹂と言って彼女の友達がバシバシと紗弓の背中を叩いた時、
紗弓はとても複雑そうな顔をして笑っていた。
紗弓。
そのナカに男を入れたことがない、経験のない女。
あの時、怜は聞いた。別の男でもそこを見せるのか、と。彼女は真
っ赤な顔をして怒り出した。
ならば、自分なら良かったの?
自分だから見せたの?触っても良かったの?
思わず、他の男には見せるなと、触らせるなと注意したら紗弓は絶
対しないと約束した。
それを聞いて怜はとても満足する。
つい先程まで自分は処女信仰ではないし、処女は面倒だと思ってい
た。痛がると、血が流れると聞いた事があるし、何より妙な責任を
負うのも嫌だった。処女は重い女だと思っていたのだ。
なのに、怜は指についた血を見た時、今までない程の充足感を感じ
た。
紗弓の体内に入った初めての男が自分だと分かった時、心の中に占
めたのは、満足感と悦び。
知らず、そろりと指についた血を舐めていた。
確かに思った。紗弓のそこは自分だけが見て、自分だけが触れるべ
き所だと。
︱︱そのうち、指だけではなく、怜自身を挿れる所なのだと。
何だろうこれは。独占欲?結局自分は紗弓に欲情して、ヤリたいだ
けなのだろうか。
そこまで思って怜は嫌悪に顔を歪める。
違う、そうじゃない。自分は紗弓をそういう風にしたいんじゃない
はずだ。
他の女と違うのだ。
114
犬を可愛がるように愛でたい。からかって楽しみたい。彼女のくる
くると変わる表情が見たい。
照れたり、喜んだり、怒ったり、笑ったりしてほしい。
自分ともっと話をしてほしい。自分の言葉に沢山反応してほしい。
最初は楽しめるかな?と思っただけの興味本位だった。
実際本当に、女とのつきあいに疲れていて、何かきっかけを作って
止めたいと思っていた。
きっかけがないと自分には明確に止めるという意思が弱くて、ずる
ずると同じような生活に戻ってしまいそうだったから。
そこに紗弓が飛んできて、見ていて飽きない紗弓を彼女に仕立て上
げれば、自分はペットを飼い始めたような楽しみも得られて、さら
に女の誘いを断る理由付けにもなるから丁度良いと思った。
その気持ちは日々を追う毎に少しずつ形を変えていく。
楽しみたいのは確か。犬みたいだな、と思うのも確か。
でも同時に彼女をとても可愛いと思う。頭をなでて、お菓子をあげ
て思い切り可愛がってあげたいと思う。
きっと自分は、佐久間怜は、真城紗弓と仲良くなりたいのだ。
男女の関係ではなくて、人として仲を深めたい。
そう思うのは真実のはずなのに。
どうして時々、どうしようもなく彼女を穢してしまいたくなるのか。
淫らな想像をしてしまうのか。暴力的な程、犯したくなるのか。
そうではないはずなのに。他の女と違うはずなのに。
結局自分は、やはり女性をそういう風にしか見れないのだろうか。
考えても考えても答えがでない。こんな事は初めてだ。
やがて電車は学校がある駅へ着く。
怜は考えるのを止めて、電車を下り、いつもの通学路を歩き始めた。
115
◆◇◆◇
その日は朝から風紀委員による服装チェックが行われていた。
﹁そこっ!制服規定のカーディガンじゃないわね!没収!﹂
ビシッと紗弓が女子生徒に向かって定規を指す。呼ばれた女子は﹁
ばれた⋮﹂と呟きながらカーディガンを脱いでしぶしぶと渡してき
た。
﹁同じ紺なのに、なんでばれんのよー﹂
﹁そのカーディガンは今女子高生の中で大人気のメーカーだからね。
形を覚えたのよ﹂
﹁うっわ!なにそのファッションチェック。風紀委員はそんなとこ
まで見てるの?こえーわ⋮﹂
などと会話をしながら紗弓はてきぱきと名前を控え、服に付箋をつ
けるとポリ袋に入れる。
定規を持っているのはスカートの丈を確認するためだ。
スカートの腰をくるくると巻いてベルトで留めていれば直させる。
制服改造をしていれば新しい制服を買うようにとプリントを渡す。
﹁はい、あなた!それはうちの学校のリボンじゃありません。ちゃ
んと制服のリボンをつけて!﹂
﹁もう細かいー!特急制裁者は特急監査官に名前変えたほうがいい
わよ!﹂
ぎゃあぎゃあとしたやり取りをしながらも、女子生徒は紗弓から渡
された予備のリボンをつけかえる。
そして可愛いリボンは没収され、付箋を貼られる。
勿論動いているのは紗弓だけではない。今日の風紀委員は4人体制
だ。
時々お互いにチェック表を見ては、確認しあう。
そんな風に紗弓が熱心に仕事をしていると、少し離れたところで怒
鳴り声が聞こえてきた。
﹁うっせえよ!お前、何様なんだよ!﹂
116
﹁何様もなにも。風紀委員としての仕事をしてるだけだろ。これは
不要物だ。没収する﹂
小競り合いをしているのは男子生徒のようだった。不穏な空気にな
り始めたので紗弓はそちらに走っていく。
﹁わかったよ!これは外してポケットに入れとく。これでいいだろ
!?﹂
﹁良くないに決まっているだろう?よこせ。放課後には返してやる
から﹂
﹁そう言ってお前、パクるつもりだろ!これは大事なんだ。絶対に
わたさねえ!﹂
﹁なんでそんなモノをわざわざ高校に持ってきたんだ。見せびらか
したかったのか?バカかお前。だいたいそんなゴミみたいな指輪ぱ
くる価値もねえだろ﹂
なんだと⋮!?と男子生徒が怒りの形相になって風紀委員の男子に
殴りかかろうとする。
そこを紗弓は﹁待てーー!﹂と走って二人の間に定規を伸ばした。
﹁なんだよ特急真城﹂
﹁真城ちゃん、何?﹂
二人の男にぎろりと睨まれ、紗弓は少しおたついたが、ぐっと足に
力を入れた。
﹁先輩ちょっと言いすぎです。大事な指輪かもしれないじゃないで
すか。それに貴方も、風紀委員が窃盗をしないようにこうやってチ
ェックをして、付箋を貼っているんです。このチェック表はうちだ
けじゃなくて、生徒会にも毎回提出しているから、もし風紀委員が
盗ったとしたらちゃんと分かるようになっているんですよ﹂
そう言って紗弓はチェック表を男子生徒に見せる。
そこにはチェックをした風紀委員の名前を書くところと、自分がチ
ェックした生徒の名前、預かったもの、保管場所と全てが細かく書
かれている。
確かにこれで物がなくなったら明確だ。
117
﹁それに、一時没収したものは全て職員室の金庫に納められていて、
その鍵は顧問の先生が持っています。放課後まで絶対にそこは開か
ないようになっているんです。⋮放課後になったら当番の風紀委員
が待機してますから、名前と没収されたものを言ってください。そ
うしたらお返ししますから﹂
丁寧に紗弓が説明すると、やっと男子生徒は納得したようだった。
しぶしぶといった顔をしながら学校に不要物である銀色の指輪を外
し、男でなく、紗弓にそれを渡す。
﹁⋮わかったよ。⋮ほんとにこれ、大事なんだ。嬉しくてつい、嵌
めてきてしまったんだよ﹂
紗弓は付箋に名前を書き、チャック付の透明な袋に入れてからエコ
バックに納める。
チェック表に書き込みをしてからにっこりと笑う。
﹁はい。でもこれやっぱり校則違反ですからね。預かります。放課
後取りにきてくださいね﹂
そう言うと男子生徒は頷いて、ポケットに手を入れて校舎へ向かっ
ていった。
﹁ごめんね真城ちゃん。僕もちょっと腹が立って偉そうな事言っち
ゃった。ありがとうね﹂
﹁いいんです先輩。こういうのって難しいですよね。頑張りましょ
う!﹂
ぐっと拳を握ると、風紀委員の男はうん、と笑ってまたチェックを
始めた。
事が収まってよかったと紗弓は元の位置に戻ろうとすると、目の前
にぬっと壁が現れ、どしんと当たる。
﹁うわ、なに!?⋮ ぬぁっ!佐久間!﹂
﹁はい、おはようございます、紗弓。お仕事お疲れ様です﹂
よろけた紗弓を支えるように肩を寄せた後、優しく彼は紗弓の頭を
撫でる。
﹁あの日﹂以降、少し距離を置いた扱いをするのだろうかと思って
118
いたが、相変わらず佐久間怜は紗弓に優しく、軽く触れてくる。時
々言うからかいも相変わらずだ。
それでも前より少し違うものを紗弓は感じていた。何というか、自
然になった感じがする。
だからかもしれないが、紗弓も前ほど過剰に彼の言動を疲労に感じ
る事はなくなっていた。
紗弓は腰に手を添えて首を直角に上げ、怜の顔を見る。
﹁壁かとおもったら、佐久間のお腹だったのね⋮。貴方、全身硬い
んじゃないの?﹂
べしべしと彼の腹を叩くと、やはり鉄のように硬かった。
叩かれながら怜はにっこりと笑う。
﹁柔らかい所もありますよ?﹂
﹁そう?ほっぺも硬そうなのにね。⋮目か、目ね!﹂
﹁目も柔らかいですね。他にもあります。時々硬くなったりします
けどね。基本柔らかいですよ﹂
﹁へぇ⋮どこかしら﹂
朝から校門前で下ネタを展開する怜にその場にいた男子生徒全員が
心の中でつっこむが、女子生徒は怜の顔を堪能するのに夢中で会話
を聞いていない。
﹁そうだ。今日紗弓、お昼はどうするんですか?昨日は学食でした
よね?﹂
﹁今日は購買のパンにする予定よ。⋮生徒会室?﹂
﹁はい、護や鮮花が煩いもので。どうですか?﹂
﹁いいわよ。じゃあお昼にね﹂
怜は前のように勝手に約束を取り付けて去るようなことはなくなっ
た。
紗弓の都合や、彼女が教室で友達と食べたい時などはそちらを優先
してくれる。
強引さがなくなったからか、紗弓も少し怜に対して素直になり、前
よりもよく笑う。
119
それは傍から見れば本当に仲のよい恋人同士で、誰もが二人の仲を
認めざるを得ない雰囲気だった。
⋮一部の女子生徒を除いて。
120
11.悪巧みの開幕
昼食時間。2年校舎の一角、階段の奥に3人の女子生徒が集まって
いた。
綺麗、と言われれば綺麗の部類に入り、派手、と言われれば派手に
入るような3人組だ。
女子達は全員とても機嫌の悪そうな顔をしている。一人の女子が話
を始めるように第一声を上げた。
﹁あれからもう2ヶ月たつわよ。⋮どうなのよ、アレ﹂
﹁今朝も校門で見せ付けてたわよ。もう、怜さま、あんなののどこ
が気に入ったのかしら﹂
﹁これまでと全然違うタイプよね⋮どうやって取り入ったんだか﹂
ぶつぶつと会話する内容はどれも愚痴のようなものだ。それは仕方
が無い。こうやって集まって話し合っているものの、彼女達は佐久
間怜本人からしっかり釘を刺されており、表立った行動ができない。
﹁だいたい怜さまは皆のものなのよ。どうしてあんな1年の子に独
り占めされなきゃいけないの?﹂
﹁それに真城紗弓っていつもあちこちで偉そうに注意してさ。朝の
校門なんて先輩も関係なく注意してくのよ?なんであの子、嫌われ
ないのかしら﹂
﹁知らないわよ。本当どうでもいい子だったもの⋮怜さまに手を出
すまでは﹂
むぅ、と3人が腕を組む。真城紗弓の人格などどうでもいい。一番
の問題は彼女が怜とつきあったことで、佐久間怜が他の女子の誘い
を断るようになったということ。また腹立たしい事に、その彼自身
が自分たちのような何度も彼につきあいを求めた女子達を中心に、
恋人となった女子全員に釘を刺しているという事。
更にこれは噂だが、光国八雲もこれに一枚噛んでいるようなのだ。
彼が佐久間怜と真城紗弓の仲を応援しており、全面的に協力してい
121
ると。
それも彼女達が動けずにいる理由のひとつである。彼は彼で、自分
を好いているファンというものがいる。
その八雲ファンというのがまた、自分たちのような怜ファンと毛色
が違うのだ。
何というかお祭り好きで、彼の提案に対して﹁楽しそう﹂と思った
ら一致団結して行動する。
逆に怜ファンは、彼自身が一人一人とつきあうというスタイルをと
っていたせいか、個人で行動する人が多い。そしてその2人のファ
ン達は、その性格の違いから度々衝突していて、仲が良いとはいえ
ない。
そんな彼女達が敵に回れば、窮地に陥るのは自分たちだ。
でも今の状況は許せないし認めたくない。真城紗弓さえ彼の前から
消えたら、と思う。
しばらく悩むような顔をしていた女子の一人が顔を上げる。
﹁⋮私達が直接、手を出さなければいいのよ﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁うまく人を使うの。いい⋮?﹂
ひそひそと話し合う。廊下の端で、悪巧みが始まっていた。
◆◇◆◇
﹁ごめんねぇ紗弓ちゃん。最近遊びにきてくれないから寂しくって。
おねえさん嬉しい﹂
﹁いえ、こちらもごめんなさい。最近ちょっと響ちゃん達とご飯食
べることが多くって﹂
鮮花の言葉にあはは、と申し訳なさそうに笑って紗弓は購買のデニ
ッシュサンドイッチを食べ始める。
本当に怜が申請したらしく、おかげで在庫が増え、廊下を歩いて移
動してもこのサンドイッチを買える機会が増えて紗弓は純粋に嬉し
122
い。
﹁確かにこれ美味しいですね。人気があるのも頷けます﹂
紗弓は購買の売店前で怜と待ち合わせをし、一緒にパンを買ってき
たのだった。
自分と全く同じものを買う怜には少し笑ってしまう。
﹁美味しいでしょ?でも自分の好きなもの買ったらいいのに。全部
同じの取るから笑っちゃったわよ﹂
﹁僕はどれが美味しいのかよくわからなくて。紗弓が食べるものな
ら確実に美味しいと思ったんですよ﹂
にっこりと笑って隣に座る怜がデニッシュサンドイッチを食べるの
に戻る。
﹁それにいいリサーチにもなるもんねぇ﹂
護がそう言うと、ええ、と怜が頷く。
﹁人気のあるパンを調べてそちらに在庫を増やしてもらって、逆に
人気のないパンは撤去してもらうか、在庫を減らしてもらえれば、
皆さん欲しいパンを手に入れられるし、不良在庫も減りますし﹂
﹁うわぁ、すごい。なんか生徒会みたい⋮﹂
﹁紗弓ちゃん、ここ生徒会室だからね!僕ら生徒会役員だからね!﹂
慌てたように護がつっこむ。
そんなやりとりを鮮花がくすくすと笑って、自分は弁当を食べ終え
て片付ける。そして同じ巾着袋からタッパーを取り出して、ぱかり
と開けた。
﹁さゆちゃん、いちご食べる?﹂
﹁いちご⋮!?﹂
きらりと紗弓の目が光る。
鮮花が開けたタッパーには大ぶりでつやつやと光るいちごが沢山入
っていた。
﹁ふふ、フルーツは違反品じゃないものね?﹂
﹁そ、そうですね。⋮いちご﹂
紗弓の目は食い入るようにいちごを見ている。鮮花は艶のある顔を
123
していちごをひとつつまんだ。
﹁お手﹂
﹁⋮⋮えっ!?﹂
いちごを見ていた紗弓はぎょっとした顔で鮮花を見る。彼女はもの
すごく華のある笑顔でにっこりと笑い、もう一度﹁お手﹂と言った。
差し出された手。紗弓は恐る恐る握った手を彼女の手にぽん、との
せる。
﹁んんっかわいいー!よしよし!はいどうぞ!﹂
頭を撫でた後、いちごを紗弓の口に軽く入れてくる。
彼女は複雑な顔でむぐむぐ、とおとなしく食べるが、途端にじゅわ
りと出てくるいちごの果汁に顔をほころばせる。
﹁おいしい⋮﹂
﹁でしょ?はい、どんどん食べてね。さゆちゃんと食べるために持
ってきたんだから∼﹂
うふふ、と鮮花もいちごをつまんでぱくりと食べる。
彼女はとてもいい人だと思うが、どこかおかしい。というか生徒会
役員って皆そんな感じだな、と紗弓は思うがいちごが美味しいので
まぁいいかと思う。
そんな二人を横目に怜は額を軽く手で押さえていた。
﹁フルーツ⋮!その手が⋮っ!しかも僕より先にお手をさせるなん
て、反則ですよ鮮花⋮っ!﹂
﹁お手、させたかったんだね⋮﹂
本気で悔しそうな怜に、生徒会ツッコミ担当になりつつある護は、
やはり彼につっこむのだった。
﹁そういえば、今日は光国先輩がいないのね﹂
温かいお茶を貰って飲みながら紗弓が思い出したように聞く。
﹁うん、会長を﹁そういえばいないね﹂なんて言えるの紗弓ちゃん
位だよね。彼はねー多分、会長ファンの集いで皆でお昼ご飯食べて
るんじゃないかな、食堂とか、中庭とかで﹂
124
﹁会長ファンの集い∼∼!?﹂
思い切り呆れたような顔をして紗弓は護を見る。彼はひょいと肩を
すくめて﹁面白いよね﹂と笑った。
﹁仲いいんだよねぇ。皆して会長にお弁当をあーんって順番にする
んだって﹂
﹁バカだわ⋮。佐久間よりバカがいたなんて⋮﹂
﹁ふふ、紗弓。貴女は僕を誤解しているようですね?ところでどう
して八雲は光国先輩で、僕は佐久間なんでしょう﹂
﹁え⋮?そ、そういえば。佐久間は佐久間よね。うーん⋮﹂
確かに相手は先輩なのにと思うが、そう言われても彼を佐久間先輩
と呼ぶのは何となく癪なのだ。
﹁確かにあんた、とかフルネームで呼ばれるよりは進歩しているの
かもしれませんが⋮どうせなら名前を呼んでくださいよ﹂
﹁名前⋮?﹂
﹁怜って。⋮名前を呼んでください﹂
にっこりと言われるが、妙に目が笑っていない。どことなく真面目
な空気を感じて紗弓は押されたように口を開いた。
﹁れ⋮怜⋮﹂
﹁はい﹂
その時佐久間怜は、とても︱︱とても嬉しそうな顔をした。子供み
たいに無邪気で、手放しに嬉しそうな顔。
かぁっと紗弓の顔に熱が入る。
思わず照れ隠しに彼の胸へ拳を入れた。
﹁っなんて呼べるかぁー!恥ずかしすぎて死んでしまうわ!バカ佐
久間っ!﹂
そのままべしべしと肩を叩いてしまう。
あからさまに照れを隠したその行動に怜はくすりと笑って﹁残念で
す﹂と言った。
◆◇◆◇
125
事件とは突如起きるもので。
紗弓は放課後になって帰り支度をしていると、同じ1年の風紀委員
に名前を呼ばれた。
﹁真城ちゃん⋮あの、ちょっと、来て﹂
とても困ったような顔をしているので、紗弓は鞄を持って彼女の後
に続く。
彼女が紗弓をつれていった場所は職員室だった。
職員室には風紀委員が集めた没収物を一時保管する金庫があって、
今は放課後なので風紀委員が当番で待機し、生徒にそれを返すのが
仕事のひとつである。
確か今日の当番はこの子だったな、と紗弓は思い出した。
﹁ああ、真城か。よぉ﹂
﹁⋮貴方は﹂
金庫の前には男子生徒が一人いる。今日紗弓に指輪を預けた男子だ。
その男子と、風紀委員の女子が深刻そうな顔で目を見合わせている
のを見て、紗弓は少し嫌な予感がした。
せんだ
﹁⋮なにか、あったの?﹂
﹁あのね、この方⋮あ、扇田先輩ね。⋮先輩の指輪が、盗られちゃ
ったみたいなの﹂
﹁⋮えっ!?な、なんで⋮?ありえないわよ!﹂
﹁いきさつはこうみたいだ﹂
泣きそうな風紀委員の女子を置いて、扇田が説明を始める。
彼女が職員室で待機していた時、男子生徒がふらりと現れて扇田の
名を名乗り、指輪を返してくれと言ってきた。
彼女は今日の朝当番ではなく扇田の顔を知らなかった為、その言葉
を信じて渡してしまったのだ。
そしてその後扇田本人が指輪を返してもらうために現れて、そこで
やっと事態に気づいたらしい。
﹁な。それって⋮明らかに、窃盗⋮じゃない﹂
126
﹁そうなの。どうしよう⋮私﹂
﹁泣かないで乃木ちゃん。とりあえず委員長に連絡しないと⋮あと
顧問の先生ね。園田先輩帰ってないといいけど⋮﹂
携帯電話でメールをする。乃木という女子生徒は慌てて顧問に話を
伝えに走った。
﹁⋮真城﹂
﹁あ、扇田⋮先輩。ごめんなさい。ちゃんとやりますから。絶対取
り戻しますから﹂
﹁わかってる。悪いのは俺の指輪を取ったヤツだからな。俺も協力
するよ。俺のもんだしな﹂
﹁⋮ありがとうございます。⋮ん、それにしても⋮これって、今日
の朝校門で私達のやりとりを見ていた人ってことですよね。見覚え
のある男子生徒、いました?﹂
あー、と言いながら扇田は頭をがしがしと掻いて天井を仰ぐ。
﹁⋮わるい、全然わかんね⋮。クラスメートはいなかったと思うけ
ど、同じ2年なら俺の事知ってるヤツもいそうだからな﹂
﹁そうですよね⋮でも、扇田先輩のこと知らなきゃなりすましなん
てできませんよね。ということは扇田先輩のクラスメート外で、2
年の誰か⋮っていうのが可能性高いのかしら⋮﹂
腕を組んでうーん、と悩む。こういった推理をするのは全くもって
不得意なのだ。
しばらく二人で悩んでいるとメールが鳴った。見れば園田からで、
今から職員室へ来るらしい。
そして乃木も顧問を連れてきて職員室の別室を借り、緊急的な対策
会議が行われた。
﹁生徒に殆どを任せていたのが裏目に出たな。せめて名前を確認す
る時、生徒手帳の確認も含めるべきだった﹂
﹁⋮そうですね。こんなあからさまな盗みを行うなんて初めてのケ
ースですから。それは今後の課題として検討しておきます。⋮さて、
127
乃木君﹂
顧問の苦い言葉に稔が返しつつ、彼は乃木に向かって顔を向けた。
はいっ!と頭を上げて体を固める彼女に﹁責めてるわけじゃないか
ら落ち着いて﹂と穏やかな顔で稔はなだめ、質問を投げかける。
﹁君が唯一の目撃者なんだよ。だから教えてくれる?扇田君を名乗
った男子生徒はどんな感じだった?思い出せる限りでいいから﹂
﹁はいっ!え⋮えっ⋮と﹂
乃木は必死に思い出すように考えながら生徒の特徴を話す。
茶髪で、長めの髪をワックスで整えたような髪に、特徴のない顔、
背はそこまで高くなく、やたらニヤニヤと笑うような男。
ふーむ、と園田が顎を撫でる。
﹁特徴のない顔っていうのがねぇ⋮何かこう、思いつかない?芸能
人なら誰に似てる、とか﹂
﹁芸能人はちょっと⋮当てはまらないかな。何というか⋮あれ⋮な
んです﹂
﹁あれ?﹂
聞き返す紗弓に乃木はうん、と頷いて。
﹁⋮⋮雰囲気イケメン?﹂
思わずぶはっと扇田が噴いた。
園田も口を押さえて﹁⋮なるほど、ある意味想像がつくね﹂と肩を
震わせる。
﹁ひひ、お前ら、げほっ真面目に探せよなー!﹂
﹁そう言う扇田君も咳き込むまで笑わないでよ。とりあえず扇田君
はその⋮くく、特徴を聞いて誰か思いつかないの?﹂
きいてはみるが、彼も﹁とりあえず自分の知り合いに雰囲気イケメ
ンはいねー﹂という話らしい。
﹁他に2年の人に聞いてみるしかなさそうですね。2年の風紀委員
とか⋮あと私が知ってる2年って⋮鮮花先輩くらいかしら﹂
﹁え、真城って上羽と知り合いなの?﹂
﹁知り合い⋮というか、はい。時々生徒会室で会いますから﹂
128
﹁へええ、あのドS女王様とねぇ⋮不思議な交友関係持ってるんだ
な。さすが特急制裁者﹂
ドS女王様って何だ。そんな呼ばれ方をしているのかと紗弓は少し
彼女に同情する。
特急制裁者もセンスを疑ってしまうが、ドSとか言われるよりはま
しだと思う。
﹁とにかく。盗る程なんだから⋮いきなり捨てたりはしないだろう。
それでものんびりはしていられる状況じゃない。僕は2年の風紀委
員に話をしてくるから、皆も知り合いがいたら聞いてみて﹂
稔の言葉に全員が頷く。
﹁⋮園田がしっかりしすぎて、俺の出番がないな⋮。まぁ、あから
さまに触れ回ったりはしないほうがいいだろう。生徒が動揺するだ
ろうし、それで盗った人間がモノをどうするかわからないからな。
慎重に動いた方がいいと思うぞ﹂
腕を組んで顧問の教諭がその場を締めるように口を出した。
◆◇◆◇
そういえば自分からここに来るのはまだ2回目なのね、と紗弓は思
った。
生徒会室の前。最初に自分からここに来たのは、佐久間怜に喧嘩を
売りに行った時。
それ以降は呼び出されたり、誘われたりで、自分から自主的に来た
ことはなかった。
こんこん、とノックをしてからからりと開ける。
中には都合の良いことに鮮花が一人で机に向かい、何かを書いてい
た。
﹁⋮失礼します﹂
﹁まぁさゆちゃん。いらっしゃい!怜ならいないわよ。見たらわか
るでしょうけど﹂
129
﹁あ、佐久間はいいんです。今日は鮮花先輩に用事があって﹂
﹁私?嬉しい。なにかしら?﹂
おいでおいでと手招きされたので紗弓はおとなしく彼女の近くまで
歩き、薦められたイスに座る。
鮮花は学校内でも有名な美人で、彼女に憧れる男子生徒は多い。高
嶺の花と呼ばれているが、それでも他より男子生徒に詳しいのでは
ないかと思って紗弓は彼女に事情を話すことにした。
静かに聞いていた鮮花は﹁うーん﹂とペンを机に置いてから腕を組
む。
﹁そんな事があったの。申し訳ないけれど、それくらいの特徴は特
徴と言えないわね。ウチは髪型については煩く言わない校風だから
茶髪って結構いるし?顔については⋮私にとって興味対象外だから
気にしたことなかったのよね﹂
﹁そうなんですか?⋮んん、そっか⋮﹂
無駄だったかなぁと紗弓はしゅんと肩を落とす。そんな彼女をしば
らく鮮花は見ていたが、唇を指でなぞりつつ﹁そうねぇ﹂と呟いた。
﹁でも、誰でもいいから盗りたかった、って訳じゃないわよね。扇
田君の名前を名乗ったんだし、明らかに彼の私物を狙ったんでしょ
う。彼を知ってて、彼に思う所がある人間か、それとも⋮ん﹂
チラ、と紗弓を見る。きょとんと彼女は首を傾げた。
﹁どうしました?﹂
﹁⋮いいえ。だからね、その指輪?が欲しくてやったんじゃなくて、
個人的に嫌がらせがしたい、困らせたいと思っている人がやったん
じゃないかって私は思うのよ﹂
﹁なるほど⋮扇田先輩を嫌っている人ってことですか?﹂
﹁可能性としてはあるんじゃない?って話。扇田君はね、ちょっと
2年で目立つ人だから⋮まぁ思う所がある人はいるかもしれないわ
ね。私が動いてそれとなく男子に聞いてみてもいいけれど⋮﹂
そこで鮮花は紗弓に体を向けてにっこりと笑う。
何となく嫌な予感がして紗弓は少し体を引いて﹁⋮何ですか?﹂と
130
聞く。
﹁うふふ、さゆちゃんが上手にお願いしてくれたら引き受けてあげ
る﹂
﹁上手にお願いってなんですか!﹂
そうねぇ⋮と鮮花は考えるような顔をした後、目の前のレポート用
紙を一枚破って、新しい紙にかりかりと何かを書く。
そして書き終えたレポート用紙を破って紗弓に﹁ハイ﹂と渡した。
﹁これ、やってくれたら私、全力でがんばっちゃう﹂
紗弓は恐る恐るそのレポート用紙に書かれた文字を読んでみた。み
るみると顔色が青くなり、赤く変わる。
﹁こ、これ、本当に?⋮ですか?マジ、ですか?﹂
﹁ええ。マジもマジ。私はいつもマジなことしか言わないわよ﹂
にっこりと艶のある笑みで微笑まれる。
紗弓は確信した。扇田の言葉は真実だったと。
しばらく脳内で葛藤する。しかし自分には他に個人的な2年の知り
合いがいないし、今は情報が圧倒的に足りないのは確かなのだ。
がたん、と紗弓は立ち上がる。イスから少し離れ、しばらく羞恥に
顔を赤らめた後、ぐっと覚悟を決めて息を吸う。
丁度その時生徒会室のドアがノックもなくからりと開く。
書類を持った怜と、それに続いた八雲が部屋に入ってきた時︱︱。
﹁おねえさま、さゆみのお願い、聞いてくれなきゃカミカミしちゃ
うにゃん!﹂
ふんぞり返るように足を組む鮮花の前で、ネコのように拳を曲げて
可愛く体を傾ける紗弓の姿がそこにあった。
131
12.知らざる悪意
次の日。再び職員室横の控え室に集まったメンバーは早速情報交換
をする。
2年の風紀委員に扇田の周りについて聞いた所、彼には敵が多いこ
とを知る。
﹁⋮敵って。扇田先輩、何したんですか⋮﹂
少し呆れたような顔をして紗弓が聞くと、彼は少し決まり悪げな顔
をして頭を掻いた。
﹁別に⋮俺は何もしてねーよ﹂
﹁そうですねぇ、扇田君は売られた喧嘩を片っ端から買うだけです
ね﹂
眼鏡をかけた神経質そうな男子がのんびりと言う。彼は2年風紀委
員を代表してやってきた。鹿島、という男子生徒である。
﹁喧嘩、売られてるんですか?﹂
おずおずと乃木も聞いてくる。扇田はむぅ、と顔をしかめてそっぽ
を向いた。
﹁素行もあまり良いとは言えませんしね。2年では有名な、校則違
反、及び遅刻の常習者ですし。あと中学生の頃はもっとやんちゃ君
だったので、そんな彼を知っている一部の男子生徒が喧嘩を売って
くるみたいです。買うほうも買うほうですけどねぇ﹂
﹁やんちゃ君って⋮鹿島お前ぇぇぇ⋮いらん事を言うんじゃねえよ
!﹂
﹁あだ名はキレた包丁でしたっけ。どっかの芸人みたいですよねハ
ハハ﹂
﹁お前ちょっと外でろ!一発殴る!﹂
まぁまぁと稔が扇田をなだめにかかる。どうやら扇田と鹿島は中学
時代の同級生のようだった。
しかし、彼を嫌う人間が多いのいうのは考えていなかったと紗弓は
132
腕を組む。
暫くぎゃあぎゃあと扇田と稔、鹿島が騒いでいると﹁⋮あの﹂と乃
木が手を上げた。
﹁扇田先輩にその、喧嘩を売ってくるっていうのはその中学時代に
色々あった人が主なんですか?﹂
﹁んあ?そうだなぁ⋮大半がそうか?時々しらねえヤツからも売ら
れるけど。だいたいは中学ん頃に絡んできたヤツかもな﹂
扇田の通っていた中学はこの高校の近くなので、その中学の卒業生
が他校より少し多い。
実は紗弓もそこの中学卒業生である。学年が違うし人の噂に興味が
なかったので扇田の事は知らなかったのだが。
﹁それだと、一応⋮その中学の卒業生に搾ってみませんか?もしか
したら違うかもしれないけれど、今のままじゃ、該当者が曖昧すぎ
て調べるにも、調べ切れない気が⋮するんですけど﹂
おどおどと乃木が意見する。それに稔が頷いた。
﹁それはいい案かもね。⋮だと、あの中学の卒業生で扇田に詳しそ
うな鹿島に聞くのが早そうだけど。⋮鹿島、卒業生で長めの茶髪、
雰囲気イケメンって、わかる?﹂
稔の質問に鹿島がくい、と眼鏡のずれを直す。
﹁茶髪でチャラそうな男ってことですね?それなら5人くらい候補
がいます。名前を挙げましょうか﹂
頼む、と稔が出してきたメモ帳に鹿島がさらさらと書いていく。
﹁お前、なんで男の名前そんな覚えてるんだよ⋮ま、まさか﹂
﹁アホですか貴方は。貴方と同じでこの方々は皆⋮風紀委員にとっ
て要注意人物達なんですよ。違反物は注意しても注意しても持って
くるし、遅刻もしょっちゅうですし。廊下は走るし。女子生徒ナン
パするし﹂
﹁廊下はともかく⋮。2年は荒れてるなぁ⋮大変だね、鹿島﹂
同情したように稔が言う。紗弓も1年は割と平和な方だから少し驚
いた。
133
﹁一応容疑者は5人と絞って⋮もしかしたら全く違う人たちかもし
れないから、僕は昼にでも2年校舎を見回りしてみるよ。鹿島、扇
田、一緒に来てくれる?﹂
おう、と扇田が頷き、鹿島が﹁わかりました﹂と了承する。
メモに控えを取った紗弓はそれを見て、自分も鮮花に聞いてみよう
と思った。
◆◇◆◇
紗弓はからりと生徒会室を開く。中には昼食を取っている役員4人
全員が揃っていて﹁そういえば生徒会役員って皆仲いいわね﹂と少
し思った。
ドアから少し顔を出して様子を伺っている紗弓を一番に気づいたの
は怜で、ドア側を見ると少し目を大きくしてからくすりと笑った。
﹁紗弓。お昼は食堂じゃなかったんですか?そんなこそこそしてい
ないで、どうぞ入ってください﹂
と、手招きしてくるが、紗弓はふるふると首を振った。
﹁あの、鮮花先輩、⋮チョット、いいですか?﹂
﹁まぁご指名?うふふ﹂
紗弓ににっこりと微笑んでからニヤリと怜にだけ分かるように勝ち
誇ったような笑みを浮かべる。
それを見て怜はものすごく嫌そうな顔をした。
﹁⋮ちょっと、鮮花。昨日といい⋮駄目ですよ?紗弓は僕のですっ
て最初から言ってるでしょう?﹂
ぼそぼそと釘を刺すと、鮮花はうふん、と体をくねらせた。
﹁私だってさゆちゃんで楽しみたいもの。つまみ食いくらいは許し
て頂戴。一番美味しい所はちゃあんと残してあ・げ・る・から﹂
普通の男ならころっといってしまうような色気あるしなを作るが、
怜は不機嫌そうな顔を隠さず、面白くなさそうにコンビニ弁当を食
べ始める。
134
そんな彼を見て意味ありげに笑った後、鮮花は紗弓の待つ廊下へ出
て行った。
﹁なるほど⋮この5人の男子生徒ね。確かにこの5人は知ってるわ。
2年じゃ目立ってるほうだし、しょっちゅう私も声をかけられてい
るもの﹂
﹁そうなんですか⋮。園田先輩達は、ほかの可能性も考えて今、見
回りしているんですけど。もしこの5人から搾るとしても、どうや
って判断したらいいのか⋮﹂
﹁んん⋮そうね。ん、この男子、確か⋮﹂
メモに書いてある名前を見て、鮮花が唇に指を当てる。
心辺りがあるのだろうかと紗弓は彼女に食いついた。
﹁何か気になる人、いました?﹂
﹁⋮いいえ、気のせいだったみたい。そうね、私にも仲のいい男子
生徒はいるから⋮ちょっと聞いてみるわね。もしかしたら最近扇田
君とトラブルがあった人がいるかもしれないし、昨日の放課後彼ら
5人がそれぞれ何してたか、くらいは分かるかもしれないから﹂
すると紗弓がぱっと顔を綻ばせ、頭を下げる。
﹁ありがとう!先輩。あの、頼んでばっかりでごめんなさい。解決
したらお礼、しますから﹂
﹁あら、お礼してくれるの?本当に?⋮そんな事言っていいのかし
ら?﹂
くすくすと笑われて、紗弓は昨日の出来事を思い出し、ハッとした
顔をする。
﹁あ、あの、あまり変なのは⋮お、お菓子、焼いたりとか⋮﹂
﹁お菓子?へぇ∼さゆちゃんお菓子作れるんだ。じゃあ楽しみにし
てるわね﹂
にっこりと言われて、紗弓はほっと胸を撫で下ろす。お菓子で何と
かなってよかった。彼女が作れるのはクッキーくらいだが、鮮花な
らきっと喜んでくれるだろう。
135
では、と紗弓はもう一度鮮花にお辞儀をしてから去ろうとする。
そんな彼女の後ろ姿に鮮花は声をかけた。
﹁さゆちゃん、怜に会っていかないの?今帰ったら寂しがるわよ、
彼﹂
﹁⋮寂しがる∼∼?﹂
それはないわ、という顔で紗弓は振り返る。先日の休日以降、何故
か二人は前よりもずっと仲が良くなり、自然な感じになったと思っ
たがそういう所は相変わらずのようだった。
﹁ふふ、彼は意外と寂しがりで甘えたなのよ。可愛いでしょ?﹂
﹁私には意地悪ですぐからかって、叩いても締めつけてもへーぜん
としてる巨大鉄筋コンクリート男なんですけど﹂
﹁あははっ!それ新しいわね!⋮でも、前よりずっと仲良くなって
なぁい?前のお休みから。⋮なにかあったの?﹂
そう聞くと、何か思い出したように紗弓の顔がみるみると赤くなっ
た。
スカートの裾をぎゅっと握って明らかにうろたえる。
しかし、キッと顔を上げると声を上げて鮮花に訴えた。
﹁な、なにもされてないです!ちょっと、あの、話し合っただけで
す!せ、セクハラみたいに触るのやめてとか、必要以上には優しく
しないで、とかっ!それだけですっ!じゃあ!﹂
と、言うだけ言って、早足で彼女は去っていった。どんな時でも廊
下を走らない紗弓は風紀委員の鏡だな、と鮮花は思う。
紗弓の小さくなる背中を見送って、鮮花は生徒会室のドアに手をか
ける。
開けようとしてふと﹁⋮なにもされてないって、なにをしたのかし
ら、怜﹂と笑い混じりで呟いた。
◆◇◆◇
昼休みが終わり、午後の授業がはじまる。
136
紗弓のクラスは体育で、春の球技大会に向けた練習が授業内容であ
る。
﹁うりゃぁあああー!﹂
ぶん!とラケットを振る音が聞こえる。
バシーンと、およそテニスをしているとは思えない打撃音が聞こえ
て、ひゅーんと飛んでいったテニスボールはボコッとフェンスの穴
に嵌った。
﹁でたぁ!真城のホームラン!﹂
﹁相変わらずすげえな。あのボールはもう取れないぞ⋮ヒトの知力
を持ってしても届かないからな﹂
﹁なんかケムリでてない?あのボール﹂
﹁さゆちゃんー!これテニスだよ!?野球じゃないんだよー!﹂
泣きそうな顔をして響子がラケットを持って走ってくる。彼女の相
手をしていた紗弓はラケットをじっと見つめて、首をかしげた。
﹁おかしいわね。普通に軽く打ってるつもりなんだけど﹂
﹁普通に打ってる人は、うりゃー!とか言わないよっ!本当にさゆ
ちゃんって⋮球技苦手なんだね﹂
﹁野球は得意よっ!打つだけなら!﹂
グローブでボールを取るのはとても苦手である。いつでもどこでも
攻めが主体の紗弓であった。
そしてコントロールや力加減が必要な、特に小さいボールを使った
スポーツが苦手だ。
卓球なんて目も当てられない。卓球とは思えない全力の力でピンポ
ン玉を打ち放ち、ネットを挟んだ向こうでバスケをしている男子の
後頭部にクリーンヒットしてしまい、怒りの形相で追いかけられた
のは苦い思い出である。
﹁はぁ、なんでよりにもよって球技大会の内容がテニスなのよー。
無難にバレーボールとかにしなさいよね⋮っ!﹂
﹁あはは⋮とりあえず、もうちょっと力抜こう、ね?﹂
そうでないとボールが底をついてしまう。
137
響子は逆にこういったコントロールや力加減が必要なスポーツは得
意で、紗弓の得意分野である陸上競技などは大の苦手である。
なので珍しく響子が先だって紗弓にテニスを教えていると、二人の
所に栞が近づいてきた。
﹁あの、響子ちゃん。ちょっといい?﹂
﹁栞ちゃん?⋮どうしたの?﹂
﹁あのね⋮ん、ここじゃちょっと。こっち、きて。さゆちゃん、ち
ょっとごめんね?﹂
栞が手招きするので、響子はラケットを持ったまま水道場まで移動
する。
一人残された紗弓は首をかしげつつ、壁相手にテニスボールを打ち
始めた。
﹁真城ちゃんー!そのフォームはテニスじゃない!明らかに千本ノ
ックでもしようかという勢いよ!﹂
別の女子生徒が慌てて彼女の元へかけよった。
﹁ごめんね?さゆちゃんにはあまり聞かせたくない話なの﹂
﹁うん⋮そんな感じが、したけど⋮。何か、あったの?﹂
水道場の裏で二人は話す。
時々パコーンと音がするのはテニスの音。バコン!と音がするのは
紗弓が全力でボールを打つ音。
﹁あの、これ⋮見て﹂
栞はジャージのポケットから携帯電話を取り出し、それを響子に見
せる。
それを見て、響子の顔が青ざめた。
﹁これ⋮!酷い⋮こんな事書かれているの?﹂
﹁うん。明らかな嫌がらせだよ⋮。削除申請はしておいたから、ほ
どなく消えると思うけど⋮﹂
見せられたのは、フリーで使えるSNS。
学校名は伏せてあるが、明らかに明洛高校だと分かるコミュニティ
138
名。
そこに今、同じように名は伏せてあるが、﹁1年の特急制裁者﹂と
紗弓とわかる名称のタイトルであからさまな中傷がずらずらと書か
れていた。
どれも酷い。卑猥な中傷も沢山書かれている。どれも言われのない、
全く根拠のない内容だ。
﹁ひどい⋮っ!こんなの⋮。王子様とつきあってから⋮って、この
王子様って佐久間⋮先輩よね?﹂
こくんと栞が頷く。
王子様とつきあってから更に調子に乗っているとか、彼に開発され
てすっかり淫乱な女になっているとか。
まるでその場を見たような下世話な中傷も書かれている。
しかし紗弓と怜が本当の恋人同士ではないことを知っている響子は
ありえないと呟いた。
﹁でも、こういうのって⋮そのうち消えるものじゃないの⋮?私も
昔、ちょっと書かれたことあるけど⋮放置が一番って、聞いたわ﹂
中傷などは削除申請をして放置が一番だ。中傷の書き込みをしたア
カウントは削除されるし、相手をしないのが一番良い。
しかし、と栞は携帯電話を操作する。
﹁うん、普通はね。でもここ、見て⋮これを見て私、怖くなったの。
さゆちゃんに言ったら傷つきそうだから、響子ちゃんなら⋮って﹂
見てみる。
ずらずらとした中傷の後、﹁あの生意気な風紀委員を犯したい人、
募集﹂と書かれていて、その後に何人かが協力するとレスを返して
いる。そして最後に個人メッセージを送るとレスされて、その掲示
板の書き込みは止まっていた。
響子の顔が青ざめる。こんなあからさまな⋮。
栞が携帯電話を仕舞いながら俯いた。
﹁勿論こんなの犯罪よ。本気とは思えない⋮でも、本気だったら、
って思うと怖くて。ねぇ、どうしよう⋮﹂
139
﹁ん⋮そう、だね。私もビックリしてるけど⋮その、このSNSっ
てこの学校で有名なの?﹂
﹁ううん、本当、一部の人しか知らないと思う。私もね⋮ここの存
在知ったのは、2年の先輩に聞いたからなの。ほら、私⋮前に佐久
間先輩と少しつきあってたでしょう?それ繋がりでね、教えてもら
ったの。この掲示板ってしょっちゅう佐久間先輩派と光国先輩派で
喧嘩してるから﹂
なるほど、と頷く。
それならまだ、ましかもしれない。中傷はされているけれど、そう
蔓延していないのなら表向きには放置しておけばそのうち消える嫌
がらせだ。
あとはこの﹁犯す﹂とか不穏な言葉が書かれている内容だ。これさ
え何とかできれば、と考える。
考えて、たどり着く答えは一つしかなかった。
﹁うん⋮わかった。私、がんばってみる⋮。こ、怖いけど⋮でも、
さゆちゃんの為になら、頑張れる﹂
﹁ごめんね?私も、できることあったら言ってね﹂
二人は頷きあって運動場に戻っていく。壁にいくつかボールの跡を
つけていた紗弓が振り返った。
﹁あ、お話終わったの?﹂
﹁うん。ごめんねさゆちゃん。それじゃ、響子ちゃん、またね﹂
﹁⋮ん。こっちは任せて﹂
目配せをしてから栞は自分のグループへ戻っていった。
﹁なんかあったの?﹂
きょとんと聞く紗弓に、テニスボールを一つ掴みながら響子はぽそ
りと聞いてみた。
﹁さゆちゃん、SNSって⋮知ってる?﹂
﹁えすえぬえす?﹂
﹁あ、ううん何でもない。さゆちゃんが割とアナログな人って今、
思い出したから⋮﹂
140
﹁ちょっ⋮!?なんか今すごく馬鹿にしなかった!?﹂
慌てたように言う紗弓に、響子は笑ってごまかす。
紗弓はネットなどのデジタル関係にものすごく疎い。何せ今だにガ
ラケー使いで、それも年代物を使っているのだ。
逆によくその携帯もつね、と思ってしまう程。
そんな携帯では今時のゲームは勿論、携帯で快適にインターネット
を楽しむこともできない。
しかし彼女は全くそれを不便に感じていないところは、響子も感心
してしまう。
﹁⋮本人は全く気づいてないっていうのは、強みだよね⋮﹂
﹁だから何がよー!?﹂
これなら本当に、中傷については放置でいいだろう。あとの問題だ
けを集中して対処しようと響子は静かにテニスボールを握り締めた。
141
13.そしてそれぞれが動き出す
放課後の放送室。当番だった蓮華響子は一人この部屋で勉強をする。
当番といっても仕事は少ない。下校時間になったらそれを知らせる
アナウンスをし、音楽を流すだけだ。
時々呼び出し放送を頼まれる事もあるが、滅多にない。
カリカリ、とシャーペンを走らせる音だけが響く。
勉強は、響子の唯一の趣味であり、特技である。テストの点だけが
他人に自分を賞賛してもらえる唯一の方法だった。
﹃わぁ、すごく声が綺麗なのね。思わず聞き惚れちゃったわ﹄
黒フチのメガネをかけて、きっちりとした黒髪のポニーテールには
ほつれ毛ひとつ見当たらなくて。
いかにも委員長のような真面目な見た目で、自分より背の低い小柄
な女の子。
面倒見がよくて、何でも一生懸命。いつも全力前進。明るくて、勉
強に関しては思ったより平凡で。
どこにでもいるような、でも実はあまりいないタイプの女の子。
なぜなら彼女はとてもお人よしで、頼まれたら断れない。いつもそ
れで損をしているのに、本人はそれを損とも思っていない。
﹁仕方ないよね﹂と笑って流す。﹁誰かがやらないと、困るんでし
ょう?﹂と言って自ら動く。
蓮華響子は中学の頃、本当に喋らない女子だった。
いるのかいないのかよくわからない。テストの時だけその存在が思
い出される。
いじめはなかったけれど、掃除や雑用を押し付けられることはしょ
っちゅうだった。
それでいいと思っていたのに、見られてしまった。
142
放課後、いつものようにクラスメートに押し付けられた掃除を一人
でしながら歌っていたら、たまたま放課後の見回りをしていた彼女
に、真城紗弓に見られてしまったのだ。
﹃ねぇもう一回歌って欲しいな。あれって音楽の時間に習った歌よ
ね?えーとさんた⋮なんとか﹄
当然のように彼女はロッカーからほうきを取り出して床を掃きはじ
める。
歌の題名が思い出せないみたいで﹁うーん﹂と唸りながらぱさぱさ
と掃く彼女の後ろ姿に、響子は小さな声で答えを呟いた。
﹃サンタ・ルチア﹄
﹃あーそれ!サンタルチア!すーるまーれるっちかー⋮らーすとー
あじぇんとー⋮﹄
勝手に歌い出す。それにしてもあまり上手とはいえない。スペルも
lucc
間違っているし、アクセントも全然違う。でもなんだかおかしくな
ってしまって思わず笑ってしまった。
﹃笑ってないで歌ってよ!歌は苦手なの!﹄
mare
d'argento∼⋮﹄
﹃ふふ⋮ごめんね?⋮こう、だよ? Sul
ica∼⋮l'astro
輝く海 輝く星空
軽快に進め
波は穏やかに、風は軽やかに
私の小舟よ
聖ルチア 聖ルチア
放課後の赤い教室。
143
自分は初めて人に歌を披露して。
気持ち良さそうに聞く紗弓の顔が、嬉しくて堪らなかった。
からりと音をたてて放送室のドアが開かれる。響子は勉強の手を止
めて顔を上げた。
ひょこ、と顔を出したのは光国八雲。
﹁あ、いたいた。呼ばれたから来たんだけど?こんにちは﹂
﹁すみません⋮お呼び立てしてしまって。生徒会室に行ってもよか
ったんですけど、今日、私放送室の当番、で⋮﹂
﹁ううん、大丈夫だよ。紗弓ちゃんについて相談があるって?﹂
ひらりと八雲がメモの紙を掲げる。響子が生徒会室の机にこっそり
置いていた伝言メモだ。
こくりと頷き、放送室の奥へ八雲を案内する。と、彼の後ろから佐
久間怜も現れた。
﹁あ、佐久間、先輩も⋮来られたんですね﹂
﹁はい。可愛い恋人の話なら聞いておくのが道理かと思いまして﹂
響子は異性がとても苦手である。特に佐久間怜は自分にとって鬼門
かと思うくらい苦手部類に入り、なのであえて八雲宛てにメモを残
しておいたのだが、二人が一緒に来ることはある意味想定内に入れ
るべきだったと、少し落ち込む。
しかし怖気づいていられない。紗弓の為に頑張ると心に決めたばか
りなのだ。
﹁へぇ、放送室って奥の部屋があるんだ﹂
﹁はい。ドアが目立たないから知らない人も多いみたいですね。そ
れに、部屋⋮というより、保管室に近い、ですから﹂
鋼板製の棚にずらりと並ぶのは、イベント行事で使われるCDや、
演劇で使用するような効果音集やBGM集といったCD。他に放送
関係の書籍なども置いてある。
申し訳程度に置いてあるアルミのイスを二人に勧めて、少し離れた
144
所に自分もイスに座った。
﹁放送室は防音仕様になっていますし、さらに奥の部屋ならそうそ
う声も漏れないので⋮﹂
﹁そうみたいだね。ふぅん⋮なんか変なことにも使われてそうな部
屋だなー﹂
﹁⋮変なこと、ですか?﹂
﹁この変態の言う事は無視してもらって結構ですよ。それでご用件
なんですけれど﹂
﹁お前だって絶対、ちょっとは考えただろ!﹂
横から必死で訴える八雲を手で振ってあしらいつつ、怜は響子に話
を促した。
栞から聞いた話に、八雲と怜は黙り込む。
響子はポケットから携帯を取り出し、昼に栞から見せてもらったS
NSを検索して二人に見せ始めた。
﹁見たほうが、早いと思います⋮ここ、です﹂
彼女の携帯を受け取って、八雲が液晶部分に指を滑らせる。隣から
覗くように見ていた怜は、だんだんと顔をしかめさせた。
﹁こんなサイトがあったなんて。僕が知らないということは相当一
部で使われているようなコミュニティなんでしょうね﹂
﹁はい、栞⋮ちゃんが2年の先輩から聞いたって⋮あの、栞ちゃん
っていうのは﹂
﹁ええ、存じてますよ。お付き合いした女性の名前はさすがに覚え
ています﹂
にっこりと微笑まれる。妙なところで真面目というか、誠実な人な
んだなと響子は思った。
﹁一部だとしても、酷いねぇこれは。あ、俺のことも書き込まれて
る。なに!アレの長さが30cmだと!それはもはや人間じゃない
!﹂
﹁ちょっと八雲は黙ってください。これ、紗弓の中傷が始まったの
145
はごく最近のようですね。最初の書き込みなんて昨日です。それな
のにこの量。きっとこれは、同一人物か複数の人間が短時間で連投
してるんでしょうね﹂
響子の携帯を見続ける八雲を他所に怜が響子と話し始める。
彼女は若干怯えながらも頷いた。
﹁そう言われれば、そう⋮ですね。でも、そうだと⋮この最後あた
りの⋮書き込み、が⋮急すぎます、よね。最初からこれを⋮募集す
るのが決まっていた、ような﹂
﹁ええ。蓮華さんの言う通り、最初からこれを書くつもりで、人の
注目を集めるために中傷を書いたのでしょう。人の悪口って、皆好
きですからね?悪趣味ですが﹂
ふうむ、と彼は指を唇に乗せつつ、自分もポケットから携帯電話を
取り出し、検索を始めた。
﹁⋮ちなみに、紗弓はこの事を?﹂
﹁知りませんし⋮気づいてません。あの、さゆちゃんはその⋮こう
いうの、興味がないっていうか⋮う、疎いんです⋮すごく﹂
﹁ああ、そういえばすごく年季の入った携帯電話使ってますよね。
ふふ⋮らしいといえば、らしい⋮かな。気づかないまま風化してほ
しい件ですね、これは﹂
﹁本当に、そう思います。あの、それで⋮どうしましょう⋮。本気
じゃないかもしれない、ですけど⋮なんだか、嫌な予感がして⋮﹂
そう俯くと、しばらく携帯を見ていた八雲がふいに顔を上げ﹁あり
がとう﹂と響子に携帯を返す。彼女はそれをポケットに戻しながら、
八雲を見た。
彼は、笑っている。
﹁ふふー、これは僕の情報網が活きるかも。このコミュニティ、僕
の可愛いファン達も知ってるんだね。もしかしたらそこから、この
書き込みをした人間が特定できるかも?まぁ、十中八九、怜ファン
の誰かだろうね。他にここまで紗弓ちゃんを傷つける動機のある人
って、思いつかないし﹂
146
﹁そうですね。あんなに釘を刺したのに⋮随分と僕はみくびられて
いるようです。後はこの、紗弓を犯すなんて殺しても文句が言えな
いような戯言をのたまう人間も特定しないと。フフフ⋮楽しくなっ
てきましたねぇ?﹂
フフフ、ククク、と二人の男が笑いあう。
気絶してしまいそうな程怖いけど、この二人なら絶対に何があって
も解決するだろうと響子は確信した。
◆◇◆◇
響子達が放送室にいる頃、鮮花は一人、2年のクラスが並ぶ廊下に
立っていた。
﹁おう、女王様、どうした?﹂
扇田が鮮花に近づく。彼女が放課後に話があると呼び出しておいた
のだ。
彼女は﹁女王様﹂と呼ばれてもまったく否定しないで話を始めた。
﹁この男、知ってるでしょ﹂
メモに書かれた5人の名前のうちひとつに、赤いボールペンで丸が
囲ってある。
それを見て彼は﹁ああ﹂と呟いた。
﹁そりゃな、中学からしょっちゅう絡まれてりゃ、覚えるわ﹂
﹁最近もトラブルがあったんじゃない?割と深刻な﹂
﹁⋮なんで知ってんだよ﹂
ふふ、と鮮花が腕を組んで笑う。どんな仕草をしても彼女の姿は色
がある。
しかし扇田は目を半眼にしており、彼女の色気は全く通じていない
ような感じがした。
﹁女の子にはヒミツの情報網があるのよ﹂
﹁ねーよ普通。上羽みたいなヤツばっかりだったら俺は確実に女性
不信になる﹂
147
﹁あら言ってくれるわね。まぁ、人から聞いたのよ。女を取り合っ
たんですって?﹂
すると扇田は眉を上げて驚いた顔をした後、みるみると胡乱な目に
なった。
﹁本当になんで知ってんだよ⋮。でも、取り合ったんじゃねえよ。
あいつが俺の女にちょっかいかけてきたんだよ。それでちょっと⋮
な﹂
﹁なんでそれ、風紀委員に言わなかったの?園田先輩とか﹂
﹁残りの4人もそれぞれ色々とあるから。一番最近トラブったのは
コイツだけど、他の4人だってそのちっと前にやっぱり喧嘩したり、
絡まれたりしてる﹂
﹁あんたほんとに、呆れちゃうくらいトラブルメーカーなのねぇ。
ちょっとあちこちで喧嘩買うのやめたら?﹂
﹁うるせーな!売られたら買うのが信条なんだよ!⋮で、上羽はな
んでコイツに赤丸つけてんの。根拠があるわけ?﹂
上羽は﹁んー﹂と可愛く指を唇に立てて、小首をかしげる。
可愛い仕草をすると非常に愛らしく見え、彼女を信奉する男ならこ
ろっとまいってしまいそうである。
﹁調べたんだけど、この人だけね、昨日のアリバイがなかったの。
他の4人は部活だったり、帰宅してるとこを見ている人がいたりね。
それで扇田が最近、この男と口喧嘩してたなぁって思い出したのよ﹂
﹁お前は将来刑事にでもなるつもりか⋮﹂
﹁いいわねぇ、でも私、婦人警官はなるより鑑賞するほうがいいわ﹂
﹁婦人警官と刑事は違うと思うけどな!?でも、それだとほぼコイ
ツで確定じゃねえか﹂
﹁ええ、確定でしょうね。でもねぇ、話は指輪盗難がどうのってだ
けじゃなさそうなのよ。だからまだこの男に何かけしかけないよう
にって、扇田に釘を刺すために今日呼んだの。放っておくと貴方そ
のうち、この5人に片っ端から因縁つけていきそうなんだもの﹂
うっ、と扇田が顔を歪ませる。やはりそのつもりだったらしい。
148
﹁なんだよそれ、指輪だけじゃないって⋮﹂
﹁扇田の指輪を盗って困るのは扇田だけじゃないって事。まぁ、早
く取り戻したい気持ちもわかるけど⋮多分明後日には解決するだろ
うから、ちょっとだけ待って欲しいの﹂
﹁⋮なーにをたくらんでやがんだ⋮?まぁ、1日くらいなら待って
もいいけど。でも指輪を取り戻す時は俺を絶対入れろよ?コイツが
犯人なら遠慮なく叩きのめせるしな﹂
﹁そうね、協力してもらうかもしれないわ。一応貴方のメール、教
えてもらえる?﹂
二人は携帯番号を教えあう。
赤外線通信を終えて上羽は艶っぽく笑った。
﹁私の携帯番号が知れるなんて、レアなのよ?ありがたく思ってね﹂
うふんとしなを作る鮮花に扇田はものすごく嫌そうな顔をした。
149
14.紗弓の思い出。嫌悪編
次の日、2限目が終わって紗弓が3限目の教科書を用意していると、
廊下でざわめきが起こった。
﹁女王様がお成りになったぞー!﹂
﹁明洛のマドンナ!?﹂
﹁今時マドンナはねえよ⋮!?でもおっぱいでけぇなぁ⋮いて!﹂
﹁男子目がやらしい!きもい!﹂
マドンナ、女王様⋮紗弓の頭の中には一人の女性しか該当者が思い
つかない。
廊下でざわざわとした後﹁はいっ!かしこまりました!﹂と男子の
声が聞こえた。そして自分のクラスのドアが開かれる。
﹁真城ー!女王様がお呼びだー!﹂
﹁やっぱりいいい!﹂
頭を抱える。やはりそうだ。廊下からちらりと見える女性の影。そ
の目立つ風貌は見間違いなどではない。
佐久間怜に続いて上羽鮮花とも仲が良いなんて!と驚愕するクラス
メートを置いて、紗弓は廊下に出る。
﹁あの、わざわざ来られなくても⋮昼に生徒会室でお話してもよか
ったんじゃ⋮﹂
﹁あらごめんなさい。でも私が今日お昼は別で用事があって。先に
伝えておこうと思ったの⋮ちょっとだけ、いいかしら?﹂
そう言って鮮花は紗弓をつれて、人の比較的少ない外に設置された
自販機コーナーへ歩いていく。
何か飲む?と聞く彼女に﹁じゃあ﹂といちご牛乳を購入して、二人
はベンチに座った。
﹁昨日、さゆちゃんに聞いた話なんだけどね。こちらで調べたんだ
けど⋮﹂
鮮花は説明する。5人の男子生徒のうち、職員室に来た可能性があ
150
る人間は一人だけという事。そしてその一人はごく最近、扇田とト
ラブルが起きていたという事。
﹁他の4人は、部活や帰宅がわかってるんですか⋮。2年生、田原
⋮先輩﹂
名前を呟く。呟いたところで顔がわからないので想像はつかない。
﹁まぁ、この5人の中では、って事ね?他の可能性とか言われたら
さすがにお手上げだわ?﹂
﹁はい、とても疑い深いというだけで証拠もないし、確定したわけ
ではないですし⋮﹂
﹁そういう事ね。だからもし動くなら慎重にしたほうがいいわ。風
紀委員でまた今日も話し合いするんでしょう?﹂
紗弓はこくりと頷く。何にしてもこの田原という男を調べなくては
いけない。
しかしそれは自分ではなく、園田や教諭が行うべき事だろう。
﹁鮮花先輩、ありがとうございます。とても助かりました﹂
﹁ふふ、全力で頑張っちゃうって言ったじゃない。⋮ところでね?
一つ聞きたいんだけど、紗弓ちゃんはこの田原って男、知らない?﹂
面白い事を聞くような、少し茶目っ気のある笑顔で鮮花が聞いて来
る。
もちろん知らない男なので紗弓は首を振った。
﹁いいえ、知りません⋮けど?﹂
﹁⋮そう。⋮じゃあ、いいわ。それじゃあ後はよろしくね。何かあ
ったらまた相談してね﹂
飲み終わったいちご牛乳をごみ箱に捨てて、鮮花は2年の校舎へ戻
って行った。
残された紗弓は首を傾げる。
﹁田原⋮?うーん⋮どう考えても、知らない、わよね?﹂
思わず自分に聞いてしまった。
しかし、思い出というのは突如思い出されるもので。
151
今はまだ思い出せない紗弓は昼休み、昼食を終えた後いつもの職員
室へ向かっていく。
控え室にはいつものメンバーがいて、ほどなく各自の報告が行われ
た。
﹁昨日、ちょっと2年を回ってみたんだけど⋮茶髪の男はそんなに
たくさんはいなかったねぇ。やっぱり鹿島が言うように、その5人
から搾ったほうがいいかも﹂
稔の言葉に紗弓がはい、と手をあげた。
﹁鮮花先輩から教えてもらったんですけど、その5人のうち、4人
の⋮その、田原っていう人以外は皆、部活とか、帰宅する所を見ら
れているとかで、職員室には近づいていないみたいなんです﹂
﹁上羽がそんな事を?⋮むぅ、あいつに借りができるのはものすご
く癪だけど、それが本当ならこの田原という男が犯人になるのかな
?﹂
﹁ありそうですね。つい最近扇田君と派手に口喧嘩してましたし、
廊下で。すごく迷惑でしたから覚えています﹂
﹁⋮うるせえな、それでどうるんだよ。つるし上げるのか?﹂
鹿島の言葉に扇田がそう言うと、顧問の教諭が慌てて彼を止める。
﹁こらこら、そんな生徒内でリンチのような事は許さんぞ。こうい
うのは俺がそれとなく聞いたほうがいいだろう。俺達先生に任せた
ほうがいい﹂
教諭の言葉に何か言いたそうな顔を扇田はしていたが、珍しく黙り
込む。
そんな彼を横目に見つつ、稔が場をまとめる。
﹁そうだね。僕もこういう窃盗事件は先生にまかせたほうがいいと
思う。下手に生徒が動くとよけいなトラブルも発生する可能性があ
るからね?皆はそれでいい?﹂
風紀委員のメンバーは、紗弓を含めて全員が賛同する。
それを確認して、稔は頷いた。
﹁それじゃあ、後は先生に。⋮先生、指輪の件、よろしくお願いし
152
ます﹂
こうしてとりあえず指輪の件については教諭にまかせる事となり、
風紀委員としての仕事は一見、幕を閉じたのだった。
紗弓が教室に戻ると、響子が出迎える。
﹁おかえりなさい、さゆちゃん⋮どうだった?﹂
﹁うん、とりあえずは先生に任せることになったわ。後は先生の答
え待ち。⋮ちゃんと正直に返してくれるといいんだけどな⋮﹂
﹁そっかぁ⋮良かったね?昨日も今日もさゆちゃん忙しそうだった
し⋮やっと落ち着く?﹂
﹁と、いいわねぇ。期末も近いし⋮もうあんまりばたばたしたくな
いわ﹂
息をついて席に座る。5限目も近いので響子も﹁そうだね﹂と軽く
相槌をうって席に戻っていった。
紗弓も授業の用意をしようと机下の引き出しから教科書を取り出そ
うとする。その時、かさりと手に当たる感触に気がついた。
﹁⋮ん?紙⋮?﹂
そのまま取り出す。そこにあるのは、よくある茶封筒。
自然と中を開ける。ころりとした何か固いものをが入っているのを
感じて、手のひらに落としてみる。
﹁!これって⋮っ﹂
顔が青ざめる。体が震える。
紗弓は、とうとう思い出してしまった。
◆◇◆◇
真城紗弓は中学2年の頃、一人の男子生徒につきまとわれていた思
い出がある。
その男は1年上の3年生で、なにがきっかけなのかは分からないが
執拗に追い掛け回されたのだ。
153
自分と付き合えと言う、俺の女になれと言う。
しかし中学生の自分に異性とのつきあいなど想像もつかないし、男
に好意を持ったわけでもなかったので、紗弓はすげなく気丈に断っ
た。
しかし断れば断るほど、男はしつこくなった。
そしてある日、とうとう男は紗弓の胸倉を掴み暴力に訴えようとし
たのだ。
紗弓は必死て抵抗し、揉み合いの末、男は紗弓の名札を引きちぎる。
その時たまたま見回りをしていた教師に見つかり、男は紗弓の前か
らいなくなった。
その引きちぎられた、プラスチック製の名札が茶封筒の中に入って
いた。
封筒の中にはメモ用紙も入っていて、それをこっそりと見る。
﹃明日の放課後、運動場横にあるクラブ室へ一人で来い。誰かに言
えば、指輪は戻らない﹄
︵田原、って⋮あの男の名前だったんだ⋮。あいつ結局名乗らなか
ったんだもの⋮知らなかった⋮︶
頭を抱えたくなる。
自分の中ですでにもう、昔そんな事もあったという様な思い出で、
終わった出来事だったのだ。
そういえばあの男は茶髪だった。チャラチャラした雰囲気で、ニヤ
ニヤと笑ってた。
まさか同じ高校だったなんて⋮。
5限、6限と、ほとんど授業が耳に入らなかった。
﹁さゆちゃん、どうしたの?ずっとぼーっとしてるよ?お昼から⋮。
期末も近いのに、大丈夫?﹂
154
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁さゆちゃん!﹂
﹁んぇっ!?あ⋮きょーちゃん⋮。う、ううん⋮何でも⋮ないの﹂
顔が青ざめ、顔がこわばっている。明らかに何かあった顔だ。
響子は不安そうな表情になって彼女を心配する。
﹁大丈夫?⋮何か、あったの?﹂
﹁なにもないわよ!⋮あ、ごめん⋮本当に、なにもないの⋮﹂
よろりと立ち上がる。
そして片付けをすると、カバンを持ってふらふらと教室を出ようと
する。
﹁ど、どこいくの?さゆちゃん﹂
﹁生徒会室⋮一応⋮日課みたいなもんだから、佐久間と帰らなきゃ
⋮⋮﹂
ぶつぶつと呟き、去っていく。
あんな紗弓は見た事が無い。絶対何かあったんだと、響子は慌てて
携帯電話を取り出した。
﹁さ、紗弓?どうしたんですか?﹂
﹁え?帰ろうって⋮﹂
生徒会室に入ると佐久間怜と護がいて、彼女を出迎えた怜は酷く驚
いた顔で紗弓を見た。
﹁顔が真っ青ですよ?⋮何かあったんですか?﹂
﹁皆それ聞くけど、何もないから。とっとと帰るわよ。⋮用事があ
るなら一人で帰るけど﹂
﹁用事はあるのですが⋮しかし⋮一人で、帰るのは⋮﹂
少し悩んだように彼は紗弓から視線を外す。そして何か決意したよ
うに彼女へ向き直った。
﹁家、近いんでしょう?貴女の家まで送っていきます﹂
前は家を知られるのを嫌がっていた紗弓だが、今日は酷く大人しく
﹁わかったわ﹂と頷く。
155
それにまた怜は驚いた。
おかしい、紗弓の様子がおかしすぎる。
すぐにでも彼女を問い質したい気持ちにかられたが、とにかくと紗
弓の背中を押して生徒会室を後にする。
何とか帰り道にでも話が聞ければいいのだが⋮。怜は心配そうに元
気のない紗弓の横顔を見た。
﹁次そこ⋮右﹂
﹁なるほど、学校の裏って住宅地になっているんですね﹂
てくてくと帰路を歩く。本当に彼女の家と学校は近くて、ほどなく
紗弓の住むマンション前にたどり着いた。
﹁⋮近いですね﹂
﹁だから言ったじゃない。もう⋮いつも駅まで行くの、大変なのよ
?殆ど来た道戻ってるんだから﹂
それでも紗弓はいつも怜につきあって駅まで見送っていた。
本当に彼女はお人よしだ。そんな性格だと損をした方が多いだろう
に、と思う。
今だって人から好まれると思えない風紀委員をやっており、その仕
事を熱心に全うしている。
きっと、そんな風紀委員もまた、クラスで委員決めをしている時に
誰もやる人がいないから手を上げたのだろう。
そういう人間なのだということは怜も薄々分かっていた。
責任感が強くて馬鹿正直で何でも一生懸命。人が良くて、元気で、
照れ屋で、食べ物に弱くて、見た目真面目そうでいかにも頭が良さ
そうなのに、実は苦手教科の方が多い、どこか抜けてる女の子。
何故だろう。どんどん彼女の特徴が魅力に変わっていく。
彼女の時々見せる笑顔もいいけど、からかったときに見せる怒り顔
を見るのも良くて。
⋮でも、今の悲しそうな、辛そうな顔は、見たくないと思う。
156
﹁⋮紗弓、僕達まだ、電話番号やメールアドレスの交換、してませ
んよね?お互いに連絡することも多いですし、この際交換しません
か?﹂
﹁あ⋮え?⋮してなかったっけ⋮﹂
﹁はい。僕も最近思い出したんですけどね。いいですか?﹂
﹁⋮そうね、考えてみれば私いつも、貴方に用事がある時は生徒会
室に行ってたわ。確かに携帯で連絡できると便利ね⋮﹂
紗弓は素直に携帯を取り出し、赤外線通信をする。一体何年前に買
ったんだ?と思うような年季の入った携帯電話に思わず顔が笑って
しまう。
﹁⋮なによ﹂
﹁いえ、随分と使い込んでる携帯電話ですよね。思い入れが?﹂
﹁え?そんなのないわよ。まだ壊れてないし、新しい携帯は操作を
覚えるのが面倒だし﹂
やはりそうか。彼女はこういった物事には頓着しないらしい。
しかしそういった軽い会話を交わしていても、彼女の顔は浮かない。
﹁紗弓⋮本当に、なにかあったんでしょう?話してもらえないので
しょうか﹂
﹁何も⋮⋮⋮ない、わよ﹂
﹁さゆみ⋮。貴女に色々とした僕が言うのはお門違いかもしれませ
んが、やはり信用してもらえないのでしょうか?﹂
少し寂しそうな怜の言葉にハッとしたような顔をして紗弓が顔を上
げた。彼女は見上げ、彼と視線を交わす。
﹁あ、あれはいいのよ。もう、いいの。そうじゃないわ⋮信じてな
いんじゃなくて⋮。言えな⋮あ﹂
しまった、という顔をしてきょろきょろと辺りを見渡す。
そして逃げるように紗弓は怜から距離を置いた。
﹁本当、気にしないで!そ、それじゃあ送ってくれてありがとう。
じゃあね!﹂
そのままばたばたとマンションへ帰っていく。
157
残された怜は一人、マンションを見上げた。彼女は何階なのだろう
と思う。
それにしても﹁言えない﹂とはどういう事だ。彼女は誰かに口止め
をされている?脅されているのだろうか。
そんなのは許せない。彼女を脅し、あんな怖がったような顔にさせ
たものは、決して許さない。
まだ学校でやる事がある。
怜はマンションから背を向けて学校へ戻って行った。
158
15.怜的にこれは仕返し決定事項です
生徒会室に戻ると、すでに3人の役員が揃っており、怜を含めて全
員が揃った。
﹁お、帰ったか、怜﹂
八雲の声に頷いて、怜はそのままソファに座る。
向かいには鮮花がいて、﹁さて﹂と足を組んだ。
﹁さっき八雲と話していたんだけどね?私達、情報の共有をしたほ
うがいいと思うの﹂
﹁どういう事ですか?﹂
﹁貴方、例のサイトのこと調べてるんでしょう?それと、こっちの
情報が繋がるような気がしてね﹂
﹁僕も鮮花さんから頼まれてちょっと調べ物をしてたんだ。それも
多分、聞いておいたほうがいいと思うよ﹂
護も何かを調べていたのか、と怜は鮮花と護を見る。そして頷いた。
﹁⋮わかりました。ではこちらから話しましょう﹂
自分の話はそう長くはない。栞経由で知ったSNSのコミュニティ
の事。彼女の中傷と、不穏な誘い。どうやら中傷は怜のファンの一
部がやっており、それとは別に彼女に不埒なことをしようとする男
がいる事。
そこから八雲が言葉を引き継ぐ。
﹁僕の可愛いファン達に聞いてみたんだけどね。中傷の書き込みし
たアカウント。あれはね、2年の桜田と本間だ。しばらく前に掲示
板内で喧嘩してた時にわかったみたいだね?ふふ、同じ学校内だと
特定しやすいのかな?﹂
桜田に本間、どちらも怜の﹁元彼女﹂だ。そして、別れた後も﹁も
う一回つきあってくれ﹂としつこく誘ってきた、いわゆる﹁常連彼
159
女﹂だった女達である。
なるほどと怜が納得していると、鮮花が次に話し出す。
﹁私の方は、そもそもさゆちゃんから話がきたのよ﹂
鮮花は、紗弓から﹁指輪盗難事件﹂の詳細と、何人かの容疑者につ
いて調べてほしいと頼まれていたことを語る。
﹁⋮それで、その5人の男子のメモを見た時にね、この⋮田原って
男に覚えがあったのよ。こいつは何ていうか⋮本当にしつこい男で
ね。私、散々彼につきまとわれていたの。嫌になるくらい。それで
一度こっぴどく言ってやったらね﹃お前もあの生意気な真城と同じ
ような事を言いやがって!﹄って、すごく怒り出したの。そのまま
殴られそうになったけど、そこは100倍に返してやったわ。それ
以来、声をかけてくることはなかったんだけどね﹂
ウフフ、と笑う。
彼女はこう見えて、怜と対等に組み手ができる程の腕を持つ女なの
だ。
﹁それで少し気になって、護に調べてもらったの。田原を⋮。男の
噂は女に聞くのが一番だもの。ね?護﹂
こくりと護は頷き、にっこりと笑った。
彼には彼の情報網がある。護を可愛がる上級生の女子生徒たちだ。
護の﹁お願い﹂にとても弱い。
﹁﹃おねえさま達﹄が教えてくれたよ。田原って男は中学時代、1
年下の紗弓ちゃんにしつこくつきまとっていたらしいね。勿論彼女
はキッパリハッキリ断っていたらしいけど、それが意地になったの
か、しつこさがエスカレートしたみたいだ。それでちょっとした暴
力沙汰になったらしいよ﹂
﹁暴力沙汰⋮だと!?﹂
思わず素が出て、怜が体を乗り出す。それをまぁまぁと護が手で抑
えた。
﹁殴られたりはないよ。もみ合った程度。すぐに教師が気づいたら
しくってね⋮彼はそのまま停学になって、消えるように卒業したん
160
だ﹂
そして明洛高校に入学し、その1年後、紗弓が入学したのだ。
田原という男は紗弓が入学するまでは高校で鮮花に執着し、痛い目
に合わされた後、入学してきた紗弓を再び狙っていたのだろう。
﹁では、この田原、という男が⋮このコミュニティで彼女を犯そう
という書き込みをしたと?﹂
﹁そう確信したのは理由があってね。彼が鮮花さんに言い寄ったり
紗弓ちゃんを狙っている間、それとは別につきあっている女子がい
たんだよ。その女子は⋮中田さん。怜の﹁常連彼女﹂で、いつも桜
田さんや本間さんと行動を共にしているグループの一人だよ﹂
覚えがある。いかにも遊んでいそうな女だったという覚えだ。自分
以外に男がいても違和感を感じないし、それを知った所でどうとも
思わない。
しかし、それでやっと繋がったと全員が思った。
﹁それにしてもその、田原ってやつは節操がなさすぎじゃないか?
紗弓ちゃん、鮮花、とは別に中田、で、また紗弓ちゃん⋮って﹂
﹁節操ないっていうか、そういう男なんだよ。他の女子生徒にもし
ょっちゅう声をかけてるしね。中田さんだって正確には彼女じゃな
くてセフレ。他にも何人かいるよ。だから紗弓ちゃんや鮮花さんに
しても﹁彼女﹂じゃなくてセフレになれっていう誘いだったんだと
思う﹂
﹁俺以外に、この高校でハーレム王国を作ろうとする男がっ!!こ
れは全くもって許せないな!﹂
そんな野望あったの?小さい男ね、と鮮花が呆れたような目で八雲
を見るが、怜はいらいらと膝を指で叩いていた。
本当に許せない。こんな風に裏で彼女を中傷し、陰湿な嫌がらせを
する女も許せないが、自分の紗弓を性欲の目で見、実際にコトを起
こそうとしている男も殺してやりたい。
そして、彼女が怯えた顔で﹁言えない﹂と言っていたことを思い出
161
した。
﹁⋮もしかしたら、紗弓はすでに田原から何か脅されているのかも
しれません。今日の怯えは普通じゃなかった﹂
﹁紗弓ちゃんが?⋮そういえば、響子ちゃんからメールが来てたな。
話聞いてみたら、昼の後から様子がおかしいって﹂
﹁会長、いつの間に蓮華さんとメールしてるの⋮?﹂
﹁前、携帯見せてもらった時にちょちょっと登録しておいたの﹂
うわぁ、と引く護。
鮮花がそんな二人を見ながら唇に指を添え、考えるような仕草をす
る。
﹁もしかしたら、指輪のことで脅されたのかしら?彼女は責任感が
強いもの。誰かに言えば指輪を返さないとか書かれたら彼女は絶対
黙るし、一人で抱えちゃうわ﹂
﹁⋮ふぅん、それで指輪を返してほしければ、おとなしくヤラせろ
と?ふふ⋮随分と古典的な⋮何ともわかりやすい手を⋮ククク﹂
突然怜は体を揺らせて笑い出す。
彼の背中から見えないが、めらめらとした黒い炎がゆらめいた。
﹁はははっ自分が手を出さなければセーフだとか思ってるんですか
ね?あの女達は。⋮随分と見くびられたものです。そしてこの男も
⋮紗弓が誰のモノかわかって手を出してるんでしょうかね?ああも
う、⋮思い知らせてやらないと。存分に、遠慮なく﹂
ふふふ、と笑って彼はたくらみ始める。
ブチキレる怜に護がごくりと喉を鳴らした。
﹁なんか、怜、キレてらっしゃる⋮?﹂
﹁そうね。というか普段敬語で穏やかで飄々と見えるけど、結構怜
はすぐキレるのよ﹂
﹁今時の若い子だよね!俺達ん中で一番沸点低いよね。ちなみに一
番高いの俺ね!﹂
怜とつきあいの長い鮮花と八雲は事も無げに言う。
八雲の沸点は置いといて、まだ怜とのつきあいは短い護は彼の新し
162
い一面に若干面食らっていた。
﹁⋮さて、鮮花。指輪の持ち主と連絡取れるんですよね?是非協力
してもらいましょう﹂
考えのまとまった怜が顔を上げる。
鮮花は頷いて、携帯電話を取り出した。
﹁いいわよ。メール、打つの?﹂
﹁はい。僕が打ちます。⋮それから八雲は蓮華さんと連絡が取れる
んですよね?では是非お願いしたいことがあるんです。紗弓に⋮﹂
手早く彼は八雲に指示を出す。八雲は了承してメールを打ち始めた。
﹁それから護は﹃お姉さま達﹄に話を通しておいて欲しいんですが、
お願いできますか?﹂
﹁勿論。お姉さま達は田原くんも、桜田さんのグループもあまり好
きじゃないからね。喜んで協力してくれると思うよ?﹂
女を敵に回すと恐ろしい。しかし最大限にこれを利用する。
﹁では全ては明日に。ああ、楽しみですね。僕も色々用意しておき
ます﹂
最後ににっこりと、怜は笑った。
◆◇◆◇
足取りが重い。気持ちが重い。紗弓は力なく学校へ登校する。
休むことは考えなかった。
かといって、手紙の通りにするのも嫌だ。紗弓はどうするか答えが
でないまま、日常を辿るように教室へつく。
﹁さゆちゃん!おはよう。今日は理科室だよ。一緒に行こう⋮?﹂
そうか、今日1限目は化学の時間。⋮理科室に行かないと。
紗弓は思考の渦に嵌ったまま響子と共に化学室へ移動する。
ふらふらと歩く彼女を見て、響子は一人決意を新たにしたようにぎ
ゅっと拳を握り締めた。
163
昼休みになり、紗弓が購買か学食か悩んでいると、すかさず響子と
栞がやって来る。
﹁さゆちゃん、お昼どうするの?﹂
﹁⋮そうね。⋮学食かなぁ⋮﹂
﹁あのね、私、ラ・フルーレのパン買ってきたんだけど、一緒に食
べない?ここで﹂
栞がにっこりと笑って、少し大目に買ったパンの紙袋をかさりと上
げた。
ラ・フルーレの名前に紗弓がわずかに反応する。
﹁う⋮ん、どうしようかな⋮でも﹂
﹁わぁ、美味しそうなカスタードクリームパンに、カリカリメロン
パンだよ?本格カレーパンまで!美味しそうだよ∼さゆちゃん!﹂
響子も必死に紗弓を誘惑する。栞はクリームパンを取り出すと、真
ん中に割った。とろっとしたクリームが見えて、紗弓の心が掴まれ
る。
﹁ほら、食べよう?はい。さゆちゃん﹂
﹁ん⋮ありがとう。じゃあ、私のぶん払うわね?はい﹂
紗弓が財布から500円を出して栞に渡す。彼女に買ってもらう時、
いつもこうやってパンの代金を渡しているのだ。
栞から3つのパンを貰って食べていると、響子が弁当の卵焼きをつ
まみながら紗弓に話しかけてくる。
﹁そうだ、さゆちゃん、ご飯終わったらね、私図書室に本を借りに
いきたいの⋮一緒に来てくれる?﹂
﹁いいけど⋮どうしたの?いつもは一人で行っちゃうのに﹂
﹁ああその、し、栞ちゃんにね、オススメの本を教えにも行くんだ。
さゆちゃんもたまには読んでみよう?結構面白い本、多いんだよ?
ここの図書室って﹂
今日は珍しく響子がよく喋る。
栞も﹁そうそう、そうなんだよ!﹂と同意し、同じように紗弓を誘
164
う。
半ば彼女達に押し切られる形で紗弓も図書室へ行くことなり、昼休
みはそれで終わることになった。
時は過ぎて、6限目。
これが終われば今日の授業全てが終わって放課後になる。
その時⋮自分はどうしたらいいんだろう。
あの田原という男の嫌な感じは覚えている。ニヤニヤしてて、目線
にざわついて、断っても断ってもしつこく追い掛け回された。
最後に胸倉を掴まれ、殴られそうになった時は背中に汗が出た。
あれは紗弓にとって、とても嫌な思い出なのだ。
どうしよう。一人で行くのは怖い。誰かに相談したいと思う。
だけど、相談するのも怖かった。もしばれて、指輪が戻らなければ
自分の責任だ。
けれども自分ひとりで解決できる問題とも思えない。何より怖いか
ら、誰かに頼りたくて仕方が無い。
佐久間怜︱︱。
あの人に相談したい。そうしたら全て解決しそうな気がするのはど
うしてだろう?
いつの間に、そこまで信じられるようになったんだろう。
時々紗弓は自分は少しおかしいのかな、と思うようになっていた。
何故なら自分は佐久間怜から、割と手酷いこともされていて、本来
は嫌ってもおかしくないはずなのだ。
押し切られるようにこんな関係になった。反抗心を燃やして抵抗し
てみたら襲われかけて、あられもないところを見せるはめにもなっ
てしまった。それだけでも十分自分は、彼を嫌う道理があるのだ。
なのに、自分はあの出来事をそう重く感じていない。
それどころか、あの日があったからこそ今の彼との距離が近くなっ
165
たと喜んでさえいる。
だから女の子としておかしいのではないかと思うのだ。
真城紗弓は﹁普通﹂と﹁異常﹂、この二つの思考がなぜ鬩ぎ合うの
か、その理由がわからない。
気づいていない。
⋮思考がそれた。
思うよりずっと自分は困っているらしい。他のことを考える余地な
どないのに、考えたくないから別のことを考えてしまう。
けれども時間は刻々とすぎてしまって、6限目が終了するチャイム
が教室に鳴り響く。
一日が、終わってしまった︱︱。
紗弓はしばらくの間ぼうっと椅子に座っていたが、やがて後片付け
をして、勉強道具をカバンにしまう。ふと辺りを見回してみると響
子と栞の姿が見えない。
今日、何となく二人にずっとくっつかれているような状態だったの
で、いきなり二人が見えなくなると不思議に思う。
クラスメートが思い思いに動く中、紗弓もとりあえず教室を出よう
と歩き出した。
どこへ行こうか。⋮やっぱり、あそこに行くしか道はないのか。
そう考えながら教室のドアを開けると、壁にぶつかった。
﹁いたぁ!⋮え?﹂
壁と思っていたのは胸。黒赤色のネクタイ。三年生だ。というかこ
の感覚は非常に覚えがある。
﹁さっ、佐久間!?﹂
﹁はい、こんにちは、紗弓﹂
いつもの笑顔で挨拶をしてくる。道理で廊下がざわついていると思
ったのだ。
﹁どうしたの?こんなトコまできて⋮﹂
166
連絡したい事があるならわざわざここに来なくてもメールを使えば
いいのに、と思っていると、突然怜が紗弓の腰を引き寄せる。
﹁んぇ!?な、なに!?﹂
﹁ふふ⋮実は、貴女を攫いに来ました﹂
そう耳元で囁くと、いきなり彼は紗弓を抱えた。いわゆる﹁お姫様
抱っこ﹂というやつだ。
﹁ちょっ!ちょっと何!?降ろして!?﹂
﹁駄目ですよ。攫うって言ったでしょう?﹂
自分が走るくらいの速さで怜は彼女を抱いてすたすたと歩いていく。
1年の校舎が黄色い声で包まれた。
何が何だかわからない。でも死ぬほど恥ずかしい。
﹁どこいくの!?駄目よ、私、行くところが⋮!﹂
﹁行かせません﹂
きっぱりと言う。え、と紗弓の目が見開いた。
怜はにっこりと笑いつつも、目はとても真面目に紗弓を見つめなが
ら、もう一度﹁行かせない﹂と言う。
﹁さくま⋮どうして⋮もしかして、知って⋮﹂
﹁さぁ?どうでしょう。貴女は話してくれませんでしたからね。だ
から僕も問答無用でいきます﹂
意地悪く言う。やがて怜は目的地についたらしく、がらりとドアを
開け放った。
﹁つきましたよ。ここで待っていてくださいね?﹂
すたすたと中へ入っていく。そして抱きかかえたまま紗弓の耳辺り
に唇を近づけると、ぽそりと何かを呟き、ちゅ、と軽く紗弓のこめ
かみにキスをする。ひぇっ!と声を出して驚いていると、ポイッと
投げ込まれた。ばふっと音を立てて紗弓の体が落ちた先は、見慣れ
たソファ。
﹁生徒会室⋮?﹂
﹁はい。話し相手もいますからごゆっくり。それでは急ぐので、失
礼しますね﹂
167
そう言って、優しく紗弓の頭を撫でると彼はすたすたと部屋の外へ
行き、ぴしゃりとドアを閉める。
撫でられたその手に少しだけ呆けてしまって、ドアが閉まる音を聞
いてハッと我に返った紗弓は慌てて立ち上がり、ドアへ近づく。
開けようとするが、ドアはちっとも開かなかった。
﹁なっ!開かないんだけど!閉じ込めたの!?こらー!!?﹂
ガチャガチャとドアを開けようとするが、やはり開く気配がない。
これは廊下側のドアにほうきか何かを立てかけて、物理的に開かな
いようにしている感じがする。
なんで?どうしよう。自分は呼ばれているのに。
ドアの前で立ち尽くしていると、後ろから﹁⋮さゆちゃん﹂と声が
かけられた。
思わず振り返ると、そこには響子と栞がいた。放課後に入ってから
ずっとここにいたのだろうか。
﹁⋮二人とも、どうして﹂
﹁ごめんね?こんな事して⋮でも、佐久間先輩が言うんだから、こ
うするのが正解だと思ったの﹂
栞が優しく紗弓をソファへ連れて行く。
大人しく座ると、響子が温かいお茶を淹れて来た。
﹁さゆちゃん、何かあったんでしょう?今日もずっと思いつめてた。
⋮心配だったの、何かに巻き込まれてるんじゃないかって⋮ねぇ、
ここなら大丈夫だよ。それに皆がいるの。佐久間先輩も勿論味方だ
よ?だから、話して、さゆちゃんがそんな顔してるの、もう耐えら
れないよ、私⋮﹂
泣きそうな顔で響子が訴える。栞も同じような顔をして紗弓を見て
いた。
﹁響ちゃん、栞ちゃん⋮﹂
俯く。そんなに心配をかけていたなんて。
もう観念しよう。どうせ、今はここから出られないのだ。
それに⋮。
168
安心して、大丈夫。もう心配いらないから⋮僕にまかせて。
そんな風に呟いて、彼は紗弓のこめかみに口付けた。
とんでもなく驚いたけど、同時にとても安心した。もう大丈夫だと
思った。
⋮本当、いつの間に⋮こんなにも彼を信じているんだろう。
紗弓は目を閉じてから、自分の中学の頃の話からぽつぽつと二人に
話し始める。
響子と栞は静かに聞いていた。
169
16.エレガントとは程遠く
紗弓が怜にさらわれていた頃、運動場横にあるクラブ室の一角に4
人ほどの男達がいた。
土足で入る為、床は汚く、掃除もされていないので雑然としている。
茶髪の男、田原はどこかに電話をかけていた。
﹁本当に来るかねぇ、あの1年﹂
﹁怯えて、誰かに言ってたらどうするんだよ?センセーとか﹂
﹁そんな事をすれば指輪が戻らない。あの女はくそ真面目だからこ
そ言わないさ﹂
電話を終え、携帯電話を操作しながら男に対して田原が言う。
﹁でもさ、例えば佐久間とか連れてきたら?﹂
﹁ふん、誰かを連れてきたと分かれば、俺はすぐにコレで連絡する。
指輪は二度と戻らないだろうな﹂
携帯を掲げ、笑う。
﹁それに誰を連れてこようが、画策をしようが問題ないだろ?その
為にお前らを誘ったんだから﹂
﹁まぁ、それはそうだな。ボコッてしまえばいい話だ﹂
﹁ああ、そういうのも含まれてたの?俺はてっきり、皆でマワすの
が目的だと思ってたけど、まぁいいか?﹂
何人かが携帯を取り出し、ニヤニヤと笑う。
これで痴態を撮ってしまえばこちらのものだ。何度でもそれを脅し
に使って、彼女を好きにできるだろう。
指輪一つ。しかも他人の物でこうも簡単に釣れるとは。
田原の、ニヤリとした笑みが深まる。
中学の頃からずっと体だけは良いと思っていた。小柄な癖に胸だけ
は一人前で、性欲をそそる。
なのに彼女は気丈な上に男のつきあいに興味がない。何度も断る姿
は生意気で少しも可愛くない。
170
服従させたい。屈服させたい。泣いて喚いて、痛めつけて、自分を
睨むあの顔をこの泥だらけの床に押し付けて、引きずり回したい。
﹁⋮真城は本当に馬鹿だな。人がいいにも程がある⋮。そういうの、
一般的には馬鹿って言うんだぜ?﹂
﹁でも俺、そういう馬鹿は好きだな。あいつが風紀委員でも嫌われ
ない理由が分かる気がするぜ﹂
声は開け放たれていたドア側から聞こえてきた。
見れば、そこには腕を組んだ扇田が立っている。
4人の男達全員が慌てて立ち上がった。
﹁なっ⋮扇田!?﹂
﹁よー田原。こんなきったねーとこで、真城をマワすつもりだった
のか?もうちょっとさぁ、場所選べよ。せめて掃除でもしたら?﹂
﹁なんだと⋮っ!⋮だいたいなんでここが⋮﹂
﹁お前今日、ずっと動きを監視されてたんだぜ?女子達に﹂
は?と田原が不可解に顔を歪める。しかし、すぐに我に返ってニヤ、
と笑った。
﹁はっ⋮どうでもいいわ。何にしても真城は誰かに言っちまったっ
てことだよな?ハハッ⋮扇田ぁ、指輪はここにねーよ?⋮お前が必
死に探してたモノ、今すぐブッ潰してやるよ﹂
そう言って携帯電話を取り出し、どこかへ連絡する。
鳴り続く呼び出し音。すぐに電話に出るはずの相手は、出なかった。
﹁⋮ッ!?なんででねーんだよ!さっき打ち合わせしたばっかりだ
ろうが!?﹂
﹁ああ、それはな?多分お前どころじゃねぇんじゃないか?アッチ
は。⋮くく⋮残念だったなぁ。田原、そんでその他大勢。覚悟はで
きてるだろうな⋮﹂
ばき、と音を立てて扇田が指を鳴らす。
自然と全員が臨戦態勢に入った。扇田は凶悪な笑みを浮かべて、ざ
り、と足をクラブ室へと入れる。
171
﹁⋮早くこねーと全員倒しちまうぜ?俺はひとつも手加減するつも
りねーからな、佐久間ぁ!﹂
そう笑って言うと、扇田は床を蹴って走り出した︱︱。
◆◇◆◇
﹁電話、終わったの?﹂
﹁ええ。もし真城が人を連れてきたり、先生が来たりしたらこっち
に連絡が来るわ﹂
そこは彼女達がたまり場にしているプレハブ校舎の1階。普段は工
芸室として使われているが、鍵が壊れており、こうやって勝手に入
ることができるのだ。
木製の大きな作業机に中田は座っており、携帯電話を弄る。
︱︱うまくいっている。
真城紗弓を何とかしようと考えて、最初に思いついたのは、彼女を
思い切り傷つけてしまおうということ。そうすれば、彼女から離れ
ると思ったのだ。
1年の子から真城紗弓について調べてある。彼女は真面目で、馬鹿
正直で、男っ気がない。そして気丈で人に頼られる存在だ。
面倒見が良い、ということは、頼ることに慣れていないという事。
彼女は自身が傷つけられてもきっと、男に泣き付くようなことはし
ないだろうと思った。
一人で抱えて自滅するタイプだと思ったから、思いついた。
自分の手を汚すことなく、男を使ってあの娘を汚して傷つける。体
が擦り切れるまで穢しきる。
中田自身がつきあっている男、田原が真城にかつて執着していたこ
とは知っていた。
上羽鮮花と真城紗弓についてよく愚痴っていたから。悪態をついて
いたから。
172
体だけの関係だが、情事を共にすれば気心も知れる。彼女は田原と
いう男がどういう男かよく知っていた。
気に入った女は手に入れないと気がすまない。手に入らないと逆恨
みに似た執着を持つ︱︱。
佐久間怜以外の男は皆、ただの身代わりだ。彼が手に入らない間だ
け体の渇きを潤す存在。
だからあの男を使うことに何のためらいもしなかった。彼が犯罪を
しようが、ばれて退学になろうがどうでもいい。ただ、あの女さえ
穢せばいい。
彼は、佐久間怜は、女に対して執着をしない。
だから真城紗弓から離れれば、あの男は追いかけないと確信してい
る。
どうやって怜に気に入られたか知らないが、怜の淡白さ、執着のな
さは文字通り身を持って知っているのだ。でなければ、情事におい
てあんなに愛のない性交はない。
彼のセックスは本当に、労わりや優しさ、そして喜悦がない。田原
ですらあるのに、彼には全くそれが感じられない。愛のない言葉、
服従の強制、作業のような性行為。
それでも彼に夢中になったのは、情事以外の時間があまりに気持ち
が良いから。
優しくて、親切。さらりと甘い言葉も言うし、その気遣いはまるで
お姫様になったような感覚になる。
いつも穏やかな笑顔を湛えていて、それが崩れたことがない。
道を歩けば行き交う人が振り返るほどの美形で、デートの時に隣を
歩き、これは自分の男だという優越感を感じる時が一番嬉しい。
金払いも良くて、それが例え数週間という期間であっても、何度で
もお願いしてしまう。
⋮あれは皆のものなのだ。期間限定の優越を与えてくれる人。
二度と自分の手に入らないなんて、我慢ができない。
173
携帯電話を弄る手を止め、ポケットに仕舞う。
﹁そろそろ、真城行ったかな﹂
﹁⋮そうね⋮連絡もないし、うまくいっているかも。終わったら写
メ送るように言ってあるわ﹂
﹁ふふ、それをネットに上げたらもう終わりね。もう学校も来れな
くなるかも?﹂
きゃはは、と女達の笑い声が教室に広がった。
﹁そうよ、写メだけじゃなく動画もあげちゃったら?お金も取れる
かもよ﹂
﹁成程。それはいい案ですね?小金が稼げて、相手も破滅させる。
是非参考にさせていただきましょう﹂
涼しい美声が、笑い声に混じって聞こえた。
聞き覚えのあるその声に、女子達3人は振り返る。
工芸室のドアを開けて、入り口で笑う長身の男︱︱。
﹁さ、佐久間⋮先輩っ﹂
﹁怜さま!?ど、どうしてここに!﹂
驚愕する女子達を一瞥して、怜はにっこりと笑った。
﹁あなた達は今日、ずっと監視されていたんですよ。この場所もそ
の方々に教えていただきました﹂
﹁か、監視⋮?な、なにそれ!﹂
監視して、怜に場所を知らせたのは護の﹁お姉さま達﹂。彼女達も
八雲ファンと似ていてお祭り好きでノリが良い。スパイよろしく事
細やかに中田達と、田原達の動向を知らせてくれた。
怜はゆっくりと手前にある作業机に腰をかける。
どんな仕草をしても彼がやると一枚の絵みたいに様になり、思わず
見蕩れそうになってしまう。
彼は流し見るように戸惑う彼女達を一瞥して、口を開いた。
174
﹁楽しかったですか?﹂
﹁な、なにが、ですか?﹂
﹁一人の女の子をネットで貶めて、今ごろ複数の男達に蹂躙されて
いるであろう彼女を想像することが﹂
﹁!!!﹂
3人の女子達の顔がさっと変わる。
そんな姿も全く気にせず、彼は微笑みを湛えたままで話し続ける。
いつも通りの、崩れたことのないその表情で。
﹁ちなみに、紗弓を開発済みだと書いてありましたが、それは誤解
ですよ?開発しがいのある子だとは思いますけどねぇ﹂
がたん、と中田が作業机から降り、後ずさりをする。
佐久間怜はあのSNSとコミュニティを知っている。そしてあれを
書き込んだのが後ろにいる桜田と本間だという事も、きっと気づい
ている︱︱。
﹁⋮さて、僕の言いたいことはだいたい察してくれていると思いま
すが、一応言っておきましょう。僕は貴女達に釘を刺しましたね?
