土地明け渡し裁判実録小説……万引きは犯罪。だが - タテ書き小説ネット

土地明け渡し・本人訴訟の裁判実録小説……万引きは犯罪。だが家賃滞納は犯罪にはならない!
七篠朋次郎
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
土地明け渡し・本人訴訟の裁判実録小説⋮⋮万引きは犯罪。だが
家賃滞納は犯罪にはならない!
︻Nコード︼
N0766CF
︻作者名︼
七篠朋次郎
︻あらすじ︼
実録裁判小説、三十話完結。以下は土地明け渡し裁判小説を読む
ときに、超初心者のための法律用語集です。裁判の﹁さ﹂ の字も
知らない人のための用語集です。
◎裁判⋮法律という決まりの枠の中での合法的なバトルをいいます。
要は暴力なしで双方の主張の根拠となる証拠を出し合って裁判官に
勝ち負けを決めてもらうことが裁判です。
◎本人訴訟⋮弁護士という代理人をたてず原告が自ら訴訟をすること
1
◎原告⋮裁判を起こした人のこと
◎被告⋮裁判を起こされた人のこと
◎賃貸人⋮貸してあげてる人のこと、大家。この小説では原告。︵
ちんたいにん、と読みます︶
◎賃借人⋮住んでいる人のこと︵ちんしゃくにん、と読みます︶
◎弁護士⋮とにかくお金がかかります。しかも弁護士や裁判に縁が
なくて、弁護士って普段どこに生息しているのか、というところか
ら始める人は大変です。弁護士もいろいろな人がいます。裁判自体
おおっぴらにいうことではないので弁護士は知り合いに頼むとか、
弁護士事務所のホームページで近所や勤務先でヒットするところに
頼む。市民法律相談センターでは初回相談無料のところがある。そ
れで弁護士とつながりができます。そういうところで親身になって
くださる人に依頼するでしょう。弁護士さんを雇えるお金がある人
はこんなに頼もしい味方はありません。だが弁護士つきでも絶対に
勝つとは限らないのが裁判です。バトルする相手に頼まれた弁護士
がすごい有能だとこっちが正しくとも負けるし訴訟費用も負担しな
いといけません。負けてしまった自分は安くもないお金をだして何
をやってんだ、と悩みます。︵一応生活保護受給者などやむをえな
い立場の人には弁護士依頼にも救済処置はあります。︶
なぜ、こういう話を書くことになったのかというと、そういう﹁
非常識人でも逮捕はされず逆に賃貸借法で保護され追い出せない﹂
事例が多いからです。よく言われる大家どうしの愚痴にスーパー
でたとえばお菓子を万引きすると犯罪になるのに、家賃を払わずに
住み続けても犯罪にならない、というのはそういうこと。わかって
いて堂々と居直る賃借人。お前人間のクズといいたいが言うと名誉
棄損になる。そして本人訴訟に対する弁護士や書記官の考えもいろ
いろ。こちらには未成年の読者様が多いのですが契約書に印鑑をつ
くということがどういう意味をもつのかということを念頭に置いて
いただければ幸いです。
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第一話・当該分譲マンション入手の経緯
おおたいちあん
太田壱案は二十九歳の兵庫県職員である独身の公務員だ。しかし
この春、この若さで中古とはいえ分譲マンションの一室を所持する
身分になった。法務所でとってきた登記簿謄本に表記された自分の
名前をながめては﹁私は自分だけの不動産を持っている﹂ と子供
っぽく悦にいったり、不動産取得税や司法書士に支払う登記料初め
各種手数料の請求を見ては青くなってなんと理不尽なとか思う今日
この頃ではある。
間取りは二LDK、広さは約五十?と少し。一人もしくは二人で
居住するには手ごろなサイズだろう。そして住所は難解電車の大町
駅前すぐという恵まれた立地。電鉄会社が数社乗り入れしている難
波駅にも徒歩圏で歩いて行ける。恵まれた立地だとはいえ壱案は家
に入居するわけでもなかった。
壱案は大阪府内に居住しているわけではないし、職場だって実家
のすぐ近くなので引っ越ししてわざわざ通勤に一時間以上かかる大
阪に居住する理由もない。壱案がこういう不動産を持つにいたった
のは、中古マンションを売ってくれた親戚の厚意と両親のすすめも
あった。
﹁あのな壱案、不動産は持っていて損にはならへん。多少のローン
を抱えてでもこのマンションを購入しておけば家賃収入でローン返
済もできるし、私たちにもしものことがあってもこの家に相続税が
かかってきた時にこのマンションを売却して税金にあてればよいし、
持っていてもええやろ﹂
壱案の両親は多分このコは誰とも結婚しないだろう、一人っ子で
いずれ両親がいなくなったら相談相手もいなくなるという将来の不
安によるものだ。そう⋮⋮壱案にはいずれ誰か良い人と結婚して仕
事をやめても養ってくれるだろうという甘い希望は持っていない。
過去に同居していた男性とのDV経験があり、今後の恋愛や結婚に
3
は夢をもっていないのだ。当時のトラウマもあり、はっきりいって
異性とつきあうのはもうこりごりだった。
壱案自身はすごい才能がある美女でもなく一般の平均的な体重よ
りは非常にオーバーしているふくよかな女性。背も低めでちょこま
か、という感じで動く。いや、読者向けにはっきり数字で表してお
いた方がいいだろうか。太田壱案二十九歳は身長百五十センチ、体
重七十キロのマシュマロ系女性である。大人しく真面目な性格であ
まり面白みはないが職場では年配の男性が多くコブタのオータくん
っていうあだ名で呼ばれている。
最終学歴は某女子短大の英文科。本職は兵庫県庁勤務、つまり公
務員という安定した職業だ。
勤務場所は一貫して閣議準備室。異動も経験したことはない。議
会の日程にあわせ、時には深夜にまで書面を準備するけっこう細か
く面倒な部署だったが、趣味は毛糸で複雑な模様編みをするのが大
好きという地味な女にはぴったりの職場だった。
壱案は仕事以外特に趣味も毛糸以外はろくに持たない女だった。
どうやらあんまり考えなしに受験した公務員に合格し、特に面接で
も希望場所を言わなかったが配属された部署が適職だったらしく、
仕事がおもしろくて連日の超過勤務だって文句一つ言わずに黙々と
こなした。
ブランド物や旅行にもあまり興味なく、休みといえば家でごろご
ろ昼寝ばかりしているような女だ。食べ物も好き嫌いなくかといっ
てグルメでもなく、とにかく家で気楽に食べてお風呂に入ってすぐ
寝るというのが一番幸せだった。
要は彼女は上昇志向でもなくいわばお気楽主義だった。
学生時代に恋愛もしたし、少しの期間同棲もしたが、相手のDV
を受け二度と異性と一緒に暮らすまい。自分できままに好きなよう
に暮らそうと、そう決めた。そう決めたら異性の目なんかどうでも
よい。食べたい物を好きなだけ、特にケーキバイキングの有名どこ
ろは近畿圏はすべて攻略した⋮⋮行ったところは払った値段以上に
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食べて元をとる⋮⋮人生の至福をケーキで味わえる人畜無害な地味
な女にふりかかった災難話である。
結論としては三十歳の目の前にして壱案は預貯金をたくさん持っ
ていた。実家ぐらしながら親に甘えて家にもお金は入れない。稽古
事もしない。まっすぐ仕事に行って帰るだけ。余暇はケーキを食べ
て毛糸編み。そういう暮らしならばお金は自然とたまる。給料はい
いし、何となくお給料を貯蓄にまわしていたら気がつけば千五百万
円がたまっていた。だけど利殖にもあんまり興味がない。お金はめ
んどうだというのが壱案の思い込みだ。
亡くなった祖父が道楽もので壱案の父母はずいぶんと苦労したら
しい。壱案が唯一の子供だったので両親はよく幼いころから﹁ええ
か、壱案。お金には気をつけえや。お金はオアシといって足と一緒
や。ふと気を許したらお金に足が生えてどこかいってしまう。お金
がたまったらかけ事や楽しみごとに使うのはもってのほか。貯金し
てもっとたまったら不動産を買いなさい。不動産は利殖にもなるし
老後の備えも効く。ええな、壱案﹂ と言ってきかせた。
両親は亡き祖父が気楽についた印鑑一個で連帯保証人となり、そ
の債務をおって非常に苦労したらしい。大きな家屋敷を盗られたら
しい。わずかに残った土地を駐車場にして父親は市役所に勤務し細
々と暮らしていた。だけどそれはまだ壱案の幼かったころの話で覚
えていない。
﹁千五百万円たまったし、何かに使いたいな﹂ 壱案は気がつくとマンションオーナーや大家業のブログをのぞき
こんでいた。
親のすすめもあるし不動産が一番無難な利殖にもなる。今の銀行
貯金の金利なんかないに等しいし、だからといって株やFTはギャ
ンブルみたいでなんだか、嫌⋮⋮。
やっぱり不動産。万一の時には換金もできるし、相続税対策にも
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なるし、この際一気に不動産にお金を使おう。
そうしているうちに母方の親戚から相続税を払いたいが物納は気
がすすまないし、よかったら買わないか、といってきた。実家から
一度の乗り換えで一時間かかるが大阪府下の駅前のマンションの一
室だという。今は誰も住んでいなくて無人だという。壱案は両親と
同居なので必要さはさほど感じなかったが、﹁駅前﹂ という立地
が気にいった。中古で築十年建っているがそれ以外は特に不都合は
ないし、いいんじゃないか? と思った。本当は父にきた話だ。ち
ょうど父が定年退職したので退職金でもって買うのではないかと思
ったらしい。
でも父は買わず、壱案自身が買うことになった。父に相談すると
﹁そうやなあ、お前結婚しないんだったら年取ったあとのことを考
えて不動産を持つのもええかもしれん。買うなら話をつけてやるさ
かい、買いなさい﹂ といってくれた。
壱案には玉の輿願望どころか結婚願望もない。男の方が住居を提
供してくれて当たり前とかそういう幻想もない。壱案は一人娘でい
ずれ両親の面倒は自分がみると思っていたからだ。
売ってくれた親戚側は父でなく壱案自身が買うとわかって﹁えっ、
あの壱案ちゃんが!﹂ と驚いていたが﹁でもあんた一人娘やけど
男で失敗してるし先行き心配なんやろ、その気持ちはわかるで﹂ と気前よく相場より安く二千五百万円で譲ってくれたのだ。
売買は不動産屋さんを通さずにやったのだが︵だから手数料はう
いた︶ 煩雑な手続きは宅建取引の資格をもっている人や登記関係
も司法書士さんにやってもらわないといけない。全くの素人ではで
きないことがたくさんあった。玄人にやってもらわないといけない
ので、当然手数料は支払う。
分譲マンションの代金はそれはそれで、登記関係や税金が別料金
でかかったのだ。壱案は次から次に湧いて出るお金の請求に困惑し
つつなんとかクリアした。
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マンションの立地、一階がコンビニ。徒歩二分で大きいスーパー。
何より駅前のロータリーからすぐのマンションだ。暮らすのにすご
く便利だ。よく親戚が手放してくれたなあと感謝するくらいだ。
そういうわけで人に貸すことにした。両親の援助はほぼなかった
し︵父はもっと年取った後、良い施設に入居するときのために退職
金を銀行に手堅く預けることにしたのだ︶ 頭金千五百万円をすっ
ぱり出してもなおローンが千万円かかったのだ。ローン返済のため
に一番良い活用法は人に貸すことだった。
だから壱案はまず購入したマンションを借りて住んでくれる店子
を紹介してもらおうと仲介会社に依頼することにした。
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第二話・仲介会社の選択
せっかく自分のお城をもったにしろ、実は人に貸すことはちょっ
ぴり惜しかった。だけど自分の実家から職場に通えるのに、自分の
持ち物とはいえ遠いマンションから通うのもばかばかしい。
今まで一人暮らしはしたことがなかったものの、同棲時代に親と
離れて暮らすとすごくお金がかかる⋮⋮ということを発見した世間
知らずの娘にとって一番良いローンの返済方法として毎月家賃を収
めてくれる店子を入れることだろうと思ったのだ。
だが壱案もそして壱案の親だって不動産を賃貸するという経験は
ない。だが実家裏の空き地を駐車場にして貸してはいる。ざっと二
十台分ある。裏の個人病院職員のための一括借り上げだから賃借人
募集も何も関係がない。安定収入で取りっぱぐれもない。
というわけで不動産オーナー同士のつながりもなく、いきなり仲
介会社に募集を依頼した。壱案だって手探りだった。だけどせっか
く持ちえたこの不動産、新米だけど私は大家。自分ひとりの力でど
こまでいい大家業ができるか。いや、駅チカの超立地のよいマンシ
ョンのしかも最上階! 一階にはコンビニもあるし、入口にはマン
ションの管理人だって常駐しているしきっとすぐに見つかるに違い
ない。
部屋は一つしかないけれど、借りたいと言う人が何人もでてくる
かもしれない。そうしたら抽選しないといけないかもしれないし。
良い人が借りてくれたらローンだって楽々返済できるし小遣いに
も余裕ができて貯金も増える。いいことづくめじゃないか! と思
った。
賃貸の仲介会社はどこにしようかと迷ったがテレビのコマーシャ
ルでよく見かける知名度一番の﹁ちゅー?するかい?﹂ にした。
この会社は話題の女優さんを使って﹁ちゅーする、ちゅーする、
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ちゅうかい
仲介をちゅー?するかい? おうちかりるならちゅー?するかい?
でちゅーかいを!﹂ というアホらしいセリフとかわいらしい笑
顔の女優さんのキス顔がアップされるあのコマーシャルである。そ
れとどこの駅前でもその支店があり﹁ちゅー?するかい?﹂ の旗
がはためいている。
こんなに支店が多いならきっと借りようと頼みに来る人も大いに
違いないと踏んだのだ。
それで壱案は当のマンションの大町駅高架下にある﹁ちゅー?す
るかい?﹂ の支店に足を運んだ。時は日曜日の午前。季節は厳寒
の二月! 寒い季節だが春の異動や転勤の季節で賃貸不動産が一番
動く季節でもある。壱案はタイミングよくこの時期に募集をかけら
れることを喜んだ。
ここまで家からは急行列車で一時間ほどで着く。マンションの部
屋のカギも印鑑ももってきている。それと大事な部屋が確かに自分
のものだと証明してくれる、謄本も!
壱案は駅前の﹁ちゅー?するかい?﹂ の店の前からも見えるマ
ンションの窓を誇らしげに見上げた。十三階建ての最上階、十三階
の角部屋! 中古でも高かったがそれだけのことはあった。こんな
に駅に近くて一階がコンビニで商店街もすぐ目の前で。 私だって
職場が近かったらここに住みたいな! ああ、なんて良い部屋なん
だろう!
もしかしたら今日にも決まるかもしれない。いや、その前に家賃
の金額を決めないと。駅前、駅裏、駅近、場所と広さによって家賃
の金額は全然違う。全く素人のにわか大家の壱案でもそれぐらいの
知識はあった。
わくわくする気分を押さえて壱案は店の中に入る。店内には不動
産仲介の﹁ちゅー?するかい?﹂ の女優がにっこりと笑っている
ポスターだらけだった。そして各種マンションや家の見取り図も。
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整然と壁にびっしりと貼られている。お客様の借りれる部屋はこれ
だけあります、よりどりみどりですよ、と言わんばかりだった。
壱案の持っている物件もこの中の賃借人募集の張り紙の中に埋も
れてしまうのだろうか、そんな気おくれを覚えた。
﹁いらっしゃいませー!﹂
カウンターに座ってパソコン画面を診ていた茶髪の若い男が立ち
上がってにっこりと元気よくあいさつした。壱案も会釈してかえす。
客らしきカップルと熟年の背広姿の男が一名、それと学生風の男も
一名。
静かな活気がある。やっぱり知名度抜群のここにして正解。いい
人がすぐに入ってくれるかも。壱案はそう思いなおして胸がたかな
った。まずは第一声。
﹁あのー﹂
﹁はい、お部屋をお探しですね? 良い物件がいっぱいありますよ
ー﹂
﹁いえ、違うんです。借りたいのではなくて貸したいのです﹂
﹁は? じゃあ、オーナー様で? 失礼しました﹂
オーナー様だって!
壱案はうれしくなった。店内にいた客が会話をやめて全員こっち
を見た。若い女性がオーナー様と言われている。だから見たのだ。
壱案は首をすくめた。だけどこの反応、もしかしたらこの部屋が借
りれると知ったら今店内にいる客で決まるかも知れない、そう思っ
たらもっとうれしくなった。
﹁オーナー様でしたらこちらへどうぞ﹂
カウンター奥の仕切りまで行くように言われて素直に従う。そこ
には五十歳代ぐらいの女性が座っていた。壱案を認めると彼女もに
っこりして立ち上がった。
﹁今日はようこそいらっしゃいました。私はちゅー?するかい? の大町駅前支店の店長をしております、井伊と申します。どうぞよ
ろしくお願いいたします﹂
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名刺もいただく。ちゅー?するかい? のロゴと女優の写真が印
刷されている広告入りの名詞だ。壱案は自分の名刺は持っていない
ので多少まごついたが、でもいいやと思って会釈しつつ、その名刺
を丁寧に財布の中にいれた。井伊店長はにこやかな表情をくずさず
壱案を見守っている。
﹁さてオーナー様、今日はこちらおはじめてですね? お手持ちは
どのような物件でございますか?﹂
﹁はい、このお店の中からも見える大町駅前マンションの最上階の
角部屋です﹂
﹁失礼ですがそれを証明できるものをお持ちでしょうか﹂
﹁はい、登記簿謄本があります﹂
﹁ありがとうございます。それとオーナー様の証明になるもの、運
転免許証か保険証も見せていただけますか。間取りの見取り図も欲
しいですが﹂
﹁保険証なら持ってます、見取り図はこれです。それと部屋の鍵も
もっていますので、今からだって行けます﹂
﹁そうですね、近いですもの、本当に良い物件だこと。オーナー様
ありがとうございます﹂
﹁で、あの∼すぐ決まりますかね?﹂
﹁まずは見取り図など拝見させていただきますね﹂
井伊店長は手慣れた様子でざっと謄本を確認した後マンションの
見取り図と部屋の間取りを書いたものを熱心に読んだ。
﹁ああなるほど、築十年たっていますね。うちもあのマンションの
うちの数室を取り扱ったことがあります。最上階の門部屋の二LD
Kか、どっちかというと独身者には広いし子供がいるご家庭なら狭
いか、これは新婚さん向きですね﹂
﹁はあ、そうかも﹂
﹁で、お家賃の心づもりは?﹂
壱案はまごついた。全然考えていなかった。そりゃあ、できるだ
け高く貸したいという気持ちはあるが。井伊店長は壱案の様子を見
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てにっこりした。
﹁まあこのへんの相場では八万円前後かな? でも駅前だし最上階
で角部屋となるともう少し高く設定できるかな。鍵をもっていらっ
しゃるとか、じゃあ近いしこれから見せていただけるでしょうか﹂
井伊店長は家主の壱案の意思を尊重する様子をみせつつテキパキ
とイニシアチブをとった。壱案は急いで﹁はい、どうぞ、どうぞ﹂
と言った。
十分後。
壱案と井伊、そしてもう一人。若い男性の店員と一緒に三人で当
の部屋の中にいる。
部屋をながめつつ、まず井伊店長が口火をきった。
﹁築十年でしたが、前の住民さんは丁寧にお使いになられたようで
よかったですね﹂
井伊はバルコニーにでた。ここからは電車の出入りがよくみえる。
電車のアナウンスもよく聞こえる。
﹁ちょっと電車の音、気になる方もいるかもそれませんが、それで
もこの利便性は捨てがたい。コンビニもスーパーも目の前では皆飛
びつくでしょう。ここの管理費はおいくらですか?﹂
﹁確か最上階は一万五千円ときいています﹂
﹁エレベーターの電気代もかかりますしね、最上階ならそんなもの
でしょう。管理人さんは常駐でしたね﹂
﹁はい常駐です。今日は日曜日なので休みのようですが、いつもい
らっしゃるときいています﹂
﹁それなら女所帯には安心かもね? お家賃ですが管理費用別で八
万九千円ではいかがでしょうか? 礼金敷金は一カ月ずつで﹂
﹁えっと、前の親戚からは月に十万円で貸していたときいています。
管理費別で。その値段で募集はかけられませんか﹂
井伊は手慣れた様子できびきびと答えた。
﹁それはまだこのマンションが新しかった時のお値段では? 中古
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で年数がたつほど家賃も下がるものなのですよ? 管理費別で月十
万円だと無理ですね。今は管理費込みのところも多いですし。十万
はお客さん入りませんよ? 九万円代もちょっと。八万円台で六千
とつけるとまあいけるかと思ったのですが﹂
壱案はそうだったと思った。親戚は確か新築のマンションを貸し
たときいている。
﹁ではその値段でいいです。礼金敷金も。それでちゅー?するかい
? でもし入居者さんが決まった時はそのお礼は?﹂
すると井伊が壱案にすすっと近づいてきて声を低くして言った。
笑顔のままで。
﹁はい、大体一カ月分いただいています﹂
﹁えっと。大体? といいますのは﹂
﹁家賃の一カ月分は基本であとはおまかせで﹂
﹁あの、私は人に部屋を貸すのははじめてなんです。ちゃんと教え
てください。おまかせというのは?﹂
井伊は満面の笑顔をくずさない。
﹁うちの専任にしていただけるなら、うちも客付け、賃借人を入れ
ることを客付けというのですがその仕事がやりやすいのですよ。そ
のためのお心付けが必要なんです﹂
﹁心付け﹂
﹁そうです。気前のよいオーナー様でしたらこの物件を成約したら
家賃三か月分あげるよっていったり。まあ基本最低半月分ですね﹂
壱案はそういう習慣があるのを知らなかった。それが心付けか⋮
⋮。実家では駐車場経営、しかも一括貸しなので賃貸会社とはつき
あいなく、そういう習慣は知らなかったのだ。
﹁心付けは高いほどいいのでしょうか?﹂
﹁まあそうですけど、なにぶんお心付け次第です。基本の半月分で
もいいですよ。つまり成約料が一ヶ月半のお家賃というわけです﹂
﹁わかりました、では半月分で﹂
﹁あとはこの居元にまかせます。彼が太田様の担当となります﹂
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居元は井伊店長のずっと後ろに控えていたが、はじめて壱案に口
をきいた。店先に座っていた茶髪の若い店員だ。丁寧に名刺を差し
出しつつ深く礼をした。
﹁居元と申します。太田さま、どうぞよろしくお願いします﹂
再度三人で店に戻り、井伊店長は﹁それでは私はこれで﹂ とい
ってどこかへ出た。車のキーをもっていたので顧客のところへでも
行くのかもしれない。あとは居元が接客してくれた。改めて賃借人
募集依頼申込書を書かされる。
依頼書には大手チェーンらしく印刷された注意書きにはなにやら
たくさんの事項がかかれてあった。壱案はいくつか質問する。
﹁この広告費というのは﹂
﹁このちゅー?するかい? の店内広告やチラシ封入費用、それと
週間賃貸ニュースに掲載される費用ですよ。賃貸借契約がきちんと
結ばれるまですべて無料ですのでご安心ください﹂
﹁じゃあ、もし借りてくれるひとが決まらなかったら﹂
﹁この立地ではすぐに決まると思いますよ。でも決まらなかったら
値下げして再募集をかけましょう。まあ大丈夫ですから﹂
﹁はあ﹂
﹁賃借人の希望はございますか?﹂
﹁そりゃあ、ちゃんと家賃を払ってくれる人だったら﹂
﹁ああ、そりゃもちろん。で、どなたでもいいですか?﹂
﹁やくざとかは困りますよ。定職についていて家賃を払ってくれる
人ならばね﹂
﹁じゃ定職についていれば水商売や外国人でもいいですか﹂
壱案は言葉につまった。全然考えていなかったのだ。でも職業や
国籍には偏見はない。ただ日本人の習性をよく知らない外国人との
トラブルは困るなとは思った。そのためにはきちんと日本語が理解
できる人でないと話し合いができない。
﹁あの、定職についてちゃんと家賃を払えて日本語がちゃんと理解
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する人ならOKです﹂
居元はにっこりした。
﹁じゃ、ペットは?﹂
﹁え、一応禁止とはきいてます﹂
﹁でもさっきエレベーターのところでチワワを抱っこしている人、
いましたね? 黙認ありなら客付けしやすいし、ペット可能って書
いていいですか﹂
﹁確かにペット飼っている人いましたね、いいと思いますよ。でも
部屋を汚されたりしたら困るなー﹂
﹁じゃペット家賃ありにしときましょ。ペット飼う場合は大家に申
告して家賃に上乗せしたペット家賃も払うことにするのです。それ
でいいっすか?﹂
居元は井伊店長同様、慣れた様子で話す。もし壱案は部屋が汚れ
たら困るとか言わなかったらペット家賃の話もでなかったかもしれ
ない。壱案はここではじめて用心した。何も知らない大家だと思っ
てなめられたら困ると思ったのだ。
﹁あの、本当に家賃をきちんと払ってくれ人でないと困りますよ。
身元確認はきっちりしてくださいね?﹂
﹁わかりました。うちは業界最大手ですよ? 慣れていますので大
丈夫。大家さんみんな同じことをおっしゃられますが大丈夫ですよ。
こんなに立地がよいところだもの、すぐ良い人が見つかりますよ!﹂
居元は満面の笑顔で太鼓判をおした。
壱案はとりあえずそれで納得し、依頼書の写しをもらった。マン
ションの見取り図などは広告に使うので貸してほしいとのことでそ
のまま貸す。広告ができたら壱案の自宅までFAXで送付してもら
うことにした。
その夜壱案の家にもうFAXがきた。壱案所有の賃借人募集の広
告の下書きだ。これでOKを出したらネットでも入居人が決まるま
で新聞チラシでも週間賃貸ニュースや店外や店内にパネルにして広
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告を出すという。
壱案は子細にその広告をみた。自分の持ち物をはじめて客観的に
みれたのだ。
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
大町駅前直近! 出ました! 新婚さんに最適!
大町駅前マンション十三階の最上階。しかも角部屋! 二LDK,
占有面積五十二M?
賃料 八万六千円☆★☆ この立地、この広さでは最激安! で
す、早い者勝ち!
単語ごとに字の大きさを変えている。一番大きい字体は即入居可
! と書かれてあった。
そしてから部屋の見取り図。
その下に小さい文字で保証金ゼロ、敷金一カ月、礼金一カ月。
管理費一万五千円。水道料金検針、ペット飼育時礼金一カ月。要
報告。
それからもっと小さい字で所在地、建築年月日、駐車場なし、間
取り内訳など。
そしてちゅー?するかい? のロゴと女優の顔が荒いイラストで
出てきた。
﹁なるほどこうやって広告を書くのか﹂
こんなものかな? 壱案は一応このFAXを父親に見せた。
﹁ねえ、お父さん、こんなものかなあ﹂
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﹁うん、わしも駐車場ならわかるが、借家はわからん。家賃は大幅
に下がって十万切ってしまうが、新築どころか築十年たってるから
最上階でもそんなものか、賃料でローンがまかなえるんやろ?﹂
﹁ローンは大丈夫よ﹂
﹁じゃあ、壱案、お前のマンションやさかい、好きなようにしなさ
い﹂
母親も口をだす。
﹁ほんま、良い人が借りてくれるといいわね﹂
﹁じゃあ、そうするわ﹂
壱案はちゅー?するかいの大町駅前支店に電話を入れて了承の意
を伝えた。
電話口には居元がでてきて壱案に丁寧にお礼をいい、﹁今晩にで
もネットにも載せますので見てください﹂ と言った。壱案ははず
んだ声で返事した。
﹁対応が早いですね、どうぞよろしくお願いします﹂
居元も機嫌よく請け合った。
﹁きっといい人が見つかりますよ、そしたらすぐに電話させていた
だきます﹂
⋮⋮だが実際はそうではなかったのだ。
一見すごくいい人に見えてすごい悪人に貸してしまう羽目になっ
た太田壱案!
居元によるとネット広告を支店のHPに新着ニュースとして出し
た夜からもう反応がありアクセスが多かったそうだ。やはり駅前直
近と最上階の角部屋というのがよかったのだろう。
だが相場よりは多少高いのでアクセスの多さのわりには反応は鈍
かったらしい。電話での問い合わせがあっても、定職になかったり、
連帯保証人がなかったりしたのは壱案に知らせる前に断ってくれた
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らしい。︵近年そういう人が増えているらしい。壱案は居元からそ
の話を聞いてやはり最大手の仲介業者に依頼しておいてよかった!
と安心した︶
最初に申し込みがあったのは国家公務員の夫婦だった。その人な
らいいと思い居元も申込書を壱案にFAXで送信してきたのだ。そ
の夫婦も仲介業者も、大家の壱案もそれでもう決まりだとおもった
のだ。
そのご夫婦は転勤族で今年の春九州から大阪に異動になったとか
賃貸マンションに引っ越したばかりだが近所トラブルがあったとか
で気に入らず、壱案のマンションを下見にいって決めたいといって
きた。
ところが決まりかけたとたん、妻の父親が急死したとかで契約が
延期になった。入金も内金もいれてもらってない。急死だったので、
約束の時間に電話を入れたらその夫婦から今から飛行機に乗って実
家に戻るところなので、契約を延期してくれと言ってたのだ。これ
は仕方がない。
ところが一週間たっても反応がなく、壱案が気をもんでいると、
断ってきた。
なんでも葬儀の時に実家の親戚がマンションを決めた途端に父親
が死んだのだからそのマンションはやめて次をさがした方がよい、
縁起が悪いから断りなさいと言われたらしい。壱案は居元からその
経過を聞くなりがっかりした。
﹁そのご夫婦に決まるとおもっていたから、今まで広告募集を止め
置いて内見も断っていたのに、残念だわ。公務員でかつ転勤族なら
長く住まないだろうに、回転が速いだろうしいいな、て思っていた
のに⋮⋮﹂
居元はこういうことには慣れているようだった。
﹁いやあ、こういうのも多いですよ。せめて内金をもらってたらね
え⋮⋮まあ仕方ないですよ。実は決まってから身内から間取りが悪
くて不吉なことがきっとおこるとか、風水とかで占い師に反対され
18
たとか。それで断る人も多いです。いちいち反応していたらこの仕
事やってられません。じゃあ、募集再開しますね?﹂
﹁はあ、じゃあ、お願いします﹂
そうしてその翌日、内見を申しこんだ人がマンションを気に入っ
て即決で決めたと言ってきた人がその問題の人だったのだ。
まずは内見の申込書がFAXできた。現在の住所氏名、そして職
業と勤務先。現在の住所からしてマンションがある大阪府大阪市だ
えむやま
った。しかも区こそ違うが電車でたった二駅だ。遠くから引っ越す
人ではないのだ。職業には会社経営とある。名前はゑ無山ハカシ。
男性。年齢は四十五歳とある。壱案は会社経営者本人ならば金払い
もいいだろうし、決まるといいな、と思った。
翌日井伊店長から壱案の携帯電話に留守電をいれてきた。職場に
いたので昼の休憩を待ち兼ねるようにして壱案は折り返しの電話を
する。井伊は電話口に出るなり明るく話しかけてきた。
﹁ああ、オーナー様。ゑ無山様が内見ですぐに気に入られて即決で
す。さきほど夕方再度来店して必要な全額を即金で入れたいとおっ
しゃられて﹂
壱案は喜んだ。募集再開して半日で決まったのだ。即決といって
もよいだろう。
﹁まあ、決まって良かったです。その人でいいですよ。思っていた
よりも早く決まってよかったです﹂
﹁そこでちょっとご相談があります⋮⋮ゑ無山様が家賃をもう少し
値下げできないかとおっしゃられて﹂
﹁え⋮⋮でもそれで広告をうっていたのだし﹂
﹁オーナー様へのご印象もよくなりますし、ほんの少しでもお値下
げされてはいかがでしょうか﹂
﹁でも以前の人は十万円だったし、中は綺麗だしそんな値下げを要
求するなんて﹂
19
﹁月々八万六千円管理費別のところを、管理費込で八万六千円にし
てほしいそうです。管理費が一万五千円で、やや高い目なので、と﹂
﹁要は管理費を無料にしろ、と? 八万六千円から管理費一万五千
円をひいたら七万一千円! それでは家賃は八万六千円から七万一
千円も値下げしろ、と? 管理費をこちら負担で? 少し前の入居
者さんなら管理費別で十万円もらっていたというのに?﹂
﹁はあ、そうですね? どうしましょうか﹂
﹁はあそうですねって、どうしましょうって⋮⋮そのゑ無山さんと
やら、あつかましすぎます。断ってください。その人以外にもうち
の広告を見て問合せする人、多いのでしょう?﹂
﹁問い合わせはまずまずありますが、なにぶん最上階なので同じマ
ンションで二階や三階で日当たりが悪くても車や電車の騒音があっ
ても四万円台で借りれますからねー。みなさん最上階がいいといい
つつ、下の階をお選びになりますです。今は不景気ですからね、空
き室をかかえておくよりはすっきり決めなさってもよろしいかと﹂
つまり井伊店長は賃借人の側にたって﹁負けてやれ﹂ といって
いるのだ。先日持って帰ってよくよく規約を読むと賃借人は借りる
手数料は無料なのだ。仲介会社は賃借人からは一銭もとらずに、オ
ーナーから契約成立の時にお金をもらって仕事をしているのだ。
仲介会社は客は借りる人だと呼び込んでいてコマーシャルもそう
連呼している。
﹁仲介料金無料! 手数料、全部ただ!﹂ と。
でも本当の客はオーナーなのだ。お金を払うのはその不動産を持
っているオーナーだけなのだ。つまりお金を払う側に対して、もっ
と負けてやれというのだ。
壱案はマンションを借りたこともないし、貸したこともない。そ
のあたりの基本的なことはまったく不明だったのだ。何かがヘンだ
⋮⋮井伊店長は私が何も知らないとおもってまるめこめようとして
いるのかもしれない、壱案は用心した。ペット家賃のことも私から
言わないとあちらは決めてくれなかった。それを忘れてはならない。
20
壱案はきっぱりと言った。
﹁そんな値下げをいうなんて、断ってください。うちは最初からそ
の値段でとおっしゃったのでまかせたのですよ? 管理費をけちっ
て無料にしろなんてひどすぎる。断ってください﹂
しかし井伊店長は執拗だった。
﹁さようでございますね。でもこの不景気ですから。オーナー様が
おれて多少はお値引きする人も多いですよ。それならこうしましょ
う。管理費無料で全額オーナー様負担ではあんまりですので管理費
込でジャスト九万円ではいかがでしょうか?﹂
壱案は黙った。仲介会社はどうでも値引きさせる気だ。その値段
でも管理費一万五千円をひけば七万五千円の家賃が入る。大幅値下
げに違いはないが他の募集広告で管理費込みのところが多かったの
を考えるとそういうものかなという考えもよぎった。
﹁オーナー様、いかがなさいましょうか?﹂
言葉は丁寧だけど即答を求めている。
﹁すみません、先様、ゑ無山様のことですが急いで聞いてくれと言
われますので。引っ越しを早くしたいそうなんです﹂
壱案はあきらめた。
﹁じゃあ⋮⋮まあ、その人でいいですよ﹂
﹁すみません、本当にありがとうございます、じゃあ、また電話さ
せていただきます﹂
再度井伊店長から電話がかかってきたのは同じ日の夕方だった。
壱案はすでに帰り仕度をしていたので職場のロッカーで話をした。
﹁何度もすみません、今、その方がいらしています。あさって入居
できるそうです。それで⋮⋮いいにくいのですがやっぱり管理費込
みで八万六千円にしてほしいと。それと礼金、敷金も値引いてくれ
とおっしゃられますが﹂
﹁そんなのダメです。厚かましいにもほどがあります。もう断って
ください。もっといい人をさがしてください﹂
21
﹁その方現金で今、お金をもってきておられます。月半ばで入居と
なるし、管理費も負けてほしいと﹂
﹁いい加減にしてください。もう断ってください﹂
﹁そうですね⋮⋮では失礼します⋮⋮﹂
再度電話がかかってきたのはその十分後。壱案は駅のホームにい
た。例によって井伊店長はあくまで丁重だった。
﹁本当に何度も申し訳ありません。あのですね、家賃はさきほどの
金額で管理費込みで。仕方ありません。即決で気にいっていただい
たので大事に使ってくれますよ、きっと。それからで敷金はゼロに
して礼金だけもらうことにしました。そのかわり連帯保証人の他に
保証会社加入にさせていただいたらオーナー様に損はないかと提案
させていただいたのですが。ゑ無山様はその条件をのまれましたが
よろしいでしょうか﹂
﹁井伊さん自身がその人を気にいってるのですね? でも断ったで
しょう? 厚かましい人は私嫌いですけど?﹂
﹁先様はその条件を無条件でのまれたのですよ? 月半場での入居
なのだし、お急ぎなので何かとモノ入りで費用がかさむので、負け
てくれたら本当に助かるとすがりつくようにおっしゃられるのです。
ですので全額負けるのはアレなんですし、その半分ならいかがでし
ょうか?﹂
電車がホームに入ってきた。壱案はもうどうでもいいや、と思っ
た。それに井伊店長がオーナーの自分とその厚かましい入居希望者
との間にはさまれて困っている様子がありありと出ていたのだ。
﹁じゃあそちらも困っているようですし、ちょっとは、いえだいぶ
折れていますけど、ちゃんとお家賃払っていただけるからならいい
ですよ? 私だって無条件で大幅値下げを飲まされたのですからね
? そのへん、念をおしておいてくださいね?﹂
﹁はいそれはもう。オーナー様、本当にありがとうございます! ありがとうございます! あの∼入居人様の会社のHPご覧くださ
22
い。ご安心できるひとでございますから、あ、その人も申込書や領
収書はもちろん書留で送付しますが、今からご自宅にFAX送信し
ますので先にご覧ください。じゃ、ご契約成立ということで今から
賃貸借契約書にサインしてもらってきますね!﹂
﹁はあどうも⋮⋮﹂
電話がきられた。やれやれ⋮⋮契約成立だ。
しかし昔の新築状態の時にはその部屋は月十万円、管理費一万五
千円合計十一万五千円。
それを募集時には月八万六千円、管理費一万五千円。敷金礼金と
も各一カ月分の家賃。
ところが強引な契約成立に持ち込まれて管理費零円⋮⋮つまり管
理費込みで八万六千円になったのだ。その上、礼金は一カ月ありだ
が敷金は零。つまり退去時の返金はなしというところか。それだと
万一家賃が支払えなかった時敷金でまかなえないということ↓信用
保証会社の義務付けを承諾させたということ。
壱案はそこまで考えるとまたため息が出た。結局は仲介会社のち
ゅー?するかい? の思惑通りになったわけだ。新米大家で何も知
らないと思っていいようにされたのではないか、という不安が出て
きた。もっと賃貸借のあり方を勉強してから仲介会社へ依頼した方
がよかったのだ、そう思った、早く入居者が決まってうれしい半面、
大丈夫だろうか、そう思った。
壱案のマンションを借りてくれる人を賃借人という。井伊店長によ
ると会社経営でホームページもきちんとした信用のできる人だと思
うとのこと。
壱案はもちろん井伊店長のいうとおり帰宅するなりパソコンを開
いて、その厚かましき新しい賃借人が経営する会社のHPを検索す
る。
うん?
大町駅前マンションの二駅ほど離れたところに前の住居があった
23
のは内覧申込書で確認はしている。職場はその住所の表記からして
会社のすぐ近くのようだ。
申込書で自筆で書かれた経営会社名は﹁株式会社デザイン設計事
務所ポオチ﹂
検索をかけた。
すると地味目のHPがあらわれた。フラッシュもなにもない。簡
単なつくりだった。
﹁どんな設計やデザインにも応じます。まずはご相談を。メールド
レスはこちらから。﹂
過去にデザインした部屋やリフォーム物件、窓枠、デザイン服な
どがごちゃごちゃでてきた。どうやらゑ無山の経営するポオチとい
う会社は、﹁デザイン﹂ と名前がついているものなら何でもデザ
インできるらしい。会社の住所表記や電話番号はなかった。
デザインはデザインだがホームページでも見る限りは洗練された
雰囲気はない。だが、おまかせくださいという自信がみなぎる力の
入った宣伝ページだな、というのはわかる。閲覧した人数がわかる
カウンター設置はないのでこの会社が人気があるのか不人気なのか
までは不明だ。
そこの会社の経営者が自分のマンションを借りてくれるのだ。
壱案はどういうわけか自分でもわからないが、またため息をつい
た。そしてまずは契約書に目をとおしてからだ、と思った。
24
第三話・賃貸借契約書
三日後に速達書留郵便で壱案の家に賃貸借契約書が届けられた。
そのほかにもいろいろな書類がたくさんある。大事なものだし全部
に目をとおしておかねばならない。
肝心の賃貸借契約書は二冊あった。それぞれに印鑑を押すべきと
ころには手まわしよく付箋が貼ってある。付箋のある場所に印鑑を
押すようになっているのだ。
そして一部はオーナーである壱案が持ち、もう一部は賃借人のゑ
無山が持っておくべきものだ。中身は同じ。それは確認した。
壱案はちゅー?するかい? のロゴが表紙に踊っているのをみて、
やっと決まったのだと実感した。
時に平成二十四年二月十三日。
賃貸借契約がその日なのだ。壱案はその大事な書類を夕食もとら
ずつぶさに読んだ。そして賃借人に関する情報もそれで得た。
一、まず賃借人の内見の申込書原本。マンションを下見に来る人は
一応全部書いてもらうことになっている。
二、賃貸借契約書二通。それぞれ印鑑を押す所に付箋が貼られてい
る。それと手書きで自分の名前を筆記するところにも付箋。
三、信用保証会社ドッグの会社の約款、契約内容は壱案のマンショ
ンを借りてくれるゑ無山と保証会社との契約になるので、壱案の印
鑑は不要。ゑ無山はすでに契約に当たっての信用保証会社に入金済
みで契約書の写しが封筒に入っている。
四、賃借人、ゑ無山の身分証明書。これは運転免許証のコピーだっ
た。不鮮明だが不機嫌そうな中年男の顔がうつっている。それと連
帯保証人の印鑑証明。連帯保証人はゑ無山の父親になっている。こ
25
の人の職業もデザイン会社経営となっている。どうやら別の会社の
社長のようだ。
壱案は一通り目を通し、押すべき印鑑を押し、同封されていた返
送用封筒に入れて明日の朝ポストに投函すべく用意した。
それらがちゅー?するかい? に到着したら、賃貸借契約書の賃
借人用がゑ無山の元に転送される。それで本当に契約成立なのだ。
壱案はすでに仲介会社に鍵を渡しているからもう﹁契約成立﹂。
鍵は井伊店長から内見希望者がすぐ見れるように強制ではないが、
預からせてほしいと言われたためだ。だからそのまま壱案がゑ無山
に鍵を直接会って渡さなくとも仲介会社が渡してくれる。
つまり契約にあたり最初から最後まで大家たる賃貸人が賃借人に
あわなくともいいわけだ。入居にあたりちゃんとした人かどうかは
仲介会社が一応査定してくれているし。ちゅー?するかい? とい
う仲介会社は一応大手だし信用してもいいだろう。
賃貸借契約書には先に伝えていた大家壱案の貯金通帳の口座番号
が明記されている。支払はその前の月の月末までに支払うのだ。今
月分はすでに一部の支払はあったようだが、壱案がゑ無山を紹介し
てもらった手間賃として仲介会社が全額受け取っている。その上ま
だ金額が不足しているとして︵手間賃家賃一ヶ月半の約束だったか
ら︶大家である壱案に請求が来ている。もちろん仲介手数料として
すぐにネットで入金手続きをしたので支払は完了している。
つまり壱案のもとにはまだ家賃ははいっていない。手数料を仲介
会社に払ったという実感もないし、家賃を受け取ったという実感も
ない。
来月分家賃からが自分の口座に入金される。つまり来月分のは今
月末に入るのだ。大家気分をあじわうのはそれからだ。
壱案はまだ見ぬ賃借人が会社経営者として支払はきちんとする人、
26
金周りの良い人というイメージをもっていた。それと当然契約を守
りつまり期日を守ってくれる人。
でも最初の最初に値切られたことで一抹の不安はあった。
そしてそれが早くもゑ無山が入居した次の月にその不安が的中し
てしまう。
︵著者注:通常賃借人は入居日によっては二カ月分を仲介会社に支
払うことも多いです。その場合は余剰金として仲介会社は手数料を
ひいた金額を大家に戻します。壱案の場合は賃借人ゑ無山が入居に
あたり最低限一か月分の家賃しか支払わなかったため残りの仲介手
数料を支払ってくれと壱案に請求がいったわけです。︶
:::閑話休題・著者より:::
入居人の会社のHPが立派だから家賃をきちんと支払う人だとは
限らない。それは井伊店長もわかっていたはずだ。
ゑ無山があさって入居したいから? 入居を急ぎたい? では、
一体それはなぜだったのか?
ここまでの会話で壱案が仲介会社から気の弱い世間知らずのオー
ナーだとなめられまくっていたのが、読者にはわかるだろうか?
先に絶対にのめない条件をいってきてから、これなら、という柔
らかい折衷案をいう。不動産会社ややり手のセールスマンの営業ト
ークの常套手段の一つだ。
27
第四章 家賃支払遅滞
⋮⋮二月は二十八日までしかない。三月分の家賃は今月の二十八
日までに支払う契約だ。今日は二十六日。壱案は仕事から帰宅する
と自分の部屋に入ってパソコンをつけてオンラインで銀行口座のロ
グインページをあけた。
﹁まだ来月分の家賃の入金がない﹂
賃貸借契約書では来月分の家賃は当月末までに支払うことになっ
ている。だから三月分の家賃は厳密にいえば二月二十八日までに支
払ってもらえば大丈夫だ。しかし支払うとの連絡もない。いや、ま
だ二十六日だから二十八日までに支払ってもらえば良いが、でも最
初の最初だしこれで入居人のゑ無山がきちんとした人かどうかわか
るだろう、壱案は素人大家だがそう思っている。
父が部屋にはいってきた。
﹁晩御飯、用意ができてるから食べようや﹂
﹁お父さん、ゑ無山さんからの入金がまだ﹂
﹁ふーん、二十八日は日曜日だったな、二十七日は土曜日だし、本
当なら今日の二十六日に入金しているはずだよ。会社経営している
人ならわかっているはずだがな﹂
﹁今月は二十八日までしかないてことを忘れているのかな?﹂
とくそく
﹁今月半ばに引っ越ししてきたばかりのくせに忘れるはずはないや
ろうが、待てばいいがな。月があけて入金がなかったら督促したら
いい﹂
﹁督促って何のこと﹂
﹁やれやれ、そんな言葉の知らないで部屋を貸したのか、お金の催
促のことや﹂
﹁督促⋮⋮やだなあ﹂
﹁壱案、しっかりしなさい。大家ならそれは大家としての当たり前
28
の仕事だ。しっかりしないとなめられるぞ﹂
﹁うん⋮⋮とりあえず入金待ちだね﹂
しかし結局は入金がなかったのである。連絡もない。週が明けて
三月一日になった。二日、三日⋮⋮。
壱案はパソコン上で自分の口座画面をひらき入出金記録をひっぱ
りだしてため息をつく。三月四日、壱案はとうとう待ちきれなくな
った。そして入居人のゑ無山が家賃をはらってくれないと、まずは
仲介会社の井伊店長に連絡を入れた。
﹁あの、私、ちゃんと家賃を支払ってくれる人を紹介してください
って頼んだはずですけど。今月分の家賃支払いがまだです﹂
﹁まあ⋮⋮わかりました。私からゑ無山さんに電話してみますね?﹂
壱案はしょっぱなから滞納か、と思って気を悪くしている。家賃
も値下げしたし、二月半ばの入居だから管理費は半分はもらわない
といけないが、負けてやってくれと無料にしてやっているのだ。ち
ゃんと大家としてサービスしてやったのに、肝心の家賃の支払いが
ないなんて。
壱案は本当に気分を害していた。
中古とはいえマンション購入にはお金がかかる。当然ローンを組
んだ。銀行からお金を借りるにあたり壱案は公務員でもあったので、
女一人でも貸してもらえたが信用保証協会にも言われるままに入っ
た。生命保険も入った。銀行ってば、お金を預けるときは超低金利
で利子なんか無いに等しいのに、逆にお金を借りようとすると急に
態度が大きくなってしかも支払う金利が数倍である。
﹁銀行ってアコギな商売だこと﹂
ローンを組むにあたり、若い女性銀行員が受付にあたったが壱案
が何も言わないのに、印鑑を押す段になり彼女はさりげなくNHK
受信料や電話や電気、都市ガス料金の自動振り込み依頼用紙を混ぜ
込んでついでに一緒に申し込ませようとしたのだ。
﹁これは契約しません。私はそこのマンションには住まないのです。
29
だからこちらは結構です﹂
とはっきり言って了解してもらったが、黙ってそういうやり方をす
る大手銀行のあざとさに苦々しい思いもある。
そして銀行ローンの引き落としは毎月五日に五万円である。同じ
日にマンションの管理費が管理組合から一万五千円引き落とされる。
入居人のゑ無山がきちんと支払わなかった場合は壱案が立て変えな
いといけない。今月はもう四日になっているので、壱案が支払わな
いといけないだろう。ちゃんと先月末に入れてもらわないと本当に
困る。
こういう大家はいわば自転車操業なので俗に﹁貧乏大家﹂ と言
われる。オーナーとは名ばかり。利回りも良くない。実家暮らしで
お給料が全額自分のものになるからやっていけるのだ。大口の定期
貯金を解約してまであのマンションを買ったのに。定期貯金では足
りずにローンも組んだ。あのマンションの入居者が支払う家賃をロ
ーン返済にあてるつもりだったのに。もしきちんと家賃を支払って
くれない人なら、乗っ取られてしまうことになる。ゑ無山がそんな
人とはまだ決めつけられないがもしそうだったら大変にやっかいな
ことになる。壱案はため息をついた。
悪いことばかり考えているうちに井伊店長から電話で返答が返っ
てきた。
﹁オーナー様、すみません、入居人様からご返答をいただきました。
やはり土日にかかって支払が遅れたそうです。三月の十日に入金し
ますとのことでございます﹂
﹁えっ? 三月の十日? 三月分の家賃の支払いは本当は二月二十
八日までに入金しないといけないはずでしょうが!﹂
﹁確かにそうですね⋮⋮でもまだ最初ですし、今回は待ってあげた
ら?﹂
﹁待たないと仕方ないですけど、困ります。ゑ無山さんって人入居
30
したばかりの人でしょう? 本当にちゃんと家賃を支払うよう言っ
てもらえましたか?﹂
﹁今度電話したら言っておきますね、それでは失礼します﹂
﹁⋮⋮﹂
そして三月十日⋮⋮、入金はあった。壱案はとりあえずほっとし
た。だがこれは本来なら二月二十八日までに入金があるべき家賃の
支払いだ。
ちたい
壱案の父親は言った。
﹁こういうの、支払を遅滞された、と言うんだ。ヤツからは遅れて
とくそく
すまないという電話もなかっただろう? これはくせになると困る
ぞ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁来月分もこうだったら電話で督促した方がいい﹂
﹁うん⋮⋮﹂
壱案は気が重くなった。オーナーではあってもお金の催促をする
のは苦手だった。だがそうも言ってられない。ちゃんと家賃を支払
ってもらわないとローンが支払えなくなる。困る。
不動産を持つのは自分には荷が重かったかもしれない。だけどち
ゃんと支払う人であれば利回りもいいし、ちゃんとお金も回るのだ。
壱案は入居人つまり賃借人のゑ無山がちゃんと契約を守ってくれる
人であるように祈るだけだった。
そして四月分の家賃。三月三十一日の月末に支払なし。壱案は四
月一日に再度井伊店長に電話をかけた。
﹁太田壱案です。あの、例のゑ無山ハカシさん。昨日までに支払う
べきお家賃、まだ入金がないですけど、滞納になります。こっちは
ちゃんと支払ってくれる人を紹介してくれとそちらに既定の手数料
を払ったんですよ? 二か月続けてこれは大変に困りますけど?﹂
井伊店長は、言葉少なく、今から電話して聞いてみます、と言っ
た。十五分後に井伊店長から連絡があった。
31
﹁オーナー様、返答をいただきました。四月分は四月十五日に入金
するとのことです。もう少し待ってあげてもらえますか?﹂
﹁今月は十五日ですか? 契約書通りに三月中に入金してほしかっ
たです。今月も待たないと仕方ないですがちゃんと月末にきちんと
支払うよう言ってもらえましたか?﹂
﹁伝えておきます、すみません﹂
三月三十一日までに支払うべき家賃の入金予定日が四月十五日に
なるという。だが十五日に入金はなく壱案が井伊店長に再度連絡す
ると、翌々日の十七日に入金するという返答だった。しかし十七日
にも入金なく結局家賃が入ったのは四月二十日だった。実に二十日
分の支払い遅滞である。次月の家賃分はその十日後に入金しないと
いけない。入居してすぐの連続して二か月支払遅滞である。今回も
連休も控えているのに月末までに入金は果たしてあるだろうかと疑
問に思った。
壱案は入居人の誠実さをもはや疑っていた。五月分も六月分もそ
して七月分もこの様子では遅れるのではないかと危惧している。
はたして五月分。
四月三十日になってもまだ入金なし。壱案は父親と相談して入居
人のゑ無山に井伊店長を通さず直接電話で督促してみることにした。
ゑ無山と電話でとはいえ、直接話をするのは初めてである。こちら
はオーナーで立場は強いはずなのだが壱案は気後れしていた。でも
電話しないといけない。
契約書にかかれてある通りの電話をかける。
でない。
もう一度かける。
でない。
それで勤務先のゑ無山自身が社長をしている会社にかけた。この
電話番号も賃貸借契約書に書かれていたものだ。
32
﹁はい、デザイン設計会社ポオチ、でございます﹂
コール一発で社員の誰かだろう、出たのだ。男性の声できちんと
会社名を名乗った。とりあえずはちゃんとした会社みたい、と思い
つつ壱案はゑ無山にかわってくれと言った。
﹁申し訳ございません、ゑ無山は出張中でございます﹂
﹁太田壱案、といえばわかると思います、折り返し連絡いただける
よう言っておいてください、こちらの連絡先は知っていると思いま
すが一応ここでも伝えておきます。番号、0九0−○○○○ー××
××です﹂
﹁わかりました﹂
しかし二時間待っても返答がない。ゑ無山の電話、携帯電話もつ
ながらない。
壱案はもう一度会社に電話した。もう五時の終業間際だろう。連
休前で残業せず早く返りたいだろう。その前にもう一度ゑ無山に取
り次いでもらおう。
﹁はい、デザイン設計会社ポオチでございます﹂
﹁さきほど電話した大家の太田壱案と申しますが﹂
﹁あっ、社長には伝えましたが﹂
﹁でも返事が返ってこないです﹂
﹁でもこっちはちゃんと伝えましたけど?﹂
社員の声は訝しげだった。
なんと言う男だろう。こっちから携帯電話をかけているのに、つ
ながらない。だが社員がかけると連絡が取れるようだし、ここはこ
の社員に伝言を頼もうと思った。
﹁実は私はゑ無山さんが借りたマンションのオーナーなのです。家
賃の支払いがないので、心配になったのです。契約書通りに支払う
よう伝えてもらえませんか?﹂
﹁はあ⋮⋮わかりました﹂
快諾とは言えないが承知してもらった。
すると五分後ぐらいたってから低い男の声で壱案の携帯電話にか
33
かってきた。
﹁大家の太田さんですか?﹂
﹁はい、そうです。ゑ無山さんですね? 電話で話をするのは初め
てですが﹂
﹁入金がないってなんで会社にそんな電話をするんだ?﹂
﹁ええっ﹂
ゑ無山とは初めて話をするが最初からケンカ腰だった。壱案はと
まどって言葉につまった。
﹁来月分の家賃は今日までに支払わないといけないはずです。また
滞納されたらこちら困りますし﹂
﹁来月分の家賃は今日までに支払えば文句はないだろ? 正確には
まだ滞納じゃない! 滞納もしてないのに、支払督促ってどういう
こった? え?﹂
﹁確かにそうなんですが今月も先月も遅れましたし、念のためとお
もって﹂
﹁今日は四月三十日でまだ支払期限はきてないじゃないか? なん
で督促なんかするんだ。
しかもうちの部下に話してまで! 失礼じゃないか!﹂
﹁⋮⋮電話を何度しても通じないし、それで会社にかけさせてもら
いました﹂
﹁会社に電話しないこと。営業妨害じゃないか!﹂
﹁え、営業妨害ですって。でも私が会社に電話したのは二回だけで
すよ?﹂
﹁部下は何度もされたと言ってるぞ、立派な営業妨害だ、それに期
限内に滞納するなっていう電話も非常識じゃないか! こっちは困
るぞ! あんたは非常識だ、人格者ではない、非常識な大家だ、失
礼な人だ、恥を知れ﹂
ぶち!
電話が切れた。
捨て台詞を吐いてゑ無山が電話を切ったのだ。
34
壱案はえらいことになったと思った。どうみても常識がないのは
ゑ無山の方だ。まさか﹁営業妨害﹂ や﹁非常識﹂ という言葉が
出てくるとは思わなかった。
確かに来月五月分の家賃は今日の四月三十日までに支払いがあれ
ばよい。期限内に滞納するなって告知はそんなに非常識なものだろ
うか? 案の定、その夜オンラインで銀行口座にログインして口座
明細を見ても入金なし。
あけて五月一日、壱案は憤然として朝一番に井伊店長に電話を入
れた。
﹁あの、私はちゃんと期間内にお家賃を振り込んでくれる人を紹介
してくれと頼んだのですよ? おまかせくださいっていったのに、
あんな人、ひどいじゃないですか? 期限内に電話督促して非常識
と言ったくせに結局入金がないし困りますけど!﹂
井伊店長は口ごもった。
﹁はあ、確かにちょっとゑ無山さん、いけませんね⋮⋮わかりまし
た。じゃあちょっと電話してみますね﹂
﹁お願いしますよ﹂
しかし今度は井伊店長からも電話での返答はなかった。
ちゃんと電話してくれたのかしら? 壱案は不安に思った。
結局入金があったのは連休明けの五月八日だった。
五月分の家賃支払いの期限内の四月三十日に電話してしまった件
が尾をひき、月があけての初旬に支払督促の電話をしてからの入金
パターンになってきた。
六月分は五月三十一日期限のところ、六月十日支払。十日間の支
払遅滞だ。
七月分は六月三十日期限のところ、七月十四日。十四日間の支払
遅滞だ。
35
⋮⋮支払遅滞。
それが常態化してきたのだ。しかも電話にはでない。あちらから
の電話は一切ない。あちらには壱案からの着信記録は残っているの
で督促とそれとわかるはずだ。それから次月の十日前後に入金とい
うパターンになってきたのだ。
壱案の父親が警告する。
﹁あいつは毎月ちゃんと支払うように言っておかないと滞納するぞ。
滞納し始めたらくせになる。遅滞は滞納にすぐつながるぞ。今は支
払遅滞となるが面倒でもちゃんと電話督促をしておかないといかん
ぞ﹂
井伊店長は何度電話しても﹁言っておきましたけど?﹂ だ。
﹁返事がこないですが﹂
と言っても井伊店長がまたか、と思うらしく﹁じゃあ連絡してお
きます﹂ というばかりだ。
壱案は井伊店長の最初のおまかせください、は仲介手数料稼ぎの
ためのセールストークだったのだと思っている。家主であるのに店
子のゑ無山からもゑ無山を紹介した仲介会社からも甘く見られてい
る、そう思うとくやしかった。仲介手数料さえもらったら基本仲介
会社としての仕事は終わりなのだ。井伊店長にも軽くあしらわれて
いるのだろうと思うと本当にくやしかった。もし自分がマンション
を棟ごと持っていたらまた対応は変わっていたかもしれない。だが
一室しかもってない貧乏大家であるから見くびられているのだ、そ
う思った。
36
第五章・仲介会社へのオトシマエ
そうしているうちにちゅー?するかい? の不評判も耳にはいっ
てくる。不動産仲介会社最大手の会社であるからそういう中傷めい
たものもあるのかもしれない。が、不評判の口コミが本当に多い。
ネットで見ている限り、一番多いのは部屋を借りた後のトラブル
だ。賃借人つまり部屋を借りる側の苦情が圧倒的に多い。いわく、
広告と違う間取りを無理やり押し付けて契約させようとしたとか、
希望でない部屋ばかり内覧させたとかもあるにはある。また大家と
のトラブル。ペット、騒音、迷惑なご近所さん⋮⋮だがどこでもそ
れはあるだろう。
ちゅー?するかい? のネット相談におけるトラブルで一番多か
ったのはアフターケアがしっかりしていない、ということだった。
貸す側にも借りる側にもそれには不評だった。これも仲介業者には
ありがちなのかもしれないが、壱案も当事者の一人であるからこの
不評判はまさに﹁当たってます、ネット評判のとおりです!﹂ と
いう大声で叫びたい思いだった。
いまやこのちゅー?するかい? の対応には壱案は不満だった。
ただ業界最大手の一社ということもあって、HPの作りはしっか
りしている。壱案はちゅー?するかい? 本社のページを閲覧して
オーナー様専用ご相談承りコーナーのフリーダイヤルを見つけ相談
の電話をしてみようとした。
そこには﹁オーナー様へのご相談に応じます。いつでも電話をど
うぞ!﹂ とある。これを使わない手はない。
壱案がフリーダイヤルをすると丁寧な男性の声で﹁はい、ちゅー
?するかい? のオーナー様専用ご相談承りコーナーの鈴木でござ
います﹂ という声がした。
壱案は大阪府内にある大町駅前支店を利用したオーナー側である
37
ことを告げ、井伊店長が紹介してくれた賃借人が期待通り約款をま
もってくれない人で困っている。それを知っていながら対応を怠っ
ているとしか思えない。対応に不満があることを包み隠さず相談し
た。
鈴木と名乗る男はこういった相談にも慣れている様子でまず壱案
の言い分を最後まで黙って聞いてくれた。それからお客様側に対し
て不満を持たせた対応に謝罪させるといい、店長から電話させると
言ってきた。壱案は仲介したゑ無山の退去勧告を考えていたので電
話を待とうと思った。
はたして同日夜に井伊店長から電話があったが、それは謝罪では
なく思いがけない返答だった。井伊店長は馬鹿丁寧にこう言ったの
だ。
﹁太田様、すみませんが今後は本店の相談コーナーを通さず直接私
に苦情を申し立ててくださるようお願いします﹂
﹁はあでも、ゑ無山さんに対して何もしてくれませんし、ちゃんと
家賃を払ってくれる人を紹介してくださいって依頼したのに﹂
﹁太田様、恐れ入ります。だけどうちは単なる仲介業者ですよ? 最初っから滞納、いえまだ滞納者ではありませんよね? 正確には
支払遅滞しがちな方とわかっていたら何も太田様に紹介なんかいた
しませんよ? とにかく私には悪気はなかったことはご理解くださ
いませね?﹂
﹁だったら⋮⋮何とかしてください﹂
﹁あのですね、最終的には賃貸借契約書に印鑑をついたのは太田様
ご自身でございます。それは間違いないでしょう? うちは強制的
にこの人に貸してやってくれとは言ってませんし、断ろうと思った
ら断れたのです。最終的なご判断責任は私どもではなく太田様にな
るかと⋮⋮こちらはそう判断させていただいています﹂
﹁ちょっと! 断ろうかと思ったら断れたのにってそんな言い方っ
てないと思いますけど? 家賃の値下げも結局はそちらの言い分を
通したのにそんな言い方ってないと思います!﹂
38
﹁ああ、言葉が悪かったのでしたらすみません。お詫びいたします。
それに太田様、こういうときのために信用保証会社っていうものが
ありますからお家賃の代金立て替えをお願いされたらいかがでしょ
う?﹂
﹁信用保証会社⋮⋮﹂
﹁さようでございます。こういうときのためにお守りとして信用保
証会社とゑ無山さんとを契約させております。最初の約款に印鑑を
ついていただくための資料の中にもご利用説明の書類があったかと
は思いますが。今一度すみませんが目を通していただけませんでし
ょうか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁太田様、すみませんが、今後は大家の太田様と店子のゑ無山さん
との話になるかと思います﹂
﹁井伊店長さん、ちょっと無責任ではないですか? 私が督促して
からはじめて入金してくれる、というパターンになってきているの
です。こういうのって困ります。もしかしたらゑ無山さんと言う人
は最初から滞納するつもりではないのかと思ってます。督促の電話
にも全くでないし、出ても営業妨害だとか言われるのですよ? 普
通滞納していてそんな言い方をしますか? そんな人を店長さんは
紹介したのですよ? なのにそんな無責任なことをよく言えますね
?﹂
﹁あの、太田様。さっきから同じ話の繰り返しになりますのでもう
いいですけど、あの、ですから信用保証会社の人と連絡をとってみ
てくださいませんか?﹂
壱案はもうこの井伊店長はダメだとおもった。こういうトラブル
がなければ良い店長さんですんだかもしれないが、ゑ無山を紹介し
たせいでこういうことになったのだ。しかも壱案にとってはじめて
の大家業だし不安もあるので身元がしっかりしてちゃんと家賃を支
払える人をお願いしたはずである。
確かに最終的に契約書に印鑑をついたのは壱案だから法的にもそ
39
れで仲介業者の仕事は終わったことにはなる。だが⋮⋮。
壱案はどうしても納得がいかない。頭では理解しても最初の最初
で井伊店長にうちに専任でおまかせください、ヘンな人は紹介いた
しません、と断言したではないか。
なのにヘンな人を紹介されているのである。
納得がいかない。
壱案は井伊店長との会話で彼女は無責任だと思う感情だけが残っ
た。
信用保証会社の約款も確かにあった。壱案は賃貸借契約書と一緒
に入っていた各種書類をさがして今度は真剣に熟読した。
賃借人のゑ無山の直筆での申込書のコピーもあった。契約金は三
万円で一年ごとに更新。更新料は七千円。今年の二月十三日の契約
だ。以下は毎年二月十三日ごとに更新料七千円をゑ無山は支払うの
だ。
そして万一家賃をゑ無山が支払えなかった場合にはその保証会社
が立て替えてくれるようになっている。だけどそういうのを利用す
るのは最終的ににっちもさっちもいかなくなった場合ではないかと
壱案は思い込んでいたのだ。だがこれを利用しないともう督促の電
話もつらいし、という心理になっていた。
結局は井伊店長の思うままで井伊店長にペナルティがないのがく
やしかった。ヘンなひとを紹介して、こっちが大迷惑中なのに何も
してくれない、アフターケアが悪いのは口コミ評判通りだと思った。
井伊店長も悪いが何よりも一番悪いのは契約書通りに家賃を支払
ってくれないゑ無山なのだ。支払遅滞が常態化しているし、何より
も無連絡。遅れてすみません、の一言もないのだ。
ゑ無山ハカシ。
デザイン会社の経営者であることはホームページを閲覧しても確
かなのだ。閲覧している限りはしっかりした会社のように思える。
40
なのに、なぜ? 金周りが悪いのだったら何も壱案のマンションを借りなくともも
っと安く借りれる部屋がたくさんあるのに。壱案のマンションが相
場より高いのは最上階の門部屋にあること、ちょっと一人暮らしに
は広いこと、ちゃんと理由があるのだ。なのに、きちんと約束を守
らず電話督促しないと︵話さなくとも電話督促の着信記録で︶ 入
金してくれない。そういうパターンなのだ。
電話督促にも気がひけるし、かといって信用保証会社に今後毎月
家賃の振込をお願いしても困るし。
壱案は父親と相談して一度連帯保証人のゑ無山の父親と電話連絡
をとってみることにした。そしてできるなら賃借人の父親かつ連帯
保証人として今後代わりに入金してもらえるか、もしくは退去を考
えてくれるように依頼しようと思った。
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第六話・連帯保証人との交渉︵於電話︶
大家である太田壱案の賃借人、ゑ無山の連帯保証人はゑ無山自身
の父親である。名前はゑ無山毛板。職業でもデザイン会社社長とあ
る。会社名は別だった。設計デザイン株式会社ネオポオチとある。
賃借人の会社もポオチなので親会社子会社の関係なのかもしれない。
年齢七十八歳。もういい加減な年だ。住所は大阪府になっている。
新大阪駅前のビルのテナントに入っているようだ。つまり同じ大阪
にいてゑ無山親子は別々に暮らし、同じ職種だが別々の会社を経営
しているようだ。父親の会社もHPをもっていて閲覧するとこっち
の方が社歴が長く、一時は東京都内や九州にも支社があって昔はも
っと手広く商売していたようだ。こちらのHPもどういうわけか会
社の住所や連絡先はなく、仕事の依頼相談メールアドレスのみ明記
されている。
なんだか親子そろって変な会社経営方法だな? と思いつつ、H
Pはあるだけで実際は電話などの営業で仕事をとっているのかもし
れないと思いなおす。とりあえずは、連帯保証人の父親に家賃をき
ちんと払ってもらえるよう交渉しようと思った。
壱案は賃貸借契約書にあった連帯保証人の住所欄に電話番号があ
るのを確認して電話した。
﹁はい、ネオポオチインです﹂
こちらもコール音一発で男性の声がした。しわがれた声だ。張り
のないちょっと元気のない声である。
﹁あの、ネオポオチインのゑ無山毛板さんですか?﹂
﹁はい、私がそうです﹂
とすると社長本人が出たことになる。お一人だけで経営している
のかな?
﹁あのう、私は太田壱案と申しまして⋮⋮﹂
42
﹁いつもお世話になっております﹂
どこかの取引先かと勘違いされているようだ。愛想のよい声が返
ってきた。壱案はあわてて自己紹介する。
﹁いえ、あのですね、私はですね、あなたの息子さんにマンション
の一室を貸しているものです。
あのう、息子さんの連帯保証人になられてますよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの、もしもし?﹂
﹁ああ、はい。そうです。息子がなにか?﹂
急に声のトーンも下がり言葉尻が強くなり、用心深い感じになっ
た。
﹁息子のゑ無山ハカシさんの連帯保証人、ですよね?﹂
﹁まあそうですが﹂
﹁あの、ゑ無山さんの家賃の支払いの件ですが、きちんと契約を守
らず期日内の入金がないので困っているのです﹂
﹁それで?﹂
﹁あのう、こっちは前の月の月末までに入金していただかないと困
りますので。できましたら退去。
退去ができないのであれば今後連帯保証人のお父様に期日を守っ
て入金していただけたら、と思って電話させてもらいました﹂
﹁ふむ、大家さんでしたね? 息子の現在の滞納金額を教えてくだ
さい﹂
﹁いえ、今はまだ⋮⋮でも毎月支払いが遅れていますので﹂
﹁じゃあ、遅れてはいても払っているのですね? それならそれで
いいじゃないか﹂
﹁はあ、でもこの状態は困るのです。私は督促の電話をしてはじめ
て入金というパターンなので、できましたら退去してほしいのです。
私は期日を守っていただける真面目な方に貸したいとおもっている
ので。正直申して督促の電話で怒られたりするので気が重いのです、
苦痛なんです﹂
43
﹁大家さんが、息子に怒られるのですか?﹂
﹁そうです。あの人、すぐに怒るか忙しいとかいいます。すぐ怒鳴
る人ですよね?﹂
﹁まあ、息子は怒りっぽいのは確か、かな﹂
﹁話をしたのは一度だけですが穏便に話し続けることは困難でした。
以後は電話督促にも絶対に出ません。こちらとしては大変困ってま
す。あの、息子さんに退去を言ってください。急にとはいいません。
でも今年中ならできるのではありませんか。まだ七月ですし、今年
の年末までまだ間がありますので年内退去をお願いします。それが
できないのであれば今後は連帯保証人のお父さんが期限内に払うよ
うにしてください﹂
﹁息子に伝えておきます﹂
﹁あの﹂
﹁太田さん、私は連帯保証人に印鑑をつきました。ですが、お金な
んか代わりに払いませんよ。でも息子にあなたから電話があったこ
とは言っておきます﹂
﹁では退去のことも﹂
﹁今来客中で、私は大変忙しい身なのです、では﹂
ガチャ。
電話が一方的に切られた。
親子して一緒だ。
来客中で忙しいと言うのは絶対にウソだ。
壱案は電話をにぎりしめてそう思った。
開けて八月分の家賃は七月三十一日までの支払期限になるが当然
のように入金なし。開けて八月一日にいつものように支払督促のた
めの着信履歴を残しておく。電話をかけても相手が電話に出られる
ことは期待していない。着信記録を残すだけ。それで相手には督促
がわかり入金してはくるだろう。
44
だが今月は、それからもう一度、と思って連帯保証人の父親に電
話をした。今回もコール一回で父親のゑ無山家板が出た。
﹁はい、ネオポオチです﹂
﹁ゑ無山さん、大家の壱案です。息子さんの件ですが﹂
とたんにゑ無山家板の声のトーンが下がりぶっきらぼうになった。
﹁ただ今来客中ですが﹂
﹁今月分もまだ入金がありません。代わりに支払うか退去を言って
ください﹂
﹁今忙しいのです﹂
ガチャ。
電話が切られた。
壱案はやっぱり、と思った。ゑ無山の親子は親子してダメなんだ。
あの様子では息子にも注意していないだろう。父親が連帯保証人な
のに!