何度か。紗弓に手を出せば⋮相応の覚悟をして頂くと﹂
作業机に座ったまま長い足を組み、トントンと靴を鳴らす。
彼女達から目線は外しており、どこか独り言を言っているように彼
は話す。
﹁なっ⋮なにもしてません!私達!本当です!﹂
﹁そうですよ。証拠もないのに疑うなんて酷いです。私達は何も知
りません!﹂
はじけるように彼女達は言い出した。
書き込みをしていたのが彼女達でも明確な証拠はない。田原と繋が
っていたのがバレていても、彼がそれを証言でもしなければ、自分
達に罪は着せられない。
そう確信して女たちは矢次に自らの潔白を叫ぶ。
怜は﹁⋮やはりそうきましたか﹂と、静かに呟いた。
﹁怜さまが何を言っているのか全然わかりません。私達は真城紗弓
175
に近づきすらしてないんですよ?一体なにを根拠に⋮﹂
﹁先に言っておくと、僕は別に警察の真似事をしているわけではあ
りません。だから証拠とやらもないですし、明確に貴女方が犯人だ
と根拠づけるようなものを持っていません﹂
﹁⋮っ⋮なら!﹂
﹁でもね?そんなのは関係がないんですよ。ふふ、別に逮捕状があ
るわけでもないですし?僕はね、ただ⋮貴女達が許せなくて、不愉
快で、気に食わないから痛めつけて傷つけたいだけなんです﹂
﹁⋮⋮え?﹂
女たちは意味がわからず立ち尽くす。何か今とても酷い事を言わな
かったか。
いつも優しくて、笑顔を湛えていて、気遣いが気持ちよいあの男の
口から、酷い言葉が紡がれた。
怜は彼女達が好きな微笑みのままスッと机から立ち、彼女達と対峙
する。
そして懐から紙を3枚出すと、それを彼女達がいる作業台へ静かに
乗せた。
自然と3人の目が紙へと流れる。そして大きく目を見開いた。
﹁これ⋮っ!!﹂
﹁なんで⋮!?いつの間に!﹂
﹁怜さま、どうしてこんなのを⋮っ!﹂
写真に写っていたのは彼女達。それも全員、情事中なのか裸で、あ
られもない姿で夢中になっている所が写っていた。
﹁僕はね、女性に対して弱みを握っておかないと、なかなか安心で
きない男なんです。特にしつこくて、必要ない執着を見せるような
女はね。こういったものでも用意しておかないと⋮何かと邪魔して
きそうでしょう?今回みたいに﹂
中田達は奪い合うように写真を取った。そしてわなわなと見つめた
後、ぐしゃりと握って怜を睨む。
﹁やっとわかりましたか?僕がどういう人間かって。ふふ⋮こんな
176
男を必死で追い掛け回して、何度もしつこく誘ってたんですよ、貴
女達は。僕が言うのも何ですが、男を見る目がありませんね﹂
微笑みはそのまま。
だけど3人は裏切られたような気持ちになる。
﹁ひ、酷いです!こんな写真撮ってたなんて⋮っ!酷い酷い!!﹂
﹁おや、次は勝手に被害者面ですか?貴女達も似たようなことを企
んでいたと思うのですが。一体貴女の中にはいくつ棚があるんでし
ょう。⋮まぁそれはどうでもいいですけど。とりあえずその写真は
印刷しただけですからね。セオリーですが、この写真データをネッ
トに上げようと思います﹂
にこりと言われて、女たちは驚愕の顔をした。
自分達がしようとしていた事を、そっくりそのままやろうとしてい
るこの男が信じられない。
﹁ああ、君達がよく見ているあのSNS?あそこに上げるのが良さ
そうですね。すぐ消去されるでしょうが、見る人もまぁまぁいそう
ですし⋮そうしたら、学校内で楽しそうな噂が流れるかもしれませ
んねぇ﹂
﹁やめて!!やめてください!﹂
桜田が必死に訴える。
そんな彼女を見て、怜は手を出した。
﹁では渡すものがあるでしょう?それを渡さなければ今すぐ上げま
す﹂
もう片方の手はすでに携帯電話を握っており、その親指をすいっと
動かした。
﹁渡すっ!渡すから⋮っ!﹂
﹁桜田!?﹂
中田と本間が彼女に振り向く。それは決定的な証拠だ。これをもっ
ているということは、今回の件の犯人だと自ら言っているようなも
のである。
けれども桜田は涙目になりながらポケットから扇田の指輪を取り出
177
し、押し付けるように佐久間に渡した。
﹁これでしょ!?だから、お願い、やめて!﹂
﹁⋮ふ。確かに⋮これですね。ありがとうございます。貴女のよう
な素直な子は嫌いではありませんよ﹂
指輪を握り、ポケットに仕舞う。と、同時にドアから八雲と園田稔
が現れた。
﹁はい、これで終わりだね。じゃあ職員室行こうか﹂
﹁こんな顛末になってたなんてね。全く⋮先生にどう説明したらい
いものやら﹂
はふ、と園田がため息をつき、中田達に来るよう手招きをする。
観念した3人はおとなしく稔と八雲についていく。誰もいなくなっ
た工芸室を軽く見渡してから、怜も教室を後にした。
﹁⋮えげつない方法だねぇ。もっとスマートに事を進めそうだと思
っていたのに﹂
プレハブ校舎の壁にかるく背中をつけた護がそう言って呆れたよう
な顔をする。
怜はくすりと笑って、そのまま次の目的へ足を向けた。
﹁軽蔑しましたか?僕は割とこういう方法しか使わないんです。穏
便に事をすすめる、なんてまどろっこしくて仕方ないじゃないです
か。腹も立つし。あんな人間に正攻法を使うなんて癪でしょう?﹂
﹁うわぁ、絶対裁判官とかなれないタイプだ。軽蔑はしないけど、
なんていうか⋮思ったより問答無用っていうか⋮ふふ、絶対嫌われ
てしまったよ?それでも良かったの?﹂
﹁僕は八雲と違ってファンがどうだとか本当にどうでもいいんです
よ。人気が欲しいわけでもありません。女子生徒で言うなら紗弓に
さえ嫌われなければ別に他はどうでもいいです﹂
うわぁ、言い切ったよこの人ー!と笑う護に、軽く一瞥して。
﹁でもさすがに女性相手に拳を使うわけにはいきませんからね。次
はうさ晴らしをしにいきます。⋮扇田君、一人くらいは残してくれ
ていると嬉しいんですけどね⋮では、急ぐので﹂
178
そう笑うと、渡り廊下を蹴って怜は走り出した。
◆◇◆◇
ぽーん、と弧をかいて指輪が飛ぶ。
それをパシ、と掴んで扇田は笑った。
﹁あんがと﹂
﹁いいえ、こちらも、少しは残してくれてありがとうございます。
⋮もうちょっと早く行ければよかったんですけどねぇ﹂
クラブ室を後にして、二人は笑う。
この部屋の中は今惨状になっていて、人に見せれるような状態では
ないのでしっかりとドアを閉めた。
途中参加した怜は田原達を文字通り引きずりまわして踏み倒して、
もう2度と紗弓に近づかないと、血だらけのその口で言わせた。
﹁それにしてもさ、いいの?あいつ結構しつこいよ?俺もあれくら
いアイツ痛めつけたことあるけど、なんどもつっかかってくるんだ
よね。いい加減やめりゃいいのに﹂
﹁対象が僕になるのなら別にかまいませんよ。⋮何でしょうねぇ、
根っからの負けず嫌いなんでしょうか﹂
﹁まけずぎらい!?そんな可愛いもんじゃねー気がするけど⋮。ま
ぁ何にしてもコレが戻ってきたからいいや。俺も職員室行けばいい
の?﹂
﹁はい。僕も行きますので説明をしにいきましょう。ああ、クラブ
室の事は適当にごまかしましょうね。平和的に話し合いをして、わ
かってもらったという事にしておきましょう﹂
そんなあからさまな嘘が通るかー!?と騒ぐ彼をよそに、怜は校舎
へ歩いていく。
いつの間にか日はすっかり落ちていた。
179
17.伏せられた解決。そして夏到来
﹁⋮で、何がどーなったのよ!?﹂
件の次の日。生徒会室。そこには4人の生徒会役員と紗弓、そして
響子と栞が座っていた。
昨日、紗弓がこの部屋に押し込まれた後、数時間が過ぎてやっとド
アが開いた。
入ってきたのは怜と八雲。そして二人に﹁とりあえず今日はもう遅
いから﹂と、紗弓と響子は怜に送られ、栞は八雲に駅へと送られた。
詳細は明日に、と伝えられて今日ここにきて、紗弓の第一声に始ま
る。
彼女の言葉にこくりと八雲が頷いた。
﹁順を追って説明するね?ええと⋮﹂
扇田の指輪を盗った男は田原という男だった。彼は紗弓に執着して
おり、指輪を使って彼女を脅した。しかし、そもそも彼をけしかけ
た人物が別にいて、それは怜の元彼女達だった。それをつきとめた
怜達が、とりあえず紗弓の動きを止めるために生徒会室に押し込み、
元彼女と、田原に話をつけた。
﹁それで、怜の説得に応じた子達は素直に指輪を返してくれて、田
原は、怜と真摯に話し合いをした結果、彼の紗弓ちゃんに対するあ
つーいふかーい愛情に心を打たれて、もう紗弓ちゃんに手は出さな
いと約束したのだった!⋮完﹂
やたら演技の入った仕草で説明を終える八雲に、その場にいた全員
がうさんくさそうな目で彼を見る。
﹁今の話⋮すごく嘘くさいんだけど⋮本当なの?﹂
﹁多少誇張が含まれてますが、だいたいはそれで合ってますよ﹂
にっこりと怜は紗弓に笑いかける。
もちろん真実は別にある。彼女達と同じ方法を使って指輪を脅し取
り、男は最後には泣いて謝るほど痛めつけた。
180
それから、SNSのコミュニティの存在は紗弓に一切知らせていな
い。彼女以外の全員が﹁それは知らせる必要がない﹂と判断してい
た。
﹁⋮だいたい、どうして佐久間が指輪の事とか⋮知ってたの?それ
に、響ちゃんと栞ちゃんも、事情知ってる感じだったし⋮﹂
﹁あ、それは⋮﹂
慌てて響子が手を振って、どう言おうか悩んでいると、すかさず八
雲がフォローに回った。
﹁僕が二人に頼んでおいたんだよ。どうも裏で怜の元カノが動いて
そうってわかった時にね。誰かが君にちょっかいをかけてきたら教
えてほしいって、お願いしていたんだ﹂
﹁それに、怜が指輪のこと知ってたのは、私が話したからよ。⋮ご
めんなさいね?さゆちゃん。貴女からメモを貰った時に、田原とい
う男が気になっていたのよ﹂
八雲に続いて鮮花も弁明をする。
﹁⋮む⋮そう⋮ですか﹂
紗弓は、まだ少し納得ができていなかったようだが、話の筋は通っ
ているので曖昧に頷く。
﹁あとは職員室で事情を詳しく聞かせてもらいまして、先生とも話
をつけました。そのうち何らかの処分が下るでしょう。⋮もう安心
していいですよ?紗弓。怖かったでしょう?もう大丈夫ですよ﹂
怜はそう言って、なでなでと紗弓の頭をなでた。
思わずほんわかとした安心感が紗弓の心を緩やかに包んでいく。
⋮本当に怖かったのだと、改めてそう思った。
二人がそうやって見詰め合っていると﹁コホン﹂と八雲が咳払いを
する。
﹁そういう訳で解決はしたんだけど⋮何か質問はある?なかったら
終わりにするけど﹂
すると、栞が静かに﹁はい﹂と手を上げた。
﹁あの⋮質問じゃ、ないんですけど。私ずっと佐久間先輩に聞きた
181
くて。この際聞いてもいいですか?﹂
﹁はい?何でしょう﹂
首をかしげる怜に、栞は思い切ったような顔をして彼に顔を向けた。
﹁⋮先輩にとってさゆちゃんは、何ですか?﹂
﹁恋人、と前に言ったと思うのですが﹂
﹁ええ⋮聞いてます。でも、聞きたいのはそうじゃ⋮なくて。今ま
での﹁恋人﹂と違うんですか?特別⋮なんですか?﹂
それには全員が怜に注目した。
何故なら薄々と皆が思っていた事だから。
今回、怜は一連の悪巧みについてとても怒っていた。護など、彼が
キレたところを見るのは初めてだった。
それくらい怒りを見せたのは、全て紗弓が関わっていたからで。
それは、いままでの﹁彼﹂を知っていればあまりに意外な姿だった
から。
確かに佐久間怜は意外と怒りやすく、沸点が低い。だがそれは、八
雲や鮮花といった長年つきあってきたような気心を知る、彼にとっ
ていわゆる親友ならばこそだ。まだ出会って2ヶ月という短いつき
あいの女性にここまで感情の起伏を見せる事などなかったのだ。
だから皆が怜を見る。彼が何を答えるのかと。
⋮紗弓も怜を見た。少しの怯えを見せて。どうしてか、答えを聞く
のが怖かった。
彼はそんな紗弓を見て、優しく頭を撫でる。
﹁⋮確実に言えるのは、紗弓は今までおつきあいしてきた女性と違
うという事です。僕はね、紗弓の事をもっと知りたい。もっと仲良
くなりたいと思っています。⋮それだけは本当、ですよ?﹂
これだけは信じて。
そんな風に怜は紗弓の頭を撫で、優しく見つめる。
彼女はその目を見て確信する。この人の自分に対する優しさは本物
なんだと。
何故かはわからないが、彼の態度は社交辞令な表面的なものではな
182
い。仲良くなりたい、という気持ちをちゃんと感じた。
それが異性に対するものか、友達としてなのかはわからないけれど、
紗弓も怜の事をもっと知りたいし、仲良くなりたいと自然に思った。
﹁⋮うん。⋮信じる﹂
こくり、と紗弓が頷くと、怜は嬉しそうに笑った。
そんな二人を見て栞は一人、軽く目を瞑る。
吹っ切ったと思っていた。彼の心は自分にないとわかっていたから
諦めていた。
彼はそういう男なのだと。だが他の女でも駄目なんだと心を慰めて
いた。それは紗弓も同じで、彼女は少し他の女性より興味が強いだ
けで、しかし結局は同じ扱いであるはずだという醜い期待を、どこ
かで栞自身が持っていたことを自覚した。
違うんだ︱︱。
こんなにも明確に違う。目の優しさや穏やかな雰囲気は自分とつき
あっていた時と同じなのに、全然違うのだ。
紗弓と怜の仲がうまくいくよう考えていたつもりだった。だが同時
にそういった醜い気持ちも持っていたことを強く感じてしまって、
栞は申し訳なさに俯く。
本当に、諦めるべき時がきたんだ。
この気持ちは終わらせないと、自分も先に進めない。
ぐっと拳を握ってから前を向いた。目の前にいる怜を最後に見つめ
る。
﹁わかりました。⋮答えてくれて、ありがとうございます。これで
やっと、完全に吹っ切れそうです﹂
にっこりと笑って。栞は自分の心にけじめをつけた。
◆◇◆◇
結果として、中田達女子生徒は厳重注意と数日の停学、盗難の実行
犯である田原は女子よりも長い停学処分となった。
183
詳しい内容は軽く伏せられたまま告示され、しばらく学校内はその
噂で持ちきりとなったが幸いにもその話題の中に紗弓の名前はそこ
まで出なく、やがて噂も落ち着く頃にはすっかり季節は夏になって
いた。
﹁夏休み。夏休みといえば!﹂
﹁アルバイト﹂
﹁海!﹂
﹁デートとバイト!﹂
﹁⋮宿題﹂
﹁え?え?⋮ええと⋮図書館で、本を読む⋮とか⋮﹂
護の言葉に、怜、鮮花、八雲、と続いて、げんなりした顔の紗弓、
おたつく響子が答えていく。
﹁今年も図書館篭りするの?響ちゃん﹂
﹁う⋮うん。今年はね、15冊読もうって目標を作っているの⋮。
それに図書館って涼しいし⋮﹂
﹁そうね。去年は私もよく響ちゃんと一緒に図書館篭って受験勉強
したわ⋮﹂
﹁ふふ、紗弓ちゃんはよく頑張ってたね﹂
珍しく響子が率先して紗弓の頭を撫でる。紗弓の家庭教師は響子だ。
よく勉強を見てもらっていた。
﹁響ちゃんと同じ高校いきたかったんだもの。あのままだと滑り止
めの私立確定だったし⋮﹂
﹁うん。本当に頑張ってたね。⋮今の勉強はどう?ちゃんとついて
いけてる?﹂
うっ⋮と紗弓の顔が苦悶に歪む。背伸びして入学したこの都立高校
は自分より少しレベルが高く、まともについていけてるとは思えな
い。
期末も平均より少し下。これは少し気合を入れて夏休みの間は勉強
しなければならないだろう。
184
﹁まぁ、せめて宿題はちゃんと頑張るわ。あんまり勉強で響ちゃん
に頼るのも何だし﹂
﹁ええ?私で頼れるのってそれくらいなんだから、いくらでも頼っ
ていいのに﹂
くすくす、と響子が笑う。この二人は本当に仲がよく、油断すると
すぐ二人で話してしまう。
﹁キミタチラブラブなのは分かるけどもうちょっと僕達のことも構
って!﹂
慌てて八雲が二人の世界に割って入った。
﹁佐久間の夏休みはアルバイトなの?﹂
気を取り直して、いちごミルクを飲みながら紗弓が聞くと﹁ええ﹂
と怜が頷いた。
﹁育ち良さそうに見えるけど、俺と怜は割とアルバイターなんだぜ
?﹂
﹁自分で育ち良さそうっていう人初めて見たわ。ふぅん⋮どんなア
ルバイトしてるの?﹂
﹁普段は家庭教師のアルバイトをしていますね。夏休みはそれを少
し休ませてもらって、長期泊まり込みで働けるような期間限定のバ
イト⋮海の家の手伝いとかしているんです﹂
﹁俺は引越し屋のバイトが多いかなー。そんで休みは怜と一緒に泊
まり込みバイトをしてるんだ﹂
へええと、紗弓と響子が驚いた。そんなにアルバイト漬けとは思わ
なかったのだ。
﹁ふっ⋮女の子達とデートするには出るものも多いのさ⋮﹂
﹁ああ、そういう事ですか⋮﹂
﹁それだけじゃないですけどね。まぁ先立つものは多いに越したこ
とはないでしょう?⋮そうだ。よかったら海へ遊びにきてください。
電車で行ける距離ですし、僕達が使う民宿なら安くして差し上げま
すよ?﹂
185
そんな事できるの?と聞いてみたら、怜と八雲が毎年世話になって
いる民宿と海の家はつきあいが長く、多少そういった融通も利くら
しい。
﹁そうよ!それがいいわ!﹂
突然鮮花が食いついて、紗弓と響子の手を掴む。
﹁夏休み、海に一緒にいきましょう?男共は汗水たらして働かせて
おいて、私達は夏のリゾートを思い切り満喫するのよ。コイツラを
思い切り足で使ってやりましょう、ねっ!﹂
女王様酷い!と八雲が騒ぐのを鮮花はそらっと無視する。
﹁男共って、え、僕は働かないよ?お金に困ってないもん﹂
サラッと金持ちアピールをする護に鮮花はにっこりと笑う。
﹁いい機会だから、貴方もコイツラとバイトしてきなさいな。どう
せ暇なんでしょ?社会勉強できてお小遣いも稼げる。なんて素晴ら
しいの。若者よ、働けー!﹂
﹁それ鮮花さんにもいえるよね!?﹂
﹁私お嬢様だから。皿より重いものもてないの。罪な女ね⋮﹂
嘘つけ!男を軽く吹っ飛ばせるくせに!と八雲が騒ぐが、やはりま
るっと無視される。
そんなよくわからない鮮花の妙な熱意に押されるように、紗弓と響
子は彼女と共に海に行く約束をし、夏休みを迎えたのである。
186
18.二人それぞれの夏休み
夏休み︱︱。
紗弓の夏休みはいつも家政婦だ。ここぞとばかりに麗華は彼女を使
う。
﹁よし、今年もバリバリ働いてもらうわよっ!﹂
麗華は壊滅的に家事ができない。
掃除ロボットというものも買ってみたが、すぐに床がちらかるので
ロボットがすぐ迷う。
なので普段は週1回、家事代行の人を雇って掃除をしてもらってい
るという有様だ。
しかし麗華曰く﹁ぱーへくつなママと違って可愛いけど凡人の紗弓
は、家事と愛嬌を磨くしかないのよ!﹂と言い、長期休みになると
家事代行契約をストップして、紗弓に料理以外の全家事をさせるの
だ。
もちろん報酬つきである。紗弓の数少ないお小遣い稼ぎのひとつな
ので、ありがたい話ではある。
﹁⋮ふぅ、洗濯おわりー﹂
ひらひらとベランダで風に揺られる洗濯物を見て紗弓はよし、と息
をついた。
学校のある時は忙しくて洗濯は乾燥機任せだが、やはりこうやって
干したほうが気持ちが良い。
﹁ふぅ⋮そこまで暑くないうちに、宿題でもしようかな﹂
宿題は嫌いだが、やらねば後で泣く。勉強は得意ではないが土壇場
になって響子に泣き付くような情けない真似だけはできない。そう
いった意味では友達を頼ることを良しとしない紗弓であった。
187
朝食の片付けをして、紗弓は自分の部屋で宿題を始める。
クーラーを使うのは負ける気がしたので窓を開けて扇風機を回す。
みんみんとしたセミの音がせわしなく鳴き、余計に暑さを感じさせ
た。
﹁うーん⋮今日は何をしよ⋮あ、数学。数学しよう⋮﹂
昼まで宿題をして、昼御飯を食べたら図書館で響子と待ち合わせの
予定だ。わからない宿題内容は彼女に勉強を見てもらう。なので、
できる所はやってしまいたい。
かちかちとシャーペンを鳴らしていると、ピリリと携帯電話が鳴っ
た。
ん?と携帯電話を見れば、メールの相手は怜だった。
写真つきだ。見てみると綺麗な海の写真が写っている。
﹃今日、バイト先につきました。朝の海は人が少なくてとても綺麗
ですよ。それと、一つ申し訳ないんですが貴女の写メを送っていた
だけませんか?色々と断るのにあると便利なものですから﹄
﹁⋮色々と断る?何だろ⋮﹂
はてな?と首を傾げる。
しばらく考えて﹁ハッ﹂と思い当たった。
高校でもあんなに人気があってモテるのだ。つい先日、それが原因
で紗弓はファンの企みに巻き込まれた。そんな彼が海水浴場でアル
バイトなんてしてたらモテないわけがない。
﹁それで、誘ってくる女相手に断るために、私の写真を⋮!?もう
!本当に便利に使うんだから!﹂
ぷりぷりと一人で怒る。そんなのに使うのならいっそ鮮花に頼めば
いいのに、彼は何故か彼女にそういった色恋に関する事を頼まない。
何か理由があるのだろうかと考えたが分からない。きっと今一応佐
久間怜と﹁現彼女﹂の立場なのは紗弓なので頼んできたのだろう。
﹁⋮仕方ないなぁ﹂
朝起きたままの格好だけどいいかな?と考える。いつもの白いシャ
ツに、今日は髪を上げずに下でひとくくりにしている。
188
﹁ま、いっか。クレーム来たら撮り直したらいいんだし﹂
自分にカメラを向けて撮る。ピロリーンと鳴って写真が撮れた。
軽く確認した後何も考えずにそれを送信すると、しばらくして次は
電話が鳴った。
﹁ええ?何よ⋮﹂
戸惑いながら電話に出ると、相手はやはり怜だった。
﹁もしもし、紗弓?﹂
﹁もしもしー。何よー﹂
﹁あっ⋮あの、写真、来たんですけどね?これ、もう少しこう⋮ち
ゃんとした服を着て、送ってもらいたいんですが⋮﹂
﹁あーやっぱり?こんな格好じゃ駄目よね、あはは。お昼には着替
えるから、その時でいい?﹂
﹁紗弓⋮貴女、今の格好を⋮。⋮いえ、はい、時間はいつでもかま
いませんよ。すみません、こんな風に使ったりして﹂
一応悪いとは思っているらしい。それならいいかと紗弓は思った。
そもそも女性の誘いを断る理由付けとして紗弓と﹁恋人﹂という立
場を取っているのだ。協力するのが筋でもある。
﹁いいわよ。じゃあ後で送るわね。⋮そっちはどうなの?海、綺麗
だったけど﹂
﹁ええ、本当に今の時間はいいですね。まぁもうすぐ増えるんです
けど。今から店の掃除をして、浜辺のゴミ拾いをするんですよ﹂
﹁へー。忙しそうね⋮。光国先輩や多賀君もいるんでしょう?頑張
ってって伝えておいてね﹂
﹁はい、紗弓が来るの、楽しみにしてますね。それでは貴女も⋮ふ
ふ、宿題頑張って?﹂
﹁うっ⋮わかってるわよ!じゃあね!﹂
ぷち、と電話を切る。
全く一言余計だ。その通りなのが悔しい。
宿題のやる気を少し削がれてしまったが、昼には図書館に行く約束
なのだ。
189
とりあえずやれる所はやろうと、再び彼女はシャーペンを持ち直し
た。
◆◇◆◇
携帯電話を切り、怜はポケットに仕舞う前にもう一度彼女から来た
写メールを見た。
こう?と言っていそうな、どういう顔をすればいいのかわからない、
そんな微妙な表情に、柔らかそうな生地の白いTシャツ。いつもき
っちりしたポニーテールの髪は、下に一括りしてある。
この写真でも可愛いと思うし、別にかまわないと思う。一つの問題
を除いては。
︵紗弓、これ⋮どう考えてもノーブラですよね⋮!?︶
シャツの色が白だったのが良いのか悪いのか、彼女の大ぶりな胸が
制服よりもしっかりと強調されていて、尖りのあるべき所に薄く影
が見える。
はぁ、とため息をついてポケットに仕舞い、仕事を始める。
彼女のうっかりっぷりは時々凶悪だ。無防備すぎる。自分に対して
ならいくらでもうっかりして無防備になってくれてかまわないが、
それを自分以外にも発揮されると非常に困る。
⋮想像すると、何故かとても腹が立つからだ。
それでもまぁ良いものを手に入れたと思う。女の誘いを断るにはあ
まり適した写真とはいえないが、別の意味においては非常に有用な
写真だろう。
⋮溜まった時に使うとか。
⋮⋮。
︵違う!俺はそんな風に紗弓を見るつもりはないんだと何度⋮!︶
190
掃除をしながら心の中で自分につっこむ。
欲情と、友情は違う。確かに彼女と仲良くなりたいと思う。距離を
縮めたいと思う。
その気持ちは本当だ。そしてその気持ちを持つ以上、彼女に﹁女﹂
としての欲を覚えるのは間違っているはずなのだ。
それだと﹁他の女﹂と変わらない。結局自分は動物のように女とヤ
リたいだけなのかと落ち込んでしまう。
どうして鮮花と同じように見えないんだろう。彼女と同じ扱いがで
きればこんなに悩まないですむのに。
いつの間にか怜にとって紗弓は﹁ペットのように可愛がりたい人﹂
から大分と変わっていた。
﹁怜ー。そっち終わったかー?﹂
海の家の掃除をし終わった所に、八雲と護がさくさくと砂浜を踏ん
でやってくる。
二人は周りの砂浜にパラソルやベンチを設置してまわっていたのだ。
早くも護が嫌そうな顔をしている。
﹁本当になんで僕まで⋮。しかも海の家のバイトって殆ど一ヶ月じ
ゃないか!僕何もできないし!﹂
﹁なんか予定あったのか?テンチョーに言えば少しは休みもらえる
と思うぞ?﹂
﹁別にないけどー!遊んだりとか⋮﹂
﹁仕事が終わったら毎日海で遊べますよ?夕方ですけど。でも人が
少なくて楽しいですよ?﹂
えー、と言う護に怜と八雲は笑って、次は海の家中の開店作業を始
める。
3人がそうやってガタガタと資材を出していると、キッチンのほう
から大柄でふくよかな女性と、ガッシリした体格の男が現れた。
怜達があいさつをすると、相手側も同じように返し、女性はにっこ
りと笑って腰に手を当てた。
191
﹁さすが男3人揃うと仕事の速さが違うねー。あんたたちは住み込
みだけど、他に何人か日替わりシフトでバイトが入るから、仲良く
してあげてね﹂
﹁佐久間、光国、一年ぶりだな。それから護君か?君もよろしくな。
いやー!綺麗どころが揃っていいねいいね。こりゃ今年の売り上げ
も期待できそうだな﹂
わははーと男が笑う。
この二人の中年男女は夫婦で、名前を高田浩二、マリと言う。
海の家と民宿を経営していて、民宿のほうは彼らの息子夫婦が切り
盛りしているらしい。
色々な事情があって長期休暇を家で過ごしたくない怜は、高校1年
の夏、たまたまバイトの面接を通ったこの海の家で泊まり込みで働
くことになり、そのまま毎年世話になる形になったのだ。
2年からは八雲もついてきた。顔がいい彼らは格好の客寄せパンダ
であり、この海の家の売り上げは上々で、夫婦は彼らをとても歓迎
している。
﹁本当、顔がいいって得よねぇ。問題としてはバイトの女の子があ
んたらにアピールするのに夢中で仕事してくんなかったり、しょっ
ちゅう逆ナン食らう所かしら。時々男性客からも難癖つけられてた
わね﹂
全く逆ナンパしにくるならついでに注文しろっての、と笑うマリに
怜も薄く微笑みを返す。
﹁そうですね。まぁ⋮あまりにしつこいようなら、今回は武器もあ
りますので。それで何とかしのいでおきたいところですね﹂
性に対して倫理観の薄い怜ではあるが、さすがにこういったリゾー
ト地で一夜の夜を過ごすような真似はしない。そんなのは﹁恋人﹂
の枠にすら入らないからだ。
中には本気でつきあいたいと真面目に告白してきた女性もいたが、
どこに住んでいるかもわからない、いつ会えるかもわからないよう
な女とつきあうつもりはなかったし、何より職場の従業員や客を相
192
手にするのは、彼の今までの女性とのつきあい方から見るに適して
いるとは思えない。どう考えてもバイト中に別れて職場の雰囲気が
ギスギスするのがオチだ。
彼が家庭教師のバイトをしていて教え子に誘われても絶対に乗らな
いのも同じような理由である。さすがに彼女らの親から金を貰って
いる立場で教え子に手を出すわけにはいかない。
そういった所は割と常識的な考えをもつ、不思議といえば不思議な
男である。
とはいえ、こうして3人の男達のバイト生活が始まったのだ。
◆◇◆◇
一方、紗弓は昼になってから着替えを済ませる。
﹁む⋮この服じゃ、子供っぽすぎるかしら﹂
ばさ、とボーダーワンピースを脱いで、次の服へ。そんな風に着て
は脱いでをしばらく繰り返す。
﹁うー⋮この服でいい、かな⋮?﹂
結局手にしたのは涼しげな雰囲気の総レースチュニックとオレンジ
色の短パン。アンダーにベージュピンクのキャミソールを着た。
鏡を見てうん、と頷く。これなら大丈夫、とにっこり笑って我に返
った。
﹁なっ⋮なんで、あいつの為にこんな気合いれてんの、私ぃぃぃ!﹂
一人で頭を抱える。
最近こんな事が多い。本当にどうかしている。
しかしまたよれたTシャツに戻るわけにもいかないので、この服で
写真を撮ることにした。
髪型は降ろしてカチューシャをつけ、お出かけ用のお洒落な眼鏡を
かける。
カメラを自分に構えて、にっこりと笑ってみた。
193
ぴろりーん、と電子音が鳴って写真が撮れる。確認して、今度は文
句を言わせないわよとメールを打ってから写真を添付した。
﹁さて⋮ここまで着飾っちゃったし、これで行こう﹂
うん、と頷くと、もう一度姿見で自分を確認した。
図書館に入るとするっとした涼しい風が体を包む。夏の暑い日には
この一瞬がたまらない。
引いていく汗を感じながら紗弓が奥の自習室に向かうとそこにはす
でに響子がいて、勉強をしていた。
相変わらずね、と笑って静かに響子の隣に座る。
そこで気づいた彼女は紗弓ににっこりと笑い、小さく﹁もうすこし
待って﹂と言った。
紗弓は頷いて隣で宿題の続きを始める。
響子は宿題をしている様子は無くて、何か別の勉強をしているよう
だった。
図書館施設内には食堂があって、そこに二人は揃って座る。
﹁ごめんね、ひと段落つけるまでに時間かかって﹂
﹁全然構わないわよ。それにしてもすごく難しそうな顔して勉強し
てたけど、何してたの?⋮宿題、じゃないわよね?﹂
﹁⋮うん。ええと⋮将来の勉強、かな﹂
へええ、と紗弓は目を大きくして驚いた。まだ高校一年生なのに先
のことを考えてるなんて。
﹁⋮すごいわねぇ、私なんて夏の宿題で精一杯なのに﹂
﹁そんなことないわ。まだ全然だもの⋮狭き門って話だから、早め
に準備しておきたいだけ﹂
﹁狭き、門って⋮大学受験とか?﹂
﹁ううん、違うけど⋮。あのね、私⋮図書館で働きたいの。だから、
その為の勉強。すっごく倍率が高いみたいでね。お父さんやお母さ
んは、ちゃんともっと考えなさいって言うんだけど、どうしても私、
194
諦められなくて﹂
ふふ、とはにかんだように笑う。
響子の家はあまり裕福とは言えない上に下の兄弟が多い。一番上の
長女である響子は早く一人前に稼ぎ、独り立ちして親を助けたいと
よく言っていた。
﹁⋮そっか。うまくいくといいわね。私も応援してる!﹂
﹁ありがとう、さゆちゃん。⋮それで、どう?宿題の手ごたえ、と
か﹂
﹁んー⋮何問かちょっと分からないところがあって、見てくれる?﹂
勿論だよ、と響子は再び筆記具を出して頷く。
彼女は普段優しくてゆったりとした人間だが﹁先生﹂になると容赦
がない。決して答えを言わなくて、全て紗弓に考えさせようとする。
そのあたりは割とはっきり物事を言う響子らしいといえば、らしい
といえた。
ヒントや公式の説明はするが、応用問題はその二つだけを提示して
後は紗弓が答えを出すまで辛抱強く待つ。そうじゃないとさゆちゃ
んの為にならないでしょ?が彼女の談である。
そんな訳で紗弓は頭を悩ませながらも時間をかけて、ゆっくりと問
題を解いていく。
﹁ふぅ⋮できたぁ⋮﹂
﹁はい、お疲れ様でした。はい、ごほうびどうぞ?﹂
くすくすと笑って響子が、いつの間にか買ってきたカフェオレのパ
ックを渡してくる。
﹁あ、もう⋮いいのに。むしろ私がお礼になにかご馳走するべきだ
わ﹂
﹁いいの。私がさゆちゃんに頑張りましたね、ってごほうびあげた
いんだから﹂
だからはい、と渡されて紗弓は礼を言ってから大人しくそれを受け
取って、ストローに口をつける。
195
冷たくて甘いカフェオレが喉に気持ちよい。
﹁はぁ⋮美味しい﹂
﹁頭を使った後の糖分はいいよね?ふふ﹂
そう二人で笑っていると紗弓の携帯電話が震えた。
ごめんね、と一言かけてから携帯を見ると怜からで、﹃写真見まし
た。とても可愛いですね。ありがとうございます。文句なんてひと
つもありませんよ?朝に送ってくれたものも含めてね﹄と書いてあ
る。
少し顔を赤くしていると、響子が気づいて少しだけ身を乗り出した。
﹁⋮佐久間先輩?﹂
﹁なんでわかるの!?﹂
がーん、と紗弓が驚愕していると﹁だって﹂と響子が笑った。
﹁顔が赤いんだもの。最近さゆちゃんが顔を赤くするのって、だい
たい先輩だから﹂
﹁うう⋮そんなトコまでばれてるなんて恥ずかしい。違うのよ、こ
れは⋮﹂
と、紗弓は朝のやりとりを響子に説明した。
彼女は﹁へえ⋮﹂と驚いたように口に手を当てる。
﹁きっとすごく声とかかけられるんだろうね。それに光国先輩や多
賀君までいたらすっごく目立ちそう、その海の家﹂
﹁目立ちそうだよねぇ。むしろ私ならあんまり近づきたくないわ﹂
﹁ふふ、そんなこと⋮佐久間先輩が寂しがりそう?8月の最初、だ
っけ。海にいくの﹂
鮮花といい、どうしてあの佐久間怜が寂しがるなんていうんだろう
と紗弓は思うが、響子の問いには頷いた。
﹁そうそう。あと1週間ちょっと⋮後くらいかな?そういえば響子
は大丈夫なの?その、外泊とか、お金、とか⋮﹂
﹁大丈夫だよ。普段お小遣い使ってないから貯まっているし、すご
く安くしてもらったから2泊でも問題ないし⋮外泊は、さゆちゃん
が一緒って言ったらすぐにOKが貰えたわ。お父さんもお母さんも、
196
さゆちゃんのことすごく信頼してるから﹂
﹁うーん、そこまで言われちゃうと責任重大だけど⋮でも一緒に行
けてよかった。楽しみだね、海﹂
そうだね、と響子も嬉しそうに笑う。
こうやって友達だけでどこかに泊まるのは二人とも初めてなので、
少しどきどきしているのだ。
﹁外泊セットなんて持ってないから、それも買わなきゃ﹂
﹁じゃあ、海に行く日までに一度街に出てお買い物いこう?﹂
うんうん、と二人で笑いあう。仲のよい女の子達の姿がそこにあっ
た。
197
19.恋人の写真に思う事。そして再会
怜達がバイトに入ってから一週間。海の家は夫婦の目論見通り大盛
況だった。
﹁もーうーやーだー!﹂
﹁はいはい愚痴ってないで、ホイ、焼きそばいっちょー!﹂
﹁おっ、カキ氷も持っていってくれ。メロン、イチゴ、オレンジ、
みぞれな﹂
﹁そんなに持てない!ヒトの腕は2本なんだよ!?﹂
護が忙しさにわめきながら注文品を持っていく。
八雲も同じようにあちこちへ持っていっては愛想を振りまき、バイ
トの女の子はレジをしながら、出来上がった料理をカウンターに運
んでいく。
怜の今日は主に注文を取りに行く係だった。
これが一番面倒臭い仕事である。なので男3人はローテーションで
回している。
何しろ注文を取る時が一番声をかけられやすいからだ。
﹁いらっしゃいませ。ご注文、どうされますか?﹂
﹁ねぇ、お仕事いつ終わるの∼?﹂
﹁6時ですよ?﹂
﹁じゃあその後、一緒に夕飯たべません∼?﹂
﹁すみません、夕飯はいつもここの仲間と食べるものですから﹂
やんわりと断って注文を取る。
夏の海水浴場は男女問わず開放的になる魔法でもかけられてしまう
のだろうか。とにかくナンパが多い。女はともかく、男にまでナン
パされるとはどういう事だと毎年思う。
注文をレジの女の子に伝え、次の注文をとりにいくと、次はカップ
ルだった。
しかし女は怜の姿に釘付けで、男は非常に面白くなさそうな顔をし
198
ている。
こういう時は愛想で切り抜けるのが怜の技だ。男にもにっこりと笑
って﹁いらっしゃいませ﹂と言う。
﹁ご注文、どうします?﹂
﹁え∼何にしよ∼。っていうか、すごいイケメンさんだね∼?いく
つ?いくつ?﹂
﹁まだ18ですよ。それに彼氏さんには及びません。ご注文どうし
ますか?﹂
と、あくまで女ではなく男に向かって注文を取る姿勢を崩さなけれ
ば、そこまで事は荒立たない。
女は自分を見てくれないので少し不満そうだったが、男が手早く2
人分の注文を済まし、怜もさっさと奥へ移動する。
﹁なによぉ!⋮でもまぁいいか、目の保養目の保養﹂
﹁お前なぁ⋮﹂
呆れたような声を出す男のつっこみを聞きながら、怜は黙々と仕事
を進める。
昼のピークはまだまだ長い。ばたばたと走り回りながら本当にこう
いう忙しい時間にのんきにナンパとか、空気読めよと思いながら、
怜はまた次の客へ注文を取りに行った。
﹁っだー⋮ちかれたぁ⋮﹂
﹁お疲れ様サマ!はい、遅くなったけどお昼のまかないだよーん﹂
おおっ!とバイト全員が目を光らせる。
ピークを過ぎたので浩二一人に軽く店を任せて、マリの作った焼き
そばを皆で食べ始める。
﹁はぁっ⋮本当、この時の為に僕は毎日働いている気がするよー﹂
﹁護は毎日本当いっぱいいっぱいだな。うむ、鍛えられて良かった
ではないか﹂
﹁会長がバイタリティー溢れすぎなんだよ!その鉄壁の愛想、いつ
崩れるの?﹂
199
﹁世界に女の子がいなくなったら⋮?﹂
アホだこの人は、と全員がそこはかとなく思ったが、焼きそばと一
緒に飲み込む。
キッチンでマリの手伝いをしていたバイトの男、瀬尾がもぐもぐと
口を動かしながら怜達3人を見据えた。
﹁しかし本当、大変だなぁ⋮傍から見ててもしょっちゅうナンパく
らってるじゃん。いかにもなおにーさまにまで声かけられてた時は
噴いたけど﹂
﹁本当ですよね⋮あれは心臓に悪いです。特に外国の方が困ります
ね。しかし⋮せめて、ピークの時間は避けて欲しいと思いますよ﹂
﹁でも仕方ないかも。皆すっごく格好いいし⋮体だって﹂
バイトの女の子が頬を赤らめて上目遣いで3人の男を見る。
何せ暑くて忙しいのだ。服装なんてラフもラフである。3人とも下
は水着の短パンで、上はタオル生地のパーカーやシャツをひっかけ
ており、特に怜に関しては道場で鍛えた筋肉が露に出ていて、非常
に人の目を引く。無駄の一切ない引き締まった体、割れた腹筋、厚
い胸板に長身で、整った顔。一部の男に人気があるのも仕方ない。
﹁八雲はそのアロハシャツどうにかならないんですか?﹂
﹁なんで!?海っていえばアロハシャツだろ!むしろ海以外でいつ
着るんだ!?﹂
﹁あはは⋮でも八雲くん、何着ても似合うよね。仕事が終わった途
端に女の子がいっぱい来るし?﹂
護も含めて、3人の男は仕事終わりに女性が待ち構えている。あの
手この手で誘ってくるのだ。
八雲や護はノリが良く、そのまま女の子達と海に遊びにいくのでと
ても人気が高い。
穏やかに微笑みながらそれなりにつきあうのが怜だ。
去年まではもう少し積極的に遊んでいた気もするが、今年はそんな
気にならない。それでも怜が泳ぎに行けば自然と女たちはついてき
て、あれこれ話しかけてくるのだが。
200
﹁怜くんは硬派だよね∼。格好良くて物腰も丁寧で、学校でも人気
あるんだろうなぁ﹂
うっとりとバイトの女子が怜を見る。ぶはっと八雲と護が焼きそば
を吹いた。
﹁こっ硬派!﹂
﹁怜が、硬派!くく⋮っ!ひー!﹂
﹁⋮そこ、煩いですよ﹂
つい数ヶ月前までは学校で女子をとっかえひっかえして、食いまく
っていた怜を知っている二人は肩を震わせる。
﹁あはは、ココナちゃんは怜の敬語や物腰にすっかり騙されてるね
ぇ﹂
﹁ええ∼?実は肉食系?やだぁ、でもそのほうが男らしくて素敵だ
けど∼﹂
﹁でも確かに最近はすっかり落ち着いたよね。正直こんなに長続き
するとは思わなかったよ﹂
くすくす、と護が笑う。
﹁長続きしないと思っていたんですか?心外ですね﹂
﹁だって僕が入学してから暫くの怜を見てると﹂
﹁なになに?話まぜてよ∼﹂
ココナというバイトの女の子が身を乗り出す。彼女も水着を着用し
ており、これみよがしに胸を押しだしている辺りが、彼女の3人に
対する思惑を感じさせる。
﹁可愛い彼女ができましてね。そちらの方とはよく続いているんで
す﹂
にっこりと怜がそう言うと、ココナはあからさまにがっかりした顔
をした。
﹁なぁんだ、やっぱり彼女いるんだぁ⋮そうだよねぇ。⋮きっとす
ごく可愛いんだろうなぁ﹂
﹁はい、可愛いですよ﹂
しっかり惚気る怜にこれは見込みがないと諦めたらしい。ココナは
201
ずるずると焼きそばを食べて、あ、と思い出したように顔を上げた。
﹁明日からもう一人バイトが来るんだよ。あたしの友達なの∼﹂
﹁へー。明日っていえば土曜日だし、土日って死ねる忙しさだから
助かるな﹂
﹁でしょ∼、すごくスタイルよくて可愛い子だから見蕩れちゃ駄目
だよ?八雲くん﹂
さっそく次のターゲットにしたらしい八雲に向かってココナは可愛
く上目遣いで見上げてきた。
ざざ、と波音が聞こえる。
浜辺は少し夕日色になっていて、閉店作業が終わったバイト達はこ
こぞとばかりに遊び捲くる。
﹁やぁ君達!こっちだよー!﹂
﹁あははっ 八雲くんまて∼!﹂
﹁つかまえちゃうんだからぁ∼!﹂
きらきらとした笑顔で浜辺を走る男と、追いかける女たち。
そんな情景をものすごく呆れた目で見る護。
﹁あれはなんなの⋮﹂
﹁今日は、浜辺で追いかけごっこをして、水かけごっこをするらし
いですよ?﹂
﹁アホだ⋮っ!﹂
がくり、と肩を落として護は顔を覆う。
今日も今日とて、海の家のバイトが終わるのを待ち構えていた女達
に捕まった。
バイト初日早々海で遊んでいたのが見られてしまって、それ以降近
所に住む女性達に狙われている。
そう、文字通り狙われている。
つくづく海という場所の魔力はあなどれない。他に女をここまで解
放的にする場所を怜は知らない。
﹁護くんも遊ぼうよー!ほらぁー!競争競争!﹂
202
﹁はーい!じゃあ平泳ぎ競争しましょうねー﹂
隣の護が立ち上がり、女性達に向かって走っていく。彼は彼でバイ
トに文句を言いながらもおねえさま達と遊ぶ事自体は楽しんでいる。
すでにひとしきり泳ぎ終わった怜は、タオルで頭を拭きつつ、ベン
チに置いていたパーカーのポケットから携帯電話を取り出して操作
する。
フォルダから出して見たのは、紗弓の写真。彼女が昼に送ってきた
ほうだ。
いつか見たように髪を下ろして、お洒落な眼鏡をつけている。笑顔
の表情はやや固くて、何というか無理矢理笑ってみました、という
感じなのが笑いをそそる。
︵⋮可愛いなぁ︶
頭をなでたい。話したい。そういえばまだデートもしていないのだ。
しようしようと言いながら、結局夏休みになってしまった。
紗弓の写真を送って欲しい。
﹁女の誘いを断るのに便利だから﹂それを匂わせるような物言いで
頼んでみたら彼女はあっさり了承して、こうやって送ってくれた。
⋮本当に、お人よし。
くす、と怜は笑う。
もちろんそういう思惑がないわけではない。あまりに見せろとせが
まれたら見せるだろう。
でもそれ以上に彼女の姿を欲したのは、ずっと毎日会っていた彼女
にしばらく会えないと気づいたから。
せめて写真を、と思ったのだ。
もちろんそんな気持ちになったのは初めてである。
﹁何でしょうねぇ⋮まぁ確かに⋮ある意味癒し系だと思いますけど﹂
﹁なーに?⋮ん、なにこの子﹂
後ろから水着姿の女性達が覗きこんできた。
怜は慌てず騒がずスッと写真を消してポケットに仕舞いなおしなが
ら彼女達に微笑む。
203
﹁僕の彼女です﹂
﹁えっ⋮今のが!?何だか意外ー﹂
﹁地味系が好きなんだ。なんだか真面目そうだったしー?﹂
﹁そうですね、真面目な人ですよ。何事も一生懸命で、優しい人な
んです﹂
余裕ある笑みを浮かべて惚気てみせれば、女性達は若干面白くなさ
そうな顔で﹁⋮そぉ﹂と相槌を打つ。
しかし、その中の一人が強引に怜の腕を取ってきた。
﹁まぁいいじゃない。遊ぼうよ、怜!﹂
﹁そーそー哀愁に打ちひしがれてないで、今は楽しもうよー!﹂
ぎゅっと胸を腕に押し付けてくる。ああ、あからさまだなぁと苦笑
しながら怜は立ち上がり、再び女性達と海に泳ぎに行くのだった。
◆◇◆◇
﹁あっつーい⋮!﹂
﹁本当にねぇ⋮ここまで晴れなくていいのに﹂
﹁ま、まぁ、雨よりいい、じゃない?帽子は必須だけどね?﹂
三種三様に話し出す。ここは海水浴場に最寄のバス停。つい先ほど
バスから降りて、地に足をつくなり紗弓、鮮花、響子は暑い暑いと
うだるのだった。
﹁ま、それも海で泳げばスカッとするわよ。まずは民宿にいきまし
ょう?早く荷物を置きたいわ﹂
﹁そうですね。じゃあいきましょう﹂
3人はごろごろとカートを引きながら歩いていく。
目的の民宿はバス停に近く、ほどなく到着した。
﹁わぁ、さゆちゃん、海が見えるよ!きれーい⋮﹂
﹁ん∼?本当ね。こうやって遠くから見ると海って本当にきらきら
して綺麗ねー﹂
204
紗弓と響子が夢中になって窓から海を見ていると、後ろでカートの
中身を整理していた鮮花がくすりと笑う。
﹁そうね、確かに。近づけば人は多いし、煩いしで、海って本当は
こうやって眺めているのが一番綺麗に見れるのかも。⋮でーも!泳
ぐわよ!焼くわよ!楽しむわよー!﹂
鮮花は本当に海が好きらしい。聞けば一番好きな季節も夏で、一番
嫌いな季節は冬らしい。
確かにここへは海を見にきたわけではない。楽しむために来たのだ。
紗弓と響子も荷物の所まで戻り、きゃっきゃと話に花を咲かせなが
ら水着に着替えた。
サンダルで砂浜を踏むと、砂の熱さが伝わって少し驚く。
﹁はぁ、海ねぇ⋮なんだか久しぶりだわ。もしかしたら私、小学生
以来かも﹂
﹁え⋮?そんなに行ってなかったの?﹂
﹁うん⋮多分、ずっと昔に行ったような思い出しかないわ、私﹂
父親が生きていた頃、家族で海に行った覚えがあるのだ。しかし母
親と二人きりになってからは海に遊びにいくという事はなかったと
思う。
﹁なら、思い切り楽しまないとね?さぁ、まずは海の家にいきまし
ょ?あいつらを冷やかしてから私達はゆうゆうと昼の海を楽しむの
よ!﹂
鮮花が笑って、プレハブのような建物に進んでいく。
そういえば佐久間に会うのは2週間ぶりに近いのか、と思いながら
紗弓もついていき、響子も同じように海の家に向かった。
その海の家は丁度ピーク時だったらしく全員が忙しそうで、とても
のんびりと声をかけられそうな雰囲気ではない。
怜の姿は確かに見れたが、忙しく注文を取る姿につい鮮花の手を取
ってしまう。
205
﹁なぁに?恥ずかしいの?﹂
﹁い、いや⋮あの、忙しそうだから後にしませんか?⋮お客さんも
多いし﹂
﹁なーにいってるのよ、大丈夫大丈夫﹂
にっこりと笑って、堂々と海の家に入っていき﹁はぁーい遊びにき
たわよー!﹂と、中にいる男達に声をかけた。
﹁おっ、鮮花!きたなきたなー!﹂
﹁それに紗弓ちゃんに響子ちゃんも!いらっしゃーい!座って座っ
て!﹂
紗弓が思っていたよりも余裕のある笑顔で八雲と護が歓迎する。
少しほっとして鮮花と同じ席に座ると、奥で注文を伝えていた怜が
振り向いてこちらへ歩いてきた。
﹁何だか久しぶりですね。こんにちは皆さん。⋮紗弓﹂
怜はにっこりと笑って彼女達を一瞥すると、紗弓へと目線を流して
きた。
﹁な、なによ﹂
﹁可愛い水着ですね?⋮白、ですか。とてもお似合いですよ?﹂
﹁うっ⋮あ、あんまり見ないでよ!﹂
慌てて、着ているピンク色のパーカーで前を隠すと、怜は首を傾げ
た。
﹁どうして隠すんですか?ちゃんと見せてください﹂
﹁いやよ!見せてって言われてどうぞ、なんて言う女いるわけない
でしょーがっ!﹂
﹁⋮⋮⋮そうですか?いえ、まぁ後でゆっくりじっくり見させても
らいますね。とりあえず何か食べます?注文なら取りますよ﹂
ゆっくりじっくりって何だ!と思ったが、怜は飄々として注文の紙
をぴらりと見せる。
お昼がまだだったので、3人は軽く食べる事にした。
﹁⋮はい、焼きそば2つと、きつねうどんが1つ。では少々お待ち
くださいね﹂
206
にっこりと笑って彼は去っていく。
はぁ、とため息をついて紗弓は自分の姿を一瞥した。
白色のワイヤーホルタービキニで、谷間部分にはリボン。そして下
半身を包むショーツ部分は両腰にひらひらとしたフリルがついてい
る。
そういえば水着持ってなかった、と気づいて先日響子と買ったもの
だ。
ちなみに紗弓は胸が豊かなのだが、それゆえに悩みがある。何せ背
が低いのだ。
本当はスポーツ水着のような全体を包む水着が欲しかった。
しかし彼女の背丈に合う水着を試着すると、どれも胸が入らない。
はみ出るのだ。
かといって胸の大きさを優先したものにすれば勿論腰周りがブカブ
カでとても着れたものではない。
そんな訳で羞恥を飲み込んでビキニタイプを選ぶしかなかったので
ある。
﹁はぁ、恥ずかしいな⋮﹂
﹁まだ言ってる、さゆちゃん。ビキニなんて、今流行りだから皆着
てるよ?﹂
﹁そうだけど⋮って、ワンピースタイプ着てる響子に言われたくな
いわよ!?﹂
﹁わ、私は、む、胸も小さいし⋮そ、そんなにスタイルよくないか
ら⋮﹂
二人で話していると﹁ふふふ﹂と鮮花がテーブルに肘をついて笑い
出す。
﹁二人ともとっても可愛いわよ。ナンパとかされちゃうかもね?そ
れだと﹂
﹁それはないです﹂
﹁あ、あの⋮私も、声なんて⋮かけられたこと、ないですから⋮﹂
207
そう言う二人はまじまじと鮮花を見る。
彼女はトロピカルな色柄のバンドゥ水着で、ブラ部分の面積が紗弓
より少ない。豊満な胸がこれでもか、と強調されているのにとても
嫌味がなく、まるでグラビアモデルのような完璧な姿。
長くほっそりとした足を高く組めば、道行く男は勿論、女も2度見
する。
﹁⋮鮮花先輩と一緒にいたら⋮かけられそう、ですね⋮﹂
おどおど、と響子がそう言うと﹁そう?﹂と彼女は笑った。
﹁あんまり、私ってナンパされないんだけどねぇ⋮遠巻きに視線を
感じるのは確かだけど﹂
﹁ああ⋮それもなんだか分かる気がします﹂
紗弓は妙に納得した顔で頷く。ようするにレベルが高すぎるのだ。
やがて怜が料理を持ってやってきた。
﹁はい、どうぞ。熱いから気をつけて?﹂
そう言って料理を並べていく。紗弓の前にきつねうどんを置いてか
らそっと彼は紗弓の頭に触れた。
﹁ありがとう⋮ん、何?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
なでなで、と撫でられる。何だろう?と首を傾げた。
﹁ちょっと充電を。何せ二週間ぶりくらいですから?﹂
﹁頭撫でるのが何の充電?意味が全くわかんないわよ﹂
ぱきりと割り箸を割りながら紗弓が軽く怜を睨むと、彼は何故か嬉
しそうに微笑む。
﹁いやぁこういうの、久しぶりだなぁって。ああ、久しぶりに紗弓
をからかって虐めて、思い切り怒られたいですね﹂
﹁あんたはサドなのかマゾなのかどっちなのよっ!?﹂
﹁どちらかというとサディストだと自覚してますが。あ、夕飯一緒
に食べましょうね。18時には終わりますので、待っててくれます
か?﹂
208
にっこりとした笑顔で言われて思わず紗弓は鮮花と響子を見たが、
二人は別にかまわないといった風に頷いたので、紗弓も怜に﹁わか
ったわ﹂と了承する。
彼はそれを聞いて満足したらしく﹁それでは後で﹂と言ってから仕
事に戻っていった。
さて、とうどんを箸に取り、ちゅるりとすすっているとあちこちか
ら視線を感じた。
何?と辺りを見てみれば自分達の回りにいる女達があからさまに敵
意ある目で紗弓を睨んでいる。
﹁⋮なんか睨まれてない?私達﹂
怪訝な顔ではむ、と油揚げを食べていると、鮮花は含みある笑みを、
響子は曖昧な笑みを浮かべ﹁私達、じゃなくてさゆちゃんが睨まれ
てるのよ﹂と二人に言われてしまって、紗弓は首を傾げた。
209
20.傍迷惑なテンプテーション
昼食を終え、紗弓達は浜辺へ移動する。パラソルとシートを借りて
護に立ててもらい、3人はとりあえずシートに座った。
﹁ありがとう、多賀くん。⋮それにしても暑くない?大丈夫⋮?﹂
心配そうに響子が言うと、護はにっかりと笑った。
﹁暑いよ∼!もう嫌になっちゃう。でもありがと!響子ちゃん達は
存分に楽しんで?あ、ナンパとかこの海水浴場、多いらしいから気
をつけてね。何かあったらウチにきてって会長と怜が言ってたよ﹂
﹁ないない、ないから。考えすぎよ﹂
ねぇ、と紗弓が響子に軽く笑えば、彼女も同意するようにコクコク
と頷く。
それを見て護は﹁自覚ないんだなぁ﹂と笑い、鮮花に顔を向ける。
﹁んじゃ鮮花さんに頼んでおこっと。ちゃんと見ててあげてね?保
護者さん﹂
﹁いっそナンパされちゃうのもアリだと思うけど∼?まぁ、それな
りに見ててあげるから、心配症な二人にはそう伝えておきなさいな﹂
笑いながら彼女はそう言って、護は頷くと海の家に帰っていく。
彼を見送ってから﹁さて﹂と鮮花はくるりと二人に向いた。
﹁さっそく泳ぎましょう?二人とも、泳げるのかしら﹂
﹁はい⋮一応﹂
﹁同じく?とりあえず入ってみないとわからないです﹂
﹁そう、じゃあ行きましょう﹂
軽く準備体操をして、3人は一様に海へ向かった。
紗弓は眼鏡をかけているので海に潜ることができない。顔を上げた
まま器用に立ち泳ぎをしてスイスイと泳いでいた。
﹁さゆちゃんすごいね?それ⋮何ていう泳ぎ方なの?﹂
﹁え、何かしら⋮横泳ぎ?﹂
210
彼女は泳げるのだが、妙に独特な泳ぎ方をする。
顔を海につけないように、平泳ぎのようなのだが移動は前だけでな
く、横や、後ろにも移動できる。
﹁器用なんだねぇ⋮変なとこで⋮﹂
﹁変なとこってどういう意味なの!?﹂
﹁ふふ、さゆちゃんも眼鏡外して潜ってみたらいいのに⋮?﹂
﹁私がすごい乱視なの、知ってるでしょう⋮?眼鏡外したら何も見
えないわよ﹂
乱視が酷いからコンタクトにしづらい。
勿論それ用のコンタクトレンズは売っているのだが、高いし、眼鏡
で十分だと思うのだ。
﹁それにしても、響ちゃんこそ思ったよりすいすいーって泳ぐわよ
ね。学校のプールでも思ってたけど﹂
﹁何故か私、泳げないって思われてるみたいなのよね?⋮とろそう
に見えるのかしら⋮?﹂
困ったように笑った後、響子はとぷんと顔を海につけ、そのまます
いすいと海中を泳いでいく。
魚みたいな動きに紗弓は笑った。
﹁ふふ、響ちゃんの前世は人魚だったのかしら﹂
そんな風に呟いていると、突然紗弓の後ろからザパッと水が跳ねる
音がした。
﹁⋮な・あ・に、らぶついてるのよ。私もまぜなさーい!﹂
﹁きゃあ!﹂
どこからやってきたのか、海中から上がってきた鮮花に後ろから抱
きしめられる。
﹁さぁて、これ、確かめたかったのよね∼。さぁ測らせなさいっ!﹂
﹁ひぇあ!?どっどこを触ってるんですかっ!やっ!やめてぇ!﹂
海中で胸をむにりと揉まれる。
くすぐったくて紗弓は身をよじらせた。
﹁これは⋮っ!怜の見立てより大きいわね。あいつもまだまだだわ
211
⋮﹂
もみもみと容赦なくこねくり回しながら鮮花は妙に真面目な顔で紗
弓の胸を検証する。
﹁⋮っ!あなた、Gカップね!?﹂
﹁何カップなんて知りません!!﹂
﹁えっ!?じゃあ下着買うときどうしてるの!?﹂
﹁ママが買ってくるの、つけてるだけですー!﹂
ぱしゃぱしゃと暴れても一向に彼女の不埒な両手が止まらない。も
にゅもにゅと揉みながら﹁うーん﹂と鮮花は唸った。
﹁それはだめね!これからの為にも下着くらい自分で買えるように
ならないと!今度一緒に買いましょうね。勿論響子ちゃんもくるの
よ!﹂
﹁えっ⋮わ、私も、ですか?﹂
﹁貴女のは貧乳じゃないわ、美乳というのよ!ちゃんとブラを選ん
で形を補正すればもう1サイズアップできると思うし、ああっこの
子といい響子ちゃんといい、なんて勿体無いおっぱいなの!けしか
らんおっぱい達めっ!﹂
﹁いーみーがーわかりませーん!もうやめてぇー!﹂
﹁そうね、この際響子ちゃんのもしっかり確かめさせてもらうわ。
えーいっ!﹂
﹁きゃあああ!?﹂
見た目は美人でも中身が親父な鮮花によってぐったりするまで胸を
揉みしだかれた結果、心から満足したような彼女と、へとへとにな
りながらシートに倒れる紗弓と響子の図が出来上がった。
休憩しようという話になって、じゃんけんで負けた鮮花は一人、海
の家に行く。
昼食のピークが終わってのんびりした空気のする店に入って、大柄
な中年男にやきとうもろこしと、フランクフルト、いか焼きを頼ん
だ。
212
﹁あいよーちょっと座ってて待ってくれ﹂
﹁ええ。そうさせてもらうわ﹂
ベンチに座って足を組む。護は本当によく考えたところにパラソル
とシートを設置したのだろう。ここからしっかりと紗弓たちの場所
が見えた。
﹁本当、心配症だこと。うちの男共は﹂
﹁鮮花か?他の二人はどうした?﹂
思った通り、八雲と怜がやってくる。それに加えて鮮花がいると、
この周りは一気に華やかになり、むしろ誰も近づけない雰囲気すら
ある。
鮮花は笑って、足で紗弓たちの方向を指した。
﹁あ、ほら、早速ナンパされてる。ふふ﹂
﹁鮮花、お前な⋮。何のためにお前がいるんだよ﹂
﹁ええー?私って防波堤扱い?酷いわねぇ⋮。丁度あれくらいの可
愛さがナンパされやすいんでしょうね﹂
﹁そうですね、あまり鮮花に声をかけようって男はいないでしょう。
遊びなら尚更﹂
怜もそう言いながら目線は浜辺の、二人の女子に注がれている。
二人は困ったようにしていて、紗弓がぶんぶんと手を振った。あれ
は嫌だというジェスチャーだ。
﹁まぁいい勉強よ。あれくらいサラッとかわすスキルくらい持たな
いと、これからやっていけないわよ﹂
﹁お前は⋮次はどーいう企みをしているんだ﹂
呆れたように見てくる八雲に鮮花はくすっと笑う。
﹁私目覚めちゃったみたい。あの二人を教育してやるわ!それはも
う可愛くして、磨き上げてみせるっ!﹂
﹁﹁やめてくれ!!!﹂﹂
二人の男が同時に反応した。間髪入れない声に鮮花はあはは、と腹
を抱えて笑い出す。
しかし怜はふと、八雲に顔を向けた。
213
﹁⋮そういえば、八雲はいつの間に蓮華さんを⋮?﹂
そう聞くと、ぎくりとした雰囲気で八雲が反応する。
﹁ま、まぁ⋮こっちも色々あるんだよ⋮俺が勝手に想ってるだけだ
けど﹂
﹁へぇ?ああいうのは弄ぶに適した女性でないのでは?﹂
﹁⋮そんなんじゃなくて⋮まぁ、本当色々あんの!﹂
ニヤニヤと笑う鮮花に、一人話が分からない怜は不満げに彼女を見
た。
﹁ふふ、木曜日のマドンナなのよ。それがつい最近分かったの。皮
肉にもあの﹁指輪事件﹂でね﹂
﹁だーっ鮮花、話し過ぎ!とりあえず今の俺はまだ世界中の俺を慕
う女の子を可愛がっておきたいんだ。真面目にやるのはそれを一生
分堪能した後!﹂
﹁なんですか、それは。⋮まぁどうでもいいですけど。好きにした
ら﹂
お前はお前で俺に対して淡白すぎない!?と八雲が追いすがるが、
無視する。
どうやらナンパの男達は諦めたらしい。ほっとしたように響子と話
す紗弓を見て怜も安心する。
﹁そういえばね、怜。あの子相当着やせするわよ。下着のサイズが
合ってないのもあるでしょうけど﹂
﹁どういう意味ですか?﹂
﹁⋮G﹂
アルファベットを言うので、怜が片眉を上げる。にぃ、と鮮花は笑
った。
﹁Gカップよ、さゆちゃん。もうたっぷたっぷのぽよぽよ。丸くて
柔らかくて、揉みがいがあったわ∼うふふふふ﹂
﹁鮮花⋮⋮貴女は﹂
怜が頭を抑えながら声を上げたところにのんびりとした浩二の声が
響く。
214
﹁注文品、できたぞー取りにこーい﹂
﹁ほらほら、さゆちゃんと響子ちゃんのおっぱいに触れる事すら許
されない悲しい男達よ、私達のために取りにいきなさいな﹂
くっ⋮と二人は悔しげに顔を歪め、注文品を取りにいくのだった。
◆◇◆◇
やがて日は暮れはじめて、海水浴場の人間も減っていく。
存分に一日を楽しんだ紗弓たちは海の家近くのベンチに座って彼ら
の仕事が終わるのを待っていた。
やがて掃除と片付けを終えた3人が現れる。
﹁おまたせー﹂
﹁お疲れさまでした。皆さん⋮あの、今日は私達遊んでばっかりで
⋮﹂
﹁何言ってるの。俺達はバイト、君達は余暇に来たんだから当然で
しょ。楽しかった?﹂
くすくすと笑って八雲が響子の頭を撫でながらそう聞くと、彼女は
恥ずかしそうに俯きながらもこくりと頷いた。
﹁そーよそーよ。こいつらは足で使ってナンボなのよ。明日はもっ
と使ってやりましょうね﹂
﹁流石に忙しい中を呼び出すのは⋮!?﹂
思わず紗弓が鮮花につっこむ。しかし彼女は笑って﹁こいつらは一
見サドだけど、実は真性マゾだから、虐めたほうが喜ぶのよ﹂と断
言した。
﹁全く貴女は⋮ああ、夕飯まで少し時間があるんですけど、泳いで
いっていいですか?﹂
﹁かまわないわよ。まだ海って冷たくならないの?﹂
﹁少しは冷たいですけどね、昼は散々暑い中走り回るので、海でも
入って汗を流さないと⋮まぁ、どうせシャワーはするんですけど。
気分の問題で﹂
215
ふふ、と笑って紗弓をそっと海へ促す。一緒に泳ごうと誘われてい
るのが分かって、どうせ夕飯まで時間があるならつきあおうと彼女
も立ち上がる。
するとそこに、3人程の水着姿の女性達が歩いて近づいてきた。
﹁ねぇ∼八雲くーん⋮あら?﹂
﹁何その女、新しい子?﹂
怪訝に見つめてくる女達に3人の男たちは笑って見た。
﹁昨日言ったでしょう?今日明日は僕達の友達や彼女が来るって﹂
﹁そそ、だから今日と明日はこの子たちと遊ぶんだ。悪いね﹂
護もこくりと頷いて、ぶんぶんと紗弓と響子を手を握って振った。
﹁来ても遊ばないよって言ったのに、どうしてくるのかな?空気読
んだお姉さまのほうが多いのに。さ、行こうー﹂
そのまま戸惑う二人を海へ連れて行く。
鮮花は艶のある笑みを浮かべて3人の女達を見た。
﹁ごめんなさいね?こいつらにとって私達は本命なの。明後日には
帰るから、その後は好きに遊びなさいな。期間限定だけど顔がよく
ていい男だものね?じゃあね∼﹂
ひらひらと手を振って、さくさくと鮮花も海に向かう。その彼女に
続くように怜と八雲が歩き出すと﹁待ってよ!﹂と呼び止められた。
﹁もしかして、あのロングの子が怜の⋮?﹂
﹁ああ、そういえば写真見られてましたね。そうですよ?﹂
﹁あんな子⋮っ!!﹂
暴言でも言おうとしたのだろうか、女が声を荒げて言葉を続けよう
とすると、さく、とサンダルで砂を踏んだ怜が軽く後ろへ振り向く。
﹁あんな子?⋮その後は?彼女を侮辱する気ですか?﹂
いつもの微笑みを引っ込ませて冷たく一瞥すると、完全に女が怯む。
﹁⋮っ!そ、そんなつもりは⋮でも⋮﹂
おたついたように言葉を濁す彼女に、怜は改めてにっこりと笑った。
﹁余計なこと、考えないでくださいね。貴女方は気楽に僕達と遊び、
僕達もそれにつきあう、そういう関係でしょう?あまりプライベー
216
トに踏み込まないでくださいね﹂
﹁そういう事。⋮こんな風な空気になるのが嫌だから、今日明日は
来るなって言ったのに。聞き分けはいいほうが可愛いよ?それじゃ
ねー﹂
にこにこと笑って八雲も怜に続いて海へ走っていく。
﹁⋮何あれ﹂
海の家の裏で女達はぶつぶつと言い合う。全員全く面白くなさそう
に煙草を吸っていた。
﹁ガッコーの友達なんでしょ?確かにあの女は美人だけど、もう一
人は地味を通り越してなんだか暗いじゃない﹂
﹁うんうん、彼女ーって言ってた子も胸は確かにおっきいけどそれ
だけよね。顔だって地味だし、眼鏡よ?眼鏡。フツウ海ってコンタ
クトじゃない?﹂
﹁面白くなぁーい。折角見つけたいい男なのに売約済なんて。あ、
でもそれって怜だけなのかな?それともそれぞれ彼女なのかしら﹂
﹁えーっ!じゃああの暗い子がどっちの彼氏なの?八雲だったらシ
ョックすぎ!﹂
﹁それだとあの美人が護くんの?そう言われたら、ちょっと文句言
えないんだけど⋮﹂
﹁ないない、あの女は多分決まった男がいないとみた。残りの地味
二人はしんないけどー﹂
女はそう言って、乱暴に煙草を砂浜にもみ消す。
﹁あー、ちょーがっかり。今日と明日はつまんないなぁ﹂
﹁じゃあ、突撃しちゃおうよ﹂
声は、海の家横から聞こえてきた。
女達がえ?と振り返ると海の家から二人の女が現れた。ここでアル
バイトをしているらしい子達だ。
一人は意地悪そうに笑っていて、もう一人はとてもスタイルが良く、
可愛い女が不敵に笑っている。
217
﹁あれじゃイケるよ。仲引き裂いちゃったらオトコ取れるって﹂
﹁あと男2人くらい誘ってさぁ、ちょっと甘い言葉で口説いてやっ
たらあの子達もそっちにいっちゃうよ。昼も見てたけど、全然男慣
れしてなさそーだもん。ナンパ断るのも一苦労だったみたいだし。
そういうの慣れてるヤツ、何人かいるんでしょ?トモダチで﹂
﹁いるけどぉ⋮本気?﹂
煙草をつまみながら女が言うと、バイトの娘はくすくすと笑う。
﹁本気よー。私さぁ、仲引き裂いたり、横取りするの大好きなんだ
よね。真面目につきあってればつきあってる程壊しがいがあるって
いうかー﹂
﹁趣味わるっ!でも暇つぶしにはなるかもー退屈だったし。いい男
達だし、盗りがいありそうね﹂
﹁でしょー?じゃあオトコの見繕いは頼んでいい?﹂
任せてーと女達は軽く笑う。
企みを知らない海辺の彼らを見て、ココナはにぃ、と口の端を上げ
た。
◆◇◆◇
夕方の海を堪能して民宿で風呂に入った後、6人は広間で夕食を取
る為にぱたぱたとスリッパを鳴らせて歩いていた。
﹁ところで紗弓に蓮華さん。昼にナンパされてたみたいですが、大
丈夫でしたか?﹂
﹁あー⋮見てたの?本当ビックリしちゃったわよ﹂
﹁うん⋮でもさゆちゃんがちゃんと断ってくれました﹂
戸惑ったように言う二人に、鮮花がくすくすと笑う。
﹁私が席を立つのを待ってたんでしょうねぇ。全く油断も隙もあっ
たもんじゃないわ。明日も気をつけなさいね?﹂
彼女の浴衣姿はまた艶やかだ。紗弓達も民宿の名前が入った浴衣を
着て、髪は上に上げてお団子にしている。先程風呂を終えて、3人
218
で髪の括りあいっこをしたのである。
ちなみに男達は全員Tシャツにハーフパンツといったラフな格好で、
さらに八雲はアロハシャツも羽織っている。
﹁そんなに⋮あれだったのかしら、あの男の人達﹂
﹁あれって?﹂
八雲の問いに、紗弓は面白くなさそうに呟く。
﹁ナンパの成功してなかったのかなって。だから手当たり次第に声
をかけはじめたのかな⋮って思ったんです﹂
﹁あははっ!そう来るか!いやー紗弓ちゃんは本当に自覚ナシなん
だね∼駄目だよーちゃんとガードしておかないと。響子ちゃんも、
ぽやぽやしてると押し切られそうだからお兄さん心配だよー﹂
﹁わ、私、ですか?あの⋮家族で行った時は声かけられたことなか
ったから⋮友達とだけで行くと、やっぱり⋮かけられやすいんでし
ょうか、声⋮﹂
﹁それはあるかもしれないけど。あのねぇ、フツウに二人とも可愛
いの。しかも遊びなれてなさそうなところがナンパ男には格好の獲
物なんだよ。だーかーら、あまりにしつこかったらちゃんと俺らの
いる海の家に逃げ込むこと。わかった?はい、返事﹂
えー?と胡散臭そうに紗弓は見つつ、響子は恥ずかしそうに俯いて、
二人とも小さく返事をした。
からりと広間の襖を開けて怜もにっこりと二人を見る。
﹁約束ですよ?鮮花がいる時は安心ですけどね﹂
そう言って、怜は広間に入っていく。紗弓たちもそれに続いて、広
間ですでに配膳された料理に目を輝かせた。
﹁美味しい!このお刺身っ!﹂
﹁海来たらそりゃ美味しいに決まってるわよー!んーっ、おいし!﹂
﹁さゆちゃん、このサザエのつぼ焼きも美味しいよ?こんな大きい
の、海じゃないと食べれないよー﹂
器用に中身を取り出して、はくはくと響子が美味しそうにサザエを
219
食べるのを見て、紗弓も同じように爪楊枝でサザエの中身を取り出
そうとする。
しかしぷつりとサザエのキモが千切れてしまい、紗弓はへんにゃり
とした顔をした。
﹁あう⋮サザエって、取るの難しいのね﹂
﹁紗弓はあまり海の幸を食べ慣れてなさそうですね。これはこうや
って⋮﹂
隣に座っている怜が自分の爪楊枝を使って紗弓のサザエの奥を探り、
くるくると楊枝を回して残りのキモを取り出した。
﹁はい、どうぞ﹂
﹁う、うん⋮ありがと⋮﹂
爪楊枝を取ろうとすると、ヒョイと避けられる。なによ?と不満げ
に彼を見ると、怜はにっこりと笑った。
﹁口開けて。あーん﹂
﹁!!!﹂
思わず身を引いてしまうが、おいしそうな醤油の匂いに負けた紗弓
は諦めて口を開ける。
途端に入ってくるほろ苦いサザエのキモ。
もぐもぐと咀嚼して﹁⋮美味しい﹂と呟いた。その声に怜は嬉しそ
うに笑う。
﹁良かったですね。この民宿は値段の割りにご飯が美味しいでしょ
う?拘ってるんですって﹂
﹁そうなの。確かに美味しいわ⋮このお魚も美味しいし⋮これは何
?﹂
﹁スズキですよ。後で御頭焼きも来るらしいですから、食べ方を教
えて差し上げますね﹂
紗弓がここに来てからずっと怜は機嫌がいい。終始にこにこ顔で彼
女の世話をする。
それはペットを可愛がる飼い主のようでもあり、恋人を愛でる彼氏
のようでもある。
220
﹁何ていうか怜、顔がとろけちゃってるよ?﹂
﹁久しぶりに会えたさゆちゃんが可愛くて仕方ないのねぇ⋮﹂
護がからかうように笑って、鮮花がしみじみと言う。
夕飯は豪華だ。
大きな座卓には6人分の刺身が乗った船盛りがあってとても見た目
が派手だし、他にそれぞれの席にはカニ汁、エビ焼き、サザエのつ
ぼ焼き、はまぐり焼き、スズキの塩焼き、と揃っていて、お腹一杯
食べられそうな感じであった。
しかもこんなに大きな船盛りは見るのも初めてだ。紗弓は面白そう
に眺めながら、自分のご飯を食べる。
﹁あれ?響子ちゃん海老食べないの?﹂
﹁あ⋮私、エビアレルギーなんです⋮カニもちょっと駄目で﹂
しょんぼりとエビ焼きを避ける響子に、八雲がそうなんだと目を丸
くしてから紗弓を見た。
﹁紗弓ちゃん、知ってた?﹂
﹁ええ。エビのスナック菓子とかは大丈夫らしいんだけど、こうい
うのは全部だめです。症状はそこまで重くないんですけどね﹂
﹁そうなんだ⋮﹂
少し神妙な顔をして八雲が響子を見る。すると彼女は慌てて笑って
手を振った。
﹁あの、でも私、魚介類は⋮好きなんです。エビとカニ以外ならお
魚大好きですし、貝も、海草も大丈夫ですから⋮﹂
﹁⋮そっか。じゃあ俺のサザエと、響子ちゃんのカニ汁、交換しよ
うね﹂
﹁えっ⋮そ、そんな、いいです!サザエ、おいしいですよ?﹂
﹁俺カニのほうが好きだから。はい、交換交換ー﹂
ふふーと笑ってさっさと彼は自分の皿と彼女の椀を交換する。焼き
エビは、はまぐり焼きと交換した。
﹁⋮すみません。ありがとう⋮ございます﹂
﹁礼なんていいよ。実はカニ汁と焼きエビを狙っていたのだ!﹂
221
ちゃきーん、と箸を構えてみせると、響子はふふっとほんわり笑っ
た。
﹁え、なにこの甘酸っぱい空間。微笑ましすぎるんですけど﹂
﹁我々はこの情景をつまみに、一杯やるしかないわねっ!?﹂
ぷし、と鮮花は発泡酒の缶を開ける。お、いいですねーと護も彼女
の隣にある缶に手を出した。
﹁ちょっ⋮それ、ビールじゃないの!?﹂
﹁んん?違う違う。これはビールじゃないわ。ノンアルコールビー
ルなの。だから高校生が飲んでもオッケイ!﹂
そらっと嘘を言う鮮花に護が発泡酒を噴く。
しかし紗弓は気づかず、首をかしげた。
﹁あ、そうなの?ノンアルコールビールって、本当のビールみたい
な見た目なのね⋮﹂
﹁そうなの。ほら、雰囲気も大事だし?うふふ﹂
ごくごく、と彼女が飲む缶は本物の発泡酒である。ちゃんと見れば
アルコール度数も書いてある。
しかしノンアルコールビールをまじまじと見たことがない紗弓はあ
っさりとそれを信じた。
﹁ふぅん⋮でもそれ、美味しいんですか?﹂
﹁どちらかというと苦いわよ。だからさゆちゃんと響子ちゃんは飲
まなくていいかもね?﹂
﹁そう⋮ですね。お茶のほうがご飯に合いそう⋮だよね?﹂
響子の言葉に紗弓も頷いていると、怜と八雲が鮮花に向かって手を
伸ばす。
﹁僕もいただきます。発泡酒みたいなノンアルコールビール﹂
﹁俺もー﹂
﹁はいはいどうぞどうぞ。自己責任でよろしくね﹂
ぽいぽい、と男達に鮮花は発泡酒を配っていく。
そんな風に盛り上がり、不良生徒会役員と、純粋無垢な女子達の宴
は過ぎていくのだった。
222
21.交わした約束。解されていくこころ
かさ、とした自分の家と違う糊のきいたシーツの音で、紗弓はうっ
すらと目を開けた。
日差しが明るい。
﹁ん⋮なんじ⋮?﹂
手でよろよろと携帯電話を探し出しだして見ると丁度6時を指して
いた。
﹁⋮はやっ⋮﹂
もう一度寝直そうと、もぞもぞ布団に入ってみるが、暑い。
冬ならぬくぬくと寝れるのに、と思いながら紗弓はむくりと起き上
がった。
目をこしこしと擦った後、うーん、と伸びをする。
隣を見てみれば、響子と鮮花はまだすうすうと寝息を立てていた。
音を立てないように紗弓は浴衣を脱ぎ、白いTシャツとデニム生地
の短パンを履く。
まだ早いから人もいないだろう。どうせ起きたなら朝の海を見てみ
たい。怜から写真を貰った時から見たいと思っていたのだ。
そっと靴を履いて部屋を出る。
何となく自販機で冷たい紅茶を買うと、それを持って浜辺に向かっ
て歩き出した。
ざざ、と耳に心地よい波の音が聞こえる。
波が寄せては返す、色の変わった砂浜をサンダル片手に裸足で歩く。
時々波がきて、彼女の足を濡らして帰っていく。
﹁⋮きもちいい﹂
ちゃぷ、ちゃぷ、と海水の残る道を歩いた。
思い出したように自分が持っていた紅茶のフタを開けて一口飲み、
息をついていると後ろから﹁紗弓﹂と声をかけられる。
223
﹁⋮え?﹂
振り返れば、紗弓がここにいる事を狙い澄ましたように怜が立って
いた。
﹁佐久間⋮なんで?﹂
﹁なんでって⋮もうすぐ開店作業が始まりますから。あと30分く
らいですね﹂
﹁えっ⋮もう開けるの?早いわねぇ⋮﹂
感心したように怜を見ると、彼はにっこりと笑った。
﹁おはようございます﹂
﹁あ⋮おはよう。昨日はちゃんと眠れた?﹂
﹁ええ。紗弓こそ、寝れましたか?﹂
﹁うん⋮なんだか寝る直前まで話してた気もするけどね﹂
それを聞いて怜がおかしそうに笑う。つられたように紗弓も笑った。
ざざーん、と波の音が聞こえて、二人は自然と海を眺める。しばら
くしてふと、怜が海を見ながら話し出した。
﹁海辺でデート、というのもまたロマンチックなものですね﹂
﹁はっ⋮?なにそれ⋮デート?﹂
﹁はい。海の見える所でデートするの、いいなぁと思いまして。横
浜にいきませんか?夏休みが終わったら﹂
﹁横浜⋮?中華街とか?﹂
すぐ食べ物の所を口に出す紗弓に怜はくすくすと笑う。
﹁中華街もいいですね。中華料理、好きなんですか?﹂
﹁嫌いじゃないわよ。⋮テレビで見たアレが食べてみたいわね。し
ょーろんぽーとかいう⋮﹂
﹁ああ⋮。ふふっ⋮﹂
くっくっと怜がおかしそうに笑い出すので、紗弓は怪訝な顔をした。
なによ、と口を尖らせると﹁ごめんなさい﹂と笑いながら謝って怜
は紗弓を見下ろす。
﹁何だか紗弓が、小籠包を一気に食べてしまって、口の中を火傷す
る姿がすぐに想像できてしまって﹂
224
﹁あんたが私のことをいかに馬鹿にしているか今理解したわ﹂
﹁だからごめんなさいって。ふふ⋮。いつもの繁華街の枡屋もいい
ですけどね。折角バイト代も入りますし、遠出もいいかなって。中
華街もいいですけど、赤レンガ倉庫に並ぶ雑貨屋とか、楽しいです
よ?海も見れますしね⋮だからいきませんか?﹂
じ、と優しい目で見つめられる。
紗弓は少し顔を赤くして目をそらした後、ゆっくりと怜に向かって
顔を上げて、頷いた。
﹁ん⋮いいわよ﹂
﹁本当ですか?じゃあ約束しましょうね﹂
﹁う、うん⋮。つきあう⋮お、お礼に奢るって話、忘れてないし⋮﹂
﹁そうでしたね。勿論、美味しいものをご馳走しますよ。じゃあ指
きりしましょう﹂
何故指きり?と思ったが、怜が小指を出してきたのでつられたよう
に紗弓も小指を出す。
軽く重なる小指。それだけなのに酷くどきどきとした。
頭を撫でられたり、肩に触れられたりするよりもずっと沢山、胸が
高鳴る。
﹁⋮はい、指きった。楽しみですねぇ、一杯おめかししてください
ね?﹂
﹁き、気が向いたら、ね!﹂
つんと顔を逸らして紗弓は海辺を歩いていく。
彼女の白い足が時々波に当たってきらきらと光るさまを、怜は目を
細めて眺めていた。
◆◇◆◇
日曜日の海水浴場は驚く程人が多い。特に今は夏休みのピーク日で
もあり、海水浴場にある海の家は数件あるが、どこも大盛況のよう
だった。
225
浜辺もすでに客が混雑しており、色とりどりのパラソルが立ち並ん
でいて、海の中は泳ぐスペースがあるのか?と首を傾げるほどまさ
にイモ洗い状態だ。
﹁これは昨日みたいに泳げないわねー﹂
﹁本当ですね⋮昨日も多かったけど、まだ泳げるスペースはあった
のに⋮﹂
﹁んー⋮とりあえず一度戻ります?﹂
少し泳げば違う人にあたりそうになり、困ったように立ちつくす3
人。
そうね、と鮮花が頷いた時、近くを泳いでいた子供が容赦ないバタ
足で水しぶきをあげ、紗弓の顔に思い切りかかってしまった。
﹁わぅ!﹂
﹁あっ⋮さゆちゃん、大丈夫?﹂
﹁ん⋮眼鏡が⋮﹂
眼鏡も、その下の目も海水まみれになってしまって紗弓は慌てて眼
鏡を外して手で軽く吹いた。
﹁拭かないと⋮﹂
﹁そうだね、砂浜に戻ろう?﹂
うん、と頷いて紗弓も眼鏡を外したまま歩こうとする。
﹁あっさゆちゃんそっちじゃないよー!?﹂
﹁あれ、鮮花さん、どこ?﹂
﹁すぐ横にいるわよ。誰の後姿おいかけてるのよっ!⋮さゆちゃん、
本当に目が悪いのね⋮﹂
仕方ない、と鮮花が紗弓の手を取って歩き出す。
ふらふらと彼女の手に追いすがるように紗弓も砂浜へ上がっていっ
た。
﹁うー⋮眼鏡、べたべたする⋮﹂
﹁これは真水で洗ったほうがいいね。海の家ならお水出てると思う
けど。シャワー室は遠いし⋮﹂
﹁じゃあ皆で海の家いきましょうか。忙しそうだけどお水くらいな
226
らもらえると思うし﹂
そうですね、と響子は頷いて紗弓の手を取る。
紗弓も大人しく立ち上がって彼女達についていった。
﹁すみませーん、お水欲しいんですけど∼﹂
海の家前で鮮花が声をかけると、忙しそうに走り回っていた一人が
気づいたように顔を上げた。
﹁どうしましたか?﹂
珍しく怜達のような知っている顔ではない、別の男だった。
﹁ごめんなさい、眼鏡を洗いたいからお水が欲しいのだけど﹂
﹁ああ、水道でいいですか?そこにホースがあるでしょう?そこを
辿れば給水栓がありますので﹂
﹁ありがとう、助かるわ﹂
にっこりと鮮花が笑い、男は少し顔を赤くする。
3人はそのまま海の家の裏側へ行き、紗弓は真水で顔と眼鏡を洗っ
た。
タオルで拭いて眼鏡をかけると、世界が明確に見えて紗弓はほっと
する。
﹁はぁ⋮びっくりした﹂
﹁これは本当、悠々と遊べそうにないわね。ちょっと民宿に帰らな
い?﹂
﹁そうですね。お風呂に入ってゆっくりして⋮。夕方頃になったら
さすがに人が減ると思いますし⋮その時もう一度いきましょう?﹂
響子の提案に、二人は﹁そうね﹂と頷いた。
夕方頃になるまで民宿でのんびりとし、バイトしている男達の仕事
が終わる頃に行ってみると、やはり人はかなり少なくなっていた。
昨日と同じように海の家前のベンチに座って待っていると、最初に
掃除を終えた護が現れて、その後海水浴場のごみ拾いを終えた怜と
八雲が帰ってきた。
227
﹁お疲れ様ー!﹂
紗弓達は立ち上がり、怜達に冷たいラムネを渡す。
﹁おっ、ラムネだ!懐かしー!﹂
﹁本当ですね。ありがたく頂きます﹂
﹁僕はさっき貰ったけど美味しかったよー。懐かしい味だった!﹂
2人は護の言葉を聞いてから同時にラムネの瓶に口をつけ、ごくご
くと一気飲みをする。その姿に紗弓は目を大きくした。
﹁すごい、一気飲みできるのね﹂
ぷは、と全て飲み終わった怜が﹁え?﹂と首をかしげる。
﹁紗弓ちゃんは飲めないの?﹂
八雲も同じように不思議そうな顔をして聞いてくる。紗弓はこくり
と頷いた。
﹁私は炭酸苦手なのよ。飲めなくはないけど、こう⋮喉がくぁって
なってしまうのよ﹂
﹁くぁ?﹂
﹁うー⋮巧く言えないけど、喉がパチパチして我慢できなくなるの
よね。だから一気飲みが出来ないの。ラムネも、本当はすっごく炭
酸が抜けたほうが好きだわ﹂
﹁あははっ!それってラムネじゃなくて、ラムネ味の砂糖水ですよ
ね﹂
楽しそうに怜が笑って、3本のラムネを片付ける。
そして昨日と同じように海で軽く泳ごうと海辺へ移動した。
﹁あー、今日は全然泳げなかったから気持ちいいわ。やっぱりこれ
くらい広くないと駄目ね﹂
﹁昼にこれだけ広々と泳げたら海水浴場として問題ありですけどね
?でも気持ちはわかります﹂
ふふ、と笑って紗弓の隣を怜が悠々と泳ぐ。首にかけていた水中眼
鏡をかけて、とぷんと彼は海中に潜って泳ぎ出す。
紗弓は立ち泳ぎを続けながら少し視線を向こう側にやる。すると、
228
鮮花が護と泳ぎの競争しており、それを八雲と響子が応援していた。
皆の所に戻ろうかなと泳ぎ始めると、突然自分の前にざぱっと怜が
上がってくる。
水中眼鏡を外しながら﹁どこへ?﹂と声をかけてきた。
﹁あっち、行こうと思って﹂
﹁ああ、競争してますね。じゃあいきましょうか﹂
二人ですいすいと顔を上げながら泳ぐ。泳ぎながら怜が紗弓に向か
ってにっこりと笑った。
﹁紗弓、水着とても可愛いですよ。約束通り、ゆっくりじっくり鑑
賞させてもらいました﹂
﹁⋮⋮は?﹂
何のことだ、と怪訝な顔をした後、はっとした顔をして顔を赤らめ
る。
﹁なっ⋮水中眼鏡!昨日つけてないと思ったら!﹂
﹁はい。昨日思いつきまして。これならゆっくり見れるなぁって﹂
﹁覗きか!相変わらずセクハラ男なんだからっ!﹂
﹁それは誤解です。覗きじゃないですよ?外でちゃんと見せてくれ
ない紗弓が悪いんです﹂
くすくすと言って、怜は八雲達の所に向かって潜り、泳ぎ出す。
﹁⋮もう﹂
そんな彼についていくように紗弓も泳ぐ。自分は泳げるが、彼のよ
うに速くは泳げない。
のんびりと移動していると怜が戻ってきて、紗弓のペースにあわせ
るようにゆっくり泳ぎ始める。
﹁いいのに。先に行って﹂
﹁一緒にいきましょう。ところで、水着の感想ってもっと詳しく言
ったほうがいいんでしょうか?﹂
﹁⋮はい?﹂
詳しくって何だと彼を見れば、怜も少し困ったような顔で﹁んー﹂
と考えるそぶりをする。
229
﹁今まで、女の人を褒めるのってだいたい、可愛いとか、似合うと
か、一言で済ませてきたんですけど⋮結構それが不満そうな方も多
かったんですよ。だからもっと詳細を述べたほうが女性は喜ぶのか
なって﹂
﹁⋮し、知らないわよそんなの⋮別にいいんじゃない。⋮可愛い、
とか、似合う、とかで⋮。言われたら嬉しい⋮し⋮﹂
ぶすっとした顔でそう呟くと、怜は嬉しそうに﹁そうですか、よか
った﹂と笑う。それで紗弓は慌てて顔を上げた。
﹁い、一般論よ、一般論!私がそーいうんじゃなくて、一般的には
普通に褒められれば悪い気はしないんじゃないかって事!﹂
﹁そうですね。紗弓は可愛いですよ。外見も可愛いですが、そうや
ってすぐに照れたり憎まれ口を叩くところも可愛いです﹂
﹁一般論だからといって可愛いを連呼しないでよっ!?﹂
赤くなって怒れば﹁ほらね、可愛い﹂と笑って泳いでいく。こうな
ると彼のペースだ。紗弓は﹁もー!﹂と不満の声を上げて、怜の後
を追うのだった。
230
22.突撃!となりのカップルさん
夕飯を皆で食べていると、突然それは起こった。
ばーん、と襖が開けられる。紗弓達が驚いて音の方向に顔を向ける
と、そこには女性が5人に男性が2人いて、ずかずかと入ってくる。
﹁え、何、何?ココナちゃんとユウリちゃん?﹂
驚いたように声を上げる護。どうやら海の家でアルバイトをしてい
る仲間らしい。
﹁遊びにきたの!一緒に飲もーう!﹂
﹁は⋮?!いや、俺ら今メシ中⋮﹂
﹁食べながら飲んだらいいじゃない。ねぇ?そっちのオトモダチさ
んたちも一緒に!﹂
﹁はいはい失礼しますよー﹂
男達が問答無用で入ってきて、座卓にどさりとスーパーの袋を置く。
そこから次々と出されるのは、つまみにお菓子、そして大量の発泡
酒や酎ハイだ。
﹁⋮さすがに驚きましたけど、ここは民宿ですよ?騒ぐわけには﹂
﹁そこは大丈夫。浩二さんの許可もらったから!たまには若者同士
で思い切り騒ぎなさいって。幸い今日のお客さんは八雲くん達のオ
トモダチさんしかいないからね﹂
大丈夫かな、この民宿ー。と笑ってココナは紗弓と怜の間を割って
座り、ユウリは八雲と響子の間に座った。そして3人の女達も同じ
ようにそれぞれ3人の男の隣に座り、新顔の男達二人は紗弓と響子
の隣に座る。
その狙い済ました配置にきらんと鮮花の目が光って、八雲達に目配
せをした。彼らも一様に頷く。
あからさまな画策。
しかし雇い主である浩二が許している手前無碍にもできない。様子
を見るか、と判断する。
231
﹁はーい、まずは乾杯しよーよ!﹂
はいはいどうぞ、と女達は発泡酒や酎ハイを配っていく。紗弓もそ
れを受け取ってまじまじとそれを見た。
﹁え、ジュース⋮?んっ⋮こ、これ、アルコール度数が書いてある
じゃない!これ、お酒!?﹂
﹁そうよ?当たり前じゃない﹂
﹁当たり前って⋮貴女達、年齢を言いなさい!﹂
学校でいつもそうしているからか、彼女の物言いには妙な貫禄があ
って、突撃してきた若者達は全員年齢を言い出す。結果、皆揃って
未成年ということが分かった。
どっかーん!と紗弓の怒りが爆発する。
﹁こらーっ!!未成年がお酒なんて飲んだら駄目でしょ!何を考え
てるの⋮っ!高校生に大学生ですって?学生の本分を忘れるんじゃ
ないわよ!﹂
﹁え、なにこの子。かったい子ね∼。学校じゃあるまいし﹂
﹁学校じゃなくても学生の立場である以上、いついかなる場所でも、
立場にふさわしい行動を取るのが当たり前でしょう!?﹂
お酒なんて信じられない。紗弓は思わず酒を集めて片付けようとす
る。
それを女達がぱっと取り上げて彼女を止めた。
﹁え∼?なんかしらけちゃうんだけど。怜、本当にこの子、貴方の
カノジョなのー?﹂
﹁そうですよ。彼女は学校で風紀委員なんです。期待のホープとい
う所ですね﹂
すると、﹁げっ﹂とした声を出して派手な女達は嫌そうに紗弓を見
た。どうも学校での彼女たちは素行がよくないらしい。
﹁まーまー。ここはひとつねー。親睦をふかめるって事で大目にみ
てよ。はい乾杯!﹂
かんぱーい、と勝手に男達は発泡酒を開けて飲んでしまう。
あっけに取られた紗弓が目を丸くしている間に、女達も一様に缶を
232
あけて飲んでしまった。
﹁怜も飲みましょー?ほらほら﹂
﹁⋮仕方ないですね﹂
﹁ちょっ⋮佐久間!?﹂
発泡酒のプルタブを開ける怜に紗弓がぎょっとした。怜はココナの
後ろから紗弓の腕を引き、そっと耳打ちをする。
﹁早く終わらせるために、ですから。酔っ払ったら帰りますよ。こ
ういう手合いは﹂
﹁う⋮。で、でも⋮﹂
﹁何なら紗弓、せめて貴女と蓮華さんだけでも部屋に戻りますか?
そのほうが⋮﹂
﹁はいはーい!内緒話はだめよ。お二人さん。そういうのは二人き
りになってからしてねー﹂
ココナが振り向いて二人の肩を掴み、ぐっと離れさせる。
何だか強引な人ね、と思いながら紗弓が元の位置に戻ると、自分の
席の目の前にオレンジ色の液体が入ったグラスが置いてあった。
﹁なに?これ﹂
﹁君の飲み物だよ。お酒だめなんだったら、オレンジジュースでい
いよね?﹂
﹁⋮む⋮。そうね⋮それならいいけど⋮﹂
見れば響子も同じようにジュースの色をしたグラスを持っている。
困ったように紗弓を見返してきた。
﹁ジュースなら飲むわよ。頂くわ⋮ありがとう﹂
ごくりと飲む。微炭酸のそれはぱちぱちと紗弓の喉を刺激して、炭
酸が苦手な紗弓は眉を歪ませた。
飲み会は続く。いつの間にか自己紹介を終え、鮮花は響子の隣を陣
取って彼女にちょっかいをかけようとする男を牽制しつつ、酒を飲
む。一方響子は顔を真っ赤にしながら男の甘い言葉に耐えていた。
彼女は紗弓に比べてはっきりと物が言えない、人見知りな響子にこ
233
の状況は辛いと判断したのだろう。
紗弓も鮮花が響子のそばにいれば安心だと思う。
しかし当然自分には何の盾もない。なれなれしく隣の男が紗弓のプ
ライベートを聞いてきたり、肩を触ろうとしてくる。
普段なら思い切りはたいて怒るところなのに、紗弓はなぜかそれが
できなかった。
酷く体がおっくうなのだ。顔もすごく火照っている気がする。ぼう
っとして体の反応が鈍いし、どこかとても⋮眠く感じる。
﹁う∼⋮なにこれ⋮体が熱い⋮﹂
﹁あー、酔っ払ってきちゃったね∼紗弓ちゃん﹂
﹁よっぱら⋮?私お酒なんて飲んでないわよ⋮?﹂
﹁あはは!紗弓ちゃん、騙されやすいんだねぇ∼?ねぇねぇ、紗弓
ちゃんはさ、眼鏡はずしたらすごく可愛い気がするんだけど、外し
て見せてくれない?﹂
はぁ?と紗弓が男を見る。なんでそんな事をしなければならないの
だ。当然首を振る。
﹁残念だなぁ。こんなに可愛いし、胸もおっきくて。学校でもてる
でしょ∼?﹂
﹁もてるわけないでしょ。何言ってるのよ﹂
﹁へぇ?学校の男、見る目がないんだねぇ。あーでも、あのカレシ
は見る目あるのかな?でも怜君ってちょっと顔がよすぎるよね。あ
いつこそ学校でもててるんじゃない?﹂
紗弓は怜のほうを見た。
殆どココナが邪魔で彼が見えないが、ココナと反対側にはもう一人
女がいて、両方が怜の腕を取って胸を押しつけながらお酒を飲んだ
り、つまみを食べたり、時々﹁あーん﹂と食べさせたりしている。
⋮彼が女性に人気があるのはいつものことだ。
﹁⋮もてるわよ。イヤになるくらい。⋮全く、もてるだけならいい
けど人に迷惑かけんなっつうの⋮﹂
思わず口が悪くなる。もともと紗弓はあまり口が良いとはいえない。
234
﹁あっちのさぁ、八雲君に護君も、モテそうだよねー。彼女の人は
大変だね。気が気じゃなさそう﹂
八雲も女二人に囲まれて、怜と同じようなことをされているし、護
は一人の女が酔っ払った風に抱き着いていて、非常に困り顔だ。
何なんだろうな、この雰囲気⋮と紗弓が思っていると、また隣で甘
えるような女の声と、怜の声が聞こえる。
﹁ねー、怜。あたしの胸、何カップかわかるー?﹂
﹁さぁ?見ただけではどうもわかりませんね﹂
﹁じゃあ触っていいよ?ばっちり当たったらナマで触らせてあげる
ー!﹂
﹁⋮ココナ貴女、酔っ払ってますね?僕にはそこに彼女がいるんで
すよ?冗談は程ほどにお願いしますね﹂
え∼?別にいいじゃん胸くらい∼とココナは怜にしだれかかった。
そんなやりとりを見て、紗弓はぼうっとした頭の中でムカッとする。
何だろう、面白くない。なんでだろう?
それが顔に出たのだろうか、男は優しく紗弓の耳元に呟くように声
をかける。
﹁あんな男さぁ、絶対浮気するタイプだよ?やめといたほうがいい
って﹂
﹁浮気ぃ?私と佐久間はそーいうんじゃ⋮あ、いや⋮ちょっと、や
めて⋮よ⋮﹂
﹁俺くらいの男にしておいたほうがいいって。そう思わない?紗弓
ちゃん⋮可愛いね。顔赤くして﹂
腕を回して腰を寄せてくる。紗弓は力の出ない手で男の手を払おう
とするが一向に解いてもらえない。
﹁ねぇ、紗弓ちゃん。一緒に外でも出ようよ。体熱いんでしょ?外
でたら少しは体冷ませるよ?﹂
﹁ん、やめて。⋮なんで力がでないの⋮?本当触んないで、そうい
うの迷惑⋮っ﹂
﹁⋮いいかげんにしてくださいよ?﹂
235
静かに怒りを抑えた声が近くで響いた。
見れば怜がココナ越しに男を鋭く睨みつけている。
﹁僕の恋人にそれ以上口と手を出せば、空気読まずに僕は怒ります。
今だって貴方が紗弓の隣にいるのが腹立たしくて仕方ない。でも浩
二さんが気を揉んで設けてくれた場だから大目に見ていたんです。
そこはちゃんとわきまえてくださいね?﹂
コトリ、と発泡酒の缶を置いて怜は冷たく言い放つ。
一気に場がしん、となって全員が怜を見た。
男は慌てたように紗弓の腰から手を放して、ごまかすようにぶつぶ
つと言い訳のような事を呟きながら酒を飲み始める。
空気が悪くなりかけたところに、慌てたような様子で護の隣にいた
女が声を出してきた。
﹁あっ⋮王様ゲーム!王様ゲームしよー!﹂
﹁えっ⋮もう?!あ、いや⋮そうね、そうしましょう!﹂
女の声に、別の女も賛同してきゃいきゃいと騒ぎ出す。
他のメンバーも場の空気を戻すのに必死になってそれを盛り上げた。
﹁ほら、皆割り箸出して。数字を書いていくの。早く早く!﹂
と、ペンを取り出して数字を書いては回していく。
そんな風に、少し強引な形で王様ゲームが始められた。
﹁はい、私王様ねー。3番が王様に土下座する﹂
﹁げっ!俺かよ3番!﹂
﹁あらぁ、残念。怜か八雲になってほしかったんだけどね。まぁ貴
方でもいいわ。さぁ土下座なさい﹂
座卓に行儀悪く座って高く足を組む。そんな彼女に、響子の隣に居
座っていた男が立ち上がってしぶしぶと土下座をした。
﹁ほら、頭がさがりきってない!もっと畳に頭をこすりつけて!私
はブタですって言うのよ﹂
﹁追加で命令してんじゃねーよ!?うわ!﹂
ほほほ、と鮮花が足のつま先で男の顎を取り、上に上げさせる。
236
﹁王様の命令は絶対じゃなかったっけ?わんちゃ∼ん﹂
﹁あっ⋮僕はブタです!﹂
﹁お前、弱すぎ!!﹂
違う、鮮花の女王様オーラが強すぎるのだ。ナンパ男すら下僕にし
てしまえる女、鮮花はほどよく酔っ払っている。
そんな感じで王様ゲームは一見無難にすすめられていた。
他にも自分の友達の一人に語尾をすべて﹁にゃん☆﹂つきでメール
を送る、とか、無茶振りなモノマネとか、ねこのようなポーズを取
るとか、とにかく自分がして恥ずかしい事をさせられる。
程よく王様がまわっていって、しばらくするとココナは女達にそっ
と目配せをした。
すばやく八雲の隣にいた女が王様ゲームに使っている割り箸を細工
済みの割り箸にすりかえる。
そちらには割り箸の上部分に傷がついていて、﹁王様﹂と﹁番号﹂
を明確にわかるようにしてあるのだ。
これで企みを成功させる。
ココナ達の悪巧みの目的はそこである。紗弓と響子に宛がうために
呼んだ男はただの盛り上げ役兼引っ掻き回し役にすぎなくて、それ
を男達は知らない。だから気楽に彼女達をナンパしてくれる。
ここの企みは、ココナ自身の数字と、怜の数字を呼んで、彼女の目
の前でキスをすること。
王様役はすでに決めてある。ユウリがその棒を取る算段だ。
濃厚なキスをしている間に彼の手を取って胸でも揉ませれば、それ
がどんなに顔がいい男でもその気にならない男なんていない、と女
達は確信している。
それを彼女の前でやれば、初心そうなあの子はきっと傷つく。そこ
をついて仲を引き裂くのだ。
どうせ紗弓達は明日ここを去る。残りの夏休みを過ごす期間は自分
達の方が長い。これをきっかけに横取りしてやる、とほくそ笑んだ。
237
﹁わっ⋮と!﹂
突然、ゲームに使う割り箸を持っていた女の隣で八雲が酒を零す。
発泡酒の缶は派手に倒れ、女の膝を濡らした。
﹁きゃっ⋮びっくりした!﹂
女は驚いて割り箸の束を畳に置き、拭くものを探す。
﹁あぁ⋮ごめんね?護、タオルある?﹂
すると、その女の隣にいた護がさっとタオルを取り出して、彼女の
膝に優しく押し当てる。
上目遣いで女を見て、にっこりと笑った。
﹁大丈夫?つめたくない?﹂
﹁あ⋮うん、大丈夫。すぐ乾くわ﹂
﹁そう、よかった⋮。もしシミになったら言ってね。ちゃんとクリ
ーニングするから﹂
さらに彼女の隣で八雲が申し訳なさそうに女の手を取り、労わるよ
うに撫でる。
美形の男二人に世話を焼かれて女は嬉しそうに頬を染めた。
﹁大丈夫よ。そんなに高いものじゃないし﹂
﹁そうかもしれないけど、君に似合って可愛い服だから。汚したら
大変だよ﹂
八雲がパーフェクトな笑顔で女を見つめる。思わず見蕩れてしまっ
た女の後ろで、護はそっと畳に置かれた割り箸に細工を加えた。
﹁はい、じゃあ次の王様ゲーム。さー王様はだれかな∼﹂
ニヤニヤと女が割り箸を掲げる。皆一様に割り箸を取っていった。
王様は、ユウリ。予定通りなのでココナはにんまりと笑う。
自分の持っている棒は2だ。数字を見てないのに分かるのは、割り
箸の上に小さな傷をつけているから。
そして怜の持つ割り箸についている傷を見る。彼は6だ。
ユウリもそれがわかったらしい。にっこりと笑って命令を告げた。
﹁2番がぁ∼6番と⋮濃厚∼なキスをするっ!﹂
238
おお∼!と場が盛り上がる。戸惑うような顔をするのは響子や紗弓。
﹁とうとうこの命令きたか!そろそろだと思ってたぜ!﹂
﹁やっぱこの命令がないと王様ゲームじゃないよなー!ポッキーゲ
ームもいいけどー﹂
そんなテンションの高い声を聞きながらココナは自分の割り箸を見
る。結果は分かっているけど、見るフリはしないといけない。
自分の割り箸は⋮﹁1﹂
﹁えっ⋮なんで!?﹂
思わず声を出してしまった。事情を知らないメンバーが不思議そう
に彼女を見るので、慌ててココナは何でもない、と手を振ってごま
かす。
どうして?傷は2つついているのに。﹁2﹂のはずなのに。
﹁はい、手をあげてー。まずはキスされちゃうほーう!﹂
﹁⋮僕ですね﹂
怜が静かに挙手をする。その表情はどこか読めない。
しかし男達は盛り上げるほうに一念するらしく﹁次、キスしちゃう
ほう。手あげてー!﹂と声を上げる。
⋮⋮。
しん、と一瞬場が静まる。
やがて小さく﹁⋮はい﹂と声があがった。
﹁私⋮です﹂
紗弓が握っている棒にはしっかりと﹁2﹂の数字が書いてあり、上
部分にはココナと同じ、2本の傷がついていた。
彼女は慌てて箸を見渡す。すると3は4本の傷、5はXと1本の傷
⋮と、ランダムに数字の細工に新たな細工が加えられているのだ。
﹁やられた⋮っ!﹂
悔しげにココナがうめく。いつ細工が加えられたのか、全然わから
なかった。
しかし恐らく、細工をしていた女の近くにいた男⋮八雲と護の仕業
だ。思わず彼らを睨んでしまう。
239
その視線に気づいた八雲がニヤリと口の端を上げた。
そんなやりとりも知らず、キスコールが始まる。
はぁ、とため息を一つついて怜は立ち上がり、紗弓の隣に座る。
その態度がどうにも面倒臭そうに見えて、紗弓は心なしかムッとし
た。そして自分の気持ちに戸惑う。
︵なんでイライラしてんの?私⋮︶
心の中で首を傾げていると、彼はそっと紗弓にだけ聞こえるように
ぽそりと呟いた。
﹁フリだけでいいですよ﹂
え、と顔を上げると怜は穏やかな顔をして紗弓を見ていた。
﹁こう、唇を口の端に寄せる感じで。そうすれば一見してるように
見えますから﹂
紗弓はぼうっとした酔いの残る頭で考えながら、気遣わしげに紗弓
を見る男を眺める。
そんなに私とキスするのが嫌なのか、と思った。
それはそうだ。なぜなら自分達は本当の恋人同士ではない。好きで
もない人とキスをするなんて普通嫌だろう。
ムカムカとする。それなら自分に優しくするな。髪をなでるな。あ
と時々キサマ、私のこめかみのトコにキスとかするだろ、あれすっ
ごくビックリするんだからね?だいたい自分はそうやってふいうち
でキスとかしてくるくせに、私からされるのはイヤってどういう事
よ。
何故か腹立たしくなった。
キッと怜を睨んで﹁するわよ﹂と言う。
﹁⋮は?﹂
﹁するわよ、キス。要は唇をくっつければいいんでしょ?ドラマで
見たからわかるわよ。一応﹂
﹁ドラマって貴女⋮キスも初めて⋮?いや、そうじゃなくて、貴女
が﹂
﹁うるさーい!そこ、座ってなさいよ!﹂
240
むきー!と紗弓は怒り出して自分は膝立ちになり、正座する怜の肩
に手を置いた。
そしてつまらなさそうにぷい、と目を逸らす。
﹁⋮残念だったわね﹂
﹁え⋮?﹂
﹁私が相手で⋮。もっと可愛い子のほうがよかったのにね﹂
戸惑う怜にぽそりと呟くと、紗弓はそっと怜の唇に自分の唇を押し
当てた。
薄く触れ合わせてすぐに離れる。キスというよりこれではただの接
触だが、紗弓はキスのやり方もわからない。
﹁こ、これでいいんでしょ⋮きゃ!?﹂
すぐさま怜から離れようとした時に、彼はすばやく紗弓の腰を寄せ
て、唇をもう一度押し付けてきた。
﹁んっ⋮!?﹂
はむ、と紗弓の唇を食べるように唇が動く。何度も擦りつけるよう
に彼の唇は動き﹁はぁ⋮﹂と怜は一つ息継ぎをした。そして間髪入
れずに顔の角度を変えて深く口付けてくる。
﹁む⋮ぅっ⋮んっ!﹂
腰にまわる手とは逆の手が紗弓の頭を支え、彼の体重をかけるよう
に口付けてくる。
重く、苦しい。なのに頭ががっちりと支えられていて、身をよじる
こともできない。
唇と唇をぴったりと重ねては、ねっとりと啄ばみ、また唇を重ねて
くる。
じわり、と紗弓の胸に、腹の中に熱いものが入ってきたような感じ
がした。
何故だろう、体が熱い。体中の水分が沸騰したみたいにぐらぐらと
頭が揺れる。
紗弓の体から力が抜けかけた時、怜はやっと彼女の唇を解放した。
自然とお互いに熱いため息をつく。
241
頭が働かず、ぼうっと紗弓が怜を見つめていると、少し彼は目を逸
らした後、チラ、と紗弓を見返した。
﹁キス、というのなら⋮これくらいはして頂かないと﹂
﹁ふぇ⋮?﹂
﹁さっきのは何ですか。あんなのはキスとは⋮あ、紗弓、紗弓!?﹂
力が入らない、頭が働かない。
紗弓はぐったりと目を瞑った。⋮極限にまで高められた体の火照り
と酔いで、潰れてしまったのである。
242
23.不埒な手。無意識の切望感
ぐったりと倒れた紗弓の体を慌てて怜は支える。
﹁紗弓、気を失ったんですか?⋮ん、寝てる?﹂
すぅすぅと寝息を立てる彼女に戸惑い、テーブルに置いてあるオレ
ンジジュースに目を向けた。
それを手に取って一口飲む。⋮薄いアルコールの味。これはスクリ
ュードライバー風の出来合いカクテルだ。はぁとため息をついて紗
弓の隣についていた男を睨んだ。
﹁彼女に酒を飲ませましたね⋮。⋮もしかして蓮華さんも?﹂
響子がいる方を見てみれば、彼女は先程まで赤い顔をしていたのに、
今は少し青い顔をしている。
羞恥で赤くなっているのかと思っていたが、違う。あれは酔ってい
たのだ。
彼女の目の前にあるのも紗弓と同じ、オレンジ色の液体。⋮きっと
同じもの。
﹁八雲、蓮華さんのそれ、酒ですよ。しかもちょっと悪酔いしてる
みたいですね﹂
﹁えっ⋮!?あ、大丈夫?響子ちゃん!﹂
﹁ん⋮だいじょうぶ⋮です。なんででしょう⋮気分が⋮わるく⋮て﹂
﹁ああ、ヤバイなこれ。ごめんね響子ちゃん気づかなくて。気持ち
悪い?トイレ行く?﹂
慌てて八雲が心配そうに響子の背中を撫でる。彼女はふるふる、と
力なく首を振るが顔色が悪い。
﹁だめだ。一度トイレ行こう。⋮立てる?ほら、俺の腕につかまっ
て﹂
﹁ごめんなさい⋮あの⋮ごめんなさ⋮﹂
﹁もう、こういう時に謝らないの。さ、こっちだよ?﹂
八雲が優しく響子を介抱しながら広間を出る。
243
怜は小さくため息をついて、じろりと男を睨んだ。男はそこまで悪
いことをしたと思っていないらしく、あっけらかんと笑って﹁悪い
悪い﹂と軽く謝った。
﹁いやーハハハ。二人とも弱いね∼。まだ1杯目だよ?それよりー。
本当に濃厚なキスだったなー俺もしたーい﹂
﹁⋮駄目に決まってるでしょう?相手が貴方だったら全力で阻止で
すよ。⋮とにかく彼女をこのままにしておくわけにいかないので、
部屋に寝かせてきます﹂
そっと紗弓を抱き上げる。相変わらず彼女は小柄で軽い。割と食べ
る方だと思うのに不思議だなと思う。
男達が﹁お姫様抱っこだー!﹂と騒ぐ中、怜は立ち上がって広間を
出た。
紗弓たちの部屋に着く。
器用に彼女を片手で支えながらドアを開け、中に入った。
すでに布団が敷かれている。きっとあらかじめ彼女達が敷いておい
たのだろう。
一番端の掛け布団を足で避け、紗弓をそっと寝かせる。
赤い顔をしてすぅすぅと寝息を立てる彼女を、怜はじっと見た。
少し崩れた浴衣姿。髪は上げているが、お団子の部分が寝るには邪
魔らしく﹁ううん⋮﹂と身をよじって紗弓は髪をくしゃくしゃと触
った。
﹁ああ、下ろしたいんですね。そんなに乱暴にしたら絡まりますよ﹂
彼女の手を外して、怜は丁寧に紗弓の髪留めを外し、ヘアゴムを解
く。
ぱさ、と音がして紗弓のゆったりと長い髪が零れ落ち、敷布団に流
れた。
ゆっくりと彼女の髪を手で梳く。絡まると思っていたその髪束は意
外にもさらさらで、触るととても心地がよかった。
244
着崩された浴衣に、長く黒い髪。その姿は妙に艶がある。黒い髪、
なんて表現はここでは似合わないのかもしれない。⋮濡羽色の髪に、
胸元の緩んだ浴衣、無防備に寝入る女。
ふるふる、と首を振る。
⋮そんな風に紗弓を見るつもりはない。そう、何度も何度も自分に
言い聞かせているのに、どうしても紗弓から目が離せない。規則正
しく上下するその胸から目をそらせない。
さっきだってそうだ。
紗弓からされた、キスともいえないようなキス。それを受けた時、
ぷつ、と怜の頭で何かが切れた。
気づけば貪るように紗弓の唇を奪っていた。味わっていた。
あの軽い触れ合いのようなキスで終わらせておけばいいのに、自分
の行動が全く制御できなかった。
しかも⋮。
怜は頭を手で抑える。はぁ、と思わずため息をついてしまう。
⋮足りないのだ。全然。彼女にとって初めてのキスを貪るようにし
ておいて、今もまだ全然足りていなくて、喉が渇く。
何故?こんな気持ちになったのは初めてだ。足りないなんて思った
ことは今まで一度もなかった。
ずっと紗弓に感じている飢餓感。自分の体の中にある﹁何か﹂を満
たしたい。唇を合わせている時少しだけそれが満たされた気になっ
たが、唇を離せば全く足りていなくて、あの感覚をまた味わいたい
と思ってしまう。
⋮けれど、もう一度彼女に口付けてしまったら、もう自分が止めら
れない気がする。
欲望の思うままに紗弓の体を貪ってしまいそうで、それが酷く怖か
った。
今の関係を、怜は気に入っている。
壊したくない。嫌われたくない。泣かせたくない。
他の女みたいに気安く抱きたくないのだ。紗弓が望まない限り、そ
245
ういう事をしてはいけない。
なのにどうして、こんなに胸の音が早鐘する?
目線が唇から、胸から離れない?
震える指先でそっと、紗弓の唇をなぞる。首をなぞる。
﹁ん⋮﹂と、細い声を出して彼女は身をよじった。くすぐったいの
かもしれない。
しかしその声で火がついてしまったように怜の手が止まらなくなっ
て、彼はとうとう紗弓の浴衣に手をかけた。
見たい。見てはいけない。でもどうしても見たい。こんな所でもし
彼女が起きたら言い逃れできないのに。
そっと浴衣の袂を開ける。帯はすでに軽く緩んでいて、思ったより
も簡単に胸元が崩される。
露になる紗弓の胸。思っていたよりずっと大きくて、ふと鮮花の言
葉を思い出した。
軟く掴んでみれば、夢で見たよりずっと紗弓の胸は豊かで全て掴み
切ることはできない。
しかし恐ろしく柔らかい。こんなにくにゃくにゃしているのに、形
の良い丸みを維持しているのが不思議でたまらない。
ごく、と生唾が嚥下される。胸の高鳴りは最高潮に達している。
背徳感や罪悪感といった負の感情と、淫らな気持ちが入り混じって
ものすごく興奮してしまう。
だめだ、してはいけない。これ以上は⋮。
ふわ、と手を外して見れば胸の蕾が見える。ベージュとピンクが重
なったような可愛い色。思わずむしゃぶりついてしまいたくなる。
というか、したい。しないと気が狂ってしまう。頭がおかしくなっ
てしまいそうになる。
だからやめろと言ったのに。絶対止まらなくなるだろうから。
でも紗弓は寝ている。それはもうすうすうと寝息を立てて無防備に。
これは別にいいのではないか?
もしかしてバレないのではないだろうか?
246
⋮いや、さすがに挿れれば起きるだろう。しかし、もしかしたら。
寝ている女に乱暴するなど犯罪者のする事だが、そんな常識などす
っかりどこかへ飛んでしまって、怜は紗弓の胸を弄りながらそんな
葛藤をする。
すっかり彼のタガは外れていた。
しかし幸か不幸か、かちゃりとドアの開く音がして怜はハッと我に
返り、すばやく紗弓の袂を戻す。
かるく浴衣を整え、何事もなかったように掛け布団をかける。
それと同時に襖が開いて、八雲とぐったりした響子が現れた。
﹁お、まだいたのか。紗弓ちゃん大丈夫?﹂
﹁はい、よく寝ていますよ。⋮蓮華さんこそ、大丈夫ですか?﹂
﹁うん⋮ちょっと吐かせた。そしたらスッキリしたみたいだからこ
っちに連れてきたんだ﹂
成程、と怜は頷く。
響子はまだ少し気分が悪そうだったが、胃のものを出したせいか心
なしか先程より顔色は良いように見えた。
﹁ごめんなさい、指⋮とか、きたなくて⋮ほんとうに⋮﹂
﹁もうー何度謝るなって言えば気がすむの?悪いのは響子ちゃんに
黙って酒を飲ませたあいつらなんだから。それより響子ちゃんは気
にせず寝る事﹂
泣きそうな顔をして謝る響子に八雲は軽くでこぴんをする。
﹁ひゃっ⋮﹂
﹁はい、もう謝っちゃだめだよ?次この件で謝ったら、1謝りに対
して1回キスしちゃうからね。怜がやったみたいな濃厚∼なやつ﹂
﹁そ、それは⋮やだ⋮﹂
﹁やだって言われた!?それも何か傷つくんだけど!響子ちゃんは
意外と結構言う子だよね⋮。まぁ、いいけどー。とにかくキスされ
たくなかったらもう謝っちゃ駄目﹂
はい⋮と大人しく頷く響子の頭を、八雲は優しくなでて﹁よし﹂と
247
笑った。
そして掛け布団を開け、響子を寝かせる。横になった彼女は最後に
﹁ありがとう⋮﹂と八雲に呟いて、すぅ、とすぐに目を閉じた。
色々気を使ったり、酒を飲まされたりして疲れたのだろう。すぐさ
ま響子は規則正しい寝息を立て始める。
彼女の掛け布団を優しくかけて、ぽんぽんと八雲は軽く叩いた。
﹁ふふ、かわいいねぇ⋮。やっぱりキスしちゃおうかな﹂
﹁駄目ですよ?寝ている女性にそういう事をするのは反則です﹂
自分の事を棚に上げて怜は八雲の背中に言う。
彼は﹁だよなぁ﹂と同意して、軽く笑った。
﹁あー、どうする?また広間に戻る?﹂
﹁正直すごく戻りたくないですね。面倒な事になりそうですから﹂
﹁俺も。あーあの左のほうにいた女の子、遊ぶのにすごく適してそ
うで好みなんだけどなー。でも流石に今まで何してたか全くわかん
ないような女は駄目だわ。病気持ってたらヤだし﹂
﹁⋮貴方は相変わらず悪趣味ですね﹂
八雲にも、怜とは違うが人の悪い趣味がある。
彼女の席を誘われるたびにすげ替えるのが怜の趣味なら、八雲はい
かにも遊んでいそうな、腰の軽い女を特に好み、そういった子を見
つけるとつきあい始める。
そして思い切りお姫様扱いをして本気にさせるのだ。性に奔放な女
を本気にさせるほどの﹁恋愛ごっこ﹂をひとしきり楽しんで、彼女
が本気だと分かった時に別れを告げる。
それは女を弄んで捨てるのと同意だ。彼はそういったとても悪趣味
な癖がある。
⋮ある意味、八雲は怜と同類だ。怜がほんの一部を除いた女全般に
不信を抱き、甘い顔をすればすぐに騙され、男の顔が良ければすぐ
さま淫らに足を開く生き物だと馬鹿にしているのと同じように、八
雲は、特に性に緩い女を酷く憎んでいるフシがある。どちらも過去
に原因があるのだが、二人はそれを語らない。
248
一見、女に優しく甘く、親切で、告白すればすぐにつきあってくれ
る男。
一方、自分を慕う女全員を明るく包み、毎日をふざけたように過ご
している男。
しかし二人とも性格が歪んでいる。それは性行為の時において如実
に出現する。
怜は、関係を盾に酷くサディストな面を見せる。虐めて服従させる
ことで性感を得る為に。
八雲はとろけるくらい甘く女を抱く。優しく優しく、お姫様を扱う
王子様のように。いずれ来る別れの絶望感を一層強く感じさせる為
に。
二人は暫く黙って、お互いに想う女を見た。
﹁八雲は⋮卒業するまで?﹂
﹁⋮ん?⋮あーそうだな。それくらいには⋮俺も気が済むかも。で
もなー正直自信ないんだ。俺みたいな男、趣味じゃないよなぁ⋮絶
対。カオには自信あるんだけどなー﹂
ハハハ、と軽く八雲は笑って頭を掻く。
﹁カオですか。そうですね⋮まぁ、自信というか、僕も自覚がない
わけではありません。ですが紗弓も、僕みたいな男は願い下げでし
ょうね。女の子らしく照れてはくれますけど⋮﹂
﹁なに、怜くんはやっぱりそうなの?﹂
﹁⋮わかりません。僕も八雲と同じで、本気になったことがないも
のですから。正直すごく持て余していますね。⋮けれど、一つ言え
るのは安易に手を出してはいけないという事です。僕は、他の女と
同類に見たくないのかもしれませんね。性欲を、彼女に向けたくな
いのかもしれません﹂
そういう関係になりたくない。だけど、彼女に対する飢餓感は常に
あって、時々無性に抱きたくなる。
矛盾した気持ち。持て余す気持ち。モヤモヤとした思いが怜の心を
249
占めていく。
﹁⋮なんだなぁ、怜もナンギな性格してるね﹂
﹁貴方もね。いい加減吹っ切ればいいのに﹂
﹁それは君にも言えることだろー?ま、俺は自覚している分楽なの
だ。怜は多いに悩むがよい﹂
はっはっは、と笑って立ち上がり、伸びをした。
﹁あーあ、めんどーだけど行くかー。護や鮮花に丸投げってのもさ
すがにアレだし﹂
﹁そうですね。面倒ですけど⋮。⋮はぁ、ちょっと浩二さん、恨ん
でしまいますよ。悪気はないんでしょうけど﹂
ため息をついて怜も立ち上がる。
最後に紗弓の寝顔を見てから電気を消し、静かに部屋を後にした。
250
24.忘れる事のできない夏の思い出
眩しい。
目を瞑っても分かる強い光に紗弓はゆっくりと目を開いた。
﹁あ⋮めがね、かけてるから⋮か⋮﹂
光の正体は日差し。眼鏡に光が直接入って眩しかったのだ。
いつも寝る前は外すのにどうしてだろう、と思いながらむくりと紗
弓は起き上がった。
ぼうっとした頭で辺りを見渡す。
何だろう、昨日より、部屋が雑然としているような⋮。
とりあえず時間を見たいと紗弓は携帯電話を探す。いつも傍に置い
ているのに、今日は見当たらない。
ごそごそと布団を探っていると、何か堅いものに手が当たった。
﹁ん?何⋮?﹂
不思議に思って自分の上布団をそっとはがす。すると中にいたのは。
﹁!!!???﹂
ずさっと体を引いて、すぐ後ろの壁にビタンと背中が当たった。
﹁なっなっ⋮なっ⋮﹂
ぱくぱく、と口が開いては閉じる。顔がすごく熱くなって、胸のド
キドキが外まで聞こえそうなくらい動揺する。
紗弓の布団と、隣の布団の間くらいのところに怜がいた。彼は熟睡
しているらしく、静かな寝息が聞こえる。
︵なんで佐久間がいるの!?え、ここ、私達の部屋、だよね?︶
はっきりぱっちり覚めた目で辺りをもう一度見てみれば、紗弓、怜、
鮮花、護、八雲、響子という並びで皆が寝ていた。
︵皆いる!?なにがどーしてこーなった!︶
何はともあれ、紗弓は壁から背中を離して恐る恐る怜に近づく。
じっと見ればやはり本物だ。確かめるまでもないのだが。
しかし、寝ている怜など初めて見るので思わずまじまじと観察して
251
しまう。
︵うわ⋮睫長いわねぇ⋮男のクセに生意気な。寝てても顔が整って
いるってどういうことよ。それにしても本当に格好いい⋮。本当、
顔だけはめちゃくちゃいいのよね。だから人気あるんだろうけど︶
はぁ、とため息をつく。この顔で性格は穏やか。丁寧な口調と親切
で優しい言動。
︵これで触り魔で、セクハラ男じゃなければなぁ⋮妙に残念な部分
があるのよね。ちょっと女性不信なところもあるみたいだし︶
しかし、人には長所があって短所がある。長所だけの人間なんてい
るわけがないし、いたとしてもそれは怖いし、嘘だと思う。
︵⋮そうか⋮。それが佐久間ってヤツなんだ。触り魔でセクハラ男
ですぐ人をからかって遊んで楽しんで⋮でもすごく優しくて、ただ
の軟派なだけかと思ってたら、妙に義理堅くて真面目なところもあ
って⋮︶
そして思ったよりすぐ怒る。穏やかそうなんて本当は見せかけだけ
なのかもしれない。
考えれば考えるほど、彼はとても人間臭い男だなぁと思う。
見た目が完璧だから自然と中身も完璧だと思いこんでしまうのだろ
うか。
もう一度じっと見る。布団から見える手はすごく大きい。節は男ら
しく太くて、でも爪がとても綺麗だ。
﹁⋮長い指だなぁ⋮﹂
そっと手に取って、自分の手と重ねてあわせてみる。思った通り全
然大きさが違った。
大きな手は何だかドキドキする。父を早くに亡くしてしまったから
か、男らしい手はとても異性を感じてしまって、慌てて紗弓は彼の
手を戻した。
それと同時に、うっすらと怜の目が開く。
紗弓は心臓が飛び出るかと思うくらいビックリしたが、彼はわずか
に瞬きをして、手をさまよわせた。
252
﹁ん⋮なんじ⋮いま⋮﹂
さまよった手はやがて紗弓の体に触れる。紗弓はぴくりと体を反応
させた。
﹁あっ⋮さ、さく⋮ま﹂
﹁ん⋮。さゆみ⋮?﹂
ぼうっと紗弓を見る。その寝ぼけた表情が妙に色っぽくて紗弓はと
てもドキドキした。
しかし彼の寝ぼけ眼が段々とはっきりしてくる。意識がしっかり浮
上して、突然怜はガバッと起きた。
﹁うわっ!す、すみません。布団、取ってしまいましたか?﹂
﹁そ、それはないけど⋮隣にいたからビックリしたわよ⋮と言うか、
皆も⋮どうしたの、この有様﹂
﹁ああ⋮すみません。本当に⋮あ、何もしてないですからね?多分﹂
﹁その﹁多分﹂ってトコ、すっごく不安なんですけど、本当でしょ
うね⋮﹂
ジト目で見れば、彼は非常に困った顔で少しぼさついた髪を軽く掻
く。
﹁意識があるうちは何もしてないつもりなんですが、寝てる間に無
意識だと⋮ちょっと自信が﹂
﹁そこはしっかり自信持ってよ!?全く⋮。それで、何なの?何が
あったの?﹂
紗弓に問い詰められ、怜は珍しくとても苦い顔をした。そしてぽそ
りと告白する。
﹁その⋮身の危険を感じたもので⋮。3人で逃げてきたんです⋮こ
こに﹂
﹁⋮はっ⋮?身の危険?﹂
なぜ男の怜がそんな事を言うのだと驚いていると、彼は言いづらそ
うに説明を始めた。
紗弓と響子をこの部屋に連れてきて寝かせた後、怜達はまた広間に
戻った。
253
散々からかわれたりしたもののそのまま飲み会は続き、やがて男達
がそのまま寝始めたのでお開きとなった。
鮮花は紗弓たちの部屋に戻り、怜達も軽く片付けて自分達の部屋に
戻る。
彼ら3人も同室で寝泊りしているのだ。そして従業員用の簡易的な
部屋なので鍵がない。
その部屋で普通に寝ていると、突然あの女達に襲われたのである。
﹁お、女の人に⋮襲われたって⋮。貴方その、そういうの⋮慣れて
るんでしょう?﹂
詳しく何を、とは言えなくて少し顔を赤くして言うと、怜は困った
ように腕を組んで唇に指を添える。
﹁慣れてるって、セックスがですか?女の裸体ですか?どっちも慣
れてますけどね。さすがにあんな⋮ゆきずりの、普段何をしてるか
分からないような女を抱くほど、僕は飢えてるわけではないですよ﹂
はっきりさっくり言われて、紗弓はますます顔を赤くする。
そんな彼女を怜は意味ありげに見つめ、言葉を続けた。
﹁まぁそんな事がありましてね。女達を引き剥がして逃げてきたん
です。鮮花に電話したらウチに来いと言われたのでお言葉に甘えて
お邪魔したんですよ。ここなら内鍵もありますしね﹂
﹁そんな事があったの⋮。それでここで寝ちゃったの?﹂
﹁はい。ああ⋮本当はね、起きていようと思ってたんですよ?でも
バイト疲れもあったのかもう眠くて眠くて。とにかく布団の隙間で
いいからって寝かせてもらったんです。本当にすみませんでした﹂
正座してぺこりと謝ってくる。普段は向こうから触ったりするくせ
に、こういう所は妙に律儀だ。
﹁まぁ⋮ちゃんと浴衣着てるし、大丈夫だったんでしょうよ。なら
別にいいわよ⋮アルバイト、疲れてたんだろうし。⋮それにしても
すごいわね。私、女の人が男の人を襲うなんて想像がつかないわ。
力づくなんて無理だろうし⋮どうやるのかしら﹂
﹁⋮興味があるんですか?襲い方、知ってどうするんです?﹂
254
﹁えっ⋮?!いや、別に意味はないけど⋮純粋にどうするのかなっ
て思っただけよ。あっ、縛る!?縛って動けなくさせるのね!﹂
すると怜は驚いたように紗弓を見た後、くすくすと笑った。ようや
く調子が戻ってきたらしい。
優しく紗弓の頭を撫でて首を振る。
﹁縛らなくても襲えますよ?女性だって。男性は確かに押しのける
力はありますけど、女性相手にそう暴力的なこと、普通できないで
しょう?それに縛られるのなら、どちらかというと縛りた⋮あ、い
え、とりあえず今回は違いますね﹂
﹁ふぅん⋮やっぱり、想像つかない。⋮本当に、昨日の女の人達は
すごいわね。佐久間が逃げるなんてよっぽどだわ﹂
﹁ええ⋮。いきなり舐められましたからね。あれは本当にびっくり
した⋮。護や八雲も似たようなことをされたらしくて⋮さすがに逃
げますよ。そんなことされたら﹂
﹁はぁ⋮そりゃほっぺとか舐められたらびっくりするわよね⋮﹂
うんうん、と紗弓が頷く。全くです、と怜もしみじみ頷いた。
何しろ下着を脱がされたのである。そして怜はそこを女二人に舐め
られ、八雲は突然女が上に乗ってきて、勃ってもいないモノを無理
に挿れられそうになり、護はディープキスをされた上に、違う女に
モノを手でしごかれた。
はっきりいって痴女レベルだ。あからさますぎて言葉もでない。
群がる女をひっぺがえして、服を掴んで出てみれば3人とも廊下で
モノをぷらぷらとさせているような情けない状態で、らしくなく泣
けてしまった。
ドアが開かないように八雲と護に止めてもらいつつ、慌てて鮮花に
電話すれば電話口で大爆笑され﹁それならウチに来なさいよ。ただ
し、次はそっちが襲う側になるなんて事になったらタマ蹴りするわ
よ﹂と言われ、尻尾をまいてこの部屋まで逃げてきたのである。
﹁とにかく⋮さすがにこれは、浩二さんに言わせてもらいます。コ
コナとユウリはやりすぎですし、あんなのと仕事したくないです﹂
255
数年ここで世話になったけど、ここまでされたのは初めてですよ。
と疲れたように怜は頭を振る。
﹁本当、顔がよくて格好いいと大変なのねぇ﹂
そして紗弓は完全他人事のような感想を述べるのだった。
◆◇◆◇
今日、怜達は休みを貰っているらしい。昼までゆっくり民宿ですご
してバス停へ送ってくれた。
﹁まー色々あったけど楽しかったわ。うふふっ⋮昨夜のアレは爆笑
ものだったけど!﹂
思い出し笑いをしている鮮花を、情けない顔で護が見る。
﹁あれはもう忘れてよ⋮。僕、人生最大の危機を迎えてたんだよ?﹂
﹁あはははっ!ごめんなさい。だってもう、逃げてきた時の3人っ
たらこの世の終わりみたいな情けない顔して、必死で内鍵かけてる
んだもの。あーおかしかった!﹂
﹁鮮花は、女に襲われたことがないからそんな事言えるんだよ!マ
ジ恐怖なんだぜ?据え膳ってレベルじゃねーよ!﹂
おおこわっ!と八雲が体を震わせる。
すると、隣にいた響子がおずおずと八雲に声をかけた。
﹁あの⋮朝ごはんの時にあらましは聞きましたけど⋮正直よく、わ
からなくて⋮。とりあえず無事?でなにより⋮です?起きた時は⋮
びっくりしましたけど﹂
﹁本当にごめんねぇ。まぁなんていうの?俺だって選ぶ権利はある
って話ですよ要はっ!﹂
やはり意味がわからなくて、きょとんとする響子に八雲が熱弁する。
そんなやりとりを紗弓が見ていると、隣にいた怜がぽつりと紗弓に
声をかけた。
﹁あの、昨日のことなんですけど﹂
﹁ん?ああ、本当大変だったわね。でもちゃんと店長さんに言った
256
んでしょう?﹂
﹁はい、勿論。⋮あ、その話じゃなくて⋮その﹂
決まり悪げに怜は首の後ろに手をやり、紗弓から目をそらす。何だ
ろう?と首をかしげると、彼は小さく﹁昨日⋮飲んでるときに⋮し
たでしょう?﹂と言ってきた。
﹁したって⋮?﹂
﹁⋮キスですよ。王様ゲームで﹂
そう言われて、紗弓はハッとした。本能的に思い出さないようにし
ていたのだろうか。みるみると顔が赤くなっていく。
﹁あっ⋮あれは、その⋮ゲーム⋮で!﹂
﹁ええ。⋮でもちょっと、僕もやりすぎたかなって思って⋮大丈夫
でしたか?⋮初めてだったんでしょう?﹂
﹁うっ⋮それは、そう⋮なんだけど。も、もう、思い出させないで
よっ!﹂
ぷい、と顔を逸らす。しかし彼はじっと紗弓を見続けた。
﹁⋮また、何もなかったことに⋮するんですか?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁いえ⋮。まぁ、怒ってないのなら別にいいですけどね﹂
心なしか少し機嫌が悪そうに怜はポケットに手をつっこみ、紗弓か
ら視線を逸らす。
そんな彼の態度に少し戸惑いながらも紗弓は答えた。
﹁私も、ちょっとむきになってたし⋮怒ってないわよ。それよりこ
っちもごめんね。フリでいいって言ってくれたのに。あの時はそれ
でむかっとしたけど、よく考えたら私のこと心配してくれてたのよ
ね﹂
﹁謝る必要はないですよ?⋮でも、嫌ではなかったですか?⋮不快
に思ったりとか﹂
﹁⋮⋮﹂
それを言われると非常に困る。それは今一番紗弓自身が戸惑って、
悩んでいる事と直結するからだ。
257
﹁⋮紗弓?﹂
﹁⋮わかんない。嫌⋮じゃなくて、不快⋮でもないの。でもドキド
キして⋮よくわからなくなって⋮私、おかしいのかしら。普通女の
人は、嫌だったり不快になったりするものなの⋮?﹂
不安げに怜を見てみれば、彼は酷く真面目な顔をして紗弓を見てい
た。
やがてふっと笑う。優しい微笑み。紗弓がどきどきするその表情で、
ふわりと彼女の頭を撫でた。
﹁おかしくないですよ﹂
﹁⋮そう、なの?ちゃんとした彼氏とかじゃないのに、嫌とか思え
ないのは、おかしくないの?﹂
﹁はい、別につきあってなくても、本当の恋人じゃなくても、その
人が嫌いでなければ普通、どきどきしたりするものじゃないですか
?﹂
﹁⋮そっか。私別に佐久間のこと、嫌いじゃないから⋮この気持ち
はおかしくないのね﹂
はい、と怜は頷く。
その顔はいつか見たように子供のような、とても無邪気で手放しに
嬉しそうな笑顔だった。
思わず照れてしまっていると、バスの走る音が近づいてくる。
﹁バスがきましたね。新学期まで会えないですけど⋮お元気で。宿
題、頑張ってくださいね?﹂
﹁⋮一言余計なのよアンタは。⋮でも頑張るわ。⋮ありがとうね。
旅行、楽しかったわ﹂
にっこりとした笑みを交わす。
八雲と護にも同じように礼を言って、紗弓達はバスに乗り込んだ。
去り行く海に、遠ざかる3人の男達。
﹁⋮そっかぁ、新学期まで会えないのか⋮﹂
﹁ふふっ⋮寂しいの?さゆちゃん﹂
258
﹁そ、そーいうんじゃないけど⋮。何となく思っただけですっ!﹂
くすくすと鮮花が笑う。響子も同じように笑って、海、楽しかった
ねと言った。
紗弓は大きく頷いて、まだ見える海を見つめる。
とても刺激的なような⋮でも楽しい、忘れられない夏の思い出を胸
に抱いて。
259
25.佐久間怜という男の領域
盆休み。
その日だけは怜もバイトを休んで家系の集まりに出席しなくてはい
けない。
1年の中一番面倒で、嫌な日だ。
先祖の墓参りを終えて、境内にある大きな料亭へ。
怜は制服を着て、茂男と友香と共に歩く。やがて家系が集まる座敷
前についた。
気遣わしげに友香が怜を見る。彼はにっこりと笑って﹁大丈夫です
よ﹂と言った。
茂男がゆっくりと襖を開ける。
広い座敷部屋にはずらりと料理が並べられていて、すでに家系の人
間が座っていた。
﹁遅いぞ﹂
﹁すまない。タクシー乗り場が混んでいてな﹂
不機嫌そうに言う男に茂男が答える。3人は一番端の末席に並んで
座った。
向かいの斜め前を見れば鮮花がいる。彼女はちらりと怜を見ると軽
く笑みを浮かべた。
怜がそこに座ると、一気に空気がかわる。それもいつもの、毎年の
こと。
家系の女達は皆、意味ありげな目線を彼に投げ、または少し後ろめ
たそうな顔をして俯く。若い従姉妹などはあからさまに熱のある視
線を送る。
対して男達は皆、汚いものを見るような、嫌悪と侮蔑を含ませたよ
うな目で怜を見る。家系のつまはじき、厄介者。一部には憎しみさ
え込めて彼を睨みつける。
260
﹁さぁ、皆揃ったようだ。料理が冷めないうちに頂こう﹂
上座にいる男が声を上げ、軽い乾杯をした後食事が始まる。
かちゃかちゃとした食器の音と、家系同士で交わされる世間話。近
況報告。
それを聞き流しながら怜が行儀良く食事をしていると、向かいの男
に声をかけられる。
﹁怜は今年で卒業だろう。将来なんかは決まっているのか?﹂
﹁⋮ええ、大学に行かせてもらう予定です﹂
﹁はぁ、茂男達も大変だな。仕事も定年を迎えてしばらく経つだろ
う。こんな男、高校卒業したら追い出せばいいものを⋮。怜も怜だ。
いつまでも叔父のすねをかじってないでさっさと自立したらどうな
んだ﹂
聞いて来た男とは違う男が口を出す。怜を睨んで、唾でも吐きそう
な雰囲気で言い捨てた。
﹁あなた、そこまでいわなくても⋮怜くんは将来性があるんだから﹂
﹁お前は黙っていろ!⋮怜、どうなんだ。お前はあんなことをして
おいて、今だ俺達の家系に寄生するつもりか?﹂
憎しみすらこめた言葉に、怜は全く動じず静かに箸を置いた。
﹁あのことについては弁解するつもりなど一つもありません。確か
に学費、生活費においては茂男さんに頼っているのが現状です。⋮
大学も、当面の学費等はお願いすることになるでしょう﹂
﹁⋮怜ちゃん、いいのよ?私達は⋮﹂
﹁いえ、友香さん、ちゃんとこういう事は言っておかないと。僕は
確かに今、そうやって寄生した生活をしていますが、いずれ学費を
含めた⋮茂男さん達に負担をかけたお金を、働いて返す予定です。
ちゃんと念書も書いて頂きましたよ?見たければ、茂男さんに言っ
てください﹂
にっこりと笑みを浮かべてそう言うと、男は面白くなさそうに腕を
組んだ。
261
﹁それは俺達の分も含まれてるのか?﹂
﹁請求してくるのなら支払うつもりですが⋮けれど、僕にかかった
お金は全て手切れ金として扱うから家から出て行くようにと言った
のは貴方本人だったと思うのですが?それでもはした金がほしけれ
ばどうぞ﹂
﹁お前⋮っ!お前があんなことをしていたからだろうが!⋮っお前
はいつもそうだ!怜、いつもへらへらと笑って丁寧語言ってりゃ騙
されると思ってやがる。この佐久間の面汚しめ!そういう所は父親
とそっくりだ。その淫靡な所もな﹂
声を荒げた男が馬鹿にしたように鼻で笑う。そこへ茂男が静かに口
を出してきた。
﹁⋮いいかげんにしろ。ここは先祖が眠る墓がある寺の敷地内だぞ
?言葉をつつしめ。怜もいちいち挑発するな﹂
厳かな老人の声に場が冷めて、男はぶつぶつと文句を言いながら席
に座りなおす。
怜も静かに箸をとって﹁すみません﹂と謝った。
﹁⋮だが、俺からも一つ言わせて貰う。怜は別にお高い私立大学に
行くわけではない。国立大学を目指している。⋮もしそこが落ちた
ら高卒で働く、と断言しているんだ。それだけは言っておく﹂
茂男がそう言うと、男は苦虫を噛み潰したような顔をして酒を煽る。
それからは食事が終わるまで、誰も話そうとはしなかった。
﹁相変わらず嫌な家よねぇ、何かあれば佐久間佐久間って、そんな
大した家系でもないでしょうに﹂
﹁一応華族の家系らしいですからね、本家は没落してますが。それ
にうちの家系には個人で会社を経営してる方も多いですし⋮全体的
にプライドが高いのでしょうね﹂
重苦しい食事会が終わって、怜は鮮花に誘われて料亭の庭を散策し
ていた。
﹁男はプライドが高いわね。女はこう⋮なんていうか、頭が軽いの
262
が多いのかしら。一応血を引いてる私としては由々しい問題ね﹂
﹁ふふ、確かに鮮花は⋮佐久間の女らしいかといえば、少し毛色が
違う気もしますね?だからこうやって気軽に話せているんでしょう
が﹂
深くつっこまず、怜は小さく笑って鮮花にそう言った。
彼女は﹁確かにそうね﹂と言ってくすくすと笑う。庭を見渡せば、
みんみんとセミが鳴いていている中にカナカナ、という秋の虫の声
も聞こえて、ああ9月が近いなぁと怜は思った。
﹁あ、見てる見てる。ふふっ⋮怜くんはどこでも大人気ねぇ﹂
﹁ああ⋮従姉妹達ですね。何でしょうねぇ⋮本当に。期待されても
困るんですけど?﹂
﹁本当ね。言えばつきあってくれるって思っているのかしら。⋮そ
んなわけないのに、ね﹂
意味ありげに鮮花は言う。怜はそれに答えず、空を見た。
﹁ね、怜⋮。もう、いいんじゃないの?悪いのはあいつらよ。貴方
はあの頃⋮選択の余地がなかっただけでしょう?﹂
﹁⋮そうかもしれませんが。しかし事実僕はあの男の血を引いてい
て、選択の余地がなくても、全てから逃げるよりそれを選択したの
は僕の意思でした。叔父さんが言ったように淫靡な性質を持ってい
るのも自覚してますよ?﹂
すると、はぁ⋮と鮮花がため息をつく。手を後ろに組むと軽く振り
向いて、睨んできた。
﹁それって高校での話?あなた、あれ、楽しんでたの?﹂
﹁勿論。楽しくなかったらしませんよ。次から次へと誘われて、乗
り換えてもヤリ捨てても途絶えることなく何度も告白されて。いい
気にならないわけがないでしょう?ああ、何しても許される。どん
なに酷く扱っても快楽に変えて咽び啼く。女を服従させる事⋮それ
が僕にとっての快楽だと自覚した時、僕はあの男の息子なんだなぁ
ってしみじみ思いました﹂
にっこりと笑って言う。
263
この男はいついかなる場所でも笑みを絶やさない。いつも穏やかな
笑みを浮かべて、丁寧な言動をする。
先程の食事会だって、叔父に暴言を吐かれた時もずっと笑っていた。
この笑顔と、丁寧な口調、優しく親切な物腰は佐久間怜の処世術だ。
それを鮮花は知っている。
⋮うそつき、鈍感、お馬鹿。
貴方はただ、自分は所詮そういう男なんだって自分自身に言い聞か
せる為にしていたのよ。
サディストの性質を持っているのは認めよう。自分だってどっちか
というとサドなんだし。
⋮でも、アンタが高校であんな風に女とつきあってたのはね。⋮そ
ういうことなのよ。
本当に女をとっかえひっかえしてヤリ捨てて、それを楽しいと思っ
ているのなら、﹁あの子﹂を偽恋人にする必要がない。
﹁食い飽きた﹂?それも違う。そんなのは自分を騙す為の言い訳。
どうしてあの子を捕まえたの?彼女の人の良さを見抜いて押し切っ
て、無理矢理﹁偽恋人﹂に仕立てたの?
ペットを飼うように⋮?最初はそうだったかもしれないわね。けれ
ども今はもう違うはず。
﹁⋮この鈍感男﹂
﹁は!?﹂
突拍子もなく悪口を言われて、さすがに怜が驚いた顔をする。
鮮花は腕を組み﹁フン﹂と鼻を鳴らせた。
﹁あんたはどーしようもなく自分に鈍感なのよ。さっさと自覚しな
さいよね、馬鹿﹂
﹁な、何の話でしょうか⋮?﹂
﹁もうじれったいたらありゃしない。この鈍感カップルが!﹂
ビシ!と指を指してぷりぷりと怒りながら鮮花が料亭内に戻ってい
264
く。
怜は一人残され、その場所に立ち尽くしながら首をかしげて﹁⋮鈍
感カップル?﹂と呟いた。
265
26.閑話休題。母と彼氏の初対面
2学期に入ると、すぐに始まるのが体育祭。そして後半に文化祭だ。
さらに祭りの間には中間テストがあって、最後は期末テストで締め
られる。はっきりいって2学期は忙しい。
﹁あー⋮しんどい。なんでこんなに忙しいのー﹂
﹁それはね、さゆちゃんが風紀委員であると同時に体育祭実行委員
会のメンバーで、クラス委員補佐についているからだよ?﹂
﹁うう⋮そんなにハッキリ言わないで⋮どうしてこーなった⋮﹂
紗弓は今、怒涛の多忙に見舞われていた。
新学期に入ってすぐに体育祭の準備が始められる。その時、体育祭
実行委員会のメンバー選出に見事︵?︶紗弓は推薦されてしまった。
お前しかいない!そう言われて、あれよあれよとメンバー決定。あ
れは佐久間怜並の押し切りだった。
まぁ、期間限定の掛け持ちならいいか、と思っていたら、クラス委
員に﹁忙しさで死ねる!﹂と泣き付かれた。自分は体育祭の準備で
忙しいから他を当たれと言ったのに﹁真城以上に頼りになる秘書が
いねぇーんだよ!﹂と3日かけて口説かれた。ちなみにクラス委員
は男気ある女子生徒である。
そしてこちらも、押し切られて補佐についてしまったのだ。
﹁もう中間は諦めるしかない⋮﹂
﹁そ、そんな。希望は捨てちゃだめだよ!私もできるだけ協力する
から⋮っ﹂
﹁ありがとー⋮﹂
ぐて、と紗弓はテーブルに頬をくっつけた。
ここはいつもの生徒会室。最近はすっかり、響子と一緒にここで食
べることが多くなった。
﹁勉強ですか。良ければ僕も見て差し上げましょうか?蓮華さんが
266
忙しい時とかに﹂
﹁え、いいわよ。そっちこそ受験勉強とかあるんでしょ?﹂
﹁そちらはペースを守って勉強してますから。あまり根をつめると
かえって良くないみたいなんですよね、僕の場合﹂
紗弓の隣でコンビニ弁当をつついていた怜がそう言って、ぱくりと
おかずを食べる。
﹁ふぅん⋮まぁ、どうしても切羽詰ったらお願いするかもしれない
けど、出来るだけ頼らないようにするわ。本当は響子に頼るのだっ
て、悪いって思ってるんだから﹂
﹁もう、さゆちゃん⋮。勉強くらいしか私、できないのよ?だから
頼ってって言ってるでしょ?﹂
そうは言うけど、と紗弓はぶつくさと呟きながら購買のパンをかじ
る。
しばらく食事が続いていたが、怜がそういえば、と呟く。
﹁紗弓、忙しいならデートはどうします?体育祭の後にしますか?﹂
﹁うっ⋮く!﹂
けほけほ、と咳き込んだ。いきなりデートの話題とかされて驚いて
しまったのだ。
そして聞いていた他のメンバーが一様に色目気出す。
﹁えっ、怜と紗弓ちゃん、やっとデートするの?﹂
﹁長かったわねー。案外だらしがないわね、怜﹂
﹁そうなんだ⋮。さゆちゃんと佐久間先輩、もうそんな所まで⋮﹂
ちなみに八雲はまたファンの集いとやらで今はいない。彼がここに
いれば一層騒がしくなるだろう。
紗弓は慌ててぶんぶんと手を振った。
﹁もう!あのね⋮いや、バイト代がね、入って⋮じゃなくて、佐久
間も!こんなトコで言わなくていいじゃないっ!め、メールとか、
さぁ⋮﹂
﹁ああ、メールで聞けばよかったですか?ここで聞いたほうが早い
と思いまして。それでどうします?﹂
267
彼はデートという行為に対してそこまで重きを置いていないらしい。
キョトンとした顔で首を傾げてきて、紗弓は脱力したようにソファ
へ座りなおした。
﹁⋮別に大丈夫よ。土日も学校ってわけじゃないんだし﹂
﹁そうですか?じゃあ何時にしましょう﹂
次はにっこりと嬉しそうに聞いてくる。紗弓はいつでもいいわよと
言おうとしたが、いつもそんな風に彼任せなのもどうだろうと思っ
て、明確な日にちを言うことにした。
﹁じゃあ、来週の日曜日⋮でいい?﹂
﹁はい、勿論。じゃあその日にしましょうね﹂
ソファで隣り合って、彼が笑う。紗弓も顔を赤くして、小さくこく
りと頷くのだった。
◆◇◆◇
その日、紗弓の母、麗華は数ヶ月ぶりに定時で帰れた。
メールでそれを娘に告げ、簡易的なエコバックを提げてマンション
へと向かう。
家まであと少し、という所で娘の紗弓と知らない男がマンション前
にいる事に気づいた。
﹁ん?何かしら﹂
てくてくと近づいていけば、その男は娘と同じ高校に通う生徒とい
うことがわかる。
﹁あらまー、いつの間に﹂
ニヤニヤ、と笑みを浮かべてひょこ、ひょこ、と横歩きで近づく。
傍から見れば奇妙な女に見えるだろう。
紗弓の後ろまで近づくと﹁わっ!﹂と声をかけた。
﹁きゃわぁ!?﹂
﹁うーん、我が娘ながら予想通りの可愛い反応。驚かせがいがある
わねぇ﹂
268
﹁ママ!?も、もう帰ってきたの!?﹂
驚いた顔で紗弓が振り向き、声を上げる。麗華はおどけた顔をして
エコバックを掲げた。
﹁そうよ。早く帰るって言ったじゃない。ママは有言実行する人な
の。できる女だから﹂
﹁もうそれはいいって⋮。あ⋮っ﹂
はっとした顔をして紗弓が慌てて、彼女の近くにいた男を隠そうと
手をばたばたさせる。
しかし、紗弓がチワワのようなら男はゴールデンレトリバーのよう
で、全く隠せていない。
麗華はにやにやと笑って手を口に当てて﹁うふふふ﹂と不遜な声を
出す。
﹁か・れ・しぃ∼∼?﹂
﹁そんなんじゃないわよ!だーっもうママは早くマンションに入っ
てよっ!﹂
ふぎゃー!と怒り出した紗弓がぐいぐいと麗華の背中を押す。彼女
はクルリと体を反転させてそれをかわし、男の前に立った。そして
艶やかな笑顔で挨拶をする。
﹁こんばんわ、紗弓のお母様よ。貴方はどーいう人で、うちの可愛
い娘とどーいう関係なのかしら﹂
すると男は麗華と負けず劣らず艶のある笑顔でにっこりと微笑み、
静かにお辞儀をした。
﹁こんばんわ、初めまして。僕は佐久間怜と申します。紗弓さんと
おつきあいをさせて頂いてます﹂
﹁さくまー!?﹂
ぎょっとした顔をして紗弓が怜へと声を上げる。
彼は微笑みを絶やさないまま﹁事実でしょう?﹂と首を傾げた。
﹁へぇ∼うちの娘もやるもんね。こんないい男、そうそういないわ
よ?パパにはちょっと負けるけど﹂
﹁お褒めにあずかり光栄です。紗弓は可愛いけれど、お母様は綺麗
269
な方ですね。紗弓の将来が楽しみになってきました﹂
﹁まぁそんな、お母様だなんて、うふふ。綺麗ですって、紗弓﹂
ばしばし、と紗弓を叩くと彼女はぶすっとした顔をして黙り込む。
﹁あらあら、自分以外の女を褒めたから一人前に嫉妬してるのかし
ら。やーん!可愛いわねぇ。大丈夫よ紗弓。さすがに娘のオトコに
手出すほど飢えてないから﹂
﹁そんなことを言いたいんじゃなーい!?何を和やかに話してるの
よっ!もう帰るんだから、私。佐久間もさっさと帰りなさいよねっ
!﹂
ぷりぷりと怒りながら紗弓はさっさとマンションへ入っていく。
﹁はい。明日は約束通りラ・フルーレのパンを買ってきますからね。
お楽しみに。⋮それではまた明日﹂
﹁ううっ⋮ありがと。それじゃあね!ママもさっさと帰ってきなさ
いよ!﹂
﹁ハイハイ。すぐ行くからぁ﹂
ひらひらと手を振れば、紗弓は何が物言いたげな顔で睨んだ後、マ
ンションに消えた。
﹁照れ屋さんねぇ。すぐ怒った風にふるまうけど、あれって全部照
れてるのよ?﹂
﹁ええ、知ってます。まぁ普通に怒られることも多いんですけど、
本当に可愛いですよね﹂
﹁おまけに素直じゃないの。あれはいわゆるツンデレっていうやつ
かしら。我が娘は世間のニーズに見事応えた子なのね。さすが私達
の娘﹂
うんうん、と頷いていると怜はそれに答えず微笑みで返す。
改めて麗華は怜を観察するようにじっと見た。
長身だ。185は越えているだろう。紗弓が148くらいなので彼
と並べば紗弓の小ささが如実にわかりそうだ。引き締まっていそう
な体に、恐ろしく整った顔。穏やかな佇まい。麗華は確信する。
﹁ふふ、貴方、すっごく人気あるんでしょうね。女の子に﹂
270
﹁否定はしません﹂
微笑みは絶やさない。しかしこの笑みは表面上のものだと麗華は見
抜く。
そして同時にこの敬語もどこか嘘くさく、人を欺く技なのだと思っ
た。ということは穏やかそうに見えるこの物腰もきっと、フリなの
だ。
しかしそのはりぼてのような振りは年季が入っているので一見﹁本
物﹂に見える。
癖のある男、そんな印象を麗華は覚えた。
﹁⋮ふぅん。面白そうな男。紗弓はこんな男が趣味なのね。趣味が
いいのか悪いのか判断がつきかねるわ﹂
﹁どうでしょう?もしかしたら掘り出し物かもしれませんよ?﹂
くすくすと笑って、怜はそう言った。﹁言うわねぇ﹂と麗華も笑っ
て返す。
﹁フフ、うちの可愛い娘をかどわしちゃったの?それとも紗弓から
告白してきたのかしら?﹂
﹁僕からです。紗弓さんの事は勿論、とても大事にしたいと思って
ますよ﹂
﹁ふぅん?そう。⋮まぁいいわ。恋愛は個人同士のものだもの。外
野が口出しすることじゃないものね。まだ若いんだから、泣いたり
泣かせたり、傷つけ合ったりしたらいいわ。あ、傷モノにするのな
らちゃんと責任とりなさいね。避妊はしなさいよ﹂
そう言うと、怜は﹁あははっ﹂と笑い出す。その笑顔は本物だと思
った。
﹁随分とオープンなお母様なんですね。まさか紗弓の親御さんにそ
ちらの心配をされるとは思いませんでした。普通、傷モノにするな
って言うところですよね?﹂
﹁んーそうかしら。一応釘はさしてるつもりよ?責任取りなさいよ
って言ったじゃない﹂
﹁ええ⋮そうですね。肝に命じておきます﹂
271
笑みは湛えたまま、怜は少し真面目に答えて頭を下げた。
それを見て麗華はとりあえず満足する。今はまだこの男について何
もわからないのだ。とりあえず軽く釘を刺しておいて、ゆっくり観
察させてもらう。
﹁それじゃ、あんまり長居すると紗弓に怒られそうだから行くわ。
今度よかったらウチに遊びにきなさいな。何もないけど。あ、普段
私帰り遅いから、してもいいけど片付けはしていきなさいね﹂
﹁⋮はは、ありがとうございます⋮?ま、まぁその、そういった事
はまだしてませんので。とりあえずご安心ください﹂
﹁まだ、とか、とりあえず、とか。そのうちするよって言ってるの
と同じなんだけどー。まぁいいわ。ちゃんと自分でやってること、
わかってればいいのよ。じゃあねん﹂
軽く手を振って麗華もマンションに消えていく。
それを見送りながら怜は﹁⋮何というか、色々と奔放な人だな﹂と
率直な印象を口にした。
﹁もー!何話してたのよ。早く帰ってきなさいよって言ったじゃな
い!﹂
﹁ごめーん。そんな大したことは話してないわよ。さ、夕飯にしま
しよー﹂
麗華は軽く笑って、エコバックから弁当1つとつまみ代わりの惣菜
3つ、ビール缶3本をテーブルに置いた。
この家の住人は料理ができない。
麗華はよく﹁自分はぱーへくつだからいいの!﹂とか言っているが、
家事1つできない女というのもどうだろうと紗弓は時々思う。
しかし自分も料理が苦手なのだ。人のことはいえない。
お菓子ならわりとおいしく作れるのになぁ、と思った。簡単なお菓
子は分量をしっかり量って、書いてある通りに作ればおいしく作れ
るのに、料理はそれと同時にセンスと器用さが必要なのだ。
二人で夕飯を囲む。
272
紗弓は弁当、麗華はビールにつまみ。いつもの情景だ。
母は豪快にビールを1缶あけ、もう1缶のプルタブをあけながらに
んまりと笑う。
﹁それで、実際のとこどうなのよう﹂
﹁な、なにがよ﹂
﹁佐久間くん?いい男じゃない。顔もいいし背も高いし、頭もよさ
そうだし。いわゆるあれね、昔で言う3高?あ、なんか違うかな﹂
﹁3高ってなによ。まぁ⋮顔はいいわね。それで迷惑してる事のほ
うが多いんだけど﹂
ぶつくさと紗弓は文句を言いながら弁当を食べる。
それを見て、勿体ないなぁと麗華は笑った。
﹁目の保養にもなるしいいじゃない。あんたはこう、相手が美形っ
てところをね、もっとありがたがらないと。あんなの1日中見てて
も飽きないくらい格好いいじゃない﹂
﹁⋮もう見飽きた﹂
ぷい、と首を反らしてもぐもぐと咀嚼する。
見飽きるほどいつも傍にいるんだぁ、と麗華がからかえば、﹁もー
!﹂と言って怒り出す。
本当にからかいがいのある娘だ。あの男もそうやって紗弓をからか
って楽しんでいるのだろうか。
﹁で、本題本題。どこまでいってるの?キスくらいはしたの?﹂
﹁なんでそんなことっ⋮!﹂
﹁あらぁ、それはあれよ、親としては娘がどこまで進んでるのか把
握しておきたいじゃない。もしかしたら息子って呼ばなきゃいけな
い関係になるかもしれないし。ま、やだわ、息子ですって。パパー
!息子欲しかったわねぇ﹂
麗華はカウンターに置いてある写真を取って、ほう、とため息をつ
く。
いつでもどこでも彼女は彼女のペースを忘れない。紗弓はすっかり
彼女の話すペースについていけなくて、麗華とまた違う意味でため
273
息をついた。
﹁キス⋮はしたけど。でもね、そういうのじゃなくて⋮色々と複雑
なのよ、私達は﹂
﹁ふぅん、高校生にも色々あるのねぇ。デートとかはもうしたの?﹂
﹁⋮こ、これからするのよ﹂
﹁それは大変だわ!!!﹂
写真を置いてガタッと立ち上がる。今度は何?と紗弓が麗華を見上
げれば、彼女はぐっと拳を握って紗弓を見下ろした。
﹁服買いにいかなきゃ!下着も買うわよ!﹂
﹁はっ!?な、なんでよ﹂
﹁当たり前よ!アンタろくな服持ってないじゃない。前に買ってあ
げた服から増えてないでしょ。あれ春用よ?今は秋!﹂
﹁それはそうだけど⋮なんでそんな気合入れてるのよ﹂
面白くなさそうに紗弓が弁当を食べ終える。
えー?と不満げな声を出して、麗華は椅子に座りなおすと、ザーサ
イを箸でつまみながら紗弓に向かって指をピシッと指す。
﹁紗弓に気合が足りないからよ⋮っ!まだまだね。もっと可愛くな
ろうっていう気概が足りないわ。もう一度イチから自分磨きの極意
を教えなければならないわね。あのね紗弓?オトコができたからっ
て、気を抜いちゃだめよ。ますます可愛くなる努力をしないと、男
はすーぐ別の女に行っちゃうわよ﹂
偏見100%の意見を自信たっぷりに言えば、紗弓は少し心配そう
な顔をした。
﹁そ、そういうもの⋮なの?﹂
﹁そうよ。いくつになっても美への追求は忘れてはいけない。これ
は結婚しても続くんだから。だってオトコはいくつになっても綺麗
で可愛くて若い女が好きなのよ。だからほかに目が行かないように
努力するのは女の義務なの、使命なの!﹂
﹁⋮ママもそうだったの?﹂
そう聞くと、ぴたり⋮と麗華の口が止まる。
274
しばらくして、ほんにゃりと彼女は笑って嬉しそうにしなをつくっ
た。
﹁パパは別格なの∼!パパは、もうママにべったり、めろめろ、一
途も一途だったんだからぁ!これは世間一般のオトコの話よー!﹂
﹁⋮もういいわ﹂
どこかの漫才つっこみのような事を言って、紗弓は虚脱したように
弁当パックを片付けに入った。
275
27.来るデートの日。基本は手繋ぎから
美容院で髪の長さを整えた。顔のお手入れをした。爪も整えて綺麗
に磨いた。ついでに耳掃除もした。
そして玄関の姿見で全身を見る。⋮何度見てもちょっとだけ顔を赤
くしてしまう。
﹁今のティーンズは肌見せコーデなのよっ!﹂と、どこかのショッ
プ店員のウケウリを麗華が言って問答無用で買ってきた服。
両肩を完全に露出した長袖で芥子色のニットワンピース。黒色で合
皮のニーハイブーツ。
まだ秋口なので肩出しは寒くないが、何かとても恥ずかしい。いか
にも﹁気合入れました﹂感があからさまで、とてもはしたないと思
ってしまう。
後ろにはニヤニヤとした笑みを浮かべる麗華。彼女をじろりと睨ん
でため息をついた。
﹁ほんとーにこれで行けって⋮?﹂
﹁むしろコレくらいの露出レベルで許した私に感謝してほしいくら
いよ。背中もろみえ!みたいな服と悩んだのだけどねぇ⋮﹂
﹁あーそれを買ってきたら問答無用でクローゼット行きだっただろ
うから、よかったわね⋮﹂
ニットベレー帽を被ってピンで留める。
髪は下ろしてあるので、背中まで届く髪をするりと触る。手入れし
た髪はさらさらとした手触りだ。
﹁まぁまぁ、文句を言いつつもしっかり着ちゃう紗弓ちゃんが好き
よ。ほら、カバン﹂
笑いながら麗華が小さめの手持ち鞄を渡してくる。紗弓はそれを受
け取って﹁む⋮﹂と呟いた。
﹁だってこれしかないし⋮。じゃあ、いってきます⋮﹂
﹁はーい。楽しんできなさいなー﹂
276
くすくすと笑いを含めた見送りに、紗弓は﹁もう!﹂と怒りながら
出て行った。
◆◇◆◇
待ち合わせは、朝10時に高校最寄の駅だった。
そこから電車に乗って、まずは横浜の中華街を目指すらしい。
紗弓は駅まで自転車で行き、駐輪場で停める。駅前に怜はまだ来て
いなかった。
約束した場所、きっぷ売り場前に立って待つ。腕時計を見れば10
時の5分前。
空が高い。秋を感じる空だ。青い空には雲が穏やかに流れている。
﹁晴れだなぁ⋮﹂
紗弓は自分が晴れ女だと思っている。不思議とこういった日は雨に
なったことがない。
ぼうっと空を見ていると、やがて電車の音が聞こえてくる。この電
車に乗っているのだろうかと改札口を見てみると、まばらに改札口
を過ぎていく人たちの中に一際背の高い男がいるのが見えた。
﹁背高いと便利ね⋮﹂
見つけやすくていいなと思っていると、彼は紗弓に気づいたのかに
っこりとした笑顔で歩いてくる。
﹁おはようございます。紗弓﹂
﹁お、おはよう⋮﹂
顔を赤くして早口で挨拶をすると怜は頷き、まじまじと紗弓の姿を
見た。ほう、といったような雰囲気で顎を軽く撫でる。
観察されているのが判って、紗弓は火照った顔のままそっぽを向い
た。
﹁⋮なによ。言いたい事があるならさっさと言いなさいよ﹂
﹁⋮⋮そうですね。⋮何と言えばいいでしょうか⋮﹂
言葉に困ったような様子で言いあぐねている怜に、紗弓は俯く。
277
ニットワンピースはぴったりとした服なので如実に体のラインが出
てしまう。肩出しのデザインだからか、紗弓の大きめな胸が余計に
目立って見えてしまう。
それが下品に感じてしまって、やはりこの服はかえって引かせてし
まっただろうか、もっと普通の服にすればよかったと後悔した。
﹁⋮不満なら、着替えてくる。家近いし﹂
ふてくされた顔でそう言うと、彼は慌てたように手を振った。
﹁ああいえ、そういう意味では⋮。あの、すごく似合ってますよ。
可愛いですし⋮。何というか、⋮そう、嬉しくて。本当におめかし
してくれたんですね﹂
にこにことそう言われて、紗弓は﹁そういう事だったのか﹂とほっ
とした後ますます恥ずかしくなってしまった。
これ以上顔を見られたくなくて彼を通り過ぎ、きっぷ売り場へ足を
運ぶ。
﹁さ、佐久間が何度も言うからでしょ!もうさっさと行くわよ。⋮
横浜駅まで買えばいいの?﹂
﹁ああ、いえ。そのもう一つ先の駅のほうが近いですね。石川町駅
です﹂
二人で切符を買って電車に乗る。ここから中華街までは一時間弱と
いったところだろう。
日曜日の朝はまだそこまで客が多いわけではないので揃って座席に
座る。
紗弓はチラ、と隣に座る男を少し観察した。
Vネックのシャツの上に、ゆるい感じのするショールカーディガン
を羽織っている。どちらもモノトーンで揃えてあって、制服よりも
大人っぽく感じた。
下はデニム生地のカーゴパンツ。骨ばった手首にはシルバー色のチ
ェーンブレスレットと腕時計。
どれも似合っていて、顔が固い感じのする美形だからかそういった
カジュアルな格好をすると余計に硬質な綺麗さが引き立っていて、
278
これはまた人の視線を集めてしまうんだろうなぁと思った。
﹁なんですか?じっと見ていたようですけど﹂
ばれてた。紗弓はあわてて前を向いて車窓を見る。
﹁⋮別にっ!あの、に、似合ってるんじゃない、それ﹂
﹁そうですか?ありがとうございます﹂
にっこりと言われた。彼は褒め慣れているのか、それ以上は何かを
言ったりはしない。
それからはしばらく並んで流れゆく景色を見ていたが、いたたまれ
なくなった紗弓があれこれ話題を出してみたり、学校の話をしたり
して電車の時間はすぎていった。
東京駅で乗り換えて、さらに2回駅で乗り換えて目的の駅につく。
﹁わぁ、さすがに人が多いわねぇ﹂
﹁中華街に行けばもっと多くなりますよ。そういえば紗弓は行った
ことが?﹂
﹁⋮実はないのよ。神戸の中華街には行ったことあるんだけど﹂
﹁神戸?ふふ、関東に住んでいるのに先に神戸の中華街に行ってる
なんて、何だかおかしいですね﹂
怜はくすくすと笑いながら紗弓と一緒に歩く。
﹁私もそう思うけど﹂と前置きをしてから、中学の修学旅行が京都
で、そのまま神戸にも足を伸ばして中華街に行った話を説明すると、
彼は納得したようだった。
﹁なるほど、修学旅行の一環だったんですね。僕は神戸の中華街は
行ったことないですけど、規模はこちらのほうが大きいと聞いたこ
とがあります。あ⋮見えてきましたね。あれですよ﹂
紗弓が横断歩道を挟んだ向こう側を見てみると、確かにそれらしい
門が見える。
それがあまりに神戸の中華街と見た目が同じで驚いてしまった。
﹁神戸のとそっくり。こんな風になっていたのね﹂
﹁そうなんですか?⋮青になりましたね、行きましょう﹂
279
紗弓を促すように、そっと肩に触れて歩き出す。肩が露出している
から肌に直接怜の手が触れて、紗弓はドキリとして動揺する。
︵しまった⋮っ!佐久間が結構な頻度で肩触ってくる事忘れてた!
!︶
どうしよう。しかしここまで来てしまっては帰ることもできない。
彼が肩に触れる度、このドキドキに耐えなければならないのか。
⋮大丈夫かな、私。と早くもこの先のデートに不安を隠しきれない
紗弓であった。
中華街は入り口から混んでいた。少し早めの昼食、といった時間が
原因だろうか。どこも人であふれている。
﹁活気があるっていうか⋮多いわね﹂
﹁これは店に入るにも時間がかかりそうですね。どこかお店を決め
ておいて、時間潰しをするのがいいかもしれません。⋮何が食べた
いですか?﹂
﹁うーん、中華料理は何でも好きだけど、せっかくだから色々なお
料理を食べてみたいわ﹂
﹁それだったら、専門店みたいなところじゃなくて、普通の中華料
理店のほうがいいでしょうね。実は僕もそう詳しいわけではないの
で⋮﹂
と、言いながら歩く。怜は背が高いのでそう不便に感じていない様
子だが、紗弓は小柄なので自分の周りが人だらけに見えてしまう。
彼を人ごみで見失いそうになって思わず彼のカーディガンを掴んで
しまった。
﹁あっ⋮ごめん。服⋮﹂
﹁⋮いえ、どうしました?﹂
﹁あの⋮見失いそうになったから、つい⋮﹂
ああ、と彼は納得したように頷いた。少しだけ考えるような顔をし
た後、いたずらを思いついたような顔をして紗弓の手を優しく握る。
﹁⋮っ⋮あの⋮﹂
280
﹁これならはぐれないでしょう?それとも肩を抱いていきましょう
か﹂
くすくすと笑いながら言ってくる。かぁっと顔を火照らせて﹁手で
いい!﹂と力いっぱい首を振ると、更に笑われた。
﹁さぁ、行きましょう。おいしそうなところ、頑張って見つけてく
ださいね﹂
﹁私が見つけるの!?﹂
﹁ええ、僕はそういうのよくわかりませんからね。紗弓の﹁美味し
い店センサー﹂に期待します﹂
﹁まさかの無茶振りー!?﹂
あはは、と笑って怜は紗弓の手を繋いで人ごみの中を進む。
美味しそうな匂い、並ぶ屋台。紗弓はあちこちに目が移っていく。
とりあえず先に店を見つけないと、と中華料理の店を注意深く見な
がら歩いていると、気になるお店を見つけて紗弓は足を止めた。
﹁あ、ここ、美味しそうじゃない?﹂
﹁へぇ?その根拠はなんでしょう﹂
﹁ほら、テレビで紹介されたって書いてあるし、品数も多そうよ。
値段も手ごろだし﹂
﹁結構ちゃんと見てるんですね⋮成程、納得です。ではここにしま
しょうね﹂
そう言うと、迷うことなく店のドアを開ける。
店の人と話している怜を見ながら何となく紗弓は﹁決断の早い人ね﹂
と思った。
﹁やっぱり混んでますね。一時間ほど待つみたいです。でも丁度お
昼の時間ですし⋮良かったかもしれませんね﹂
﹁そうね。ちょっとお腹は減ってるけど﹂
﹁ええ、時間まで道を歩いてみましょう。屋台が多かったでしょう
?少し摘んで行くのもいいですね﹂
店を出て再び中華街を歩く。
美味しそうな匂いがあちこちからして、紗弓の腹がくぅくぅと鳴り
281
始めた。
﹁うー、おなかすいた⋮﹂
﹁僕も減りました。ちょっと屋台を見てみませんか?﹂
うん、と頷いて来た道を少し戻って屋台の並びを見る。
しかし人だかりが邪魔でまったくメニューが見えない。ぴょんぴょ
んとジャンプをしてみるが、まったく意味がなかった。
﹁メニュー、見えないわよ。人多すぎー!﹂
﹁そうですねぇ、昼時ですから。メニューはですね、えび団子、水
餃子、春巻き⋮中華ちまきに、あ、小龍包もありますね﹂
﹁小龍包!!うっ⋮でも、えび団子も気になるわ⋮水餃子も⋮﹂
﹁ふふっ⋮じゃあ、小龍包とえび団子⋮水餃子も頼んでみましょう
か﹂
﹁そんなに食べても大丈夫かしら﹂
﹁一個一個はそう量が多いわけではないですから、大丈夫ですよ﹂
そう言って、怜は早速注文をする。手早くそれは用意され、怜は両
手にえび団子と水餃子、紗弓は片手に小龍包を持って、店と店の隙
間のような所に移動する。
﹁僕持ってますから、先に食べてください﹂
﹁うん⋮ごめんね?じゃあ先にいただきます﹂
使い捨ての器にほかほかとした小龍包が乗っている。それをプラス
チックの小さなスプーンで真ん中を割ると、じゅわっとした汁があ
ふれ出て、いい匂いが紗弓の鼻を刺激した。
﹁うわぁ、いい匂い⋮ん⋮。あつっ!!はふ!﹂
﹁あはははは!!﹂
紗弓が口に入れた小龍包の熱さにはふはふと慌てると、彼は腰を曲
げて笑い出した。
苦労して噛み、飲み込むと﹁はぁ⋮﹂とため息をついてじろりと怜
をにらむ。
﹁そんなに笑うことないでしょ!﹂
﹁だって⋮クク⋮。本当に僕の言った通りのことしたから。ふーっ
282
て冷ますくらいはすると思ったのに、そのまま口に⋮それはさすが
にないですよ。熱いに決まってます。あははっ!﹂
﹁だ、だって美味しそうだったんだもん!もう⋮﹂
ぶつぶつと言いながら残りを食べようとすると、怜が﹁あ﹂と声を
かけて止めてくる。
﹁僕も一口ほしいです﹂
﹁いいけど⋮﹂
﹁両手がふさがってるので食べさせてください。あ、ちゃんとふー
って冷ましてくださいね?﹂
くすくすと笑いながら、あーんと口をあけてくる。確かに彼は今両
手がふさがっているので紗弓はスプーンに小龍包をのせて、次はふ
ぅふぅと息を吹いて冷ました。
﹁ん、大丈夫かな。⋮はい﹂
ぱく、と怜が小龍包の残りを口に入れる。もぐもぐと食べて﹁美味
しい﹂と顔を綻ばせた。
﹁美味しいわよね。このお汁もいいダシが出てるわ﹂
トレーに流れた汁を飲んでいると怜も頷く。
﹁それは良かったです。それにしても紗弓は優しいですね﹂
にっこりと笑ってそんな事を言うので、彼女はトレーに口をつけな
がら軽く首をかしげた。
﹁僕は笑ったのに、紗弓はちゃんと冷まして僕に食べさせてくれた
でしょう?意地悪しないんだなぁって﹂
﹁⋮⋮はっ!そういえばそんな手が!しまったわ!貴方がふぅーっ
てしろって言うからでしょ!?﹂
﹁あははっ⋮!言われて気づくなんて本当⋮ふふっ。あ、トレー預
かりますよ。えび団子、また半分こしましょう﹂
怜からえび団子を受け取って空のトレーを渡す。紗弓はまたスプー
ンで半分に割ると、次はちゃんと冷ましてから口にして、怜にも同
じように口に入れた。
﹁ん、これもおいしい。エビが大きくてぷりぷりしてるわ﹂
283
﹁タレがいいですね。水餃子は丁度二つあるからこのまま食べまし
ょう﹂
交互に水餃子を食べて、紗弓はスープを飲む。
﹁おいしーい!半分飲む?﹂
﹁はい、頂きます﹂
空になったトレーを交換して怜に渡すと、彼はスープを飲みきった。
﹁ああ、あったかくていいですねぇ⋮もう少し食べますか?﹂
﹁ううん。お腹もちょっと落ち着いたからお昼ごはんに取っておく
わ。雑貨屋もあるみたいだからそっちを見たいかな﹂
はい、と怜は頷きトレーをごみ箱に捨て、紗弓の手を再び取って歩
き出す。
その流れがあまりに自然だったのか、紗弓もどこかで怜に心を許し
ているからか、最初程の羞恥は感じずに手を繋いで歩いていく。
ただ、彼の手の大きさを意識するとどうしても恥ずかしくなるから。
それだけは意識しないように心を努めた。
中国風の可愛い雑貨を見ては色々と話していると、あっという間に
予約の時間になって、二人は中華料理の店へと再び入店する。
そこは綺麗とはいい難い、定食屋のような雰囲気で雑然としている。
テーブルに着くなり、水を持った中年の女性が現れて注文を聞いて
きたので、紗弓は慌ててメニューを手に取った。
﹁えっえっと⋮何にしよ⋮﹂
﹁すみません、後で声をかけていいですか?﹂
怜がそう言えば中年の女性はカタコトの日本語で了承し、去ってい
く。
ほっとして、紗弓は改めてメニューを見ながら怜に頭を下げた。
﹁ごめんなさい。店前のメニュー表で決めておけばよかったわ﹂
﹁かまいませんよ?慌てて決めても仕方ないですからね。ゆっくり
考えてください﹂
にっこりと笑って、怜は紙ナプキンの袋を破ってその手を拭く。
284
﹁ありがと⋮。うーんとね⋮この肉野菜のカシューナッツ炒め、美
味しそう。あ、でもエビチリもいいわね⋮﹂
﹁ふふ、目移りしてますね。何でもいいですよ?このフカヒレのお
こげとかどうです?﹂
﹁フカヒレ!?だ、駄目よ。⋮高そうだもの﹂
﹁いえこれ、意外と安いですよ?ほら﹂
彼の持つメニューを見てみると、確かに思ったよりは安い。けれど、
高いは高いと思う。
﹁でも⋮﹂
﹁いいじゃないですか。ほら、これと⋮それからエビチリと、カシ
ューナッツ炒め。これくらいなら食べれそうでしょう?足りなかっ
たらまた追加で注文しましょうね﹂
にっこりとそう言って、手早く給仕に声をかけて注文してしまう。
さっきも思ったが、彼は決断がとても早い。メニューで悩んだりし
ないのかな、と少し思った。
﹁なんていうか、お店決めとかメニューであんまり悩まないのね﹂
自分も紙ナプキンで手を拭きながらそう言うと﹁そうですか?﹂と
怜が首をひねった。
﹁あー⋮あまり食べ物に興味がないのはあるかもしれませんね。美
味しい不味いくらいはわかりますけど、明確にコレが食べたいとい
った好奇心があまりないといいますか⋮﹂
﹁成程。でもフカヒレは強引に薦めてきたわよね﹂
﹁ん?だって紗弓がこういうの食べてみたいでしょう?いかにも中
華料理じゃないですか。フカヒレって、家ではまず食べれないです
し﹂
そう言ってくすりと笑う。
確かにそう言われればそうかもしれない。あとは北京ダックなども
家で食べるようなものではない。
餃子や麻婆豆腐といった家庭でもおなじみの中華料理と違う、とい
う感じか。
285
そういった話をしばらくしていると、やがて料理が運ばれてきた。
紗弓はテーブルに並ぶ料理に目を輝かせる。
﹁わぁ⋮美味しそう⋮っ!﹂
炒め物はナッツがきらきらと光っているし、エビチリは、エビが大
きい。さらにフカヒレのおこげはテレビで見たような三日月形のフ
カヒレがでん、とおこげに乗っていてたっぷりとした餡がいかにも
美味しそうだ。
早速箸を取って手を合わせる。
﹁いただきます!﹂
取り皿にまずはエビチリを取ってみた。怜はふかひれを箸で半分に
切り、おこげとふかひれを取り皿に盛る。
紗弓がエビチリを口にすると、大ぶりのえびがぷりんと口の中で千
切れた。
そしてピリ辛のチリソースは辛さと甘さが絶妙で、紗弓は何度もエ
ビをソースにつけては食べる。
﹁美味しいわよこのエビチリ!チリソースが甘辛くて、エビもぷり
ぷりだわっ!﹂
﹁良かったですねぇ。フカヒレも美味しいですよ?餡の出汁が効い
ていてまろやかです﹂
本当?と紗弓が新しい取り皿に手を伸ばすと、怜が一歩早くその皿
を取り、フカヒレを盛り付けてくれる。彼からそれを受け取って、
おこげにフカヒレをのせて食べてみる。カリッとしたおこげの歯ざ
わりに、口の中でフカヒレがほどけていく。そして濃厚な餡の味。
﹁ああ⋮美味しいっ⋮!こんなにカタチのあるフカヒレなんて初め
て食べたわ﹂
﹁カタチのあるフカヒレって何ですか?﹂
くすくすと笑って、怜はまた新しい取り皿にカシューナッツ炒めを
盛って紗弓に渡してくる。
﹁昔ママとフカヒレラーメンっていうのを食べにいったけど、どれ
がフカヒレ?っていうようなものだったの。春雨が浮いてるのかと
286
思っちゃった位バラバラにほどけてて、ぜんぜんフカヒレ食べてる
ような気分にならなかったのよね﹂
皿を受け取りながらそう言うと、成程、と怜が笑った。
﹁そういうのありますよね。インスタントとか。そもそもフカヒレ
って殆ど食感ですよねぇ﹂
﹁殆ど餡の味よね⋮。あ、盛ってくれてありがとう﹂
どういたしまして、と笑って怜は自分にエビチリを盛り、それを食
べる。確かに食感がぷりぷりとしていていいですねぇと感想を述べ
た。
紗弓もカシューナッツ炒めを食べてみる。ほんのりした甘さと塩気
のあるカシューナッツはかりかりとしていて、その歯ごたえや香ば
しさとピーマンと鶏肉の味がとても合う。
﹁これも美味しいわよ。香ばしくって、鶏肉の塩味がすっごくいい
の。食べてみて?﹂
はい、と楽しそうに言って怜もそれを口にする。
﹁本当ですね。カシューナッツっておつまみのイメージが強かった
んですけどこんな風に料理にすると美味しいんですねぇ﹂
それを聞いて、紗弓は夏休みの民宿を思い出した。そしてジト目で
怜を見る。
﹁おつまみって⋮佐久間、貴方普段も飲酒してるんじゃないでしょ
うね⋮﹂
ぴた、と怜の箸が止まった。しばらくしてまたカシューナッツ炒め
を食べ始める。
﹁もちろんですよ。そんな、僕は未成年ですよ?ははは﹂
﹁なんかすっごく今の間怪しかったんですけど!!本当でしょうね
!?﹂
本当本当、と怜は頷く。いかにも嘘くさい態度だ。
紗弓ははぁ、とため息をついてエビチリを盛って食べる。
﹁まったく⋮。どうせ大人になったらいくらでも飲めるんだから、
少しは待てないの?何で未成年が飲酒しちゃだめって法律で決めら
287
れてるかちゃんと考えて﹂
﹁飲んでません、本当に飲んでませんって。ね?怒らないでくださ
い。紗弓が真面目で、曲がった事が嫌いなことは知ってますから、
ちゃんと自粛はしてますよ﹂
﹁なにそれ⋮今までは飲んでたって言ってるも同じじゃないの。本
当に⋮。意外と不良なのね⋮よく考えたら意外でもないかしら?﹂
﹁手厳しいですねぇ﹂
ふふ、と笑ってエビチリの残りを食べてしまう。
紗弓もカシューナッツ炒めを片付けて箸を置き、冷たい水を一口飲
んだ。
﹁⋮ヤな奴でしょ。規則規則って煩いし、自分でもちょっと口喧し
いかなって思ってるわ。⋮でも許せないんだもの。確かに私もちょ
っとは校則違反をしちゃう事もあるから、しつこくは言えないんだ
けどね﹂
例えば時々響子に家へ寄り道してもらうとか。なりゆきとはいえ、
怜とラブホテルなんぞに入ってしまったことだってある。夏は騙さ
れた形だけれど、飲酒もしてしまった。紗弓は時々自分の行動がと
ても矛盾しているように思えて、風紀委員をし続ける資格があるの
かどうか悩む時がある。
風紀委員は同じ立場である生徒に注意をする立場だから、自分が模
範的な生徒であるよう努める必要があると紗弓は思っている。だか
らそれを破ってしまった時、酷い罪悪感を感じるのだ。
自分は果たして人を嗜めるに値した人間だろうか、その資格はある
のだろうかと。
そんな風に思っていると顔に出たのだろうか。冷水を飲んだ後、怜
は優しく紗弓の頭を撫でる。
﹁本当に紗弓は真面目で人が良いですね。そんな性格だと苦労する
だろうな、とは思いますが。でも嫌な奴だなんて思ったことはあり
ません。紗弓、貴女は良い子で可愛いですよ。だから貴女は風紀委
員でも慕われているんです﹂
288
にっこりとそう言われて、紗弓は顔を真っ赤にしてしまった。
ぷしゅーと頭から湯気でも出そうな程だ。
﹁し、慕われてる、なんて⋮﹂
﹁あれ?自覚してなかったんですか?ふふ⋮そんな風だからこそ、
なのでしょうね。ああ可愛い。照れて顔が真っ赤ですよ?紗弓﹂
﹁ああうあー!も、もう、食べたから出ましょ!﹂
わたわたと慌てて鞄からサイフを出す。麗華に言われていたのだ。
レジ前でサイフを出すのは男のプライドを刺激してしまうからテー
ブルで先に渡せと。後に渡すとそれはそれで﹁いらない﹂﹁もらっ
て﹂の押し問答が繰り広げられるからみっともないとも。
テーブルにぺしっと二千円を置く。
﹁何ですか?この紙幣は﹂
﹁何って、割り勘。だいたいこれくらいでしょ?﹂
﹁はぁ⋮紗弓。僕が何故バイト代が入ったからと前置きしたかわか
ってないですね。貴女は絶対割り勘にしてくると思ったから先に牽
制したんですよ?効果がなかったようですが。それに奢るとも言っ
たはずですけど?﹂
﹁それは夕飯の話でしょう?さっきだって屋台のもの奢ってもらっ
てるし、そんな何でもかんでもご馳走してもらうつもりなんてない
わ﹂
すると彼は諦めたように紙幣を取った。とりあえず受け取ってくれ
るらしいと紗弓はほっと胸をなでおろして、立ち上がった怜に続い
て席を立つ。
そのまま店の外に出ようとすると、いきなり怜が紗弓の腕を取った。
えっ、と驚くと、彼はそのまま紗弓の手持ち鞄を取り上げ、紙幣を
鞄の中に入れてしまう。
そして鞄を紗弓に返して﹁外で待っててくださいね﹂と言ってさっ
さとレジに行ってしまった。
なんて強引な︱︱。
紗弓は思わず呆然として立ち尽くしてしまうのだった。
289
28.分かり合いは言葉から
少し悩んだが、麗華が﹁割り勘断られてご馳走されてしまったら、
意地になってお金を渡すなんて男の恥をかかせるような行為はやめ
て、スマートにお礼を言うこと﹂と言われていたことを思い出して、
店から出てきた怜に素直に頭を下げる。
﹁⋮ごちそうさまでした﹂
﹁どういたしまして。では行きましょうか﹂
にっこりとそう言ってから、紗弓の手を取り歩き出す。迷いなく歩
く様子に紗弓は慌てて怜へ疑問を投げかけた。
﹁あの、どこ行くの?﹂
﹁赤レンガ倉庫に行きましょう。あそこの方が可愛い雑貨屋や、カ
フェなんかもありますよ。シーバスに乗っていきましょうね﹂
シーバス?と首をかしげると、安価で水上バスが出ているらしい。
中華街を抜けてしばらく歩くと広い公園に出た。
﹁綺麗な公園ねぇ﹂
﹁はい、一応デートスポットらしいですよ。⋮あ、こっちです﹂
人は大分と少なくなったが、彼は手を放すことなく歩いていく。
公園の緑はまだ青々と茂っている。もう少ししたらこの緑も赤く色
づくのだろうか。そんな事を思いながら歩いていると、やがて水上
バスの乗り場へ到着する。
﹁海だー!﹂
﹁はい。海ですねぇ⋮やっぱりいいですね﹂
すでに船はついており、出発の時間まで待機しているようだった。
怜は2枚の切符を買って係員に渡し、紗弓の肩を抱いて促し乗船す
る。
あれよあれよと船に乗せられて戸惑っていると、怜が優しく聞いて
きた。
﹁窓のある席と、それがない席がありますけど、どちらがいいです
290
か?﹂
﹁あ⋮じゃあ窓がないほうが。あの、そうじゃなくて、うう⋮﹂
こういう場合、切符のお金を払ったほうがいいのだろうか、それと
も何事もなかったように流すべきなのか。デート初体験である紗弓
は彼の行動の一つ一つに悩んでしまう。
どれが正解なのだろうか。何が麗華の言う﹁良い女﹂の行動なのか。
しばらく悩んでいたが、後部座席の長椅子に座った紗弓は﹁とりあ
えず礼は言うべきだ﹂と結論づける。
﹁あの⋮ありがとう。その、切符⋮とか﹂
﹁いいえ?⋮しかし、紗弓は本当に律儀な性格をしているんですね。
誠実、というか。そんなにひとつひとつお礼を言ってくる人は初め
てですよ﹂
くすくすと笑いを込めてそう言われた。
礼を言わないのが正解だったのだろうか?紗弓は少し落ち込んだよ
うな顔をする。
﹁⋮どうしました?﹂
﹁ううん。あの⋮普通はお礼とか、言わないの?私、佐久間みたい
な男の人と二人で出かけるなんて初めてだから全然わからないの。
友達とか皆で遊ぶとかなら、何でも割り勘が基本でしょう?だから
⋮﹂
﹁⋮初めてだったんですか?デート﹂
﹁そ、そうよ!何よ、悪い?もう、何でもかんでも経験済みみたい
に言うのやめてよ。私どんだけ遅れてるのって落ち込んじゃうじゃ
ない﹂
つん、とそっぽを向くと怜は優しく紗弓の手を握ってくる。
自分のひざに乗せた手を掴む彼の大きな手。胸が大きく鳴って、ど
きどきする。
﹁すみません。これは僕の悪い癖ですね。紗弓に関しては先入観は
やめないとと思っているのにどうしても。けれど、それなら納得も
できます。紗弓は僕に気を使っていたんですね﹂
291
え?と見上げると怜がにっこりと笑って、握った手の親指で紗弓の
手の甲を撫でる。
﹁紗弓のしている事は少しも悪いことではありませんよ。御礼だっ
て、言われないより言われるほうがずっといいです。ただ、気の使
いすぎはすぐに疲れてしまいますよ?別に僕は貴女に恩を売りたく
てしているわけではないですし、﹁奢ってあげている﹂なんて気持
ちでいるわけでもありません。何というか⋮そうですね、僕にとっ
てこれは当たり前なんです﹂
当たり前?と聞けば、彼は﹁ええ﹂と頷く。
ボー、と汽笛が鳴って船が動き出した。波の音が大きく聞こえて、
風が吹いてくる。
﹁奢られて当然、というのはさすがに考え物ですけれど。もう少し
気楽に奢られてください。そんなにたいした金額を出しているわけ
でもないんですから。僕は気を使って礼を言われるよりも、紗弓に
楽しんでもらいたいですね。このデートを﹂
﹁楽しむ⋮、も、もちろん楽しいわよ!その⋮友達とかと遊ぶ楽し
さとはまた違う楽しさっていうか⋮。でも、わかったわ。気楽に奢
られるっていうのは難しいけど、あんまり考えすぎないようにする﹂
﹁それがいいです。ほら、海見ましょうね。せっかくの船ですから﹂
﹁うん⋮そうね﹂
やっぱり海は泳ぐより見るほうがいいと思う。
きらきらと太陽に反射して光る海、心地よい波の音。周りを見れば
カップルだらけで、確かにここはデートスポットという名にふさわ
しいのかも、と思った。
しかし思ったよりも船の上は寒い。秋口とはいえさすがに海風は寒
い。窓のある席にすればよかったと少しだけ後悔する。
ぶる、と少し肩を震わせて﹁ほえっくち!﹂とくしゃみをした。す
ると怜がぶはっと噴き出す。
﹁いっ、今のくしゃみですか﹂
﹁⋮そうよ。何よ⋮﹂
292
﹁い、いいえ。随分と個性的な⋮。ああ、さすがに肩を出していて
は寒いですね﹂
﹁うん⋮やっぱり中に入ったほうがいいかしら﹂
ずび、と鼻をすすってそう言うと、怜は自分のカーディガンを脱い
でふわりと紗弓の肩にかけてくる。
﹁ひぇっ!?﹂
﹁これで少しは暖かいですか?﹂
﹁あ、あったかい⋮けど、それじゃ佐久間が﹂
﹁僕はこれくらいの寒さなら大丈夫ですよ。体は頑丈なほうですし
ね﹂
ニッコリと笑って、怜はそのまま顔を傾け海を眺める。
夏の時にも思ったが、彼のシャツ一枚という姿はとても様になる。
ありていにいえば色気がある。特にVネックから覗く鎖骨なんかが
とてもよろしくない。ドキドキして仕方がないのだ。
しかも彼は体格がとても良い。カップルの多い船上でも、女性が、
隣にいる男性までもが怜をちらちらと見ているくらいなのだ。
それに比べて自分は随分とちまっこい。怜のカーディガンを羽織れ
ば、肩どころか露にになっている太ももも隠してしまう。まるで大
きめのブランケットのようだ。
だぼついた袖をもてあましていると、怜がじっと紗弓を見ている事
に気がついた。
﹁⋮な、何?﹂
﹁⋮⋮いえ、何でも﹂
何事もなかったように顔をそらして海を見始める。
少し挙動不審な怜に眉をひそめながらも、気を取り直して紗弓も海
を見るのだった。
水上バスは赤レンガ倉庫の船着場に到着する。
数々のカップル達に紛れて共に降り、紗弓はカーディガンを脱いで
怜へ渡す。
293
﹁ありがと⋮﹂
﹁ふふっ、紗弓はお礼を言ってばかりですね。どういたしまして﹂
そう言って怜はさっとカーディガンを羽織る。そしてスルリと手を
繋いで歩き出した。
﹁ここが赤レンガ倉庫?﹂
﹁ええ、元は本当に倉庫だったらしいですけど、今はこうやってシ
ョップとか、カフェとかがあるんですよ。外国のお菓子とか雑貨な
んかも多いので見てみましょう﹂
ここは先ほどの公園と同じで、いわゆるデートスポットのひとつな
のだろう。どこを見てもカップルだらけ。時々家族連れや女同士で
歩いているのを見たが、殆どが男女の二人組で歩く姿ばかりだった。
﹁はぁ、人気があるのね、ここ﹂
﹁そうですね。この辺りでデートといえばここか、近くにあるショ
ッピングモールか⋮ああ、近くに遊園地もあるみたいですね。そこ
は行ったことがありませんが﹂
てくてくと歩きながら妙に詳しい彼の説明を聞いていると、突然紗
弓は﹁そうか﹂と当たり前のことを思い出した。
考えてみれば、佐久間怜は紗弓と﹁偽恋人﹂の関係になるまでたく
さんの女性とつきあってきたのだ。
デートなんて行き慣れていて当たり前。こうやって二人で歩いたり、
先ほどの中華街みたいに笑いあって屋台のものを食べたり、食事を
したり。その全てが彼にとってし慣れた事なのだ。
かつて怜とつきあっていた栞も言っていた。怜は﹁あの時﹂以外は
とても優しくて親切で、お姫様のように扱ってくれると。
確かに今、紗弓の心はとてもドキドキしている。親切で優しくて、
さらりと当然のようにに奢ってくれて、本当にこれは﹁お姫様扱い﹂
だ。
紗弓の足がふ、と止まる。
怜もつられたように止まって、不思議そうに紗弓を見た。
294
どうしよう。どうして?
どうしてこんな事、今になって思い出してしまったの。
私にとって全てが初めてでも、彼にとってこれは過去の出来事を違
う女と辿っているにすぎない。
そんなの知ってた。判ってた。この関係になる前から学校で聞いて
いたのに。
むざむざと思い知らされる。自分は偽りの存在だけど﹁次の女﹂な
のだ。
それがどうしてこんなに悔しくて、悲しいの。
偽だから、嘘の恋人だから、そんな事考えないで気楽に﹁男の友達﹂
として楽しめばいいのに。
どうしてこんなに胸が苦しいの?
﹁⋮紗弓?﹂
﹁あ⋮ご、ごめん⋮﹂
俯いて、歩き出す。怜は笑顔のなくなった紗弓を少し眉をひそめて
見ていたが、彼女と一緒に歩を進める。
﹁あの、もう、大丈夫だから。人も⋮そんなに多くないし﹂
繋いでいた手をスッと放す。
怜はますます不審そうな顔をして紗弓を見た。
﹁どうしたんですか?突然﹂
﹁⋮⋮別に。もう手を繋ぐ必要ないでしょ?雑貨屋ってあっちよね﹂
すたすたと歩く。努めて普通に、そう、学校みたいに普通に接すれ
ばいいのだ。
デートだと意識するから駄目なんだ。
学校と同じ距離を取れば、気にせず楽しめるはず。
紗弓はそう考えて手近な店へと入っていった。
◆◇◆◇
295
﹁わ、このエコバックすごい可愛い。お洒落だわ。⋮うーんどうし
ようかしら⋮﹂
﹁エコバック⋮そういえば、紗弓はいつも持ってますよね、学校で﹂
﹁違反品を没収するのに便利なのよ。ポケットに入れておけるしね。
それに私はスーパーに買い物に行くことも多いからそういう意味で
も欠かせないのよ﹂
思ったよりも雑貨屋めぐりは楽しい。中にはとても手が出せないよ
うな値段の高い店もあったが、紗弓でも買えそうな店もある。
手にしたエコバックは布製で手触りが気持ちよく刺繍が可愛く施さ
れていて、さらに鍵編みで作ったコサージュの飾りが小粋だ。しか
もその飾りはエコバックをくるくるとまとめると丁度ボタン代わり
になるという紗弓好みのデザインだ。
﹁うーん⋮ちょっと高いけど⋮でもいいわ!これ買おうっ﹂
惚れたものは仕方がない。こう言っては怜に失礼だが、昼ごはんを
奢ってもらえたからこそ買えるしろものだ。心の中で改めて怜にお
礼を言う。
レジで会計をすませ、店の外で待っていた怜に﹁おまたせ﹂と駆け
付けた。
彼は頷くと﹁では行きましょうか﹂と言って、強引に紗弓の手を取
り歩き出す。
紗弓は戸惑った。振りほどいたつもりなのに、どうしてまた手を繋
いでくるの?
再び手をはずそうとするが、次は解けない。彼はしっかりと紗弓の
手を握っていて、ずんずんと先へ進んでいく。
ついた所はモダンでお洒落な雰囲気のカフェだった。
怜はさっさと紗弓をつれていき、椅子に座らせる。自分も座ってメ
ニュー表を取り、中を見た。
﹁どれにします?﹂
にっこりと笑って聞いてくる。ずっと見てきた彼の笑顔。
しかし見慣れてきたからか、紗弓には判ってしまう。⋮あ、こいつ
296
怒ってる、と。
怜は見た目や物腰のせいで穏やかに見られているが、実は割と沸点
が低い。
何にしても店員が来てしまったので紗弓も慌てて注文をする。
﹁あ、じゃあ⋮あずき白玉ラテを﹂
﹁僕は珈琲を﹂
店員は驚いたように怜を見ていたが、ハッとした顔をして戻ってい
く。
あれは見蕩れていたな、と水を飲みながら紗弓は思った。自分はあ
まり気にしないようにしているが、それでも時々﹁格好良い男だな
ぁ﹂と眺めてしまう位なのだからつい見蕩れるのは仕方ないと思う。
やがて頼んだものがテーブルに置かれて、怜は静かに珈琲を啜った。
﹁⋮で?﹂
﹁⋮⋮で?﹂
彼の言葉をそのまま聞き返す。紗弓は心当たりがないわけでは無い
ので少しばつの悪そうな顔をして白玉をスプーンですくった。
﹁何を考えているんですか?⋮いえ、何を考えました?﹂
若干の言い回しを変える。紗弓はぎくりとしながらも努めて何もな
い風に白玉を口に運んだ。
﹁な、何も⋮。別にいつも通りじゃない﹂
﹁それがおかしいです。いきなり距離を置いたように歩いて、普段
通りを演じている。⋮そんな風に見えますが?﹂
なんでそんな、心の内を見たようなことを言うのだ。
怜は俯いたままの紗弓を見て静かにため息をつく。
﹁貴女はね⋮とても判りやすいんですよ。僕をごまかしたいのなら
もっとちゃんと偽ってください。そんな中途半端なごまかしは逆に
人を不愉快にしますよ?﹂
ぐっと紗弓は唇を噛む。彼はこういう時に関して容赦しない。グサ
リと胸を刺す程はっきり物を言う。
今までの女性相手でもそうだったのだろうか?
297
⋮少しだけ矛盾を感じる。こんな面があるのを知っているのなら、
あんなに手放しに彼を素敵だ、優しいと言えるのだろうか。
わからない。だけどそんな事をゆっくり考える余裕は今のところ有
りはしなかった。
コツコツとテーブルをたたく音。
彼が紗弓の言葉を待って苛立っているのがわかる。彼女は萎縮した
ように小柄な体をさらに小さくて意味もなくスプーンでラテをかき
混ぜる。
はぁ、と彼のため息が聞こえてピクリと肩を震わせた。
﹁⋮すみません。けれど、僕は紗弓に隠し事をされたくないんです。
思う所があるなら、何か僕に言いたいことがあるなら言ってくださ
い。そういう意味で貴女に気を使われるのは⋮嫌なんです﹂
笑みを消して真剣な顔をして言う。紗弓はますます矛盾を感じた。
彼は、怜は、ほかの女の人とつきあっている時、デートをしている
とき、どんな風だったのだろう。
こんな真面目な顔をして話もしていたのだろうか。
怒ったり⋮していたのだろうか。
カチャ、とラテを回していた手を止める。
思っていることを口にしよう⋮そう思って、小さな口を開く。
﹁⋮ごめんね。私もよくわからないの。ただ、佐久間はこうやって
⋮他の女の人ともデートしてたんだなって考えたら⋮何だか胸が苦
しくなっちゃって﹂
﹁⋮え?﹂
意外なことを言われたように怜は険しい顔を止め、目を丸くした。
﹁でもそんな気持ちでデートするの、嫌でしょ?だから学校の時み
たいに普通にやればいいって思ったの。学校じゃ手なんて繋がない
でしょ?ちょっと距離を作って話すでしょ?⋮そういう風にすれば、
大丈夫って思ったのよ﹂
﹁それは⋮紗弓。⋮それは、僕の過去つきあってきた女性にその⋮
妬いて、いたんですか?﹂
298
﹁⋮⋮は?﹂
今度は紗弓が目を丸くする番だった。
妬く?妬くって、ジェラシーのこと?
かぁっと顔を赤くして思わず怒鳴ってしまった。
﹁なんでっ!?そんなわけないでしょ!﹂
﹁紗弓、声、声大きいです。抑えて﹂
ハッとしてしおらしく席に座りなおす。思わず怒鳴ってしまったが、
ここは喫茶店なのだ。
﹁とにかくっ⋮そんなじゃないわよ。そう、そうよ、私は何でも初
めてなのに、佐久間がそうじゃないからそう、ずるいって腹が立っ
ただけなのよ﹂
ごまかすようにラテを飲むと、怜はまたキョトンとした顔をして、
次は笑い出す。
肩を震わせ、口を押さえて声を殺すように笑うので、紗弓の目が吊
り上った。
﹁なんで笑うのよっ⋮もういいわ。言った私が馬鹿でした﹂
﹁ごめん、ごめんなさい。⋮違うんです。そんな理由だったのかっ
てほっとしたというか⋮ふふ。紗弓、違いますよ。明確に、昔の女
性と貴女は違います﹂
﹁⋮どう、違うのよ﹂
﹁んー⋮何といえばいいか。とりあえず前までの女性なら、今頃こ
んな所でのんびりショッピングなんてしてないですね。すでにホテ
ルで何かしらしているでしょう。一応高校生なので、遅くまで外を
ぶらつくのは流石に感心しませんからね﹂
一応って何だ、と思ったが、ホテルで何かしらの意味を理解して紗
弓は顔を赤らめる。
つまりそういうことか。﹁前の女﹂まではデートはそこそこに、さ
っさとラブホテルに行ってあれこれしている、という事なのか。
﹁⋮なによそれ、そんなので違うって言われても。⋮だいたいそう
いう事する仲じゃないし﹂
299
﹁そうですね。でもこれは僕にとってとても驚く事です。﹁そうい
う事﹂以外で、女の子に興味を持ったことなんてなかったですから﹂
﹁⋮え?じゃあ⋮鮮花さんは?﹂
﹁鮮花?彼女は⋮まぁ、何というか⋮女の子、とはまた別の感覚と
いいますか。あの人もまた特別かもしれませんが、紗弓とはまた違
うんですよね。どちらかというと仲間、同志?のようなものです﹂
彼は珈琲を一口飲んで、ソーサーに戻す。
紗弓もつられたようにラテを飲んで、彼の言葉を待つ。
﹁鮮花のことはまぁ置いといて⋮。とにかく、僕は紗弓と仲を深め
たいんです。⋮前もいいましたけどね。そういった異性への性欲を
抜きにして特定の異性と仲良くなりたい、なんて思ったのも初めて
で⋮。これも前までと全然違う所ですね﹂
紗弓は違うのだと、言われた。
今までと違うのだと。
それは、嬉しい。紗弓だって怜と仲良くなりたいのだ。
なのにどこかで、針がちくりと刺したような気がして、胸を押さえ
る。
わからない、もてあましている気持ち。だけど、それを抜きで考え
れば今とても嬉しいことを言われたのだ。
﹁⋮そっか。うん、私も佐久間と仲良くなりたいわ。⋮ごめんね。
ちゃんと言えばよかったのね﹂
﹁いいえ。早くこの話が終わってよかった。それに良かったです。
紗弓も僕と仲良くなりたかったって判って。嬉しいです。⋮さっき
は怒ってすみませんでした﹂
﹁ううん。⋮あの、ね。それも聞きたいんだけど⋮﹁前﹂までもそ
うやってすぐ怒ってたの?﹂
すると﹁そんなに僕は怒りっぽいでしょうか?﹂と怜は首をかしげ
る。
自覚がないのか、とラテを飲みながら思っていると、怜はふ、と笑
って珈琲を飲んだ。
300
﹁怒ったことなんてないですよ、一度も。怒る理由なかったですか
らね。⋮ということは、僕が怒りっぽいんじゃなくて、紗弓が僕を
怒らせるのが上手ってことなんですよ﹂
﹁それは何かすっごく嫌なんだけど!別に怒らせてるつもりはない
のに!﹂
心外だと怒り出すと、彼は﹁あはは﹂と笑い出す。
それを見て紗弓はほっとした。何だかんだといってやはり、怜の笑
顔は好きなのだ。
ギクシャクとしたつかの間は終わり、すっかり和やかさが戻って二
人はのんびりとお茶を飲む。
お互いを知るというのは、こうやって時々衝突しつつ、判っていく
ということなのかな、と紗弓は思った。
301
29.〆はセオリーに添って
カフェを出て、様々なショップを冷やかして歩く。
手は再び繋いでいた。
﹁恋人﹂じゃなくても手は繋ぐものなのだろうか?彼はやたらと繋
ぎたがる。
︵ま、いいか⋮。別に嫌じゃないし︶
もともとスキンシップの多い人だから、これが彼にとって普通なの
かもしれない。
帽子やストールを見た後、外国のお菓子や紅茶の茶葉を見ていく。
﹁外国のお菓子って、パッケージが派手よね⋮﹂
﹁お菓子そのものも結構色鮮やかですよね﹂
そうは言いつつも気になるものを買ってしまう。茶葉も、普段は紅
茶をお洒落に飲むことはないのだがハート型に固められた茶葉が可
愛くて1袋だけ買ってしまった。
﹁うーん、結構買っちゃったわね⋮ココ、可愛いのが多いから困る
わ﹂
見れば怜も何時の間に購入したのか紙袋を提げていて﹁目移りしま
すよね﹂と笑った。
﹁それにしても紗弓は可愛いものが好きなんですね。⋮そういえば、
紗弓の誕生日っていつなんでしょう?﹂
﹁私?⋮⋮﹂
思わず黙る。誕生日ネタはあまり言いたくないのだ。しかし答えな
いわけにもいかない。
怜が不思議そうに首をかしげる。
紗弓はそっぽを向いて、ぶっきらぼうに答えた。
﹁12月25日⋮よ﹂
﹁え?それはまた、何というか⋮非常に覚えやすい日ですね。⋮ク
リスマスですか﹂
302
﹁そうよっ!皆誕生日を聞くと笑うか、色々言ってくるの。それだ
とクリスマスプレゼントと誕生日プレゼントが一緒になるよね?と
か、世界で超有名なカミサマと同じ誕生日だとか⋮っ!だからあん
まり言いたくないのよ。どうせプレゼントもお祝いも一緒くただっ
たわよっ﹂
思わずベシッと怜の背中に八つ当たりをすると、彼は声を出して笑
った。
﹁成程。嫌になるほど言われてきたんですね﹂
﹁そういう事よ。だから24日に祝われることが多かったわ。だか
ら私本来の誕生日は何もないのよ。もうこの年だから気になんない
けど、小さい頃は嫌だったわ。どうしてイブ優先で、誕生日優先じ
ゃないの?って﹂
しかし紗弓が中学生くらいの頃、突然麗華は25日に祝い始めた。
なぜかというと、25日になるとイブ用のケーキが半額になる事に
気がついたからだ。
まったく嬉しくない理由である。
誕生日ケーキのはずなのに、チョコプレートにしっかり﹁メリーク
リスマス﹂と書かれている空しさは言葉にするのが難しい。
﹁それなら、今年はちゃんと25日に誕生日を祝いましょうね﹂
﹁う⋮別にそんなのしなくていいわよ。それより佐久間の誕生日は
いつなのよ﹂
﹁僕ですか?僕は3月3日です﹂
﹁3月3日!?ひなまつりじゃない!あははっ!!﹂
思わず笑ってしまう。こんないかにも男らしい男が女の子のお祭り
に誕生日だなんて。
怜はそんな紗弓を見て意地悪そうに眉を上げた。
﹁自分の誕生日は色々言われるのが嫌なのに、僕の誕生日は笑うん
ですか?酷いですね﹂
﹁あはっ⋮ごめんなさい。でもそんなの反応せざるを得ないじゃな
い。じゃあ誕生日はいつもひなちらしだったの?﹂
303
自分のクリスマスケーキのような屈辱を味わったのだろうか、とい
う軽い気持ちで聞くと、怜は薄い笑みを浮かべて﹁いいえ﹂と首を
振る。
﹁何もなかったですから﹂
﹁⋮え?何もって?﹂
﹁言葉通りですよ。あ、八雲に会ってからは彼が勝手に祝ってきま
すね。内緒ですけど生徒会室にケーキとか持ち込んで﹂
﹁ちょっと不要物!⋮っ⋮で、でもパパとか、ママには?﹂
﹁あー⋮しまった⋮﹂
明らかに怜は﹁喋りすぎた﹂という顔をした。紗弓が不安そうに怜
を見ると﹁うーん﹂と迷うように顎を撫でる。
﹁その、親はいないんです。ずっと昔に亡くなって。今は親戚の家
でお世話になっているんですよ﹂
﹁⋮⋮そうだったの﹂
そんな過去があったとは。紗弓の目が悲しい色に変わる。
怜は優しく紗弓の頭を撫でて﹁そういう顔はしないでください﹂と
笑った。
﹁もうずっと昔の話ですよ?それに、僕は誕生日をそこまで気にし
てませんから。ひなまつりっていうのも割と最近﹁そういえばそん
な日だったな﹂って気づいたくらいなんですよ?それに、中学くら
いから誕生日になると女の子が色々くれましたからね。だから寂し
いとかもあまりなかったです﹂
﹁⋮⋮あ、そう。そういえば佐久間はモテるんだったわね﹂
悲しそうな目が一気に胡乱な目に変わり、ジト目で彼を睨む。
怜はそんな彼女をくすくすと笑って見、倉庫街の出口から外へと出
る。
﹁そういう事です﹂
﹁ふーん。じゃあ別に、私は佐久間の誕生日、祝わなくても全然い
いわね。光国先輩からケーキで祝ってもらって、女の子から沢山プ
レゼントもらえば?﹂
304
﹁⋮祝ってくれるつもりだったんですか?僕の誕生日﹂
﹁それもいいな、って思ったけどやる気が無くなったからやらない
わ﹂
すると怜は足を止めて紗弓の手をぎゅっと握ってくる。
﹁祝ってくださいよ。紗弓に祝ってもらいたいです﹂
﹁イーヤ!佐久間はもらったプレゼントの数を一人で数えて悦に入
っていればいいのよ﹂
﹁そんな、酷いです。⋮ね、紗弓⋮﹂
怜は紗弓の肩を抱いて自分に軽く寄せる。ひぇっ!?と驚いている
と耳元でそっと囁くように甘えた声を出してきた。
﹁紗弓に祝われたいです。⋮ね?お願い﹂
﹁ふぎゃ!み、耳元で話さないで⋮っ!くすぐったいから!﹂
﹁うんって言わないと囁き続けます。紗弓、お願い、お願い﹂
ふぅっと息を耳へ吹きかけられた。びくっと肩が震え、背中がぞわ
ぞわする。
﹁⋮さーゆーみー?﹂
﹁ひゃわぁ!わかった、わかったわよっ!祝うから、祝うからやめ
てぇ!﹂
勢いで了承すると、怜はパッと体を離してにっこりと笑った。
﹁良かった。楽しみにしてますね?﹂
﹁貴方⋮その、それ、卑怯だわ⋮っ!﹂
﹁ふふ、慣れれば大丈夫ですよ。効かなくなりますって。それまで
は存分に利用させてもらいましょう。弱みにつけこむのは人付き合
いの基本ですから﹂
﹁悪党かっ!?﹂
ぎゃー!と紗弓が騒いで、怜が﹁ははは﹂と笑う。
空は大分と傾き始めていて夕暮れが近くなっていた。
﹁あまり遅くなってもいけませんからね。早めですけど夕飯にしま
しょうか﹂
305
﹁そうね。このあたりの店にするの?﹂
﹁いいえ、夕飯だけは予約してあるんです。一応これがメインみた
いなものですし?紗弓に美味しいもの奢るって約束しましたからね
?﹂
にっこりとそう言って、怜は紗弓の手を取りながら歩いていく。
どこに行くのだろうと思っていると、怜は﹁あ﹂と思い出したよう
に足を止めると紗弓の手を離し、いつの間にか購入していたらしい
紙袋からごそごそと中身を取り出してきた。
﹁これ、巻いてください。さすがにこの時間になると寒いですから
ね﹂
﹁え⋮これ⋮佐久間のじゃないの?﹂
﹁僕が使う為に買いましたけど、今は紗弓のほうが寒そうですから
⋮巻いてあげます﹂
怜が取り出したのは大判のストールだった。
それを紗弓の首と肩が隠れるようにしっかりと巻いてくれる。
﹁⋮⋮ありがとう。佐久間はその⋮優しいわね﹂
﹁優しい?ふふ、紗弓からそんな風に言われたのは初めてですね。
嬉しいです。⋮じゃあ行きましょう。この先はちょっと風がありま
すから気をつけて﹂
手を繋いで歩く。
冬が近づいて日が少し早く落ちるようになってきたから、夕方の時
間でも暗めに感じる。
そんな中を歩いていけば、やがて汽車道と呼ばれる鉄橋のような遊
歩道に出た。
﹁ここを通ります。そうしたら目的地まで近いので﹂
﹁へぇ⋮なんだかすごく綺麗なところね。海も綺麗だし、眺めがと
てもいいわ﹂
﹁ええ、夜になるともっと綺麗らしいんですけどね。それはまたい
ずれ、という事で﹂
本当に横浜はデートコースの為にあるような街だなぁと思った。そ
306
れは横浜の一部だろうが、お洒落で素敵なイメージがしっかり植え
つけられる。
東京のお台場という所も行ってみたいなと紗弓は思った。
しばらく歩くと、ものすごく高いタワーについた。
﹁⋮もしかして、ここ?﹂
﹁そうです。展望台もあるんですよ。ただ、ご飯は地下なんですけ
どね。後で展望台も行ってみましょう﹂
﹁うん。高いところ好きよ。ここなら夜景綺麗そうねぇ﹂
﹁ええ⋮本当は、素敵な夜景を見ながらディナー、なんて事も考え
たんですけれど⋮。さすがに高校生の身分で入れる雰囲気でも値段
でもないんですよね。ごめんなさい﹂
﹁そ、そういうつもりで言ったんじゃないのよ!あの、その、あん
まり高いところだとかえって困っちゃうし⋮﹂
慌てておたおた、ごにょごにょとそう言うと、怜はそんな紗弓の反
応を予想していたのか﹁わかっていますよ﹂と笑った。
まったく人が悪い。紗弓が慌てているのを楽しんでいるのだ。
﹁あれ?また口を尖らせて。⋮本当に怒ると可愛いですねぇ⋮。さ、
拗ねてないで行きましょう﹂
﹁拗ねてなーい!﹂
むきになる紗弓をまぁまぁと宥めながら、二人はレストランへと向
かった。
夕飯は、カフェのようなところでコース料理を頂いた。
聞いてみればこのコース料理は展望台の入場料とセットになってお
り、割とリーズナブルな値段で提供されているらしい。
コース料理なんて本当にいつぶりだろう。
一度麗華がフランス料理に連れて行ったことがあったり、親戚の結
婚式で食べたりした程度だ。
フォークやナイフの順番はこれでよかったかな?と思いながら食べ
307
たりしつつも、美味しい料理に舌鼓を打ち、会話は盛り上がる。
最後にデザートと珈琲を頂いて、紗弓は怜に頭を下げた。
﹁美味しかったわ。ありがとう﹂
﹁良かった。これで何とか面目は立ちましたね。ですがこれに懲り
ず、良かったらまたデートしてください。⋮それじゃ展望台、行き
ましょうか﹂
﹁うん﹂と頷いてレストランを後にし、エレベータに乗って展望台
へ行く。
﹁わぁ⋮!すごーい!﹂
﹁これは綺麗ですねぇ。僕も実はここに来るのは初めてなんですよ﹂
﹁そうなんだ?きらきら光って、本当に綺麗。あ、あれは観覧車?﹂
﹁みたいですね。近くに遊園地があるって言ったでしょう?そこじ
ゃないですか?﹂
なるほどー、等と言いながら紗弓は夢中になって夜景を見る。
夜景なんて、結局のところビル郡の照明だったり道路のライトだっ
たりするだけなのに、どうしてこんなに綺麗だと思えるのだろう。
きらきらと光る、光の洪水。うっとりと紗弓はそれを眺めた。
﹁これは本当、ロマンチックってこの事を言うんでしょうね﹂
﹁全くです。こんなところで告白でもしたら一気にモノにできそう
ですよね﹂
﹁⋮貴方はちょっとデリカシーがないと思うわ⋮﹂
ちょっとげんなりして夜景を眺める。
この男はあまりデリカシーがなく、あけすけとした物言いをする。
こんなのでも顔がよければあんなにモテるなんて詐欺みたいだな、
と紗弓はついつい思ってしまう。
﹁デリカシーがないなんて初めて言われましたね﹂
﹁マジで!?はぁ⋮皆、貴方に騙されてるのねぇ。ちょっとかわい
そうって思ってしまったわ﹂
﹁ふふ⋮それは思います。皆さん趣味が悪いですよね。僕が女なら
308
絶対僕には惚れないでしょう﹂
くすくすと笑って肯定する。
けなされた筈なのだが、妙に嬉しそうな雰囲気な怜に、紗弓は判ら
ない人ねぇ、と呟いた。
それでも今日は楽しかった。途中ちょっと仲たがいもしたけれど、
怜という人間がまた一つも二つも知れて嬉しいと思う。
紗弓は夜景を見終わって、改めて怜へと顔を向けた。
﹁⋮さっきも言ったけど、今日は本当にありがとう。すごく楽しか
ったわ﹂
﹁はい。⋮僕も楽しかったです。⋮ええ、⋮楽しかった⋮﹂
にっこりと怜は返してくるが、最後は少し含んだような、戸惑うよ
うな、不思議な口調でそう小さく呟く。思わず紗弓は首をかしげた。
﹁⋮どうしたの?﹂
﹁あ、いいえ。だから喜んで貰えてよかったです。でもそれなら、
次のデートの約束もして宜しいんでしょうか?﹂
﹁ふぇっ!?⋮あ、べ、別にいいわよ﹂
さらりと彼は次のデートを約束してくる。
じゃあ指きりしましょうね、といつかの海のように彼は言って、二
人はまた指きりをした。
﹁次は近場で遊びましょうか﹂
﹁それはいいかもしれないわ。カラオケとか、ボーリングとか行き
たい﹂
﹁ええ、僕もそれが行きたくて。じゃあ今度はいつもの繁華街にし
ましょうね﹂
今日のような少し背伸びしたデートも楽しかったけど、本来はそう
いったチープなもののほうが性に合うのだ。紗弓と怜はそんな風に
次のデートの計画を楽しく話しながら、帰路につく。
何時の間にか、日はすっかり落ちていた。
309
30.情欲+友愛。答えの在処
ああ、またこの夢だ。
怜は今の情景を夢だと自覚する。
濡れた音、はしたない嬌声、甘いおねだり、沈むベッドの音。全て
がありえない。
今日も怜は夢の中で紗弓を犯す。
あるべき自制心は夢の中では皆無で、彼は欲望のままに彼女の体を
弄繰り回す。
﹁あっ⋮んん⋮っ﹂
﹁ふふ⋮ここがイイの?﹂
紗弓は服を着ていた。あのデートで着ていた可愛いニットワンピー
ス。
あれを見た時、思わず想像してしまったのだ。
なんて手を入れやすい服。彼女の豊かな胸はしっかりとニット越し
に強調されていて。ぴったりとした服は彼女の裸を想像させる。
服を脱がさず肩口から手を入れて彼女の胸を探り、すぐにたどり着
いた胸をニットから取り出した。
何故かつけるべき下着がないあたりがさすが夢だと怜は思う。
つんつんと頂をつついてみれば、気持ちのよさそうな声をリズム良
く奏でてくれる。
ぎゅ、と乳房を掴む。びくりと紗弓の肩が揺れた。
﹁はぁ、はぁ⋮ん、怜⋮﹂
﹁なぁに?⋮紗弓のここ、すごくいやらしい。ずっと聞こえている
よ?くちゃくちゃって⋮﹂
﹁ああ、言わないで⋮っ!やぁ⋮ん﹂
もう片方の手はすでに秘所に触れていて、ニットワンピースの裾か
ら弄っている。
怜の膝の上で開脚し、膝を曲げたその姿は酷く征服欲を刺激し、嗜
310
虐心を煽る。
﹁恥ずかしい格好⋮こんな姿、誰かに見られたらどうする?﹂
﹁やっ⋮や⋮﹂
いやいやと首を振る。この格好が恥ずかしくて堪らないのだろう。
嬉しくなる。もっと恥ずかしがって欲しい。羞恥に赤らめる顔をも
っと見たい。
彼女の頂を再び抓ったり摘んだりしながら、彼女のナカに中指をつ
ぷりと挿れる。
とろとろに溶けるほど濡れたそこはあっさり彼の指を受け入れて、
紗弓の腰は嬉しそうに揺れる。
﹁んっ⋮﹂
﹁気持ちいいんだ?⋮そういう時は、気持ちいいってちゃんと言わ
なきゃ⋮教えたよな?﹂
﹁はぁ⋮んっ⋮うん、怜、きもちいい⋮もっとぉ⋮もっとして﹂
こんな台詞、紗弓は絶対言わない。
この夢の紗弓は怜の願望と、欲望。そして今まで抱いてきた女の反
応がそのまま反映されているだけ。
まるでよく出来たラブドールのよう。
どこかそんな虚しさを感じているのに、夢の自分はすっかり情事に
酔っている。
第三者のようにこの情景を眺めながら、夢の自分はすっかり夢中に
なっている。
早送りのように濡れ場が進む。まるでアダルト動画を流し見ている
ようだ。
そして全てが終わると、また巻き戻しされて、最初から再生される。
また初めから。
紗弓の服をじっくりと堪能して、肩口から手を入れてまさぐって⋮
胸を取り出して。
恥ずかしい格好をさせて秘所を弄り、十分に彼女と自分を焦らして
やって。
311
じっくり、ねっとりとした前戯。作業のようではなく、味わうよう
な挿送。
空しい。虚しい。
もう見たくないのに夢想は続く。⋮どうして?そんなに自分は女の
体に飢えているのか。
違う、わかってる。もう嫌でも判る。
自分はどうしようもなく﹁真城紗弓﹂が欲しいのだ。
⋮何時からこんなに、欲しくなっているんだろう⋮。
目を覚ました怜はふと、そんな事を思う。
デートの時、彼女の服装から淫らな想像をした時から?夏休みの民
宿で紗弓とキスをした時から?それとも紗弓の秘所を見たときから
?⋮それとも、最初、から?
考えないようにしても、意識しないようにしても、本能が追い求め
ているように彼女を欲していて。
自己嫌悪で落ち込んでしまう。
自分はやはり、あの男の血をしっかりと受け継いでいて、女とみれ
ば見境なくセックスをしたくなる男なのか。
﹁あの夢﹂を見た日はいつも、どういう顔をして紗弓に会えばいい
かわからない。
笑顔を持続する自信がない。
ため息をつきたくなる気持ちを抑えて笑顔で朝食を頂き、いつもの
ように家を出る。
普通でいないと。紗弓には疑念を沸かせたくない。
そんな風に考えながら登校したのに、その気持ちは昼に生徒会室に
来た響子の言葉で飛散する。
紗弓が風邪を引いて、学校を休んでいたのだ。
312
◆◇◆◇
﹁え⋮風邪ですか?﹂
﹁はい。それで、来れないってことお伝えしようと思って。⋮いつ
もここで食べてますから、お昼﹂
﹁それは⋮はい、知らせてくれたのはありがたいですけれど⋮。珍
しい、ですね。風邪なんて﹂
そうですね、と響子も同意し、怜に紗弓の症状を話し始めた。
紗弓は基本的に丈夫である。見た目が眼鏡できっちりした格好から
いかにも勉強ができる文学系に見えるが、実は体力系で勉強があま
り得意ではない。
元気と溢れるバイタリティーが売りのような彼女なので滅多に体調
を壊すことはなく、実際今日まで怜は学校を休んだり、体調が思わ
しくなかったりなどの彼女は見たことがなかった。
しかしそんな体力第一な彼女も、ここ最近の忙しさで目を回してし
まったらしい。
デートの後、すぐに来た体育祭。準備活動と当日の目まぐるしい忙
しさ、さらにイベント時になると緩みがちになる校則違反者の交代
見回り。そしてその後にやってきた中間テスト。体育祭までそれば
かりにかまけていたせいで、短い期間で何とかするしかなく、必死
に勉強してそれに臨んだ。
そしてテストが終わって数日後である今日、紗弓が疲労で風邪を引
いてしまったと⋮そういう事らしい。
﹁成程⋮。でも心配ですね。彼女の家は今誰もいないのでは?﹂
﹁はい、あ、よくご存知ですね。そうなんです。お母さんはお仕事
で⋮。だから私、学校帰りにちょっと寄ろうって⋮﹂
﹁⋮それ、僕も行っていいですか?﹂
﹁⋮⋮え?あ⋮、はい。大丈夫だと⋮思いますけど⋮。一応メール、
しておきますね﹂
313
少し戸惑ったようだがこくりと響子は頷いたので、怜はほっとした。
﹁すみません。よろしくお願いしますね﹂
そうした経緯で、二人は紗弓の家に見舞いに行くことになったので
ある。
◆◇◆◇
マンションのオートロックで番号を押すと、紗弓の声が聞こえてき
た。
﹁⋮はい﹂
﹁さゆちゃん?私だよ。響子﹂
﹁あ⋮今開けるわ﹂
カチャン、と音が鳴って自動ドアが開かれる。
二人はマンションのエントランスを抜け、エレベータに乗った。響
子が押すボタンは10階。
﹁随分と高い所なんですね﹂
﹁はい、20階建て、だったと思いますけど⋮あ、ここですよ﹂
足を止めた所。壁面を見ればプレートがあり、﹁真城﹂と書かれて
いる。
怜がやや後ろに立ち、響子がインターフォンを押す。
しばらくしてドアが開かれた。
﹁⋮いらっしゃい。ごめんね、わざわざ﹂
﹁いいのよ、風邪大丈夫?﹂
﹁ん⋮熱がまだあるんだ。⋮佐久間も、ごめんね?とりあえず上が
ってくれる?﹂
﹁はい、お邪魔しますね﹂
紗弓はパジャマ姿でのろのろとリビングへ歩いていく。髪は下ろさ
れていて、何故か髪までが元気がないように思えた。
﹁ふえー﹂
314
﹁ああ、さゆちゃんいいよ。お茶とか入れなくて!むしろ私が淹れ
るから、座ってて⋮っ!﹂
﹁あうー⋮ごめん⋮﹂
ふらふらと紗弓はキッチンから戻ってきて、怜がいるダイニングテ
ーブルの椅子に座る。
ぐったりとした紗弓の姿。ものすごく珍しいと思うと同時に、とて
も心配になった。
﹁紗弓、熱は何度ほどあるんですか?﹂
﹁んー⋮さんじゅうはち⋮⋮てん、ご⋮﹂
﹁⋮高熱じゃないですか。あ、これ駅前のフルーツパーラで買って
きたんです。桃ですよ﹂
ぐったりとした紗弓の肩がピクリと揺れる。どうやら食欲はあるら
しいのでほっとする。
﹁冷蔵庫、入れておきますね﹂
﹁うん⋮ありがとうね⋮気使わせちゃって⋮﹂
けほん、と咳をしながら礼を言う。
それを後ろで聞きながら怜は冷蔵庫を開けた。
麦茶とジュースのペットボトル、牛乳、おかしいくらいのビール缶。
冷蔵庫にはそれと、ケチャップやマヨネーズといった調味料しかな
かった。
︵もしかして⋮すごく料理しない⋮家?︶
自分が世話になっている家がいつも和食だからだろうか、このよう
な冷蔵庫の内容に少し驚いてしまう。
この様子だと食事などは大丈夫なのだろうか。
怜はテーブルに戻って早速紗弓に聞いてみる。
﹁あの、紗弓?今日ご飯はどうしたんですか?﹂
﹁んえ⋮?あ、びょーいん行った帰りにコンビニ行ったわよ⋮?﹂
ふらふらと指を指す方向はカウンター。そこにコンビニの袋が乗っ
かっている。
中を見ればレトルトの梅かゆが2パック。栄養ドリンクが5本。人
315
参ジュースのペットボトル。
﹁さ、紗弓⋮ちゃんと栄養を取らないと⋮﹂
﹁だから栄養ドリンク⋮それ、効くわよ?﹂
﹁いえ、野菜とか卵とか⋮そういうのは?﹂
﹁⋮人参ジュース、あるでしょ⋮?﹂
はぁっ、と怜がこめかみを抑える。見舞いに行くと言った響子の気
持ちが少し判った。彼女は⋮自分に対して大雑把すぎる。
﹁ちなみに昼ごはんはどうしたんですか?﹂
﹁⋮梅かゆ、半分⋮食べた﹂
﹁ああ⋮すみません蓮華さん。ちょっと、スーパー行ってきます。
駅前にありましたよね?﹂
﹁あ、はい。⋮こちらこそごめんなさい。もうちょっとあるかなっ
て思ったんですけど、やっぱり何もなかったので⋮助かります﹂
やはり普段からこういった食生活なのか。
響子も何か材料があれば作ろうと思っていたらしいが、冷蔵庫には
本当に何もないに等しいので困っていたのだろう。怜は彼女に紗弓
をお願いしてスーパーへ走っていった。
◆◇◆◇
﹁⋮意外です。佐久間先輩って料理ができるんですね﹂
﹁色々事情がありましてね。覚えざるを得なかったといいますか⋮。
必要に迫られて。といっても簡単なものしか作れませんけどね﹂
ねぎを刻む響子の隣で怜がしょうがを擦る。
くつくつと出汁が沸いたので醤油とみりん、少々の塩で味をつけて
味見をする。
﹁ん⋮こんなものかな﹂
そうして少量の水で溶いた片栗粉を入れて、とろみをつける。
﹁へぇ⋮片栗粉で餡みたいにするんですね﹂
﹁こうすると温まるんですよ。あ、ネギありがとうございますね﹂
316
茹でたうどんを鉢に入れ、とろりとした汁をかける。その上にねぎ、
擦ったしょうが、同じく摩り下ろした大根を汁ごとドサッと載せて
出来上がり。
﹁うわぁ⋮すっごく体によさそうです、これ﹂
﹁そうでしょう?僕は風邪を引いたとき、よくこれを作って食べて
いたんです。不思議と治りが早く感じたんですよね﹂
どこか懐かしそうに怜は言う。
⋮このおうどんのレシピ、誰から教わったの?
響子は思わずそう聞いてしまいそうになったが、それは自分の役割
ではないと思い直し、﹁それなら期待できそうですね﹂と頷いてか
らお茶の用意をし始めた。
﹁かっ⋮からーい⋮しょうがと大根で口がヒリヒリする⋮﹂
﹁それが効くんですよ。ちゃんとお汁まで飲んでくださいね?﹂
紗弓の部屋で小さなテーブルを囲み、二人に見守られながら紗弓は
うどんをすする。
﹁うう⋮美味しいけど、鼻水が止まらないわよ、これ﹂
﹁さゆちゃん、はいティッシュ﹂
響子に手渡されたティッシュで時々ちーん、と鼻を噛みながら、紗
弓はふぅふぅとうどんを食べる。
やはり食欲はあるらしい。良かった、と怜は紗弓を眺める。
﹁⋮はぁ、ごちそうさまでした⋮。美味しかったわ。喉がすごく熱
いけど﹂
﹁ええ、もうすぐしたら体もぽかぽかしてきますよ?﹂
﹁うん⋮もうぽかぽかしてる⋮﹂
﹁さゆちゃん、お腹いっぱいになったら眠くならない?ちょっと横
になったら?﹂
響子がそう言うと、おとなしく紗弓は頷いて、ベッドにもぞもぞと
入っていく。
﹁ほんと⋮ごめんね、二人とも﹂
317
﹁気にしないでください。それより、お休みになるなら僕達はもう
帰ったほうがいいですよね?﹂
﹁あ、ううん。できれば⋮本当申し訳ないんだけど、1時間くらい
したら起こしてほしいの。実は今日、いっぱい寝ちゃったから⋮今
もいっぱい寝ると、夜寝れなくなるのよ﹂
﹁ん、じゃあ1時間後に起こすね?﹂
﹁うん。あの⋮漫画とか、あるから⋮適当に、あと⋮テレビも⋮﹂
よろよろと指をあちこちに指していたが、やがてぱたりと手が落ち
る。
見ればすでに紗弓はすぅすぅと寝息を立てていた。
﹁⋮寝つきがいいんですね、紗弓は﹂
﹁本当ですね。でもそれくらいしんどいのかも?⋮あ、眼鏡、邪魔
ですね。はずしちゃいます﹂
かけっぱなしになっていた眼鏡を響子がゆっくりとはずす。
それを畳んでベッド横にある棚に置き、彼女は立ち上がった。
﹁佐久間先輩もゆっくりしててください。私は片付けと、桃、切っ
てきますね﹂
﹁いいえ、手伝いますよ?﹂
怜が立ち上がろうとするが、響子は﹁大丈夫ですよ﹂と彼を止める。
﹁紗弓ちゃん、見ていてあげてください。熱そうにしていたら冷え
ぴたとか、そこにありますので﹂
﹁ああ⋮そうですね。わかりました。ではお願いしますね﹂
にっこりと笑って響子を見送った。
彼女はふんわりとした笑みを返すと、食器を乗せた盆を持ってリビ
ングの方へ歩いていく。ぱたんと音が鳴ってドアが閉まった。
ふぅ、と息をついて紗弓を見る。彼女は規則正しい寝息を立ててい
るが、どこか苦しそうだ。
体が熱いのだろう。ぐしぐしと胸元を掻いて、寝苦しそうに寝返り
を打つ。
318
怜は響子が言った通りに冷却シートを取り出した。
⋮どこに貼ればいいんだろう?
自分が風邪を引いた時は食事以外殆ど寝ていた気がするので判らな
い。仕方が無いので携帯で検索を始めた。
どうやら額より、血液が沢山流れている場所を貼ればいいらしい。
﹁紗弓、ちょっと失礼しますね﹂
そう言って布団を少しめくり、足首と、手首にシートを貼り付けた。
あとは⋮首の裏が妥当か?そう考えてそっと紗弓の頭を持ち上げ、
首裏に貼る。
﹁こんな感じか?﹂
そこでさっさと手を離し、距離をとればよかった。
なのについ、腕の中にいる紗弓の顔を見てしまった。
眼鏡をはずした紗弓の顔。⋮初めて見る。
すっきりとした睫、気の強そうな眦。しかし眼鏡ひとつで紗弓の顔
は随分と柔らかく感じる。
今ならまだ間に合う。離れろ。
頭の中で警鐘が鳴り響いているのに体は全く言うことをきかなくて、
まじまじと紗弓の顔を、体を見てしまう。
眼鏡をはずした紗弓の寝顔、熱があるせいで上気し、汗ばんだカラ
ダ。寝崩れたパジャマ。
まるでその姿は︱︱。
思わず頭を振る。⋮けれどその行動は全く意味がなくて。
唇が近づく。
どうして?自分は何をしている?⋮何をしようとしている?
わかっているのに、わからない。
近づく、近づく。
やがて、怜はそっと紗弓の唇に口付けた。
⋮何かが満たされる。あの夏と同じ、どうしようもない飢餓感と満
足感。
319
心臓が飛び出るかと思うくらい胸が高鳴っている。
こんなの、キスなんて、飽きるほどしてきたのに。どうしてこんな
に興奮する?まるで初めてキスしたみたいに、新鮮な気持ちになる?
その時、ふっと紗弓の目が薄く開いた。
ビクリとして怜は唇を放し、至近距離のまま固まる。
⋮しまった。気づかれた⋮?
しかし紗弓の目はとろんとしていてまどろんでいる。
うろうろと彷徨う、紗弓の目線。
︵⋮寝ぼけてる?︶
そのままの体勢で紗弓を観察していると、彼女の目が、怜の目と視
線が交わった。
初めて見る。眼鏡越しではない紗弓の瞳。
切れ長で、少しつり目なその瞳は子犬のように真っ黒できらきらと
している。
眼鏡一つで⋮こんなに、こんなに違う。ずっと眺めていたいほど可
愛くて、愛らしい紗弓の顔。
紗弓はしばらく怜の顔をぼうっと見た後、すっと目を閉じた。
またくぅくぅと寝始める。
本来ならば、ここでほっと胸を撫で下ろす所だろう。
しかし怜はそれどころではなかった。
紗弓の頭を抱えたまま、もう片方の手で自分の顔を覆う。
︱︱⋮好きになったらどんな風に思い、感じるのでしょうか︱︱
︱︱ま、ママは、こう⋮ビビッと来た、って言ってたわよ?︱︱
まさにそれだ。ビビッときた。脳に衝撃が走って、雷に打たれたよ
う。
320
全て理解した。理解してしまった。
紗弓と仲良くなりたいと思った、近しい仲になりたいと思った事。
同時に彼女のカラダに欲情し、淫らな夢を見るほど紗弓を欲しいと
思った事。
その二つは別の感情と思っていたのが間違いだった。友情と情欲は
別じゃなかった。
それは一つの感情から成り立つもので、プラスにするべきものだっ
たのだ。
﹁⋮馬鹿すぎる﹂
八雲や鮮花に散々鈍いだの難儀な性格だの言われていた意味もよう
やく理解する。
そうだこれは、きっとはじめのはじめ、紗弓に初めて会ったあの日
からきっとそうだったのだ。
からかえばすぐに怒る顔が可愛いと思った。真面目で何でも一生懸
命。損だろうと思うくらいのお人良し。食べ物に弱くて、素直じゃ
なくて照れ屋で。紗弓を知れば知るほど魅力を感じた。
もっとそばで見たいと思った。紗弓が男と近づけば嫉妬して、紗弓
を危機に追い込もうとする女や、不埒な企みをする男に計り知れな
い怒りを感じた。
彼女と肌を重ねる夢に虚しさと寂しさを覚えた。
紗弓の笑顔、照れつつも嬉しそうな顔に、たとえようもない喜びを
知った。
怜の持つ全ての感情は彼女の言動ひとつでころころと形を変えて、
自分の中で紗弓は心の中心なのだと自覚する。
﹁俺は⋮紗弓のことが、好きなのか⋮﹂
321
言葉にすれば、すとんと心に落ちて、すっきりと理解した。
自分の紗弓に対する気持ちの全てをその一言が納得させる。
怜はその時初めて、恋というものを知った。
◆◇◆◇
﹁紗弓、紗弓、1時間たちましたよ﹂
﹁さゆちゃーん。起きて!﹂
﹁ん⋮⋮ふぇ⋮﹂
ゆさゆさと響子に揺らされて紗弓の目がとろりと開く。
﹁どう?ちょっとは楽になった?﹂
﹁んー⋮﹂
響子の言葉に紗弓はまどろんだ頭を軽く振る。
すると少し頭が働き始めたので、ゆっくりと起き上がった。
﹁⋮大丈夫。まだ頭はぼーっとするけど、少し寝たらさっきより体
は楽になったわ﹂
﹁よかったぁ。あのね、さゆちゃんが寝てる間に卵かゆ作ったの。
夜ご飯はそれ食べてね?桃も切ってあるから、それも良かったら食
べて﹂
﹁うわぁ⋮至れり尽くせりね。ありがとう、響ちゃん﹂
ふふっと響子は笑って、起き上がった紗弓にカーディガンをかけた。
それに礼を言いながら紗弓は顔を上げて怜を見る。
﹁佐久間もありがとう。おうどん美味しかったわ。喉はヒリヒリし
たけどすっごく効きそうな感じだったもの。とろとろしたお汁も温
まったし﹂
﹁お口に合ったようで良かったです。夜ご飯を食べたらちゃんと薬
を飲んで、汗を拭いてからパジャマを着替えて、暖かくして寝るん
ですよ?﹂
﹁うう⋮おばあちゃんみたいな事を⋮わかってるわよ﹂
322
﹁そこで﹁お母さん﹂ではなく﹁おばあちゃん﹂と言うあたりが麗
華さんを物語ってますよね?ふふ。⋮それでは蓮華さん、行きまし
ょうか。さすがにもう遅いですから送りますよ﹂
ありがとうございます、と礼を言う響子に軽く笑って怜は立ち上が
る。
紗弓も二人を見送るためによろりと立ち、部屋の外へと歩き出した。
﹁じゃあ二人とも、今日は本当にありがとう。助かったわ﹂
﹁ううん?はやく元気になるといいね。お大事に﹂
﹁そうですね。風邪の紗弓はおとなしくて珍しいですけど、やっぱ
り元気に怒り回ってるほうがずっといいですよ。早く治してくださ
いね﹂
﹁⋮ど、どういうことよ、元気に怒り回ってるって。そんな怒って
るつもりないわよ。っていうか佐久間が怒らせるんでしょ!﹂
ムカッとして紗弓が口を尖らせると、怜は嬉しそうにあはは、と笑
う。
﹁そう、そんな感じです。ふふ、少しは調子でてきましたか?⋮紗
弓﹂
いきなり優しく微笑みかけられて、紗弓はどきりと胸が鳴った。
なんて笑顔をするのだ。艶があって綺麗で、甘い砂糖菓子みたいな
笑顔。
そっと怜が紗弓の頭を撫でる。慈しむように、大切な壊れ物を扱う
ように。
﹁お大事に。次は学校で会えるといいですね?⋮それではおやすみ
なさい﹂
﹁う⋮ん⋮。おやすみ⋮なさい﹂
ぼうっとしながら響子と怜を見送る。
玄関ドアを閉めて鍵をかけた所でハッと我に返った。
﹁み、見蕩れてた、私⋮。びっくりした⋮!だって、あんな顔⋮﹂
今までの彼も十分見蕩れるに値する綺麗な笑顔だ。だけど何か違う。
323
﹁なんだろ⋮?はぁ⋮熱がまた上がってきたのかな﹂
それは由々しい事態だ。2日連続休むなんて事は絶対に避けたい。
紗弓はキッチンで栄養ドリンクを一気飲みした後、夕飯の時間まで
ベッドで横になる。
何故かずっと、怜の優しい笑顔が頭から離れなかった。
324
31.真城紗弓捕獲大作戦
﹁いいか?これはウチだけじゃない⋮皆の利益がかかっている。重
大なミッションなんだ﹂
﹁だけどさぁ、さすがに聞いてくれるのかな。真城、先週倒れただ
ろ?風邪で﹂
﹁もうピンピンしてるだろ!とにかくっ⋮あの子は何としても捕獲
して、協力してもらわねーと⋮。今や真城が、我が1年全ての命運
を手にしているも同然なんだっ!﹂
暗がりの教室で一人の女子が拳を握る︱︱。
密かに真城紗弓捕獲大作戦が発動した。
◆◇◆◇
その日、紗弓は全速力で廊下を走っていた。
風紀委員だから廊下は絶対走らない。そんな鋼の誓いを立てていた
にも関わらず、後ろから追いかけてくる男子生徒の足から逃げる為
には破らざるを得なかった。
﹁くぅ⋮っ!こんな事で廊下を走る羽目になるなんて⋮!でも絶対
聞くわけにはいかないのよ!﹂
廊下の角を掴むと、遠心力を使ってぐるん!と回る。そして階段手
すりに太ももを乗せて滑り降りた。
﹁下行ったぞ!草薙、くさなぎー!﹂
﹁草薙!?首謀者はあいつか⋮っ!﹂
恐らく階下で待ち構えているに違いない。紗弓は階段手すりを滑り
降り、踊り場に出た後階段を走って降りる。案の定、階段下には草
薙という女子生徒が待ち構えていた。
﹁真城ぃ!逃がさねーよっ!﹂
325
﹁逃げるわよっ!たぁーっ!﹂
残り5段、という所で紗弓は思い切りジャンプをする。草薙をよけ
るように階段端へタン、と足をつくと、そのまま渡り廊下へ向かっ
て走り出した。
しかし︱︱。
﹁フッ!かかったなぁ!﹂
﹁ひぇわぁー!?﹂
渡り廊下方面に角を曲がると目の前には壁があった。実際には壁で
はない。体操マットだ。
見事にばふっと音を立て、紗弓はマットに激突する。
女子生徒がマットを横に立てて待ち構えていたのだ。紗弓はみごと
にマットで簀巻きにされる。
﹁ふっふっふっ、いーい眺めだなぁ?真城ぃー﹂
﹁くぅっ⋮こんな辱めを受けるくらいならいっそ殺すがいいわっ﹂
﹁くくく⋮シヌ覚悟があるのなら、おとなしく要求を呑んでもらお
うか⋮﹂
完全悪役に酔っている草薙に、簀巻きされたまま悔しげな顔で睨み
上げる紗弓。
押さえつける微妙な表情の女子生徒2名と、上からやってきた楽し
げな表情の男子生徒2名。
そして何だ何だと面白そうに眺めては歩いていく生徒達。
ばん!と仁王立ちになって腰に手を当てた草薙が真城に要求を言い
放つ。
﹁真城!文化祭の実行委員に任命︱︱﹂
﹁やーーだーーー!もう実行委員はしないいいーー!!﹂
最後まで言わさず、紗弓が簀巻きの中からバタバタと足をばたつか
せる。
﹁聞けよ!我々にはお前の力が必要不可欠なんだ!そのフットワー
クの軽さ、仕事の速さ、的確な指示、真城ほど使える生徒はいねえ
!﹂
326
﹁おだてたって絶対引き受けないわよ!?体育祭のあの過労死しそ
うな忙しさ、もう耐えられないわ。皆勤賞狙ってたのに風邪引いて
休むはめにもなったのよ!どうしてくれんのよっ!﹂
﹁大丈夫だ!前回は体育祭の次、すぐ中間来たから真城の脳がショ
ートしちまったけど、今回は期末まで時間があるし、大丈夫!﹂
﹁脳がショートってどういう意味よっ!?違うわよ、私には風紀委
員の仕事もあるの。文化祭なんて他校の生徒や部外者だって体育祭
よりずっと沢山くるのよ。見回りとか対応とかもうすっごい忙しい
って言われてるの。だから実行委員なんてやってる暇はないのよっ
!﹂
つまりそういう事なのだ。紗弓は行動力という一点においてものす
ごく有能な女なのである。
だが紗弓とて意地悪で断っているわけではない。本当に文化祭にお
いて風紀委員は、一年という年間を通して一番忙しい。あの園田稔
にも﹁文化祭の多忙さは狂うかも?あはは﹂と言われてしまった程
なのだ。
いくら期末までが長くても、クラスの出し物に風紀委員の二束のわ
らじで精一杯なのである。ここから更に実行委員のかけもちなんて
それこそ過労死してしまう。
しかし草薙はそんな紗弓の事情などを鼻で笑って吹き飛ばす。
﹁アンタが過労死しようが、のたれ死にしよーが関係ないのだよ⋮
キサマにはもう我々に従うしか道はないのだ⋮まぁ、あたしも鬼で
はない。当日は風紀委員の仕事もあるだろうし免除してやろう。し
かーし!文化祭前日までは馬車馬のごとく働いてもらーう!﹂
﹁何て非道なー!?﹂
﹁てういかまじお願い。本当いっぱいいっぱいなんだ。去年と違っ
て今年は生徒会が動いたからね⋮でもそのおかげで一年は一気にお
祭りモード。クラス同士の打ち合わせも去年の倍以上。生徒は浮か
れて全然まとまらねぇ!﹂
うがぁ!と草薙が吼える。
327
見れば他のクラス委員達も疲れたようにうんうんと頷きあう。
じつはこの高校にはずっと﹁悪しき風習﹂と呼ばれるものがいくつ
かあって、その一つが文化祭だった。
どういう理由かわからないが、ずっと文化祭においての1年生は、
環境問題をテーマにしたパネルの展示とか、そういった勉学に関す
るテーマに何かを提出するようなお堅い形でしか参加できなかった。
しかしずっと要望が出ていたけれど動かなかった生徒会が、光国の
代になってやっと動いたのである。
生徒全員が同じテーマで参加することこそが団結と協調を強める力
となるのではないか。などともっともらしい理由をレポートにして、
更に1年の嘆願書を添えて学校に訴えたのだ。
そうして学校側はそれを受け入れ、今年から1年もお祭りのような
催しを企画、参加できる立場になり、皆が沸き立っているのである。
﹁そういうわけで⋮我々に必要なのは強力なパイプ役。紗弓のその
フットワークの軽さを生かして、我々の連絡係をしてもらう!んじ
ゃそゆことで、よろしく!﹂
﹁は⋮え?ちょっ!まだ了承してなっ!﹂
簀巻きにしたまま、クラス委員が口々に﹁よろしくね真城さん!﹂
と言って去っていく。
残された紗弓はよろよろと体操マットから這い出て、呟いた。
﹁⋮⋮え、まじで、決定なの⋮?﹂
通りかかった生徒達が皆、同情の目で紗弓を眺めていた。
◆◇◆◇
﹁⋮それは本当に大変ですね。一番走り回る仕事じゃないですか。
体だけは気をつけて下さいね?﹂
﹁うん⋮ありがと。佐久間も、ていうか皆も大変そうよね。お疲れ
様﹂
放課後の生徒会室は今、怒涛の多忙に見舞われていた。
328
生徒からの嘆願書をひたすら読み、カリカリとペンを走らせる八雲、
電卓を高速で打ち続ける鮮花、クラス委員の会議を議事録にまとめ
る護。
﹁僕は八雲の仕事待ちですから、そんなに大変じゃありません﹂
にっこりと微笑む怜に、八雲が怨嗟の声をあげてくる。
﹁お前なぁ、まとめて渡すなよ、まとめて!﹂
﹁誤解です。それは今日の分ですよ?ちゃんとチェックを入れてあ
るんですから、貴方は必要かそうでないか判断するだけという簡単
な仕事じゃありませんか﹂
﹁これ全部今日の分なの!?⋮どんだけ嘆願きてんだよー!ってい
うか殆ど文化祭予算の話ばっかりじゃないか、却下却下きゃーっか
!﹂
﹁中には違うのもありますから、ちゃんと見てくださいよ?﹂
涼しい怜の言葉にぐっとした顔をして八雲がまた書類に沈む。
ソファでお茶を飲んでいた紗弓は、申し訳なさそうに怜を見た。
﹁あの、忙しいなら私帰るわよ?近いんだし⋮﹂
﹁すみません、紗弓。八雲の仕事が遅くて⋮。僕は全然かまわない
んですけどね、紗弓が待っててくれたほうが嬉しいですけど、忙し
いなら⋮﹂
﹁俺のせいなの!?﹂
﹁べ、別に忙しくないけど⋮っ!皆が忙しそうなのに、私だけお茶
飲んでるのが⋮﹂
流されたー!とさめざめ泣く八雲をうっとうしそうに護が見つつ、
トントンと書類を整えた。
﹁会長は口より手を動かしてね。はい、議事録できたよー。んー!