連帯保証人は父親なのに、息子のことを擁護した。息子が大家に
契約書通りに家賃の支払いを督促されているのに、謝罪もなかった。
契約違反はそちらのほうなのに、何も言わずに一方的に電話を切っ
た。
こういうことってあるのだろうか、こういうことってよくあるこ
となのだろうか。
新米大家、貧乏大家の太田壱案はどうしてよいかわからなかった。
二月に仲介会社から送られてきた賃貸借契約書他の書類を改めて
熟読する。井伊店長から恩着せがましく、信用保証会社もつけてお
きますから、と言われていたのを思い出して関連の書類を見て電話
をかけることにした。
信用保証会社はゑ無山自身と契約しているので、大家壱案との契
約ではない。だがゑ無山との契約番号とゑ無山と保証会社の契約書
の写しはもらっている。だが信用保証会社がゑ無山の代わりに家賃
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を本当に払ってくれるのか壱案は不安だった。
だがこのままでは確実に滞納されるだろう、とりあえず信用保証
会社に相談してみようかと思った。
46
第七章・信用保証会社との会話
信用保証会社ドッグは書類で見る限り東京に本社があるようだ。
そして大阪駅近くにも支店がある。結構大きな会社のようだ。驚い
たことにゆるキャラもいるらしく名前もミスター・ドッグといって
賢そうな目をしたシェパードのキャラクターがついている。
太田壱案は保証会社の利用方法も不明だから教えてもらわないと
いけない。とりあえず保証会社と賃借人のゑ無山との契約書のコピ
ーを見てそこに記載されている電話番号に電話をかけることにした。
﹁はい、賃貸専門の信用保証会社ドッグでございます﹂
﹁はじめてそちらに電話させていただきます。私は太田壱案と申し
ますが﹂
﹁はい、太田様。お電話ありがとうございます。あのう、ご契約者
様本人でいらっしゃいますか?﹂
﹁いえ、大家の立場にいます。賃借人の人がきちんと期日を守って
くれないので困っています。仲介会社はちゅー?するかい? の大
町駅前支店ですが、相談したらそちらに電話しろとおっしゃいます
ので﹂
﹁さようでございますか。あのー、契約書の写しをお持ちでしたら
右側上部に契約番号があると思いますがそれを教えて下さいませ﹂
﹁ああ、これですか。NO四−四千四百四十四とありますが﹂︵↑
架空の番号です。念のため︶
﹁はい、ありがとうございます﹂
カチャカチャという音がしてすぐにまた彼女は返答した。
﹁賃借人様のお名前とご住所をお願いします﹂
﹁賃借人、ああ借りている人の名前ね、ゑ無山ハカシ。住所は大阪
府大阪市⋮⋮大町駅前マンションの千四百一です﹂
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﹁ありがとうごいます、あなた様のフルネームをお願いいたします。
﹂
﹁大家の太田壱案です﹂
﹁オーナー様、でございますね﹂
﹁そうです。ゑ無山さんがちゃんと期日を守らず支払ってくれない
ので困っています。今は遅れがちですが滞納しがちになることを恐
れています。説明書によると保証人としてゑ無山さんに代わって支
だいべんさい
払ってくれるみたいなので電話しました﹂
﹁はい、代わりに支払いますこと、代弁済 と申しますが、業務の
一環としてさせていただきます﹂
よかった⋮⋮。電話に出た信用保証会社ドッグの女性社員はよど
みなくまた躊躇なく代弁済すると言ってくれた。壱案は最初からこ
うすればよかったな、と思った。でもやり方も何も知らなかった、
教えてもらえなかったのだ。
﹁それではもう今月末からゑ無山さんには私はもう督促の電話を入
れませんので今後はドッグさんの方から入金をお願いします﹂
﹁いえ、オーナー様、うちのシステムはそうではないのです。確か
にそういう業務もしていますが、ゑ無山さんとの契約ではそれはし
かねます﹂
﹁えっ、どういうことですか?﹂
﹁このご契約ではまずオーナー様にゑ無山様からの入金がないこと
を確認してもらったうえでわが社にその都度請求していただきます。
ご入金は次の月の十五日となっております﹂
﹁ええっ? うちにもローンがあり、毎月五日に引き落としになっ
ています。十五日の入金では困ります。遅すぎます。でも毎月督促
の電話を入れるにも苦痛ですし、かといって連絡しておかないと滞
納しそうで困っています。連帯保証人に申し入れしてはいますが、
音沙汰なしです﹂
﹁でもわが社とゑ無山さんとの契約内容がそうなっております。入
金日は十五日と動かせません。またその月の五日までに代弁済の連
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絡がない場合はその月は入金できかねます﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
﹁代弁済請求書類等はちゅー?するかいの方からもらっていらっし
ゃいますか?﹂
﹁いいえ、全然﹂
壱案は怒りがこみあげてきた。今度はゑ無山ではない。ゑ無山を
仲介した大町駅前支店の井伊店長だ。彼女はそういうことやそうい
うシステムも全く教えてくれなかった。
井伊店長は、職務怠慢じゃないのか?
壱案はとりあえず、代弁済請求書類をこちらに至急送付してもら
うように要請した。対応した女性社員は快く応じてくれた。
翌日速達便でそれは届いた。
信用保証会社ドッグの紹介パンフレット、代弁済請求書類、オー
ナー向けに請求書類の書き方、請求方法を書いたもの、たくさんの
種類があった。特に代弁済の請求方法などを詳細に説明された書類
は壱案は受け取ってもいないし、説明もなかった。思い切って電話
してよかったのだ。
壱案はため息をついた。ゑ無山ハカシの連帯保証人である父親と
この信用保証会社ドッグとはどちらが連帯保証の義務があるのだろ
うか。でも、業務として代弁済すると即答するだけゑ無山の実の父
親より誠実だといえる。
また紹介パンフレットには代弁済の他、滞納による土地明け渡し
の訴訟を起こす場合の費用を受け持つとある。また入居人が万一自
殺などした場合にも部屋の清掃代なども受け持つなども。
しかしこのドッグとゑ無山との契約ではそこまでしてもらえるか
どうかまでは今の段階では不明だ。とりあえずわかっているのは、
まず壱案が入金が確認できなかった場合はこのドッグに代弁済を請
求し、次の月の十五日に入金してもらうことになるのだ。
壱案はもう次回、九月から早速利用しようと決めた。ゑ無山が入
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居してすでに七カ月目に入っていた。彼は一度も期日を守って入金
してきたことはなかった。ずっと支払いを遅滞されていた。
さて九月一日になった。当然のように八月三十一日までにあるべ
き入金はなかったので壱案は信用保証会社ドッグへ提出する代弁済
請求用紙を取り出して書き込み始めた。
賃貸人⋮⋮自分の名前、当然太田壱案という自分の名前を書く。
賃借人⋮⋮相手の名前、この場合はゑ無山の名前を書く。それと
ドッグとの契約番号の記載欄がありそれも書く。
賃貸借している当該物件の住所。
代弁済の要求額と自分の利用銀行の支店名と口座番号。
下の方はドッグ使用欄で請求用紙到着確認、代弁済予定日時、代
弁日が空欄になって担当印、部長印、経理印が押されるようになっ
ている。
壱案は上の部分にこれだけ書いてファックスで送信するだけだ。
とりあえず初めての利用なので請求用紙の空白部分に﹁今後とも
よろしくお願いします﹂ とだけ明記しておく。
ファックスで送信したあとの夕方、果たして保証会社の追給と名
乗る男性から電話があった。
﹁賃貸保証会社、ドッグの追給と申しますが大町駅前マンション千
四百一室のオーナー、太田壱案様でしょうか﹂
﹁はい、そうです﹂
﹁ファックスを受け取らせていただきました。今現在家賃入金はな
いのですね﹂
﹁はい、そうです。今日が九月一日ですが昨日の八月三十一日締め
切りで支払うべきなのですが、このゑ無山さんって今まで一度もき
ちんと期日を守って入金してくれたことがないです。
督促の電話を入れてはじめて入金してくれるようになっているの
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で困っています。﹂
﹁電話⋮⋮通じるんですね﹂
﹁は? はい、でも出てくれません。着信履歴が残るのでそれを見
てから入金するようです。この督促の電話も毎月なので苦痛です。
できるなら退去してもらいたいのですが﹂
﹁ふーん、期日を守らないですか。最初からですか。確かに毎月オ
ーナー様の電話がないと滞納していくかもしれませんね﹂
﹁それで代弁済ですが﹂
﹁はい、請求は確かに承りましたので九月十五日にそちらのご口座
に入金いたします﹂
﹁ゑ無山さんへの請求はそちらがしてくれるのですね﹂
﹁それはおまかせください、こっちもそれが商売ですし、手数料を
上乗せして請求しますので﹂
そういうことなら壱案は最初からドッグにまかせてもよかったの
ではないかと思った。しかし毎月遅滞を確認してからの月半ばでの
入金は困る、ローンの支払いもあるし⋮⋮と思った。この状態がこ
のままずっと続くのも困るのだ。壱案はきちんと期日を守って入居
してくれる人にマンションを貸したいのだ。
とりあえずはドッグを利用しできるだけ早く退去してもらうよう
に持っていこうと思った。
﹁ドッグさん、あの、追給さん? あなたがゑ無山さんの担当です
ね﹂
﹁はい、私、追給がいたします﹂
﹁ゑ無山さんに会うのであれば、退去してほしいと伝えてもらえま
せんか? と申すのはすでに連帯保証人の父親にも申し入れたので
すが全く無視されまして﹂
﹁とりあえず代弁済してからの話になりますね。またご報告させて
いただきます﹂
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第八章・賃借人の嫌がらせ
九月十五日、信用保証会社ドッグからの代弁済が確かにあった。
今月分はこれでよい、いやよくはないがとりあえず今月の督促は
あっちが仕事としてやってくれる。
ただこういうのは初めてだったので壱案はドッグの追給に確かに
入金確認したと連絡を入れた。
﹁それであのう、ゑ無山さんとは連絡とれましたか?﹂
﹁いやオーナー様がおっしゃるとおり最初は電話が通じましたが、
あとは通じませんね。こっちの言い分は最初の一回目の電話でわか
りますから、あとは着信記録で推察するのだろうと思います。
今月はうちの会社が代弁済するので、大家さんの口座に家賃は入
金せずこっちに入金すること、そして家賃額からプラスして、代弁
済会社として代弁済の手数料を上乗せした金額を請求するといった
らすごく怒っていました。それが嫌なら期日を守って大家に家賃を
入れてくださいと申し入れしておきました﹂
﹁私がそちらのドッグに代弁済を受けたことでゑ無山さんは私の口
座ではなく、ドッグの口座に入金することになりましたが、それも
支払遅滞や滞納にまで至るとどういうことになりますか?﹂
﹁はは、それはこっちの仕事になりますから、オーナー様には迷惑
をかけませんよ﹂
追給は自信満々だった。家賃回収業者は、要は支払に難ありの賃
借者から家賃を回収するのが仕事だ。それで会社が成り立っていて、
追給という社員はそれでお給料をもらっているのだ。やはりそれな
りのノウハウがあるのだろう。
﹁それでゑ無山さんとは退去の話はされましたか﹂
﹁今はしない方がよいかと判断しておりますので退去の話は一切し
ていません﹂
52
﹁ではタイミングを見て話をしてくれませんか?﹂
﹁まあそうですね、タイミングですね、しかしながら退去の話は、
うちとしては業務外の話しです。とにかくオーナー様のお話で伺う
限り、また電話で本人と話をした限りではかなりクセのある人だと
お見受けしました。
今は滞納に至らぬよう入金していただく方法しかないですね。退
去の話はまた別の次元での話ですよ。直接会うことがあれば、その
時に﹂
﹁私は実はゑ無山さんとは直接の面識はないのです﹂
﹁ああ、そうですか。オーナーさん、こういう場合は会わない方が
いいですね。家賃請求は私どもに一切おまかせしていただくのが一
番よろしいかと、思いますよ﹂
﹁はあ、そうですね。でも退去してくださったらこっちにとっては
一番いいですが﹂
壱案は今はとりあえずこの追給にまかせようと思った。
それで月が変わった十月一日になっても督促の電話を入れるのは
やめた。
そのかわりにドッグに代弁済の請求書をファックスで送信するこ
とにした。
すると十月十五日。
ドッグからの家賃の代弁済の入金確認をしようとしてパソコンで
自分の口座を見るとなんとゑ無山が十四日に家賃を入金している。
﹁あれ、ゑ無山さんが十四日に家賃を例によって遅れたけど入金し
ていた。今日の十五日にドッグからの代弁済を受けてしまったし、
大変だー、家賃の二重取りになってしまった!﹂
壱案があわててドッグの担当、追給に電話しようとしたら、折よ
くドッグから壱案の携帯に電話がかかった。
﹁あの、今ドッグさんに電話しようとしたのです。ゑ無山さんが今
十四日に入金していたのに気付かず⋮⋮﹂
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﹁そうですね。私今督促にゑ無山さんの会社に出向いたのですが、
ちゃんと家賃を支払ったのに、まだ請求するとは何事だーって怒ら
れてきたところです﹂
﹁すみません。十四日に入金がわかっていたら代弁済の請求を取り
下げたのに。
でも昨日は残業が遅くて口座チェックせず寝てしまったので⋮⋮
もちろん代弁済していただいた代金はお返しします﹂
﹁ああ、そうですね。口座番号をあとでお知らせしますので、お手
数掛けます。あ、いえ、オーナー様には責任はありませんよ。ゑ無
山さんはこれをわかっていてわざとしたとぼくは思っています﹂
﹁えっ?﹂
﹁先月それでわが社に代弁済してもらったでしょう? 毎月十五日
に大家の口座にうちが代弁済するのはわかったので、十五日にドッ
グから代弁済代金手数料を上乗せした金額を請求しにくるとわかっ
たのですよ。
先月は電話督促でうちの口座に入金してもらいましたが、今月は
電話でも出なかったので会社に督促にくるとわかっていたのですな﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
﹁あの人、もしかして、常習者かもしれませんな。確定はできませ
んが過去にもそういうことをした経験があるのかもしれません。こ
っちのあしらいにも慣れているようでした﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
壱案が絶句すると追給はふふ、と笑った。それは余裕の笑いだっ
た。
﹁それが、こっちの仕事ですからいいですけど。失礼ですがオーナ
ー様には手を焼く相手ですよ﹂
﹁ドッグさん、追給さん、どうぞよろしく。ゑ無山さんがそういう
人なら本当に私では手におえないです。私は本当に大家としては素
人なのです。ああ、早く退去してもらえたらいいのに﹂
﹁会社にいったら業務妨害だと言われましたよ。部屋にも入れても
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らえませんでした。会社は雑居ビルの三階でしたが、あれはなにか
ありますね﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
壱案は絶句したまま電話を切った。それから気をとりなおしてオ
ンラインですぐにドッグに返金の手続きをした。ゑ無山には会わな
くとも考えが手に取るようにわかった。
﹁⋮⋮ここのオーナーの太田壱案とやらは私から家賃を二重取りし
ようとしたんだぜ?⋮⋮﹂
なんと言う嫌な相手なんだろう、なんと言う賃借人なんだろう。
もうゑ無山には退去してもらわねば。こっちが正当な持ち主でオ
ーナーなのに、こっちの方が立場が強いはずなのに、ゑ無山ハカシ
という店子に適当にあしらわれているのだ。信用保証会社の社員が
きても悪びれずに営業妨害と言ったらしいし、あしらいも慣れてい
たらしいし⋮⋮ゑ無山ハカシって本当に何者なのだろうか?
壱案はその晩眠れず、何の気なしにネットサーフィンをしていた。
そしてゑ無山が経営するデザイン設計会社ポオチのホームページを
開けた。
そこのホームページにアクセスするのは二回目だったが、特に更
新はされていないようだった。というよりほとんど手間暇をかけて
いないようだった。しかし壱案はページの一番右下の目立たぬ場所
に社長ブログという項目があるのに気づいた。そしてマウスを当て
て何気なくクリックした。
すると⋮⋮。
55
第九章・賃借人・ゑ無山ハカシという男
デザイン設計株式会社ポオチの社長ブログ。それはゑ無山本人の
ブログだった。
まず閲覧した壱案の目に飛び込んできたのは英文だった。それが
一番の印象だった。そして画像。大半が自分がてがけたデザイン設
計の部屋やどこかの店舗の壁画デザイン、動線デザインなどが多い
が自分の趣味を綴る欄も多かったのだ。
壱案は興味を覚えて次々とクリックしていった。
まだ会ったことがない入居人だが、最初から支払遅滞をおこして
しかも悪びれやなく、恫喝してくる。どういう人柄かはわかるが、
ブログでもってその思考方法がわかるかもしれないと思ったのだ。
画像は経営する会社で受注した建築や衣類のデザインの仕事の部
分を除けば、大半が自分自身の画像だった。
二月に賃貸借契約にあたり、各種書類いをちゅー?するかい? が送付してきたときには、ゑ無山の運転免許証のコピーがありそれ
に不鮮明な写真の写しもあった。それで見る限り全然別人だった。
免許証のコピー写真は不機嫌そうでぶすっとした中年男。ブログ
上では明るく若くうつっている。
全くの別人とまでは思わない。なぜなら壱案自身の運転免許証の
写真も﹁私は犯罪者です﹂ といいたげなふてくされたような暗い
表情でしかも不細工に写っているからだ。写真と本物と別人にみえ
るのことはざらにあるというのが壱案の意見だ。故に特に不信には
思わない。
しかし。⋮⋮大の男が自分の姿を嬉々としてブログにのせるのは
珍しいのでは?
56
カメラ目線で何かを持っているところか外食の写真、特にコース
料理、メインディッシュのステーキのお皿、食べた料理の感想等グ
ルメブログな感じ? 確かゑ無山は四十五歳だったが、大変に若く
見える。
そしてはっきりいってイケメンといえる。どこかでみた渋めの俳
優そっくりだった。いや、ヘアスタイルを似せているのだ。特徴あ
るその俳優にわざと似せてカットしてもらったとしか思えなかった。
そして来ている服も。
壱案は英語表記が大半でも平気だった。だてに英文科は出ていな
い。だがすぐにこの人の英語は変だと気づいた。韻律をふんで書い
ているにしては誤字脱字が多い。それから気に入りの英単語がある
らしく同じフレーズが何度も何度も出てくる。
﹁このゑ無山さんって正式に英語を習った人ではないな⋮⋮これじ
ゃ英語圏の人にも通じないだろうな﹂
壱案はとまどいつつ、閲覧を続けた。画像がとかく多いので画面
が重く時間がかかったが、もう平気だった。お金がないわけではな
いのに、会社経営で裕福そうに見えるのになぜ最初から支払遅滞を
したのかが本当に不思議だったのだ。大家としての自分を素人の女
性と見くびられているのは何となくわかる。現在では支払遅滞では
あるがきちんと電話督促をしないといずれ滞納にうつるのも確定で
なくともわかる。
でも、一体それはなぜだろう?
ルーズなだけではない。ルーズでは会社経営はできないだろう。
賃貸借契約に印鑑をついて契約をかわした以上は契約事項の支払
期限は守ってもらわねばならない。
でも、なぜだろう?
督促すると入金できるならもっと早く期限だって守れるではない
か?
どうして支払が遅れるのだろう、督促しないと支払えないのだろ
う。
57
壱案はそれがとても不思議だった。ブログには会社としての仕事
のほかに個人的な趣味の空手の行事や日常的に思うことを綴ったも
のも多い。だから閲覧を続けた。ゑ無山自身が今までの自分の周り
にいなかったタイプなので、そして将来的には滞納してもっと嫌な
目にあわせられるかもしれない相手なのだ。だから閲覧してどうい
う人間か見極めようとしたのだ。
壱案はブログの最後の方から最初の開示まで熟読した。三年分あ
った。誰でも見られるブログだから閲覧することに関しては罪悪感
は全くない。そしてゑ無山に対して以下のことがわかった。
1、かなり裕福な育ちであること。ブランド好きでグルメ。高級店
にも平気でいける。高級外車ももっているようだ。
2、留学経験はないようだが、大学在学時に何度かヨーロッパに滞
在している。英語のボキャブラリーが︵誤字脱字はあっても︶ 豊
富なのはそのせいか。書く方には難ありで文法ミスだらけでも、会
話では結構通じていたのではないか。
3、某有名大学建築部にいたが、二年半で中退している。大学生の
時に空手の黒帯を取り、指導員の資格を得ている。しかも空手の流
派は武道に疎い壱案でも知っている局陣空手だった。この指導員資
格はゑ無山にとってかなりのステイタスを感じるものであり、繰り
返しあの時は苦労したとの記載がある。全国大会でも優勝にはいた
らずとも、入賞は何度かしている。これも自慢らしく過去の試合時
の画像、受賞時の画像も載っている。
今も週一回後進の子供たちに指導、大会の時には判定員などの活
動もしている。壱案には空手はわからぬとも、ゑ無山にとって本職
の会社経営よりも青春の盛りに空手にのめり込んだことを誇りに思
っていることはわかった。またゑ無山の名前と空手の流派を検索に
入れると局陣空手本部のページに飛び三年前の全国大会での成績一
58
覧にゑ無山の名前が並びこれは事実であると確認できた。
4、まわりに対していつも上から目線。出張先のホテルでの対応が
まずくクレームをつけたら、こうあやまった、こうしてくれたとい
うのがブログで綴られている。超有名ホテルのフロントでの会話も
綴られていて彼はそこの対応に満足したらしく﹁さすが某東京都内
ホテル!﹂ との感嘆をもらしているが、壱案にとって単なるクレ
ーマーにしか見えなかった。
5、逆に指導員として指導にあたる生徒や、グルメ雑誌に載ってい
た店員、部下の社員にはやさしく丁寧で紳士でとおっているらしく、
相手に対してよくがんばっている、よく働いているなどのほめ言葉
が多い。
6、注目すべきは今ゑ無山自身が裁判をおこして係争中であること。
ゑ無山は原告として契約上未払いの別のデザイン会社を相手取って
訴訟を起こしている。どうやらゑ無山が雇った弁護士に不満をもっ
ているらしく、裁判がうまくいかず、弁護士は金取り虫だと罵倒し
ている文面がある。
7、経営者のみが入会できるロータリークラブに入っている。それ
も父親と同じく近畿経済同友会の会員であった。壱案はこれにも驚
き、父親の名前をパソコンで検索すると同友会の役員名簿に飛び、
国内を代表する大企業の役員名と一緒にデザイン設計株式会社ネオ
ポオチ社長、ゑ無山自身はその所長との身分で掲載されていた。そ
んなに大きな事業をしているようには見えぬが壱案の知らぬ経営上
で大きな事案を切りまわしている人なのかと思った。
壱案はゑ無山のブログを一通り全部閲覧して茫然とした。
ブログがすべての真実を忠実に表わしているなら貧乏大家の太田
壱案は日本有数の有名な起業家で局陣流派黒帯の空手家を相手にし
ていることになる。そういう立派な人物に対して住んでいる部屋の
家賃の支払遅滞してるから早急に退去してくださいと言っているこ
とになる。少なくとも空手の成績はウソをついてはいない。連帯保
59
証人の父親と一緒に近畿経済同友会のメンバーであることも事実。
ならば俗に金持ちケンカせずというのに、家賃の入金期日を守っ
てもらえぬのは一体何故なのだろうか。最初の頃の壱案の家賃の支
払いの督促電話であのように罵倒したこと、電話督促の履歴でやっ
と八万六千円を毎月支払うというこの状況は腑に落ちなかった。
普通の入居者なら素直に払うものだし、それだったら大家である
壱案と店子のゑ無山と会話したことがなくても不思議ではない。そ
れなのに毎月、月末になるとゑ無山さんは家賃を払ってくれるのだ
ろうかと気を揉み、やっぱり払ってくれないとがっかりしつつ月初
めに電話督促をし、ゑ無山は月半場で支払遅滞をしながらようよう
払っているこの状況はおかしいといわざるをえない。
ゑ無山が日本ですんでいながら英語表記にこだわること、すぐ怒
る自己の性格をいけないと思いつつ自己のクレーマーとしての様子
を綴ったりして満足と反省を書くこと、自分が住んでいる壱案のマ
ンションを支払遅滞してはいても他人には︵この場合は家賃でなく
デザイン会社取引上の金銭︶ 同じことをされたら訴訟をすること
に注目した。
﹁この人、ちょっと⋮⋮かなり変わっているのでは? だがお金を
もっていることは確かなのだ。お金周りがすごくいい、だから書い
ていることはきっと本当なのだろうな⋮⋮﹂
ちゃんと心理学的に分析はできないが、漠然とだがそう思った。
そういう人だからこそ、他人の思いが思いやれず支払遅滞をしがち
なのかもしれない。いや、もしかしてブログには書かれていないが
ドッグの追給がいうようにいろいろな方面での金銭がらみのトラブ
ルが常習化している人なのかもしれない。
四十五歳のもういい年なのにカメラ目線でポーズをとった画像を
堂々と載せるその神経。上半身裸で胡坐を組みあごをあげてまるで
モデルのようなポーズを取る。それもカメラ目線で何枚も。それも
自撮りのようでぶれたままの画像をブログにアップする。空手のポ
60
ーズも多い。一人だけでマンションの部屋でサンドバッグらしきも
のを蹴ったりしているポーズもある。昔の空手大会の画像も多い。
単なる試合の画像から自分の試合中の表情を大きく拡大して顔だけ
連写でアップしているものも多い。壱案はまあまあの容姿ではあっ
てもさすがにナルシストなポーズの連続にあきれる思いだった。
誰が見てもこのデザイン設計株式会社ポオチ社長ゑ無山ハカシは
その知名度抜群の空手指導員と言う立場と英語を自由にあやつれる
デザイン設計会社の社長とそれぞれ異なる己の立場にかなり満足し
ている様子がうかがえる。つまり自分の人生に大満足しているのが
うかがえたのだ。
そして。
金銭的に困っている様子は全くなく、海外にも遊びに行く際はビ
ジネスクラスをわざわざとる。ビジネスクラスで出た機内食をアッ
プしている画像、某超有名な料理屋のステーキをアップした画像、
に壱案は﹁なんだ、ゑ無山さんってやっぱりお金あるんじゃないの
⋮⋮﹂ と絶句した。
壱案のマンションは一人暮らしにしては広いものだ。
そして駅前の最上階、もしかしてしなくともゑ無山はこのマンシ
ョンにもかなりステイタスを感じているはずだ。というのは自己の
マンションから見た光景を画像でもアップしている。最寄りの駅は
大町駅と明記はせず二駅離れた大阪難波駅を最寄りとしている。
どうしてマンションの目の前にある大町駅前と書かないのだろう
か。プライバシー、匿名重視にしては変だ。壱案は大きな主要駅近
くに居住、と明記した方が彼の自己満足やプライドが満たされるか
らではないかと考えた。
﹁過大広告みたい⋮⋮知らない人が見たらわー、かっこいい社長ラ
イフって思うかもしれないけど、その実態は支払遅滞が常習化して
大家を馬鹿にする店子さんなの。一度だけ電話で会話したけど、大
家の私を営業妨害って脅す人なのよ⋮⋮それってかっこ悪いことな
61
いでしょうか、ゑ無山さん?﹂
壱案はパソコン画面上でにっこり笑っているゑ無山の画像に対し
て文句を言った。
壱案が見たゑ無山ブログの総判断ではやはり見栄っ張りの自己主
張の激しい男、というものだ。独身だというが、これでは結婚は難
しいのではないか? 女性と食事しているらしき表記もあり、女性
の顔こそでていなかったものの、料理と一緒に女性の手が何枚か撮
影されている。それは壱案が普段勤務先の県庁で一緒に働くような
一般女性ではなく、綺麗にデコされたネイリストの手が入った美し
いデザインの手だった。しかも一人や二人ではない。
ゑ見山さんって会社社長であり、かつ著名な武道黒帯の指導員、
マンションの最上階を住居としている。女性一般的にはモテル方か
もしれない。が、彼女たちは上半身の服装がうつっているのを見て
いる限り、事務職などではなく、夜の接客業というかホステスさん
らしいな、と思うのだ。綺麗な小さな花飾りをごてごてとつけられ
たその爪の先はやはり普段家庭的な雰囲気を醸すものでもなく、そ
の手では料理も家事もできはしない。事務職ではペンももてないだ
ろう。
そういうお金がかかりそうな女性と知り合い、ぜいたくな食事を
楽しみそれをブログに掲載する。かつ一方では自分の住居の家賃を
出し渋る。督促の電話での会話はただ一度きりだが営業妨害だと一
面識もないオーナーの壱案に対して罵倒する。以後は一度も電話に
出たことがない。
また今日、信用保証会社の追給がゑ無山と会ったらしいが、これ
も営業妨害だと言った。ということは壱案が女性のオーナーだから
みくびっているわけではないのだ。自分の払うべき金銭を要求した
相手に対して男だろうが、女だろうがそういう態度をとるのだ。
果たしてそういう態度で会社って経営できるものだろうか?
普段どういうつもりで人と接しているのだろうか?
62
この人は一体どういう神経をして生きているのだろうか思った。
63
第十章・仲介会社の顛末
壱案はもう月初めに家賃の入金がない確認をしてから信用保証会
社ドッグ宛にFAXで代弁済を要求する手順には慣れた。ゑ無山が
好きな時にきままに入金してくるときはしてくるし、十四日夜まで
に入金があった時は代弁済不要のファックスを送信するし、入金が
ない場合はそのまま代弁済を受け取る。つまりすべてがゑ無山次第
の、大家が店子に振り回されているシステムになってしまっている。
あれから追給と電話連絡を一度だけ取ったが、追給が直接住居に
督促に行っても絶対に部屋には入れないらしい。オートロックなの
で玄関先で門前払いらしい。
だからゑ無山が部屋をどんなふうに使っているのかが全くわか
らない。壱案は確かに信用保証会社のおかげで滞納ではないが、こ
んな非常識なゑ無山に早く大事なマンションから退去してもらいた
いという気は変わらない。
というかもうゑ無山自身の性格に生理的に受け付けなくなってい
るのだ。こんなに表裏の性格の違う男も珍しいのではないか、とつ
くづく思う。こんな人からもう住んでほしくもないし、お金を受け
取りたくなかったのである。
また代弁済をしてくれる会社は業務だから淡々としてくれはいる
が、このままずっとゑ無山にすみつかれても困ると思った。
代弁済された後の保証会社としての請求は結構厳しいらしくゑ無
山は一応支払っていると言うのだ。﹁一応﹂ と名付けられるのは
追給が、返済のときにゑ無山が勝手に分割払いにしているというの
だ。つまり、半月分をいれたり、利息分だけだったり。それで督促
の連絡を追給がすると月末までまってくれ、とか言うのだ。壱案は
ゑ無山が誰に対してもそうなのだろうかと思った。それではあの会
64
社のホームページにある華やかな社長ブログとは全く矛盾している
ではないか。壱案は追給にゑ無山のブログを見るように言ったら追
給はちゃんと見てきたらしく笑い声を押さえてわざわざ﹁見たよ﹂
という電話をよこしてきた。
﹁追給さん、ご覧になったのね、ゑ無山さんって嫌な人でしょ﹂
﹁いやあまあ、あれは個人の自由ですからねー。ブログでは偉い人
なんだな、あの人。あははは笑っちゃいました。だけど正確にはま
だ支払遅滞ですからね。うちは保証会社が仕事ですから。業務上滞
納常習者とかたくさんかかえこんでいますから、まだゑ無山さんは
マシな方ですよ⋮⋮一部でも払ってくれるだけはね﹂
追給はこともなげにいうが壱案はゑ無山がもう大嫌いになってい
るので、退去を、と思っている。だがなかなかそのタイミングがわ
からない。一体どうやって追い出していくのか皆目見当もつかない。
そうしているうちにまたまた信用保証会社のドッグの追給から電
話があった。
﹁ゑ無山の会社、株式会社ポオチが夜逃げしていましたよ、ご存じ
ですか?﹂
﹁えええっ!﹂
﹁もぬけのカラですね、うちは会社自体は保証してないので関係な
いですがね。今日、十五日に会社に督促に言ったらもぬけのカラで
した﹂
﹁まあ﹂
﹁それで連帯保証人の父親の方に行きましたらこっちも夜逃げでし
たよ﹂
﹁ネオポオチって会社でしたね、これも夜逃げですか﹂
﹁そう、親子そろって夜逃げですな﹂
﹁それで、マンションの方は﹂
﹁さっき行きましたよ。マンションにはいましたね。郵便受けも見
てきましたがふつーに住んでいるようです。ああ、今日、マンショ
65
ンの管理人さんに会いましたよ、ボク﹂
﹁私、まだ管理人さんとは面識がないのです。一度会って話をしな
いといけないと思ってはいたのですが﹂
﹁そうですね、あのマンションは水道料金などは一括で管理人さん
が管理していますので、住民さんは毎月管理人さんのところまで支
払うか口座引き落としで支払わないといけないのですよ。だけどゑ
無山さんのこと、聞いたらもう三カ月水道料金を滞納しているって
いってましたね。一度オーナーさんから連絡が欲しいと言ってまし
たよ﹂
﹁わかりました、電話してみます﹂
﹁ゑ無山さんは会社の夜逃げといい、本当に困った人ですね。まだ
完全な滞納までいってないのでこっちもまだいいですけど、気が抜
けない相手です。もし何か進展があったら教えてください﹂
﹁ゑ無山さんご自身から電話連絡はもらったことはありませんけど、
もしあったら教えます﹂
﹁それではそういうことで、じゃっ﹂
電話が切れた。壱案はため息をついた。
会社ごと夜逃げ⋮⋮。
ということは会社の家賃も滞納をしていたのだろう。
今月も家賃の代弁済してもらったからいいけれど来月からどうす
るのだろうか。居直って居つかれても困るし。連帯保証人の父親の
会社も夜逃げということは、親子そろってしめしあわせたのだろう
か⋮⋮本当に困った親子だ。
ブログにはあんなに派手な生活をして、訓告を武道の教え子や会
社の部下に偉そうに説教めいたことや人生訓を垂れているくせに、
ゑ無山という男は本当に嫌な人間だこと⋮⋮!
翌朝、壱案は昼休みの合間をぬってマンションの管理人に電話で
連絡をとった。
66
﹁はい、大町駅前マンションの管理室です﹂
やや野太い年配の女性の声がした。
﹁はじめて電話いたします。私は太田壱案と申しましてそちらのマ
ンションの最上階の﹂
﹁あっ、ゑ無山さんとこのですねっ!﹂
管理人さんは壱案に最後まで言わせず、ゑ無山の名前を出した。
﹁あのう、昨夜信用保証会社のドッグさんから水道料金の滞納の話
を伺いまして﹂
﹁はあい、あの人、ゑ無山さん、どーいう人ですかねー、信用保証
会社から家賃の支払いが遅れがちだと聞きましたよお、こっちもそ
うですわー。水道料金を徴収してますがねー。
変わっているというかなんというか⋮⋮料金の請求をしにいった
ら、今忙しいとか言うし、
支払って三千円に満たないほどですよ? なのに、手持ちがないと
か。
それでも高級外車に乗っているのですからね? なんなんでしょ
?あの人はー﹂
﹁はあ、一応設計デザイン会社の社長さんと聞いてますが﹂
﹁ふーん、私はマンションの管理人の仕事、長いですけどね、こう
いう生活に必要な料金も請求しないと払わなかったり滞納が平気な
人って常識、というものがもともと欠落してますね。
今は家賃遅れがちでもはらってると聞きましたが油断するとあの
人、滞納しますよお﹂
﹁そのようで、こっちも用心しています。退去をお願いしたいと思
っているのですがこれがなかなか⋮⋮あっ、管理人さん、もしゑ無
山さんと会えるなら大家から退去の話が出ていると言ってくれませ
んか?﹂
﹁お気持ちはわかりますが、業務外ですね﹂
管理人はあっさりと退去宣告の依頼を断った。確かにマンション
の管理人はマンションの管理のみが仕事であるので、業務外だと断
67
られるのは道理だ。壱案はゑ無山に対してもうあきらめともつかな
い、でもあきらめきれないこれ以上貸したくない思いは変わらない。
管理人の女性はゑ無山に対して過去クレームがあったことを打ち
明けてきた。
﹁あの人、先日お風呂の排水の流れが悪いといってきたのですが、
手はずを整えて業者を従えて指定の時間に待っていたら留守で鍵も
開けなかったのですよ。急用があったと後で言ってましたけど、失
礼ですよね。それ以降、排水溝の流れがどうのこうのって一切言わ
ないし、自分で直したのかもしれないですが、ほんと、変わった人
ですね。気をつけたほうがいいですね﹂
﹁そうですね。⋮⋮それで水道料金の方、管理費用には入ってなか
った事はゑ無山さんは知らなかったのかな﹂
﹁いやいや、あれは知っててやってるのですね。水道料金滞納も毎
月私がメモを入れているので知ってるはずです。郵便受けはいつも
カラですしね。ちゃんとメモも見ているはずです。
なのに、わずかのお金も払わないからね。保証会社の人がきて代
弁済していると初めて今日聞きましたけど、あの人ならそんなこと
平気なんだろうって思いましたよ﹂
﹁おっしゃるとおりで、私も困ってます﹂
﹁家賃の滞納の方、何カ月ためてますか﹂
﹁それが代弁済してもらっているので厳密には滞納されていません﹂
﹁ああ、それじゃ追い出せませんね。退去してほしいならお金を積
まないとムリですね﹂
﹁やっぱり、そうですか﹂
壱案はつぶやいた。信用保証会社に代弁済を依頼したら遅れると
はいえその月の家賃は立て替えてお金は入る。そのかわりゑ無山は
彼がもういいと思うまで壱案のマンションに住みつくことができる
のだ。
この状態でずっといつかれるのには壱案は生理的にもう受け付け
ない。非常識な入居人に早い時期に非常識人呼ばわりまでされてい
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るのだ。早く退去してほしい。だけど退去にあたって引っ越し費用
とかのお金を積むのはそれはイヤ。
あんなヤツに退去してほしいとお金を払うのは⋮⋮立ち退き料を
支払うのは絶対にイヤ。
壱案は管理人と話をして受話器を置いてから猛烈な怒りがわいて
きた。私がこんな思いをしているのに、平気で大事なマンションに
住みついているゑ無山に。
そしてそんなゑ無山を紹介したきり、無視、無関係を決め込んで
いるちゅー?するかい? の大町駅前支店の井伊店長に!
壱案は長らく井伊店長に連絡してないが今の状況を聞いて退去に
関するアドバイスでも貰おうか⋮⋮そう思って電話をしてみた。
﹁はいっ、ちゅー?するかい? の大町駅前支店でございます﹂
﹁あの、太田壱案と申しますが、井伊店長さんをお願いします﹂
﹁いつもお世話になっております。すみませんが井伊は本日休みで
す﹂
﹁まあ、それでは居元店員さんはいらっしゃいますか? ちょっと
相談にのっていただきたいのですが﹂
﹁少々お待ち下さいませ﹂
壱案は元気な男性店員の居元の顔を思い出した。にこにことした
若いはつらつとした店員だったのを覚えている。彼も最初に対応し、
マンションの部屋を井伊店長と一緒に下見に行った人だ。私を覚え
ているだろうか。
﹁はい、お電話かわりました。居元でございます﹂
﹁居元さんお久しぶりです。あの、大町駅前マンションのオーナー
の太田壱案ですが﹂
﹁はい、覚えています。⋮⋮ゑ無山さんの件ですかね﹂
﹁そうです。あれから信用保証会社さんに代弁済してもらってます
が、どうでも退去してほしいので相談に乗ってくれないかと思いま
69
して﹂
﹁以前井伊店長と話をされていたかと思いますが、ぼくら仲介して
契約書を交わした後はそれで仕事は一応終わりなんですよ﹂
﹁でも、あのう﹂
﹁代弁済を受けているなら滞納もないでしょ、なら、毎月家賃が入
っているってことだからそれはそれでいいんじゃないですか?﹂
﹁いえ、それでは前の月の月末三十日もしくは三十一日に家賃が入
らないとこちらが困る事情がありますし、何より不安なのです。ゑ
無山さんの会社は倒産かなにかしらないけどどこかに夜逃げしたら
しいし、非常識な人だし。だからそちらの方から退去の話しをもち
かけてほしいのです。私の電話では出ないので﹂
﹁だからそーいうことが起きてもいいように、信用保証会社ってい
う存在があるじゃないですかー、それを利用したら何も損はしてな
いし、いいじゃないですかー﹂
壱案はがっかりしつつも、そんな言い方はないじゃないかと思っ
た。今の言い方はあんまりだ。
相手がどういう人でも代弁済を受けさえしたらいいじゃないかっ
て、そんな言い方はあんまりだ。督促の電話にも出ないし、毎月入
金があるかないかで口座を見てはらはらする。こっちの精神的苦痛
はどうなるんだ? 壱案は言葉を選びながら、居元にそう告げたら
居元は意外なことに文句を返してきた。
﹁ぼくらはちゃんと仕事してますよ? あのですね、ゑ無山さんに
はぼくらも困ってます。
オーナー様や信用保証会社からの電話や督促があるたびにゑ無山
さんってぼくを呼びだすんですよ。
マンションの部屋にいるから、いますぐ来いって言いますです。
部屋からは駅も見えるし、僕が今いるお店も見える。逃げようがな
いです。それで部屋に仕方なく言ったらゑ無山さん、ずっと文句言
い続けです。督促の電話がしつこいって。なんでああいう大家のマ
70
ンションを紹介したんだって﹂
﹁でも、うちだって、ちゃんと期日を守ってくれないから督促をす
るんです。督促といっても電話に出ないから着信履歴を残している
だけです。それをするのは当然ではないでしょうか﹂
﹁まあ、わかりますよ。でもゑ無山さんああいう人なんで、人の話
を聞かないです。それで自分の文句ばっかり。店に返してくれない
んですよ。ホント、文句ばっかりで。
あっちはこれ見よがしに空手かなにか知らないけど賞状やらトロ
フィーをいっぱいかざっている。壁には自分が何かポーズをとった
パネル写真が大きく引き伸ばされていっぱい飾ってます。
あの人変わってます。自分がかわいくて仕方ないんですよ。それ
で自分は何をされても許されていると思いたいし、人にもそう思わ
れたいのですよ。ようは欲求不満なんでしょうが、ぼくは迷惑です。
すみませんがぼくからは退去の話しなんかできないし、業務の管
轄外ですよ。どうしても退去してもらいたければ、それはオーナー
様が引っ越し代金や迷惑料を包むしかないとは思いますがね。
ぼくもたいがい、迷惑をこうむっているんだし、もう勘弁してほ
しいですね﹂
ガチャ。
電話が切られた。
仲介会社の若い店員から客であったオーナーからの電話を切った
のだ。言うだけのことを言ってから。これでは壱案の方がクレーマ
ーではないか。
壱案は怒った。
ちゅー?するかい? であのゑ無山を紹介したのは井伊店長と居
元店員ではないか、それなのに、保証会社をつけてあげたという言
い草といい、ぼくも迷惑しているから勘弁してくれという言い草と
いい。
なんて無責任な会社なんだろうか。
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こんな会社に家賃一ヶ月半もの代金を支払ってしまったのだ。そ
のあげくあのゑ無山に振り回されている。この上、こんな店員にま
で暴言を吐かれるなんて!
壱案はもう一度居元に対して電話を入れた。今度は出るなり壱案
は自分の言いたいことを言わせてもらった。
﹁居元さん、あなたの気持はよくわかりました。では、せめてそち
らに支払った仲介手数料を返してください!﹂
﹁え、今なんて﹂
﹁あのゑ無山を紹介したばかりにこっちは月末はいつ入金するだろ
うかと心配したり、保証会社と連絡を取らないといけません。あの
ゑ無山にはこっちの督促の電話をしただけで罵倒されたりして精神
的な苦痛もうけてます。今後退去の話もしないといけませんし、あ
あいう迷惑な人を紹介したのはそもそもそっちのせいなのに、何も
してくれないじゃないですか。だったら仲介手数料、全額返金して
ください!﹂
﹁そんなできませんよ、そんなこと﹂
﹁じゃあ、また本社のフリーダイヤルに相談してみます!﹂
﹁できませんって﹂
ガチャ!
今度は壱案の方から電話をガチャ切りした。壱案は怒りのあまり
息が切れた。こんな不快な思いをさせられるゑ無山が本当に憎かっ
た。
またちゅー?するかい? にも煮え湯を飲ませられた。このまま
泣き寝入りなんかしたくない!
72
第十一章・仲介料金の取り戻し
壱案はもう一度本社のオーナー様専用相談要フリーダイヤルをま
わした。
するとまたあの鈴木という担当の男が出てきた。
事情を再度かいつまんで話す。鈴木という男もどうやら前回の相
談内容をパソコンに取り込んでいたらしくこちらの連絡先と利用支
店名を伝えただけで、話がスムーズにできた。だが手数料返金はし
かねます、という。
﹁手数料はいかなる理由がありましてもご返金はできません。家主
さんは紹介された賃借人が結果的にご不満があったとしてもそれは
業務外になります﹂
﹁でも、あの店長も店員もああいう態度では困ります。ゑ無山さん
に呼びだされてこまる愚痴まで聞かされているんですよ? なんの
解決も助言もなく、紹介したら紹介しっぱなしではないですか。
ちゅー?するかい? ってコマーシャルばかりが有名でほんとに
無責任な会社だと思いますけど!﹂
一案は興奮して普段は言えないような厳しいものの言い方をした。
すると鈴木は意外なことを言った。
﹁オーナー様からこういう話があったことは伝えておきますが実は
同じちゅー?するかい? の会社でも大町駅前支店はうちの会社で
はないです﹂
﹁なんですって? ちゅー?するかい? そのままの特徴あるロゴ
や女優さんのポスターを使っておいてうちの会社ではないってどう
いうことですか?﹂
﹁あのロゴは使用許可だけしているのです。オーナー様にはご迷惑
をかけますが、実はあの大町駅前支店はフランチャイズの店なんで
す。賃貸借契約書にもその旨明記しているとは思いますよ?﹂
73
一案はあわててそれを取り出す。契約書のコピーはロッカーの一
はあときかく
番上の引き出しにすぐに取り出せるように入れてある。表紙に見慣
れたちゅー?するかい? のロゴと一緒に小さく葉後企画 とある。
壱案は憤然として答えた。
﹁全っ然、知りませんでした。それにそうだからとして、それがど
ーしたんですかっ?
フランチャイズのお店だからって何? だから本部では言い逃れ
というか責任逃れをしますってわけ?
ひどいじゃないの? それだったら出るとこ出ますよ? いいで
すかっ!﹂
壱案は怒りのあまり電話口で絶叫した。鈴木は弱った声で﹁いや、
あの⋮⋮﹂と口ごもっている。
トーンを押さえた声で鈴木は言った。
﹁とりあえず、オーナー様にはご満足いただけず本当に申し訳あり
ません。大町駅前支店の井伊にはくれぐれも対応を良くするように
言っておきますので﹂
﹁言うのは構いませんが手数料、返してください。そのお金でゑ無
山さんと退去の交渉をしてみますので! 私、このままでは精神的
に重荷なんです。正当な方法で催促しているだけでも、営業妨害扱
いですからね?﹂
﹁それも井伊店長に伝えておきますので﹂
﹁それでは失礼します﹂
壱案は電話を切った。とりあえずオーナー様専用相談電話とホー
ムページに親切ごかしに掲載はされてはいても、何の解決にもなら
ないことがよくわかったのだ。
はたしてその一時間後に井伊店長から電話がかかってきた。弁明
の電話だった。
﹁オーナー様の御腹立ちはよくわかりますが、うちもゑ無山さんが
そういう人だとは思わなかったのです。会社を夜逃げするような人
だと最初からわかっていたらこちらも紹介はしてません。それはわ
74
かっていただけますよね?﹂
﹁わかりませんわ。店長さん、あなたは最初っからゑ無山さんの味
方ばかりして私に損するようにしていたじゃないですか? 私が大
阪府外に住んでいてかつ女性で一戸しか所持してない新米の貧乏大
家とわかっていてあんな人を紹介したのでしょ? あいにくだけど
私はこのまま黙ってはいませんよ?﹂
﹁オーナー様、どうか落ち着いてください。一戸だけしか持ってな
いオーナー様だからって見くびったわけではありません。そんなこ
とは誓っていたしませんよ﹂
﹁もう言いわけはいいから手数料、耳をそろえて返してください﹂
﹁いえ、それは絶対にできません﹂
﹁絶対に、ですか?﹂
﹁ええ、絶対にご返金はできないようになっています﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの、オーナー様、もしもし⋮⋮﹂
﹁これ以上言っても無駄なようなのでこれで失礼します﹂
壱案は井伊店長の言葉をこれ以上聞くことはないだろう。解決に
は程遠いことがよくわかったからだ。
だがゑ無山のような男を紹介してあとは知らん顔だなんて⋮⋮絶
対に許せない。信用保証会社にエンドレスで弁済してもらったから
すべて解決ではないのだ。なんという恩着せがましいそして無責任
な会社なのだろうか。絶対に許せない。
太田壱案の心の中で何かのスイッチがカチリと入った。
私はこのまま泣き寝入りなんか絶対にしないわ!
ちゅー?するかい? から仲介手数料は絶対に取り戻してみせる
!!
私をみくびったちゅー?するかい? の井伊店長と居元店員、そ
してゑ無山とその連帯保証人の父親には絶対に後悔させてやる!
75
壱案はまずちゅー?するかい? でゑ無山の入居紹介時に送付し
てきた賃貸借契約書を改めて熟読した。契約書表面の右下に見慣れ
たロゴの下に確かに葉後企画の文字があった。大町駅前支店のちゅ
ー?するかい? はフランチャイズで本社とは別の会社なのです、
などとほざこうとも客である壱案にとっては同じことで言い逃れと
しか思えない。
⋮⋮本当に頭にくるわ。
ちゅー?するかい? のって巨大仲介会社というイメージだけど、
大町駅前支店はフランチャイズだったんだ。それでもめごとが起き
ると本部ではあそこはフランチャイズ支店なので、うちとは違うと
か言うんだ。本部って口先だけでいい加減なものだわ。一番最初に
した電話ではそんなこと、一言も言わなかった。オーナーに錯誤さ
せる本部も絶対どうかしている。
そして大町駅前支店の井伊店長も。無責任としか思えない言い逃
れしか言わない。
確かにゑ無山さんが支払遅滞もない優良賃借人であれば私も何も
言わない。万事うまくいっていただろう。だがこういう入居した次
の月から支払遅滞があるならば多少の責任、というものを背負って
ほしいと思うのだ。
特に井伊店長は最初の家賃も値下げを強く要求し、かつ管理費用
もその月半場の入居でも半額はもらわないといけないのに、負けろ
と言われその通りにしてやったではないか? すべてはゑ無山がこ
れからも気分よく家賃を支払ってもらえるようにこちらが配慮して
やった結果なのだ。許可したのは結局自分でそれが甘くゑ無山に甘
く見られる結果を招いたことによる。それは反省しないといけない
だろう。だが一方的に契約書にサインした壱案が悪いと言われて簡
単には納得できない。自分の不勉強からきた結果とはいえ、仲介会
社は一言もこちらに同情もしないし謝罪もしないというのは責任逃
れとしか思えなかった。
76
信用保証会社の代弁済は次の月の十五日。だから一旦ローンを自
分の給料でもって肩代わりしている状況なのに、この状態が続くと
困ると思っているのに誰も解決によい提案もせず、壱案が泣き寝入
りするのを待っているとしか思えない。
壱案は賃貸借契約書をはじめから最後まで何度も読んだ。ふと時
計を見るともう日が変わっている。明日も仕事だからもう寝よう。
そう思って契約書を閉じて表面を上にして机にしまおうとした。ふ
とちゅー?するかい? のロゴの下を見た。そこには宅建取引主任
者の名前が印刷されていた。
名前は道下惠治とある。そして大阪第一二三四号という登録番号
が明記されている。その下に担当者の名前。壱案も知っている居元
の名前がフルネームである。
﹁ふん、宅建取引主任者なんか一度も会わなかったわ。きっと名前
だけ貸していうのではなくって? ふん﹂
だがふとこれは突破口に使えるのではないか、と思った。
翌日、いつものように県庁に出勤する。そしていつものように書
類と格闘した午前。だがこのところ仕事は暇な方だ。閣議が続くと
徹夜勤務もあるがこの時期はない。暇な方なので昼休み時間はきっ
かり四十五分間ある。一案は昼食のお弁当を食べ終えると総合受付
の電話交換手の部屋に行った。
県庁の代表番号にかけるとまずそこの交換さんが出てくる。そし
て手際よく利用者の要望を簡単に聞いて該当する部署につなげるの
だ。そこに壱案の同期である笹ちゃんがいる。彼女ももう十年近く
移動もなく勤務しているベテランだ。彼女もちょうど休憩時間に入
っていてよかった。
﹁あ、コブタのぶーくん、じゃないの? あいかわらずの体型じゃ
んー﹂
﹁ぶーくんはやめてよ、ちょっとは気にするのに﹂
77
壱案は体型のことはあきらめていた。何よりもケーキバイキング
をこよなく愛する身ですらりとした体型を維持はできない、そう思
っている。それに自分は一度男性と同棲しておきながら失敗した身
である。未婚女性としてはキズものと自分でも思っているし両親も
そう思っている。だから縁談も何もない。
恋愛にはもう希望をもっていないので、あとはきちんとした身入
りのあるお金と自由がきく時間とおいしいものが食べれたら自分は
幸せなんだ。壱案はそっちの方面では完全に開き直っていた。
﹁ぶーくんでも気にすることあるんだ? ごめんよーん﹂
﹁ところで笹ちゃん、元気? あのさー、一般県民から不動産の宅
建取引の許可のことで質問されたらどこに電話まわすー?﹂
笹ちゃんは間髪入れずに返答を返す。
﹁そりゃ建築振興課だね!﹂
﹁何階?﹂
﹁五階だよ、どーしたん?﹂
﹁うん∼ちょっと﹂
﹁ふーん、ところで。たまにはどっかおいしいもの食べにいかない
?﹂
﹁うん、じゃあ今度三宮の新しいホテルのケーキバイキングに行か
ない?﹂
﹁いいね!﹂
まったく笹ちゃんも壱案と同じで男はこりごり、というタイプだ
から気があう。男と結婚して甘い生活を、とか全然思ってないのだ。
壱案は他にも同じような結婚に夢を持ってない友人がいて、ケーキ
バイキングに行くのだ。自分たちはこうして県庁勤務のまま、まあ
多少の異動はあるにせよ定年まで働くのだろうと思っている。そう
やって割り切って仕事と趣味に励んでいると恋人がどう、とか結婚
へのあせりは全くなくなり人生が楽しくなる。少なくとも壱案はそ
うだった。
笹ちゃんに礼を行ってから五階に行く。建築振興課には同期はい
78
なくとも仕事の内容によって書類の受け渡し、資料請求でも行きき
する。だから気負いなく行けた。
建築振興課も普通の事務室でカウンターの奥には机が規則正しく
並びほぼすべての机の上にはパソコンが置かれている。昼休みはこ
こは全員で同じ時間に取れるらしく物憂げに新聞を呼んだり机に突
っ伏して寝ている人が多かった。
壱案はカウンターに一番近い席で何やら書類をチェックしていた
顔見知りの年配の女性にあいさつした。田中さんという。もう六十
をとっくに過ぎている嘱託の非常勤職員だ。だが建築振興課には四
十年近くいて、異動ばかりしている若い職員から影の指導員、影の
課長と言われて恐れられている。
﹁こんにちは、田中さん。閣議準備室の太田壱案です。すみません、
仲介業者開設の許可と宅建取引の許可してる人を紹介していただけ
ませんか﹂
﹁こんにちは、珍しいわね? それにしても相変わらずの体型ね。
うん、それは、プライベート?﹂
﹁そうなの、一県民としての相談です﹂
﹁それならこっちじゃないわ。関東地方整備局よ。埼玉県にあるわ﹂
﹁えっ、埼玉県?﹂
﹁どうしたの? 話なら聞いたげるよ﹂
﹁あの﹂
壱案は悪びれずにこれまでのことを話した。田中さんはふんふん
とうなづく。
﹁それでぶーくんは、仲介料金を取り戻したいわけね?﹂
﹁はっきり言って、そうなの﹂
﹁それなら整備局よりも国土交通省の不動産業課の紛争係だ。書類
関係ならさっき言った関東整備局のの方がいいけどね﹂
﹁お願い、紹介して﹂
﹁私はただの嘱託で面識はない。それにお役所だし仕事は仕事だけ
どこういったことにはつながりはないわ。悪いけどお役にはたてな
79
いわ。自分で電話してね。電話番号だけ教えてあげるから﹂
﹁わかりました、ありがとうございます﹂
﹁閣議が始まったら忙しくなるわ。仕事の方が大事よ、わかってい
るわね? それと早くぶーくんのニックネームを返上しなさいよ、
そんな体型じゃモテないわよ、一生独身よ!﹂
﹁いいんです、私は﹂
壱案は田中が建築課全般の職員、特に新人から﹁鬼ババ﹂ と恐
れられているのがようくわかった。確かにものすごい毒舌家だがイ
ヤミではない。恐れられつつ親しまれているのだ。
田中さんは顔をしわだらけにしてにっこりと笑うと壱案のポケッ
トにおまんじゅうを一つ入れてくれた。
﹁検討を祈る、ぶーくん!﹂
壱案はふくらんだポケットに手をやり笑顔で返事した。とりあえ
ず田中さんの快活な話し方で少し救われたのだ。少しは気分が晴れ
た。
﹁田中さん、ありがとうございます﹂
職場で一時間早く時間休をもらい、壱案は田中さんに教えてもら
った電話番号で電話相談をした。通話先はもちろん国土交通省だ。
紛争係に電話をまわしてもらいこれまでの経過を話した。
忙しいのはわかっているので、感情的にならず簡潔に話すように
心掛ける。壱案自身も公務員であることは明かしていないが相手は
親切にふんふん、と聞いてくれた。
﹁確かに相手先のいうとおりですよ。貴女が女性だから大阪府外に
住んでいたからああいう人を紹介したという思い込みはあなたにと
って不利ですよ。で、仲介料金を取り戻したい? 残念ですけど、
ダメですね。きちんとした賃貸借契約書がある限りそれは無理です
ね。
法的な違反をしていれば話は変わってきますがこの場合は違いま
す。こちらは第三者としてもこういったことには介入できません﹂
80
﹁そうですか⋮⋮お話聞いていただいてありがとうございます﹂
壱案は落ち込んだ。やはりダメか、という気持ちだ。だけど負け
たくはない。ちゅー?するかい? でもゑ無山でもなめられっぱな
しだ。だから負けたくない。負けてたまるもんか!
国土交通省がダメだったので、最後にダメもとで関東整備局に電
話することにした。出た相手は女性だった。同じことを繰り返して
相手に訴える。相手は壱案の話を地方在住の一県民としてもちろん
聞いてくれた。だけど返事は同じだった。
﹁話を聞いている限りでは違反はないので介入はできませんね。う
ちではお役に立てませんね﹂
﹁はあ、やっぱりそうですか。契約成立時は多めに手数料を払う約
束をしてしまい、バカをみました。お金をドブに捨ててしまいまし
た。ともあれ、お話を聞いていただきありがとうございました﹂
壱案がため息をついて電話を切りかけた時相手が﹁ちょっと待っ
て﹂ と言った。
﹁今の言葉、何? 手数料多めにって﹂
﹁あの契約成立時には家主の気持ち次第ですけど何カ月分でもイロ
をつけるというか、成功報酬を支払ってくださいって言われて私は
家賃一ヶ月半相当額を仲介手数料として支払ったのです。
たくさん報奨金をもらうほどやる気がでると言ってましたね。で
も払うだけ無駄でした。すごく残念です﹂
﹁ああ、それは違反ですね。仲介手数料金は家賃の一カ月まで、と
法律で決まっています。
ちゅー?するかい? のは最大手に近い業者なんでわかっている
はずですよ? なんでまたそういう言い方をしたんですかね?﹂
﹁直営店ではなくってフランチャイズなんだそうです。本部にも相
談しましたが、はっきりいってその店舗との交渉になるので本部と
は関係ないって言われました﹂
﹁ふーん、その証明、支払証明ってありますか? 明細書とか﹂
﹁ありますよ﹂
81
﹁じゃあ、それをもってあなたのマンションのある住居地、ええと
大阪府ですか、そこの建築課に言ってきたら?﹂
﹁はあ、何かできるのですか?﹂
﹁それはわかりません。そうなってくるとうちとは全く違う仕事な
んで﹂
﹁じゃあ、あなたの部署とお名前を出してそう聞いたといってもい
いですか?﹂
﹁ああ、いいですよ。もちろん﹂
壱案は心躍った。五時の閉庁まであと五分しかない。すぐに大阪
府庁の建築課に電話して事情を伝える。電話をとったのは女性だっ
た。
﹁ご事情はわかりました。じゃあ、その契約書や請求書、明細書等
コピーでよろしいですからこっちにご送付いただけますか?﹂
事務的で感情のないやりとりではあったが壱案はこの人もまたき
ちんと仕事ができる人という印象をもった。壱案だって、だてに県
庁に何年も勤めてはいない。県会議員初めいろいろな県職員にも会
っているのだ。電話を置くなり手元に置いてある契約書を取り出し、
階下の県庁内にあるコンビニに行ってコピーに出した。そして明日
きけもと
一番にポストに投函できるように書類を整えた。
その担当になった女性の名前は紀家元 と名乗った。
大阪府庁建築課の紀家元様気付でコピーとこれまでのいきさつを
簡潔にまとめたものを送付した。それも速達で。壱案はこれでもう
ダメならちゅー?するかい? に訴訟するまでもないけれど、すっ
ぱりとあきらめるつもりだった。
だが事態は急展開する。
三日後。
壱案の携帯電話に紀家元から連絡があった。
﹁太田壱案さんですね。先日の件で話がありますが今、お時間大丈
夫ですか?﹂
82
勤務中ではあるものの、ちょうど三時のお茶の時間だった。
﹁大丈夫です、どうぞ!﹂
壱案はオフィスから廊下に出てロッカー室の中に突進しながら返
答した。内容は思いがけないものだった。紀家元は簡潔に言った。
﹁前置きは省略します。仲介手数料は規定で家賃の一カ月分と決ま
っています。
あなたの場合は一ヶ月半もの手数料をとっていますので、違反、
と判断いたしました﹂
﹁違反、はい⋮⋮﹂
﹁そこで先ほど当該業者を呼び出して事情聴取をいたし、業務指導
を入れておきました﹂
﹁えっ!﹂
﹁こちらは民間の施設ではありません。業務上の指導です。ですか
ら貴女への仲介手数料を返還せよとの要求はこちらからいたしませ
ん。当該業者つまりちゅー?するかい? 大町駅前支店のことです
が、太田さんが納得していないということは言っておきました。業
者の方も太田さんに対して一カ月以上の手数料をとったことは認め
ましたので一カ月の業務停止を命じました。以上報告です﹂
﹁一か月の業務停止処分、ですか!﹂
﹁太田さん。重ねて念を押しておきますが、これは府庁としての業
務で、一利用者からの訴えがたまたまあって発覚したことで太田さ
んと太田さんの入居者であるゑ無山さんとの関係はこちらは関知い
たしません。それに当該業者は太田さん以外にもオーナーから規定
の手数料以上の料金を常習的に採っていたことを認めました。県庁
建築課として、ちゅー?するかい? 大町駅前支店との行政指導と
なりますことをご承知ください。いいですか、重ねて申しますが手
数料を返還するようにとの指導や命令は入れておりません。それは
ちゅー?するかい? のフランチャイズ先の葉後企画が考えること
ですので﹂
﹁は、はい。わかりました﹂
83
彼女は壱案が考えていたことと全く違う方向で業務上の違反を見
つけて行政指導をしたのだ。これは壱案にとっても慮外だった。紀
家元と名乗る女性は相当仕事ができる人とみた。
壱案に同情したから指導を入れたわけではない。壱案が提示した
コピーで証拠をあげて業務上の違反だと指導をいれたわけだ。いわ
ば彼女は自分の仕事をみつけたのだ。
しかも手数料返還云々とは一言も言ってないと念をいれての報告
もこちらにしてくる。つまりちゅー?するかい? の行政上の指導
だけ入れましたという報告だ。
つまり、返せとは言わず一カ月以上の手数料受領は壱案以外にも
他の客に対してもやっているのだろう。今までの経過を材料に無連
絡査察なりして介入したに違いない。紀家元は、壱案が速達で各種
書類のコピーを送付して三日弱でそれだけのことをしたわけだ。
返してやれとは一言も言わなかったのも確かなことだ。
だが、業務停止命令を受けた民間企業は指導を入れた府庁に対し
て恭順の意を示すために、手数料返還はあるだろう。壱案も他府県
の行政指導とはいえ、県庁勤務なのでそういうことはわかっている。
壱案は素直に紀家元に感謝した。
﹁お手間取らせました。すみません﹂
はたしてその夜。
壱案の自宅に訪問客があった。
大町駅前支店の井伊店長と居元店員。そしてこの日初対面だった
が葉後企画常務の周防と名乗る年配の男性。合計三名。
応接間に通された三名は、しょんぼりとした様子で肩を落として
応対にでた壱案と壱案の父親に挨拶した。特に井伊店長はうなだれ
ていた。壱案はその様子を見てこの三人は紀家元に相当絞られたん
だな、と検討をつける。事実そのとおりだった。
葉後企画常務の周防は壱案に対して現金の入った封筒と手土産の
お菓子を渡した。そして丁寧に頭を下げて壱案に謝罪した。
84
﹁オーナー様、このたびは誠にご迷惑をかけまして申し訳ありませ
んでした。ご覧の通り、仲介手数料全額を返金させていただきます。
このとおりゑ無山に仲介しましたことで既定の仲介手数料以上の料
金をいただきすぎましたので⋮⋮このたびは誠に申し訳ありません
でした。
あの、よろしければ金額をご確認いただいたうえで領収書にサイ
ンをお願いいたします﹂
壱案はもちろん封筒の中身を確認した。仲介手数料返金とあった
ので、家賃一カ月分は規定の分でとってその差額を入れているのだ
ろうと思ったが違っていた。全額入っている。つまり一カ月半分ま
るごと返金されたのだ。
﹁それではそちらさまの儲けがゼロになりますね。いいのですか?﹂
常務周防は顔をあげて壱案を見つめて言葉を継いた。
﹁いいのです。どうか、お受け取りください。⋮⋮それで受け取っ
て和解した旨を府庁の紀家元さんに言ってほしいのです。行政指導
を受けた以上はうちは最低一カ月の業務停止処分がきます。その前
にこれだけの和解をとりましたと報告させていただきたいのです﹂
壱案は領収書を受け取る。すでに返金された金額が撃ち込まれて
壱案のサインだけ書けばいいようにしている。
が、サインしようとして手元が狂い前の人の領収書の控えがばら
けた。壱案以外に同じ今日の日付で二十万円、十五万円の領収書が
あって個人名、法人名が見えた。
﹁あ、すみません﹂
﹁いえ、いいのです。うちは指導をうけまして、大変に反省してお
ります。太田様以外にもこうして規定分以上とってしまったお客様
に対して、料金を順次返還してまわっております﹂
﹁まあ、そうなんですか﹂
壱案は息をのんだ。まさか紀家元がここまでするとは思わなかっ
たのだ。井伊店長も目を伏せて頭を下げた。
85
﹁このたびはオーナー様には不快な思いをさせて本当に申し訳あり
ませんでした⋮⋮﹂
壱案は井伊店長の居丈高の恩着せがましいものの言い方に腹をた
てていたので、胸がすく思いだった。だがもういいだろう。こうし
て菓子折りつきで返金もしてくれるのだから。
﹁いえ、まあそうしていただけるならば、私からも明日一番に紀家
元さんに全額返金があった旨、電話を入れますし、他の客にも返還
もしているのであったら業務停止もないでしょう﹂
周防はいえいえと首を振った。
﹁行政指導はそのような甘いものではありません。停止処分はある
でしょう。また今回のことを踏まえて今後も査察も入ると思います﹂
⋮⋮要は目をつけられたということか。
サインを終えると葉後企画常務、店長、居元店員、三人そろって
同時に頭を下げた。
﹁そして⋮⋮このことはどうかご内密に﹂
﹁その点は安心してください。紀家元さんにはちゃんと報告します
し、他のどなたにも言いません﹂
﹁ありがとうございます﹂
領収書にサインをすると三人は﹁次があるので﹂ と言い辞して
いった。
壱案は行政指導と称した紀家元の辣腕ぶりに感嘆した。あの様子
ではかなり手厳しいい方をしたのかもしれない。また壱案が言った
案件とは別に何かの材料を見つけて追求したのかもしれない。
壱案は終始うなだれて元気のない井伊店長に対して公的機関の行
政指導が入ったことは本社にもわかるだろうし、本社からも相当絞
られるだろうと思った。一方一番下っ端のはずの居元店員は目もあ
わせない、というかあわせないようにしていた。それは彼の意図か
どうかは不明だ。疑心でいうと歩合の話を言っていたので給料が一
部返還しないといけなくなったせいかもしれない。が、違うかもし
れない。ともあれ今の壱案には居元の心情まで思いやるゆとりはな
86
い。
彼らが置いていった現金を数えた。一カ月半分の家賃。ちゃんと、
ある。
仲介手数料全額返金。
壱案の思う通りになったのだ。
⋮⋮だがこうして受け取ったからには、もうちゅー?するかい?