僕の仕事、終わり!﹂
ぐい、と伸びをして護が八雲の机に積んである書類の山に議事録を
追加し、ソファへやってくる。
音を立てて座ると﹁僕も暖かいお茶飲もーっと﹂と言って、ポット
から急須へお湯を入れる。
329
﹁そういえば紗弓ちゃんのクラス、盛り上がってるねぇ﹂
﹁ん⋮草薙が張り切ってるからね。あいつは実家が商売しているら
しくて⋮学年1位の売り上げをはじきだしてみせるって燃えてるの﹂
﹁なにそれ、関西人みたい﹂
くすくすと偏見たっぷりの意見を言って護はお茶を飲む。
紗弓も同じように一口お茶を飲んで﹁お金に煩い所はそうかもね﹂
と同じく偏見的な同意をした。
﹁でも多賀くんの所も、皆頑張ってるじゃない。お化け屋敷なんで
しょ?﹂
﹁そうそう。ホンモノが寄ってきそうなくらい怖いお化け屋敷を目
指してるんだよ﹂
あはは、と話が盛り上がる。
パイプ役は忙しいけれど、確かにこんな1年で一番楽しいイベント
にお堅い勉学のテーマ掲示を黙々と作成するよりはずっと楽しい。
紗弓の隣で八雲から再び回ってきた書類を眺めつつ、怜が紗弓に聞
いてくる。
﹁紗弓のクラスは何をするんですか?﹂
﹁うちは⋮その、喫茶店⋮よ﹂
﹁へぇ?喫茶店。それは人気ある出し物の一つですね。3年にも喫
茶店が2クラス、2年も2クラス。競争率が高そうですねぇ。一年
も確か2クラス喫茶店でしょう?﹂
﹁そうなの、草薙があえて王道で1位を狙うって言ってたわ⋮﹂
少しげんなりした顔で紗弓が言う。
何かあるのか?と怜が護を見るが、彼はくふふと意味ありげな笑み
を浮かべてお茶を飲む。
﹁当日見に行けばいいじゃない。一目瞭然だよ﹂
﹁なんですかそれは⋮﹂
﹁それよりっ!佐久間のクラスは何するのよ﹂
﹁僕の所は、いわゆる縁日スタイルを取った一つのお祭りをクラス
内で催す予定です。輪投げとかお菓子の掴み取りとか射的とか⋮わ
330
たあめや、駄菓子屋もありましたね﹂
それは楽しそうだと紗弓と護が騒ぎ出す。いわゆる昭和テイストを
重視したデザインにするらしい。某有名な懐古的映画の世界を目指
しているのだとか。
﹁本当は女装男装カフェ、というのも出ていたのですが、先に喫茶
店枠が取られてしまいましてね。僕としては助かりました﹂
﹁⋮ということは佐久間が女装?あははっ!それは残念ね。顔がい
いから女装も似合いそうなのに﹂
﹁体格が酷いですよ。笑いものになるのがオチです﹂
まぁ、流れた企画だから言える話なんですけどね、と怜は困ったよ
うに笑って再び書類に目を通し始めた。
﹁はぁ∼やっと私も終わったわ。護、お茶用意して∼﹂
ぐったりとした鮮花がやっと電卓のにらめっこから顔を上げて、指
で頭を指圧する。
﹁お疲れ様。鮮花さん﹂
﹁ありがとー。体育祭もだけど、文化祭はもっと大変ね。生徒に自
治権をある程度くれるのは助かるけど、予算関係まで計算しなきゃ
いけないのは大変だわ。特に部活動系が面倒ね﹂
まとめた書類を護と同じように八雲の机に追加して、鮮花もソファ
へ座る。
﹁あれ、書類増えてるよー!?﹂
﹁確認してハンコ押すだけの簡単な作業が増えただけよ﹂
﹁その確認してハンコ押すのに時間がかかるんだよ!どうして俺だ
け、皆ひどい!﹂
﹁それはアンタが生徒会長だからです。1年に1回くらいまともに
仕事なさい。あ、お茶ありがとう﹂
ソファで高く足を組み、鮮花がお茶を飲む。
はーおいし、と一息ついたあと、紗弓にニコリと笑った。
﹁紗弓ちゃんトコの喫茶店、女子の手作りなんでしょ?楽しみだわ
ぁ﹂
331
﹁おかげで前々日から女子全員調理室に缶詰予定ですよ。風紀委員
の打ち合わせもあるし⋮そのあたりは私、目が死んでそうです⋮﹂
﹁あははっ!今度は目を回さないようにね?ちなみに私の所は演劇
よ。体育館でやるからよかったら見にきてね?﹂
﹁へぇ∼!ぜひ見に行きます。そういえば軽音楽部のバンドとか、
吹奏楽部の演奏とか、色々他にもありますよね。本当、当日が楽し
みです。どこから回ろうかしら⋮ていうか、回る時間あるのかしら
⋮﹂
楽しそうに思いを馳せてからげんなりとする。
当日は実行委員の仕事をしなくていいらしいが、風紀委員の仕事が
ある。シフト制にするらしいが鮮花のクラスの出し物には間に合う
だろうか。
﹁紗弓は真面目ですからちょっと仕事を抜けて観劇、とはいかない
でしょうね。丁度見回りと重ならない事を祈ってます。時間ができ
たら一緒に回りましょうね﹂
書類をチェックし終えた怜がトントンと片付け、クリップで留めな
がらそう誘う。
本当は響子と回ろうかと思っていたが、せっかく誘ってくれたのな
ら怜とも回ってみようと紗弓はうんと頷いた。
﹁さて、この分だと八雲の仕事は明日まで伸びそうですね。先に帰
りましょうか﹂
書類を所定の場所に片付けた怜が無情にもそう言って帰り支度をす
る。
紗弓も立ち上がってコートを着ていると、八雲がうなるように非難
してきた。
﹁俺に仕事を押し付けて帰る気なの⋮!?﹂
﹁押し付けてるとは心外な。僕は自分の仕事をやり終えて八雲にお
渡ししましたが、八雲の仕事があまりに遅い為に帰らざるを得ない
のです。サービス残業までさせておいて非難とは、八雲も人が悪い
ですねぇ﹂
332
﹁遅いんじゃなくて怜の仕事が速すぎなの!君らも!﹂
﹁僕は普通だって。んじゃ僕も帰ろうかなー﹂
﹁私も。残業代もらえるわけじゃないし、もう私仕事ないしぃ﹂
非情!鬼!アクマ!と叫ぶ八雲を無視して全員がコートを着て帰り
支度をさっさと始める。見事に役人根性の役員達だった。
﹁いいもん、響子ちゃん呼んでお茶入れてもらうもん⋮﹂
﹁あれ?響ちゃんが木曜当番ってよく知ってますね﹂
怜に促されつつも紗弓が振り返って不思議そうに八雲を見る。彼は
ぎくりとした雰囲気で肩を揺らせたが、すぐに笑顔になり﹁たまた
ま見たことがあって﹂と手を振って見送った。
響子は放送部で、木曜の当番である。放課後を告げる放送や音楽を
流し、また必要なら呼び出しの放送なども行うためにしばらく放送
部室で待機しているのだが、それを知る人は少ない。
なぜならいつも部室の奥、一番見えづらい所で静かに勉強しながら
待機しているからだ。
放送を聴いて﹁ああ、誰かいたのか﹂と思う程彼女の存在はあまり
知られていない。
そんな響子の当番日を八雲が知っていることに紗弓は少し奇妙さを
感じたが、怜が優しく肩を抱いて外へ連れ出すので、あまり深く考
えず生徒会室を後にした。
333
32.文化祭!紗弓、いじられまくる
文化祭は11月前半、土日の二日間に渡って行われる。
土曜日の早朝、制服姿で風紀委員全員が職員室に集まる。その中に
は勿論紗弓も入っていた。
﹁それでは各自、自分の見回り担当時間を把握して、何かあれば必
ず連絡を取り合うこと。特に他校の生徒、部外者には要注意。⋮1
年は特に注意してね﹂
会長の園田稔が全員に向かって注意を促す。特に1年と念を押され
たので1年の風紀委員は皆顔を見合わせた。
﹁トラブルが起きやすいんだ。一番下級生だから舐めて見られるし、
向こうから言いがかりを言ってくることもあるんだよ。あと女子は
ナンパも多いからね。だから必ず携帯で連絡をすること﹂
﹁そうなんだ、怖いね⋮﹂
﹁あの、園田先輩、他校の生徒や部外者は注意できないんですか?﹂
﹁目に余る場合は声をかけて。それでも駄目そうならやっぱり連絡
してね。先生から言ってもらわなきゃ駄目な時もあるから。あんま
りにもガラが悪そうな人達なら声かけないでも連絡だけしてくれれ
ばいいよ。タバコ、飲酒、しつこいナンパあたりが悪質だね﹂
2年からは一年前の経験があるのかウンウンと頷くが、1年は不安
そうな顔をぬぐえない。
﹁そんなにナンパとか、しつこいんですか?私ナンパなんてされた
ことないんですけど⋮﹂
﹁風紀委員って自分から声かけないといけないでしょ?注意とかで。
それを利用して逆にね。そういうのが悪質なの。ま、脅しちゃった
けど本当、一人で解決しないようにすればいいだけだから﹂
優しく稔が言って、やっと1年の女子生徒がほっとしたように﹁は
い﹂と頷く。
﹁ナンパは女子だけじゃないよ?男子にも来るから。こっちは逆に
334
ナンパに乗らない事。風紀委員としての自覚をしっかり持ってね﹂
﹁まじか⋮っ!逆ナンなんて俺初めてされちゃうのかな。うう⋮で
も、了解っすー﹂
﹁逆ナンパなんてしてくるのはだいたい遊んでる子ばっかりだよ。
ろくな目には合わないから。ま、普通に出会いとして女の子と仲良
くなるのは悪いことじゃないから程ほどにね﹂
ふふ、と笑って稔が話をまとめる。
そうして全員がシフトを確認して解散した。
紗弓も自分の見回り時間を軽くメモしてポケットに入れ、早速1年
教室へ急いで歩く。
もう準備は行われているだろう。自分も用意しなければ。
︵用意⋮⋮︶
嫌なことを思い出したように紗弓の眉がしかめられた。
◆◇◆◇
ぽん、ぽん、と空砲が聞こえ、吹奏楽部が演奏を始めた。
やがて校長が挨拶をし、生徒会長の光国八雲がそれに続いて挨拶を
する。
運動場に集まった生徒全員が拍手をして文化祭が開催された。
﹁3番、ケーキセット、5番、紅茶セット注文でーす﹂
﹁1番、ミニオムライスセットですー﹂
次々に注文がきて、奥まった簡易厨房は混乱の渦の最中だ。
紗弓もそれを手伝いながら、自分も給仕をする。
思ったよりも客の足は好調だ。やはり草薙には商才があるのだろう
か?この分だと他校の生徒や部外者が来る30分後はもっと忙しく
なるかもしれない。
そんな風にばたばたと働いていると、廊下できゃあきゃあと黄色い
声が聞こえてきた。
335
﹁あの黄色い声はまさか⋮﹂
紗弓が不穏な顔をしていると、思った通りひょこっと怜が現れる。
その瞬間に紗弓はパッと厨房へ逃げ隠れた。
﹁何逃げてるんだ、真城﹂
執事の格好をした草薙が半眼で紗弓を見下ろす。紗弓はしゃがみな
がらしーっと指を唇に当てた。
そっと外をうかがってみるとやはり怜で、隣には鮮花、さらに八雲
がいた。それは皆騒ぐしはしゃぐだろう。
何せ学校で1、2を争うアイドルと、マドンナがいるのだ。
しかし紗弓は黄色い声を出すわけでもはしゃぐわけでもない。どう
ぞごらんになってさっさと帰れ!とまで思っていた。
しかし女の子に囲まれていた怜がにっこりと笑って﹁紗弓はどこで
すか?﹂などと聞いてくる。
﹁ほら、呼ばれてるぞ。現在最長継続日数更新中、佐久間怜のお気
に入り中のお気に入り、真城紗弓﹂
﹁そういう言い方やめてよっ!?もう、昨日まで私すっごい頑張っ
たでしょ?ここは免じて、私を裏方にしておいてよ﹂
﹁何だかなぁ、面白いけど。あの佐久間怜にそういう態度とるの、
学校で真城だけじゃね?﹂
﹁うるさいなぁ⋮色々あんのよ﹂
とにかく今の格好は恥ずかしくて見せれたものではないのだ。
怜達はそのままクラスに入って行き、テーブルにつく。かわるがわ
るメニューを見せては薦め出す女子達ににっこりと笑みを浮かべて、
何かを話している。
鮮花には勇気を振り絞った猛者が声をかけて、懸命にメニューの説
明をしはじめたり、八雲には怜と同じように女の子が人垣になって
いた。
怜から何かを言われた女子生徒が厨房に戻っていく。
﹁どしたの?注文言われた?﹂
﹁あの⋮真城ちゃん出してくれたら、このクラスの宣伝をしてもい
336
いですよって⋮﹂
ぴかーん、と草薙の目が光った。
怜の人脈は八雲並である。そんな彼があちこちでこのクラスの喫茶
店がよかったと言ってくれれば客足はもっと増え、売り上げも上が
る。
﹁さーくーまー!なんて卑怯なまねを!草薙落ち着いて!どうせあ
いつの宣伝先は女の子よ。この喫茶店のメインは女子でしょ!?⋮
まぁ、男子もああいう格好してるものの⋮っ﹂
﹁あの、他校の生徒で知り合いがいるから、その男子生徒達に宣伝
するって⋮﹂
﹁他校の生徒への宣伝だとっ!?﹂
﹁待って、やだ、草薙、私を捨てないで!?﹂
ふるふる、と草薙の拳が揺れる。彼女の中で完全に天秤が傾いた。
﹁真城砲発射用意⋮セイフティーロック、解除。ターゲットスコー
プ、オープン⋮﹂
﹁何ぶつぶつ言ってんの!?﹂
﹁最終セイフティー、解除⋮っ!真城砲、発射ー!行って媚びてこ
ぉぉぉーーい!!﹂
﹁やっぱりぃぃぃー!?この裏切り者ぉーー!﹂
ゲシッと背中を蹴られて紗弓がポイ、と厨房から放たれる。
べしょっとこけて、よろりと起き上がる。
目の前には、少し驚いたような顔をする怜が椅子に座っていた。
﹁な、なによ⋮フン、いらっしゃいませ!﹂
腕を組んでそっぽを向く。
﹁きゃあああ!さゆちゃん可愛いーー!なにそれなにそれー!﹂
﹁よりによって、犬耳に犬しっぽなんだ。なんて調和した格好⋮﹂
﹁はぁ⋮これは⋮いいですね﹂
紗弓はミニスカートのような黒いペチコートに、白いエプロンを着
ているメイド姿だった。
しかも犬耳に、犬のような丸まった尻尾をつけている。
337
つまり、紗弓のクラスはコスプレ喫茶。他にもチャイナやナース服、
婦人警官、紗弓は知らないがアニメのコスプレまでいる。男子も執
事のような格好や、警察官、スーツ、戦隊ものやアニメキャラクタ
ーなど実に様々な格好だ。
そして紗弓はその中でメイドのコスプレなのである。しかも獣耳つ
き。
﹁眼鏡にポニテ、さらにミニスカ犬耳メイドなんて⋮っ!ああ、拉
致監禁して、拘束したいわ⋮ああ、首輪、つけたい⋮っ!その反抗
的な目が堪らないわ。しつけがしたい⋮っ﹂
﹁そうですね⋮拘禁したままローターと電マで同時責めとかがした
くなりますね﹂
﹁二人ともそういう思考は脳内にとどめておいて!?だだもれてる
から!﹂
つっこみ役の護がいないため、八雲が慌てて二人へ突っ込む。
﹁何の話よっ!と、とにかく⋮そういうことだから﹂
そそくさと紗弓が逃げようとするとパシ、と紗弓の手が怜に握られ
る。
﹁どこへいくんですか?ちゃんと相手してくださいよ。メイドさん﹂
﹁絶対貴方達は面白がるから出たくなかったのよっ!﹂
﹁そういえば、響子ちゃんは?見当たらないんだけど﹂
八雲がきょろきょろと辺りを見渡す。そういえば見当たらない。紗
弓も慌てて周りを見た。
﹁ねぇ、響ちゃんはどこ?﹂
﹁蓮華さん?あれ⋮どこいったんだろ﹂
他の女子生徒も何時の間にどこへ?といった顔できょろきょろとす
る。
すると八雲がニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて、草薙に聞こえ
るように声を上げた。
﹁響子ちゃん出してくれたら、俺も宣伝しちゃおっかな∼。もうす
ぐ他校の生徒会との懇談会があってね。その時にでもちょこっと言
338
っちゃおうかな﹂
﹁⋮⋮蓮華砲、発射ぁー!﹂
﹁きゃーっ!草薙さん、まかせとけ!って言ったのに⋮っ!?﹂
ぺしっと響子が厨房から放たれる。
さめざめと肩を落とした響子がよろりと立ち上がった。
﹁響ちゃん、いつの間に厨房に!?﹂
﹁うう、紗弓ちゃんと入れ替わりでこっそりと⋮﹂
ふらふらと響子が紗弓の方へ歩いていく。
響子はロングチャイナの格好をしていた。なぜかウサギ耳に、ウサ
ギ尻尾がついている。
控えめな胸がわずかに強調され、ほっそりとしたスタイルはチャイ
ナドレスのぴったりした服装にとても合っている。太ももまで切り
込みが入ったスリットから白くてハリのある肌がちらりと見えてい
て、普段おとなしく、肌を見せない響子の意外な魅力が存分に引き
出されているのだ。
﹁響子ちゃん⋮っ!チャイナだなんて⋮ああっ!﹂
﹁上羽先輩が倒れたー!?﹂
﹁これは可愛らしいですねぇ。生足ですか、いいですね﹂
中年男のような感想を言う怜に紗弓が﹁おっさんくさい!﹂とつっ
こんでいると、八雲がわなわなと震えだす。
﹁き、き、響子ちゃん⋮それは、あの、ヤバイです。似合いすぎて。
似合いすぎてよろしくない!おい草薙!なんてものを着させるんだ
!﹂
﹁ふふふ、あたしのマッチングセンサーは伊達じゃないんですよ会
長!女子生徒のありとあらゆる才能、素質を引き出す。それが草薙
プロデュース!﹂
﹁あんたいつの間にプロデューサーになってんのよ⋮﹂
呆れた声を上げる紗弓だが、ぎゅっと手を握られて慌てて怜へ顔を
向ける。
彼はにっこりと笑って、紗弓へ給仕を要求した。
339
﹁じゃあメイドさん、お願いしますね﹂
﹁うう⋮こちらがメニューになります﹂
もうさっき、散々女子からメニュー見せられたでしょ!と思いなが
らメニュー表を見せると、怜がふんふんと吟味し出す。
﹁このパンケーキ、おえかきセットって何ですか?﹂
﹁それはホットケーキに、私が⋮チョコペンでお絵かきをします⋮﹂
﹁へぇ?じゃあそれにします﹂
がーん、と紗弓はよろける。しかし注文を聞いていた草薙が早速厨
房へ注文を流した。
﹁やめてよー!それだけは注文されたくなかったのに!﹂
﹁そう言われましても。何か問題があるんですか?﹂
﹁あの⋮佐久間先輩。その⋮真城さんは、美術が⋮⋮あ、独特の、
センスで﹂
別の女子生徒がもじもじと紗弓の事を暴露し出す。彼女は慌てて生
徒の口を閉じさせた。
﹁余計なこと言わないでよー!ああ⋮知られたくなかったのに⋮﹂
﹁別にいいじゃないですか。独特のセンス、もしかしたら才能が開
花するかもしれませんよ?﹂
﹁そう言いながらニヤニヤ笑うのやめて!?﹂
ちなみに八雲も響子にパンケーキのセットを頼んだらしい。
そして鮮花は女子生徒手作りケーキセットをすでに堪能中だ。
﹁んむ、これ美味しいわ。思ったよりもスポンジがきめ細かくて、
上手ね﹂
﹁ありがとうございます∼!﹂
男子はおろか女子までもが照れたような笑みをして鮮花の賞賛を受
ける。
まさに魔性の女なのである。性格は中年親父だが。
やがてパンケーキが運ばれた。
紗弓はすちゃ、とチョコペンを構えて怜を睨む。
﹁⋮何がいいですか。⋮できるだけ簡単なのでお願いします﹂
340
﹁反抗的ですね?メイドさんなのに。ご主人様を睨んでいいんです
か?﹂
﹁ここはメイド喫茶じゃないわよっ!早く言いなさいよ!﹂
﹁ふふ⋮本当に調教のしがいがありそうですよね、紗弓って⋮。で
は無難に、ワンコさんで﹂
きゃあ!怜さまが﹁わんこ﹂って言ったぁー!かわいいー!と女子
達が色めき出す。一見冷たそうで硬質な美形の怜が可愛い固有名詞
を言うとものすごく盛り上がるらしい。
しかし紗弓はそれどころではない。腕まくりをしてチョコペンを構
える。
ぷるぷる、とチョコを押し出す力が強くてうにょっとチョコレート
がひねり出された。
にょろにょろとしたチョコレートを震える手でパンケーキへとのせ
ていく。描くではない。乗せる、だ。
怜は確信した。ああ、センスとかの問題じゃない、紗弓は⋮超不器
用なのだ。
もう笑いが先ほどからこみ上げてきて堪らない。必死で怜は笑いを
抑えて紗弓の懸命な顔を眺める。
⋮何でも一生懸命なのだ。それが無理でも、不器用でも、精一杯頑
張る。
そんなところが愛しくて仕方ない。
﹁できた!﹂
﹁⋮⋮⋮っ﹂
﹁⋮口押さえて、肩震わせて、必死で笑いをこらえようとしている
のはわかるけど、それならいっそ笑ってくれたほうがいいわ⋮﹂
﹁あははははっ!ふふふっ⋮はぁ⋮っあー⋮おかしいっ!こんなに
僕を笑わせる人は貴女だけですよ﹂
よかったわね⋮と目をそらして悔しげに言う紗弓に、また笑いが出
てしまう。
﹁くくっ⋮紗弓、ぼ、僕はワンコさんっていいましたよね?これは
341
⋮あ、ここが耳⋮?これが鼻?﹂
﹁ちがうわよ、その黒いのは首輪なの。耳は合ってるけど⋮﹂
﹁首輪っ!じゃあこのワンコさん、鼻がっ鼻がないんですね。あは
は!﹂
﹁うう⋮忘れてたのよ。もう、さっさと食べなさいよっ!﹂
むきー!と怒り出したので怜はくすくすと笑いながら﹁はいはい﹂
とパンケーキを食べ始める。
隣では﹁おぉー﹂と感嘆の声が沸き立った。
八雲のリクエストは﹁うさぎさん﹂。それをデフォルメ風に可愛い
うさぎさんを見事に描いたのは響子。彼女はおとなしいが、とても
器用なのである。
白のデコペンで輪郭を描き、目や口などのパーツはチョコペン、さ
らにかわいいリボンが耳についていて、それはピンクのデコペンで、
リボンの真ん中にアザランが一つアクセントに乗ってるあたりがセ
ンスの高さを伺わせる。
﹁蓮華上手だなぁ﹂
﹁美術もいつも、作品が展示されてるじゃん。やっぱり巧いんだよ﹂
﹁勉強もできるし、実はすごいのよね、蓮華さんって﹂
﹁そ、そんな⋮あの、こういうのだけ、です⋮﹂
わいわいと響子が持て囃されて、八雲は﹁食べるのがもったいない
ねぇ﹂と笑いながらパンケーキを食べ始める。
それを眺めて紗弓は一人こっそり落ち込むのだった。
﹁もう絶対やんない⋮﹂
﹁紗弓、紗弓。元気出してください。僕は好きですよ?嬉しかった
ですよ?﹂
﹁全く慰めにならないわよ⋮﹂
﹁あははっ!僕にそんな風に返してくるの、本当に紗弓だけですよ
?⋮ふふ、でも確かにこれは、もう描かないほうがいいかもしれま
せんね﹂
にっこりと笑いながら怜は残りのパンケーキを食べ終え、紅茶をゆ
342
っくりと飲む。
﹁言われなくてももう描かないわよっ!﹂
﹁そうですね。これは僕だけに、また今度ゆっくり描いてください。
ここじゃなくても、ね?﹂
﹁⋮っ﹂
またその笑顔だ。紗弓は最近、怜の笑顔が直視できない時がある。
今までと違う、見たこともなかったくらい甘くて、極上に優しい笑
顔を見せるのだ。それを見るとすごくドキドキして、いたたまれな
くなる。
同じように怜を見ていた女子全員が一斉に顔を赤らめ、彼に見蕩れ
た。
﹁⋮⋮ヤダ、もう描かない﹂
﹁そんな事言わないで?楽しみにしてますよ。⋮それじゃ、そろそ
ろ行きましょうか。長居してもご迷惑ですし﹂
﹁そうね。はい、チケット。ごちそうさまでした﹂
﹁まいどありー!﹂
この高校の文化祭では基本的に現金のやり取りは行われない。生徒
会が発行した事前チケットか、当日チケットを本部で購入して、そ
れを渡してサービスを受ける。
だからメニューについても﹁青チケット2枚﹂とか﹁緑チケット1
枚﹂とかそういった表記がされているのだ。現金のやり取りをする
と釣り銭の用意や、計算違い等といった、とにかくトラブルが起き
やすいので、そういった心配りがされているのである。
八雲もパンケーキを食べ終えて、立ち上がる。
﹁ごちそうさまでした。それじゃあまたねハニー達!﹂
﹁はぁーい!またのお越しをお待ちしておりますぅ∼!﹂
華やかな声が生徒会役員達を見送った。
343
33.文化祭!紗弓、災難の日
生徒会は何も遊びまわっているわけではない。それとなく全校舎を
回って問題が起きていないか、または起きそうな問題はないか見て
回っているのだ。
それでもまぁ、最初に紗弓のいる教室へ行ったのは100%確信犯
だし、ものすごく楽しませてもらったのは事実だが。
﹁はーさゆちゃんも響子ちゃんも可愛かったわねぇ﹂
﹁全くですね。あれはちょっと問題です。僕だけが眺めるならまだ
しも、生徒はおろか部外者にまで見られるのは宜しくない﹂
﹁右に同じくっ!あの汚れなき太ももが、大衆にさらされるなんて
⋮俺には耐えられない!!﹂
﹁あんたらはいつの間にかすっかり紗弓、響子バカになってるのね
⋮﹂
半分呆れ、半分笑いを含んで鮮花がため息をつく。
すでに部外者の入場も済んでいるのだろう。人は増え始め、私服の
人間が目立ち始める。
﹁今年もあれかねぇ、くるのかねぇ﹂
﹁去年、出入り禁止にしたはずですけどね﹂
﹁でも一部でしょ?諦めきれない残りがまだくるかもしれないわ﹂
そうですね、と怜は頷いて辺りを軽く見渡す。
今のところの見回りに、見知った顔はいない。良い意味で知ってい
る人間なら良いが、悪い意味で知っている人間は正直会いたくない
し、来てほしくない。
﹁うちの学校、なぜか女子のレベルが高いらしいからね﹂
都立なのだが、巷ではそういった噂が跋扈している。実際八雲も綺
麗所が揃っているなという印象は確かにある。だからこういった文
化祭になると必ず現れるのだ。集団でしつこいナンパをする男達が。
ナンパ男だけならいいが、中にはもっと悪質なのもいて、アルバイ
344
トの誘いをしてくる人間もいる。
モデル、女優、オーディション、耳に良い言葉で巧みに誘ってその
気にさせるのが彼らの手口である。
勿論見つければ出入り禁止にするし、必要なら警察を呼ぶ事も辞さ
ないだろう。
幸い今まで警察沙汰になったことはないが、性に対しての倫理観が
緩みがちな昨今において決して無視できる問題ではない。
﹁ま、そっちは先生にも見回ってもらってるから⋮あんた達はあん
た達で大変じゃない、毎年﹂
﹁そうだな、もてる男って大変だ。フッ⋮気まぐれな野良猫ちゃん﹂
﹁⋮あんまりやりすぎると、響子ちゃんに嫌われるわよ﹂
ぐさぁ!と胸を押さえてオーバーに苦しみ出す八雲を放っておいて、
鮮花は怜に顔を向ける。
﹁今年は断るんでしょ?﹂
﹁はい、勿論。僕には紗弓がいますから﹂
にっこりと笑う。その笑みを見て鮮花は片眉を上げた。
その表情ですべて理解できたのは、二人の付き合いがそれほど長い
からである。
﹁なぁんだ。やっと自覚したのね、この鈍感﹂
﹁全くですね⋮。返す言葉もありません﹂
﹁え、何、怜くんやっと自覚したのか﹂
苦しみからけろりと復活した八雲が寄ってくる。
彼にも微笑んで﹁ええ﹂と怜は頷いた。ふっきれたような、爽やか
ともいえる笑顔だ。
へーえ、と八雲と鮮花はものめずらしそうに怜を見る。
﹁んじゃ早速告白でもして﹁ホンモノの﹂恋人にでもなんの?﹂
﹁そうですねぇ⋮。そうしたい、ですね﹂
﹁⋮随分と消極的ね?怜が本気で口説けばいくらさゆちゃんでもす
ぐモノにできそうなのに﹂
怜はその言葉に困ったような顔をして笑う。
345
⋮本当は、すぐにでも紗弓を自分のものにしたい。
手をこまねいているなんてガラではない。
好きなんだと自覚した瞬間から怜は紗弓に想いを言おうと思ってい
た。
けれど、初めて紗弓を襲いかけた時の怯えた顔や、ラブホテルで見
せたあの、屈辱と羞恥に震える顔を思い出すとどうしても言えなか
った。
紗弓の中で、自分はどういう立場なのだろう。
好きだと言って、拒まれたら。その時怜は自分を保つ自信が正直な
い。
紗弓に対する欲望のままに、無理矢理自分のモノにしてしまいそう
なのだ。
心が駄目なら、せめて体だけでもと︱︱。
その時、あの顔をされたら。怯えた顔で泣かれたら。屈辱ににじむ
顔で拒絶されたら。
初めて、怖いと思った。女性に対して優越感は感じることはあって
も、恐怖を感じることなんてなかったのに。
自分は怖くて堪らないのだ。紗弓に嫌われること、拒絶されること、
二度と会えなくなることが。
それに彼女は今までやってきた自分の所業を知っている。
女をとっかえひっかえして、誘われるままに付き合っては捨ててい
たことも、その間に体の関係も構築していたことも。
そんな男︱︱。いくら顔が良くても、仕草が優しくても、愛してく
れるのだろうか?
自分なら愛せない。もし紗弓が自分のような所業をしてきた女なら
嫌だと思うからだ。
なんて勝手な、自己中心な想い。自分はそんな事をしてきたのに彼
女の愛が欲しいと思うなんて。
346
⋮言わないのではない、言えないのだ。
怜は紗弓を大事にしながらも、後一歩が踏み出せないでいる。
偽りの恋人役をまだ、続けている。
しかし3月。自分が卒業するまでに踏みださなければ。
怜の卒業。それが彼女と交わした﹁約束﹂の期限だから。彼女と離
れたくなければそれまでに動かなくてはいけない。
ふぅ、と怜は静かにため息をついた。
﹁恋愛って難しいものなんですねぇ⋮﹂
﹁!? 怜が超いまさら恋愛に悩んでる!﹂
﹁あんた、まさかこれが﹁初恋﹂なんて言わないでよ⋮?﹂
全くもってその通りだ。あんなに女と遊んでおいて、実は紗弓との
これが初恋なんて。
珍しく怜は疲れたようによろりと歩いて行った。
◆◇◆◇
腕時計を見れば11時。紗弓の見回り時間だ。
﹁それじゃあちょっと、見回り行ってくるわ﹂
﹁うん、いってらっしゃい﹂
﹁頑張ってねー﹂
響子や女子生徒たちに見送られて紗弓は教室を出る。一応携帯電話
で風紀委員に連絡をして、紗弓は見回りを始める。
⋮すると、すぐに違反者が見つかった。
﹁こらぁ!明らかにそれ、違反物でしょうが!こんな日まで持って
くるんじゃないわよ!﹂
廊下でグラビア雑誌を回し読みしていたのは1年生の男子だった。
﹁げっ、特急制裁者!こんな日まで煩く⋮ん?﹂
﹁と、特急⋮真城⋮?﹂
347
﹁やべえなにその格好!だははははは!﹂
﹁煩いわね!格好なんて関係ないでしょうがっ!﹂
紗弓はメイド姿のままだった。犬耳にしっぽもそのままである。何
せ着替えをするには化学室まで行かなければならない。どうせ見回
り時間が終わればまた教室で給仕をするのだし、と紗弓はそのまま
の格好で見回りをしていた。
﹁ひぃ、ひぃ⋮っ!はぁ!腹いてえ!﹂
﹁にあっ、似合ってるぞ、真城。犬耳メイド。めっちゃ似合う、う
んうん、可愛い﹂
﹁褒められても嬉しかないわよっ!さぁよこしなさい。今日明日没
収したものは文化祭が終わってから返却します!﹂
﹁はーい。⋮でもどうせならぁ、メイドらしくお願いしてくれよ。
そしたら没収されてやろう﹂
はぁ!?と紗弓が呆れた顔をすると、男子生徒はニヤニヤとこう言
えと台詞を言ってくる。
かぁっと顔を赤くして紗弓は怒り出した。
﹁そんなのなんで言わなきゃいけないのよ。バカじゃないの!?﹂
﹁あれー?そんな事言っていいのかな。この台詞を言うだけで穏便
に事が済むのならいいじゃないか﹂
﹁うむ、俺達はその言葉を聞いたらこの2日間、絶対違反しないっ
て約束しよう﹂
﹁⋮っ本当に⋮?﹂
2日間と制限せずにこの先ずっと違反しないで欲しいものだが、こ
の文化祭はとにかく忙しいのだ。その間、手を煩わせない人間が増
えるのは喜ばしい。
紗弓はきっちり2分悩んで﹁⋮わかったわ﹂と用件を飲む。わっと
3人の男子生徒が沸きあがった。
﹁⋮本当に、違反しないでよ?こうやって注意しまわるのも大変な
んだから﹂
﹁本当本当。信じて!生徒を信じるのも風紀委員の務めだよ!﹂
348
﹁何をもっともらしいことを⋮はぁ﹂
頭を押さえてふるふると首を振った後、紗弓は赤い顔をしたまま男
子生徒達を見た。
そして恥ずかしそうに言われた台詞を言う。
﹁わんわん。ご主人様!さゆみのお願い、聞いて欲しいわんっ﹂
﹁うはぁいいなぁ!犬メイド!猫メイドといい勝負だ!﹂
﹁全くこの獣耳萌えを最初に唱えた人間は神だな、神﹂
﹁はい、真城ワンコちゃん。ごほうびですよ∼﹂
男子の一人がグラビア雑誌を渡してくる。長いため息をつきながら
紗弓はエコバックにそれを入れた。
﹁全く⋮もうするんじゃないわよ﹂
言っても無駄だろうけど⋮と呟きつつ、紗弓が尻尾をふりふりしな
がら歩いていく。
その後姿を見ながら、男子生徒がごくりと喉を鳴らした。
﹁あいつ、この2日間、ずっとあの格好で見回りするのかな⋮﹂
﹁⋮⋮やべえな。ワザと違反するヤツが出てきそうな気がするんだ
けど﹂
﹁ていうか今までもそうじゃん﹂
あ、そーか、と3人は納得する。実は一部だが、わざと彼女に怒ら
れたくて違反する人間もいるのだ。
そんな人間がこの2日、増えそうな気がする⋮と3人の男子生徒は
思った。
生徒達の予感はある意味的中する。
﹁犬メイド萌ス!!﹂
﹁拙者、写真撮りたいでござるよ!超ローアングルをきぼんぬ!﹂
﹁神は、神はここにいた!﹂
﹁ぎゃあああ!アンタらに用事はないのよ!私は忙しいの!!﹂
これは由々しき問題だ。紗弓は屋台の並ぶ校庭を縫うように走って
いた。
349
全く想定外だった。こんなに、こんなにも⋮。
︵部外者に追い掛け回されるなんてー!!︶
紗弓の格好は、一部の嗜好者にとっては垂涎の姿なのである。
その﹁一部﹂が特殊で、非常に怖気が走るのだ。紗弓は殆ど自己防
衛本能で逃げていた。
﹁ああんもう!こんなんじゃ全然見回りできないじゃないー!﹂
結局後半は殆ど逃げ回る形で見回り時間が終わってしまった。
次の見回りは絶対制服に着替えよう。紗弓はそう心に誓った。
◆◇◆◇
﹁真城っ!あんた⋮えらーい!よくやった!!これで我がクラスは
売り上げ1位決定だっ!﹂
﹁は、何のこと⋮?﹂
﹁その格好で走り回ってくれたおかげでなんたる宣伝効果!これを
みよー!﹂
見回りという名の逃走を終えた紗弓に草薙が感激の表情で教室を見
せてくる。
そこには⋮。
﹁なぁ⋮っ!?﹂
散々紗弓を追い掛け回したあの特殊な方々を含めた、同じような格
好の人が団体でいらっしゃっていたのである。
﹁こいつらすげえよ!ちょっと言動は個性的だけどすっごい金払い
がいいんだ。もう全メニュー制覇も辞さないレベル。しかもさー!
妙にコミュニティが広くって、明日他にも仲間連れてくるんだって
!やっほーい!﹂
﹁ちょっちょっ⋮草薙!﹂
慌てて紗弓は草薙の腕を引っ張り、廊下側へ連れて行く。
﹁あんたね⋮どんだけ私があいつらに引っ掻き回されたか⋮っ!し
かも、写真とか撮ろうとしてくんのよ?他の女子生徒とか⋮っ﹂
350
﹁ああ、写真はやたら撮りたがってたけど、そこはちゃんと断れば
納得してくれたぞ?割とハナシが通じるもんだね。喋り方は特殊だ
けどソッチの世界に詳しい女子もウチはいるからさ、通訳してくれ
てるし、便利便利﹂
﹁そっちだのアッチだの⋮もう。私は散々な目に合ったから奥に引
っ込まさせてもらうわ﹂
そう言って、こっそりと簡易厨房に逃げようとしたら﹁大佐!犬メ
イドを発見ですぞ!﹂と声が上がった。
げっとした顔をして振り返ると、一番最初に追いかけてきたあの特
殊な方々︱︱。
﹁もうやだー!草薙のばかぁー!﹂
最近自分は廊下を走ってばかりだ。廊下は走ってはいけませんとい
う言葉が脳の中で響くが、紗弓はそんな心の声に必死で謝りながら
逃げるのだった。
﹁はぁ⋮巻いたかな﹂
あてもなく逃げ回っていたら、いつの間にか体育館の裏まで来てし
まった。
後ろを見ればしつこい方々はいない。ほっとして立ち止まる。
﹁今日は何だか走りっぱなしだわ。この格好、ろくな目に合わない
わね﹂
ミニスカートがヒラヒラとしたメイド服は可愛いと自分でも思うが、
こうも災難に会ってしまうと制服のほうがずっといいと思ってしま
う。
﹁明日は絶対、外歩く時は着替えていこう⋮﹂
ぶつぶつと言って、元の道を戻ろうとする。
﹁あれぇ、メイドさんだー﹂
﹁可愛いねぇ、いくつなの?﹂
体育館倉庫の裏にいたのか、わらわらと数人の男が現れた。
どうやら煙草を吸っていたらしい。その地面にはポイ捨てられた煙
351
草と、男達から煙草の匂いが強く香った。制服じゃない、この人た
ちは部外者だ。
紗弓はわずかに男達を見上げて睨むと、びしっと地面に捨てられた
煙草を指す。
﹁校内は禁煙です。それに煙草はちゃんと自分で処理してください、
ここは学校ですよ﹂
﹁あはは、物怖じしない子だね。説教しちゃうんだ﹂
﹁なんかクラスに一人はいたよね、こういう真面目そうな委員長気
質な子﹂
いたいたー!と笑い声が響く。紗弓は自然と顔をしかめた。
こういう人間はあまり関わらないほうがいい。煙草を吸っていたこ
とやポイ捨ては許せないが、朝に言われた稔の言葉を思い出す。
﹁とにかく⋮ここが公共の場ということを忘れないで下さい﹂
そう言って去ろうとするが、やんわりと道を阻まれる。紗弓はムッ
として男達を見上げた。
﹁そんな逃げなくてもいいじゃない、可愛いメイドさん﹂
﹁小さいねぇ⋮あ、でも成長してるトコはしっかり成長してるんだ。
ふぅん﹂
﹁名前なんていうの?年いくつ?彼氏いる?﹂
矢次に話し掛けられる。紗弓は男達を睨みながらも僅かに後ずさり
をした。
逃げないと⋮そう思うのに、いつの間にかすっかり囲まれてしまっ
ている。
どうしようかと考えていると、いきなり手首を掴まれた。驚いてぶ
んぶんと手首を振り回す。
﹁やっ⋮離して!﹂
﹁ゆっくり話しようよ。こっちおいで﹂
﹁お前、怖がってるだろ?それ。大丈夫だよワンコメイドちゃん。
楽しくお話するだけだから﹂
﹁誰がご主人様か決めるお話?ぎゃはは﹂
352
手は一向にほどけない。なんでこんな人気のないところまで逃げて
しまったのかと紗弓は後悔する。
せめて大きな声を上げれば誰かに気づいてもらえるだろうか。
﹁だ、誰か⋮!﹂
﹁おい、大声出すなよ﹂
むぐ、と口をふさがれ、そのままずるずると体育館倉庫裏に引きず
って連れて行こうとする。紗弓は必死で暴れて抵抗した。
その時︱︱。
﹁僕の可愛い恋人に何をしているんですか?﹂
少し笑いを含んだ、冷たい声が辺りに響いた。
353
34.文化祭!学校デート。メイドを連れてあちこちへ
ああ?と男達がガラの悪い声を出して振り返る。
紗弓も男の隙間から見ると、そこには声の主、佐久間怜がにっこり
とした笑顔のままで立っていた。
﹁さ、佐久間⋮﹂
﹁はい、先ほどぶりですね?紗弓。さて、明らかにこれは問題です
よね。貴方達は嫌がる彼女を無理矢理連れて、何をしようとしてい
たんでしょう?﹂
すたすた、と近づいてくる。堂々とした態度に思わず男達の壁が割
れて紗弓から怜の姿がはっきりと見えた。
怜はスッと紗弓の手を引き、彼の体へと寄せる。
ぎゅ、と抱きしめるように抱えられて紗弓はこんな現状なのにドキ
ドキとしてしまった。
チッと舌打ちをして男達は足早に去ろうとする。その後姿に怜はの
んびりと声をかけた。
﹁逃がしませんよ?校内の喫煙、悪質なナンパ。出入り禁止にする
理由としては明確です﹂
﹁なんだと⋮!?﹂
一人の男が振り返り、怜に向かって噛み付く。
しかし体育館の角側と、怜の後ろ側から男達を挟み込むように数人
の教諭が現れた。
﹁⋮っ!?な、なんだ﹂
﹁少しお話を聞くだけです。名前などを控えさせてもらうだけです
から﹂
そう言って、教諭達はわらわらと男達を囲み、職員室へ連れて行く。
去った後には誰もいなくて、しんとした場にふぅと怜がため息をつ
いた。
﹁殴り飛ばしても良かったんですけど、さすがに学校で暴力沙汰は
354
褒められた行為ではありませんからね。先生を呼んだのです﹂
﹁そうだったの⋮。ありがとう、助かったわ﹂
﹁いいえ。この辺りはフラッとやってきた女子を狙うには格好の場
所なので、よくここでナンパ男が待ち伏せしているんですよ。だか
ら重点的に見回りをしてたんですけど⋮本当に間に合ってよかった
です。⋮しかし、こんな所まで来て、何をしていたんですか?貴女
も﹂
紗弓は苦虫を噛んだような顔をしていきさつを話した。
怜は﹁ふむ﹂と顎を撫でて、紗弓の姿をまじまじと見つめる。
﹁成程。それは災難でしたね⋮。でも確かに、紗弓のその格好は可
愛いですから。⋮んー⋮それなら、紗弓の教室が落ち着くまで少し
回りませんか?お昼、まだでしょう﹂
﹁んっ⋮言われてみれば、お昼はまだだわ。⋮おなかすいてきた⋮﹂
意識すると反応したようにお腹がきゅるりと鳴る。思わずお腹を押
さえると、怜がくすくすと笑った。
﹁じゃあ行きましょう?学食にね、文化祭限定メニューがあるんで
すって﹂
﹁本当!?⋮あ、でもこの格好⋮で?﹂
﹁ええ。僕がいるから大丈夫ですよ。それに、せっかくですし⋮そ
んな可愛い格好の紗弓を独占したいです。何せ﹁彼氏﹂なんですか
らね?僕は﹂
ふっ、と甘い笑顔でそう言ってくる。紗弓は顔を真っ赤にして目を
見開いた。
﹁あう⋮。そ、そうよね﹂
﹁そうですよ。紗弓ももっと、﹁彼女﹂だって主張してくださらな
いと。それでは行きましょう﹂
いつかのデートのようにすっと手を握ってくる。
学校でそういう風に歩くのは初めてで、紗弓はかぁっと顔を赤らめ
る。
⋮けれど、それでも手を振り解くことは無かった。
355
◆◇◆◇
学食の限定メニューはドネルケバブだった。
最近お祭りの屋台などでも時々見る、くるくる回転しながら焼いた
お肉を削ぎ切りして、厚めのクレープ生地のようなものにキャベツ
とお肉、甘辛いソースをのせてくるりと巻いた食べ物だ。
それをチケットで購入して、紗弓と怜は揃ってケバブを口にする。
﹁ん、おいしいー!これって、屋台で買うと高いのよ。500円よ、
500円!なのにこっちのは200円。どんだけボッてんのよって
話よね!﹂
﹁まぁああいうお祭りの屋台はどこもぼったくりですよね。でも、
紗弓の言う通り、美味しいです﹂
二人はケバブを食べ終え、他にも面白そうな屋台はないかなぁと探
してみる。
校庭に並ぶ屋台は、だいたいが部活の出し物が多い。
﹁あっ、家庭科部が焼きたてパンを出してるわ﹂
﹁へぇ?焼き立ては美味しそうですね。あとは、サッカー部が⋮あ
れは餃子ドック?⋮どこかのテーマパークの完全ぱくりですね﹂
特許的なものは大丈夫なんでしょうか?と冗談めかして言う怜に笑
って、紗弓達は焼き立てパンと餃子ドック、甘味も欲しくなったの
で揚げドーナツを購入した。
片手に食べ物を持ち、もう片方の手はずっと繋がれている。二人の
姿はどこから見ても仲のよい恋人同士で、誰もが眺めては歩いてい
く。
恋人という形を取って、もう半年をすぎている。怜と紗弓のカップ
ルはすっかり学校でもおなじみになっていて、もう表立って文句を
言ってきたり因縁をつけられることもない。
女子の殆どは諦めと羨望の目で紗弓を見、せめて目の保養と怜に見
蕩れていく。
356
そんな目にも随分、慣れた。
紗弓はそんな風に思って怜と歩き、校庭の芝生に二人で座る。
﹁どうかしましたか?考え込んでいるように見えましたけど﹂
相変わらず鋭い男だと思いながら、紗弓はカサカサとパンの袋を開
けた。
﹁佐久間は目立つ男だなーって改めて再認識してたのよ﹂
﹁あはは、それは自覚してますけど。今日は紗弓の勝ちですよ?﹂
くすくすと笑って怜も餃子ドックの包みを丁寧に開けていく。
﹁⋮勝ちってなによ。あ、餃子ドック私も欲しい﹂
﹁どうぞ、半分食べてください。⋮だって、紗弓を見ていく男が明
らかに多かったですからね。こういうのって不思議な感覚ですねぇ
⋮﹂
複雑そうに笑って、紗弓の紙袋からコーンマヨパンを取り出した。
紗弓が意味がわからず、餃子ドックをぱくつきながら首をかしげる
と、怜はパンを二つに千切りながら照れたように話し続ける。
﹁紗弓が見られるのは腹が立つんですけど、どこか妙な優越感とい
いますか⋮。僕を見る羨望と悔しそうな顔がどうもね、嬉しくなっ
てしまうんです﹂
﹁⋮なにそれ、変なの。私だって女子からしょっちゅう、羨ましい
だの悔しいだのって言われたけど、全然嬉しくなかったわ。むしろ
放っておいてって思ってたし、今だってそうよ﹂
餃子ドックを半分食べて、﹁ん﹂と怜に渡してくる。彼は半分に割
ったパンと餃子ドックを交換して、残りをぱくぱくと食べた。
﹁紗弓はそんな感じですね。そこが面白いんですけど⋮ふふ。この
餃子ドック、なかなかですね。ホンモノには負けますけど﹂
﹁うん。美味しいわ⋮このパンも焼き立てでふわふわよ?というか、
佐久間はシーにも行った事があるのね。この辺りのデートコース、
殆ど網羅してるんじゃないの?﹂
﹁そうですねぇ⋮あそこに行こう、次はここに行こうって、こうい
うのは女性のほうが詳しいですよね。ふふ、紗弓はそうでもなさそ
357
うなので、教えがいがありそうですが⋮。ところで紗弓はあのテー
マパーク、行ったことが?﹂
﹁行ったわよ。小学生の頃にママと⋮パパと﹂
少し複雑そうな顔をした紗弓に怜が不思議そうな目で首を傾げる。
顔に出ちゃったかと頭を掻いて、紗弓はなんでもないように努めて
明るく話した。
﹁パパね、もういないのよ。あのテーマパークに行ってしばらく後
⋮突然倒れたって電話がきて⋮そのまま入院。でも、手遅れだった
らしくて⋮本当にねぇ、あっという間だったわ﹂
あはは、と笑ってさえみせる。もう何年も前のことだ。すでに吹っ
切ったつもりでいる。
しかし怜は少し真面目な顔で﹁そうですか﹂と相槌を打った後、紗
弓から顔をそらして校舎の方を見た。
﹁⋮確かに、あっという間ですよね。何が起こったのか把握するの
に割と時間がかかるというか⋮﹂
﹁あ⋮そういえば、佐久間も⋮ご両親が⋮。ご、ごめんね。思い出
させるつもりはなかったの﹂
慌てて紗弓が謝ると、いいえと怜は首を振る。紗弓の膝に乗ってい
た揚げドーナツの袋を取り、一つを渡してきた。
﹁紗弓を見ていれば何となくわかります。すごく愛されていたんで
しょうね。それなら、僕よりもずっと哀しみは深かったと思います。
僕は確かに両親が亡くなってますが、本当に⋮物心がつくかつかな
いかという位昔の話ですから⋮あまり悲しい、といった感情は出て
こないんですよ﹂
我ながらちょっと薄情ですかねぇと怜は笑った。
揚げドーナツを口に含む。甘くて美味しいのに、なぜか苦く感じた。
﹁⋮子供を愛してない親なんて、いないわよ⋮﹂
﹁ふふ、そうですね﹂
紗弓の言葉を否定せず、怜は穏やかに笑って頷き自分も揚げドーナ
ツを口に入れる。
358
﹁甘いですねぇ⋮そういえば、僕は甘いものが苦手でした﹂
﹁⋮今それを言うの?﹂
﹁最近自覚したんですよ。あまりに食べ物に興味がなかったので、
好きか嫌いかも気にしてなかったみたいです。⋮ということで、は
い﹂
怜はニコリと笑って食べかけのそれを、突然紗弓の口に入れてくる。
﹁むぐ!?﹂
﹁あはは、紗弓は口が小さいですねぇ。⋮ん?ちょっと口を大きく
開けてみてください﹂
怜に突っ込まれた揚げドーナツをなんとか食べて飲み込むと、紗弓
は怒った顔で噛み付いた。
﹁びっくりするじゃないの!しかもなんで口開けなきゃいけないの
!﹂
﹁ちょっと気になったもので。計りたいんですよ。ちょっとだけ﹂
計る?と眉をしかめるが、妙に怜が真剣にお願いしてくるので、つ
い、紗弓は限界まで口を大きく開けた。
﹁⋮⋮﹂
﹁これが限界ですか?﹂
﹁ん﹂
口を開けたままこくりと頷く。彼は中指と親指で丸を作ると、紗弓
の唇に当ててきた。
表情は真面目で、本当に何かを計っているように見える。
﹁⋮入るかな⋮微妙⋮いや、何とか頑張れば⋮先端くらいなら﹂
﹁何の話よ、何かまた口に入れる気なの?﹂
﹁はい。そのうちですけどね﹂
何だろう、次は麩菓子かうまい棒でも食べさせる気なのだろうか、
と紗弓は思った。
軽く昼ごはんを食べて﹁もう少しだけ回りましょう﹂と誘う怜に紗
弓もおとなしくついていく。
359
そういえば、と紗弓はポケットから体育館の催し物のプリントを取
り出した。
﹁鮮花先輩のクラス⋮演劇だったわよね。何時からだったかしら。
それまでには一度クラスに戻って一言言わないと﹂
﹁見せてください。ん⋮3時、ですね。あと1時間半といった所で
すか。ではあまり時間もありませんね⋮僕のクラスと、護の所のお
化け屋敷に行きたいのですが、間に合いますかね﹂
﹁ああ、じゃあ先にうちのクラスに行って、ちゃんと休み時間とし
てもらってくるわ﹂
そうですねと怜が同意して、さっそく紗弓は自分のクラスへ足を向
ける。
クラスの前でサッと紗弓は身を隠し、そぉっと中をのぞいてみた。
﹁げっ⋮まだいる!しつこくない⋮!?﹂
﹁ああ、紗弓を追いかけたのは彼らですか。なるほど、今時迷彩柄
のバンダナにミリタリーファッションとは。典型的というよりむし
ろ化石的です﹂
ほう、と感心したような顔で紗弓の上から怜が覗き込む。
﹁しかもあちらの方はデニムシャツをズボンにしっかりインすると
いう⋮これもまた典型的ですねぇ⋮ナップザックですか。うーん、
むしろあれはワザとやってるとしか思えないスタイルですね﹂
﹁あんたは妙なところに詳しいというか、変なヤツよね⋮﹂
﹁一般常識ですよ。紗弓が世間知らずなんです﹂
﹁な、なんですって⋮!?﹂
思わず上にいる怜を仰ぎ見ると、横から響子が現れた。
﹁⋮なにしてるの?さゆちゃん﹂
﹁ひゃわ!しーっ、しーっ!﹂
紗弓は慌てて響子を廊下の方へ連れて行く。
チャイナの格好をした響子は不思議そうに首をかしげた後、紗弓が
クラスの中をこそこそと眺めている姿を見て﹁ああ﹂と手を打った。
360
﹁あの人たち、ずっとさゆちゃんのこと待ってるみたいだよ?まぁ
⋮その間もあれこれ追加注文してくれてるから草薙さんとかは有り
難がってるけど、女子の一部はそろそろ帰って欲しいって思ってる
んじゃないかなぁ⋮﹂
﹁くっ⋮やっぱり顔を出さなきゃいけないのかしら⋮﹂
﹁別に無理して顔出す必要はないと思うよ?さゆちゃんが嫌がって
るの皆わかってるし、そのうち諦めて帰ると思うから⋮もう少し、
回っておいでよ?クラスの人には、言っておくね?﹂
﹁そっか⋮じゃあお言葉に甘えちゃうわ。ちょっと遅くなるかもし
れないけど、埋め合わせは明日するって草薙に言っておいて﹂
﹁うん。そういえば⋮私も鮮花先輩のクラス演劇は見たいから⋮あ
とで会えるといいね?﹂
そうだね、と頷いて紗弓と怜は響子に頼んで教室を後にする。
同じ1年の校舎なので、先に護のクラスに行こうという話になり、
二人は歩を進めた。
361
35.お化け屋敷はお約束
おどろおどろしい字で﹁最恐!お化け屋敷﹂と書いてあるクラスに
たどり着く。
﹁ここでしょうね﹂
﹁そうね﹂
紗弓がこくりと頷くと、チケットを1枚生徒へ渡す。
怜も同じように渡してから生徒の一人に﹁多賀君はいますか?﹂と
聞いていた。
﹁あ、はい⋮い、いますよ。今呼びますねっ﹂
顔を赤くした女子生徒が慌ててお化け屋敷の中へ入っていく。
しばらくしてゾンビのような格好をした護が現れた。
﹁あ、お二人さんいらっしゃい∼﹂
﹁こんにちは、多賀くん﹂
﹁遊びにきましたよ﹂
二人は挨拶をしてから護の姿をまじまじと見る。素人の作りにして
は上手にできてるのではないだろうか。
その格好だけでも十分本格的だということが判る。
﹁随分と気合入れてるわねぇ﹂
﹁勿論。学年別の特別賞、狙ってるからね﹂
はっは、と護が笑う。この学校では学年別で賞を用意していて、特
別賞をもらったクラスは賞状とトロフィー、そして学園祭の売り上
げ費から捻出した記念品が受賞クラスの生徒全員に配られるのだ。
﹁それにしても護が驚かせる側とは。てっきりあちこちを歩き回っ
て宣伝する側かなと思ってましたよ﹂
﹁ん、それは別のクラスメイトに頼んでるんだ。しっかり多賀護が
驚かせてくれるよってふれ回ってるよー﹂
﹁成程。さすがですね⋮それで客足はどうですか?﹂
﹁上々も上々っ!お姉さまがきたらね、わざと後ろからギュッてし
362
て驚かせてあげるとすっごく喜んで、何度も通ってくれるんだ!﹂
﹁それ、明らかに恐がらせてないよね!?趣旨違うわよね!﹂
紗弓が思い切りつっこむと、護は﹁まぁそれはお姉様限定だからー﹂
と軽く笑ってぱたぱたと手を振る。
しかし格好がゾンビなのでとても明るいゾンビに見えて、恐いんだ
か面白いんだか判らない。
﹁まぁ、チケット渡したんでしょ?入っておいでよ。僕もスタンバ
イしてるから。ああ、もうすっごい恐がらせてあげるね?キャァー
佐久間くんコワァーイ!ってしがみつく位﹂
﹁そんなことしないわよっ!﹂
﹁むしろ紗弓ちゃんは極限に恐がらせると、怜を突き飛ばしそうだ
よね⋮じゃあまた後で∼﹂
ひらひらと手を振ってお化け屋敷に戻っていくゾンビ。
怜と紗弓は顔を見合わせた後、少しだけ待ってからお化け屋敷へ入
っていった。
﹁うおぁ⋮雰囲気満載ね⋮﹂
﹁紗弓、恐いなら腕でも掴まれば宜しいのに。大丈夫ですか?手だ
けで﹂
﹁だ、大丈夫よ、別に恐くないもん⋮うぎゃあ!!﹂
ぺたり、と紗弓の頬に何かが当たって彼女は飛び上がって怜の腕に
しがみつく。
﹁⋮こんにゃくですか。ベタですねぇ⋮紗弓の反応も、予想通りで
すね﹂
﹁いっいっ、いまのはびっくりしただけよ!恐いんじゃないんだか
ら!﹂
ぱっと腕から離れて、紗弓は自分から怜の手を握って歩き出す。彼
は暗がりの中で少し驚いた顔をしたが、やがて嬉しそうに笑って紗
弓の手に握られながら歩いていく。
﹁ふふ、いいですね⋮お化け屋敷。今度一般の方で恐いところ、探
しておかないと﹂
363
﹁何恐ろしいことを楽しそうに言ってるの!?と、とにかく⋮順路
はこっちね﹂
別にお化け屋敷なんて恐くないつもりだったのに、いざ入るとどう
してこんなに恐く感じるのだろう?紗弓は恐怖でドキドキしながら
怜の手をぎゅっと掴んで歩いていく。
その時︱︱。
自分達の道を阻むように細い通路の壁からワサッ!といくつのも手
が現れた。
﹁きゃあーー!!!﹂
﹁ああ、紗弓の﹁きゃあ﹂って初めて聞いたかも。いつもぎゃあ!
とかうひゃあ!とかですよね﹂
﹁そんなの自覚して言ってないわよ!はっ、はやく!早く行くわよ
!﹂
わさわさとうごめく手を避けて紗弓は怜を連れて通路から抜け出す。
はぁ⋮と息を整えていると、いきなり目の前に逆さづりの人形が青
白い照明とともに落ちてきた。
﹁ひぇああっ!﹂
﹁成程、驚いて逃げてほっとしたところに間髪入れず驚かせる。セ
オリーを踏んでますねぇ﹂
のんびりと言う怜の言葉など紗弓は耳にも入らない。
どっどっどっと心臓はばくばくと音を立て、はぁはぁと息が整わな
い。
﹁こっこっ⋮こっ⋮﹂
﹁⋮恐かった?﹂
﹁こ、恐かないわよっ!大丈夫だもん!!﹂
﹁ああ、紗弓⋮ヤバイ、可愛いです、それ⋮﹂
涙声で恐くないといわれても全く説得力がない。それでも頑として
恐い自分を拒否する紗弓の意地っ張りな虚勢が可愛くて仕方が無い
怜はふるふると肩を震わせる。
﹁ほら、手だけでは心もとないでしょう?腕に掴まってください﹂
364
﹁うっ⋮う⋮べつ、別に恐くないけど、佐久間がそう言うなら掴ま
ってもいいわ⋮﹂
口ではそう言いつつも紗弓ははっしと怜の腕を抱きしめて歩き出す。
﹁⋮は、これは⋮﹂
﹁な、なに!?なにかいるの!?﹂
﹁あ⋮いえ、まだ何もいませんけどね。すみません﹂
もう変なこと言わないでよね!と怒りながら紗弓は怜にしがみつい
て歩き続ける。
︵これは⋮いいな。今度絶対お化け屋敷連れて行こう。遊園地とか、
お台場にもあったな、確か︶
そんな風に心で決定づける怜の腕は紗弓に抱きしめられていて、彼
女の豊かな胸がしっかりと腕を挟んでいるのだ。両側からふにゅふ
にゅとした柔らかい感触が怜の腕を締め付ける。
非常に気持ちがよい。腕ではなく違うものも挟みたくなってくる。
怜が紗弓の胸を堪能している間も紗弓は井戸のようなところから出
てくる浴衣姿の女子生徒に飛び上がり、足元からニョロリと出てき
た蛇のオモチャに足をもつれさせ、天井からボトリと落ちてきたク
モのオモチャに悲鳴をあげている。
﹁オモチャみたいですね﹂
﹁そっ、そうね、おもちゃみたいなものよね⋮っ﹂
戻っていくクモを見て肩を震わせる紗弓に、いえ、貴女の事ですけ
どねと怜は心の中で付け足す。
ちなみに怜はまったく恐いと思わない。
よく見ればあちこちで生徒が作業に走り回っているし、待機してい
る生徒も暗がりながらもちらりと見える。だいたい何をやるかも想
像がつくし、そもそも自分はあまり驚いたり、恐がったりするよう
な感情が気薄だ。
それよりも紗弓の胸が気持ちいいし、驚いてしがみつく紗弓は可愛
いし、いちいち反応する彼女を眺めるのは面白い。
﹁いやぁ楽しいですねぇ﹂
365
﹁えぇっ!?た、楽しいの⋮?佐久間は変態ね⋮セクハラ男で変態
なんて目も当てられないわ⋮﹂
﹁男は皆セクハラ大好きで変態ですよ、ははは﹂
世の中の男性達が怒り出しそうな事を爽やかに言って、怜は紗弓を
促し歩き出す。
ゴールまでもうすぐだ。紗弓はもう少しだと足を動かす。しかし目
の前に大量のゾンビ集団がわらっと現れた。
﹁きゃっ⋮!?﹂
そしてゾンビたちは紗弓達に向かって走ってくる。
﹁ぎゃーー!!!﹂
紗弓は混乱した。逃げたいが、逃げればまた恐いところに戻ってし
まう、でもゾンビも恐い。目を白黒させて彼女はぎゅう、と怜の体
に抱きついた。
すると応えるようにふわりと怜が紗弓の背中に腕を回す。
ぎゅっと抱きしめて、優しく紗弓の耳元で声をかけてきた。
﹁⋮大丈夫ですよ。もう通り過ぎました﹂
﹁んっ⋮も、もういない⋮?﹂
﹁もういません。安心してください﹂
宥めるように紗弓の頭を、背中を撫でてくる。その感触に紗弓の心
はほっとした。
﹁はぁ⋮うっ⋮う⋮﹂
﹁⋮泣いてるんですか?紗弓﹂
﹁泣いてないわよっ!も、もうゴールなんだから⋮いくわよっ!﹂
怜の腕を抱きしめなおしてゴールに向かって再び歩き出す。
その時後ろからガラ⋮コロ⋮と音がした。
びっく!と紗弓の足が思わず止まってしまう。
ここまで恐がってくれると演出するほうも嬉しいだろうなぁと怜は
まじまじと紗弓を見た。
しかしそれどころではない彼女はかたかたと震えている。
後ろでは今だ、カラコロとした金属を引きずるような音が聞こえて
366
いて。
紗弓は見てはいけない、そのままゴールに走れという心の声を聞き
ながらも恐いもの見たさなのか、ゆっくりと振り向いてしまった。
その目の先には︱︱ぼろぼろの金属バッドを引きずった、血まみれ
ゾンビの姿が︱︱。
﹁ぎゃあーーー!!!やだぁーーーー!!﹂
長身の怜の腕をものすごい力で引っ張り、紗弓は文字通りゴールへ
逃げ出した。
﹁はぁ、はぁ⋮﹂
﹁いや思ってたより上手にできてましたよね。相当研究したんでし
ょうねぇ﹂
﹁はぁ、⋮うっ⋮はぁ⋮﹂
﹁紗弓?大丈夫ですか?﹂
息を切らしながら廊下で俯き、胸に手を当てる彼女を若干心配そう
に怜が覗き込んで見ると、紗弓は目を潤ませて涙をにじませていた。
﹁⋮恐かったんですねぇ、もう大丈夫ですよ?﹂
﹁うっ⋮う⋮恐くなかっ⋮⋮こ、恐かった⋮﹂
やっと認めた紗弓はべったりと窓にへばりつく。
怜はうんうんと頷いて、優しく紗弓の肩を抱き寄せた。
﹁へばりつくならこちらにどうぞ。それにしても最後のゾンビは迫
力ありましたねぇ、さすが護です﹂
﹁えっ!?あれ多賀くんだったの!?﹂
﹁そうですよ?ちゃんと顔見てなかったんですか?﹂
そんな余裕、どこにもありはしなかった。
しかし、それにしても怜は最初から最後まで全くの余裕だった。紗
弓は少し面白くなくてぐい、と怜の体から自分を引き剥がす。
﹁もう大丈夫よっ⋮!それにしても⋮佐久間が全然恐がらないの、
ずるいわ。ちょっとは驚けばいいのに。人生で驚いたことあるの?﹂
﹁ずるいって⋮ふふ。驚いたことですか?それはもちろんあります
367
よ。具体的にと聞かれたらちょっと困りますけど﹂
﹁何よそれ⋮。もういいわ。次はえっと⋮佐久間のクラス、だっけ
?﹂
﹁ええ、縁日をやってるんですよ。でもお化け屋敷で時間を食って
しまいましたね。もうそろそろ体育館に行かないと、いい席が取れ
ないかもしれません﹂
少し話し合って、結局怜のクラスは明日遊びに行く事になった。
二人はそのまま体育館に向かって歩き出す。
やがてついた体育館には演劇の前の演目なのか、軽音楽部が演奏を
している。その中を怜と紗弓は歩いていって、ふいに怜がポケット
から携帯電話を取り出した。
﹁ああ、もうついてますね⋮真ん中の⋮ふむ、こっちです、紗弓﹂
紗弓の手を取って怜がすたすたと歩いていくと、そこには八雲と響
子が座っていた。
﹁やぁ来たね﹂
﹁ええ、護のお化け屋敷に行ってましたよ﹂
そう言って怜は紗弓を促して席に座る。隣になった響子に紗弓は話
しかけた。
﹁びっくりしたわ、もう来てたのね﹂
﹁うん⋮もっと後に行くつもりだったんだけどね、光国先輩が誘っ
てくれたの﹂
響子が教室で給仕をしているとふらりと八雲が現れて、響子を誘っ
たらしい。
彼の宣伝効果で売り上げも上々だった為、草薙は礼だとばかりに響
子を八雲に押し付けた。
﹁お昼もまだだったから、屋台とか、2年の喫茶店も寄ってみたの。
非常食カフェっていってね、いろんな防災グッズ紹介のパネル展示
とか⋮。ご飯はね、お水を注ぎ口に入れると、ぶわーって湯気がで
てほかほかのご飯ができたり、暖めなくても美味しいカレーとか⋮
ハンバーグとかあったのよ?﹂
368
﹁へぇ∼!そんな所あったんだ。明日は2年や3年のところも見た
いわねぇ⋮﹂
などと相槌を打ちつつも、紗弓は響子に対して少し驚いていた。
1学期のころは本当に紗弓にべったりで、紗弓がいないとずっと一
人で黙々と勉強をしたり、本を読んでいるような子だったのに、い
つの間にかこうやって苦手だったはずの男性と二人で歩いたりして
いる。少しずつだけど彼女の人見知りが改善されているように思え
て、紗弓は驚きつつも良かったと目を細めた。
﹁そっか、他にはどこ行ったの?﹂
﹁んと⋮ね。あ、ちょっとだけど茶道部の体験もしてみたの。ふふ、
光国先輩が入ってきたから大騒ぎになってしまって⋮あまり落ち着
いて茶道って雰囲気には⋮ならなかったかな﹂
﹁ごめんね∼あんなに大騒ぎになるとは思わなかったんだよ。そう
いえば茶道部ってあまり遊びに行ってなかったからねぇ﹂
話を聞いていた八雲が困ったように笑い出す。
﹁成程、何となく想像つくわね。しかも響ちゃん、その格好で行っ
たんでしょ?余計に、よね﹂
自分も人のことが言えないが、あははと笑う。
紗弓と同じで響子もコスプレのままだった。チャイナでウサミミ。
目立たないわけがない。
響子は恥ずかしそうに顔をふせた。今はうさみみをつけていなくて、
膝においている。後ろの人への配慮だろう。
紗弓も同じように犬耳のカチューシャをはずした。
﹁そういえば、劇の内容を知らなかったわ。タイトルは何だったか
しら﹂
かさかさとポケットから取り出したプリントを見ると、横から怜が
プリントに指を指す。
﹁セビリアの理髪師、ですよ。オペラで有名なやつです﹂
﹁名前だけ知ってるわ。内容は全然知らないけど﹂
﹁ええ、それを判りやすく劇として台本を書いたみたいですね。こ
369
れは面白そうです﹂
﹁でもやっぱりオペラっぽく歌も歌うのかな。そんでロジーナ役は
やっぱり鮮花なのかねぇ﹂
なんで登場人物まで知っているんだと聞いてみると、3年の1学期
の頃、音楽の時間に習ったらしい。
やがて軽音楽部の演目が終わり、鮮花のクラス演目が始まる。
アナウンサーの放送の後、ふっと体育館が暗くなり、劇が始まった。
セビリアの理髪師。
怜が言ったように元はオペラである。紗弓はオペラといえば悲劇、
というイメージが強かったのだが、この話はどこまでも軽快で喜劇
だ。
しかもきっとオペラの喜劇さとはまた違う、ちょっと現代風にアレ
ンジしてあって、時々コミカルなネタや、現代の話題を出してくる。
そこがとても面白く感じた。
実際はセビリアというヨーロッパの国で、時代もずっと昔のはずな
のにテレビがあったり、携帯電話を取り出してコントのようなこと
をしたり、ロジーナが本来はバルコニーから助けを求める手紙を落
とす場面が、なぜかパソコンの掲示板で、﹁バルトロの財産目当て、
見え見えで超うざい﹂とか打っていたり、いちいち演出が面白い。
ちなみにロジーナは鮮花ではなかった。クラスの女子の一人だろう。
今風のギャルっぽいメイクをしていても服装は昔の貴族が着ていた
ようなドレスを着ているというアンマッチングがまた笑いを誘って
しまう。
しかしオペラの部分も少し残している風があって、場面が切り替わ
るごとにクラスの人たちが集まって、歌を歌い出す。オペラと同じ
メロディーなのだが、歌詞は日本語に翻訳されていてわかりやすい。
そしてロジーナを手に入れるために理髪師と伯爵が企み、実行して
いく。
ショートコントのように演じる恋敵バルトロと音楽教師バジリオの
370
やりとり。
テンポのよい、まるで悪巧みのような恋への物語。
やがてアルマヴィーヴァ伯爵とロジーナは結ばれる。
﹁どうしよう!嬉しくて気が変になりそうだわ!貴方と結婚できる
なんて幸せすぎて、ああっ鼻血が!﹂
﹁君の鼻血くらい私は飲み込んでみせるよ、愛しいロジーナ。私は
愛の為ならなんでもできる!﹂
﹁いやそれ、きもいよー伯爵、すごいきもいよー﹂
後ろのほうで、この場にいないはずの理髪師フィガロがこっそりつ
っこんで、観客が笑い出す。
最後にはバルトロが﹁ロジーナには一銭の金も持っていかさねーよ
バーカ!﹂と言い出したが、キリッとした伯爵が﹁持参金なんてい
らねーよ!てめーに全部くれてやるわバーカ!﹂と返したが、やは
り後ろでフィガロが﹁ガキの喧嘩かよ!﹂とつっこんでまた笑いを
誘う。
しかしバルトロがそれを聞いて﹁あ、ならいいです。どうぞどうぞ﹂
とロジーナを伯爵へ差し出すのだ。
そしてバジリオとバルトロの漫才のような愚痴の言い合いの後、ク
ラス全員が舞台に立ってオペラと同じフィナーレを歌い出す。
割れんばかりの拍手の中、ゆっくりと緞帳が下りていった。
紗弓も一生懸命拍手をして劇の面白さを懸命に伝えようとする。
﹁ああ、面白かった!なんだかオペラのほうも見たくなってくるわ
ね﹂
﹁それなら丁度いいですね。3年になったら嫌でも見せられますよ。
オペラの方をね﹂
がやがやと体育館から出て行く人に紛れて紗弓達もそこから出てく
る。
﹁それにしてもびっくりしました。伯爵役だったんですね、鮮花先
輩﹂
371
﹁俺もびっくりしたー。男装似合うんだな。すげぇマッチしてて一
瞬鮮花ってわからなかったよ﹂
響子の言葉に八雲がうんうんと頷く。
﹁鮮花の地声は結構ハスキーですからね。低めの声を調整すればあ
あいう声も出せるんですよ﹂
﹁へぇ∼何というか、芸達者な人なのね⋮﹂
しかし本当に面白かったと思う。あの台本を書いた人は喜劇の才能
があるのではないか、と思ってしまうほどだった。
﹁あの出来なら、明日はもっと増えそうですね。この劇を見てよか
ったと思う人が話して回るでしょうから﹂
怜がそう言って笑う。全くその通りだと思った。紗弓自身、クラス
に戻ったら話そうと思っていたくらいなのだ。
4人はそうやって劇の感想を話しながら歩き、やがて1年校舎の前
にたどり着いた。
﹁さて、そろそろ僕達も見回りやらクラスやらに戻らなきゃ。君達
もだろ?﹂
﹁そうね。私は風紀委員の見回り時間ももうすぐだし⋮一度教室に
も戻るわ﹂
﹁はい。誘ってくれてありがとうございました、光国先輩﹂
ふかぶかと響子が八雲にお辞儀をする。彼はいやいやと笑って手を
パタパタとさせた。
﹁こっちもいきなり誘っちゃって悪かったね。それじゃまたねー﹂
﹁紗弓も、あの特殊な方々が帰っているといいですね。それでは放
課後にまた、メールしますね﹂
﹁⋮うん。今日はいっぱいつきあってもらってありがとうね。それ
じゃ﹂
手を振ると、怜と八雲はにっこりと笑って去っていく。
それを何となく見送って、紗弓は響子と共に教室へと帰っていった。
372
36.文化祭二日目。VS怜を取り巻く女達
文化祭二日目。閉会式もある為、1日目ほど開催時間は長くない。
午前の見回りまできっかりクラスのコスプレ喫茶で給仕をした紗弓
は、今度こそと化学室できちんと制服に着替えて見回りを始める。
そうすればいつも通りで、特にからかわれたり追いかけられたりす
ることもなく仕事をすることができた。
ふぅ、と息を吐いてエコバックの中を検める。
やはり文化祭になると気が緩むのだろう。飲酒はさすがにないが、
煙草は2箱。グラビア雑誌は1冊、成人向け雑誌が1冊。最初のこ
ろはこの類を回収するのが恥ずかしくて仕方なかったが、最近は慣
れたものだった。ようするに中身さえ見なければ良い話なのである。
没収品はこの数点だが、他にも女子生徒の制服改造が3人、あきら
かな髪型違反の人もいた。文化祭だからある程度は目が瞑られるの
だが、さすがにエクステンションをつけまくったような派手なのや、
明らかな脱色は許されない。また、これも女子に多いが、やりすぎ
のメイクなどである。
一体何に対してそこまでの気合を見せているのだろう⋮。
少し考えて、まぁ、そんなものかなとも思う。稔が言っていたし、
自分も被害に遭ったようにナンパも多い。逆に出会いを求めている
人も多いらしいのだ。
この日をチャンスと考える人もいるのだろう。それでも違反はよろ
しくない、と紗弓はチェック表を確認した後職員室へと行く。
職員室も騒然としていて生徒の出入りが激しく、先生も忙しそうだ。
風紀委員の顧問に声をかけて金庫を開けてもらい、没収品を保管し
てもらう。
﹁お疲れ様だな。やはりいつもより没収品も違反者も多い⋮仕方な
いが、もう少しだけ頑張ってくれ﹂
﹁はい。それではこれ、チェックお願いします﹂
373
リストを顧問へ渡して職員室を後にする。
腕時計を見れば12時。
﹁やっば⋮もう着替え終わってるかな﹂
早足で化学室へと向かう。響子と栞の三人で、昼から少し回る約束
をしているのだ。
紗弓は急ぐように歩を進めた。
◆◇◆◇
響子たちと合流した後、お昼御飯を兼ねて3年の喫茶店に行ってみ
た。
そこは渋くうどん屋で、普通のからちょっと驚いてしまうようなメ
ニューが揃っており、中にはスィーツうどんというのもあって、そ
れはもちもちとした白玉粉で作ったうどんを模したものに黒蜜をか
けてきなこをまぶしたようなもので意外と美味しい。
紗弓はそれと、納豆うどんという変わったものを食べて、不思議な
美味しさに舌鼓を打つ。
﹁こういうのって、新境地よね。あーでも、おうどんにチーズはち
ょっと合わなさそうだけど、どうなの?﹂
﹁ん⋮釜揚げしたおうどんにチーズとバター醤油が混ざってるのか
な⋮。意外に美味しいよ?﹂
﹁結構ちゃんと考えてるよねぇ、このおうどんも美味しい。野菜の
あんかけ炒めがね、おうどんの淡白な味にすごく合うの﹂
凝ってるよねぇと3人で盛り上がり、食べ終える。
今日は出し物を回るのもあるが、怜と八雲がいるクラスに遊びにい
くという目的もある。3人は昼食をそこそこに、彼らのクラスへと
移動した。
﹁やぁ、お三方いらっしゃーい﹂
浴衣を着た八雲が紗弓達を歓迎する。
374
﹁わっ⋮浴衣ですか。びっくりしました﹂
栞が目を見開いて驚き、紗弓も同じようにぎょっとしてから教室の
中を見ればここの生徒らしき人は皆浴衣を着て接客をしている。本
当に﹁縁日﹂を模したものらしい。
﹁ゆっくり見ていってね。あ、中は遊び放題だから先に青チケット、
3枚頂戴ね﹂
はーい、と紗弓達は八雲にチケットを渡していく。彼は今日、この
教室の受付のような係らしい。中に入ってから後ろを振り返れば、
お客の人たち、特に女性からかわるがわると声をかけられては愛想
をふりまいて、中へ誘導している。
﹁確かに受付係にうってつけだねー﹂
栞がそう笑って、響子もそうだねぇ、と同意した。
紗弓は辺りをぐるりと見渡してみる。するとすぐに怜は見つかった。
見つかったが、紗弓はそちらに行くのをためらう。なぜかと言うと
人だかりができているからだ。勿論全員女性である。
この学校の生徒もいるが、部外者らしい私服の人のほうが圧倒的に
多い。
とりあえず彼は何の担当なんだ?とチラッと隙間から見てみると、
どうやらヨーヨー釣りの担当のようだった。
﹁やだぁ、また糸が切れちゃった。ねぇ、コツとかないんですかぁ
?﹂
﹁そうですねぇ⋮あ、それなら取れそうですよ?こうやって⋮﹂
﹁ずるーい!私のも取って、取ってぇ﹂
﹁はい、順番ですよ?それに一応ゲームなんですからね?一回くら
いはチャレンジしてみて下さい﹂
ニコニコと彼は次々に話しかけてくる媚びた声の女性達に対応して
いる。
思わず感心してしまうくらいだ。受付の八雲といい、彼らは本当に
女性の扱いに慣れている。
﹁さゆちゃん、佐久間先輩のところ行かないの?﹂
375
﹁あの人だかりを割って?⋮とりあえず別のところから見てみまし
ょ﹂
聞いてくる響子にそう言って、紗弓たちは他の浴衣姿の生徒のとこ
ろへ行ってみる。
まず見に行った所は黒板に的が書かれた射的屋だった。女子生徒が
にっこりと笑って相手をしてくれる。
﹁あら、佐久間君の彼女さんね。お久しぶりー!いらっしゃいませ
∼。さぁ、射的やる?﹂
﹁そ、そういう覚え方をしないでくださいっ!やりますけど⋮!﹂
くすくすと笑って彼女が紗弓にコルク銃を渡してくる。
﹁これ、当てたら景品が貰えるんですか?﹂
栞の質問に﹁ええ﹂と女子生徒が頷く。
﹁一番小さいマルに当てたら1等賞!って感じで5等まで用意され
ているのよ。お二人も頑張ってね﹂
彼女は栞と響子にもコルク銃を渡して﹁レッツトラーイ﹂と元気よ
く拳を振った。
ビニールテープが張られた位置に立って、紗弓は黒板に狙いを定め
る。
コントロール。それは紗弓にとってとても苦手な分野の一つである。
というか最近は不得意なことばかり強いられている気がする。紗弓
の得意は、走る事と力技だ。胸が大きいのに足が速いという何とも
矛盾した特技を彼女は持っている。風紀委員で没収行為に慣れてい
るのか騎馬戦で人のハチマキを奪うのもとても上手である。
おかげで体育祭ではとても重宝がられたが、逆に言えば体育祭くら
いでしか彼女が活躍する場面がないともいう。
﹁えいっ!﹂
意味もなく気合の声をかけて紗弓はコルク銃を撃ち放つ。
﹁いてえ!!﹂
ポコンといい音を立ててコルクが当たったのは、何故か紗弓の真横
の入り口で女の子と話していた八雲の額だった。
376
﹁きゃあ八雲さま大丈夫!?﹂
﹁額、赤くなってるわよ!というかこのコルクどこから飛んできた
の!?﹂
﹁な、なんでそっちにー!?ご、ごめんなさいー!﹂
紗弓が慌てて八雲に謝ると、彼は額を押さえながらそれでも笑顔で
﹁だ、大丈夫だよ⋮﹂とコルクを紗弓に向かって投げてくれた。
見れば射的担当の女子生徒は腹を抱えて笑っているし、響子と栞も
笑ってはいけないと自制しつつも肩を震わせている。
﹁なに、なによー!べ、別に狙ったわけじゃないのよ!﹂
﹁わ、わかってるよ⋮。さゆちゃんのコントロールがある意味すご
いのは球技大会で知ったから⋮﹂
﹁うん⋮あれを狙ってたなら、逆にすごいと思うよ⋮?﹂
すでに二人ともフォローする気はないらしい。うう、と凹みつつも
う一度とコルクを銃に詰めて、狙いを定めた。
﹁たぁっ!﹂
次は目を瞑らないでやればいいと打ち放てば天井に当たって返って
きた自分の頭にコルクをぶつけ、最後の一発と撃てば、八雲と逆方
向の窓にぺこんと当たった。
﹁なんでまっすぐに行かないのー!?﹂
﹁さゆちゃん⋮それはもう、一種の才能だよ⋮﹂
ぽん、と栞が肩をたたいて慰める。
ちなみに響子も狙うのは少し苦手なのかハズレが2回、4等を1回
当て、栞は2等、4等と当てて一回はずすという結果になった。
﹁ほら、さゆちゃん。4等の景品あげる。粉ジュースだって。ふふ
⋮何だか懐かしいね﹂
栞に4等の景品を貰って、よしよしと頭を撫でられる。紗弓はうん
と頷いて素直にそれを貰った。
﹁次はさゆちゃんの得意そうなのにしよう?えーっと⋮何がいいか
な⋮あっ、お菓子の掴み取り!あれにしよう。ね?﹂
﹁響ちゃん⋮お菓子の掴み取りって、得意というより誰でもできる
377
からああ⋮﹂
さりげなくとどめをさされてヨロヨロとそちらに向かう。
お菓子の掴み取りには浴衣姿の男子生徒がいて、いらっしゃーいと
明るく声をかけてくれた。
ルールを聞くと、目の前の桶の中にある沢山のお菓子を掴んだ分、
包んでくれるのだが、その前に一度量りにかけ、重さに応じてプラ
ス景品も貰えるというものだった。
紗弓は手をぐー、ぱーと閉じて開き、手の小ささにちょっと凹みそ
うになったが、腕をまくって気合を入れる。
﹁じゃあ私からいくわよ。たぁっ!﹂
ズボッと音を立てて桶の中に手が入る。ぐぐっと思い切り沢山掴ん
で﹁てぃっ﹂と持ち上げた。
﹁おおー小さい手の割りにがんばったなぁ。っと⋮ん、景品はこれ
だな﹂
と、3等の景品をくれた。可愛い柄のシュシュである。
﹁わぁ、これ可愛い!﹂
﹁本当、3等なのにいい景品だねぇ。よかったねー﹂
﹁それは女の子用な。そのシュシュ、うちのクラスの子の手作りな
んだ﹂
成程、と紗弓たちは盛り上がる。結局響子と栞も3等で、柄の違う
可愛いシュシュを手に入れた。
他にも輪投げや、スーパーボール掬い、駄菓子などを見て紗弓は再
び怜の方へ目を向けた。
人だかりは減る様子がない。
一応人の出入りはあるのだが、かわるがわると新しい女性がやって
くるのだ。
﹁さゆちゃん⋮どうする?﹂
﹁どうするっても⋮どうしよ?﹂
﹁もう!そんな事言ってたら佐久間先輩の彼女なんてやってられな
いよ?ほら、行こう!﹂
378
栞がしびれを切らしたように紗弓の手を取って人だかりに歩いてい
く。
彼女は1学期の指輪事件から何かふっきれたような感じで、時々こ
うやって強引に紗弓を連れて怜に押し付けてくる。
彼女なりに紗弓を応援しているのだろう。
いや、応援されても困るんだけど、と心の中で思いつつも紗弓は彼
女に連れられてとうとう人だかりの真後ろまで来てしまった。
﹁すみませーん。ちょっとごめんなさい。佐久間先輩のお客様なの
でー﹂
え?何よ!などと騒ぐ女性達の間を割って栞が紗弓を怜の前まで押
し込んだ。
﹁わっ⋮!と⋮。あ、どうも⋮﹂
﹁紗弓、いらっしゃい。さっきの射的、見てましたよ?すばらしい
狙いでしたね﹂
﹁いきなり嫌味なの!?ま、まぁその⋮来たわよ﹂
ぷいとそっぽを向きながらそう言うと、怜はにっこりと笑って﹁待
ってましたよ﹂と頭を撫でてくる。
彼も勿論浴衣姿だった。
少し緩めに着ているのか、ちらと見える鎖骨が妙に色っぽい。
コホンと咳払いをして目線をごまかしていると、怜は後ろにいる響
子と栞にも声をかけた。
﹁いらっしゃい。こちらにどうぞ?頑張って釣ってくださいね﹂
と、こよりの下に小さなフックのついた釣り具を3つ渡してくる。
紗弓もそれを受け取って、まじまじと桶に浮くヨーヨーを見た。
取り合えず挑戦だとばかりに紗弓はこよりを構える。⋮その時出鼻
をくじくように不満そうな女の声が上がった。
﹁ちょっとぉ!怜くんは私が今話してたのよ?何割り込んでるのよ
!﹂
﹁すみません。ですが彼女達は忙しい身なもので⋮先に優先させて
もらえませんか?﹂
379
紗弓より先手を打つように怜が女性へにっこりと声をかける。する
と借りてきた猫のように女性は大人しくなって引き下がった。
紗弓は気を改めてヨーヨーに狙いを定め、震える手でヨーヨーの輪
にフックをかける。
﹁⋮ていっ!﹂
そのまま力いっぱい引き上げると、こよりはプチリと切れてフック
が水に沈んだ。
紗弓はがくり、と肩を落とす。
すると隣に来た響子が彼女にアドバイスを送ってきた。
﹁さゆちゃん、力尽くで持ち上げたら水とヨーヨーの表面張力でこ
よりが千切れちゃうんだよ。見てて、こうやってゆっくり⋮ほら、
とれた﹂
響子はフックをヨーヨーの輪にかけると、丁寧な手つきでゆっくり
と持ち上げる。するとぽわりとヨーヨーは持ち上がって響子の手に
渡った。
﹁な、なるほど⋮そうやるのね。把握したわ!﹂
ゆっくり、ゆっくり、と自分に言い聞かせながら紗弓もフックをか
けようとする。しかし次はこよりが水についてしまって、あっとい
う間にふやけたこよりはまた千切れてしまった。
﹁うう⋮﹂
﹁さゆちゃんって本当に不器⋮ああいや、あのね、フックだけを輪
にかけるようにしたらいいんだよ。ひっかけやすいヨーヨーがある
の、ほら⋮これとか﹂
次は栞が紗弓にアドバイスするように、釣り具でヨーヨーを引き上
げてみせる。
なんでそんな簡単そうに釣り上げるのだ、と思いつつも紗弓は残り
1つのこよりに気合を入れなおした。
﹁紗弓、僕が取りましょうか?﹂
﹁何言ってるのよ!自分でやるに決まってるでしょうがっ!﹂
集中の妨げをするなとばかりに紗弓は怜にシャーッと威嚇し、再び
380
目を閉じて集中する。
そんな真剣な彼女の仕草に怜はくっくっと笑いながら﹁じゃあ応援
してますね﹂と言った。
﹁いくわよっ!﹂
すちゃ!とこよりをかまえ、次は水につかないように、取りやすそ
うなヨーヨーを選んでフックにかける。ゆっくり、ゆっくりと持ち
上げ、ヨーヨーは水面から完全に離れた。
﹁取れ⋮!﹂
た、と言い切ろうとした時、ぷちんと音を立ててこよりが千切れる。
ぼしゃ、と音を立ててヨーヨーは桶に落ちていった。
途端にしゅんとした悲しい顔をする紗弓の顔。
怜は顔を手で覆って肩を震わせた。笑っているのではない、耐えて
いるのだ。
ヨーヨー一つでこんなに一喜一憂するなんて。可愛くて仕方ない。
今すぐキスして慰めたくて堪らなくなる。
しかし紗弓はそれを笑っていると取ったらしい、フンとそっぽを向
いて響子に場所を譲った。
﹁あ、すみません。笑ったんじゃないですよ?紗弓。今のはその⋮
こよりに裏切られた感じですからね。それにちゃんと水から上がっ
たんですし、これは貴女のですよ﹂
﹁いいわよ別に、そんなフォローしなくても﹂
﹁フォローじゃないですよ。ちゃんとしたルールに則ってます。は
い、どうぞ﹂
紗弓が落としたヨーヨーを摘んでタオルで拭き、彼女に渡す。しぶ
しぶといった顔で紗弓もそれを受け取った。
﹁ありがと⋮﹂
﹁どういたしまして?本当に紗弓は何でも一生懸命ですね。⋮そん
な所がとても、可愛いですよ﹂
頭を撫でて、ついでのように頬も撫でてから手を離す。
かぁっと紗弓が顔を赤くして俯き、所在なげにヨーヨーの輪を弄り
381
始めた。
そんな二人のやりとりの間に響子や栞は見事3つヨーヨーを手に入
れ、満足顔でそれを受け取る。
﹁すごいわねぇ、ふたりとも。3回連続成功するなんて﹂
﹁コツがあるんだよ∼。さゆちゃんも練習したら絶対できるって。
今度お祭り行ったらやろうね﹂
にっこりと響子が笑う。
とりあえずは怜の持ち場で遊べたことだし帰ろうと紗弓たちが立ち
上がると、不満げに紗弓を見ていた女の一人が彼女へ声をかけた。
﹁⋮何だかやたらと怜くんとべたべたしてたけど、何なのあなた﹂
﹁べたべた⋮?﹂
少し嫌そうな顔をして紗弓は顔をしかめる。
しかし女性も負けず顔をゆがめて紗弓を睨みつけており、またこの
パターンかと紗弓はげんなりした。
﹁はぁ⋮彼女はですね﹂
﹁怜くんに聞いてないのっ!この子に聞いてるのよ。黙ってないで
答えなさいよ。貴女怜くんの何なの?﹂
口を出す怜に女はヒステリーのような声を上げ、再び紗弓を睨む。
どこまでも傲慢そうな彼女の物言いに紗弓もムッとした。
︵どうしてこういう、佐久間に集る女の人って⋮妙に上から目線な
の?︶
だから言ってやろうと思った。どうせ怜だっていつも言っている事
だし、自分だってたまには言ってもいいだろう。偽りとはいえ、二
人はそういう関係なのだから。
﹁何って、佐久間は私の彼氏ですけど?﹂
そうぶっきらぼうに言い放つと、女の目がさらに吊り上った。
﹁は、はぁ⋮?あんたみたいな子が怜くんの彼女?冗談もいい加減
に︱︱﹂
﹁紗弓は僕の大事な彼女ですよ?すみません。僕はすでに売約済な
んです﹂
382
にっこりと、極上の笑顔を称えて怜が追い討ちをかける。
な、な、とぱくぱく口を開ける女性を尻目に、怜は立ち上がって紗
弓の手を取った。
﹁な、なに?﹂
﹁いえ、嬉しくて。⋮初めて言ってくれたから。今日も一緒に帰り
ましょうね?打ち上げが終わったら連絡しますので﹂
優しく甘い笑顔でそう囁いて、怜は紗弓の手の甲にキスを落とす。
きゃあー!と周りが女性の叫びで囲まれて、紗弓の顔は真っ赤にな
った。
﹁何をするのよこんな人目のある所で!ばかー!﹂
照れ隠しに怜の腹に一発拳を入れ、紗弓は﹁いくわよっ!﹂とずん
ずん歩いて去っていく。
﹁あ、まって、さゆちゃんー﹂
響子と栞も怜に頭を軽く下げてから慌てて紗弓についていく。
そんな彼女達を見送って、怜は再び椅子に座りなおした。
﹁さて、次の方は誰でしたか?ヨーヨー、欲しいんですよね?取っ
て差し上げますよ﹂
にっこりと笑って釣り具を軽く掲げる。
女たちは顔を見合わせ、複雑そうな顔をした。
383
37.打ち上げ。二人の距離は遠く近く
文化祭が終わり、クラス別で軽い打ち上げを始める。
その日だけはジュースやお菓子を机に並べ、皆でそれを摘みながら
会話に花を咲かせる。
﹁結局、売り上げはどうなったんだ?﹂
﹁最終的な数字は生徒会に提出した後発表だけど、自信はあるぞ!﹂
﹁1年の特別賞はやっぱり5組かー⋮お化け屋敷完成度高かったも
んな﹂
あちこちでワイワイと話が盛り上がる。
紗弓も同じようにクラスメートと話をしながらジュースを口にした。
﹁それにしても目立ってたよ∼真城ちゃん﹂
﹁もうその話はやめてってばー!初日は本当失敗したって思ってる
わよ。横着せずに着替えればよかったわ﹂
﹁それもあるけど⋮佐久間先輩と歩いてたでしょ、一日目﹂
くふふ、と手を口に当ててクラスメートの女子がおかしそうに言っ
てくる。
他の子達も口々と﹁話題になってたよー﹂とか﹁先輩方の睨みが迫
力あった﹂など笑って言ってくる。
﹁そ、そんなに目立ってた⋮?﹂
﹁うん!だってすごいお似合いなんだもん。羨ましがられちゃうの
も仕方ないよ﹂
﹁中庭に座ってー、パンとか半分こしてたんでしょ?お化け屋敷で
も佐久間先輩がすっごく楽しそうだったって聞いたし。もうラブラ
ブなんだねぇー﹂
﹁なんでそんな、事細やかに見てるのよ⋮!?﹂
がーん、と紗弓がショックを受けていると、クラスメートは目を合
わせて﹁だってねぇ﹂と言って笑う。
384
﹁注目されないほうがおかしいよ?あの佐久間先輩だよ?あんなに
彼女がころころ変わってたのに、ここ半年くらいずっと真城ちゃん
と一緒にいるし⋮しかもすごく仲が良くて⋮皆見ちゃうよね﹂
﹁最初はどうせ長続きはしないって言われてたけど、今はもう文句
つけようがないって、先輩達も諦めモードだもんね。佐久間先輩に
おつきあいをお願いしてくる女子、今は大分と減ったらしいよ?﹂
そうなんだ、と紗弓は相槌を打ちながら、お菓子をパリリと齧って
天井を見る。
自分が目立つのは嫌だけど、今のところ佐久間怜の思惑通りに事が
進んでいるのだろう。
このまま行けば卒業式の頃には彼を執拗に誘う女子もいなくなって、
何事もなく式を迎えることができそうだ。
そんな風に考えて、紗弓の胸にちくりとした痛みを感じた。
前にもあった。時々感じるこの胸の痛み。
何だろう?良い事のはずなのに。この状況は彼が望み、紗弓が協力
した結果だ。そうして卒業式を迎えれば自分は晴れてお役ご免とな
る。
なのに胸がちくちくする。元気がなくなる。寂しいと⋮思ってしま
う。
どうしてだろう?
紗弓の顔はどこか浮かない表情で、打ち上げの時間はすぎていった。
帰り道。
お互いにクラスで打ち上げの終わった紗弓と怜は二人並んで帰路に
つく。
﹁それで調子に乗った八雲がオリーブの首飾りを歌いながら浴衣を
脱ぎ始めましてねぇ⋮﹂
﹁バカだわ⋮。それにしても打ち上げで盛り上がって、野球拳始め
るクラスっていうのもどうなのよ﹂
﹁さすがに参加者は男子生徒ばかりですけどね。でも女子は盛り上
385
がってましたよ?﹂
お互いの打ち上げ情景を報告するように、二人の会話は進んでいく。
最近の帰路は紗弓のマンションまで怜が送って行き、そのまま彼は
駅へと帰るという道が主だった。
打ち上げがあった為、いつもより帰りの時間は遅くてすっかり辺り
は暗く、時々街灯が照らされた道を歩いていく。
ふと、紗弓は自分の打ち上げ時の話を思い出して、世間話のように
怜へ言ってみた。
﹁あの⋮ね、うちのクラスの子が言ってたんだけど⋮。ほら、文化
祭で佐久間と一緒に回った時あったでしょ?あれ、すごく目立って
たんだって﹂
﹁そうでしょうねぇ。紗弓は可愛い犬メイドでしたし、僕は普段か
らも目立っているようですから仕方ないかもしれません﹂
特に驚いた様子もなく、ごく普通に返してくる。
それで紗弓も、ぽそぽそと話の続きを口にした。
﹁ん⋮でしょうね。それでね⋮聞いたんだけど。最近はお誘いして
くる人とか⋮大分と減ったって、聞いたんだけど⋮そうなの?﹂
すると怜は思い出したように﹁ああ⋮そういえば﹂と呟いた。
﹁減りましたね。諦めの悪い方が時々聞いてきたりしますけど、1
学期の頃に比べれば大分と。まぁ、毎日のように紗弓とこうやって
帰ったり、一緒にお昼を食べたりしていればね、さすがに諦めざる
を得ないのでしょう﹂
それに、と彼は付け加えたがしばらく黙って﹁いえ、何でもありま
せん﹂と笑う。
少し紗弓は首をかしげるが、やがて気を取り直し、よくわからない
不安を胸に抱えたまま怜へ問うた。
﹁これで、いいのよね⋮?﹂
﹁⋮どういう意味でしょう﹂
怜は穏やかに優しく質問を返してくる。紗弓は何故か彼の顔を見る
ことができなくて正面を向きながら口を開いた。
386
﹁だから、これで⋮佐久間の卒業式までこのままで⋮。そ、それで
⋮卒業したら、お⋮終わり、なのよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
怜はそれに答えず黙り込む。
あまりに長い間黙ってしまって、紗弓は不安の表情でつい、彼を見
上げてしまった。
すると目が合う。怜はずっと紗弓を見ていたのだ。⋮とても真剣な
顔で。
﹁佐久間⋮?﹂
﹁紗弓は?⋮紗弓はどうしたいんですか。僕の卒業式で⋮さような
らって終わりで⋮いいんですか?﹂
いつの間にか二人は立ち止まっていた。
マンションまであと少し。電柱上の照明が、スポットライトのよう
に二人を照らしている。
紗弓は怜の顔を見ながら想像しようとした。彼の卒業式。自分は役
目を終わったと笑って彼を見送っている。
⋮想像が、つかない。
怜とそれで関係が断絶するのが全く想像できないのだ。
ふるふる、と紗弓は首を振る。
﹁⋮嫌⋮。佐久間とそれでさようなら、っていうのは⋮いや⋮﹂
そう、泣きそうな顔で彼女が言うと怜はとても優しい目をしてにっ
こりと笑った。
労わるように頭を撫で、肩に触れてくる。
⋮いつの間にかこれくらいの接触は、当たり前になっている。
﹁じゃあ⋮このままでいいじゃないですか。僕だってここまで紗弓
と仲良くなって、さようならなんて嫌です。最初こそ卒業まで、と
期限を設けましたが別に契約書を交わしたわけでもないんですよ?
⋮確かに卒業すれば学校ほどは会えませんけど、メールや電話があ
るんですから⋮いくらでもつながりは保てます﹂
ね?と言われて紗弓はほっとした顔をした。
387
⋮そうか、卒業式で終わりじゃない。確かに最初はそんな話もして
いたけれど、今はずっと状況が違っている。何よりも違うのが紗弓
自身の気持ちだ。
怜と一緒にいたい。怜と他愛ない話をしていたい。怜とずっとこう
やって歩いていたい。
それが彼の卒業でぷつりと切れるのが恐かった。⋮でも、彼が言う
ようにそれで終わりにしなくても良いのだ。メールや電話で連絡を
とってもいいし、時々街で遊んでもいいだろう。終わりじゃない⋮
来年も、これからもずっと、会えるんだ。
そう思うと紗弓の心は嬉しくなった。
﹁⋮そっか。⋮そうよね。だ、だって⋮友達みたいなものだもんね。
⋮もう﹂
﹁⋮⋮⋮そう、ですね﹂
にっこりと紗弓が笑うと、怜は穏やかな笑みで返してきた。
心が安心して、紗弓は残りの帰路を歩き始める。その後ろを怜は続
くように歩く。
︱︱紗弓の後姿を切ない目で見つめながら。
◆◇◆◇
楽しいお祭りが終われば、辛く苦しい期末テストが待っている。
文化祭終了後はしばらくお祭り気分だった生徒達も、だんだんと勉
強モードにスイッチが切り替わっていって、テスト期間に入る頃に
はクラスメートとの会話内容はほぼテストの話だった。
﹁あぁ⋮自信なーい⋮﹂
﹁ふふ、さゆちゃんずっとそれ言ってる。大丈夫だよ、数学は私が
教えたんだから﹂
えへんと小さな胸を張る響子。
彼女とは中学の頃からの友達だが、高校に入ってから随分と響子は
明るくなった。
388
文化祭を経て彼女の器用さが周りに知られて、難しい課題や手先の
器用さが必要な課題のアドバイスをクラスメートが貰いにきたり、
それがきっかけで会話が増えたり、本当に良い傾向になってきたと
紗弓は思う。
﹁そうね。それに関してでいえば物理よりは点数いいかもしれない
わ﹂
ぐったりと倒れていた体を起こして、次のテストの準備を始める。
次は歴史だ。比較的得意教科なので心に少し余裕がある。
一応、と簡単な単語ノートをパラパラと見ていると、ふと思い出し
たように響子が声をかけてきた。
﹁あ⋮もうすぐさゆちゃんの誕生日だね。丁度冬休みに入る頃かな
⋮今年はどうするの?﹂
﹁⋮どうするのって?﹂
﹁ん⋮佐久間先輩と、何かするのかなって﹂
すると紗弓の顔がぶわっと赤くなった。本当にわかりやすいなぁと
響子はしみじみと思う。
﹁なにか、するんだ?﹂
﹁な、なにか⋮っていうか、その⋮で、でーと⋮みたいな⋮事は﹂
﹁ふふっデートするのね。とうとうさゆちゃんが、お母さんと5割
引きクリスマスケーキを囲む会から開放されるんだねぇ﹂
あうう、と慌て出す紗弓を微笑ましく響子は見つめる。
しかしふと、思い出したように首をかしげた。
﹁そういえばね、さゆちゃん⋮﹂
疑問を口にしようとしたところで予鈴が鳴る。ほどなく次のテスト
だ。
足早に席へ座っていく生徒に習って響子も慌てて席に戻る。
教師がテスト用紙を配っていくのを見ながら、響子は紗弓の背中に
﹁さゆちゃんと佐久間先輩は、まだ﹁かりそめの恋人﹂なの?﹂と
心の内で疑問を問いかけた。
389
テストが終わって、紗弓はいつものように生徒会室で昼ごはんを食
べる。
期末テストの期間なので昼には帰れるのだが、どうせ帰っても一人
なのだし、と昼だけはここで食べて帰るのだ。
﹁テストテストって、考えてみれば⋮佐久間と光国先輩はもう一つ
大事なテストがあるのよね。来年に﹂
﹁そうだね∼思い出したくないけど、近いね∼﹂
﹁3年のこの時期は就職組以外は皆忙しそうですね。さすがに僕も
家庭教師のアルバイトを休むことにしました﹂
それはそうだ。こんな大事な時期に人の勉強など見ていられない。
﹁冬休みは皆、予備校で冬期講習とか、塾とか大変そうだよね。二
人ともそういうのは行かないの?﹂
護がそう聞くと、八雲は﹁予備校行くほどの大学じゃない﹂と笑い、
怜は﹁あまり勉強にお金をかけたくなくて﹂と言う。
鮮花はそんな会話を聞くと、弁当を摘みながら怜へと目を流した。
﹁それくらい、出してくれるわよ。国立目指すんだから﹂
﹁えっ⋮!佐久間、国立なんて目指してるの!?﹂
紗弓が目を丸くする。すると怜は珍しくジッと鮮花を睨んできた。
﹁⋮そういう事は言わなくてもいいことでしょう﹂
﹁ごめんなさい。⋮でも腹が立ったのよ。アンタはあの家に気使い
すぎっ!⋮いい人たちなのに﹂
﹁いい人達だからこそ、ですよ。大学費用を出してくれるだけでも
恵まれた事なんですから﹂
不穏な空気が二人を包む。何だかよくわからなくて、紗弓と護は戸
惑うように目を合わせた。
コホンと八雲が咳払いをして場の空気を動かす。
﹁こらこら、二人で勝手に空気悪くしてんじゃないよ。別にいいじ
ゃん国立目指したって。怜は頭いいんだから大丈夫だろうさ﹂
﹁⋮そうなんだ、ま、まぁ頭がいいなら⋮そんなに驚くことでもな
いわよね﹂
390
八雲に乗って紗弓もそう言って場を和ます。
すると怜は一つ軽いため息をつくと、紗弓へと顔を向けた。
﹁すみません。別に隠したい事じゃなかったんですけど⋮。国立な
んて目指してるって判ったら、紗弓は心配するかなって思って。自
分と遊んでる場合じゃないんじゃないか、とか⋮気を使ってきそう
でしょう?貴女は﹂
﹁う⋮そ、それはそう⋮かも﹂
﹁でしょう?⋮まぁ、東大なんて大それたところを目指してるわけ
ではありませんよ。関東圏ですが地方の大学です。だからそんなに
心配そうな顔をしないで下さい。ちゃんとやるべき時に勉強はして
いますから﹂
安心させるように笑みを浮かべて頭を撫でてくる。
最近の怜は何かある度に紗弓の頭を撫で、ついでのように頬や肩に
触れてくる。
紗弓はそれで少し安心したが、次は別の疑問が頭をよぎった。
﹁それにしても、佐久間と鮮花さんって⋮何だか不思議よね。お互
いの事、よく知ってるっていうか⋮﹂
﹁まぁ、つきあいが長いのよ。幼馴染みたいなものかしら﹂
﹁腐れ縁に近いですね﹂
鮮花が肩をすくめて笑い、怜が困ったようにそう言ってくる。
幼馴染というのがいなかった紗弓は﹁そんなものなのか﹂と納得し
たように相槌を打って頷いた。
391
38.クリスマス&バースデー
12月25日は某聖人の誕生日であり、冬休み1日目であり、紗弓
の誕生日でもある。
その前日のイブは麗華と文字通りの﹁クリスマスケーキ﹂を囲んで、
クリスマスプレゼントと兼用の誕生日プレゼントを貰った。
﹁何もこんな⋮プレゼントをくれなくても﹂
﹁ええ?紗弓くらいの年の女の子なら喉から手が出るほど欲しいも
のじゃないの?﹂
母から貰った包みを開けば、そこにはホームエステの器具がごっち
ゃりと入っていた。
中には用途不明の不思議なモノもある。これは説明書を読むのが大
変そうだと紗弓はため息をついた。
﹁まぁ殆ど1000円台なんだけどね、あ、でもこれだけはいいや
つよ!美顔器。にまんえんよ、にまんえん!﹂
﹁そうね⋮ありがとう。この年で美顔器を使う日がくるとは思わな
かったわ﹂
﹁お肌の曲がり角は17歳って言うじゃない!という事はアンタは
来年曲がるのよ!だから今からやっとおいても損はないと見たの。
⋮先行投資ってやつ?﹂
なんか違うと思う、と紗弓は呟き美顔器を手に取った。
だいたい来年曲がるってどういう事だ。それなら目の前にいる麗華
はお肌の曲がり角をどれだけ曲がっているのだろうと思ったが、そ
れは言わないほうが身の為だと口を閉じる。
それでも確かに、最近紗弓は自分を磨くことが習慣になっていたか
ら、こういった目新しいアイテムを使ってみたいという好奇心がな
いわけではない。
麗華に礼を言って、リビングを後にする。
自分の部屋に戻ってプレゼントの袋をベッドに並べた。
392
﹁⋮これ、何だろ⋮変なカタチ⋮マウスピースっていうんだ。⋮こ
れは?⋮ゲッ、鼻に入れるの?これ⋮。すごい⋮絶対誰にも見せら
れない顔になりそう﹂
美鼻になると書いてあるけれど、それを装着している姿は見せられ
たものではない。
世の中の努力家は裏でこんなものを夜な夜なつけて維持しているの
か、と思うと尊敬したい気分になった。
﹁これは⋮ああ、知ってるわ。コロコロするやつね﹂
何となく腕や太ももをころころしてみる。⋮こんなの効くのか?と
首をかしげてしまった。
しかしこういうのは続けることが大事なのだろう。紗弓はコロコロ
と肌へ転がしながら三面鏡の前に座った。
⋮そういえば、いつから自分はこんな風に自分を磨くようになった
んだろう。
初めは、そう⋮一学期。怜に振ってもらう為に稔の友達と遊ぶと決
めた時に麗華に磨き方を教えてもらって⋮そこからだ。
何となく続けていた。自分を磨くという行為が割と楽しいと思った
からだ。
爪の形を整えて磨けば校則違反のマニュキアを塗らなくてもぴかぴ
かで綺麗になるし、髪の手入れを欠かさなければ長く絡みやすかっ
た髪がサラサラとして、触るとつやっとした感触が自分でも気持ち
良い。怜がよく紗弓を撫でるのは髪が気持ち良いからかもしれない。
肌の手入れも欠かさなくなった。といっても16歳の自分にやれる
ことは多くない。
それでも丁寧に工程を積めば肌が応えてくれると判った。時々でき
ていた吹き出物は無くなったし、肌触りももちもちとしてきた。
無理に化粧を施さなくても、髪にあれこれと弄らなくても十分綺麗
になれる。
そう知ってしまったら、ついつい続けてしまうのが乙女心だ。自分
だって綺麗な自分のほうがいい。
393
しかし、自分の為にやっていた自分磨きは、いつの間にか目的が違
ってきている。
目的は、怜の為、に擦り替わっている。
怜の隣を歩くのにふさわしくないって言われたくない。お似合いだ
ね、って言われたい。
顔の作りが平凡な紗弓は、せめて麗華が言うように自分を磨くしか
ないのだ。
﹁顔がいい男の隣って、大変よね⋮まぁいいけど。あと3ヶ月だも
んね﹂
3ヶ月したら、彼との﹁恋人関係﹂は解約するだろう。
そういう約束だから。
でも、恋人が解約されても友達としてこれからも関係が続くのだ。
だから大丈夫。
﹁⋮あれ?﹂
胸を押さえる。ずきずき、ずきずき、胸の痛みが紗弓に何かを訴え
る。
どうして?本当の恋人じゃなく、自分達は偽の恋人同士だ。佐久間
怜の目的があってこういう関係になったというだけのもの。
これからも友達としてつきあえるのなら、そんな偽りの恋人なんて
さっさと終わらせたほうがいいはず。
だって、大学に入れば怜だってちゃんとした彼女ができるかもしれ
ないし、自分だって︱︱。
﹁⋮なんで⋮?﹂
胸を押さえる。苦しい。辛い。どうしてそんな気持ちになるのか判
らない。
394
偽なんて、偽なんて嫌だ。その気持ちは本当のはずなのに、どうし
てこんなに苦しいのだ。
紗弓は鏡台から離れ、ベッドに横になる。
怜に会えば、頭を撫でてもらえば、優しい言葉をかけてもらえば、
いつも紗弓は安心する。
あんなにハラハラしていた彼の手は、今は心の安定剤にさえなって
いる。
だからきっと⋮明日怜に会えば、きっとこの気持ちもなくなるはず。
﹁そうだ、明日⋮会うんだから。大丈夫⋮。胸が痛いのは⋮うん、
ケーキの⋮食べすぎかもしれないし﹂
苦しい言い訳のようなことを呟いて、紗弓は目を閉じた。
考えることにフタをするように。心の扉を閉めるように。
◆◇◆◇
12月25日。
待ち合わせた繁華街の雰囲気はクリスマスから一変して、すでにも
うお正月モードに入っていた。
いつも不思議に思うが、クリスマスが本番なのに、どうして日本人
はイブでクリスマスを終わらせるのだろう。
不思議なものだなぁと思いながら怜を待っていると、やがて駅の地
下階段から長身の男が現れた。
﹁ああ、紗弓。ごめんなさい、遅くなってしまって﹂
﹁ううん?時間ピッタリじゃない。私のほうが駅が近いんだから早
く来て当然よ﹂
慌てたように駆け寄ってくる怜に紗弓はにっこりと笑う。
怜もそれに合わせて笑みを返し、紗弓の姿を一眼した。
﹁⋮相変わらず可愛い格好をしてますね。じゃあ、行きましょうか﹂
﹁ありがと⋮。うん。⋮って、何も決めてないけど⋮どこに行くの
395
?﹂
怜は紗弓の手を当然のように取ってどこかへ歩き出す。
行き先はすでに決めてあるようだった。
﹁お昼の前に、プレゼント⋮買ってしまいましょう。いい店をみつ
けたんです﹂
そうだ。今日は怜が紗弓に誕生日プレゼントを買いたいと話してい
たのだった。
どんな店を見つけたのだろう。紗弓はわくわくとした気持ちで怜の
手に引かれて歩いていく。
繁華街の大通りから少し外れた道を歩けば、石畳の道に出る。
そこには小さなワゴンショップや、こまごまとした服飾の店、帽子
屋、カフェテラスなどが並ぶ道で、古風なヨーロッパ調の町並みだ。
﹁ああ、ここ知ってるわ。テレビでやってた﹂
﹁ええ。前から人気のある道みたいですね、繁華街から少し離れて
るから煩くないし、お洒落で可愛い雰囲気がデートに向いているら
しい⋮というか、完全にデート層を狙ってますよね、ここ﹂
くすくすと笑って怜が紗弓の手を引いて歩いていく。
たしかに、カフェテラスなんていかにもだ。だが、さすがにこんな
真冬に外で珈琲を飲むような人はいない。
やがて、怜が足を止めた店は、小さな可愛いアクセサリーショップ
だった。
木枠のドアを開ければちりりんと可愛い鈴の音が聞こえ、いらっし
ゃいませと男の店主が声をかける。
﹁⋮ここ?﹂
﹁はい。手作りのアクセサリーショップなんですよ。可愛いでしょ
う?﹂
﹁⋮うん。可愛い⋮﹂
木目のテーブルには色とりどりのアクセサリーが陳列してある。ど
れも手作り感があって、温かみのあるデザインだ。
怜はすたすたと店の奥に入っていくと、店主に何かを話し始めた。
396
すると店主は頷いて、奥の部屋からいくつかのアクセサリーをベル
ベットの布に載せ、カウンターにそれを置いて見せてくれる。
﹁事前にね、ちょっと話をしておいたんです。その⋮恥ずかしい話
ですが⋮予算とか。そうしたら、それに見合ったアクセサリーを用
意すると言ってくださって。ここから選んでもらえませんか?﹂
﹁予算って⋮もしかして高いものなの?そんなの⋮﹂
思わず遠慮する紗弓に、怜はくすくすと笑って紗弓の背中を撫でた。
﹁目が飛び出るような高いものはさすがに無理ですよ?だから予算、
です。お金の心配がなかったらこんな恥ずかしい事言わないですよ﹂
困ったようにそう言った。
紗弓はそんな彼を見てから、改めてベルベットに乗せられたアクセ
サリーを見る。
﹁⋮どれも可愛いわ。⋮その、気にしないって言ったら嘘になるけ
ど⋮ここは佐久間に甘えて、選ばせてもらう事にする﹂
﹁はい、嬉しいです。⋮どれがいいでしょうね?﹂
紗弓は真剣な顔をしてアクセサリーを眺めた。
色とりどりのネックレス。どれもとても可愛いデザインだ。はっき
りいってどれか1つを選ぶのが難しいほど。
﹁うーん⋮迷ってしまうわね。このピンクの石のとか可愛いと思う
けど、このオレンジの石のも⋮﹂
﹁ピンク⋮これはローズクォーツですね、オレンジのはオレンジサ
ファイア⋮かな?確かに紗弓はこういう色、似合いそうですね﹂
二つのネックレスを手にとって、紗弓の首に当ててくる。
こつんと怜の手が首に当たってどきりとした。
﹁ん⋮でも、オレンジは季節を選びそうですよね。ピンクのほうが
季節関係なくつけられそうです。色も控えめですし﹂
﹁確かにそうね⋮じゃあ、これにするわ﹂
顔を少し赤くしながら紗弓が了承すると、怜は頷いて店主に話をす
る。
﹁お会計、してしまいますので。お店の外で待っててくださいね﹂
397
﹁あ⋮っ!ご、ごめん!じゃあ外に出てるわ﹂
慌てて紗弓は店の外に出る。お会計を見ているなんて女性としてあ
まり品のある行動とはいえない。
少し待っていると﹁おまたせしました﹂と怜の声が聞こえ、紗弓は
振り向く。
怜は悪戯を思いついたような、にんまりとした表情をしていて、包
まれていないネックレスを軽く掲げてきた。
﹁今つけましょう。ネックレス、丁度つけてませんし﹂
﹁え!?う⋮⋮う⋮ん⋮﹂
怜は留め金をはずして紗弓の後ろからネックレスをつけようとする。
紗弓はおろした髪をゆるく掴んで横によせた。
チャリ、と音をたててネックレスがつけられる。金属のひやっとし
た感触に紗弓の肩が軽く揺れた。
﹁はい⋮繋がりました。⋮こっちを向いてください、紗弓﹂
言われるままに紗弓は怜の方へ振り返る。
彼女の首元にピンクゴールドの細い鎖と、ローズクォーツの石がき
らりと光る。それを見て怜は目を細めて微笑んだ。
﹁うん、似合いますよ?あとで鏡、見てみてください﹂
﹁ありがと⋮。こんな素敵なの⋮もらったことなかったからちょっ
とびっくりしてるけど⋮。嬉しい﹂
本当の彼女でもないのにこんなに綺麗なものをプレゼントされると
は思わなかった。
彼にとって女性にプレゼントするものはこういうものばかりなのだ
ろうか?
そう考えて首をふるふると軽く振る。
比べるな、比べるな。もう⋮怜の昔つきあっていた女性達と自分は
比べないって決めたんだ。
なぜならそれを怜は望んでないから。
紗弓だからこうしたいんだと言ってくれたから。
友達にしては過ぎたプレゼントとは思うが、これも彼の厚意の一つ
398
なのだろう。
紗弓は軽くネックレスに触れて、怜に軽くお辞儀をした。
﹁⋮本当にありがとうね。大事にするわ﹂
﹁はい、是非。それではお昼に向かいましょう。枡屋のランチにし
ましょうね。あそこ、クリスマス限定ランチが今日までなんです﹂
﹁本当!?昨日までじゃないのね。じゃあ行きましょ﹂
はい、と彼は頷いて紗弓の手を握って歩いていく。
昨日感じた胸の痛みなどすっかり忘れてしまうくらい、紗弓は怜と
の時間を楽しんでいた。
枡屋のクリスマスランチはなんと千円ぽっきりで、しかもネタが豊
富、更にデザートつきだったので30分程並んで食べたが、並んだ
かいがあってとても美味しかった。
その後に行ったのはカラオケ。紗弓の歌声に怜が必死で笑いを堪え
てるのを見て彼女が拗ねたり、怜の美声に感嘆の声を上げたりした。
カラオケが終わって、二人は大通りにある雑貨屋を見たり、本屋に
寄ったりする。
特に用事があるわけでもないけれど、そうやって色々な店をまわっ
たり、そのたびに話をするのはとても楽しい。
ふと寄ったカフェで、怜は感慨深げに﹁楽しい﹂と口にした。
﹁⋮楽しい、けど⋮どうしたの?﹂
カフェラテのふかふかしたミルクの泡をかき混ぜながら紗弓は首を
かるく傾げた。
﹁前にも言いましたけど⋮楽しいと思えるのがすごいな、って思っ
たんです﹂
﹁何よ⋮まるで今まで楽しくなかったみたいに﹂
﹁楽しくなかったですよ。⋮というより、何も考えてませんでした﹂
ええ?と紗弓は目を見開く。怜は少し申し訳なさそうな、困ったよ
うな顔をして珈琲を口に含んだ。
﹁酷い男ですよね⋮。確かにデートは沢山しましたよ。何人かには
399
プレゼントも差し上げた気もします。誕生日とか⋮たまたまクリス
マスなどの時につきあっていた方とかにね。それなのに何を上げた、
とか全然覚えてないですし⋮女性が喜ぶ顔を見ても、嬉しいとか楽
しいとか全く思わなかったんです﹂
﹁そうなの⋮?じゃあなんで⋮あんなにとっかえひっかえって⋮つ
きあってたのよ﹂
そういえば怜は前に、つきあってくれといわれたからつきあった、
と言っていた。
あの時は違う話もしていたのであまり深くつっこんだ話をしなかっ
たが、改めて思うと不思議に感じる。
普通、多少なりとも好きでなければつきあったりしないのではない
だろうか?
デートをすれば時間もお金もとられる。紗弓なら好意のない人とそ
んな時間を過ごしたいとは思わない。
﹁きっかけは⋮確か⋮。高校1年の時、上級生に告白された事でし
ょうか⋮。その時はただの好奇心でしたね。でも⋮その数日後、ま
た違う方に告白されたんですよ。そうすると、次の女性はどんな感
じなのかな⋮とか思って、じゃあって乗り換えて⋮それがそのまま
ずるずると、という感じに﹂
紗弓の顔が一気に呆れ顔になった。
それも仕方ないな、という風に怜は笑う。
﹁どんな感じって⋮それってもしかして?﹂
﹁はい、勿論セッ﹂
﹁だーっ!ここで言う単語じゃないっ!!﹂
紗弓の手が、ぱし、と怜の口をふさぐ。
しかしそのままむぐむぐと怜が唇を動かすのでくすぐったくなって
紗弓は慌てて手を放した。
﹁まぁ、勿論おつきあいをする以上はそれなりに親切に接したつも
りですが、僕にとって女性とつきあう理由はそれだけだったんです
よ。だから学校での出来事も、デートも、記憶に乏しいし⋮楽しい
400
とも思わなかった⋮でも﹂
そこで怜はじっと紗弓を見る。いつもと同じ穏やかな笑顔。だけど
目はとても真面目に彼女を写していた。
﹁紗弓が初めてですよ。他人の女性で、肉体的な関係もなく⋮。歩
いてるだけで、話しているだけで、こんなに楽しい。不思議ですよ
ね⋮こういうのって、理屈じゃないんだな⋮としみじみ思いました﹂
冷たそうな彼のつり目は優しく細められていて。
甘い甘い声で独白するように言う。
思わず、かぁっと紗弓の顔が赤くなった。
何だそれは。まるでそれは、まるでそれは⋮。
︵こ、告白、みたいじゃない⋮っ︶
慌てて紗弓は色々なものをごまかすようにカフェラテを飲む。
だめだめ、勘違いしてはだめ。
彼はちょっと大げさなんだ。よくわからないけれど、前までの彼が
持つ女性への興味は肉体だけだった。それが自分と出会って、たま
たま気に入って⋮だから一緒にいるのが楽しいって思っただけ。
友達と一緒にいたら楽しいじゃないか。時間を忘れるくらい遊んで
しまうじゃないか。
怜の場合、それを感じたのがたまたま異性で、しかもそれが紗弓だ
ったというだけの話。
そうだ、そうだ。紗弓はそう心の中で納得する。
ようやく紗弓はカフェラテのカップから唇を放して、笑ってみせた。
﹁そっか。それは嬉しい⋮わ。私も佐久間とこうやって話したり、
歩いたり⋮一緒にお茶したりするの楽しいもん。何にしても佐久間
はちょっと女性不信みたいなところもあるみたいだし、これをきっ
かけに他の女の人とも普通に仲良くなれればいいわよね。⋮大学に
入ったらまた最初に逆戻り、なんて事になったら怒るんだからね?﹂
﹁ははっ⋮もう、昔の生活には戻れませんよ。紗弓に怒られるのは
嬉しいですが、そういう理由で怒られるのは嫌ですし⋮もう僕は大
丈夫ですよ﹂
401
にっこりと笑ってきて、紗弓は大丈夫という言葉に安心しつつも、
半眼で彼を見た。
﹁貴方⋮やっぱりマゾなの?怒られたいなんて言う人、佐久間が初
めてよ?﹂
﹁そうですか?紗弓に怒られたい人は結構いらっしゃると思います
けど⋮。何というか、怒られた後⋮どう形勢逆転して苛めてやろう
かな、とか考えると⋮凄く楽しいというか﹂
﹁あんたは本当マゾなのかサドなのかどっちなのよっ!﹂
あははと、怜は笑う。
本当によくわからない人だ。彼のことはこのしばらくのつきあいで
大分判ってきた気がするが、それでもやはりどこかが読めない。
しかしそれが怜のスタイルなのかな、と思って紗弓はカフェラテを
飲みきった。
◆◇◆◇
﹁そういえばあと5日もしたら次の年なのねぇ﹂
夕飯に適した手ごろな店を探す為、大通りを歩きながら紗弓が呟く。
彼女の言葉が聞こえていた怜は﹁そうですね﹂と相槌を打った。
﹁佐久間んとこは初詣とかどうしてるの?暇なんだったら一緒に行
く?﹂
﹁ああ、行きたいですねぇ⋮。でもすみません。初詣は家の人と行
くのが決まりみたいなものでして、あとの2日、3日も家系の集ま
りとか、親戚が来るとかで、ゆっくり外に出れないんですよ﹂
﹁そうなんだ。大変ねぇ⋮。うちはママがあんなんでしょ?それに
仕事もあるし⋮とりあえず年明けて、私の冬休みが終わるまでに1
日暇を見つけてお墓参りと初詣をするって感じなの﹂
紗弓が自分の家の正月事情を話すと、貴女の家らしいですね、と彼
は笑って頷いた。
402
夕飯は結局、スパゲティ専門店になる。
アラビアータを食べながら怜が先ほどの話を思い出したように話し
出した。
﹁別に初詣、じゃなくてもいいんじゃないですか?﹂
﹁ほえ?﹂
もぐ、とアボカドとエビのクリームパスタを食べていた紗弓は顔を
上げる。
﹁いえ、初詣じゃなくても1月内だったら⋮神社に行ってお参りす
るのもいいなと思いまして。一緒に行きませんか?﹂
﹁ん⋮ああ、さっきの話ね?うん。いいんじゃない?あ、それなら
佐久間の合格祈願にしましょうよ。一応国立志望?なんだし﹂
すると怜はまいったな⋮といった風に頭を掻いた。
﹁そういう風に言ってきそうだから言わなかったのに。困ったもの
ですね。でもまぁ、僕の為に祈願してくれるなら⋮せっかくですし
お願いしましょうか﹂
﹁そうよ。お守りとか買ってね、絵馬も書くのよ﹂
﹁絵馬ですか?この時期、この場所あたりの神社だと⋮皆東大東大
って書いてそうですよね。その中で一人地方大学の名前を書くのは
ちょっと嫌なんですけど⋮﹂
﹁なーに言ってるのよ。別に自分の名前を書くわけじゃないしいい
じゃない。なんでそんな変なとこ拘るのかしら。別に東大目指して
る事自体はえらいことでも何でもないのよ?入った人はすごいと思
うけどね﹂
怜はそれを聞いてあははと笑い出す。
そのままアラビアータのフォークをカチャリと置いて、くっくっと
肩を震わせた。
﹁確かに言われてみればそうですよね。入れた人は確かに凄いです
けど、目指してる人は別に凄くないですよね⋮当たり前なんですけ
ど、ちょっと目からウロコの気分です﹂
さすが紗弓は言うことが違いますね、と言われた。
403
そんなに凄い事を言ったつもりでもなかったので、紗弓は首をかし
げてパスタを食べる。
アボカドとエビ、そしてクリームソースが美味しい。
舌鼓を打ちながら、次のデート⋮来年の合格祈願のお参りが楽しみ
だな、と思った。
404
39.予期せぬ名前。遅すぎる自覚
新年を迎え、三学期が始まる。
始業式を終えて教室に戻った紗弓は、周りの空気が少し違うことに
気がついた。
︵⋮ん、見られてる?︶
ふい、と周りを見てみると紗弓を見ていた女子生徒達が慌てたよう
に目をそらした。
﹁⋮?なに、なんかあった?﹂
首をかしげて女子生徒に聞くと、彼女は慌てて手を振って﹁何でも
ないよ﹂と言う。
そう?と言って紗弓は席に座って鞄の中を整理する。
少しひそひそとした声。また何か怜関係で噂でも立てられてるのか
なぁと軽く考えていた。
それから一週間。
紗弓の周りのひそひそ声は止まらなかった。
なのに彼女が聞くと、何でもないと言ってくる。
何よ、いいたいことがあるなら言えばいいのに。そう思ってしまう
が、何故かそうハッキリ言えないのは彼女たちの目が原因だった。
悪意とか、敵意とか、そういう目ではないのだ。
どちらかというと可哀想とか同情、とか。そういった雰囲気で何故
か強く聞くことができない。
購買のパンを食べながら紗弓はつい、響子に愚痴を言ってしまった。
﹁最近なんだか、私⋮なんか言われてない?気になってしょうがな
いんだけど﹂
﹁え⋮?⋮あ⋮き、気のせい、じゃない?﹂
慌てたように響子もそうやって紗弓に﹁何でもないよ﹂と言ってく
る。
405
紗弓は思わずため息をついた。⋮響子も知っているのだ、きっと。
なんで私だけ⋮?食べていたパンを机に置いて、カフェオレのパッ
クを一口飲む。
﹁⋮ねぇ、私に気を使ってくれてるのはすごくわかるけど、これじ
ゃ逆効果よ。佐久間も前に同じようなこと私に言ったことがあるけ
ど、何か隠したいのならちゃんとしっかり隠してくれないと⋮中途
半端なのは嫌だわ﹂
﹁ご、ごめん⋮﹂
﹁謝って欲しいんじゃなくて、教えてよ。誰に聞いても何でもない
何でもないって、⋮何でもないわけないじゃない﹂
いじけたようにそう言って、パンをぱくつく。
響子はそんな紗弓を見て俯きしばらく悩んでいたようだったが、や
がて顔を上げて紗弓に言った。
﹁私が言うより⋮もっと確実な人に聞いたほうがいいと思う。お昼
食べたら行ってみよう?﹂
自分も人から又聞きしただけだから、と付け加えて響子は静かに弁
当の続きを食べ始めた。
昼食が終わって紗弓は響子に連れられ、1年の違うクラスへやって
きた。
響子がクラスの子に頼んで来てもらったのは、彼女と同じ放送部員
の女子生徒。
彼女は紗弓の顔を見て﹁あ⋮﹂と決まり悪げな顔をした。
﹁ごめんね?突然。⋮あの、私に話してくれたあの話、ちゃんとさ
ゆちゃんにして欲しいの﹂
﹁⋮え?⋮で、でも⋮真城さんが傷ついてしまうんじゃ⋮﹂
﹁傷つく?それよりも私、どうしても聞きたいのよ。一体私の周り
でどんな噂が流れているの?⋮お願い、教えて欲しいの﹂
あくまで穏便に、そして必死に聞いてくる紗弓に彼女はちいさなた
め息をついた。
406
﹁⋮わかったわ。あくまで、その⋮噂、だからね?⋮本当じゃない
かもしれないんだから﹂
うん、と紗弓は頷いた。
それを見て彼女は重い口を開けるように話し出す。
﹁⋮多分、だけど⋮そもそもはね、2学期のはじめごろからちょっ
とだけ流れてた噂があったの。⋮佐久間先輩がどうして、彼女をと
っかえひかっかえして遊んでいたか⋮って﹂
それは紗弓も気になっていたが、前に怜は﹁ただ女性の体の違いに
興味があった﹂と言っていた。そしてそのままずるずると⋮とも。
しかし彼女は話し続ける。
﹁その理由がね。彼にはすでに﹁本当の恋人﹂がいるっていうのが
噂であったの。つまりその⋮婚約者、みたいな人。もう結婚が決ま
っているから、それまでの間⋮違う人と遊んでるんじゃないかって﹂
﹁え⋮?そ、そんなの聞いたことないわ?そもそも、その婚約者み
たいな人って、誰なのよ﹂
慌てたように紗弓が聞くと﹁本当、あくまで噂だったのよ?﹂と付
け加えて彼女は名前を告げる。
﹁2年の⋮上羽鮮花、さん⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
今度こそ、紗弓は言葉をなくした。
何か思ってもない人の名前を言われたからだ。
﹁ど⋮して、鮮花さんが⋮?﹂
﹁前からだけど、佐久間先輩と上羽先輩ってすごく仲が良かったの。
上羽先輩が入学した初日から佐久間先輩はわざわざあの人の教室に
行って挨拶しに来ていたらしいし、生徒会に彼女を推薦したのも佐
久間先輩なのよ。彼女って立場でもないのに、あの二人は本当に仲
が良かったの⋮それで、そういう噂が⋮﹂
確かに鮮花と怜はとても仲がいい。
だけど幼馴染のようなものだと、腐れ縁のようなものだと二人は笑
ってた。
407
前に怜へ鮮花のことを聞いた時﹁あの人も特別だけど同志のような
ものだ﹂と言っていた気がする。
だからただの噂だ、そう思うべきなのに胸がドキドキとする。不安
でいっぱいになる。
女子生徒は紗弓のそんな顔を見て同情の目を向けた。
﹁あくまで、前までは密かに言われてた噂、みたいなものだったん
だけど⋮今年のお正月にね、私⋮見ちゃったの。クラスメートの友
達と初詣に行ってたんだけどね、その時⋮佐久間先輩と、上羽先輩
が一緒に初詣してたの⋮楽しそうに。しかも、どっちも親みたいな
人がいて⋮あれって、家族ぐるみのおつきあいをしている事だよね
⋮って。だから⋮親にも公認された仲なのかな⋮って﹂
密やかに囁かれていた噂は、この目撃によって真実味を増した。
彼女は黙っていたらしいが、彼女の友達はこの話を他の女子生徒に
話してしまい、その女子生徒がまた違う友達に⋮といった感じでど
んどん噂は流れていった。
それで、同情の目を向けられていたのだ。そう紗弓は確信する。
﹁つまり⋮そっか、私も⋮﹁本気﹂じゃないから⋮って、思われて
たのね﹂
﹁うん⋮。だって、真城さんは佐久間先輩と一番長く続いている彼
女なんだもん。そういう噂は流れてたけど、佐久間先輩の楽しそう
な顔や嬉しそうな顔をみてたらね、ただの噂なんだって思われてた。
だけど⋮それもやっぱり、先輩にとっては遊びみたいなものだった
んだ⋮って思うと真城さんが可哀想で⋮﹂
声がだんだんと小さくなる女子生徒を紗弓はじっと見ていたが、や
がてぽんと肩を軽くたたく。
﹁ありがとう、話してくれて。おかげですっきりしたわ。わからな
いのが一番嫌だったんだもの﹂
﹁え⋮だ、大丈夫なの⋮?真城さん⋮も遊ばれてたんだよ?﹂
﹁うん。でも大丈夫よ。とにかくありがとうね⋮それじゃ、そろそ
ろお昼休みも終わっちゃうから行くわ﹂
408
そうにっこりと笑って、紗弓は響子の手を取って元のクラスに戻っ
ていく。
響子が慌てたように紗弓へ声をかけてきた。
﹁あの⋮さゆちゃん⋮本当に大丈夫⋮?﹂
﹁大丈夫大丈夫。だって響ちゃんは知ってるでしょ?私と佐久間は
そういう仲じゃないの。嘘のカレカノなのよ?傷つきようがないじ
ゃない﹂
そう言うと、響子は何とも複雑そうな顔をした。
﹁それ⋮本気なの?本気で、嘘の恋人同士だって思っているの⋮?﹂
﹁当たり前じゃない。私はそれより噂の元が聞けてよかったと思っ
ているわ。モヤモヤしているほうがずっと嫌だもん﹂
紗弓は言い切って教室のドアをガラリと開ける。
ほどなく5限目が始まった。
︱︱本当は、頭を殴られたのかと思った。
それくらい強いショックを受けた。
紗弓は一人、帰路につきながらぼうっと歩く。
今日、佐久間怜はセンター試験の日だ。だから会えないのは幸いだ
った。
こんな顔したら彼は気づく。怜はとても鋭い人だから絶対にばれて
しまう。
とぼとぼとマンションについて、力なくドアをあける。
自分の部屋について制服のまま、ばふ、とベッドにうつ伏せで倒れ
た。
紗弓はずっと怜の言葉を信じてきた。何だかんだと反発しながらも、
彼の言うことは偽りがないと信じていたのだ。
だけど⋮嘘をつかれていた。
彼は正月を家族で過ごすと言っていたはずなのに、鮮花と初詣に行
っていた。
409
⋮いや、家族ぐるみのつきあいで、そのうち本当の﹁家族﹂になる
約束があるのならすでに身内のようなものなのかもしれない。
だから正確には嘘ではない⋮かもしれない。
だけどそれは詭弁のようなものだ。そう考えると怜の言葉は﹁嘘で
はないが真実でもない﹂のではないかと疑ってしまう。
腐れ縁のようなものだと言っていた。⋮だけど、逆に考えればそれ
くらい長くつきあっていて、気心しれた仲だということ。
二人の家族も一緒に初詣に行っていたということは⋮家族にも認め
られた仲でもあるということ。
もし、二人が婚約者同士なのだとしたら⋮鮮花にとって自分はどう
いう風に見られていたのだろう。
いつか怜は自分のものになるのだからという余裕で紗弓と仲良くし
ていた?
それとも実は、滑稽な人間と見ていた?あなたも怜にとって遊びの
範疇なのよって⋮。
でもおかしい。おかしいはずだ。何故なら佐久間怜と自分は偽の恋
人で、それは鮮花も知っているはず。
だから彼女が自分に同情の目を向けるいわれはない。
だけどそう思ってしまうのは⋮。
﹁私、が⋮本気、だから⋮?﹂
ベッドの上で目が見開く。
ずっとずっと考えまいとしていたこと。薄々自分でもわかっていた
けど、理性が否定していた。
本気になったらだめ、好きになったらだめ、それを認めたら終わり
だと。
しかし、それを口にしてしまったら嫌でも自覚してしまう。
410
﹁私⋮やっぱり、佐久間のことが好きなんだ⋮﹂
ああ、と顔を覆う。
気づいてしまった。判ってしまった。
いつから⋮いつから?
きっと最初からだ。彼に反発して違う男の人と仲良くなろうとした
のは、彼に本気になるのが怖かったから、自分の気持ちから逃げた
かったから。
そこから段々と﹁友達﹂として仲良くなっていけばいくほど、心に
ちくりとした痛みがあった。
⋮友達じゃなくて、恋人になりたかったから。
彼の﹁本当の恋人﹂になりたかったんだ、ずっと。
そして何時からか、それらしくなっていった。だから自分はどこか
で本当の彼女のようにふるまっていた。
﹁恋人面﹂していたのは、自分のほう︱︱。
だからショックをうけたのだ。あの噂と目撃の話で。
本当に﹁偽恋人﹂としての自覚があったのなら心が傷つくわけがな
い。
いつの間にか本当の恋人みたいに思ってしまっていたから、裏切ら
れたと勝手に傷ついた。
︱︱でも、仕方ないじゃないか。
あんなに、あんなに優しくして、親切にして、甘い声で囁いて、頭
を撫でて⋮時々キスまでして。
﹁そんなの⋮っ!好きになっちゃうに決まってるじゃない⋮っ!本
気じゃないなら優しくするなっていうのよ!キスなんてするなっつ
うのよ⋮っ!﹂
411
だから言ったのに。優しくするなと、必要以上に触れるなと。
なのに怜は変わらず優しくしてくれて、当たり前のように触れてき
た。
紗弓にとってそれは甘くて真綿のような毒。じわりじわりと毒は回
って、紗弓の体と心を支配する。
毒の名前は恋心。
彼にとってそれがただの挨拶でも、友達に対するスキンシップでも、
紗弓は異性に慣れていないから⋮いつの間にかその毒の餌食になっ
ていた。
怜が自分のこと好きなんじゃないかって、どこかで思ってた。
でもそれはやっぱり勘違いで、彼には自分よりずっとずっと綺麗な
﹁決まった人﹂がいて。
あくまで紗弓には﹁友達﹂として優しくしていただけだったのだ。
それでもいいと、友達でいいと思い込んでいたのに、自覚したらも
うだめだと思った。
いやだ、いやだ。
友達なんていやだ。
自分だけの怜になってほしい。自分だけに笑って、優しくして、頭
を撫でてほしいんだ。
けれどそれを言う勇気はどうしても出なかった。
自分みたいな平凡な子、どこに好きになる要素があるんだろう。
努力で磨いてきた。怜に可愛いとは言われていた。
だけど鮮花に比べたら雲泥の差だ。見た目では絶対適わない。
つきあいの長さ、明確だ。紗弓はまだ彼と初めて話した日から1年
も経っていない。
では中身は⋮?
勉強はぎりぎり平凡というところ、スポーツも得意なものはあるが
412
苦手なものも多い。
歌も下手だし、不器用だし、自分にはそうできることが多くないの
に、一人前に口喧しく注意はする。
﹁性格もそう⋮可愛いともいえないし⋮。口も悪いし⋮﹂
ぶつぶつ、と呟く。考えれば考えるほど、自分の短所が思いつく。
怜もそう性格が良いかといわれれば首をかしげてしまうけど、問題
は他人ではなく自分だ。
自分が男なら⋮自分には惚れない。こんな可愛くない性格の女の子、
好きになんてなれない。
はぁ⋮とため息をつく。
自分の中での選択肢は2つだ。
一つは思い切って想いを伝える。もう一つはこの想いを殺して﹁友
達﹂としてこれからもつきあう。
⋮⋮。
﹁だめだ、どっちも⋮いやだよ。恐いよ⋮﹂
しばらく考えて、紗弓は一つの結論を得た。
二つの選択肢ではなく、思いついた、最後の選択肢を⋮選んでしま
ったのだ。
413
40.いずれ来るべき、その言葉
2日間の土日を置いて月曜日、紗弓は一人、生徒会室の前に立って
いた。
放課後なのだが誰もいない。
八雲は今日大学試験だし、鮮花は別で用があるのだろうか?見当た
らない。そして護は今日、放課後はお姉様とのデートに行くらしい。
なので生徒会室には鍵がかかっていて、中に入れないのだ。
紗弓は廊下の窓を開け、何とはなしに運動場を眺めている。
走り回っているのはサッカー部だろうか。端のほうにはコートがあ
ってテニス部が試合をしている。
時々サッカー部の声が響く。ぽーん、とテニスボールが跳ねる音が
する。
そして僅かに上靴の擦る音が聞こえて紗弓は自然と廊下の方に目を
やった。
﹁すみません、お待たせしましたか?﹂
改めて確認するまでもない。怜がいつもの笑顔でそこにいた。
紗弓は静かに首を振って、そんなに待っていないと口にする。
﹁試験⋮お疲れ様。どうだった?﹂
﹁どうでしょう。できるだけ頑張ったつもりですけどね﹂
余裕すら見える笑みでそう答えた怜は、自信が本当にあるのか、そ
れとも虚勢なのか、わからない。
思えば怜はいつも笑みを湛えていて、逆に感情がよく読めないのだ。
時々紗弓に怒ったりする事はあるけれど、それ以外はいつもこの穏
やかで思考の読めない表情。
﹁あの人﹂相手なら⋮少しは素を見せたりするのかな?
そんな風に心の端で思って、ちくり、ちくりと胸を刺す。
痛みを無視して紗弓は無難に微笑みの表情を作った。
﹁そっか。受かるといいわね﹂
414
﹁全くです。けれど合格祈願は行きそびれましたね⋮ちょっと時間
がとれなくて﹂
﹁いいのよ。勉強のラストスパートもあったんだろうし。それより
⋮あの﹂
﹁ええ。話が⋮あるとか?改まってどうしたんです?⋮あ、立ち話
も何ですね、鍵を開けます﹂
そう言って怜はポケットから鍵を取り出し、生徒会室の鍵を開ける。
からりと扉は開き、彼が道を開けて促した。
紗弓はゆっくりと生徒会室に足を向け、入室する。
﹁お茶でも入れましょうか﹂
﹁あ、いいわ。そんなに長い話でもないから﹂
そうですか?と怜はポットに手をかけた手を戻し、紗弓が立つソフ
ァ横まで戻ってきた。
紗弓の正面に向いてくる彼に、彼女は軽く目を瞑って覚悟を決める。
ごそごそ、と鞄から小さなお守りを取り出した。
﹁それは⋮?﹂
﹁合格祈願。昨日一人で行ってきたの⋮試験は終わったけど合格発
表はまだでしょ?だからまだ効果あるかなって思って⋮。これ、あ
げる﹂
﹁はぁ⋮ありがとうございます。ですが、別にわざわざお一人で行
かなくても。来週あたり、一緒に行けたらって思っていたのですけ
どね﹂
別に合格祈願じゃなくてもいいんですし、と笑いながら怜はお守り
を受け取った。
しかし紗弓は小さく首を振る。
﹁もう⋮行かないから﹂
﹁⋮え?﹂
何を言われたのか判らないような顔をして怜は首を傾げる。
紗弓は鞄を閉じて、再び怜を見上げた。まっすぐに、目をそらさず。
415
﹁もう、どこにも一緒にいかない。⋮終わりにしよ?佐久間﹂
しんとした空気が生徒会室を包んだ。
どこか遠くで、部活動中の生徒の声や、ボールが跳ねる音がする。
照明がついていない為、どこか薄暗い生徒会室で怜は静かに声を出
す。
﹁どういう⋮意味ですか?﹂
﹁どういう意味も何も⋮。いつわりの恋人、偽のカレカノ、この関
係をもう終わらせようって言ってるのよ。もう卒業まで2ヶ月もな
いわ。別れたって⋮問題はないはずよ?まぁ卒業式にもしかしたら
記念に、って告白してくる人はいるかもしれないけど⋮もう十分対
応できるでしょ?﹂
﹁それはまぁ⋮そうですが。それにしてもどうして突然?﹂
怜も紗弓から目をはずさない。まっすぐに彼女を見ていて、紗弓の
真意を計ろうとしているようだった。
紗弓はあえて目線を外さず、真正面から受け止めて彼を見る。
﹁もう偽の恋人なんていなくても大丈夫じゃないかな、って思った
のよ。私だって委員会とかで暇ってわけでもないんだから﹂
﹁そうですか⋮。まぁ、突然で驚きましたけど、別に偽りの恋人役
を止めたいのでしたらかまいませんよ。別にその関係が終わったか
らといって何か変わるわけでもないんですから﹂
にっこりと笑って紗弓の頭を撫でてくる。
しかし、紗弓は撫でられながらもふるふると首を振った。
﹁⋮紗弓?﹂
﹁変わるわ。⋮もう、私は佐久間に会わないし、連絡も取らない。
⋮これで、さようなら、よ﹂
怜の表情が変わった。笑みから一転して無表情になる。
彼から表情がなくなると、そのつり目が一層冷たさを増す。彼は普
416
段穏やかな笑みを絶やさないから優しそうな人だと思われているが、
本当の彼の顔はとても冷たいのだ。
彼は表情の無くした顔で、呟くように紗弓へ問う。
﹁⋮さようなら、⋮って。どうして﹂
﹁偽の恋人役が終わったらもう私と貴方に繋がる関係なんてないじ
ゃない。だから終わりにするの。他人になるの。⋮だからさような
ら。これからはもう生徒会室には行かないし、一緒にも帰らない。
貴方はそのまま卒業して、私はこのまま高校で2年になって⋮それ
だけよ﹂
﹁何があったんですか?紗弓。どうしていきなりそんな事を。意味
がわかりません。貴女は嫌だと言ったじゃないですか、僕と離れる
のは嫌だって。なのに、いきなり他人になるとか会わないとか⋮な
んで﹂
﹁気が変わったの。別にいいじゃない、私一人、いなくなってもど
うってことないわよ。⋮また似たような気の合う女の子、見つけて
友達になったらいいでしょ?﹂
そう言うと、紗弓はぱんぱんと鞄をはたいて、抱えなおす。
黙ったままでいる怜を見上げて、すっと彼の横を通り過ぎた。
﹁話はそれだけよ。それじゃ⋮元気でね﹂
終わった、とばかりに紗弓は歩き出し、怜に背を向けて生徒会室を
出ようとした。
しかし︱︱。
ぐい、と腕が乱暴に引かれる。え、と思ったときにはもう遅く、紗
弓は怜の腕の中に閉じ込められた。
今までのようなやわりとした抱き方ではない。
苦しいほど、紗弓の体が2つにちぎれるのではないかと思うほど怜
は紗弓の体を抱きしめた。
﹁そんなの⋮そんなのは⋮認めない⋮﹂
﹁んっ⋮さ、佐久間、苦し⋮っ﹂
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﹁認めない!俺の前からいなくなるなんて、さようならなんて、絶
対に許さない!﹂
息ができない。体が痛い。紗弓が息苦しさと痛みで顔をゆがめてい
ると、彼はその小柄な体を軽く持ち上げソファに押し倒した。
ばふ、と音がして紗弓の体はソファに沈む。すかさず怜は紗弓の上
に覆いかぶさり、至近距離で彼女の顔を見た。
そのまま、ス⋮と、彼女の眼鏡を外す。
カチャンと音がして、彼が紗弓の眼鏡を放り投げたのだと知った。
﹁め、めがね⋮が⋮﹂
﹁さゆみ⋮俺らはもう、とっくに﹁偽の恋人﹂なんかじゃない。俺
も紗弓もそこに拘っていたけれど、違う⋮そうだろう?俺らはもう、
﹁本当の恋人﹂のはずだ﹂
目を見開く。ぼやけた怜は、それでも綺麗な顔をしていて紗弓の頬
を優しく撫でた。
そして口付ける。
思わず離れようと身をよじるが、彼はしっかりと紗弓の後頭部と肩
を掴んでいて、動かない。
﹁んっ⋮ん⋮!﹂
﹁はぁ⋮っ⋮さゆみ⋮﹂
息をついで、角度を変えてまた唇を重ねる。次は舌を差込み、紗弓
の口腔をまさぐり始めた。
﹁⋮!!⋮んっ⋮んんー!!﹂
ぽかぽかと怜の背中をたたくが、彼は全く痛がる様子がない。
舌の蹂躙は止まらない。後頭部にあった手はいつの間にか顎に添わ
れ、ぐっと親指と中指で頬を押し、紗弓の口を無理矢理こじ開けて
いる。
怜の舌が紗弓の舌をねっとりと舐め、まるで舌で歯磨きをするよう
に歯列を舐める。狭い口の中を余すことなく犯して唇を外し、更に
また口付ける。
彼が紗弓の唇を吸って音がする。彼が紗弓の舌を吸って舐めて音が
418
する。
ちゅ、ちゅ⋮じゅっ⋮。くちゅ⋮ピチャ⋮。
耳を覆いたくなるほどはしたない音。
永遠かと思うよう程執拗なキス。
いつの間にか紗弓の背中を叩く手は、彼の舌に耐えるようにぎゅっ
と拳を握って震わせていた。
﹁んぅ⋮ん⋮っ⋮はぁ⋮っ﹂
唇がやっと開放されたのは、最初にキスをされてから何分経ったの
だろう。
じんじんとしてしびれる唇を、紗弓は震える指で触れる。
﹁な、に⋮を⋮﹂
﹁さゆみ。俺の恋人になって﹂
﹁⋮え?﹂
﹁俺のものになって。カラダもココロも、全部欲しい⋮﹂
そう言うとまた彼は紗弓の唇を奪い、そっと紗弓の片足を持ち上げ、
そのまま自分の肩へ足をかけさせる。
﹁⋮!!?﹂
目を見開く。怜は紗弓の肩を押さえつけ、もう片方の手は紗弓の秘
所へと手を伸ばした。
つい、とショーツ越しに指が添えられて、紗弓は肩をびくりとさせ
る。
﹁⋮欲しいんだ。ずっと、ずっと欲しかった。紗弓が欲しかった﹂
つい、つい、と線を描くように紗弓の中心をなぞる。
その感覚にぴくぴくと体は勝手に反応し、紗弓の顔は真っ赤に染ま
っていく。
﹁あう⋮さ、さくま⋮やめて⋮っ﹂
﹁欲しかったんだ!!⋮俺はずっと紗弓を女として見ていた。紗弓
の体に欲情して、抱きたいと思ってた。⋮友達なんて一度も思った
ことはない!なぁ、紗弓⋮、紗弓はもう、俺のこと好きだろう⋮?﹂
肩を掴んでいた手はやがて胸にたどり着く。
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制服の上からぐっと胸を掴まれて、強い力で揉みしだく。
﹁んっ⋮!さくま、⋮んっ⋮や⋮だ⋮っ﹂
﹁嫌なんてないはずだ。紗弓は俺のことが好きなはずだ!⋮っさゆ
み⋮﹂
怜は紗弓の耳元に唇を寄せる。ぞろりと耳朶を舐めて、耳の中を舐
め始めた。
﹁はぁっ⋮あん⋮!や、やだぁ⋮っやめて、やめて、佐久間っ﹂
﹁嫌だ⋮やめない⋮!紗弓、ここに俺を⋮挿れさせて?﹂
ショーツのクロッチ部分の脇から指を入れ、直接紗弓の秘所に指を
添える。
何を意味しているのかがわかって、紗弓は思い切り体をよじった。
友達としてみていなかったってどういう意味?
女としてみていたってどういう意味?
貴方にはいるのに、鮮花という、将来が決まった女性がいるのに、
どうしてこんなことをするの?
友達じゃないなら⋮私は貴方の何なの?
もしかして最初から、最初から⋮私はそういう風に見られていたの。
女として⋮性の対象として⋮。前までの女のように、私のカラダだ
けが興味の対象だったの⋮?
思わせぶりな態度をとって好きにならせて、この行為をするために
ずっと一緒にいたの?
﹁そんなの嫌!いやぁーーっ!やめて!私は違う!あんたに抱かれ
たくなんかない!あの女達と一緒にしないで!私にさわんないでよ
!!!﹂
そう叫びながら、怜の胸を思い切り押し上げる。
ぴくりともしない彼の体に絶望を覚えたが、しかし突然彼の動きが
完全に止まった。
420
﹁触られたく⋮ない?﹂
はぁはぁと息を切らせながら紗弓が見上げると、怜に表情はなく、
ガラスのような目をしていた。
目線は所在なく、どこかを見ているようでどこも見ていないような、
そんな虚ろな目をして彼はもう一度﹁触られたくない⋮?﹂と呟い
た。
﹁⋮っ⋮そうよ。触んないで。私、あんたとこんな事したくない⋮
!﹂
﹁抱かれたくない⋮そんなに拒絶するほど⋮俺は汚い⋮のか﹂
﹁な、何を言って⋮﹂
力が抜けたように紗弓を押さえる力がなくなって、紗弓はよろりと
起き上がりながら会話の成り立たない男を見上げる。
彼は紗弓を見ていなかった。
ぼうっとした表情のまま、独白のように呟く。
﹁それは⋮そうだ。俺は汚い。あんなに、あんなに⋮女と関係して、
綺麗なはずがない⋮﹂
怜は片手で顔を覆い、俯く。
不安げに紗弓が彼を見ていると、やがて怜は肩を震わせ始めた。⋮
笑っているらしい。
﹁はは⋮っ⋮そうだ。何を⋮勘違いしていたんだ、俺は⋮。俺なん
かが⋮紗弓に惚れてもらえるわけ⋮なかったのに。俺は全く⋮馬鹿
だ﹂
﹁佐久間⋮?﹂
思わず声をかけると、やっと紗弓の声が聞こえたように怜はつい、
と紗弓の顔を見た。
その顔は無表情だったが、やがていつもの笑顔になる。穏やかで優
しい、いい人そうな微笑み。
﹁⋮すみませんでした。先ほどの事は忘れてください。⋮紗弓の提
案、飲みましょう。今日を持って僕達は偽の恋人関係を解消します。
今日までお疲れ様でしたね。⋮ありがとうございました﹂
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優しくそう言って怜はソファから立ち上がる。ネクタイのずれを直
して鞄を持った。
﹁後で鮮花が来るはずですから、このままにして結構です。それで
は僕は帰りますので。⋮さようなら﹂
にっこりとそう言って怜は静かにドアまで歩き、一度も振り返るこ
とはなく生徒会室を後にした。
かたん、とドアが閉まる。
紗弓はゆっくりと起き上がって、ふと、自分の眼鏡がないことを思
い出した。
ぼやける目のまま手探りで床を探すと、なじんだフレームの感触が
してほっとする。
眼鏡をかけると、クリアな視界に一本の線が見えた。
﹁⋮キズが⋮入ってる⋮﹂
ふと、足にふんわりした感触がして見下ろすと、足元には合格祈願
のお守りが落ちていた。
力なくそれを拾う。
ぽたり、ぽたりと眼鏡に水滴が落ちていった。
眼鏡に溜まった水滴はやがて頬を伝って床へ落ちていく。
﹁⋮っ⋮ふぇ⋮⋮﹂
崩れるように膝をつく。お守りをぎゅっと抱きしめて、紗弓は声を
殺して涙を流した。
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41.別れの後には何も残さず
﹁⋮ね、さゆちゃん。最近ずっとお昼ここで食べてるけど⋮生徒会
室、行かないの?﹂
﹁うん。⋮あ、響ちゃんは行っていいと思うわよ?﹂
少し心配そうな顔をして響子が聞いてきて、紗弓はさらっとそう言
いつつ購買のパンをがさがさと取り出した。
﹁私は⋮さゆちゃんが行かないなら行かないよ?それより⋮何か、
あったの?佐久間先輩と⋮﹂
﹁⋮ん。やめたの。偽恋人。だからもう生徒会室にいく必要ないで
しょ?﹂
﹁え⋮っ!﹂
がたん、と立ち上がって響子が驚く。
それを見ながらくすりと紗弓は笑い、パンを一口食べる。
﹁大げさねぇ。もともと3月にはそういう予定だったじゃない、繰
り上がっただけよ﹂
﹁⋮⋮で、でも⋮﹂
響子は戸惑いの表情を消せないまま座りなおして、弁当箱を開ける。
しかし箸をつける前にやはり、と紗弓に問いかけた。
﹁やっぱり変だよ。だって⋮確かに偽者の恋人だったかもしれない
けど、だからってもう生徒会室に行かないとか⋮それに帰りだって
⋮一人で帰ってるんでしょう?﹂
﹁うん、もう恋人じゃないもん。それなのに一緒に御飯食べたり、
一緒に帰るのっておかしいじゃない﹂
﹁おかしくないよ⋮?だ、だって⋮仲いい、んでしょ⋮?﹂
響子の言葉にチョココロネを食べる口がぴた、と止まる。
だが、しばらくするとまた何もなかったようにもぐもぐと紗弓は咀
嚼した。
﹁それももう、終わりにしたの。もともと⋮恋人役として私はあい
423
つと一緒になったんだもん。だからもう、いいの。約束が終わった
から私と佐久間は⋮他人⋮なのよ﹂
﹁そんな⋮⋮。も、もしかして、あの噂が原因?私がさゆちゃんに
あの噂を教えてしまったから⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
紗弓は黙ってもぐもぐとチョココロネを食べ終わる。
次のパン、デニッシュサンドイッチを手にとって、ぽつりと言葉を
口にした。
﹁⋮きっかけだったかもしれないけど、原因じゃないわ。⋮時間の
問題だったのよ。あの噂を知らなくても私はそのうち気づいて⋮こ
うなっていたわ﹂
﹁⋮気づいた?﹂
﹁うん⋮。ふふ、これ以上はだめ。⋮口にしたら泣いてしまいそう
だから﹂
そう言ってにっこりと笑うと、紗弓はデニッシュサンドイッチを食
べ始める。
それ以上何も聞けなくて、響子は弁当を口にしながらずっと紗弓の
顔を心配そうに眺めていた。
最初こそ流されていた事だったが、やがて生徒達は違和感を感じる。
あんなにいつも一緒にいた佐久間怜と真城紗弓が全くといっていい
ほど関わらない。
昼食に生徒会室に向かう紗弓も見ないし、下校時はお互い別々で帰
っている。
そんな日々が二週間も、三週間も続けば誰だって気づく。
ある日、とうとう女子生徒の一人が紗弓に聞いた。﹁佐久間先輩と
別れたの?﹂と。
紗弓はきっぱりと肯定した。
﹁佐久間怜と真城紗弓が別れたって!﹂
424
その話は瞬く間に校内全域に広がった。つきあった時もわずか一日
で校内に広まったが、別れ話もそれに近いくらい早く行き渡る。
勿論それに乗じて、次は私が、と改めて怜に告白する女子生徒も現
れた。
しかし彼女達はすべからく肩を落とすことになる。
前までは彼女と別れれば他の女性とすぐにつきあったのに、彼は全
てを断ったからだ。
理由を問うても、薄く微笑みを湛えるだけで答えてくれない。
やがて皆、諦めざるを得なかった。彼が決して首を縦に振ることは
なかったから︱︱。
◆◇◆◇
﹁⋮何度考えてもおかしいだろ?あんなに仲良くなってたのに﹂
﹁何も他人みたいに接しなくてもいいと思うんだけどねぇ?﹂
生徒会室の昼食時間。いつものように4人の役員はそれぞれの弁当
を囲んでいる。
そこに紗弓の姿はいない。勿論響子の姿もない。
何度交わしたか判らない八雲と護の質問攻めに、怜は静かにコンビ
ニ弁当を口にした。
﹁何度も言ってるでしょう?紗弓がそれを望んだからです﹂
﹁それもわかんねーよ!なんでいきなりそんな事言い出すんだよ。
⋮それに怜も、どうして了承したんだ﹂
﹁考えてみれば、僕と紗弓はそもそも3月まで恋人としてふるまう
という約束のもと、一緒にいたんですよ。それが終われば⋮関係も
終了してもおかしくないでしょう?﹂
﹁おかしい⋮絶対おかしいよ。絶対何かあったんだよ⋮﹂
護が落ち込んだように俯き、弁当を力なく口にする。
すると静かに聴いていた鮮花が、怜を真正面から見てはっきりと口
にする。
425
﹁貴方、さゆちゃんのこと好きなんじゃなかったの?そんな風に簡
単に切り離せるような程度の﹁好き﹂だったってワケ?﹂
ぴた、と怜の動きが止まった。
八雲も、そして薄々だが護も気づいている。怜は紗弓に対して﹁本
気﹂だったと。
それなのに紗弓が望んだとはいえ、了承などできるだろうか。
﹁ねぇ、怜。アンタ、さゆちゃんの事どう思って⋮﹂
﹁好きですよ?⋮ええ、好きに決まってます。今だって、紗弓をこ
の手にしたくて仕方がない。望みを了承した?⋮そんなもの、了承
するわけがないでしょう?﹂
割り箸を持つ手が僅かに震える。
怜の笑みは完全に消えていた。
﹁抱かれたくないと、触るなと言われて⋮それでもなお襲う程、僕
は狂うことができなかった。⋮だから別れた。それだけです⋮今度
こそ納得しましたか?﹂
﹁⋮怜、お前⋮﹂
怜と紗弓の間に何があったのか、だいたいを把握してしまう。
しかし何も言うことはできない。八雲は肩を落として弁当の残りを
片付ける。
︵俺、やっぱり期待してた。二人がちゃんとした恋人になって、怜
が幸せになること⋮︶
怜を知る数少ない人間である八雲はそう思い、思わず落胆のため息
をつくのだった。
◆◇◆◇
実際において、怜はすでにもう狂う寸前だった。
紗弓と別れてから毎日あの夢を見る。
夢の中の紗弓はとても素直で、微笑みを絶やさず嬉しそうに怜に抱
かれ、甘い嬌声を発する。
426
それが幸せであれば幸せであるほど、快楽を貪れば貪るほど。
⋮朝起きた時の落胆は果てがなくて。
忘れようと思った。数ある女の一人だったと過去に流そうと思った。
⋮いっそ嫌おう、憎もうとすら思った。
なのにできない。どうしてもできない。自分は数週間過ぎてもずっ
と女々しく彼女の影を追っていて。
夢の中では毎日のように紗弓を抱いていて。
実際の紗弓を目にした時、もう何をするかわからない。
だから徹底的に会わないようにした。
もともと接点がないに等しい二人だったから、朝の服装チェックの
時間よりも早く登校したり、委員会の顔出しを護に任せたりすれば
本当に会うことはなかった。
けれど、紗弓の顔が見れない日々が続くほど、降り積もる雪のよう
に思いは募る一方で。
紗弓の顔が見たい。⋮見れない。
笑顔が見たい。怒った顔が見たい。⋮もう、見れない。
佐久間って呼んでほしい。自分の言動の照れ隠しに叩いてほしい。
⋮もう、してくれる事はない。
もう、限界に近かった。いっそぷちんとキレて完全に狂ってしまえ
ばいいのにと思った。
そうすれば彼女を奪うように拉致して監禁して、飽きるほど紗弓を
抱けるのに。
◆◇◆◇
2月の生徒会はそれなりに忙しい。
学校によって時期は違うようだが、少なくともこの高校においては
そうだった。
生徒会役員の引継ぎ作業。
427
3年の八雲と怜は卒業する。次代の役員は全て選挙ですでに決まっ
ていて、あとは仕事の説明や引継ぎの話をするだけだ。
次代の会長は上羽鮮花。副会長は多賀護。そして新たに書記と会計
に決まった生徒がやってくる。
﹁はい、これが副会長の仕事の概要です。それからこちらが引き継
ぎ内容。判りやすいように表紙をインデックスにしておいたので、
付箋の色に添って見て頂ければわかりやすいかと﹂
﹁うわーうわーすごい!こんなのいつの間に作ったのっ!?﹂
﹁昨日パソコン室で作りました。もう草案はできてましたから﹂
さすが仕事が早い!と書類を早速見始める護と対照的なのが鮮花だ。
﹁や・く・もー!!なによこの引継ぎ書類!あんた、小学校の学級
委員じゃないのよ!?﹂
﹁なんで!?わかりやすくていいじゃん!﹂
鮮花に渡されたのは藁半紙一枚。そこには手書きで生徒会会長の仕
事が書いてある。
﹁ふざけてんじゃないわよ!副会長から来た書類を確認してハンコ
押す、書記から来た議事録確認してハンコ押す、会計の計算書と予
算書確認してハンコ押す。要望書読んで、よさげなら申請する⋮ア
バウトすぎだっていうの!よさげって何よ、よさげって!﹂
﹁え、だからよさげ。これならやってもいいかなっていうのをイン
スピレーションで感じて﹂
﹁あんたはそんな感覚でこの1年会長してたんかいっ!﹂
ゲシッと鮮花は見事な回し蹴りで八雲の尻を蹴り上げる。そしてう
つぶせに倒れた八雲の上に乗って、首をぐぎぎと持ち上げた。
﹁おお!おお!ぎぶぎぶ!!﹂
﹁ああもう。アンタに任せたのが間違いだったわ。⋮いいわよ、来
年度からは自己流でやっていく。あんたのやり方を引き継ぐなんて
絶対お断りよっ!﹂
しかし意外と八雲の会長ぶりは有能だった。彼のインスピレーショ
428
ンは才能があるのかもしれない。
だが、それ以外の殆どは周りの役員が有能ならばこそだ。
仕事が鬼速い副会長の怜に、細やかな議事録を書く護、精緻な計算
書を作成する鮮花がいてこその八雲なのである。
一応﹁確認してハンコ押す﹂という作業の、確認の正確さは評価す
べきなのだろうが。
八雲は管理職などに向いているのかもしれない。
そうやって鮮花と八雲がばたばたと揉めている間に、護は自分の仕
事である書記の引き継ぎ作業に入っていた。
ふと、怜を見れば彼はソファに座って携帯電話を弄っている。
﹁何か調べてるの?怜﹂
﹁⋮ん?ああ⋮そうですね。後腐れなくタダ乗りできるような女っ
て、どう調べれば見つかるんでしょう。やはり出会い系なんでしょ
うか。それともコミュニケーションアプリでしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮は?﹂
3人の動きがピタッと止まった。怜はそのまま目線を携帯から外さ
ず、親指で操作している。
﹁れ、怜?﹂
おずおず、と八雲が彼の顔をうかがう。怜の目に感情はなく、ぼう
っとした雰囲気で携帯電話を操作していた。
﹁できれば⋮。そう、ドがつくほどのマゾヒストがいいんですよね。
鼻フックをかけて口枷つけて宙吊り拘束しても悦ぶような。もう何
をしても快楽に変えてしまうような開発済みの変態がいいです。⋮
ああ、SM関係のサイトで調べればいいのかな﹂
ぶつぶつと呟きながら真剣に携帯を見る怜を、3人は恐ろしげな目
で見つめた。
﹁や、やばい、怜が壊れてる﹂
﹁これは末期だわ。怜ー!愛のない苛めはサディズムじゃないのよ
!﹂
429
﹁ほんとう、これはどうしたらいいんだろうね⋮﹂
三種三様に怜を心配していると、トントンとしたノックの後、から
りとドアが開いた。
振り返れば、これまた役員達は久々に見る気がする響子がそっと顔
を出している。
﹁おや、響子ちゃん。久しぶりだねぇ﹂
﹁はい、光国先輩⋮お久しぶりです。その、いま⋮忙しそう、です
よね⋮﹂
﹁ううん?ぜんぜん!﹂
うそつけ!と鮮花が八雲の頭をペシッとはたく。
それを見て慌てて響子が声を上げた。
﹁あっあの⋮光国先輩が忙しいなら⋮その⋮鮮花先輩に聞きたいこ
とがあるんですけど⋮﹂
﹁私?いいわよ。私の仕事はもう終わってるから﹂
アンタのいいかげんな引継ぎプリント以外はね、ともう一度八雲の
頭をはたいてから鮮花は響子のもとに歩いていく。
﹁すみません。できれば⋮廊下でいいですか?﹂
﹁かまわないわよ。行きましょう﹂
にっこりと笑って鮮花は響子を促し、生徒会室を出て行った。
430
42.真実。彼の﹁領域﹂は昏くひずんでいて。
2月ももうすぐ終わる。
しかし寒さは相変わらずで、とても春が近いとは思えないなと紗弓
は毎年思ってしまう。
コートを着てマフラーをかけ、足早に帰路につく。
﹁はぁ⋮さっむ⋮。そういえば今日は夜、雪が降るとかいってなか
ったっけ﹂
はぁ、と白い息を吐きながら歩いていると、自分の住むマンション
前に自分と同じ学校指定のコートを着た人間が立っているのに気が
ついた。
﹁⋮え?﹂
見慣れた姿に目を丸くする。
紗弓のマンション前に立っていたのは、鮮花だった。
﹁はぁい、こんにちは﹂
﹁⋮こ、こんにちは﹂
彼女はマンションの入り口をとうせんぼするように立っている。
どうしたものかと困った顔をしていると、鮮花も同じように困った
顔をして笑ってみせた。
﹁嫌われちゃったのかしら、私﹂
﹁え⋮?い、いえ⋮。別に⋮﹂
﹁そう?じゃあちょっと話をさせてもらえないかしら。貴女は寄り
道を良しとしないでしょ?だから待ってたの。着替えたら降りてき
なさいな。外は寒いからカフェにでも行きましょう?﹂
﹁あ⋮あの、それなら⋮別に外でなくても、うちで⋮いいですよ。
誰もいないし﹂
すると鮮花は嬉しそうに﹁それは助かるわ﹂と言ってきた。
やっと彼女が道をあけてくれたので、紗弓はオートロックを開錠し
431
て鮮花をマンションのエントランスに促す。
﹁はぁ、外に比べると全然あったかいわね。あ、自販機があるわ。
紅茶買っていい?﹂
﹁はい。私も⋮というか、ウチなにもないので⋮。それより鮮花さ
ん、いつから待ってたんですか?﹂
﹁ん?放課後すぐかな﹂
ガコン、と音を立ててミルクティーの缶を取り出し、それを握って
﹁あったかーい﹂と暖を取る鮮花に紗弓は驚いた。
放課後すぐなんて。今日紗弓は委員会で少し帰りが遅かったのだ。
それなのにずっとここで待っていたなんて、体は寒くて仕方なかっ
ただろうに、どうして?
考えながら自分もココアを購入して取り出す。
エレベータに乗って、ほどなく紗弓と鮮花は家のドアに行き着いた。
カチャンと音を立ててドアが開き、鮮花を家に入れる。
おじゃましますと口にして彼女が廊下を歩き、紗弓はその少し前を
歩いてリビングについた。
ピ、とエアコンをつけて部屋を暖める。
﹁あら、こたつあるんだ。いいわねぇ﹂
﹁はい。鮮花さんの所はないんですか?入ります?﹂
﹁是非是非!やっぱりこたつよねぇ。うちは和風建築の家なのに、
こたつは人を怠惰にさせるって言っておいてくれないのよ﹂
確かにこたつに一度入るとなかなか出づらくなってしまう。
その気持ちもわからないでもないな、と思いながら紗弓はこたつに
電源を入れて入った。
同じようにこたつに入ってきた鮮花にみかんをすすめる。
﹁こたつにみかん、これよね。ありがとう﹂
﹁いえ⋮それで、話って何でしょう﹂
ココアのプルタブを開けて一口飲み、みかんをむきながらそう聞く
と、鮮花はそうだったわねと、同じようにミルクティーのプルタブ
432
を開けて口をつけてから本題を口にした。
﹁さゆちゃんにはね。話しておくべきかなって思ったの。色々誤解
しているようだし?﹂
﹁⋮誤解?﹂
ええ、と頷いて彼女もみかんをむきはじめる。
﹁ふふ⋮私と怜が婚約者なんですって?﹂
﹁⋮っ!﹂
びくり、と紗弓の肩が震えた。わかりやすい子ねぇと鮮花は心の内
で笑って、紗弓に優しく声をかける。
﹁響子ちゃんから聞いたのよ。そんな噂が1年の間で蔓延してたな
んてね。2年にはまだそこまで噂が廻ってなかったからびっくりし
たわ﹂
﹁びっくり⋮って、違う⋮んですか?﹂
﹁違うわよ。というか⋮無理ね。怜と私が結婚するなんてありえな
いの。法的に﹂
思わず紗弓は言葉を無くした。みかんを食べる手も止まっている。
﹁ほ、法的って⋮﹂
﹁そうよ、法律で禁じられているの。だって私と怜は、兄妹なんだ
もの﹂
﹁え⋮ええーーー!?﹂
驚いた。これで驚かないなんておかしい。
たしかに二人とも顔はとても整っているけれど、全然似てないし、
苗字だって違う。
﹁だ、だ、だって、み、苗字、とか⋮あと、それぞれの家族と一緒
に初詣に行ったって⋮﹂
﹁そうね、ちょっと⋮複雑なの。私と怜は別々の家で育てられてい
て⋮苗字が違うのはね、母親が違うから。私と怜は異母兄妹なのよ﹂
つまり父親が同じなのだ。
そんな事情があったなんて、と紗弓はぱくぱくと口を開ける。
鮮花は彼女の表情を面白そうに眺めて、みかんをぱくりと口にした。
433
﹁もっと早くこの話をするべきだったのかもしれない。⋮だけど、
怜は絶対言わないだろうし、私もあまり言いたい話でもなかったの。
だからさゆちゃんに言わないままずるずると来てしまって。でもそ
れが原因でさゆちゃんと怜が離れるのなら、私は貴女にこの話をし
なきゃいけないわ。⋮確実に怜には怒られるけどね﹂
﹁お、怒られる⋮って﹂
﹁激怒するわね。多分あいつが、今一番知られたくない相手がさゆ
ちゃんだろうから。怜はねぇ、さゆちゃんに、同情とかそういうの
で好きになってもらいたくないのよ。⋮でもね、違うでしょ?怜の
事を知る前から貴女は⋮怜のこと、好きでしょう⋮?﹂
まっすぐに聞かれて。
彼女の目がとても真剣な事に気がついて、紗弓は自然と頷いていた。
﹁好き⋮です。私、佐久間のことが好きです⋮。だから⋮﹂
﹁ええ、だから私と怜の噂を聞いてショックを受けたのね。自分が
期間限定の存在なんて嫌だったんでしょ?自分だけの怜でいてもら
えないなら、離れたほうがましだと思ったんでしょう?﹂
見透かされたような言葉に思わず涙が出てしまう。
紗弓は涙を手の甲で拭きながらコクコクと頷いた。
そんな彼女をどこか愛おしそうに鮮花は見て、優しく紗弓の頭を撫
でた。
﹁⋮本当はね、この誤解さえ解ければ⋮怜の話はする必要がないの
かもしれない。貴女に心の負担をかけてしまうかもしれない。⋮だ
けどね、知ってほしいの⋮私が、そう思ったの。これは私のエゴよ。
自己満足。それでも⋮聞いてくれる?﹂
﹁⋮⋮はい、聞かせて⋮ください。佐久間がそれで怒るなら⋮私も
一緒に怒られます﹂
涙目でそう言うと、鮮花はくすりと笑って﹁そうしましょうか﹂と
片目を瞑り、一口紅茶を飲むと少しずつ怜の過去を話し始めた。
◆◇◆◇
434
佐久間怜は所謂禁忌の子供として産まれた。
父親の名前は佐久間渉、母親の名前は佐久間鈴音。
苗字の通り、鈴音は渉の姉だ。正真正銘、血の繋がる。いわゆる近
親相姦というものだ。
周りの人間が気づいた頃には遅かった。すでにもう堕胎ができない
程赤子は腹の中で育っており、産むしか道がなかった。
祝福されることなく産まれた子供。父親である渉は認知しなかった。
父親が空欄のまま鈴音の子として育てられる子は怜と名づけられ、
籍を置く。
渉と鈴音の間に愛はなかった。渉の陵辱行為で産まれたのが怜だ。
ただの欲望のはけ口として姉は弟から種を植え付けられてしまって
いたのだ。
渉という男はそういう人間だった。
女とみれば見境なく手を出し、避妊もせず、さかった動物のように
あちこちの女の子宮に無責任な欲望を吐き出す。そういう碌でもな
い男だったが、顔だけは格段に良かったので周りに女の影は絶えな
かったし、ほぼヒモのように女に寄生する生活をしていた。
それでも、鈴音は怜を愛した。弟である渉は愛せなかったが、自分
が腹を痛めた子は愛せた。
腫れ物のように扱う両親のもと、鈴音は怜を慈しみ、可愛がった。
しかし彼女は怜が幼稚園を卒業する頃、皮肉にも彼の誕生日に病で
命を落とす。
渉と鈴音の両親は怜を持て余した。
孫としてどうしても愛せないのだ。どうしても禁忌の子というレッ
テルが剥がれない。
それに怜をここにおいておけば、渉がやってきてトラブルを起こし
にくるかもしれない。
困った夫婦は、夫の妹が嫁いだ家に怜を預けることにした。
435
⋮そこが、鮮花の住む家だった。
鮮花の家は古い道場も兼ねていて、父方の祖父が合気道を教えてい
た。
初対面の二人はすぐに気があって仲良くなり、祖父が教える合気道
を共に習って日々を過ごす。
まるで本当の兄妹のようだねと笑いあい、鮮花の弟である鳴海とも
気軽に話せるような仲になっていく。子供達はそうやってすぐに心
を許しあったが、鮮花と鳴海の親である両親はずっと怜とは距離を
置くように接していた。
⋮小学生を卒業する頃までは。
怜が中学2年になったころ、ふと鮮花は怜の様子がおかしいことに
気がついた。
どこかいつも後ろめたそうな顔をして、目線がいつもおどおどとし
ている。
何かに怯えるような、そんな様子で時々夜中自分の部屋を出て行っ
てはどこかへ行っているようだった。
鮮花はつい気になって、夜中怜の後を追い⋮そして見てしまったの
だ。
鮮花の母親と、体を繋げる怜の姿︱︱。
﹁女﹂の嬌声を上げて腰を振るのは鮮花の母親。その下に敷かれ、
虚ろな目でされるがままの怜。
中学生には刺激的すぎる情景に鮮花は悲鳴を上げた。
⋮そして母親の痴態が家族に知られる事となったのである。
鮮花と怜はそこで真実を告げられた。
特に怜は、自分自身が近親相姦の子であることも、そこで知る。
渉は、叔母である鮮花の母親とも通じていた。つまり怜と鮮花は異
母ではあるが、血の繋がった兄妹なのだという事。
渉と鈴音ほどではないが、自分自身も禁忌といえば禁忌の範疇に入
436
る子だという事を知って、鮮花もショックを受けていたが、怜のダ
メージは計り知れなかった。
鮮花を連れて上羽家と結婚した母親は、鮮花の出生を夫と義父に話
していた。
正直に話すことで誠実さを売り込むつもりだったのだろう。妻を愛
した夫はそれを許し、鮮花を受け入れ、やがて二人の間にも鳴海と
いう息子が生まれた。
しかし怜を引き取って、少しずつ歯車が外れていく。
きっかけは怜の声変わりだったのだろうか。渉そっくりの声に、渉
と瓜二つの整った顔。成長期を経て背は母親を超え、合気道で鍛え
た体は﹁男﹂としての体を構築し始めていた。
鮮花の母親は鈴音と明確に違う所がある。彼女は渉を愛していたの
だ。だから彼女は怜を、渉の代わりとして重ねるようになってしま
った。
言うことを聞かなければ追い出すと脅し、怜の初体験を奪った。
その後も定期的に彼女の部屋に来るよう命令し、家を追い出された
くなかった怜は彼女の命令のままに夜中部屋へ赴き、彼女の欲望を
受けた。
二人の関係が鮮花によってばれ、夫は怒り狂って妻へ離婚を言い渡
し、二人は別れることになった。
しかし鮮花と怜は祖父が引き取った。
両親はもう、二人の面倒を見る気がなかったのだろう。父親は鳴海
だけを連れて家を出て行き、母親は佐久間の家に戻った。
鮮花は佐久間の姓を名乗るのが嫌だったので、そのまま上羽の姓を
名乗ることにした。
怜と鮮花、そして鮮花の祖父は3人で1年ほどの時を過ごす。思え
ばこの時期が一番穏やかだった。
ある日、渉が死んだという連絡が来る。
死因は車の衝突による人身事故。⋮といっても、被害者ではない。
437
加害者だ。
しかも飲酒に無免許。言い逃れできない過失である。
死んだ男は当然のように保険の一つも入っていなくて、莫大な賠償
金が請求された。
それをあろうことか佐久間の人間は、怜を預かっているという理由
だけで鮮花の祖父へ請求してきたのだ。
合気道の道場経営といっても格安で、殆ど引退も同然だったような
祖父には年金くらいしか当てはなく、莫大な金額を払えるような余
裕はなかった。
それが判っていた怜は、自分から疫病神になることを知った上で佐
久間の家に戻っていった。
鮮花と怜はそこで一度離れ、彼女が高校に入学した日に再会するこ
ととなる。
怜は佐久間の家に、渉と鈴音の両親の元へ帰った。戸籍上、戻ると
ころはそこしかなかったのだ。
父である渉は迷惑極まりない最悪の男だったが、実際において怜自
身に罪があるわけではない。
困った夫婦は仕方なく、佐久間の家系全員に頼み込んで金をかき集
め、賠償金を払った。
だが、八つ当たりのように疎まれた怜はその後、佐久間の家という
家をたらい回しにされることになる。
最初に預けられた家で、怜にとっては従姉妹の女性に﹁家において
やってるんだから﹂という理由で関係を強要された。それがばれて
次に預けられた家では、叔母と従姉妹両方から。次の家ではまた叔
母から⋮。
皆、怜の顔に魅了されていった。そして立場が極端に低い怜を自分
のものにした。
ここまでいくと魔性の男とすら思えるだろう。
佐久間の男は怜を疎み、憎み、女は怜を欲した。
438
やがて彼の境遇を聞き、見かねて引き取ったのが、彼らの父親⋮つ
まり怜にとっては祖父になる男の兄弟。分家の人間。それが茂雄と
その妻、友香だった。
さすがに友香ほどの年になれば怜を性の対象として見ることがない。
最初からこうすればよかったのだと引き取られた怜は、しかしもう
すでに幼い頃の片鱗はひとつもなかった。
それを、高校1年に怜と再会した鮮花は痛感する。
女性不信、自身の穢れ。怜はすでに心に病を持ち、性格はすっかり
歪んでいた。
色々な家にたらい回しにされて身につけたのだろう。人の心を穏や
かにさせるような優しい微笑みを常に絶やさず、丁寧な言葉を使い、
誰にでも優しく親切に接する。
それは彼の処世術なのだと知った。
どの家でもそうやってやってきたのだ。家系の男達になじられても
殴られてもニコニコと笑っていればそのうち呆れてしまう。丁寧な
言葉で穏やかに話していれば表立った波風もたたない。
そうやって日々をくぐりぬけ、心の内を決して見せない。
そんな男に⋮ならざるを得なかった。
やがて怜は、まるで渉の影を追うように女と付き合っては捨てると
いう日常を手に入れる。
それも心の歪みから。
自分は所詮こういう男なのだ。あの女にだらしがない、身内まで孕
ませるようなどうしようもない男の血を受け継いでいるのだからと
自分に言い聞かせるように。
⋮紗弓に出会う、その日までは。
◆◇◆◇
︱︱言葉がでない。
439
まさしくその表現が似合うほど、紗弓は何も言うことができなかっ
た。
鮮花は話し終えるとすっかり冷めてしまったミルクティーをこくり
と飲む。
﹁これが、怜がさゆちゃんに知られたくない話。ね?結構すごいで
しょう?﹂
﹁はぁ⋮そう、ですね⋮﹂
というか、途中から殆どついていけていない。
複雑な家族構成など全く頭の中で図にならないのだ。
﹁ふふ⋮じゃあ、さゆちゃんの率直な感想、教えてくれる?﹂
﹁え⋮そ、そう、ですね。⋮その、引きますね。いろんな人に。⋮
というか、佐久間ってどんだけフェロモンを巻き散らしてるのよ﹂
﹁あははっ!そうよねー。私も思っちゃう。あいつは絶対魔性の男
なんだわ。前世はよっぽど女に業があったんでしょうね﹂
くすくすと笑った後、少し鮮花は神妙な表情になって小さくため息
をつく。
﹁⋮怜がね、高校でつきあった女の子にその⋮サディスティックな
面を見せてたのも、きっと過去の反動なのよ。あいつはずっと身内
の女性から、立場を脅迫材料に関係を強いられ続けてた。殆ど八つ
当たりね。次は自分が他人の女性に意地悪な行為を強要したのよ。
別れたくなかったら言う事を聞け、ってね?﹂
﹁そっか⋮。でも話を聞いて判った気がします。佐久間って⋮どこ
か女性不信なところがあったし、何でも私のこと、経験済だろうっ
て先入観で見てたわ。それは全部、そういう色々な過去からそうな
ってしまっていたのね﹂
怜の過去を聞いて色々なことがすとんと胸に落ちた。納得した、と
いう感じだ。
紗弓も冷めたココアをくいっと飲み切って、みかんを口に運ぶ。
鮮花はこくりと頷いて、自分もみかんを食べ始めた。
﹁私の話したかった事は⋮これでおわり。⋮ふふ、色々さゆちゃん
440
の思ってること、聞きたいけど⋮やめておくわ。だってもう、さゆ
ちゃんは怜への気持ち、決まってるんでしょ?﹂
﹁ん⋮。その通りですね。もう⋮決まってます。⋮でも佐久間、話
聞いてくれるかな⋮﹂
こちらから離縁をたたきつけたようなものだ。
怒っていて、もう口もきいてくれないかもしれない⋮そんな風に思
っていると、鮮花があははっと笑って紗弓の頭を撫でた。
﹁そこは大丈夫よ。あいつはさゆちゃんに未練たらたらだから。む
しろ早めに行動してくれると助かるわ。怜があっちの世界に本腰入
れる前に﹂
﹁⋮あ、あっちの世界って⋮?﹂
﹁あー⋮まぁ、あっちは、あっち⋮?さゆちゃんが動けば解決する
事だから細かいことは気にしないで。それじゃ!話も終わったし私
は帰るわ。話聞いてくれてありがとね﹂
みかんを食べ終えた鮮花はすっくと立ち上がって、玄関へ歩いてく。
紗弓も慌てて彼女を追いかけて、玄関で見送りをした。
ドアを開ける前に、思い出したような顔をして鮮花は振り返る。
﹁⋮いまさらだけど。うちの愚兄を宜しくね?﹂
﹁はい。⋮頑張ってみます﹂
その返事ににっこりと鮮花は笑い、玄関ドアから出て行った。
鍵を閉めてから、紗弓はほう、と息をつく。
そしてむん、と気合を入れるように拳を握る。何かを決意するよう
に、黒い目はきりりとしていた。
441
43.出会いと同じところ、違うところ
3月3日は怜の誕生日であり、その情報はもちろん彼のファンなら
一番に知っている個人情報だ。
なので、この日の怜は怒涛のプレゼント攻撃に合う。
下駄箱を開ければ手紙つきのプレゼントがどさどさと落ちてきて、
教室に入ればすでに怜の机の上にはごっちゃりとプレゼントが山に
なっている。
ちなみにバレンタイデーも似たような感じだ。
怜は手馴れた仕草で鞄から紙袋を取り出すと、どさどさとプレゼン
トを入れていく。
これはもう一種の風物詩である。怜の誕生日と八雲の誕生日、そし
てバレンタインデーは皆が彼らに注目するのだ。一体今年はいくつ
もらってるんだ?と。
勿論手渡しも多い。休み時間のたびに呼び出されてはプレゼントを
渡され、告白もされる。
紗弓に会うまでは女をとっかえひっかえとしていた怜も、この日と
バレンタインデーだけは別で、告白されても決して乗り換えること
はしなかった。⋮告白の数が多すぎるからである。
しかし今年は違う。そういった意味で断っているのではない。
もう、たくさんだから。女とつきあう事自体もう飽き飽きしていて、
ご免こうむりたいから。
怜はにっこりと笑って穏やかに断りの言葉を口にする。落胆する女
子生徒の顔も見飽きたものだ。
そんな風に一日を過ごして放課後。
すでに引き継ぎ作業は終わらせていて、自分にはもう殆ど生徒会と
しての仕事はない。
特に用事もないのでそのまま帰ろうと鞄と紙袋2袋を手に取った。
442
家に帰ったら、手紙には目を通さなければ。
妙に誠実な所もある怜は、人から貰った手紙はちゃんと読むし、パ
ソコン打ちだが返事も書く。
しかし今年は怜が卒業するからか、去年一昨年よりもずっとプレゼ
ントの数は多かった。
これは数日かかるな⋮と思いつつ、秋にした約束を思い出す。
そういえば、紗弓に誕生日を祝ってもらう約束をしていたな。
殆ど自分が無理矢理紗弓に了承させたような約束だったが、それで
も彼女は頷いた。
誠実な彼女ならきっと祝ってくれるだろう。密かに楽しみにしてい
たけれど、それはもうきっと、果たされない。
何しろもう他人なのだから︱︱。
首を振って彼女の顔を頭で打ち消す。佐久間、と呼ぶあの声も幻聴
だから無視をする。
佐久間。
佐久間。
さーくーまー!無視しないでよっ!馬鹿!
﹁佐久間ぁっ!﹂
ぴた、と立ち止まる。
幻聴ではない。確かにその耳に入る、忘れもしない彼女の声。
思わず辺りを見渡すが、誰もいない。
やはり幻聴か?と思った瞬間、また佐久間!と声が降ってきた。
上⋮?
中庭の端、校門に向かう道で怜は空を見上げる。
まさかそんな?と思っていたら、中庭にある樫の木の上に紗弓が立
っていた。
443
彼女の背を少し超えたくらいの高さの枝に立って、怜を見下ろして
いる。
⋮もしかして、登ったのか?
だとしたら割とすごい身体能力ではないだろうか。あまり女子高生
で木登りできる子はいないと思う。
そう、ぼんやり思って怜が見上げていると、紗弓は枝の上に立った
まま怜に向かって声を上げた。
﹁佐久間!⋮貴方に話があるのよ﹂
怜は何も答えず、ただ紗弓を見上げる。
彼の表情はぼうっとしたようにも見えるし、怒っているようにも見
えた。
それを紗弓はまっすぐに見据える。⋮真剣に。きらきらとした丸く
大きな目で。
﹁⋮まずは謝らせて。私の誤解で佐久間を傷つけた事。⋮そもそも
ちゃんと貴方に確認すればよかったんだわ。⋮ごめんなさい﹂
ぺこりと頭を下げて、そう言った。
何だかこの状況で謝ってくる紗弓が妙におかしくて、思わず怜は少
し笑ってしまう。
﹁随分と、上から目線で謝ってくるのですね?﹂
﹁いつも⋮佐久間は私を見下ろしてるじゃない。だから私から話が
ある時はこれでいいのよ﹂
不思議な理論を展開しつつ、紗弓は顔を上げた。そしてまたぺこり
と頭を下げる。
﹁もう一つ、謝らなきゃいけないことがあるわ﹂
﹁へぇ?いっぱいあるんですね﹂
﹁ええ。⋮ごめんなさい。鮮花さんから佐久間の昔話を聞いてしま
ったの。鮮花さんは佐久間が激怒するかもって言ってたからちゃん
と謝っておこうと思って﹂
﹁むかし⋮ばなし、ですか﹂
成程、と怜は呟く。
444
なぜ彼女がいきなり謝ってきたのか納得したのだ。鮮花から自分の
話を聞けば、それは確かに紗弓の性格からしたら話をしたくなるだ
ろう。謝りたくもなるだろう。
しかし、怜はそういった意味では紗弓と話をしたくはなかった。
忌まわしいともいえる過去は彼女にだけは知られたくなかったから
だ。
ふぅ、とため息をついて軽く肩をすくめる。
﹁それで?同情してくれたんですか。それとも軽蔑しましたか?﹂
﹁同情とかはわからないけど、可哀想だなーとは思ったわ﹂
﹁可哀想⋮ふふ。一番嫌いな言葉ですね。反吐が出そうです﹂
にっこりと笑みさえ浮かべて言ってみせる。紗弓は少し傷ついたよ
うな顔をしたが、ぐっと奥歯を噛んで怜を見つめた。
﹁だって⋮しょうがないでしょ。それが正直な感想なんだもん。あ
の話を聞いて可哀想と思えない人間のほうがおかしいと思うわ﹂
﹁そう言われれば、確かにそうかもしれません。紗弓は嘘がつけな
い正直者でしたね、そういえば。⋮じゃあ僕が可哀想だからと謝っ
て、自己を満足なさいましたか?⋮では、それが満たされたならも
ういいですね﹂
そのまま紗弓の立つ樫の木を通り過ぎる。
憐憫で情など貰いたくはなかった。
怜がこの話を紗弓にしなかったのは、聞いてしまったら必ず彼女は
自分に同情すると判っていたから。
そんな気持ちで謝られても少しも心が動かないし、もういいと思っ
た。
もういい。お喋りな鮮花は後でとっちめるとしても、紗弓はもうい
い。⋮できれば知らないまま、好きになってもらいたかったけど、
もう遅い。知ってから好きになられても、嬉しくない。
しかし、紗弓は怜の後姿に声を上げる。
﹁何勝手に結論付けてるのよ!最初に謝ったのは佐久間を誤解で傷
つけた事。次に謝ったのは、本来なら貴方本人から聞くべき話を鮮
445
花さんから聞いてしまったことに対してよ!﹂
ばさ、と怜の後ろで音がした。紗弓が身動きをして、樫の木を揺ら
したらしい。
そのまま彼女は彼の背中に向かって言い続ける。
﹁ほんとはこんな事、言わなくてもいいことだわ。心に隠して黙っ
てたほうがいいんだろうけど、それでも貴方の過去を聞いたって話
をしたのは、貴方に対して嘘とか、隠し事とかしたくなかったから
よ!佐久間は嫌なんでしょう?私に隠し事をされる事がっ!﹂
ぴた、と怜の足が止まる。
それは確かに自分が、紗弓に言ったことだからだ。
彼女には自分に一切の隠し事をしてほしくない。いつかデートで話
した事を彼女は覚えていたらしい。
﹁ちゃんと佐久間に正直でいようって思ったの。どんなに怒られて
も、嫌われても、佐久間に隠し事をしたまま気持ちを伝えるのは嫌
だったの。⋮ごめんね⋮私⋮、佐久間が、⋮好き﹂
搾り出すような、かすれた涙声。
紗弓に背を向けたまま怜は目を見開く。
両手に持っていた紙袋は掴んだままだったが、脇に挟んでいた鞄を
ぽとりと落とした。
紗弓はそれに気づかず、怜の背中に思いを打ち明ける。訴えるよう
に、叫ぶように。
﹁好きなの!ずっと⋮佐久間の過去を聞く前からずっとずっと好き
だったの!だ、だけど⋮私、佐久間が鮮花さんと婚約者だっていう
話を聞いてしまって⋮それで﹂
﹁え!?ちょっ⋮鮮花と婚約者って⋮はぁ!?﹂
聞き捨てならない事を聞いた怜は思わず振り返った。
紗弓は涙目になっていたのか、あわててごしごしと袖で目を擦る。
﹁なんですか、その鮮花と婚約者って﹂
﹁だ、だからそれが最初に謝った誤解よ。今はちゃんと知ってるわ
よ、鮮花さんと貴方が兄妹だって。⋮でもあの時は知らなかったん
446
だもん。だから⋮鮮花さんっていう婚約者がいるのに私と恋人にな
りたいなんて⋮なんか、前までの女の人みたいに期間限定で、体だ
けの恋人になりたいのかって思ったら嫌だって思って⋮それで、拒
んでしまったのよ﹂
そう言う事か、と怜は今度こそ納得のため息をつく。
不思議だったのだ。紗弓がいきなり別れを切り出すなんておかしい
と思っていた。
突拍子もない話。それは、根拠ひとつもないような噂が原因だった
のだ。
﹁全く、噂に踊らされすぎです。僕にそれを聞いてくれれば一言で
解決するような話だったのに﹂
﹁だから謝ったんじゃないのよ!そ、それに佐久間だって悪いんだ
からね!?﹂
咎めるような怜の言葉に、八つ当たりような口調で紗弓が怜に噛み
付いた。
﹁僕が悪い⋮?﹂
﹁そうよっ!だってあの時、恋人になってとか、私の気持ちとか聞
いてきたけど、佐久間は一言も自分の気持ちを言ってくれなかった
じゃない!い、今だって、私自分の気持ちをちゃんと言ったのに、
佐久間は⋮答えて、くれないし⋮﹂
紗弓は樫の枝の上で俯く。
そこで怜はやっと自分が気持ちを伝えていないことに気がついた。
うっかりどころではない。俺はホント馬鹿だ、と思った。
紗弓の気持ちを確かめるばかりで自分の気持ちを全く伝えていなか
った。
人から告白される事に慣れすぎて、自分から告白するなんて一度も
なかったから。
思わず首を振る。あの時の自分を殴ってやりたい。気持ちを伝えず
あんな事をすれば、それは彼女も困るだろうし、嫌がるのは当たり
前だ。更に妙な噂で誤解していれば尚更。
447
紗弓はそんな彼を見下ろして、自信なさげに怜へ伺う。
﹁それで、どうなのよ⋮。さ、佐久間は⋮どうなの?私のこと⋮ど
う、思っているの?﹂
答えなんて決まってる。
迷うまでもない。悩むまでもない。
怜は両手に持っていた紙袋をどさりと落とす。地面に落ちた紙袋か
ら、プレゼントがばらばらと散らばった。
﹁⋮や⋮だ。いやだ﹂
﹁え⋮?﹂
知らずへんにゃりとした表情になる紗弓を見上げて怜は嬉しそうに
微笑む。
そして両手を大きく広げた。
﹁いやだ。遠すぎる。⋮ここにきて、紗弓。もっと近づいてからじ
ゃないと伝えられない﹂
﹁⋮あ⋮う、うん⋮﹂
そう言われて慌てて紗弓は樫の木の幹を伝って降りようとするが、
怜は首を振る。
﹁そこから降りていいよ。受け止めるから﹂
﹁え?重いわよ。別に⋮﹂
﹁最初だってそうだっただろ?跳び箱から紗弓は飛び降りてきたじ
ゃないか﹂
﹁あれは飛び降りたんじゃなくて飛び蹴りをしようとしたのよ!﹂
思わず怒り出す紗弓にくすくすと怜は笑う。
そして両手を広げたままどうぞ、と紗弓を促した。
彼女は少し悩んだような顔をしたが、やがて意を決したように枝を
蹴って怜の方面へ飛び降りる。
ぽふ、と音がした。
最初に飛び蹴りした時と同じ、怜は優しく紗弓の体を抱きとめてい
て。
最初と違うのは、甘い甘い表情をして、ぎゅっと彼女を抱きしめた
448
事。
想いを込めるように力を込めて抱きしめた後、怜は紗弓の顔を至近
距離で見つめる。
その表情は嬉しさで溢れていた。
﹁俺も好き。紗弓が好き。ずっとずっと好きだった。紗弓⋮大好き
だよ!﹂
そして堪らないといった風に目を瞑ると、紗弓の唇にキスをする。
愛しい、という気持ちがそのままダイレクトに流れてくるような、
優しくてとんでもなく気持ちのよい口付けに紗弓も応える。
ぎゅっと怜の頭を抱えるように抱きしめて、彼のキスを受けた。
﹁ん⋮っ⋮﹂
﹁さゆみ⋮。ん⋮、まだ⋮﹂
ちゅ、と音を立てて唇を外すと、また角度を変えて深く口付ける。
してもしても足りない。想いが通じても足りない。
永遠だってしていたい。
はぁ、と熱いため息をついて二人はゆっくりと唇を放す。
紗弓は息を軽く乱していて、顔色は真っ赤になっていた。
久しぶりに見る彼女の照れ顔に怜は嬉しそうに頬ずりをする。
﹁ああ、紗弓。紗弓⋮。はぁ⋮もうだめ。ごめん⋮﹂
﹁⋮へ?な、なにが⋮?﹂
﹁もうしたくて堪らない。紗弓が欲しくて欲しくて、息をするのも
辛いんだ。ごめんね?こんな男で。⋮でも紗弓を頂戴?﹂
﹁あう⋮いきなりそれ!?﹂
ぱこ、と紗弓は怜の頭を叩く。それでも怜は嬉しそうに笑った。
﹁こんなに一人の女性を欲しいなんて思ったの初めてなんだよ。ね、
選んで。ここか、生徒会室﹂
﹁学校限定!?って、ここはだめよ、ここはっ!!﹂
﹁だって他にないじゃない。じゃあ生徒会室だな。ああ、他のメン
449
バーは追い出そうね。さすがに見られながらやるのは趣味じゃない
から﹂
﹁ちょっ⋮追い出してもばればれじゃない!ってそういう問題じゃ
なくて、学校は、学校はだめよ!風紀違反どころじゃないわ⋮っ!
じ、じゃあ、うち、うちにきてよ!それならいいわ!﹂
必死で紗弓がそう提案すると怜は﹁本当?﹂と目を輝かせた。
﹁嬉しい。じゃあそっちにしよう﹂
にっこり笑ってそのまま紗弓を抱いて歩こうとする。
﹁ちょっとちょっと!貴方鞄!それにその紙袋もっ!!﹂
﹁ああ忘れてた。もう本当余裕なくて、ふふ﹂
やっと怜は紗弓を地面に下ろし、がさがさと紙袋にプレゼントをつ
めていく。
紗弓ももう一つの紙袋にプレゼントを片付けて、小さくため息をつ
いた。
﹁こんなに貰ってるんだ⋮﹂
﹁そうだねぇ。定期入ればかり増えていくよ﹂
どうやらプレゼント第一位は定期入れらしい。ちなみに次点が手作
りお菓子とハンカチだ。
﹁⋮そういえば、私⋮誕生日祝うって約束したのに、何も用意して
なくて⋮ごめんね?﹂
誕生日は覚えていたらしい。
そう申し訳なさそうに言って紙袋を渡してくる紗弓に、怜はそれを
受け取りながら優しく彼女を抱き寄せた。
﹁何言ってるの?最高のプレゼントをこれから貰うんだよ。⋮紗弓
を貰うんだから﹂
﹁⋮あ⋮。な、なんか発想がオジサンっぽいわよそれ!﹂
顔を赤くしながらぺしっと胸を叩く彼女に怜は微笑む。
﹁だって本当のことだし?さ、行こう行こう﹂
怜は2つの紙袋を片手に提げ、紗弓の手を握って歩きだす。紗弓も
怜の鞄と自分の鞄を持って、手を繋がれたまま歩いた。
450
⋮そういえば、敬語⋮なくなってるな。
そう、今更ながらに思いつつ。
451
44.繋がる想い。しあわせの時
家につくなり、怜は紗弓に口付けた。
ドサッと音を立てて紙袋を玄関ポーチに落とし、またばらばらとプ
レゼントが散らばる。
それを気にも留めず、怜は紗弓の体を抱きしめ深く唇を重ねた。
﹁ん⋮っん⋮はぁ、ま、待って、こんな所じゃ⋮﹂
﹁はぁ⋮。ごめん⋮こんなに余裕ないの初めてで。紗弓の部屋はそ
この右だったよな?﹂
﹁そ、そうだけど⋮キャッ!?﹂
聞くなり怜は紗弓を片手でヒョイと抱えると、もう片方の手で彼女
の靴を脱がす。
自分も乱暴に靴を脱ぎ捨て、紗弓の部屋まで長い足で歩けば数歩。
片手でドアを開けて部屋に入ると彼女の体をどさりとベッドに落と
した。
﹁ひぇあっ!﹂
﹁ああ、紗弓⋮。さゆみ。⋮もう夢じゃないんだ⋮!⋮本当に本当
に、俺のものにするからね?﹂
驚くばかりの彼女の上に、怜は覆いかぶさってくる。
﹁あ、あの、こういうのって⋮シャワーとか⋮んっ!!﹂
拙い性知識を総動員して紗弓が言うが、怜は聞く耳を持たずに再び
彼女の唇を奪う。
少しだけ唇を食んだり、ちゅ、と音を立てては啄ばむようなキスを
した後、するりと舌を差し込んできた。
紗弓は震える体で彼の舌を受ける。
またこの感覚、だ︱︱。
怜が紗弓の舌を舐める度、絡めて、歯列を舐める度に体がじわじわ
と熱くなる。
息苦しさと体の熱で、紗弓の息が上がっていく。
452
怜は貪るように必死な様子で紗弓の唇を、舌を味わいながら彼女の
スカートを捲くり、ショーツの中に手を入れてきた。
﹁!!!﹂
びくっと体が震える。ぞわりとした感覚が背筋を走り、紗弓は身を
固くした。
目をぎゅっと瞑る。怜の腕を掴む手はふるふると震え、未知の事態
に体を備える。
﹁目を開けて、紗弓﹂
甘く優しい声が聞こえて、震えたままゆっくりと目を開く。
そこには声色と同じくらい甘く優しい表情の怜が彼女を見つめてい
た。
﹁さく⋮ま﹂
﹁⋮怜って呼んで﹂
する、とショーツの中に入った指が彼女の中心を擦る。
ぴくんと体を揺らす紗弓に口付けて、もう一度名前を呼んでと呟く。
﹁れい⋮怜﹂
﹁⋮うん、紗弓。力抜いて⋮。俺の指を感じて﹂
花びらを割り、中心を優しく擦るとじわりとナカから蜜が少しずつ、
そこを湿らせていく。
﹁今度はちゃんと感じてる。⋮声も聞かせて、紗弓﹂
きゅ、きゅ、と擦る指が早くなって時々くすぐるように指を小刻み
に震わせると、その刺激に紗弓は自然と声が出た。
﹁んっ⋮あ⋮。はぁ⋮ぅ⋮﹂
﹁はぁ、紗弓⋮可愛い声。もう⋮挿れたくて堪らない⋮!もう少し、
だけ⋮﹂
そう言うと怜は起き上がり、紗弓のショーツを外す。ぐい、と開脚
させると次は紗弓の中心を舐め始めた。
﹁ああっ!やぁ⋮っ!﹂
びくんと紗弓の体がしなる。いつかのラブホテルでされた事と同じ
だ。怜は紗弓の花びらを丁寧に舐めた後、中心を舌先でちろちろと
453
舐める。
その感触が、堪らない。あのホテルでされた時は声を抑えるのに必
死で感じるどころではなかったが、その必要がなくなった今は、彼
のその行為がとんでもなく気持ちが良いということに今更気がつい
た。
そうだ、気持ちいい。
気持ちいいから声が出るんだ。歓喜に体が打ち震えるんだ。
怜の舌は止まらず、十分に中心を舐めて濡らした後、舌で皮を割り
花芯を舐め始める。
﹁だ、め⋮そこ⋮は⋮!﹂
頭に血が上りすぎて気を失いそうになるほど気持ちが良くて、紗弓
は慌てて怜の頭を抑える。
だが、彼は熱に浮かされた様子で花芯を舌先で舐め、やがて中指を
ナカに差し入れた。
ぐにぐにと狭い道を広げるように指は回され、奥へ突く。
﹁や⋮っ!あ⋮怜、ゆび⋮が⋮!﹂
﹁うん⋮ちゃんと濡れてる、ね。すごく狭いけど⋮でも感じてくれ
てる。嬉しいよ⋮﹂
やっぱり前は我慢してただけなんだな、と彼は笑って起き上がり、
ブレザーの内ポケットに手を入れた。
何をしているんだろうと紗弓がぼうっと見ていると、彼はポケット
から避妊具を取り出して口に咥え、ベルトを外して準備を始める。
紗弓の目が見開く。思わず、口に出していた。
﹁ちょっ⋮それ、こ、こんどー⋮むとかいうやつ⋮!?﹂
﹁そうだよ?ちょっと待ってね、つけるから﹂
ぴっと避妊具の袋を歯で破り、下のほうでごそごそとしている彼に
紗弓はこんな情事にも関わらず噛み付いた。
﹁な、なんというものを所持してるのよ!あんたそれ学校にいつも
持ってきてるの!?い、違反よ違反!不要物もいいところ!この不
良副会長!﹂
454
﹁でも、いつ必要になるか判らないし﹂
﹁判らないしって、学校で必要になるような事態を作るなぁーっ!﹂
くすくすと怜は笑ってさっさと準備を終えると再び紗弓に覆いかぶ
さってくる。
至近距離でじっと見られて、思わず紗弓は噛み付く口を閉じてしま
った。
︵う⋮格好いい⋮。って何見蕩れてるのよ私はっ!︶
ぷい、と目をそらすと怜は笑いながら紗弓の耳元に唇を寄せる。
﹁今必要になったじゃない。⋮それとも、ナマのほうがよかった?﹂
﹁な、なま⋮って⋮?﹂
﹁ふふ⋮判らないの?じゃあ後で教えてあげる⋮﹂
楽しそうにそう言うと、彼は準備の終えた自身を紗弓の中心にあて
がった。
はい
そしてソレで擦るように触れてくる。
﹁⋮んっ⋮﹂
﹁ああ、ここに⋮やっと挿入れるんだ⋮。紗弓のカラダ、貰うから
な﹂
感慨深げに呟いた後、優しくキスをする。
それを合図にしたように、怜はゆっくりと紗弓のナカに自身を沈め
た。
﹁あっ⋮あ⋮れ、怜⋮っ﹂
﹁ん⋮せま⋮い。紗弓、力⋮抜いて﹂
﹁そう言われても⋮っ!ああっ⋮うぅ⋮っ﹂
紗弓はぎゅっと目を瞑って、必死に力を抜こうとするが、どうして
も体が強張って言われるようにできない。
初めて受け入れた﹁男性﹂は、とても大きく感じて緊張してしまう
のだ。
だが思ったよりは痛くない。ホテルで彼が入れてきた指のほうが痛
かった。
しかしこの異物感は指とは比べ物にならない。
455
目を瞑っていると、はぁ、はぁ、と怜の息があがり、時々﹁くっ⋮﹂
と苦しそうなうめき声が聞こえて紗弓は思わずうっすらと目を開け
て⋮目を丸くした。
今まで見た彼の表情で、見たことの無い顔︱︱。
眉を寄せ、苦悶の表情を浮かべている。何かに耐えるような、苦し
そうな顔をしていて慌てて紗弓は声を上げた。
﹁ん⋮っ!れ、怜⋮苦しいの?ご、ごめんなさい。私どうしても力
が抜けなくて⋮っ﹂
﹁はぁ⋮っ⋮え?苦しい⋮?﹂
眉を寄せながらも不思議そうに怜は言い、やがてふはっと笑みをこ
ぼした。
﹁違うよ、苦しいんじゃない。⋮気持ちよすぎてヤバいんだ﹂
﹁え⋮き、気持ちいいの⋮?あ、あんっ!﹂
ず、と怜の杭が紗弓の最奥にたどり着く。彼はぐりりと軽く付け根
と花弁を擦り合わせると﹁ああ⋮﹂と酷く辛そうな声を上げた。
﹁本当にヤバ⋮い。全然もちそうにない⋮。あ⋮っ!紗弓、だめ⋮
動かないで﹂
﹁う、動いてないつもりなんだけど⋮っ﹂
﹁んっ⋮!紗弓のナカが動いて⋮っ⋮あ、駄目だ。い、いく⋮っ!﹂
え?え?と彼女が事態についていけずおたついている間に、怜は紗
弓の体を抱きしめてびくりと体を震わせた。
そしてゆっくりと彼の体が弛緩する。しばらくして﹁はぁ⋮﹂と熱
いため息をついた。
﹁あー⋮情けね⋮。挿れただけでイクなんて前代未聞﹂
あはは、と情けなさそうに笑って怜は片手で顔を軽く覆う。
そしてずるりと自身をナカから引き出すと、紗弓はその感覚に﹁は
うっ!﹂と声を上げた。
﹁は、ごめん。ええと⋮また準備するから少し待ってくれる?﹂
﹁え、え?というか、何が起こったのか全然わからないの。なにが
あったの?﹂
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紗弓は慌てて起き上がって彼を見た。怜は自身から避妊具を抜いて
口を縛り、それをティッシュに包むと次はブレザーを脱いでから内
ポケットを探り、もう一つ避妊具を取り出してベッドに置いている。
﹁いやもう、俺が必死すぎて。一人で勝手にイッちゃってごめんね。
紗弓のナカが気持ちよすぎて本当余裕がなかったんだ﹂
﹁そ、それはいいんだけど⋮べ、別に謝らなくていいと思うわよ。
よくわかんないけど﹂
﹁ふふ、そういえば服も脱いでないよね。どれだけ必死だったんだ
って⋮情けないなぁ。一応名誉の為に言っておくけど、こんなの初
めてなんだよ?﹂
笑いながらそう言って、しゅるりとネクタイをはずし、ぷちぷちと
シャツのボタンを外してばさりと脱ぐ。
さらに下に着ていたTシャツを脱ぐと、彼の均整のとれた上半身が
露になって紗弓は思わず下を向く。
⋮向いて﹁ひぇわぁ!!!﹂と大きな声を上げてズサッと体を引い
た。
紗弓が見てしまったもの、それは⋮怜の立ち上がる、杭のような一
物。
﹁ああ、見るの初めてなの?お父さんのは?﹂
﹁お、お、お、覚えてないわよ⋮!そ、っそそそ、そんな大きいの
がさっきまで入ってたの⋮っ!?﹂
自分のナカに。あんなものが。信じられない。いや、そもそもどう
やって入れたんだ。
あんなのが入るものなのかっ!紗弓の頭の中が人生で一番混乱した。
怜はそうだよーと軽く笑ってズボンと下着も脱いでしまう。
すっかり裸になった怜は、紗弓の腰を軽く寄せてきた。
﹁紗弓も脱ごうね。次はゆっくりやろう。⋮俺も余裕でてきたし﹂
﹁つ、次っ⋮て、また、やる⋮の?﹂
﹁あんなのやったうちに入らないよ。紗弓もイッてないし。さっき
のはその⋮フライング?あはは﹂
457
明るく笑って彼は紗弓のリボンを解き、ブレザーとベストのボタン
を外す。
するりとそれを脱がして、さらに手はブラウスのボタンへ。
あれよあれよと脱がされて紗弓は目を白黒とさせてしまう。
﹁あの、ね、怜。なんか色々早くて、ちょっと⋮﹂
﹁うん⋮。だから次はゆっくり。紗弓のペースに合わせてしよう﹂
そう言って、ちゅ、とキスをする。
最初からやり直すみたいに、ちゅ、ちゅ、と音を立てて啄ばむよう
なキスをして、一度深く口付けると、怜は紗弓の腰をぐっと持ち上
げて自分の膝に乗せた。
彼がまるで座椅子になったみたいに、紗弓の背に彼の胸が当たる。
﹁ふふ⋮紗弓のカラダは小さいね⋮﹂
後ろからぎゅ、と抱きしめられた。裸の怜はとても暖かく、肌と肌
が合わさった背中がとても気持ち良い。
﹁本当に夢みたいなんだ。というか、何度も夢見てたんだけど。ず
っとこうやって、紗弓を抱きしめたかった。紗弓、紗弓、大好き⋮。
もう、俺のものになったんだよ⋮。紗弓は、俺のもの﹂
﹁う⋮。れ、怜⋮は⋮?﹂
﹁勿論、俺は紗弓のもの。ねぇ、紗弓、俺のこと⋮好き?﹂
くすくすと笑いながらそんなことを耳元で聞きつつ、ぷちんとブラ
のホックを外してくる。
ふっと軽くなる肩にうっとりとしつつ、紗弓は呟くように怜に答え
た。
﹁好き⋮よ。大好き、よ﹂
﹁ん。嬉しい⋮俺も大好き﹂
後ろからそっと胸が持ち上げられる。
重さを確かめるようにぽよぽよと下から触ったり、脇からぎゅっと
絞るように握られたり、大きな手で掴んで上下に揉んだり。
彼の手によって自由自在に形を変える自分の胸を眺め、紗弓は恥ず
かしくなった。
458
﹁な、なんか⋮んっ⋮遊んで⋮る?﹂
﹁ばれた?だって大きくて気持ちよくって。本当ふにゅふにゅだね
ぇ﹂
﹁あっ⋮ほかの人のなんてわかんないもん⋮ひゃあっ!﹂
思わず声を上げる。怜は紗弓が話している間に彼女の頂をつん、と
つついてきたのだ。彼女はびくんと背筋をしならせて体をびくつか
せる。
﹁あ、いい反応。ココも弱いんだ⋮耳も弱いみたいだし、あそこも
弱くって、紗弓の弱いトコロ⋮ほかにもいっぱいありそう﹂
体中弱いのかな?と笑って怜はつんつんと両手で紗弓の頂をつつき、
人差し指をぴこぴこと動かして紗弓のそこを弄る。
﹁あっあっ⋮!そ、そういう触り方は⋮っ!﹂
﹁んん∼?じゃあこういう⋮弄り方は?﹂
きゅ、と頂を摘んで引っ張り、くりくりと指で擦った後ぐっと胸の
中に押し込むように押してくる。
﹁ああん!そ、そういうのも⋮っ!き、気持ちよくて⋮なんだかお
かしくなりそうなの⋮﹂
﹁⋮俺としてはおかしくなって欲しいんだけど?⋮本当に可愛い反
応をしてくれるね。⋮じゃあ次はコッチ﹂
楽しそうに彼は紗弓の足を掴むとくるっと回し、向かい合うように
怜の上に座らせる。
自然と紗弓の足は彼の体をまたぐようになってしまい、恥ずかしく
なって今だ残るスカートで下を隠した。
﹁ホント、紗弓は小柄だから体位を変えるのも楽だなー﹂
﹁あう⋮なんか好き勝手に扱われてる気がするんだけど⋮﹂
俯きながらぶつぶつと文句を言うと、彼はくすくすと笑って両手で
紗弓の胸を持ち上げた。
﹁たっぷり。なのに乳輪も乳首も小さくて⋮可愛い﹂
そう言うと、そのまま胸の頂にキスをする。
ちゅっと音がして、その刺激に紗弓は体をのけぞらせた。
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﹁んやぁっ!﹂
﹁おっと﹂
怜は彼女の背中を片手で支えて固定すると、そのまま頂を舌と唇を
使って愛撫を始める。
片手で胸を掴み上げ、ちろちろと舌先で頂を舐めたり、くるくると
乳輪をなぞったり、ちゅうっと音を立てて吸ったりする。
容赦のない責めに紗弓はびくびくと体を震わせいやいやと首を振る
が、体は彼の片手でがっちりと固定されていて逃げることもできな
い。
﹁あっ!あぁ⋮っんん⋮!やぁ⋮っ!﹂
甘い嬌声を上げ、ひたすらに彼の愛撫を受ける。
やたらと丁寧な彼の責めは愛情に溢れていて、彼はこの行為を心か
ら楽しんでいるのだとその表情から判る。
笑っているのだ。
嬉しそうに笑いながら、紗弓の胸を舌で弄る。
最後にじゅっと音を立てて頂を吸って、やっと怜は顔を上げた。
﹁ぷは。⋮はぁ⋮気持ちいいね﹂
﹁んぇ⋮怜がきもちいいの?⋮私じゃなくて⋮﹂
﹁うん。気持ちよさそうによがってる紗弓の声を聞いてると、俺も
堪らなくなってイキそうになる。⋮こんなのも初めて﹂
くすくす、と笑いながら怜はそのまま紗弓の首筋を舐め上げ、耳を
ちろりと舐めてくる。
それをくすぐったそうに受けていると、彼はするりと彼女の秘所に
指を伸ばしてきた。
﹁んっ⋮﹂
﹁⋮次は、ゆっくり⋮ね﹂
ちゅく⋮と音を立てて指が挿入ってくる。下から入れられるとまた、
先ほどと感覚がちがって紗弓は目をぎゅっと瞑る。
くい、くい、とナカで指が動かされる。
﹁はっ⋮は⋮っ⋮あ⋮っ﹂
460
﹁んー。⋮紗弓のここは入り口が小さいね。ナカは狭いし⋮ふふ、
どこかな⋮?﹂
くにくにとナカをまさぐる指。なにかを探っているような動きだが、
それだけでも紗弓には耐えられない刺激だ。
﹁あっあっ⋮﹂
﹁紗弓、俺の首にしがみついていいよ?﹂
﹁んっ、うんっ⋮!﹂
何かにすがっていないと辛い。紗弓は言われるままに怜の首に腕を
回してぎゅっと力をこめた。
﹁⋮かわいい顔﹂
﹁あっ⋮?んん⋮﹂
怜はちゅ、とキスをして優しく舌で紗弓の舌を舐めていく。
指の弄りは止まらない。紗弓の足は彼をまたぐような形になってい
るので、閉じることも許されない。
くいくい、とナカで指の関節を曲げては何かを探る行為。
その中で紗弓は一際強い刺激を感じて、思わず彼の唇を放して声を
上げた。
﹁んんっ⋮ん⋮っ⋮ぷは、ああっ!!!﹂
﹁あぁ、ここだった?ここ?ここ?﹂
﹁ああっ!やぁ!そ、そこ、つんつんってしないでぇ!﹂
楽しそうにそこを指で突いてくる。
あまりの強い刺激に紗弓の腰が浮く。しかし怜はぐっと腕に力をこ
めて紗弓の腰を固定した。
﹁だーめ。せっかくイイトコロ見つけたんだよ?⋮イカせてあげる﹂
ニヤ、と意地悪そうな笑みを浮かべると、怜は紗弓の一番感じるそ
の場所を指の腹で掻くように刺激してきた。
﹁やぁぁん!ああっ!そ、そこは⋮ぁ⋮っそこは⋮っ﹂
﹁はぁ⋮イイよ、紗弓⋮その顔。可愛すぎる⋮んっ⋮もっとしがみ
ついて⋮俺に﹂
言われずとも紗弓には今すがるものが彼しかいない。
461
ぎゅうっと彼の首にしがみつき、嬌声というより悲鳴を上げる。
ナカへの刺激だけでも大変なのに、彼は紗弓が首に固定されている
のをいいことに背中を抱えていた腕を解き、紗弓の花芯をくにくに
と擦り始めた。
ぐっ、ぐっと、花芯を弄る指とナカで弄る指をあわせるように、擦
り、つつき、くちくちと刺激する。
﹁あっ!もうやめ⋮っやだぁ⋮っん⋮おかしく、なる︱︱から⋮ぁ
!﹂
﹁おかしくなれって言ってるんだよ。ほら⋮イけよ!﹂
﹁やぁぁっ!!﹂
一際怜の首に抱きつく腕に力が入る。しかし彼は苦しそうな顔もせ
ず、じっと紗弓の表情を至近距離で見つめている。
びく、びく、と体が痙攣し、紗弓の体が一気に弛緩した。
﹁は、はぁ⋮うう⋮﹂
﹁ああ⋮。とろとろになって。今の感じが﹁イク﹂って事だよ?⋮
覚えてね。まぁ、何度でもしてあげるからそのうち覚えるよ、ふふ﹂
﹁い、意地悪だ。意地悪だー!す、すっごい恐かったんだからね!