の仲介でゑ無山がもう何を言ってきてもちゅー?するかい? は
無関知になる。文句ももっていきようがない。それは壱案が望んだ
ことだ。
そしてゑ無山が退去するまでこの問題は解決しない。ゑ無山とい
う人物が契約書を守って月末までに家賃を入れるというだけのこと
なのに一度も期日を守ってくれたことがないから。ゑ無山が今度心
を入れ替えて期日通りに月末までに家賃を入金するとは思えない。
だから彼はマンションから退去するまでは問題は解決しない。そも
そも督促の電話をしただけで業務妨害をいいだし、以後は電話には
決して出ない。連絡もつかない本人のみならず連帯保証人もまとも
に話ができないのに、これ以上マンションに居座られても困るのだ
⋮⋮。
壱案は現金を握り締めた。
とりあえず、ちゅー?するかい? との戦いには勝ったのだ。
翌朝一番に、壱案は紀家元に感謝の言葉を添えて報告した。紀家
ひと
元は当然という感じで﹁そうですか、﹂ というのみだった。仕事
人として、同じ女性としての自信が感じられ壱案はカッコいい女性
というイメージをもった。壱案にとって対ゑ無山との戦いに、傍
流になるが紀家元には最初に世話になった人となる。壱案は紀家元
に心から感謝した。
87
ちゅー?するかい? との交渉事は一週間もかからずに好転し
第十二章・ペット問題勃発
謝罪とともに仲介手数料が返還されてきた。もともとあちらの方が
法律違反をしていたのだが、壱案の告発で話が違う方向に行っての
結末だ。
だが全額返金があった以上は今後ゑ無山との交渉は、ちゅー?す
るかい? 大町駅前支店というワンクッション置いての交渉はでき
ない。ゑ無山を紹介したせいでこんなに不快な思いをすることにな
ったという非難めいた思いはあるが、とりあえずは一勝したことに
はなる。
だがゑ無山が退去するまで、気は抜けない。
ああいう人が壱案の督促の電話で改心し、毎月期日までお家賃を
入れてくれるとは思えない。毎月ちゃんと入金してくれるだろうか
と気をもむのはもう嫌だ。⋮⋮となると解決方法はただ一つ。ゑ無
山が退去すること。
仲介会社から返金してもらったらには今後相談できる相手は、信
用保証会社の追給だけになる。壱案は気をひきしめた。
ゑ無山の家賃支払遅滞はあいかわらずだ。もう好きな時に家賃を
いれ、できないときは壱案が通帳で身入金を確認後に保証会社に連
絡して代弁済をしてもらうわけだ。さて今後どうするべきか、誰か
共通の知り合いがいたら、話しあいもできるがそれはできない。そ
うこうしているうちに忙しい年末を迎えそしてお正月が来た。
年頭のあいさつに壱案に例の大町駅前マンションを譲ってくれた
親戚の大叔母が家に遊びに来た。この人は亡くなった祖母の一番下
の妹だ。年はもう八十五歳をすぎている。三年前に夫を亡くし今は
一人暮らしだがまだまだ元気だ。百歳まで生きているだろうと思う。
着ている服もすごい若づくりだが今日は正月なのできちんとした訪
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問着をきている。吉兆の鶴が飛び交う文様でとても美しい。
大叔母は若い時からおしゃれな人であったので、おばあさんぽく
ならないように髪も薄いラベンダー色に染め上げ上品に結いあげて
いる。年の割にも姿勢がいいので、きちんとした良家のおばあさん
に見える。壱案も私も年をとったらあんな感じになりたいな、と思
った。
数年ぶりに壱案の家に訪問してきた大叔母は壱案を見てにっこり
と笑った。
﹁まあまあ、あけましておめでとうございます。壱案ちゃん、あの
大町駅前マンションどお? いい人に借りてもらっている?﹂
壱案はお正月というのも忘れて暗い顔をして﹁いえ、全然﹂ と
返答した。
大叔母はがっかりしたように﹁あら、まあ!﹂ という。
壱案はお正月のおとそで少し酔っていたのかもしれない。だけど
今までの経過と窮状を訴えてどうしたらよいか大叔母に聞いた。こ
の人は親戚きっての土地持ちでマンションを三棟持っていると聞い
ている。さぞや経験豊かだろうとふんだのだ。話しながらもっと早
くにこの人に相談したらよかったかも、壱案はそう思った。
大叔母はふんふん、と聞いていたが最後にこう言った。
﹁やっぱりこういう人っているのよね? これは最終的にお金で動
いてもらうことになりそうね。つまり退去してほしければ立ち退き
料をくれてやるのよ﹂
﹁そんな、泥棒に追い銭、みたいなことはイヤよ。電話ですでに嫌
な目にあっているんだから。電話通じてお家賃いれてくださいって
いうだけで営業妨害したとかいうのよ? 毎月の入金も不規則でい
つ入金するのだろうかって思い続けるのももう嫌なのよ。私はあの
部屋のオーナーでありながら入居者にふりまわされているのよ。今
月分だって入金は昨日の大晦日、十二月三十一日までなのに案の定
入金なしよ。また今年早々保証会社に代弁済を依頼しなきゃ。今年
89
もこの繰り返しかとおもうともうイヤなのよ出ていってほしいのよ﹂
﹁だからそれ以上嫌な思いをしないために、お金を積むのよ。大丈
夫よ、そいつにお金をやっったって、そういうヤツだからきっと何
かで損をするようにできているわよ。壱案ちゃん、世の中捨てたも
のではなくってよ﹂
﹁そんなあ、お金を積んで解決なんて、やっぱりイヤよ。じゃあ聞
くけどおばさんとこのマンションの住民全員、家賃の支払遅滞や滞
納ってないの? みんな家賃をきちっと入れてくれるいい人なの?﹂
﹁いいーえ、ダメな人もいるわよ。でも私は面倒なことはごめんだ
から管理会社まかせよ?
裁判も過去何軒かやっているとは思うけど、上がりだけもらって
報告もしてもらってないわ。うちにはたくさんの世帯があるからね、
そんなこといちいちかかわってられないわよ﹂
﹁さすが⋮⋮本物の土地持ちは違うわね。でも引っ越し代金とか上
乗せして出て行って下さいってあいつに言うのは死んでもイヤよ!﹂
﹁不快な思いをこれからも続けるのね? うふふ⋮⋮私は最後のマ
ンションを建てるときにどうしても立ち退いてくれない人に一括で
現金で百万円あげるっていったら、喜んで明け渡ししてくれたわよ
? 人間ってそういうものじゃない? 多めにお金を包めば壱案ち
ゃんの言うとおりに動いてくれると思うけどね?﹂
﹁⋮⋮﹂
この大叔母は壱案の暗い表情をなめるように見てうれしそうに笑
った。
﹁うーふふふ⋮⋮あのね、私は大家業して長いけど、良い人ってい
つまでも賃貸住宅にいないものよ。私は大家だからっていばるつも
りは毛頭なく、いわばビジネスとしてやっているのよ。長年の経験
上良い入居人は滞納もしなくて期日までに余裕をもって家賃を振り
込む人。
もっと良くできた人はお家賃を振り込みでなく現金で。しかもま
っさらな状態の一万円札でぴしっとそろえて毎月持ってこられたも
90
のよ? そして盆暮れの付け届けも忘れない。こういう人は若くて
もいずれは持ち家を購入するわね。
そして大家にもあいさつを忘れずにして感謝しつつ、家をきれー
いに掃除して退去していくわよ。私もうれしいから餞別をあげたり
するし、円満退去ってこういうことよね。新居に呼んでいただいた
こともあるわよ。本当にうれしいものよ。まあこういう人は少ない
けどね。ああいうのは結局は親のしつけだと思うわよ﹂
大叔母は言葉を続けた。
﹁私が思うにはごくごく普通の特色もない賃貸住宅にいつまでーも
入居している人って、ホントいつまでも根なし草よ。転勤族は別に
して、貧乏人っていつまでも自分の持ち物にならないものに、お金
を払い続けるものよ。それが住居に向くとお家賃を永遠に支払って
くれるというわけ。そういう貧乏人に対して私はマンションを持っ
て、自分の持ち物を貸してあげるわけ。
まあトラブル回避のために入居時の査定というか簡単な人物調査
はさせていただきますけどね。壱案ちゃんはそういうことも知らな
いで大家になったわけね。でもこれって人から手とり足とり教えて
もらえるものじゃないしね。
ま、いろいろとあるわね。うふふ⋮⋮壱案ちゃん、これも勉強よ
? がんばりなさいね。
うちは普通の家族歓迎だけどいまどきの人はわざと生活保護の人
たちを入居させて行政の生活保護費から確実に家賃を支払わせたり
もするしね、誰が入居しても頭の使いようでお金になるってわけよ。
私はこんなことしませんけどね、だってこの年でさらに大儲けし
たってしようがないしね。うーふふふ⋮⋮﹂
この大叔母のセリフは実際は人まかせとはいえ、長年大家業をし
てきたという自負があった。壱案は自分の経験不足と入居時の査定
不足を深く恥じたが、大叔母の励ましもあり負けずにがんばろうと
思った。
91
そして⋮⋮年が明けても支払遅滞はあいかわらず。
小正月ごろに追給はいきなり壱案に電話連絡してきた。去年十二
月と新年の一月にも代弁済をうけたがゑ無山の信用保証会社に対す
る支払いが滞っている話をしてきたのだ。
﹁ゑ無山ハカシ、あいつはだめですね、あれはいつかトビますね?
会社に直接督促にいっても判でおしたように、忙しいっていうし、
機嫌が悪い時は営業妨害だっていうし。あれもまたクズですね﹂
壱案はやれやれ、とため息をついた。この状態がずっと続くのだ
ろう。ゑ無山がマンションに飽きて退去を言いだすまで。膠着状態
だ。壱案は大家なのに退去を願っても退去させられないのだ。
ところが追給から電話をもらった三日後にゑ無山からいきなり手
紙が来た。しかも書留だ。壱案は職場から帰宅するなり書留を受け
取った父と一体どうしたんだろうと封筒を開けた。開けながら壱案
は希望的観測を言う。
﹁ねえ、お父さん。これ退去のお知らせだとうれしいけどなあ⋮⋮﹂
﹁確かに。だがあんな人間が退去報告なんてしおらしいことするか
な?﹂
父親もまたゑ無山のブログを見たのだ。父子してうなづきあって
封筒を開けた。すると犬の写真が一枚出てきた。
﹁何これ? ドーベルマンって犬じゃない?﹂
一枚だけ薄い便箋が入っている。壱案は文面を読んだ。
﹁今月から室内犬を飼いますのでペット家賃を払います﹂
壱案は茫然として無言で手紙と犬の写真を見つめた。
﹁ねえ、これドーベルマンよね? 室内で飼えるの? いや飼うっ
てきているの。私はもう退去してって言ってるのに。それに今月も
家賃を払ってもらってないのに、ペット家賃を支払いますって書い
ている⋮⋮﹂
父は便箋にぽつんと打ちだされた一行だけの手紙を見てあきれた
表情だった。封筒のあて名書きは手書きだがボールペン字で殴り書
92
きしているような印象を受ける。父親は言った。
﹁なんだこれ⋮⋮前置きも前略すらわからぬのか、日付もない。ペ
ット家賃の支払いをするとは書いているが支払い日の記載もない。
この男は本当に会社経営者なのか? わざとこういう書き方をして
いるのか? だとしたら本当にあつかましい男だな﹂
﹁本当だ、日付もなにもない﹂
﹁いついつ支払う、ではなく。払います、だけで支払う意志を示し
たことになる。こいつは法的な言い逃れができるようにしてあるん
だな。壱案、本当に厄介な男にかかわってしまったな。お前は以前
同棲した男と揉めたがそれ以上に面倒な手続きがいるぞ、これは﹂
﹁昔のことは言わない約束よ、お父さん!﹂
壱案は落胆と腹立ちのあまり親子喧嘩する羽目になった。まった
くなんてことだろうか!
ともかくこのまま黙認するわけにはいかない。
ペット可の入居は確かに一番最初の入居人募集時にはOKした。
だけどそれはちゃんとお家賃を入金してくれる人前提の話だ。家賃
をきちんと入金しないうえ、ゑ無山の非常識さに振りまわされてい
る壱案にはとうてい容認できないことだ。しかも電話でだが退去の
話も連帯保証人にもしているのだ。なのに、全然通じてない。
会社の夜逃げ、本人の会社のみならず連帯保証人の父親の会社も
夜逃げだ。だから連絡もつかない。そういう入居人に対して室内ペ
ットを飼うのを許す、しかも犬種はドーベルマン。こんなの絶対に
認められない。
壱案は電話をかけた。留守電にもならずいつものようにむなしく
コール音が鳴るだけかと思ったらゑ無山の方でも一度は話をしない
といけないと思っていたのだろう。電話が通じたのだ!
﹁はい、ゑ無山です﹂
低く落ち着いた声だ。この男と直接話すのはまだ二回目なのだ。
壱案はどきどきしてきたが、落ち着いてと自分で自分に声をかけて
ゑ無山と会話を続けた。話さないといけないことはたくさんある。
93
﹁あの、太田壱案と申しますが、今日書留が届きました。もうすで
に室内で飼われているのですか?﹂
﹁まだ。ですがもう手はずは整えています﹂
壱案はまず下手に出ることにした。一回目の電話でこの男は一人
で勝手に激怒して自分からいきなり切ったのだ。それを忘れてはな
らない。
﹁ペットを飼うのを内緒にされずこうしてお知らせをいただくのは
いいことだと思います﹂
﹁そうでしょうそうでしょう﹂
ゑ無山は満足そうな声になった。この男はバカじゃないだろうか、
壱案は督促の電話をした自分に対して営業妨害と暴言をはいたのを
忘れているのか、と思った。だがそういうことは気にするような男
じゃないのだろう。壱案は大家なのだ。家賃をきちんと支払っても
らえないので困っているのだ。だから言いたいことはこの際言わな
いといけない。家賃の入金を守ってもらえぬものにこの上、ペット
家賃をきちんと入れてくれるとは思えない。
﹁ゑ無山さん。私は正直そちらから書留いただいたときは退去の知
らせかと思いました﹂
﹁⋮⋮﹂
ゑ無山は黙った。壱案は意識して落ち着いていつもより低めの声
を出した。今度ガチャ切りされたらいつ会話ができるかわからない。
言えるときは言わないといけない。
﹁いつ飼うのかいつペット家賃を払うのかも書くよりも前に、きち
んと期日にあわせて⋮⋮そうです賃貸借契約書の通りに毎月の月末
にお家賃を振り込んでほしいのです。それができないなら退去して
ほしいのです﹂
電話向こうのゑ無山のもっている空気がいきなり変化した。
﹁あのな、こっちはちゃんと家賃を払っているのに、お前は何を言
ってんだ? 払えないときはちゃんと信用保証会社に代弁済しても
らってんだろ? いわばこれはちゃんと家賃ははらっているという
94
ことだ。
それをお前はなんだ? たった一日でも遅れただけで営業妨害し
やがって、一体何さまなんだ? いいか、多少遅れたぐらいでぎゃ
あぎゃあいいやがって、今度は何をほざく? 今度はペットを飼う
な?ってか? え? ペット可のマンションだろうが、何をほざい
てんだ? え?﹂
早口で乱暴な物言いだった。壱案はさらに自分で自分の励ましの
声を心の中でかける。がんばれ大家の太田壱案、悪いのは入居人の
ゑ無山の方だ。ゑ無山なんかに憶するな、がんばれ!
﹁ゑ無山さん、こちらは退去してほしいのです。こうして私に対し
て乱暴な口をきいて、督促をされるのは当たり前のことなのに、こ
っちがまるで非があるような言い方をされるのは心外です﹂
﹁何を言うんだ、こっちは借りてやっている側じゃないか、いわば
俺はあんたの客じゃないか、お前は客を大切にしないから客に対し
てこういうクチをきかれるんだ。いいか、こっちはきちんと家賃を
はらってんだろーが、いい加減にしろよ! 多少の遅れぐらいいい
じゃないか、いちいちうるせーえんだよっ!﹂
最後の言葉は巻き舌の怒号だった。こういう暴言に慣れていない
壱案の身体がぶるっと震える。電話を持つ手がわなわなと震えた。
﹁ゑ無山さん、あのう、多少の遅れぐらいは構わないとすませられ
る話ではないと思いますが⋮⋮﹂
﹁いいか、お前。よく聞け。お前は客に対していちいち、いちいち、
ちょっと遅れたぐらいでうるせえんだよ。毎月初めに電話で着信履
歴ばかり残しやがってほんとうぜえんだよ、ストーカーじゃないか
お前はよ?、
ペット可だったのに、今度はなんだ、ちゃんとペット家賃をはら
ってやろうってんだのに、退去だあ? なにをほざくんだ。退去し
ていただきたい、ならばだなあ、金を包めよ。そっちの都合で退去
ならばなあ、相場は家賃半年プラス引っ越し代と引っ越し先の礼金
敷金負担だ。払ってくれるなら退去してやってもいいぜ? お前は
95
客に対してもっと謙虚になったらどうだ? いい加減にしろよ、金、
金、金! なんでみんな金を欲しがるんだ、金、金、金! お前は
くそだ、くそ女! くそ﹂
ゑ無山の声のトーンがだんだん高くなり裏返ってきた。壱案はぞ
っとする。この人とは普通の会話が成立しないのだ。
﹁ゑ無山さん、やめてください!﹂
﹁やかましいぞお前、人の話を聞けよ。マンションの管理人にも支
払遅滞や滞納があるとほざきやがっただろう、お前は個人情報って
言葉を知らねえのか? あんな管理人ババアにこっちの情報を教え
やがって、非常識だろうが、そんなやつとどうやってまともに話が
できる? 営業妨害ばかりする大家にどうやってまともな対応しろ
ってんだ。ペットは飼うぞ、いいな、絶対に飼うぞ。ドーベルマン
は強いんだ、俺様のためにあるような強く賢い犬さ。さあこれは入
居人の権利だ、俺は断固戦うぞ、非常識な大家のために絶対に負け
ないぞ、戦うぞ、戦うぞ! 戦争だ﹂
ガチャ!
壱案は思わず電話を切った。
なんという言い草なんだろうか、ゑ無山が退去の話をしたらこん
なに逆上するなんて、冷静に話ができないなんて。壱案はゑ無山の
ことを非常識な男だと思っていたが、それ以上だ。しかも当の非常
識男から非常識な大家よばわりされたのだ。あの男にとっては家賃
の督促に恐縮するどころか営業妨害やストーカーに相当する行為だ
ったのだ。壱案は涙が出てきた。あまりのショックで声を出さずに
涙を流した。あきれて嗚咽も出ない。涙だけだ。
いつのまにか両親が背後にいた。二人とも心配そうな顔をしてい
る。やがて父親が言った。
﹁やはりこちらからお金を出して退去してもらったらどうかな? お金なら私たちがなんとか工面するから出ていってもらいなさい。
もしお前の身に何かあったら大変だし、もう退去してもらいなさい﹂
壱案は首を振った。
96
﹁お父さん、心配かけてごめんなさい。あいつには退去してもらう
けど、うちからはお金は出さない。あんな卑怯な男にはお金はやれ
ない⋮⋮仲介会社の時のようになんとかするわ﹂
壱案の心の中で何かが囁く。⋮⋮だってあんな非常識な男にろく
な査定もせず仲介会社の言われるままに入居の許可し、賃貸借契約
書に印鑑をついたのも自分なのだ。あんな男を入居させたのも自分
が悪いのだ。だからこのケリは自分がつけないといけないのだ⋮⋮。
お正月はあっという間に過ぎ今はもう二月。寒さの厳しさも少し
緩んできたようだ。二月十三が来たらあのゑ無山が入居してきて丸
一年になる。賃貸借契約書を交わして一年がたったのだ。それを思
うと壱案はため息しかでなかった。悠々自適な大家ライフがゑ無山
のせいで月末には入金がきちんとあるか確認し月初めに信用保証会
社ドッグ宛にFAXで代弁済要求する。それから十四日の夕方に再
度ゑ無山からの入金があるかチェックしてあれば担当の追給に電話
して弁済要求の取り消しを言う。入金がなければそのままで代弁済
をドッグから受け取るのだ。この繰り返しだった。
ゑ無山があのままペットを購入して飼っているのかどうかもわか
らない。そして退去もしない。このままの状態がずっと続くのも壱
案は嫌だった。出てこないゑ無山相手に電話督促で着信履歴を残す
だけというパターンももうやめたかった。
だが困ったことに賃貸借契約書では一年ごとに更新となっている
が自動更新なのだ。契約更新はしない、したくないと家主が声高に
主張しても出て行ってもらえないことになっている。
壱案はここが納得いかなかった。この場合はどうみてもゑ無山に
非があると思う。なのに、追い出せないのだ。ゑ無山は賃借人とし
て法的にも守られている。がっちりと頑丈に。
賃貸人と賃借人の間柄は信頼関、いや家賃という金銭関係でつな
がっている。双方の合意なくてはこの関係は解消できない。だけど
賃借人自らが、出ていきたいと願えばそれは自由に出ていける。
97
逆に賃貸人、この場合は家主の壱案がでていってほしいと願って
いるのに、賃借人が出て行かないと断言し壱案はそれになすすべな
く強制力も何ももっていないのだ。
大家としての強制力は法的にもそれはないに等しい。ゑ無山がし
ているのは支払遅滞だけで、壱案は信用保証会社に代弁済してもら
っていることもありよけいに追い出せないのだ。
代弁済でも約款をよく読んでみれば最高十二カ月まで代弁済の利
用OKなのだ。制限アリだったのだ。これも知らなかった。契約書
は何もなかったら読むこともなかっただろう、だけどこの小さな文
字列を熟読することによって知らなかったことが見えてくる。
壱案の場合は大家としての自分の立場をこう読んだ。
賃貸マンションというものは⋮⋮たとえ登記上は自分のものであ
っても、自分のものには、ならない。
それが賃貸マンションというものだったのだ。
貸す人、借りる人、双方自分のものであって、自分のものではな
い。
しかもこういうもめ方をした場合は、絶対的に貸す人が不利なよ
うになっている。借りる人がイエスと言わない限りは追い出せない、
出て行ってもらえない。したがってゑ無山がその気になるまで退去
なし。あいつは出ていってもらいたければ金を払えと言った。あの
言い方ではその金を待っている気配もある。
壱案はどうあってもこの法則が理解しがたい理不尽なものに思え
た。そりゃあ、理不尽なことを言い出す大家もいるにはいるだろう。
過去に借りている人の部屋に勝手に出入りしてモノをとったりする
大家もいたし、急に出ていけと言われて泣くなく出て行く人も多か
ったと聞くし。そのために借りる人を強く守る法律ができたのだ。
同時にゑ無山のように家主を罵倒して恫喝、引っ越し代をよこせ
と言いだすものも保護されるわけだ。それが納得いかない。でも納
得せざるをえない。壱案は途方にくれていた。
このままずるずると遅滞される、このままずるずると大事なマン
98
ションに居つかれる。その上ペットまで飼われる。きちんと支払い
もできてきちんとした会話が成立する相手ならともかくゑ無山のよ
うな人物を入居させたくなかった。壱案はこういう非常識な人物と
はかかわりたくなかった。
ペットの件はあれからゑ無山から電話がない。そしてペット家賃
の入金もない。入金もなしでペットを飼う可能性もある。この状態
で通常の家主と賃借人との会話が今後成立するとは考えにくい。ど
うあっても退去してほしい。二月十三日に更新はしたくない。なの
に更新は自動的にされてしまうのだ。困る。
これ以上マンションにいつかれても困る。壱案は父親と思案のう
え、その旨電話で口頭で伝えるのではなくまず書類でこちらの言い
分を伝えることにした。父親は内容証明にした方がいいという。
﹁内容証明⋮⋮どうやって書くの?﹂
﹁さあ、お父さんも書いたことないから知らないよ。あんな非常識
な人間とは出会ったことじたいないからね。だが内容証明は通常の
郵便ではない。内容証明は文字通り郵便物の内容を郵便局が証明し
てくれるんだ。だから言った言わないの争いにはならない。法的に
も証拠が残るんだ。
今日はもう二月五日じゃないか。契約更新はしない、と送るのは
早くした方がいいぞ﹂
﹁わかったわ﹂
﹁お父さんはこの方面には明るくないし、自分でできるだけのこと
はしてごらん?﹂
壱案はそうしようと思った。内容証明を送るだけであのゑ無山が
すんなり出ていくとは思えないが何もしないよりはましだろう。
99
第十三章・司法書士さんへ初めて相談
壱案の職場は県庁だ。幸いというか場所柄のせいか、司法書士事
務所がいっぱいある。今朝は早起きして出勤前にネット検索をかけ
て当りをつけておく。昼休みに電話番号をいくつか控えていくつか
電話してみる。
その中で同情をもって壱案の相談を聞いてくれた女性の受付のい
る事務所に行くことにした。夕方早引けをとって賃貸借契約書を携
えてそこの司法書士さんに相談してみることにした。
弁護士に相談、という手も考えたが弁護士はすごくお金がかかる、
加えて敷居が高いというイメージがどうしてもあって弁護士に相談
するのは本当に最終手段だろうということもある。
それにネットで調べた限り、司法書士さんに内容証明を送付する
分は弁護士名で送付するよりもすごく安くつく。
壱案は正直、あのゑ無山のためにおかねは使いたくなかった。チ
ュー?するかい? で返却してもらった仲介料金はいずれ使うこと
もあろうけれど、今はできるだけ穏便にすませたい。あのお金はゑ
無山退去後の掃除代金や次の賃借人の仲介手数料のためにとってお
きたかったのだ。
もうゑ無山にあの部屋を貸して早一年がたとうとしている。もう
ついきゅう
何とかめどをつけたかった。というかいい加減に縁を切りたかった
のだ。
司法書士事務所に行く直前に信用保証会社の追給 から電話があ
った。追給はいきなり用件を言った。
﹁あのですね、ゑ無山さんの更新料が払われていません﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁ゑ無山さんとうちの信用保証会社との契約は一年ごとで更新料が
100
かかります。ちなみに更新料は三千円なんですけど﹂
﹁それが支払われていないということは﹂
﹁オーナー様に代弁済できなくなります﹂
﹁ええ、そんな!﹂
﹁代弁済されなくともゑ無山はちっとも困らない性格なんでしょう﹂
﹁じゃあもし更新されなかったら今後ゑ無山さんが滞納にまでいた
っとしても信用保証会社は関知しないということですね。代弁済し
ないかわりに督促もしない。こちらとは没交渉ですね﹂
﹁そうなりますね﹂
﹁連帯保証人の父親とは連絡がとれないし、信用保証会社との交渉
もなくなるとあれば、私としては非常に困ります﹂
﹁お気持ちお察しします。だけど入居時の条件に信用保証会社との
契約が必要と書いてあるのではないですか? それだったらそれを
たてに退去がせまれると思います﹂
﹁退去に応じてくれるかしら﹂
﹁今までのゑ無山の態度からしてそれは望めないかもしれません。
だけど法律は誠実な人の味方ですよ。まあ、更新しないときめたわ
けでもないし、更新料の支払締め切りは今月末までです。それから
出方を決めることですね﹂
﹁⋮⋮﹂
時に二月十五日。ゑ無山との賃貸借契約を結んで一年ちょうどた
った。この一年間、家賃が契約通りに月末に入金されたことはない。
入金して安堵したこともない。
父親は言う。
﹁うちの駐車場契約でもそうだが、契約して契約した分だけのお金
は入って当たり前なんだよ? ゑ無山は論外な男だ。それで一体会
社経営者なのか? 本当に?﹂
事実その通りなのだ。ゑ無山は論外な男なのだ。少なくとも家主
の壱案にとってよい入居者とは言えない。困りごとの中心になって
101
いる。優雅な大家ライフなんてとんでもない。
壱案はゑ無山のブログのチェックを時折しているがいつも贅沢な
生活をしている。バーベキューの写真を掲示して﹁火をおこすのは
男の仕事だ、君はできるか﹂ と英語で質問を不特定の閲覧者に向
かって投げかけている。
壱案はゑ無山の掲示板に向かって毒づく。
﹁何が火をおこすが男の仕事? それなら家賃を払うのは? 正当
な手段で督促をしている家主にむかって業務妨害だとほざくのは?﹂
とりあえず検討をつけたキツネ司法書士事務所というところに訪
問して壱案はこれまでのことをかいつまんで話した。キツネ司法書
士さんもこういうことには慣れているらしくふんふん、と聞いてい
る。そして言った。
﹁かなり悪質な人に入居されたようですな、この人、わかっていて
こういうことをしていますね﹂
﹁やっぱり。それで内容証明を出そうかと思っているのですが﹂
﹁まあそれで話が通じる相手ならいいですね、ただうちでは引き受
けかねますね﹂
﹁えっ﹂
﹁うちは今忙しくてねー、こういう小さなことは今引き受けていな
いんですよねー﹂
小さいこと⋮⋮このキツネさんには壱案の時案を小さいことと判
断したのだ。壱案は混乱した。まさか断られるとは思わなかったの
だ。小さいこと、と言うなら仕事は簡単なはずなのに断られたのだ。
壱案はこのキツネに取りすがってまで仕事を依頼しようとは思わな
い。
﹁じゃあ、引き受けてくれそうなところを紹介していただけません
か?﹂
﹁あー、相当お困りのようですね、じゃあそこから見えているモモ
ンガ司法事務所はいかがですか?
102
あそこは実は土地がらみの訴訟とかよくご存じですし﹂
壱案は席をたった。きちんと最初から説明して小さなことと言わ
れて断られたのだ、これ以上このキツネと話をして双方の時間を食
いつぶしてもしかたがない。
壱案はキツネ司法書士事務所をさっさと出てお隣のモモンガ司法
事務所に行った。
まわりを見まわしてはやはり県庁近くとあって他にも司法事務所
の看板がたくさんあるではないか。壱案の持ってきた案件を即座に
断ったキツネは適当に窓から見えるところを言われたみたいだが、
外の今壱案が立っている道路から内部が見え、机が並んでいて奥に
いくつか仕切りがあるのがわかる。
あちらも女性職員らしき人が何人か立って仕事に勤しんでいるよ
うだ。
﹁司法事務所ってよくわからないけれど、忙しい職業なのかしら?﹂
壱案は少し迷ったが、そのモモンガ司法事務所のドアを押した。
そこが運命の分かれ目、壱案にとってはラッキーな司法書士さん
の出会いになった。
一軒目の司法事務所から内容証明の送付相談をケンモホロロニ断
られた壱案。
二軒目、その司法書士からてきとーな感じで紹介? いや紹介文
もなし。そこの窓から見えるモモンガ司法事務所にしたら? と言
われて躊躇したが、土地関係に強いと言われたことと忙しそうな職
場に見えたこと、それも縁かと思いドアを開けた。
◎◎◎モモンガ司法事務所◎◎◎
壱案はおそるおそるカウンターに近寄る。同じ年ぐらいの女性事
103
務員が近寄ってきた。
﹁こんにちは、あの∼こちらには。はじめて来たのですがあの∼内
容証明の相談にのっていただきたいのですが﹂
﹁こんにちは、ご予約をなさってますか﹂
﹁いえ、とびこみですが、いいでしょうか﹂
﹁だいじょうぶですよ∼今ちょうど先生の手があいていますので相
談室にご案内いたします﹂
最初にいった司法事務所とはまるで違う明るい雰囲気だった。
壱案はほっとして相談室とプレートのかかげられた別室に案内さ
れる。座ると別の事務員がすぐにお茶を運んでくれた。ほっと息を
なしもと
つくまもなく、一人の男性が入室してきた。名刺を出す。
﹁司法書士の梨元 と申します。よろしくお願いします﹂
﹁太田壱案です。マンションの賃貸借契約について相談にのってい
ただきたくお願いします﹂
﹁契約書などお持ちですか? それを見ながらご相談を伺います﹂
梨本には話に無駄はなくしかも威圧感なく誠実そうな印象を受け
た。年頃はこの人も壱案と同じぐらいの年ではなかろうか。壱案は
好感をもったが、さりげなく彼の左手の薬指に指輪が鈍く光ってい
るのを確認して少しだけがっかりした。
﹁ふーん、なるほど。確かに契約違反してますね、しかも最初の入
居月から、ですね。確かに入居させて丸一年になりますね。しかし
なぜだろうか? 彼はなぜそんなことをするのだろうか﹂
﹁私にもわかりません﹂
﹁まあ世の中いろいろな人がいますから。ただ言えるのはこのまま
ずるずると入居させるおつもりはないのでしょ?﹂
﹁はい、もう早い時期に連帯保証人の父親にも退去してほしいとい
っています﹂
﹁退去する意志はない、そういうことですね﹂
﹁それでこのまま連帯保証人も連帯責任を持つ意志もないですし、
104
今月の信用保証会社の更新もなくなれば、代弁済してくれる人もな
くなります。それは非常に困ります。
それで信用保証会社の契約がない場合は契約解除と特約に書いて
いますし、これをたてに退去してもらいたいと思ってます。それで
まずは内容証明書を、と思いまして﹂
﹁わかりました。それを私があなたのかわりに書けばいいですね。
ただアドバイスしておきますが貴女の話で事の経緯を見る限り、こ
のゑ無山と言う人はすんなり退去するとは思えませんな﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
﹁タチの悪いのにひっかったのかもしれませんよ、この人はわかっ
ていてやってますね﹂
﹁司法書士さんってそこまでわかるものですか?﹂
﹁司法書士にも得意分野があります。私は土地の交渉事や争い事が
得意ですね。まあ依頼があればどういう用件でもしますがね。ほか
の先生には離婚とかが得意の人がいますよ﹂
壱案は離婚が得意ってすごい言い方だなと思った。だけど気さく
な感じで壱案の気持ちを和らげようとしている梨元の意図を感じた。
﹁梨元先生に出会えてよかったです﹂
﹁ま、今ちょっとやってみますか。ちょうど今日、ぼく、手があい
てまして﹂
﹁お願いします﹂
梨元は奥の部屋にひっこんだと思うとすぐに分厚い本を何冊か持
ってやってきた。
﹁土地関係の法律に関する本です。判例集もありますよ﹂
﹁内容証明だけで新たに退去させることはできますか﹂
﹁それは相手によりますよ。内容証明一通出しただけで相手がびび
って退去することもあります。だがこのゑ無山さんに関しましては
貴女の話をうかがう限り、これだけで退去するとは思えませんな。
家主からの退去の申し出にあたるので、引っ越し費用や、次の入
105
居先の敷金礼金払ってあげるなら話しあいに応じてくれると思いま
すが﹂
﹁と、とんでもない。お金払うつもりはないです。これまで不快な
思いをしているのだから﹂
﹁でも内容証明で信用保証会社の契約が切れたらこっちとの契約違
反にもなるから即退去、とは言えませんよ﹂
﹁それはなぜですか? 入居時に信用保証会社と賃借人との契約は
特約にも書いてもらってます。そして特約にはほら、契約解除する
とこっちとの賃貸借契約も解除するものとする⋮⋮ほら﹂
﹁それだけでは弱いのです。あのですね、今現在では一度入居させ
ると退去はよほどのことでない限りさせるのは無理なのです﹂
﹁どういうことですか、よくわかりません﹂
﹁要は家主が不利、なわけです。極端な場合、賃借人が何カ月も滞
納していたとしても退去の裁判を、つまり明け渡し裁判といいます
が敗訴することがあるのです。つまり一度入居させると簡単には追
い出せないということです﹂
﹁敗訴、家主側が裁判で負けるってことですか、不合理じゃないで
すか。滞納しているのに、追い出せないことってあるのですか﹂
﹁は、そうです、不合理なのです。賃借人が悪いのに追い出せない
ことって判例にもあります。
家主さんはそこをわかったうえで訴訟の前準備の一歩として内容
証明告知をした方がよろしいですね﹂
﹁そんなあ﹂
﹁内容証明、どうします?﹂
﹁そんな効果がないのでは﹂
﹁効果は相手によると言ったはずです。内容証明一発で出て行く人
も多いです。このゑ無山さんの場合は効果ないかもしれませんが、
でも訴訟までにいたったとき、家主側の努力としてこういうふうに
内容証明を出したというのは郵便局が証明してくれます。内容はど
うあれ出した、ということを、ね。
106
私の言う意味がわかりますか、わかりにくかったら言ってくださ
い﹂
﹁わかりました、効果があるなし関係なしで訴訟にいたることを踏
まえて、内容証明、出します。
あの∼ところで料金はおいくらですか﹂
﹁料金体系はモモンガではきちんとしております﹂
梨本は机の下からリングファイル形式の料金表を見せた。土地関
係不動産登記関係の文字記載がちらりと見えたが後ろの方に内容証
明関係一覧の料金表がでてきた。
司法事務所ってこんなふうなんだ。壱案はとっくりと見た。
内容証明発行手数料、
内容証明代筆代、
内容証明代理人費用⋮⋮
一応明朗会計のようだ。ふっかけられたらどうしようと思ってい
た壱案はちょっと安心した。壱案がじっと見ていると梨元はにっこ
りした。
﹁私は司法書士なんで、弁護士さんのやる仕事とはちょっと違うし、
弁護士さんと被る範囲もかなり狭いです。だけど内容証明も貴女の
代理人として出せますし、裁判の時もアドバイスも原告のつきそい
としてやれますよ、それで執行にまでつきそえます。いわば最後ま
でやれますよ﹂
﹁司法書士さんと弁護士さんの仕事内容の違いなどは私にはよくわ
からないのです﹂
さっきも書いたが壱案は実はネットで検索して内容証明を出す際
に弁護士名義で出す場合と司法書士名義で出す場合とでは値段が倍
以上違うことをチェック済みだ。もちろん高額なのは弁護士名義の
方だ。だがこんなことは司法書士の前では言わない方がよい。⋮⋮
107
安いから来た、なんて。
安いからという理由で弁護士事務所ではなく司法書士事務所に来
たのに梨元は仕事熱心に一生懸命説明してくれて壱案はちょっぴり
申し訳ないと思った。
﹁うん、ぼくは土地相続関係の登記の仕事をメインにしています。
住宅明け渡しもやってます。
貴女の場合は訴訟にまでいくかは不明ですが、まずは内容証明を、
と思ってこちらに相談されましたがそれは当然の選択だし今の状況
ではベストだと思います﹂
﹁それでは。梨元先生に内容証明を作っていただきます、よろしく
お願いします﹂
﹁じゃあ、自案を今から作りますが時間、いいですか﹂
﹁はい﹂
﹁名前はモモンガ司法事務所にしますか、それともあなたの名前に
しますか。料金倍以上違ってきますけど﹂
﹁司法事務所の名前で内容証明書を送付した方がいいのでしょうね﹂
﹁そりゃあ、まあ。それに貴女に代わって相手から電話連絡が来た
場合なども貴女の代理人として対応もしますよ。そのため本人名義
と違って高額なのです。さて、どっちにします?﹂
﹁先生はゑ無山さんに内容証明を送付しても出て行かないだろうと
おっしゃってました。実は私もそう思います。電話連絡があるとも
思えません。なので私名義でいいです。もし裁判になったらもっと
もっとお金がかかりますし⋮⋮あの、節約します﹂
節約、というセリフを聞いても梨元は笑ったりせずうなづいただ
けだ。
﹁わかりました。それでは貴女名義で内容証明書を発行しましょう﹂
梨元司法書士は壱案のもってきたゑ無山との賃貸借契約書を丹念
に見始めた。
108
契約書のサインではなく、特に小さな文字で印刷された約款の部
分を、である。結構長い時間だった。壱案はお茶を飲み、お茶菓子
として添えられていた餡入りのパイ菓子を食べてしまった。甘いも
のが目の前にあるとお腹がすいていなくとも食べてしまうくせは治
らない。
ややあって、梨元はここ、と壱案の目の前で特記事項欄をボール
ペンで指示した。ここも小さな文字で印刷されていて壱案は実は自
分が契約書の立場でありながらまともにきちんと読んでいなかった
ことを認識した。
﹁ここ、読んでください。あなたはここの部分をたてに出て行って
ほしいと内容証明で言いたいのですね?﹂
梨元が指示した個所は特記事項欄だった。壱案は今更ながら頭に
文面を刻み込むように熟読し始めた。
特記事項欄は三点ある。
一点はペット家賃の件、
二点は入居にあたって賃借人は賃貸保証会社と締結することによ
ってこの契約は成立する。この場合の賃貸保証会社というのはドッ
グのことだ。追給が担当になってくれている。ドッグがついてくれ
ていないと、今後の代弁済は誰が肩代わりしてくれるというのか。
最後の一点。梨元が言っているのはこれだ。 ⋮⋮当該保証契約更新について賃借人は、賃貸保証会社に既定の
更新料を保証契約満了日までに支払うことにより更新する。更新料
の支払いがない場合は本賃貸借契約を解除するものとする。
これだ、これを言っているのだ。壱案は。ドッグとの契約が切れ
たら困ることは困るがこの状態でマンションにいつかれても困る。
更新料の支払いはたぶんないだろう、だってドッグの追給に対し
ても家賃督促を業務妨害だとどなったというし、保証会社なんかゑ
無山にとって単なる邪魔ものでしかない。
そしてこっちはそれはそれでいいのだ、この最後の特記事項をた
109
てにして、退去をせまるのだ。
ところが梨元は念を押して言う。
﹁確かにこの契約をたてにして退去せよ、と内容証明で告知するこ
とは可能です。だけど法的に強力な根拠、強力な立ち退き交渉の根
拠になるとはこの場合は限りませんよ﹂
﹁えっ﹂
﹁さきほども申したように大家不利の世の中なんです。これぐらい
のことで家主は賃借人に対して退去は言えないのです﹂
﹁どういうことですか﹂
﹁だってお話をうかがう限りゑ無山と言う人が支払遅滞をしている
だけで、滞納はゼロなんでしょう? だったら退去告知はできても
退去をせまるのは絶対無理ですね﹂
﹁告知はできてもせまれないというのはおかしい話だと思いますが﹂
﹁はっきり言いましょう、賃貸人が不誠実な賃借人に対して退去を
はっきりいって裁判にいたって勝訴できるのは賃借人が最低でも家
賃を六カ月は滞納していないとできないのです﹂
﹁そんな、支払遅滞では無理ということですか、私あの人が本当に
不快で﹂
﹁あなたの気持はわかりますよ、その人よそでもきっと同じような
不誠実なことをしていると思いますよ。ちなみにその人の仕事って
なに? うん? 設計デザイン会社の経営者さん? へー⋮⋮、そ
んなんでやっていけるのかなあ⋮⋮。
まあ私もこの業界長いですけど、あなたの場合は同情はしますが
住宅を明け渡せと裁判してもまず負けますね、ずるずると賃借人は
いつづけることになりますですね﹂
﹁そんな。私はもっと誠実な人に貸してあげたく思っています、な
んとかして出て行ってもらう方法はないですか﹂
﹁引っ越し代とか出す気はないのですか﹂
﹁全くないです﹂
110
﹁そうですかあ⋮⋮まあそうでしょうねえ﹂
梨元は眉元にしわをよせて難しい顔で賃貸借契約書を読んでいる。
壱案がろくに見ていなかったところまで丹念に、丁寧に。
ややあってから梨元はこういった。
﹁じゃあ、時間はかかりますが、こうしませんか?﹂
﹁はい、教えてください﹂
﹁これから信用保証会社との更新料を支払わねば契約解除だぞとい
う内容証明書を送りますね、何らかの反応があればいいですがその
反応には二通りあります。ただ内容証明が来ただけで驚いて退去は
この人の場合は可能性ゼロということで﹂
﹁はい﹂
﹁まず一つ目。相手は内容証明書を見て素直に更新料を支払います。
あなたは更新を期待していないし、契約をやめたいと思ってはおら
れますが、そういうわけにはいきません。また素直に更新料を払っ
てもそのゑ無山と言う人が今後も支払遅滞をするでしょう。督促を
する太田さんや保証会社の担当に暴言をはきながら。あなたはこの
状態がすごく、お嫌なんでしょ﹂
﹁ハイ、その通りです﹂
﹁だけどそこを我慢するのです。支払遅滞をしたな、と思っても督
促をしないのです﹂
﹁放っておけということですか、好きなようにさせてと﹂
﹁そうです。督促もしないし、信用保証会社の代弁済も受けないこ
と﹂
﹁じゃあ私に家賃が入ってこないです。相手どころか、信用保証会
社からも﹂
﹁そうです。それを最低三カ月、我慢するのです﹂
﹁マンションのローンだってあるし、それは困ります﹂
﹁だったら私は無理にはすすめません。支払遅滞があっても信用保
証会社との契約がある限り代弁済が受けられるしそのままでもいい
111
じゃないですか。私は相手と訴訟になってもいいぐらいだ、と訴訟
を視野に入れておられると思ってこういう提案していますが﹂
﹁⋮⋮わかりました。それでもう一つの案は﹂
﹁彼が更新料を支払わずに、信用保証会社との契約も打ち切ったと
します。あなたはそれもまた期待しておられる、そうですね? そ
して更新料を払わない、よし。今度はそれをたてに再度契約違反だ、
契約解除だと退去をせまる内容証明を出します。でも信用保証会社
との契約が切れたからと言って貴女への家賃の入金が契約書通りの
前月末までにあるとはとても思えません。
そこをぐっと我慢します。督促もせずに、だけど三ヶ月経ったら
提訴します﹂
﹁どちらにせよ、ゑ無山さんは今後も支払遅滞するだろうし、私の
督促がなければ滞納にいたるとお考えですね。そして私に三カ月滞
納するまでにじっと我慢して待ちなさいと﹂
﹁そうです。今までの貴女の話をうかがう限り、もしかして彼はわ
かっていて、やっている人かもしれないと推測しています﹂
﹁わかっていてやっているとは﹂
﹁彼はなぜそちらに引っ越ししてきたかわかりますか、こういう人
ははたして前の住居で円満退去できた人間でしょうか﹂
壱案ははっとした。
そういえば彼がちゅー?するかい? で最初の最初に内覧してき
たとき、引っ越しを急いでいると井伊店長に言っていた。それでい
て負けてくれとしつこかったのだ。思い出した。
そして契約した時に身元確認のためのゑ無山の住民票をもらって
いる。そこには当然ながら前の住所が書かれてあった。確かに引っ
越しの理由をまったく聞いていなかった。前の住所からだとゑ無山
が経営している会社のすぐ近くだと聞いていたのに。
壱案がそういうと、梨元はにんまりした。
﹁どうあれ、それは貴女の出方次第ですよ、オーナーさんこういっ
112
たことは全く慣れていないようですが、要するにあなたはナメられ
ているんですよ﹂
確かにそうだ。あの部屋の持ち主は私なのだ。それなのに賃借人
に振り回されている自分はいったい何者か、しっかりしないと!
三日後、壱案のもとに梨元がいるモモンガ司法書士事務所から封
書が届いた。ゑ無山宛に送付してもらった内容証明のコピーと請求
書だった。壱案は帰宅後の着替えもそこそこに封書を開けて読んだ。
◎内容証明一通目
通知書
私は平成××年二月十三日賃貸借契約に基づき貴殿に対し、後記
建物を賃料1カ月八万六千円にて賃貸してまいりました。また上記
特約において本賃貸借契約は賃借人が信用保証会社と契約しかつ更
新料を飛翔契約満了日までに支払うことにより契約更新するものと
する。更新料の支払いがなき場合は本賃貸借契約を解除するものと
すると特約している。ところで、貴殿は上記保証契約満了日である
平成××年二月十三日までに保証会社に更新料を支払われませんで
した。
従いまして私は上記契約の特約に基づき、後記建物の賃貸借契約
を本書の到達をもって解除いたしますので原状回復の上即時に明け
渡してください。
万一平成××年二月末までに明け渡しなき場合は法的手続きをも
って対処いたしますので、念のため申し添えます。
この文面の下には賃貸物件の表示並びに当該物件の所在地、名称、
構造が書かれている。
そして日付。︵平成××年二月十五日︶
その下に差出人
最後の行にゑ無山の名前
113
文面の最後には差し出した郵便局の認可スタンプが押されている。
壱案はほっと溜息をついた。それからもう一枚同封されていた請
求用紙も見る。
この内容証明の文章の代筆代金と発送代金で一万円の請求だった。
もし梨元の名前を壱案の代理人として使用する場合は二倍の値段に
なる。
壱案はこの内容証明でゑ無山がびびって退去するとは全く思えな
い。長期戦になるだろうと予測している。だから出費はなるべく抑
えたかった。
しかも裁判になっても大家不利だという現実もわかったし、何と
かしたい。とりあえずは第一歩だ。
入居人を決めるのは簡単でも不誠実な入居人を退去させるのは大
変だし手間暇がかかる、ということを認識する第一歩でもあった。
数日後、壱案宛に配達証明というのが届いた。内容証明の宛先本
人が受け取ったという証明だ。これで、ゑ無山がいつ受け取ったか
わかるようになっている。配達証明というのはぺらっとしたごく薄
いはがき一枚でそっけない感じだった。壱案はゑ無山が内容証明書
を﹁ちゃんと受け取ったのか﹂ とかえって驚いたくらいだった。
ドッグの追給からは連絡がない。
だが意外なことにちゅー?するかい? の井伊店長から久々に電
話があった。
﹁太田壱案様ですね。あのう、大変ご無沙汰しております。今電話
してもよろしいでしょうか﹂
﹁はい、いいですよ﹂
例の返金のことがあってそれ以降は双方連絡は取り合ってもいな
い。だからなんだろう? と思った。
114
﹁あのう、太田様、ゑ無山さんに何か内容証明を出されましたか?﹂
﹁ええ、だしましたけど﹂
﹁そのことでゑ無山さんがうちに電話をかけてこられまして﹂
﹁ええ、どうして?﹂
﹁なぜ太田様からこんな手紙がくるのか、という苦情がうちにきた
のです﹂
﹁でもそれはゑ無山さんが﹂
﹁わかっておりますわよ、最初っからもめてますもの。太田様私は
ゑ無山さんにこういってやりましたです。あなたがちゃんと期日を
守ってお家賃を払わないからこういうことになるんですよ、あなた
がちゃんと契約を守って家賃も払えば何もこういうことはされませ
んよ? ってね。
だってこの場合、どうみてもゑ無山さんが悪いですもの、それを
うちのせいみたいに苦情を言われても困ります﹂
﹁確かにそうですね、ゑ無山さん内容証明を受け取ってどうでるか、
と思ってましたがまさかそちらのちゅー?するかい? に苦情を言
いたてるとはおもいませんでした﹂
﹁ゑ無山さんは不誠実な人ですからねー﹂
壱案は気を悪くした。
井伊店長は一番最初はゑ無山の味方で壱案に家賃など融通をきか
せてやれと言ったではないか。今度は壱案の味方をしているのであ
る。ゑ無山を変わった人、というならばそういう人物を紹介したの
はそちらの方ではないか。
壱案はきっぱりと言い返した。
﹁ま、そういうあしらいをされたなら、いいですよ。ゑ無山さんは
退去する気は全くなかったでしょ﹂
﹁そりゃあまあ全然。というかそういう話はされませんでしたが﹂
﹁でしょうね。失礼します﹂
壱案は電話を切った。井伊店長に話しても解決はしないだろう。
それがわかってきたのだ。それに壱案は井伊店長が嫌いだった。彼
115
女は知らなかったとはいえ、悪気はないとはいえ、ゑ無山を紹介し
た人物である。ゑ無山を持ち上げていい人ですよ、といっていたく
せにこの変わり身の早さ、全然信用できないわ、と思う。
壱案はモモンガ司法事務所の梨元が何気なく言った一言にひっか
かっていた。
﹁ゑ無山という人は前の住居では果たして円満退去だったのだろう
か﹂
壱案は賃貸契約書と一緒に届けられていたゑ無山の住民票を見る。
大阪市◎区△町一丁目一−一ー千五百二十一⋮⋮この最後の千五百
二十一でこの住所は間違いなくマンションだ。しかも十五階。そこ
も最上階なのだろうか。
壱案はPCを立ち上げて住所から地図検索した。マンション名が
これで判明。地図で見る限り大きなマンションだ。これなら空き室
もあるだろう。空室検索をかける。そこから複数の仲介会社のHP
を閲覧してマンション名を入れてヒットさせた。
壱案は不動産関連には詳しくないがだが検索ぐらいは素人でもで
きる。このマンション専任の管理会社もすぐにヒットできた。これ
でゑ無山の前の住居の電話番号が簡単にわかった。
壱案は少し迷ったがゑ無山の退去の様子が知りたかったので電話
をかけた。ここの管理会社は大きいらしく受付の女性に事情を言う
と担当部署におつなぎいたしますと言われた。
だが結果はけんもほろろな応対だった。個人情報だと教えてもら
えない。
﹁会社の決まりで一般の人にはこういうことは教えられないのです。
お気持ちは察しますが言えません﹂
電話口で数人で相談しあったらしく壱案は長いこと保留音を聞か
される羽目になったが結果はダメだった。壱案はがっかりしたが仕
方がない。
116
気を取り直して今度はゑ無山の会社の住所を同じようにして検索
をかけた。会社の住所の住民票はないが賃貸借契約書の勤務欄に載
っていたのだ。そこも簡単に大きな不動産会社のテナント募集欄の
ホームページから入り何度も検索を続けていく。マンション検索よ
りは時間がかかったが雑居ビルの管理会社が判明する。壱案はここ
も個人情報を盾に教えてもらえないかもしれないがとにかくダメも
とで電話してみた。
コール数回で女性の声での返答があった。
﹁はい、マルペケ管理会社山岸です﹂
﹁あのう、お忙しいところすみません、私は太田壱案と申しまして
以前そちらに賃貸していたゑ無山さんという男に今貸しているもの
です。ゑ無山の会社名はデザイン設計株式会社ポオチといいます。
正直トラぶっていまして、あのうゑ無山さんのこと、ご存じでしょ
うか﹂
女性の声がいきなり低くなった。
﹁ゑ無山⋮⋮。ポオチ⋮⋮。そこのゑ無山さんってあのゑ無山さん
でしょ、知っていますよ。あの人うちから夜逃げしたんですよ﹂
壱案は驚いて返事する。
﹁えっ、退去ではなくて夜逃げですか﹂
﹁ええ、そうですよ、家賃踏み倒したまま夜逃げされました。ある
日、月曜日に家賃督促に行ったら会社ごと空っぽでした。うちはビ
ルの一階の出入り口に管理会社を置いて私もここで勤務しているの
ですが日曜日は無人で誰もいないのです。ゑ無山はそこをついて夜
逃げしたのです。⋮⋮そちらもそうなったんですか?﹂
﹁いえ、まだです。でもいろいろありまして、これ以上貸すには不
安があって退去告知も連帯保証人にすでにしています、効果なしで
すけど﹂
﹁失礼ですが今の滞納額はおいくらぐらいですか?﹂
﹁いえ今のところは支払遅滞ですが﹂
﹁ふーん﹂
117
女性の声だけでの判断だが見ず知らずの壱案に非常に協力的だっ
た。壱案はこれなら教えてもらえると安堵して返答を続けた。
﹁マルペケ管理さん。あのう、愚痴になってしまいますが、ゑ無山
さんから督促しても暴言をはかれるし信用保証会社も手をやいてい
る始末でして⋮⋮司法書士さんも以前の住居でも同じことをしてい
たかもしれませんよと言われまして。それで前のところはどんなの
だったのだろうか、と思いまして﹂
﹁どんなもこんなも、あんな人二度と貸したくありませんね。うち
は夜逃げですんでよかったと思います﹂
﹁はあ﹂
﹁うちも最初は支払遅滞でした。でもうちの社長は支払遅滞する奴
は滞納に通じるからすぐに督促しろという方針です。まあそれは当
然のことで私も仕事ですから督促に行きました。だって電話も何も
通じませんからねー。そしたらわざわざ督促にいっているのに、そ
の態度は何だと怒られましてね。怒っているのはこっちの方ですが﹂
﹁やっぱり督促にいって怒られましたか? 私も会社に電話督促を
したら営業妨害したって言われました﹂
﹁そうそう営業妨害ね、会社の部下にもしめしがつかない、名誉棄
損にもあたるぞって言われましたよ﹂
﹁⋮⋮まあ﹂
壱案はやっぱりという思いだった。山岸と名乗った管理会社の女
性もまたあきれたようにゑ無山のことを言った。
﹁あきれた。手口まったく同じですよ。夜逃げ先の新しい住居でも
同じことをしているんですねえ、本当にあきれましたよ﹂
﹁夜逃げっていわれましたが、失礼ですが滞納分はおいくらでした
か、そして訴訟は?﹂
﹁約五十万円ぐらいですね、訴訟するとそれぐらいは弁護士代でふ
っとんでしまいます。だからうちではしていません。夜逃げされた
ままです。ただこういうことをされますとね、やっぱりね、ずっと
覚えているものですよ、滞納されたあげく夜逃げされた側はね、ず
118
うっとね、覚えています。
⋮⋮私罵倒されたこともようく覚えています。でもゑ無山は全然
平気だったんですね、あなたのところに入居して同じことをしてい
るんですから﹂
壱案は連帯保証人の話しもしておきたかった。ゑ無山が夜逃げし
た時、連帯保証人はどうしたのだろうか? ちゃんと責任をとって
くれたのだろうか?
﹁あのう、山岸さん。あの時の連帯保証人はやっぱりゑ無山さんの
お父さんでしたか?﹂
﹁違います。ご友人二名です。連帯保証人なので法的には滞納分を
要求できますからね、そっちにも内容証明を送付しましたけど宛先
人不明で戻ってきたのです。入居時に慣習的に連帯保証人の名前が
あるのは確認してももしその人が滞納したらあなたは払いますよね
? と確認はしませんしね。だけどあのゑ無山は虚偽の友人名を書
いたのではないかと思っています﹂
﹁虚偽⋮⋮ゑ無山さんは連帯保証人を用意できなかった、頼める友
人がいないということですね﹂
マルペケ管理会社の山岸はゑ無山に罵倒されたことと、家賃を踏
み倒されたことをよく覚えていて壱案に警告した。
﹁太田さんとおっしゃいましたね? 今度の住居はお父さんが連帯
保証人とおっしゃいましたね﹂
﹁でもこっちも支払いを断られました﹂
﹁仲介会社はどうしていましたか﹂
﹁仲介会社はちゅー?するかい? でした。でも何もしてくれませ
んでしたよ﹂
﹁ちゅー?するかい? は大手ですからね。だからゑ無山は虚偽の
友人名ではばれると思って父親の名前を出したのかもしれませんね﹂
﹁どういうことでしょうか﹂
﹁うちは会社向けの貸しビル業です。それ専門の仲介業者に連れら
れてゑ無山は部屋を見学にやってきましたが断ったのです。だが数
119
日後にゑ無山は一度断ったがやはり貸してくれと直接うちの管理会
社までやってきて頼んだのです。うちの社長に直談判して仲介会社
抜きで賃貸借契約しないか、それなら仲介手数料がお互い浮くし悪
い話しではないかと持ちかけて社長はそれを受けてしまったのです﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
﹁それも意図的にしたと思いますよ。雑居ビルの一階に管理会社が
あるのを見学時にわかれば今後は仲介会社抜きに直接うちにきて貸
してくれと言えば確かに仲介会社に支払う仲介手数料はいりません
からね。そうでしょ? ゑ無山はうちの様子をちゃんと見て話を持
ちかけたのです。今思えばそれもおかしい話ですね。初めから滞納
しやすい雑居ビルを狙ってきたのだろうと思っています。
そちらは住居用の仲介会社利用でちゅー?するかい? は大手で
すし、そういう手は通じないと思って実在の父親の名前を出して連
帯保証人にすえたのかもしれませんよ﹂
壱案はなるほど、と思った。会社経営者向けの雑居ビルと住居向
けのマンションとはまた違ってゑ無山が最初から滞納するつもりの
マンションはなかったということかな。壱案はそう感じた。
山岸はゑ無山のことを思い出したのか話を変えた。
﹁うちからの家賃督促が頻繁になるとゑ無山は私たちの顔を見ると
睨みつけるようになりました。これもおかしい話でしょ? うちは
会社を経営するスペースを月極めで貸しているだけです。お金を入
れてくれなければ督促されるのは当たり前です。なのに睨みつけて
督促を営業妨害だというのはおかしいです。
おまけにこっちは駐車場も経営してやってますからね、車をつか
った嫌がらせもされましたよ。大変でしたよ﹂
﹁車、どういうことですか?﹂
﹁決められた場所に駐車せず、縦に駐車すべきところを横にしたり
するのです。横に止められると車四台分止められないのでね、大迷
惑ですよ。そういうことが平気でできる人なんですよ。
うちの社長、夜逃げされてよかったじゃないか、厄介払いでよか
120
った。五十万円の滞納ですんでよかったという人なんでね、そのま
まです。ああ、でもそれ。
今思ったのですがゑ無山はうちの夜逃げでアジをしめてそっちに
も同じことをしているのかもしれませんねー、太田さん、くれぐれ
も気をつけてくださいよ﹂
壱案は山岸の言葉に絶句した。だがこれは好意の忠告だ。
﹁⋮⋮ともあれゑ無山さんのことを快く教えてくださってありがと
うございます。おおいに参考になりました﹂
壱案は丁寧にお礼をいって電話を切った。
こういう展開になるとは意外だったが反面やっぱり、という思い
もあった。
﹁くれぐれも気をつけてくださいよ﹂
⋮⋮山岸の忠告は大変に有難かったがどう気をつけろというのか、
壱案は思わずため息をついた。
壱案はゑ無山の過去を聞いて自分はそういう非常識な賃借人にあ
たってしまったのだ。これからどうなるんだろう、と思った。
内容証明を出したことは出したが、受け取ってくれたからってあ
のゑ無山がイイコになるとは思えない。内容証明はいわば宣戦布告
だ。このままではすまさない、という大家としての壱案の決意の表
れだ。
そうだ、負けてはならない。
賃貸借契約書を交わした以上、約束は守ってもらわないと。今は
支払遅滞でも滞納に移るとあっというまだという。それは避けたい。
そして裁判もできるなら避けたい。
裁判⋮⋮住居明け渡しの裁判⋮⋮弁護士、裁判所、裁判官⋮⋮。
こういう無縁の世界と渡り合う知識も勇気も持ち合わせてない。
どうかゑ無山が改心して毎月きちんと入金してくれるか、退去して
くれることを祈るばかりだった。
121
122
第十四章・警察への相談
そして二月十三日を過ぎてもゑ無山からの内容証明の返答はない。
そして信用保証会社ドッグとの契約更新料の支払もない。これでド
ッグとの契約が完全に切れた。やれやれやっぱり更新しないのか、
来月分からドッグからの弁済が受けられないしどうしようかと思っ
ていたらドッグの追給から壱案に電話があった。
﹁太田さんあのですね、報告です。ゑ無山さんから信用保証の更新
がありました﹂
﹁えっ、もう期限もすぎて契約解除のはずでしょう。どうしてです
か﹂
﹁オーナーさんが内容証明を出したからですよ。ゑ無山はうちの口
座に入金せず、うちの会社まで直接出向いて入金してこられました。
銀行が閉まっていたとか言い訳してましたがまあ利用銀行と支店名
を知られたくなかったのでしょ。そういうことは頭がまわる人です
からね。
太田さん、ゑ無山宛の内容証明にはうちとの契約更新料を支払わ
ないと退去になると書いたのですか?﹂
﹁ええ、そういう内容の内容証明を出しましたよ。あの、保証会社
はどうしてもう更新期限が過ぎているのに、更新料を受け取られた
んですか? こっちはゑ無山さんの連帯保証人に退去するように言
ってますし、更新する意志もないとはっきりそちらに伝えているん
ですよ? 更新してしまったらまた一年間嫌な思いをしなきゃいけ
ないではないですか、ひどいじゃないですか﹂
﹁うちの会社での決まりです。オーナー様にはこの場合はお気の毒
ですけど。だけどうちの保証契約が切れると今後の交渉はあなた一
人になりますよ。あのゑ無山と話ができますか? 代弁済も受けれ
123
なくなりますよ? 保証契約が切れた以上はもちろん、特約事項の
違反になりますので堂々と退去宣告はできますよ。だけどあのゑ無
山がすんなりとハイソウデスカと退去してくれるとは思えないです
ね。
うちは仕事ですからこういうことでもやれますよ。
それと一番大事なことですが、いくらオーナー様が今後の契約も
やめてほしいと思っても、賃借人が更新料をうちに払う限りはマン
ションの賃貸借契約は途切れませんよ。お気持ちはよくわかります
がそうなっています﹂
壱案はモモンガ司法事務所の梨元から入れ知恵されてはいる。ゑ
無山が信用保証会社のドッグに更新しようがするまいが、支払遅滞
は続けるに決まっているから代弁済は受けない、要求しないように
とは言われてはいる。だがドッグの追給からこうあからさまに更新
している限り賃貸借契約が切れないとはっきりいわれて狼狽した。
﹁つまり、賃借人は信用保証会社の更新はオーナーの意向がどうで
あれ、飽きるまで更新ができるということ。また更新ができずに賃
借人と信用保証会社との契約解除になったとしても、いくら私との
契約書の特約に契約解除の場合は退去理由になるとはっきり明記は
してあっても現実では退去は強く言えないということになるのです
ね?﹂
﹁その通り。オーナーの意向に限らず一旦賃借人が入居してしまえ
ば本人が住んでいる限り、住みたいという限り住み続けることがで
きる。まあそういうことですね﹂
﹁どうして、ですか? あれは、あの部屋は私の持ち物で私のマン
ションです。なのに。悪質な賃借人を追い出せないのはなぜですか
?﹂
﹁お気持ちはわかりますが、今の時代は部屋を貸す人よりも借りる
人の方が強いのですよ。
どうしても出て行ってほしいならば引っ越し代と迷惑料を包むし
かありませんね﹂
124
﹁それは絶対にイヤです﹂
﹁ならば、不可能でしょう。どうしても追い出したいなら部屋明け
渡しの裁判をおこすしかないですね﹂
﹁裁判ですか﹂
﹁そう、裁判です。だけど言っておきますが裁判をしたからって必
ず勝訴、つまり裁判に勝てるわけではないです。むしろ大家が不利
で負ける可能性の方がこの場合は大きいです。
裁判となるとお金もかかりますし、実際本気で裁判するならばゑ
無山さんに関する限りはまず百%敗訴、つまり負けるでしょう﹂
﹁つまり裁判に持ち込んでも私が負ける⋮⋮ゑ無山さんを退去させ
ることもできない、そういうことですね。なぜ、なぜですか? 私
にわかるように説明してください﹂
﹁だから今は大家不利なんです。悪質な賃借人つまり入居人がいた
として、部屋を返せ、つまり明け渡せという裁判を起こすには最低
六カ月は滞納していること。それが条件です。もしくはまあ何かの
事件をおこしたとか、暴力団員であった、とかそういうことでもな
ければできませんよ。
もっとはっきり言いましょうか。ゑ無山さんの場合は、今は代弁
済を受けておられるので滞納はゼロです。支払遅滞ということばは
滞納と同義語ではありません。むしろこんな軽い案件で告訴する方
がどうかしていますよ、世の中もっと悪質な入居人が多いですから
ね、支払遅滞で、言葉や態度が悪くても一応は支払っているじゃな
いですか?
そうでしょ? 遅れがちでも支払っているでしょ?
だったら絶対に追い出すのは無理ですね。あきらめてゑ無山さん
やうちの会社と大人しく取引してこういうものなんだ、と思ってい
ただくほうが精神安定的にいいのじゃないですかね?﹂
﹁⋮⋮﹂
壱案には返す言葉がなかった。
確かに支払遅滞ではあって、滞納ではない。
125
ドッグの追給には礼をいってとりあえず電話を切ったが納得がい
かなかった。追給の言ったことは梨元司法書士と言われたこととか
ぶっているし、間違いではないのだろう。しかし⋮⋮しかし。
壱案は自分の大事なマンションに自分に対してあんな暴言を吐く
ゑ無山が許せなかった。貸したくなかった。そしてあんな人から家
賃と称したお金ももらいたくなかったのだ
ドッグの追給からあきらめてゑ無山を入居させた方がよい、との
説得に納得はしていない。納得はした方が賢いのかもしれない。ゑ
無山がどういう悪人ではあってもこの人から家賃と称したお金をも
らいたくはない、私を罵倒した人からお金をもらいたくない、だっ
たら代弁済をし続けてドッグのお世話になった方が賢いのだろう。
裁判に持ちこんでもこの場合は絶対に負ける。
そんなに持ち主の壱案よりも借主のゑ無山の力って強いものだろ
うか。
壱案が電話を切って考えあぐねていると父親が言った。手には賃
貸借契約書の約款のページを開いている。
﹁壱案。賃貸契約書の特記事項があっても書くだけ無駄というわけ
か。追い出せないなら仕方なかろう。
ゑ無山が暴力団員ならって言った? ああ、ここだな。契約の解
除についての欄か﹂
壱案は父親から契約書を受け取りどれどれ、と改めて約款を見た。
契約の解除
一、賃料を二か月以上滞納したとき
二、共益費を二か月以上滞納したとき
︵書いてあるだけ、実際は六カ月以上滞納しないと訴訟をおこす資
格すらないってバカな。と壱案は痛切に感じた。︶
四、以下略
・
・
126
・
六、借主または同居者が暴力団員と判明した時並びに借主または
同居者が暴力団と言っていの関係にあると判明した時
これを言っているのだ、父親は。
﹁確かに書いてあるわ。ゑ無山さんがああいう人でなかったらこん
な小さな文字の契約書の約款すら見なかったのに﹂
﹁約款はトラブルが起こった時のために明記すべきもので絶対に必
要だ。二か月以上滞納しても契約解除できる、とあるが代弁済を受
けている以上は無理だろう。だがお前に言われた言葉つき電話上で
はあるが、並みの人の話す言葉ではなかったのだろう?﹂
﹁ええ、お父さん。普通の会社経営者の言葉ではなかったわ。もし
かしてヤクザかもしれないわね﹂
﹁夜逃げの履歴もあるのだろう? 警察に相談すればよかろう﹂
﹁警察へ相談⋮⋮﹂
﹁そうだ、警察だ。身の危険を感じたとでもいえば話しぐらいは聞
いてもらえるぞ。そして何かの前科がある人物ならば何かわかるか
もしれないしな﹂
﹁お父さん。私はゑ無山さんに大事なマンションを貸すのががもう
イヤなの。やるだけやってみるわ。
警察、明日は日曜日だしさっそく行ってみるわ!﹂
警察のいいところ? は二十四時間年中無休である。壱案は早速
大町駅を所轄している大町警察署に相談に行くことにした。
もちろん壱案にとっては警察は敷居の高いところである。落し物
をひろった時ぐらいしか警察には縁がないし、警察署はもっとない。
強いていえば運転免許証の更新ぐらいしか行かない。それもペーパ
ードライバーだからゴールドの免許証をもっているから違反などと
も無縁だし。
大町警察署は便利な駅前にあるがそれでも兵庫県の自宅から急行
127
で一時間はかかる。結局なんでも一日仕事になるのだ。壱案はこれ
から先の前途多難さを思った。
ゑ無山が期待通りの暴力団員であったと判明した場合契約書では
堂々と解約、つまり退去に持ち込めるがそううまくいくだろうか、
普通の一般女性である矢亜壱案には荷が重すぎる相手だ。
仲介手数料を返還してもらった身としてはもうちゅー?するかい
? には相談はできないし、今後は頼りない父親と相談しあってい
かないといけない。そして時には司法書士を使って内容証明を出し
続けるか。
警察に相談しても無駄かもしれないが、とりあえずは行くだけ行
って相談するだけ相談してみよう、そう思った。
大町警察署に入って案内書に事情を伝えると案内の警察官に生活
安全課に行くように指示される。
﹁そこの廊下を突き当たりを左にいってください。入り口に大きな
札をかけています﹂
﹁ありがとうございます﹂
壱案はそこの小部屋に行った。室内にいた年配の巡査? らしき
人に事情を聞かれる。壱案は賃貸借契約書等の書類を全部持ってい
った。そしてそれを見せながら最初から説明した。
生活安全課の担当は影井と名乗った。
﹁ふーん、そうしたらあんたはひどい暴言を受けてその言葉遣いで
もしかしたら前科があるとか、暴力団員であると思うわけね。なる
ほど∼、で、今、何カ月滞納してんの?﹂
﹁正確には滞納していません。こちらは滞納があった時点で代弁済
を受けていますので﹂
﹁それじゃ追い出せんよ、いくら何を言われても、私の言うこと、
わかる?﹂
﹁でも暴力団員だったら﹂
﹁いいですか、もし、仮に、ですよ、もしこのゑ無山という男性が
128
暴力団員であったとします﹂
﹁はあ﹂
﹁警察は彼がどういう人間であったとしても絶対にあなたには言い
ませんよ。たとえ相手が暴力団員であったとしても警察は第三者の
人間にはそれは言えないことになっています﹂
﹁それは個人情報保護とかいうものですか﹂
﹁そうです。個人情報保護違反になります﹂
﹁はあ﹂
﹁それに電話上での暴言であって危害を加えられたわけでもあなた
の住んでいるところまで出向いてわめいたわけでもないんでしょ、
それは事件にも何もならないですよ。単なる大家と入居人のケンカ
であって、それは警察は関係ないですよ。民事不介入です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ま、気持ちはわかりますよ、話をうかがう限り、かなりルーズな
人間だし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それでも殺してやるとか言われてないでしょ、そういう強迫めい
た言葉はなかったでしょ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁やはり民事不介入ですので、とりあえずそういうことで﹂
影井は席をたった。壱案はダメもとで言った。
﹁民事不介入はよくわかりました。でも調書というか記録はとって
いただけますか?﹂
﹁相談記録は残りますよ、あなたの名前と相手の名前も。あ、そう
ですね、もしよかったらその賃貸借契約書もコピーをとっておきま
しょうか﹂
﹁はい、ぜひ﹂
壱案は影井に全部の資料を差し出した。影井はうなづくと別の部
屋に行ってコピーをとってきた。壱案はとりあえず警察は不介入、
ということには納得した。
129
結局警察は私がゑ無山に逆上や逆恨みして殺されるか大けがでも
しないと、味方をしてくれないことはよくわかった。警察は死んで
からでないと味方してくれない、とどこかの本で見たセリフを思い
出した。
そうなのだ、これは事件前の話、エピソードになるのだろう、壱
案は根拠のない確信をもった。
警察への話はこれで終わった。
だが実は終わりではなかった。始まりの始まりであったのだ。
壱案は大町警察署に行った甲斐はなかったと思った。警察は民事
不介入として何もしてくれないのだ。何の解決もない。がっかりし
て帰宅する。司法書士に頼んで出してもらった内容証明も意味がな
かった。ゑ無山は受け取ったが、効果があったとはとても思えない。
ゑ無山が受け取って何をしたかというと、仲介会社のちゅー?する
かい? の井伊店長に苦情の電話を入れたことだけだ。ゑ無山は内
容証明を受け取って壱案の思いを理解するどころか腹をたてただけ
だった。よってゑ無山からこちらへの電話は一本もない。どういう
反応もなかった。もちろん三月分の家賃も二月二十八日の期限まで
には入金がなかった。
結局いつものとおりにするならば信用保証会社のドッグに代弁済
の申し立てのFAXを送信する。そして毎月十四日の夜にゑ無山か
らの入金確認をして、もしあればドッグに代弁済申し立ての取り下
げをする。十四日の夜までに入金がなかった場合はそのままにして
おいて、十五日にドッグからの代弁済の家賃相当額を受け取る⋮⋮
いつもと変わらぬ変則的な、そして手続きだった。壱案はこういう
不自然な支払方をするゑ無山は一体どういう神経をしているか理解
できなかった。しかも毎月のように支払遅滞をしておいて遅れてす
みませんとか理由も言わない。きちんと入金してくれたらよいだけ
130
の話しではないか。それだけなのだ。だが夜逃げの履歴ありという
ことで壱案はもっと用心しないといけないと警戒している。こんな
思いはたくさんだった。夜逃げの履歴ありと分かっていれば契約な
んかしない。井伊店長がしつこく負けろと言われて根負けしたが、
あの時断ったらよかったのだ。
最終的な決定権はやはり自分にあるから自分の責任とはいえ、ゑ
無山の人間性を疑っている。前の会社のビルの家賃を平気で踏み倒
し督促には営業妨害だと駐車場で嫌がらせもできる人間なのだ。壱
案はこういうことが平気でできる人間とはかかわりたくなかった。
いい加減退去してほしい、そう切に願っている。
だが先月からは司法書士の入れ知恵をもらった。だから今月分の
家賃からはもうドッグあてに代弁済の申し立てはしない。
さてゑ無山はどうでるだろう。壱案が今月代弁済を希望しないの
であれば信用保証会社のドッグもゑ無山に家賃+手数料の請求はし
ない。ゑ無山はどう思うだろう、何か反応はあるだろうか。
結論から言うと反応はゼロだった。そのかわり次の月には黙って
二カ月分壱案の口座に送金してきた。三月分と四月分をいきなり三
月上旬に入金してくれた。三月分の家賃は支払遅滞だったが四月分
は先払いというわけだった。それから五月分と六月分。七月分と八
月分⋮⋮大体二か月ごとに入金してくる。
あの時の内容証明の効果だとは思っていない。なぜ二か月ごとに
入金するようになったのか不思議だったが壱案も黙ってはいない。
モモンガの梨元にそれを報告する。梨元は二カ月分一度に入金し
てきたというと感心したようにこう言った。
﹁ふふん、相手は法律のこと、わかっててやってますね、三カ月分
まで滞納すると訴えられても仕方ないと思っているのですよ。賃貸
借契約書には二カ月分を滞納すると契約解除とは書いてはいても書
いているだけで実行力を伴わないこともね。だけど二カ月分以上滞
131
納するとまた話が変わってきます。
相手はそれを知っててやってますね﹂
﹁私の考えている意図もわかっているのでしょうか﹂
﹁さあそこまでは不明ですね。だけど今後の動向に注意すべきます
ね﹂
注意すべきもなにも、壱案とゑ無山とは家賃を入金してもらうだ
けの関係だ。家賃さえ支払いがあれば何も司法書士や信用保証会社
果ては仲介会社にも連絡を取る必要も何もないのだ。
壱案はこうしていちいち手間をとらせるゑ無山に対して心底腹を
たてていた。まったく何を考えて生きているんだろう。壱案もマン
ションに対してもにっちもさっちもいかなくなると夜逃げする気な
んだろう、そう思っているしそう思われても仕方がないとみている。
実際ゑ無山経営のデザイン会社ポオチだって所在不明のままでは
ないか。そのままでどこで営業しているかもわからないが、とりあ
えずHPはまめに更新している。
﹁内容証明を送った﹂ というのは相手とはもう訴訟にいたって
もいいぞ、という意志表示をしたことになる。最初からゑ無山は支
払遅滞、滞納、そしてにっちもさっちもいかなくなったらころ合い
をみて夜逃げするつもりなのだ。前の住居がそうだったからそれで
アジをしめてもう一度壱案のマンションでもそうするつもりなのだ。
そういう人なのだ。そういうことが平気で出来るのだ。
そしてこれは犯罪ではない。
過去ゑ無山は五十万円の家賃を踏み倒して夜逃げした。前の会社
の管理会社はゑ無山を訴えなかった。訴えて勝訴をもらっても弁護
士に支払う料金を考えるとどうしても損失が出るからだ。管理会社
は泣き寝入りした。ゑ無山の勝利だ。ゑ無山はそのあたりの法律に
は詳しいのだ。
でもそれも犯罪ではないのだ。
警察は犯罪であれば関与してくれる。だが犯罪ではないから家賃
132
は踏み倒して再度同じこともやろうとすればできるのだ。壱案はこ
れが不快だった。
たとえばスーパーでの売り物を黙ってもっていく、そういうのは
万引きという犯罪だ。
しかしゑ無山のように滞納したあげくに夜逃げしても、それは犯
罪ではないのだ。
賃借人有利の状況。これは一部のゑ無山のような悪質な賃借人に
とってはいい話なのだ。こういうことを平気でできる人にとっては
犯罪まがいではあるが、犯罪にはならないことを堂々とできるのだ。
それで会社経営がやっていけるのだ。
それで空手の指導員として余暇を幼い子供達に空手を教えたりで
きるのだ。そういうのがまかりとおるのだ。ゑ無山は空手の先生と
して子供達や初心者から慕われているのかもしれない。だが家主の
壱案にとってはゑ無山という男は厚顔無恥な厚かましい人間だった。
家賃の支払いを遅らせていって滞納にすすんで夜逃げしていく。
ゑ無山は何度かそういうことをしていったのかはわからない。
壱案のマンションもいずれそうするつもりなのかもしれない。現
に一度も期日を守って家賃を入れてきたことない。そして督促の電
話が通じない状態である。
壱案はその状況に陥ったのがとても嫌だった。そういう犯罪まが
いの人間に大事なマンションを貸している状態に我慢できなかった。
だが一度入居してしまったのでおいそれとは退去しないだろう。壱
案はあせっていたがどうにもならなかった。だが支払遅滞から滞納、
そして夜逃げという展開を避けないといけない。そんなことはさせ
るものか、壱案は賃貸借契約書にあるゑ無山の直筆の名前を見つめ
ては心に誓う。
モモンガ司法事務所の梨元から知恵を授かった壱案はその次の月
から月末ごとにドッグに代弁済を要求するFAXを送信するかわり
にゑ無山に内容証明書を送付することにした。
133
ゑ無山は受け取らなかった。内容証明書は郵便局の引き受け番号
でネットで追跡してゑ無山が受け取ったかどうかわかるが彼は受け
取らない。内容証明書はきっちり二週間後には壱案が封書でだした
状態で壱案のもとに返送されてきただけだ。月日ばかりがいたずら
に去っていく。
最初壱案は内容証明は来たらどういう人でも中身が見たくて絶対
に受け取るものだと思い込んでいた。だけど内容証明でどういう内
容で来たのか推察できる人は受け取らないのだ。
家賃はゑ無山が支払日を決めている。二か月に一度、遅れがちに。
退去するつもりはないようだ。
膠着状態だった。
時として壱案は弱気になって、二か月に一度で滞納しそうでしな
い状態でもいいのかもとも思うようになってきた。だがペット入居
時にあたってゑ無山との会話で罵倒されたことを思い出してはあの
通常の会話ができないゑ無山には退去してもらいたいと強く願う、
だが無理だった。壱案は家主なのに退去を願ってもそれは入居者が
応じない限りは出て言ってもらえないのだ。永遠に。
壱案は月末の家賃入金予定日がくるとため息をつくようになった。
ゑ無山には油断は禁物だ。絶対に夜逃げだけは阻止したい⋮⋮。
134
第十五章・検索と閲覧
ゑ無山経営するデザイン設計株式会社ポオチのHPは随時チェッ
クを入れている。ゑ無山は家賃の入金にはルーズだがこういったこ
とにはまめらしい。業務上のデザインの画像は頻繁に更新している
し、ブログの更新はもっと頻回だった。内容はあいかわらず自慢話
が多い。ある武道大会に陪審として参加したこと、空手の教え子が
入賞した自慢。彼の書く文面からなみなみならぬプライドの高さが
読み取れる。壱案のマンションのことはただの一言も書かれてはい
ない。だが壱案はチェックを続けていた。
ある時壱案はブログでゑ無山がツイッターのヘビーユーザーであ
ることを知った。ツイッターはおもしろいという記載でわかったの
だ。壱案はツイッターはしたことはない。おもしろそうだからして
みようかと思ったこともない。
とりあえずツイッターでの偽名を﹁こっち﹂ と適当に付けてア
カウントをとってみる。彼の本名を検索、出ない。だが英語名で検
索したら出てきた。デザイン設計会社経営とある、年齢も合致。ゑ
無山は本名をローマ字にしてツイッターに参加していろいろなこと
をつぶやいていたのだ。つぶやきもブログと同様英語で書き込みを
している。
しかもフォローもフォロワーも結構いる。壱案がおお、と思った
のはツイッターに本名らしきアカウント名で参加しているゑ無山の
友人が多いということだ。
ツイッターをこういう理由で閲覧することは本来はよくないこと
だろう。だが壱案にとってはゑ無山は将来訴訟に至る可能性大の相
手なのだ。壱案に非がないのに罵倒もされている。だから相手の個
人情報収集することに何ら良心のとがめも感じなかった。
何よりもゑ無山の精神状況が理解できない。ツイッターで見る限
135
り、ゑ無山には友人が多い。仕事関係、武道関係その他音楽の趣味
の友達などなど。なのに、なぜ住んでいるマンションの大家に対し
てだけは不誠実なのか?
どうせ払わないといけない家賃の支払いにどうしてここまで手間
をかけさせるのか、遅れそうなら一言知らせたらいいだけではない
か。家賃の督促をされても当然だ。支払ってくれないから督促され
るのだ。それを逆切れする方がおかしい、大家を罵倒する方がおか
しい。自分が悪いからとどうして思えないのかが不思議なのだ。本
当になぜだろう?
そして夜逃げの履歴⋮⋮﹁賃貸﹂というキーワードがゑ無山にと
って滞納してもよい、夜逃げしたってよいと思うカギなのか? 本
当は﹁賃貸﹂ なんかしたくない、本来は空間にまでお金を払うべ
きものではない。だけど現実には﹁賃貸料﹂ つまり家賃を払わな
いとどこにも貸してもらえない、住ませてもらえない、というのが
ゑ無山の怒りのポイントとなるのだろうか。
壱案は時間のある休前日にゑ無山のツイッターとの交流を丹念に
ピックアップしていく。裁判になることを踏まえて何かの役に立つ
かもしれないと思ったのだ。小さな一冊の無地のノートを対ゑ無山
用にさいてゑ無山についてわかること、わかったこと、これからす
べきことを順に書きこもうと思っている。
ゑ無山はツイッターのヘビーユーザーだった。一日三十から四十
回はつぶやく。ひどい時は百回ぐらい。壱案は四,五日かかってゑ
無山がツイッターの書き込みをはじめた二年前からのつぶやきを全
部閲覧した。時間はかかったがゑ無山を理解してこちらの有利な展
開になるようにしようと思ったのだ。それは正解だったといえる。
一行だけ、一言だけというのも多いが長ったらしい文面もわざわざ
二つか三つに区切ってまでつぶやいていることもある。
ブログといいツイッターといいはまりすぎではないか。設計デザ
イン会社というのはよくは知らないがヒマなんだろうかと思ったぐ
136
らいだ。
それか会社経営者ならばある程度の時間の自由がきくのだろうか、
それとも現実の友人がいなくてゑ無山の本音を誰かに聞いてほしい
と不特定多数の誰が見ているかわからないツイッターや自慢ブログ
にはまるのだろうか、壱案にとって不可解なことだった。
さてツイッターの書き込みの内容だが起きた、家を出た、これか
ら食事、コーヒー購入などたわいのないものが多い。壱案は閲覧し
てペット家賃も入れてないのにペットを買っているのではないか、
そして家賃などお金に関するつぶやきはないかと丹念にみていった
が皆無だった。
﹁本当に今日のランチはどこそこの定食っていちいちつぶやくんだ
わ。ツイッターにはまると誰でもそうなってしまうのかな﹂
ゑ無山のつぶやきへの反応を見ていると、実際に普段から会って
いるだろう友人らしきコメントも皆無だった。だがフォロワーやフ
ォローは何人かいる。壱案はふと思いついて本名らしき名前で登録
しているフォロワーをメモにピックアップしていった。
大体十人弱で実際に会っているという人はその中でも三人ぐらい。
本名での登録は全員が武道関係者だ。設計デザイン会社関係者は皆
無だった。
ゑ無山のネット上での女性関係者はいないようだ。独身とは聞い
てはいるがまだ特定の女性はいないのだろうか、と壱案はそう思っ
た。だって会社経営者で武道の実力者で金持ちそうと聞けばなびく
女性もいそうな感じなのに。
壱案はゑ無山のツイッター上のフォロワーのうちの一人に目をと
つわもの
めた。武道場経営者、弁護士とあるのだ。実際に面識があるらしく
ゑ無山自身のコメントでロイヤーかつ空手家まさに彼は人生の兵な
りと書いていてほめている。壱案は彼の名前を丁寧に手持ちのメモ
に書き留めておく。その名前から弁護士検索をかけてみる。弁護士
名簿もヒットしかつ某流派空手指導員名簿にもヒットする。頭がよ
くて空手もできる。すごいな、と思いつつゑ無山のことで本当に困
137
ることがあれば彼にコンタクトをとって聞いてみようと思った。
その名前は柏崎正午といった。
私はどうせゑ無山からは元々早い時期に非常識な大家といわれて
罵倒されているし、ツイッターでも私がのぞいているのを見たらも
っと罵倒するだろう。だがこれはゑ無山が退去するまでの話だ。私
は負けない、絶対に負けない。そして合法的に私からできるだけの
ことはやり返してやる。壱案の決意は固く堅くなっていく。
二カ月に一度の家賃振り込みが当たり前になってはきた。この状
態はよくない。だが打つ手はなく支払期限がないのも一緒だった。
ゑ無山は好きな時に入金して好きな時に滞納する。退去を願っても
かなうはずがなく、半年が過ぎた。そしてまた師走。十二月すぎて
も十一月分の家賃と一緒に入らなかった。
﹁三カ月滞納になるのかな、嫌だなあ。年末でお金のやりくりに苦
労しているのかな。それだったらもっと安い家賃の部屋に行けばい
いだけの話しなのに、本当に嫌だなあ﹂
壱案は月末なるとゑ無山の入金のことを思って嫌な気分になる。
この人に部屋をかして後悔している。退去の意思はないようだ。こ
の状態のまま貸すのも嫌だと思う。
そうしてまた年があけた。二月が来たらゑ無山と賃貸借契約書を
かわして丸二年になる。
一月十五日。
十二月分の家賃はまだだ。また一月月末に入金するのだろう。そ
して二月に入るとゑ無山と信用保証会社ドッグの契約更新だ。ゑ無
山は退去しないだろうからまた三千円の更新料を支払うだろう。壱
案はため息をついた。今年は代弁済は一度も受けなかった。ゑ無山
はこちらのやり方を知っているのか代弁済をうけなくとも二か月か
三カ月手前ぐらいで一度に支払が遅れた分だけ支払う。
壱案は毎月のようにゑ無山に内容証明を出してきた。ゑ無山は受
138
け取らない。だがこちらの意志はわかっているはずだ。それでも退
去の意志もないようだ。
壱案はこれをどうにかしたかった。
やはり黙っているだけではいけない。また信用保証会社の契約更
新もあるし、もう一度きちんと電話で話しあわないといけないだろ
う。また罵倒されるだけかもしれないが、話しあいは必要だ。壱案
は意を決してゑ無山の携帯電話にかけた。多分出ることはないだろ
う。だから留守番電話で退去の意志がないようなので裁判を視野に
入れて今後活動しますということを伝えるつもりだ。
だが、電話がつながらない。どうしたんだろう、と思うが転送電
話も何もない。ただつながらないのだ。コール音もならないし留守
電にも切り替わらない。
おかしい、携帯電話滞納とかで使用中止なったのだろうか、これ
って絶対におかしい。
ふと思いついて携帯電話会社のフリーダイヤルを調べてみようと
HPを閲覧してみる。するとトップページにストーカー対策に﹁迷
惑電話STOP対策サービス﹂ という文字がでてきて、あっと思
った。
壱案の電話番号から内容を推測して居留守を使うのはなく、携帯
電話会社のこのサービスを利用して本当の本物の着信拒否をしたの
だ、とそう直感した。
壱案はHPトップにあるその電話会社のフリーダイヤルをして迷
惑電話対策について質問があると言って担当部署に回してもらった。
そして。
壱案はまず単純にゑ無山の番号を伝えてなぜつながらないかと調
べてもらう。担当女性の返答が要領をえなかった。
﹁すみませんがそういうことは個人情報の守秘義務に抵触しますの
で﹂ という。
壱案は﹁わかりました﹂ と電話を切る。
139
それからしばらくして考えてから今度はフリーダイヤルから再度
電話はするが今度は言葉を変えた。最初から裁判に関与する事項に
ついて教えてほしいと申し出る。すると今度は違う部署につながり
男性がでてきた。自分の住所氏名並びに勤務先を開示したうえで裁
判を考えている旨を打ち明ける。そしてゑ無山の番号を告げる。
それからわざとたたみかけるようにカマをかけた。しかも強めの
言葉を断定的にかけた。
﹁ゑ無山はそちらの迷惑STOPサービス利用中ですがね﹂
男性担当者は間髪いれず﹁そうですね﹂ と返答する。壱案はや
った、と思うと同時にやっぱりと思った。すごく腹がたち担当者に
言う。
﹁迷惑STOP電話サービスはストーカーなどに悩んでいる人々の
ためのものでしょう? 個人的な債務から逃げたいがための人物に
果たして適用が許されるものでしょうか﹂
﹁お客様のいうことが事実であればおっしゃるとおりでございます。
しかし、当社ではその真偽を確かめる立場ではなく、あくまでも利
用者様が申し出たらそれを受けるだけなんです﹂
言うことはもっともだった。壱案は礼を述べて電話を切った。確
かに携帯電話会社は利用者のいうことを真実か調べる立場にない。
しかしストーカーやいたずら電話に悩む人たちのためのサービスが
借金取りなどの督促から逃れるために利用するというのは卑怯なこ
とではないか。
﹁ゑ無山ってなんて卑怯な男なんだろう、私をストーカー扱いして
⋮⋮最低な人間だな﹂
壱案は小さくつぶやいてゑ無山を呪う。こぶしを握り締めてゑ無
山を心から呪う。お前に災いあれ。
ホント最低なヤツ。
140
第十六章・信用保証会社の入れ知恵
壱案は信用保証会社のドッグの追給に対して久々に電話をかけた。
そしてゑ無山の近況としてそちらに連絡がないかということと、壱
案の電話がゑ無山から迷惑電話STOPサービスを利用されて着信
拒否されていることが判明した旨を告げた。
追給はいつも元気な声を聞かせてくれる。久々の壱案にも快活に
答えてくれた。
﹁ああ、迷惑電話ね、ははは。じゃあうちもやられてますね。とに
かく払いたくないヤツはとかくいろんな知恵を出していきますよ。
だけどさ、ちゃんと契約書をかわしているんですし、オーナー様は
立場上強く請求できるんですよ﹂
﹁内容証明も受け取ってもらえない状況ですがそれでも強く請求で
きることになるんですか﹂
﹁出て行ってほしいんですよね、三カ月滞納されているのを待って
おられるのですね、それはそちらが相談された司法書士の入れ知恵
らしいですが、一度うちの方の弁護士と話をしてみますかね?﹂
﹁保証会社の規約には部屋明け渡し訴訟になったら弁護士費用とか
無料ってありましたね﹂
﹁そうですよ、うちはちゃんとしています。ゑ無山に限って百%な
いでしょうが、万一の自殺にも対応して部屋を汚された場合などに
も弁償費用を出してますよ。とにかくこのご時世ですからね、なん
でもありです﹂
﹁はあ、そうですね、私以上に苦労されている家主さんいるでしょ
うね﹂
﹁そうですよ、遅れがちでも一応払っているのだし、まだゑ無山は
マシだとぼくは思いますよ。ゑ無山はあきれた非常識人には間違い
141
ないですが。あれでもマシ、なんですよ﹂
追給の言い分には事実日常的に賃貸トラブルに対処するのを仕事
としている人間の言葉の重みがあった。壱案はそれをじっくりと味
わいつつ、しかしこのままゑ無山に賃貸していくつもりはない、と
はっきり自覚する。なので壱案は追給に頼んだ。
﹁じゃあ追給さん、その弁護士さんを紹介していただけますか、一
度相談にのってもらいたく思います﹂
﹁わかりました。ドッグ専属の弁護士さんなのでこういうもめごと
には大変強いです。きっと力になってくれますよ﹂
追給はそう請け合った。
壱案はその言葉を聞いて頼もしく思う。
それでアポをとってもらった。
事務所の名前と場所、アクセス方法を聞く。住所地名を聞く限り
大阪地方裁判所すぐ近くのようだ。
﹁そうですよ、弁護士事務所って裁判所に通うのに便利な場所で開
業しているところ、多いんですよ。
いいでしょ、その場所﹂
﹁でも私の勤務先の県庁すぐにも地裁がありますけど、その近くな
ら勤務帰りにもすぐよれるし、もっといいのですけどね﹂
﹁オーナーさん、それはダメですね。万一ゑ無山と本当に訴訟にな
ったら、県庁近くの地裁ではできないのです。受理すらしてもらえ
ないでしょうよ﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁あのマンションは太田さんの居住区や勤務先と違う都道府県にあ
るでしょう? あのですね、住宅もしくは部屋明け渡しの訴訟はそ
の当該物件⋮⋮ってわかりますかね、今賃貸しておられる大町駅前
のマンションの物件のことですが、そこの所在地の裁判所でないと
受けてもらえないのです﹂
﹁そうだったのですか、知りませんでした﹂
142
﹁固定資産税ってのがあるでしょ、その支払い先の都道府県の裁判
所が受けることになっているのです。これは決まり、ですのでどう
いう人でも裁判所は選べないです﹂
﹁よくわかりました。もしゑ無山さんと訴訟になれば勤務先すぐ近
くの裁判所ではなく、大阪地方裁判所まで行くということですね﹂
﹁そうです、そうです。大阪地方裁判所は縮めて大阪地裁っていえ
ばいいですよ﹂
壱案はこれで一つ自分は賢くなったと思った。少しずつだが裁判
ただだ・たかのぶ
の覚悟ができているように思うのだ。追給通じて信用保証会社ドッ
グ専門の弁護士先生を紹介していただく。
追給の言うことをメモしておく。事務所名は只田孝信弁護士事務
所とあった。
弁護士事務所は土日営業なしというので壱案は仕方なく有休を一
日とって時間を開けた。そしてアポをとってもらった。﹁その日﹂
はすぐにやってきた。 143
第十七章・弁護士との会話・前編
電車にのって一時間、壱案は北浜駅から徒歩で大阪地裁まで1人
で行く。ドッグの追給は同席するのか、と思ったが他にも仕事があ
って忙しいらしく﹁そういうのはできません、ただあらましだけは
先生に伝えているので太田さんは賃貸借契約書の原本などを持って
行ってください﹂ とだけ言ってきた。
壱案はその弁護士に費やす費用が気になり、追給に念のため料金
を聞いた。追給はあっけらかんと返事する。
﹁ああそれは無料です。案内書にも書いてあります。弁護士にかか
る費用は無料ですよ﹂
﹁その料金は結局ゑ無山さんがそちらに支払った契約料金内で賄う、
そういうわけですね﹂
﹁そうなりますね、だからあの人はバカなんですよ﹂
﹁ええ、本当に私もそう思います﹂
壱案はため息をついた。ちゃんと月末で支払いできる賃借人なら
こんなに悩むこともないのに、また遅れるにしてもちゃんとこちら
と連絡を取り詫びの一つもいえる常識がある人なら出て行ってほし
いとか思わないのに、壱案はこんなに手間暇かけさせるゑ無山を心
から憎んでいる。
ドッグの顧問をしている只田孝信弁護士事務所は裁判所のすぐ近
くのマンションにあった。マンションの入り口の集合郵便受けを見
たら全部弁護士事務所だった。只田事務所は九階にある。マンショ
ンは十二階建で全部弁護士事務所で何気なく数えたら二十一世帯あ
った。
﹁壮観だなあ。とにかく私以外にもそれだけ弁護士に依頼しようと
する人が多いってことだわ。やっぱり弁護士って儲かるのかしらね
え。⋮⋮市内の一等地で事務所を構えてそれで営業して⋮⋮もしか
して私はこれからすごい世界を垣間見るのかもしれないわ﹂
144
壱案は唸った。
只田弁護士事務所は九階だと聞いている。壱案はエレベーターを
利用して部屋を目指す。エレベータをおりるとすぐ事務所で向かい
側も弁護士事務所の案内板がある。どの部屋も生活感のないそっけ
ない感じのドアだった。
インターホンを押すと若い女性がドアを開けてくれた。名前を名
乗るとすでに聞いていたらしく﹁どうぞ﹂ と入れてくれた。先に
面談している人がいるのであと十分ぐらい待っていただけますか、
と問われもちろん快諾する。待合所みたいなところに通されお茶を
いただく。
待合室には一般向けの法律書や法律関係の専門雑誌などがあり歯
けいもう
医者などの待合室とはまた違った雰囲気だった。女性雑誌や週刊誌
はなく、﹁裁判員制度﹂ についての啓蒙パンフレット、裁判人に
選ばれたらどうなるかを書いた薄い漫画雑誌、弁護士の選び方や法
テラス利用方法、弁護士事務所一覧の名簿などもあった。
壱案はゑ無山との賃貸借契約書の原本を取り出してため息をつく。
これから本物の弁護士とあうのだ。何気なく買ったマンションでは
じめて賃借人を入れてさあこれからというところが計算通りではな
く躓いてしまったのだ。
ゑ無山と言う男となんか縁を持ちたくなかった。
そんなヤツから家賃をもらいたくなかった。
叔母のようによい賃借人に恵まれたかった。それなのに自分はゑ
無山に振り回され、出ていけとも強く言えずこうして無料相談に行
き慣れない弁護士事務所に仕事を休んでまでこうして足を運んでい
るのである。
壱案はそういう目にあわせるゑ無山に本当に腹がたっている。だ
がほうっておいたらあいつはますます図にのって滞納を続けるだろ
う。壱案がまず動いて滞納阻止のために保証会社に決済依頼をする
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からかろうじてなんとかやっていっているのだ。だが退去目的のた
めに今はその決済依頼もしていない。きっとあいつは滞納を続ける
だろうとぎりぎりまで我慢しているのだ。
裁判してでもゑ無山を追い出さないと本当に神経がまいってしま
う。
壱案は実はゑ無山が住んだまま、つまり賃借人がいたままの状況
でマンションを売ろうかと考えたこともある。だがネットで見積も
りを頼んだら相場よりもぐっと安い値段でがっくりしたのである。
住居人つきのままでの売買はもちろん可能であるがトラブルを起
こすのは明白だから激安になる。
だがゑ無山がいない、つまり入居人が誰もいない状況で即引き渡
し可、で売ろうにももう中古の中古、というわけでまた値段が下が
るのもわかった。
マンションはいずれ少子化もすすむし、市場としても広がるとは
考えにくい。大町駅前というのは立地のよさもあるので売れること
は売れるが買った時の値段もしくはそれ以上の値段で売るのは難し
いとわかったのだ。
とりあえずゑ無山を追い出せねば。次の入居人は絶対いい人とは
限らないが今度は壱案自身審査して見元確実で天引きで引き落とし
をしてくれる人を探すつもりだ。
ちゅー?するかい? のような無責任な仲介会社にまかせるつも
りは今後は一切ない。
もう失敗はするまい、そう決意している。
﹁太田様、お待たせしました。奥の部屋へどうぞ!﹂
さきほど案内してくれた女性が来た。愛想は悪くはないが事務的
な感じだ。
弁護士事務所は客商売じゃないからね、と壱案はそう思いつつ待
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合室を出る。
奥の部屋は入るとすぐ大きな窓が見えた。それと本棚。床から天
井までびっしりと分厚い本が並んでいた。よく見なくとも全部法律
関係の書物だとわかった。妙に威圧感を感じるそしてとても静かな
部屋だった。
部屋には真ん中に大きな机があった。そこに二人の男性と女性が
すでに着席していた。彼らは壱案が入室すると席を立ってお辞儀を
した。男性はかなりの年配で高価そうなスーツを着こなしている。
弁護士バッジははじめてみたが菊の花弁のようなものだ。
男性は柔和な顔つきで壱案を認めてにっこりしてくれたが、彼も
また部屋と同化した威圧感、威厳というものがあった。隣の女性は
助手やアシスタントという感じではない。年周りは壱案と変わらな
いのではないかと思った。彼女も上下黒いスーツをびしっと着こな
している。
男性の方はここの看板を出している、只田孝信弁護士だった。そ
の隣の女性が只田孝子弁護士と名乗った。名刺を見てわかった。
﹁親子? で弁護士なさっているのかしら﹂
壱案はそう思ったが口には出さない。ただこうして見るとちょっ
とは似ていると思ったが。
だが只田の方はいつも質問をもらうのだろう、先に親子ではなく、
伯父と姪です、と言った。
﹁ああ、そうなんですか﹂
壱案もにっこりして着席した。さきほどの案内助手がお茶をまた
新たに入れて持ってきてくれた。
只田弁護士は黙ってにこやかな表情をくずさない。壱案が何から
どう話すか待っているようだった。私がどういう人間か値踏みして
いるのだわ、壱案はそう思った。だけど全然平気だった。職業柄い
ろいろな人とも電話が多いけれど話すことが多いからだ。最初の一
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言は、簡潔に。
﹁信用保証会社のドッグから大体のあらましを聞かれていると思っ
ていますが、賃借人をどうにかして退去させたい、そう思っていま
す﹂
壱案は入金明細はじめゑ無山との一連の会話や対応を訴えた。只
田弁護士たちは黙って最後まで口をはさまずに壱案の言い分を聞い
ていた。そしてたぶんドッグの追給から先にFAXかメール送信さ
れていたのであろう、ドッグとゑ無山の保証契約書などの書類に視
線を落としてうなづいたりしている。
一通り話し終えると代表の只田孝信弁護士の方は言葉を発さず、
孝子、と名乗った弁護士が話しかけた。
﹁まず太田さんとゑ無山さんとの賃貸借契約書を原本をお持ちでし
たらみせてください。原本はわたしどもも見ていないのです。これ
は賃借人様と賃貸人様だけがお持ちのはずで、どこも一緒とは限り
ません。特に特記事項の部分は重要です。できましたらその原本の
コピーもさせてください﹂
壱案はもちろん快諾する。孝子弁護士は賃貸色契約書の原本をぱ
らぱらとめくっていたがやがて顔をあげた。
﹁ドッグの追給さんからも聞いていると思いますがこのまま部屋明
け渡しの裁判をおこす、といっても勝訴はなかなか難しい、です﹂
裁判しても追い出せませんよ、としょっぱなから言うのだ。
壱案は反論した。
﹁ゑ無山さんはもう三カ月滞納していますが、契約書には二カ月以
上滞納したら契約解除とあります﹂
﹁確かに明記されていますね、えっと賃貸借契約書の四ページめに
ありますね。だけどこれだけでは弱いのです。裁判は無理でもちゃ
んと手順を踏みましょうか。まずは内容証明書で督促いたしましょ
う﹂
﹁それはすでにしています。私が毎回出しています﹂
﹁ゑ無山さんはそれを受け取りましたか﹂
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﹁いいええ、戻ってきています。だけど裁判には有利になるかと思
ってせっせと書いては送り戻されている状況です﹂
壱案はゑ無山に対する怒りがまたこみあげてきた。
内容証明は一通当たり千二百円以上する。速達扱いにするともっ
とするが、受け取られないのがわかっているので普通郵便にしてい
る。もう何通出しているか、郵便局から内容証明を出すのは構わな
いが郵便局の時間帯やチェックに時間がかかるのだ。局員に内容証
明ですかあとめんどくさそうに受け取られたこともある。郵便局員
のしつけがなってないということもあるが、逆にだからこそ、そう
いう目にあわすゑ無山に対しても怒っているのだ。
﹁今度はうちから出してみましょうか、弁護士名で。ゑ無山がどう
でるか見ましょうか
はっきりいって弁護士名義でいくと態度を変える人もいますので﹂
﹁はあ、ゑ無山さんがそれで出ていってくれたら話は簡単ですけど
ね﹂
﹁すんなりと行く人ではないとこちらも推測していますが、これも
手順の一つです﹂
﹁それで、受け取らなくて、そして出て行かない。これでも裁判は
できないですか﹂
﹁三カ月滞納程度では無理ですね。最低半年は滞納しないと家主の
勝訴は望めません。そうなっています﹂
﹁最低半年とはまたひどい話です。それまで家主は家賃が入ってこ
ないのですよ。大体この不動産は私の持ち物なのに自由にできない
のはヘンです﹂
﹁お気持ちはわかりますが、あなたが住んでもいないので出ていけ
とは強く言えません。今の時代は賃借人の権利もきちんと保証され
ているのです。裁判はもう少し滞納されてからでないと本当にでき
ないと思いますよ﹂
﹁契約書に二カ月以上滞納したら契約解除と明記してあっても、で
すか? ではなんのためにこんな文章を契約書に載せるのですか、
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意味がないじゃないですか﹂
﹁まあおっしゃるとおりですし、お気持ちもすごくわかります。で
も慣例、というものがありましてそうなっているのです。繰り返し
ますがお気持ちはよくわかるのです。
だけど今の時点では無理ですね。手順を踏んでまずイチから。私
たちの名前で内容証明を出しましょうね﹂
孝子弁護士は壱案に対してかんでふくめるように言った。多分こ
の弁護士の言い分が正しいのだろう。あちらはプロなのだから。壱
案は頭を下げた。
﹁じゃあ、よろしくお願いします﹂
話はそれで終わりなのだろうか、壱案はがっかりした。裁判が無
理である話を聞いたことと弁護士事務所に契約書のコピーをしても
らいにいったようなものである。正直徒労に終わったと思った。
三カ月滞納を待てば、というのはモモンガ法律事務所の梨元だ。
なのにこちらの弁護士は六カ月、つまり半年の滞納を待てという。
半年分の家賃は大きい。困る。ローンもあるのに非常に困る。
一方ゑ無山はこうして壱案が悩んでいる間もツイッターを楽しみ
仕事もして外車を乗りまわしている。家賃は払わないでよいと思っ
ているのだ。趣味の武道の指導員の仕事もしている。ゑ無山の生活
は充実しているのだ。
なのに家賃は払わない。管理人によると水道料金も払わない。こ
の分では電気料金やガス、携帯電話料金も怪しいものだ。
壱案は弁護士名義での内容証明の効果も半信半疑だった。だけど
只田弁護士がそこまでいうならどうせ経費は信用保証会社もちで無
料だ、壱案の負担はないのでまかせよう、そう思った。
﹁ではよろしければこの委任状にサインをお願いします。私ども、
今日にでも弁護士名義での内容証明を発送いたします。﹂
壱案はその代理人契約書と言われてA四サイズの紙を見た。
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﹁訴訟委任状﹂ と書いてあるので一瞬どきっとした。だがいずれ
﹁訴訟﹂ で相手とはあいまみえないといけないのだ。ブログやツ
イッターで見る画像ではなく本物のゑ無山に裁判所であって、裁判
官の前で話をしないといけないのだ。
訴訟委任状 委任者 太田壱案。
そこに印鑑を押す。住所も。
私は、弁護士 只田孝信、弁護士 只田孝子︵事務所所在地、電
話連絡先、FAX番号記載︶ に、下記事件に関する各事項を委任
します。
記
第一 事件
一、相手方 ゑ無山ハカシ
二、裁判所 大阪地方裁判所
三、事件
第二 委任事項
一、上記事件の訴訟行為、訴えの取り下げ、和解、請求の放棄、請
求の認諾、調停、控訴、上告⋮⋮
二、担保保証の供託⋮⋮
三、⋮⋮
四、⋮⋮
見慣れない法律用語、意味がわからないものがある。しかし弁護
士たちは壱案に対して説明なしですぐに住所記名捺印することを当
然と思って黙ってこちらの手元を見つめている。壱案は不明な文面
151
があってもそのままで名前を書きいれ印鑑をついた。とりあえずゑ
無山が出ていけばいいだけの話しでドッグ専属の弁護士さんならば
悪いようにはしないだろう、そういう判断だった。
﹁きっと裁判のはじめってこうして弁護士と契約をかわすことから
開始されるのだろうな﹂
この訴訟委任状は印刷してあった、ということは定型文なのだろ
う、きっと。
只田弁護士たちは手慣れた様子で委任状を受け取りうなづいた。
﹁では内容証明発送後に郵送でそのコピーをそちらの自宅に送付し
ますがよろしいですか﹂
﹁はい、よろしくお願いします、で、あのう﹂
﹁はいなんでしょう﹂
﹁念のための確認をさせてください。先生方への支払うべき金額は
全部信用保証会社のドッグさんがするのですよね?﹂
﹁そうです、オーナーさんには負担がありませんね﹂
﹁じゃあそのツケは結局賃借人が﹂
﹁まあドッグさんは気にしないでいいのですよ、あちらもそれが仕
事なのですし、そういう契約なので
ですから私どもも代金の請求はドッグさんあてにして太田さんの
ところにはいきません。どうぞご安心を﹂
﹁はい﹂
﹁わからないことはなんでも聞いてください﹂
﹁はい﹂
三カ月程度の滞納では追い出すのは無理だとはっきり言われてま
で食い下がれない。弁護士がそう言いきるならば無理なのだろう。
壱案は内容証明を弁護士名義で改めて出したとしてもあのゑ無山に
は効果ないだろうとも思っている。だが何もしないよりは﹁マシ﹂
なのだろう、きっと。
さて内容証明を今度は壱案ではなく、只田弁護士名義で送付した。
ゑ無山はどうでるのだろうか。
152
来月の二月十三日がきたらこれで契約は二年目に突入する。入居
者のゑ無山は最初の一か月目から支払遅滞をおこし、ついで電話で
の罵倒を受けて遅滞が続くようであれば退去をとの連帯保証人への
口頭勧告にもかかわらず入居を続ける。こういう状態なのにペット
飼うと言ってきたりする。司法書士に作成してもらった内容証明は
効果ゼロだった。ゑ無山のしたことは仲介会社のちゅー?するかい
? の店長に苦情をいれただけだった。
さて今回はどうだろうか、退去してくれるならありがたいけど、
果たしてあのゑ無山が私の名前から弁護士の名前が変わっただけで
驚いて退去してくれるとは思わなかった。だって前の住居だって家
賃を踏み倒して成功? しているのである。だから内容証明には効
果ないのではないか。
その二日後、弁護士名義で出した内容証明書の写しが壱案も元に
郵送されてきた。壱案がまめに出した内容証明書と文面はほぼかわ
らない。家賃の督促と言うのは全国一律、ほぼ同じなのである。誰
が書いても同じ。賃貸借契約書通りに払えというのだもの、同じな
のだ。
だが今回は弁護士名義で内容証明が描かれてある。文面の末尾に
は弁護士事務所の大きな印鑑がつかれていて目立っている。それが
﹁証明書﹂に威厳を与えている。
壱案は弁護士ってすごいじゃないの、自分の書いた内容証明より
はよっぱど効果ありそうだなと思った。受け取ったゑ無山も﹁おっ、
今回はいつもと違う。弁護士の名前が出てきたってことはそろそろ
裁判だなー退去してやろーかなー﹂ とか思ってくれたらうれしい
のだが。
やっぱり受け取らなかったのである。というか放置。
十日後、只田弁護士事務所の只田孝子弁護士から電話があり、内
容証明が戻ってきたといってきた。
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﹁やっぱり受け取りませんでしたね﹂
﹁正確にはこれは受け取り拒否ではありません。たまたま不在で不
在通知も見れず再度の配達でも留守で仕方なく、こっちに戻されて
きたのです﹂
﹁弁護士さん違いますよ、ゑ無山は内容がわかっていて受け取り拒
否しているのですよ、いつもと同じパターンで、貴女には悪いけど、
弁護士の名前を使ってもやはり効果なし、ということですよ。家賃
踏み倒しのエキスパートのゑ無山ですもの、何が出てきても怖くな
いのでしょうよ﹂
﹁太田さん、落ち着いて私の話を聞いてください。法的に受け取り
拒否ではありませんが、私どもから見ても今までの経過から踏まえ
て、相手方は内容証明の内容がわかっているので不在通知が来ても
郵便局に受け取りに行ったり再配達の依頼の電話をしなかったと見
ています、心情的に受け取り拒否、というのはわかっています。こ
れももし裁判をおこすに有利な証拠になるので、とっておきましょ
う﹂
﹁それで?﹂
﹁次の手はすでにうちました。内容証明のコピーと当方からの文面
をレターパックにして送付しておきました。レターパックでは内容
証明ではないけど送付記録は残りますのでそういう文面は見てない、
受け取ってないと相手は言えません﹂
﹁それが次の手、ですか﹂
﹁そうです、これも手順の一つです。また進展があったらお知らせ
しますし、そちらにもゑ無山さんから連絡がありましたら経過をぜ
ひ知らせてください﹂
﹁わかりました、よろしくお願いします﹂
二,三日後その只田弁護士から封書が届いた。弁護士名義で出し
た内容証明が戻されてきたのでそれを受けて壱案に返却してきたの
だ。壱案の依頼は内容証明を出すことだけだったので只田弁護士の
154
仕事はそれで終わったからだ。裁判依頼までしたらたぶん返送はな
されていないだろう。
壱案はため息をついて内容証明の封書を眺めている。同じ封筒内
にもう一枚小さな用紙が入っていた。
﹁なんだろう?﹂
綺麗にきちんと折りたたまれていた。只田孝子からの手紙だった。
それもきちんと印刷文字で書かれている。
﹁前略ごめんください。ゑ無山さんからの内容証明が返送されまし
たので別添のとおり返送させていただきます。家主さんとしてのお
気持ちはよくわかりますがくれぐれも慎重に行動なさってください。
たび重なる支払遅滞、延滞、無連絡。連帯保証人なし、信用保証
会社なしでは賃貸借契約者の四条と五条その三項目に違反しており
ます。毎月内容証明を出され、ころ合いを見て裁判なさるのが一番
よろしいかと思います。その折にはどうぞアドバイスさせていただ
きますのでご一報くださいませ﹂
壱案はため息をついた。とりあえず今は﹁慎重に行動なさってく
ださい﹂ か。どうやれ、っていうのよ。⋮⋮私は素人よ、弁護士
のあなたたちが今は裁判しても負けるだけ、ですまされるなら、私
はどうやれ、というのよ⋮⋮?
155
第十八章・弁護士との会話・後編
一月三十一日になった。来月の二月十三日になればゑ無山が入居
して丸二年になる。そしてもし今日中までに入金がなければ滞納家
賃は三カ月分になる。
結局ゑ無山は弁護士名の内容証明も受け取らず電話もなかった。
そして入金もなかった。その日の夕方、ドッグの追給から改まった
様子で電話連絡が入った。
﹁太田さん、例のゑ無山の件です。ゑ無山はうちとの契約更新料を
支払わず未入金のままです。したがいまして、本日をもちまして、
ゑ無山との代弁済を打ち切りさせていただきます。契約解除のお知
らせは明日の朝にゑ無山と太田さま双方ともにうちの会社名で送付
させていただきます、ご利用、ありがとうございました﹂
﹁ちょっと、待ってください。それでは今後は相談にも乗らないと
いうことですね。只田弁護士事務所にも相談もしてはいけないとい
うことになりますね﹂
﹁そうですね、うちの会社は賃借人さんとの契約ではじめてオーナ
ー様が利用できる形態なので﹂
﹁私は相談相手がいなくなるという意味では非常に困るわ﹂
﹁そうですね、只田先生への内容証明の発行などは契約期間内に送
付されていますのでうちが支払います。太田さんには請求はいきま
せん。だけど先ほども申し上げた通り、これで契約解除なのでこれ
以上のご相談や代弁済はお受けしかねます﹂
﹁あの只田先生に相談しようと思ったら正規料金で、そういうこと
ですね?﹂
﹁そうですね、でも先生も裁判には消極的だったはずですよ。三カ
月程度の滞納では原告勝訴の判例もありませんしね、無理ですから﹂
﹁追給さん、それでも裁判にして退去、つまり出て行かせるには﹂
﹁今後のことは只田先生に個別で相談にのっていただくのもよし、
156
また違う弁護士に依頼するのもいいかと思います。正直申して太田
さん、このケースは悪質なので心から同情しますけど、それでも裁
判すると負けるので、弁護士も受ける人は少ないと思いますよ。負
けるとわかっているということは成功報酬ももらえないということ
です。着手金だけではやっていけませんし、実績にもひびきますし﹂
着手金、実績? 壱案はめんくらったが追給は現実を教えてくれ
ようとしているのだ。壱案は片手をぎゅっと握ってこぶしをつくる。
弁護士も負けるとわかっている裁判にはかかわりたくないのだ。
壱案はやっとの思いで声を出した。
﹁そうですか、二年間いろいろとお世話になりました、ありがとう
ございます﹂
﹁太田さん、お力になれず残念でした。どうぞお元気でお過ごしく
ださい﹂
﹁追給さんも、お世話になりました⋮⋮お元気で﹂
追給が電話を切った。これで信用保証会社ドッグと太田壱案をつ
なぐ縁は切れてしまったのだ。今後は壱案一人でゑ無山に家賃を入
れさせないといけない。電話での連絡もつかない相手にどうやれと
いうのか⋮⋮。壱案はまだ受話器をにぎっていた。受話器を置いた
時、壱案はこころの底からくやしい、と思った。
二月一日になった。壱案は徹夜でゑ無山宛に内容証明を書いた。
その内容は契約解除の告知である。
﹁一月三十一日をもって入金がありませんでしたので、本日二月一
日をもって契約解除させていただきます⋮⋮﹂
通知書
通告人 太田壱案
被通告人 ゑ無山
貴殿は平成◎◎年二月十三日以来、私から大阪府大阪市⋮⋮ 157
◎号室を賃料八万六千円で賃借し、使用しておられます。しかるに
貴殿は平成◎×年十一月から賃料を支払っておられません。賃料を
二か月以上滞納することは契約解除理由となっております。︵賃貸
借契約第九条一項参照︶
貴殿はただちに滞納家賃分合計◎円を所定の口座に振り込んで支
払ったうえで退去してください。平成◎×年二月一日を持って貴殿
との賃貸借契約を解除いたします。この場合改めて解除通知を発し
ません。本書をもって賃料催告並びに賃貸借契約解除通知といたし
ます。
以上
そして出して日付と出した当人、壱案の住所と記名、印鑑を押す。
最後の行がゑ無山の住所、つまり壱案の貸しているマンションの
住所、壱案のものである場所そのものだ。部屋を返して! 早く返
して! その思いで一気に書きあげた。
早朝に大きな郵便局の時間外受付窓口に行き、内容証明を受け付
けてもらった。壱案は家賃を支払わないゑ無山の神経を疑っている。
家賃を支払う約束で契約書をかわしたのに、お金を払わないで平然
と暮らせるその無神経さ、図太さを。しかも大家の自分からの電話
の着信拒否もあり、連帯保証人の父親も支払わない。壱案は大事な
マンションを取られたというせつない思いでいっぱいだった。なの
に盗まれたのでもないし、こういうのは民事になるからといって警
察も相手をしてくれないのだ。途方にくれる気分はこういうのもの
だろう。壱案はどうしてよいかわからなかった。
とりあえず、契約解除だ。この内容証明で契約解除したことにす
るのだ。
158
父親は言った。
﹁このゑ無山は相当悪質なやつだ、素人ではたちうちできんぞ、こ
れは。だが弁護士や保証会社も頼れないのだろ? 相手は今頃ほく
そえんでいるぞ、こっちのあきらめを待っているのかもしれん、そ
れでなるべく先延ばしにして裁判に本当になりそうだったら前の手
口と同じで夜逃げするだろう、だからしっかりするのだ﹂
﹁これだけわかっていてもこれって犯罪にならないのね? 世の中
ヘンよね。これは犯罪なのに犯罪ではないのってヘンよね﹂
﹁いや壱案、落ち着きなさい。みんなもこれは犯罪だと思っている
はずだ。みんなお前に同情しているはずだ﹂
﹁誰も何もできない﹂
みんながこれは犯罪だと思っていても同情されても、ゑ無山のし
ていることは犯罪ではないのである。壱案はまたため息をついた。
﹁そうやって四カ月、五か月、そして六カ月の滞納を待つしかない
のかな? ゑ無山が夜逃げするまで待つのはイヤよ。裁判するにも
これから引き受けてくれる弁護士も探さないといけないし、困った
わお父さん﹂
﹁壱案、もう一回だけ信用保証会社に電話をかけたらどうだ? そ
もそも去年は二月十三日までに更新料の支払いがなくとも二月二十
八日の月末まで待っていたじゃないか、それで入金があってお前は
怒っていたじゃないか、今度は保証を打ち切られて困っているのか、
ちょっと矛盾してないか﹂
﹁そうね﹂
﹁とにかくその保証会社のドッグとやらにもう一回電話してごらん、
アドバイスください、と﹂
﹁もう契約解除なんだけど⋮⋮厚かましいかもしれないけど、電話
してみる。追給さんなら最初から最後までの話を知っているし、や
さしい人だし。でも迷惑そうだったら切るわ﹂
壱案には味方がいない。父親は法律は知らない。自分ももっと知
らない。
159
だから追給が電話にいつも通りに気さくな感じで出て来てくれた
時はほっとした。契約切れだからもうアドバイスもくれない、電話
もするなと言われるかもしれないと思っていたからだ。
そして心の底から有難いと思った。
﹁弁護士の紹介? 只田弁護士はうちの専属ですが、契約が切れた
今はそちら持ちで、そういうことなら紹介できますよ﹂
﹁私が言うのはそういうことではなく、前に電話した内容を覚えて
いらっしゃいますか。今後の出方を教えてください。また滞納を半
年待ってから告訴するのもヘンだし違和感があるので﹂
﹁半年というのは家賃滞納における部屋明け渡し裁判の目安、とい
うわけです﹂
﹁だから半年も待てないって私はいうの。これからも滞納するのを
わかっていて見過ごせないわよ﹂
﹁太田さん、落ち着いて。ぼくは経験上、ゑ無山は貴女が裁判に向
けて本気出しているのがわかってきているのである時一括で入金し
てくると見ています﹂
﹁私は入金あるなしにかかわらず、ゑ無山に退去してほしいのです﹂
﹁入金は必要だが入金があると裁判ができなくなります﹂
壱案はどきっとした。
入金は必要。
だけど入金があれば滞納はなくなる。
すると裁判を起こす必要性がなくなる↓すると今後もまたゑ無山
は同じことを繰り返すだろう↓月末には入金確認して何もなければ
滞納になる。エンドレスだ。
﹁いやだ、あのゑ無山と長い付き合いになるのはいやだわ、本当に
なんとかならないのかしら、追給さん!﹂
﹁そういうものですよ、仕方ないんです。それが法律の決まりなん
で。賃借人はこの人の場合は悪質だし気持ちはわかるのですが﹂
﹁部屋の鍵の交換とか張り紙をしたら﹂
﹁だからそれやっちゃうと家主の越権行為でヘタすると逮捕されま
160
すってば。あっちが大喜びで家主にこういうことをされたと裁判を
起こされて損害賠償されてごらん、裁判は家主の負けですよ。負け
てお金を払わないといけなくなりますよ? 慰謝料とかね。今はそ
ういう時代なんですってば﹂
﹁どう動いてもこっちが不利ってことね? この世の中、法律に詳
しい抜け道を知っていて家賃を踏み倒して逃げても犯罪にならない
賃借人有利って絶対におかしいと思うわ﹂
﹁でもそうなってんです、気の毒ですけどぼくも電話相談ぐらいな
らできますから。それにね、ゑ無山はまだ支払能力があるだけマシ
ですよ。もう何してもお金のない人増えてますから﹂
﹁そんなの、なぐさめにならないわ。私ははやくゑ無山に出て行っ
てほしいのよ﹂
追給のなぐさめは壱案にはなぐさめにはならず、虚無感を与えた
だけだった。壱案は言葉にならず受話器を握りしめたままうなだれ
た。追給は励ますように壱案に話しかけた。
﹁太田さん、その部屋の持ち主はあなたなんですよ、だからしっか
りしないと。悪質な賃借人に負けないこと、負けたらもっと好きな
ようにされますよ。もう契約解除も出されたのでしょ? 多分あれ
でも出て行かないから毎月の内容証明もきちんと出して、そしてこ
ろ合いをみて裁判にするんです、いいですね?﹂
﹁わかりました⋮⋮﹂
追給のアドバイスはもっともなことだった。壱案はそれしか方法
がないのね、と思った。
要は追い出せないのだ。法律にも保護されて犯罪としか思えない
家賃滞納の確信犯なのに警察にも逮捕されないままで、安楽に生活
しているのだ。
内容証明書には当然のことながら書留にするので、相手が受け取
ったかネットで追跡できる番号がもらえる。壱案は追跡番号もチェ
ックしたが例によってゑ無山は受け取らない。入金もなし。
161
今回は契約解除もかねているので、壱案は受け取らないだろうと
ふみ、そのコピーをレターパックにして送付しておく。ゑ無山が受
け取らなかった内容証明は十日ほどで返送されてくる。受け取られ
なかった内容証明は郵便局から付箋が貼られてくる。付箋上に印刷
された文字はこうだ。
⋮この郵便物はお受取人様不在のため郵便局に保管しておりまし
たが、保管期間が経過しました。保管期間経過後に再度配達を試み
ましたがご不在のため配達できませんでしたので返送させていただ
きます⋮
これも裁判の重要な証拠、となるので大事にとっておくのだ。
壱案はそうやって裁判の心づもりを少しずつ積み重ねていったの
である⋮
だがすでに三カ月分の滞納である。このまま夜逃げするのを待っ
ている状態も嫌だった。壱案は何とかならないかとゑ無山のブログ
やツイッターを閲覧した。
本当にゑ無山はどういうつもりだろう。契約解除とはっきり書い
た通知をだしたのに無反応とは。絶対に支払うものかという決意の
表れなんだろうか、それとも絶対に家賃を支払わずに居ついて意地
でも住んでやるという意思があるのだろうか。
壱案はどう考えても彼の考え方がわからなかった。自分に迷惑を
かけている、契約違反だとは全く思わないのだろうか、自分が悪い
とは全然思わないのだろうか。
壱案はこまった。契約解除通知を出せばゑ無山は何らかの反応を
みせるかと思っていたのに無反応なのだ。どうしてよいかわからな
い。以前もらった追給のアドバイスも解決にはいたらない。
追給がすすめてくれた弁護士も裁判は起こしても勝てない、つま
り敗訴を示唆した。つまりゑ無山は追い出せないということだ。ど
うしても退去させたければ、家賃の半年分を滞納するのを待て、と
162
いう。
そんな理不尽なことがどうしてまかりとおるのか、壱案は納得い
かなかった。
自分を抑えて半年分の家賃を滞納したあと、ようやく裁判に持ち
込めたとしても裁判はまた一日では終わらない。壱案の場合は県外
の当該マンションのある市の裁判所までいかないといけない。壱案
の勤務先のすぐ近くにも裁判所はあるのに、マンションは県外にあ
るからだ。
税金を支払っている都道府県の裁判所に提訴しないといけないの
だ。
一日で判決=結果がわかる少額訴訟などではない。少額訴訟は六
十万円以下の金額を請求するときにする簡易な訴訟のことをいうが
明け渡しの場合は少額にならないのだ。
また裁判の前哨戦として﹁調停﹂ という手段もあるが、相手が
着信拒否や連絡皆無では出てこない可能性が高い。ゆえに裁判を起
こした方がよいのだが、絶対負けますね、と言われてまでする価値
はあるのだろうか。
只田弁護士もある程度の裁判例を知っているので何も知らない壱
案に現実、というものを教えてくれたのかもしれない。だが明らか
にゑ無山が悪いのに、被害者の壱案に対して﹁半年も滞納﹂ する
のを待て、というのはおかしいのではないか。
家賃滞納。ゑ無山はブログで見る限りではお金に困っている様子
はない。だからこそ相当悪質だと思えるのに、犯罪ではないのだ。
以前にも家賃をためこんで夜逃げした経歴も明白なのに、それでも
犯罪ではないのだ。壱案は全く納得いかなかった。
ゑ無山の神経もおかしいが、世の中もおかしいじゃないか、そう
思うのだ。壱案はゑ無山のツイッターの他愛もない書き込みをうん
ざいしながら読む。今日はランチはサンドイッチ、夕食はステーキ、
ラム酒を買った等。フォロワーの一人、柏崎正午の名前があるのを
163
ぼんやり見る。この人はゑ無山の発言に対して過去一度も反応をし
たこともないし、リツイートもない。柏崎弁護士自身がツイッター
での投稿をしていないのだ。だからゑ無山に対して彼がどう感じて
いるのかはわからない。壱案はここまで考えてから、はっとした。
この柏崎という男性弁護士は空手家、とも書いてある。この人はゑ
無山とは面識があるのだろう、きっと。
この男性男性弁護士にゑ無山とのコンタクトを依頼をしてみよう
か、そして退去してくれるように言ってもらおうか⋮⋮? 壱案は
ゑ無山との連絡手段がなく、せっぱつまっていた。きちんと支払い
もない以上ローンの返還にも差し支えが出る。信用保証会社契約中
は追給がいったとおり賃貸借契約書に明記されている通り、二か月
以上滞納したら退去する、というのを信じていたので我慢したのだ。
なのに追給推薦の只田弁護士は半年の滞納をするまで裁判は待て、
という。待っている間にゑ無山と信用保証会社との契約自体が解消
してしまった。ゑ無山が契約更新をしなかったからだ。
絶対おかしい⋮⋮賃借人よりも賃貸人が我慢しないといけないな
んて。絶対に、おかしい。
壱案はここまで考えるともう躊躇しなかった。柏崎弁護士のペー
ジには勤務先の事務所のリンクが貼ってある。そこにある連絡先電
話番号をコールした。
﹁はい、さんかく法律事務所でございます﹂
﹁はじめて電話いたしますが、太田壱案と申します。あのう、柏崎
弁護士とおっしゃる方と話がしたいのですが﹂
﹁どういうご用件ですか﹂
﹁初めてですが部屋明け渡しついての相談です、あのう、ご在室で
しょうか﹂
﹁今、変わりますのでお待ちください﹂
果たしてすぐに柏崎弁護士が電話に出てくれた。
やった!
164
壱案は柏崎正午弁護士に対してゑ無山という男性を知っているか
まず問うた。返事はイエス。
壱案は改めて自己紹介する。ゑ無山を入居させているマンション
のオーナーである旨を告げる。
ついでゑ無山と連絡を取りたいが取れないで困っている、そう言
った。
ツイッターで入居人の友人らしき名前を見たという面識もない女
性が家賃トラブルを相談して、当のゑ無山にコンタクトをとってく
れ、そういう依頼に柏崎は大変驚いていた。こういう形で仕事が舞
い込んでくるとは思わなかったに違いない。
だが柏崎はちょうど時間があったらしく﹁よければ最初から話を
してください﹂ と言ってくれた。
やったわ、この柏崎弁護士がゑ無山との突破口になってくれるか
もしれない、案外簡単に解決になるかもしれない! 壱案は大喜び
でゑ無山との契約時の話から順番にしていった。
⋮⋮弁護士や司法書士という法律に関与する職業はどういう入り
組んだ複雑な話でも綺麗に折りたたんで簡単簡潔にまとめる才能を
持っている人が多いようだ。柏崎弁護士もそんな感じだった。
そして壱案も職務上、膨大な資料を議会であげるために簡単にま
とめることも長年しているので、話は簡単にまとめて、柏崎にして
ほしいことを伝えた。
﹁すでにもう当方とゑ無山さんとは契約解除になっています。ゑ無
山さんと信用保証会社とも更新がなかったので契約解除になってい
ます。早急にゑ無山にコンタクトをとって、滞納家賃を全額支払っ
てできるだけ早く退去するように伝えてくださいませんか?﹂
壱案の要求はそれだけだった。
そしてもしこじれそうなら、裁判の時に協力をお願いしたい、そ
う言った。ゑ無山がメンツにこだわる人物、みえっぱりな性格であ
ることはもうブログを見て承知している。空手の指導員という立場
165
に満足してそれを誇りにしていることにも。だから案外柏崎の言う
ことならばきくのではないか、そう期待している。
柏崎弁護士は壱案の電話での会話だけでまずはゑ無山と話をしま
うと応じてきた。柏崎が快諾した理由はもしかしたら仕事と思った
からではなく、単なるゑ無山の友人そして空手つながりの友情ゆえ
だろう。ともかくこの弁護士は快諾してくれた。壱案は感謝した。
柏崎が壱案との電話依頼をきいてすぐに動いてくれたらしい。と
いうよりは空手指導の関係で顔をあわせていることもあり携帯電話
も知っているという。だから気さくに気軽に動いてくれたのだろう。
壱案は解決の糸口が見えて久々にゑ無山のことを考えずにゆっくり
と家で趣味の手編みをすることができた。
次の日の夜、柏崎弁護士から壱案の携帯に連絡が来た。
﹁さきほどゑ無山くんと連絡を取りました。家賃は全額きちんと払
っているので大家から退去を言われる理由はない、と言ってました﹂
壱案は思わず大声をだして返事をした。
﹁柏崎先生、それは嘘です﹂
﹁うん、あなたとゑ無山くんとの双方の言い分を聞きましたがはっ
きりいって平行線ですね﹂
﹁あのう、私の通帳をお見せしましょうか、それと内容証明も。そ
うすれば、ゑ無山さんがうそをついているのがわかります﹂
﹁いや、ぼくはわかりましたよ。ゑ無山くんの話し方、ですが、と
ても歯切れが悪かったのです。多分あなたの言い分が本当なのだろ
うとぼくは推測しています﹂
﹁それで、あのう、退去は﹂
﹁する気は全くないようでした﹂
﹁やはり裁判になる、そうですね﹂
﹁裁判、するおつもりですか? でも現時点で三カ月半の滞納では
勝訴はできないと思いますが﹂
166
﹁それは知っています﹂
﹁知っていて、裁判を起こすつもりですか? 敗訴がわかっていて、
裁判を?﹂
柏崎弁護士は驚いたように反論した。壱案はやはり自分の方が非
常識なのだろうかとまた不安を感じた。それでも裁判しないとゑ無
山は追い出せないだろう。壱案は必死だった。
﹁そう考えています。実は他の弁護士さんにも裁判はもう少し滞納
金額が大きくなるのを待つようにと言われてますが今までのことも
あり、とても不安なのです。ですので、待てないのです。
ゑ無山さんはああいう人なので裁判で訴えられても平気な人でし
ょうよ、でも私はそれ以外にはもう方法はないように感じています﹂
﹁お気持ちはわかります。残念ですが私ではお役にたてないようで
す。一応彼とは面識があり友人関係なので裁判にはどちらの側にも
つけませんが、もしどうしてもとおっしゃるならば、知人の弁護士
を紹介いたします﹂
﹁柏崎先生、ありがとうございます。やはりどなたも提訴には消極
的で残念です。でも現状のままでは私もつらいのです。ゑ無山さん
は安楽に好きなようにこちらを振りまわしていますが、私は⋮⋮私
は﹂
壱案は言葉に詰まった。急に涙が出てきたのだ。
この情けなさ⋮⋮あのゑ無山はこちらの心情を理解せず理解しよ
うともしない人種だろうけれど情けない。
壱案は柏崎弁護士に御礼を言った後、電話を切るなりまた長い溜
息をついた。柏崎は一面識もない自分を励ましてくれた。また友人
&弁護士としての心意気でゑ無山と連絡をとってくれた。それには
感謝しないといけない。だがわかったことは弁護士相手でも平行線
の会話だったのだ。つまりゑ無山が壱案が貸しているマンションか
ら出る意志はないということなのだ。それだけははっきりしている
のだ。
167
第十九章・壱案からの逆襲
壱案はゑ無山を退去させるためには何からはじめたらよいのか熟
考した。とりあえず退去していただくためにゑ無山に頭を下げて引
の張り紙でもしようか? 出て言っ
っ越し代金をあげたり、代わりの家を探してあげるつもりはなかっ
た。
では﹁退去してください﹂
てくださいとはっきり内容証明でまた書いてみる? 内容証明は受
け取られないのに決まっているのにそういうことを書いてみる?
いろいろ考えたが決定打が見つからない。
壱案は信用保証会社ドッグの追給の警告を思い出した。
張り紙や鍵の交換は家主はしてはいけません⋮⋮!
実際それをする家主がいるので追給がそう警告したのだろう。だ
がそれはしてはいけないのだ。いくら相手が悪くとも。支払ってく
れないから、しかも連絡が取れないからと困り果てた家主が張り紙
をしたら家主の罪になる。だけど滞納している賃借人は罪にはなら
ない。
滞納する側にももちろん理由があるだろう。やむをえない理由が。
そして家主に支払ができない旨を、もしくは支払が遅れることを
申し出るだろう。普通はそうなのだ。
しかしゑ無山の場合はどうだろうか?
今日のブログにもどこかのレストランの食事がアップされている。
ラムステーキの大皿の横に赤ワインが並んでいる。これから食事す
るというブログが出ていた。そしてその次にはいかにも水商売? らしき垢ぬけた感じの女性がわざとだろう、口元から下だけうつさ
れて画像をアップされる。ゑ無山と食事をしている画像がアップさ
れるたびに壱案の怒りは燃え上がる。
女性の友人にはやさしくするんだ⋮⋮どうみても高級そうなコー
168
ス料理、テーブルのしつらえ、お皿の盛り付けや脇の食器の配置か
らして安物の食事ではない。この食事代は当然ゑ無山の奢りだろう。
家賃を払わないのに、美しい女性には嬉々としておごってやってい
るのだろう。
そういうことをする余裕があるのはまず基本的な衣食住のうちの
住居、その家賃を払ってからすれば? と思うのだ。それでもゑ無
山は犯罪者ではない。
確信犯的滞納者ではあってもこれは犯罪ではないのだ。
壱案の怒りはますます燃え上がる。
現在家賃は三カ月半の滞納だ。
契約解除の内容証明を送付したものの、それ以降進展がない。出
ていく様子もなければ家賃の支払いもなし。壱案は途方にくれた。
通常ならば契約解除だと家主が言えば何らかの反応があるだろうが
ゑ無山は普段通りに住み続けているのだ。
信用保証会社とは連絡できないし、本人は着信拒否、連帯保証人
も連絡付かず⋮⋮壱案はどうしてよいかわからない。できることは
ゑ無山の動向をチェックできるブログとツイッターだけだった。ゑ
無山の能天気な書き込みを見て壱案は怒りのつのらせる。何か進展
はないか、何かとっかかりはないか、共通の知人でもいてなんとか
ゑ無山をとりなすか、改心させて毎月きちんと支払うか、いややは
りきっぱりと出て行ってもらうように。
二月中旬、壱案はゑ無山のブログ閲覧でどうみても壱案のことを
揶揄しているような文面がアップされているのに気づいた。
⋮⋮私の住居は賃貸であるが、家主が金にうるさくて困っている
⋮⋮そんなに私の金が欲しいのかね?
その書き込みを見て、壱案はかっとなった。
そして今まで見ていただけですんでいたブログに一言書いてやろ
うと思ったのだ。だがコメントの書き込み欄はない。それでツイッ
169
ターに書き込むことにした。実は壱案はこういうソーシャルネット
ワークには疎く手を出したことはない。だが書かざるをえない。書
かないと気が済まない。それによく考えたら今の状況でゑ無山と連
絡をどうしても取りたければこのツイッターでの書き込みしかない
ではないか。壱案はツイッターをしたことがないが、やってみよう
と思った。
まずアカウントといってツイッター特有のそこで通用する名前を
自分でつけないといけない。アカウント名は実名にしたくはない。
壱案は迷ったが相手への呼びかけもこめて﹁ゑ無山さんへ﹂ とい
う名前にした。これなら本人は必ず見るだろう、そして何らかの反
応はあるだろうと思った。
そして以下の書き込みをした。
ゑ無山がいつもの食事内容報告のツイッターの書き込みのあとに。
﹁そういう贅沢な食事をする余裕があるのでしたらまず、お家賃を
払ってください﹂
壱案ははじめての書き込みなので考えながら遠慮がちにしたが、
これも簡単にアップされる。
あら、ツイッターって意外と簡単ね⋮⋮。
壱案はきっとゑ無山はこれを見るだろう、けっこうブログもツイ
ッターもまめに更新しているのは知っている。そしてこの書き込み
は誰がしたのかわかるだろう。
またPC上の友人たちも多いのも知っている。PC上だけの友人。
もう何百人もいるのはわかっている。だからもしかして書き込みを
やめさせようとあわてて入金してくるかもしれない⋮⋮壱案はここ
まで考えるともうあとは気楽になった。そして筆がすすみ、書き込
みで今までの経過を書いた。
﹁⋮⋮内容証明を送っても連絡もないし、そのまま平然と住み続け
られるのが不思議です。契約解除って意味がわかっていますか? 170
⋮⋮それでよく会社経営ができると感心してしまいます⋮⋮﹂
﹁⋮⋮電話は早い時期から着信拒否ですし、連帯保証人の父親も不
在というか会社ごといなくなって音信不通、ポオチ、ネオポオチと
いう会社どうなっていますか?﹂
ゑ無山からの反応がすぐにあった。
時刻は午前一時。彼も起きていたのだ。ただしツイッター上での
返答ではなく、アカウント名の変更だった。急に画面が切り替わっ
て彼のツイッターの左上のアカウント名がかわった。エムヤマ、か
らエム、に変更になったのだ。壱案は驚かなかった。ゑ無山は卑怯
者だから何とでも逃げようとするだろう。逃げるなら壱案のマンシ
ョンから逃げてほしい。退去してほしい。もちろん今までの家賃も
耳をそろえて返してほしい。壱案は怒りをこめて書きこんだ。
﹁ゑ無山さん、アカウントの名前が変わりましたね⋮⋮﹂
壱案は怒りにまかせて書き続ける。名前を変えて逃げようとして
いるのだ。
だが大丈夫そうだ。このまま書いてみる。
どうしてもっと早くに気づかなかったのだろう。電話が着信拒否
でもこうしたら簡単に連絡がとれてこちらの言い分を聞いてもらえ
たではないか!