自分じゃなくなるみたいで⋮﹂
﹁うん、俺は意地悪なの。⋮後悔、した?﹂
くちゅくちゅと、とろけた花弁を弄りつつ、怜は優しく紗弓に問い
かける。
彼女はふるふると首を振った。
﹁してない⋮すき⋮だもん⋮﹂
﹁⋮良かった。俺も好き。愛してる⋮﹂
二人は自然と見つめ合い、唇を重ねる。ちゅ、ちゅ⋮と何度も啄ば
むようにキスをして、怜は手探りでかさりとベッドに置いていた避
妊具を手に取った。
﹁あ⋮﹂
﹁もう一回⋮ね?﹂
ピッと袋を破り、彼は準備を始める。
462
紗弓はいまだ怜の上に乗って座っている状態でどうしたものかと思
っていると、準備を終えた怜はにっこりと紗弓に笑いかけ、彼女の
太ももをぐっと後ろから掴む。
﹁あ⋮え、この⋮まま?﹂
﹁そう。上から挿れるんだ。大丈夫⋮俺がやってあげるからね⋮﹂
甘く囁きつつ、彼は指を使って紗弓の花弁を広げる。
中心部分に彼の自身がぴたりと当たると、そのままもう片方の腕で
紗弓の腰を下ろさせ、ゆっくりと沈ませていく。
﹁ん⋮っ⋮う⋮﹂
﹁ああ⋮本当⋮いい。紗弓のナカはね、あったかくて⋮いっぱい絡
み付いてきて⋮変になるくらい気持ちいい﹂
2回目は最初よりはスムーズに入り、ぐっと奥まで突かれる。
怜はうっとりした表情で紗弓を見つめ、優しく口付けた。
﹁幸せ⋮だ﹂
﹁ン⋮?﹂
﹁こんなに幸せだって感じる事なんてなかった。⋮こんなに心が満
たされる事なんてなかった。紗弓が⋮紗弓だけが、俺をこうさせて
くれるんだよ?﹂
繋がったままぎゅっと抱きしめる。
愛しさをこめた抱擁に、紗弓も同じように怜の背中に手を回した。
﹁うん⋮。嬉しい⋮怜を幸せにできて、嬉しい﹂
﹁紗弓⋮ありがとう。ずっと一緒にいような⋮﹂
飽きるほどのキスをして、体が折れそうなほど抱きしめあって、や
がて怜は紗弓の太ももを固定し、下からリズミカルに押し上げる。
﹁んっあっ⋮あっ⋮!﹂
﹁はっ⋮は⋮。紗弓、紗弓⋮っ!﹂
彼女の首筋に唇を付け、下から挿抽を続ける。自然と二人の息は上
がり、はぁはぁという乱した息遣いとぐちゅ、くちゅという粘つい
た音が紗弓の部屋を支配していく。
だんだんと挿抽の速さは加速する。怜の表情に余裕がなくなってい
463
き、ぎり、と彼は奥歯をかみ締めた。
﹁は⋮ぁ、は⋮れ、怜⋮わ、私もう⋮だめ⋮っ﹂
﹁いいよイッて⋮!俺ももう⋮いく⋮!﹂
ぎゅう、と怜は紗弓の体を抱きしめた。
苦しいほど強く。そして体をびくびくと震わせる。
再び絶頂を迎えた紗弓も大きく体をのけぞらせ、首をかくんと上に
上げて啼いた。
﹁あ、ああ⋮っ⋮﹂
﹁⋮っ⋮。すご⋮い。搾り取られてる、みたい⋮﹂
膜ごしに全てを出し切った怜はうっとりとそう呟いて、紗弓の頭を
自分の胸に寄せた。
とくとく、と早鐘する心臓の音。
それを聞きながら紗弓はぽつりと言い忘れていたことを口にした。
﹁忘れてたけど⋮。怜は、汚くなんてないわ⋮﹂
呟くようにそう言うと、彼は少し驚いたような顔をした後おかしそ
うに目を細めた。
﹁ふふ⋮そう?じゃあ、綺麗?﹂
おどけたように聞いてきて、紗弓は彼の胸に耳を当てながら﹁うー
ん⋮﹂としばらく考え、思ったことを口にする。
﹁⋮普通、よ。私と同じ⋮普通﹂
すると怜はふはっと吹き出した。
﹁ふ、普通?あははっ!紗弓らしいな﹂
﹁なによっ!だってそう思ったんだもん。ちゃんと石鹸の匂いもす
るし、汚くなんてないわ。あ、そういう意味じゃないのは勿論、わ
かってるんだけど⋮でも、やっぱり体に汚いも綺麗もないと思う⋮﹂
くすくす、と怜は笑っている。
その目はとても優しくて、甘い。紗弓がごにょごにょとそう言って
いると、愛おしそうに紗弓の頭を撫でてきた。
﹁⋮わかってる。そんな紗弓だから俺は好きになったんだ。⋮あり
がとう。紗弓、愛してる﹂
464
﹁私⋮も、あいして⋮る﹂
クス、と怜は笑みを深めて、今日何度したかわからないキスをもう
一度重ねた。
465
45.偽りから始まる恋模様
情事を終えた後というのは妙に気恥ずかしい。
怜が服を着ている横で、紗弓もこそこそと下着をつけた。
服は私服を着ようと思ったが、下着姿で部屋をうろうろするのを見
られたくなくて声をかける。
﹁ごめん⋮着替えたいからあっち向いててくれる?﹂
彼はくすりと笑って何も言わず、後ろを向いてくれる。
やっぱり優しいんだなと思いながら紗弓は礼を言いつつクローゼッ
トまで走って手早く着替えを終えた。
﹁い、いいわよ﹂
﹁はい。⋮ふむ、普段はそういう感じの服なんですね﹂
﹁う⋮うん。がっかり⋮した?﹂
デートなどの特別な日を除けば、紗弓はラフな服を好む。
デニムのシャツワンピースにレギンスという格好を見て、いいえと
怜は首を振った。
﹁可愛いですよ。気取った服も好きですけどね﹂
おいで、と手招きされて紗弓は大人しく怜の隣に座る。
なでなで、と頭を撫でられた後、優しくキスをされた。
﹁ん⋮。さ、さっき、いっぱいしたのに﹂
﹁すぐ足りなくなってしまうんです。だからこれからも一杯、しま
しょうね﹂
なによそれ、と言って紗弓は思わず笑ってしまう。こんなに甘えて
くる男とは思わなかった。
しばらくの間、情事の余韻を楽しむように二人は軽いキスを何度も
交わす。
紗弓の味を楽しむように唇を重ねていた怜はやがて﹁あ、ダメだ﹂
と笑い出した。
﹁またしたくなってしまうから、もうやめておきます﹂
466
﹁もう、貴方って人は!⋮あ、そういえば⋮敬語に戻ってるわね﹂
﹁おや?本当ですね。あまり意識はしてなかったんですが⋮気にな
りますか?﹂
﹁そんなことないけど⋮。うーん⋮これも習慣なのね、きっと﹂
素の怜はああいう話し方をするのだろうが、丁寧な言葉を使う怜も
また長年培われてきた為に素の一つとなっているのだろう。紗弓は
そう納得する。
そうして紗弓はベットから立ち上がる。うーん、と伸びをしてから
怜に振り返った。
﹁お茶でも飲んでいく?といってもペットボトルのしかないけど﹂
﹁あはは。ではお言葉に甘えて頂いていきます﹂
怜も同じように立ち上がって、二人はリビングに向かった。
◆◇◆◇
﹁ふむ⋮。ペットボトルのお茶をレンジで温める⋮初めて見ました﹂
﹁ええっ!?だって寒いのに冷たいお茶飲むのもどうなのよ!﹂
ほかほかと湯気を立てるマグカップを傾け、二人はこたつに座って
いる。
﹁うちは緑茶派なもので。でもこたつっていいですね。僕が世話に
なっている家にはないんですよ﹂
﹁それ、鮮花さんも言ってたわ。怠惰にさせる⋮とか何とか?﹂
﹁ああ︱︱。あの人ならそう言いそうですね。質実剛健を地で行く
人ですから﹂
恐らく鮮花の祖父のことだろう。懐かしそうに怜は言う。
何となくその表情が気になって、紗弓はおずおずと聞いてみた。
﹁⋮お爺さんとの生活は、楽しかった⋮?﹂
﹁そうですね。只管に道場で体を研磨するのは楽しかったです﹂
そっか、と彼女は頷いてマグカップからお茶を飲む。
彼の過去は確かに壮絶だが、それでも救いの日々があってよかった
467
と思った。
怜も同じようにお茶を飲んで、少し息をつく。
﹁⋮どこかの本か、ネットで見たと思うんですけど⋮﹂
そう前置きをして、彼は話し出す。
﹁男は愛する女の最初の男になる事を願い、女は愛する男の最後の
女になる事を願う⋮という、古い詩人の言葉があるそうです﹂
﹁ああそれ、聞いたことあるわ。私はテレビで聞いた気がする﹂
﹁そうですね、有名みたいですから。でもねぇ、僕はこの言葉⋮あ
まり共感できなかったんですよね。何しろ僕も周りもかなり乱れて
いましたから﹂
﹁そうよね⋮怜の周りだけ、なんか異世界よね⋮﹂
彼の過去、それだけでなく怜がしてきた所業を思い出して思わずジ
ト目で睨むと、怜は困ったように笑って紗弓を宥めるように頭を撫
でる。
﹁僕がしてきた事、それについては紗弓に精一杯尽くし、献身する
ことで許してもらいましょう。でもね、僕は紗弓を好きになって⋮
こうやって結ばれて、思ったことがあるんです﹂
﹁⋮思った事?﹂
﹁ええ、僕は⋮僕は愛する女の最後の男になりたい、って。そして
紗弓には僕が最初で、⋮最後の男になって欲しいんです﹂
じっと紗弓を見る怜の顔は笑顔だが真剣だ。
紗弓は彼の言葉を頭の中で吟味して、かぁっと顔を赤くした。
﹁な、なんかそれ⋮け、結婚して⋮って言ってる、みたい⋮﹂
﹁そうですよ。僕が初めて愛した女性は紗弓⋮貴女です。僕は貴女
だけでいい。⋮紗弓とずっとずっと、一緒にいたいです﹂
﹁は⋮う⋮。そ、それ⋮は嬉しい⋮けど⋮﹂
ぎゅっと手を握られて、紗弓は照れ隠しにあちこちを所在なげに見
てしまう。
しかし怜はずっと彼女を熱のある目で見つめていた。
﹁嬉しい?本当ですか⋮?僕とずっと一緒にいてくれますか?﹂
468
﹁あう⋮そりゃ、好きだもん。い、一緒にはいたい⋮わよ?まぁそ
の、将来的にもずっと一緒にいればそりゃ結婚もするんじゃない⋮
の?﹂
﹁そうですよね、そうですよね!じゃあ、紗弓。お婿さんにしてく
ださいね?僕を﹂
﹁む、婿!?﹂
がーん、と紗弓は驚く。普通嫁に来いって言うんじゃないだろうか。
そんな風に思っていると怜はニッコリと笑って紗弓の目を見つめて
くる。
﹁僕、そのうち絶縁されちゃう立場なので。紗弓に貰ってもらわな
いと名無しになってしまうんです﹂
﹁名無し!?﹂
﹁はい。でも苗字がないと困るでしょう?だから真城の名前を下さ
いね﹂
﹁貴方、私が欲しいのか苗字が欲しいのかどっちなのよ!﹂
そう言うと怜は嬉しそうに笑ってぎゅっと紗弓を抱きしめる。そし
て﹁どっちもです﹂と囁いた。
﹁紗弓も、真城の苗字も欲しいです。ね?お婿さんにしてください
ね﹂
﹁はうう⋮っ!耳元で囁かないでってば⋮っ!わ、わかった、わか
ったわよ!この先もずっとつきあってたらね!﹂
﹁勿論。ずっと放しませんから絶対大丈夫です。ああ嬉しい。あり
がとうございます﹂
本当に幸せそうな声を出して、怜はぎゅうと紗弓を抱きしめる。
そしてやっと腕をゆるめたかと思ったらちゅっと彼女にキスをした。
目を白黒とさせながらそれを受けて、紗弓は顔の火照りを沈めるた
めにお茶を飲んだが、一向に顔の熱は収まらない。
﹁もう、いつも行動が突拍子ないのよ⋮﹂
くすくす。
怜は紗弓の文句に幸せそうに笑って頭を撫でてくる。その大きな手
469
に紗弓も、幸せな気持ちで胸が一杯になっていった。
◆◇◆◇
次の日。
紗弓は登校するなりクラスメートに囲まれた。
﹁佐久間先輩とまたくっついておめでとー!!﹂
﹁ぶはぁ!?なんで何でもかんでも次の日にはもろばれなのよ!?﹂
情報が早く回りすぎだろう。怜と仲直りしたのはつい昨日の話だ。
それなのに早朝からクラスメートに囲まれるわ、後ろを見れば1年
が揃って廊下から見ているわで、注目の的もいいところである。
﹁じゃあやっぱり、またヨリ戻したんだよね?﹂
﹁う⋮そ、そうよ。怜⋮とはその、また恋人になったわ⋮﹂
正確には昨日やっと﹁本当の恋人﹂になったのだが、そこは説明で
きないので割愛してしまう。
紗弓の返事を聞いて周りが﹁おおー!﹂と騒ぎ立てた。
﹁怜だって!!怜!呼び捨て!﹂
﹁きゃはー!やっぱりねぇ、絶対ただの痴話喧嘩だって思ったのよ。
あんなにラブラブだったんだもん﹂
﹁良かったなぁ真城。熱狂的な佐久間ファンは完全にトドメさされ
ちまったし﹂
﹁⋮は?トドメって⋮なによ﹂
何もした覚えがないので紗弓が首をかしげて聞くと、いつの間にか
輪に入っていた草薙が男子生徒の首根っこをひっつかみ、自分は机
の上に立ち上がる。
そしてナヨッとした風にしなを作ると紗弓の声真似なのか、声を高
くして叫んだ。
﹁どうなの!?さ、佐久間は⋮私のこと、どう、おもってるの⋮?﹂
﹁ああ紗弓、もっと近づかないと伝えられないよ!⋮おいで、受け
止めてあげるからっ﹂
470
草薙の台詞に完全に乗ってきた男子生徒が佐久間怜の口調を真似て
手をのばす。
紗弓の顔はみるみると真っ赤になっていった。
﹁なっなっ⋮!﹂
ぱくぱくと口を開けていると、草薙がピョンと机から飛び降り、男
子生徒と抱擁を交わす。
﹁怜大好きーっ!﹂
﹁紗弓ーっ!俺も大好き!ずっとずっと好きだったよ!﹂
﹁嬉しいっ怜ーっもうめちゃくちゃにしてぇ!﹂
﹁そ、そんな事言ってないわよ!!﹂
思わずビシッと草薙にチョップをしてしまうが、草薙はけろっとし
て﹁演出演出!﹂と豪快に笑う。
﹁なんかあれだよね、ドラマとかマンガみたいだったよねぇ﹂
﹁それを佐久間先輩がするからもうすっごいサマになって。思わず
拍手しちゃった﹂
﹁な、な、なんで、なんで!?なんで知ってるの、皆!!﹂
見ればクラスメート全員がこの話を知っているみたいでニヤニヤし
ている。
どうして!?と紗弓が目を大きく見開いていると、人垣の影からこ
そりと響子が現れて、おずおずと言ってきた。
﹁どうしてって⋮。だってあの時、丁度下校時間だよ?しかも校門
に行く道で、さゆちゃん何故か樫の木に登ってるし⋮めちゃくちゃ
目立ってたよ⋮?﹂
﹁あああ、まじで⋮!?全然気づかなかったわ!!﹂
紗弓は顔を赤くして頭を抱える。あの時は怜に思いを伝えることに
必死で何も考えていなかったし、周囲も全然気に留めなかった。そ
して彼と思いを交わした後はもう、幸せと恥ずかしさで辺りを見る
余裕など皆無だったのだ。
﹁あのやり取りを一杯生徒が見てて、その中には勿論熱狂的な佐久
間ファンもいて、もう大ショックだったみたい。今日、学校休んで
471
る人多いと思うよ?﹂
﹁佐久間先輩がちゃんと彼女に﹁好き﹂なんて言うの、一度もなか
ったらしいからね。今度こそ本気だって、トドメさされちゃったか
ら﹂
﹁何にしてもおめでとー!よかったなぁ真城!﹂
ぱちぱちと拍手が起こり、祝福された。
こんなに周りに応援されていたなんて、と紗弓は照れついでに頭を
掻きながら礼を言う。
﹁うん⋮皆、ありがとう﹂
﹁良かったね、さゆちゃん。ちゃんと佐久間先輩と⋮恋人になれて﹂
響子が笑う、隣にいた栞も拍手をして微笑む。
紗弓は本当に嬉しそうな、にっこりとした笑顔になって﹁うん!﹂
と大きく頷いた。
◆◇◆◇
放課後に生徒会室に行けば、全員が揃っていた。
﹁それにしても紗弓ちゃん、良かったねぇー!めちゃくちゃ僕は心
配してたんだよ!主に怜があっちの世界に完全開眼しないかって﹂
﹁それ、鮮花さんも言ってたけど⋮あっちの世界って何なのよ﹂
﹁あはは。それは気にしないで!もうその心配もないからね﹂
ニコニコと笑顔で護が紗弓に紅茶を淹れる。それを頂きながら、紗
弓は﹁本当に何なの?﹂と怜に顔を向けた。
﹁本当にたいした話じゃないですから。でも気になるならおいおい
教えてあげます。ゆっくり、順序立ててね﹂
順序立て?と紗弓が理解できず眉をしかめていると、鮮花がうんう
んと向かいのソファで頷きながら紅茶を飲んだ。
﹁愛があってこそSとMは成立するのよ。究極の奉仕、それがサデ
ィストの矜持ってものね。なので怜の今まではただの苛め。これか
らは充分にSMライフを謳歌するといいわ﹂
472
﹁そうですね。とりあえずは教える楽しさを満喫したいと思います﹂
﹁だから何の話なのー!?﹂
紗弓がばたばたと腕を振っていると、机で書き物をしていた八雲が
笑ってきた。
﹁まぁまぁ。しかし卒業までに仲直りできて本当に良かったな。そ
れにしても3年の教室も大変だったんだぜ?怜は質問攻めに合うし、
ファンは泣きついてくるし﹂
﹁プレゼントを返せって言ってきた人もいましたね﹂
﹁いたなぁ。殆ど逆恨みだよ。怜のことだから律儀に返しそうだけ
ど、返したら返したで怒り出すんだろうな。あの手の女子は﹂
そこはもう仕方ないですね、と怜は困ったように笑う。
紗弓の教室でも騒がれていたので、彼女は少し申し訳なさそうな顔
をしておずおずと怜を見た。
﹁ご、ごめんね?もっと場所を選べばよかったわ⋮﹂
﹁紗弓がそんな事を気にする必要は全くありませんよ?それにいい
じゃないですか。僕は卒業しますし、彼女達はすっぱり僕を諦めて、
違う人を好きになる可能性だって出来るわけですし﹂
そして怜は笑って言う。
やっとプレゼントに書かれたメッセージの返信に﹁ありがとう﹂だ
けじゃなくて﹁好きな人ができたのですみません﹂と書くことがで
きる、と。
それを聞いて八雲はにっかりとした笑顔になって怜に言う。
﹁好きな人か。幸せになれそうか?怜﹂
﹁勿論。幸せになりますよ。紗弓が婿に貰ってくれますからね﹂
﹁あははっ!婿!それいいわね!これで心置きなく佐久間の名が捨
てられるわね﹂
八雲に続いて鮮花も笑う。
彼女は一番に怜を知る人物だ。﹁佐久間の名を捨てる﹂という事を
このメンバーの中で一番祝福しているのは彼女なのかもしれない。
だが、紗弓は一人慌てて皆の会話を止めに入った。
473
﹁ちょ、ちょっと。続いたらって話よ?ちゃんと大学も卒業して、
仕事も持って、それでも好きあってたら⋮って﹂
﹁続きますよ﹂
﹁そ、その根拠は何なのよ!﹂
自信に満ち溢れている怜に思わず紗弓は聞いてしまう。
彼はにっこりと笑って、人目があるのにも関わらず優しく紗弓に口
付けた。
﹁僕が好きになったのが、紗弓だからです﹂
﹁そ、それが根拠!?﹂
﹁ええ。絶対離しませんから。覚悟してくださいね﹂
そのままぎゅーっと抱きしめられる。人目のある所でそういう事を
するな!と紗弓は怜の頭をペシッとはたくのだった。
◆◇◆◇
はじめは偽りだった。
軽い気持ちで始めた嘘の関係だった。
なのに出会いからくるくると歯車が回って、いつの間にか彼の歯車
とかっちり合わさってしまって。
二つの歯車がカチカチと音を立てて回転すれば、ぜんまい仕掛けの
人形達が踊り出すように。
二人の物語はいつまでも踊るように続いていく。
楽しそうな音楽を奏でながら︱︱。
Fin
474
45.偽りから始まる恋模様︵後書き︶
はじめましての方も、そうでない方も、こんにちは。桔梗楓と申し
ます。
これにて﹁偽りから始まる恋模様﹂は本編終了となります。
オマケ的な話が少しだけ続きますが、こちらはのんびり読んで頂け
たらと思います。
八雲&響子の短編と、紗弓と怜が只管イチャイチャしてる話の予定
です。
今回の話はそもそも別話である﹁鋼のシンデレラ﹂から派生しまし
た。
というのも、実は短編のネタがうまく思いつかなくて﹁あ、パラレ
ルワールドとかどうだろう﹂と思いつき、カールが怜役、善乃が紗
弓役として高校を舞台にした話を少し書いてみたのです。
ところが書いてるうちに﹁これはワザワザパラレルにしなくても新
作として書いてもいいのではないか﹂と思ってしまい、あれよあれ
よと紗弓、怜というキャラクターが出来上がりました。
即興で考えたので勿論タイトルなど思いつくはずもなく、本編UP
するまでこの話の仮タイトルは﹁敬語男×元気女﹂でした。なんて
酷いタイトル。仮って割り切ってても酷いですね。
真城紗弓もまた、私の趣味満載の女の子です。
元気で前向き、真面目、食べる事好きっていうのは共通するようで
す。
ツンデレっぽいですが、割と正直者で素直な子です。そして﹁等身
大の女の子﹂です。
小柄なのは作者の憧れです。おっぱいはちっぱいもでっぱいも夢い
っぱいです。折角の眼鏡キャラなのにあまり意味がなかったのは心
475
残りです。
彼女の真骨頂は文化祭でした。もう紗弓可愛さにキラッキラしなが
ら書いてて︵ほぼ怜の気分︶気づけば文化祭だけで6話も書いてま
した。阿呆かと思いました。
佐久間怜は、﹁敬語キャラ﹂から考えました。敬語使う男を書いて
みたかったのです。
敬語男といえば物腰優しいけど実はドSで鬼畜で意地悪で女を弄ん
でて⋮。
そんな偏見たっぷりな連想から彼は生まれました。
あと、私の書く物語は悉くヒーローが美形なんですが、もっと﹁美
形でモテモテ﹂を強調してみたかったというのもあります。
他物語の男2名は最初から深刻な病気なので他の女見向きもしねえ
ですから⋮。
なので怜は思い切り美形でモテモテで身内の熟女まで魅了してしま
う魔性の男になってしまいました。
しかし意外と精神的には年相応の男、というのも目指していました。
余談ですが、怜はドSという設定を最初から考えていたのですが、
実際の所こいつはドSなんだろうかと真剣に考え込んでしまい、サ
ディストからググりはじめて、ついにはSMプレイの詳細や、また
真性サディストと、自称サディストの違いとかまで検索してしまい
ました。
結論として、怜はサディストではなくノーマルでした。
意地悪が好きで性格悪いだけですね。よかったね、怜くん!
他キャラについてはおいおい、あとがきに書いていこうと思います。
今回の話は、二人がお互いを意識し、恋を自覚する様や、自覚した
後の焦燥感、すれ違い、といった心の変化をゆっくり丁寧に書いて
476
みました。
また、高校生活、というのを1年を通して書きたかったのもありま
す。
﹁シックラブ﹂は折角高校生なのに、ほぼ監禁生活で話が終わりま
したしね。
高校生ならではのバタバタしたコメディーな感じが表現できたらい
いな、と思います。
ていうか、高校生、いいですよね。子供でも大人でもない、一番甘
酸っぱい時期ではないでしょうか。その頃私はひたすら同人活動し
ていて、二度と戻れぬ青春を棒に振りましたが。
後悔先たたず⋮。
なので、夢いっぱい高校生活を書きました。こんな風に青春したか
ったです。女子高でしたけど!
そんなわけで、長くなりましたがこの辺りで後書きを締めくくりた
いと思います。
後に少し続く短編でも、各キャラの話や、設定話を小出しして行く
予定です。
最後になりましたが、お気に入り登録をしてくださった方々、ポイ
ントを入れて下さった方々本当にありがとうございました。やる気
のバロメータでした。
そして感想を下さいました方、メッセージを下さった方、とても嬉
しかったです。
有難いお言葉ばかりで、心の励みになりました。
また、相変わらず多い誤字ですが、指摘してくださった方もありが
とうございます。本当申し訳なかったです。
続きが気になるとか、楽しみにしてますとか、期待を寄せてくださ
477
った方も⋮期待に添えましたでしょうか。良いフィナーレだったと
思ってもらえたら幸いです。
それでは、ここまでのご読了、ありがとうございました!
478
心を掴む、その声は。 1︵前書き︶
ここから短編、またはアフター編となります。
479
心を掴む、その声は。 1
いつごろだっただろう。
4月の中旬ごろだっただろうか。新入生の入学式が終わって、委員
会や部活動に1年が入り始めてまだ間もない頃。
生徒会長に就任したばかりの八雲はその日も仕事に追われ、一人生
徒会室で書類とにらめっこをしていた。
細かい文字は眠くなる。
こんな時は怜とつまらない冗談を飛ばしあって眠気を飛ばすのに、
彼は今日、昨日変わったばかりの彼女に呼ばれて一緒に帰っていっ
た。
期間限定でも怜を独占できる。
だから女は必死になって怜をあちこちへ連れて歩くのだ。
確か今日は、その女の友達とファミレスでお茶をするとか。きっと
自慢がしたいのだろう。
﹁まぁ、自慢もしたくなるよね。俺達みたいな顔がいいのが彼氏な
ら。フッ⋮﹂
などと格好よく髪をかきあげて言ってみても返す人は誰もいない。
ぽつん、と生徒会室に残された八雲はさっさと仕事を終わらせよう
と再び書類に目を通し始めた。
しばらくして16時半を知らせる放課後の音楽が流れ始める。
﹃下校の時間になりました。部活動などの用がない生徒はすみやか
に下校してください⋮繰り返します﹄
放送部員のアナウンスが同時に聞こえてくる。
その声にふと、八雲は顔を上げた。
︵随分と綺麗な声⋮今まで聞いたことがないな。1年の子か?︶
透き通るような通る声。聞き取りやすくて耳に心地良い。
ふぅん、と思いながら八雲は仕事をすすめる。
480
放送後も放課後の音楽は流れ続けていて、蛍の光、とかいう音楽だ
っけ⋮と頭の端で考えていた。
やがて音楽も終わる。
この頃の時間になると校内に殆ど生徒はいないだろう。文化系の部
活はそろそろ終わっているだろうし、運動場や体育館で部活動にい
そしむ熱心な生徒がいるくらいだ。
﹁あー、そろそろ終わりにしようかなぁ﹂
ぽんぽん、と肩を叩いてみる。ただのジェスチャーの様なものだ。
八雲は肩が凝るというのがよくわからない。
書類を適当に片付けていると、ふと放送スピーカーから雑音が聞こ
えることに気がついた。
﹁⋮ん?何だ﹂
ガタ、ゴトゴト、とまるで掃除をしているような音。
まさか放送をした後マイクの電源を切り忘れていたのか?と思って
いると、ふいにスピーカーから歌が聞こえてきた。
人の︱︱声。さっきの放送と同じ声だ。
音程もいい。すごく歌が上手でしかも声がとても綺麗で、思わず八
雲は聞きいってしまう。
なんだっけ、なんだっけ、この歌。
聞いたことがある。確か音楽の時間で⋮。
﹁あっ⋮サンタルチア、だ﹂
そう呟いた時、スピーカーから歌が途切れた。バタバタ、と音が聞
こえて﹁えっ⋮きゃ⋮!﹂と驚いたような声。そしてぷつ、と音源
が切れる。
恐らく放送が入ったままなのに気づいたのだろう。
しかし八雲はがっかりした。
⋮もっと聞きたかったのに⋮。
一体どんな子が歌っていたんだろう。頼んだらまた歌ってくれるか
な?
481
思い立ったら即行動の八雲は片付けを手早く済ませ、鞄を持って生
徒会室を出た。
ガチャ、ガチャ。
﹁あれ⋮鍵かかってる﹂
放送室にはすでに鍵がかかっていて、中に誰かがいる気配はもうな
い。
掃除をしていたようだし、きっともう帰ってしまったのだろう。
今日は確か、木曜日。
﹁⋮来週行けば、会えるのかな?﹂
そんな風に軽く思って、自分も帰路につく。
しかし、次の木曜日も、その次の木曜日も会えずじまいで終わって
しまう。
一度など4時半の放送を聴いた直後に放送室に入ってみたのに、だ
れもいないのだ。
蛍の光を流す音楽CDだけがくるくると機材の中で回っていて、し
かし幽霊のように誰もいない。
八雲の中で興味がむくむくとわいてくる。何が何でも見つけてやろ
うと、妙なやる気まで出してしまった。
﹁放送部のさぁ、部会っていつだっけ﹂
﹁は?⋮えーと⋮ああ、毎月20日みたいね﹂
カレンダーを確認しながら鮮花が答える。彼女はカレンダーから目
をはずし、予算書を手に取りながら﹁何でそんな事聞くの?﹂と聞
いた。
﹁んー。あのさ、4月から毎週木曜日って誰が放送してるのかなっ
て。放課後の﹂
﹁放課後?⋮ああ、帰りの放送?なんだってそんなの気にしてるの
よ﹂
482
﹁まぁ⋮色々と。放送部って、俺のファン層少ないんだよね。だか
ら聞くに聞けなくて。こうなれば部会に視察でもして探ってみよう
かなと﹂
ふーん?とあまり興味も持たない感じで鮮花は相槌を打ち、予算書
に目を通し始める。
そこに、同じように議事録を見直していた護が顔を上げた。
﹁放送部員は毎年人員不足だから、1年でもばりばりローテーショ
ンに組まれてそうだねー﹂
﹁そうなんだよ!俺のファンって言ってた子、去年卒業しちゃって
さ。やべぇ一人もいないかも。これは由々しき事態だ!!﹂
﹁ご愁傷様です﹂
最後に突っ込んだのは怜。
うーん、と八雲は机につっぷし、とりあえず部会に顔は出してみよ
うと心に決めた。
◆◇◆◇
放送部の部会の時間を狙って、放課後の時間にある教室のドアをか
らりと開ける。
﹁はい⋮あら?﹂
﹁あ、ども。一応生徒会長なんでいろんな部会を見て回ってるんだ
けど﹂
中で何かを話し合っていた放送部員が全員八雲を見る。八雲はぽり
ぽりと頭を掻きながら部会に集まる女子生徒達を眺め見た。
﹁見回り?も⋮⋮もしかして光国⋮くん。貴方まさか⋮﹂
教壇で仕切っていた3年の放送部長の女子がわなわなと八雲を指差
す。
﹁あまりに人員の少ないわが放送部の部費を削ろうっていう魂胆ー
ーー!?﹂
﹁いやぁーー!﹂
483
﹁後生よ!これ以上は削らないでえええ!!﹂
﹁うわぁー!?違う、違う!そういう意味で視察に来たんじゃない
ってば!?﹂
思いのほか被害者意識の強い3年の部員が全員わめきだす。
八雲は慌てて手を振って、部費関係で来たんじゃない!と宥めにか
かった。
﹁違うよ?安心して。去年度の生徒会長による部費全面見直しで大
分と削られたみたいだけど、今年はそういう事はしないつもりだか
ら﹂
﹁部費じゃないの⋮?じゃあ⋮じゃあ⋮﹂
﹁あまりに人員の少ない我が放送部を廃部にしようっていう魂胆!
?﹂
﹁いやぁああー!!!﹂
だから違うってばー!!と八雲が3年に説明をする。こんなに被害
者意識の強い方々とは思わなかった。
みれば他の少ない放送部員も皆、妙に大人しそうな人たちで揃って
いる。
スピーカーごしに声を出す仕事をしているわりに意外だな、と少し
思って八雲は改めて本題を口にした。
﹁あ、あのさ、聞きたいんだけど。毎週木曜の放課後放送って誰が
してるの?﹂
え?とキョトンとした顔で3年の女子が聞き返してくる。
﹁ん?だから毎週木曜の﹂
﹁ま、まさか⋮木曜放送が気に食わないとか難癖をつけつつ、やっ
ぱりうちの部を廃部に追い込もうという魂胆なの!?﹂
﹁いいえ部長!⋮もしかしたら⋮乗っ取りかも!﹂
乗っ取り!!と放送部員が立ち上がって集まる。思わず八雲も﹁え
?乗っ取り?﹂と女子の輪に体を傾けた。
﹁つまりこうよ、光国くんのファン達が放送部を乗っ取ろうとして
いて﹁ねぇ∼ん光国くぅ∼ん、今の放送部員を追い出してほしいの
484
ぉ∼ん﹂って甘えてきやがって、ヤツはここにきた!﹂
﹁なるほど、真犯人は光国ファンってわけね!そうやって光国テリ
トリーを広げようとしているんだわ﹂
﹁へぇ∼なるほど⋮﹂
顎を撫でて頷く八雲を、放送部員全員がじっと見た。
﹁ふぁーえらい目にあった﹂
﹁あらあら、ボロボロねぇ﹂
生徒会室に戻った八雲を見て鮮花がくすくすと笑う。
彼は崩れたブレザーのしわを直したり、ぐしゃぐしゃになった髪を
整えつつ﹁はふ﹂とため息をつく。
﹁あんな過激派だっけ、放送部って﹂
﹁過激⋮ではないけど、ちょっと思考方向が斜め上な人たちが多い
わね。貴方とは対極の趣味持ちが多いし﹂
﹁え、なに、鮮花は放送部の事知ってるの?﹂
﹁詳しくはないけどね。今の代になってから大分と趣味の色は強く
なったみたい﹂
趣味⋮?と八雲が首をかしげると、鮮花はふふっと艶のある笑みを
浮かべた。
﹁怜×八雲、かぁ∼。ちょっと読んでみたいなぁ﹂
ぶふぁ!とソファに座っていた怜がお茶を盛大に吹く。
そのままげほげほと咳き込む彼に、八雲が﹁え?え?﹂と驚く。
﹁なになに?そのレイカケルヤクモ、とかいうの﹂
﹁ああ、やっぱりわかんないんだ。アンタはドノーマルだもんねぇ。
怜はわかったみたいだけど﹂
﹁い、一般知識ですが⋮。そんな風にも扱われてるんですか?僕は﹂
﹁何何、何なの!俺をおいてけぼりにしないで!﹂
泣きそうな顔で訴えると、鮮花はあははっと笑って自分もお茶をく
い、と飲む。
﹁この学校には八雲と怜にそれぞれファンがいるけど、それとは別
485
に、あんたたち三人を観察対象にしている人たちもいるのよ。そう
いう人たちはね、あくまで遠くから観察していたいの。近くに寄ら
れると嫌なの。テリトリーを侵された猫みたいに怒り出しちゃうの
よ﹂
﹁ちょっとまって!今三人って言ったけどもしかして!!﹂
﹁もちろん、怜×護とか、護×八雲とか﹂
ひぃっ!と護が叫んでうわあん!と頭を抱えて泣き出す。
﹁八雲、総受けなんですね⋮﹂
﹁アンタはアンタで妙に詳しいわね⋮﹂
﹁⋮一般知識です﹂
そんな二人の会話と、うわーん!と泣き叫ぶ護の声を聞きながら八
雲は、とりあえず俺は木曜の子が知りたいだけなんだけどなぁ⋮と
呟いた。
◆◇◆◇
木曜日の子には会えないままだった。
八雲も暇というわけではない。木曜日の放課後に待ち伏せをしたい
のはやまやまだが、自分にもデートがあったりファンとの交流があ
ったり、または真面目に生徒会の仕事があったりでなかなか木曜日
に狙いを定めて放課後放送の時間を狙うことができない。
そんな最中、ひょんな事から真城紗弓という1年が現れ、怜と偽り
の恋人役となる。
彼女が初めて生徒会室に怒鳴り込んできたとき、おや?と思った。
紗弓の後ろで、小さい彼女の裏からこそっとこちらを伺っている女
子生徒。
︵あの子、確か放送部の部会で見たな︶
女の子の顔は基本的に一度見たら忘れない。男なら1秒で忘れるけ
ど、女は忘れない。
すごく大人しそうで、悪く言えば暗いほどだ。部会でも皆の騒ぎに
486
一応つきあうような形で顔を上げたり集まったりしていたけれど、
一言も騒がず一人だけ大人しいままだったので逆に印象に残ってい
たのだ。
あんな小さい声しか出せそうにない子でも放送部なんだなぁと妙に
感心していた。
そんな彼女とは、意外な場所で再び出会うことになる。
紗弓が園田稔の男友達と遊んでいた時、逃げた紗弓を怜が追いかけ
て。
その遊んでいた友達の集まりの中に彼女がいたのだ。
カフェショップで珈琲を飲んでいる時に彼女に話しかけてみればオ
ドオドとして声もボソボソとしてとても小さい。蚊の鳴く音かとい
う程だ。
本当に放送部で放送してるの?その声で。と聞きたくなってしまう
が、その前に園田稔が彼女を守るように間に入ってきて、それ以降
は話しかけることができなかった。
だが、簡単な自己紹介は済ませておいたので、そこで八雲はその放
送部員の名前を知る事になる。
彼女の名前は蓮華響子。
名前の通り、小さい花みたいな子だな、と思った。
487
心を掴む、その声は。 2
木曜日の放送部員を知ることになったのは本当に偶然だったんだろ
う。
いや、﹁彼女﹂が木曜の人だったのなら⋮必然だったのかもしれな
い。
ある日、いつものように放課後生徒会室に行くと、机の上に白いメ
モ用紙が自分宛で置いてあった。
取り上げて見てみると、﹃今日の放課後、放送部室に来てください。
真城紗弓さんのことで相談したいことがあります﹄と書かれていた。
差出人は1−3蓮華響子と書かれている。
﹁響子⋮ちゃん?﹂
いつも真城紗弓のそばにいる、彼女の友達。
普段も小さいと思う声が紗弓が近くにいないと更に小さくなって、
ボソボソと喋る。
あの子が?何の話があるんだろう。
丁度怜が入ってきたので手紙を見せ、二人で放送部室に向かう。
⋮そういえば、今日って⋮木曜日だ。
まさか、と思った。
放送部室には思った通り蓮華響子がいて、彼女は八雲達に携帯のサ
イトを見せ、今起きている事態を説明する。
怜と響子がその話をしている間も八雲は彼女の携帯でサイトを眺め
て、ふと思いついたように彼女の携帯電話に自分のアドレスを登録
した。
放送部室を後にして、八雲はこっそり響子へメールを打つ。
﹃ごめんね、反則かもしれないけど響子ちゃんのアドレス、見たん
だ。この件に関して他にも判ったらこのメールに送ってくれる?﹄
488
そう送れば、しばらくの後メールの着信音がする。
﹃少しびっくりしましたけど、わかりました。何か判ったらまたお
知らせします﹄
良かった。嫌われなかった。
八雲はほっとして了承のメールを送る。そしてついでのように﹃も
しかして木曜日の放課後当番って君?﹄と聞けば﹃はい、そうです﹄
と短く返事がきた。
蓮華響子だった︱︱。
こんな所であっけなく知る事になるなんて。
それにしても、本当に彼女があの綺麗で透き通るような声を出した
のか?あのサンタルチアを歌ったのか?
普段の彼女を見れば見るほど首をかしげてしまう。
確かに思っていたよりは割と物事をハッキリ言う子だが。
しかし自分は蓮華響子が探していた﹁木曜日の人﹂という事を知っ
て、心のどこかで落胆している事に気がついた。
どうしてだろう?逆に、どういう女性だと期待した?どんな女なら
納得した?
もしかして響子を知っていけば、落胆の気持ちも変わるのではない
だろうか。
何だか自分でもよくわからないが、意地のように八雲は響子のこと
を知りたいと思った。
紗弓がSNSで中傷された件、それについて行動していた時響子か
らメールが来る。
程なく八雲と響子は渡り廊下の裏で落ち合った。
﹁なるほど⋮。紗弓ちゃんの様子がおかしくなったのはお昼からな
んだね?﹂
﹁ええ、気のせいとは思えなくて⋮﹂
ふむ、と八雲は顎をさする。見れば響子は不安そうな顔をして彼を
489
見ていたので、それを払拭させようと八雲はにっかりと笑い、ポン
ポンと響子の頭を軽く叩く。
﹁わかった、怜に言っておくよ。大丈夫。あいつは守るって決めた
人間は何があっても守るヤツだから安心していいよ﹂
﹁はい⋮﹂
こくんと頷いて響子はそれでも少し心配そうな顔をしつつ、横を向
いた。
そんな彼女の顔を八雲は観察するようにジッと見る。
サラリとして黒く、長い髪。彼女はその髪で顔を隠していて輪郭が
よく見えない。
しかし睫が長い。横から見ればその俯いた憂いのある顔は酷く艶が
ある気がした。
細い首、細い手首、繊細そうな指。
体の線もきっと細いのだろう。控えめな胸にほっそりとした体。な
のにスカートから覗く足は白くてなめらかに見える。
︵やば、俺何見てるんだろ︶
彼女に興味はあるけど、そんな舐めるように体を見る必要もないだ
ろう。
慌てて八雲は目をそらし、コホンと咳払いをしてみる。
﹁ほ、他にないなら⋮。あ、そうだ⋮すごく関係ない話なんだけど、
どうしても聞きたくて。⋮ちょっと聞いていい?﹂
﹁は、はい?何でしょう﹂
﹁⋮あのさ4月の中旬ごろ、だったかな。響子ちゃん、放課後の放
送で⋮サンタルチア、歌ってなかった?﹂
その途端、響子は目を大きくして八雲を見、顔を真っ赤にして狼狽
した。
﹁あっ⋮あの、や、やっぱり、聞こえていました⋮か?﹂
﹁うん、ばっちり。あれってやっぱり放送の電源いれっぱだったの
?﹂
﹁そ、そうなんです。ごめんなさい!掃除してる時に気づいて慌て
490
て切ったんですけど⋮。あの、あれは⋮忘れて、ください⋮﹂
顔を赤くしたまま俯き、ぼそぼそと謝ってくる。
よっぽど恥ずかしい思い出なんだろう。必死さも伺える。
八雲は思わず悪戯心が沸き上がってしまい、ニヤリと笑うと響子に
囁いた。
﹁⋮ね、響子ちゃん。この紗弓ちゃんを取り巻く件が片付いたら、
サンタルチア歌ってよ﹂
﹁は⋮え、え⋮!?う、歌う、ですか⋮!?﹂
驚いたように八雲を見た後、彼女はそんなことはできないとぶんぶ
ん首を振る。
そんな彼女を見ながら﹁だってさ∼﹂と八雲は肩をすくめてズボン
のポケットに手を入れた。
﹁こんなに紗弓ちゃんの為に走り回ってるんだよ?俺。なんかご褒
美ほしい﹂
﹁ご、ご褒美って⋮、そんな、私の歌なんか⋮ご褒美なんてならな
い⋮です﹂
﹁俺が個人的に聞いてみたいんだよ。あ、違う歌でもいいんだけど
⋮ダメ?﹂
﹁だ、ダメっ⋮ていうか⋮。うぅ⋮﹂
果てしなく困った様子で響子はもじもじとして悩み出す。
他に適任者がいなくて八雲を頼ったことは気にしているのだろう。
響子が怜を苦手としているのは何となく八雲もわかっていた。
﹁響子ちゃ∼ん?﹂
﹁わ、わかり、ました⋮。で、でもサンタルチアはちょっと恥ずか
しすぎるので、違う歌で⋮﹂
﹁じゃあ好きなアーティストとか教えてよ。そっから選ぶから﹂
﹁ええ?うう⋮じゃあ、後で歌えそうな歌をメール、しますから⋮﹂
よしきた!と八雲は拳を握り、響子に歌を歌ってもらうことを約束
する。
彼女のちゃんとした歌声が聴ける。
491
それだけで何だろうこのモチベーションの上がりようは。気合充分
で生徒会室に戻れば鮮花と護が二人、ソファに向かい合って何かを
話しているようだった。
﹁ああ、おかえりなさい。どこ行ってたの?﹂
﹁ん、紗弓ちゃんのことで響子ちゃんと話してた。なんか午後に入
ってから様子がおかしいみたいなんだよね⋮。怯えてる様子だった
って﹂
﹁ん⋮なるほど。もしかしたら先手を打たれたのかもしれないわね
⋮﹂
﹁どゆこと?﹂
鮮花に首をかしげて聞くと、彼女は﹁そろそろ話す頃合かな﹂と、
指輪盗難の話をし始める。一通り聞いてから八雲は眉をひそめた。
﹁ん?その⋮指輪盗んだヤツ、男?⋮じゃあこれ関係あんのかな⋮﹂
と、八雲も自分が響子から相談を受けていたSNSの話をし始める。
鮮花は﹁なにそれ、初耳﹂と驚いて護と携帯電話で検索を始めた。
﹁これは⋮怜が帰ってきてからちゃんと話し合うべきだな。何か繋
がりそうだし﹂
﹁そうだね⋮。はぁ、それにしても紗弓ちゃんも災難だねぇ﹂
思わずごちる護に全くだねーと相槌を打って﹁この件、怜が聞いた
らキレそうだなぁ﹂と八雲は思った。
⋮実際怜は話を聞いて護が引くほどキレるわけだが。
◆◇◆◇
件の事柄がひと段落ついて、改めて八雲は響子に歌を歌ってもらう。
場所は生徒会室。
怜と紗弓はすでに下校しており、護はデート、鮮花は部会に出席し
ている。
﹁じゃあリクエストはこれ、お願いね﹂
﹁本当に⋮本当、だったんですね⋮﹂
492
とほほ、といった様子で響子は八雲から携帯電話を受け取り、音楽
を聴き始める。
﹁⋮ベタ⋮ですね﹂
﹁ぐさぁ!だってこれくらいしか俺知ってる歌なかったんだもん!﹂
なにしろ響子がメールで送ってきたアーティストの名前の悉くが洋
楽だったのである。
洋楽なんて有名所で、しかも映画の主題歌くらいしか知らない八雲
は知っているタイトルがそれしかなかったのだ。
いやむしろ、それが狙いだったのではないかとも思えてくる。
﹁もしかして⋮俺がここからじゃ選べないって思った?絶対邦楽も
聴いてるはずでしょ?﹂
﹁えっ⋮い、いえ⋮そんな。ほ、本当ですよ?本当に私、洋楽派な
んです﹂
﹁洋楽派でも!邦楽も聴くでしょ!って話ー!﹂
あ、はは⋮と響子は八雲から目をそらして後ずさりをする。
やはり図星だったのか。大人しい顔をして割と策士なことをする女
だと八雲は思う。
﹁とにかく!その歌は知ってるから歌ってよ。はい、どうぞ!﹂
﹁わ、わかりました⋮では﹂
観念したように響子はかっくりと首を落とした後、すぅ、と息を継
ぐ。
そして歌い始めた。
毎晩、夢の中で、私はあなたに会っている、あなたを感じているわ
だから私はあなたがいることを知っているの⋮
和訳にすればそんな歌だ。
それを英語で彼女は歌う。有名な映画の主題歌だ。
透き通る、綺麗な声。耳に心地よい歌声。
ああ、これだ。この歌声だ。この声が聞きたかったんだ。
493
彼女に対する勝手な落胆とか、期待とか、彼女のその華奢そうな体
とかが一遍に吹き飛んで、彼女の声だけが八雲の心を鷲掴みにする。
歌ってる響子は素直に綺麗だと思えた。とても魅力的に見えた。
そして、その声を、彼女のこの姿を独占したいと思う。
︵あ、ヤバい。そういう事か︶
響子の歌声を聞いて納得する。
なぜあんなに﹁木曜日の人﹂を探したのか。響子の大人しくオドオ
ドとした姿を見て勝手に落胆したり、それなのに興味は尽きず彼女
を観察したりしていたのか。
︱︱惚れていたからだ。
好きになっていたからだ。
おそらくあの放課後、彼女の歌声を聞いた時から、一目惚れしてい
たのだ。
いや、この場合一耳惚れというのだろうか?
俺ってば声フェチだったっけ?そんな風にも思うくらい心を持って
いかれていた。
響子は律儀に省略することなく全て歌いきって、ふぅ、と息をつく。
そしてぺこりと頭を下げてきた。
﹁こ、これでいい⋮ですか?﹂
﹁うん。ありがとうね。やっぱり響子ちゃんはすごく歌が上手なん
だねぇ﹂
ぱちぱちと拍手をすると、響子は珍しくはにかんだ笑顔を見せた。
思わずどきりとする。
笑うと、こんな顔するんだ。⋮ふんわりして、心が暖かくなるよう
な笑顔。
﹁それ、二人目⋮です。言ってくれたの⋮ありがとうございます﹂
﹁ふたり⋮め?﹂
自分以外に歌を披露したことがあるのか。
494
思わずムカッとしてしまう。自分が独占したいと思っていたのに、
すでに遅かったとは。
しかし彼女は緩い笑顔のままこくりと頷く。
﹁はい。⋮あの、さゆちゃん⋮に﹂
﹁⋮⋮ああ∼成程。紗弓ちゃんか。それならいいんだ。納得納得﹂
勿論悔しいという気持ちは確かにある。だが紗弓と響子はとても仲
がいいし、一人目が男でなかっただけ遥かにマシだ。
響子に礼を言って、ついでに駅まで一緒に帰る?と聞いてみればさ
っくりと首を振られた。
﹁⋮光国先輩のファンに、怒られてしまいますから﹂
そう言って自分は役目が終わったと頭を下げて、失礼しますね、と
響子は生徒会室を出て行く。
﹁⋮⋮そうなっちゃうよなぁ﹂
手を振って見送って、彼女が消えた途端に頭で手を組んで八雲は天
井を仰いだ。
自分が望んでやっている事だが、響子にとって自分は﹁すごくおモ
テになるチャラそうな男﹂だろう。
全くもってその通り。弁解の余地もございません。
﹁でも何とかしないと⋮。とりあえず紗弓ちゃんはこっち側にいる
んだし⋮一緒にお昼を来てもらうようにして、少しずつ距離を縮め
てみるか﹂
毎日のように話しかければ、少しは心を許してくれるかもしれない。
しかしもう一つの問題、それは自分を囲むファンの女の子達だが、
自分は怜のように彼女達を切ることができない。
響子に惚れているということを自覚はしたが、それとこれとはまた
別なのだ。
何せこの女の子達を囲んで面白おかしく毎日を過ごす、というのは
彼にとっての復讐行為だから。
これだけは卒業までスタイルを崩すわけにはいかないのだ。
495
光国八雲の両親は二人とも教師である。
この明洛高校で職場結婚して、今はお互い違う学校で教鞭をふるっ
ているだろう。
恋愛結婚だったであろう両親。だがもう、随分と前からその余韻さ
え皆無で、二人の仲は冷え切っていた。
八雲が物心つくころにはすでに愛などなく、義務のように八雲は育
てられる。
機械的に、作業的に、監視するように。
入ったことはないけれど、刑務所の刑務官はこんな目で囚人を見る
のかな、と思った程。
細かく八雲の行動をアレコレと束縛するくせに、自分達の道徳や倫
理は見る影も無かった。
お互いにいる愛人、恋人。
二人とも開き直っていたのか、全く隠そうともしなかった。
思春期に入った頃の多感な時期に、そのあけすけとも言える程乱れ
に満ちた両親は八雲にとって気持ちの悪い生き物だった。
聖職と呼ばれるようなお堅い職業について、子供達に対して偉そう
に教鞭をふるって、人の道とはなどと道徳を教えておいて。
八雲の生活を分単位で管理し、意思を抑えつけるように育てておい
て。
自分達は実に淫らな生活をしているのだ。次々と父のセフレは変わ
るし、母が連れてくる恋人の男は月単位で顔が違う。
そちらに金を使いたいのか、八雲には全くといっていいほど金をか
けなかった。
毎日の食事だって最低限。自分達はセフレと外食したり、彼氏と二
人分の食事を作って食べたりしているのに、八雲には餌のように賞
味期限の切れた安い菓子パンやコンビニおにぎり、カップ麺といっ
たものしか食べることを許されなかった。
周りの子達が誕生日にプレゼントを貰っても、クリスマスにプレゼ
496
ントを貰っても、八雲には何もなかった。
羨ましいと思った時期もあったが、すぐに思わなくなった。ようす
るに、諦めたのだ。
だから年齢をごまかして八雲は中学からアルバイトを始め、自分の
金で欲しいものを買うようになる。
そして持ち前の顔のよさから女子に人気があることを知り、高校に
入って行動に移したのだ。
自分を慕う女の子を囲って、いかにも遊んでるようにふるまう。
勉強なんて適当。行動も全て適当。毎日面白可笑しく女の子達と遊
んで過ごす。
一応人気があったのか、生徒会長なんてものに推薦されてそのまま
決まってしまったけど、彼のスタイルは基本的に変わらない。
この行為は教師を通じて両親にも知られていて、何度か注意もされ
た。
しかし彼は不敵に笑って彼らに言う。﹁アンタらのしてることに比
べたら随分可愛い事だと思うけど?﹂
これを言えば両親は揃って﹁子供のくせに﹂と怒り出す。
そうすれば﹁じゃあ俺を追い出す?それでもいいよ。アンタらのし
ている事、職場でばらしてやるよ﹂⋮そう言われると、さすがに何
も言い返せない。
一度は八つ当たりまじりに殴られたが、これって虐待だよね?じゃ
あ児童相談所に行って洗いざらい話してくるよと言ったらそれ以後
一切の干渉をしなくなった。
これが彼の復讐だ。
自分のしている事は、教師に知られている。
教師のコミュニティは狭い。だから必ず両親に話がいく。
そして言われるのだ。﹁どういう育て方をしているんだ﹂と。
プライドがバカ高い両親にとってその言葉は教育者としても親とし
ても屈辱だろう。
自分達がどういう育て方をしていたのか、それをむざむざと知るが
497
いいと八雲は思う。
そして復讐と同時に、性に淫らな女性に対しても逆恨みのような気
持ちを抱くようになった。
だから時々彼はそういう女を見つけて悪質に弄ぶ。
優しく甘く、とろかせるように扱って、男との関係を遊びと割り切
っているような女を本気にさせるのだ。
相手が本気になればなるほど別れは悲惨だ。しかしその瞬間が八雲
にとって一番昏い快楽を感じる時。その瞬間の為に彼は女を本気に
させ、恋に落とす。
はっきりいって性格が悪い。自分のやっている事は最低のことだと
自覚もしている。
100%八つ当たりだ。
だから滅多にやらないが、それでもやる時はやっている。
⋮こんな自分は本気で恋をする事なんてないと思っていたのに、落
ちてしまった。
正直言ってこの面を知られた時、好かれる自信は全くない。
なのに欲しいという気持ちは恋を自覚した時から湧き水のように溢
れてくる。
だから八雲は決意した。
高校を卒業したら終わりにする。
もともと高校まで、と決めていたが、八つ当たりのような女性との
つきあいはこれ以後一切やめようと思った。
しかし両親に対する復讐心はまだなくなってはいない。
だから高校生まで。
卒業を機に女性を囲ったり遊んだりするようなことも全て辞めて、
全力で響子を口説きに入る。
だが、懸念もある。響子がその間に他の男に取られないかというこ
498
とだ。
言っては悪いが彼女はとても地味でおとなしいから大丈夫だろうと
思う所もある。だけど油断はできない。
そういうのがいいっていう男だっているかもしれない。
だから紗弓と仲がいい事を利用して、こちら側に置いておく。
少しずつ手懐けて、まずは﹁良い先輩﹂を演じ、もう少し踏み込ん
で﹁心を許した異性﹂まで。
卒業後すぐ口説きに入れるように下地は作っておかなければ。
自分の中で行動を順序立てて﹁よし﹂と八雲は膝を手で打った。
﹁これでいこう!待っててね響子ちゃん﹂
自分が口説くまで。他の男に恋に落ちないよう、ちゃんと監視して。
それとなく男が近づかないように目を光らせて。
あとは仲よくなったら好みのタイプとかを聞いて事前調査をしてお
こう。
やる事がいっぱいだなぁと八雲は楽しそうに笑った。
499
心を掴む、その声は。 3
こうして八雲の密かな響子捕獲大作戦が始まった。
自分のファンから悪意の目が行かないように配慮しつつ、距離を測
りつつ。
少しずつ少しずつ、警戒心を解いていく。
紗弓と共に昼食に現れ、生徒会室で共に食事をする度に世間話、テ
レビの話、学校の話。
皆に話すように話題をすすめながらさりげなく響子に話しかけ、彼
女の答えを待つ。
そんな風にゆっくりと歩み寄れば、響子も﹁苦手な異性﹂から﹁少
し仲の良い先輩﹂へと八雲のポジションが変わっていく。
大きく自分の立場が変わったと感じたのは夏休みの時だろうか。
彼女がだまされて酒を飲まされた時、八雲は献身的に介抱した。
申し訳なさ全開で謝り続ける響子に﹁謝らないで﹂と何度も言いな
がら吐かせて、タオルで綺麗に拭き、彼女の為に水を汲んで飲ませ
る。
八雲としては下心が全くない心配からの行動だったが、それがかえ
って響子にとって大きな心の変化を生んだらしい。
彼女は大きく八雲に心を開き、異性としては一番に心を許せる相手
となった。
そうやって距離を縮めながら、同時に八雲は響子の隠された魅力を
見つけていく。
明るくて元気な紗弓の影に隠れがちだが、彼女の水着姿を見た時に
その体の線をしっかりと目に焼き付けてしまう。
白くすらりとした足、儚げに細い手首や足首、なのに腰まわりに対
して肉付きが悪くない。
500
貧弱な体ではなく、細い体に対してバランスが取れているのだ。
完全な文化系と思っていたが、意外とスポーツもこなす体は綺麗に
筋肉がついており、海だってすいすいと泳ぐ。
⋮隠されていただけで実は素材がいい。
なんて磨きがいのある体。鮮花が目をつけるのもおおいに判る。
いつも顔を隠している長い髪をサイドアップして、体の線がわかる
ようなぴったりとしたワンピースを着せたら、それだけでも様変わ
りするだろう。
意外とスポーティな短パンにキャミソールというラフな格好で、紗
弓のようにポニーテールにしてもいいかもしれない。
考えれば考えるほど、彼女を着飾らせてみたくなる。
だけどそれは、卒業後のお楽しみだ。
むしろ今は彼女のその隠された魅力はできるだけ、そのままにして
バレないようにしてもらいたい。
なのに、その魅力は意外な所で発揮され、八雲は心の内が穏やかで
いられなくなる。
秋の文化祭。
1−3組に遊びにいけば、紗弓は犬メイドの姿で、響子はバニーチ
ャイナの格好をしていた。
うさぎ耳のカチューシャをつけたせいでいつもサイドを隠している
顔は露になっており、さらにぴったりとしたチャイナドレスは彼女
の体の線がよくわかる。
スリットからはあのすらりとしてなめらかな足がしっかりと強調さ
れていて。
もうすぐにでも連れ出して隠してしまいたいと、どんなに思ったこ
とか。
ファンの目をこの日だけは無視して響子を誘い、連れ出したのも仕
方がないと思う。
一応紗弓達と待ち合わせという形を保ったから何事もなくてよかっ
501
たけれど、慎重な自分にしては割と自我を抑えられなかった行動だ
っただろう。
しかも厄介なのはその文化祭だけの話で終わらなかったことだ。
あの文化祭を経て、響子の器用な所、実は割と可愛いということが
少しずつ明るみになってきたのだ。
そして響子自身も。
様々な影響を受け、響子の性格が少しずつ明るくなってきたのだ。
クラスメイトと仲良くなってきた事や、八雲達とのやりとり等、色
々理由にあるのだろう。
明らかに響子は性格が明るくなっていって、顔を髪で隠したり、お
どおどと話すことが少なくなっていった。
これは由々しい問題である。
彼女の魅力に気づいて告白する男が出てこないかと八雲は焦った。
なので彼女が昼食に現れる度に遠まわしな質問でそういう男はいな
いかと聞いてみる。
﹁こ、告白、ですか⋮!?﹂
﹁うん。あー、いや、文化祭の後ってそういう話をよく聞くんだよ
ね。だから﹂
﹁そうなんですか?いえ、私⋮そんな告白なんてされたことありま
せん﹂
それを聞いて八雲はホッとする。
しかし次の彼女と紗弓の会話を聞いて、また余裕がなくなった。
﹁でも、響ちゃんよく男子から声かけられるようになったわねぇ﹂
﹁あ、あれは⋮宿題の難しい所教えて欲しいって来るだけだよ?﹂
﹁ふふ⋮でもよく頼られるようになったよね。なんだか自分の事み
たいに嬉しい﹂
にこにこと微笑む紗弓と照れた笑顔を返す響子を見て、八雲は﹁あ
あ﹂と顔を覆った。
やっぱり男子に目つけられてるじゃないかー!
502
それとなく牽制しておかないと。ああ、自分で決めた事とはいえ表
立って行動できない身が恨めしい。
はあ、とため息をついていると鮮花と怜からニヤニヤとした笑みを
向けられて、ジト目で睨みつけた。
心穏やかではない日々は過ぎて季節が変わっていく。
怜と紗弓の間で仲違いがあり、響子が生徒会室にこない日が続いた
時には冷や冷やとしたが、解決した後はまた卒業まで二人は生徒会
室に通ってくるようになって、良かったと胸をなで下ろす。
紗弓と怜は﹁本当の恋人﹂となり、仲睦まじさは前以上だ。
そんな彼女を響子はとても嬉しそうに眺めている。まるで自分の事
のように喜んでいる。
八雲も幸せそうな怜を見て、早く自分も同じような立場になりたい
なぁと心から思った。
卒業が近づいて、ファンの集いも終了する。
八雲のファンは基本的にお祭り好きで、怜のように﹁独占したい﹂
という女性が少ないのが特徴だ。
八雲が誰もかれもを特別扱いしないで同等に扱ったからそうなった
のかもしれないが、別れを惜しむ声は多かったものの、わりとサッ
パリとした別れをする。
卒業式はさすがに女子生徒から告白をされたり、ボタンを取られた
りしてもみくちゃにされたが、彼は告白の全てを断り、ボタンは景
気よく差し上げた。
おかげでその日の彼は本当にどこかのアイドルかと言わんばかりに
ブレザーどころかシャツのボタンまでとられて胸がはだけていた。
﹁何と言うか、ボロヨレですね⋮光国先輩﹂
﹁ははは!俺もそう思う。実質襲われた後のようなものだからね!﹂
はぁ、と口に手を当てて心配そうに眺めるのは響子。中庭の端で八
503
雲は花束を片手に笑っていて、シャツのボタンは全て取られ、ブレ
ザーは手首の飾りボタンまでむしられネクタイはいつの間にか誰か
に取られて髪はもみくちゃにされてぐちゃぐちゃである。
﹁⋮ワッペンもないですね﹂
﹁うん⋮いつの間にかハサミまで入れられてたみたい﹂
ブレザーの胸ポケットについていた校章がない。ポケットの形をな
ぞるようにハサミが入れられて、そっくり取られているのだ。
多少同情まじりの目を受けながら八雲は﹁アハハ﹂と軽く笑った。
﹁いやぁ、モテるって大変だね。でもそれも今日で終わるからいい
思い出かもー﹂
﹁終わるんですか?﹂
﹁うん、ファンの集いは解散したからね。これで俺は完全フリーに
なったわけです﹂
ファンの集い⋮と響子はくすくす笑う。名前の響きがおかしいらし
い。
﹁ふふ⋮でも、光国先輩は格好いいから、大学でもきっとモテます
よ﹂
﹁それは困るなー。だってこれから俺は追いかけられる側じゃなく
て追いかける側になるんだから﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
意味がわからず首をかしげる響子に、にんまりと八雲は笑う。
﹁明日から一人の女の子を追いかけるんだよ俺は。蓮華響子ちゃん
っていう女の子をね﹂
﹁⋮⋮⋮え⋮?﹂
﹁大丈夫だよ。俺は順序を守るタイプだから。これからゆっくり口
説いてあげる﹂
ぎゅ、と響子の手を握って笑う八雲に、事態がわからず目を白黒さ
せる響子。
明日から、これから、とても楽しくなりそうだと八雲は目を細めた。
504
さぁ恋をしよう。
俺と楽しく素敵な恋をしよう。
どろどろに溶かしたキャンディのように甘い言葉を貴女だけに囁い
てあげる。
お姫様みたいに優しく丁寧に扱ってあげる。
だけどそれで貴女が本気になっても、俺は貴女を手放したりしない。
そのままずっと優しい優しい檻に閉じ込めてあげるから。
﹁安心して俺を好きになってね、響子ちゃん﹂
505
心を掴む、その声は。 3︵後書き︶
ここから八雲による怒涛の響子捕獲が始まります。
とろかすように甘やかし、毎日のように愛を囁くでしょう。
響子は滅茶苦茶困り果てそうです。変な男に目をつけられてしまい
ましたね。
八雲の高校での行動原点は結構初期から決まっていましたが、響子
への恋を考えたのは本編の13話。響子の中学時代の思い出話から
です。
このあたりから響子という存在が自分の中でかなり大きくなってい
て、こういう恋もありそうだな、と考えてしまったら八雲が恋して
ました。
そんな響子。彼女は最初の設定時点では実は怜の﹁元彼女﹂という
立場でした。
でもそれだと、紗弓の心からの親友が1話目でいなくなってしまう
と、慌てて栞というキャラクターを考え出し、響子は純粋な紗弓の
親友となりました。
それでも彼女は最初、時々紗弓のクラスで会話する為のキャラクタ
ーとして本当、オマケみたいな立場だったのに、あれよあれよと響
子さんが動き回ってしまいまして、大人しい見た目や口調の割にし
っかり行動する女の子になってしまいました。
本当に小説を書くにつれてどんどんと魅力というか、肉付きされて
いったような子なのです。
そのうち八雲が惚れてしまうし⋮︵作者の脳内で︶
こういう、キャラクターが勝手に動き出すという感覚は、こうやっ
て小説を書いていて初めて味わったのですが、楽しいですね。
506
今ではすっかり大好きなキャラクターになっています。
507
After eleventh
怜と紗弓のアフター編です。
grade 1︵前書き︶
508
After eleventh
季節は巡って夏が近づく。
grade 1
真城紗弓は高校2年になっていて、相変わらず風紀委員を任されて
いた。
しかし実は、これに関してひと悶着があったのだ。
それは2年になった春の頃に遡る。
恒例の委員会決めがあった時、紗弓は当たり前のように新しいクラ
スメートから風紀委員に推薦された。
しかし彼女はその推薦を辞退した。
理由を聞けば﹁風紀委員の資格がない﹂という一点張り。
しかしクラスの中で他にやりたい人もいなければ適任者もいなく、
困り果てたクラスの人たちはすでに卒業した園田稔に頼り、説得を
頼んだ。
大学生になった稔が高校に戻って彼女に聞いてみると、やはり風紀
委員の資格がないと言ってくる。
明確な理由にぴんときた稔は紗弓に聞いてみた。
﹁もしかして、佐久間とつきあってること気にしてるの?﹂
うっ、と紗弓の顔が変わる。図星か、と思って稔は笑った。
﹁真城ちゃんは相変わらず真面目だねぇ。風紀委員は恋人作っちゃ
だめなんて校則、どこにあるんだい?そんなんじゃ誰も風紀委員な
んてできないよ﹂
﹁わ、わかってます⋮。だ、だけど、私⋮怜、とは⋮﹂
ごにょごにょと顔を赤くして呟く紗弓に、また稔はぴーんときた。
つまりそういう事だ。
紗弓が気にしているのは、怜と紗弓が﹁高校生にふさわしくない不
純異性交遊をしている事﹂なのだ。
体を重ねあう行為。それを背徳と紗弓は感じているのだろう。
﹁⋮ふむ、真城ちゃんは後悔してるの?佐久間とのつきあいを﹂
509
すると紗弓はふるふると首を振って﹁だからこそです﹂と本音を口
にした。
﹁私は、全く後悔してないんです。だから⋮だからこそ、私はそん
な倫理感で風紀委員なんてできません。⋮それだけじゃなくても、
私⋮時々寄り道を許しているし、細かく言えばきりがないほど校則
違反もしているんです﹂
﹁ふぅん?詳細に言うと?﹂
﹁ろ、廊下も走ったし、その時は知らなかったけどお酒を飲まされ
た事もあるし⋮﹂
﹁はぁ⋮真城ちゃんはつくづく真面目で責任感の強い子だねぇ。そ
んな性格じゃ苦労も多いだろうに﹂
ポンポン、と稔は紗弓の肩を軽く叩く。
﹁あのね?僕だって完璧に校則違反してないっていえば嘘になるよ
?小さな違反ならした事もある。でも、それは皆そうだよ。風紀委
員皆、完璧かって言われたら言い切れるけど絶対そんな事ない。そ
してそんな事、風紀委員以外の生徒だって教師だって判ってる事だ。
だけど毎年風紀委員として必ず何人か選出されて仕事が任されるの
はなんでだと思う?﹂
紗弓は顔を上げて稔を見たが、明確な答えがわからずに黙ってしま
った。
なので稔は諭すように紗弓に言う。
﹁抑止力になるようにだよ。今よりも学校の風紀が悪くならないよ
うに僕達は必要なんだ。そりゃ、ある程度は模範的な生徒である必
要はあるかもしれないけど、完璧になる必要なんてない。僕達の仕
事は生徒を罰することじゃないよ。抑止する事なんだ。それ以上は
だめだよ?って﹂
﹁で、でも、もう私には⋮少なくとも不純異性交遊については注意
できる立場じゃ⋮﹂
﹁あれ?今までそんな事で注意したことあったの?﹂
﹁な、ない⋮ですけど﹂
510
しどろもどろになりつつ、そう答える紗弓に稔はくすりと笑って﹁
でしょう?﹂と肩をすくめる。
﹁だって風紀委員の仕事に不純異性交遊を注意する、なんてものな
いからね。風紀委員の仕事はあくまで与えられたスケジュールにし
たがって服装チェックをしたり、シフトに従って不要物の没収やチ
ェックをすること。まぁ目についた行い位は注意もするだろうけど。
結局はお役所仕事みたいなものなんだよ?﹂
﹁それは、そうですけど⋮もう、私偉そうに注意できるような立場
じゃないって⋮﹂
﹁その考え自体がおかしいの。どうして﹁偉そうに﹂ってつけるの
?これは学校から与えられた仕事なんだよ?注意するのが仕事なの。
その為に1年に一回学年ごとに選出されているんだよ﹂
う、と紗弓が困ったような顔をする。
彼女は迷っている。真面目な性格ゆえに自分が納得できる完璧な模
範生徒でなければ風紀委員になる資格はないという思いと、そんな
完璧でいられるわけがない、いろんな所で折り合いをつけながら皆
風紀委員の仕事をしているんだという思い。
困って、困って、挙句紗弓は頭を掻きながら八つ当たりするように
稔を軽く睨んだ。
﹁⋮どうしてそこまで私に風紀委員をさせようとするんですか?⋮
これで後ろめたさもなく学校生活を満喫できるって思ったのに﹂
﹁だって、真城ちゃんは風紀委員じゃなきゃ!って訴えてくる後輩
が多すぎるんだもん。まぁ皆したくないっていうのが本音だろうけ
どね。でも皆、真城ちゃんなら注意されてもいいって思っている事
と同意なんだよ?﹂
微妙に嬉しくない?と聞けば、嬉しくないと言われればそれは嘘に
なりますけど⋮と歯切れ悪く紗弓は答える。
もうちょっとだなーと稔は思ってもう一押ししてみる。
﹁それに僕も真城ちゃんは適任者だと思うよ。佐久間とのつきあい
も知ってて尚そう思う。真面目に仕事に取り組む姿勢は皆わかって
511
るから君は風紀委員でも親しまれてるんだ。だからね、もう1年、
頑張ってみて欲しいな。君に今必要な事も仕事を通じて判ってくる
と思うから﹂
﹁今必要な⋮事?﹂
紗弓の言葉にこくり、と稔は頷く。
﹁君に必要なことはね、柔軟さだよ。悪い言い方になるけどある程
度の不正をやり過ごす柔軟さ。何も僕達は刑務所にいるわけじゃな
いんだからね?校則を破って問題か些事か、その判断ができる程度
の頭の柔らかさが、これからの君には必要になるんじゃないかな﹂
﹁⋮何だか、鉄の意志を持つ男、と呼ばれてた人とは思えない言葉
ですね⋮﹂
﹁あははっ!そんな風に呼ばれてたの?そりゃ、僕がダメだと思っ
た事は決して信念は曲げなかったけど、目を瞑ってきた事も結構あ
るよ。とりあえず⋮難しく考えずに前のままのスタイルでやってご
らん。そのうち僕が言った事がわかってくると思うから﹂
稔の言葉に紗弓はしばらく悩んでいたようだったが、やがて﹁⋮わ
かりました﹂と頷く。卒業した稔まで駆り出されて説得されてしま
っては、お人よしな紗弓には元々断る選択肢はなかったのかもしれ
ない。
こうして紗弓はクラスメートや稔の必死な説得に折れる形で風紀委
員を続ける事になったのである。
◆◇◆◇
﹁あつい⋮⋮﹂
今は6月だが、すでに真夏かと思うほど暑いその日は、やはり天気
予報でも﹁夏日﹂と言われていた。
少しでも涼しい所と影を探して歩くが、あまり効果があるようには
思えない。
どこもかしこも暑いと思いつつ紗弓は目的地に向かって歩き、約束
512
した駅前に行くとすでに待ち合わせの男がいたので小走りで近づく。
﹁ごめん、待った?﹂
﹁いいえ?先ほどの電車で来たばかりです﹂
にっこりと笑って、寄りかかっていた壁から体を起こすのは佐久間
怜。正真正銘紗弓の恋人だ。
彼は今年から大学生で、1年である。
去年まで高校生で、それが大学生になっただけで酷く彼は大人びた
印象を持ったなぁと紗弓は思う。
何というか大人の魅力のようなものがにじみ出ている、というか。
チラチラと彼を見る女性の目は相変わらずだが、その年齢層がまた
広くなった気がする。
はぁーと紗弓は思わずため息をついた。
﹁フェロモン抑制機があればいいのに⋮﹂
﹁は?フェロモン?﹂
﹁もしくは石ころぼうし﹂
え?え?と怜が慌てたように紗弓に聞くが、彼女は﹁何でもないわ﹂
とホームへ歩いていく。
彼はどう見てもあの青いタヌキのアニメは見たことがあるように思
えない。
電車に揺られて何度か乗り継ぎをし、ついた所は東京のお台場だ。
﹁ランドやシーと悩んだんですけどねぇ。あっちは宿泊が高くて﹂
﹁あっちはいいわよ。日帰りでもいいんだし、入場するだけでも高
いんだから。それより⋮その、いいの?お金を任せてしまって﹂
﹁ええ、高校の頃よりバイトの時間増やせましたし。それに僕が紗
弓とゆっくり過ごしたいから提案したんですよ?だから安心して奢
られてください﹂
この暑い日なのに彼はしっかりと紗弓と手を繋いでいる。確かに暑
いは暑いけど、紗弓もそんな怜の仕草が嬉しくて堪らなかった。
実は今回のデートはお泊り込みなのだ。怜曰くゆっくりデートして、
513
ゆっくり紗弓との時間を楽しむには宿泊込みしか思いつかないらし
い。
毎回というわけでもないのでたまにはいいかな、と紗弓もそれを了
承した。一緒にいたいのは紗弓も同じなのだ。怜が高校を卒業して
一気に彼との時間は減ってしまった。
寂しいと思う気持ちは紗弓にもある。だから彼の提案はとても嬉し
かった。
毎日の電話やメールも大事だけれど、やはり会った時の多幸感はそ
の比ではない。二人は手を繋いでお台場の道を歩いた。
﹁お昼どこにしましょうか。混む前にすませておきたい所ですね﹂
﹁んー。やっぱり海が見える所で食べたいわね。せっかくお台場な
んだし﹂
﹁じゃあアクアシティのレストランにしましょう。テラスつきの所、
ありそうですからね﹂
そう言って彼に導かれるように目的の複合施設に着く。相変わらず
彼はこういう時全く迷わないし、すたすたと歩く。
レストランの一覧を眺めて、紗弓は唸った。
﹁なんでこんなにどこもかしこもイタリアンなのよ⋮﹂
﹁おや、紗弓はイタリア料理は好きじゃないんですか?﹂
﹁好きは好きだけど。一つの施設にこんなになくてもいいじゃない﹂
あはは、と怜は笑う。イタリアンはどうしても人気がありますから
ねと言って、彼はテラス席があるような場所を探す。
﹁あ、上階にありそうですね。海が見えそうな所⋮イタリアンです
けど、そこにします?﹂
くすくすとイタリアンというところを強調して言ってくる。
紗弓はうー、と面白くなさそうに唇を尖らせるが﹁仕方ないわね﹂
と頷いた。
﹁確かにデートっていえば何となく洋食が定番だものね。でも外で
食べるのは嫌だから、中で食べない?﹂
514
﹁ええ、多分ガラス越しに海が眺められそうですから。行きましょ
う﹂
こんな暑い日にテラスで食事など、落ち着いて食べれそうにない。
紗弓と怜はそんな風に話ながら決めたレストランに行き、海とレイ
ンボーブリッジを眺めながら食事をした。
昼食が終わって二人はのんびりと海が見えるテラスを歩く。日差し
は強いけど海から来る風は涼しく、波の音はその涼しさをより演出
する。
二人で購入したのは小さい粒のようなアイスが一杯つまったカップ
アイス。紗弓は色鮮やかなレインボーで、怜はチョコミント。
ベンチがあったのでそこに座り、二人でアイスを食べる。
﹁はーつめたい。おいしい﹂
﹁ええ、ミントが爽やかですよ。一口食べます?﹂
うん、と紗弓が頷いて彼からアイスを一口食べさせてもらう。
﹁チョコミントもいいわね。こっちはラムネ味かな﹂
﹁ふぅん?では一口ください﹂
あーん、と口を開けられたので紗弓は軽く掬ったアイスを怜の口の
中にそっと入れる。
もぐもぐ、と食べて﹁そっちの味もいいですね﹂と笑った。
﹁そういえばどうなの、大学生活。そろそろ慣れてきた?﹂
﹁んー。生活自体は慣れてきたと思いますよ。サークルの先輩方に
はしょっちゅう飲みに連れていかれますね﹂
﹁⋮⋮怜、アンタ、未成年、よね⋮?﹂
思わずジト目で睨んでしまって、慌てたように怜は手を振った。
﹁勿論僕はウーロン茶とかノンアルコールビールとかですよ?これ
なら皆と飲んでる感が出ていいですからね﹂
﹁⋮⋮本当に?なんか貴方はいまいち信用ならないのよね。高校の
頃から妙に素行が悪い所が目立ってたし⋮﹂
機嫌を悪くした風の紗弓を宥めるように怜は彼女の頭を撫で﹁本当
515
ですよ﹂と言い聞かせる。
結局のところ怜に甘い紗弓は彼の仕草に諦めたような顔で再びアイ
スを食べ始めた。
﹁サークルって、どんなのに入ったの?﹂
﹁写真サークル⋮でしょうか。ちょっと写真撮影に興味があったん
ですよね。だから興味で﹂
﹁⋮写真に興味なんてあったの?﹂
少し驚いたように紗弓は目を丸くする。あまり写真と怜は繋がらな
いのだ。
何故かというと、彼は写真を撮られるのが好きではないということ
を知っているから。
紗弓と二人でデートしていても彼は時々勝手に写真を撮られていて、
それを嫌そうにしているのをよく見ていた。だから彼は写真嫌いだ
と思っていたのだ。
怜は紗弓の気持ちが判ったようで、少し困った風に微笑み、自分も
アイスを一口食べる。
﹁被写体になるのは好きではないんですけど、撮るのは好きなんで
す。今までは風景が多かったんですけど、人物を撮るのもいいなぁ
って最近思いましてね﹂
それならいっそ独学ではなくサークルで人の写真を見たり学んだり
したいと思ったらしい。
へー、と紗弓は相槌を打ってもぐもぐとアイスを食べ終えた。
﹁人物ねぇ、家族写真くらいしか思いつかないわ﹂
﹁それもいいですよね。でもどうせなら綺麗に撮りたいじゃないで
すか。だから⋮ね?というか目下僕が撮りたいのは紗弓なんですけ
ど﹂
﹁私!?﹂
がーん、と紗弓は体を引く。そんな被写体として映えるような魅力
はないと彼女はぶんぶんと手を振るが、怜はにっこりと笑って自分
もアイスを食べ終えた。
516
﹁紗弓は魅力的ですよ。なんでそんなに自分に自信がないんでしょ
うねぇ。今だって貴女にキスがしたくて堪らないくらい可愛らしい
のに﹂
と言って、本当に彼は紗弓の唇にちゅっと軽く唇を重ねてきた。
公衆の面前で⋮!と彼女は顔を真っ赤にするが、彼は軽く笑って立
ち上がる。
﹁夏っていいですよね、薄着で。⋮でも、紗弓は魅力的だからあん
まり周りに見せたくないのも本音で。難しい所です﹂
﹁な、なによ。それで言うなら怜こそそうなんだから。いつもいつ
も、女の人がちらちら見ていくじゃない⋮今だって﹂
面白くなさそうに紗弓がそっぽを向く。
気にしないようにはしているが、やはり彼を見る目というのは気に
なる。
自分の彼氏なのに、まるで自分は存在しないように彼だけをうっと
り見ていくのはあまり面白くない。
しかし怜は紗弓のアイスカップを取り上げてごみ箱に捨てながらく
すりと笑みをこぼした。
ベンチから立ち上がってワンピースの裾を直す紗弓を見る。
長い髪はゆるいシニヨンにされていて、可愛いデザインの眼鏡をか
けている。
そしてサーモンピンクのマキシ丈ワンピースを着ていて、上にざっ
くりとした麻編みのニットボレロを羽織っていた。
上半身はふんわりした段のあるレースで覆ってあるが、その大きい
胸の形は隠せない。
むしろ想像を掻き立ててしまうのだ。その服に隠された彼女の体の
線を、カタチを。
1年を通して、つくづく紗弓は綺麗になったと怜は思う。
彼女が努力して自分を磨いているのは知っているが、それは彼女自
身が思うよりもずっと見た目に反映されている。
彼女自身の魅力。人工的に作られたものではない、彼女だけが持つ
517
魅力が見る度に引き出されている。
それは自然と人の目を惹き、視線を奪う。
男でも、女でも。
確かに怜自身に集まる目線に比べれば数は少ないかもしれないが、
それでも紗弓は見られているのだ。
それを彼女は気づいていない。怜に向けられる目が気になって、自
分に注意が向かないのだ。
﹁鈍感って、得なのか損なのかどっちなんでしょうねぇ﹂
﹁いきなり何⋮?というか、私は鈍感じゃないわよ!﹂
思わず噛み付く紗弓に、鈍感自体は得か損かは判らないが、自覚が
ないというのは得なんだろうなぁと怜はしみじみ思った。
518
After eleventh
grade 2
屋内遊園地で一通り遊んで、その後昭和テイストのテーマフロアに
向かった。
﹁実はここにお化け屋敷があるんですよ﹂
﹁⋮⋮なん、ですって⋮⋮﹂
ぴたり、と止まってぐぎぎと紗弓は怜を見上げる。彼はやたらと嬉
しそうな笑みを浮かべていた。
﹁行きます?ちょっと怖いらしいですよ?﹂
﹁こ⋮怖い、の?﹂
﹁はい。本当はもっと怖い所に連れて行きたかったんですけど、そ
こは遊園地なんですよね⋮﹂
﹁あんた本当にリサーチしてたの!?﹂
文化祭の事を思い出して紗弓が驚愕すると彼は笑顔のままで﹁ええ﹂
と頷いた。
﹁まぁ遊園地は次の機会ということで。とりあえずどうします?怖
いなら止めておきますか?﹂
﹁う、べ、別に怖くなんてないけど、おおお、お金を払う程じゃな
いんじゃないかしら﹂
﹁でも600円ですし。まぁでもどうしても紗弓が怖くて嫌なら無
理にとは言いませんけど﹂
﹁だ、だから別に怖くなんてないって言ってるじゃない!﹂
むきになって怒る紗弓に怜は心底楽しそうな顔をして﹁じゃあ行き
ます?﹂と聞いてきた。
明らかに紗弓をからかって遊んでいるのだ。ムッとした紗弓は怜の
腕を掴んでずんずんとお化け屋敷に向かう。
﹁いいわよ行ってやろうじゃないのよ。怖くなんかないんだから。
お化けとか幽霊なんて皆嘘なのよ。いるわけないのは知ってるもん
!﹂
519
﹁ほう、紗弓は幽霊否定派でしたか。それなら大丈夫ですね﹂
ニコニコと怜は紗弓に連れられてお化け屋敷へ行く。
文化祭の時はまだつきあっていなかったから悶々とするだけだった
が、今回は思い切り楽しめそうだと怜はほくそ笑んだ。
◆◇◆◇
結果。紗弓はげっそりしていて、怜はつやつやとしている。
お化け屋敷から出て二人は適当なカフェに向かって歩いていた。
﹁いやぁ∼楽しかったですねぇ﹂
﹁あんた、その語尾に音符マークがつきそうな言い方やめなさいよ
⋮﹂
﹁だってもう、紗弓が可愛すぎて。ああもう、癖になりそうです﹂
﹁やめてよそんな癖!しかも怜まで私を脅かしてくるしっ!!﹂
そうなのだ。ただでさえ怖いのに、終盤でいきなり怜が紗弓の首筋
をつぃっと指でなぞったのである。
驚きが頂点に達した紗弓はへなへなと腰を抜かしてしまい、あとは
怜のされるがまま、人形遊びよろしく抱き上げられてお化け屋敷を
後にしたのである。
ぷいっと怜から顔をそらして怒る紗弓に怜はにこにこと紗弓の肩を
抱く。
﹁驚かせたのはすみません。でも、紗弓がいちいち可愛い反応をす
るのも悪いんですよ?﹂
﹁な、なによそれ!あたかも私が悪いみたいにっ!?﹂
彼の言葉に反応して紗弓は怜に顔を向け、ガーッとまくし立てる。
途端に怜は紗弓の頬に手を添えてちゅっとキスをした。
﹁⋮っ!?﹂
﹁ほら、可愛い﹂
﹁⋮⋮⋮!!﹂
紗弓の顔が照れと羞恥で真っ赤になっていく。ぷしゅーと湯気でも
520
出そうな勢いで、紗弓は思い切り照れ隠しに怜の腹をグーパンチす
るのだった。
◆◇◆◇
﹁そういえば大学の話なんですけどね﹂
ちゅー、とアイスコーヒーをストローで飲んでから怜は話を切り出
してきた。
あのグーパンチの後、背中もぽかぽかと叩いたのに全く彼は痛がる
様子もなく、むしろ楽しそうにニコニコとやり過ごしてオープンカ
フェにやってきた。
こいつにはもはや目潰ししか手はないのか、巨大鉄筋コンクリート
男め、とジト目で睨みつつ紗弓も抹茶ラテを一口飲んで﹁なによ﹂
と機嫌悪く返事をする。
﹁もう機嫌直してくださいよー﹂
﹁ええい甘えた声を出すな!もう怒ってないわよっ﹂
﹁そうですか?じゃあ大学の話なんですけど﹂
そらっと怜は話を戻す。それはそれで複雑だと紗弓は思いつつ、甘
いクリームと一緒に色々なものを飲み下す。
﹁先ほどのサークルなんですけど、どうもね、紗弓を見せろって煩
いんですよ﹂
﹁はぁ?﹂
﹁だから僕の恋人にあわせろって、飲み会の度に言われるんですよ
ね。それで一応彼女に聞いてみますって話になっちゃったんです﹂
﹁⋮はぁ﹂
なっちゃったとか言われても困ると紗弓は眉をひそめる。
だいたい見せろって何だ。自分は珍獣でも動物園の動物でもない。
﹁何故か僕に彼女がいるのを信じてもらえないんですよ。写真を見
せても信じてもらえないっていうか。なんででしょう?﹂
﹁なんでって⋮私にもわかんないわよ。それって皆が言ってるの?﹂
521
﹁そうなんですよねぇ⋮いや、本当に困っているんです。何とか会
ってもらえないでしょうか﹂
むぅ、と紗弓は唸って腕を組む。
そんな紗弓を見ながら、怜はアイスコーヒーを一口飲み、同じよう
に困ったような顔をしてみせた。
紗弓にはああ言ったが、彼は理由の検討がついている。
ただ面と向かって紗弓を大学の人間に見せびらかすと言えば彼女は
絶対首を縦に振らないだろうから、表面上困ったようにしているだ
けだ。
高校であんなに女性から人気があり、男性からはやっかみの目で見
られていたのだ。
大学に入ってぱたりとそれがなくなるわけがない。
毎日のように女学生から声をかけられ、好奇の目で見られる。
写真に興味があったのは本当でサークルに入ってみたものの、やは
り怜目当てに1年の女学生が入部してくる、男からは嫌味を言われ
る毎日で、とうとう怜はサークルのメンバーに﹁彼女がいる﹂と発
言した。
去年の夏に紗弓からもらった写真を見せて、いかに彼女と真面目に
つきあっているかを正直に話せば男女問わずメンバーの多くは黙っ
た。真剣に恋人と交際している怜がわかったのだろう。
ところが女性メンバーの一部は黙っていなかった。逆に煩く騒ぎ出
した。
信用していないのではない、認めたくないのだ。
怜に決まった彼女がいるというのが許せない。一体どんな理論だと
思うが、高校でもそうだったように怜はある意味﹁皆のもの﹂でな
アイドル
ければならないとう先入観があるらしい。
さながらテレビに映る偶像のような。
彼らもまたファン達のアイドルであるように、彼もそうでなければ
ならないらしい。
522
そんなわけで、彼女らが恋人を見せろとせがむのは紗弓を見定めた
いからだ。
佐久間怜に見合う女かどうか。ふさわしいかどうか。
そんなもの、どうして彼女達に判断する権利があるのだろう?結局
のところ誰が相手でも、それが絶世の美女だったとしても彼女達は
認めるつもりはないだろう。
⋮むしろ、お前らは俺にふさわしいとでも思っているのか?と心の
中で嗤ってしまう。
しかし怜はその要求を飲んだ。一応彼女に話を通すという形だが、
怜は紗弓を見せるつもりでいる。
そんなに見たいなら見ればいいと思う。
そして何事も言えないくらい仲の良さを見せ付けてやるから、勝手
に落胆し絶望すればいい。
勿論これによって紗弓に何か被害が及ぶようなことがあれば一切の
容赦はしない。
怜は紗弓に対しては砂糖菓子に蜂蜜をかけたくらい甘い男だが、相
変わらず﹁その他の女﹂に対しては優しく親切人なベールを被る、
冷ややかで酷薄な男だった。
そんな風に思いながらも紗弓に対しては申し訳なさそうな顔で怜は
お願い、と紗弓を見てみる。
彼女はしばらく悩んでいたようだったが、やがて﹁仕方ないわね﹂
とため息をついた。
﹁そんな顔して人を見ないでよ⋮もう、わかったわ。だけどお酒は
ダメだからね?﹂
﹁勿論ですよ。ありがとうございます。やっぱり優しいですね、紗
弓は﹂
なでなで、と頭を撫でてにっこりと笑う。
結局紗弓はお人よしで優しい。そして怜の﹁お願い﹂に弱い。それ
を知ってるから怜は心の中でごめんね、と謝って紗弓の額に唇を寄
523
せるのだった。
◆◇◆◇
カフェでお茶をした後は定番の散歩コースを歩いて自由の女神を見
たり、ファッションショップを流して見たりする。
﹁⋮たっかー!﹂
﹁まぁデートスポットですからねぇ。男が女性にプレゼントする価
格、としてなら妥当だと思いますが﹂
ディスプレイされている服の価格を見て紗弓が目を剥き、怜が覗き
込んでそんな感想を言う。
﹁だめだわ、こんなトコ見ても全然楽しくない⋮。手が届かないよ
うな服をみても仕方ないわよ。これならあっちの方向に歩いてテレ
ビ局でも見たほうがマシだったかも﹂
﹁ああ⋮。そんな所もありましたねぇ。紗弓はテレビ番組やドラマ
は好きなんですか?﹂
﹁連続ドラマはあんまり見ないわね。2時間ドラマは好きだからよ
く見るけど﹂
﹁2時間⋮いわゆるサスペンス、というものですか?﹂
﹁そうそう!犯人は誰だろうって考えながら見るのが楽しいのよね。
見慣れてくるとだんだん判ってくるのよ、あ、この人が犯人だって。
初登場の時点で予想して当たると嬉しいのよ﹂
そうして紗弓は楽しそうに2時間ドラマについて語り始める。
だいたい情報を掴んでそれを強請ったりする人間は中盤あたりで殺
されるとか、一番事件と関係ない人や、被害者の身内が犯人のセオ
リーね、とか。
許せないのは謎も動機も尻切れトンボのまま無理矢理終わらせるよ
うなサスペンス。
﹁最近サスペンスの質が下がってる気がするのよね。特にシリーズ
ものがだめだわ。中には旅番組と勘違いしてるんじゃないの?って
524
位サスペンスの内容のない話もあるのよ﹂
﹁へぇ、そんなのもあるんですか。僕はドラマとして見るより小説
を読むほうが多かったですからね。推理小説は読まないんですか?﹂
﹁⋮推理小説は、苦手なの﹂
むぅ、と紗弓は顔をしかめる。
曰く、登場人物が多すぎて名前を覚えるのが大変らしい。
﹁冒頭に登場人物のリストが書いてある小説あるじゃない?あれが
あると便利なのよ。何度も見直せるから。だけど無いやつはダメね。
あとはリストがあっても小説内でニックネームとか多用されるとま
たわからなくなるの。名前は本当統一してほしいわ﹂
なるほど、紗弓らしいと怜は笑う。
会話はそんな風に楽しく続き、夕方を待ってから早めの夕食を取っ
て、定番の観覧車に乗り、日も暮れた頃二人はホテルへと移動した。
﹁はぁ∼坦々麺、おいしかった﹂
﹁あれは当たりでしたね。初めて入った店なんですけど﹂
夕飯は中華料理の店で坦々麺を食べたのだ。
ただ辛いだけではなく、辛さの中に練りゴマのまろやかな甘さが後
味に残る。それが妙にクセになってしまう美味しさで、紗弓は舌鼓
を打って汁まで美味しく頂いてしまった。
﹁前、ママと食べにいった坦々麺はねぇ、もう辛いだけだったの。
だけどあそこのは、辛いのに美味しくてびっくりしたわ﹂
﹁確かに辛いだけの所ってありますよね。僕もそういうのに当たっ
たことがあります。あれは坦々麺としてはダメですね。やっぱりて
ろっとした甘いまろやかさがないと﹂
食事行為に全く興味のなかった怜もここ最近は随分と食に興味が出
るようになった。
大学の学食で食事をしていても考えてしまう。
この味は紗弓好みだろうな、とか、これはいまいちだな、とか。
紗弓中心に舌が出来上がっている気がするが、彼女が美味しいと言
525
うものは今のところ全てハズレがない。
だから怜は紗弓の味覚に絶対の信頼を置いているし、彼女好みの舌
を持つことに何の疑問も感じない。
むしろ紗弓の感覚を共通させることを望んでいるのだ。
﹁紗弓は和食はあまり食べないんですか?﹂
﹁そんなことないわよ。夕飯で一番多いのは幕の内弁当だもの。次
点で高菜弁当ね﹂
相変わらず紗弓の家は自炊をしない家らしい。
それだと栄養に偏りはでないのだろうか、と怜は母親のような心配
をする。本来母親である麗華など毎日ビールを晩酌につまみという
夕飯だ。はっきりいって栄養管理は頼りにならないだろう。
そのうち自分が紗弓に食事を作ってあげたいな、と思う。
怜は生い立ちや境遇が特殊だったせいで自分である程度の食事を作
れるようになっていた。
性の対象としてよく見られていたが、後は放置が多かったのだ。
台所だけ借りて自分の食事を作る事など日常茶飯事だった。
あとは、今厄介になっている家や鮮花の祖父が完全に和食中心の為、
舌が和食寄りになっているのもある。
だから紗弓が和食好きになるといいな、と怜は少しだけ思った。
﹁そういえば車の免許をね、取ろうかなって思っているんですよ﹂
﹁へぇ∼?どうして?﹂
﹁色々便利でしょう?身分証明とかね。それに車があったほうが楽
だと思うんです。紗弓の家に遊びにいくのも気軽にできそうですし﹂
中古で軽でもいいから車は持ちたいと思う。
そうすればもっと紗弓に会える時間が増えるだろうから。
夜でも、一時間でもいい。少しでも会える時間を増やしたい。
やがて二人はお台場から離れた所にあるラブホテルに辿りついた。
﹁あー、やっぱりこういう所なんだ﹂
﹁あはは、安いですからね。今日は週末だから早めに行っておかな
526
いとすぐに満室になってしまうんですよ。だからデートも早めに切
り上げる形になってしまってすみません﹂
﹁いいわよ。観覧車も乗れたしね。ただちょっと⋮まだ、妙に抵抗
力があるっていうか⋮恥ずかしいっていうか⋮﹂
もじもじと恥ずかしそうに言いながら、紗弓は怜に手を繋がれてホ
テルに入っていく。
二人はつきあい始めてから何度かこういったラブホテルを休憩で利
用しているのだが、紗弓は今だにこの独特の雰囲気に慣れないらし
い。
﹁今度、浦安に行くことがあれば温泉施設で宿泊するのはありかも
しれませんね。あそこは混浴もあって楽しいらしいですから。値段
もそう高くないようですし﹂
﹁知ってる!縁日みたいな雰囲気の所もあるんでしょ?そういう所
は行ってみたいわ﹂
目を輝かせる紗弓に怜はふふ、と笑って部屋の状況をパネルで確認
する。
思った通り週末はすぐに混む。早めに来て良かったと、残り少ない
部屋の一つを選んで二人は移動した。
カチャンとドアが開いて、怜がドアを開けた後、紗弓が部屋におそ
るおそると入っていく。
﹁⋮どこもこういう雰囲気よねぇ﹂
﹁こういう雰囲気?﹂
﹁何かこう、少女趣味っていうか⋮お城みたいじゃない?普通のホ
テルと全然インテリアが違うし﹂
﹁それは確かに。こっちは目的が明確ですからねぇ⋮﹂
紗弓はどさりと肩掛け鞄をソファに置いて、ぐるりと辺りを見渡し
た。
もの珍しげにあちこちの機材などを弄ったりしている。
﹁そういえば、宿泊は初めてですね﹂
527
﹁ん、あ⋮そうね、確かに﹂
﹁いえ、僕も初めてなんです﹂
ええっ!?と紗弓は驚いたように怜を見上げた。彼は意外ですか?