﹁名前というかアカウント名を変更されても画面はそのまま書き込
みできるのでもう少し書きますね。少しは反省をしてほしいとこち
らは思ってますので﹂
﹁どうか逃げないで向き合ってください。私がわざわざこうして書
きこむのはゑ無山さんが逃げるからですよ、会社経営者で空手の指
導員もして私よりもずっと金持ちで⋮⋮だったら家賃もきちんと振
り込んで下さい。無視しないでちゃんと払ってください﹂
﹁前の住居のように逃げ得は許しません、前の管理会社の人も怒っ
てますし、契約解除でしょ、契約解除。早く出て行ってよ、最低な
171
人﹂
ゑ無山の書き込み、反論、連絡はなくまた彼のアカウント名がか
わった。エムからエムタと読めるローマ字体になった。ゑ無山があ
せってこちらの書き込みを防ごうとしているのが壱案には手にとる
ようにわかった。ゑ無山にとって債権者がこうして自分のブログや
ツイッターを監視していたとは夢にも思わなかったらしい。
そうだろう、ゑ無山にとっては世界は我がもので、我がものが自
由にできているのだ。そういう思考方法なので契約書をかわして印
鑑をついても自由に反故にできるのだ。そういう人なのだ。
一方、壱案は今回の書き込みではじめて自分の思いをゑ無山に対
して心情を吐露できて一矢報いた、という喜びでいっぱいだった。
壱案はこういうソーシャルネットワークを知識として知ってはい
ても利用するのは初めてだった。何という便利なツールだろう、も
っと早い時期にこれを利用してゑ無山に直接呼びかけたらよかった、
と思ったくらいだった。
だが⋮⋮壱案はこの時点では知らなかった。
自分が追給から警告されていた以上のことをしていたのを。
この書き込みが不特定多数の人に見られるという意味では、住居
の張り紙以上の効果をあげられ、それが張り紙を張る以上に越権し
た行為であることを⋮⋮。
そしてそれが家主にとって裁判で非常に不利になることを⋮⋮。
⋮⋮壱案は全く知らなかったのだ。
その晩は一時間以上もPCの前に張り付いて今までの経過とゑ無
山の仕打ち、法律の抜け道で家賃を滞納しつづけ犯罪者同様に見え
るということを嬉々として書きつづっていった⋮⋮。壱案は自分が
どれほどのことをしているか知らなかったのだ⋮⋮。
172
壱案は今までの思いのたけをゑ無山のツイッター欄に思う存分書
きこんだ。やがて書き込みにあきると、楽な気持ちで眠りにつけた。
だって今まで無連絡で今まで家主として当然の立場で督促をしただ
けで営業妨害を言われていたのだもの。ツイッターでその反論を思
い切り書き込めたのだ。自分の思いを吐露できた喜びでいっぱいだ
った。
⋮ああ、今までのストレスが少しはましになりました。
それで退去はいつでしょうか、それまでは毎日ここで書き込んで
いこうと思います。
だってストーカー対策のための着信拒否を家賃や借金の督促の電
話を拒否するために、いわば電話会社の善意を逆手にとって自分に
だけ都合のよい使い方をしていっらしゃるのだもの⋮⋮⋮自分勝手
な、自分だけのご都合主義で滞納が平気、夜逃げが平気で⋮⋮⋮
壱案は自分がやりすぎたとは全く思ってなかった。ゑ無山の反論
の書き込みは全くなかった。ゑ無山は何をしているのだろう? あ
きらめて寝てしまったのか、それとも退去の準備? 壱案は上機嫌
だった。そのまま高揚した気分で眠った。
翌朝、九時ジャストの始業開始に壱案の携帯電話に連絡があった。
ロッカー内でいつまでも壱案のバッグから電話の着信音が続いてい
るのに課のものが気づいたのだ。課長に許可をえてからロッカーの
控室に行って電話をとる。すでに留守電に切り替わっていたのでそ
の伝言を聞く。
﹁太田壱案さんですね、只田孝子弁護士です。至急の用件がありま
すので、折り返し電話連絡願います﹂
発信者はなんと只田弁護士だった。あちらは信用保証会社ドッグ
173
の専属弁護士なので壱案とはもう縁がないはずである。不審におも
ったが壱案はその場で電話を只田弁護士宛にかけなおした。
﹁おはようございます、ご無沙汰しています。さきほど電話をいた
だいたようで⋮⋮至急の用件ってなんでしょうか﹂
只田はすぐに電話口に出てきた。
﹁太田さんですね、例のゑ無山さんあてにあなた、何かしましたね
?﹂
只田弁護士の口調は堅かった。壱案は言葉に詰まった。
﹁はい、あのう。実は昨日の晩にツイッターでゑ無山さんに家賃払
わないなら早く退去して、と書き込みました﹂
﹁それはまずい。それはすぐに取り消してください。あなた、自分
が何をしたのかわかってますか?
ゑ無山さんはこちらの事務所に朝一番に電話をかけてこられ、非
常に困っているのですぐやめさせてほしい、そう言ってこられてい
ます﹂
﹁でも着信拒否されてますし、第一信用保証会社とも連帯保証人と
も連絡が取れないのですよ、だから仕方なく書き込みましたけど。
それにゑ無山さんのフルネームではなく名字だけのアカウントで書
いてますし、その人個人と特定はできない状態ですのでいいと思い
ましたし⋮⋮﹂
﹁さきほど私もその書き込みは見ました。今現在、不特定多数の人
が読める状態になっています。今すぐやめなさい。太田さん、あな
たが名誉棄損で訴えられても仕方がないことをしたのですよ。
名字だけだから、というのは全く理由にはならないし、彼のツイ
ッター上での記載は誰が見ても彼のやったことは本当かうそかはわ
からないまでも、彼の社会的な信用を傷つけたことになります﹂
﹁名誉棄損? ゑ無山さんの社会的な信用? ⋮⋮だって﹂
﹁だってもかってもありません。ゑ無山さんと言う人はどういう人
かあなたわかっていますか?
あっちが悪いのはこちらもよくわかったうえで弁護士として忠告
174
しています。すぐにツイッターの書き込みをやめなさい、あげあし
をとられてしまいます。あちらが百%悪いのに退去どころか貴女の
方が訴えられかねます﹂
﹁ええっだって﹂
﹁ツイッターのことは私はしないのでよくわかりませんが、ゑ無山
さんは個人的なプライベートなことは鍵をかけた、というか第三者
にも見られないように書き込めて連絡できるはずなのに、故意に不
特定多数の人にもわかるように私を一方的に非難して辱められた、
といってます。私の言うこと、わかりますか?﹂
壱案は急いで返答した。
﹁わかりました。今は勤務先なので帰宅後にすぐに削除します、そ
れでいいでしょうか﹂
﹁ゑ無山さんが貴女の返答を待っているので、そのようにいいます
がよろしいですね﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮﹂
只田孝子弁護士の口調は厳しく、壱案は自分がそれほど悪いこと
をしたのだろうかと疑問に思う。だがあちらが悪いとわかっている
うえで忠告している、と言っていた。ということはあげあしをとら
れる材料を自分は提供してしまったのか。
しかもゑ無山はこの期に及んでも自分に連絡を取らずに、弁護士
に連絡をとった。先月に弁護士名義で送付した内容証明は受け取ら
なかったが、そのコピーはレターパックで送りつけている。そのレ
ターパックには当然只田弁護士事務所の住所と電話番号が明記され
ている。ゑ無山はそれを見て電話してきたのだ。大家の壱案にでは
なく、弁護士に。こちらが依頼した弁護士としてゑ無山はその連絡
をとったのだ。
壱案はまた怒りで気分が悪くなってきたがどうしようもない。彼
は絶対に壱案に連絡する気はないのだ。弁護士に連絡したいのだ。
なんて嫌な奴なんだろうか。
壱案はどうみてもゑ無山の方が法律に詳しいことを認めざるをえ
175
なかった。
その日は定時に仕事を切り上げまっすぐに帰宅して昨日作ったば
かりのツイッターの自分のページにログインする。
昨日は気づかなかったがツイッターの利用方法を子細にみていく
と、プライベートで第三者に見られたくないことを書き込みたい時
のために﹁鍵をかける﹂ というやり方があるのをはじめて知った。
﹁鍵をかける﹂ と、自分が認定した相手にだけツイッターの書き
込みの閲覧ができる、そういうやり方があったのだ。電話を受けた
時はその意味が不明だったが、﹁鍵をかける﹂ やりかたで警告し
た場合だったら、それだったら名誉棄損にならないのだろうか、そ
れでもゑ無山は難癖をつけてくるだろうけれど。壱案はせっかくよ
い連絡手段を見つけたと思っていたが只田弁護士にああいう言い方
をされて、名誉棄損になるとまで言われたのでしぶしぶアカウント
削除の手続きをとった。
これで壱案からゑ無山に対しての連絡手段は皆無になった。
と、思ったのは壱案だけだった⋮⋮。
翌日ゑ無山が逆襲してきたのだ。
176
第二十章・逆襲の逆襲! 警察を使って反撃される!
ツイッターの書き込みを削除、アカウント停止の手続きをしてか
ら、壱案はゑ無山に対してすることがない。壱案はゑ無山に対して
契約解除したのだが、当人はそうは思ってないらしい。契約解除に
は一切触れずにツイッターの書き込みをやめさせろと弁護士に連絡
しただけだ。当然住居の明け渡しはないし、滞納はあいわからずだ
った。
このままずるずるとゑ無山の思い通りにはさせたくない。けれど
どうすればよいのか。壱案はどうしたらよいかわからなかった。途
方にくれていた。
このままゑ無山が六カ月家賃を滞納するのを黙って耐えるしかな
いのだろうか。ずるい性格なのでまた勝手に家賃を減額して入金し
てくる可能性もあるだろう。弁護士はそれでも待て、と言った。
ゑ無山の方が悪い方に法律を利用するのに長けているので微妙に
滞納額を減らしたままずっと住みつく可能性もある。そうなれば六
カ月分の滞納を待つどころではなくなるではないか。
壱案の我慢にも限界がある。一体どうすればいいのだろう。
壱案は本当に途方にくれている。日中は仕事が忙しいので気がま
ぎれるが、夜になるとゑ無山に貸してしまった賃貸マンションのこ
とで眠れなくなってしまっていた。いっそのこと、買わなければよ
かったと後悔もする。こんなはずではなかった。素敵な賃貸マンシ
ョンの大家ライフを夢見ていたのに現実は夜逃げの履歴のある札付
きのひきょう者に貸してしまい、そのひきょう者にいいようにされ
ているのである。
壱案は生活に困っているようでもないのになぜ家賃も支払わずに
平然と住めるのかが理解できない。一方ゑ無山のほうはなぜ大家が
しつこく家賃を督促するのか、ツイッターで出ていけと書き込みを
177
するのかが理解できないのだろう。平行線だ。住む世界の違う人物
に壱案は貸してしまったのだ。あのマンションはどうなるのだろう
か。このままゑ無山が飽きるまで棲みつかれてしまうのだろうか。
マンションのローンはこっちが払うままで⋮⋮。ここまで考えると
壱案は涙が出てしまう。
くやしくて悲しい⋮⋮。壱案は本当にどうしたらよいかわからな
かった。
だが月末に転機があった。
二月二十八日、別件の用事で何気なく銀行通帳の記載にいってお
もわず﹁えっ﹂ とびっくりすることがあった。つい昨日まで三カ
月の滞納になっていたのに滞納家賃の入金が全額あったのだ!
全額、全額だ。
何があったのだろうか。
しかも来月の三月分、つまり今月末に支払う分もちゃんと一括し
て入金されている。
つまり四か月分の賃料が入金されていたのだ。
ゑ無山が改心したとは思えなかった。どうしたんだろう? 壱案
はいぶかしんだがだが電話連絡なし、着信拒否の状態では何もでき
ない。ツイッターの書き込みももうできない。わかるのはこのまま
壱案のマンションにずるずると居続けるのだろうということだ。契
約解除したはずなのに、これでずっと住めると相手は思っているの
だ。
ゑ無山がいきなり四か月の滞納になる直前に債務ゼロにしたのは
なぜか?
やはり改心ではなく、それなりの意図が判明したのはその翌日だ
った。
それは土曜日の夕方だった。
178
とりあえず家賃の滞納がゼロになり、気分的には退去してもらえ
ないことでもやもやしつつも、滞納ゼロで金銭的には荷が軽くなっ
たのだ。重い気分と気楽な気分が混ぜ合わさってテレビを何となく
見ていたら壱案の携帯電話に着信があった。見慣れぬ番号だが下四
けたが同じ数字だった。個人の保有している電話番号ではない。一
体どこからの電話だろうか。
訝しみつつ壱案が﹁はい﹂と出ると間髪いれずに﹁太田壱案さん
ですね?﹂ と野太い男性の声がした。何となく聞き覚えのある声
でもあるが思い出せない。
﹁はい、太田です﹂
そう応じるとまた間髪いれずに﹁大町警察の生活安全課の影井で
す。あんた、ツイッターで人を傷つけただろ、名誉棄損の被害届が
出てるぞ﹂ そう言った。
横柄でこちらの言い分を聞かずにそう言った。
﹁え、あのう? 被害届ですか﹂
﹁そうです。あんた覚えがあるだろう、ゑ無山という人だが知って
るだろ﹂
﹁知っています、ゑ無山さんが被害届を⋮⋮名誉棄損の被害届を⋮
⋮警察に⋮⋮﹂
壱案の手がわなわなと震えた。
警察からの1本の電話。
それは壱案に対してゑ無山から被害届を出されたという連絡だっ
た。
﹁あんた、ゑ無山という人に、ツイッターで誹謗中傷の書き込みを
しただろう? 名誉棄損の被害届を出してこられたぞっ﹂
﹁ちょっと、待ってください﹂
﹁太田さん、ゑ無山という人にツイッターで書き込みをしたね? みんなが見るスペースに実名でちゃんと家賃を振り込んでください
と書きこんだね? 滞納金額はゼロなのに、滞納常習犯のような書
179
き込みをされて実生活に支障をきたした、とこういう訴えが出てい
るぞ、どうなんだ?﹂
﹁えっ!﹂
警察は生活安全課の影井と名乗って矢継ぎ早に壱案に事実確認を
した。壱案はツイッターでの書き込みは事実なので認めたが、警察
官の話を聞くうちにすぐに落ち着いてきた。ゑ無山が事実をまげて
警察に被害届を出したのがわかったからだ。
警察とゑ無山がこちらに対して被害届をだした、と聞いた瞬間だ
け動揺したが、ゑ無山がまたずるい手を考え出してこちらに揺さぶ
りをかけたのだとわかったのだ。同時に昨日、一気に家賃滞納をゼ
ロにしてきた状態にした理由がわかったのだ。それと生活安全課の
影井、と聞いて以前ゑ無山のことで相談にいった時に応対してくれ
たあの警察官だと思いだしたのだ。
壱案は警察が電話をかけてきた理由とゑ無山が出した被害届のあ
らましを聞くと今度は怒りがわいてきた。ゑ無山のひきょう者っ!
死んでしまうがいいわ、人間のクズッ!
そういう罵倒は心の中で小さく折りたたんですみにやり、まずは
警察に説明をした。この間何秒もかかってない。壱案に怒りの感情
が渦を巻いていたが心の隅に負の感情は追いやってしまうとできる
だけ冷静に事の次第を説明した。
﹁影井さん、お勤め御苦労さまです。以前、相談に伺った太田壱案
です。あの時はお世話かけました﹂
そう切り出して相談しに行った以降の話を影井にした。
◎ ツイッターの書き込みは事実であること。
◎ 書き込みをした早朝、ゑ無山は信用保証会社側の弁護士に苦情
の電話を入れ、結果弁護士に叱られてその日のうちにアカウント削
除した。以来ツイッターはもうしていないし、一切書き込みはして
いないこと。
180
◎ 二月一日の時点ですでに契約解除になっていること。その時点
では三カ月滞納があったこと。だが契約解除の通知をしても連絡な
しで宙ぶらりんな状態であったこと。しかしながら昨日一括入金が
あったこと。
◎ 携帯電話会社の迷惑電話ストップサービスを利用して大家の壱
案や信用保証会社の督促を拒否して現在も電話不通であること。
◎ 連帯保証人の父親が行方不明で会社も倒産して音信不通である
こと。
﹁⋮⋮家賃の滞納金額はおっしゃるとおり現在はゼロです。だけど
あの時点では三か月の滞納でした。連絡もつかないし、内容証明も
受け取られず、そういうことでこちらの意志をどうにかして伝わら
せたい一心でツイッターに書き込みをしました。不特定多数の人に
見られる状態で書き込みをしたことは弁護士に伝えられてはじめて
わかり、すぐに反省してその晩に削除しました。
ですから書き込みは短文だし短期間でのアップですんだと思いま
す。弁護士からのアドバイスであげあしをとられるという意味は、
影井さんからのこの電話でやっとわかりました。ツイッターでの書
き込みは事実でそれは認めますがそれに至る理由は先ほど申し上げ
た通りです。私はゑ無山さんを非常に卑怯な人だと思います﹂
影井は今度は壱案の言い分を黙って最初から最後まで聞いていた。
壱案は話しているうちに怒りがこみあげてきた。今度は被害届と
聞いて驚きのあまりに手が震えたが今度は怒りで身体全身が震えて
きた。
この私が!
被害届を出されるなんて!
﹁⋮⋮以上こういうやむをえない事情で書き込みをしました。ゑ無
山さんはそういう自分の事情をちゃんと言ったうえで被害届を出し
たのですか? ツイッターでのアカウント削除と今後の書き込みは
しないことは、只田弁護士通じて連絡がいっているはずです。三カ
181
月に加えて今月の家賃入金が一括でされ、何事だと思っていました
が被害届を出すためにそうしたんだ、今わかりました。そういう理
由で家賃滞納をゼロにしたんです。あの人はそういう人なんですよ。
警察にツイッターでの誹謗中傷されたことを被害届にして私に訴
えるために、それだけのために家賃滞納をゼロにしたんです! 家
賃を毎月余裕で支払える能力は十分にあるんです。だけど後回しに
するんです。今回後回しをやめて、一番に滞納ゼロにしたのはもう
終わった話を蒸し返してゑ無山さんが自分の立場を有利にするため
の布石だったんです。
なんという卑劣で卑怯な男っ、こんなに最低なことを平気で出来
る人だとは思いませんでした。影井さん、警察はそういう事情を踏
まえてうえで私を告発しますか? 被害届を受理しますか?﹂
影井は即答した。
﹁お互いの主張を今確認しましたが平行線ですね。被害届は受理い
たしません。どうもよく話しあいというかそれができてないことで
成り合った事件のようですね。記録を見ると貴女がうちに相談にき
たのも一年前の日付になっていますし﹂
﹁話しあいができてないといわれてもあちらが着信拒否して、内容
証明も受け取らない状態でどうやって話ができるのでしょうか、一
度だけ話しあいしましたけどおちついて話もできない人でしたよ?
こちらが一方的に罵倒されたのですよ? 家賃をきちんと支払っ
てくれないから電話督促をしているのに、それだけなのに、非常識
人呼ばわりされているのですからね。影井さん、じゃあ、警察の方
からゑ無山さんにこっちに連絡をするようにいってください、ぜひ﹂
﹁わかりました。連絡するように言います。再度の確認ですが今後
一切ツイッターでの書き込みはしませんね?﹂
﹁ツイッターには書き込みはいたしません。約束します﹂
﹁じゃあそういっておきます﹂
警察からの電話が切れると壱案はまたまた長い長い長い溜息をつ
182
いた。ゑ無山が本当に卑怯な性格をしていることを身にしみてわか
ったのだ。只田弁護士が言ったのはこのことだったのだ。あげあし
をとられるということはこのことだったのだ。
救いは依然ゑ無山のことで相談にいったときに対応した警察官が
今回もたまたま担当になってゑ無山と壱案双方の話を聞いてくれた
ことだ。しかもゑ無山のずるい性格ゆえ、自分の都合の悪いところ
をかくして被害届を出したのだ。警察はこちらの言い分を黙って聞
いてくれた。
警察は最初の口調は非常に荒っぽく、こちらがまるで悪いことを
したような口ぶりだったが最後は非常にやさしかった。
﹁ゑ無山さんの方には家主に連絡するようにいっておきます﹂
そう言ってくれた。こちらに気づかうような口ぶりに変わってい
た。
その日は壱案はゑ無山から連絡を待っていたが来ない。警察はち
ゃんと言ってくれているはずだ。なのに、連絡が来ない。まあ予期
していたことだが。
それで壱案は休日明けの月曜日に再度大町警察の影井に電話をか
けた。
﹁はい、電話変わりました、影井です﹂
﹁太田壱案です。先日ゑ無山さんが当方に名誉棄損の被害届を出し
た件ですが、あれから本人から連絡がないのですが、そちらに何か
言ってこられてますか?﹂
﹁いやっ、あれから何も連絡はないね。私の方からも家主さんには
連絡をいれなさい、と言っておいたがね﹂
﹁そうですか⋮⋮私あの人には本当に、困っています。どうしてい
いやら﹂
﹁うん、弁護士に相談しているといったね﹂
﹁はい、内容証明もいろいろやってますが﹂
﹁じゃあ、裁判しなさい﹂
183
﹁え、でも⋮⋮この状態では勝訴はありえないと弁護士から言われ
てます。現に今滞納金額もゼロ、になっていますし﹂
﹁だが裁判するとね、被告は必ず出てくるものですよ。必ず反応を
出すはずですよ。連絡が欲しいんでしょ、とりあえず裁判したら?﹂
壱案は息をのんだ。
信用保証会社ドッグもドッグ紹介の只田弁護士も、モモンガ法律
事務所の梨元司法書士、そしてゑ無山の友人の柏崎弁護士⋮⋮法律
に詳しい人が全員、裁判起こしても負けると断言したのだ。まさか、
警察が裁判をすすめるとは思わなかったので驚いたのだ。
﹁負けるのをわかっていても、裁判を、するのですか?﹂
﹁だからとりあえずそうしたらって今アドバイスしているんだ﹂
﹁ありがとうございます、考えてみます﹂
﹁するなら早い方がいいね﹂
﹁わかりました﹂
法廷に出るのが仕事の弁護士や悪質な賃借人とも渡り合う信用保
証会社も裁判するだけ無駄、という言い方をしていたので意外であ
ったが、この影井警察官に押され、電話を切るなり、壱案はやっぱ
り裁判しよう、負けるとわかっていてもやってみよう、そう思った。
とりあえず裁判になったら何らかの反応はあるだろう、それは確
かなのだ。⋮⋮きっと。
184
第二十一章・裁判の準備
じゃあ⋮⋮裁判しよう、負けるかもしれない。だけどやってみよ
う。
警察の言う通り﹁とりあえず裁判﹂ やってみよう!!
んこうして太田壱案はゑ無山相手に退去してもらうよう、明け渡
しの裁判をすることにした。
するにあたって、
一、負ける可能性大なのでお金のかかる弁護士をたてない、つまり
本人訴訟とする。
二、司法書士や弁護士のいうとおりであれば、債務ゼロ、つまり借
金ゼロつまり滞納ゼロの状態であればゑ無山は絶対に追い出せない。
つまり勝訴は望めないのである。だから最初から敗訴覚悟で明け渡
し裁判をすることにする。
三、警察の言うとおりであれば、いかに無連絡を決め込む卑怯なゑ
無山でも裁判になれば必ず出てくる。そのときに裁判官立ち会いの
上で調停をすればよい、そうすれば壱案の言い分とゑ無山の言い分
を裁判官が聞いて判断してくれるはずである。
壱案はもうそれしかないと思っている。とんでもないことになっ
たと思う。手間暇かかりそうだし、法的な知識はないに等しいし。
でもやらねばずっとこのままの状態だ。いつかれても困る。部屋
の状態も心配だった。もし無断でペットを飼っていたら部屋はめち
ゃめちゃであろう。猫の引っかき傷や犬の匂い、きちんとペットを
世話する人でも建物には何らかの傷がつく、そのためペット家賃と
言うものが存在するのだ。家主はそれを積み立てて退去後の修理費
用にあてているという。だがあのゑ無山は今までの経過から建物の
傷などに頓着しないであろう性格なのは確かだ。だからすごく心配
185
だった。
とりあえずは裁判の準備としてまず壱案のしたことは情報収集だ
った。ネットで検索しても大家として家賃滞納者への滞納はどの大
家さんでも頭を痛めている。裁判した人も多い。壱案の見つけた裁
判例でひどい目にあってかわいそうに、としかいえない大家さんも
いた。大きな工場を中身のそのままで夜逃げされ、滞納家賃は四百
万円、売ろうにも売れないどうにもできない気の毒な大家さんの話
も聞いた。
また裁判に負けた人も多い。あっちがずっと滞納していてあっち
が悪いのに、無連絡。部屋に行っても誰もいない。連帯保証人もい
ない。その状態で半年たった。それでもうとっくの昔に夜逃げした
と思って部屋を掃除して新しい人を入居させたら本人がひょっこり
帰ってきて激怒した。
その大家も本人のがらくたな荷物を整理してしまったので確かに
落ち度はあったが、悪質なその入居者はその荷物の中に値打ちモノ
があったので損害賠償を要求すると言って裁判にしたのだ。
結果大家の負けでそいつのために何百万円も賠償するはめに⋮⋮。
誰が見ても無連絡で滞納を続けていて夜逃げとしかみえぬ状況だっ
たのに、ツメが甘かったせいか大家が全部責任を負ったのだ。
誰が見ても誰が悪いかわかる。なのに大家が全面敗訴ってこれっ
てなによ? 家賃を滞納し続けて入居者に対して賠償金を支払うっ
て何よ? この裁判はおかしい、なんと不条理な。
大家不利って絶対不条理だわっ!
こういう例がごろごろ出て来て壱案は私の方が状況はマシだが、
警察沙汰にもされているし、敗訴するとわかっていても一度話し合
いをする機会をもたねばならぬと覚悟する。
訴状を出して無連絡のままでは被告は絶対敗訴になるのである。
だから警察は連絡が欲しければ裁判しなさい、といったのだ。欠席
186
裁判という言葉があるように、裁判で無連絡のまま欠席というと自
動的に負けることになっているのである。だからゑ無山は私からの
連絡は無視できても裁判所からの呼び出しでは何らかの反応を出せ
ねばいけない、警察のいうことはそういうことだったのだ。
壱案が勤める県庁の近くに税務署がある。そこへ行く仕事があっ
たのでついでに時間給をとってそのまた近くの裁判所にいってきた。
受付に訴状を書いて提出したいので、その下書きのやりかたと言
うか書き方のお手本があったらほしい、といったのだ。
裁判所の受付といってもカウンターに机が並んでいるだけ。普通
の事務所みたいである。違うのはあちこちで張られている弁護士無
料相談のお知らせや、裁判員になったら、という啓蒙ポスター、裁
判所って何をするところでしょうか、という子供向けのお知らせポ
スターがべたべた貼ってあることぐらいか。
受付の一番近くにいた男性は壱案の姿を認めると立ち上がった。
壱案は会釈して用件を言う。
﹁訴状のお手本? ひな型? なんですかそりゃ。そういうのはど
こにも置いてありません。訴状の書き方は決まっていないのです。
ですから書いたものを持ってきてください﹂
受付の男性の態度はそっけない。壱案は裁判所ってこんな感じな
のかとびっくりしながらも質問を重ねた。裁判所は慣れた人用のも
のではない。初めての人も多いはずなので訴状の書き方の用紙ぐら
いはあるはずだと思っている。
﹁本人訴訟でイチから自分でやるのです。ひな形もないのですか?﹂
﹁⋮⋮裁判の種類はなんですか﹂
﹁部屋の明け渡しです﹂
﹁ふーん、あ、ちょっと待っていてくださいよ﹂
場慣れしているのだろう、手慣れた様子で壱案を待たせた。男性
は奥のファイルキャビネットを開けてごそごそと何かをさがした。
﹁これ、もうずいぶんと昔のヤツだけど、すごくお困りのようなの
187
でよかったらあげます。よかったら参考にしてください﹂
﹁まあ、ありがとうございます﹂
それは青い紙で﹁訴状﹂と印刷されていた。枠線もある。よかっ
た、やっぱり言ってみるものだ、こういうのがちゃんとあるんだ。
壱案は安心した。
訴状の用紙は三種類あった。一種類目が事件名、原告と被告の住
所氏名など。二種類目が請求の趣旨と紛争の要点、添付書類を書く
欄だ。三種類目が物件目録。それぞれ三枚つづりになっていた。一
枚は原告用となっている。もう一枚が被告用、そして最後に裁判所
用。つまり全部で九枚の用紙を渡された。
そして男性ははっきりいった。
﹁こういうのはですね、こうして書いてくださいとぼくらはアドバ
イスできません。そうなっています。弁護士先生をたてない本人訴
訟ならば、本をさがしてうつすか、司法書士さんに聞くか、ですね﹂
壱案はどうあっても教えてくれなさそうと思ってあっさり引き下
がった。
﹁わかりました、どうもありがとうございます﹂
﹁あ、ちょっと待って。その物件、ここの県のでしょうね?﹂
﹁いえ、違います。隣の大阪です﹂
﹁じゃあ、物件の所在地の裁判所でないと受けられないですよ、そ
ういう決まりです﹂
﹁そうらしいですね、ちらっと聞いてはいました。ここで裁判で来
たら職場に近いですしとてもありがたいのですが﹂
﹁だめですね﹂
男性は壱案がまったくモノを知らないのがわかったせいかもう一
枚の紙を奥から渡してきた。
﹁この訴状を書く前にも用意するものがありますよ。訴状二枚目に
添付書類欄があるでしょ。これらは絶対そろえておかないといけま
せん。よく見てやらないとちょっとでも間違えると受理されません。
本人訴訟が難しいのはまさにソレなんですよ。ソレからはじめるの
188
です。この紙にはね、証拠一覧を書いてください。証拠、わかりま
すね。
あなたが原告なら甲、になります。相手の被告は乙、です。証拠
は甲第何号証とか番号をうって誰が見てもわかるようにして、提出
するんですよ、でないとどこへいっても訴状を受け取ってくれませ
んよ。くれぐれも注意してくださいよ﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
男性は壱案のようにこれから裁判する素人に応接してもう飽きて
いるのだろうか、言うだけいうと肩をすくめて元の机に座った。壱
案は同じ公務員ながらこういう態度の人間を見ると残念に思った。
この人は一生自分が何も知らない状態で訴訟することがないから原
告がどれだけ不安を抱えて問い合わせするかが理解できないのだ。
とっても残念な人だと思った。
ただ訴状の用紙はちゃんとくれたのだ。態度はともかく最低限の
仕事をしてくれたと思うことにした。訴状を見ると確かにいろいろ
な書類が必要そうだ。裁判所は当時者ではないので、まず壱案が当
該マンションの正当な持ち主であるという証明がまずいるのだ。そ
して確かにそこにゑ無山が住んでいるという証明もいる。話はそこ
から始まるのだ。
用意すべき添付書類の最低限必要なものは以下の通りだった。
◎ 固定資産課税台帳登録証明書
◎ 登記簿謄本または登記事項証明書
◎ 賃貸借契約書
◎ 相手方に出した内容証明郵便
◎ その配達証明書
とりあえず印刷してあるのはそれだけでその下は空欄になっている。
ということはもっとそろえる人もいるのだ。さて、なんだろう。
壱案はこれらを自分でそろえることに決めた。
固定資産課税台帳登録証明書などの公的な文書はは市役所や税務
189
署、法務局で簡単に入手できる。そしてそれらの用紙と賃貸借契約
書などの文書をそれぞれ三部ずつコピーする。
さきの裁判所職員に聞いたとおりに一部は裁判所用、もう一部は
原告の壱案用、もう一部は被告のゑ無山用である。裁判所用には公
的な証明書はもちろん原本の写しを添付する。とても煩雑だった。
そして一番頭を痛めたのは訴状の書き方である。
壱案はいろいろ考えたがやはり裁判所でもらった用紙で書くこと
にした。一番ミスが少なさそうだったからだ。
まず訴状1枚目。
事件名 建物明渡請求事件
大阪地方裁判所御中 平成 年三月五日
原告名︵申立人︶ 太田壱案。
その住所連絡先など。同時に裁判所が被告ゑ無山に文書類を送る
送達場所などの届け出を書く欄もある。
その下が被告名︵相手方︶ ゑ無山の名前と住所氏名。
勤務先の名称と住所を書く欄もあるので、壱案はこれにははっき
りと﹁教えてもらえませんでした﹂、と朱書きした。原告用、被告
用、そして裁判所用にも。これははっきりと書いた。壱案はこうい
う賃貸借契約上、必要な基本的なことすらも賃借人から事実﹁教え
てもらえなかった﹂ のだ。
訴状2枚目。
請求の趣旨
一、被告は原告に対して別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。
二、訴訟費用は被告負担とする、との判決を求めます。
190
一枚目は原告被告双方がどこで住んでいる誰が、ということを明
確にしている。だが一番大切なのはこの二枚目の請求の趣旨、なの
だ。上の二行ははっきりと印刷されていて、備考も書けるように間
もあけてある。壱案はこういう用紙がきちんと印刷されているのに
驚いたし、それだけ裁判を起こす人が多いのだ、と驚いた。
そして次に大事なのが同じく二枚目の請求の趣旨のすぐ下に書か
れている。
﹁請求の原因﹂
自分が何のためにどういう理由で裁判を起こすのかその原因をは
っきり書くのだ。それを第三者である裁判官に判断してもらうのだ。
こっちが正しいという証拠をそろえてだす、裁判はつきつめてそう
いうことだが、簡単にほれ、これでーす、といって即決で決めても
らうものではないのだ。壱案は自筆で丁寧に書く。
一、賃貸借契約の内容⋮契約日、契約期間、特約欄など
二、明け渡しを催告した日付
三、契約解除の日付
四、契約解除の理由
時間はかかるが全部書かないといけない。そして誰が見ても書い
てあることが事実であることがわかるように契約書等のコピーも添
付しないといけない。契約解除を告知した内容証明も全部。
公的な添付書類は謄本類だ。法務局に行って謄本を取らないとい
けない。裁判に出す当該物件は自分が正当な持ち主であるという証
明をしないといけない。
そういう公的書類のほかはこっちは明け渡し要求をするにいたる
理由と言うか経過も証拠を出して説明しないといけない。もちろん
その証拠は内容証明郵便と銀行通帳のコピーだ。これで今までのゑ
無山の入金日がわかる。一目で家賃の支払いがルーズで支払い遅滞
や滞納が続いていたのがわかるように通帳のコピーにゑ無山からの
入金日を赤ペンでラインを引いて行った。信用保証会社ドッグから
191
代弁済を受けた日は黄色のペンでラインで引く。ゑ無山が受け取ら
ずに返却されてきた内容証明書は封も切らずにそのままにしている
が封書のママのコピーもつける。それとその中身の内容証明のコピ
ーもつける。これらも裁判所に提出するのだ。壱案は大体書くと契
約書や今までゑ無山に出した内容証明を束にして近くのコンビニ行
き、全部三部ずつコピーした。コピーは総数九十枚近くにも及びコ
ピーする時間も一時間はゆうに超えた。
弁護士に依頼するとこれらの細かい作業は全部やってもらえるだ
ろうが、壱案は自分が正しくとも敗訴するだろうと思っていたので
弁護士に依頼するだけお金の無駄だと思っていた。事実こういう事
案でも弁護士は着手金として二十五万円前後の金額を要求するとい
う。壱案にはそんな余裕はない。だから面倒でも自分でこういう作
業をこつこつとやるつもりだった。こうしている間もあのゑ無山は
契約解除されているにもかかわらず壱案の部屋でゆったりと暮らし
ているのだ。ツイッターで書かれたと警察に被害届を出すならさっ
さと退去すればよいのだ。それにもかかわらずゑ無山は退去しない。
彼はお金がないから滞納するのではないのだ。それを証拠にツイッ
ターでひどい書きこみをされたと警察に言うために滞納金額を全額
一括して払ってきたではないか。壱案にはゑ無山の考えを理解する
つもりはもうなかった。
ゑ無山は棲んでいる世界が違うのだ。同じ人間であっても理解し
がたい独特の思考方法を持っているのだろう。こんな人間に大事な
部屋を貸すのはまっぴらごめんだった。
壱案はゑ無山を軽蔑している。出ていってくださいと早い時期に
言っても出ていかない。契約解除まで言っても出ていかない。たま
りかねてツイッターで書きこんだら警察に被害届を出された。こう
いう思考法の人間は理解できない。警察もそれを踏まえて壱案に裁
判するように忠告してくれたのだ。
これを裁判官にはわかってほしい。壱案はこういう目にあっても
なお敗訴するのをわかっていて裁判するのだ。ゑ無山は警察のお世
192
話になるほどの犯罪者ではないものの、壱案にとっては賃貸借契約
を反故にされたのも同然の人物だった。その話をして聞いてくれる
のは裁判所の裁判官だけなのだ。
現時点では家賃滞納額はゼロ。この状態ではよけいに勝訴はのぞ
めないだろう。しかし裁判官にこちらの言い分が正しいと思っても
らうためには納得いく状況証拠をそろえないといけないのだ。壱案
はその労苦は厭うつもりは全くなかった。やれるだけのことはやろ
う、そう決めたのだ。
訴状3枚目
物件目録
当該物件の目録だ。
建物の表示、所在、家屋番号⋮⋮一棟の建物の表示も書かにとい
けない。
建物の構造や床面積も各階ごとに明記しないといけない。こんな
のいるのか? と思うが必要なようだ。占有部分の建物の表示もも
ちろんいる。
構造って壱案はマンション購入時に譲ってもらった重要事項説明
書を引っ張り出して再確認をしないとわからなかった。鉄骨鉄筋コ
ンクリート造り、ルーフィング⋮⋮ってなに? わからないままとりあえず空欄を埋めていく。そして当該物件の
所在地を示す地図と部屋の見取り図を別添でつける、と。
あー、なんて煩雑なんだろう、壱案は頭痛がしてきた。これが裁
判のはじまりなのだ。しかしまだ準備段階だ。しかも敗訴が今から
わかっているという状態だ。壱案は気がくじけそうになるのを我慢
しつつ訴状に向き合う。次は訴状の要 ︵かなめ︶を書かないとい
193
けない。裁判の趣旨と請求は特に慎重に埋めていく。
壱案は家賃督促の内容証明書は最初の一通のみは司法書士に書い
てもらったが、その後は自分でせっせと書いていた。最後の契約解
除告知の内容証明書のみは信用保証会社の専属弁護士の只田孝子弁
護士名だ。その内容証明もゑ無山は受け取ってないが只田弁護士は
そのコピーをレターパックに入れてゑ無山に送りつけている。しか
し現物は只田弁護士が壱案に送付してくれたので壱案が持っている。
その封書送付時に只田弁護士が書いてくれた一筆も参考にして空欄
を埋めていく。
まず上段の請求と趣旨
先に書いた通りの文面。これはあらかじめ印刷されていたのでそ
のままで訂正もなし。
一、被告は原告に対して別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
この二行はちゃんと印刷されているのだ。訴訟って別世界のよう
な話だけどちゃんとこうして印刷物になるほど数は多いのだ。大多
数の人々が知らないところで粛々と訴訟をしているのだと思った。
そして下段。紛争の要点もしくは請求の原因。
一、賃貸借契約の内容
ここには契約日、賃貸期間、賃料、特約等。下の特約欄には三つ
の理由を書いておく。つまり信用保証会社なし、連帯保証人の不在、
賃料を二か月以上滞納していたこと。
今現在滞納金額ゼロというのはつきつめられると不利になるかも
しれないがそれでも今までの経過から今後も滞納はしないという保
証もない。過去二カ月分、三カ月分と気分にあわせて入金してきた
ことを思えばそれははっきり書いておかないといけない。ゑ無山は
194
どう見ても契約違反者なのだから。
二、催告
ここには催告つまり内容証明などで告知した日付を書く。
三、契約解除
文字通り契約解除の日付。
四、契約解除の理由
解除理由は賃料不払いでも、無断譲渡、無断転貸、でもない。無
断増改築でもない。賃貸借契約違反とはっきり書いた。
その下にその他の参考事項がある。スペースが狭いので困惑した
がそれでもきっちり書くべきことは書かなくてはいけない。事の次
第を判断してもらう裁判官にはここをしっかり見てもらわないとい
けない。敗訴覚悟、最初から示談になろうとここはきっちりと読ん
でもらわないといけない。
◎ その他の参考事項
○ ご連絡なく支払を遅らせる。
○ 常にご連絡なく二か月三カ月と支払を滞らせる。
○ 信用保証会社には代弁済するといってもすぐに入金してくれ
ないので当方が困ることを伝えても改善しなかった。
○当 方並びに信用保証会社からの電話着信拒否
○ 入居して一貫して不誠実。この二年間契約を守っていただけ
ず悲しかった。
○ 携帯電話がつながらずやむを得ず会社に督促の電話をしたら
社員に個人情報をもらしたと責められた。
○ 信用保証会社との契約も更新料を支払わず解除されている。
保証会社契約は入居時の条件なのにこれも契約違反だ。
○ ツイッターで支払督促をしたら名誉棄損だと警察に被害届を
出された。
ここまで書いて壱案は急に不安になった。賃貸借法の第何条の違
反だと書いた方がいいのかどうか、感情的になった文面と受け取ら
195
れたら不利になるだろうか、そういう不安だった。
しかし最初から勝訴はのぞめないのはわかっている、ならば⋮⋮
この訴状は最低限裁判官と被告のゑ無山は見るはずだ。この世でた
った二名しか読んでもらわなくともこういう理由でこうするに至っ
たとわかってもらえたらよい、特にゑ無山には。多分こういう文面
を出されても自分が悪いとは思わず怒るだけだろうけど。
﹁まあいいか、なるようにしかならない﹂
壱案はため息をついた。とりあえずできるだけ早く訴状を出して
しまおう、そう思った。
壱案は大急ぎで訴状を書き終え、各種提出書類をそろえた。そし
て有休をとって大阪地裁に出かけて行った。訴訟するなら早い方が
よいというのは父親の意見もある。壱案の味方、きっといたら頼も
しかっただろう弁護士等は誰もいなかった。だけど壱案は訴訟をす
るのだ。
弁護士なしの裁判は本人訴訟という。それをするのだ。
本人訴訟でも裁判はできる。壱案が提出した訴状で裁判所は動い
てくれるのだ。
被告あてに訴状送付、呼び出し、そして裁判開始⋮⋮裁判が始ま
る、やっと始まるのだ。
196
第二十二章・訴状提出
朝の九時、裁判所の開業時刻だ。
まず玄関にある掲示板で裁判所の見取り図を見る。なんと十五階
まである。この建物は全部裁判をするための建物なのだ。何らかの
人々が合法的に争うための場所がこれだけの規模で存在しているの
だ。壱案は今まで全く知らなかった世界に踏み入れているのだ、と
感じた。壱案は今日から自分もまた﹁合法的に争う人﹂ になるの
だ。
訴状受付は入り口すぐ横の事務所にあるようで、迷わずまっすぐ
に壱案は入室していった。朝一番に訴状を受け取ってもらうつもり
だ。
壱案居住の裁判所もそうだったが裁判関係のポスターや警備員が
いなければごく普通の官庁のような事務的な感じの場所だ。住民票
をもらいにいくような感じだった。いかめしさやものものしさはな
かった。
入り口には警備員が若干名いたし、ビシッとスーツ姿でキメた弁
護士らしい人々、原告か被告かは不明だけどビジネススーツ姿の中
年男性達、ここは別棟で司法裁判所も兼ねているので報道関係者ら
しい腕章を巻いた人もいる。また裁判傍聴者らしきリュックサック
をかついだ人も多く見た。壱案はその中の一人なのだ。
果たして訴状提出受付窓口では壱案はその日の一番乗りだった。
﹁おはようございます、訴状を持ってきました。これを、お願いし
ます﹂
壱案ははっきりと担当の受付事務の男性に訴状と添付書類の入っ
た紙袋を渡した。
﹁訴訟したいので訴状を持ってきました。私は原告本人です﹂
受付係は軽くうなづくと﹁では拝見いたします﹂ といって紙袋
から訴状を出した。
197
見るなり、﹁本人訴訟ですね﹂ といった。一枚目の訴状でわか
ったらしい。壱案はうなづいた。
﹁そうです、本人訴訟です﹂
﹁まずは訴状に不備がないか点検させていただきます、その後訴訟
費用つまり印紙額と予納郵便切手の請求をしますのでしばらくお待
ちください﹂
﹁はい、わかりました﹂
壱案は裁判費用は現金で支払うのではなく、郵便局で売られてい
る印紙というもので支払うことをあらかじめリサーチしている。ま
た裁判の呼び出し状などの郵便の受け渡しは裁判所からしてくれる。
そのための郵送料などは原告が支払う。だからまずは原告が予測さ
れうる郵便代金を切手で支払っておくのだ。それが予納郵便切手と
いう。切手はもし余ればそのまま返却されてくるのも知識として仕
入れてはいる。
壱案は受付のそばに備え付けられている椅子に座って再び呼び出
されるのを待っていた。係員は眼鏡を上げ下げして見ていたが、す
ぐに手をとめて壱案を呼んだ。
﹁あのですね、この訴状自体、ぼくこんなの見たの初めてですが、
どこで入手されましたか? ﹂
﹁は、あのう。これは私の居住区の裁判所でいただいたものです。
訴状の書き方がわからなくて聞きに行ったときに参考にしなさいと
いっていただいたものです﹂
﹁これずいぶんと昔のヤツみたいですね、ははあ﹂
﹁それでもよろしいでしょうか、実際に使われていたものだと伺っ
たものですので﹂
﹁ああ、もちろん、まあいいですよ。それとですね、二枚目のこの
請求の原因のここの特約欄、ちょっとヘンですね﹂
﹁えっ﹂
﹁賃貸人ってどなたですか、あなたですか、それとも被告のゑ無山
と言う人ですか、どっちですか﹂
198
﹁私がそのマンションのオーナーです﹂
﹁だったらあなたが賃貸人で被告が賃借人でしょ、ちんたいにん、
とちんしゃくにん。⋮⋮思いっきり間違えてますよ、訴状なのに最
初の段階で﹂
﹁はっ? どこ、ですか﹂
﹁賃貸人が保証会社に更新料を支払わず、の欄ですよ。これ、賃借
人が保証会社に更新料を支払わず、でしょ? こっちは混乱しちゃ
いますよ﹂
壱案は目をサラのようにして訴状二枚目を見る。あれほど推敲し
たつもりなのに、どういうこと? だが賃貸人は壱案で原告。賃借
人はゑ無山だ。賃借人が被告になる。
なのに訴状には⋮⋮。壱案は叫んだ。
﹁ああっ、ほんとうだ! 私間違えてました、あれほど間違いない
ように何度も見直しをしたのに﹂
壱案はホゾをかむ。しかしまだ間に合う。今はまだ訴状提出中な
のだ!
﹁すみません、じゃあこれから訂正します﹂
﹁訂正印は持ってきますよね、当然?﹂
﹁はあ、ただ今すぐに﹂
﹁ちょっと待ってください、それと、ですね。この当該マンション
の見取り図ですがこれでは第三者にどこがそうなのかわかりません。
赤鉛筆で斜線入れてください、今できますか﹂
﹁は、はい、今すぐ。でも赤鉛筆がない⋮⋮﹂
﹁そこにですね、赤鉛筆とかありますからよかったら使ってくださ
い、それと﹂
﹁まだありますか﹂
﹁ありますね、大事なこと、本年度の固定資産税の証書ありますね﹂
﹁はい、ここに﹂
﹁訴状物の評価額とそれに基づいた訴訟費用つまり印紙代と予納郵
便切手代を請求しますから﹂
199
係員は電卓をもってきてとんとんと手慣れた様子で何やら計算し
ている。壱案はその間にカウンターから赤鉛筆と物差しを借りてマ
ンションの見取り図に斜線を入れていく。
カウンターにはセロテープやのり、ペン、鉛筆、赤鉛筆に青鉛筆、
ものさし、消しゴムもちゃんとあってそれが全部古びてはいるがち
ゃんと鉛筆の芯もとがっていてすぐに使えるようにしてある。壱案
は訴状の不備がすぐに直せるように配慮しているのをみて有難く思
った。今訴状を受け付けている係員も事務的ではあるが、不親切で
はない。裁判所だからと高飛車な態度をとったりはなく淡々と職務
をこなしているという感じだ。
壱案は拍子抜けして段々と余裕ができてきた。受付担当が電卓を
たたいている間に、ものさしで二重線をひいて﹁賃貸人﹂ という
文字を消し、その上に﹁賃借人﹂ という文字を入れた。原告、被
告、裁判所用にそれを三回繰り返す。二重線の上に訂正印として訴
状の一番最初に書いた原告の住所氏名に使用したものと同じ印鑑で
ついた。
どうしてこんな単純なミスをしてしまうのだろう、やっぱり緊張
していたのかしら、壱案は自分で自分を叱りながら訂正する。それ
から赤鉛筆を借りてマンションの最上階の見取り図から壱案所有の
部屋を斜線で引いて囲んだ。
﹁あの、訂正してきました﹂
﹁そうですか、こっちも計算できましたよ、ここの一階に郵便局が
ありますから印紙を二万円分購入してきてください。それと予納切
手代金が四千八百円ですね。金額指定はこの用紙に書いてある通り
ですから間違えないように﹂
係員は原告の壱案が弁護士をたてない本人訴訟と知って、かんで
ふくめるように教えた。壱案はもちろん教えられた通りに裁判所内
の郵便局に行って印紙や切手を購入する。さすがに場所が場所だけ
に印紙も高額なのだが待たずにすぐに出てくる。予納切手も五百円
切手何枚、二百円切手何枚、というふうに金額と枚数指定があるの
200
だがこれもあらかじめ局内でセットされているらしく小さなビニー
ル袋に詰められて﹁はい、コレです﹂ と渡された。
壱案は局内に普通にはがきや切手を討っているすぐ横で﹁内容証
明専門受付﹂ と窓口に書かれているのを見てさすがに裁判所内の
郵便局は違う、と驚いた。
郵便局で印紙、切手をそろえた上で再度訴状受付に戻る。ここで
もう一度訴状を吟味され、印紙を裁判所用の訴状の所定の場所に貼
らされ切手を受け取られた。また添付書類もろもろも全部受け取ら
れた。
﹁これで受理されたことになります﹂
﹁ありがとうございます!﹂
壱案はほっとした。身軽になった気分だった。もっとも裁判はこ
れから、なのだが。
すでに本日訴状提出するのはなにも壱案だけではなく、他にもや
ってきた。カウンターにはもう赤鉛筆はなく、たぶん別の人が使っ
ているのだろう。また横のデスクには他の原告らしき人が何か書き
物をしている。
﹁本人訴訟﹂ だよ、と言いつつ分厚い訴状らしきものを提出して
いる人もいる。弁護士事務所の事務員らしき若い女性がスーツ姿で、
受付担当の人に﹁おっはよーございます。はいこれー﹂ と書類を
渡している。双方手慣れた様子でうなづきあっている。
そのすぐ横は上告、控訴受付窓口だ。裁判の結末に何らかの形で
納得していない人が裁判のやりなおしをやるための受付だ。そこに
も数人すでに並んでいる。そのうちの一人がもっている封筒の上に
﹁○○医療訴訟上告書﹂ とあり、意味が不明ながらも一瞬ぎょっ
とした。
裁判所の受け付け自体はスペースが広くないのですでに三,四人
もいれば満員という感じだ。しかも弁護士らしき人はそこには誰も
いない。ここはまさか本人訴訟専門の受付窓口じゃないよね? 壱
案はそこにいる誰もが堅い表情をしているのに気づいた。訴状受付
201
でさきほど壱案に対応してくれた同じ係員が別の原告に﹁ここをこ
う直してください、訂正印をお持ちですね?﹂ と指示している。
だがその原告は怒って﹁どこをどう直せというのだ、ちゃんと言
うとおりにしてやってきているだろ﹂と言い合っている。
﹁しかしですね﹂ と係員も譲らない。奥のカウンターから別の係
員でも出て来てその原告を何やら説得している。もしかして常連さ
んなんだろうか? ここは裁判所なので当然のように裁判用語の上
告、控訴、原告、被告、印紙、税金という言葉が普通にかわされて
いる。それがなければごくごく普通の事務所にみえるのだが。人の
人生の岐路というか起点というか、そういう場所に自分はいるのだ、
としみじみ思った。
その日は訴状提出で終わるはずだが、裁判所には二時間いたこと
になる。訂正印と斜線引き、裁判所内の郵便局で必要なものをそろ
えるだけでそれだけ時間がたったのだ。時間の流れが違うのかしら、
壱案は素人ながらとりあえず訴状が受理されて本当にほっとした。
だが引換券みたいなものが何ももらえない。
﹁あのう、何ももらえないんですか、これで終わりですか﹂
壱案は思わず間抜けなことを聞く。
﹁そうですよ、呼び出し状は後日郵送されてきます、原告被告双方
にね﹂
﹁日にちとかわからないですか﹂
﹁ここは受付でそんなのここでわかりませんよ﹂
﹁はあ、じゃあ裁判の一回目とかも今わからないんですか、わかっ
ていれば仕事のスケジュールがたてやすいですが﹂
﹁わかりませんね﹂
係員はにべもなくそっけなく言った。多分彼は何度もそのセリフ
を言われされているに違いない。勝手のわからぬ本人訴訟の原告に
は、特に何度も。壱案は原告として訴状を出したが出したという証
拠もなにももらえなくてしかも裁判の日付も現時点では不明、とい
202
うのに驚きつつ裁判所をあとにした。とりあえずは呼び出し状待ち、
なんだと思った。
訴状提出後は裁判所からの郵便物待ち。話はそれからなのだわ、
裁判はそれから始まるのだわ、
壱案はそう思った。
裁判ってそういうものなんだわ、話はそこから始まるんだわ!
壱案は訴状を裁判所に受理してもらったあとは呼び出し状が郵送
されてくるものとばかり思っていた。だがそうではなかったのだ。
一週間ほどたったころ、携帯電話に見慣れぬ着信記録があった。
時刻は午前九時半。番号に見覚えがなかったので放置していたら夕
方に何度もかかっていた。留守電に回したら裁判所からだとわかり
あわてて折り返しかけ直す。
﹁はい、大阪地方裁判所第十民事部です﹂
女性の声が応答した。だが留守電に入っていた声は男性だった。
﹁あのう、先日そちらの裁判所に訴状を出した原告の太田壱案と申
します。何度かこちらの携帯電話にかけていただいたようで、すみ
ません﹂
﹁太田壱案さん、ですね。少々お待ち下さい﹂
ほうだい
すぐに電話が切り替わり留守電に入っていたのと同じ声がした。
﹁はい、こちら第十民事部書記官の砲大と申します。太田さんご本
人さんですね、土地明け渡し、本人訴訟で間違いないですね﹂
いきなり確信をついてきた。
﹁そうです、そのとおりです。よろしくお願いします﹂
﹁それでは事件名、建物明渡請求ということで事件番号が決まりま
したので後日郵送で送付いたします。
それで第一回目の口頭弁論の期日ですが一カ月後の四月十日ではい
かがですか﹂
﹁十日、平日ですね﹂
﹁そうです。建物明渡の案件はこちらでは大体火曜日か金曜日の午
203
前中と決まっていますので了解願います、いいですか﹂
いいも悪いもない。壱案ははい、と言った。仕事のやりくりは後
で考えよう、有休のやりくりも。裁判することは職場の誰にも言っ
ていない。何とかなるだろう。
﹁それでは四月十日午前十時から。部屋は当日の予定表を見てきて
ください、時間は厳守で。呼び出し状は原告、被告双方ともこちら
から郵送で送付いたします。あ、FAX送付希望ならそうしますけ
ど、どうされますか﹂
﹁いえ、郵便物が記録に残りますし、ぜひそれで﹂
﹁わかりました、予納郵便切手がありますのでそれを使います、そ
れでは﹂
﹁待ってください、あの、期日までにこちらから送付するものがあ
りますか﹂
﹁準備書面のことですか? 第一回口頭弁論まで送付していただけ
たら被告に送ります﹂
﹁それであのう、大体何日ごろまで送ったらいいものでしょうか﹂
﹁あのですね、裁判所は本人訴訟のナビはしません。教えもしませ
ん。そういう基本的なことは弁護士に聞きなさい。こちらはこうし
てくださいという指示は一切出しませんし、出すことはできません。
いいですね? それはご理解くださいよ﹂
﹁はあ⋮⋮わかりました﹂
﹁じゃっ失礼します﹂
それで電話が切れた。
壱案は裁判所の書記官は裁判官の補佐役と聞いていたのでいろい
ろと聞きたいことがあった。だが教えることも指示もしないという。
それは当然かもしれない、原告、被告のどちらか一方に肩入れする
ことにつながりかねないことなので。公平を保つということでその
態度は当たり前かもしれない。
だが﹁そういう基本的なことは弁護士に聞きなさい﹂ とはあき
らかな命令言葉だ。壱案は落ち込んだ。そうなのよね、本人訴訟は
204
そこが難しいのよね、そう思った。
それから数日後。
壱案の自宅に﹁特別送達﹂ と赤文字で表面に印刷された書留封
書が来た。日中は勤務中なので在宅している母親が受け取ってくれ
ていた。発送人は大阪地方裁判所第十民事部とある。警察が関与す
る司法裁判ではなく、民間者同士が争うので民事になるのだ。そし
て土地がらみの訴訟は全部第十民事部になるのだろう。となると第
一から少なくとも大十まで大まかに裁判所の方で区分けして離婚訴
訟はどこの民事部、借金がらみはどこの民事部、と区分けされてい
るのだろうか。そんなことを考えながら壱案は封書を裏返す。封書
の裏には裁判所へのアクセス地図が印刷されている。
﹁やれやれ、裁判のたびに急行に乗って大阪地裁まで出向かないと
いけないか、すぐに結末がわかったらいいのだけど﹂
とつぶやきつつ開封する。
そこには一枚のA四サイズの用紙がはいっているだけだった。
﹁期日呼出状﹂ とある。
事件番号 平成○○年 ︵ナ︶第△△△△号
建物明渡請求事件
原告 太田壱案
被告 ゑ無山ハカシ
期日呼出状
原告 太田壱案様
頭書の事件について、当裁判所に出頭する期日が下記のとおり定
められましたから、同期日に出頭してください。
記
205
期日 平成○○年四月十日︵火︶午前十時
口頭弁論期日
場所 第一一九号法廷︵本館九階︶
出頭の際には、この呼出状を上記場所で示してください。
これだけが書いてあった。あとの説明書などは何もなかった。本
当に呼び出し状だけだった。
﹁これだけかあ⋮⋮﹂
壱案はふとゑ無山のことを思った。被告となるゑ無山はこれをも
う受け取っただろうか、来るべきものが来たと思って、身構えてい
るだろうか。それとも裁判してでも争うとまで思わなくって驚いて
いるだろうかと思った。
被告となるのは、どういう気分だろうか。自分のことを悪いと思
ってない場合は怒りに震えるだろうが、この場合は明らかにゑ無山
に非がある。ゑ無山が受け取っているならばその呼出状は壱案と全
く同じ文面だが﹁被告﹂ ゑ無山殿と提示されているはずである。
さて今どんな気分だろう、彼は裁判所でどんな態度をとるのだろう。
壱案はゑ無山の顔をブログなどで見て知っている。だがゑ無山は
壱案の顔も知らないはずだ。声だけは知っている。女だと思って小
馬鹿にしているだろう、だが裁判になったらどうでるか。
壱案は弁護士や司法書士から敗訴間違いなしと言われているのだ。
しかも訴状を出した時点では債務ゼロである。本当に負けるであろ
う。間違いなく。
だが裁判官はきっといいようにしてくれるはずだ。一度契約解除
になっているのでそれは支持してもらえるはずだ。明け渡しの勝訴
を壱案にくれなくとも最低限再契約をするように助言してくれるは
ずだ。
206
警察もそんな感じでいってくれた。裁判になると絶対に相手は出
てくると。
壱案はそれを期待している。本当は即刻出て行ってほしいのだが、
この無反応のまま居つかれても困るのだ。それを裁判官に訴えて判
断してもらおう、最低限再契約をしてもらえば、そう期待している。
それで再契約してもなお、支払遅滞、滞納があれば今度こそ退去す
るように一筆入れてもらえばよい。その時は裁判所のお墨付きがあ
るので、話は現在よりも通るのではないか、壱案はそう思っている。
もとより、ゑ無山に常識が欠落しているのはわかっている。だか
ら裁判になるのだ。そして裁判官の力を借りてこの現状を打破した
い、そう思っている。
壱案は好きで裁判をするのではない、仕方なくやっているのだ。
ゑ無山に対しては軽蔑と怒りしかなかった。とんでもない人に貸す
とこれだけの手間暇がかかるのだ。そして勝負は負けるだろうが、
やれるべきことはやっておかねば。
壱案は呼出状を丁寧に元の封筒に納めた後、今度は四月十日の第
一回口頭弁論に向けて準備書面を用意する。
さあ、第一回口頭弁論の日取りも決まった。
あとはその口頭弁論のための証拠説明書を作成しないといけない。
これはあらかじめ訴状で言いたいことを簡潔にいってはいるが、そ
れを念入りに証拠で証明するもの、というべきか。大体裁判の時間
自体は短くてせいぜい十五分から二十分だという。
それで双方いいたいことを言いつくす、わけではない。先にあら
かじめ提出しておいた書面で双方裁判所を通じてやりとりするのだ。
できるだけ手間暇を省くというわけだろう。
手順としてはまず、
一、原告の壱案が証拠説明書を作成。︵原告の自分用、被告用、裁
判所用の三部作っておく、中身は全く同じでなければいけない︶
207
二、それを裁判所に提出︵被告用と裁判所用の二部を送付、原告は
原版を持っているがそれを裁判所に持っていって裁判官に見せる︶
三、裁判所は被告用を被告宅に送付
四、被告はそれを見て﹁答弁書﹂ というものを作成する。
五、被告は答弁書を裁判所に送付
六、原告はそれを見て第一回口頭弁論の日にそれに対する文面もし
くは陳述書を書く
裁判の内容によっては流れが違うかもしれないが大体こんな感じ
になるだろう。壱案は自分が訴状を出すことによって原告になり、
自分が裁判の核になる。原告が動かないと何も事態が改善しない。
ゑ無山の好きなようにさせてたまるか、そういう思いでやっていっ
ている。それにしても⋮⋮壱案は思わずため息をつく。
裁判に関する本人訴訟のやり方など詳細に書かれた参考になるも
のが非常に少ないのだ。弁護士に聞くとお金がかかるし、裁判所は
教えられないというし、結局は自分でなんでもしないといけない。
さてどこから手をつけようか。
思いあぐねた壱案は縁が切れているが信用保証会社のドッグの追
給に電話をかけた。
﹁すみません、本来ならばもう契約解除になっているので、私が電
話すべきではないですが﹂
追給は壱案が本当に裁判を起こしたと聞いて驚いていた。
﹁もしよかったら第一回口頭弁論が四月十日にありますのできて下
さい﹂
﹁いやあ、来れない、と思います。だけどアドバイスはできますよ、
あのゑ無山は厚かましいにもほどがあるやつですからね。あのです
ね、今だから言えますけど、ゑ無山の父親の会社の保証も実はうち
が担当していましてね﹂
﹁えっ、ゑ無山のお父さん、あの、夜逃げされたんですよね﹂
﹁そうです、そうです。あの父親とうちは今裁判してます﹂
208
﹁まあーじゃあ親子揃って⋮⋮被告ですか﹂
﹁そうですね、今東京にいるそうで出てこないですが、ゑ無山の弟
の家に身を寄せています、それがまた実に大きい良い家でしてね。
あの家を維持しようと思うとお金がかかりますよ。
だからあの親子はお金はあるんですよ、ただ家賃は支払わない人
なんですよ、親子して、どうしてだろうと思いますけどね﹂
﹁本当ですね、どうしてかしら﹂
それから追給は壱案の心配にまた明快に答えてくれた。
﹁証拠説明書? 文字通り証拠をそろえて番号をうつだけですよ。
第三者にわかればいいから難しくはないはずですよ﹂
﹁そうですね﹂
﹁原告が甲、になりますよ。被告のゑ無山が乙になります。原告の
太田さんは証拠に番号をうって甲の第何号と示したらいいんですよ。
それらの証拠を一括して見やすいように証拠一覧も作ってください。
要は何も知らない第三者に自分の主張は正しいと思わせるために
証拠提示するのですから見やすいようにすればいいんです。だって
誰が見ても悪いのはゑ無山ですから、それがわかるように一覧表に
すればいいだけです﹂
﹁よくわかりました。ありがとうございます﹂
その次の日は壱案の勤務する県庁で無料弁護士相談をしていた。
壱案はすぐに電話を入れるも予約でいっぱい、仕方なくキャンセル
待ちをしておく。夕方にようやく電話が入った。
﹁キャンセルが出ました。五時から来れますか? だったら一階の
市民ふれあい広場の特設ブースに来てください﹂
職場の内線電話で告げられここではじめて壱案が訴訟沙汰に巻き
込まれているのが同僚や上司にばれた。仕方のないことではあるが
﹁マンション持ってたのか、金持ちだのー﹂とか﹁実家暮らしで金
が余ってんだろ、君は普段旅行とかしないから不動産買ったんだな﹂
の揶揄の言葉が出た。壱案はご迷惑をかけてすみませんと頭を下
げる。
209
﹁えーと、すみません、ちょっと抜けてきます、三十分ぐらい。時
間休暇届は後で提出します﹂
海千山千のおじさんが集う閣議準備室は今は議会がないのでちょ
っと気楽な期間だ。壱案はよかった、ラッキーだったと思った。
﹁まあ行ってこい、つまり悪い奴にひっかかったんだな﹂
﹁浮いた話を聞かないと思ったら、ヘンな賃借人にひっかかって、
イイトシなのに何やってんだ﹂
﹁こういう話ではなく、色ごとがいいよ。結婚はキミほんとに予定
ないの?﹂
セクハラめいた言葉も飛び交ったが壱案はもう平気だった。いち
いち怒っていては仕事にならない、こういうのも給料のうちと割り
切っている。それに口は悪いが心配してくれたのがわかったからだ。
﹁上司並びに同僚のみなさん、私の結婚式の予定は皆無です。裁判
の予定だけしっかりあるの⋮⋮それじゃ法律相談に行ってきます。
壱案は無料弁護士相談会の最後だった。ブースの前にはいろいろ
なポスターが貼ってあり、﹁ご自由にお持ちください﹂ の壁掛け
式のちらし置き場がある。
裁判官の﹁もしもあなたが選ばれたら﹂ の案内チラシ、県内弁
護士協会のちらし、交通事故のご相談、刑事事件の被害者へ、不法
滞在者を雇うことは違法ですチラシ、不法薬物はいけませんチラシ、
もしかして虐待? その場合は匿名でいいのでこちらまでお知らせ
を、のチラシ。とにかく公的機関が出している種々のチラシがブー
スの壁を埋め尽くしている。その中の一室に壱案は入った。
中には細長い机が一つ、簡易パイプいすが一つ。奥にはすごく肥
った年配の弁護士先生が座っていた。丸い弁護士バッジが鈍く光っ
た。
﹁あのう、はじめまして、私は太田壱案と申します﹂
壱案は待っている間書かされた相談内容のシートを弁護士に提出
おおきいたろう
した。シートと引き換えにその弁護士はにこりともせずに壱案に名
刺を出す。名刺には大紀伊太郎とあった。大紀伊太郎法律事務所、
210
大紀伊太郎。弁護士は壱案の提出した相談シートを一瞥してしゃべ
った。
﹁悪質な入居人にひっかかったようですね﹂
﹁はあそれで先週訴状を出してきました﹂
弁護士の顔色が変わった。
﹁え、もう訴状を出した?﹂
﹁はい、でもいろいろとわからないことがあって、それで相談に伺
いました﹂
﹁そうかもう出したのかあ﹂
大紀伊太郎弁護士はがっかりしたように相談シートをじっと見つ
めた。相談事を引き受けて裁判することにならない、つまり商売に
ならないとわかってがっかりしたのだろう。言葉使いきなりぞんざ
いになってざっくばらんになった。
﹁つまり、君は弁護士を立てずに本人訴訟でいったわけだ﹂
﹁そうです、敗訴覚悟で、なので﹂
﹁敗訴ねえ、確かに今は滞納金額ゼロではね、負けるだろ﹂
やっぱり、そう言われるか⋮⋮壱案はそれでもがんばるのだ。壱
案は訴状と説明書等、裁判所に提出したものやこれから提出しよう
としているものを大紀伊に見せた。
﹁このとおり、裁判用の資料作成、いえ証拠説明書を作りました。
それで少しでも有利になるようにアドバイスいただけましたら、そ
う思います。私はここまで書いたのです。ほかに不足があるかチェ
ックをお願いしたいのです﹂
﹁それが貴女の相談内容、なのですね。もう裁判できるかできない
かの相談ではなく、すでに通り越して裁判、と。で、第一回口頭弁
論日はいつ?﹂
﹁四月十日です﹂
﹁証拠説明書は大事なものだ。こういうのは早く出した方がいいよ、
うむ、家賃の入金明細の証拠がわかりにくいな。もっと一目でいつ
滞納したか一覧表にした方がよい。
211
みんな忙しいのだからこういう裁判にいちいち時間かけて吟味な
んかしないからね。もっとわかりやすく見やすいのにしなさい。作
りなおしなさい﹂
﹁は、はあ、そうします﹂
﹁自分でやるのは大変だよ、あ、敗訴覚悟っていったな。じゃあ準
備書面と一緒に示談の内容案件も添付しておいたら﹂
﹁そういうこともできるのですか﹂
大紀伊太郎弁護士はにんまりとした。
﹁あのね、裁判ってなんでもありなのよ? それにやってみないと
わからんのが裁判でね。自分にやれると思うことは全部証拠と書面
にぶっこむのですよ。ただし説得力をもつようにね、だってあんた
や相手のこと裁判所は誰も知らないからね。
全く初対面の人間たちに向かって自分は正しいと言って納得させ
るというのは大変なことですよ。それを本人訴訟って。はは⋮⋮。
時代が変わったのはこの司法の世界も一緒だね。今弁護士不在の本
人訴訟がブームになってるのかねえ、君みたいな若い子も不動産の
裁判するんだから。まあやれることはやってみなさい、私からのア
ドバイスはそこまでだね﹂
大紀伊太郎先生もクチは悪かったが気さくでいい先生だった。確
かに本人訴訟って最近社会に出てきた話だと思う。昔は裁判と言え
ば弁護士しかできないと思っているし、今もなおそう思って裁判を
しようと思う人はみんな弁護士のいる法律事務所をまず訪問する。
裁判するにあたって、弁護士でないとわからないこともあるのも
また事実。本人訴訟をするといっても結局は壱案ですら弁護士先生
にこうして相談しないといけないし、相談しなかったらもっと不利
になる。裁判というものがある限り弁護士は必要な職業なのだ。な
くてはならない仕事だ。壱案は大紀伊先生に感謝しつつ部屋を後に
した。
それから職場に戻り、勤務。
212
︵ナ︶
第◎◎◎号建物明渡請求事件
帰宅後、一気に証拠説明書を書きあげる。
証拠書面
平成 年
原告 太田壱案
被告 ゑ無山ハカシ
証拠説明書
平成 年三月十日
大阪地方裁判所民事部第十部一係御中
原告 太田壱案 印
甲第一号証 登記事項説明書 原本 作成年月日 作成者・
原告
⋮立証趣旨⋮当該物件が原告本人のものである証明
甲第二号証 賃貸借契約書 写し 作成年月日 作成者・
原告
⋮立証趣旨⋮原告と被告との契約内容の証明
甲第三号証 内容証明郵便 写し 作成年月日 これはたく
さんあるのでそれぞれに枝番をつけて甲第三号証の?、?、⋮⋮と
続ける。
甲第四号証 配達証明書 写し 作成年月日 三号証と対
になるように枝番をつける。それに受け取ったか受け取らなかった
か一目見てわかるように作成する。
213
もちろん三号と四証には家賃支払督促、契約解除予告、契約解除
後の通知等これもだした目的を明確にしておく。
甲第五号証 入金記録 写し 作成年月日は書かず 作成者・
原告
⋮立証趣旨⋮被告の不誠実さの証明⋮これは一番目立つようにはっ
きりとしかもわざと大判サイズでコピーをとっておく。
とりあえずはこれでできあがりだが大紀伊太郎弁護士先生は入金
記録はわかりやすくするにこしたことはないと言った。壱案はどう
せ敗訴だし、じゃあもっと目立つようにしてもいいか、それにはど
うしたらいいかちょっと思案する。
結局備考欄を大きく儲け、この時点で何日の支払遅滞かもしくは
何カ月かの滞納かを赤ペンで明記することにした。加えてこの時点
でのこちらからの働きかけた方法とゑ無山の反応も書きこむ。とい
ってもゑ無山側の動きは無反応と着信拒否のずるいやり方しか書き
込めないが。
↓ 四月上旬賃貸借契約書に記載されていた経営している会社住
所の電話がつながらないのでPCで経営会社が入居しているビルの
管理会社をつきとめ問い合わせる。するとすでにゑ無山が経営して
いた会社は夜逃げして行き先不明。会社家賃も未払いのままで困っ
ているという返答。携帯電話も着信拒否で連絡不脳の状態だった。
原告の壱案と全く同じ手順で家賃滞納から夜逃げになっていったと
書いておく。
↓ 上記に加えゑ無山の携帯電話に何度も電話督促のための着信
記録を残してからの︵電話には絶対に出ることはなかった︶ 遅れ
ての入金パターンに不安を覚え、ゑ無山の連帯保証人である父親に
連絡、口頭で契約解除したいので年内までに退去を申し出るも無視
される。
↓ 携帯電話会社に連絡してゑ無山がこちらの電話番号をストー
214
カー対策のための迷惑ストップサービスを利用して着信拒否してい
たことが判明。またほぼ同時にゑ無山父、つまり連帯保証人との連
絡もとれなくなった。
↓ 信用保証会社が何度も当該物件を訪問するも留守。そして保
証会社からもゑ無山が例の迷惑ストップサービスを利用していたこ
とが判明。
↓ その翌年一月下旬に信用保証会社専属の只田弁護士名で契約
解除の催告を経て二月一日契約解除とする。
入金記録はそのまま時系列として見やすく表にしたつもりだ。全
く仕事上でもこんなに熱心にグラフを作ったことはない。壱案の総
力をこめて作りあげたという我ながら立派な入金記録になった。そ
れぞれ書き込みは赤ペンで書き、内容証明を送付した証拠番号もこ
こで何番目を送付、受け取り拒否で何日目に発送人の壱案に戻され
てきたか、これもはっきりとわかるようにした。
最後に二月一日に契約解除とはしたものの、その月末の二月二十
八日にゑ無山は滞納金額全額に加え次月の家賃を振り込んできたこ
とも明記する。現時点では家賃滞納額はゼロだ。壱案は最後の項に
それを載せざるをえないが、裁判で不利にならないか、急に不安に
なった。
契約解除、いきてるわよね? だけど今現在滞納金額は確かにゼ
ロだ。裁判官はそれを見て有無を言わせず敗訴を言い渡すだろうか。
つまりこの契約解除は無効であるからゑ無山をこのまま住まわせる
ようにと言いだしたりするだろうか。
壱案は不安が増したのでとりあえず契約解除後の家賃の扱いはど
うしたらよいかわからず次の日、今度は法テラスに電話をかけて相
談をした。法テラスは相談者が電話料金を支払うものの、基本無料
だ。だが土地がらみの裁判でわかる人間がいず、壱案は弁護士会館
での電話相談に切り替えてもらった。有料だったがやはりモチはモ
チ屋で、それなら契約解除後の家賃は居直りによる﹁家賃相当額の
損害金﹂ として受けとったという内容証明を今日にでもすぐ送れ、
215
という。壱案は急いでそれをした。つまりこういうことだ。
通知書 通知人 太田壱案
被通知人 ゑ無山ハカシ
貴殿は私より大阪府大阪市大町駅前マンションの一室を賃供して
いましたが、本年二月一日付けで契約解除されています。本年二月
二十八日に入金された家賃相当額は契約解除後も居直ることによっ
て生じるの損害金として受け取ります。契約解除のために早急に原
状回復の上、部屋を明け渡してください⋮⋮。
壱案は先に上記の内容証明を出してから受け取り印を押された郵
便局のサイン入りの控えをコピーしてこれも甲の証拠書類として添
付し、それ以外の証拠も全部まとめて裁判所に書留で送付した。
それらを終えた時、今度は被告のゑ無山からの答弁書がくるのを
待たねばならない。
こういう動かぬ証拠、入金記録や内容証明のコピー、受け取られ
ず返送されたままの内容証明の封書、こういうのを見てゑ無山自身
はどういう答弁書を書くかみものだと思った。そして来月の十日に
第一回目の口頭弁論がある。そこではじめて壱案はゑ無山と対面し
て話しあいするのだ。裁判官立ち会いの上で。
壱案は敗訴覚悟であったが裁判の時には後悔しないように自分の
主張ははっきり言おう、と決めた。
ところが四月になってもゑ無山からの答弁書が来ないのだ。
四月分の家賃、いやもう契約解除しているのに立ち退かないので
家賃相当額の損害金の振り込みがまだだ。例によって。また無反応
か。
でも今回は裁判所からの訴状と呼び出しがきているはずなのであ
216
る。だから無視はできないはずなのに。もう来週には口頭弁論が始
まる。答弁書が来ないまま裁判はできるのだろうか。
無反応はあいかわらずだが、もしかして壱案が提出した訴状すら
受け取っていないのかもしれない、壱案はまた不安になって裁判所
に電話した。
ほうだい
﹁あの、被告が訴状を受け取ったかを知りたいのですが﹂
民事第十部の書記官の砲大に聞く。電話がすぐつながったのはい
いが、出てきた砲大はあからさまに面倒そうに﹁じゃ、事件番号を
教えて﹂ と言った。
言うと﹁調べてからまたかけ直しますから待っててください﹂ と言う。無愛想だったが壱案は裁判所って忙しいのだわ、と首をす
くめた。本人訴訟は大変。もし私が弁護士とか弁護士事務所の関与
する人間だったらその書記官ももう少し親切にモノを言ってくれる
かしら? と壱案は思った。
きっかり一時間後、壱案の携帯電話に砲大から返答があった。
﹁被告は訴状をちゃんと受け取ってます。原告のあなたからの証拠
説明書や証拠品のコピーはちゃんとこちらに到着し、翌日ちゃんと
うちから被告に送付しています。え? 届いているかって、そりゃ
書留で送ったからね、相手さん受け取ってますよ。
え? 答弁書がこない? こないからって、うちからは催促はし
ないですよ、答弁書、出さない人もいますから。
え? 口頭弁論に被告がちゃんと出るのだろうかって? ちょっ
とあなたね、うちはいちいち裁判の被告に出欠するかどうかなんか
聞きませんよ、学校じゃないんだから。本人訴訟の人はこれだから
面倒なんだ。わからないことは全部弁護士さんに聞きなさいよって
言ったでしょ。
とりあえず相手は無反応だった、うちが今言えるのはそれだけで
すね、もう用件これでいいですか、
いいですね? じゃっ!﹂
217
というわけで電話が切られた。壱案は忙しそうな砲大書記官に多
くは望まない。だけど面倒そうにいうのだけはやめてほしいと思っ
た。市民サービスに苦情がくるほどのレベルの面倒そうなしゃべり
かたじゃないか? 腹がたったが、これから口頭弁論をする前に書
記官とケンカするわけにはいかない。
とりあえずは訴状は受け取ったのは確実だから裁判は始まるのだ。
でも出欠をとらない、ということは⋮⋮、もしゑ無山が無視を決め
込んで口頭弁論に出なかったら自動的に欠席裁判で壱案の勝訴にな
る。
そういうことならば無視は大歓迎だ。ゑ無山はいっそのこと裁判
を欠席してくれたらよいのだ。
四月はすぐに来た。四月七日、八日、九日⋮⋮。第一口頭弁論は
四月十日、つまり明日だ。
壱案は我慢できずとうとう裁判前日の九日の夕方五時前に砲大書
記官に電話をかけた。砲大は答弁書を出さない人もいる、とは言っ
た。出されないで裁判というものは果たしてできるのだろうか。
口頭弁論はどうなるのだろうか?
手順というものを調べたら、被告から答弁書が届くはず。そこか
ら原告は答弁書を読んで﹁準備書面﹂というものを作成するのだ。
要は原告が出した訴状や証拠説明書を被告が見る。それから被告
の主張として答弁書を書いて裁判所通じて原告に送付。原告が被告
の答弁書を見て今度は被告に対しての再主張として準備書面を作成。
それから第一回口頭弁論にすすむのだ。
裁判といっても長々と続くわけではなく、こういう民事にかかる
ものは短い時間で手際よくすすませる。だからあらかじめ書面で双
方の主張をかわしておいて、本番の弁論日で凝縮かつ核心をついた
話し合いをするわけだ。
壱案は敗訴するだろうと思ってはいたがまずは答弁書を読んでか
ら、準備書面そして調停内容を提案するつもりだった。最初から手
218
の内を見せて不利な立場を余計不利にさせるつもりはなかった。な
のに準備書面なしで口頭弁論に臨むとは。
確かに無反応で裁判にも出てこなければ自動的に壱案の勝訴だろ
うが、壱案はゑ無山が債務ゼロにしてからおもむろに警察に被害届
を出したことを忘れてはいなかった。そしてその警察から裁判する
ようにアドバイスをもらったことも忘れてはいない。要はゑ無山の
卑怯な性格を知っているのでこのままではすまないだろうな、とは
思っている。
警察ですら自分の不利なことは何も言わず壱案のツイッターでの
家賃督促を﹁名誉棄損﹂ として告発した人間なのだ。だから裁判
所相手でも平気でうそを言いたてるのだはないか⋮そういう不安が
いつもある。
砲大書記官はすぐに電話口に出た。壱案は丁寧に用件を伝える。
﹁あの、本当にいそがしいところ、すみません。明日は裁判という
のに、とうとう答弁書もきませんでしたが⋮⋮﹂
﹁先に事件番号から言って﹂
﹁はい、あの第一二三四号の原告の太田壱案ですが﹂
砲大はすぐに反応した。
﹁あー、明日からのな、十時からのですね。ついさっき被告のゑ無
山さんからうちに電話がありましたよ﹂
﹁ええっ、本当ですか。裁判に出るといってましたか﹂
﹁ああ、出ますってね。それと答弁書も明日提出すると﹂
﹁はあ、答弁書もあり、ですね﹂
﹁そうですね、じゃあ、もういいですかね﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
壱案は電話を切ってまたため息をついた。落胆のため息か安堵の
溜息か。ゑ無山は明日の裁判に出るのだ。壱案の訴状内容や証拠説
明書を見たうえでなんと自分を弁解するのだろうか、答弁書にはな
んと書いて見せるつもりだろうか、そして裁判官にはなんと説明す
るのだろうか。 219
原告いや、マンションの家主たる自分に数々の契約違反をしてか
つ罵倒したゑ無山は、原告席に座った自分に対してどういう態度に
出るだろうか。
これはミモノだわ、ゑ無山の本性がとうとうわかると思うわ。
ブログではあんなに偉そうでリッチで大好きな哲学理論をぶちあ
げている人間が裁判所の被告席に座って自分をどう弁解するつもり
か、本当にこれはミモノだわ。
壱案は電話の前に立ったままぎゅっとこぶしを握った。
220
第二十三章・第一回口頭弁論
当日、壱案はいつもより早く起床した。まだ六時にもなっていな
かったが﹁今日が裁判の日だ、あのゑ無山と相まみえる日だ﹂ と
思うともう眠れない。だからさっさと起きて身支度をした。
時間が余ったので再度訴状他、裁判資料を読み込む。もうすっか
り頭の中に入っている事項だが何度も繰り返して読む。ゑ無山を退
去させたい一心だった。
早めに自宅をでて急行にのる。それから裁判所最寄りの駅で降り
る。急行停車駅で私鉄乗り換えもできる駅だったので人は多かった。
壱案はあまり早く着きすぎても、と思い駅中の喫茶店でモーニング
を頼む。待っている間にまた裁判資料などを見る。ゑ無山の答弁書
の内容がすごく気になるが、今ここでもやもやしていても仕方がな
い。
また裁判官の様子も気になる。初対面なのだ。担当裁判官はどう
やって決められるのだろうか、裁判が終結するまでずっと同じ裁判
官が担当してくれるのだろうか、本人訴訟でも大丈夫なのだろうか、
と思いはつきない。
ついでに、電話でいつもぶっきらぼうな応対をする砲大という書
記官も今日裁判所で初めて会うのだ。裁判⋮⋮どんな感じだろうか。
自分は言いたいことがきちんと言えるだろうか。ゑ無山が自分に対
して殴りかかってきたりしたらどうなるだろうか⋮⋮。
壱案は裁判はそんなに簡単なものではないこと、特に部屋明け渡
し裁判は家主には辛いというのが定説になっているから甘い期待は
もっていなかった。裁判官によっては、土地がらみで企業ではなく
全くの庶民の本人訴訟の場合、原告布告双方を裁判知る部屋ではな
く、いきなり個室の丸テーブルにつかせて和解をすすめる人もいる
という。壱案はそれでもよかった。とりあえず現状打破をしないと
いけない。このままではいけないという思いはある。 221
賃貸借契約書にある信頼関係の破綻は、ゑ無山がとうの昔からし
でかしてくれているが、壱案はそれでも追い出せないのだ。簡単に
追い出せないから、そしてあちらも出ようとしないから裁判になる
のだ。
裁判が嫌ならば話は簡単なのだ。そのまま家賃の支払いをゑ無山
の気まぐれで支払いがある時だけ黙って受け取り契約を嫌々ながら
続けるか。でもそれはもっと嫌だった。だから裁判になったのだ。
九時になった。第一回口頭弁論は十時から。もうそろそろ裁判所
に出向いたほうがよいだろう。
壱案は最寄りの駅から裁判所まで徒歩で向かう。考え事は尽きな
かった。
⋮⋮いったい、裁判の被告席に座って、どういう言いわけをする
のかしら、あのゑ無山は。
答弁書も今日提出でしょ、裁判官の前で今までのことどう申し開
きするのかしら、いままの支払い遅滞、延滞、着信拒否、連帯保証
人なしの状況をどういって裁判官を納得させるつもりかしら⋮⋮。
こんなにだれがみてもひどい賃借人なのに、裁判になってもなお、
答弁書を出して争う姿勢を見せるゑ無山の神経がわからない。だか
らこそ裁判になるのだ。尋常ではない話し合いになるかもしれない。
裁判官が和解をすすめてもなお、話し合いが成立しなかったら、
どうなるのだろう。裁判官はそれでもゑ無山に退去は命じることは
できないのだろうか⋮⋮。
裁判所の大きな建物が見えてきた。壱案は裁判資料が全部入って
いるショルダーバッグを肩に下げて歩いていく。
裁判所入り口は三か所あるが、壱案は最初にくぐった正門から入
って行った。そこからだと警備員は多いしもし迷子になってもすぐ
に教えてもらえるだろうと思ったのだ。入口すぐ横には案内書と所
内見取り図が大きく掲示されている。その横には細長い机が置かれ
てあり、本日の裁判と書かれたファイルが四冊おかれている。
222
裁判所は司法と民事にわかれており、壱案は警察が関与しない民
事裁判だったので一番端の方のファイルをのぞいた。このファイル
を見ておかないと今日の自分の裁判がどこの部屋でやるのかがわか
らないのだ。壱案は部屋ごとにページがわかれているのはすぐに分
かった。しかしその部屋ごとのページが順番通りではないのもすぐ
にわかった。
十階何号室は十時から○○裁判、原告だれ誰、被告だれ誰と個人
情報丸わかりな方法で部屋提示がされている。その次のページは八
階の部屋の裁判ページ、その次が十一階でやる離婚訴訟、などなど
で全然脈絡なく、番号昇順や降順でもなく、ページができた順番に
閉じているのではなかろうかと思うやりかたである。壱案はこんな
の自分の県庁でやったら総スカンくらっちゃうぞ、とつぶやきなが
ら自分の名前を探す。真ん中あたりに自分の名前が載ったページが
あった。
十階、一〇一一号室。
時刻十時から十時二十分まで
事件名・土地明け渡し請求事件
原告 太田壱案、
被告 ゑ無山ハカシ
それから書記官砲大の名前があり、最後の項目には裁判官の名前
があった。
﹁立川多知子﹂
壱案はちょっと驚いて裁判官名を眺める。男性だとばかり思い込
んでいたからだ。
﹁うーん、一体どんな人かしら? 砲大書記官さんみたいな面倒そ
うなしゃべりかたをする人だとイヤだなあ、やさしい思いやり深く
てこちらの思いを組み取る裁判官さんだといいけどなあ﹂
それから壱案は裁判所内の郵便局へ行った。裁判所内に郵便局が
223
あるのは確認していた。
実は、壱案はある予感をもっていたので、通帳をちゃんと持って
いた。そしてATMへ記帳にいったのである。記帳した通帳を見る。
はたしてゑ無山の入金があった。今月分の家賃のつもりで入金して
きたのだ。契約解除はしてないと思っているから入金してきたのだ。
一応家賃としてなら三月三十一日までに四月分を入金しないとい
けない。壱案が契約解除を言いたてるとこうして多少遅れたが家賃
のつもりで入金してくるのが笑止だった。しかも口頭弁論の日にわ
ざわざ⋮⋮。昨日までは入金は全くなかった。今、時刻は九時半で
ある。今日の日付になっているのでオンラインで入金したのだろう。
壱案はゑ無山が滞納していても滞納ゼロにしてから、警察に被害
届を出したこと、それと昨日の夕方になってから今日の裁判の出席
と答弁書の提出を裁判所に申し出たことでもしかしたら入金がある
のではないかと思っていた。
案のじょうだ。やっぱり⋮⋮壱案はゑ無山の考え方、答弁の内容
の察しがついた。ゑ無山は債務ゼロの状態では家主は明け渡しがは
っきり言い渡せないことをしっている。勝訴しにくくなることもし
っている。
だとしたら、壱案側の切り札はただ一つ。
今までの入金明細とそれと二月一日付で契約解除通知を出した内
容証明である。
壱案はあらかじめ用意しておいた、別の内容証明の下書きを出し
た。そして今日の日付をいれておく。
⋮本日四月十日、本年二月一日にすでになされた契約解除後もそ
のまま退去せずそのまま居直ることによって当方が受ける損失、す
なわち家賃相当額の損害金として受け取ります⋮⋮
そう、これは家賃ではなく、正確には契約解除後も退去せず、居
座りのための損害金として受け取るのだ。すぐに同じ場所にある内
容証明受け取り窓口にて提出する。この内容証明の控えも、これも
224
裁判の証拠の一つとして提出しておく。そのために地下の売店によ
ってあらかじめコピーをしておく。
それから郵便局すぐ前にあるソファに座ってあわせて裁判官に提
出する、和解案を出して書き添えておく。
⋮⋮本日は第一回口頭弁論の日ですが四月分の家賃相当額に対す
る損害金を受け取っております。すなわち現時点では債務ゼロでは
ありますものの、契約解除はすでにしておりますが裁判官が認めず
契約続行なれば、つまり私こと太田壱案の勝訴をいただけないので
あれば以下の通り和解案を提出しまうのでご一考願えましたら幸い
です。
勝訴すなわちゑ無山の契約解除を認めてくれないのであれば、
せめて以下の条件で再契約を結べるようご配慮ください。
一、連帯保証人は父親以外の人物を新たにたてる。
二、信用保証会社の新規契約。
三、着信拒否を解除する。
四、支払遅滞、滞納しそうになったら最低限ゑ無山さんの方から
連絡をすること。︵それができないからこちらは電話督促をせざる
をえなかった。なのに業務妨害とかいってくる。︶
五、今後、滞納があればすぐに退去します、という一筆をゑ無山
に書いてもらいたい。 壱案はこの和解案をレポート用紙に書いて書記官に出席の挨拶と
ともに提出しておいた。これらは壱案の最大の譲歩だった。この和
解案は仕方なく、というかこれしかないだろうな、という半ばあき
らめつつ書いておいたものだ。
エレベーターホールに向かい、十階で降りる。
まだ裁判開始まで三十分はある。壱案はお手洗いをすませてもま
だ時間があるので、先に裁判をする部屋を見学にいった。裁判をす
る部屋はいくつもある。どの部屋にもドアにのぞき窓があり、今こ
225
の部屋の中で裁判進行中か、それとも無人であるかすぐにわかるよ
うになっている。
壱案の勤務する県庁と違うと思うのは天井がやたらと高いことだ。
そして大勢の傍聴人にも対応できるようにするためか、廊下も広い。
各部屋の前には椅子が適度に置かれている。
が、原告用の出入り口や被告用の出入り口がない。壱案は原告と
被告とドアの出入りが別々だと思っていた。
﹁えーと。仲がとっても悪い原告や被告がこの待ち合いの椅子でで
くわしたり、口論とかならないのだろうか﹂
だが﹁まだ本人訴訟が珍しいから、そういうことはあまりないの
かもしれない。原告被告双方の弁護士だったらたとえ隣り合わせに
座ってもケンカにはならないんだ﹂ と思いなおす。
原告席は裁判官から見て右手側。出入り口から見て向かって左手
席。被告席は逆。
私はあの席に座り、ゑ無山はあっち側の席に座る。そしてまっす
ぐ見るとお互いの顔がまともに見えるのだ。壱案はゑ無山を軽蔑し
つつ、常識が通じない人というので、正直対面するのが怖かった。
特に武道有段者なので激高して万一暴力でも振るわれると壱案は大
けがするだろうと思っている。
それでゑ無山が警察にでも引っ張られると余計に立ち退かなくな
ってしまうだろう、いけない、どうも考え方がナーバスになってい
る。壱案は自分がとても神経質になっているのを自覚している。
壱案は始まる前に出席はとらない、とか聞いているがとりあえず
エレベーターホールの反対側にある細長い廊下を通って第十民事部
の砲大にあいさつに伺った。
﹁あの、おはようございます。十時から予定の太田壱案ですが、﹂
砲大と思しきウチワ片手に何やら書類をチェックしていた男性が
手をあげた。結構年配である。四十代ぐらいか? どこにでもいる
普通の男性だ。
﹁あー、太田さん。本人訴訟の原告さんでしたね、早く来られまし
226
たね﹂
電話と違い穏やかに話されてきたので壱案は驚く。そしてちょっ
と幸先がいいかも、とうれしく思った。
﹁はい早めに来ました。ちょっと緊張しています。被告のゑ無山さ
んは私は怖いです。裁判官さんに話をするのもあがって上手にでき
ないかもしれないですが、よろしくお願いします。それとこれは和
解案です。書いてきたので裁判官さんに渡してください﹂
﹁和解案? ははあ、最初から和解をね?﹂
﹁はい、原告の私からの和解案です。こういう立ち退き訴訟は大家
側が不利でなかなか勝訴をくれないと伺ってますので書いてきまし
た。出て行ってほしいのは山々ですが仕方ないです﹂
壱案は手書きのレポート用紙を砲大に渡す。砲大はそれをさっと
読んで顔をあげた。
﹁まだ少し時間があるので、廊下で待っていてください﹂
砲大は和解案には何も触れない。職業柄、まだしてもない裁判に
関して何も言わないのは当たり前だろう。
﹁待ってください。まだ渡すものがあります。一階の郵便局からさ
きほど被告に内容証明を出しましたのでそのコピーと昨日被告が家
賃のつもりで入金してきましたのでその入金の通帳のコピーもあり
ます。これを原告からの証拠の追加として提出します。﹂
砲大は軽く頷き、これらは甲第十八号証に入れておくと言った。
裁判直前の証拠提出なので面倒がられるかと思ったが、たぶん多
くの人もこれをするのであろう、慣れた手つきだった。壱案は無事
受け取られてほっとした。
﹁では廊下で待たせていただきますが、私はゑ無山さんが怖いので
裁判官さんと一緒にお部屋に入ろうかと思っています﹂
﹁あー、裁判の当事者と裁判官は出入り口が別なの、怖いなら呼び
出すからその辺で待ってて﹂
﹁はあ﹂
﹁じゃ、﹂
227
﹁はい、失礼します﹂
壱案は書記官室を出るとその前にある椅子に座った。何の変哲も
ない無機質な椅子、廊下、天井、書記官のドア、その横にある掲示
板。壱案は椅子に座ったまま自分が作成した訴状や持ってきた賃貸
借契約書などの証拠を一つ一つ確認する。
本人訴訟って誰にも頼れないんだ、壱案はやるだけのことはやろ
う、そう決めている。
裁判、第一回口頭弁論開始五分前。
壱案は椅子からすくっと立った。そして廊下をまわりこんでめざ
す裁判をする部屋に向かう。
部屋の前に来た。部屋の分厚いドアはすでに開いていた。
壱案は胸がどきどきしてきた。被告席にはすでに一人の男性が座
っていたのだ。座って何か書類をみている。あれがゑ無山ハカシ、
壱案がこれから裁判する被告なのだ。入居してからずっと壱案を悩
ませてきたゑ無山本人にやっとあえて話を聞けるのだ。壱案はとり
あえず胸を張って堂々と入室し、着席することにした。
壱案の入室した裁判の部屋。
入室すると傍聴人席がある。奥には柵があり、これは大人の腰あ
たりまである。傍聴人が容易に当事者である原告、被告、裁判官の
席に近寄れないようになっているのだ。
柵には左右の端に扉がある。壱案は向かって左端の方をとおり、
広い机の前の席に座った。
対面席は被告である。
原告席と被告席。その間に書記官の席。
書記官の席は傍聴人たちと対面するようになっている。
そして書記官の後ろの一段と高い席が裁判官席。
裁判官が座る椅子は原告席から座って見ると非常に高くそびえた
つように思えた。
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壱案は気分をおちつけて荷物をもう一つの椅子に置き、資料を広
い机に置く。それから被告席にすでに着席している男性をじっくり
見た。
これがゑ無山か。
壱案はゑ無山のブログを覗き見ているからこれがこの人か、とす
ぐにわかった。壱案は弁護士をたてない本人訴訟だったが、被告に
なったあちらも弁護士は連れていない。ということは本人訴訟同士
なのだ。
壱案がゑ無山を見て違和感を覚えた。それはブログの写真と違っ
て本当の本人がいやにふけてみえたからだ。武道を長年していて、
指導員の資格ももっていて小さい子供を指導しているのは本当だろ
う。体つきもがっちりしている。
だけど、目のふち、法令線などの細かいパーツのしわが深く、ブ
ログでの写真はなぜあんなに若々しくりりしく映っていたのだろう
か、と思った。もしかしたら、自分の画像に細工していたのではな
いかと思った。つまりより若くかっこよく見えるようにしていたの
ではないかと。
次いでゑ無山の自己礼賛、自己陶酔ブログを思い出し、彼に対す
る嫌悪感をはっきり認識した。そうだった、この人はこういう人だ
ったんだ。
ブログの画像と現物が明らかに違う。画像のほうが若く格好よく
見えるように細工する人なのだ。それが悪いとは言わない。ゑ無山
と壱案はマンションを賃貸しているというだけの関係なのだ。ゑ無
山がきちんと壱案に対して契約を守り、ちゃんと家賃を支払ってさ
えいればこんなところで裁判なんかしていない。それだけの関係な
のだ。それがブログやツイッターを介在して、ゑ無山の人となりを
画像や文章で嫌悪を抱いたりするようになったのだ。
壱案は彼のブログでの画像を思い出す。カメラ目線で片手で片頬
に手を当ててにっこりしている笑顔の画像、どこかの建築物の前で
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気取ったポーズ。だれにもコメントを入れてもらわなくとも、自分
が会社経営の社長で顔も良くて文章もうまくて、お金もあって、武
道もできるのに、という自分の評価と世間の評価のずれを嘆いてい
る男。それがゑ無山ハカシ。
有名店の高価な食べ物が大好きで、また大食も大好きで、全部な
んでも食べられる。お顔もよくて仕事も社長、そして車もいいもの、
武道有段者指導者でスポーツ万能の才色兼備。
﹁ナルシスト⋮⋮﹂
壱案はナルシストという言葉を思いつく。そうだ、一言であらわ
すとこの男は﹁ナルシスト﹂ なんだ。非常なナルシストだったの
で、家賃督促の電話や非難されるべき自分の位置が理解したくなく
てそれであんなに怒ったんだとわかった。
ゑ無山の髪型は俳優の藤岡弘にそっくりである。顔の造作自体が
少しだけ似ているのでぱっと見にあ、あの人だとかわかるようにわ
ざとヘアスタイルもそのようにしているのだろうか。
前髪を思い切り盛り上げて、独特のヘアスタイルになじませよう
としている。その努力は報われているだろう。本人も似ていると誰
かに言われるのがうれしいのではないか。一応ネクタイはしめてい
るが今日はもう四月で暑いぐらいなのに、真冬なような毛羽立った
茶色の背広を着ていて体格の良さもあいまってどうにも暑苦しい。
被告席に座ったゑ無山は壱案を被告席から上目使いに見つめてい
る。ブログと違って明らかに年齢が顔にでていて壱案はゑ無山をま
じまじと見つめてしまった。そして彼に対する嫌悪と軽蔑を改めて
感じた。
原告席にいる壱案は裁判提出資料や文房具などたくさん置いてい
る。しかし被告席には何もない。ゑ無山の座っている被告席にはA
四サイズの紙きれが一枚、置いてあるだけだった。
ペンも何ももっていなかった。
書記官席にいた砲大が立ち上がって、壱案のいる原告席に来た。
230
砲大は黒いマントを着用している。この裁判する部屋に入る時は、
これを着ているのだろう。黒いマントはどういう思想でも動かされ
ないという司法界に生きる人間の意志の表れという。これから入室
するだろう裁判官も着用しているはずだ。砲大は壱案に向かって聞
いた。
﹁原告は印鑑持ってきておられますか﹂
﹁はい、ここに﹂
﹁被告の答弁書です。受け取ったら裁判官用の答弁書の下に印鑑を
押してください﹂
﹁はい﹂
壱案は素直に印鑑を押した。すると砲大は壱案に一枚の紙切れを
渡して書記官積に戻った。この紙切れが原告のゑ無山からの答弁書
だ。印鑑をついた分は裁判官保管用の答弁書になるのだろう。
答弁書。
もう裁判の直前なのにたった今渡されたのだ。壱案はこれも裁判
の話の中で取り上げられるだろうと思ってあせって答弁書を読む。
しかし答弁書とは書いてあっても中身がすかすかだった。
⋮⋮ちょっと何コレ⋮⋮。
以下はゑ無山の裁判直前に提出した答弁書である。
原告 太田壱案
被告 ゑ無山ハカシ
答弁書
大阪地方裁判所 第十民事部1係A 御中
第一 請求の趣旨に対する答弁
一、原告の請求は棄却する。
二、訴訟費用は原告の負担とする。
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第二 請求の原因に対する答弁
請求原因論旨不明瞭。追って認否する。
第三、被告の主張
一、支払遅滞について
支払遅滞があったことは認める。月末日が土曜日もしくは日曜日で
あり、多忙であった。当初から原告の支払督促が苛烈を極め、被告
の経営する会社にもなされ当方の電話に出た人はだれであろうと﹁
ゑ無山さんに家賃を支払うようにいってください﹂ と触れまわら
れ、連呼された。ために被告は著しく名誉を棄損され職場にも迷惑
がかかった。
二、電話着信拒否について
着信拒否も認める。上記によるこれ以上の名誉棄損や職務妨害を怖
れて転居した職場の電話番号等を教えることに逡巡していた。
三、原告の誹謗中傷について
不特定多数が閲覧可能なツイッターにて再三原告は﹁ゑ無山さんへ﹂
と題して家賃督促を訴え被告の名誉は著しく棄損された。原告側
の只田弁護士もまた﹁太田壱案が悪い、これは明らかに名誉棄損で
す、すぐにやめるように言います﹂ と言っていた。
⋮⋮答弁書はこれ一枚だけだった。証拠書類も何もなかった。
﹁何これ⋮⋮、結局全部私が悪いと言いたいわけ?﹂
壱案は一読して驚いた。こんなに被告が自分の行為を正当化する
とは思わなかったのだ。しかも堂々とした文面でこれではまるで支
232
払遅滞や滞納は全部壱案のせいではないか。ゑ無山の頭の中では全
部、私が、悪いことになっているのか?
原告の壱案が出した入金された期日一覧や通帳のコピー、支払督
促の内容証明書のコピー、最後の契約解除通知には一言もふれてい
ず、これだけが答弁書の内容だった。今後のことも書かず、支払遅
滞は認めたものの、謝罪も何もない。ただ原告の壱案だけを責めて
いるという内容、しかも答弁書のメインになる﹁答弁﹂ が原告の
言い分﹁論旨不明瞭﹂ といういいわけで何も書いていないに等し
いものだった。
これってどういうつもりなのか、
これも裁判官は答弁したと認めるのか、
壱案はどう反論して裁判での会話をすすめていくべきなのか⋮⋮
壱案は茫然として被告席のゑ無山を眺めた。ゑ無山は素知らぬ顔
をして背筋をしゃんと伸ばして座り自分の爪をいじっている。
そこへ黒いマントを着用した裁判官が入室してきた。原告被告席
より二段ほど高い位置にある裁判官席で止まって正面を向いた。立
川多知子裁判官だ。背が高く髪を小さくまとめている。美人だった。
にこりとも見せずその美人裁判官はファイルを裁判官席にそっと置
いた。同時に砲大書記官が起立し、﹁今から第一回口頭弁論をはじ
めます﹂ と言った。
壱案も同時に起立する。ゑ無山も起立した。二人とも裁判官に向
かって礼。
壱案は顔をあげて改めてその美人裁判官を見た。
立川多知子裁判官。壱案より年長のようだ。やはり背が高く目が
大きい。唇もきりっと結ばれている。同じ女性ということもあり、
何となく緊張が和らぎ壱案はほっとした。裁判官と目と目があった
233
ような気がして、壱案は再度会釈した。裁判官は厳しい表情で一言
も言わなかったがそれでも目元がふと和らいだように感じた。
﹁着席してください﹂
書記官・砲大が言い、壱案は着席した。
いよいよこれから第一回口頭弁論がはじまるのだ。
時刻はまさに午前十時。
予定表では十時二十分まである。
壱案が起こした裁判が今、開始される。
一同着席するとすかさず砲大書記官がゑ無山が直前に提出した答
弁書を裁判官にも差し出した。裁判官は軽くうなづいて、受け取っ
た。それから顔をあげて裁判の開始を宣言する。
﹁ただいまより、第一二三四号の建物明渡裁判の第一回口頭弁論を
開始いたします﹂
美人裁判官はそれだけいうと後は話の中核にいきなりつっこんで
きた。
﹁原告は今年の二月一日に契約解除をしていますね、それでもなお
被告は当該地を明け渡さず、ということですね﹂
壱案は裁判官を見つめてはっきり言った。
﹁そうです。話し合いもなにも契約解除はもう有効だと思っていま
すので、それを認めていただきたく思います﹂
裁判官はうなづいた。それから被告のゑ無山に問いかけた。
﹁今から言うのは原告が提出した証拠書類によるものです。入金明
細によるとあなたの家賃の支払遅滞並びに滞納は当初から明らかで
す。支払遅滞や滞納があるたびに内容証明で支払督促をも、されて
いますね。契約解除も約款にのっとってなされています。だがあな
たは原告の主張を認めていない。それはなぜですか﹂
壱案は背筋をのばしてゑ無山をはっきり見据えた。
234
⋮⋮なぜ。
この人は最初から支払遅滞をしたのか、最初から滞納させころ合
いをみて夜逃げでもしようとしていたのか? ゑ無山の不誠実さは
こうしても明らかである。彼の口からなぜか、どういう理由をいう
かぜひ聞かせてもらいたいのだ。
被告席にいるゑ無山は壱案をちらと見て薄笑いをした。それから
おもむろに立ち上がって発言した。
﹁それは、ですね。仕事が大変に忙しかったのです。それに支払督
促がひどくて私は職場に非常に迷惑がかかり、事態改善するのに家
賃を支払う時間がないくらいに忙しかったのです。この人の支払督
促はこっちの都合お構いなしに電話をかけるし、電話口に出た人は
誰にでも私に家賃を支払え、と連呼しました。
支払期限が来てないのに電話が来たこともあり、大変非常識な人
で、こちらは迷惑でした﹂
壱案はその言いわけにまた茫然とした。さっと立川裁判官の方を
見たが裁判官は平然とした顔で﹁それでは、なお、なぜさっさと支
払わなかったのですか﹂ と聞いた。
ゑ無山は間髪いれずに答える。
﹁だから私は忙しかったのです。この人の支払督促ときたらそれは
もう苛烈を極めたひどいものでした﹂
壱案は思わず口をだした。
﹁被告のいうことはあんまりです。それはうそです﹂
裁判官は壱案に振り返り、首をふった。しゃべってはいけないの
だ。今は裁判官が被告に問いかけているから。壱案は黙った。
﹁順を追って契約された理由に添って質問いたします。それから、
現時点では連帯保証人と連絡不可能だろうですね。契約書によると
連帯保証人はお父さんですが今はどちらにいらっしゃるのですか﹂
﹁ああ、それは東京にいます﹂
﹁この契約書によると連帯保証人の転居、連絡先の変更は賃借人が
賃貸人に伝える義務があります。それをしなかったのはなぜですか﹂
235
﹁この大家さんは父親の新しい住居にまで支払督促をするでしょう
し、それは迷惑がかかるので、それで言えませんでした﹂
﹁着信拒否も同様の理由ですか﹂
﹁はい、そのとおりです﹂
﹁契約書では信用保証会社加入も義務付けられています。被告のあ
なたは無断で契約解除しましたね、それはなぜですか﹂
﹁それはこの人がなぜか知りませんが、代弁済を受けないようにし
たため、私も信用保証会社と契約した意味がないと考えて更新しま
せんでした。すべては私を追い出したいためあくどい手を使われツ
イッターでもひどい名誉棄損を受けたため私は損害賠償を申し出た
いくらい腹がたっています﹂
﹁契約解除通知を受け取った時、あなたは退去を考えなかったので
すか﹂
﹁私はちゃんと家賃を支払っています。だから債務はゼロです。た
めに契約解除は無効です。今月分もちゃんと支払っていますよ、こ
んなの無効です﹂
裁判官はゑ無山に向かって軽くうなづくと、原告席の壱案に向か
って今度は話しかけた。
﹁被告が言う、会社での支払督促、並びにツイッターでの支払督促
と名誉棄損は本当ですか﹂
壱案はその質問に失望した。が、だが質問は質問だ。正直に答え
た。
﹁会社へは電話で支払督促をしました。携帯電話では返答なく仕方
なくさせていただきました。決して被告の主張する苛烈な督促をし
た覚えはございません。私はゑ無山さんとの交渉も何も連絡すらと
れないので、仕方なく名前検索してツイッターで呼びかけをしてし
まいました。
今から思えば、鍵をかけて呼びかける方法もあったのに、ツイッ
ターのルールをよく知らないままにつぶやいて書きこんだのは申し
訳なかったです。名誉棄損とまでは考えが及びませんでした。
236
この件につきましては弁護士さんから連絡と警告を受け即日中止
しました﹂
裁判官は軽くうなづいた。また被告の方に向き直る。
﹁だが被告は退去の意志はないのですね﹂
ゑ無山は顔をしかめて答える。
﹁ありません、退去の必要はないと考えています﹂
﹁だがこのままの状況では原告に不利です。和解として、再契約を
するという考えはどう思いますか﹂
﹁それは内容によりますね﹂
﹁連帯保証人不在の状況は困っておられますよ、また保証会社も再
契約しないといけませんね﹂
壱案はまた口をはさんだ。
﹁再契約ですが、するなら連帯保証人はゑ無山さんのお父さん以外
の人にしてください﹂
ゑ無山の形相が変わった。なにっと言う感じで壱案を睨みつけた。
壱案はひるんだが、ここでひくわけにはいかない。今までゑ無山は
電話口にも出れず話し合いに応じなかったのだ。今言うべきことは
言っておかねばならない。そのために今裁判をしているのだ。この
ために来たのだ。
﹁私はゑ無山さんのお父さんとも何度か話しましたが、連帯保証人
なのに私は関係ない、と言いきったり、退去を申し出てもゑ無山さ
んにとりついでいただけなかったのです。再契約時はお父さん以外
の人にしてください、ぜひ﹂
﹁いや、連帯保証人は父親です﹂
﹁私は所在すら、知らないです。このままだと困ります﹂
立川裁判官は原告と被告の話をさえぎった。低い声ながらそれは
裁判室中で響く。威厳ある声だ。人を裁く権利を持たされた人物の
声。
人との争いに介入することに慣れた人間の声。
237
それは武道達人を標榜する海千山千の厚かましいゑ無山ですら黙
りこませる威力をもった。
裁判官は発言した。
﹁信頼関係はかようにすでに破たんしています。今後の話ですが、
再度聞きますが退去の意志はなく、そして再契約もかように条件を
こばまれるならこれも成立しがたいように思えます。被告は今の状
態のままで契約を続けたいのですか﹂
﹁はい、今の住居は気に入っています﹂
ゑ無山はぬけぬけとそんなことをいう。立川裁判官は無表情にゑ
無山に再度話した。
﹁しかし被告は原告の電話督促も名誉棄損と受け取り実際着信拒否
もしているのでしょう﹂
﹁だってですね、この人はマンションの管理人さんからも聞いてい
ますが、ちょっと滞納したぐらいで店子を追い出そう追い出そうと
画策する人なんですよ、大変にわがままで非常識な人間です。です
が、マンション自体は便利なところにあるし、私の仕事の都合もあ
るのでこのまま住もうかと思っています﹂
ゑ無山の言い分こそ、保身と壱案への非難しかしないわがままの
極致だった。
しかもまだ対面していないマンション管理人の話まで持ち込んで
いる。壱案はあの部屋を貸したのはゑ無山がはじめてなのだ。それ
以前は知らない。というよりも他人に貸した履歴自体がない。それ
なのにゑ無山は知ったかぶりをしてこの裁判の席上で大ウソを平然
と裁判官に教えた。
壱案にはそうとしか思えなかったが裁判官は淡々としている。被
告を諭そうとかしていない。砲大もずっとうつむいたまま机の上の
パソコンを黙っていじって何かを入力している。
壱案は自分の分が悪くなっているのを感じた。
238
そこで意外なことがおこった。
いや、論外なことがおきたといってよい。
発言を終えると突然ゑ無山が壱案の方を見てファイティングポー
ズをとった。
小刻みに身体をゆすり、相手を威嚇する、ボクシングやレスリン
グの試合でみるようなポーズだった。勝ち誇った顔をしている。 それを三,四回繰り返してポーズをとった。
ゑ無山にとっては壱案は空手の試合相手かなにかと一緒なのだろ
うか。
しかし裁判席上でそんなことを、そんな仕草ができるのが信じら
れなかった。
壱案はその様子があまりに異様で唐突で茫然とした。
立川裁判官は黙ってゑ無山の様子を見ていた。
砲大書記官もまた、顔をあげてゑ無山を見ている。
ゑ無山は勝訴するつもりなのだ。自分は負けないということを確
信しているのだ。つまり壱案のマンションをこのままずっと住みつ
くつもりでいるのだ。
もうすでに勝っているつもりなのだ。
大家である壱案が敗訴することを見据えてやっているのだ。
そして和解すら自分に有利にもっていこうとしている⋮⋮。ゑ無
山は立ち上がる時と同じようにゆっくりと時間をかけて椅子をひい
て座った。座るときに壱案をちらっと見てまた薄笑いを浮かべた。
この口頭弁論の時間は二十分しかない。時間稼ぎでもしているつも
りなのだろうか。
やがて立川裁判官が被告、ゑ無山に向かって話した。
ゑ無山の動作は見ていたはずだがとがめもたしなめもしない。さ
239
っきの話のついで、と言う感じで言う。だが重大な発言だった。
﹁あなたは今、和解案を拒否しました﹂
壱案はその言葉で裁判の流れが少しだが変わったことを直感した。
ゑ無山はすでに神妙な顔に戻って着席している。着席したまま裁判
官に向かって反論した。
﹁私は退去はいたしません、私は今滞納すらしていません。原告の
言い分はおかしい。
家賃は今滞納もしていませんし、あの契約解除は無効です。私は
決して退去はいたしません﹂
立川裁判官は改まった様子で再度被告に言った。
﹁ではあなたの答弁書ですが証拠等はないですか。つまり原告から
の支払督促で迷惑を被った証明です。
苛烈を極め名誉棄損をしたという説明を明確にするものはないで
すか﹂
﹁ああ、それは⋮⋮。ありますね、次回持ってきます。たくさんあ
りますよ、ツイッターの書き込み記録とか⋮⋮本当に私は迷惑で﹂
裁判官は最後まで言わせなかった。
﹁それでは今日はここまで。次回ですが来月の今日つまり五月十日
の午後はいかがでしょうか﹂
裁判官はまず被告のゑ無山に都合をきいた。ゑ無山はちょっと考
え込んでいるポーズをとった。それからおもむろに顔をあげて裁判
官に返答する。
﹁ああ、その日でもいいですよ﹂
それから裁判官は壱案に向かう。
﹁では第二回口頭弁論は五月十日でいいですか、時刻も午後一時か
ら﹂
﹁はい、いいです⋮⋮﹂
裁判官は軽くうなづき、宣言した。
﹁これで第一回口頭弁論を終わります﹂
240
壱案ははじめて時計を見てもう二十分経過したことに驚いた。そ
う今ぴったり十時二十分。ゑ無山は裁判官が部屋を出るよりも先に
退出した。もう用はないという感じで。今度は壱案を見もしなかっ
た。
壱案はそれを眼のはしにとらえつつ、マントを翻して裁判官席か
ら専用のドアを開けて退出されるのをお辞儀しつつ見送った。次い
で砲大書記官も退出。
壱案は広い裁判室で一人ぽつんと残ってしまった。
傍聴人席は最初から最後まで見学人はいなかった。裁判官、書記
官、原告の壱案と被告のゑ無山の四人だけだった。そして壱案以外
の人は退出し、今この裁判する部屋で一人だけぽつんと座っている。
いつまでもこの席にいても仕方がない⋮⋮。
壱案は何も考えずに資料をバッグに入れてたちあがった。心の中
がからっぽになったような気分だった。
⋮⋮ゑ無山があんなに非常識な、つじつまのあわないことを堂々
というタイプの男だとは全然思わなかったのだ。精神的に異常だと
までは思わないが、しかしどうしてあんなに自分は悪くないって思
えるのか不思議だった。
そもそも裁判をおこされたこと自体、ゑ無山が家賃をきちんと支
払ってくれないことによる。それなのにあれだとまるで壱案の支払
督促が厳しすぎて家賃が支払えないといっているようなものではな
いか。
あの答弁書だって壱案のような裁判に関して全くのズブの素人が
みても、ヘンである。まったく答弁になっていない。しかも誹謗中
傷と名誉棄損の証拠は壱案が書いたツイッターの記録をもってくる
という。
裁判官もあんなヘンな答弁書を真に受けてそれにそった裁判の流
れをした、ということで失望もしたし、非常に残念に思った。
241
それにあんなに譲歩したつもりでどうせ敗訴なるなれば、追い出
せないならばせめて再契約をと思って和解案も先に裁判官に提出し
ておいた。それなのに、それなのに。
ゑ無山には全く通じず拒否された。
このまま再契約になっても父親が連帯保証人のままだと今までと
は全く同じ経過を今後も永遠にたどることになる。それがイヤだか
らこそ裁判したのに。そこまで考えが及ぶと壱案の心に虚無感が漂
った。
一体この裁判どうなるのだろう。ゑ無山の勝ち誇ったあのポーズ
が忘れられない。
自分のペースで裁判できたという驕りがあるのか、すでに勝訴を
確信していたからあのポーズができたのだろう。壱案は空手を知ら
ない女だったが、小刻みに左右にゆするポーズはたぶんゑ無山が試
合等で相手をやっつけるもしくはやっつけたあとでやるくせなので
はないかと見ている。その推測も当ってはいるだろう。
壱案は頬が濡れたので無意識に手でぬぐった。そこで自分が今涙
を流しているのに気づく。
ここはまだ裁判する部屋だ。このあとまた誰かが違うことで裁判
するだろう。次の原告や被告が入室してくるかもしれない。
壱案は急いで立ち上がり、廊下に出て椅子に座る。ハンカチを取
り出して涙をぬぐった。一度ぬぐうと涙がわっと出てきた。
⋮⋮ゑ無山が非常識なのは知っていたが裁判官がいる口頭弁論で
も非常識なたわごとを恥ずかしげもなく堂々と言うとは思わなかっ
たのだ。ゑ無山は一度も支払遅滞や滞納を悪かったとは言わなかっ
た。壱案の督促のみを怒っている。自分がなぜこの席に呼び出され
たのか全然理解していなかった。
ゑ無山の悪びれない堂々とした態度に壱案はあきれるのを通り越
して頭のおかしい人に貸してしまったんだと思った。だが頭がおか
242
しくてもゑ無山は会社経営をし、空手指導員もし、柏崎正午のよう
な法律家の友人もまたいるのだ。そして普通の社会生活をし、普通
以上の贅沢な生活をしている。
それでもやっていけるのだ。そういう人なのだ。それで誇り高く
生きているつもりなのだ。壱案のような人はどうでもいいのだ。自
分が壱案や以前の夜逃げしたマンション管理人はどうでもいいと思
ったらどうしてもよい、自分は許されるとおもっているのだ。自分
は絶対非難される人間ではないと思っているのだ。これはもう頭が
おかしい、としか思えない。
なのにあの立川裁判官はゑ無山が直前に提出した答弁書を信用し
たのだ。口頭弁論の内容も被告の答弁書にそった話になった。被告
の堂々とした答弁書や言葉には出さない原告への軽蔑、ファイティ
ングポーズもとがめられなかった。
壱案が勝訴は望めないだろうしせめてこちらの有利なというか当
然の要求はささやかなものだ。こちらが契約解除をしたつもりだが
裁判官は認めない可能性が大きいと思って、せめて賃貸借契約書を
やり直したい、そう思っていて和解案を書いたのだ。その和解案だ
って常識的なものだ。賃貸借契約のやり直しなら信用保証会社の契
約と連帯保証人を新たにたてることなど⋮⋮当たり前のささかやな
和解案だ。それなのに、それなのに立川裁判官はこちらに配慮して
くれなかったのだ。壱案の思いは裁判には通じない、裁判官にも通
じない。
なによりも被告、ゑ無山に今後も壱案の思いは絶対に通じない、
それが裁判の席上ではっきりとわかりそれが壱案に虚無感を感じさ
せている。
壱案は絶望した。
裁判に、今後の展開に。
あのゑ無山は退去しない。
退去もさせられない。
243
壱案はそれから背中を丸めて裁判室の前でずっとずっと声を押し
殺して泣き続けた。
244
第二十四章・第二回口頭弁論へ向けて
壱案は長い間、裁判所の椅子に座っていた。とかく十時からの第
一回口頭弁論開始、そして二十分間きっかり裁判して今終わって気
がぬけてここにいる。
ゑ無山がどういう人か、非常識な人というのはわかってはいたが、
あんなに正当化してモノをいう人間とまでは思わなかったのだ。そ
してその矛盾は裁判官や書記官はわかっているはずなのに、とがめ
もしない。たしなめもしない。ファイティングポーズも見ていたの
に何も言わなかった。原告に対してあんな無礼なことをして何も言
わない。
裁判官ってもし私がゑ無山に空手で殴られたりしても何も言わな
いのかしら?
被告の言い分をちゃんと最後まで聞いて、その上被告の証拠をも
ってくるようにという親切さ。被告の証拠というのは壱案がしたと
いう被告への誹謗中傷の証拠なのだ。壱案は賃貸借契約書の解約が
生きているのでゑ無山に退去してほしいと思って裁判をしたのだ。
それなのに話の論点がずれてやしないか。おかしいのではないか。
壱案は有休をとって裁判するためにやってきた自分を情けないと
思った。お金をドブに捨てたようなものかしら、これまでいつ家賃
が入金されるかとどきどきしながらの通帳記載、代弁済の申し込み、
全部ゑ無山が契約を守ってくれないせいなのに。それなのに。
その上ゑ無山はこっちを心底バカにしているのだろう。あんな横
揺れのみっともない空手ポーズをとったりした。あの人は家賃滞納
常習者じゃないの、壱案からみてあの人はれっきとした犯罪者にみ
える。なのに犯罪者ではないのだ。
家賃滞納者は壱案以外にはだれにもとがめられないのだ。しかも
あの口頭弁論ではゑ無山がいいたいことは心行くまでいえたはずで
ある。実際壱案よりもゑ無山の話す時間がずっと︵絶対三倍は︶長
245
かった。
ゑ無山の異常さが吐露されたと思いきや、なのに裁判官は一度も
注意することなく、第二回口頭弁論の日を決めた。もしこのままの
月イチのペースで裁判が延々と続くようなら⋮⋮壱案はここまで考
えてまたぞっとした。私はあのゑ無山と対面してまた彼の勝手な言
い分を延々と聞かされるのか!
契約解除はいきているか、いきていないか。それだけの判断を裁
判官にゆだねているはずなのに、ゑ無山は壱案を責めることしかい
わず裁判官も契約解除がどうとかは全く触れてくれなかった。
そう考えるとまた涙が出てきた。
絶対にゑ無山が悪いのに、それなのに、罰を与えるどころか追い
出しもできないという情けなさ。
壱案は裁判官の言葉や態度を反芻する。しかし最後の方ではっと
した。
﹁和解案を拒否しました﹂
そのセリフ。もしかしたら、和解が拒否されたら、それなら、敗
訴でない? 勝訴、いける⋮⋮?
いや、ドッグの追給はじめ梨本司法書士からも立ち退き訴訟は大
家にはなかなか勝訴はくれないものだとはっきり言われている。だ
としたらどうなるのか、和解に至らない場合は判決が下される。そ
こで裁判官の案で再契約となるのか。少しでも賃貸人である私が有
利になるような判決にしてくれるのか。
壱案にはわからない。とにかく第一回口頭弁論はゑ無山の考えの
異常さ、自分は許されると思う自分勝手な考えに翻弄された時間で
もあった。こんな人が普通の社会生活を営み、社員を雇い社長とし
て会社経営をし、余暇には空手の指導員をしている。壱案のような
立場の人だけには迷惑をかけてもよい、その基準は一体なに?
壱案はここで泣いてもゑ無山はちっとも困らない。長い長い溜息
をついてから、壱案は立ち上がった。来月の第二回口頭弁論に向け
246
てあと一カ月。どういう人かわかったので、とにかくこっちも準備
書面と陳述書というのも書かないといけない。
壱案はとりあえず第二回口頭弁論の準備をしようと考えた。被告
ゑ無山からの答弁書ももっと早くにみたかったが、結局見れたのは
口頭弁論直前であり、吟味するヒマもなかった。またこんな言い訳
にもならないクズな答弁書の一体どこに反論しろというのか。
本来ならば第一回口頭弁論前にゑ無山からの答弁書がきて、その
反論として準備書面というものを用意し裁判官はそれにそってもっ
とつっこんだ話ができたのである。
壱案は被告ゑ無山が出した答弁書、一枚のぺらっとした紙を見つ
めてまたため息をついた。ゑ無山は口頭弁論その日に提出したこと
で裁判の進行を遅らせる目的は達することはできたのだ。というこ
とは裁判の判決も遅らせることができるし、その間も退去も考えら
れないであろう。
しかも内容が壱案の訴状にそって書かれもせず、壱案の非難に終
始している。壱案が裁判を起こしたのは契約解除の有効性とゑ無山
の退去を願っての事だ。それなのに、裁判官はこの争点を全く問題
にしてくれなかった。壱案の被告ゑ無山に対する名誉棄損の証拠、
ツイッター記録を証拠として出せと言う、壱案には裁判官の意図が
わからなかったし、くやしかった。
このまま争点がずれていったら、壱案の土地明け渡し訴訟ではな
くなり、ゑ無山が壱案に対する名誉棄損の訴訟になっていくのでは
ないか、そこまで考えると壱案はぞっとすると同時に情けなく思っ
た。
そういうことを考えるのは、壱案にとってとてもつらい時間だっ
た。
だがため息をついても仕方がない、壱案はとりあえず裁判途中で
も誰か弁護士をさがそうと思った。こんな展開は予想もつかなかっ
たので法律家の助言がほしくなったのだ。すでに本人訴訟がはじま
っている裁判に関して弁護士は相談にのってくれるだろうか、仕事
247
の依頼ではなくアドバイスだけで⋮⋮。
壱案は首をふった。それから悪いと思いつつまたまたドッグの追
給に電話した。この人はゑ無山に代弁済したさいに支払督促にいっ
てゑ無山と直接会話しているのだ。少しアドバイスを欲しいと思っ
たのだ。迷惑そうだったらもちろんすぐ謝罪して電話を切るつもり
だった。
しかし追給はあいかわらず元気いっぱいの声であいさつした。壱
案はほっとした。そしてはじめてこの人っていつも電話で元気だけ
ど年はいくつぐらいかな、と思った。
﹁へーえ、太田さん、もう第一回口頭弁論までいきましたかー﹂
﹁はあ、ゑ無山さんと会いました﹂
﹁じゃあ裁判の席にはのこのこ出てきたんですね﹂
﹁いえ、のこのこどころか、もう態度が大きくて⋮⋮﹂
壱案はまた怒りがこみあげて裁判の様子を追給に教えた。
空手の試合のように体を小刻みに横にゆすってポーズをとった話
をすると、追給は無遠慮に﹁わははは、あははは﹂ と笑った。
﹁場所柄のわきまえもなくそんなことをしたのかー、あのゑ無山は。
わはは、そりゃ裁判官の心証を害しましたね、やっぱりあいつはア
ホやのー﹂
﹁心証。心証ってあるのですか﹂
﹁ぼくはあると思いますよ、だって裁判官だって人間だもん。それ
にこの事件、だれが見たって家主が思い詰めたうえでの裁判をおこ
したってわかりますからねー﹂
﹁でも私契約解除が生きているはずとそれを強調したかったのに、
何も私に質問してくれなかったし、私がゑ無山にしたという誹謗中
傷の証拠もってこいとか言ったのよ。原告の私の不利になるような
証拠を持ってこいって⋮⋮裁判官という人種にすごく期待していた
のに、私はあの時ほどがっかりしたことはなかったです﹂
﹁でもそいつ、答弁書も当日もってきて、その証拠となるものは何
248
もなしだったのでしょう。太田さん、通常明け渡し崔案は家主不利
だけどこれって、もしかするともしかするかもな﹂
﹁本当ですか、だって裁判当日に家賃振り込みしてきたのよ、あっ
ちは債務ゼロだと絶対に勝てると思っているのよ﹂
﹁家賃、まさか素直に受け取ってはいないでしょうな﹂
﹁一応、予測はしていたので家賃として受け取らず、契約解除後も
居直る家賃相当額の損害金として受け取りますと内容証明で送付し
ておきました。裁判直前に書記官にその写しも証拠の一つとして渡
しましたし﹂
﹁ふん、いいじゃないですかー。しかしその裁判官最初から和解の
話をしてくれなかったんだね、ちょっとそれ異例かもな﹂
﹁いえ、和解の話は少しだけでしたけどありました。でも和解にな
らなかったと言われました﹂
﹁それ、だれが言った?﹂
﹁裁判官です。立川多知子っていう美人の裁判官です﹂
﹁美人かどうかなんて関係ないけど、その発言は重要だね﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁うん、太田さん来月第二回口頭弁論ですね。今度も早めに準備書
面と陳述書を書いて裁判所に送付すべきです。証拠も、ね、なんで
もいいです。着信拒否記録、信用保証会社のわが社との契約解除通
知、連帯保証人の住民票、あいつの父親も別件で夜逃げして裁判の
被告ですからね、そこの住所にいないって証明も出したらいいです
よ、要は裁判の証拠、なんでもいいです。多ければいいってもんじ
ゃないけど、証拠は証拠で裁判官、必ず目をとおしているはずだか
ら﹂
﹁それであの、証人っていうの、もし必要があれば追給さん出てく
れませんか? 追給さんと前の住居で夜逃げされたという会社の事
務員さんを頼もうかと思います﹂
﹁あー、つまり家賃請求にいって業務妨害とか名誉棄損と言われた
とかいうやつですか。この場合は必要ないと思いますけどね、ま、
249
その話が出たら考えときます﹂
﹁はあじゃあ裁判官から要請があれば、ということで﹂
﹁そうですね、じゃあ、このへんで﹂
﹁お話聞いていただいてありがとうございます﹂
﹁裁判、やってみないとわかりませんがあっちがそういう態度なら、
マジでもしかしてもしかするかも、ですな。また来月の様子がわか
れば教えてください﹂
﹁はいありがとうございます﹂
壱案は追給と話をして気分が少し楽になった。まだ敗訴決定では
ないのだ。家主不利なのは間違いないが、やれることはやっておこ
う、壱案はそう決めた。
準備書面と陳述書がいる。
さて何か書いたらいいのか、準備書面と陳述書、その区別は?
どっちがどっちで注目されるのか、裁判官はどちらを重要視する
のか。
壱案はすべて証拠を出し切ったと思うがようく考えてみようと決
めた。
やれるだけのことをやってみよう、と思ったのだ。
壱案はまず新しく提出する証拠を探した。入金記録や契約解除通
知などの内容証明は全部出している。まだ他にはないか、他にもと
りこぼしはないか、と考える。
いや、一つあった。追給がいったこと。
それは被告ゑ無山ハカシの父親かつ連帯保証人の不在を証明する
もの。壱案は連帯保証人の住民票を取りに行った。当人の家族でも
親族でもないので、賃貸借契約書と訴状の写しを持っていく。あり
がたいことに休日でも大きな駅構内の区役所出張所のカウンターで
受け付けてもらえる。だが住民票はもらえなかったのである。壱案
250
はカウンタで驚いて大声を出してしまった。
﹁えっ、いただけないのですか? だって賃貸借契約書の直筆の住
所表記が⋮⋮もういないことはわかっていますが、そこの住所にい
ない、とわかればいいのです。新しい住居を知りたいわけではない
のです、裁判の資料にしたく思いますので﹂
﹁でも最初からその人、そこに書かれている住所にはいないですよ、
まったく違う住所ですね。東京にいる? そうはなってないですね。
住民票は東京じゃないですね、ずっと同じ場所でそこで住んでるの
かはわかりませんけど、住民票は動いてないですね﹂
﹁どういうことでしょうか﹂
﹁要は最初からそこの住所にその人は住んでいないので住民票は出
せない、住んでいた記録もない、そういうことです﹂
﹁まあ⋮⋮じゃあ、最初の最初、賃貸借契約書を作る段階からうそ
をつけれていたということですか﹂
﹁そこまではわかりかねます﹂
﹁そうですね、そうでしょうね⋮⋮﹂
壱案は嫌な予感がした。その場で今度は被告であるゑ無山ハカシ
自身の住民票を請求した。係員は背後にあるPCを操作する。やが
て顔をあげて言った。
﹁この人、請求された住民票には見当たりませんね。つまり住民票
の移動がないってことです﹂
ではゑ無山自身は最初から壱案のマンションには住民票は動かし
てないのである。なのにこのままの状態で住み続けたいと主張する
理由は何だろうか。なぜそこまで執着するのだろうか。
そしてそのゑ無山の連帯保証人となった父親もまた住民票も置い
てない住所を契約書に書いたのである。常識外のことではなかろう
か。賃貸借契約書には正確なことを書くべきである。契約した当時
に住んでいる住所を書くべきだったのである。なのにうそを書いて
いたことになる。この期に及んでもなお、ボロを出すゑ無山ハカシ
とその父親の連帯保証人!
251
契約にあたりゑ無山ハカシの住民票はもらってはいたが、連帯保
証人の住民票ははじめから不要だったのでないのが当然である。だ
けど連帯保証人の父親も夜逃げときいていたので、そこの住民票も
うつされているに違いない、とふんできたのに。住民票がうつされ
ていた、そこに不在というよりも最初の段階でうその住所を書かれ
ていたのである!
壱案はカウンターで呆然とした。⋮⋮ではゑ無山は親子して最初
から壱案のマンションを滞納するつもり、あげく夜逃げするつもり
だったのだろうか、信じられない。
壱案が連帯保証人の関連の公的な証明をもらったのは、契約書に
ついた印鑑証明だけだ。これは確かだと思う。まさかここまでは偽
造はしていないだろう。だけど実際に住んでない住所をわざわざ書
いたのはなぜか。
壱案は顔をあげた。区役所の出張カウンターはごく小さくて狭い。
ゑ無山親子の住民票はないと告げた係員が壱案を見守っている。壱
案は小さくうなづいた。
﹁じゃあ、住民票はいいです。だけどゑ見山ハカシ本人には今裁判
で争っている当該物件に住民票を置いてない照明を、そしてその父
親には契約書に書いてある住所に住んでいないという照明が欲しい
です。それを裁判所に提出します。最初から住所欄にうそを書いて
いたのでしたらこちらに有利な判決に導けるかもしれませんので﹂
係員も小さくうなづいた。
﹁そういうものは存在しないですが、この住民票の請求用紙に既定
のハンコは押せます﹂
﹁それでよいです、それでお願いします﹂
係員は軽くうなづくと壱案の請求用紙にその日の日付印と﹁請求
書の住所には見当たらず﹂ の黒いハンコを押してくれた。受付係
のサインも下部に入れてくれた。
壱案はこれも証拠にしよう、と大事にもってかえった。他にも嘘
をつかれているのではないか、だが壱案がわかるのはそこまでだ。
252
お次は準備書面だ。被告ゑ無山が出してきた答弁書への回答にな
る。壱案は何を書いたらいいのか、陳述書も書かないといけない。
はっきりいって準備書面と陳述書の区別がつかない、どっちが重
要でどっちが裁判の口頭弁論上で議論の対象になるのか、全然わか
らない。PCで検索してもなおわからない。書いてあることが各自
ごちゃごちゃだ。どうしたらいいのか、と壱案は途方にくれた。
とりあえず準備書面は第一回口頭弁論のその日にもらったゑ無山
の答弁書への反論、という位置づけで書いていくことにした。
そして陳述書は証拠の一つとしての位置づけ。
二つとも答弁書にそった第一から第三までの反論を綴っていくこ
とが一番わかりやすいし、議論の混乱もないだろう、壱案はそう思
った。
だが、この答弁書には問題がある。ゑ無山の答弁書自体が言いわ
けと原告の壱案に対する非難のみで終っている文面だからだ。これ
をずっと裁判の争点にされてはかなわない。第一回口頭弁論の話の
すすめかたは正直壱案は不満だったし、ショックでもあった。法律
を知らないまでも裁判官はあきらかに﹁被告の言い分を十分に聞い
てあげている﹂ ように思えたからだ。
壱案は準備書面の横に﹁傍論﹂ と大きく書いておいた。争点に
しないでください、という意志の表れにしたつもりだ。大事なこと
は全部﹁陳述書﹂に書くことにしよう、そう決めた。
ものの本には準備書面と陳述書の区別が書かれてある。たとえば。
お金の貸し借りでもめた場合の裁判。準備書面では、﹁お金を返し
てくれませんでした﹂ これが陳述書では﹁何月何日何時に被告に
お金の返却を求めにいったが不在だった﹂ とか。居留守を使われ
たといいたいときはそれを証明する事項も必要。電気やガスメータ
ーのまわりかたなども書く人は書くという。
253
壱案は法律の本は堅すぎて何度読んでもよくわからなかった。職
業柄いろんな稟議書も見てはいるはずだが、裁判の世界はまた特殊
なんだろう。
﹁素人向けの本には簡単すぎて参考にはならない、本人訴訟を実際
にやっている人には特に全く参考にならない﹂
そりゃあそうだろう、弁護士をたてない本人訴訟では裁判の世界
ではお金にならないのである。実際壱案の今までに払ったお金は裁
判の費用として数万円、そして予納郵便切手、交通費、内容証明な
どの各種手間暇かかるものは全部自分でやった。それでも十万円は
かかっていない。
もし弁護士に依頼しようと思ったら着手金として二十五∼三十万
円が相場になるらしいし、勝訴したら報奨金という御礼をしないと
いけない。本人訴訟は確かに金銭的にはお得、ではある。
それを思えば壱案は正直、自分の場合は弁護士に丸投げした依頼
をするよりは、あんな情けない思いをしてでもゑ無山に直接対面で
きただけでも、どういう人かわかっただけでもよし、としている。
ああいうのが口頭弁論であったら、もし数十万円もお金をだしてい
たのに弁護士の報告でそんなはずではなかったとまた悩むことが増
えたであろうし。
以下は原告の壱案が書いた準備書面である。
もちろん先の理由で大きく横に﹁傍論﹂ と書いてある。
平成 年 ︵ナ︶ 第一二三四号 建物明渡請求事件
原告 太田壱案
被告 ゑ無山ハカシ
254
準備書面︵ その1 ︶ 傍論
平成 年 月 日
原告壱案の住所、連絡先
並びに印鑑
大阪地方裁判所
第十民事部 一係A 御中
第一 訴状に添付した、甲第八号証にあるようにすでに平成×年
二月一日付で契約解除になっている。
第二 被告の認否待ち︵しかし被告は答弁書で原告の論旨不明瞭
として拒絶している︶
第二 本年四月十日、第一回口頭弁論当日に受け取った答弁書へ
の反論
一、土日にかかった、忙しいと言うのは言いわけにすぎず、
かつ原告の支払督促が苛烈を極め被告の名誉棄損をきたし、職場に
も迷惑がかかったという証拠がない。また被告は当該物件の前にい
た会社、住所地大阪府大阪市△区⋮⋮において△マンション管理会
社との賃貸借契約書でも違反し原告にしたのと全く同じ手口で家賃
督促を避けるための着信拒否や訪問督促を業務妨害だと脅した。
△マンション管理会社から平成×年四月六日の日曜日に夜逃げを
し被告友人の連帯保証人二名も支払いを拒否し家賃約五十万円超を
今に至るまで未払いの状況との証言を得ている。
二、被告の連帯保証人であるゑ無山キエロは賃貸借契約に印
鑑は確かについたが息子︵被告︶ の連帯の責は追わないと明言す
る。それを受けて原告は平成×年六月に年内退去を申し出るも無視
された。また被告答弁書にあったツイッターでの呼びかけは事実で
原告は被告の行動が理解不可能で何を考えているのか契約解除もす
でになされているのに、その無反応が怖かった。現在アカウント削
255
除し手元に記録もないので被告が改ざんしたものを名誉棄損の証拠
として提出しないように願う。
この件で被告は原告を警察で名誉棄損の被害届を出したが、原告
が事情を最初から伝えると被告が自己の都合の悪いことを隠して言
ったのがわかり民事不介入となって受理されなかった。警察からは
原告へのアドバイスとして被告の様子から原告への今後の連絡も望
めないので裁判をすすめられた。
警察のアドバイスをうけ、原告は同年三月一日に現訴状を当該地
裁に提出し現在に至る。
三、原告が被告のツイッターやブログの存在を知り、そこか
ら友人関係を把握して被告知人の弁護士に相談も確かにした。被告
の早期からの着信拒否、連帯保証人不在、信用保証会社なしでずっ
と不安だった。間にたってくれる相談相手が欲しかった。
被告を一番最初に仲介したちゅー?するかい? は原告からの内
容証明の通知が被告に来るごとに被告の家に呼びつけられずっと文
句を言い続けて会社に戻してくれないので困るといって相談にのっ
てくれなくなった。電話督促は当然の手段であるのに名誉棄損や業
務妨害を言われ、個人情報を社員にもらした非常識人だと責められ
ヤクザみたいだと驚いた原告が警察にまで相談にいった気持ちをど
うか理解してほしい。被告もまた己を武道人、現在のサムライだと
自認しブログやツイッターにも明記して公言するならば、潔く退去
して別のよいご縁を探して幸せな人生を歩まれてほしいと切に思い
ます。どうかよろしくお願いします。
私、原告太田壱案は被告のゑ無山さんを憎みたくないのです。ど
うか本当に潔い決断をされることを心から願っています。
最後の数行はゑ無山への伝言だ。壱案の思いをこめた。口頭弁論
の被告での態度では、私の気持ちなんか通じないだろうなと思うが
それでも何も書かないよりはましだろう。それに準備書面は被告は
この文面を必ず読まないといけない。壱案のこの準備書面を読んで、
256
再度反論として被告側の準備書面を提出しないといけないからだ。
裁判はこの繰り返しで争点を絞り最後に裁判官が結論してくれる。
壱案は準備書面はこれでよい、争点ではないことを書いてはいる
が﹁傍論﹂ と書いておいたしもうこれでいいだろうと思った。も
し弁護士を代理人と立てたらもっといい文面を考えてくれたかもし
れない、だけど壱案は何も知らない素人だから、これで精いっぱい
だった。
これを取り次いでくれる書記官の砲大は書式が違うとか嫌味をい
うだろうか、壱案はもうそれも気にならなかった。敗訴濃厚ならば
言いたいことは心行くまで書こう、そう思ったのだ。
さてお次は陳述書だ。 以下は壱案の陳述書である。素人ながら陳述は証拠を再度詳細に
説明するという手法をとる。というのはどこをみても何を見てもお
手本がないし、参考になる記述もどこにもなかったからである。
平成 年 ︵ナ︶第一二三四号 建物明渡請求事件
原告 太田壱案
被告 ゑ無山ハカシ
陳述書
平成 年
四月二十日
原告壱案の
現住所並びに送達場所
電話番号と
印鑑
257
大阪地方裁判所 第十民事部一係A 御中
一、身上について
原告は被告と平成×年二月十三日に甲第一号証にある当該物件の
賃貸借契約︵甲第二号証︶ を結んだ。
二、被告との関係
原告が賃貸人、被告が賃借人としてちゅー?するかい? 大町駅
前店の仲介で契約した。︵甲第二号証参照︶
三、契約条件と現在の状況
○ 訴状に添付している最後のページにちゅー?するかい? が作
成した当該物件の賃借人募集の広告があるが﹁信用保証会社要﹂ と明記されている。
連帯保証人も父親をたててもらったが甲第四号証のように梨本司
法書士、甲第五号証のように只田弁護士名での催告、最終的な契約
解除は平成×年二月一日に原告名で内容証明で出されている。
○ 現在被告は債務ゼロを理由に居直って退去しないが原告は甲第
十九号証になる内容証明にあるように﹁契約解除後も居直ることに
よって生じる損害金﹂ として受け取っている。たび重なる無連絡、
支払遅滞、延滞、着信拒否、信用保証会社無加入、連帯保証人不在
の状況でこれ以上居直らずできるだけ早く建物を明け渡してほしい。
被告の入金状況は甲第九号証のように明らかであり原告は契約した
次の月から何度も契約違反だと催告のための内容証明︵甲第十号証
以降参照︶を出し、本年二月一日に契約解除をはっきり伝えている
四、建物明渡請求の原因となる根拠とその証拠について
? 甲第二号証五ページめの第二,三項にあるように﹁本賃貸借契
約は賃借人が賃貸保証委託契約を賃貸人の指定する賃貸保証会社と
締結することにより成立するものとする﹂ ﹁当該保証契約更新に
ついて賃借人は、賃貸保証会社に既定の更新料を保証契約満了日ま
でに支払うことにより更新するものとし、更新料の支払いがなき場
合には本賃貸借契約を解除するものとする﹂ と明記している。
258
被告は上記保証契約満了日までに更新料を支払わず︵甲第十五号
証の?を参照︶本賃貸借契約を解除する原因の一つとなっている。
? 甲第二号証の賃貸借契約書第七条第五項及び別表第三、借主が
貸主に通知を要する事項その三に﹁連帯保証人の住所に変更があっ
たとき﹂ とある。原告は被告の連帯保証人から﹁連帯の責は負わ
ない﹂ と明言されその電話番号も不通になっている。また原告は
甲第二号証にある連帯保証人の住民票をとりよせたが、甲第十九号
証?になるように﹁請求書の住所に見当たらず﹂ の回答を得、被
告が賃貸借契約書に申告した住所に最初から連帯保証人がいないこ
とが判明した。︵電話番号は当初申告通りに当時は通じていた︶
原告が被告の連帯保証人がいないと思う理由は以下の通りある。
一、連帯保証人が連帯の責は負わないと明言しかつ一度も連帯保
証人として原告に入金した事実がない。︵甲第九号証の入金明細参
照︶
二、連帯保証人が自ら経営するデザイン会社ネオポオチの家賃を
未払いのまま夜逃げし、別件で裁判被告として係争中で今後も連帯
保証人となりえない。
三、今後被告から原告に連帯保証人の変更も住所移転も着信拒否
している状況で教えてもらえるとは思えない。
以上の理由で被告に連帯保証人がいると、言えない状況である。
?、甲第二号証の賃貸借契約書第九条︵一︶﹁賃料を二か月以上滞
納した場合は契約解除﹂ の項目について
甲第九号証のように入金記録から被告の家賃入金の遅滞、延滞は
明らかでしかも無連絡かつ着信拒否で信頼関係がゼロに等しい。原
告はすでに契約解除を告知しているが被告は現在債務ゼロを理由に
退去しないというが、原告は甲第二十号証、並びに甲第二十一号証
にある内容証明の通り、家賃として受け取らず、契約解除をしてい
るのに退去せず居直っている損害金として受け取っている胸通知し
ている。
259
以上の理由で原告は被告に対して平成×年二月一日付で賃貸借契
約を法的な根拠をもって解除している。
被告は建物を明け渡して退去してほしい。
以上
書きあげてプリントアウトした時、原告壱案はまた長い溜息をつ
いた。こんな陳述書で果たしていけるのだろうか。不安感でいっぱ
いだ。マンションを購入して部屋の鍵を渡された時の、うれしいわ
くわく感なんかどこにもない。ちゅー?するかい? の仲介でゑ無
山ハカシを紹介されてからこっち、楽しいとか思ったことなんか全
然ない。月末ごとにちゃんと入金されたかどうかはらはらしてばか
り。大家の気苦労はこんなものかもしれないが、まさか夜逃げの履
歴のある人に貸すとは思いもしなかった。裁判するとは思いもしな
かった。
ゑ無山は壱案の思いなんかまったく理解しえない人間だ。この裁
判の行方、一体どうなるのだろうか。
第二回口頭弁論は、つまり二回目の話し合いですよ、ということ
だろう。
壱案は裁判は時間がかかると俗に言われるが、裁判基本は月一回
二十分の話し合いだ。時には代理人の弁護士をたてての裁判官を前
にしての話し合いならもっと時間がかかって当然だと痛感した。込
み入った複雑な人間関係のある裁判はもう何年もかかる。医療訴訟
も何十年もかかったりする。
しかも判決がおりると終了のはずだが、まるっきり終了でもない
のだ。
上告、控訴もあるからだ。
そうなると高等裁判所に舞台は移り、判決。それでも双方納得し
260
ないと最高裁判所になる。なんと時間がかかることだろう、壱案は
裁判の世界の複雑さを痛感する。
しかし自分は土地明け渡しで原告。証拠もあるし、証人も予定も
たてている。あっちが悪いのは確実だがこちらが勝訴する確立も低
いという。それを思うとため息ばかり。
だが第二回口頭弁論はもう目の前だ。壱案はとうに準備書面等を
送付しているから相手にも届いているはずだ。なのに今回も第一回
目と同様どういう答弁書も来ない。しかも月がかわってもまた滞納。
﹁きっと第二回口頭弁論の日に入金してくるつもりだわ。あっちが
家賃入金のつもりでもこっちは家賃として受け取らず解約解除後も
居直る損害金として受け取ります云々の内容証明もあらかじめ用意
しておかなきゃ﹂
壱案がわれながらたくましくなったと感じるのは内容証明書、と
いうものに慣れたこと。それと全く別の世界の住人に思える司法書
士や弁護士さんと短い時間といえどもちゃんと話ができるようにな
ったということだ。
壱案は第二回口頭弁論前日になっても被告から答弁書や証拠も何
も届かないので気がすすまなかったが夕方にまた裁判所に電話をか
けた。もちろん相手は書記官の砲大である。
﹁あの、お忙しいところすみません﹂
﹁前置きはいいから用件先に言って、事件番号からっ﹂
﹁はい、事件番号は第一二三四号で、土地明け渡し請求の原告の矢
亜壱案です﹂
﹁用件っ﹂
﹁はい明日第二回口頭弁論ですけど相手から何も書類とか証拠が届
かないので﹂
﹁こっちに何も送ってこなかったら何も送れないのは当然でしょ、
それで?﹂
﹁じゃあ被告の準備書面とかなしですね、﹂
﹁だろうね、出さない人もいるから、出してくれとか裁判所は言い
261
ませんしね﹂
﹁はあ、どうしたらいいかと﹂
﹁そういうのは弁護士に相談してくれますかね、こっちからは何も
言いませんよ?﹂
﹁そうですね、そうでしたね﹂
﹁じゃ失礼します﹂
ガチャ
砲大に電話を切られた。取りつくシマもなかった。壱案は落ち込
んだ。砲大書記官が忙しいのはわかってるけどその応対はあんまり
だと思う。本人訴訟だからこそ聞きたいのに、でもいちいち対応し
ていたら仕事が滞ってしまうのだろう。
﹁⋮⋮仕方ないわ、明日の口頭弁論もゑ無山はたぶん来るでしょう
しね、その時はその時だし、準備書面なしで来て当日提出、その分
裁判が滞るそれもまた⋮⋮仕方ないわね﹂
何が仕方ないのか壱案にはわからない。だけど裁判はこういうも
のだという印象が覆されるのだ。原告に対して被告は原告の準備書
面や陳述書に反論、答弁書を出す、こういうものだと思うのにこれ
ではちっとも裁判すすまないのではないか、壱案は不安だった。
もしゑ無山が裁判を引き延ばすつもりならば⋮⋮、原告の壱案を
動揺させるのが目的、裁判の乱れ? を願うならゑ無山の目的は
成功したといえるのではなかろうか。
五月十日。まだまだ先と思っていたがもう第二回口頭弁論の日だ。
壱案はまた早めに出ていって裁判所内の郵便局へいってATMで通
帳記帳をする。今日の日付でゑ無山から入金あり。
﹁やっぱり﹂
このお金だって本来の契約が生きていたならば四月三十日に入金
があるべきお金だ。ゑ無山は裁判中は一応は入金しておいて裁判の
日だけは﹁債務ゼロですよ﹂ とアピールしたいのだろう。
そのための入金であってもし壱案は敗訴して明け渡しもできない、
262
そのままゑ無山に賃貸する状況が継続するならばまた支払遅滞や滞
納が再開されることは﹁明白﹂ だった。
入金してくれるうれしさなんか、ない。
壱案はまたまたため息をつき、用意していた内容証明に今日の日
付を書いて裁判所内の郵便局から送付した。郵便局の印が押された
自分用の控えの内容証明分を地下の売店でコピーに行き、またまた
早めに第十民事部の砲大にあいさつがてら、﹁原告の証拠の追加で
す﹂ と渡す。
砲大が何か言うかな? 弁論日直前の証拠提出なんて嫌がられる
かなとは思ったが今回も何も言わずに受け取った。壱案は少しだけ
ほっとしてこういう。
﹁あの、私が送った準備書面や陳述書はあれでよかったんですね﹂
砲大はあいかわらず忙しそうに書き物、机横のハンコの山を舐め
つつ何かを探している。探し物をしながら壱案にこう言った。
﹁いや、あれね、あんたね、ああいうのは陳述書、とはいわんのよ。
完全に間違えてるね、弁護士の手が入っているならああいう書き方
はせんよ﹂
﹁!﹂
壱案は蒼くなった。
﹁じゃあ、あれは、あの陳述書はどうなったのですか、ボツですか
? 被告のゑ無山さんの方にも送られなかったのですか﹂
﹁ボツなんかする権利なんかこっちにもないよっ。被告にも送った
よ、ちゃんと。こっちはそれが仕事だから、だけどな、陳述書じゃ
なくって証拠に入れといたからな﹂
﹁証拠、なるほど﹂
﹁もうちょっと時間あるから廊下で待ってて﹂
﹁はい、じゃあ今日もよろしくお願いします﹂
砲大はもう何も言わず目当てのハンコを見つけたのか黒い印肉を
出してきてポンポンと書類に押していっている。壱案は砲大に対し
て、まあ私に対して意地悪じゃなくてみんなに、どういう人でもそ
263
うしているのだろう、と判断した。砲大書記官はきっと誰に対して
もそうなのだ、愛想なしだがそういう人だから、と思わないととっ
てもやっていけない。
だがもっといけないのはこのきっかけを作ったゑ無山なのだ。
時計を見ると第二回口頭弁論開始まであと十分。
今日もあの立川多知子という美女裁判官なのだろう。壱案は玄関
であらかじめ部屋を確認する。部屋も第一回の時と同じだ。
時間が来た。
壱案は裁判する部屋に入った。続いて黒いマントを着用した砲大
書記官入室。相手は、被告ゑ無山は、まだ来ない。
﹁あれ?﹂
時計を見る。十三時ぴったりになった! 立川裁判官入室。先月
見た同じ美女裁判官だ。ゑ無山はまだ来ない。欠席?