といったように肩をすくめる。
﹁一応僕、去年まで高校生ですよ?そう宿泊なんて気軽にできる立
場じゃないでしょう﹂
﹁あ、それもそうね!何だか怜は何でもかんでも慣れてるから当然
泊まったこともあるでしょって思ってたわ﹂
あははと笑う紗弓に怜も心外ですと言って笑う。
そもそも泊まりなど必要なかったのだ。
泊り込んでまでセックスにふけこむ程性欲をもてあましていたわけ
でもないし、そんな魅力的な女性とつきあっていた記憶もない。
ただひと時、征服欲と嗜虐心を満たす為に虐めて溜まった不満を吐
き出すだけの行為だった。
それがどうだろう。
紗弓との時間は楽しくて幸せで仕方が無い。何度だって抱きたいと
思うし、飽きる事がない。
たった一人なのに。
たった一人がこんなにも欲しい。
怜はカラオケ機材のマイクを持ち上げたりしている紗弓を後ろから
抱きしめた。
﹁んっ?﹂
﹁さゆみ。はぁ⋮やっと抱きしめられる﹂
﹁むっ⋮むう⋮﹂
照れたようにもじもじと指を動かす紗弓の手を優しく握って、怜は
紗弓を促した。
無言の誘いに応えるように紗弓はそろり、と彼の腕の中で怜を見上
げる。
優しい目をした怜は、そんな紗弓に軽く口付けた後、角度を変えて
深く深く口付けた。
528
﹁ん⋮っう⋮。も、もう⋮する⋮の?﹂
﹁ふふ、したいけど⋮。折角泊まりなんだし、ゆっくりしよう?と
りあえず一緒にお風呂とか入ってみない?﹂
紗弓が少し驚いたような顔をした後、嬉しそうに笑う。
﹁ちょっと恥ずかしいけど⋮うん。実は、大きいお風呂は入ってみ
たかったの﹂
﹁でしょう?じゃあ用意しましょうね﹂
こくこくと紗弓は頷いて早速着替えの準備をする。そんな彼女を優
しく眺めて、怜も自分の用意をし始めた。
529
After eleventh
grade 3
ふわふわもこもことした泡が気持ち良い。
紗弓はふぅっと泡を息で飛ばして遊んでいた。
﹁楽しそうですねぇ﹂
﹁うん。泡風呂なんて初めてだもの。ジャグジーも楽しいし、テレ
ビも見れるし﹂
﹁そうですね。でもお風呂でテレビって需要あるんですかね﹂
﹁⋮⋮⋮どうしても見たいテレビがある時は便利なんじゃない⋮?﹂
言われてみれば確かに風呂でテレビを見る必要はあるだろうか、と
紗弓は泡に埋もれながら悩み出す。
このホテルのお風呂は広くて浴槽もゆったりとした卵型をしている。
紗弓は浴槽のフチに肘を置いて、周りをぐるりと見渡した。
﹁⋮そういえば、色々と気になるものがあるのよね﹂
﹁気になるもの?﹂
﹁うん。あの変なカタチの風呂椅子とか、あれは何なの?﹂
普通の風呂椅子と違ってそれはアルファベットのUを模したような
形をしている。
しかもなぜか色が金色だ。色彩的な趣味も良いとはいえないと思う。
頭をひねっていると、後ろで怜がくすくすと笑って紗弓を後ろから
抱きしめてきた。
﹁知りたいの?﹂
﹁⋮そ、そりゃあ⋮。ハッ!やっぱりいい!﹂
﹁ええ?﹂
耳元で囁くように怜は言ってくる。それで何となく紗弓は察してし
まった。
﹁な、なんか⋮あれでしょ、どうせ⋮﹂
ごにょごにょと呟いて、紗弓は恥ずかしそうに怜を横目で見る。
﹁⋮えっちな事につかうんでしょ﹂
530
﹁うん。そうだよ?﹂
﹁やっぱり!だからいいです。うう、何だかどれもこれもそういう
いやらしい目的に見えてきたわ﹂
ぶんぶんと首を振って紗弓は怜に抱きつかれながらそっぽを向く。
﹁どれもこれもって、例えば?﹂
﹁例えばこのテレビとかっ!あと、そこのお風呂マットとか、シャ
ンプーとか置いてあるボトルとか⋮﹂
﹁ああ、紗弓の観察眼は的確ですね。確かにどれもいやらしい事に
使います﹂
﹁や、やっぱり⋮﹂
がくりと紗弓が肩を落とす。
考えるまでもなくここはラブホテルなのだ。目的が﹁それ﹂だと明
確な以上、﹁それ﹂目的のアイテムが充実して当たり前なのである。
しかし風呂の中にまで充実させなくても!と紗弓は思う。そういう
のはベッドの上でするもので、お風呂でするものではない。
風呂は心と体を休める場所であってほしい。
なのに怜は嬉しそうに笑って、紗弓の抱きしめたままその髪に唇を
寄せた。
﹁折角ですから遊びましょうよ。まずは体を洗いませんか?﹂
﹁遊ぶって何!?洗うのはいいけど。あっ!順番に洗うんだからね
!﹂
怜のことだから紗弓が頭を洗ってる間に後ろから触ってきてもおか
しくない。牽制のつもりでそう言うと、怜は素直に﹁はい﹂と頷い
た。
﹁順番に洗いましょう。その後で遊びましょうね﹂
ね?と念を押されて、うん⋮、と紗弓は押されたように頷いてしま
う。
しかし遊ぶって何だろう。自分は充分泡風呂で遊んだのだが、と思
いながら紗弓は先に風呂から上がり、頭と体を洗い始める。
﹁あ、紗弓。シャンプーとかボディソープはそこのボトルじゃなく
531
て、洗面所から取ってきた使いきりのもの、使ったほうがいいです
よ﹂
﹁ほえ?⋮こっちのほうが質がいいの?﹂
﹁⋮まぁ、質、もいいですけどね﹂
あまり深くは言わない怜に、まぁ質がいいなら使うけど、と紗弓は
大人しく小さな袋を破ってシャンプーをし始める。
そんな彼女を眺めながら怜はふぅ、と軽くため息をついた。
そう、ここはラブホテルなのだ。一応それでも質が良くて人気のあ
るホテルを選んでるから衛生面も大丈夫だと思うが使い捨てのアメ
ニティグッズがあるならそちらを使うほうがいい。
時々客がボトルの中にイロイロ入れていくと聞いたことがあるのだ。
さすがにないと思いたいが、何となく信用もおけないのも事実で、
怜もその辺りは注意している。
何せラブホテルだし、と。
備え付けの避妊具に穴が開いていると似たような話である。
やがて紗弓が洗い終わって怜と交代する。
ごしごしと彼が体を洗っていると浴槽から物珍しそうに紗弓が眺め
てくるので、思わず笑ってしまった。
﹁見てて面白いですか?﹂
﹁ん?うん⋮﹂
じぃっと紗弓は見ている。見蕩れるとはまた違って、観察するよう
な目だ。
風呂の中でも紗弓は眼鏡をかけていて、ガラス越しにその大きくて
子犬のような黒い目が怜を写している。
しばらく紗弓は怜を見て、ぽつりと呟いた。
﹁どこもかしこも硬そうね⋮﹂
﹁はっ?﹂
シャワーで泡を流しながらキョトンと怜が聞くと、紗弓は少し面白
くなさそうな顔をして泡風呂に肩まで体を沈める。
532
﹁やっぱり目潰しかしら⋮﹂
﹁あの、何の話でしょう﹂
﹁⋮怜には弱点とかないの?ここが弱いとか、弁慶の泣き所みたい
な所﹂
どうやら紗弓の観察は、怜の弱点を探していたらしい。
彼女はいつも怜に丸め込まれやり込められているので、いつか彼を
ぎゃふんといわせたいと思っている所があり、常に怜を負かそうと
画策しているのだ。
しかし怜はあえて﹁うーん﹂と悩んでみせる。
﹁そうですね。自分でやったことがないのでわかりませんけど、耳
とか首筋は弱いかもしれませんよ﹂
﹁⋮抓るの?﹂
﹁いえ。舐めたりくすぐったりされたら弱いかも﹂
﹁舐め⋮。いや、くすぐる、くすぐるのはアリね!!﹂
なるほど、と紗弓は湯船の中で拳を握る。
また何か企み始めたな、とおかしそうに怜は笑ってついでに一言加
えておく。
﹁後はこれほど明確な弱点はないですけど、男にとって急所は一番
弱いところですよ?﹂
﹁急所⋮きゅう⋮しょ﹂
自然と紗弓の目線が怜の下腹部に届き、ハッとして慌てて顔をそら
す。
﹁そ、そこはだめよ。蹴ったりしたらすごく痛いんでしょ?﹂
﹁それはもう。急所なんですから。ここを苛める時は優しくしてく
ださいね?﹂
にっこりとそう言うと、紗弓は﹁何よそれは﹂と眉を寄せた。
怜は笑いながら話を終えて、紗弓においでおいでと手招きする。
一体何をする気なんだと胡乱な目をしつつ、紗弓はそれでも素直に
風呂から上がって怜の座る場所に寄ってきた。
﹁はい、ここに座って﹂
533
﹁⋮⋮う、うん⋮﹂
怜が指示してきたのは紗弓が首をかしげていた謎の風呂椅子。
恐る恐ると紗弓がそこに座ると、怜は風呂場の端に置いていた自前
のボトルを取って彼女に見せてくる。
﹁そ、それなに?﹂
﹁⋮ふふ、ローションです。テレビのバラエティでも時々使われて
ますね﹂
﹁ああ、芸人さんがツルツルって滑りまくる⋮﹂
﹁そうそう、それです﹂
紗弓の返事に満足そうに彼は頷くと、ボトルのキャップを外し、と
ろりと液体を手に取った。
﹁あっ⋮!ま、まさか﹂
﹁ええ。すごく気持ちいいと思いますよ﹂
﹁や、やだ!なんかすごく嫌な予感が、やぁっ!?﹂
怜も普通の風呂椅子を寄せて座り、慌てて逃げようとする紗弓の後
ろから胸をぐに、と掴む。とろとろになった手は紗弓の胸をぬるぬ
ると濡らし、彼女は﹁やぅっ!﹂と声を上げて肩をすくませる。
﹁は⋮ぁ⋮や⋮これ⋮は、やだ⋮﹂
﹁やだ?嫌なの?どうして?﹂
にゅるにゅると胸を搾るように少し力を入れながら揉み込み、後ろ
から紗弓の耳元に唇を寄せ、甘く囁く。紗弓はその声すら感じるよ
うにびくびくと肩を揺らせて酷く色のあるため息をついた。
﹁んっ⋮だって⋮あっ!き、気持ちよくて⋮だめ﹂
﹁気持ち良いならいいじゃないか﹂
﹁だめなの!へ、変になっちゃうから﹂
しかし怜は紗弓に変になってほしいのだ。いつでも彼は紗弓にいや
らしい声を出させて、はしたなく嬌声を上げてほしいと思っている。
そんな事言って、俺が止めてあげると思ってるの?と笑って、怜は
紗弓の胸を揉み、やがて頂をにゅるりと摘んだ。
﹁あう⋮っ!はぁ⋮﹂
534
﹁ふふ、ぬるぬるで摘めないね﹂
つるつると滑る指で紗弓の頂を弄る。人差し指で擦ってみたり、ば
らばらと指を動かしてくすぐるように弄ってみたり。
そのぬるついた刺激に紗弓はいつもよりも大きく声を上げてはぁは
ぁと息を荒げていく。
﹁胸だけじゃなくて、ほかの所も可愛がってあげないとね﹂
片手は胸を弄り続けつつ、怜はローションのボトルを傾け、紗弓の
肩から腹にかけてとろとろとそれをかけていく。
﹁んっ⋮あつ⋮い﹂
﹁うん。温感ローションだからね﹂
くすくすと笑って、彼は紗弓の体中を片手でまさぐる。
首筋から肩、指の先までするすると手を滑らせ、背中や腹、臍の周
りなどくまなく、ローションを塗りたくるように彼は執拗に彼女の
体を撫で回す。
はぁ⋮と堪らないように息をついて、紗弓はくたりと怜の体に自ら
の体を預けてきた。
力が抜けてきたらしい。
これくらいで満足されては困ると、怜は紗弓の椅子の開いた部分に
手を入れ、下から紗弓の花弁をぬるついた指でつい、と撫でた。
﹁ああっ!﹂
びくんと紗弓の体がはねる。怜はぐっと紗弓の胸を掴みながら体を
押さえ、そのまま指でぬるぬると花弁を弄り続ける。
﹁あっあっ⋮あっ⋮!﹂
﹁この椅子はこういう風に使うためにU字型なんだよ。わかった?﹂
﹁うっ⋮うん!わ、わかった⋮からぁ!﹂
小さく呟くように﹁やめて⋮﹂と懇願してくる紗弓に怜は意地の悪
い笑みを浮かべて、紗弓の小さな花を弄り続ける。
﹁気持ちいいんでしょ?﹂
﹁はぁ⋮う⋮うん⋮っ﹂
﹁いいなぁ、紗弓は⋮すぐ気持ちよくなれて?﹂
535
﹁あ⋮え?どういう⋮意味?⋮あっ!﹂
ぎゅっと紗弓を抱きしめて、怜は彼女のナカに指を差し入れる。
滑りの良い指は難なく受け入れられ、彼はぐるぐると指を回した後、
引っかくようにナカで指の関節を曲げる。
堪らず甘い嬌声を上げる紗弓に、耳元でそっと囁いた。
﹁俺も気持ちよくしてよ﹂
﹁んっんっ⋮!はぁ⋮っ!ど、どうや⋮って﹂
﹁どうやろうかな?折角お風呂だし⋮それっぽいことをしてもらお
うか﹂
紗弓がイキそうなほど指でナカを弄り、しかし頂点には行かさず怜
は指を抜いた。
え⋮?と彼女が戸惑ったように怜を見る。
少し物足りなさそうな表情は随分と色気がある。顔は上気して赤く
なっており、とろんとした黒い目が堪らなく官能的で今すぐにでも
荒々しく突いてしまいたくなるが、その衝動を抑え、怜はバスマッ
トをばさ、と床に落とした。
その上に彼は仰向けに寝そべり、軽く上半身を壁に預ける。
﹁おいで、紗弓﹂
怜は優しく彼女の手を取り、自分の足の上に跨がせた。
⋮一つずつ、ゆっくり、時間をかけて教えてあげる。
愛撫の仕方、奉仕の方法、セックスの体位。教えたいことは沢山あ
る。
だけど一度に教え込むなんてもったいないことはしない。紗弓はこ
れからもずっと一緒にいる大事な恋人だから。
丁寧に教える。怜好みの、彼だけを愛する方法を。二人だけの交わ
りの手管を。
﹁ローションを手に取って﹂
彼の膝辺りに跨って座らされた紗弓は言われた通りにボトルからと
ろりとローションを手に取った。ぬるぬるとした手を持て余してい
る彼女ににっこりと笑いかけて、怜は優しくお願いする。
536
﹁その手で、ここを触って?﹂
﹁ここ⋮っ⋮て⋮そ、そこ?﹂
﹁うん。⋮イヤ?﹂
首をかしげる怜に紗弓は困ったような顔をした。
怜が手で示す所は、その存在を大きく誇示するように立ち上がる怜
の一物。
すでに彼のそれは大きく硬くなっていて、少しグロテクスな見た目
が更に誇張されている。
紗弓と怜がつきあい始めて何度か肌を重ねたが、ずっと彼が主体で
紗弓に愛撫をし、性交をしていた。
だからこうやって彼が紗弓に何かを求めるのは今回が初めてなので
ある。
紗弓はそれを触る行為に少し抵抗があったが、いつも自分は彼に気
持ちよくしてもらっていることを思い出す。
おかしくなってしまうくらい、彼は優しく丁寧に愛撫をする。
だからつい、イヤだとかやめてとか言ってしまうけど、本当はとて
も気持ちよくて紗弓はいつも彼より先にイカされてしまう。
⋮怜が紗弓に触って欲しいと言うところは、彼がいつも触ったり舐
めたりしてくるところと同じようなところなのだ。
愛を貰っているのなら、愛を返したいと思う。
それが対等の立場というものだろう。そう紗弓は心の中で結論付け
て覚悟を決めた。
﹁いや⋮じゃない。わかったわ⋮。い、いくわよっ﹂
ぬるぬるした手をわきわきとさせて気合を入れるように声を上げる
紗弓に、怜はくすくすと笑いながら﹁どうぞ﹂と言ってきた。
そろ、と紗弓が恐る恐るといった感じで彼の一物に触れる。
﹁んっ⋮﹂
ぴく、と怜の肩がゆれた。
﹁あっ⋮い、痛い?﹂
﹁ううん?もっとちゃんと触っていいよ。ちょっとなら力を入れて
537
握ってもいいから﹂
紗弓の頭を撫でながら行為を教える。
彼女は﹁うん⋮﹂と小さく頷いて、やわやわと撫でてみたり、きゅ、
と握ってきたりする。
怜を慈しむような、優しい手つき。少しの怯えもあるのだろう、恐
る恐る触っている感じもする。
⋮堪らない。勿論彼は女性からの手淫、口淫の経験がある。
中年女性のそれはねっとりとしてやたらと自らの手管と技巧に自信
があるような、威圧的な愛撫で逆に萎えそうになった。
同年代の女のそれは二通り。慣れている女の愛撫は一人で盛り上が
ってガツガツとしていて、奉仕行為に抵抗のある女には怜が無理矢
理口に咥えさせ、喉の奥まで激しく突いて苛めたような記憶もある。
しかし紗弓の愛撫は︱︱、そのどれとも違う。彼がそう望んでいる
からだが、たどたどしい手つきに丁寧にいたわるような握り方は酷
くもどかしい。
なのに、何故か満たされる。もっと愛して欲しいと思ってしまう。
﹁そのまま握って、上下に擦るみたいに動かしてみて﹂
﹁⋮こう?﹂
ローションで濡れた手でぬるぬると擦られると、すごくすごく気持
ちが良い。
はやく、はやく、口でしてほしい。舐めて吸ってほしい。だけどそ
れは次のお楽しみに取っておこうと彼は優しい目をして紗弓に指示
をする。
﹁そう、気持ちいいよ⋮上手。こっちの手は⋮ここも触ってみて﹂
紗弓の片手を緩く外して、陰嚢に添えていく。彼女は素直に彼の求
めに応じてそこをふにふにと触った。
﹁ん⋮ココ、やらかい﹂
﹁うん。柔らかい所ちゃんとあるでしょ?優しくね﹂
急所の二つを弄られると堪らなく気持ちが良い。もう少し積極的に
触って欲しいところだが、今回初めて触らせたのだしこの辺りが妥
538
当かな、と怜は思う。
﹁じゃあ紗弓、もう一つだけお願い。ちょっとやってみたかった事
があるんだけどね﹂
﹁⋮む、なに⋮?あ、あんまり変なのは﹂
﹁んー⋮どうかな。こう、ね、紗弓の胸を自分で寄せて、俺のコレ
を挟んで擦ってみて欲しいんだけど﹂
﹁めちゃくちゃ変なことじゃないーっ!﹂
怜の要求に紗弓は顔を真っ赤にしてぺしっと彼の頭をはたいてきた。
やっぱりなぁ、と彼は笑って紗弓の肩を撫でていく。そしてつん、
と胸の頂を指ではじいてきた。
﹁やっん!﹂
﹁紗弓の胸、気持ちよさそうなんだよ。こんなにふにゅふにゅで柔
らかくて﹂
軟く胸を掴み、軽く揉むと紗弓はうう、と肩を揺らせて刺激に耐え
る。
﹁ね。ちょっとだけ。何というかこれは男のロマンなんです﹂
﹁なによそのロマンって。バカじゃないの?﹂
﹁いやー、男は一度は必ず夢見る浪漫だと思うよ?たっぷりした胸
で擦ってもらうのって。貧乳好きは知らないけどね﹂
﹁胸ではさむのがっ!?お、男の人の皆が皆、怜みたいにえろいわ
けないわよっ﹂
信じられない、といった風に声を上げる紗弓にあはは、と怜は笑っ
た。
﹁男は皆えろいよ。そんなことばっかり考えてるイキモノです。だ
からね?お願い。ちょっとだけ、ね?﹂
とどめのように唇にキスをして、優しく抱きしめる。
怜の胸にローションでぬるぬるとした紗弓の胸が当たって、その硬
くなった頂の感触がおかしくなるほど気持ちが良い。
本音を言えばその胸を使って全身くまなく愛撫してほしいくらいだ
けど、さすがにそれを言っては臍を曲げてしまうだろう。
539
彼に抱きしめられながら、紗弓はうう、と唸って面白くなさそうに
怜を見上げた。
﹁私が、怜のお願いに弱いって、知ってて言ってるんでしょ﹂
﹁うん、知ってて言ってる﹂
﹁⋮意地悪﹂
﹁うん、俺は意地悪なんです。でも紗弓がだーい好き﹂
そのまますりすりと紗弓に頬ずりをすると、彼女は﹁だから甘えた
声を出すなぁ!﹂と怒り出した。
﹁もうっ、わかったわよ!でもちょっとだけからね!は、恥ずかし
いんだから﹂
﹁わーい﹂
わーいって言うな!と再び紗弓は怜の頭をぺちぺちと叩いて、改め
て自分の胸を見た後恥ずかしそうにぐに、と両手で寄せた。
そしてマットに正座をして体を屈める。
﹁⋮こ、こう⋮?﹂
﹁そう。根元から挟んで、体を滑らせるみたいに動いてみて﹂
始まれば怜の子供っぽい仕草はぴたりとなくなって、紗弓をリード
するように優しく指導する。
ぬるぬるとした胸で怜のモノを擦れば、じゅぷ、くちゅ、とはした
ない音がした。
その音に紗弓は顔を赤くして、音が出ないようにゆっくりと動いて
しまう。
﹁紗弓、もうちょっと早く。さっきみたいに﹂
﹁うっ⋮だ、だって、音が﹂
﹁うん。音が出るくらい早くして欲しいの。ほらほら﹂
むぅ、と紗弓は眉をしかめつつ、羞恥に赤らめた顔のまま胸でソレ
を擦った。
じゅ、ぐちゅ、くぷ。
自分がそんな音を立てて行為をしているのが恥ずかしくて堪らない
ように紗弓は目をぎゅっと瞑る。
540
その羞恥の顔が、それでも怜の求めに応じて動いている体が怜の目
を悦ばせる。
支配したいという気持ちと嗜虐心が満たされていく。
﹁ああ、気持ちいい。紗弓、すごくいいよ⋮﹂
彼女の頭を優しく撫でると、ちら、と紗弓が目を開けて怜を見た。
﹁⋮ほんと⋮?﹂
﹁うん。すごく気持ちいい。嬉しいよ﹂
そっか、と紗弓は照れくさそうに笑う。その表情はとても艶があっ
て、﹁色香﹂の片鱗が見えた。
⋮とても良い。
これもまた当然の話だが、怜は胸で挟まれた経験も何度かある。彼
を陥落させたい女で胸が大きければ、それをおおいに武器にするの
は当たり前の話だからだ。
しかし実際の所、胸で擦られるのはそこまで良いかといわれると首
をかしげてしまう。
それよりは手でしっかりと握ってされる手淫ほうが気持ちが良いし、
もっと言えば口淫が一番いいと思う。
だからそこまで彼は胸で擦られるのが好きな行為ではなかった。
しかし、紗弓の行為を見て、感じて﹁ああこれは、そういう風に楽
しむものなのか﹂と理解する。
好きな女が自分の為に体全体を使って愛撫するようなその体の動き、
自分の胸で挟み、擦っているという羞恥の顔、奉仕行為の照れ。怜
の褒め言葉に良かったと喜ぶその表情。
自身の感度より、見た目を楽しむ行為なのだ。
確かにこうやって挟んで動いてもらって、更に口でされたらすごく
いいと思ってしまう。
﹁うーん、なるほど⋮﹂
ふむふむ、と思わず感心したように顎を撫でると、はっ!?と紗弓
が顔を上げ、愛撫をやめて起き上がった。
﹁ちょっと!人がしてる間に考え事なんてしないでよ!?﹂
541
﹁ああ、ごめんね?違うんだよ。セックスの世界ってまだまだ奥が
深いなぁってしみじみしちゃって﹂
﹁それが考え事してるっていうの!もうしてあげない!﹂
ぷいっとそっぽを向いて拗ねる紗弓を、ごめんごめんと怜は抱き寄
せた。
﹁いや、嬉しくて。すごく良かったよ、紗弓。ありがとう﹂
﹁う⋮。な、なにが嬉しいのよ﹂
﹁いやぁ、すっかり慣れたつもりだったけど⋮紗弓と一緒だとまだ
まだ俺も楽しめるんだなぁと思って。あー、これから本当に楽しみ
だねぇ﹂
ぎゅう、と抱きしめて背中を撫でる。
そして﹁さてと﹂と、シャワーのコックをひねって、二人でローシ
ョンのぬるつきを流した。
﹁む、肌がしっとりしてるような﹂
﹁ああ⋮。何か美肌効果つきとか書いてありましたけど、それでし
ょうか﹂
﹁⋮⋮あんたはどうして、こういうの詳しいの⋮判ってるけど、な
んか腹立つわ⋮﹂
ぶつぶつと頭からシャワーをかぶる紗弓を怜はふふ、と笑って彼女
の髪についたローションを丁寧に取っていく。
﹁こんなの、ちょっと調べれば色々あるって判りますよ。それより、
紗弓に一杯可愛がってもらいましたからね。ベッドでは僕がお返し
に沢山愛してあげますね﹂
﹁そ、それはその⋮なんかそれは、いつも通りじゃない⋮?﹂
﹁ほぅ、いつも通り。それでは不満ですか?じゃあ全力で頑張りま
すね﹂
﹁そんな事言ってない⋮っ!て、ていうか⋮今までは全力じゃなか
ったの⋮?﹂
恐る恐る聞いてくる紗弓に、怜は極上の笑顔でニッコリする。
﹁本気でヤッたら紗弓が壊れてしまいそうですからね。でも折角望
542
んでくれたんですから、これはもう気合を入れて愛してあげないと﹂
きゅっとコックをしめて、怜はからりと風呂のドアを開けて脱衣所
に入っていく。
紗弓は慌てて彼を追いかけて﹁頼むから手加減して!!﹂と懇願す
るはめになってしまった。
⋮あれで手加減してたなんて。
本気を出されたら本当に頭がどうにかなってしまう。笑って流そう
とする怜に、紗弓は何度もお願いだから!と怜の腕をぐいぐいと引
っ張った。
543
After eleventh
grade 4
脱衣所で体を拭いて紗弓はバスローブを着ようとするが、その前に
怜に抱き上げられてしまう。
﹁ふわっ!?﹂
﹁まだ着なくていいの﹂
くすくすと笑って怜はそのまま紗弓を連れて行き、ベッドにばふっ
と落として自分も彼女に覆いかぶさる。
そしてすかさず唇を重ねた。
﹁愛してあげるって⋮言っただろ?﹂
﹁んっ⋮い、言ったけど﹂
﹁さっき紗弓、イキかけてたけど止めちゃったからね。まずは軽く
イッておく?﹂
﹁やっ⋮!い、いいです結構ですっ⋮キャッ!﹂
ぐい、と彼女の太ももを開いて、怜は紗弓の花弁を舐め始める。
紗弓のそこはすでにじんわりと濡れていて、軽く舐めるだけでとろ
とろと蜜が潤ってくる。
﹁ふふ、やっぱり足りなかったんだねぇ。もうトロトロだよ?﹂
﹁は⋮ぁ⋮う⋮っ﹂
﹁続き、してあげるね﹂
浴室でしたように怜は紗弓のナカに指を差し入れ、くいくいと動か
し、軽く前後に擦る。
同時に彼女の花芯をちろりと舐めれば﹁ああっ!﹂と声を上げて紗
弓の腰がはねた。
﹁ここも、随分大きくなってきたよ?最初はね、本当に小粒サイズ
だったんだけど⋮今は赤くなって丸くて⋮いやらしく露出してて﹂
﹁やぁっ⋮そういう事、言わないで⋮っ﹂
﹁どうして?可愛くなってるのに。こんな風になっちゃったのは、
誰のせいだと思う?﹂
544
花芯を突くように舌で刺激する。指は相変わらずナカで彼の思うま
まに動かされて、紗弓はうう、と困ったような、泣きそうな顔をし
ながらシーツをぐっと掴んで刺激に耐える。
﹁ああっ⋮ん!﹂
﹁ねぇ、誰のせい?﹂
﹁はぁ⋮れ、怜、のせい⋮﹂
紗弓の言葉に彼はくすくすと笑いながら紗弓の花芯をちゅっと音を
立てて吸った。
途端に上がる高い嬌声。
指の動きは早まり、ぐちゃぐちゃと蜜をかき混ぜる音が部屋を覆う。
﹁そうだよ。俺のせい。俺が紗弓のここを可愛がって、育てたんだ。
まだまだ成長段階だけどね?﹂
﹁うっ⋮あ⋮っ!や⋮っ﹂
﹁もっともっと、紗弓をえっちな体にしないとね?﹂
ぐちゅ、ぐちゅ、じゅ。
ナカを掻き出すような卑猥な音と、怜が花芯を舐める音。
音に呼応するように紗弓の頭に熱が上がっていく。彼女の花を攻め
る愛撫が堪らなく気持ちがよくて、壊れそうになる。
﹁ん︱︱!あ!い、いく⋮ぅ⋮っ!﹂
彼に教え込まされた事の一つ。イクときは言葉にすること。
何度か怜に達する事を教えられて、その感覚を何となく覚えた紗弓
は忠実にその言葉の通り、口に出す。途端に頂点が来てぎゅうっと
シーツを握って体を強張らせた。
頭が真っ白になって、急激に熱が頭から飛んでいくように体が弛緩
する。
はぁ⋮と息を吐く紗弓に、怜はふっと笑って、指を抜き、体を上げ
た。
﹁よく言えたね。えらいえらい﹂
よしよしと頭を撫でて、紗弓の額にちゅっとキスをする。
まるでごほうびのような行為に紗弓は﹁むぅ﹂と複雑そうな顔をし
545
た。
﹁どうしたの、ふてくされて﹂
﹁なんか面白くないのっ!はぁ⋮何だか、怜ばっかり余裕綽綽で、
悔しい﹂
ぶつくさとごちる紗弓に、怜は自前の避妊具を用意して準備をしつ
つ、くすくすと笑う。
﹁だってまぁ、俺のほうが経験者だし紗弓は若葉マークつきの初心
者さんだし﹂
﹁それが気に食わないって言ってるのよ。こんなんじゃいつまでた
っても怜に勝てないじゃない⋮。ハッ!そうだわ!自分だって最初
は初心者だったんでしょ?どうやってそういう知識を得たの?﹂
もし二人の関係を勝ち負けで言うなら、怜は紗弓には絶対勝てない
と思っている。
惚れた弱みと言うのだろうか。紗弓が怜に対するものよりもずっと
自分は紗弓に執着し、彼女にせがまれたらノーと言えない位弱いと
いう自信があった。
だがそんな事は口に出さず、怜は﹁うーん?﹂と首をひねってみせ
る。
﹁知識ですか⋮実経験を重ねてというのが大きいですけど、気にな
った事は聞くより自分で調べたほうが早いと思ったので、時々ネッ
トで調べたりはしましたね﹂
﹁ね、ねっと⋮﹂
困ったように紗弓は顔をしかめる。彼女はそういうデジタルな事が
苦手なのである。
﹁ネットはわからないけど、そうね、情報が出回ってるってことは
本屋っていう手も⋮﹂
ブツブツと呟く紗弓に、怜はあははと笑って再び彼女の上に覆いか
ぶさった。
﹁そんなの調べなくてもいいですよ。手取り足取り教えて差し上げ
るつもりなんですから。僕の楽しみを取らないで下さい﹂
546
﹁楽しみって⋮!それを楽しみにしてる事が面白くないって言って
るの⋮っあん!﹂
彼女の口を閉ざすように胸の頂をぎゅっと摘む。
ぺろりと赤い頂を舐めて、怜はニヤリと笑みを浮かべた。
﹁大丈夫だよ。心配しなくてもそのうち紗弓は俺好みのエロい子に
してあげるから﹂
﹁うぁっ⋮あなたその、口調がころころ変わるの⋮っ何なのよ⋮!﹂
﹁んー、意識してないんだけどなぁ。あんまり気にしないでくれる
と嬉しいかも。俺にもよくわかんないからね﹂
二重人格というわけではないのだが、口調のスイッチがポチポチと
変わるような感じだろうか。
長い年月をかけて作り上げた部分はすでに怜の一部になっていて消
すことができない。
彼はちゅ、ちゅと音を立てて紗弓の胸元に赤いしるしをつけた後、
正常位で紗弓の花弁に自身を宛がい、ナカにぬるりと埋めていく。
﹁ん⋮よく濡れてる⋮。ほんと、紗弓は締りがいいねぇ﹂
﹁はぁ⋮は⋮ぁ⋮。自分ではわかんな⋮あ⋮う⋮っ﹂
﹁たまには自分でヤッてみたらいいのに﹂
﹁するわけないでしょ!んあ⋮っ﹂
噛み付く紗弓に、ねじるように自身を奥まで突き刺す。
たまらず彼女は眉を寄せ、耐えるようにぎゅっと目を瞑った。
﹁可愛いなぁ⋮。正直な体だね?﹂
﹁んっ⋮んぅ⋮っ﹂
ちゅ、と紗弓の唇にキスを落とす。そのまま舌を差し込んでくちゅ
くちゅと音をさせて舌を絡ませた。
﹁ほんと、可愛い⋮。うっとりした顔しちゃって﹂
とろけるような笑みでそう呟き、再び怜は紗弓の口腔を舐め回す。
唇を重ねたまま、怜はゆるやかに挿抽を始めた。
ゆっくり、ゆっくり、味わうように。
﹁ん⋮はぁ⋮怜、くるし⋮﹂
547
﹁ああ、唇ふさいだままだったね。ん⋮気持ちいい?紗弓﹂
﹁う⋮ん⋮。はぁ⋮﹂
こくこくと頷く彼女にくすりと笑う。
怜の労わるような丁寧な挿抽は続く。まるで紗弓が怜の自身を触っ
ていた時みたいに優しく軟く、︱︱焦らすように。
最初こそ気持ちがよさそうに、その感覚に身を任せて息を吐いてい
た紗弓だが、段々と、もどかしいような、戸惑ったような顔をし始
める。
﹁ん⋮﹂
無意識に腰を揺らして、紗弓は身を軽くよじる。
彼はそんな彼女の表情の変化や腰の動きを見て意地悪そうに目を細
める。しかし口調は優しく﹁どうしたの?﹂と聞いてみる。
﹁な、んか⋮﹂
﹁うん、何?﹂
ちゅ、と優しくキスをして、ゆるくゆるく、しかし止めもせず怜は
腰を動かす。
紗弓はますます困ったような顔をしてぎゅっと怜の首を抱きしめて
きた。
﹁んっ⋮﹂
﹁気持ちよくないの?﹂
﹁そんなこと、ないけど⋮﹂
優しい挿抽にとうとう紗弓は焦れて、自分の腰を動かしてしまった。
途端に怜の自身は深い所まで入ってきて、紗弓は﹁あんっ﹂と色の
ついた声を上げる。
﹁ん、ん⋮﹂
﹁紗弓、紗弓﹂
﹁⋮?⋮あ⋮っ﹂
意地悪そうなニヤニヤとした笑みを浮かべる怜に、紗弓は自分のし
ている事に気がついてかぁっと顔を赤らめる。
﹁どうして止めるの?もっと動いてよ﹂
548
﹁や、あの⋮今、のは⋮﹂
﹁紗弓自身が気持ちいいトコ、俺のモノで擦ってたんでしょ?もっ
としていいよ?﹂
﹁いや⋮っ違うの、わ、私ね﹂
慌てて弁解しようとする紗弓の腰を持ち上げ、怜はベッドに仰向け
になる。
彼の上に乗るような体位に変えられて、紗弓は戸惑ったように彼を
見た。
﹁こっちのほうが紗弓、動きやすいと思うよ。ほら、好きなように
動いたらいい﹂
﹁ん、うごくって⋮言っても⋮っ﹂
﹁さっきみたいに、自分が欲しいと思うトコ、俺のモノで擦ればい
いんだよ﹂
そしてまた優しく下から腰を動かし、紗弓のナカをゆるやかに刺激
する。
﹁は⋮ぁ⋮﹂
焦らされる感覚に、紗弓はぶんぶんと首を振って﹁うう⋮﹂と困っ
たような声を上げながらゆっくりと腰を動かし始めた。
最初は戸惑うようにゆっくりと、計るように。
しかし自分が気持ちの良い所を見つけたのか、根元を擦るように腰
を前後に動かして声を上げた。
﹁あっあ⋮ん﹂
怜は何も言わない。じっくりと視姦するように気持ちよさそうな表
情で腰を動かす彼女を見続ける。
彼がなにか言葉を発すれば、紗弓は我に返って行為をやめるだろう。
そんな無粋な真似はしない。自身の快楽に夢中になる紗弓なんて滅
多に見られるものではないからだ。
﹁ん⋮っ⋮あ⋮﹂
はぁはぁ、と紗弓の息が上がる。まるで自慰をしているみたいに紗
弓は目を瞑って一人腰を動かした。
549
根元を擦るような腰の動き。性感帯以外で紗弓的にイイ所はそこな
のかな?と彼は密かにほくそ笑む。
﹁あっ⋮あ⋮あ⋮っ!やぅっ⋮!﹂
ぴくん、と紗弓の肩が揺れる。軽くイッたらしい。
余計な技巧一つもない、ただ自分が気持ちの良い所を一生懸命に擦
るだけの、ある意味幼稚とも言える紗弓の行為。
それが酷く可愛らしく、愛らしい。すごくいけないことをさせてい
る気分になる。
はぁ、はぁ、と息を荒げてふと紗弓は薄く目を開け、ハッとした顔
をした。
みるみると顔が羞恥に染まる。ああ、気づいちゃった、と怜は悪戯
に成功した子供のような笑みを浮かべた。
﹁気持ちよかった?﹂
﹁うっ⋮﹂
﹁一人で盛り上がってたね。そんなに俺のモノは悦かった?﹂
﹁やだ、そういう事、言わないで⋮っ﹂
はうはう、と慌てたように首を振る紗弓の腰をぐっと掴んで怜はく
るんと体位を変え、再び正常位に戻す。
再び紗弓に覆いかぶさり、耳元で意地悪な声で囁いた。
﹁あんなによがっておいて、ヤダはないだろ﹂
紗弓の耳をちろりと舐めて耳朶を甘く噛み、ぐりぐりと根元を擦る
ように動かした。
﹁あっ⋮ん!﹂
﹁ここがいいんだったね。一生懸命ここを擦ってたな﹂
﹁やだ、やだぁ!意地悪っ!﹂
ぽかぽかと怜の胸を叩く紗弓の両手をぐっと掴んで、シーツに縫い
付けるように手で押さえる。
﹁意地悪だよ?でもそんな俺が好きなんだよね、紗弓は。それとも
⋮嫌い?﹂
測るように聞けば、紗弓は困ったような顔をしてうう、と眉をハの
550
字にした。
﹁そんな言い方、ずるい⋮﹂
﹁だって意地悪なのも俺なんだもん。ねぇ、聞かせて。俺のこと⋮
好き?﹂
手首を押さえたまま、怜は紗弓の目をまっすぐに見て聞いてくる。
顔を真っ赤にした彼女は泣きそうな顔をした後、キッとした目で彼
を睨みつけてきた。
﹁すき⋮よ。何度も、いわせないで⋮﹂
﹁良かった!俺も好き。何度だって毎日でも言わせたい。⋮紗弓、
いっぱいあげるね﹂
ゆるやかな挿抽から一転して激しく、突き刺すように怜は腰を動か
す。乱暴とも思える位荒々しい行為に、二人の繋がった肌が激しく
当たってぱんぱんと音を立てた。
﹁あっあっ⋮あぁーっんっ!﹂
﹁はっ⋮は⋮。ホントは⋮欲しいって言わせようと思ったけど⋮っ
!紗弓があまりに気持ちよさそうに動くものだから⋮次は言わせる
からな?﹂
﹁な、なにそれ⋮やぁんっ!﹂
怜は紗弓の片足を上げて肩に乗せ、自身の体をひねり、より深く差
し込むように挿抽行為を続ける。
﹁は⋮っ!はぁ⋮っ﹂
﹁あぁっ⋮ん!なんか、当たって⋮っ⋮んっ!﹂
深く突き刺せば、紗弓の最奥に自身が当たる。そこを押し込むよう
に怜は激しく突いた。
汗が出る。息がどんどん荒くなる。まるでケモノになったみたいに
怜は腰を突き動かし、自らの快楽を追いつめる。
﹁⋮ッ!い⋮くっ⋮!﹂
ぐっと紗弓の肩を強く掴んで、体を揺らす。
気が遠くなるほど気持ちが良くて、搾り取られるように愛欲が溢れ
出る。
551
﹁っはぁ⋮⋮。ほんと、これはヤバイな⋮﹂
﹁はぁ、はぁ⋮。な、に⋮が⋮?﹂
﹁クセになるくらい気持ちよくて、幸せすぎて、意識が飛びそうに
なる﹂
荒げる息を整えながら怜はそう言ってふふ、と笑う。
なによそれは⋮、と困ったような顔をする紗弓に軽く唇を重ねて、
怜は彼女の体を抱きしめた。
暖かい体。
紗弓も応えるように怜の背中に手を添える。
彼女は小柄で彼のように全て抱きしめることはできないけれど、精
一杯腕を伸ばしてぎゅっとしてくる仕草に彼女なりの愛情を感じて
怜は優しく目を細めた。
﹁でも、紗弓も⋮幸せでしょ?﹂
﹁⋮⋮。ん⋮うん﹂
顔を赤らめながらも、小さく頷く。
くすくすと交わされる、情事後の睦言。
こんなのも怜にとっては初めてだ。紗弓に出会うまではこんな甘や
かな時間なんて一つもなかった。
性行為が終われば﹁お疲れ様でした﹂とばかりにさっさとシャワー
をして、服を着てチェックアウトする。
三大欲求の一つと呼ばれる性欲を満たす運動のようなもの、と思っ
ていた。
なのに相手が愛する人だというだけでこんなにも明確に違う。
肌を重ねた後の余韻が幸せだ。
今だ紗弓のナカで脈打つ自身を抜くのが勿体無い程。
しかしかといって挿れたままというのも可哀想なので怜は仕方なく
自身を抜く。
この、抜いた時の感覚が紗弓はまだ慣れないらしく﹁ん⋮っ﹂と体
をぴくりとさせた。
それだけで︱︱。
552
再び彼女を快楽の海に溺れさせたくなる。
きっと、もう一回、もう一回、と言っては何度でもできるだろう。
一度抜かずに何回かしてみたい。
彼女のナカを自分の欲の色で一杯にしたい。怜から出たとろとろと
白い液体。それが彼女の膣から流れる様を想像するだけでイキそう
になってしまう。
怜は今まで一度として性交に避妊具を欠かすことはなかった。
出来ることならば女性にもピル剤を服用していることが望ましいと
思っていた程。
彼は多数の女性と関係を作っておきながら、妊娠というリスクをで
きるだけ確実に回避したいと思っていた。
それはやはり、怜自身の父親に原因がある。
あちこちの女を孕ましていた男。
身内でも2名の女が宿していたのだ。他人の女も何人か孕まされて
いたのだろうと容易に想像がつく。
そんな男の血を継いでいるから、怜は自分が女を孕ませるという事
を何より恐れていた。
今日は安全日だから大丈夫。ナマでして欲しい。そんな風にお願い
してくる女は数多くいたが、彼は断固として避妊具は欠かさなかっ
た。
女に対して不信を抱いていた彼は、本人の﹁安全日宣言﹂ほどうさ
んくさい言葉はないと思っていた。
なのに数多の女は抱く。矛盾した行為。自分でも自覚していた。
幸い事故もなくこうして紗弓に出会い、彼女と結ばれたのは本当に
幸運だったのだろう。
だが、紗弓となら︱︱。
彼女とは、したい。リスクを負ってもいいと思う。
膜ごしでも狂ってしまいそうなくらい気持ちが良いのだ。ナマでし
553
たら想像がつかない。
それこそまた、挿れただけでイッてしまうかな?と笑ってしまう。
しかし彼女がもし、宿してしまったら。
自然と怜は責任を取れると思った。もともと彼女とは結婚まで考え
ているのだ。順番が多少入れ替わった所で結果は変わらない。
それくらい怜は紗弓を欲している。
﹁紗弓。これからちょっと教えていただきたいことがあるんですけ
ど﹂
﹁また敬語に⋮いやもういいんだけど。⋮なに?﹂
首を傾げながら聞いてくる紗弓に、怜は外した避妊具の口を結びな
がらにっこりと彼女に笑いかけた。
﹁毎月、生理が始まった日と終わった日、教えてください。計算し
ますから﹂
﹁⋮⋮な、な⋮﹂
みるみると顔を真っ赤にした紗弓がわなわなと体を震わせる。
そして思い切り怜の背中に向かって枕を投げつけた。
﹁なんでそんな恥ずかしい事を逐一報告しなきゃいけないのよばか
ー!!!﹂
そのままべちべちと背中を叩いてくる。
全く痛がる様子もなくそれを受けながら、どう説明したらいいもの
かなーと怜は顎を撫でた。
554
After eleventh
﹁ふわぁ⋮﹂
grade 5
紗弓は一人、大学の校門前で大きな建物を見上げる。
そこは怜の通う大学だ。ここで合ってたよね?と紗弓は道順を控え
ていたメモ用紙を見直す。
今日は彼に呼ばれてここに来たのだ。
6月にしたデートから日々は少し過ぎて今は7月。紗弓の高校は夏
休みに入っていた。
勿論大学も夏休みなのだが、怜は今日、どうしても大学で参加しな
ければならない集中講義があるらしい。
﹁学生も大変なのねぇ﹂
部外者は入っていいのかな?と困った顔で校門をうろうろしている
と、キャンパスから長身の男、怜が走ってきた。
﹁紗弓!すみません、ここまで来て頂いて。迷わなかったですか?
大丈夫でしたか?﹂
﹁迷ってたらここに来れてないわよ。駅からちょっと歩いたけど線
路沿いだったし、判りやすかったわ﹂
良かった、と怜が笑ってそっと紗弓の手を繋ぐ。
戸惑った顔をしていると、彼は彼女を連れて大学構内へ歩き出した。
﹁もうすぐ講義が始まるんです。2時間ほどで終わりますから構内
カフェで待っててもらえませんか?﹂
﹁ああ、これから始まるのね。わかったわ﹂
こくりと頷くと怜は安心したように笑みを浮かべ、暇つぶし用の雑
誌なども置いてありますから、と付け加える。
紗弓はそのまま怜に連れられて、キャンパス構内にあるカフェに移
動し入り口まで行くと、彼はポケットからチケットのようなものを
1枚取り出して紗弓に渡した。
﹁これを店内で提示してくれれば利用できますから。それでは申し
555
訳ないですけど、しばらくの間ここで待っててくださいね﹂
﹁ええ。お勉強頑張ってね﹂
そう言うと、怜は嬉しそうな顔をして﹁はい﹂と頷き、軽く額にキ
スをする。
思わず紗弓は驚いて怒ろうとするが、怜は一歩早くそれではと手を
振って足早に去っていった。
﹁⋮もう!いつもやる事が突拍子ないんだっつぅの⋮﹂
相変わらず紗弓はいつも怜のペースに押されている。
どうにかしてヤツを負かすことはできないものか、と思いながら紗
弓はカフェへと入っていく。
チケットを見れば怜の名前と学生番号が書いてあって、成程、在籍
学生の紹介が必要なのねと納得して店の人にチケットを渡してから
アイスカフェラテを注文した。
注文した品を手に持ち、適当なファッション雑誌を2、3冊選んで
からテーブルに着く。
一口ラテを飲んでいると、ふいに視線を感じて紗弓は顔を上げた。
きょろきょろと辺りを見てみると、幾人かの学生と思われる女性が
紗弓を観察するように見ている。
︵?何よ。部外者が珍しいのかしら︶
しかしこの感覚は非常に覚えがある。
好奇、興味、関心、羨望、悪意。
色とりどりの目。人の感情に疎い紗弓が判ってしまうほど慣れてし
まったその視線。
紗弓はやっと怜の真意に気がついた。
というか、どうして思いつかなかったのだと思わず自分の頭を小突
いてしまう。
あんなに高校時代に人気があって、道を歩けば携帯で写真を撮られ
る程の美貌を持つ男なのに。
大学でモテないわけがないのだ。
怜が入学してすでに半年近くたっていて、彼が女性から声をかけら
556
れていないわけがない。
そんな彼が自ら手を取って構内に連れてきた女の子。
誰でも判るだろう。﹁この子が佐久間怜の恋人なのだ﹂と。
だから遠巻きに見られているのだ。羨望と興味、一部からは一方的
な嫉妬を込めて。
はぁ、と紗弓はため息をつく。
これは回し蹴りとグーパンチのフルコースに加え、最近彼を負かす
為に密かに練習した必殺技を繰り出さねば。
そんな風に決意しながら紗弓は2時間ほどの間、殆ど動物園で展示
されている珍獣にでもなったような気分でひたすら雑誌を読み、ち
びちびとカフェラテを口にした。
暫くして16時半のチャイムが鳴った頃、怜はにこやかな笑顔で紗
弓が待つカフェへ戻ってきた。
﹁あ、紗弓。お待たせしました。これから駅に向かって︱︱﹂
﹁でやぁーっ!!このバカ怜ーっ!﹂
彼が近づくなり、紗弓はガタンと立ち上がって怜に向かって回し蹴
りを繰り出す。
足は見事に彼の腹へヒットして、そのまま彼女は怜の胸に向かって
正拳突きをする。勿論怜仕込みの技である。
しかし全く効いた様子がない。ならばと紗弓は怜の両脇に腕を差込
み、ぎゅっと抱きしめた。
﹁ふっ!﹂
全身の力を込めて怜の腰を締め上げる。そして足を踏ん張って、ぐ
っと怜の体を持ち上げようとする。
だが彼がそれで持ち上がるわけもなく、紗弓はふぬぬ!と顔を歪ま
せてふるふると足を震わせた。
﹁⋮なんでしょう、すごく嬉しいんですけど。紗弓がこんな情熱的
に抱きついてくれるなんて﹂
心底幸せそうな顔をして、怜はぎゅっと紗弓を抱きしめ返してくる。
557
しかし紗弓は別に彼と抱擁をするためにしているのではない。抱き
ついているのではなくて、締め上げているつもりなのだ。
﹁ちがっ!違うわよ!これはベアハッグフロントスープレックスと
いう技で、くぅっ⋮アンタ体重いくつなのよ!重すぎ!!﹂
響ちゃんなら持ち上げることができたのに!と紗弓は悔しげな顔を
して怜から体を剥がす。
響子は怜対策につきあって時々紗弓からプロレス技を食らわされて
いるのだ。といっても最後まで決めることはないから傍から見れば
ただ女の子同士でいちゃついているように見える。因みに鮮花にと
ってその情景は至高の目の保養らしい。
﹁ダメだわ⋮もう一回考え直さないと⋮。投げ技は無理ね。やっぱ
り絞め技かしら、膝十字固めとかストレッチプラムとか⋮﹂
﹁随分とプロレス技に詳しいんですね。好きなんですか?﹂
﹁怜を負かす為に勉強してるのよ!﹂
﹁なるほど。では存分に勉強なさって下さい。できれば次はアナコ
ンダバイスかM字固めをお願いします﹂
因みにアナコンダバイスは首を腕で絡めて胸に押し付けるように絞
める技で、M字固めは相手を仰向けに寝かせた挙句、その上にM字
開脚して座るショープロレスの技だ。
そこまで技名に詳しいわけではない紗弓は首をかしげたが、やがて
﹁なんであんたのリクエストに応えなきゃいけないのよ!﹂とベシ
ッとはたく。
﹁それよりも怜、私に謝ることがあるでしょう?しらを切っても無
駄よ。この2時間私はさながら多摩川にいたアザラシのような気持
ちだったんだから!﹂
﹁ああ、たまちゃん。可愛かったですね。紗弓も可愛いから言い得
て妙というやつですね。うまいうまい﹂
﹁うまいこと言ったわけじゃないわよ!もうっ!また私をダシにし
て女の人の誘いを減らそうとか、牽制しようとか、そういう魂胆だ
ったんでしょう?﹂
558
﹁う⋮バレてしまいましたね﹂
少し困ったような顔をして怜は頭を掻く。
図星か、と紗弓が腰に手を当ててキッと怜を睨むと、彼は長身の体
を屈めて申し訳なさそうな顔をした。
﹁すみません。ただでさえ今夜はサークルの飲み会に連れて行くの
に、更に大学内までお願いしたら怒られるかなって思ってしまって﹂
﹁そりゃ怒るわよ!でもどっちにしても怒っちゃうんだから、それ
ならちゃんと言われたほうがいいに決まってるわ﹂
﹁はい、ごめんなさい﹂
ぺこりと怜は頭を下げて謝ってくる。
彼はいつも謝る時は潔い。しかしいつもデリカシーや気遣いがない
と思ってしまうほど彼はハキハキと物を言うのに、今回は紗弓が気
づいて怒るまで何も言わなかった。
もしかして、と思う。
﹁貴方⋮私に怒られるの、嫌だったの?﹂
え?と怜が顔を上げてキョトンと紗弓を見る。彼女は少し目線をそ
らして決まり悪げにそっぽを向いた。
﹁私、すぐ怒るから⋮。嫌になったのかなって思って⋮﹂
﹁紗弓⋮﹂
怜が近づいて、優しく髪を撫でてくる。そして﹁違いますよ﹂と囁
いた。
﹁紗弓の怒り顔は好きですから。⋮今回のはその⋮僕があちこちで
女性から声をかけられているっていう事に対して紗弓が呆れないか
な、って思って⋮つい。本当にすみませんでした﹂
そういう事か、と紗弓は納得する。
確かに呆れるくらい怜は女性に人気があるから、紗弓もついげんな
りしてしまう。
高校以外でも、デートでも、海水浴場でも、彼にはどこでも女性が
ついてきて、何度かトラブルにも巻き込まれている。
それを怜は気にしていたのだ。迷惑をかけないと言っておきながら
559
も、どこかで紗弓に負担をかけている事を。
本当に申し訳なさそうな顔をして紗弓を見下ろす怜に、紗弓はくす
っと笑ってしょうがないわね、といった風に肩をすくめた。
﹁全く。今に始まったことじゃないでしょ。まぁ私がすぐ怒ってし
まうのも悪いけど、でも、怜はどんなに女の人から誘われても絶対
に浮気なんてしないって信じてるんだから。だからそんな顔しない
の﹂
ね?とニッコリ彼女が笑うと、怜は熱に浮かされたような顔をして
ぼうっと紗弓を見下ろした。
﹁さゆみ⋮﹂
うっとりと怜は紗弓に手を伸ばす。ハッとして紗弓が逃げようとす
るが、一歩早く怜が紗弓の腕を掴み、腰に手を回してぎゅっと抱き
しめてきた。
﹁紗弓ーっ!なんて心が広いんだ!当たり前ですよ、当然ですよ。
僕には紗弓しかいない。紗弓しかいらない。愛してます、紗弓ー!﹂
﹁ぎゃーっ!ここ大学だから!公共の場だから!場所を選びなさっ
⋮こら!首の匂いを嗅がないっ!﹂
長身の男にぎゅうと抱きしめられ、紗弓は見事に身動きが取れない。
唯一自由な所は腕なので、彼女は必死で怜の背中をぽかぽかと叩い
た。
﹁ああ、もっと、もっと叩いて。紗弓に怒られたい⋮っ!もっと叱
って下さい!﹂
﹁あんたは本当にサドなのかマゾなのかどっちなのよー!﹂
何度言ったか判らない台詞を紗弓は叫び、怜を懸命に引き剥がそう
とする。
そんな仲睦まじい恋人達のいちゃいちゃしたやりとりを大学の女学
生はとても複雑そうな顔で眺めていた。
◆◇◆◇
560
﹁そういえばどうして紗弓はそんなに僕を負かしたいんですか?﹂
大学から駅に向かって歩いている所にふと、怜がそんな事を聞いて
きた。
今更それを聞くのか!と紗弓はむすっとした顔をする。
﹁いっつもいっつも、怜に負けてるからよ。私が﹂
﹁それはよく紗弓が言ってますね。でも具体的にどう負けてるのか
なって思ったんです﹂
﹁そ、それは⋮﹂
具体的に言えというのか。紗弓は少し顔を赤くしてそっぽを向く。
﹁れ、怜はいつもやる事がイキナリで、私驚いてばっかりなんだも
ん。それによく口でやり込められたり、うまく乗せられたりしてる
し⋮あとは、その、あれ、とか⋮﹂
﹁あれっていうと、セッ﹂
﹁だから言うなってばっ!判ってるんなら口にしないっ!﹂
くわっと紗弓が怒れば、怜は嬉しそうな顔をして﹁はい﹂と頷く。
紗弓はよく怒った口をきいてしまうので、それが嫌がられていない
というのが判ったのは安心するが、かといって怒られて喜ばれるの
もどうかと思う。
それはさておき、紗弓は言いにくそうにもごもごと口を動かした。
﹁怜は慣れてるし、私は慣れてないの、わかってるけど⋮。いつも
怜のペースなんだもの。意地悪もしてくるし、恥ずかしい事言って
きたりするし⋮﹂
﹁ふむ⋮なるほど﹂
納得したように怜は顎を撫でた。
そしてどうしたものかな、と呟いて紗弓と手を繋いだまま歩く。
﹁つまり、紗弓は僕より優位に立ちたいというわけですね?﹂
﹁優位っていうより⋮ぎゃふんといわせたいっていうか⋮﹂
﹁んー。じゃあ紗弓はよく僕が意地悪だって言いますけど、紗弓も
僕に意地悪がしたいんですか?﹂
﹁あ、そうね!いつもなんか意地悪な事されてるんだもの。私だっ
561
て意地悪して困らせる権利があるはずよ!﹂
ふむ、ふむ、と怜は何度も頷いて考え事をするように黙った。
しばらくそんな風に歩いて、やがて彼は妙案を思いついたように紗
弓へ笑いかけてくる。
﹁じゃあ、今度する時、紗弓が僕を苛めてください﹂
﹁は!?﹂
﹁何でも紗弓の言うことを聞きますよ。それに何をしてもいいです。
それなら存分に紗弓は僕に意地悪な事をして、困らせることができ
るはずでしょう?﹂
﹁そ、それはそうだけど⋮﹂
紗弓は思わず気味が悪そうな顔をして怜を見上げる。
彼はにこやかに笑みを浮かべ、何か問題が?と聞いてきた。
﹁問題は、ないけど⋮。な、なんかたくらんでない?﹂
﹁まさか。僕ばかり紗弓を翻弄してるように思われてるなら、対等
でいないと、と思っただけです。どうか心ゆくまで僕を苛めてくだ
さい﹂
まるでドMのような事を言い出すので、紗弓はますます恐ろしげな
顔をした。
苛めていい。意地悪をして、困らせていい。何でも言うことを聞く
し、何をしてもいい。
確かにそれが本当なら、紗弓は思い切り怜に勝つことができるだろ
う。たとえそれが情事限定だとしても。
しかし、と考える。
﹁⋮で、でも意地悪していいって言われても、具体的にどうしたら
いいのか⋮﹂
﹁そこはまぁ、僕が何か言うわけにはいきませんから。紗弓なりに
考えてくださいね﹂
にっこりとそう答えられた。そこは宿題ということらしい。
何にしても紗弓はいつか怜を負かす気でいるのだ。何だか担がれた
気もするが、ここはおおいに利用させてもらい、彼をぎゃふんと言
562
わせてやろうと考える。
﹁ほ、本当にいいの?意地悪しちゃうわよ。仕返しするわよ?﹂
﹁ええ、遠慮なさらずスパンキングでもディルド責めでもペニバン
責めでも自慰強制でもお好きなように﹂
﹁ちょっちょっとまって!何言ってるかさっぱりわかんないんだけ
ど!﹂
焦る紗弓に、ははは、と怜が笑う。
とりあえず最後に確認しよう、と紗弓がぽそりと怜に聞いてみた。
﹁し、仕返しの仕返し、とか⋮しない?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁なんでそこで黙るのー!?﹂
﹁ふふ、しませんよ。紗弓がちゃんと上手に僕を苛めることができ
るならね。ですが、苛めると豪語するからにはきちんと苛めてくだ
さい。僕がちゃんと参ったって言う位ですよ。それとも、紗弓は僕
に参ったと言わせないまま中途半端に苛めて自己満足するつもりだ
ったのですか?﹂
ニヤリ、と人の悪い笑みを浮かべて怜がそんな風に聞いてくる。
思わず紗弓はムカッとして口をついた。
﹁なによそれ、まるで怜は、私が貴方を負かす事なんてできないっ
て言ってるみたい﹂
﹁それに近いことは思ってますね。だって紗弓は優しいですから?
優しい意地悪なんてされても僕は嬉しいだけでちっとも負けた気に
なれませんよ﹂
むかー!と紗弓の顔が怒り顔に変わる。
そこまでバカにされたように言われたら黙っていられるわけがない。
﹁なによっ!そんな風に余裕吹かして⋮。いいわよ!全力で調べて、
怜に後生ですから止めてください完敗ですって言わせてやるわ!﹂
﹁ふふっ⋮それは楽しみですね。でも⋮もし、僕がそれを言わなか
ったら?紗弓はいつも耐えられなくて僕を詰ったりしますけど、僕
が全部耐えてしまったら?それは僕の勝ちってことですよね?﹂
563
﹁そ、それはそう⋮だけど、そんな事にはならない位考えてくるも
ん!﹂
﹁へぇ∼。そこまで断言するなら僕が勝った時にはどうするつもり
なんですかね?素直に負けを認めますか?﹂
いきなり人の悪い笑みを浮かべ、馬鹿にするような口調で挑発して
くる怜にむかむかとした紗弓は思わず立ち止まって、怜を見上げて
きっぱりと断言した。
﹁絶対負けないんだから、そんなの認めないわよ!もしそんな事に
なったら、私が逆に怜の言うこと何でも聞いてやるわよ!﹂
﹁なるほど。僕が言ったことをそのまま返してくれるわけですね?
何でも言うことを聞いて、何をしてもいい?﹂
﹁ええ。絶対私が勝つんだから。そんな偉そうな口がきけるのも今
のうちなんだからね!﹂
ニタリ、と怜が今まで見たこともない位極悪な笑みを浮かべた。は
っきりいって悪人顔だ。
啖呵を切った紗弓に怜は最終確認をする。
﹁判りました。本当にいいんですね?やっぱりなし、はなしですよ
?﹂
﹁しつこいわね!私は一度決めた約束は絶対踏み倒しはしないわよ。
それよりも、最初は絶対私の言うこと聞くのよ。何をしても文句は
言わないのよ!﹂
いつの間にか怜の﹁苛めていいよ﹂提案が、賭けつきの勝ち負け勝
負に変わっているが、紗弓はその意図された話題のすり替えに気づ
かず、キッと怜を睨み上げるのだった。
564
After eleventh
grade 6
サークルの飲み会は、駅前にある居酒屋チェーン店で行われるらし
い。
﹁怜、いい加減私もしつこいかなって思ってるんだけど⋮その、お
酒⋮は﹂
﹁わかってますよ。ちゃんとサークルのメンバーにも話してありま
す。皆ちゃんと判ってますから。あ、成人の方は勿論いいですよね
?﹂
﹁うん。それはかまわないわ。私もあんまりヤイヤイ言わないよう
にする。年齢確認とか、いちいち聞いたりしないから⋮﹂
初対面であまり口喧しく言うのも印象が悪いだろう。佐久間怜の彼
女として行くなら尚更である。
そういえばこんな風に、ちゃんとした彼女として彼に連れられるの
は初めてだな、と紗弓は思った。
偽りの恋人役を続けていた頃はよくあった気がするが、本当の恋人
になってからは誰かに彼女だと紹介されたりする機会がなかったの
だ。
自然と緊張する。自分は今綺麗だろうか、可愛いだろうか。怜の隣
にいて、おかしくないだろうか。
不安が顔に出たのだろう。怜は優しく紗弓の頭を撫でてニッコリと
笑う。
﹁紗弓はいつも通り、とっても可愛いですよ。こんな居酒屋で一杯
飲んでる暇があればホテルに連れていって思い切り可愛がりたいく
らいです﹂
﹁な、なによそれは!?﹂
﹁だって僕はいつでもどこでも紗弓とキスして、あちこち触りたい
んです。今だって⋮﹂
くすくすと笑いながらそっと怜が紗弓の腰に手を回し、もう片方の
565
手で彼女の首筋を上からつい、となぞる。なぞった指はそのまま下
に向かって移動し、薄着なキャミソールワンピースの胸部分へ行く
と、蕾辺りの所をつん、とつついた。
﹁きゃぁっ!こんな所で何してんのよ!このセクハラ馬鹿!﹂
べしっと怜の頭をはたくと、彼は﹁相変わらず隙だらけですねぇ﹂
と笑って紗弓の手を握り、居酒屋の自動ドアを開けて入っていく。
紗弓も怒りながら彼に繋がれて入っていく。いつの間にか不安の表
情はすっかりなくなっていた。
﹁おー、やっと来たな佐久間。こっちはもう全員揃ってるぞー!と
いうかもう始まってる﹂
﹁少し遅れてくるように、と仰ってましたのでのんびり来ましたが、
良かったですか?﹂
﹁ああ、いいんじゃないかな?とりあえず座れよ。飲みモン何にす
る?﹂
ざわざわとした居酒屋の中で通されたのは座敷タイプの個室部屋だ
った。
怜と紗弓は大柄な男に手招きされて、長座卓の真ん中あたりに座ら
される。
座布団に腰を下ろした怜は大柄な男からメニューを受け取って、紗
弓の肩を寄せて見せてきた。
﹁どれにします?﹂
﹁ん、んっと⋮﹂
メニュー数が多すぎて何がいいのかわからない。紗弓が戸惑った顔
でおたついていると、怜が紗弓の肩に触れていた手で、すっとメニ
ューの場所を指す。
﹁ほら、ノンアルコールカクテルって書いてあるでしょう?最近は
こういった飲み物も豊富に揃えてあるんですよ。お酒みたいな味の
もあるし、ジュースみたいなのもあります﹂
﹁あ、本当ね。んー⋮と、これ、美味しそう。キウイパインとヨー
566
グルト?﹂
﹁ええ、甘くてきっと美味しいですよ。僕はオールフリーを頂きま
す﹂
男がすでに呼んでいたらしい給仕スタッフにノンアルコールのカク
テルとビールテイスト飲料を注文して、確認したスタッフは足早に
去っていく。
紗弓はこういった居酒屋に入るなど初めてなので、自然ときょろき
ょろと辺りを見渡した。
﹁珍しそうですね﹂
くすくすと怜が笑って、紗弓におしぼりを渡してくる。彼女はそれ
を受け取りながらこくりと頷いた。
﹁こういう店初めてなんだもの。メニュー表だけでもこんなに沢山
ページがあるのね﹂
﹁ええ、種類豊富ですよ。紗弓が好きそうな料理も沢山ありますか
ら、後で一緒に食べましょうね﹂
ニコニコと怜がそう言ってくるので、食べるのが好きな紗弓はうん、
と頷いて嬉しそうに笑う。
﹁うわー、本当に自己申告したとおりだなぁ﹂
﹁あの佐久間がデレデレになっとる﹂
何かとても珍しいものを見たような目で男達がまじまじと二人を眺
める。
怜はくすりと笑うと紗弓の頭を優しく撫でて、うっとりと彼女を見
下ろした。
﹁はい、もうめろめろなんです。可愛いでしょう?紗弓って言うん
ですよ﹂
﹁あ、あの⋮真城紗弓、といいます⋮よ、宜しくお願いします﹂
照れつつ紗弓がそう自己紹介してお辞儀をすると、おおーと何故か
拍手をされた。
軽くメンバーを見渡すと、男性達は面白そうに自分達を見ていて、
女性達も半分くらいは興味深げにまじまじと紗弓を見ている。しか
567
し座卓の一角では、あからさまに睨みつけるような目で見ている女
性達もいた。
ああ、またこういう人たちか⋮。と紗弓は少しげんなりする。
それでも女性全員ではなくて一部でよかったと思っていると、やっ
と自分の注文した飲み物がテーブルに置かれた。
﹁はい、それじゃあ2回目だけど、乾杯っ!﹂
大柄な男が豪快に生ビールを掲げ、全員がかんぱーい!と言ってご
くごくと飲み物を口にする。
紗弓もヨーグルトドリンクをこくりと飲んだ。甘酸っぱいキウイと
パインの味が、まろやかなヨーグルトの味と合わさってとても美味
しい。
﹁あ、これ、おいしいわ﹂
﹁本当ですか?良かったですね。食べ物も頼んでしまいましょうか。
先輩方、今日はコースなんですか?﹂
﹁いんや、今日はそれぞれで頼んでるから、好きなもん選んでいい
ぞ﹂
﹁紗弓ちゃん、僕、岩倉って言うんだ。よろしくねー﹂
一人が自己紹介をしてきたのをきっかけに、次々とサークルメンバ
ーが俺が、私は、と自己紹介をしてくる。そんなに一遍に言われて
も覚え切れなくておたおたとしていると怜が﹁ちょっと﹂と止めて
きた。
﹁そんな急に言われても紗弓が困ってしまうでしょう?大丈夫です
よ。僕が教えてあげますからね﹂
﹁う、ごめんね。覚えが悪くて⋮﹂
﹁いいんですよ。というか別に覚えなくていいんですから﹂
ひでえ!と周りがつっこんで、わははと誰ともなく笑い出す。思っ
たよりも和やかで楽しい雰囲気だ。もっと猜疑のある目でじろじろ
と見られる覚悟をしていただけに、少しだけ安心する。
﹁何食べましょう。サラダとか、揚げ物とか⋮色々ありますよ?﹂
﹁ええと⋮﹂
568
気を取り直してメニューを開いた怜に、紗弓もそれを覗き込んでま
じまじと吟味する。
﹁あ、焼き鳥⋮って、美味しそう。あまり食べたことがないわ﹂
﹁そういえば焼き鳥って、確かに居酒屋でも行かないと食べる機会
がないですよね﹂
こくこくと紗弓が頷く。怜は給仕スタッフを呼び、焼き鳥の盛り合
わせとホッケの開き、寄席豆腐を注文した。
﹁ホッケ、食べるの?﹂
﹁はい。美味しいですよ。豆腐も大豆の味が濃くておすすめです﹂
へぇ∼と感心したように相槌を打つ彼女に怜が目を細める。紗弓好
みの味はすでに把握してあるのだ。
そんな二人のやりとりを周りの学生達がとても羨ましそうに見てき
た。
﹁らぶらぶだなー。俺も彼女が欲しい!﹂
﹁あんたのカノジョはカメラさんでしょ﹂
﹁そうそう。このコンパクトなフォルムの割に高性能、しかも多機
能!なんて万能彼女なのだ!⋮ってそんなわけあるかっ!せめてイ
キモノで例えてくれよ!﹂
向かいにいる男女が掛け合い漫才のようなトークを始めて、周りが
どっと笑う。
紗弓も笑って、こくりとジュースを飲んだ。
﹁それにしても紗弓ちゃんって、佐久間とどんな風なやりとりでつ
きあう事になったの?やっぱり佐久間から告白してきたの?﹂
﹁え⋮と、何というか⋮。最終的には私が先に告白した事になるん
でしょうか⋮﹂
紗弓と怜は出会いからして偽の恋人役期間があり、少しだけ他のカ
ップル事情と話が違う。しかし結局先に好きだと言い出したのは自
分だし、と質問に対して紗弓がうーんと悩んでいると、怜がくすく
すと笑ってグラスを煽った。
﹁色々ありましたからね。でもきっと、先に好きだって自覚したの
569
は僕のほうが先ですよ﹂
﹁ええ?そうなの?﹂
﹁はい。僕も大概鈍感ですが、紗弓は絶対僕より鈍感ですからね﹂
は!?と紗弓が目を見開く。こんな場所なのについ、いつもの様に
怜に噛み付いてしまった。
﹁怜のほうが絶対鈍感よ。じゃあなんで好きだって思った時にさっ
さと言わなかったのよっ﹂
﹁僕は繊細だから色々悩んでしまったんですよ。紗弓みたいに思い
立ったら即行動タイプじゃないんです﹂
﹁繊細っ!心臓に毛が生えてそうな位ふてぶてしいくせに!﹂
﹁紗弓は僕を誤解してますね。本当の僕はとてもナイーブな性格を
してるんですよ?﹂
ナイーブ、という言い方を強調して言ってくるので、よくいうわっ
!と紗弓がペシッと怜の肩をはたく。
するとあはは、と周りが笑って女学生が気さくに話しかけてきた。
﹁もう夫婦漫才?面白いねー。それにしても佐久間君がそんなキャ
ラだったなんて、ちょっとビックリしたわ。もっとこうスマートに
つきあってるのかと思ってたのに﹂
﹁あ、それ私も思ってた。めちゃくちゃ余裕って感じでねぇ、もっ
と紳士的な感じかと?意外と年相応な感じなのね。大学にいる時と
キャラが違うし﹂
そうですか?と怜が二人の女学生に笑う。紗弓は軽く首をかしげて、
彼女たちに問いかけた。
﹁大学では違うんですか?怜って﹂
﹁雰囲気が全然違うねー。大学だともっと飄々としてて、悪く言え
ば生意気で他人行儀な感じかな?﹂
﹁手厳しいご意見ですねぇ﹂
まいったという風に頭を掻く怜に女学生達はあははっと笑う。そし
て紗弓を見てニッコリと微笑んだ。
﹁彼女だけに見せる笑顔とか超セオリーだよね。こんなにデレデレ
570
した佐久間君、大学では絶対見れなかっただろうから、今日はお得
だわー﹂
﹁で、でれでれって⋮。怜はいつもこんなんですよ⋮というかお得、
なんですか?﹂
﹁勿論。だって顔も体も良いじゃない。どんな表情をしても目の保
養でしょ?種類が多ければ尚更ね﹂
あっけらかんとそう言って笑いながら生ビールを飲む女学生達。
そうはっきりと観賞用だといわれると紗弓も笑うしかない。なぜな
ら怜の美形さは紗弓も重々判っているからだ。テレビに映っている
俳優やアイドルを見て格好いいなぁ、眺めがいいなぁと思うのと同
じような感覚になるのはとてもよくわかる。
紗弓はこくりと頷いて同意した。
﹁顔、いいですもんね﹂
﹁そうそう。やっぱり何だかんだいって男は顔よねぇ、次にお金﹂
﹁お前それは正直すぎだろ!﹂
﹁でも男にとっても、女は顔でしょ?所詮﹂
間髪入れない女学生のつっこみに、男性はぐっと黙る。図星らしい。
しかし悔しげに口をついてきた。
﹁ち、違う。女は⋮体だっ!﹂
﹁うーわ、やらしい!この変態を見たらだめよ紗弓ちゃん。見たら
妊娠しちゃうわよ﹂
﹁ひでぇ!!じ、じゃあ性格、とか!﹂
﹁慌てて言い繕っても遅いです。きゃー!皆、この男から離れてー
!変態がうつるー!﹂
うつらねーよ!てかハミゴにしないで!?とぎゃあぎゃあ言い合う
学生達にあははっと紗弓も笑ってしまう。怜もくすくすと笑って、
紗弓、と声をかけてきた。
﹁料理がきましたよ。食べませんか?﹂
﹁あれっ!いつの間に。皆の会話がおかしくて見てなかったわ﹂
﹁ふふ、結構楽しい方々でしょう?はい、食べやすいように串から
571
取って差し上げますね﹂
そう言って怜は何本かの串に箸をとって焼き鳥を外してくれる。紗
弓はお礼を言ってから焼き鳥を口にした。
﹁ん、香ばしい。これは塩?﹂
﹁はい。塩味ですね。こっちはタレですから別々に置いておきます
ね﹂
そういって外した焼き鳥を怜も一口食べ﹁美味しいですね﹂と笑っ
た。
﹁そっちはホッケ?﹂
﹁はい。紗弓はあまり開きを食べたことがないのでは?﹂
﹁そうね、お弁当はいつもシャケかサバの焼き魚だし⋮﹂
何せ紗弓の家は料理をしない。⋮というか、できる人間がいない。
なので一般家庭でよく食べられている魚の開きや、一夜干しといっ
たようなよくある食事とは縁遠いのだ。
怜は箸を使って綺麗にほっけの皮を剥がし、中骨をするするとはず
していく。その作業をもの珍しげに紗弓は眺めた。
﹁民宿の時も思ったけど、器用ねえ﹂
﹁食べ慣れているだけですよ。はい、あーん﹂
骨を取り外した白身の部分を箸にとって紗弓に掲げてくる。
さすがに彼女は慌ててぶんぶんと首を振った。
﹁ちょ、ちょっと。ここをどこだと思っているのよ﹂
﹁別にどこでもいいじゃないですか。いつもこうやって食べさせあ
ってるのに。高校でも、デートでも﹂
くすくすと笑ってどうぞ、と白身の乗った箸を近づけてくる。
しかし紗弓は照れてしまってぷいっと怜から視線をそらした。
﹁こ、こんな人の目がある所でそんな真似できるわけないでしょう
が!﹂
﹁もう、本当に照れ屋さんですねぇ。じゃあ骨を取って分けてあげ
ますから、食べてくださいね﹂
そう言って怜は自分のホッケから小皿に少し盛って渡してくる。
572
それは素直に受け取って、うん、と紗弓は頷く。
﹁か、かいがしい⋮佐久間がかいがいしい!すげえ意外だ!尽くす
タイプなのか!﹂
﹁でろでろに甘やかしてる感じだねー﹂
﹁もしかしてこのサークルに入ったのは、紗弓ちゃんを写すためだ
とか言わないだろうな!﹂
次々に言ってくる学生達に怜はにっこりと笑って﹁ばれましたか﹂
と頭を掻いた。
﹁体験で入った時に拝見したポートレートがとてもよかったもので﹂
﹁あれかー!佐久間は写真に対する動機が不純すぎます!﹂
﹁そう言うお前は純粋だとでもいうのか﹂
どうだろ?と聞かれた男は頬を掻く。
﹁ほんとごめんね、変な人たちばっかりで。嫌いにならないでね、
紗弓ちゃん﹂
﹁そんな。すごく楽しいです。こんなに面白い人たちばかりだとは
思ってなかったので﹂
一部の女性達は今だ輪に入ってこようとはしない。
ひそひそと何かを話しながらこちらを伺っているように見えて、紗
弓はそちらが少し気になるものの、基本的には男女問わず気の良い
人たちばかりで良かった、と思った。
大学では本当に見世物みたいに女性達から睨まれたが、ここのサー
クルの人の殆どは佐久間怜を普通に受け入れているらしい。それも
紗弓には嬉しい事だった。
楽しい飲み会は続く。紗弓も年上の人たちの話や大学の話が興味深
く、面白かったので色々と聞いてみたり、逆に高校の話をしたりす
る。
特に3、4年生位になると高校時代の話は懐かしい部類に入るらし
く、楽しそうに紗弓の話を聞いてくれた。
最初に注文したドリンクはすっかり底をついて、紗弓は怜からおす
すめされるノンアルコールカクテルを新たに頼んで飲んでみたり、
573
女学生が勧める料理を食べたりと和やかな時間が過ぎていった。
しかし、のんびりとした飲み会のまま終わるはずはなく、宴もたけ
なわとなったころ、端にいた女学生達が近づいてきて、紗弓の向か
いに座ってくる。
少し酔っている風で、顔が赤い。顔の表情は不満たらたらといった
風で紗弓に話しかけてきた。
﹁紗弓さんだっけ。ちょっといくつか聞いてみたいんだけどいい?﹂
﹁⋮はい、なんでしょうか﹂
戸惑った声で紗弓は聞いてきた女性に返す。何聞かれるのかなぁ、
と少し心の中で覚悟した。
﹁貴女、将来とか決めているの?どういう大学に行きたい、とか﹂
﹁⋮⋮はっ?﹂
てっきり顔が平凡だの胸だけでかいだの地味だの嫌味のオンパレー
ドかと思っていたのに、いきなり将来を聞かれて驚いた。
まだそこまで真面目に考えている事でもなかったので紗弓は困った
様な顔をする。
﹁将来はその、まだ決めてません。ま⋮お母さんが検事官なので憧
れてますけど﹂
﹁お母さん検事なんだ!すごいね∼。司法試験受かってるってこと
でしょ?﹂
﹁あ、そうですね。だから私には検事は無理なので、警察官とかい
いなって思ってたんですけど、警察官も無理そうで、だから何を目
指そうか考え中なんです﹂
すると怜がへぇ、といった風に目を丸くして紗弓に聞いてくる。
﹁そんな風に考えてたんですか。ちなみに警察官が無理なのはどう
してですか?﹂
﹁身長制限が⋮。足りないのよ、背が﹂
紗弓の身長は148である。一般的な女性警察官の必要身長は15
5cmなので、紗弓は試験資格がないという事になる。
574
﹁成程。紗弓は小柄ですからね﹂
﹁小柄小柄って言わないでよ。実はコンプレックスなんだからね?
一時期牛乳いっぱい飲んでみたけど、1mmも増えなくて凹んだ思
い出だってあるんだから﹂
悔しげにそう言うと、怜はあははっと笑って頭を撫でてきた。
他にもニボシといったカルシウムをいっぱい食べてみたり、身長が
伸びる運動というものを見つけてやってみたりと色々試してみたが
どれも玉砕に終わったという苦い過去もある。
紗弓の前に居座った女学生はふーん、と相槌をうってジロジロと紗
弓を見た。
﹁確かに、身長や脳に行くべき栄養が全て胸に行ってる感じはする
わね﹂
ぐさー!と紗弓の胸に矢が刺さる。
それは本当によく言われていた言葉なのだ。冗談、悪意、どちらも
経験がある。
どうして胸が大きいとそれを言われるのだろうか。確かに勉強はあ
まり得意じゃないし身長もないけど、胸の大きさは関係ないといつ
も思う。
紗弓は身長もコンプレックスだが、胸の大きさも同じくらいコンプ
レックスなのだ。言うとみっともないからあまり口にしないが、密
かな悩みの一つなのである。
﹁む、む、胸は、関係ないですっ!﹂
﹁いいじゃない、おっきいんだし。羨ましいなぁ﹂
﹁そんな胸で迫られたらどんな男でも参ってしまいそうよね。得な
体でいいわねー﹂
得だと!?と紗弓の目がくわっと見開く。
この人たちはわからないのだ。胸が大きい人間の苦労というものを。
紗弓は思わず必死になって胸が大きいという事の不便さを訴える。
﹁それは偏見です!胸が大きいなんて一つもいいことなんてありま
せん!肩は慢性的な肩こりだし、仰向けで寝てもうつぶせで寝ても
575
しんどいし、太って見えるし、服は選ばないと下品になるし、すぐ
男子から胸の話でからわかれるし、ブラは可愛くないし、全力で走
ると千切れるんじゃないかって位痛いし!﹂
それになにより、なにより毎日の生活で嫌だと思っていることを紗
弓は叫ぶ。
﹁くしゃみしたら制服ブラウスのボタンがしょっちゅうはじけるし、
時々ブラのホックも壊れるのよ!﹂
﹁そ、その瞬間は見たいー!!﹂
クワッと男どころか、女性までもがグッと拳を握って乗り出してく
る。
﹁な、なんでですかー!﹂
﹁いやだってどのエピソードも羨ましいっていうか、ニヤニヤしち
ゃうっていうか⋮﹂
照れ照れと女学生が頭を掻く。なぜ男性だけでなく女性にまでニヤ
ニヤされなければならないのだと紗弓は憤然としてはぁ、とため息
をついた。
﹁他にもありますよ?不満話。一番辛いのは、こういう苦労話をし
ても誰も共感してくれないことです⋮。羨ましい、とか自慢みたい、
とか言われて⋮。本当に困ってるのに﹂
しゅんとした顔で言うと、怜が優しく背中を撫でてきた。そして労
わるように話しかけてくる。
﹁紗弓、そんなに苦労してたんですね。男の僕にはその苦しみを共
感することができませんが⋮、けれど一つ断言できることがありま
す﹂
至極真面目な顔で怜はじっと紗弓を見た。思わず彼女もそんな彼を
見返してしまう。
﹁僕は紗弓のその豊かな胸が大好きですよ。ふにゃふにゃに柔らか
くて気持ちがいいし、感度は抜群ですし﹂
﹁言うに事欠いてそれ!?このエロセクハラ魔!﹂
真剣に何を言うかと思えばそんな事を言ってくる男に紗弓は顔を真
576
っ赤にして怒り、彼のわき腹にグーパンチを食らわせる。怜は嬉し
そうにそれを受けて、事実なんですけどねぇと笑った。
﹁へー。高校生でもうえっちまでしてるんだ﹂
﹁最近の子は進んでるねー。まぁ、学のない女の子なんてそれくら
いしかやることないよね﹂
またねちりとした事を言われる。
あんたが余計なことを言うからよと紗弓は密かに怜の太ももを抓り
上げたが、彼はとても涼しい顔をしていた。
﹁ちょっと、学がないは言いすぎでしょ?初対面の女の子に言う言
葉じゃないわよ﹂
さすがに見かねたのか、他の女学生が紗弓を睨む女性達を嗜める。
しかし彼女たちもムッとして火がついたのか止まらず、口々に嫌味
を言い出した。
﹁事実でしょ?真面目そうには見えるけど勉強ができそうに見えな
いんだもの。どっちにしても国立目指してるようには見えないし。
実際そうなんでしょ?﹂
﹁いいわよねぇ、頭が悪くても貰ってくれる人がいるんだもん。し
かも相手は顔がよくて、頭もよくて、勝ち組よね、紗弓ちゃん﹂
﹁ねぇ、自分がどんなに佐久間君と釣り合ってないか自覚してる?﹂
うっ、と紗弓が体を引かせる。
別に彼女は怜にふさわしいとか、ふさわしくないとかで悩んだこと
はない。
というか彼女らは佐久間怜を誤解していることも判っている。彼は
彼女たちが思うほど完璧な男ではないのだ。割と子供っぽいことを
言うし、すぐ甘えてくるし、怒りやすい。
しかし︱︱だ。
実際紗弓は国立大学を目指せる頭を持っているかといえば、確実に
持っていない。だからここにいる学生達は当然紗弓よりずっとずっ
と頭のいい人たちなのだ。
目の前にいる嫌味な女性達も勿論それに含まれる。今まで紗弓に怜
577
関係で嫌味を言ってきた女性は皆、紗弓と対等な立場である高校生
か、いかにも遊んでいそうな女、または逆恨みに似た嫉妬を向けて
くる女性だった。
それなら紗弓は毅然とした態度を取って対応できた。はっきりと物
を言うことができた。
だけどこの人たちは自分より明確に優れていて、紗弓にはそれを覆
すことができない。
自分はずっと怜とは対等な立場だと思っていたが、よく考えてみれ
ば頭の出来も、顔の作りも、彼のほうが上なのだ。
だから、釣り合ってる?と聞かれると釣り合ってるわよ!と断言す
ることができない。
思わず俯いてしまった。
もしかしたら、私は⋮怜と釣り合わない人間なのかもしれない。
少しだけそんな風に思ってしまっていると、いきなり怜が座卓下で
紗弓の手をギュッと掴んできた。
驚いたように怜を見上げる。
彼は紗弓を、とても真剣な顔で見つめていた。
﹁⋮離しませんよ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁貴女が釣り合わないといって離れようとしても、僕は絶対に手放
すつもりはありません。紗弓?貴女はもう僕のものなんですよ。そ
んな顔をして、僕から心を遠ざけようとするのは絶対に許さない﹂
﹁あ⋮あの⋮﹂
じ、と見られて紗弓はみるみると顔を赤くしていく。
少し怒った風に見ていた彼はやがてニッコリと笑った。
﹁これはお仕置きコースですね﹂
﹁はっ!?﹂
﹁先ほどした勝負の約束の前に、まずはわからせてあげないといけ
ませんね﹂
578
じりじりと怜が紗弓ににじり寄り、紗弓は自然とじりじりと逃げる。
しかし手はしっかり掴まれており、完全に逃げることはできない。
彼はぐっと手を引いて自分に寄せるとそっと耳元で囁いてきた。
﹁二度と迷わないように、悩む事のないように、僕がどれだけ紗弓
を愛しているか教えて差し上げます﹂
﹁いっ!いいです!遠慮します!わかってます!!﹂
ぶんぶんと首を振ると、へぇ?といった風に怜は軽く紗弓の耳に唇
をつけ、再び聞いてくる。
﹁本当に判ってるんですか?じゃあ答えて。俺は紗弓の何?紗弓の
何になる男?﹂
﹁怜は私の彼氏ですっ!お、お婿さんになる人ですっ!﹂
ふぅ、と耳に息を吹きかけるように言ってくるので紗弓は肩を震わ
せながら、ぎゅっと目を瞑って必死で答えた。
すると怜は納得したように微笑んで顔を上げ、なでなでと彼女の頭
をなでる。
﹁よく言えました。その通りですよ。忘れたら駄目ですからね?﹂
﹁うう⋮はい⋮﹂
顔を真っ赤にしたまま彼に撫でられていると、怜は笑顔のまま酷い
ことを口にした。
﹁まぁお仕置きはしますけどね﹂
﹁なんで!?もういいでしょ!?﹂
目を見開いて訴えるも怜はニコニコと笑うだけで何も返さない。こ
れは本気だ、と紗弓は背中に汗を感じた。
しかし、はぁ∼といったため息が周りで聞こえて、紗弓はハッと辺
りを見渡す。すると嫌味な女学生達以外のサークルメンバー全員が
目を大きくさせて感心したように二人のやりとりを眺めている。
﹁なんていうか⋮すごいな。デレデレを通り越して執着レベルに到
達してるのか﹂
﹁ほんと、これは別れたらストーカーになる可能性大ね。あ、佐久
間君がね﹂
579
﹁別れないですから犯罪者になる事はありませんよ。安心してくだ
さいね、紗弓﹂
ぎゅっと紗弓の手を握って笑う怜に、辺りが﹁断言かよ!﹂と突っ
込んで笑い出す。
ひとしきり笑って、ふと大柄な男がビールを片手に片目を瞑った。
﹁これで納得したか?というかせざるを得ないだろうけど。佐久間
は望み薄ってレベルじゃないよ。望みナシだ。ここまで見せ付けら
れてまだ諦められないか?﹂
くっ、と女性達の顔が歪む。やがて悔しそうに立ち上がると吐き捨
てるように言い放つ。
﹁一体こんな子のどこがいいのよ!そんなにこのガキの体がいいっ
ていうの?胸だけじゃない!﹂
口汚く罵る女に、怜はつい、と目線を上げて笑顔のまま穏やかに返
してくる。
﹁彼女の魅力を語っても、貴女はきっとわかりませんよ。まぁ、胸
が大きいのが魅力の一つであることは否定しませんけどね﹂
すると女性達はキッと怜を睨みつけ、フンと顔をそむけるとさっさ
と靴を履いて帰っていく。
6人ほどの女性がそれで去っていき、大柄な男ははぁ、とため息を
ついた。
﹁帰ったか。さすがにもうサークルにはこねーだろ﹂
﹁ハッ!あの子達、お金払ってないんですけどー!!﹂
﹁なにぃ!?ちゃっかりしてやがるなー!﹂
わいわいと騒ぎ出す学生達に紗弓が戸惑っていると、彼女の前に再
び座った女学生が﹁ごめんねー﹂と謝ってきた。
﹁気分悪くさせてしまったわね。あの子達は佐久間君目当てでサー
クルに入部してきたのよ。もう集まるたびに佐久間佐久間って煩く
て。写真も全く興味を示さないし﹂
﹁はぁ⋮﹂
﹁何度佐久間君に断られてもしつこくてねぇ。しかも彼女がいるっ
580
て発言した途端に見せろって騒ぎ出すし、でも丁度良かったわ。こ
こまで見せ付けられたら諦めるしかないでしょ﹂
﹁そ、そうですか⋮。⋮え?み、皆が見たいって言ってきたんじゃ
ないんですか?﹂
すると﹁え?﹂といった風に女性が首をかしげる。
紗弓も同じように首をかしげた。
﹁違うわよ。見たいってせがんだのはあの子達。あ、勿論私も多分
皆も見たかったけどね?なんせあの佐久間君が携帯の写真を見せて、
あんなに惚気てくるんだもの。どんな彼女なのかなぁって興味はあ
るじゃない?まさかこんなに可愛い子だとは思わなかったけどね∼﹂
あははっと軽く女学生が笑う。
しかしその言葉で紗弓は全てを理解した。
皆が怜に彼女がいることを信じてなかったのではない。あの一部の
女性達が、怜に彼女がいるということを許せなかったのだ。
つまり自分は最初から難癖をつけられるためにここに呼ばれてきた
という事。
﹁⋮れーーいーー﹂
地獄の怨念みたいな声を出して、紗弓はがばっと腕を振り上げ渾身
のフェイスロックをかける。
﹁紗弓ちゃん紗弓ちゃん、絞めてるつもりかもしれないけど、それ
逆効果だよ!﹂
﹁佐久間の後頭部が胸に挟まれてる!なんて羨ましい光景なんだ!﹂
﹁あ、言わないでくださいよ。堪能してましたのに﹂
皆の指摘に紗弓は慌てて体を離す。絞め技も効かないとなると、あ
とは何が残っているのだろうか。
とりあえず怒りの収まらない紗弓はそのまま怜のわき腹をべしべし
と叩いた。
﹁また私をダシにしたわね!なにが皆信じてくれない、よ!ちゃん
と信じてくれてるじゃない!元からあの女性達を牽制するために私
を連れてきたのね!﹂
581
﹁あ、ばれましたか。いやだって本当にしつこくて。他にもしつこ
いのはいますけど彼女たちは郡を抜いてましてね。昼に食堂で待ち
伏せされるわ、講義の合間にも現れるわ、仕舞いにはサークルまで
ついてくるわで⋮ほとほと困り果てていたんです﹂
﹁だからって、大学でも言ったでしょう!?牽制なら牽制って言え
っつぅの!﹂
﹁最初から牽制って言ったら、紗弓は渋るだろうし、彼女たちを妙
に意識して大人しくなられても困るな、って思ったんですよ。いつ
も通りにしてくれないと僕達の仲の良さが見せ付けられないでしょ
う?﹂
ふてぶてしく笑ってそう返してくる男を紗弓はがるる、と唸って彼
を睨んだ。
怜は嬉しそうにそんな紗弓を見返してくる。
なにかこう、本当に彼を負かしたい。怜が顔色を変えるほど困らせ
るには何が効果的なんだろうか。
紗弓は必死で考えて﹁はっ﹂と思いついた。
ビシッと彼に指を指して言ってやる。
﹁じゃあ、あの勝負の話とは別に、とりあえず私の命令を一つ聞き
なさい!そうじゃなきゃ許してあげないんだから﹂
﹁いいですよ?牽制自体は成功も同然ですからね。それくらいは聞
いてあげます﹂
あくまで上から目線の怜に、紗弓は﹁その言葉に二言はないわね﹂
と確かめて、命令を言い放つ。
﹁夏休み、一切、えっちなし!お泊りもなし!﹂
﹁なっ⋮!?ちょ、紗弓!?﹂
﹁何よ。これは命令よ。ぜーったいさせてあげない。私はこの夏休
み、響ちゃんと鮮花さんと過ごすわ。丁度温泉に行こうって話もし
てたし、この際夏休みは一切会わないでもいいわね﹂
﹁そんな!?さすがに会わせてください!と、というか本当に⋮?﹂
うむ、ときっぱり頷くと、怜はみるみると困った顔になった。
582
折角の夏休み。どちらも時間に余裕があって何度かお泊りデートも
できると怜は踏んでいたのだろう。
それが全てお預け。
情けなく落ち込んでも仕方がないのかもしれない。
﹁あ、だからっていって、また適当な女の人とその、したりしたら
⋮ダメだからね!﹂
﹁⋮しませんよ、当たり前でしょう?しかし⋮はぁ⋮そう来るとは
⋮﹂
参ったというように怜は片手で顔を覆い、長いため息をつく。これ
に懲りて、もう紗弓に何も告げずダシに使うようなことはしないだ
ろう。
二人のそんなやりとりをサークルのメンバー達はげらげらと笑いな
がら見ている。
﹁ご愁傷様だねー佐久間君。やりたい盛りなのにねー﹂
﹁佐久間元気だせ!俺達は俺達でド堅実に山で撮影旅行といこう。
丁度いいからお前さんに写真とは何たるかを伝授してやる!﹂
﹁はぁ⋮ありがとうございます。全く⋮覚悟してくださいね⋮﹂
夏休み中がお預けということは9月からは解禁ということだ。足腰
立たなくなるまで気絶するまで突いてやるから覚えてろよと怜は紗
弓を睨んだが、紗弓は怜の困り顔を見た時点で勝利に酔っていて、
彼を見ることなく美味しそうに勝利の美酒ならぬカシスヨーグルト
を飲んでいた。
583
After eleventh
grade 6︵後書き︶
紗弓と怜のデート場は自分の若い頃の思い出とネット情報を駆使し
ています。行った事のない場所はなかなか表現するのが難しくて⋮。
よく小説内で﹁繁華街﹂という表現が出ますけど、そこも私の中で
は﹁四条河原町﹂です。都内なのに都内のはずなのに!
故郷が京都なもので、繁華街といえばそこしか思いつかない田舎者
⋮。
ちなみに怜の大学は東京のお隣さんにある国立大学をモデルにして
います。
584
女子会。咲かせる花は恋の話
近場の温泉地として有名な所といえば箱根や草津、少し足を伸ばし
て鬼怒川があるが、今回3人は彦根温泉を選択した。
﹁海もいいけど、温泉もいいわよねー!﹂
夏休みを利用して3人の女子達、鮮花に紗弓、響子は温泉旅行に繰
り出した。
長期休暇に入る前から生徒会室で集まってはあれこれとプランや旅
行を決める過程はわくわくしてとても楽しかった。
ちなみに毎年夏休みは海の家で働いていた怜達だったが、今年から
はアルバイト自体を変え、それぞれでバイトにいそしんでいるらし
い。怜は短期塾講師とイベントスタッフの掛け持ちで、八雲は配送
業助手の仕事だ。
なので今年は無理矢理バイトに連れて行かれることのなかった自称
金持ちな護は悠々自適に夏休みを満喫している。
新しく入ってきた書記、会計の役員も大分と生徒会の役目に慣れて
きてわいわいと賑やかにやっていた。
八雲と怜が卒業したので目下めぼしい学内男子アイドルといえば護
一統になってしまっているが、今までが特殊だったのかもしれない。
噂によると今年入学してきた1年で一人、密やかに人気を集めてい
る男子がいるらしいが、その本人はとても硬派で表に出てこようと
はしない。
なので今のところ学内の女子人気をほぼ一人で独占している護はウ
ハウハとしているのかと思えば、最近は少し大人しくなっている。
おねえさまがどうの、というのもあまり言わなくなった。
鮮花曰く﹁あれは恋をしている目ね!﹂だそうだが、本人ははぐら
かして笑うだけという状況だ。
どさりと音を立てて3人は予約した旅館の一部屋に荷物を置く。
585
うーん、と紗弓は一つ背伸びをして、早速お茶を淹れ始めた響子の
近くに寄っていった。
﹁こうやって友達だけで旅行するのって、楽しいわね﹂
﹁そうだねぇ。それに今回は女の子だけでのんびりできそうだし⋮
はい、お茶はいったよ?﹂
響子が淹れてくれたお茶をこくりと飲む。香ばしい日本茶の香りが
鼻腔を擽り、ほっこりする。
トイレや洗面所を見ていた鮮花も居間に入ってきて響子の薦めるお
茶に礼を言いつつ座布団に座った。
﹁お手洗い関係はまぁまぁ綺麗ね。楽しみなのは夕飯と温泉だけど、
早速温泉入っちゃう?﹂
﹁そうですね。夕飯前に入りたいかな?﹂
紗弓の言葉にこくこくと響子が頷いて、三人は手早く準備をして露
天風呂へと向かった。
◆◇◆◇
﹁あー、きもちいー﹂
﹁はぁぁぁ∼∼生きかえるぅぅぅ﹂
﹁あ、鮮花さん、ちょっとその言い方は若くないです⋮﹂
露天風呂というのはどうしてこう気持ちが良いのだろうか。体と頭
を軽く洗ってひとまとめに結い上げた紗弓は湯船につかりながらは
ぁ、とため息をついた。
﹁思い出したようにママが温泉行きたい行きたいって騒ぐ理由もわ
かるわね﹂
﹁さゆちゃんのお母さんは忙しいもんね⋮。温泉行きたがる気持ち
もわかるけど、時間がないのかな?﹂
﹁そうね、なかなか纏まった休みがもらえないみたい。呼び出され
る事も多いし﹂
響子とそんな話をしていると、﹁くはぁ∼﹂と親父くさいため息を
586
つきながら温泉を堪能していた鮮花も寄ってきた。
﹁私もさゆちゃんのお母さん、見てみたいなぁ。怜から聞いたけど
すごく明るい方なんですってね﹂
﹁そうですね。何だか鮮花さんとは気が合いそうな気がします。⋮
ノリ、とか⋮﹂
そしてすごく煩くなりそうだ。きゃっきゃ、なんて可愛いものでは
なくぎゃあぎゃあと言われそうである。主に紗弓の事について。
鮮花はふぅんと相槌を打って、突然にやにやとした笑みをし始めた。
何だ、と紗弓が不穏な顔をすると﹁聞いたわよ∼﹂と口に手を当て
る。
﹁夏休み、えっち禁止なんですって?﹂
﹁ぶはぁ!なんでっ⋮なんでー!?﹂
﹁あははっ!勿論聞いたのよ。お盆休みに家系で集まるんだけどね。
その時に怜がすっごく悔しそうな顔をして愚痴ってたの。あんな怜、
初めて見たわ!﹂
彼の表情を思い出したのか、くすくすと笑う鮮花に紗弓は﹁あいつ
は∼!﹂と湯船の中で拳を握る。
隣では顔を真っ赤にした響子がそうなんだ⋮と呟いた。
﹁あ、あの、佐久間先輩はそんなに⋮?﹂
﹁ええ。だって本当の恋人になって最初の夏休みよ?あいつの事だ
からもー、ヤッてヤッて、ヤリまくろうって思ってただろうし、そ
こをねぇ、お預けされちゃったらそりゃあ凹むわよ﹂
あけすけと言う鮮花の言葉に響子が羞恥であわあわとして、そのま
まぷくぷくと湯船に顔の半分が浸かっていく。まだそういう経験が
皆無な彼女には刺激が強すぎる話題らしい。
﹁あいつが悪いんですよ?私に黙って大学でダシに使おうとするん
だから。でも怜のすっごく困った顔を見た時は滅茶苦茶スッキリし
ましたけどね。最初からこうすればよかったんだわ﹂
﹁あらあら、多用したら怜は泣いちゃうわよ?今だってその反動っ
ていうか寂しさを紛らわす為にアルバイトを鬼みたいに入れて毎日
587
毎日バイト漬けなんだから﹂
﹁う⋮わ、わかってますよ。ちゃんとメールとか電話はしてるもん。
⋮時々昼だけ会ってるし﹂
﹁それもまた生殺しされてるみたいで複雑なんです。かといって音
信不通で会わないのも嫌だし、って怜は愚痴ってたわ。まぁもうす
ぐ9月に入って私達は夏休みが終わるし、その時の彼には気をつけ
てね﹂
何だそれは、と紗弓が訝しげな顔をすると鮮花はニヤニヤと嫌な笑
みを浮かべて言った。
﹁ケモノになりそうだから﹂
﹁はっ?けもの?何ですかそれは﹂
﹁うふふ。それはそのうち判るんじゃない?9月に入ったらちゃん
と解禁してあげるんでしょ?﹂
﹁う⋮まぁ、それは⋮はい。というか勝負があるんで⋮﹂
もごもごとそう言うと、顔を真っ赤にしたままで響子が﹁勝負⋮?﹂
と聞いてきた。
紗弓はどう言ったものか、と思いつつも今更隠すのも意味がないの
で、怜と交わした勝負を話す。途端に響子はあわあわとして再び湯
船に顔の半分を浸けて羞恥に目を瞑り、鮮花は心底楽しそうな顔を
してその話を聞いた。
﹁それは興味深い勝負ねぇ。さゆちゃんが攻めにまわるなんて、う
ーん⋮怜は明らかにさゆちゃんの技巧では屈しないって自信満々な
感じね﹂
﹁でも正直私も自信ないです。ムカついて啖呵切っちゃったけど、
怜のほうがずっとずっと経験豊かだし、私は何をしたらいいのかも
よくわからないし⋮﹂
しょんぼりと紗弓は湯船を手でちゃぷちゃぷとさせる。
怜の挑発につい乗ってしまったが、よく考えてみると怜に何をした
ら情事において﹁まいった﹂と言ってくれるのかさっぱりわからな
いのだ。
588
何をしてもいいし何でも言うことを聞く、と言われても何をしたら
いいのか判らなければ対抗策も練られない。
すると鮮花はふふ、と笑って肩に掛かる髪を軽く払った。
﹁確かにちょーっとフェアじゃないわね。さゆちゃんに色々教えて
るでしょうけど、まだつきあって半年でいきなり攻めに回れ、なん
て怜は相変わらず意地悪なヤツだわ。だから私が味方になってあげ
る﹂
﹁えっ⋮ほ、本当、ですか?﹂
﹁ええ本当よ。私が怜をぎゃふんって言わせる技法を教えてあげる。
でもこれはちょっと刺激的なお話だから日を改めてこっそり教えて
あげるわね﹂
くすくすと響子を見て鮮花が意味ありげに笑う。どうしたの?と紗
弓が響子に顔を向けると、彼女は見事にゆでたこ状態になってぷく
ぷくと温泉に埋まっていた。
﹁き、響ちゃーん!のぼせてるー!?﹂
﹁温泉の熱さと話題の恥ずかしさに目を回しちゃったのね、カーワ
イイ!﹂
﹁かーわいい!じゃないですよっ!ごめんね響ちゃん!ちょっと上
がろ?ね?﹂
﹁ふにゃ∼⋮﹂
紗弓は慌てて響子を介抱し、ふらふらになった響子はよろよろと温
泉から上がっていった。
◆◇◆◇
温泉に入ってから部屋に戻るとすでに夕飯の配膳が終わっており、
色とりどりの料理が紗弓達の目を喜ばせた。
﹁わぁ、美味しそう!﹂
﹁メインは和牛よね。楽しみだわ∼﹂
﹁うんうん!早く座りましょうっ﹂
589
3人は座卓に座り、まずはとお茶で乾杯をする。
﹁お疲れ様∼!﹂
﹁って何に?﹂
あはは、と笑ってお茶を飲み、先付や前菜から食べていく。
﹁んっ、この湯葉刺しおいしいです﹂
﹁ごま豆腐も美味しいよ、さゆちゃん。お刺身も﹂
﹁天ぷらもさくさくだわ。野菜中心であっさりしてるのもいいわね﹂
それぞれで舌鼓を打ち、料理を食べていく。しばらくそうやって食
べていると仲居の人が現れて、据え置きされた簡易燃料に火をとも
していき、またお櫃に御飯を入れて置いてくれた。
﹁和牛はしゃぶしゃぶするのね。うふふー美味しそう﹂
﹁このお肉、サシ入ってますよ、サシ!﹂
﹁本当だ。いいお肉なんですね⋮値段は結構リーズナブルだったの
に、この旅館は当たりみたいですね﹂
しゃーぶしゃーぶー、と謎の歌を歌いながら鮮花が肉を出汁にくぐ
らせて食べ、とろとろだわ!と喜び、紗弓達もそれに習って食べて
いく。
美味しいねと、女同士できゃっきゃと盛り上がりながら夕飯の時間
はあっという間に過ぎていった。
﹁うう、ちょっと食べ過ぎちゃった⋮﹂
﹁結構量多かったね。でもデザートのメロンとオレンジのシャーベ
ットはすっごく美味しかった﹂
﹁旅館の最大価値はやっぱり料理だものね。ちゃんと吟味してよか
ったわ∼﹂
夕飯が終わって休憩後、再び3人は温泉に浸かっていた。
あたりはすっかり夜で、夕飯前に入った時はまだ明るかったが今は
すっかり暗く、間接照明から映し出される温泉の情景がとてもロマ
ンティックだと紗弓は思う。
﹁そういえば⋮さ﹂
590
ぽつりと紗弓が呟いて、ん?と鮮花と響子が彼女に向いた。
﹁響ちゃん。光国先輩とはどうなってるの?﹂
ごふっ!と響子が吹いて、ばちゃんと温泉に顔をつける。
﹁あらあら、またのぼせちゃうわよ、響子ちゃん﹂
﹁は、はう∼﹂
﹁あ、ごめんね。聞くタイミングがわからなくて。そこの岩に座ろ
うよ﹂
そう言って3人は丁度腰まで浸かるくらいの平べったい岩に座る。
響子は顔を真っ赤にしてはぁ、と小さくため息をついた。
紗弓はそんな彼女を見ながら気を使うように話しかける。
﹁ほら。春に響ちゃんが言ってたじゃない。光国先輩から告白され
たって﹂
﹁う⋮うん﹂
﹁でもそれから何の音沙汰もないというか、報告とかも聞かないか
らね。こっちから根掘り葉掘り聞くのもなぁと思ってたんだけど、
さすがに半年経つと気になるっていうか⋮﹂
そうよね、と響子は言って、どういったものかと悩むように指をご
にょごにょと組ませる。
﹁メール⋮は毎日するわ。電話は時々⋮。一ヶ月に1回か2回、で、
デートも、誘われて行ってる⋮の﹂
﹁えーっ!デートまでしてたの!?﹂
﹁うう、だって⋮光国先輩、ずるいんだもの⋮﹂
響子は洋楽も好きだが、クラシックや舞台観劇も好きである。さす
がに高校生で行けるものではないのでレンタルDVDやCDを時々
借りて聴いたり見たりしているのだが、どこからその情報を知った
のか八雲が巧みに誘ってくるのだ。
何故か響子が丁度見たいと思っていた新作演劇や、好きな指揮者の
コンサートをピンポイントで押さえて誘ってくる。響子はそこまで
お金を持っているわけではないのでそれを理由に断っていたのだが、
八雲が﹁お金を理由に断るのは男女付き合いにおいてマナーに反す
591
るよ?﹂と窘められ、それ以外だと断る理由もなく、また、本当に
見たいものばかりを言ってくるので響子もつい、頷いてしまうのだ。
響子は本当に八雲はズルイと思っている。
どうしてこんなに自分のことを知っているのだ。知られているのだ
と。八雲のことは殆ど何も知らないに等しいのに。
それを不満げに言ってみたら﹁俺は響子ちゃんが思うほど中身のあ
る男じゃないよ﹂と笑って、中身がないからこれから響子と沢山の
ことを共感して、中身を作りたいんだ、と言う。
中身がないなんて、どうしてそんなに寂しいことを言うのだろう。
どうして響子と一緒にクラシックを聞いたり、観劇していると楽し
そうに笑うのだろう。
時々、電話口で歌って欲しいとねだってくるのだろう。
﹁⋮八雲さんは、ずるい⋮。私の趣味につきあってると、すごく楽
しそうで、嬉しそうな顔をするの⋮。私の感想とか、話をすごく真
剣に聞いてくれるの。⋮そんな風にされたら、私だって⋮嬉しくな
っちゃうし、お誘いもどんどん断れなくなっちゃう。全部、八雲さ
んのペースに乗せられてる、みたいで⋮﹂
﹁はぁ⋮。というか響ちゃん光国先輩のこと、﹁八雲さん﹂って言
うんだ⋮﹂
﹁うっ!!ち、ちがうんだよ!だって八雲さんが、もう先輩じゃな
いからって、言うから⋮っ﹂
なぜだろう、話を聞けば聞くほど微笑ましくて顔が緩んでしまう。
鮮花など隠そうともせずニヤニヤと笑って響子の話を聞いているし、
護がこの場にもし居たら﹁なんであまじょっぱいんだ!﹂と頭を抱
えていそうである。
﹁でもそうね、彼のペースに乗せられて面白くないっていうのはわ
かるわ。私だっていつも怜のペースよ?やる事は突拍子ないし、あ
っちの方が明らかに口がうまいし﹂
﹁うふふ、さゆちゃんも響子ちゃんも相手が悪いわね。どちらも女
性の扱いは慣れきってるもの。反対にこっちは全然男っ気がなかっ
592
たわけだし?経験の差はやっぱり大きいわね。⋮それに響子ちゃん
で言えば、怜よりずっと八雲は執着型っぽいから、余計に大変かも
ね﹂
執着型?と首をかしげる女子二人に鮮花は艶っぽく笑って何も言わ
ず、夜空の眺める。
鮮花自身も気づかなかったが、八雲は随分と偏執的な男だった。今
までよほど適当にやってきたのだろう。本気になる女性を見つけた
が途端、彼はありとあらゆる手を尽くし響子を調べ上げた。
あの行動力をもっと生徒会で発揮してほしかったと思う程だ。
それにしても響子の調査が的確すぎる。彼女は友達関係が驚くほど
少ないから人から話を聞いて情報を集めるなど不可能だろう。紗弓
が教えたようにも見えない。
と、いうことは⋮。
﹁まさかねぇ⋮いやでも、アイツならやってもおかしくないか⋮﹂
﹁ん?どうしたんですか?鮮花さん﹂
﹁あ、ううん⋮。その、まぁ⋮。と、とにかく、響子ちゃんは八雲
の行動に戸惑っているものの、嫌ではないわけね。趣味を押さえら
れてるとはいえ、嫌いなヤツとデートしてまで見たいわけでもない
んでしょ?﹂
流石に八雲が犯罪を犯しているかもとは言えず、話をそらして聞い
てみると響子は思った通り顔を赤くして俯く。しかし小さくこくり
と頷いた。
﹁でも⋮わからなくて。ううん、わからないんじゃなくて、り、理
解できない?うーん⋮﹂
うまく言葉が思いつかないのかあれこれとブツブツ呟いては頭をひ
ねる響子に、紗弓がキョトンとして首をかしげる。
﹁どうしたの?﹂
﹁うん、あのね⋮私どうしても、八雲さんに好かれている理由が納
得できなくて。どうして私なんだろうって⋮。だって高校であんな
にモテてて、一杯女の子がいたんだよ?なのにいきなり卒業式に告
593
白されて、それからずっと電話やメール、時々のデートの度に好き
だよって言われて⋮﹂
それが理解できない。
響子は自分がとても大人しくてつまらない人間だと思っている。
たまたま歌を聞かれて、それで好きになって、というくだりも﹁そ
れだけで?﹂と思ってしまう。
八雲の周りには自分よりずっと可愛くて綺麗な女生徒もいたのに。
もっとお喋りが楽しくて明るくて気遣いのできるような女の子もい
たはずなのに。
どうして私なの?と思ってしまうのだ。
それをたどたどしく二人に話すと、鮮花は面白そうに聞いていたが、
紗弓はキョトンとした顔で不思議そうな顔をした。
﹁響ちゃんの悩みって、つまり、なんで自分が光国先輩に好かれて
るのかってこと?﹂
﹁あ、うん⋮そんな、感じ⋮。だって、私⋮大人しいし、暗いし⋮﹂
﹁中学の頃に比べたら大分と明るくなったって思うわよ?それに光
国先輩にそれは聞いたの?私のどこが好きなんですか?って﹂
こく、と響子は頷く。それは大分と最初のころに聞いていた。
どうしても理解できなくて、つい、聞いてしまった。私のどこが気
に入ったんですか?と。
﹁そしたら声が綺麗で、歌が上手で、と、友達想いで⋮。大人しそ
うだけど割と物事をずばっと言う所とか、⋮努力家な所とか⋮とか、
一杯言われて、わ、私そんな大層な人じゃないのに、八雲さんは誤
解してるよ⋮﹂
すると﹁は?﹂といった風に紗弓が口を開けて呆れたような顔をし
た。
やっぱりそうだよね、私、そんな人じゃないよね、と響子が俯くと
彼女は﹁何言ってるのよ﹂と不満げに口をついてきた。
﹁誤解もなにも、それが響ちゃんじゃない。全く間違ってないわよ。
むしろそれを誤解だーって思い込んでる響ちゃんが何で?って思っ
594
ちゃうわ﹂
﹁え?え?そんな、さゆちゃんまで﹂
﹁私だけじゃなくて、皆思ってるってば。鮮花さんは勿論、多賀く
んも栞ちゃんも草薙も田辺も好美ちゃんも⋮というか、前のクラス
メートは大体全員そう思ってるわよ﹂
そんなぁ、と響子が情けなさそうな、申し訳なさそうな顔をする。
やがて耐え切れなくなったのが鮮花が﹁あははっ﹂と腰を曲げて笑
い出した。
﹁成程、知らないのは本人ばかりなりって事ね。さゆちゃんも大概
自分の魅力を自覚してない子だけど響子ちゃんは輪をかけてるわね。
まぁ逆に言うとそこで自信満々じゃないってあたりが、また八雲を
惚れさせる要因になってるんでしょうけど?﹂
あいつは宝物を隠しておきたいタイプだろうからね、と鮮花は笑う。
そして少し真面目な顔をすると、諭すような目で響子を見る。
﹁でもそこは響子ちゃんの性格だもの。私達がとやかく言った所で
性格や思考が変わるとも思えないわ。かといってなんでなんで?ど
うして?って悩んで堂々巡りっていうのも進歩がないでしょう?だ
から少し見方をかえてみたら?﹂
﹁⋮どういう⋮事でしょう?﹂
困ったように首をかしげる響子に鮮花は指を一本立てて片目を瞑る。
足を高く組んでぱしゃんと水音が鳴った。
﹁自分がどうたらって考えるんじゃなくて、八雲のことを考えてみ
たらどう?八雲のいいところ、わるいところ、好感がもてるところ、
持てないところ。見るべき所は一杯あるはずよ?貴女が八雲ばっか
り自分を知っててずるいって思ってるなら、自分も知る努力をして
みたらどうかしら﹂
﹁知る⋮努力⋮﹂
少し感心したように響子は鮮花を眺める。確かに響子はここ暫く思
考のスパイラルに陥っていた。ここで新しい見方をするのは確かに
進歩といえるだろう。
595
響子をじっと見て鮮花はこくりと頷く。
﹁そうよ?相手を知るにはちゃんと自分から歩み寄らなきゃ。お付
き合いを受けるにしても断るにしても相手を知らなきゃ判断もでき
ないでしょ?今の状態がよくないって思ってるなら尚更ね﹂
そうだ。相手が好きだと言って好意を示している以上、自分は何ら
かの形で答えを出さなければならない。断るにしてもちゃんと理由
がなければ八雲は納得しないだろう。
実際のところ八雲は断られたとしても諦めるつもりなど100%あ
りはしないが、響子は確かに相手を知る努力をしなければ前にも後
ろにも進めないだろうと考える。
﹁わかり⋮ました。私も⋮受身だけじゃなくて、色々八雲さんの事
⋮聞いたり⋮してみます﹂
﹁ええ、それがいいわ。頑張ってね﹂
ニッコリと微笑む。
紗弓の時もそうだったが、鮮花は必要なときにとても有用なアドバ
イスを言ってくれる。
たった1歳年上なのに何だろうこの貫禄は、と紗弓は感心したよう
にまじまじと鮮花を見た。
﹁なぁに?さゆちゃん﹂
﹁あ、いえ⋮鮮花さんは的確なアドバイスをしてくれるなぁって思
って⋮。あの、鮮花さんは実際のところ彼氏、とかいないんですか
?﹂
﹁私?今はいないわね。1年の時はいたわよ。別れたけどね﹂
へええと紗弓と響子が目を丸くする。
経験豊かに見えるが、どうも男の影があまり見えない上にどういう
風に男性とつきあっていたのか全く想像がつかないというのもおか
しい話だ。
自然と興味が出て、二人の女子は鮮花に聞いてみる。
﹁どんな人と⋮おつきあいされてたんですか?﹂
﹁やっぱり年上、ですか?﹂
596
﹁やっぱりってどういう事よ。まぁ外れてないけどね。相手はねぇ、
いわゆる商社マンね﹂
商社マン!?と二人が驚く。てっきり学校内の話だと思っていたの
に違っていて、しかも相手は大人の男だった。
﹁あの、何歳の方だったんですか⋮?﹂
﹁んーと、私が16の頃で、相手は31歳だったわね﹂
﹁さんじゅういっさい!!﹂
紗弓が驚いて声を上げる。響子も﹁それは⋮すごい年上ですね﹂と
口に手を当てた。
﹁まぁ1年近く持ったけど、ダメだったわね。やっぱり年の差は大
きかったわ﹂
﹁それは相手⋮が?﹂
おずおずと響子が聞くと、﹁ええ﹂と鮮花は頷いた。
﹁周りの目とかね、色々あるから。31歳の男が16の女の子に手
出してればそりゃね、色々言われたんでしょう﹂
そっか⋮と二人の目が悪いことを聞いてしまったかな、と申し訳な
さそうな顔をした。二人ともすぐ顔に出るんだから、と鮮花は笑っ
て二人の頭を撫でる。
﹁大丈夫よ。もうすっかり立ち直ってるから。ほんと、相性が抜群
だったから別れた時は悲しかったけど、仕方ないわよね∼。また気
長に探すわよ。まだ私は若いんだし?﹂
ひょい、と肩をすくめると﹁そっか﹂と安心したように紗弓が笑っ
て、ふと不思議そうに首をかしげた。
﹁相性、って⋮?﹂
﹁ん?ああ⋮彼ねぇ、もうすごい苛められるのが好きな人だったの。
だからすっごく気が合ってたのよね。いわゆるSMプレイっていう
の?縄で縛ってパドルで叩いたり蝋燭でカピカピにしたり、いろん
な穴を開発したり⋮。すごい屈辱的な格好で自慰をさせたりとかね
ぇ、カレもすごい悦んでくれて。本当に楽しかったなぁ⋮﹂
﹁へ、へぇ⋮﹂
597
うっとりと懐かしそうに語る鮮花に紗弓は体を引かせつつ、何とな
く鮮花と怜は本当に兄妹なんだな、と妙なところで納得してしてし
まって若干落ち込んでしまうのだった。
夜。
布団に潜った3人は暫くきゃっきゃと会話に花を咲かせていたが、
やがて響子がすぅすぅと寝息を立て始める。
紗弓も少しうとうとしてきたので寝ようと眼鏡を外していると、同
じく布団に潜っていた鮮花がふと、紗弓に声をかけてきた。
﹁ねぇ、さゆちゃんまだ起きてる?﹂
﹁ん⋮?はい⋮まだなんとか﹂
﹁フフ⋮。ちょっとね、お礼を言おうって思っていたの﹂
お礼?と紗弓が思っていると、真ん中で寝ていた鮮花は紗弓の方に
顔を向けて﹁うん﹂と頷いた。
﹁お盆休みに怜に会ったって話、したでしょ?あいつに会うのは卒
業式以来だったけど⋮すごくいい顔になってたわ。幸せで堪らない
って顔。⋮フフ、お預け中だから若干欲求不満な感じだったけどね
?﹂
﹁そ、それは怜が⋮﹂
﹁ふふっわかってるわよ。⋮でね、怜を幸せにしてくれて、ありが
とうね﹂
まっすぐに見られて。
紗弓は思わず顔を赤くしてもぞ、と布団に顔を少し埋めた。
﹁そんな、お礼を言われるほどのことは⋮﹂
﹁お礼を言うほどのことをしてくれたのよ。あんなにすっきりした
顔の怜、初めて見たんだもの﹂
そうなのだろうか。
紗弓には怜の変化はよくわからない。確かに本当の恋人になってか
ら変わった部分もあった。例えば子供みたいに甘えてきたり、かと
思えば意地悪な言葉を言ってきたり。
598
スキンシップもずっと増えたし、人目を気にせずキスもしてくるよ
うになった。
だけど彼の表情や笑顔はつきあう前とそこまでかわらなく、優しく
甘い笑顔だ。
劇的に変わったほどだろうか?と思ってしまう。
だけど鮮花がそう言うのならそうなのだろう、とも思った。何せ彼
とのつきあいの長さは彼女のほうがずっと上なのだ。そんな鮮花が
言うのだから変わったのだろう。
﹁⋮自分ではそんなに変えた気はしないんですけど⋮でも、前より
いい表情になったのなら良かった、です﹂
﹁ええ。⋮ありがとう﹂
しみじみと鮮花は言って、顔を上に向けて電気の消えた照明の方向
を見た。
実際に彼女が見ているのは天井ではなく、別のものなんだろう。過
去の怜を、見ているのだろうか。
紗弓はそのまま鮮花を見ながら目を閉じる。ほどなく睡魔がやって
きた。
﹁さゆちゃん⋮私ね。⋮ん?寝ちゃったか﹂
くすりと笑って軽く鮮花は紗弓を見る。
いつもはふざけて笑いあってることが多いから、こうやって改まっ
て礼を言うタイミングがつかめなかった。
だから、ちゃんとお礼が言えてよかったと鮮花は目を細めて、自分
も静かに目を閉じた。
599
女子会。咲かせる花は恋の話︵後書き︶
女子会温泉編でした。
響子と八雲が若干進歩しています。
鮮花さんが八雲が犯罪してるかもしれんと穿ってますがあながち間
違っておりません。
いわゆる八雲君は桔梗の別話に出てくる某カール君と同系統の男な
ので。割と手段選ばないタイプというか⋮。押せ押せタイプという
か。
彼と違う所は八雲は自分の過去を明かすつもりがないという所くら
いでしょうか。まるで騙すように響子を陥落し、だけど手にすれば
決して離さないと、そんな感じなイメージです。
鮮花さんは想像しやすいですが完全女王様タイプです。女王様に見
えて実はマゾとかいうレベルじゃなくてフツーにサドな人です。あ
る意味怜より開き直ってるので、割とハードな事も楽しんでやりそ
うです。
600
女王様の楽しい楽しい講習会
ある日。そろそろ8月も終わりかと思われる頃、ふと怜の携帯電話
にメールが鳴った。
メールの差出人は鮮花。特に何も考えず、本文を読む。
﹃お礼は美味しいお酒と海鮮料理でいいわよ。いいところ探してお
いて頂戴ね﹄
は?と怜は首をかしげた。何のことだろう。自分は鮮花に礼をしな
ければならないような事をされた覚えは全くない。
何の事やらとため息をついた所でチャイムが鳴った。臨時で塾の講
師をしている怜は手早くテキストを集めて教室に向かう。
歩いている途中で受付の女性や同じ講師をしている女性がすれ違っ
ては見蕩れていく。
そんな慣れた視線を受けながら怜は﹁早く夏休みが終わって紗弓に
会いたいなぁ﹂と憂いのある表情を浮かべていた。
◆◇◆◇
﹁さて、さゆちゃんっ!怜に勝つ方法を伝授するわっ!﹂
﹁はいっ!よろしくお願いします、鮮花さんっ!﹂
場所は繁華街にあるカフェチェーン店。あの温泉旅行から少し日を
改めて二人は顔を突き合わせていた。
紗弓はぐっと拳を握って鮮花を見ている。その目は気合と信頼に溢
れており、鮮花はそんな彼女の目線をしっかりと受け止め、同じよ
うに気合を乗せた瞳で紗弓を見返す。
しかし心の底でちょっとだけ彼女に謝ってみたりする。
楽しい。紗弓に色々教えるのはとてつもなく楽しい。紗弓が怜に勝
ちたいという理由で情事の技法を習おうとしているあたりがとても
宜しい。怜の楽しみを少し取ってしまうのは悪いなぁと思いつつも、
601
彼もきっと楽しめるだろうと鮮花は確信する。
だからちょっとだけ紗弓に謝ってしまうのだ。
﹁まずは色々確認したいんだけど、さゆちゃんは怜からどれくらい
教わってるの?﹂
﹁ええっ!?﹂
がたん、と音を鳴らせて紗弓がのけぞる。そんな恥ずかしい事をど
うして言わなければならないのだ。
しかし鮮花は少し真面目な顔をしてちちち、と指を揺らす。
﹁その辺を知っておかないとアドバイスができないでしょ?あんま
り高度なこと、いきなりしろって言ってもできないでしょうし﹂
﹁あ、そ、そう⋮ですよね。ええと⋮﹂
ぼそぼそ、と紗弓は小声で教える。といっても彼から教わった事な
どそこまであるわけではない。
案の定鮮花は少し目を見開かせ﹁それだけ!?﹂と言ってきた。
﹁フェラもさせてないのに攻め側になれなんて、あいつどんだけ鬼
なのよ⋮﹂
﹁ふ、ふぇら⋮って?あ、あの⋮違うんです。そもそも私が怜に負
けてばっかりで悔しいって話をしたからこういう話になったので⋮﹂
﹁それは判ってるわよ。⋮じゃなくてあいつは全部計算済みなあた
りが⋮ああいえ、いいわ。とりあえず⋮そこまで高度じゃない方法
で屈服させるしかないわね﹂
﹁あの、いくつか質問があるんですけど⋮﹂
はい、と紗弓は小さく手を上げる。なぁに?と聞いてみれば彼女は
顔を赤くしてぼそぼそと質問を投げかけてきた。
﹁まず、参ったって言わせるっていうけど⋮どういうのが﹁参った﹂
なんですか?﹂
﹁そうねぇ⋮色々あるわね。苦痛を伴うハードプレイで力づくで参
ったと言わせるか、狂う程の快楽を与えて参ったと言わせるか⋮大
きくわけてそんな感じじゃない?ようは怜がさゆちゃんの技巧で射
602
精させれば勝ちよ。勝ち﹂
﹁し、ゃ⋮せ⋮﹂
ぶわぁっと紗弓の顔色が茹で上がり、慌てたように目の前のアイス
ラテを飲む。
そんな彼女を見ながら﹁でもねぇ﹂と鮮花は指を唇に添えた。
﹁ただ出させるだけじゃ勝ちともいえないのよね。相手は男なんだ
もの。舐めて擦ればそのうち出るものだしね。でもそんな作業的な
行為で達したところで彼は﹁負けた﹂とは思わないでしょう。適度
に苛めて焦らせつつ、最高のオーガズムを感じさせて達しさせるこ
とができれば、彼はきっと参ったって思うでしょうねぇ﹂
﹁おーがずむ⋮﹂
また知らない単語が出てきて、紗弓はいつの間にか取り出したメモ
帳に単語を書き連ねていく。チラっと見れば﹁調べるリスト﹂と書
いてあり、フェラ、とオーガズム、と書かれている。
至極真面目に紗弓は書いているのだが、鮮花は頭の中で﹁ああっ﹂
と頭を抱えた。このメモ帳、超怜に見せたい!!ヤツはきっと嬉々
として教え込む事だろう。実践込みで。
﹁ようするにまぁ、ヤツを最大限にイカせればいいのよ。その間も
思いっきり彼を焦らすの、苛めるの。イキたいって言われてもダメ
っていうのよ﹂
﹁なるほど、ダメ、ですね﹂
﹁そうよ。そういう言葉のやりとりをね、言葉責めっていうのよ。
意地悪な事を言って相手を翻弄するの。さゆちゃんもされてるんで
しょう?やり返してやりなさい﹂
なるほど!と紗弓は自分がされている怜からの意地悪な言葉を思い
出してぐっと拳を握る。やっと仕返しの具体的な案が出てきたのだ。
気合も入ろうというものである。
鮮花は次々と言葉責めのレクチャーをする。一体どうしてそんなに
思いつくのだ、と思うほど彼女の言葉は多彩で、紗弓はそれを感心
しながら聞きながらも、内容の恥ずかしさに頬を染めた。
603
﹁あの⋮そ、そんな恥ずかしい事もいわなきゃいけないん⋮ですか
?﹂
﹁そうよ?あっダメよ。恥ずかしがっちゃ。そんな可愛い照れ顔で
言われても効果はないし、むしろ冷めてしまうわ。怜はきっとがっ
かりしちゃうわよ?毅然と、偉そうに、上から目線で嘲って言う。
これが基本よっ!﹂
﹁は、はいっ!﹂
返事をしながらも紗弓は不安顔だ。本当にこんな恥ずかしい⋮はし
たない事を言わなければならないのだろうか。しかしそれで怜が悔
しげな顔をするなら、屈辱の顔をしてくれるなら、頑張ろうとも思
う。
ある程度レクチャーした後、鮮花は﹁さて﹂と言って立ち上がった。
﹁次は買い物よ。ちゃんとお金は用意した?﹂
﹁は、はい。あんまり高いものは無理ですけど、夏は家でアルバイ
トしてるから少しは﹂
﹁上出来よ。それじゃ行きましょうね﹂
紗弓を促して鮮花はカフェを後にする。次の買い物は鮮花にとって
メインイベントだ。これが楽しみでならない。
︵着せ替えくらい許して頂戴ね、怜くん︶
ふふりと笑って紗弓を連れて鮮花は歩き出した。
◆◇◆◇
﹁ここは⋮ランジェリーショップ⋮ですか?﹂
﹁そうよ。私がよく使ってる所だから、店員さんとも仲がいいの。
さぁ行きましょう﹂
鮮花に連れてこられたところはデパートの一角にある下着専門店だ
った。
可愛い系のものからものすごくきわどいものまで売っている。
紗弓は基本、下着は麗華に買ってもらうか安い通販を利用している
604
のでこういう店に入るのは初めてだ。
どきどきとしながら入店する。
﹁ちょっと見ててね。知り合いの店員呼んでくるから﹂
そう言って鮮花はてくてくと奥に入っていく。誰かを呼んでいるよ
うで、紗弓は彼女の言われた通り辺りの下着を手に取って見る。
﹁⋮なにこの、布の少なさ⋮こんなの隠し切れないじゃない。何の
ために履くの?﹂
思わず首を傾げてしまうような位布生地の少ない下着に、つけてる
のかつけてないのか判らないくらい透けている下着などもある。
ブラジャーは可愛いのも多かったがどれもいいなと思えるものはカ
ップがDまでで、ため息をつく。
どうしても胸が大きいと可愛い下着がないのだ。
別にいいんだけど⋮と思いつつも、どこかで﹁怜はがっかりしない
かな﹂と思う時もある。
そんな風に思いながら下着を眺めていると、鮮花が一人の店員を連
れてやってきた。
﹁おまたせ∼﹂
﹁はじめまして。へぇ、この娘が上羽さんの言ってた子なんだぁ。
⋮ふぅん、ナルホド﹂
鮮花が連れてきたのは今風の、いわゆるギャル風の店員だった。金
髪に染め上げて髪を綺麗に巻いており、長くラメの入ったつけ睫、
ばっちりメイク。しかしとても気さくそうな人で、そんな彼女がま
じまじと紗弓を観察する。
﹁は、はじめまして⋮よろしくお願いします﹂
﹁よろしくね。うーん、久々の逸材だね。まずはちゃんとしたサイ
ズを測らせてくれる?そうじゃないと見繕えないから﹂
はい、と大人しく紗弓は頷いて試着室に入り、彼女にサイズを測っ
てもらう。
そういえば自分の正確な胸のサイズは知らなかった。店員の女性は
手早くメジャーで必要箇所を測り、メモ帳に書いていく。
605
﹁トップバストが103⋮んー、Gの75か80ってとこね。ふふ、
この大きさだと下着のデザインに困ってそうね。可愛いデザインが
ない、とか思ってない?﹂
﹁うっ⋮そうですね。海外デザインのはすごく派手でつけるのに抵
抗があるようなのばっかりだし、日本製のだとオバサンくさいのと
か、無地のしかなくて⋮﹂
﹁あははっ!それはリサーチ不足ね。最近は胸が大きくても可愛い
ものが沢山あるのよ?どうせないから、って先入観で探すから見つ
からないの。服を着たら外で待ってて、いくつか持ってきてあげる
わ﹂
にっこりと笑って店員は試着室を出て行く。
紗弓も大人しく服を着てカーテンを開けた。ギャル系の格好をして
いるから少し怖いイメージがあったが、本当に気さくで明るい人で、
人は見た目じゃないんだなぁと思ってしまう。
しばらく鮮花と待っていると店員が何枚かの下着を持ってやってき
た。
﹁本当はね、最初から上羽さんリクエストのランジェリーを用意し
ようかと思ったけどちょっと気が変わっちゃった。ねぇ、こういう
のもあるんだよ?見てみて﹂
にこにこと店員がブラとショーツのセットを並べていく。どれもG
カップに適したサイズで、デザインが清楚で可愛く、紗弓好みだっ
た。
﹁わぁ⋮こ、こんな可愛いブラがあるんですか?﹂
﹁そうよー。ほら、これなんてレースがフチについて可愛いでしょ
?真ん中にリボンがあってねぇ⋮﹂
丁寧に説明されて、紗弓はほうほうと興味深々で話を聞く。
こんなに可愛いものがあったなんて。これは麗華に言っておかねば
と思う。彼女ならきっと可愛いブラを買ってくれるだろう。
﹁どう?これとねぇ、セットにしてくれるなら安くするわよ﹂
﹁これは欲しいですけど⋮セットってどういう事ですか?﹂
606
﹁まとめ買いってこと。上羽さんに言われてたランジェリーがある
のよね。そっちと合わせてって事。ハイ、これね﹂
そう言って後ろにおいていたらしいランジェリーをドサッと置く。
﹁勿論これもGサイズに合わせてるわよ。ふふっ⋮このサイズだと
すっごくセクシーになりそう﹂
﹁でしょでしょ?もう見たくて仕方なかったの。さゆちゃん、さっ
そく試着してみて!﹂
ノリノリな鮮花に押されるように紗弓は何枚かのランジェリーを持
って試着室に押し込まれた。
そのままカーテンを閉められ、所在なげに試着室の中を眺めたあと
ランジェリーの束をぽさりと床に落として、一枚をぷらりと上げて
みる。
﹁なっ⋮⋮!?こ、これ⋮きる⋮の⋮?﹂
﹁ちなみに着ないっていう選択肢はナシよ。怜に勝ちたいんでしょ
?﹂
紗弓の独り言が聞こえたのか試着室の外から鮮花がぐさりと釘を刺
してきた。
本当にこれで怜に勝てるの?と首を傾げながらも、今頼れるのは鮮
花しかいないので紗弓は諦めたようにため息をつくと、再び服を脱
ぎ出した。
﹁さゆちゃーん、着れた?着方わかる?﹂
﹁さ、さすがにわかりますけど⋮こ、これはその⋮﹂
﹁着たのね、着たのね?はい、ご開帳!﹂
﹁ちょっとまっ⋮きゃあ!!﹂
有無を言わさず鮮花はシャッとカーテンを開いて羞恥に顔を染める
紗弓の姿を見た。
ちなみに隣には店員の女性もいる。
二人はじっと紗弓の姿を観察した。
﹁かっ⋮可愛いーー!!﹂
607
﹁エロカワイイーー!!﹂
二人が揃って騒ぎ出す。紗弓はいわゆるセクシーランジェリーを着
せられていた。
ショーツは試着できないので自前のものだが、ブラはひらひらとし
たレースとリボンが沢山ついた可愛いデザインで、更にガーターベ
ルトと白タイツという格好だ。
生地の基本は白。リボンは全て水色で清楚な中にも可愛らしさと艶
がある。
﹁こっ、これは恥ずかしすぎるんですけど⋮っ!﹂
﹁それがいいのよ。やっぱり見た目は大事だわ。目で興奮させて言
葉で詰る。行為で焦らせる。基本ねっ!﹂
﹁そ、そうなんですか⋮?﹂
しかしどうして鮮花はこんなにキラキラとして生き生きとしている
のだろう。
鮮花はさぁさぁとランジェリーを一枚持ち上げて紗弓に押し付ける。
﹁次はこれね。はい、いってらっしゃい!﹂
シャッとカーテンを閉められる。
これはあれか、着せ替え人形なのか?と少し憤然としながらも、大
人しく紗弓は着替えを続けた。
﹁やっぱりいいわねぇ。ちっぱい所持者が背伸びしてセクシーラン
ジェリーっていうのも燃えるけど、魅力的な体を持ってる人が着る
と本当にサマになるっていうか、目の保養ねぇ﹂
﹁本当ねー。こういうのは思い切り武器にして全面に押し出してい
かないと宝の持ち腐れだわ﹂
紗弓は言われるままに着替えては鑑賞された。
黒い編み上げビスチェのセット、リボンの可愛いレースビスチェと
ガーターベルトのセット、サラサラとしたサテンのベビードール、
胸や尻が丸見えになってしまうような恥ずかしい総シースルーの透
けガウンなど様々だ。
608
﹁はぁ、目の保養、目の保養。私は大満足だわ﹂
﹁そうですか⋮。何だか私はよくわからなくなってきました⋮﹂
﹁何いってるの?今着たものから選ぶのよ?﹂
﹁ええーっ!!﹂
まさかあれしか選択肢がないのか。どれも恥ずかしい下着ばかりだ
った。
しかし何のためにこの店に来たのかというと、こういう趣向のもの
を買うためなのだろう。
⋮本当にこれで怜に勝つ事ができるの?と紗弓は再び不安げな顔を
してしまうが、自信たっぷりな鮮花の表情に﹁⋮わかりました﹂と
頷く。
悩みに悩んで選んだランジェリーと最初に見せてもらったブラとシ
ョーツのセットを購入する。
機嫌よく見送ってくれた店員さんに手を振って、紗弓は不安げに鮮
花を見上げた。
﹁⋮本当にこれで勝てるんですか?﹂
﹁ええ。というかそのランジェリー着て見せるだけで本当はさゆち
ゃん完全勝利なのよ?ぜーったい怜は撃沈すると思うわ。だけどア
イツも意地があるから絶対そういうそぶりは見せないはず。だから
言葉と手管で攻めていくのよっ!だから次はテクニック編ね!﹂
そう言って二人は遅めの昼食がてら、ファーストフード店に入って
いく。
ざわざわとした雰囲気の中でハンバーガーを食べながら鮮花は紗弓
にアドバイスを送った。
﹁基本的にさゆちゃんが攻め側だから、貴女が彼をリードしなきゃ
いけないの。それはわかる?﹂
﹁え、あ、はい⋮何となく﹂
ぱくりとポテトを食べながら頷くと、こくりと鮮花も頷いた。
﹁だから結構恥ずかしい事もしなきゃいけないわ。だけど言葉責め
と同じで恥ずかしがっちゃだめよ。私は今は女王様。奴隷の怜にお
609
仕置きをしなきゃいけないの。甘い責め苦を施して、彼を淫らな世
界に苦しませてやる!っていうくらいの気位でやるのよ﹂
﹁は、はい⋮。じ、女王、サマ⋮ですね﹂
できるかな、と思いつつも紗弓はこくこくと頷き、メモの用意をす
る。
﹁それでもねぇ、さゆちゃんは初心者さんだから。私がいくつかこ
れできる?って聞いていくから、できそうなものを選んでやってみ
たらいいと思うわ﹂
﹁そうですね。何となくできないもののほうが多いと思いますが、
できるだけ頑張りますっ!﹂
と、意気込んでみたものの、彼女の言う﹁手管﹂とやらははっきり
いって殆どが紗弓にはレベルが高すぎて実行不可能だった。
﹁と、とりあえずこれと⋮これ、⋮と、これ⋮はできる⋮かもしれ
ません﹂
﹁え∼もうちょっと頑張ってこれくらいはできない?﹂
﹁むっ!無理です!怜の顔に座るなんて、無理無理!!﹂
鮮花の言うテクニックとやらをメモにして、紗弓はできそうなのを
搾り出す。
彼女は少し不満そうだったが、ふむ、と腕を組んだ。
﹁まぁ、あんまりやりすぎると返って引いちゃうかもしれないし、
それくらいで丁度いいかもね。後は最初にも言ったように、怜がし
たい、いきたいって言ってもダメっていうのよ?﹂
﹁はい、了解です!﹂
﹁焦らして焦らして、参ったから、頼むからイカせてください、さ
せてくださいって言わせた時がさゆちゃんの勝利というわけよ。頑
張って!﹂
頑張ります!と紗弓は拳を握る。
そんな気合充分の彼女を見ながら今日という日を目一杯堪能した鮮
花は珈琲を一口飲んで少しだけ考える。
一応鮮花の言う通り、完璧にやり遂げればきっと怜は屈するだろう。
610
しかし︱︱。
︵さゆちゃんには悪いけど、うん、無理よね︶
基本的に攻め側にまわる女性も、嗜虐心や征服心、支配欲という気
持ちが必須である。でないと心から攻めるという行為を楽しむこと
も、堪能することも、また相手を調教することもできない。
紗弓のような性格ではおよそ無理なのだ。
かといって彼女は被虐欲があるのかといえばそうでもない。紗弓は
はっきりいってノーマルなのである。
それは怜も重々承知しているだろうに、勝気で負けず嫌いな彼女を
焚きつけるとは。
︵あいつは本当に意地悪が好きなこと。性格わるい男ねぇ︶
全く彼女が可哀想だ。
あんな男に惚れられたのが運のつきという所だろうか。
今更紗弓が怜の性格の歪みに気づいて逃げようとしてももう遅い。
怜はもう紗弓を離さないし、離れることも許しはしない。
怜はもう、紗弓の世界に入ってしまったのだから。
暖かく心地よい、安穏の世界に浸ってしまえば、もう手放すことな
どできはしない。
そして鮮花も怜が幸せになることを何より望んでいる。
だから︱︱。
︵ごめんね、紗弓ちゃん。相手は厄介な男だけど、どうか見捨てな
いであげてね︶
そんな祈りをこめて、鮮花は残りのハンバーガーをはむりと口にし
た。
611
女王様の楽しい楽しい講習会︵後書き︶
鮮花女王様による勉強会でした。
彼女はもう、キラッキラしてたと思います。この時間。
紗弓に教えるの楽しいでしょうね⋮。完全にセクハラですよね⋮。
前も少し書きましたが、鮮花は本当に本物の﹁女王様﹂という設定
なので、あれもこれもするし、出来ます。
しかし作者がその知識についていけなかったので調べ倒しました。
しかし小説を書きながらSMの調教器具やら方法やらを調べている
と、何やってんだ私と我に返った時は落ち込んでしまいました。
612
勝負!紗弓女王様と下僕怜 1
9月は怜にとって嬉しい事に祝日が多い。大学は9月後半まで夏休
みだが、紗弓はすでに高校二学期が始まっている。
だから祝日を含めて三連休になるのはとても好ましいのだ。
それだけ紗弓と過ごす時間が延ばせるという事なのだから。
という訳で早速祝日を含めた2泊3日、怜は紗弓にお泊りデートを
提案したのである。⋮例の勝負つきで。
﹁ママ、あのね⋮こんどの連休なんだけど﹂
﹁うん、敬老の日のトコ?﹂
夕飯が終わって新聞を読んでいた麗華が紗弓に向かって顔を上げる。
こくりと紗弓は頷いて、少し後ろめたそうな顔をしながら聞いてみ
た。
﹁そう。あの⋮ね。その祝日を含めた3日間、連泊⋮していい?﹂
﹁ふむ?佐久間君と?﹂
うん、と彼女が言うと、麗華はほぉ∼と相槌を打ってからパサリと
新聞をたたんだ。
そして手招きをする。
紗弓は大人しく麗華が座るソファの隣に座った。
﹁あんた、今月の生理いつだっけ﹂
﹁は!?え、ええと⋮あと一週間位か、そろそろか⋮って所だと思
うけど﹂
﹁ふんふん。それを佐久間君は知ってるの?﹂
﹁う⋮うん。怜が必要だからって毎月報告させられてるの。すごく
恥ずかしいんだけど⋮﹂
ふーん?と麗華は頷いて腕を組む。
どうしてそんな事を聞くのだろう、と紗弓が不安げに彼女を見てい
ると麗華はその視線に気づいたのか、安心させるようにニッコリと
613
笑った。
﹁彼氏がそれを把握するのは良いことじゃない?ちゃんとゴムは使
ってしてるの?﹂
﹁ふぇっ!あ⋮う、うん⋮ま、毎回、用意、してます⋮﹂
居たたまれなくて紗弓はなぜか正座になって麗華の質問に答える。
顔は真っ赤で﹁我が娘はまだまだ初々しいわねぇ﹂と彼女は目を細
めた。
そして新聞を脇のマガジンラックに片付けながら麗華は娘に顔を向
けて軽く言う。
﹁まぁいいんじゃない?高校生だからどうだとは今更言わないわよ。
お互いにしてること、ちゃんと自覚して愛し合ってるならママは別
に構わないって思うわ﹂
﹁じ、自覚⋮?﹂
首をかしげる紗弓に麗華はこくりと頷く。
﹁子供作ってる行為をしてる、っていう自覚よ﹂
﹁そ⋮!そ、それは⋮してる⋮。本当は、ちょっとだけ⋮怖いの﹂
﹁⋮そうね。女の子は皆その不安はぬぐえないわよね﹂
麗華は優しく紗弓の頭を撫でる。
こんな生々しい弱音は、なかなか女友達にも言えることではないの
だろう。好きな男と体を重ねる事自体は幸せで気持ちの良い事だけ
ど、そういったリスクも同時に抱えているというのは矛盾しつつも
消えることのない、女独特の苦しみだ。
だけど、と麗華は思う。だから娘の頭を撫でて安心させるように言
ってみせた。
﹁要は貴女と佐久間くんが信じあってたらいいのよ。彼は、貴女が
もし﹁そう﹂なってしまった時逃げる人なの?捨てる人なの?﹂
すると紗弓はふるふると首を振る。
離しませんよ、と真剣に言われた怜の強い眼差しを思い出したのだ。
⋮それに何より。
﹁れ、怜はそのうち、私のお婿さんになりたいって言ってるから⋮。
614
捨てる、とかは想像がつかない⋮﹂
﹁は!?お婿さん!?なにそれ﹂
寝耳に水だとばかりに素っ頓狂な声を上げる麗華に、おずおずと紗
弓は答えた。
﹁うーん⋮何ていうかね、怜の家はちょっと特殊なの。産まれとか
に色々事情があって⋮それでいつかは絶縁されちゃう身だから真城
の姓を下さいって⋮。だから⋮お婿さん﹂
﹁⋮ふぅん。クセのある男だと思ってたけど、アクも強そうね。ま
ぁ当たり障りのない退屈な男よりはずっといいと思うけど。ふーん、
婿ね⋮﹂
指を唇に添えて天井を見上げていた麗華は、暫くして何かを思いつ
いたように紗弓へ視線を戻し、にっかりと笑った。
﹁判った。連休の連泊は許したげるから、その代わり後日佐久間く
んを連れてきなさい﹂
﹁え⋮?う、うん⋮。でも何で?﹂
﹁えー?未来の息子になりそうな男、母としたら見定めておきたい
じゃない。すでにもう清き仲ってわけでもないんだし、余計にね﹂
ふふ、と微笑んで言うと、紗弓は大人しく﹁わかった⋮﹂と言って
了承する。いつもはもっと強気でぎゃあぎゃあとした感じだが、さ
すがに背徳的な行為を親に許してもらっている手前、あまり強気に
出ることができないのだろう。
そんな紗弓をおかしそうに見ながら麗華はくすくすと笑って足を組
み、再び新聞を手に取って広げ出す。
しかし新聞の内容は全く頭に入らなく、さぁて楽しくなりそうだわ
ぁと未来の息子に想いを馳せた。
◆◇◆◇
連休1日目の昼から夜にかけては普通のデートをした。
今日のデートは平和島。体が動かすのが大好きな紗弓の為に、怜が
615
前から考えていたらしい。
規模の広い公園には有料アスレチックがあって、種類も多彩である。
運動不足な大人では絶対まわりきれないと言われているほど種類豊
富なのに、紗弓はけろっとした顔で嬉々として次々とアスレチック
に挑戦した。
その表情はドックランで思い切り遊ばせた時の犬みたいに目をきら
きらとさせて生き生きとしている。
怜は何故か少し懐かしそうな目で紗弓を愛でつつ、彼女のアスレチ
ック回りにつきあってくれたのだった。
夕飯は家庭的な雰囲気のあるイタリアレストランで石窯ピザという
ものを食べ、やがて怜が事前に調べておいたらしいラブホテルへと
移動する。
いよいよだ。
紗弓は自然と緊張して、ぎくしゃくとエントランスへ入っていく。
空室のボタンを押しながら怜がそんな彼女を見下ろしてくすくすと
笑った。
﹁何かものすごい気合を感じますね﹂
﹁うう⋮あんまり突っ込まないで。私も自分で何やってんだろ、っ
て思ってる所なんだから﹂
すると怜はあははっと声を上げて笑いながら紗弓の手を取ってエレ
ベータに乗った。
﹁あまり緊張しないで。勝負勝負って言ってますけど、基本的に僕
は紗弓と楽しい時間を満喫したいだけなんですから﹂
﹁で、でも、私が負けたら言うこと聞かなきゃいけないし⋮。なん
かすごく嫌な予感がするんだもの。だから負けたくないし⋮!﹂
﹁それはまぁね?勝負ですから。しかし最初からそんな自信なさげ
では困りますね。いつもの威勢はどうされたんです?﹂
笑みを浮かべたまま怜は部屋へと入り、紗弓を促す。
紗弓も彼に続きながらむぅ、と怜をジト目で睨んだ。
﹁こんな時まで嫌味?別に自信がないわけじゃないわ。ただ、自分
616
が今からする事を考えて、ちょっと気が滅入ってるだけよ﹂
﹁へぇ?何をしてくれるんでしょう。楽しみですねぇ﹂
余裕たっぷりの笑顔で怜はドサリと荷物をソファに置く。
本当にコイツは可愛くない。いつも余裕綽綽で紗弓には絶対自分を
負かすことなどできないという自信で溢れているように見える。そ
れがいつも悔しくて、面白くなかった。
少し弱腰だった紗弓の心に負けん気の火が灯る。こやつをどうにか
屈服させる為に鮮花からあんなに恥ずかしいレクチャーを受けたの
だ。しっかりと発揮せねば立つ瀬がない。教わったかいもない。
﹁よしっ!シャワーするわよ!先に怜ね!﹂
﹁え?一緒に入りましょうよ﹂
﹁何言ってるのよ!もう勝負は始まってるのよっ!怜は体を綺麗に
洗ったら、ベッドで待ってるがいいわっ!﹂
ビシッと紗弓は怜に向かって指を指す。
彼はほう?と片眉を上げて、おもしろそうに意地悪な笑みを浮かべ
た。⋮彼も何かのスイッチが入ったらしい。
﹁紗弓って本当にいいですね。何でも一生懸命で、頑張り屋で負け
ず嫌いで⋮。ふふ、では楽しみにしてベッドで待つことにしましょ
う。それではお先に?﹂
そう言って怜は自分の用意をして浴室に消えていく。
彼が完全に消えたところで、はふ、と紗弓はため息をついた。
お預け宣言をしてから一ヶ月半。もう少しガツガツとしてくるのか
な?と思っていたがそうでもないらしい。
怜は紗弓とつきあう前から女性に困っていたわけでもないし、性行
為は﹁食い飽きた﹂と言う程手慣れたものだからそんなに心配する
ほどではなかったのか、と思う。
鮮花はお盆の時に怜が愚痴っていたと言っていたが、少しオーバー
に言ってみただけなのかもしれない。
そう思うと少し気が楽になった。
あとは自分が鮮花に教わった手管とやらを実践するだけだ。
617
シャワーの用意をしながら鞄の中に入れてあるメモ帳を取り出し、
復習をする。
何度読み返しても恥ずかしい。
抵抗がないかといわれたらものすごくある。本当、これを読むたび
に﹁私何やってんだろ﹂とトホホな気持ちになってしまう。
しかしこれしか怜を負かす方法がないのなら。
﹁⋮がんばろ⋮うん⋮﹂
自信なさげに一人気合を入れるのだった。
618
勝負!紗弓女王様と下僕怜 2
怜のシャワーが終わって、紗弓がそそくさと浴室に入り体と頭を洗
う。
丁寧にドライヤーを当てて髪を乾かし、やがて紗弓は体に巻いてい
たバスタオルを外して、用意していたランジェリーを手に取った。
ごくり、と喉が鳴る。
これを着て、怜の前に立つ。⋮火が出るか、と思うほど恥ずかしい。
というか、正直なところ引かれたらどうしようかと思う。
はしたない女に見えないだろうか。下品な女と思わないだろうか。
性に積極的な女に見えると引かれないだろうか。
しかし用意してしまった以上、着ないわけにもいかない。だいたい
こういう時以外で着る機会もない。
紗弓は覚悟を決めて、下着を身に着けた。
﹁お、おまたせ⋮﹂
ちょろ、とドアから顔を覗かせてベッドの方向を見ると、ガウンを
着た怜は紗弓が指示した通りにベッドに寝そべっていた。
むく、と顔を上げて﹁おかえりなさい﹂と笑う。
そんな彼を一瞥して紗弓はその体を浴室から出し、彼に向かって歩
き出す。
鮮花は恥ずかしがるな、と言っていたが、どう考えてもこれは恥ず
かしい。顔が赤らむのは自然現象みたいなもので、自分の意思では
どうにもならない。
紗弓は真っ赤な顔をしながら怜のいるベッドに近づいた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ベッドの脇までついて、二人は黙って見つめあう。
619
怜は驚いているのか引いているのかよくわからない。目を大きくさ
せて紗弓の姿をその目に入れている。
﹁あ、あの、そんなジッと見られると、困るんだけど﹂
﹁⋮⋮いえ、これをじっと見るなというほうが無理な話なんですけ
ど。ベビードール、ですか⋮﹂
怜が言った通り、紗弓はベビードールを身にまとっていた。
総レースのブラトップに、前の開いたアッシュピンクのシースルー
ドレスは上品な雰囲気がある。ショーツ部分は胸部分と同じで総レ
ースになっており、どちらも非常に透け感がある。
鮮花の趣味満載の煽情的ななベビードールだった。
更に紗弓は胸が豊かなので、その透けたレースの胸部分がすごく強
調されていてとても色香があり、胸の前部分しかレースはないので
横から見ると彼女の胸の形が何の邪魔もなく観察することができる。
ある意味、裸体よりも官能的だ。
﹁それ、一人で買ったんですか?﹂
﹁⋮ううん?鮮花さんに見てもらったの﹂
﹁⋮⋮っそれか!﹂
思わず怜は片手で顔を覆う。
やっとわかったのだ。あの夏休みの終わりごろ、彼女からきた謎の
不可解なメール。
これか、と思う。恐らくこの﹁勝負﹂の相談をされたのだろう。⋮
ということはこの魅力的なベビードールだけではなく、彼女にあれ
これと教わってきたに違いない。
自分が教えるはずだったのに、という悔しい思いも確かにあるが、
同時に﹁どんなことを教わってきたんだろう。披露してくれるのだ
ろう﹂というワクワクとした期待する思いもある。
何にしてもとても楽しみだ。
にこにこと怜は紗弓を見て目を細めた。
﹁鮮花の見立てなら確かに頷けます。すごく似合ってますよ。可愛
いです﹂
620
﹁う⋮良かった⋮ありがとう⋮。⋮じゃなくて!し、勝負よっ!怜
が参ったって言ったら私の勝ちだからね!﹂
﹁ええ、了解しています。逆に僕が参ったと言わなかったら紗弓の
負けですね。でもそれだけだと、僕が意地になって参ったと言わな
い可能性もあるので、一つハンデをあげます﹂
あんたあくまで上から目線なのね、と紗弓がジト目で睨んでくるの
を涼しく流してニッコリと怜が笑う。
﹁僕が参ったって言うだけじゃなくて、僕がイッても負けにします。
方法は何でもいいですよ?女性と違って男の場合、イッたらわかり
やすいでしょう?一目瞭然ですからね﹂
確かに怜は性行為に慣れている人だから意地になって参ったと言わ
ないかもしれない。紗弓は腕を組んで考えるが、そもそもそれは鮮
花にも言われていたことだった。
彼をイカせたら紗弓の勝ち。それを怜本人からも明言してもらえた
のだ。
⋮確かにハンデのようなものだろう。彼の意思でなく、生理現象で
勝負を決めることができるのだから。
﹁⋮わかったわ﹂
﹁はい。紗弓の負けはそうですね⋮まぁ、紗弓の手が尽くされて、
できることもなくなって、どうしようもなくなったら位でいいです
よ。時間はたっぷりあるんですからお好きに頑張ってくださいね﹂
﹁あ、アンタは本当に可愛くないわね!!み、見てなさいよっ!ま
ずは脱ぎなさいっ!﹂
びしっと命令すると、怜は従順にはいと頷いてするするとガウンを
脱ぐ。
彼の動きは妙に官能的だ。男娼という仕事があれば、彼はその仕事
を見事にこなしそうである。
紗弓も怜の艶めかしい表情と、引き締まった男らしい体に顔を赤く
する。
無駄の全くないカラダ。厚い胸板に割れた腹筋、筋肉がほどよくつ
621
いた太ももにすじばったふくらはぎ。
紗弓をいつもヒョイと抱えてしまうほど逞しい腕に、節が少し太く
て大きな手。
そして完璧な体には完璧な顔がついている。思わず見蕩れてしまう
ほどの、綺麗な男。
ぶんぶん、と首を振る。見蕩れている場合ではない。勝負はもう始
まっているのだ。
紗弓はソファに戻ると、荷物から小さな鞄を取り出す。この日の為
に色々と用意しておいたのだ。勿論鮮花の教えによるものである。
その鞄を持ってベッドに戻り、彼が腰かけるベッドに自分も膝を乗
せ、怜に近づいた。
彼は興味深そうに紗弓を見ている。
その視線を受けながら、彼女は鞄からごそごそと長めのリボンを取
り出した。100円ショップなどでよく売られているラッピング用
のリボンである。
﹁両手出して﹂
はい、と怜が両腕を前に出すと紗弓はそのリボンを使って怜の両手
首をくるくると巻き、蝶々結びをした。
﹁おや、縛りプレイですか。なるほど、鮮花レクチャーらしい﹂
しかし蝶々結びというところが非常に可愛らしい。しかもリボンだ。
緊縛というよりまるでラッピングされているような気分になる。
ムスッとした顔のままきゅっきゅっと蝶々結びの部分を締める紗弓
に怜は質問を投げかける。
﹁ちなみにこのリボンはレクチャー通りなんですか?﹂
﹁⋮違うわよ。紐ならなんでもいいって言われたから、100円シ
ョップで見つけてきたの﹂
なるほど、と思う。
普通こういったプレイの場合綿ロープか麻縄だ。だけどそこでリボ
ンを選ぶ辺りが紗弓だな、と妙に納得してしまう。
紗弓は括った腕を後ろに動かした。自然と怜はホールドアップのよ
622
うな格好になる。
﹁その体勢から動いちゃだめよ!これは命令だからね!﹂
﹁はぁい﹂
嬉しそうに怜はニコニコと従順に言うことを聞く。
紗弓はそのまま彼の足を少しずらして開ける。露になった彼の一物
に顔を真っ赤にしながら、それでも気丈な表情でもう一本リボンを
取り出し、ピン、と張る。
もしかして、と怜は思った。
﹁⋮もしかして、結んじゃうんですか?﹂
﹁っ⋮そうよっ!イカせてなんてあげないんだからね!いきたくて
もいけない苦しみにのた打ち回るといいわ!﹂
キッと怜を睨んでそう言って、覚悟を決めたような顔をした紗弓は
怜の一物の付け根部分にリボンをかける。
くるくる、と巻いてきゅっと力をこめた。
﹁⋮んっ⋮﹂
自然と怜から甘い声が出る。その声に紗弓はビクッとしたが、その
まま蝶々結びをし始めた。
ヤバイ。そんなゆるやかな締め方では全く効果がない。
むしろ自分のモノに一生懸命リボンを巻いて蝶々結びをしている彼
女がすごく可愛いと思える。
多分鮮花がレクチャーしたのは、いわゆる射精管理というSMプレ
イの一つだろう。
本来ならもっと強く性器を縛り上げて射精意欲を留まらせる﹁女王
様﹂の手管の一つ。
しかし紗弓は基本性格が優しいので、無意識に手加減してしまう。
彼女なりに苛めてるつもりなのだろうが、怜から見てみればある種
懸命に彼に尽くしている紗弓が可愛くて仕方ないだけだ。
︵やば、俺、耐えられるかな︶
彼女の苛めに耐えれるのではない。自制心に耐えれるかという問題
だ。
623
可愛くて堪らなくて、しかも一ヵ月半もお預けされて、ぷちんとキ
レてしまわないかという心配。
キレてしまったら勝負など関係なく手首のリボンを引きちぎって紗
弓を犯して犯して犯しまくってしまうだろう。
それこそケモノのように。
それだけは避けたい。紗弓の拙い手管を楽しみたいというのもある
し、やはり勝負には勝っておきたい。
勝って彼女にしたいことは限りないほどあるのだから。
がんばろう俺。と怜は思った。
蝶々結びを終えた紗弓はまた鞄をごそごそとする。次は何だろう、
と怜が思っていると、紗弓はすちゃ、とそれを取り出した。
⋮筆だ。多分リボンと同じで100円ショップのものだろう。
というかもう、そういったアイテムを情事に使うために購入してい
る紗弓とか想像すると辛い。
後ろでニヤニヤと見ていたいくらいだ。
紗弓は怜の心情など知らず、ムッとした顔のまま彼をなじりはじめ
る。
﹁これから一杯苛めてあげるわ。気持ちよくなって我慢できなくな
っても許してあげないんだから﹂
﹁あれ?気持ちよくなって我慢できず、イッたほうがいいんじゃな
いんですか?﹂
﹁⋮⋮はっ!あ、そうなんだけど。違うのよ、こういう台詞があっ
て⋮﹂
わたわたと紗弓は慌て出す。怜はくっくっと笑い出してしまった。
全て鮮花の言う通りにしているのだ。他に方法の知らない紗弓には
これしかやれることがない。
﹁まぁ、イキたくてもいかせてもらえなくて参った、って言わせる
のもアリですからね。頑張って﹂
﹁くっ⋮で、でもね!そんな余裕綽綽な顔をしてても、そ、そ⋮﹂
624
ぎゅっと筆を握り締めて紗弓は怜に近づき、羞恥で顔を真っ赤にし
ながら彼を睨んだ。
﹁そんなにそのモノを固くさせてっ!な、なにを期待してるのかし
らっ!いやらしい男ねっ!﹂
﹁⋮⋮っ﹂
思わず顔を反らして怜は色々と耐える。耐えるべきは笑い声とか、
そういうものだ。
﹁こ、答えなさい。何を期待しているの?﹂
﹁⋮はい。女王様に苛めてもらうことを期待しています。僕を存分
に苛めてください﹂
ニッコリとそう言うと、紗弓はうう、と唸って筆を構えた。
﹁わ、私に苛めてもらいたいなんてとんだ変態だわ。そんなに苛め
て欲しいの?﹂
そう言って、筆でさわりと怜の首筋を触れさせ、絵を描くように下
になぞっていく。
その感覚は⋮やばい。本当に気持ちいい。
﹁⋮ん⋮はい。紗弓、いっぱい⋮苛めて?﹂
うっとりと艶のある目でそう訴えれば、紗弓は切なそうな顔をして
俯き、彼が望むように筆で責め始める。
怜の胸を責め、くるくると中心を描くように筆でなぞる。
くすぐったくて感じる。自然と熱いため息も出て怜の気持ちが興奮
で高まっていく。
腹をなぞり、やがて自身にまで筆は下りる。
﹁こ、ここ、も筆で苛めて⋮ほしい⋮の?﹂
﹁はぁ⋮。はい﹂
﹁⋮こんな筆でか、感じるなんて⋮本当に、おかしいんじゃないの
⋮?﹂
﹁ええ、僕はおかしいんです。変態さんなんです。だからもっと苛
めてください﹂
ふふ、と笑って怜は紗弓に懇願する。
625
不思議なやりとりだ。紗弓の言い方はどこか棒読みで、恥ずかしく
て堪らない言葉を無理矢理ひねり出しているようだし、攻められて
いるはずの怜は気持ちよさそうだがどこか余裕があって、紗弓が言
ってほしいセオリーの言葉を返してくる。
紗弓は怜の言葉を聞いて、仕方ないわね、と呟き、筆で彼のモノを
撫で始めた。
満遍なく、まるで出来上がった彫刻にニスを塗りつけるようにくま
なく紗弓は筆でそれをなぞる。
まじまじと見ているといろいろと興味を持ってきたのか、彼のモノ
を軽く手に取って、頭の部分や裏の部分などをこちょこちょと擽る
ように筆を揺らした。
﹁あ、その撫で方は、ダメ﹂
﹁えっ⋮だめだった!?あ、じゃなくて、ええと﹂
いきなりダメと言われて紗弓は慌てて筆を上げる。しかしムッとし
た顔をして怜を睨んだ。
﹁こら、言うこと聞くんでしょ﹂
﹁ああ⋮違うんです。言うこと聞いてますよ。紗弓がいつもダメダ
メって言ってるのと同じで、気持ちよすぎてだめって意味です﹂
﹁う⋮。そ、そんな事言っても許さないんだから。え、えっと⋮ち
ょっと待ってね﹂
ばたばた、と紗弓はソファに戻って荷物からメモ帳を取り出した。
ぺらりとページをめくって、ふんふんと読んでいる。
何だ、あのメモと怜が思っていると、紗弓はそれを片付けてまた戻
ってきた。
顔は真っ赤に染まっている。
﹁あっ、あの!﹂
﹁はい?﹂
﹁ふっ⋮筆だけで満足なの!?それならもうこれでお預けにしちゃ
うんだから。あなたが気持ちよくなって、イキたいと思っているの
はわかってるのよっ!﹂
626
﹁なるほど。イカせてくれるんですか?﹂
﹁ど、どうしてもって言うのなら、私にお願いしなさいよ﹂
ふむ、と怜は考える。少し考えて可笑しそうに肩をすくめた。
﹁別に僕はイカなくてもいいんですけど。そういう勝負ですから﹂
﹁はっ!?そ、そっか!﹂
恐らくセオリーではそこから﹁いかせてください女王様﹂と言う所
だろうが、それでは勝負にならない。
しかし思っていた台詞を返してもらえなかった紗弓は慌ててどうし
よう、とあわあわとする。
⋮面白いなぁこの子。
怜はまじまじと紗弓を観察した。見ていて本当に飽きない。紗弓に
惚れてよかったなぁとつくづく思う。
しかし彼女は頭がショートしたようにぷすぷすとし始めて、俯いた。
どうするのかな、と思っているとキレたように紗弓はむくっと顔を
上げた。
﹁もう、言葉責めとかわかんないっ!いいから大人しくしてなさい
よっ!﹂
言うなり、ガバッと紗弓は怜に覆いかぶさり襲い掛かってきた。
︵おお、技巧が思いつかなくなって積極的になった︶
嬉しくなっていると紗弓が怜の唇に口付けてくる。
ちゅ、と音が鳴って二人は見つめあう。紗弓は怜を睨みつけており、
そこにあまり艶や色香はない。
﹁⋮絶対馬鹿にしてるでしょ﹂
﹁まさか。貴女を馬鹿にしたことなんて一度もありませんよ﹂
﹁嘘。だってずっと笑ってる。⋮そんな顔、もうさせてやらないん
だから﹂
ムッとした顔のまま、彼女は怜の首筋にキスを落とし、そのままち
ろりと舐める。
ぺろ、ぺろ、とたどたどしく舐めながら、腕を伸ばして怜の自身に
さわりと触れる。
627
顔を見られたくないのだろう。怜の顔からすぐ下の首から鎖骨にか
けてをちろちろと舐めながらさわさわと怜のモノを撫でていく。
﹁⋮っ⋮!⋮さゆ、み。それも鮮花から⋮?﹂
﹁ん。ちがうわよ⋮。⋮アンタの真似をしてるだけ﹂
自分がされて気持ちの良かったことを怜にしている。
それは︱︱すごく、いい。
ぎゅ、と握ったり緩く上下に擦ってみたり。それは怜が教えたその
ままの方法。
嬉しくなる。
愛したくて仕方なくなる。
紗弓の愛撫は続く。丁寧に、いたわるような、優しい優しい愛撫は
怜を存分に焦らせていく。
しかし焦らされるだけだ。その手管では達することはできない。
﹁はぁ⋮ちょっと、後悔、してきました﹂
﹁⋮え?﹂
﹁思ったよりもこれは⋮っキツい⋮。苦しい、ですね⋮﹂
は、は⋮と息を切らせて怜は困ったように笑う。
﹁⋮ほんと?﹂
﹁ええ。こんなに⋮っ⋮焦らされたのは、初めてですから﹂
クス、と笑みを浮かべて怜は言う。紗弓は驚いた顔で怜を見た。
﹁じゃあ⋮私の、勝ち?﹂
﹁フフ、それは別。だって僕はまだ参ったと言ってませんし、イッ
てもいませんよ﹂
むっ、と紗弓の顔がしかめられる。だが彼は目を細めて不敵に笑っ
た。
﹁ですが紗弓のその方法では僕はいつまでたっても達せませんし、
参ったも言う気はありません﹂
﹁何よ、下手ってこと?﹂
﹁下手というか⋮まぁ、未熟、ですね。そういう所がとても良いん
ですけど、達せるか、と言われるとちょっと﹂
628
余裕ある笑みでそういえば、紗弓は面白くなさそうに眉をひそめる。
そんな彼女に怜は聞いてみた。
﹁ねぇ紗弓?僕のココ、愛撫の仕方⋮他に鮮花から聞いてないんで
すか?﹂
﹁ここ⋮﹂
言われるままに彼女はチラ、と彼のモノを見てハッと思い出したよ
うにみるみると顔が赤くなっていく。
やはり思った通りだ。
射精管理なんて紗弓にとっては高度な事まで教えておいて、それを
教えていないわけがない。
本当は自分が教えたかったけど、まぁ、詳しい手管は自分が手ずか
ら教えていけばいい。
怜は腕を後ろに上げたまま、紗弓を見つめて目を細めた。
﹁それをしてくれたら、イッちゃうかも?﹂
﹁⋮⋮ほ、ホント?﹂
戸惑うような、困ったような顔をしてそう聞いてくる紗弓に、彼は
こくりと頷く。
﹁上手にできたらね?﹂
﹁⋮っ﹂
挑発するような言い方。
紗弓の対抗心、勝気な性格に火を点してやる。
﹁わ、わかったわよ!⋮ちゃんと出来るんだから。見てなさいよ﹂
キッと彼を睨んで、もぞもぞと下に移動していく。それを怜はくす
くすと見ながら彼女の行動を止めた。
﹁違いますよ。﹁女王様﹂はそんな格好ではしません。教わらなか
ったんですか?﹂
⋮え?と顔を上げる紗弓に意地悪そうな笑みを浮かべて言う。
﹁普通は僕に跨るように、そして方向は逆です﹂
﹁そ、そうなの?﹂
﹁ええ。その体位が男の心を煽るのです。女王様はそうやって巧み
629
に男心を操作していくんですよ﹂
そうなんだ⋮。と紗弓は素直にごそごそと体を逆方向に変える。
ホント、すぐ信じるんだなぁ。
怜は彼女が見てない事をいいことにニヤニヤとした笑みに変わった。
﹁こ、こう?﹂
﹁そう﹂
紗弓の目の前に怜のモノが、そして怜の目の前に彼女の秘所が露に
見える。
ショーツで覆われているが総レースになっている為、レース越しに
花びらが見えて非常に蠱惑的だ。
良い眺めに目を細めていると、紗弓が覚悟を決めたように怜の熱く
猛るモノに手を這わせ、唇を合わせた。
ちゅ、と音が鳴った後、ちろちろと頭の部分を舐めていく。割れ目
の部分をなぞるように小さく柔らかな舌でゆっくりと。
はむ、と先の部分を食べるように唇を動かして、傘の部分をぺろぺ
ろと舐める。
手淫と同じように、丁寧に丁寧に、優しく、いたわるような口淫。
相手をイカせるだけのような作業的でもなく、技巧に長けたような
手馴れたものでもなく、戸惑いつつも怜を気遣うような、紗弓らし
いといえばらしい仕草。
初めて、というのもあるのだろう。初めてさせた手淫のように、計
るような試すような舐め方。
﹁ん⋮っはぁ⋮﹂
焦らされた体が熱くなる。
勝負でなければもっと堪能していたいが、それは次の機会にゆっく
りと。
怜は腰の力を使って体と顔を上げ、紗弓の秘所をショーツ越しに舐
め始めた。
﹁んくっ!?﹂
はむはむと舐めていた紗弓の腰がぴくんと上がった。それでも怜は
630
行為をやめず、舌先を尖らせてレースの間を縫うように花弁を舐め、
食べるように唇を動かし、吸い上げる。
﹁あっ⋮や⋮な⋮なにっ⋮!?﹂
慌てたような紗弓の声に、じゅる、と音を立てて唇を放した怜はク
ス、と笑う。
﹁何って⋮奉仕してるんですよ、女王様﹂
﹁ほ、ほう⋮し?﹂
﹁ええ、愛しい愛しい女王様にも気持ちよくなってもらいたいんで
す。僕ばかりでは悪いですから﹂
ふふ、と息で笑って怜はまた紗弓の花弁を舐める。
舌先で探り当てた花芯をつつき、ちゅ、ちゅ、と音を立てて強く吸
い、ちろちろと舌を動かした。
﹁はぁ、そん、なこと⋮んっ⋮!﹂
﹁ああ、忘れてましたけど女王様?先にイッてはいけませんよ?僕
がイクまでちゃんと我慢してくださいね﹂
﹁えっ⋮なん⋮っで!?﹂
﹁そんな。先にいく女王様なんて聞いたことありませんよ。余裕を
持って奉仕を受けるのが女王様の矜持というものです﹂
好き勝手な事を言って、怜はくちゅくちゅと紗弓の秘所を攻める。
唾液と蜜でショーツは用を成さないほどに濡れており、紗弓の声は
高く高く上がっていく。
﹁ほら、ちゃんと舐めて?そんな舐め方では達することなどできま
せんよ?﹂
﹁んっ⋮ん⋮は、はぁ﹂
泣きそうな声で快楽に耐え、紗弓はふるふると怜の自身を舐める。
だが、彼の攻め方には容赦がなく、いつもよりずっと激しくて彼女
は口に含むのがやっとという有様になっていた。
ぐちゅ、ぐちゅ、ちゅうっ⋮。
﹁あっ⋮あ、だめ、あ⋮、もう⋮だめ⋮っ!やぁぁっ⋮!﹂
ふるふると痙攣する紗弓の腰がびくんと跳ねる。とろとろと蜜が流
631
れて、怜はそれを味わうように舐めて口にした。
﹁はぁ⋮﹂
紗弓はくたりと怜の腹の上に倒れる。どうやら腰が抜けたらしい。
くすくすと笑った怜は、ふっと人の悪い表情に変わった。
﹁おや、腰が砕けてしまいましたか?情けない女王様ですね﹂
﹁う⋮う⋮ぅっ﹂
﹁でも、僕はまだですよ?勝負はまだ続いています。さあ、次はど
うするんです?どこを攻めてもいいですよ?﹂
﹁ん⋮はぁ⋮。う⋮﹂
かたかたと震えた肩がぴくりと動く。
しかしゆるゆると怜のモノに触れるだけで、それ以上のことはして
こない。⋮出来ない。
怜はゆっくりと腕を下ろし、目を細めた。
﹁もしかして、もう打つ手無し、ですか?ふふ⋮﹂
蝶々結びをしていたリボンの端を唇で引っ張り、拘束を解く。
しゅるしゅると布の音が鳴って怜の腕は完全に自由になり、むくり
と起き上がった彼は優しく紗弓の体に触れ、体位を変えた。
彼女に覆いかぶさる、いつもの体位。
﹁可愛い下着⋮。やっと触れる﹂
ふわ、とベビードール越しに胸を触り、すっかりぐしょぐしょにな
った紗弓のショーツを脱がせる。
﹁うっ⋮ま、まだ、しょうぶ⋮は﹂
﹁もう打つ手無しでしょ?それとも、何かするつもりだった?﹂
﹁そ、それは⋮﹂
﹁⋮思いつかない?じゃあ紗弓の負ーけ﹂
はい
くすくすと笑って怜は紗弓の秘所に自身をあてがう。舌で愛撫した
そこは唾液と蜜で充分に濡れており、ずぶずぶと挿入っていく。
﹁あっ⋮あ⋮!﹂
﹁ああ⋮暖かい⋮。気持ちいい。あ、これもう解くね?可愛いけど﹂
そう言って自分の自身に括られていたリボンも解き、ぐっと腰を深
632
めて付け根まで差し込んだ。
﹁れ、怜⋮っ!私⋮っ﹂
﹁あー、色々言いたい事はあるんだろうけど、ちょっと俺も限界だ
から﹂
﹁⋮え?﹂
﹁先に乱暴にいっちゃうけど、ごめんね?﹂
キョトンとしたような紗弓に怜は穏やかな表情を凶悪な笑みにガラ
リと変え、いきなり紗弓の腰を掴み、力を込めて激しく腰を動かし
た。
﹁あっあっ、あっ!?やっ!﹂
はぁはぁと息が切れるのは怜の吐息。ケモノのような荒々しい息を
吐き、紗弓の嬌声を聞きながら容赦なく彼女のナカを突き上げる。
力付くで、暴力的で、紗弓を気遣わない抽挿。腰の速さは収まらず、
紗弓は彼のされるがままにガクガクと体を揺さぶられた。
﹁⋮くっ!﹂
﹁んぁっ!!ああ⋮っ﹂
ぐぐ、と怜の自身は紗弓の最奥に突き、そのまま果てる。欲情の証
が紗弓のナカを犯していく。
怜は栓をするように自身を抜かず、紗弓をぎゅっと抱きしめた。
﹁はぁ⋮思った通り、気持ちよさがヤバすぎる﹂
くすくすと笑った後、彼女の唇にキスをして口腔を舌でまさぐる。
同時に胸を弄り、腰を抜かしたままの紗弓はそれでもぴくりと肩を
震わせた。
﹁あ、れ、怜っ⋮?﹂
﹁⋮なぁに?﹂
﹁あの、勝負は⋮私の、負け⋮なの?﹂
﹁そうだよ。でもいいセンいってたね。あのまま焦らされ続けてた
ら参ったって言っちゃってたかも﹂
悪びれない怜の言葉に、ええーっ!と紗弓が怒り出す。
それはそうだ。怜があそこで秘所を舐めたりしなければ紗弓の勝ち
633
だったかもしれないのだから。
﹁だ、だからあんな⋮っ!ず、ずるいーっ!ずるい!﹂
﹁ごめんね∼?でも、俺の言うこと素直に聞いちゃったのが紗弓の
敗因です﹂
するとぐっとして、みるみると悔しそうな顔をする。
ああ、可愛いなぁと怜は微笑んで、紗弓の唇に再びキスをした。
﹁そんなに怒らないで。お詫びに紗弓を思い切り気持ちよくしてあ
げるから﹂
﹁き、気持ちよく⋮って!あっ⋮!﹂
再び大きくなった怜の自身が紗弓のナカで主張を始め、紗弓はその
感覚にぴくりと体を揺らす。
﹁ふふ、お預けくらって、散々焦らしてくれたんだ。何回できるか
な?﹂
ゆるゆると抽挿を始め、紗弓が甘い声を上げていく。
怜は楽しそうに笑って愛しい彼女の耳元で囁いた。
﹁⋮ねぇ?今夜は⋮寝れると思うなよ﹂
﹁え⋮。きゃ⋮っ!ああっ!﹂
再び荒々しく突き始める。紗弓はすでに体がふらふらで、嬌声とい
うより悲鳴を上げた。
文字通りケモノになった怜は容赦なく彼女のナカをかき回す。
何度かそうして荒く扱われた後、優しく優しく丁寧に抱かれて、次
は体位を変えて︱︱。
最後には疲労で紗弓は気を失ってしまうが、尚怜は彼女のナカに欲
情を出し続けたのである。
634
勝負!紗弓女王様と下僕怜 2︵後書き︶
想像通り完敗でしたね。意地悪でずるい怜です。紗弓可哀想に!
こういう会話や、コミュニケーションを主とした行為の表現は楽し
いですね。
ちなみに、この日の二人は連泊なので、次の日も違うホテルでイチ
ャイチャしてます。
その日は多分﹁勝負﹂の勝者である怜が紗弓をいじり倒します。
自分がされた事を全部やり返した上に、あの﹁鮮花メモ﹂をニヤニ
ヤしながら見つけてメモに書いてある事を粗方させたりしたり、ま
た、あらかじめ用意していた玩具などもちょっと使ってみたりして、
キラキラしながら﹁SMごっこ﹂を楽しんでいることでしょう。紗
弓はたまったもんじゃないですね!
でも、勝負に勝ったとしても怜は紗弓にめろめろな時点で負けです
︵笑︶
635
共に登ろう、幸せの階段
﹁まだ怒ってるんですか?﹂
﹁⋮っも、もう怒ってないわよ﹂
ぷくぷくもこもことした泡風呂の中でふてくされた顔をした紗弓を
怜が後ろから抱きしめる形で二人は湯船に浸かっていた。
あれから︱︱。
紗弓が気絶してそれからも何度か致した後、怜は崩れるようにぱっ
たりと倒れた。睡魔に負けてしまったのだ。
そうして二人はベッドで絡みつくように寝ていて、先に起きたのは
紗弓だった。
そして彼女は悲鳴を上げる。何せ二人とも裸で、さらに下半身を見
れば怜から出されたものでシーツはびしょびしょに濡れており、紗
弓の太腿もべたべたでドロドロだったのだ。
驚いた彼女は気持ちよさそうに熟睡してる怜をはたいて引っぱって
起こし、事情を説明させる。
避妊具をつけていなかったこと。
それを怜はあっさりと認めた。一応今は安全日という時期だから非
常に妊娠しづらい時期であるということも説明に加えて。
一言くらい断りなさいよ!と怒ればすみませんと素直に謝り、悠々
と説明して承諾を伺うような余裕がなかったんです、と頭を掻いた。
妙にその仕草が子供っぽくて、悪い悪戯をした子供が母親に怒られ
てる時のような表情だったので怒っていた紗弓もつい毒気を殺がれ
てしまい、とりあえずべたべたして気持ち悪いからと二人で風呂に
入ることにしたのだ。
そして今に至る。
﹁あ、安全日、って本当に大丈夫なの?﹂
636
ぷくぷくとした泡を吹きながら後ろの怜に聞くと、彼はぎゅ、と紗
弓を抱きしめる腕に力をこめた。
﹁100%ではないですよ。可能性はあります。それが危険日に比
べて確率が少ないというだけです﹂
しかしそれは避妊具を装着していても同じだ。何にしてもその行為
をする以上、必ずリスクは発生する。
それは判っていても、思わず紗弓は﹁そうなんだ﹂と少し顔を俯か
せる。
彼女の不安を感じたのか怜が紗弓の耳元に顔を寄せ、静かに囁いた。
﹁⋮嫌、でしたか?﹂
﹁え⋮?﹂
﹁僕と、そういうリスクを背負う、事⋮﹂
紗弓は目を丸くして怜に振り向いた。彼はいつもの笑顔を引っ込め
て真面目な顔つきで彼女を見ている。その目は、憂いと怯えに揺れ
ていた。
﹁だ、だって、こ、高校生、だし⋮﹂
﹁⋮そうですね。確かに浅慮だったことは認めます。⋮けど、僕は
⋮紗弓と﹁そう﹂なりたい﹂
ぎゅう、と抱きしめる。
行かないで、離れないで、置いていかないで。
どうか僕を見限らないで。
何故だろう。彼の心の声が聞こえてくるようだ。紗弓は抱きしめら
れるその腕から、怜の胸から、溢れそうな程の恐れを感じた。
どうしてそんなに怖がっているの?怯えているの?
思わず、体を彼に向ける。二人はふわふわした泡の立つ湯船の中で
向かいあった。
紗弓はまじまじと目の前にいる男を見る。
こんなに長身で強靭で逞しい体を持っていて、道を歩けば殆どの女
637
性が振り返るほどの綺麗な容姿を持つ男なのに、今はとても弱弱し
くて迷子の子供のように見えた。
︱︱馬鹿だなぁ、怜は。
ふっと紗弓は笑う。
確かに不安はある。未知の可能性に恐れがないわけではない。だけ
ど。
紗弓は彼を安心させるようにぎゅ、と抱きしめた。手を大きく伸ば
しても小柄な自分では包み込むようには抱きしめられない。だけど
思い切り力をこめる。
﹁⋮嫌じゃないよ。私も怜とそうなりたい。だって怜は私のお婿さ
んになるんでしょ?今更もう、離さないんだから﹂
﹁さゆみ⋮﹂
彼の声に呼応するように紗弓は顔を上げた。少し体をのばして怜の
唇にそっと自らの唇を重ねる。
ちゅ、と軽く音が鳴ってゆっくりと二人の唇が離れた後、紗弓は軽
く睨むように怜を見てから意地悪く笑って、ぴっと人差し指を立て
た。
﹁でーも!やっぱり私は高校生で貴方はまだ学生なんだから。毎回
っていうのはダメよ。それからちゃんと次からは私に申告すること。
それなら⋮時々なら、いいわ﹂
﹁⋮っ!さゆみー!﹂
思い余ったようにガバッと怜は紗弓を抱きしめてくる。ばしゃん、
と大きく水音が鳴った。
﹁ふぎゃ!い、痛!苦し⋮っ!﹂
﹁嬉しいっ!紗弓、紗弓!もうなんて優しくて可愛い恋人なんだろ
う!ああもう大好きです!いっぱい、いっぱいしましょうね!さし
当たっては今夜も!﹂
﹁ちょっ⋮!時々ならって言ったでしょー!?﹂
ばしゃばしゃともつれ合う恋人達で泡はもこもこと増えていく。ど
638
さくさに紛れて怜は思い切り紗弓の柔らかな胸を堪能し、あちこち
にキスを落としては紗弓に頭をはたかれるのだった。
◆◇◆◇
日は改めて、丁度紗弓の中間テストが終わったころの休みの日、怜
と紗弓は待ち合わせをして紗弓の家に向かっていた。
﹁な、なんか緊張するわね。改めて紹介すると思うと﹂
﹁ふふ⋮そうなんですか?普通緊張するのは僕の方だと思うんです
がね﹂
そう言う割に怜の表情はいつもと全く変わらないように見える。も
ともと怜は感情が読みづらい。
それでも紗弓に対してだけは他の人より見せている方だが、基本的
にはわかりづらい男なのだ。
今日は前に麗華が言っていたように、彼女へ怜を紹介する日。緊張
しないほうがおかしい。
紗弓はそっと伺うように怜を見上げると、不安そうに問いかけた。
﹁怜は⋮緊張、してないの?﹂
﹁してますよ?ドキドキしています。何せ麗華さんに会うのは初対
面以降初めてですからね﹂
繋いだ手をぎゅっと握って怜はにこやかに笑う。⋮本当に、全くそ
んな風には見えない。
彼の手には手荷物が提げられていて、それがお土産ということに紗
弓は気づく。
﹁それ、お土産?﹂
﹁ええ。本当はお酒でもと思ったのですが僕はまだお酒を買える身
分ではないので⋮無難におつまみと、お菓子を少し﹂
ナルホド、と紗弓は頷く。のんびりとしていてもこういう所はしっ
かりとしている。
そうやって話しながら歩いていると、程なく紗弓の住むマンション
639
へ到着した。
オートロックを開錠してエントランスに入り、エレベータに乗る。
どきどき、どきどき。
麗華はああいう人だからいきなり怒られるということはないだろう
が、ある意味行動の読めない彼女なので、一体あの人は怜に何を言
うつもりなのだろうとハラハラする。
﹁大丈夫ですよ、紗弓。気を楽にして、はい深呼吸﹂
本来は気を使われるべき怜のほうが紗弓の背中を撫で、優しい言葉
をかけてきた。
彼女はドアの前で言われるままに深呼吸をする。
そして意を決したようにドアノブに手をかけた。
﹁⋮いくわよっ!﹂
﹁はい﹂
くすくすと笑う怜を後ろに、紗弓はえいやっとドアを開け放ったの
だった。
﹁ごめんねぇ∼!でもどうしても佐久間君と話したくて。来てくれ
てありがとうね﹂
﹁いいえ、僕もちゃんとしたご挨拶が遅れて。あ、これお土産です。
つまらないものですが﹂
あらまぁ気を使ってもらっちゃって!とまるで親同士でする会話の
ようなやりとりをしながら怜が麗華に紙袋を渡す。
麗華はそれを受け取って、早速ごそごそと中身を取り出した。
﹁まぁっ鮭とば!しかもいいやつね、これは。さらに佃煮の詰め合
わせにティラミスチョコレート!これ、美味しいのよね!それにし
ても、なかなかシブい所を突いてくるわね。さすがだわ﹂
﹁紗弓から麗華さんがお酒好きだと伺ったものですから。喜んで頂
けて幸いです﹂
にっこりと怜が微笑み、まぁまぁ立ち話も何だし、と麗華がダイニ
ングテーブルの椅子を勧める。
640
紗弓と怜が並んで座り、麗華が向かい合う形で座った。
﹁あ、一応お茶淹れたのよ。はい﹂
﹁ママがお茶!?﹂
紗弓は驚くが、麗華が用意したのは3つのマグカップに緑茶のティ
ーパックが入っているだけのもの。
彼女はカウンターに置いてあるポットを取って、こぽこぽとお湯を
入れ始めた。
﹁ああ、淹れるってそういうことね、びっくりした﹂
﹁え∼?なにが?あ、濃さは自分で調整してね﹂
麗華はいつも通りだった。彼女は茶葉でお茶を淹れるなんて高等技
能はできない。やらない。
怜は内心で笑いを堪えながら軽くティーパックを湯の中で揺らした
後、取り出して添えてあった小皿に乗せる。
すると麗華がまたカウンターに手を伸ばし、コンビニの袋を取って、
中身を取り出した。
いわゆるコンビニスィーツというやつだ。巷で人気のある、スプー
ンで食べるクリームたっぷりなロールケーキである。
それを3人の前にてんてんと置いて、プラスチックのスプーンも添
えてきた。
﹁これで面目は整ったわね。じゃあ改めて、佐久間くん﹂
﹁はい﹂
本題だとばかりに麗華はテーブルの前で手を組み、ずいっと怜に体
を向けてきた。いよいよか、と紗弓はプラスチックのスプーンを袋
から取り出しながらチラリと彼を見る。
﹁紗弓から聞いたんだけど、あなた、娘の婿になりたいんですって
?﹂
﹁ええ。僕は佐久間の名を継ぐことが許されない身分ですから、い
ずれはそうしたいと考えています﹂
﹁ふむ?何か理由がありそうな感じね。話せる事情なのかしら?﹂
﹁勿論。紗弓のお母様に話せない事情などありません﹂
641
話して、と無言で促す麗華に、怜は淡々と話し始めた。殆ど紗弓が
鮮花から聞いた話と同じであるが、微妙に伏せてある。
主に伏せたのは女性関係だ。彼が話したのは、近親相姦の息子であ
ること、両親は他界しており生まれの境遇から佐久間家に疎まれて
いること。そしていずれは絶縁される立場である事。
﹁⋮ふぅん、成程。思ったよりもハードな人生歩んできたのね。そ
の笑顔と物腰はそうやって家をたらい回しにされた故の処世術だっ
た、というわけ、か﹂
ふむふむ、と麗華は頷く。紗弓は内心彼女が怜に対して引いたりし
ないかなと心配していたが、そういうそぶりは全くない。
暫く何か考えるように腕を組んで目を瞑った麗華はふっと思いつい
たように目を開け、怜の顔をまっすぐに見た。
﹁じゃあこっちからいくつか質問していい?﹂
﹁はい。何なりと﹂
微笑みのまま目を細めて頷く怜に麗華は﹁そうねぇ⋮﹂と指で顎を
なぞってから、とりあえず先にウチの事情を説明しておくわね、と
真城家の事情を話し始める。
事情、といっても大したことではない。数年前に麗華の夫であり紗
弓の父が亡くなっていること、麗華は検事をしていて毎日忙しいと
いう事くらいだ。
軽い説明を終えた後、改めて麗華は怜に質問をする。
﹁まずは婿になりたいってことは、結婚したいって事よね。色々計
画は立てているのかしら﹂
﹁そうですね。今僕が大学で専攻しているのは薬科学科なのですが、
そこで得た過程を経て研究分野で仕事ができれば、と思っています﹂
﹁あら、研究畑志望?その顔なら薬学で6年頑張って免許まで取っ
て薬剤師にでもなったほうがよさそうなのに﹂
﹁6年も学費を出してもらうのに抵抗があって。それに⋮接客関係
に繋がる仕事はちょっと。それよりは研究室で缶詰になって只管試
験管と睨めっこしているほうがよほど性に合うんです﹂
642
ふぅん、意外ねー、と笑う麗華に怜も困ったように笑う。
紗弓は彼がそこまでちゃんと考えていたなんて、と少し驚いたよう
に彼を見ていた。
すると怜が彼女の視線に気がついて、少し意地悪そうに片眉を上げ
る。
﹁なんですか?そんな意外そうな顔をして﹂
﹁あ、う、ううん。なんか、ちゃんと考えてるんだなぁ⋮って﹂
﹁酷いですね。僕が何も考えずに責任取る、なんて言ってると思っ
てたんですか?﹂
くすくすと言われて紗弓は慌てて﹁そんなことないけど﹂と両手を
振る。
麗華はそんな二人を楽しそうに眺めて、また質問をした。
﹁じゃあ結婚は、卒業後、就職してから?﹂
﹁はい。何が何でも職は見つけます。今ご厄介になっている家にも
養育費を返さなくてはいけませんし、しばらくの間は紗弓に負担を
かけてしまうかもしれませんが⋮﹂
そう言って、怜は紗弓に伺うような目を向ける。
彼女はうん、と大きく頷いた。
﹁私にかかる負担なんて考えなくていいわよ。そういうのはどうに
でもなる問題なんだから﹂
はっきり力強くそう言うと、怜は嬉しそうに目を細める。
﹁あらあら、すっかり仲良くなっちゃって。ママは嬉しいわ∼!あ
んなに男っ気が無かった紗弓がねぇ﹂
ニヤニヤとからかわれて紗弓はムッとした顔をして麗華を睨む。
﹁もう!からかわないでよ。それでママはどうなの?怜のこと、認
めてくれるの?﹂
唇を尖らせてそう言うと、麗華はふふ、と笑ってお茶を一口飲む。
﹁認めるもなにも。紗弓がめろめろに好きな男、認めないわけがな
いでしょ?我が娘の見る目はちゃあんと信用してるつもりよ。佐久
間君もしっかりと紗弓のこと考えてるみたいだしね。紗弓以上に﹂
643
鮮やかとも言える艶のある笑みを浮かべて麗華は楽しそうに言った。
そして﹁うーん﹂と何かを考えるように天井を見上げる。
その表情、仕草が何かをたくらんでいるように思えて、紗弓は胡乱
げに母を見上げた。
﹁⋮なに、考えてるの?﹂
﹁うーん?いえね。んー⋮佐久間くん、いま1年よね。じゃあ卒業
して⋮仕事はじめて⋮4年、軌道に乗って5年⋮﹂
ぶつぶつと麗華は独り言を始める。
こういう時の彼女は大概ろくなことを考えていない。経験でそれを
知っている紗弓はちょっとちょっと!と麗華の思考を止めに入った。
﹁なんか妙な事考えてない?気が早い事っていうか﹂
﹁あら、5年なんであっという間よ?よしっ!佐久間君⋮じゃなく
て怜くん。いや、むしろマスオ君!﹂
﹁マスオ!?﹂
がびん、と紗弓がのけぞる。怜は面白そうに首をかしげて何でしょ
う、と言ってきた。
﹁うちに婿としてくるっていうなら、貴方はマスオ君よ。マスオ君
は義親に絶対服従!いいわねっ!﹂
﹁はい﹂
﹁はいじゃなーい!?ママも何考えてるのっ!しかもマスオさんは
婿じゃないわよ!マスオさんはフグタさん!義親はイソノ家!﹂
詳しく説明する紗弓に麗華はまぁそんな細かい事は置いといて、と
笑う。
﹁怜くん。貴方本当にウチに婿りたいのね?絶対?私に誓っちゃう
?﹂
﹁ええ、誓っちゃいます。僕は紗弓としか結婚したくありません﹂
﹁ちょっとー!なんで私より先にママに誓っちゃってるの!?﹂
ぎゃあぎゃあと喚く紗弓に麗華はアハハと笑った後、パシと、手を
打った。
﹁よしっ!決めた!﹂
644
﹁⋮何を?﹂
すごい嫌な予感がする、と紗弓がジト目で母を見れば、彼女はにん
まりとする。
まるで悪戯を思いついた子供ような笑顔だ。
﹁おうち建てちゃおーっと!﹂
﹁はぁぁぁー!?﹂
思い切り呆れたような顔をする紗弓に、麗華はニコニコと言葉を続
ける。
﹁ママと紗弓だけだったら別にいっかーって思ってたのよね。紗弓
がそのうちオヨメに行っちゃったら私一人になっちゃうし、そした
ら一戸建てなんて無駄でしょ?だけど婿として怜くんが来るならお
うち建ててもいいかなーって﹂
﹁いいかな⋮って、い、一緒に住む気なの!?﹂
﹁当たり前よ。あ、二世帯になっちゃうけど怜くんはいい?勿論プ
ライベートは尊守するわよ?孫もいっぱい欲しいしね。1階なら物
音も響かないし、思いっきり子作りしていいわよ!﹂
﹁僕は構いませんよ。ご配慮ありがとうございます。遠慮なく頑張
りますね﹂
あっけらかんと言う麗華や、それを爽やかな笑みで返す怜に、紗弓
はぱくぱくと口を動かすが、言葉が出てこない。
何だろう、一人、状況についていけない。
紗弓がおたおたとしている間にも二人は会話が弾んでいく。
﹁そのうち怜くんにもローンの負担をお願いしちゃうと思うけど、
まぁ半分以上は私の稼ぎで出せると思うわ。貴方は貴方の役目を終
わらせて、余裕ができたら手伝って頂戴ね﹂
﹁ええ、当然手伝わせて頂きます。予定はいつごろにしましょうか﹂
﹁今すぐ建ててもしょうがないから、ゆっくり計画立てて⋮土地探
しはそうね、3年後くらいが妥当かしら。私の職場と怜くんの職場
の距離で丁度いいとこ、探したいものね。一応不動産関係で知り合
いもいるから、そのへんは任せてくれてかまわないわ﹂
645
﹁ちょっとちょっとー!待ってよ!私を置いていかないで!﹂
とにかくと紗弓が慌てて二人の会話を止める。
麗華と怜は会話を止めて、紗弓を見た。二人の目線が一気にきて思
わずたじろぐ。
﹁あ、先に結婚式ですよね?大丈夫ですよ。今から結婚資金を貯め
ておきますから安心してください﹂
﹁ちがーう!結婚式の心配をしてるんじゃないのっ!あ、あんた、
いいの?ママと一緒に住むのよ!?そういうの普通嫌じゃないの?
大丈夫なの!?﹂
二世帯なんて、しかも男性が女性の親と一緒に住むなんて嫌ではな
いのだろうか。そう思って聞くと怜は何か問題が?といった風に首
をかしげた。
﹁別に僕は嫌じゃないですよ。麗華さんが言うように夫婦の営みも
容認してくださってますし﹂
﹁ふ、ふうふのいとなみって⋮!ほ、本当に本当?いっとくけど、
ママは何もしない人なのよ!?﹂
﹁何もしないってどういうことよ!立派に稼いでるじゃない!ママ
ほどできる女はいないわよ!?﹂
稼いでるのは認める。だが紗弓が言う﹁何もしない﹂というのは主
に家事のことだ。彼女は本当に何もできない人間なのである。
しかし怜はそれも了承済みのようにこくりと頷いた。
﹁存じてますよ。料理もしていない感じでしたし⋮。でも逆に僕は
心配だったんです。お二人がちゃんとした食生活をしているのかな
って﹂
﹁ちゃんとした食生活って⋮﹂
﹁きちんとお料理したものを食べてるのかな?って。だから二世帯
になるのはむしろ喜ばしい事だと思いますよ。僕がちゃんと御飯、
作って差し上げますね。それくらいなら仕事しながらでもできます
から﹂
にっこりと笑って言う。
646
え、何だそれは、怜が御飯を作るのか?エプロンつけて?何かそれ
は、女としてすごくプライドが傷つけられる気がする。
紗弓は思わず怜に噛み付いた。
﹁そ、そんなのさせるくらいなら、私がちゃんと習う!そ、そうい
う学校行って、勉強したらいいんでしょ!たまにならいいけど、毎
日の御飯は私がちゃんと作るわよっ!!﹂
そう言うと、麗華が﹁それはいい案ね!﹂と手を打った。
﹁どうせなら後学にもなるし、仕事のタネにもなるんだから栄養学
でも習ったらどう?調理師専門学校でもいいけど、別にプロの調理
師になりたいわけでもないんだったら栄養士でもいいじゃない﹂
﹁それはいいですね。基本料理なんて慣れが一番ですから。それに
栄養士なら短期大学でもありますし、僕が丁度卒業する時、紗弓も
卒業ですぐに結婚ができますね﹂
あれよあれよと紗弓の進路が決まってしまう。
おかしい。なぜこんなにこの二人は波長がぴったりなのだろうか?
そもそも紗弓は警察官のような仕事にあこがれていたのに、いつの
間にか栄養士に方向が変わっている。
﹁ちょ、待ってよ。料理は習うけど、私は警察官みたいな仕事に就
きたいのよ。だからそういう方向に大学を選びたいって⋮﹂
﹁警察官みたいな仕事って何よ。国家試験でも受けて税関職員にで
もなるの?﹂
﹁うっ⋮ま、まだ考え中だけど!﹂
﹁紗弓、そんな必死になって職に就こうと考えなくてもいいんです
よ?むしろ無理ですから﹂
無理!?と彼女が目をむくと、怜ははいと頷いて極上にイイ笑顔を
見せる。
﹁きっと卒業する頃か卒業後すぐ子供ができるでしょうから。就職
活動をしたところで産休を取るはめになるだけですよ﹂
﹁に、妊娠確定なのー!?﹂
がーん、と紗弓がよろけていると麗華が﹁さっそく孫に顔が見れる
647
なんて楽しみだわっ﹂と好き勝手な事を言って喜んでいる。
﹁栄養学は習っておいて損はないと聞きますよ。独学でも勿論それ
なりの事ができると思いますけどね。それに勉強を頑張って調理師
免許も取っておけば後々仕事をするとしても選択肢が増えますよ?﹂
怜の言葉に﹁成程⋮﹂と思わず紗弓は腕を組んで考える。
その間にも二人はどんどんと話を進めていき、気づいた時にはすで
に話を撤回するどころの話ではなくなっていたのだった。
648
共に登ろう、幸せの階段︵後書き︶
麗華と怜&鮮花はすごく仲良くなりそうですね。
属性がピッタリ合います。
この2世帯住宅の情景は想像するととても楽しそうだなぁと思いま
す。
孫なんかできたらもっと騒がしくなりそうです。
649
最終話。君は僕の宝物
その日は快晴だった。雲ひとつない綺麗な青空は気分を気持ちよく
させる。
紗弓は自分は晴れ女だと思っている。
なぜか大事な日は不思議と雨になったことがないのだ。
そう、今日は紗弓にとって大事な日。
怜が今現在世話になっている家へ挨拶に行く日。
紗弓は短大2年になっていて、怜は大学4年生。二人は今年、卒業
する。
この数年はのんびりとしているようで、あっという間にすぎていっ
た。
年月を経て変化はある。
親友の響子は無事に図書館司書の仕事に就き、今現在は本に囲まれ
ながらも楽しく騒がしい恋人と幸せな日々を過ごしている。
彼女の恋人、八雲は必死の口説きで響子が高校3年になる頃やっと
思いを通じ合わせることができ、今は怜と同じ大学4年生。医療機
材関係の会社で営業職がすでに内定で決まっている。
怜から聞いた話によると結婚はすでに視野に入れているようで、多
分紗弓達と時期はそう変わらず、式を挙げることだろう。
鮮花は何と、すでにもう結婚を済ませていて、今はもう人妻という
立場である。
彼女が高校卒業してしばらくした頃、ひらりと紗弓の元に招待状が
届いたのだ。あの驚きは言葉に言い表せない。
相手はやはり年上の男。妻を早くに亡くした35歳の男と本人曰く
大恋愛の末、スピード結婚に至ったという。
夫はやはり、そちらの方面ではマゾヒストなのだろうか。非常に気
650
になるが、怖くて聞けない。だが結婚式で拝見した時はとても穏や
かで上品そうな男性だったので、できれば普通であって欲しいと紗
弓は思う。
最後に護。実は彼は高校2年の頃から一人の女性に惚れ、ひたすら
に彼女を狙っていたらしい。
丁度その頃、周りの女子生徒にアイドル扱いされても1年の時ほど
はしゃがなくなったり、お姉様がどうの、というような事も言うこ
とがなくなって不思議に思っていたのだが、そういう事だったのだ。
相手は2年の時に赴任してきた図書室司書の女性。当時22歳。
彼女に一目ぼれした護は足繁く図書室に通い、高校の2年間を使っ
てその司書の心を解し、彼の卒業と同時に無理を通して恋人の関係
に昇華した。
これも怜から聞いたのだが、ほぼ襲ったも同然らしい。実は恐ろし
い程肉食系だったのだ、彼は。
そして押し切るように付き合い始めて、今はすっかり仲良くしてい
るらしい。
それが紗弓の周りで起こった変化である。大きかったり、小さかっ
たり、色々ある。
だが変わらないのは、自分と怜の関係だ。二人はずっと仲良く幸せ
に恋人関係を続けている。
時々怜が怒ったり紗弓が怒ったりして喧嘩する事もあるが、根底の
部分では深く愛し合っていて、その絆は何か物事が起こる度に深ま
っている。
紗弓はもう、お互いの結婚を何の疑問も持たずに受け入れていた。
﹁もうすぐですよ。そこの角を曲がったすぐ先です﹂
隣で怜が紗弓と手を繋いだまま教えてくれる。
彼女はうん、と頷いて再び空を見た。秋口の空は青の色がずっと澄
んで見える。
651
怜は気持ちよさそうに秋の空気を堪能しながら歩く愛しい彼女を見
た。
紗弓は︱︱綺麗になった。
高校の頃はどちらかというと可愛い、という表現のほうがずっと強
かったのに、ここ最近は綺麗という言葉のほうが似合うように思え
る。勿論、あの素直じゃない性格や照れ屋な所は変わらず可愛いの
だが。
短大を機に、紗弓はとうとう眼鏡からコンタクトレンズに変えた。
アルバイトを始めて少しお金に余裕ができたからだろうか。極度の
乱視で最初は﹁見えすぎて気持ち悪い﹂と言っていたが、しばらく
すると感覚に慣れてきて、今はすっかりコンタクト中心の生活にな
っている。
それも原因にあるのだろうか。彼女は随分と垢抜けて、怜はその時
ほど彼女が女子短大に入っていてくれてよかったと痛感したことは
ない。
怜とはまた種類の違う綺麗さなのだが、彼はこの素朴な綺麗さを持
つ紗弓が好きだと思う。
自分は出来すぎなのだ。
嫌になるほど自覚せざるを得ない、異性を惹き寄せるこの容姿。は
っきりいって怜は自分の顔が好きではない。
厄介ごとばかり集めてしまうような容姿は本気でいらないと思う。
だけど、この顔がきっかけで紗弓と出会ったようなものだから、悪
いことばかりでもないかもしれない。
何にせよ、紗弓は怜の容姿を特別視しない。
見せびらかすようなこともしないし、人に自慢するような事もしな
い。逆に気後れした表情で隣を歩く事もなく、堂々と怜の隣を歩い
ている。
そんな些細な事が、毎日が、とても嬉しい。
紗弓が一緒なら、自分はもう大丈夫だと思える。絶対に幸せになれ
652
ると確信する。
二人は角を曲がり、ほどなくした所で怜が足を止める。
﹁ここですよ﹂
﹁うわぁ、何ていうか⋮普通の家ね﹂
普通の家って何ですか?とくすくすと笑えば、紗弓はうーん、と頭
をひねる。
﹁もっとごてごてとした武家屋敷みたいな、古い和風建築みたいな
イメージだったの﹂
﹁和風建築に違いはないですけどね。平屋ですから﹂
そう言って、怜は玄関の引き戸をカラリと開ける。紗弓は少し緊張
した表情で玄関に足を踏み入れた。
﹁ただいま帰りました﹂
﹁怜ちゃん、お帰りなさい。⋮あら、あらあら!まぁまぁ!貴女が
紗弓さんなのね?ようこそ来てくださったわ。さぁ上がってくださ
いな﹂
怜の言葉に玄関へやってきた老年の女性が紗弓にスリッパを薦めて
くる。
紗弓はおたおたと少し慌てて﹁ありがとうございます!﹂と頭を下
げた。
﹁あの、これつまらないものですが⋮っ﹂
﹁まぁ!気を使わなくても良かったのに。ありがとうございますね﹂
先に渡さないと、と紗弓が有名な菓子屋の名前が書かれた紙袋を渡
す。女性はニッコリと笑ってそれを受け取り、二人の前を歩いた。
﹁本当に嬉しいわ。まさか怜ちゃんが女の子を連れてくるなんてね。
言われた時はびっくりしたわ﹂
﹁すみません、いきなりで。もっと早めに連れて来ようとは思って
たのですが、なかなか言い出せなくて﹂
怜が申し訳なさそうに女性に言うが、彼女はくすくすと笑ってその
まま襖を開けた。
653
﹁茂雄さん。怜ちゃんが帰ってきたわよ。紗弓さんも一緒にね﹂
﹁⋮⋮いらっしゃい﹂
襖の向こうは居間になっていて、座卓には新聞を広げたままの茂雄
がいた。
彼は紗弓に向かって頭を軽く下げると新聞を片付け、二人に座るよ
う薦めてくる。
しずしずと座って、紗弓は茂雄という老年の男と向かい合う。厳格
そうで怖そうな人だ。表情はむすっとしていて笑みの一つも見せて
くれない。
どうしよう、何か変かな、気に障るようなことしてしまったのかな。
つい、所在なげに俯いて、座卓を見つめていると怜が優しく手を握
ってくる。
思わず見上げると、優しい目をした彼が安心して、と言うように小
さく頷いた。
同時にお茶を淹れてきた老年の女性が居間へと戻って来る。彼女は
小さな音を立てて湯のみを置いていき、自分も座卓に座る。そして
紗弓に向かって優しく微笑んだ。
﹁緊張しなくていいのよ。私のことは友香、と呼んでね。このムス
っとした怖そうなお爺さんは茂雄さんっていうの。この顔が地みた
いなものだから怖がらないであげてね﹂
まるで紗弓の心を読んだように言ってくる。
彼女は﹁は、はい﹂とどもりつつも頷いて、二人に軽く頭を下げた。
﹁⋮怖そうは、余計だ﹂
﹁ふふっ。本当のことじゃありませんか﹂
機嫌の悪そうな表情は変わらず、しかし若干面白くなさそうに茂雄
が零し、友香は楽しそうに笑う。
そのやりとりを見て、少しだけ紗弓の心は軽くなった。⋮こういう
夫婦なんだ。
654
﹁それでは、改めてご紹介しますね。真城紗弓さん、です。先にお
話しましたが、彼女とは僕の卒業後、結婚する予定です﹂
﹁ああ⋮聞いている。紗弓さん、だね?﹂
﹁は、はい。あの、よろしく、お願いします﹂
紗弓は改めて茂雄と目を合わせるように挨拶をした。彼は紗弓を計
るような、少し観察するような目で眺め、口を開く。
﹁⋮単刀直入に聞かせて頂くが、怜の出生や、境遇はご存知なのだ
ろうか﹂
彼の生まれや、この家に世話になるまでに至る、紗弓にとっては壮
絶ともいえる過去。
それを知って尚、彼と結婚してもいいのかと茂雄は問うていた。
紗弓は真剣な表情で茂雄と友香を見て、はいと頷く。
﹁知っています﹂
﹁⋮そうか。それでも良いと申されるのか。⋮それは何故だろうか。
怜の顔が良いからか?﹂
﹁あなた﹂
たしなめるように友香が言うが、茂雄は言葉を撤回せず、紗弓に問
いかける。
それで紗弓は、茂雄の怜に対する憂慮が見えたような気がした。
彼は心配しているのだ。紗弓が怜に対して顔だけで惚れただけのよ
うな軽い女でないのだろうかと。
確かにそれを不安に思う気持ちは判る。何せ彼の容姿は魔性ともい
えるのだから。
だから紗弓は茂雄にキッパリと言った。
﹁怜は︱︱はっきりいって、子供っぽいです﹂
﹁ちょっ⋮!?﹂
ぎょっとしたように怜が紗弓に向く。しかし彼女はつんとすまして
怜を見ず、茂雄に目線を合わせる。
﹁性格は良いとはいえないし、すぐ怒るし、意地悪で⋮。なのに嫌
われる事を何より怖がっていて、すぐに甘えてきます﹂
655
ずばずばと怜についてを語る。怜は決まり悪げに後ろ首を掻き、友
香は目を丸くしていた。茂雄だけ表情が変わらない。
そんな彼に、紗弓は思いを伝えようと言葉を続ける。
﹁でも、すごく優しいです。気遣い屋です。⋮私はそんな、良いと
ころも悪いところも一杯ある怜が大好きです。⋮だから、結婚、し
たい⋮です﹂
﹁紗弓⋮﹂
まるで初めて彼女を見たような、そんな不思議な目で怜が見下ろし
てくる。
紗弓はそんな彼を見上げて、にっこりと笑った。座卓下で握り合っ
た手に力を込める。
茂雄が小さく﹁⋮そうか﹂と呟いた。何やら感慨深げに聞こえる。
﹁良かったな、怜。こんな風にお前を理解してくれる女性に出会え
て﹂
﹁はい。僕は⋮とても運が良かったと思いますよ﹂
﹁運が良い、か。むしろ悪かった運に対して反動が来たのだろう。
良い方向に、な﹂
そう言って茂雄はほう、と息をついた。
しかめられた顔は変わらないが、どこか空気が優しくなったように
紗弓は思う。
彼は紗弓に向かって深く頭を下げた。
﹁怜を、よろしく頼む。⋮少年期をほぼ不遇と受難で塗り固めてき
たような男だ。幸せに、してやってくれると⋮嬉しい﹂
﹁あの、頭を上げてください!が、頑張りますから、私。精一杯怜
を幸せにしますからっ﹂
厳格そうな男に頭を下げられると慌ててしまう。紗弓がわたわたと
慌てると、茂雄は頭を上げて﹁ああ、頼む﹂と言った。
見れば友香は涙を浮かべているようで、割烹着の裾で目元を拭いて
いる。
怜は確かに佐久間の家では不幸な目に合っていたが、こうやって彼
656
を心配し、彼の幸せを願っている人もいるのだ。
紗弓はそれだけで少しだけ救われたように思えた。
◆◇◆◇
結局その後、夕飯も薦められて紗弓は言葉に甘えて友香の作る夕飯
を頂いた。
すっかり玄関は暗くなっていて、友香はぱちりと電気を付ける。
﹁ごめんなさいね、すっかり遅くなるまで引き止めてしまって﹂
﹁いえ!御飯すっごく美味しかったです。あんな美味しい煮物、初
めて食べました﹂
素直にお礼を言うと怜がくすくすと笑って﹁紗弓の家では煮物出ま
せんからね﹂と言う。
彼は駅まで紗弓を送るらしい。
一緒に靴を履いて、二人は玄関に立つ友香と茂雄と向かい合う。
﹁⋮何だな、その⋮結婚、したら⋮もう会うこともなくなるか。結
婚式にはその、呼んでもらえるのかな﹂
決まり悪げに茂雄がそう言うと、怜は勿論と頷く。
﹁茂雄さんと友香さんがよければ、是非招待したいです。鮮花の家
にも送る予定ですから﹂
﹁⋮そうか﹂
少し安心したように茂雄が相槌を打つ。
﹁なら、その時に心ばかりだが祝福に幾らか包ませてもらおう。そ
の、結婚生活の足しに、してくれ﹂
﹁⋮そんな事までしなくても⋮﹂
﹁いいのよ、怜ちゃん。是非祝わせて頂戴。きっと源三郎さんも同
じような気持ちだわ﹂
源三郎というのは鮮花の祖父の名だ。彼も怜の幸せを願う人間の一
人である。
﹁⋮すみません。何からなにまで﹂
657
神妙に頭を下げる怜に、少し寂しそうな表情の老年二人。紗弓はそ
んな3人の眺めて不思議そうに頭をかしげた。
﹁ね、ねぇ、怜?もう結婚したら、ここに来ちゃ、だめなの?﹂
﹁⋮すでに僕は今年の盆に絶縁されている身なんです。もう佐久間
を名乗るなと本家には言われました。世間体もありますからまだ佐
久間を名乗ってここにご厄介になっていますけど、本当はもう、こ
こにもいられない人間なんですよ。厚意で結婚するまでお世話にな
っているだけなんです。⋮だから﹂
﹁そ、そうなの?でも⋮﹂
困ったように紗弓は茂雄と友香を見た。茂雄はあまり表情を動かさ
ないが、友香はとても寂しそうな顔をしていて、目を伏せている。
﹁⋮本当は、時々遊びにきて、欲しいのよ⋮?だけど、怜ちゃんが
辛いでしょうから﹂
苦しそうに言う友香に、紗弓は思わず怜に問い詰めた。
﹁怜、怜はここに来たくないの?佐久間が佐久間がって言うけど、
別に真城の姓になっても遊びに来たらいいじゃない。孫ができたら
誰に見せたらいいのよ、孫見せるとこ、ここしかないじゃない﹂
そう言うと、怜は少し目を大きくさせて驚いたように﹁え?﹂と紗
弓を見下ろす。
﹁紗弓、孫って。茂雄さんたちと、僕は﹂
困ったように諭し始める怜だったが、突然笑い声が聞こえて言葉を
止める。
怜は本当に心底驚いた顔をした。
茂雄が、声を出して笑っていたのである。
﹁ははは⋮。孫、か。はははっ﹂
目を瞑って何かとても楽しそうに笑う。
するとつられたように友香もふふっと笑い出した。
思わず言葉を無くす怜に、茂雄は参ったな、と呟いて二人に顔を向
けた。
﹁子供ができれば確かに見たいな。俺にとってはひ孫みたいな感覚
658
だが、そういった節目にでも遊びにきてくれると嬉しい。⋮怜がよ
ければ、こちらはいつでも歓迎しよう。﹁友人﹂なら別に遊びに来
るくらいかまわないだろう?﹂
ふ、と緩やかな笑みを浮かべて茂雄が怜に言ってくる。
怜は︱︱、笑みを無くすと何かとても固いものを喉に詰まらせたよ
うな表情をして、ゆっくりと目を閉じる。そして。
﹁︱︱はい。是非、遊びに行きます。⋮ありがとうございます﹂
そう言って、嬉しそうに笑うのだった。
◆◇◆◇
﹁⋮紗弓は、凄いですね。思ってもない事をあっさりとやってのけ
てしまう﹂
手を繋いでてくてくと駅に向かって歩きながらぽつりと怜が口にし
た。
﹁ちょっと、でしゃばりだったかな⋮って思ったけど。どうしても、
我慢できなかったの。⋮ごめんね﹂
﹁どうして謝るんですか?嬉しいのに。紗弓、ありがとうございま
す﹂
夜だから怜の顔ははっきりとは見えない。だけど彼は嬉しそうだっ
たので紗弓はほっとする。
ぎゅっと握った手は暖かく、気持ちが良い。
ずっとずっとこうやって手を繋いで歩いていければいいな、と自然
と思った。
﹁紗弓は僕を幸せにする天才ですね﹂
﹁ふふ、何それ。天才なの?﹂
くすくすとそう言うと、﹁ええ﹂と怜は頷く。
﹁次の休み、式場を探しに行きましょうね。紗弓のドレス、僕も選
びたいです﹂
﹁そうね。あっ⋮と、ママがそろそろ土地探しするから内定先の住
659
所教えてって言ってたわ﹂
﹁はい。後でメールしますね。⋮紗弓﹂
駅前について、怜は足を止める。
紗弓も自然と歩みを止め、愛しい男を見上げた。
﹁なに?⋮⋮んっ﹂
夕闇の駅前で、怜は優しく紗弓に口付ける。ちゅ、と重なった唇は
甘くて優しくて、怜の気持ち全てが伝わってくるようだった。
﹁これからもよろしくお願いしますね。⋮幸せになりましょう﹂
﹁⋮うん!怜、大好きよ。幸せになろうね!﹂
そうして二人はゆるやかに抱擁を交わし、再びキスをする。
幸せの世界はもう、すぐそこまで近づいていた。
Fin
660
最終話。君は僕の宝物︵後書き︶
こんにちは。桔梗です。
番外編はこちらで以上とし、完結とさせて頂きます。
それなりにR18シーンや登場人物を少し掘り下げた話など、色々
入れてみました。
⋮護以外っ!いや、彼の﹁恋模様﹂はホントただの一目ぼれ↓懐柔
↓襲うというコンボなだけなんで!
特に暗い過去もなく、金持ちで、あっけらかーんとしてて、とりあ
えず本気になっちゃったから∼♪ってノリで、おたおたと慌てるお
姉さんを卒業式の図書室でアレコレと。彼は。そういう人です。
偽りから始まる恋模様。書いていてとても楽しかったです。
どたばたした高校生活を書くのも、じわじわと自覚していく恋を書
くのも。あと番外編も八雲が放送部員に袋叩きに合う所や女子会風
景も、殆どノリ一直線で打ち、ああいうシーン書いてる時は本当に
筆が早いですね。遅くなるのはR18シーンですね。似たような表
現多いなぁ、どう書けば楽しそうにえっちをしてる雰囲気が出せる
かなーと考えつつ書いているので。少しでもそちらが伝わっている
と嬉しいです。
番外編が始まってもコメントを頂いて嬉しかったです。本編が終わ
った時のねぎらいのお言葉も幸せいっぱいでした。
また、数々の誤字、変換ミスを指摘して頂いて本当にありがとうご
ざいます。すみませんでした!とくに多賀君と加賀君間違えすぎで
した。一応自分でも時々読み返してコッソリ修正してたんですけど、
まだありそうです。ごめんなさい⋮。
ポイント評価をくれた方、お気に入り登録をしてくれた方、感謝し
てもしきれません。じわじわと増えていく喜びは何事にも言いがた
661
いです。
それでは、また違う物語でお会いできれば嬉しいです。
662
新婚夫婦のクリスマス︵前書き︶
結婚後の紗弓と怜の小話です。
663
新婚夫婦のクリスマス
﹁勝負よっ!怜!﹂
ずびし!と指を指し、ソファに座る夫、怜に向かって言葉を投げ
かけたのは彼にとって愛しい妻、紗弓。
二人はその年の春、結婚したばかりの新婚夫婦である。
念願だった佐久間の姓を捨て、真城の姓を得た怜はきょとんとし
て首を軽く傾げた。
ばさりと読んでいた新聞を軽く畳む。
﹁勝負、ですか?﹂
﹁そうよ。私が勝ったらお願いを聞いてもらうわ!﹂
﹁⋮へぇ﹂
怜は興味深そうに眉を上げ、ソファ横に設置されているマガジン
ラックに新聞を戻す。そして長い足をゆっくりと組み、彼の新妻を
見上げてきた。
相変わらずその佇まいは美しいという形容詞が非常に似合う。
でもいい加減その無駄なフェロモンをどうにかしなさいよと紗弓
は夫を睨み、腕を組んで言い放った。
﹁勿論変な勝負じゃないわよ。カード!トランプ!ブラックジャッ
クで勝負よ﹂
﹁はぁ、別に構いませんが⋮それにしても何故ブラックジャックな
んでしょう﹂
﹁それは⋮っ⋮そ、その。おも、思いつきよ、思いつき﹂
思い切り目が泳ぐ紗弓。その様子を見て怜は形の良い顎に指を乗
664
せ、そういう事かと心の中で推測した。
きっとまた鮮花に相談したのだろう。恐らくはその﹁お願い﹂と
やらを聞いてもらいたくて、怜を負かす方法を彼女から教えてもら
ったのだ。
ちなみにブラックジャックが得意でないのは確かだが、それは数
あるカードゲームの中で﹁比較的﹂というだけであって、決して紗
弓の感覚での﹁弱い﹂という訳ではない。
﹁わかりました。その勝負受けましょう。⋮ただし﹂
ぴっと人差し指を立てる怜。きたぞきたぞと紗弓がぐっと拳を握
り、その身体に緊張を走らせる。
﹁先に教えてもらえません?お願いって、何をお願いするつもりな
んですか?﹂
﹁う。⋮そ、それはその⋮あの。⋮今度のく、クリスマスに⋮﹂
﹁ええ、クリスマスに?﹂
オウム返しのように聞くと、紗弓は俯き、ぼそぼそと恥ずかしそ
うにお願いを口にした。
﹁で⋮⋮デート、したい⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
なんだこの可愛い生き物。
本当に人間なのかな?ああ、俺の為に存在してる奥さんだったな
と彼はまじまじ妻を見る。
しかし紗弓は怜の沈黙を困惑を受け取ったらしく、必死な様子で
言い募ってきた。
665
﹁ご、ごめんね。怜が仕事で忙しいのはすごく分かってるの。就職
してまだ一年目だし⋮休みの日も結構仕事に行ってるし⋮。私も年
末くらいゆっくりして欲しいって思ってるんだけど⋮でも⋮﹂
ぎゅっと服の裾を握る。彼女の着るベージュのニットワンピース
がぐっと引っ張られ、着やせする胸が少しだけその大きさを主張す
る。
﹁結婚してから⋮ずっと、その、デート⋮してなかったから。⋮ち
ょっとだけ寂しくて。私ずっと家だから、そう思っちゃうのかもし
れないけど﹂
﹁紗弓⋮﹂
そっと彼女の腕を引き、同じソファに座らせる。ストンと素直に
座った妻の身体をぎゅっと抱きしめ、彼女の頭頂部に鼻をこすりつ
けると﹁ごめんなさい﹂と小さく謝った。
﹁そんな風に思っていたんですね。確かに僕も仕事を覚えるのや研
究に必死で、ちょっと余裕がなかったかもしれません。⋮それで勝
負って言ってきたんですね﹂
﹁⋮⋮う、うん⋮﹂
﹁わかりました。じゃあ早速しましょう?トランプはあるんですか
?﹂
﹁あ、あるわよ。えっとじゃあ⋮5回勝負で、沢山勝ったほうが勝
ちね?﹂
ええ、と頷いて二人は暫くブラックジャックのゲームにふける。
しかし、いくらブラックジャックは運の要素が強いゲームとは言っ
ても、ポーカーフェイスの全くできない紗弓と思考の読み合いに長
けた怜では勝負の行方など明確だ。
666
怜にしてはかなり、かなり手を抜いて彼女が有利になるように勝
負を運んでみたのだが、結局カードの運もあって3対2で怜が勝っ
てしまう。
思った通りしょんぼりとしてカードを片付ける紗弓の姿。
そんな妻に怜が思うのは、可哀想という気持ちと可愛いという気
持ち。そして得も言われぬ嗜虐心と愛しい思い。
プラスチックのケースにカードを入れる彼女に、怜は優しい声色
で声をかけた。
﹁そんな悲しそうな顔をしないで。デート、しましょう?クリスマ
スに﹂
﹁え⋮いいの?﹂
﹁勿論。本当は勝負なんて関係なく、紗弓のお願いを聞いた時から
デートしようって思ってたんです。寂しい思いをさせてごめんね?
だから、一杯楽しみましょう?﹂
﹁⋮!うんっ!﹂
ぱあっと顔を綻ばせる紗弓。全く自分の奥さんは世界一可愛いな
と思いながら怜はニッコリと笑みを浮かべ、﹁た、だ、し﹂と人差
し指を左右に振る。
﹁一応勝負には勝ったんですから、僕に何かご褒美を下さい﹂
﹁ご、ほうび⋮?﹂
経験上嫌な予感がするのだろう、不審な顔をする彼女に怜は笑み
を浮かべたまま、お願いを口にした。
﹁別に大したことじゃないですよ?デートの後、いつものように愛
し合いたいだけです﹂
667
﹁あ、そう。⋮む、なんか変なこと企んでないでしょうね﹂
﹁まさか∼。ちょっとだけ僕の言う事聞いてもらうだけですよ。大
丈夫。前みたいに亀甲とM字開脚縛りをした挙句玩具を出し入れし
て、更に抜かずで3回致したりとかはしませんから﹂
﹁ぎゃあ!当たり前でしょ!あ、あれはもう絶対だめ!もう、怜の
変態!﹂
ぺしっと夫の頭を叩くと何故か彼は嬉しそうに照れる。褒めてな
いんだからね!?と怒るがのれんに腕押し状態だ。
少し前、彼に﹁お仕事頑張ったらご褒美くださいね?﹂と言われ
て頷いたのが悪かった。彼はしっかりと仕事に励み、その成果は賞
与という形となって明確に表れる。
通帳を見てわなわなと身体を震わせる紗弓に、爽やかな笑顔で麻
縄を取り出す怜。彼女は戦慄した。
そして﹁ご褒美﹂をねだって妻を縛る夫ってなんなんだー!と心
の中でつっこみまくったのだった。
﹁まぁあれは何といいますか、ちょっと縛ったらどんな風に可愛く
なるのかなっていう知的好奇心ゆえの行動ですから。もうしません
よ、多分﹂
﹁ちょっと縛る!?だ、だから多分って付け足すなってばー!﹂
﹁いや、意外にこう、お似合いでしたもので⋮。嫌がりながら必死
に止めてと懇願してくるあの顔はちょっとクるというか、忘れられ
なくて。まぁそれはおいといて、早速今度の休みデートしましょう
ね?﹂
﹁⋮お似合い⋮⋮⋮うん、わかった⋮あの、ありがとう⋮﹂
﹁いいえ。ちゃんとクリスマスプレゼントも買いましょうね﹂
にっこりと微笑む怜に、紗弓は何ともいえない微妙な顔をして頷
くのだった。
668
◆◇◆◇
宿泊込みデートに麗華はニコニコと笑って見送ってくれた。この
紗弓の母親は本当にこういう事に関して理解があり、おおらかであ
る。
クリスマスのデートはとても楽しかった。基本的に怜は紗弓限定
でめろめろに甘く、サービス精神旺盛である。時折そのサービス精
神がおかしい方向に走っていって彼女を性的な意味で翻弄してくる
が、まぁ、普段の彼は一般男性のそれよりも段違いに優しく、甘や
かす。
そんな彼とのデートは紗弓にとってとても幸せな時間で、一緒に
クリスマスプレゼントを選んだりご飯を食べたり、クリスマスのイ
ルミネーションを見て綺麗だと言い合ったりして楽しく過ごしてい
た。
結婚してからは毎日顔を合わせて夜も一緒だったからか、そうい
えばずっとデートをしていなかったのだ。だからこそこうやって一
緒に手を繋いで歩くのが随分久しぶりで嬉しくて、紗弓は思い切っ
てお願いしてよかったと思うし、怜もまた、改めて彼女を大切にし
ようと心に決める。
そんな二人はどこから見ても幸せいっぱいの新婚夫婦で、これだ
けで終わるなら非常に可愛らしく、ともすれば初々しささえ見える
ほどだった。
しかし、共に宿泊したラブホテルの一室でお互いにシャワーを終
えた後、彼がにこにこと黒いアイマスクを出してきたところで﹁普
通の夫婦﹂の時間が終了する。
がっくりと紗弓は肩を落とした。
﹁それなに⋮﹂
669
﹁知らないんですか?アイマスクと言うんですよ。睡眠をとりやす
くする為に目を覆うものでして、英語ではスリープマスクと﹂
﹁そんなこったぁわかってるのよ!なんでそれをココで嬉々として
出してくるのかって聞きたいの!﹂
﹁決まってるでしょう?紗弓につけてもらう為です。はい、つけま
しょうね∼﹂
ナデナデ∼と妻の頭を撫で、有無を言わさず怜は彼女の耳にアイ
マスクをかけ、視界を覆ってくる。
途端暗闇に落ちた視界。思わず怖くなって、目の前にいるであろ
う夫の身体をぎゅっと掴んだ。
くす、と低い笑い声が近くから聞こえてくる。
﹁震えてる。⋮⋮怖いの?﹂
﹁こ、怖いわよ。な、なんでこんなのつけるの⋮?﹂
﹁⋮ん、なんででしょう?⋮自分で考えてみたら?﹂
え?と呟く彼女の身体が突然宙に浮く。﹁ひゃっ!﹂と小さな悲
鳴を上げる紗弓にくすくすと笑い声が聞こえてきた。
どうやら自分は横抱きにされているらしい。暫く歩くように身体
が揺れると、とさりと柔らかい所に落とされた。⋮手触りで、それ
がベッドだと知る。
そこで紗弓はぎゅっと身をすくませ、次はどうされるのかとびく
びくしていると、シュ、と音がして自分の身体が楽になる。⋮着込
んでいたバスローブが取り払われたのだ。
スゥ、と裸の身体に風が当たる。エアコンは効いているはずなの
にどこか寒くて、紗弓はますます身体を縮こませ、ずりずりと後ろ
に後ずさった。
﹁こらこら、そんな逃げたらだめでしょ。ベッドから落ちちゃうよ﹂
670
﹁う⋮だって﹂
﹁大丈夫。怖くない怖くない。ほら、手握ってあげる﹂
きゅっと手が暖かいもので包まれて、若干ホッとした。しかしツ
イッと胸の所に何かが滑り、ぴくんと身体が跳ねる。
怜が、紗弓の手を握りながら、ナニカで胸に触れている。なにか
とてもヌルヌルとしているもので、とても滑りが良い。しかも妙に
生暖かく、硬い感覚に奇妙な恐ろしさを感じた。
﹁な、なに。何、で触ってるの﹂
﹁なんでしょう。紗弓の好きなものだよ?﹂
﹁好きなもの⋮?そんな事言われてもわかんな⋮あっ⋮きゃ⋮っ﹂
ツルリ、と頂にソレが滑る。甘い感覚に身体が痺れ、思わず紗弓
は色のついた声を上げた。
胸への責めは続く。頂を重点的にそれでつつかれては上下に擦ら
れ、はぁはぁと吐く息はみるみると荒くなり、ぴくぴくと肩が揺れ
る。
﹁わからない?これ﹂
﹁はぁ、う、う⋮ん。⋮わからな、い﹂
﹁そうなんだ。残念だねえ⋮⋮じゃあおしおきしようね?﹂
﹁なんで!?﹂
﹃じゃあ﹄の次に﹃おしおき﹄という言葉が続く意味がわからな
い。
しかも怜は手早く紗弓の両腕を取って後ろに回すと、キュッキュ
ッと音を立てて紐のようなものですばやく縛ってくる。なんてこと
だ、手際が良すぎる。まるでこの行為をする為に口実でも探してい
たようである。
671
﹁ちょっ⋮アンタ!こ、このアイマスクとか後ろのヒモとか、どこ
に用意してたのよ!﹂
﹁ん?ポケット﹂
﹁ばかー!こんなもんポケットに常備しないでよ!﹂
﹁常備だなんて。今日だけだよ?で⋮アンタじゃなくて、前に言っ
てくれた呼び方で呼んでよ。ほら⋮前に会社へ忘れ物届けてくれた
時に言ってくれたでしょ?﹂
﹁あ、あれは⋮その、せ、世間体仕方なく⋮﹂
あの呼び方は恥ずかしい。そう思ってぼそぼそと言い訳をすると
再び胸にぬるりとした刺激が襲ってくる。しかし先ほどのとはちが
う。ぴくぴくと身体を震わせながらもなじみのある感覚に﹁はぁ⋮﹂
と溜息をついた。
﹁ふふ、これはわかる?﹂
﹁わか⋮る。な、舐めてるんでしょ?﹂
﹁あたり。⋮⋮気持ちいい?﹂
﹁うん⋮﹂
こくんと頷くと、低く笑う声が聞こえ、ちろちろと胸が舐められ
る。同時に彼の指が秘所に当てられ、紗弓の花びらをなぞるように
ゆっくりと指を滑らせる。
視界が閉ざされると感覚が鋭敏になるらしい。怜の舌の動き、そ
して指の動きがいつもよりずっと強く感じられて、意思に反して身
体がもじもじとする。だが、腕が縛られていて思うように性感を逃
すことができない。紗弓はただただ怜の望むままに小さな声を上げ
て甘く啼いた。
だがしばらくの愛撫の後、彼女は違和感に気付く。⋮彼は少しも
胸の尖りや秘所のもっとも敏感な部分を刺激してこない。
672
そこに触れたらもっともっと気持ちよくなってはしたない程に声
を上げてしまうのに。いつまで経っても彼は責めてこなくて、切な
くなった紗弓は﹁うぅ⋮﹂と呻き、ゆるく首を振った。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮ん、な、なんでも、ない﹂
﹁ふぅん。⋮⋮じゃ、続けようか。俺は何分でも、何時間でも、一
夜かけても待つことができるからね﹂
焦らすような緩い愛撫が続く。紗弓はこの行為がいつもの﹃意地
悪﹄だと気付き、思わず眉間にしわをよせ、小さく溜息をついた。
﹁あ、ひどい。溜息?﹂
﹁だって⋮ンッ⋮怜が、意地悪なんだもん﹂
﹁ふふ、ごめんね。だって言ってもらいたいんだもん。ねえ、言っ
て?すごく嬉しかったんだよ﹂
﹁⋮うー⋮﹂
むぅ、と俯き、恥ずかしさに顔が少し赤くなる。だが、彼が意地
悪をしてくる以上、頑なに彼の望みを拒んでも何もいいことはない
だろう。
⋮むしろ意地悪がレベルアップして、次は何をしてくるのやら。
紗弓は色々諦めて、ぽそりと怜の喜ぶ言葉で彼の名を呼んだ。
﹁あ⋮なた﹂
﹁⋮うん。それでちゃんとおねだりして?﹂
﹁⋮⋮ッ⋮。あ⋮あなた、ちゃんと⋮触って。さ、触ってほしいの﹂
﹁はい、よく言えました﹂
満足そうな声が聞こえ、くちゅりと指が忍ばれる。怜の長い指が
673
ぬるぬると紗弓のナカに挿入って行き、辺りをほぐそうとしている
のか手首を回して指を鉤状にし、蹂躙する。
優しく擦って指を出し入れされ、紗弓は泣きそうな声で小さく呻
いた。
﹁んっ⋮ん﹂
指を動かしながら時折舌でなにかを掬うように胸の尖りを舐めら
れる。ちゅ、と軽い音をたてて吸い、彼の口腔で転がる。
秘部を弄るのとは違う手が首筋を這い、紗弓の長く黒い髪をさら
りと束ねて肩に流す。
﹁さ、イこうね﹂
﹁⋮やっ⋮﹂
ふるふる、と首を振る。結局自分がどう抵抗しようとも結局は高
みに登らされてしまうのだが、いつもいつも彼に翻弄されるのは面
白くない。
だから小さな反抗心を燃やして紗弓は拒否をする。
しかし、そんな可愛らしい仕草など怜にとっては更なる嗜虐心を
満たし、興奮を促す火種でしかない。
妻が嫌がれば嫌がるほど、無理にでも快楽を引き出したくなって
くるのだから。
首筋や耳の後ろを優しく撫でていた手がするすると身体を滑り、
彼女の花芯をツン、と突く。
ビクンと反応して、ぶんぶんと首を振る。暗闇に閉ざされた視界
では彼の舌や指使いだけが全てで、脳に入ってくる刺激はそれのみ
に特化されたように響いてくる。
拙い。このままだと、いつもよりずっと早く自分は⋮イッてしま
う。そして怜から恥ずかしい言葉で責められるのだ。
674
恥ずかしくて、恥ずかしくて、紗弓は必死になって縛られた手首
を動かし、抵抗した。
﹁や、や、これ、外して。怖いの、あなた﹂
﹁ん⋮?じゃあ、紗弓が上手にイけたら外してあげる﹂
﹁そんな⋮アッ!﹂
芯を擦り、もう一本指が追加されて抽挿される。ナカで感じる所
は全て把握しているように怜は要領よく尤も気持ち良い場所をしっ
かり刺激してきて、紗弓の息が短く上がった。
耐えられなくなって身体がベッドに倒れる。それでも彼はやめず、
ちゅうっと音を立てて体中のあちこちを強く吸ってくる。
やがて胸の頂を舐めとり、舌先で突かれ、尚も続く指の蹂躙に紗
弓はあっという間に快楽の高みに達してしまう。
﹁ああっ⋮!﹂
一際大きく身体が揺れ、くったりとする。⋮⋮背中が冷たい。汗
をかいているのだと自分でも判る。
くすくすと笑い声が聞こえて、優しいキスが紗弓の唇に落ちてき
た。
﹁⋮⋮上手にできました﹂
﹁んっ⋮は、はぁ。はぁ⋮﹂
﹁約束通り、外してあげましょうね?﹂
シュ、と紐が擦れる音がして、やっと腕の拘束が解かれる。腕が
楽になって投げ出した腕を怜が優しく手に取り、どこかへ誘導して
くる。
そっと彼女の指に当てられたのは、⋮これも馴染みのある手触り。
675
﹁これはなんでしょう?﹂
﹁⋮こ、これは⋮その⋮⋮あ、あれ、です﹂
﹁あれってなーに?﹂
怜が甘えたような声で意地悪を言ってくる。この男は本当に相変
わらずだ。ノリノリである。
むぅ、と紗弓は眉間にシワを寄せ、ぷいっと首をそらした。
﹁あれはあれ!﹂
﹁ふふっ⋮恥ずかしがり屋さん﹂
つんっと額を突かれ、紗弓はげんなりとした。なんでこの夫はこ
んなにいつも楽しそうなんだろう。彼は絶対セックスを重く見てな
い。ちょっとしたスポーツ感覚の遊びとしか思っていなさそうだ。
だから意地悪を言ったり、いじめたりできるのだろう。
紗弓の反応を見て、自分が楽しみたいから。
︵私はいつもいっぱいいっぱいなのに⋮ズルイ︶
思わずそんな悪態さえ心の中で呟いてしまう。
怜はそんな彼女の心中を知ってか知らずか、優しい声色で尋ねて
きた。
﹁アイマスクされながらコレ、触ると⋮違う?﹂
﹁⋮⋮ん⋮うん⋮。なんか、すごく⋮気になる﹂
﹁あはは、面白い感想だねえ。じゃあこれ⋮舐めてくれる?少しだ
け﹂
モノを掴まされたまま、紗弓の口に宛がってくる。
676
暗闇の中で小さく口を開き、彼のものを受け入れる。視界が奪わ
れた今、自分の手だけが頼りだ。縋るようにそれを掴み、ちろちろ
と舐める。
何度も見て、何度も舐め、何度も挿れられているものなのに。ど
うしてその1つ、﹁見る﹂という行為ができなくなっただけで、こ
んなにも恥ずかしく、居た堪れない気持ちになるんだろう。
なんだかとてもいやらしい事をしている⋮そんな自覚を嫌でもし
てしまうだろうか。冷静な自分が頭の中で﹁あんた今何やってんの
?﹂と責めてくるからだろうか。
⋮⋮暗闇は、嫌だ。こういう行為は自分だってそれなりに雰囲気
に乗らなければ、とてもじゃないが受け入れられない。常に﹁今自
分はとてもはしたない行為をしている﹂と自覚しながら、それでも
快楽に抗えず、嬉しそうに腰が震える自分が恥ずかしくて堪らない。
﹁⋮⋮紗弓が今何を考えているか、手に取るようにわかるよ?私何
やってんだろう⋮そんな所でしょ﹂
﹁⋮ん、むぅ﹂
﹁説明してあげるよ。紗弓はねえ、アイマスクをつけられて凄く体
が敏感になっちゃって、いつもよりずっと早くイッちゃって。あそ
こもドロドロになって、でもまだ足りなくて腰がもじもじと揺れて
るの。そんな恥ずかしい状態で⋮僕のものを必死で舐めてるんだよ﹂
﹁やっ⋮や、言わないで⋮っ﹂
﹁こーら。ちゃんと舐めないと﹂
ぐっと頭が掴まれ、彼のモノが一気に口に入ってくる。抵抗の呻
きを上げながら、紗弓は﹁はぁ﹂と息をつき、早くこの行為が終わ
って欲しくて懸命に彼の望むところを舐める。
そんな彼女の耳に、怜の低い声が響いてくる。
﹁もっともっと気持ちよくなる為にこれ、ちゃんと舐めなきゃね?﹂
677
﹁うぅ⋮﹂
﹁いっぱいこれ、舐めて。そうしたら一杯気持ちよくなれるからね﹂
鼻で息をしたらいいのに、酸素が足りない。はっはっと息をつき
ながら舐めていると、やっと怜が満足したのか、そっと杭を外して
くれた。
﹁もういいよ。じゃあ⋮挿れるね?﹂
﹁⋮は、はぁ、はぁ⋮そ、その前に⋮これ外して﹂
﹁アイマスク?んー⋮どうしようかな﹂
少し悩んだような声を上げつつ、彼は作業のようにナチュラルに
肉杭を秘部に宛がうと、ぬるぬると侵入してくる。
すっかり紗弓のナカは彼にほぐされ、さらに彼女自身の蜜も充分
に潤い、何のひっかかりもなくスムーズに挿入ってくる。
途端に下半身で感じる、大きな異物感。しかし同時になにかがぴ
ったりと嵌ったような気持ちよさが襲ってきて、紗弓は身をよじら
せ、甘い溜息をつく。
ゆっくりと⋮引き抜いてはじっくりと味わうように突かれ、どち
らともなく幸せそうな溜息が零れた。
﹁⋮何も見えないと、これ⋮どう感じる?﹂
﹁⋮⋮っ⋮﹂
﹁ねーえ?﹂
﹁アッ⋮!や、い、いつもより⋮すごく、感じて⋮ああっ⋮でも﹂
焦らすような優しい抽挿。紗弓は怜の身体を手探りでぺたぺたと
触り、やがてたどり着いた肩に腕をまわして、抱きしめる。
それは視界が暗く、不安な気持ちを抑え込みたいゆえの仕草だっ
たが、怜はその行為に嬉しそうな声を上げ、静かに笑った。
678
﹁⋮でも?﹂
﹁ん。⋮見たい。⋮あ、あなたを見て、感じたいの。お願い、怜﹂
﹁⋮⋮あー⋮本当⋮。まいったね、紗弓の可愛さは﹂
困ったような声を出し、怜が身体を繋げたまま、そっとアイマス
クを外してくれた。数刻ぶりに照らされる明るい光に目がしぱしぱ
とする。
数回瞬きをしてゆっくりと目を開ければ、思った通り目の前には
優しい顔をした夫がいた。
じ⋮と紗弓は見つめる。冷静に考えればわずかな時間しか目隠し
をされていなかったのに随分と久しぶりに彼を見た気がした。
﹁どうしたの?じっと見て﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁紗弓?﹂
﹁⋮⋮れいぃ⋮﹂
ふにゃりと紗弓の顔が泣きそうに歪み、ぎゅっと夫を抱きしめる。
﹁目隠し、やだ。どんなのでも結構大丈夫なんだけど⋮怜の顔が見
れないのは嫌だよう﹂
﹁うわぁ⋮なにそれ。可愛すぎるんだけど。⋮⋮ごめんね?意地悪
して。大好きだよ、紗弓﹂
﹁⋮⋮うん。私も⋮すき﹂
怜も優しく妻の身体をその腕で抱きしめ、キスをする。舌で交わ
り濃密に絡めあう。唇を合わせながらそっと彼が身体を離し、紗弓
の手と交差させた。
まるで体中の全てを繋げたいかのように、手を握り締める。⋮そ
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うしてゆるやかった抽挿が早く、急くものに変わった。
正常位になって何度も突かれる。紗弓は怜以外の男の人を知らな
いから他と比べる術がないが、彼がこうやって突いてくると、いつ
も気が遠くなるほど気持ちよく、もっと沢山奥をついてほしいと思
ってしまう。
皆、こうなんだろうか。愛し合う男女は皆こんな思いを内に秘め、
愛し合っているのだろうか。
﹁あっ、はぁ、あ⋮⋮はぁ、はぁぁ﹂
﹁⋮っ⋮は⋮。さゆみ⋮﹂
じゅく、くぷと結合部分で鳴る音はどこか他人事のよう。そんな
音を聞きながら、ひたすらに紗弓は怜からの快楽を受け取る。
自分は充分に気持ち良い、だから⋮⋮夫にも気持ち良いと思って
いて欲しい。
﹁はぁ⋮あ、れ、い⋮っ!あ、気持ち⋮いい?﹂
﹁⋮⋮くっ⋮ああ。すごくいいよ?紗弓、大好き。離したくない、
離れたくない。もう一生こうしていたい﹂
﹁⋮っは、あっ⋮そっか。⋮ん、うれ、しい⋮⋮っ﹂
﹁紗弓⋮﹂
愛しい名を呼び、口付ける。今までしていなかった分を全て取り
戻すように何度も何度も交わし、抽挿が続く。
頭に響く性感と、腹の内に疼く切なさ。きゅぅっとした感覚がそ
こから立ち上って、身体が浮いてしまうのではないかと思う。
跳ねる身体を押さえ込むように怜が紗弓を抱きしめ、やがて低い
呻きを上げて動きが穏やかなものに変わる。
はぁ、はぁ、と息づくのはどちらもで、やがて怜が顔を上げて目
が合うと、ふふ、と笑いあった。
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◆◇◆◇
﹁今更ですけど、紗弓って不思議な子ですよねぇ﹂
﹁へ?なにが?﹂
結局あの後、次は普通にしましょう?と言って延長戦に持ち込ま
れ、彼に好きなように翻弄された紗弓はベッドの上でくったりと横
になりつつ隣の男に顔を向ける。
彼女とは逆に仰向けになってベッドの背もたれ部分に背中を預け
た怜はぽつりと言った。
﹁僕って結構変態の域に入ると思うんですけど、貴女はなんだかん
だと受け入れてくれるから。だから不思議な子だなって﹂
﹁自覚してたのね⋮⋮。じゃなくて、なによ。本気で嫌がってもら
いたかったの?﹂
﹁ん∼⋮それもまた楽しそうなんですけど、でも紗弓にそれをされ
たらちょっと悲しいですね。でも⋮何でかなって﹂
﹁⋮⋮うーん⋮そんな事言われてもねぇ﹂
ぶつぶつと呟き、紗弓はごろんとうつ伏せから仰向けになり、シ
ーツで身体を隠しながら少し考えるように上を向く。そうして、ぼ
そ、と考えた事を口にした。
﹁⋮好きなんだから、仕方ないじゃない。確かに怜の変態ぶりは正
直引くけど、許すしかないでしょ?﹂
むく、と起き上がる怜を少し睨んで、ぷいっと横を向く。
﹁⋮⋮わたしには、怜以外の人なんて⋮もう、考えもつかないんだ
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から。⋮それくらい好きなんだから﹂
﹁⋮⋮﹂
ボソボソ、と言うといつもは何らかの反応をしてくる怜が何も言
わない。おや?と思って紗弓が怜を見ると、彼は珍しくポケッとし
た様子で紗弓を見ていた。
﹁⋮な、なによ。こんなの聞き飽きるほど聞いてるでしょ?今更⋮﹂
﹁ええ、そうなんですけど⋮改めて﹂
コホン、と怜が場をとりなすように咳払いをする。そして﹁せー
の﹂と息を吸ったかと思うと、ガバーッと紗弓の身体に抱きついて
きた。
﹁ぎゃーっ!!﹂
﹁ああーっ!もう可愛い!紗弓可愛い!大好きですよー!さぁさぁ、
ヒト休憩入れたんですからまたしましょうね!次は趣向を凝らして
!﹂
﹁凝らすなー!普通が一番⋮っ!や、もう紐はやだ、縛るのはやだ
ぁーっ﹂
﹁まぁまぁまぁまぁ、コレが終わったら次は僕を縛ってもいいです
からね。久しぶりに紗弓の可愛い責めも受けたいです!﹂
可愛い責めってなんだ!自分はいつも一生懸命責めてるのに!と
紗弓は頭の中でつっこみつつ、怜はにこにこと彼女との更なる絡み
に胸をときめかせる。そうして聖なる夜は非常に濃密に、そしては
したなく過ぎていくのだった。
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新婚夫婦のクリスマス︵後書き︶
幸せ結婚らぶらぶ夫婦のクリスマス話でした。
怜がノリノリでなんちゃってえすえむゴッコを楽しんでますが、過
去のイロイロから、緊縛術は長けてたりします。伊達に色んな女の
子を縛ってきてないんだぜ!みたいな。最悪だ⋮。
こんな男と一生添い遂げなければならない紗弓⋮可哀想⋮です。
でも本人曰く、目隠し以外ならまぁ耐えれるみたいなので、適度に
責めて楽しいらぶらぶらいふを送ってもらいたい所です。
ちなみに怜は製薬会社系列の研究所に就職、紗弓は専業主婦で、麗
華と怜のごはんやお弁当を作ったり、家事に勤しんだりしています。
お子さんはまぁ⋮多分秒読み段階ではないかと思われます︵笑
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n6660bo/
偽りから始まる恋模様 2014年4月25日20時49分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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