え、ほんとまだ来てない、
マジで欠席? ホント?
⋮⋮ならば大歓迎だ!
裁判での無断欠席は大歓迎!
﹁それでは平成×年 ︵ナ︶第一二三四号の土地明け渡し請求事件
の第二回口頭弁論を始めます﹂
そう発言しながら裁判官が空席のままの被告席に目をやったのを
見て﹁やった!﹂ と思った。
﹁被告欠席ですね﹂
裁判官がそういうと⋮⋮ところがそうはうまくいかない。
ドアに風が入ったかと思うとゑ無山が走り出て入室滑り込みセー
フと言う感じで﹁今来ました﹂ 発言した。壱案の顔も見ないで素
早く椅子を引いて座るゑ無山。がっかりする壱案。
ゑ無山は走ってそして椅子を引いて素早く着席した。息も切らし
てない。
着席と同時に平たいファイルを開けて紙を取り出す。再び立ちあ
264
がって砲大書記官の方へ歩み寄った。
小声で﹁答弁書、証拠⋮⋮﹂という声が聞こえた。
砲大は一言もしゃべらずうなづき、点検し一部は背後にいる裁判
官に、もう一部は壱案に渡した。準備書面は今回もA四サイズの紙
一枚きり、証拠? の書類はこれもA四サイズの紙一枚きり。
これらは書くと長いようだが一瞬だった。壱案はじっくり読む暇
がないなあ、と困りつつそれでもゑ無山被告の準備書面を見た。誹
謗中傷、卑劣な手口、という壱案を非難する文面を拾い読みする。
もう一枚の証拠書類はやはり壱案自身が書き込みしたツイッター
の記録。やっぱり、という思いで眺める。
しかしながらツイッターの記録はこちらの方では削除したきりで
自分が書き込んだものは手元にはすでにない。壱案はゑ無山被告が
第一回口頭弁論でうその記述をしたことを知っているのでまた違う
ことをねつ造されても困る。点検しておきたいが今は細かく吟味し、
点検するヒマはない。すでに第二回口頭弁論は始まっているのだ。
また壱案の争点、契約解除が有効か有効でないか、を決めるので
はなく壱案の支払督促が誹謗中傷にあたるのかどうか、になるのか
なあ、と暗い気分でゑ無山を眺めた。ゑ無山は素知らぬ顔で自分の
手元の準備書面を眺めている。文房具や壱案が作成した 書類を持
ってきている様子は皆無だった。余裕の姿勢だった。
立川裁判官はきりっとして前を向いた。壱案は裁判官がまず何を
言うか、原告席から仰ぎ見る。
﹁それでは原告被告双方の書類が出そろいました。本日をもちまし
てこの裁判を結審といたします﹂
その一言はがーん、と壱案の耳を貫く。
﹁えっ⋮⋮﹂
ゑ無山も非常に意外だったらしい。ゑ無山はすぐに席をたって発
言した。
﹁ちょっと待ってください、これで終わりとは、私の意見も聞いて
265
ください﹂
裁判官は同じ言葉を言った。
﹁結審です﹂
﹁いやさ、原告の卑劣なしわざ、ツイッターでの書き込みを﹂
﹁それは争点ではありません、﹂
﹁一言、一言ぜひ言わせてください﹂
ゑ無山は必死になった。裁判は原告の壱案の裁判でなく、裁判官
とゑ無山の会話だけみたいになってきた。あららと思う間もなくゑ
無山は裁判官を見てまくしたてた。
﹁この原告は非常に悪辣な嫌な奴なんですよ、人がちゃんと家賃を
払っているのに、ですね。債務だってゼロですよ、契約解除なんか
無効です﹂
立川裁判官は無表情でゑ無山を見下ろして三回目の言葉を言った。
﹁結審です、次回は判決です。来月六月十日午前十時、いいですね、
﹂
ゑ無山はあわてた。みっともなく裁判官においすがるように言っ
た。
﹁あの、実は、ですね。私は和解、にも条件次第では応じてもいい
かと思って﹂
﹁これで第二回口頭弁論を終了いたします﹂
裁判官は毅然とした様子で言いきった。
壱案の心にやんわりとした気持ちが広がった。もしかして、もし
かするかも。
これって、マジでもしかするのかも⋮⋮。
裁判官が一礼して立ち去ろうとすると同時に砲大書記官も椅子席
から立ち上がった。ゑ無山はそれを見るが早いがさっと背中をみせ
て走り去った。壱案の顔なんか一度もみない。
壱案の心の中で何かが言っている。
266
﹁もしかして、もしかして⋮⋮﹂
もしかして、そう、もしかしてもしかするのかしら!
第二回口頭弁論ははっきりいって立川裁判官の﹁これで結審いた
します﹂ の一言だった。
壱案は裁判官、書記官、被告席が空っぽなのを見つめる。傍聴人
もいない。次の裁判する人もまだ少し時間があるので誰もきてはい
ない。
午後一時からはじめてまだ一時五分だ。第二回口頭弁論は第一回
があんな感じで二十分はかかったのでもっと煮詰まった話が濃くか
わされるのではないかと壱案は思っていたので拍子抜けだった。
壱案が先に裁判所に提出した準備書面や証拠でこちらの言いたい
ことは全部言いつくしているから、平気だったが、ゑ無山の方も意
外だった。ゑ無山は遅刻であったのは確かだし準備書面も確かに提
出はしていたが、言いたいこともあの様子では言いきれなかったに
違いない。
壱案はゑ無山のあわてて早口でものをいう様子を反芻する。
⋮⋮みっともなかったな、裁判官が結審だと言っているのに、ま
だ私のことをいってて、最後に和解にも応じる考えがホントはまる
でないくせにとってつけたような言い方をして⋮⋮。
壱案は廊下に出て外にとりつけてある椅子に腰をおろしてゑ無山
被告の出した準備書面を読みだした。内容は壱案のようにびっしり
と書いてはいない。前回の答弁書と同じく争点のずれた原告の壱案
の督促の様子を非難する内容であった。
準備書面その1
267
平成 年 ︵ナ︶ 第一二三四号建物明渡請求事件
原告 太田壱案
被告 ゑ無山
ハカシ
被告ゑ無山の住
所、電話番号
大阪地方裁判所 第十民事部一係A
第一 本年二月一日時点で滞納とし退去を迫りかつ完納した家賃分
については﹁契約解除後も居直ることによって生じる損害金として
受け取った﹂ としているが、私は一切そんなことは認めない。
原告側の只田弁護士ですら、ツイッターでの誹謗中傷は明らかに
名誉棄損であると断言した。被害を受け精神的な苦痛を受けたのは
こちらの方です。非常に困っています。
第二 原告は被告の連帯保証人の行方が知らないとしているが、一
体どういうことは不明な話だ。原告は連帯保証人の電話番号もきち
んと把握し電話で連帯保証人と連絡をとっていることも認めている
ではないか、その携帯電話が不通になっていることはないはずだ。
⋮⋮文面はこれだけだった。壱案が訴状提出のあとに出した種々
の証拠への反論は一つもなかった。入金の様子や内容証明への反論
は一言もない。
そして乙第一号証として過去ツイッターでの被告の言う原告壱案
が被告のツイッターの書き込み一覧が提出されてあった。原告の壱
案は証拠書類として甲第一号証から二十号証まで出した。各種書類、
内容証明、ゑ無山が受け取らなかった郵便局の付箋つきの内容証明
の未開封の封筒。たくさんある。
何よりも入金明細が動かぬ証拠だ。通帳をそのままコピーしてい
268
る。信用保証会社ドッグの決済の月も日も一目でわかる。
こうしてゑ無山の準備書面とツイッターの記録をきちんと一読し
てみるとゑ無山がいかに争点のずれた面を今日の口頭弁論でも持ち
だしてひっかきまわそうとする意図が見えた。壱案はゑ無山が提出
した準備書面のすぐ後ろにある﹁その一﹂ という文字を見る。
そう、これは準備書面﹁その一﹂ だったのだ。ゑ無山被告にと
ってはただのその一。そして裁判は永遠に続くと思っていたに違い
ない。第一回口頭弁論での思うようにしゃべらせて、かたや原告の
壱案はゑ無山の思う通りに裁判がすすめられたと感じてくやし涙に
くれた。だが今回はそうではなかったのだ。
裁判官は証拠や双方の言い分は言いつくされたとして結審を言い
渡したのだ。
ゑ無山のあのあわてよう、たぶん彼にとっては遅刻も計算のうち
だったのかもしれない。結審は壱案にとっても意外だったが、裁判
官は壱案の提出した準備書面の傍論と陳述書でよし、と判断された
に違いない。壱案はもしゑ無山が乙の証拠を出しても出さなくても
かつ準備書面その一を出そうがだすまいが、裁判官は結審にしたに
違いない、そう確信した。
すると裁判官のあの一言、第一回口頭弁論で﹁あなたは和解を拒
否した﹂ というのは重大な発言だったのだ。壱案はゑ無山の出し
た準備書面から顔をあげ、きゅっと口をひきしめた。
判決は来月の十日だ。六月十日。
訴状提出は三月十日だったから、三か月かかって判決を言い渡さ
れるのだ。
壱案は語りつくせなかったという悔いはない。言いたいことはす
でに陳述書で書いたからだ。砲大書記官がこんなの陳述書ではない
と言いきったが、壱案にはこれしか書けない。それでだめだったら、
敗訴だったら法律の方がおかしい、そう思った。
269
いずれも判決まであと一カ月。壱案は裁判所最寄りの駅前まで歩
いて行く。前から気になっていた駅近くの喫茶店に入り、ピーチタ
ルトとモンブランとホットココアで昼食をとった。ああ、甘いもの
をとると癒やされる。だが夕食は辛いものにしよう。壱案は帰りに
デパートへ行って大好きな和風唐揚げや春巻きを買って帰った。
壱案はゑ無山の準備書面その一を見て、ツイッターの件で只田弁
護士が名指しで書かれていたので一応はコピーを弁護士事務所あて
にFAXで送っておいた。ゑ無山が只田弁護士に何かいってくるか
もしれないと思ったのだ。只田孝子弁護士は本当にきちんとした性
格らしく果たしてその日の午後に壱案に電話連絡が来た。
﹁ご無沙汰しております、FAX拝見いたしました。第二回口頭弁
論までいったのですね﹂
﹁はい、今日結審でした、早いのか遅いのかはわかりませんけど、
来月判決です﹂
﹁土地明け渡しならそんなものですよ。第二口頭弁論で結審は、普
通ですね﹂
﹁先生いろいろとすみません、被告さんが準備書面で先生のことを
書いておられたので一応目をとおしておいてもらおうと思って、依
頼もしてないのに、恐縮ですが﹂
﹁気にしないでください、実はねゑ無山さんね、警察に被害届を出
したときあの人、私の名前を出されましたしね﹂
﹁そうでしたっけ﹂
﹁警察から事実確認の電話がありましてね、そういうことです﹂
﹁はあ、いろいろとご迷惑をかけまして⋮⋮﹂
﹁いえ、それも仕事のうちですから、だけどあちらからは終始何も
連絡はなかったですね、ふふ。これだって明け渡し請求事件の準備
書面とは書いてありますが事件の争点ずれてますからね、あなたの
270
陳述書は見てませんがその反論でもありえませんね、第一支払督促
時の名誉棄損てこの場合全然関係ない話じゃないですか、ゑ無山さ
ん判決で太田さんの名誉棄損と損害賠償の金額が提示されるとでも
思っていたのでしょうね、ま冗談ですけど﹂
﹁只田先生、そしたらもしかして、私、勝つかもしれませんね﹂
﹁そうですね、これは勝つかもしれません。が、予断は許せません
よ、だって家主不利の判決って非常に多いですからね。すんなりと
勝訴くれなくて条件付き、の可能性もありますから﹂
﹁はあ、やはりすんなり、は難しいのですね﹂
﹁そうです、はっきりいってまれ、ですね﹂
﹁はあ﹂
壱案は礼をいって切った。
今度はドッグの追給だ。
追給には裁判官から証人に、との請求があった場合には出てもら
う約束だった。だからどういう状況下は知らせるべきだ。壱案は追
給に連絡をとって来月判決になる、と伝えた。
﹁⋮⋮第二回口頭弁論、と聞いてまた話し合い? というか裁判官
の前でゑ無山さんの話を聞くのかと思っていたらいきなり双方の言
い分が出ましたから結審いたしますって。びっくりしましたよ﹂
ゑ無山被告が遅刻したうえに裁判官が結審だといっているのに、
一言だけですからとみっともなく狼狽を隠さずに裁判官にみっとも
なくおいすがっていた様子を話した。追給は壱案の話をだまって最
後まで聞いてから声を出す。
﹁ふん、やっこさん、じゃあ、あれだね。第一回口頭弁論で裁判官
がじっくり話を聞いてくれたと思って図にのったんじゃないですか
ね。これ、あきらかに裁判が自分次第でもっと引き延ばせるとおも
って意図的に争点ずれた話にもっていこうとしたんでしょう。
答弁書を当日に出すわ、和解は断るわ、入金記録をみりゃあ弁論
271
日前日か当日に振り込みじゃあ今後もきちんと入金するやつかどう
かは怪しいもんだし、良識ある裁判官ならば、いやっ裁判官でなく
てもゑ無山が札付きの悪質な賃借人って丸わかりですからねえ﹂
﹁追給さん、じゃあ私、勝訴するでしょうか﹂
﹁あっ、でもさ、期待はしない方がいいと思うよ。家主には厳しい
から、全面勝訴は無理だね﹂
追給もやはり只田弁護士と同じことを言う。やはり家主がすんな
り勝訴するのは難しいのだ。壱案はがっくりした。ゑ無山は追い出
せないかもしれない。だが、契約のやり直しはあるだろう。追給は
言った。
﹁太田さん、でも勝訴なくても今後ゑ無山がさ、支払遅滞や滞納を
起こせば次の裁判には間違いなく全面勝訴ですね、一歩前進とおも
っていればいいと思いますよ﹂
﹁はあ、今すぐでも出て言ってほしいけど、時間はかかると思った
方がいい、ということですね﹂
﹁うん、悪いけど勝訴ってほんと難しいから、本人訴訟だしね﹂
﹁本人訴訟ってそんなにいけないのでしょうか、不利なのでしょう
か﹂
﹁いやあー、はっきりいって不利なこともあると思いますよ。でも
太田さんにとってラッキーなのは相手のゑ無山も弁護士をたてなか
ったことですね﹂
﹁そうなんでしょうか﹂
﹁そうですよ、ぼく、言いきれますよ。もしゑ無山が自分が悪いの
に弁護士、特に金に糸目をつけないで腕っこきの有能弁護士を雇っ
たとしたら太田さんが間違いなく全面敗訴ですね。名誉棄損で損害
賠償も起こされるかもしれませんね﹂
﹁そんなあ、そんなことって﹂
﹁弁護士次第で黒を白、白を黒、になるってこともあるんですよ﹂
追給はこんな怖いことを言って壱案を怖がらせるのだ。しかしゑ
無山は弁護士を雇わなかったので結局本人訴訟同士になったわけだ。
272
そして追給はやや改まった様子で壱案に聞いた。
﹁太田さん、もし敗訴になったら上告、つまり今度は高等裁判所で
裁判されるのですか﹂
﹁え、まだそこまでは決めてないです﹂
﹁ま、そうだな、判決決まってからだな、うんうん﹂
はっきりいって追給にとって壱案はもう客でも何でもない。その
せいか追給はていねいな言葉を使ったかと思うと次は実にくだけた
ものの言い方をする。それに親しむとかいう感情はない。砲大もそ
ういうぞんざいな言葉を使うが追給の場合、壱案は不思議とそれは
腹がたたなかった。
とりあえず判決待ち、そういうことね。
その日、壱案は休暇を取っていたので時間も余っている。判決待
ちならばもうこれ以上準備書面どうしようとか思うこともない。さ
きほど夕食をたくさん食べたがプリンとロールケーキが残っていた
のを思い出して冷蔵庫を開ける、食べる。
そしてお風呂に入り、上がった後、ハーゲンダッツのバニラ味を
食べる。さて壱案は今日は何カロリー摂取したことになるだろうか。
壱案はもうじたばたしたって仕方がないと腹をくくったのだ。思い
悩んで食欲をなくすほど、壱案は繊細な神経を持ってない。おいし
いものを食べて元気を出すのだ。そう思っているのだ。
273
第二十五章・そして判決
やがて六月十日はすぐに来た。さあ判決日だ。
判決ってどんな感じで言い渡されるのだろうか。壱案は期待と不
安でいっぱいだった。あの美人裁判官の前にこうべを垂れて畏まっ
てご託宣を聞くのだろうか、どんな感じだろうか。大きなサイズの
白い紙を目の前に広げて、重々しく告げられるのかそれともあっさ
りした感じなのだろうか。想像は尽きなかった。壱案にとってはや
れるだけのことはやったつもりだった。それで敗訴になったならば、
つまりあのゑ無山にそのまま住まわせてやれという判決なら法律の
ほうがおかしくともそうするつもりだった。敗訴は覚悟していたが、
最低限契約のやり直しはあるだろう。しかし裁判官のあの微妙な態
度と結審を言い渡した時のきっぱりとした態度を思えばもしかした
らという期待もあった。だからどうあっても判決は壱案自身の耳で
聞くつもりだ。
大阪地方裁判所へ行くのももう四回目だ。一回目は訴状提出、二
回目が第一回口頭弁論、そこでゑ無山と対面、三回目が第二回口頭
弁論日、弁論も何もなく結審となったのには驚いた。そして四回目
の判決が、今日だ。
壱案は裁判の部屋に行く前に裁判所内の郵便局へ行く。今月分の
家賃⋮⋮ではなく契約解除後もいなおることによって生じる損害金、
というものが入金されているか確認をとる。実は昨日も勤務後に郵
便局に行ってゑ無山からの入金確認している。ゑ無山の行動を警戒
しているのだ。契約解除を認めていないゑ無山が家賃のつもりで入
金することにより、債務ゼロの状態であることをアピールするだろ
うと呼んでいるのだ。壱案にはもうゑ無山の単純な行動が読めてい
る。
ATMに記帳して、打ち出された数字を見る。やはり昨日の夜に
274
入金されていた。
やはり原告側の敗訴を見越してこのまま退去もせず借り続けるま
ま、のつもりなんだわ。壱案はゑ無山の勝訴がするだろうと踏んで
入金してきたのにがっくりしながらも、用意してきた先月と同じ文
面の内容証明書を出す。家賃入金を認めず、契約解除にもかかわら
ず居直っているのでその損害金として受け取りますから、という文
面だ。この内容証明書も返送されてくるはずだ。それでも書留速達
にしておく。今日の判決で壱案が敗訴しても、上告というテがある。
それをするつもりなのだ。
内容証明代の千二百二十円支払う。この内容証明書だってもう十
八,九通目だ。
裁判官に提出する証拠になるとはいえ、こう毎月のように内容証
明書を出すとその費用も馬鹿にならない。自分で書いてるからこそ
全部で三万円弱の金額ですむ。その都度弁護士の名前で出していた
らもっともっと出費がすごいであろう。壱案にはとても支払えない
金額になるに違いない。
それを地裁の売店でコピーする。そして第十民事部の砲大書記官
に渡す。これももう三回目になるので手慣れたものだ。
だが今日は判決だ。ゑ無山も判決を聞きにくるだろう、もし壱案
が勝訴したら彼は暴れるだろうか、壱案は全面勝訴は難しいと聞い
ていたのでそれは心配なかった。
それよりも被告の勝訴つまり壱案の敗訴が決定した時にゑ無山の
喜びようと自分がしっかりしていられるか、の方が心配だった。
判決書自体は判決を言い渡された後、書記官室で判決文をもらえ
ると聞いている。控訴するなら早い方がよい。何よりも壱案は自分
であの裁判官の声で判決を聞きたかった。それで裁判所まで来たの
だ。
しかし砲大書記官は壱案が提出した内容証明の写しを受け取りな
275
がら、﹁家にいときゃあ、判決文送るのに、わざわざ聞きに来たん
だなー﹂ と言うのだ。壱案は砲大書記官には原告の思いをわかっ
てもらおうとは思わないががっかりした。確かに判決だけなら一分
もかからないだろう。だけど直接あの立川裁判官から聞いてみたい。
勝訴でも敗訴でも判決を聞く。壱案が裁判を起こしたのだ。だから
その一区切りを最後まで聞かないといけない。その義務感もある。
そして敗訴なれば次なる控訴だ。その手続きもいるではないか。そ
れはできるだけ早い方がいいのだ。あの傲慢で虚言癖のあるナルシ
ストのゑ無山に大事なマンションをこれ以上貸したくはない、好き
勝手な支払いもしてほしくない。契約解除を認めてほしい。
今回は敗訴でも次がある。壱案は勝訴を勝ち取るまで最高裁まで
行っても良いと思っている。
好きな時に家賃を入金し、滞納し、大家に脅しをかける。そんな
ひきょうなことをしても罪にはならない。夜逃げの履歴があっても
罪にはならないのはおかしい。そんな人間が存在しているのを壱案
は今まで知らなかった。そんな悪質な人間とはかかわりをもちたく
はなかった。
だが何事も経験だろう、壱案はゑ無山のおかげで今まで知らなか
った法律の世界を垣間見ている。
今日はいよいよ判決。砲大書記官とは今日でもうお別れになるは
ずだ。壱案はもし敗訴となっても控訴するかどうかも決めかねてい
る。どうなるかは全くわからないからだ。しかし今日はこうしてせ
っかくこうしてきているのに、わざわざ来た、なんて言い方はされ
たくなかった。
﹁でもこうして新しい証拠、この内容証明を出したかったし、何よ
りも判決の内容はこちらに聞きにくるのが一番早いですし﹂
こう言い返すのが精いっぱいだったが砲大は軽くうなづいただけ
だ。
﹁ま、そうだな﹂
276
﹁判決文も欲しいので、持って帰らないと﹂
﹁えっ、判決文今日持って帰るつもりなの? 時間かかるよ?﹂
﹁いいです、今日も仕事休みましたので待っています﹂
﹁夕方ぐらいになるよ?﹂
﹁待たせていただきます﹂
﹁夕方まで待っててもいつ出来上がるかわかんないし。ちゃんと郵
送で送るから家で待ってなよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
判決文は裁判官による判決言い渡し終了後に書記官室へ行けば手
渡されるケースが多い、はずだ。なのに砲大は面倒くさがる。ほか
の仕事が山積みだろうから優先的にやれとは言えないし、言えるは
ずがない。
だけど判決文は今日持って帰ってよく吟味したかった。敗訴なれ
ばその後の対応もすぐに追給や場合によってはお金を払ってでも只
田弁護士に相談するつもりだったのに。砲大書記官は言うだけ言う
と机に向かって書類を何やら探している。
壱案はあきれながら一礼して書記官室を去った。
勝手知った裁判の部屋を見て、部屋のドアすぐ横にあるボードに
張り付けてある紙を見る。そこにはその部屋で本日行われる裁判の
予定時間と内容、原告名、被告名、裁判官名が提示されているのだ。
だが壱案が予定表を見てあっ、と思った。
六月十日午前十時。
平成 年 ︵ナ︶第一二三四号建物明渡請求事件 判決
原告 矢亜壱案
被告 ゑ無山ハカシ
裁判官 立山多知子
書記官 砲大
裁判部屋はこの部屋で間違いはない。しかしこのすぐ下に同じ時
間で全く違う案件の裁判をするのだ。
277
六月十日午前十時
平成 年 ︵ワ︶第 号過払い請求事件 第一回口頭弁論
原告 丸家丸子
被告 株式会社 コウリガシ
裁判官 立山多知子
書記官 砲大、となっているではないか!!
ちょっと、ちょっと⋮⋮と壱案はあわてた。裁判官と書記官は同
じ名前だが、同じ部屋で違う事件の裁判、全く違う裁判をやるのだ。
壱案側にとっては大事な判決日で、あちらは過払いとやらの第一回
口頭弁論になっている。同じ部屋で同時にそんなことってできるの
かしら? と訝しく思う。
壱案はどうしようか、今から書記官の砲大の部屋まで戻り、間違
えていると教えにいこうか、でももう時間はないし。どうしよう。
壱案が裁判部屋の前でうろたえていると、十時からの過払い請求
とやらの原告か被告、傍聴人らしい人たちがぞろぞろと部屋に入っ
ていった。壱案がどうしたらいいのだろう、と思って部屋の前をう
ろうろする。まさか部屋をダブルブッキングされるとは思わなかっ
たのだ。こうしているうちにあのゑ無山がきたらどうなるのだろう。
部屋に入るのもためらっていたら、あとからエレベーターから上
がってきた人たちが次々と入室していく。もう十時直前なのだ。部
屋の前でぽつんと立っている私を横目に見て入る人、怪訝な顔をす
る人、まるで無視する人。
﹁やっぱりダブルブッキングじゃないか、砲大さんに言いにいこう
にも、もう時間がないし。ここを通られることは確かだから待って
いよう﹂
果たして黒マントを着用した砲大書記官登場。
﹁あの、砲大さん、私の判決も十時からですよね、これはどうした
ら﹂
278
﹁判決やっぱり聞くんだね、聞きに来ない人、多いから予定入れと
いたけど﹂
﹁そんなあ、困りますけど﹂
﹁んじゃ、待ってて﹂
ちゃんと言い終わってないのに、砲大書記官はさっさと入室する。
ひどーい、待ってて、とは言ってもここで待つの? どこで? 場
所変えて判決言うの? どーするのっ?
壱案は今日で裁判が最後のはずなのに、こんな仕打ちを受けると
は思わず、また自分がどういう行動をとったらいいかわからず立っ
ている。砲大書記官は書記官積に座り何やら書類を出している。
原告、被告席には数人ずつ着席している。傍聴人も十人ぐらいい
る。スーツ姿の男性が多い。壱案も一応スーツを着用しているが、
明らかに場違いな女だった。
これから壱案に全く無関係の金融関係の第一回口頭弁論が始まろ
うとしているのだ。そこへ立川多知子裁判官が黒い法衣のすそをな
びかせさっそうと専用扉から入室してきた。同時に原告席、被告席、
傍聴人席が一斉に起立する。砲大書記官が壱案が戸口で立っている
のに気づき手招きした。そして裁判官に何やら合図する。裁判官は
ナ
裁判席から壱案を認め軽くうなづいた。そして宣言する。
﹁まず最初に平成 年第一二三四号建物明渡請求事件の判決を言い
渡します。後の人はしばらくお待ちください。原告はこちらへ﹂
全員が着席した。その中の間を縫うようにして壱案は傍聴人席を
通過し、原告側の席のそばに立った。原告席にはすでに三人の男性
が着席していたからだ。
壱案は砲大書記官に対して怒る余裕やヒマはなかった。今から判
決が下るのだ。裁判官の顔を見つめ一礼、また顔を見つめる、とい
うか凝視した。
判決。
どうなる? この判決。
279
立川裁判官は書類を出した。
同じ時間に同時に同じ部屋で二つも裁判できるはずがないのだ。
しかしながら片方が判決なら可能なのだあろう、判決文を言い渡す
だけだから。壱案は原告席の近くで立ったまま、こぶしをぎゅっと
握る。
ナ
立川裁判官は白い紙をファイルから取り上げ、声を張り上げた。
﹁ただいまから平成 年第一二三四号建物明渡請求事件の判決を言
い渡します。
主文、
一、被告は原告に対し、別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。
二、訴訟費用は被告負担とする。以上!﹂
契約解除
壱案は裁判官がきっぱりとした様子で言い終えると同時に深々と
頭を下げた。下げながら心の中でガッツポーズをする。
﹁⋮⋮私のほうが勝訴したんだ、しかも全面勝訴⋮⋮!
は有効でこっちがゑ無山に堂々と出ていけと言えるんだ!﹂
壱案は頭を上げると桃山裁判官の顔を見て思わずにっこりとして
礼を言った。
﹁ありがとう、ございます!﹂
裁判官は軽く会釈を返す。壱案の晴れやかな表情を見て少し目元
が微笑した感じだった。
﹁本当に、ありがとうございます﹂
気がつけば壱案を、書記官も原告も被告も傍聴人もみんなが見て
いる。これは壱案だけの判決なのだ。拍手も何もなし。そこにある
のは無言の無関係人が見つめる凝視のみ。
壱案は我に返り、裁判官を見上げてもう一度会釈した後、部屋を
出るべく、踵を返した。原告席と傍聴人を分ける柵を越えた時、肩
にかけたままのショルダーバッグが冊に当たって﹁ごん!﹂ と大
きな音がした。だが誰も何も言わず笑わず壱案は壱案がその部屋を
出るまでずっと凝視あるのみだった。
普段ならきっとバツが悪い思いをするかもしれないが、壱案は感
280
無量で部屋を出るのが精いっぱいだった。
ワ
壱案が部屋をでると同時に背後で立川裁判官の﹁それでは今から
平成 年第⋮⋮号、第一回口頭弁論を始めます﹂ という宣言が響
いた。これから別の裁判が始まるのだ。
そして壱案の裁判は今日、終わったのである。
全面勝訴、家主の矢亜壱案の勝訴、全面勝訴。
壱案は判決を聞きにゑ無山被告が姿を現さなかったことにここで
初めて気づいた。でもどうでもよかった。もう終わったんだから、
勝ったんだから!
﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂
勝訴の件は即日信用保証会社の追給初め、只田孝子弁護士、モモ
ンガの梨本司法書士などに伝えた。
追給の反応はこうだった⇒﹁やりましたねーっ、しかも債務ゼロ
の状況で、被告のあいつ、よっぽど裁判官の心証を害したんだろー
な、ははっ﹂
⇒あいかわらずくだけた反応でそれでも壱案はうれしく思った。
只田弁護士の反応⇒﹁まあ本人訴訟でよくここまでがんばられま
したね。被告の債務ゼロの状況でこの全面勝訴は非常にまれな判決
です。誠におめでとうございます﹂
⇒女性らしい細やかな気づかいのあるやさしい弁護士さん、壱案は
彼女が大好きになった。
良く考えればおめでとうございますって言ってくれたのは彼女だ
けだった。
モモンガの梨本司法書士⇒
281
﹁控訴される可能性大、ですけどまたその時はその時で。今度はあ
なた、控訴されたら原告ではなくて控訴被告になっちゃうのですよ。
それは控訴の被告という意味です。気をひきしめないとね、しっか
りしてくださいねっ﹂
⇒壱案は梨本の脅かしに青ざめる。こ、こーそひこく⋮⋮そうなっ
たら大変そうだと思いつつ今度は私が被告になるのかとげんなりし
た。梨本は壱案に新しい質問をする。
﹁で、執行文はついてないですよね﹂
﹁なんですか、それ﹂
﹁いや、わかってないんだ、太田さん原告なのに、はは。判決文持
ってきてくださいね、ぼく、それ読みたいから。あ、お客さんだー、
執行文の話はその時に﹂
﹁はあ、じゃあ、その時に﹂
⇒そう、壱案は判決で勝ったぞと言われて有頂天になっていたが、
実はまだ全くわかってなかったのである
三月に訴状提出してその三ヶ月後に判決だ。裁判という長々とす
るイメージとは違い意外と早くすんだというのが壱案の思いだった。
やがて判決医からきっかり三日後に判決文が郵送されてきた。もち
ろん壱案は帰宅後に封を切って中を読む。
ナ
⋮⋮平成 年六月十日判決言渡、同日原本交付 裁判所書記官名
平成 年第一二三四号建物明渡請求事件
口頭弁論終結日 平成 年五月十日
判決
原告住所氏名・矢亜壱案
被告住所氏名・ゑ無山ハカシ
主文
282
一、被告は現行に対し、別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
事実および理由
第一、請求 主文と同旨
第二、当事者の主張
一 請求原因
︵一︶原告は平成 年二月十三日、被告に対し別紙物件目録記載の
建物︵以下本件建物という︶ を次の約定で賃貸し︵以下本件賃貸
借契約という︶ これを引き渡した。
ア、賃料 月額八万円六千円
イ、賃借期間 一年間
ウ、特約?賃借人は賃貸保証会社に規定の更新料を保証契約満了
日まで支払うことにより、賃貸借保証委託契約を更新するものとし、
更新料の支払いがない場合は本件賃貸借契約を解除するものとする。
?賃借人は、連帯保証人の住所もしくは氏名に変更があ
ったときには、賃貸人に通知しなければならない。賃借人がこの義
務に違反した時は、本件賃貸借契約を解除することができる。
?賃借人が賃料の支払いを2か月以上怠った時は本件賃
貸借契約を解除することができる。
︵二︶原告は被告に対し被告が本件賃貸借契約にかかる上記各特約
に違反したことを理由に平成 年二月一日をもって、本件賃貸借契
約は解除された旨の意思表示をした。
︵三︶よって原告は被告に対し、賃貸借契約の終了に基づき本件建
物の明け渡しを求める。
二、被告の主張
︵一︶被告に支払遅滞があったことは認めるが、原告の被告にたい
する家賃の督促は苛烈を極め、被告の職場にも電話して家賃を支払
うようにと触れまわられ被告の名誉は著しく傷つけられた。
283
︵二︶各支払遅滞は被告が賃貸保証会社の代弁済を拒否し、家賃の
受け取りも拒否したためである。
︵三︶原告はインターネット上で被告に対する誹謗中傷を繰り返し、
被告の名誉は傷ついた。
第三 判断
一、認定事実
原告の壱案が訴状の原因に書いたこと、そして訴訟に至る道のり
をそのまま書かれているため省略。訴状提出に至るまでの日取りを
きちんと明記され、最後に契約解除通知を送付した日付で終わって
います。
二、前記認定事実によれば、本件賃貸借契約には、貸主は借主が賃
料を二か月以上滞納し、貸主が相当の期間を定めて当該義務の履行
を催告したにもかかわらず、その期間内に当該義務が履行されない
ときは本契約を解除することができる旨の規定があること、被告は
原告との契約書通りに期日までに支払われなかったこと。原告は期
日を定めて上記滞納賃料を支払わなかったことで契約解除に至るこ
とを事前に内容証明で通告している。
上記支払催告の意思表示を記載した内容証明郵便は、被告不在の
ため留置期間経過後同月三十一日に原告に返送されているものの︵
甲第 号証四−一,二︶ その他本件に現れた諸般の事情を考慮す
ると、被告に置いて前記内容証明郵便が賃料の支払催告であること
は推知しえたというべきであり、これを容易に受領することもでき
たというべきであるから、遅くとも留置期間が満了した時点で催告
ないし解除の意思表示は被告に到達したものと認めるのが相当であ
る。
三、これに対し、被告は支払遅滞、滞納は原告が賃貸保証会社の代
弁済を拒否したためであると主張するも賃貸保証会社が原告に対し
て上記家賃につき弁済の提供をしたと目止めるに足りる的確な証拠
なく被告において2カ月分以上の家賃の支払いを遅滞し、催告を受
284
けた期限までにこれを支払わなかった以上、賃料の滞納を理由に本
件賃貸借契約を解除されてもやむを得ないというべきである。
現時点において家賃の滞納分はないこと、その他被告の主張する
ところを考慮しても本件に顕れた諸般の事情を総合すると、当事者
間の信頼関係を破壊するに足りない特段の事情があると認めること
はできない。
四、以上によれば、本件賃貸借契約は本年二月一日をもって解除さ
れたというべきであるから、被告は原告に対し、本件建物を明け渡
す義務がある。
よって主文のとおり判決する。
○○地方裁判所第九民事部
裁判官 立川多知子
⋮⋮判決文はそれで終っていた。
一読して壱案は判決文のうち二つはおかしいと感じた。一つ目は
この判決文は判決日と同日交付となっているが、同日交付なんかさ
れてない。あの砲大書記官は今日きて今日渡せないから郵送で送る
から待っていなさいと言った。ずるいじゃないかと思ったのだ。だ
がまあよい。勝ったのだから許そうと思った。 二つ目は被告の言
い分が争点違いと言われていたにもかかわらずしっかりと判決文の
被告主張に書かれていることだ。しかも名誉棄損をいっている。裁
判は被告の勝手な言い分も書くものだなとわかった。自分が明らか
に悪いのに認めもせず、その場限りの言い逃れをしても被告の主張
として後世に残る公文書に記録されるのである。だがこれもよい。
勝ったのだから許そう。
第三の判断で裁判官の見解が述べられている。壱案がせっせとゑ
285
無山宛に内容証明を送っていたことが評価されたのを素直に喜ぶ。
どうせ受け取らないで返送されてくるのだろうな、と思っていて事
実その通りだったが、ちゃんと証拠に出せて原告としてこういう努
力をしたと言えたわけです。無駄な努力ではなかったわけです。ち
ゃんと裁判官は壱案の出した証拠の数々に目配りしてくれたわけだ。
口頭弁論におけるゑ無山の名誉棄損発言には情けない思いをした
が、それでも全面勝訴は難しいと言われつつも全面勝訴したのだ。
胸をなでおろすというのはこういうことをいうのだとしみじみ感じ
た。
判決正本の最後の方には物件目録、そして見取り図。最後のペー
ジには﹁これは正本である﹂ と一言だけ書かれた文面がある。そ
の下に日付 裁判所名と書記官名、書記官の印鑑押されたページで
締めくくられている。
この薄い判決正本をもらうため、壱案ががんばったのだ。被告ゑ
無山に出ていってもらうために法的手続きをもらうというのは、こ
ういうことなのだ。その苦労は報われたのだ。裁判官は壱案の心情
を良くくみ取ってくださったと感じた。
だが判決もらったらそれで終わりではなかった。
286
第二十六章・判決確定せず
判決正本が自宅に届いたと思ってもそれで終わりではない。壱案
はとりあえず勝訴はもらったものの、それで終わりではない、こと
は法律がらみの本で知識を得ていた。判決は判決が﹁確定﹂ しな
いと本当に勝ったことにはならないのだ。
判決は判決正本が到着してから二週間後に確定する。
﹁えーと六月十日に判決がくだって。その三日後に正本が届いた。
じゃあ、判決確定は六月二十七日か、長いなあ﹂
壱案は土日が基本仕事が休みだったから土曜日にモモンガの梨元
のところに正本を持って行った。なぜならば梨元が判決書を見たが
ったからである。
梨元もまたいかに被告が悪くてもこの場合は勝訴は簡単にはもら
えない、と断言したので全面勝訴が信じられないのだろう。壱案が
持っていくと﹁とりあえず、おめでとさん﹂ とは言ってくれた。
それから待ってましたとばかり判決正本を読む。原告被告の主張
はすっとばして第三の判断の一番下の方から見ていった。
見終わった後、梨元は壱案にむかってにっこりとした。
﹁あとはもう一仕事ですな。悶着起こさずこれでさっさとあきらめ
て出てくれたらいいけど﹂
壱案はそう言われて不安になった。
﹁だってこれで月末で判決確定でしょ。ゑ無山は出て行くでしょう。
いくらなんでも裁判所からこうはっきりと言われたら、出ていかざ
るをえないでしょ﹂
﹁でも今まで散々てこずったじゃないですか。第一これ正本だけど、
執行文ついてないじゃないですか﹂
287
﹁えっ執行文、てなんですか? 電話でもいってましたけど?﹂
﹁ええーっ、太田さん執行文もらわないと、執行できないんですよ。
やっぱり全然知らなかったかあ∼﹂
﹁知りません! 勝訴したのに、実行できませんてことですか?﹂
﹁執行文ないと追い出せないよ。勝訴しただけで。いや∼、太田さ
んこんなんでよく裁判に勝てましたねえ、感心しましたよ﹂
梨元はびっくりしたようだが、壱案だってびっくりしたのだ。何
も知らない壱案に梨元はあきれつつ執行文のことを教えてくれた。
つまり裁判所は裁判で判決を下して法律にのっとってこの場合被
告を追い出してもいいですよ、とお墨付きをくれる場所にすぎない
ということ。
まず判決正本をもらい二週間後で判決確定する。そしてら執行文
をもらうために裁判所に申請する。申請したらもう勝訴しているの
で、もらえるからその執行文をもって強制執行してくれる執行官室
へ申請しにいくのだ。
つまり裁判所は何もしないのだ。現実に追い出してくれるのは裁
判官ではなく、﹁執行官﹂ というのがちゃんといて、その人に頼
まないといけないという。壱案は手順を聞いてまた時間がかかりそ
うだと思った。
﹁けっこう、面倒な手続きがいるんですね﹂
﹁あのさ、執行文もらう前に確定しないといけないですよ。確定ま
だでしょ。その間控訴されたらもう一回最初から裁判だよ﹂
﹁控訴されるかなあ﹂
﹁控訴するかどうか見極める期間が二週間というわけだよ。まあ執
行文云々は判決確定してから言うことだね﹂
﹁はあ、そうですね﹂
それから壱案の懸念は六月二十七日までゑ無山が控訴するかどう
か、になった。控訴されたらまた訴状が今度は送られてくるだろう。
それもいきなり。だってあのゑ無山が控訴しますのでよろしくとか
絶対に言わないだろうし。壱案の心配はつきない。
288
六月二十日ごろになると、そわそわしてきた。二十五日、二十六
日⋮⋮毎日帰宅すると郵便物の確認だ。だが何も届かない。大丈夫
かな? 被告あきらめてこれですんなり出ていってくれるかな。も
う引っ越しますとか言ってくれるといいなと祈るような気持ちだっ
た。
そして六月二十七日がやっときた。それまで大阪地裁から何も郵
便物はなし。
勝訴確定だ。翌日壱案は大喜びで地方裁判所第十民事部の砲大に
意気揚々と電話をかけた。
﹁あのー、執行文を申請します﹂
﹁事件番号と名前っ﹂
﹁はいっ﹂
壱案は砲大のあいかわらずぶっきらぼうのものの言い方も全く気
にならない。もう勝訴が確定したからにはこの書記官とはお別れだ
ろう。ところが砲大は意外な返事がかえってきた。
﹁あー、この事件ね。被告さんまだ判決正本、受け取ってない。だ
からまだ判決は確定しない。よって執行文は申請しても却下だね﹂
﹁受け取ってない、確定してない⋮⋮うそ⋮⋮﹂
壱案はショックをうけた。
では原告の壱案が勝訴したよ、とその理由を正本で教えてもらっ
ただけで実は何も解決してなかったのだ。壱案はショックを受けた。
﹁あの砲大さん、書記官さん。受け取られないって戻ってきたって
ことですよね﹂
﹁そうなりますね﹂
﹁絶対わざと受け取らなかったんだわ。今までの内容証明だってそ
うだったもん﹂
﹁そういうこともあるから、じゃあ﹂
﹁待って、切らないでください! どうするんですか、公示送達と
やらになるんですかっ﹂
289
壱案は砲大に向かって怒鳴った。砲大は負けずに怒鳴り返した。
﹁あのね、こっちは相手が受け取らなかったといっていきなり公示
送達なんかしないよっ。きのう正本が送り返されてきたので特別送
達にしてもう一回被告のところに送付したよ。ちゃんとこっちはす
ることはしてるから、待ってなさい﹂
﹁だって確定したかどうか電話で教えてくれないでしょ﹂
﹁そりゃ、裁判所だもん、いちいち原告に確定しましたって電話入
れてたら、時間がいくらあってもこっちはたりんぞ﹂
﹁砲大さん、それで特別送達ってなんですかっ﹂
﹁そっちの弁護士さんに聞いてください、いいね﹂
ガチャ。
電話が切れた。
砲大書記官はあいかわらずだった。壱案は呆然とした。判決確定
後、ゑ無山はすぐ出ていくだろうと思っていたのだ。壱案の考え方
が甘かったということだろう。判決で負けたぐらいでゑ無山はさっ
さと出て行くタマではないのだ。判決正本をわざと受け取らないこ
とで確定がそれだけ遅れることになるからだ。その分住み続けるこ
とができるということだろう。
だが砲大書記官はすでに特別送達の手をうったと。
調べてみると特別送達とは書留や内容証明のように相手の受け取
りサインなしでポストに入れる通常の配達で確かに届けましたとい
うシステムなのだ。それなら最初からそうしてほしいが裁判の手順
とはそういうものだと割り切るしかない。壱案は今日が六月二十七
日だから送達は今月中にされるだろう。ではその二週間後、つまり
七月十四日が判決確定だろうと思った。だが原告がそう思うだけで
はいけないのだ。
七月一日、壱案は再び砲大書記官に電話をかけた。
砲大書記官がどんなにそっけない態度であろうとも、本人訴訟の
原告はそれでへこたれてはいけないのだ。壱案はもはや割り切って
290
これも原告の務めのうちと達観して、砲大に電話をかけるのだ。だ
って裁判所の電話先といえば壱案には砲大書記官しかいなくて、彼
しか話せない。
基本民事部に直接電話をかけると必ず女性の助手さんが出てくる。
しかし必ず書記官に取り次ぐ。弁論などで不在なことがあっても最
終的に砲大書記官が折り返し電話をかけて話す。代わりの人が代理
でしゃべることは決してなかった。法的機関にいる人種は特に﹁責
任﹂ というのがついてまわるからだろう。﹁はい、第十民事部の
砲大です﹂
﹁原告側です。平成 年 ︵ナ︶第一二三四号の原告の太田壱案で
す﹂
﹁はいはい、今日はなに?﹂
﹁あのう、先月末に特別送達されましたよね?﹂
﹁えっと、そうですね。受け取りサインはなくとも、玄関先で置い
ていきますから。いやもう置いていってますね。だからえーと、そ
う、判決確定は七月十四日の午後四時、ですね﹂
壱案はそれをきいて自分の読みがあたったことに満足した。しか
も時刻付きである。七月十四日の午後の四時に相手が控訴しなかっ
たら、判決は確定し、壱案は勝訴するのである。そして堂々と部屋
を明け渡せ、マンションから出ていけ、と言えるのである。
だが、裁判所が被告のゑ無山を追い出してくれるわけではない。
司法書士の梨元が指摘したようにゑ無山に出て言ってもらうために、
執行文を発行してもらわねばならない。
そして執行文を発行されて初めて強制執行にとりかかってもらえ
るのである。それも裁判官や裁判所は一切してくれない。全部原告
の壱案の申し立てで執行官が動いてくれるのである。勝ったからと
いって原告の壱案が出ていけとは言えないのだ。また仮に言える権
限があったとしても非力な女性である壱案が著名な流派の空手の指
導員だと自慢するゑ無山を相手に言えないだろう。
部屋の明け渡しの準備は早めにしておくにこしたことはない。壱
291
案はゑ無山が素直に出て言ってくれないだろうなとは思っている。
だから﹁申し立て準備﹂ をするのだ。
申し立てとは﹁執行文﹂ をもらうための申し立てだ。執行文が
なければこの判決正本はただの紙切れ、勝ったよとだけしか書いて
ない紙切れ。それを法的に最強の武器にするためにはまずは﹁申請﹂
しないといけないのだ。
用意するものは?判決正本、
?執行文付与申請のための申請書とその手数料の収入印紙
?送達証明申請のための申請書とその手数料の収入印紙
裁判は判決をもらったらそれで終わりではない。これからだった
のだ。判決通りに実現するために原告が準備していちいち申請して、
いちいち申し立てしないといけなかったのだ。むろんマンションの
管理人女性には裁判に勝った事は伝えてある。ゑ無山が敗訴を認め
て退去すれば連絡を入れてもらう手筈にしてある。
だがゑ無山は出ていく気配はない。やはり強制執行をしないとい
けないだろう。壱案はそのための準備をした。だがここでまたはた、
とわからないことが出てきた。
各種申請書の書き方が全く分からないのである⋮⋮。
強制執行の申し立てのために、判決正本がいるのは当然。それと
執行文をもらうためと送達証明書をもらう申請書の書き方がわから
ない! ネットで検索しようにも出てこない。
だが何もないよりはましだろう、壱案は他の裁判で使う各種申請
書のページを見て見よう見まねで書くことにした。
送達証明申請書
△△地方裁判所第十民事部一係A 御中
平成 年七月十四日
原告太田壱案の住所氏名、印鑑
◎当事者の表示 、申立人、つまり原告の住所氏名、
292
相手方つまり被告の住所氏名
上記当事者間の不動産明け渡し命令申し立て事件についき、平成
年明渡命令の正本は、相手に対して送達済みであることを証明さ
れたく申請いたします。
⋮⋮こんなものでいいかしら、と壱案は迷いつつ書く。同じよう
にして執行文付与申請分も書く。収入印紙もあらかじめ郵便局で購
入しておく。
壱案は裁判はなんと煩雑で面倒なんだろうと感じた。。裁判が面
倒で時間がかかるのが当然って誰かがいってたけど実感できた。そ
れが嫌な人はヤクザとかに頼むんだ。もちろんそれは非合法だから
ダメだがその気持ちはよくわかる。ヤクザなら壱案の代わりにあの
厚かましいゑ無山を殴ってくれるかもしれない⋮⋮壱案の頭にヤク
ザの文字がでてきて首を振った。そんなことは誰にも頼めない。裁
判所の隣の立派な弁護士会館の玄関にも﹁裁判は弁護士を﹂ と大
きくポスターが貼ってある。
弁護士依頼についての啓蒙パンフレットにもヤクザや民間の非合
法の示談屋に依頼してもめごとを解決しようとして、かえってひど
い目に会った人たちの話も書いてあったのだ。
つまりヤクザや示談屋に頼むと、紛争相手とその依頼人とがつる
んでお金を要求したり脅かされたりする事例が多いそうだ。結果的
に弁護士に正式に依頼して時間はかかるけど正式に裁判するのが一
番の近道、とそう書いてある。しかし弁護士にもいろいろあり、着
服したり脅迫したりした事例もある。なんでもありなのだ。
しかし壱案は勝訴をもらったことで区切りはついたのだ。あとは
強制執行かけるだけ。ゑ無山は控訴はしないだろう。口頭弁論でも
壱案が出した証拠の反論は一言も言えなかったから控訴は不可能だ。
壱案は判決確定の七月十四日まで待った。十四日は午後から休暇
を取ってその日のうちにすぐに申請するつもりだ。執行文と送達証
293
明書を出してもらえば、もうあの砲大書記官とも二度とあうことは
ないだろう。もらうものをもらえば壱案はその足で裁判所の地下に
ある執行官室へ行って執行申請をしにいくつもりであった。
しかし砲大にあらかじめこの日に証明書をもらいに行くからと告
げると申請自体にも時間がかかるから次の日の十五日にしなさい、
と言われたのだ。砲大書記官はほんとあいかわらずそっけない言い
方をする。壱案にはこういった申請相手というか、電話先は彼しか
いないのに、砲大書記官はいつもどおり官僚的というかこの人書記
官という名前のロボットじゃないかと思うぐらいにそっけない。
﹁太田さんあのですね、申請したからってすぐに申し立てできませ
んよ、強制執行急いでるの? すぐにしたいの? ふーん。 じゃ
あ、その次の日にしなさい、つまり七月十五日ね。それならこっち
もすぐに出せるようにしておくから﹂
﹁⋮⋮はい、わかりました。あのう、申請の仕方もネットで見たけ
どよくわからなくて﹂
﹁こっちは教えるところじゃないから。ひどくなければ訂正させる。
一応印鑑持ってきて﹂
﹁はい、よろしくお願いしま﹂
ガチャ⋮⋮という感じで電話を切られた。
砲大書記官様はお忙しい、お忙しいのでござる⋮⋮。とにかくこ
のお忙しい砲大書記官様はあと少しで壱案とも縁が切れる。執行文
さえ発行してもらえばあとはもう、執行官にまかせて強制執行して
もらうのだ。そうしたらもうこの砲大書記官ともお別れだと切実に
思った。
さて待ちに待った七月十五日午前九時。結局壱案はこの日のため
に有給を取らざるを得なかった。壱案の住まいから急行に乗って一
時間、地下鉄を乗り継いでこの裁判所までやってくる。もうこれで
何回目か。交通費だってかかっている。今日もまたあの冷たい砲大
書記官に偉そうに言われるだろう。すべてはあの非常識なゑ無山の
294
せいである⋮⋮。
だがもう判決確定だ。ゑ無山はそれでもなお退去もせず居座って
いる。平気な顔して暮らしている。一体どういう気持ちであのマン
ションに住み続けているのだろうか。九時まで時間があったので裁
判所一階にある郵便局に行った。ATMに記帳すると残高が増えて
いてあれ、と思った。
ゑ無山から入金があったのである。日付は昨日になっている。
﹁⋮⋮?﹂
裁判に負けても家賃のつもりで入金したら追い出されないとでも
思っているのか? 壱案は嫌な予感がした。もし今月分の家賃のつ
もりなら、本来ならば七月分は六月三十日まで入金しないといけな
い。なのになぜ昨日になって入金したのか?
壱案はもう裁判が終わっているので契約終了による家賃相当額の
居直り損害金として受け取る旨の内容証明書の下書きもなかった。
壱案は記帳されたゑ無山の名前を見て本当に嫌な気分になった。
本当に居直るつもりなんだ。裁判に負けたのに家賃のつもりで入
金していればずっと住めるとおもっているのだ⋮⋮。
壱案はエレベーターで十階にあがり、第十民事部の砲大書記官の
ところまで行く。時に九時五分。砲大はまた書類の山に埋もれて忙
しそうに電話で受け答えをしている。
壱案は用意していた判決正本と二通の申請書を提出した。砲大は
手を止めて壱案のいるカウンターの方にやってきた。
﹁執行を急いでいるんだな﹂
﹁はい、そうです。もう長いこと退去を待っています。判決確定し
てもなお居座るつもりですから今から申請通ったらこの足で執行官
室へ行きます﹂
﹁わかった、じゃそこへ待ってて﹂
壱案の真剣な表情を見てさすがの砲大も何も言わなかった。だけ
ど壱案の申請書をもって自分のデスクに戻ると﹁あれ﹂ という表
295
情をした。
﹁原告さん、ちょっと待って、昨日速達で被告から控訴状が届いて
いる﹂
﹁ええぇっ﹂
壱案は自分の顔から血の気がひいていくのがわかった。
控訴状⋮⋮!
では裁判のやりなおし。ゑ無山は控訴したのだ。
あの判決に不服で控訴した!
だから昨日の日付で家賃のつもりで入金してきたのだ。
ぎりぎりいっぱいまで自分で思い通りに判決決定を引き延ばした
あげく、判決確定日に速達で控訴状を出した。
ひきょうもの、
人間のくず、
生ごみ、
壱案は脳裏のゑ無山に向かって思う限りの罵声を出した。だがこ
こは裁判所だから仕方くなく頭の中で怒鳴った。
砲大は﹁あっ待てよ﹂と言った。同時に壱案は思い出した。
﹁判決確定は昨日の午後四時とありましたね、その時刻までに届い
たのですか?﹂
藁にもすがる思いで聞いた。砲大は室内の壁にある時計を見上げ
た。
﹁うん、そうだね、昨日の夕方に届いた。あ、ちょっと待って﹂
砲大は隣の小部屋に行ってしまった。どうしたのだろう、電話を
かけているようだ? 控訴状を受理したところに? 壱案はここか
らは様子が見えないので気をもんだ。
ほどなく砲大が戻ってきた。壱案のいるカウンターまでまっすぐ
296
に。
﹁太田さん、ゑ無山被告が出した控訴状は無効でした。だから判決
確定です。申請書を預かりましょう!﹂
やった⋮⋮!
壱案は裁判所が本当にきっちりしているのに、驚いた。判決確定、
昨日の午後四時に確定していたのである。ゑ無山の控訴状はその時
刻以降に速達で届いたのだ。
裁判所の几帳面さに何度か辟易したが、この場合は感謝したいぐ
らいだった。壱案はいきおいこんで砲大に言った。
﹁ではこの通りに申請書を出しますから今から証明書をください。
こんなことを平気でできる被告なので一刻も早く強制執行をしても
らいにいきますから﹂
砲大書記官はうなづいた。手にはさきほど壱案が提出した申請書
と判決正本が入ったクリアファイルをもっている。これは無駄にな
らなかったのだ。
﹁そこで待っていてください、時間はそうだな、十分ぐらい﹂
﹁もちろんかまいません、お待ちしています﹂
壱案はほっとする思いだった。やっと申請を受け付けてもらえる
のだ。 申請書と判決正本を砲大書記官に渡した後、壱案は書記官室前の
椅子に腰かけて待つ。待ちながら壱案は考える。あのゑ無山はなぜ
二週間の猶予のうちにさっさと控訴しなかったのか? この判決に
は反対だという何らかのパフォーマンスのつもりだったのか、それ
とも最後まで判決確定するかどうか気のもませようと原告の壱案に
いじわるのつもりでしたのか。どう考えてもゑ無山は壱案をを振り
まわしたかったとしか思えない。
それと元々ルーズな性格ゆえ裁判にも遅刻し、準備書面もどたん
297
ばでしか提出できなかった、それを踏まえば締め切り直前でしか身
体が動かないのかもしれない。
しかし判決をもらっただけではゑ無山を追い出せないのだ。この
判決は被告側にも確かに届いてますよという送達証明書が必要だな
んて! なんて裁判って面倒くさいし手間暇がかかるのだろうか。
それに⋮⋮壱案はまたゑ無山の心中を考える。通常の相手ならば
裁判に負けたと思ったらさっさと退去するはずではないのか。それ
なのに出ていかないというのはなぜだろうか。強制執行までいくこ
とになるが、強制執行の時でもゑ無山は抵抗するつもりであろうか。
厚真かしいにもほどがあると思うのだ。
298
第二十七章・強制執行手続き
判決正本どおり、明け渡してもらうにはこのままではいけない。
判決正本に執行文をつけてもらわないといけないのだ。
まずは判決正本が相手にもちゃんと届いてますよ、という証拠⇒
送達証明書
執行文付与申請して⇒執行文を正本のうしろにつけてもらう。
これらの業務はこの場合は第十民事の砲大書記官がしないといけ
ない。申請が壱案がしたが簡単には通らなかった。壱案は書記官室
の前に座って待っていたが、﹁ちょっと来てください﹂ の一言で
部屋にもう一度戻って砲大書記官の指摘を直さねばならなかった。
つまり書式を間違えて書いてきたのだ。
﹁あ、これね、こんなんじゃ証明書出せないから﹂
﹁書き直しますから教えてください﹂
﹁ほんとは教える義務ないけどね、しようがないなあ、何にも知ら
ないで勝っちゃんたんだ、ははは﹂
砲大は苦笑していたが壱案はとにかく証明書を出してもらい執行
文をもらわないと先にすすめない。どんなに笑われてももう平気だ。
砲大は壱案の顔をみてため息をついた。
﹁ぼくが薄く正しい文章を書いておいたから、それをペンでなぞり
なさい。それから元の文章に二重線ひいてその上に印鑑をおして。
印鑑、電話でぼく言いましたよね、持ってきてますね﹂
﹁はい、持ってます﹂
﹁じゃあそこの机で書いて、ていねーいな字で書いてな﹂
﹁わかりました﹂
⋮⋮砲大書記官はへたな字で書かれた申請書で苦労したことが絶
対あるのだ、壱案はそう思いながら訂正した。
申立人↓原告
相手方↓被告
299
他事件名も訂正するように書かれてある。
壱案は同じことじゃないかと内心思ったが裁判所にとっては違う
のだろう。
私も公務員だけど絶対感覚が違うんだ、人種も違うんだ、そう思
うしかなかった。
﹁⋮⋮上記当事者間の不動産明け渡し命令申し立て事件につき、平
成 年六月十日の明け渡し命令の正本は相手方に対して送達済みで
あることを証明されたく申請します﹂
上の文面は壱案が苦労して考えて書いたが訂正されられた正しい
文面は以下の通りだった。
←
﹁⋮⋮上記当事者間の建物明渡請求事件につき、平成 年七月十日
に言い渡した判決正本は、被告に対して送達済みであることを証明
されたく申請いたします。﹂
そして上部に収入印紙を規定分張り付ける。印紙代は百五十円だ
った。おなじく執行文付与申請も訂正する。これにも収入印紙を張
り付けないといけない。これは三百円だった。壱案はこういった書
類にもこと細かく値段が決まっているのに驚いたがとにかく砲大の
いうとおりにしていった。
砲大は訂正印だらけの壱案の申請書を片手でほい、という感じで
受け取った。壱案にとっては非日常な申請だったが砲大はもう日常
的な業務の一環にすぎない。
﹁じゃああと十分ぐらいそこで待っててくれる?﹂
﹁わかりました﹂
きっちり十分後に砲大書記官は書類を持ってきた。見れば壱案の
判決正本だった。それと紙切れがもう一枚だけ。壱案は受け取ると
部屋に戻ろうとしている砲大に声をかけた。
300
﹁書記官さん、これだけですか? 執行文ってどれですか﹂
砲大は顔だけ壱案のほうに振り向けてしかめつらをした。
﹁やれやれな原告だねー、後ろを見てみなよ、ちゃんとつけたよ?﹂
﹁はあ﹂
壱案は判決正本をぱらぱらとめくった。判決正本の最後にそれは
あった。判決正本の最後のページには﹁これは正本である﹂ と一
行だけ印刷されてその下に判決言い渡しの日付が印刷されていた。
その下に大阪地方裁判所の大きな印鑑が押されていた。またその次
のページに新たに一枚の紙が付けられていた。
これが執行文だった。
これがないと勝訴してもただの紙切れだったのだ。
債務名義の事件番号 平成 年 ︵ナ︶ 第一二三四号
執行文
債権者は債務者に対して、この債務名義により強制執行をするこ
とができる。
平成 年七月十日
大阪地方裁判所第十民事部一係A
裁判所書記官 砲大 ︵ここに大きな印鑑、執行文上部には何
かの割り印あり︶
債権者 太田壱案
︵原告︶
債務者 ゑ無山ハカシ
︵被告︶
301
これぞ壱案の望む﹁出ていけ!﹂ といえる法的な証拠となる。
もう一枚あるがこれは送達証明書だ。判決が正しく被告が受け取
った↓理解したとされる法的な証拠。 これは壱案が訂正して提出
した文面そのままだった。だがそれはコピーされていて、上部に裁
判所の受付とその日付がある。
下部には張り付け収入印紙の代金が黒いはんこ枠の中に百五十円
と手書きで書かれていた。
そして最後の行だけ大きなはんこでバーンという感じで力強くお
されている。
﹁上記証明する
平成 年七月十日
△地方裁判所第十民事部
裁判所書記官 砲大 ︵ここに大きな印鑑︶
上の文面は大きなはんこだ。
強制執行の送達証明書用のはんこもあるなんて、裁判所はなんと
細かいこと。そんなにお客さんがいなさそうでもいるんだ。専用の
はんこが押されてかえってくるのだ。壱案はその二点を見届けると
胸に抱いた。砲大は壱案の様子を見て言った。
﹁これから執行官室へ行くんだね﹂
﹁はい、行きます、いろいろとお世話になりました﹂
﹁ま、がんばって﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
まさか砲大からねぎらいの言葉がくるとは思わなかった。壱案は
思わずにっこりした。砲大は小さく会釈を返し自分の机に戻って行
く。壱案は書記官室を出るときにもう一度礼をして、それから退室。
302
今度は強制執行を申し出るために執行官室へ行かないといけない
のだ。
執行官室の場所は裁判所の隣だった。しかも独立した建物だった。
どういうわけか警備員が二名入口に立っている。壱案は思わず会釈
したがあちらも会釈を返してきた。
強制執行の担当人が集う場所ということで、不動産や財産を強制
的に返却させられて怒り狂った被告が怒鳴りこんだり暴れたりする
のを警戒しているのだろうか、壱案にはわからなかった。
だけど裁判で勝ったぐらいで、ゑ無山はすみません、といって大
人しく退去するタマではないのは確かだ。壱案一人では無理だ。法
律の手で合法的に出て行ってもらわないとあのゑ無山とは縁が切れ
ないだろう。壱案は執行官室へ入る前にお手洗いに立ち、あらかじ
めネットで仕入れた強制執行の知識を思い出していた。
強制執行にも種類はいろいろあるらしい。執行の手段もまた然り。
壱案の場合は部屋の明け渡しなので不動産執行の申し立てになる。
お金の取り立ては動産執行と言う。財産差し押さえ、給与差し押さ
え、銀行口座差し押さえ⋮⋮やりかたはいろいろとあるようだ。
また強制執行にかかる料金は裁判所にはらった金額とは全く別な
話しになる。不動産明け渡し執行申請の場合には五万円の予納金が
発生することは先にネットで検索してわかっている。
ここも平日しか開いてなくて土日は役所だから休み。だから壱案
は有休をとりながら裁判したので強制執行も効率よく手続きをふみ
たかった。壱案はお手洗いで手を拭きながらこの裁判はこれで終わ
りではなく、本当の目的、ゑ無山を退去させるのはこれからの手続
きによるもので正念場なのだと感じた。
それから躊躇なく執行官室へ入っていった。執行官室は建物入り
口の見取り図をみるととても広いように思えたがカウンターは1つ
しかなく、外部受け入れ口はとても狭かった。カウンターから奥の
側には部屋がいくつかあり、そこが広いようだった。
303
壱案がカウンターにつこうとすると何やら長く伸ばした白髪の男
性、はっきりいって薄汚い服を着た男性が赤い紙をもって怒鳴って
いる。対応している年配の女性は慣れた様子で適当にあしらってい
る。
壱案は驚いたが黙って聞いているうちにこの男性が強制執行の﹁
催告﹂ といって出て行きなさいという紙を家の中に貼られて怒っ
ているのだ。貼った相手は裁判所の執行官でちゃんと連絡先や住所
を書いているからそれを見てこちらにきたのだとわかった。
男性はなぜ勝手に家に入って勝手に出て行けという紙を貼ったの
かを怒っている。
だが何もしない相手に裁判所の執行官は根拠なくこのようなこと
はしない。この男性は裁判されて敗訴確定し家主が強制執行の手続
きをしたにすぎない。このような事態になってもなお、自分のおか
れた状況が理解できず男性が怒鳴っている。多分家主に怒っても相
手にされず、仕方がないので裁判所に怒りにいったのだ。だが裁判
所にいっても、もっと相手にされないだけだ。
担当した女性も三十歳代ぐらいの女性だが慣れているらしく、ど
なり声にも耳をかさず淡々黙々と仕事している。執行官室にも奥に
何人かの事務員がいるが誰も相手にしない。やがて怒鳴りつかれた
男性は黙り込んだ。そしてポケットに両手をつっこみ、何やらぶつ
ぶついいながら背中をまるめて出て行った。
静寂。
この男性が出て行く時、壱案は顔をみた。男性はしわだらけ、あ
かだらけ、目は黄色く濁っていて落ちくぼんでいる。服はもう暑い
季節なのに分厚い布地を何枚も着込んでいる。布地はボロボロだっ
た。くさった食べ物の残渣? が顔やぼさぼさの白髪、衣類につい
ている。同時に吐き気を催すようなにおいがした。またよく聞こえ
ぬが何やら独り言を言っている。通常の会話が成立しえぬ相手であ
るのが一目瞭然だった。
壱案は常軌を逸した男性の様子を見て、ゑ無山も強制執行の催告
304
をかけたらこうやって裁判所に怒鳴りこむだろうか、と思った。あ
あいう男性を相手にするなら、裁判も苦労しただろうか、だがゑ無
山も一応は会社経営者でちゃんと裁判には背広ネクタイをつけて臨
んでいた。見かけだけはちゃんとしていた。だから、あれでも﹁ま
だマシ﹂ な相手だったのかもしれないと思った。
だが手こずらされているのは間違いない。
壱案はカウンターに近寄ってさきほどの女性に話しかけた。
﹁あのう、強制執行の申請に来たのですが﹂
﹁はい、書類は揃っていますか﹂
﹁さきほど砲大書記官さんからいただいたばかりです﹂
﹁では、見せてください﹂
女性は慣れた手つきで見た。それからこういった。
﹁民事執行申し立て書がありません、購入していただけますか﹂
﹁すみませんが私はこういった手続きが初めてなので、教えてくだ
さい。民事執行申し立てとはどうしたらいいのでしょうか⋮⋮これ
だけではいけませんか﹂
﹁あなたが持ってこられた判決正本や送達証明書等は執行をかける
理由にはなりますが、うちに申し立てするには申し立て書というの
を提出していただきます。あのう、当事者目録とセットで書式を販
売してますから購入されますか﹂
﹁セットで販売! は、はい⋮⋮もちろん買います、おいくらでし
ょうか﹂
﹁はい、民事執行申し立て書と当事者目録とセットで四十円になり
ます、取り下げ書とかもつけますか、いいですか﹂ 取り下げ書もつけるかと聞かれても壱案には何のことかわからな
い。だから正直に言った。
﹁あのう、私はほんとに裁判自体が初めてで強制執行も初めてなん
です。もっと初心者向けに説明していただけますか﹂
相手が砲大書記官みたいな一見こわそうではなく、壱案より年長
305
のやさしそうな女性だったのでこう言えた。それにあの浮浪者みた
いな男性も適当にあしらってあきらめさせたのである。頼もしそう
な印象も残したのである。
受付女性は愛想はよくはないものの﹁わかりました﹂ と言った。
それから壱案のもっていた判決正本をぱらっとめくり、執行書や送
達証明書を確認する。
﹁じゃあ申し立てセットと取り下げ書だけでよさそうなので四十円
+十円で合計五十円いただきます﹂
﹁はい、わかりました、あのう、私はこっちにめったに来られない
のでこれから申立書を書いてここで提出したいのです、いいでしょ
うか﹂
﹁いいわよ、だけど民事執行申し立て書は一部でいいけど、当事者
目録は三通、物件目録は四通必要です、できますか。それと執行予
納金はこの場合五万円必要です。いけますか﹂
﹁はい、大丈夫です、お金も用意してきました﹂
目録とかは判決正本のコピーなどでいける。三部、四部と必要な
のはきっと執行官などが必要なのであろう。大阪地方裁判所地下に
はコピーもできる売店があるし壱案は時間がかかっても今日中に申
し立てするつもりだった。
﹁強制執行業者はお決まりですか﹂
﹁え、まだです。紹介していただけないのですか﹂
﹁執行官室はそういうことはいたしません、だけどここには業者が
出入りしますし、このカウンターの端をご覧ください。強制執行専
門の業者さんを一覧表にしていますから参考にしてください、あ、
鍵の業者さんとかもありますからね﹂
事務員に教えられた一覧表を見れば強制執行業者はけっこうたく
さんある。壱案の普段知り得ない世界がここにもあった。裁判で勝
った家主のために賃借人を追い出してやる専門の業者というのがあ
るのだ。しかもあいうえお順に一覧表にできるほどある! 壱案は
そういう業者さんをこの中から選べと言われて迷った。壱案は再び
306
事務員に声をかける。
﹁あのう、私では業者さんを決められません、ここが一番手際がい
いとか、どういう人でも絶対追い出しかけられる業者さんを教えて
いただけましたら﹂
﹁ですからうちは、執行する公的機関なので推薦はいたしかねます、
その中から一つだけ決められたらいいんですよ、﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
壱案はわからないなりに、まずは書類をそろえようと思った。申
し立てが通過してから、予納金が必要になってくる。強制執行も裁
判費用とは別代金だ。壱案は執行代金はあらかじめネットで予測し
ていたので五万円ときいても動じなかった。とりあえず大急ぎで申
立書を作ろう! 幸いここでも訴状提出したときのようにカウンタ
ーには筆記用具が全部そろっている。
壱案は大急ぎで取りかかった。
全く裁判所と執行官室は別物の機関であったのだ。砲大書記官に
もらったものは壱案の身分つまり相手を追い出す権利を持っている
人です∼と証明してくれるだけにすぎないのだ。
壱案は申し立ての書式に従い空欄を埋めていくがわからないとこ
ろはその場で担当女性に聞いた。書類の左半分が申立人の書き込み、
右が当事者目録になっている。
まず原告の壱案の住所と申立人、これはもちろん太田壱案となる。
下記の欄が相手方になる。ゑ無山ハカシ。それも丁寧に書き込む。
その下が債務名義の表示。ここでも裁判の事件名と番号が必要だ
った。そして確定判決の項目にマルをつけておく。ちなみに項目は
本当にいろいろあって、不動産引き渡し命令、和解調書はある程度
理解はできても、仮処分決定、和解に代わる決定、保全処分決定と
かまでいくと意味がもう不明だ。強制執行と一口にいえども強制執
行にもいろいろな名目があって驚きの連続だ。こういうのがわかる
のもまた法のケモノ道を行く人たちというところか⋮⋮世間のごく
307
ごく一部だけが知りえる世界がここにもまた存在するのだと感じた。
物件目録は判決正本の物件のところをそのままコピーするだけで
足りた。要ははじめて現場に出向く執行官や強制執行業者にも迷子
にならぬようにわかりやすく表示したものを提出するわけである。
これまた執行官のため、つまりは裁判をおこした原告のため、執行
がスムーズにいくために必要なものであった。
目録には現地の地図も見取り図も全部添付しておく。
申し立て自体は簡単なものではあったが、それでも無事受け取ら
れて壱案はほっとした。それから事務員に聞く。
﹁それで、あのう、強制執行の日はいつになりますか﹂
﹁ああ、それはまずは催告という形をとります。催告は早ければ一
週間後、遅くても二週間以内にはできますよ﹂
﹁それってあらかじめ教えていただけるのですか﹂
﹁希望があればね、催告には立ち会われますか﹂
﹁え、立ち会い、立ち会えるのですか﹂
﹁できますよ、通常は業者さんにお任せという人が多いですけどね、
希望されますか﹂
壱案は思考する。だがやめておいた方が無難という感じがした。
口頭弁論ではゑ無山は被告席にいながらどう考えても自分が悪い癖
に壱案を最後の最後まで非難したのである。
催告の時に本人が留守であれば、ペットはどうしているのか、部
屋の中の様子も見たいが本人がいた場合壱案に暴力をふるう可能性
もある。あの口頭弁論でも裁判官や書記官が部屋にいるというのに
ゑ無山は壱案に向かって空手ポーズで威嚇したのだ。安全に円満に
話ができる相手ではない。
壱案は首を振った。
﹁いえ、私は立ち会えません﹂
﹁では立会人が必要なのでやはり業者さんどなたか決めてください。
今日でなくともいいですが、できるだけ早く教えてください﹂
﹁わかりました﹂
308
壱案はそれから担当者から強制執行にかかる予納金を納めるよう
に言われた。
﹁五万円になります﹂
﹁はい、今から出せます﹂
﹁あ、ここでお金を出さないで。ここは受け付けません。二階に納
める部屋がありますのでそちらへ行ってください﹂
﹁わかりました﹂
何もかもはじめてづくしの手続きだった。壱案は強制執行の原告
としてあらかじめ法的に決められたベルトコンベヤーにしたがって
行動した。
二階もまた大阪方裁判所執行官室歳入歳出現金出納という舌を噛
みそうなところにいって五万円を予納した。米納とはいくらかかる
かわからぬが、大体この金額以下で済むだろう、だから前払いはし
ておいてくださいということだ。壱案は受付の人からこの五万円は
残金が出るのでそれを振り込むための口座番号を教えてくれと言わ
れ、いつも持っている郵貯の口座番号を記入した。それから﹁保管
金受領証書﹂ を受け取った。これで強制執行の費用を支払ったこ
とになる。
提出金額 五万円。
上記金額を領収しました。
平成 年七月十日
下には裁判官事務官の記名と判子が押されている。
保管金管理番号として第五六七八一二三四号という八ケタの番号
があり、事件番号もすでについていた。ここでは裁判につかわれた
事件番号ではなく、執ロ︵↑イロハのロです︶第四五六六号という
のが冒頭につけられている。
それから債務者氏名がゑ無山ハカシの名前
保管の事由 執行官予納金
309
裁判所はとかく最初から最後まできっちりしている。そうでなけ
ればいけないのだ。壱案はここまでくるとやるだけのことはやった
とも思った。あとは出て行ってもらうだけだ。最後の仕事、それは
強制執行業者さんを決めることだ。早く業者を決めて執行官室の受
付に申し出たらその分早く強制執行の手続きが踏める。壱案はゑ無
山に早く出て行ってほしかった。さて、どこにしようか⋮⋮。
執行官室の事務員さんの様子では制執行業者を決定しないと話が
進まない感じだった。早く決めるにこしたことはないだろう。もち
ろん業者を雇わなくて自分で執行官と一緒に執行に立ち会ってもよ
いのだ。自分で相手を執行官立ち会いの上で退去していただき、そ
れでも退去してくれなかったら、自分で追い出し、部屋に置いてあ
る荷物は全部自分で用意したトラックで自分で運んで、自分の敷地
内で保管する。荷物の引き取りすらなかったら自分で競売の手続き
をとる。
競売? 壱案はそこまで考えるとやはり個人でやるには無理があ
ると思った。裁判を起こす前も後もこうして迷惑をかけられ続ける
のだ。
早く決めないと。今日しか仕事の休みがとれなかった。執行業者
だけでも決めたほうがよいだろう。来月もしかしたら選挙があるか
もしれないのだ。できるだけ早くゑ無山に退去してもらいたかった。
壱案は執行官室の入口のカウンターに強制執行にかかわる業者一
覧表をもう一度見に行くことにした。あの一覧表は裁判所に置いて
あるなら裁判所公認なんだろう。ヘンなことはしないだろう。ぼっ
たくりとか、被告と共謀してお金を要求するとか⋮⋮それはないだ
ろう。
いずれにせよ、出納室にお金を納めたのでその証明書を執行官室
に戻って改めて申請、提出しないといけない。執行官室へに戻ろう
一階におりたら作業服を着た男性とすれ違った。少し腕がふれたが
その時に男性の持っていたクリアファイルから一枚の紙が落ちた。
310
その男性が落ちた紙に気づかず行ってしまいそうだったので壱案は
あわてて呼びかけた。
﹁あの∼すみません、何か書類を落とされたようですよー﹂
﹁え、あ、はいありがとうございます﹂
見ると取り下げ書、と大きく書いてある用紙だった。それと株式
会社矯正商事、と書いてある。壱案は思わず聞いた。
﹁すみません、見えてしまったので聞きますが、もしかして強制執
行の業者さんですか﹂
男性は壱案から用紙を受け取り壱案の顔を見降ろしてにっこりし
た。
﹁あ、そうです﹂
まだ二十歳そこそこの若い男性だ。アルバイトの大学生でもある
のかしら。壱案は強制執行業者ってたとえ相手がヤクザであろうと
も、追い出せるなんでも屋というイメージをもっていたので、いか
つい怖そうで強そうな男性とばかり思っていたので意外だった。自
分よりも年下そうな大人しそうな男性だったので、気軽に聞いた。
﹁あの、ここにはよく依頼をうけておられるんですか。強制執行、
ってよくされてるんですか﹂
男性は笑いだした。
﹁ああ、うちはね、専門なんで。会社もここの建物のすぐ裏にあり
ますよ、はは。えーと、もしかして原告、さん?﹂
﹁そうです、私初めてなんで。よくわからないけど、とにかく早め
に執行業者さんを決めなくてはいけなくて、でも、どこがいいのか
わからなくて﹂
それを聞くなり男はさっと胸ポケットから名刺を出した。
﹁ぼく、こういうものです﹂
名刺を壱案にささげて頭を深く下げた。若く見える容姿だったが
その仕草は手慣れていて見かけよりも年をとっていそうだと壱案は
思いなおした。名刺には﹁株式会社矯正商事・主任・葡萄白地﹂ と書いてある。
311
﹁あの、 ぶどう、さんとお読みするのですか﹂
﹁そうです、ぶどう、とお呼びください。で、もう執行を申請はさ
れているんですよね? 場所は?﹂
﹁あ、あのう、受領書とか今持っているんです。場所は大町駅前の
マンションです。判決正本とかは執行官室へ原本を渡しましたがコ
ピーでよかったらご覧になりますか。物件目録とかあるので、それ
で住所地がわかりますけど﹂
﹁拝見いたします﹂
葡萄は壱案からコピーを受け取り廊下のその場所で立ったままぱ
らぱらとめくっていく。判決正本もちらっと見たうえで最後の方に
ある物件目録を見ていく。
﹁大町駅前ね、今日の午後、開いてますのでよかったら見積もりと
ってきます。その上で決めていただいてもいいですよ。よかったら
連絡先教えてください。見積書送りますから。あっと、判決に書い
てある住所でいいですかねー? ﹂
﹁あ、はい。できたら急いでいるので早めに執行をお願いしようと
思ってます﹂
﹁執行の前に催告をやります。でも日にちは原告は指定できません
よ。裁判所の執行官が決めますからね。それはわかってくださいよ﹂
﹁はい﹂
葡萄は壱案の判決コピーから住所と連絡先を手帳に書き留め、忙
しそうに﹁では失礼します﹂ と言った。
壱案はその足で執行官室へ再来訪し保管金受領証書を提出した。
手続きを待っている間に強制執行業者一覧を見た。矯正商事ももち
ろんあった。代表者の名前は葡萄ではなかったが、名刺に書いてあ
る電話番号は一致した。一覧表の下部には鍵の取扱業者一覧もあっ
た。
﹁狭い世界のはずなのに、こういった強制執行一つでも、競合して
いるのかしら。こんなに一覧表を作るほど会社があって、原告が迷
うほどあるとは思わなかったなあ﹂
312
壱案は他の原告がどうやって強制執行業者を決めるのだろうかと
思うのだが、こういう話し合いや相談できる原告仲間もいない。偶
然廊下で出会った業者で決めてしまったがここの執行官室の敷地裏
に会社があるというし、こうして業者一覧にも掲載されている会社
だ。これでよかったのだろうと思うことにした。
受付の女性が証書を見て、﹁では手続きはこれで終わりです﹂ というので、壱案はあわてて﹁強制執行の日を教えてください﹂ と問うた。事務員は極めて事務的に返答した。
﹁執行前に催告といって、執行しますの警告を兼ねます。原告さん
は催告に同行しないとおっしゃっていましたので、こっちで決定後
に連絡します。業者さんはまだ決めていらっしゃいませんでしたね﹂
﹁さきほど決めました。そこの廊下で矯正商事の葡萄さんに会いま
して⋮﹂
﹁ああ、葡萄さんね、わかりました﹂
﹁見積もりはまだなんですけど﹂
﹁見積もりは原告さんと矯正商事さんだけの関係なので執行官室は
全く関係ありません。とりあえず催告日が決定したらお知らせいた
します﹂
﹁では、よろしくお願いします﹂
﹁で、鍵の業者さんは?﹂
﹁は、鍵って⋮⋮?﹂
﹁被告のところの鍵を変えないと入室して催告や執行掛けられませ
んので﹂
﹁そちらにおまかせしますけど﹂
﹁こっちは選ぶ権利はありません。原告さんがしないと﹂
﹁じゃあ、矯正商事さんの葡萄さんに相談してみます、それから連
絡しますのでそれでもいいでしょうか﹂
﹁いいですわよ、できるだけお早めにしてくださいね﹂
﹁催告の日取りですが大体どのくらいで﹂
﹁七から十日後ぐらいですね、それも連絡します﹂
313
﹁わかりました、ではお願いします﹂
執行官室での会話はそれで終わった。
強制執行の手続きをしても、裁判所の執行官は被告に﹁すぐ出て
いけ﹂ とは言わない。執行前に﹁催告﹂ といって、執行日まで
に出て行かないと強制的に退去させます、と予告するわけである。
もちろん被告ゑ無山が占有している壱案のマンションに。
催告日にたとえ、被告のゑ無山が催告を拒んでもそれは関係ない
のである。鍵をかけて留守にしている? いや、それも関係ない。
ゑ無山は退去すべきところを退去しないのである。ここまで来ると
法律にのっとって、裁判所の執行官がゑ無山の家に鍵を開けて催告
をしてくれる。催告をしても、なお、退去しない場合は⋮⋮﹁強制﹂
執行である。
あの厚かましいゑ無山はここまでいかないと、退去しなかった、
退去しないのである。
壱案が強制執行の申請を執行官室に出したその夜、早速矯正商事
の葡萄から電話が入った。
﹁こんばんは、さっき現地へ行って見積もりとってきました﹂
﹁ゑ無山さんの部屋に入ったのですか﹂
﹁まさか! そんな権限もってませんよ。今勝手に入ったら不法侵
入になっちゃいます。入室するのは催告や執行断行時、執行官と一
緒ですよ。だから今日は外側から拝見いたしました。
マンションの間取りとかは当事者目録にありましたからね、広さ
がわかれば大体わかりますよ。
いいですよ。まかせてください、で、見積もりですけど﹂
﹁はい、おいくらですか﹂
﹁鍵業者さんの依頼金額を除いて、ですね。
四十九万二千円とでました。
鍵屋の支払いもあわせて五十万円いきますね﹂
壱案は絶句した。即答できない。声も出なかった。
314
強制執行かけるのに、﹁五十万円﹂いる!
あの厚かましいゑ無山を退去させるのに、五十万円!
﹁⋮⋮﹂
﹁えーと、あのう原告さん、太田さん⋮もしもーし﹂
﹁あ、はい、もしもし。ごめんなさい。思ってたよりも高かったの
で﹂
﹁えー、うちは良心的な方ですよ。よそでもぜひ見積もりとってく
ださい。
それと見積もりの明細書を今からFAXしますからぜひ見てくだ
さい﹂
﹁わかりました﹂
﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂
﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂
やがて葡萄から壱案の自宅に﹁御見積書﹂ と書かれたFAXが
流されてきた。
壱案はため息をつきながらFAXを見る。
﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂
﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂﹂
御見積書
平成 年
七月十日
株式会社
矯正商事
△△住所、
連絡先
315
担当・葡
萄白地
債権者 矢亜壱案 様
債務者 ゑ無山ハカシ
件名 建物明渡執行
現場住所 御見積書 四十九万二千円
見積もり明細
?立ち会い料 五万円
?作業員 一名につき二万円×六名⋮十二万円
?トラック二トン車 二万円×二台⋮四万円
?梱包材量 四万円
?鍵断行時二か所交換代 別途︵現時点では費用が不明なので空白
になっている︶
?保管倉庫費用 六千円×十四パレット⋮八万四千円
?保管物件処理代 十三万円
小計 四十六万四千円
交通費および諸経費と消費税で合計四十九万二千円
この下に予納金立て替え金と予納金残額欄があるが、空白になっ
ている、ということはもっとかかる可能性があるのだ。
壱案は茫然としている。
こんなに費用がかかるとは思わなかったのだ。
もちろん通常の引っ越しでもないし、追い出しがかけられた被告
が暴れる可能性もある。だから高額なのは仕方がないと思っている。
五十万円どうやってねん出しようか、そう思いつつここまできたら
最後だ、どれほど高額でも依頼せねば解決はしない、そう腹をくく
316
った。
ほどなくしてまた葡萄から電話がかかってきた。
裁判に慣れない原告が、この見積もりの金額を聞いて狼狽してい
たのがわかって心配になってかけてきたのだ。
﹁あの∼、見積もりご覧になりましたか、うちに依頼されますか、
どうされますか﹂
﹁いえ、さきほどは失礼しました。ここまできたら払います、払わ
せていただきます﹂
葡萄は安心したようだった。
﹁じゃっ、できるだけ早く内金をいくらか払ってくれますか﹂
﹁内金、そうですね、高額ですもんね⋮⋮いくらぐらい入れたらい
いかしら﹂
﹁あの∼矢亜さん、原告さん。そんなに悲痛な声を出さないでいい
ですよ。あのですね、この金額は強制執行までかかった場合の見積
もりなんです。被告さんがあきらめて催告をうけた時点で退去しま
すといえば執行中止になりますし、それだとそんなに金額はかかり
ませんからね﹂
﹁そ、そうなんですか。でも今までの経過から被告のゑ無山は素直
に出ていくとは思えませんし﹂
﹁全面勝訴なんでしょ? だったら裁判にかかった費用も被告の支
払ですし、強制執行までいって50万強支払っても、あとで請求す
ればいいんですよ﹂
﹁あっ、そうでしたね。裁判費用も被告負担でしたし、そしたら強
制執行費用も﹂
﹁そうですそうです。被告負担です。催告の時に相手がいればね、
ぼくは依頼人にいつも言います。
退去しないと強制執行かけますし、その時の支払はあんたの負担
になる。そうなれば普通の引っ越し業者を頼むよりも数倍のお金が
いるよって﹂
﹁それで出て行ってくれるなら、いいですけど。それにですね、そ
317
れ、支払ってといっても支払ってくれないと思いますよ。⋮⋮そう
いう人だからこそ、裁判になってしまったのです。とりあえず今は
どうでも出て行ってもらいたいのです﹂
﹁こればっかりはいろいろなケースがあるので、ぼくは言いきれま
せんけど。
とりあえず内金は払ってくれませんとぼくも困ります﹂
﹁いくらぐらいでしょうか﹂
﹁十万円用意していただけますか﹂
﹁わかりました。十万円。明日にでも振り込みします﹂
﹁明日十万円ね。ではそれでお願いします﹂
﹁待って。葡萄さん見積もりですけど、わからないのが一つありま
すけど﹂
﹁何でしょうか﹂
﹁パレットってなんですか? 1つ六千円で十四パレットってあり
ますけど﹂
﹁ああ、それね。部屋の大きさから目測で計算したものです。強制
執行の時に相手がどういおうが荷物を強制的に外に出してうちの会
社の倉庫に一時保管します。その時の費用と言うか場所代ですよ。
荷物が多そうなので二トントラック二台としてますが催告の時に
室内に入りますからそれを再度見て見積もりします。荷物が少なか
ったらトラック一台にしますし、パレットも減らします。だから催
告後に見積もり代金が減額されることも多いですし﹂
﹁そうなんだ、そうなっているんだ⋮⋮﹂
﹁はは、あの、じゃあ、内金よろしくお願いします﹂
﹁あ、それと最後にもう一つ。執行官室で鍵屋さん決めてください
って言われましたけど﹂
﹁決められましたか?﹂
﹁いえどこにしていいかわかりませんし﹂
﹁あ、じゃあ、うちで頼みますよ。よくコンビ組んでしてるところ
のほうが連絡うまくいきますし正直助かるのですが﹂
318
﹁それならおまかせします、よろしくお願いします﹂
﹁わかりました。こちらこそよろしくお願いします﹂
壱案は見積もりが書かれたFAX用紙を終始手放さず会話してい
た。電話が終わると再び思い切りため息をついた。やはり五十万円
は高いと思ったのである。
あんなゑ無山を退去させるのに、五十万円!
あんな奴を追い出すだけで、五十万円!
だが仕方ないことだ。壱案は催告の時にゑ無山が葡萄の忠告を素
直に聞いて自分から引っ越すといてくれるのを願うしかなかった。
壱案は見積書の冒頭の宛名を見た。債権者の名前は当然壱案にな
っていて、敬称の﹁様﹂ がつけられている。だが、債務者のゑ無
山は⋮⋮敬称なし。呼び捨てだった。
当然だ
ゑ無山は客ではないのだ。 客は壱案であって、壱案にとっては害虫の何者でもない。だから
矯正商事が債務所のゑ無山に敬称をつけないのは当然だ。犯罪者に
次ぐ扱いをされても致し方ないだろう。ゑ無山は最低な卑怯者だ、
だから債務者で敬称もつけられないのだ。あとは執行官や執行業者
にまかせて追い出すだけだ。
翌日朝一番に壱案は株式会社矯正商事に強制執行の内金として十
万円を入金した。
あとは葡萄からの報告を待つだけだ。
319
第二十八章・強制執行
さて裁判所執行官室から申し立ての三日後に壱案あてに電話がか
かってきた。女性の声だった。多分壱案の申し立てを受け付けてく
れた窓口の人なんだろう。
催告が決まりました。七月二十五日の午後二時にいたします、と。
壱案はわかりましたと返事した。そしてさすが法律の番人、ここも
催告の時間もきっちり教えてくれだと感心する。だがすぐに電話が
切られそうになったので、壱案はあわてて﹁ちょっと待って﹂ と
声をかける。
﹁あのう、矯正商事の葡萄さんと鍵屋さんの件ですがこっちから伝
えたほうがいいでしょうか﹂
﹁申立人の貴女様から、業者を利用する、矯正商事にすると伺って
ますのですでに、日時は伝えております。ですから連絡不要です﹂
﹁催告が終了したらその様子とか教えてもらえるのでしょうか﹂
﹁報告書が業者からいくはずです﹂
﹁わかりました﹂
電話を切ってから壱案は執行官の名前も聞いてないことを思い出
した。だがあちらも教えてくれなかった。そういうものなのだろう
か。壱案は迷ったが報告がくるときいて、それならもう一度わざわ
ざ電話して聞くこともないか、と思いなおす。
ただ、矯正商事の葡萄に連絡が言ったがどうかは確認はとる。裁
判所は信用してはいるが、行き違いがあると困るからだ。執行業者
の葡萄は名刺に携帯番号を書いてくれていたので壱案は電話してみ
る。
﹁あのう、太田壱案ですが、催告日の連絡はあったでしょうか﹂
﹁あ、ありましたよー、そうそう、その件でぼくから、太田さんに
お願いがあります﹂
320
﹁はい、なんでしょう﹂
﹁部屋の鍵はお持ちですかね?﹂
﹁はい、持ってますが、ゑ無山入居時当時のものです﹂
﹁本人は入居時鍵交換しましたかね?﹂
﹁それはわかりません。でも腕っ節に自信があるようなので、鍵交
換はしてないんじゃないかしら﹂
﹁それだったら、ぼくら念のため鍵の業者も連れて行きますがその
鍵がそのまま使えるようであれば鍵の合鍵作成代金は無料になりま
すからいいと思いますよ。できたら預からせてくれませんか﹂
﹁もちろんです。すぐに送付します﹂
﹁間違いがあるといけませんので保証のあるレターパックもしくは
宅急便にしてください﹂
﹁わかりました。今からコンビニに行って発送してきます。それと
ですね、催告の時に本人がいた場合ですけど﹂
﹁はい﹂
﹁執行日までに退去するようにいってください。それでないと私は
五十万円そちらに払いますけど、かかった代金は裁判費用も含めて
一括して請求しますといってください。実際負担してもらうべき金
額なんですし、これは無茶な要求ではないでしょう﹂
﹁もちろんですよ、その被告はお金が全然ないわけじゃないんでし
ょ、マンションの最上階で住んでいてなお債務ゼロの状況なんでし
ょ﹂
﹁そうです﹂
﹁だったら、余力はあるはずの人ですよね。そのゑ無山という人の
職業と年齢、聞いていいですか﹂
壱案は矯正商事の葡萄から見て、債務者つまり追い出しをかける
ゑ無山の裁判内容はわかっていても、背後の情景の情報が全く不明
なのにいまさらながら気づいた。
﹁ゑ無山は会社経営者です。年齢は四十五歳です。独身で一人暮ら
し。催告の時にペットを無断で飼ってないか、それと部屋の様子と
321
か見てください。あとでまた費用請求のため、机の中の様子とかわ
かったらそれも﹂
﹁部屋の様子、ですか。それはゑ無山が催告時、不在である場合に
限り中に入室します。平日の午後二時ですしね、不在の可能性が高
いですね。だが在室であれば部屋にいれてくれなかったらぼくらも
入りません。玄関先で催告することになります﹂
﹁なるほど﹂
﹁それと入室してもですね、机の中の私物とかは見ませんしさわっ
てもいけないのです。執行官もそうです。それはしてはいけないこ
となんです。被告にも人権はあるのです﹂
ゑ無山なんかの人権なんか認めたくないなあ、と壱案はうめいた。
﹁わかりました⋮⋮じゃあ催告だけでいいです。ペットの有無ぐら
いは見てくださいね﹂
﹁それくらいならいいですよ﹂
﹁あと私のすることは﹂
﹁鍵を送ってくれたらあとは待っているだけでいいです。催告の時
の様子で見積もりも変わってくるからまた連絡しますよ﹂
﹁そうですね、では催告が終わるまで待っています。ゑ無山に会っ
たらすぐに自主的に退去するように行っておいてくださいね﹂
﹁それはもう、こっちも努力しますよ﹂
﹁ゑ無山には催告日を連絡したのでしょうか﹂
﹁ええっ! まさかぼくらはそんなことしませんよ。意味ないじゃ
ないですか﹂
﹁じゃあ裁判所の方も何もゑ無山には言わずに﹂
﹁当たり前ですよー。ぼくも経験ありますけど、原告さんが勝った
と思って執行前に追い出しかけようとしてこじれてしまったり、逆
に被告が退去したふりして、原告が執行取り下げしたのを見計らっ
てからもう一度入り込んで住みこんだり。そういうケースがありま
したよ。卑劣な奴ってどこまでも平気で卑劣なことします。この場
合は裁判終わってますから別の事件になってもう一度はじめから別
322
件で裁判となりました。だから安易に個人でやって取り下げとかし
たらいけませんよ、忠告しときます﹂
﹁すみません、無知で。じゃあ私からも何も連絡入れません。すべ
ておまかせしますのでよろしくお願いします﹂
﹁わかりました﹂
強制執行催告日、例によって平日で壱案は当日同行しないので県
庁で通常通りの勤務にあたっていた。その日も忙しく、気がつけば
もう昼を過ぎている。
壱案は普段はお弁当派で年老いた母親に甘えて作ってもらってい
る。普段は事務の控室で食べるが、今日はちょっと寒いけど外で食
べるからといって外出した。
時に午後一時半。催告は二時と聞いている。
催告が終わったら、連絡すると聞いているからきっとまだだろう
な⋮⋮そんなことを思いながら公園まわりを歩く。そう、壱案は催
告の様子を聞きたいのである。
ゑ無山が在宅していたのか、していなかったのか。していれば催
告の様子を知りたい。在宅しなかったら鍵を開けて入室して﹁催告
通知﹂ をゑ無山の居住している壁に貼り付けていく。これで当方
の趣旨がわかるはずだ。どちらにせよ、これで一歩前進。それです
んなり追い出せたらいいのだが。
いつもの食欲もなく寒いけどこのまま公園のベンチにすわって報
告を待っていようかと思っていた矢先に携帯電話がかかってきてび
っくりした。しかも葡萄本人からだ。時間はまだ一時三十五分。何
かあったのだろうか。延期とか?
﹁はい、太田です﹂
﹁あ、矯正商事の葡萄です。今電話、大丈夫ですか﹂
﹁はい﹂
﹁催告終了です。執行官も早く来られましてすんなりできました。
323
債務者本人は不在なのでこちらで鍵を開けて室内に入りました﹂
﹁室内に入った?﹂
﹁はい、室内に入り、入ってすぐ目のつくところの壁面に裁判所の
催告通知書を貼っています。あとで報告書を出しますので目をとお
してください。それで、ですね。太田さんが心配されていたペット
を飼っていた痕跡はありませんでした﹂
﹁そうですか、よかった。部屋の様子はどんなでしたか、煙草臭い
とか⋮⋮﹂
﹁いや、通常の感じですね。あの程度でしたら通常の使用範囲内で
すよ、クリーニングできます。部屋は乱雑で衣類と書類が床に山積
みでした。それとデザイン関係の設計用の大きな机やコピー機があ
りましたよ。あの部屋は居住用か、会社用どちらに貸されたのです
かね?﹂
これは意外な質問だった。会社物件にするには狭いとは思うのだ
が。ポオチというゑ無山の会社組織もそこでこなしていたのか? 倒産したらしいがそっちに移して細々と営業していたに違いない。
壱案が会社に督促の電話をしたときに対応したあの女性社員はど
うなったのだろうか、そんなことをちらと思った。
﹁いえ、うちは法人とかじゃなく単なる居住用に貸したのです﹂
﹁ふーん、自宅兼会社にしていたんじゃないですかね。入室にあた
って本人がここに居住している証明として郵便受けも執行官立ち会
いで見ましたけど、どこかの督促状が数通入ってましたよ。まあよ
くあることですが。とりあえず催告完了しましたのでまずは電話報
告です。あとで報告書送るのでみてください﹂
﹁わかりました、ご苦労様です﹂
壱案は電話を切って、ほっと溜息をついた。ゑ無山不在で、催告
完了。
今日の夕方もしくは夜にゑ無山は帰宅して自室の壁に裁判所から
の張り紙が貼られていたのに気付く。どう思うのだろうか、どう感
324
じるのだろうか。ゑ無山は催告書の張り紙を読んで怒るのだろうか、
それとも引越しの手続きをあわててするのだろうか。
壱案は催告をしてもゑ無山が退去してくれなかったら今度は強制
執行断行になる、執行業者の葡萄に内金もすでに十万円入れている。
残り四十万円は本人が素直に出て行ってくれないと支払わないとい
けない。
時刻はまだ一時四十五分。とりあえず催告は終わった。壱案は急
に空腹を感じてお弁当のふたを開けた。ちなみに今日のお弁当はご
はん、しじみのつくだに、卵焼き、ソーセージ、ブロッコリー、そ
れと八朔が1個。普通の女性としては普通の量なのに、どうして私
は肥っているのだろうかと考えつつ食べた。
翌日壱案は葡萄から、催告報告書を受け取った。その報告書で断
行日がわかったので驚く。
執行催告書 株式会社 矯正商事、担当兼報告者 葡萄白地
債権者 太田壱案
大阪地方裁判書 担当執行官 為元 源五郎
申し立て日 平成 年七月十日
催告日 平成 年七月二十五日
事件番号 ︵ワ︶第一二三四号
執行場所 大町駅前マンション十三階
債務者 ゑ無山ハカシ
出会者 不在
住居 賃貸マンション︵著者注;それぞれ項目があってマルで囲
まれている︶
断行日 平成 年八月十日時間未決定
325
占有認定 債務者あての郵便物の存在、公共料金などの請求書の
存在、債権者代理人の陳述による
報告書は普通のA四サイズの紙切れ一枚だった。壱案はその紙切
れをじっと見つめた。あとはゑ無山がどうでるかだ。あと少しだ、
あと少しでゑ無山と縁が切れる⋮⋮。また担当の葡萄さんはよくや
ってくれたと思う。本人訴訟の壱案の懸念を払しょくすべく丁寧に
教えてくれたし、なるべく負担がかからないように債務者ゑ無山と
の直接交渉もしてくれたのだ。
催告が終わっても壱案のもとにはいつものごとく、ゑ無山からの
連絡は一切なかった。そういう人だというのは予測がつく。だが反
応はどうなったか、断行まで居座るつもりか。
果たして催告後三日目ぐらいに葡萄から電話がきた。
﹁太田さん、ゑ無山からは連絡がありましたか?﹂
﹁いえ、全然。そちらは?﹂
﹁うちにも連絡はありません。普通は何かのアクションがあるはず
なのですがここまできて無視ですか。断行日も近づいてきますし今
夜から毎晩ゑ無山のところへ行くことにします﹂
﹁そうですか。報告を待ってます。仕事とはいえ大変かと思います
が﹂
﹁慣れてますのでそれは大丈夫です﹂
﹁あの、ゑ無山に電話されましたか。まだでしたらゑ無山の電話番
号を教えておきましょうか﹂
﹁債務者の電話番号なんか必要ありませんよ、うちはそういうのは
しないです。毎晩様子を見に行くだけです﹂
﹁お手数掛けますがお願いします﹂
債務者の電話番号は必要ないのか。毎晩の訪問もこういうのも仕
事で慣れるものか、壱案は感心しつつ葡萄の報告を待つ。果たして
葡萄は律儀に電話をくれた。
326
﹁今晩もゑ無山は不在でした。名刺をドアにはさんでおきました。
電気のメーターや、水道の検針もチェックしておきます。また報告
します﹂
﹁断行日まで不在でしょうか﹂
﹁いや、それは関係ないですね。断行日はもう動かせませんのでゑ
無山が在室していようとしていないとそれはもうどっちでもいいん
ですよ。断行日であの部屋は債権者の太田さんのものになりますの
で﹂
﹁はあ﹂
﹁でもまあ、明日も行ってみます﹂
まさかゑ無山は荷物を置いたまま退去ということにならないだろ
うな、壱案は心配していた。荷物を置いたままにされると五十万円
かかるし、その後の荷物の競売手続きとやらで時間もお金も手間も
更にかかるのだ。断行後の費用もネットで調べると壱案の場合は安
いほうだった。賃貸のマンションだからそれですんだのだ、戸建て
だと、土地の広さにもよるが、最低八十万円からとある。だから壱
案の場合はあれはあれで安い方なのだ。
葡萄はほぼ毎晩ゑ無山の様子をみにいったらしい。いけないとき
は別の同僚に頼んで。郵便物や勝手に放り込まれる広告もチェック
する。ゑ無山が毎晩帰宅しているのも把握していた。
だが会えて話ができたか、これはNOだった。ゑ無山からは無反
応だという。
また部屋に明かりがついていても、葡萄がインターホンを鳴らし
ても出てこなかったりする。
﹁債務者ゑ無山は相手がわかっていて、こういうのができるんだな。
これは結構、強気ですね、やはりこれは断行まで行きますね﹂
﹁そうですか、やはりという感じですね﹂
壱案はゑ無山が葡萄が何者だとわかっていて、そういう行為に出
るのではあれば、これはもう仕方がない。
強制執行断行二日前、葡萄から連絡がありゑ無山と会話が成立し
327
たという。壱案は半分あきらめていたのでかえって驚いたぐらいだ
った。葡萄が淡々と報告した。
﹁えー、とですね。いつのもようにインターホンを鳴らしたら出て
きましたよ﹂
﹁ゑ無山さんが一人で出てきたのですね﹂
﹁そうです。ただし部屋には入れてもらえませんでした﹂
﹁それで?﹂
﹁強制執行の催告も受け、断行もあさって決行されるのもよくわか
っていました﹂
﹁それで?﹂
﹁ぼくは言ってやりました。執行費用は一時的に債権者さんに支払
ってもらうが結局はあんたが払う義務がある。断行まで行けば五十
万円はかかるぞ、あとで請求がいくがいいんだな。それが嫌なら自
力で引っ越せ、明日までに全部荷物を持って出ていけ。どっちにせ
よこっちはもう二日後には行くからなって言いました﹂
﹁それで?﹂
﹁黙りこんでました﹂
﹁ゑ無山は葡萄さんには、ひどい言葉を言わなかったのですね? 紳士的にふるまっていましたか﹂
﹁いや、ポケットに手を突っ込んで、のそっとした感じでしたよ。
確か会社の経営者さんでしたよね?
そういう感じは受けませんでしたね、まあ断行まで行くと最後ま
で強気な姿勢を崩さない人も多いですから、珍しくもなんともない
ですね﹂
﹁ではあさっての断行で無理やり追い出しをかけられるまで居座る
つもりなんですね﹂
﹁そのようですね、ま、あと二日で終わりです。家主さん断行には
立ち会われますか﹂
﹁とんでもない、こっちは何をされるかわかりませんし。会社経営
もしてますが、余暇で空手の先生もしている人ですよ、暴力でもふ
328
るまわれたりしたら絶対こっちが怪我します。後で警察がかかわっ
てくれても、こっちは困るだけです﹂
﹁うん、この場合は家主さんは立ち会わない方がいいですね﹂
﹁葡萄さんも気をつけて﹂
﹁それは心配ないです。ぼくは修羅場イコール仕事場なんで。そう
いうのは結構経験豊富なもんで。執行は二時間以内に必ず終わらせ
ます。ゑ無山の出方次第であらかじめ警察官も配置できますし﹂
﹁警察官の配置、そんなことできるんですね﹂
﹁司法が強制執行をするんです。必ずします﹂
壱案は葡萄の頼もしい言葉に断行は心配しなくても決行されそう
だと思った。ただ断行前に素直に退去してもらえたらいいのに、と
いう思いはあったが、それでももうあの厚かましい性格が卑しくて
ずるい大うそつきのゑ無山とはお別れだ。
結局ゑ無山は最後まで自分が悪いとは思ってないのだ。でも、い
い。反省できるような相手ではないから。行き先がない? ふん、
どうせそれもウソだろう。連帯保証人のゑ無山の実父だってどこか
に夜逃げしているのだ。親子揃って住居を夜逃げや強制執行で追い
出されるのだ。後のことは壱案の知ったことではない。きっとまた
どこかの家主を泣かせるのだろうけど。
断行日の前日に葡萄から壱案の携帯電話に留守電が入っていた。
時間を見計らい折り返し連絡を入れると果たして断行についての電
話だった。
﹁ゑ無山からこちらに連絡が入りました﹂
﹁あさっての断行の件ですね、はじめて連絡来ましたね﹂
﹁そう、ですね。ゑ無山は本日中に引っ越すそうです。そして明日
の朝までいると。ぼくは今日そして明日の早朝、訪問してチェック
してきます﹂
﹁引っ越し、しかも自力で。よかったです﹂
329
﹁そうですね、あっちも仕事関係の家具や荷物が置いてあるので強
制執行断行で持っていかれたら仕事に困るのでしょう。それが一番
賢明だとおもいますよ、それから本人の申し出があったので引っ越
し用の大型トラックと人員はキャンセルしておきましょうか。そう
しておくと費用が多少は浮きますし。ほんと、今日までならキャン
セルできるんですよ﹂
﹁自力で引っ越されるなら確かにトラックとかは不要ですね。でも
ほんとに引っ越してくれるかしら。断行自体はキャンセルはしない
方がいいですよね﹂
﹁もちろんです。断行はした方がよい、本当に引っ越したかはちゃ
んと執行官立ち会いの上でチェックした方がいいですね。だから取
り下げはしませんし、もう前日だから執行中止を申し立てしても却
下されます﹂
﹁わかりました。あの、葡萄さん、ゑ無山が出て行ったなら断行日
は立ち会います。貸してからこっち私はあの部屋に入ってませんし
部屋の様子が見たいので﹂
﹁それは家主さんの自由ですよ、じゃあ立ち会われますね﹂
﹁はい、立ち会います﹂
その夜。
つまり強制執行断行の前日の夜。葡萄から今夜も連絡があり、ゑ
無山が初めて部屋に入れてくれたそうだ。そして大きな荷物はほぼ
荷造りしていたと。今から出ていくと。事実その通りにしていった
という報告だった。壱案はそれを聞いて安堵した。
﹁じゃあ、ほんとに出て行ってくれたのね﹂
﹁明日の朝も明日の夜も見に行きますから﹂
﹁ゑ無山さんの様子はどうでしたか﹂
﹁⋮⋮、そんなの聞きたいですか⋮⋮﹂
壱案は言葉に詰まった。確かにあのゑ無山が、厚かましいゑ無山
が法律の力によって強制退去を命じられたのだ。だからその使いで
330
来た葡萄を愛想よく御苦労さまとかいうはずはないのだ。
それにあのプライドの高さ。裁判中に提出した答弁書はどうして
支払遅滞や滞納したかの答弁は一切なくすべて壱案が悪いから支払
いできなかったとも受け取れるものだったし。そう、ゑ無山の頭の
中では全部壱案が悪いのだ、ちょっと支払が遅れたぐらいですぐに
督促の電話をかけてきたし、会社にまでかけてきて自分の名誉が棄
損された、と。
だからわざわざゑ無山が本当に引っ越しの準備を自分でしている
かどうか、チェックしにきた葡萄をにこやかに部屋にどうぞと入れ
てくれるわけがない。壱案は葡萄をねぎらった。
﹁ごめんなさい。大体の想像はつきました。本当にあなたには感謝
してます、本当にありがとうございます﹂
﹁じゃっ、明日当日こられるということでこっちもそのつもりでい
ます。時間厳守できて下さいよ、できたら立ち会いの認印いるので、
それも持ってきてください﹂
﹁わかりました﹂
次の日、強制執行断行当日の朝。
壱案は職場で休暇をまたとった。急な休暇取り、しかも電話でだ
ったが、職場ではこの裁判のことを皆知っているので許してもらえ
た。
課長にいたっては﹁めったにない経験だから、これも社会勉強だ
な﹂ と快く休暇届けに認め印を押しておくよ、って言ってくれた。
壱案は心からありがたく思った。電話を切った時、ほんと裁判関係
の有給消化はこれで最後にしてしまいたいと強く思った。そしてそ
の足で現場の大町駅前のマンションに直行する。
そう、いよいよなのである。
やっとあの厚かましいゑ無山を追い出せるのである。
法律の力で。
やっと!
331
332
第二十九章・強制執行断行日
いよいよ大詰めの本番だ。壱案は午前九時に大町駅に到着した。
強制執行の時刻は九時半から。壱案は駅前に降り立って一番目立
つ目の前のマンションを見上げた。こうしてマンションをしみじみ
みたのははじめてだ。購入するにあたって一度は父親と見にいった
が、すぐに気にいって購入を決めた。その時はローン返済の皮算用
などすることがいっぱいあって、マンションを購入したという実感
はあまりわかなかった。
だが今日、この日。賃借人に乗っ取られた感のあったあの最上階
の部屋はやっと壱案の手元に返ってくるのだ。ここまでくるのに、
ものすごい労力と手間がかかった、常識というものがまるで通じな
いゑ無山相手によくぞここまでがんばったものだ。壱案は感慨深く
今までのことを振り返った。
駅のすぐ横にはあのちゅー?するかい? の店がある。あの店も
ちゃんと壱案の困りごとに向き合ってくれたら今でも関係よく仲良
くできたかもしれない、だがそうはならなかった。
壱案はあの井伊店長にもあいさつする気はなれなかった。
こんな店、どうでもいいや、とまで思っている。何かあった時は
対応してくれない店という見方しかできない。でもまあ、仲介料の
返金には応じてくれたからそれでよし、としないといけない。
だが問題はあのゑ無山だ。とにかく今日は強制執行だ。そのあと
の処理もあるだろう、あのゑ無山がすんなり裁判費用など返却しま
すとかいうはずないのだ。
壱案はマンションを眺めながら一歩一歩前にすすんでいく。今日
は晴天。よかった。
壱案はマンションの一階にすすむとまず管理人の部屋に行った。
333
そして出てきた管理人に今から強制執行をすると告げた。管理人は
心得ていた。
壱案はマンション玄関にある郵便受けのコーナーにいく。もう堂
々といける。今日からはこの郵便受けだって自分のもとに返ってき
たのだ。郵便受けの中は広告ちらしが二通ほどあった。一つは水道
故障のときはこちらまで、という案内チラシ、もう一つは中華料理
の出前メニューだった。それをすみにあるごみ箱に入れていく。ゑ
無山宛の郵便はなかった。
玄関廊下突き当たりにエレベーターがある。
壱案は玄関前で葡萄や執行官と待ち合わせしている。
背広を着た初老の男性が一人いるが壱案と目があっても知らない
顔だ。アタッシュケースを持っている。もしかしてこの人が強制執
行官かもしれないとは思うが裁判所から執行官の名前も聞いてない、
だから話しかけなかった。やがて見知った葡萄が現れた。
﹁おはようございます、お揃いですね﹂
やはりその男性が執行官だったのだ。壱案はあいさつした。
﹁原告の太田壱案です、おはようございます。今日はよろしくお願
いします﹂
執行官も軽く目礼を返す。
時計をみると九時十五分。執行開始は九時三十分の予定だが、執
行官は世間話などは全くせず、﹁じゃ今から行きましょうか﹂ と
言う。異存はなくまず葡萄が先頭にたつ、次に執行官、そして壱案。
後ろからもう一人、ついてくる。振り返ると大柄の作業服の男性
だった。エレベーター待ちのホールで葡萄が壱案に言った。
﹁この人は鍵の業者さんです﹂
﹁おはようございます﹂
業者は壱案にさっと名刺を渡した。名刺は普通サイズで安心鍵の
専門家、カギーナー、金津止津とあった。
﹁よろしくお願いします﹂
334
壱案は彼にもお辞儀をする。これで男性三人。壱案は心強く思っ
た。
マンションのエレベーターにのって最上階までいく。もうゑ無山
はいないだろう。昨夜遅く退去したはずだから、だけど用心にはこ
したことはない。
エレベーターはマンション最上階までノンストップだった。エレ
ベーターを降りたらすぐ廊下、そこの右側が壱案所有のマンション
の部屋だ。そう、やっとこの部屋が壱案の手元に戻るのだ。
部屋の前に強制執行業者の葡萄、裁判所から派遣された執行官、
原告の壱案、葡萄が頼んだ鍵業者の金津、合計四人が揃った。葡萄
が壱案が過日預けていた鍵をまず出す。
﹁この鍵は債権者さんの合鍵です。これが使用可能であればこのま
まで行きます。ただし被告ゑ無山からは鍵の返却は当然ながら、な
かったので、執行完了後に鍵の新規作成と交換はされます、そうで
すね?﹂
壱案ははっきりと返答する。
﹁はい、その通りです。よろしくお願いします﹂
﹁じゃあ、行きますよ﹂
葡萄はためらいもなく、普通に鍵を出して普通に鍵穴に鍵を入れ
た。鍵は普通にまわり、ドアは普通に開いた。
﹁まあドアが開いたわ﹂
一番後ろにいた壱案は小さい声を出したが男三人の反応はなかっ
た。
壱案は感慨無量だったが男たちはこれが仕事なのである。これが
日常的な光景で業務なのである。葡萄はドアを大きく開けた。すか
さず鍵業者の金津がドアストッパーをさっと出して、開けっぱなし
になるようにした。そして用具入れを出して何やら組み立て始めた。
そう、これから鍵を新規作成して交換してもらわないといけない。
ゑ無山が合鍵を返却しなかったことで、この後に入居される人に
335
迷惑がかかるといけないから新しい鍵を作成してもらうのだ。まさ
かとは思うがあのゑ無山が合鍵をつかって新しい入居人に嫌がらせ
めいたことをする確率はゼロではないのだ。
鍵業者をドアに入口に置いたまま、葡萄が先頭、ついで執行官、
ついで壱案が中に入った。マンションの廊下はひどく狭かったが、
つきあたりは十二畳敷きのフローリングになっている。 すみにシ
ステムキッチンがあるので、執行官はそこでアタッシュケースを置
いて書類を出した。
葡萄はあちこちの小部屋、トイレ、風呂などをざっと早足でみて
まわっている。ついで玄関の靴箱、押し入れ、クローゼットの中を
開けていって何か残地物がないか確認している。壱案も負けずとつ
いてまわった。
ゑ無山は自分の持ち物は全部持ち去ったようで、大きな荷物はな
かった。綿ぼこりとどこかのチラシのきれっぱしぐらいしかなかっ
た。動物を飼っていたらしき形跡もなかった。壱案はほっと胸をな
でおろした。
﹁自力で退去していったのだ。揉めなくてよかった。一時は警察ま
で呼んでの執行になるかと思ったけど、これであっさりとすんでよ
かった﹂
そう思った。この点は壱案はゑ無山に感謝しないといけない。だ
がリビングまで戻ると葡萄が壱案に話しかけた。
﹁いろいろしていったようですな、見たでしょ?﹂
﹁は? どういうことですか﹂
葡萄についていって各場所を確認したつもりの壱案はわけがわか
らなかった。
﹁あれ、太田さん、ドアの郵便受をみましたか? それと和室の押
し入れの中も﹂
﹁えっ﹂
壱案は顔色を変えて開けっぱなしのドアの裏についている郵便受
けを見に行った。ここのマンションの一階には新聞や郵便受けもあ
336
るが、マンションの部屋の前にも隙間があって連絡メモなどを入れ
られるようになっている。そこの裏のことだ。
﹁あらっ!﹂
郵便受けがへこんでいた。あきらかに足でけったような感じだ。
﹁腹いせにやったんだ。やっぱり何かしていったんだ﹂
ついで和室の押し入れの中を見る。一見押し入れの中には何もお
いてないように見えた。
しかし。
押し入れのふすまは二枚ある。そこの中央がかさなっている裏の
ところをみると、下の方に何かピンク色のものが転がっていた。そ
こも壱案は見たはずだが見落としていたのだ。なんだろうか? と
思って壱案はそれを取り上げた。だがそれが何なのかわかると思わ
ず﹁ぎゃーっ﹂ と声をあげてしまった。
それはどぎついピンク色をした大人のおもちゃだった。しかも女
性用で大きいサイズである。明らかに使用済みのもので、本体を茶
色の粘着テープでぐるぐる巻きにしてあった。
テープでぐるぐる巻きにしてもいい加減な巻き方なので先端が突
出してあった。ピンクといっても非常に汚れていた。ゑ無山が独身
なのを知っているし通常の感覚の持ち主なら退去時これだけを忘れ
るということはないはずだ。壱案は使用済みの大人のおもちゃだけ
をわざと置いていったゑ無山の神経がわかりかねて薄気味悪く感じ
た。
﹁やだっ、さわっちゃった!﹂
壱案はあわててそれを放り投げてキッチンにいって水道の水を出
した。幸運な? ことに水道の水は止められていず手を洗えた。ハ
ンカチで手をふいて﹁なんてことをしていくんだろ、恥知らずにも
ほどがあるわ﹂ と怒っていたら執行官が書類を壱案に出してくる。
﹁じゃあ執行終了としましょうか。大きな残地物なしとかいておき
ますので、立ち会いの署名と印鑑をここにしてください﹂ と何事
もなかったような顔で言う。
337
壱案はまた驚いて執行官の顔を見たが本当に平常心でごくごく普
通の態度だった。ゑ無山はヘンな人だけどこの人たちは法律にのっ
とってここにわざわざ来てくれたのだ。壱案はサインしないと仕事
は終わらない、この人たちはこれが仕事でやってきて壱案には同情
したりすることはないのだ。その証拠に執行官は全く無駄口をたた
くことなく、壱案に裁判の様子を聞くこともなく発した言葉は﹁お
はようございます﹂ ﹁執行終了しますので、ここのサインをして
ください﹂ だけだった。
そしてこの強制執行は債務者が退去したのを確認したらもうそれ
は終わりなのだ。そういうものだ。
相手が部屋を汚そうとも壊そうとも相手がいなくて荷物もない状
態になったらそれを確認する。それで執行官の仕事は終わりなのだ。
大変な思いをした壱案に同情したり、こうしたらとのアドバイスと
かはしないのだ。それは彼の仕事ではないから。壱案は観念した。
﹁わかりました、サインします⋮⋮﹂
執行官の指示にしたがい壱案は素直に署名して印鑑をつく。葡萄
も立会人としてサインした。執行官もサインする箇所があり、サイ
ンした。
これで執行は無事終わったことになる。
無事、終了。だがそれは執行官と葡萄にとっては、の話だ。
﹁じゃあ、私は次があるので行かせていただきます、債権者さん、
執行報告書は後日執行官室から郵送いたしますので少しお待ちくだ
さい。それと執行にあたる受領金も清算の上返金があればいたしま
すので、それもお待ちください。じゃあ、皆さんご苦労様でした﹂
執行官はあっさりといい、壱案に軽く会釈して部屋を出た。葡萄
も執行官の後を追って廊下で何やら打ち合わせをしている。どこぞ
の地名をいいあっているから次の執行場所などの確認なんだろう。
本当にこういう人生に何度もないような強制執行が日常になってい
る人種が存在するなんて裁判に勝って執行依頼をしないと知らない
338
ままで終わっていただろうと壱案は感心した。
鍵業者の金津はまだ鍵の作成途中かドリルの音をさせている。執
行官は姿を消し、葡萄が壱案の元に戻ってきた。壱案はやっと自分
の手に戻ってきた部屋の室内を見回した。ほかにも何かされてない
か心配だったのだ。よくみるとフローリングの床の一部がささくれ
ていたりする。明らかにこれもいやがらせだった。だけど大きなさ
さくれでもない。 大人のおもちゃといい、郵便受けの裏の蹴飛ばし後といいゑ無山
のやったことは警察沙汰にはならないが、姑息というかなんという
か彼の性格、人間の器の小ささがよくわかる感じだった。葡萄が壱
案に向かって明るく言った。
﹁よかったですね、無事大人しく退去してもらって!﹂
⋮⋮大人しく? これが? とも思ったが本人がここにいなくて
よかったのだ。きっとこれでいいのだ、と壱案は思いなおす。
﹁はい、そうですね﹂
﹁本当に、こじれなくてよかったです、警察もいらなかったし﹂
壱案は葡萄がこれですんでよかったといいたいのだ、壱案は自分
を気づかって明るく言ってくれているのだと理解した。確かに昨晩
遅くに自主退去した形になり、大勢の引っ越し業者も呼ばなくてす
んだし、警察官も立ち会いの上という大げさなことにもならなかっ
た。だからそれですんでよかったのだ。
これで一区切り。今度は家主として新しい仕事をしないといけな
い。壱案は入居人募集にあたりまた掃除人を呼んで部屋を綺麗にし
てもらわないといけないが、今は見た目だけではわからない換気扇
や排水路、バルコニーにも何か細工されていたらどうしようかと思
った。しかし今はそんなこと考えてもしかたがない。
たぶん人生最初で最後の強制執行断行はこのようにあっさりと終
わってしまった。執行官にとっては最高に楽な仕事だったに違いな
い。
339
壱案は部屋を注意深く見まわしてキッチンのガス栓が開けられた
ままなのでみてはっとした。
﹁葡萄さん、ゑ無山さんってガスとか電気どうしてますかね、さっ
き水が普通に出たし、蛍光灯むき出しだけど今現在も普通について
ますし﹂
﹁そりゃ何もしてないでしょ﹂
壱案はあわててコンロの火がでるか確認した。スイッチをひねる
と火は普通についた。
﹁きゃっ、普通に火がつくわ⋮⋮ということはガス水道電気の各処
理は私がしないといけないのか﹂
﹁そりゃ、家主さんですから﹂
葡萄は明るく言った。多分強制執行の場合はこれが普通なのだろ
う、普通に違いない。壱案は残務処理というものを自分がしないと
いけないのだ、と思った。
やがて金津が鍵の新規作成が終わったと言いに来て新しい鍵をも
らう。これで名実とともに当該マンションのこの部屋は壱案の手元
に戻ったのだ。この新しい鍵でこの部屋は出入りできる。ゑ無山は
元の鍵も当然のように返却しなかったがこれでゑ無山は出入りでき
ないし、もし出入りしようとしたら今度こそ正当な手段で﹁不法侵
入﹂ だと警察を呼べるのだ。やっと、ここまできたのだ。これた
のだ。
葡萄と金津の終了のあいさつをうけ、壱案はねぎらいの言葉をか
けて彼らを返した。葡萄はあとで清算書を送付するといってきた。
正直今日の手数料はいくらかな、と思わないでもなかったが金津が
横にいてはお金の話もしにくい。壱案は内金として十万円を入金済
みだったが鍵代等は見積もりに入ってなかったのでもっと請求がく
るだろうと思った。
これで壱案はこの部屋に一人になった。だがまだ仕事は残ってい
る。まずはエレベーターでおりて管理人に改めてあいさつした。管
340
理人は強制執行が終わったことを告げると眉をひそめて壱案に言っ
た。
﹁あのひと、ゑ無山さん。とりあえず、強制執行で出ていってもら
ってよかったですね﹂
﹁はいありがとうございます、それで電気ガス水道代の件ですが、
今から止めてもらうように電話したいので連絡先、わかりますか?﹂
﹁わかりますよ、ええっとメモにしておきましょ、ここに書きます
ね﹂
﹁ありがとうございます。実は強制執行業者さんが数日前まで毎日
夜ここに通ってゑ無山さんの様子をみていたのです。郵便受けもみ
てもらってたのですが電気代未払いの請求ハガキがきていたそうで、
これも滞納ですよね。引っ越し先は不明ですけど、家主の私に支払
い義務はあるのでしょうか﹂
壱案はついでというかんじでこの不安を口にした。ゑ無山が未払
いのままで放っておいた電気代、水道代、ガス代の滞納料金まで支
払いたくはない。管理人はあっさりと言った。
﹁引っ越し先はわからないんでしょ﹂
﹁ええ、知りたくもないけど裁判費用の請求もありますのでね、調
べるつもりではいますけど﹂
﹁電気会社などにはゑ無山さんの引っ越し先まで教える義務なんか
ないですね。それにですね、電気代とかガス代、水道料とかははっ
きりいって踏み倒せるのですよ。支払い請求なんかまずきませんよ、
家主さんにも、それに当のゑ無山さんにも﹂
﹁えっ、電気代とか踏み倒しってできるのですか﹂
﹁ええ、できますよ。はっきりいって電気代って基本料金、高いで
しょ。それがそういう踏み倒しできる人の分まで回収してるんでし
ょ。あのね、生活に必要な電気やガスって利用者が膨大です。だか
ら踏み倒そうとする人にも当然請求はしますけど、行方知れずのま
まの人を調べる機関はないし調査費、人件費もないからそのままで
す﹂
341
﹁ゑ無山さんは過去夜逃げの履歴があるので、それもわかっている
のでしょうね﹂
管理人は笑った。
﹁夜逃げ履歴アリ、ははっ。あの人余裕ありそうな生活してました
けどね。生活に最低限必要な電気代とか水道代を平気で踏み倒せる
人って普通の考え方ではないですね﹂
﹁ええ、すごい卑怯者でしたよ。内容証明も受け取らないで平気、
裁判も平気、裁判官にもうそを言いたてるし、私の知る限り最低の
人間でしたね﹂
﹁ああ、やっぱりそういう人でしたか。朝夕マンションの廊下で私
に会ってもこんにちは、って会釈もできない人でしたからね、そう
いう人なんでしょ。マンションの掃除を委託していた人も言ってま
したよ。廊下の真ん中でそうじなんかするなってクレームつけられ
たって、そういう人なんでしょ。まあ縁が切れてよかったですね、
それでよかったと思うしかないですね。ああいう人はいつか手が後
ろに回りますね﹂
このマンションの管理人はゑ無山と実際に複数回はあっているの
だ。多くは語らなかったが壱案に終始同情的でゑ無山に対して嫌悪
感を抱いているのをはっきりと感じた。
壱案も管理人に何があったのかはあえて聞かなかったが今までの
経過や過去の夜逃げ元から話を聞いているので、たぶん彼女に対し
ても不快なリアクションをしたのだろうと推測できる。
とりあえずもう一度マンションの部屋に戻り今度は持っている携
帯電話で電気会社、水道会社、ガス会社に電話して止めてもらうよ
うに依頼した。それぞれに自分はマンションの持ち主だが本日付で
強制退去してもらったので、ゑ無山が行方知れずだが滞納料まで支
払う意志はないということを言っておく。
各会社の受け付けはそういうことにも慣れているのか淡々として
いて﹁わかりました﹂ と言うだけだった。多分利用者があまりに
多いので、電話受け付けは受付、だけの仕事であとが部署に回すだ
342
けなのだろう。
ゑ無山は支払って当然の電気代、ガス代、水道料も当然のように
踏み倒したまま、退去していったのである。ゑ無山本人はあとの処
理は当然壱案がして当然とでも思っているのだろう、後の支払いも
全部。
そういう男なのだ。
電気も使うだけ使って部屋も生活だけではなく、会社の仕事も全
部持ちこんで使うだけ使って滞納するだけ滞納してそれである程度
滞納がたまってきたら逃げるつもりでいたに違いない。
たぶん彼は次のところでもおなじことをするだろう。
気の弱いもしくは県外にオーナーがいる、もしくは素人大家のマ
ンションを狙うのだろう。もしくは機敏に動けない老人世帯か。そ
ういう男だ。警察のお世話になる犯罪ではない、だがこれも犯罪だ
と壱案は思うのだ。
壱案は口頭弁論で対面したゑ無山の顔を覚えている。ゑ無山の空
手のポーズも覚えている。平気で家賃の督促を営業妨害だと裁判官
に訴えた言葉も覚えている。
それでも犯罪ではない、それは犯罪ではない。確かに犯罪ではな
い。それでも犯罪ではない。
だが壱案は確信している。卑怯者は己が卑怯であるとわからない。
まわりの人間を責めて己を正当化するだけの知能は持ち合わせては
いるものの、それで幸せな人生だと思い込んでいくのは哀れだとし
か思えない。そう思うしかない。縁が切れてよかったと思うしかな
い。
次の日、壱案は職場で休みをとらせてもらったことに礼をいい、
とりあえず決着がついたことを報告する。上司初め同僚はよかった
ね、と言ってくれた。まずは一段落ついたのだ。
それから休み時間を見計らい、壱案は信用保証会社ドッグの追給
343
に電話した。ゑ無山は信用保証会社の契約を勝手にうちきっている
ので、理論上は担当の追給は壱案の電話相談に応じることはない。
だが追給はいつもで愛想よく相談に応じてくれた。
壱案は強制執行も終了したがまだ後始末のことまで相談する、と
いうのはさすがに気がひける。あつかましすぎるかもしれない、と
りあえずは報告だけはきちんとしようと思った。
﹁⋮⋮というわけで、一応強制執行断行までいって退去してもらい
ました。ここまで区切りがつけたのはひとえに追給さんはじめ皆さ
んのアドバイスのおかげです。つきましては御礼がてら一度会社に
出向いてもいいでしょうか。土曜日とかでも営業してらっしゃいま
すか?﹂
追給はお礼はいいよ、と言った。
﹁こっちまでわざわざ? そりゃあ恐縮です。でもこっちも仕事で
やったことですしそんな気をつかわなくてもいいですよ﹂
そうも言われたが追給は壱案が契約者でもないのに、電話でも愛
想よく取り次いでもらえた。一度も不快なめにあったことはなかっ
た。だから直接出向いて御礼ぐらいはいいたかったのだ。それで週
末にお礼のお菓子を買って持って行った。
追給の会社は土曜日は午前中までの営業だというので、早く出て
行った。追給にはお礼に伺うと伝えていたので外周りには出ていな
いはずだ。
信用保証会社のドッグは大阪城公園の立地のよい場所かつ有名な
ビルの中にあったので、壱案は迷わず楽々いけた。そこのビルの三
階のフロアの大半を借りているらしき思っていたよりも大きな会社
だった。
ちゃんと受付の女性もいて、追給に面会を頼むと数か所あるパテ
ーションでしきった応接室に通された。壱案はそこで追給と名乗る
男とはじめて対面した。
追給は背の高い男性だった。年は壱案とそうは変わらないので意
344
外だった。もっと老けていると思った。追給は壱案に自分の名刺を
渡すとにっこりとした。
﹁太田さん、やっと終わりましたね、よかったですね﹂
﹁追給さんのおかげです﹂
それから菓子箱を渡す。追給は恐縮しながらも受け取った。
﹁いや∼気をつかわなくっていいのに﹂
﹁いえ、契約終了後もよく相談にのっていただいてどんなに心強か
ったかしれません。ですから気持ちだけなんですが⋮⋮﹂
そういって受け取っていただく。そこへ受付女性がお茶をもって
入室してきた。お菓子をもらったことを追給が言い、女性が御礼を
言う。そのやりとりが終わり、応接室に二人だけになったとき、壱
案は追給にゑ無山のことを聞いた。この男もまたゑ無山に家賃入金
をせまり、代弁済したときはマンションや会社まで出向いたのであ
る。その時の様子を聞きたかった。
それにこれからの裁判の後始末もある。
強制執行の手数料の追加請求はまだきてないが裁判費用などとあ
わせて当然ゑ無山に払ってもらうつもりだった。
追給はお茶を一口すすり言った。
﹁あのね、のっけからなんですが、太田さんはこういうことっては
じめて尽くしだったでしょ。だけど実はゑ無山さんみたいな人、最
近多いです。家賃は払えるはずなのに、払わない人。それと、です
ね、
払いたくても払えない人。そういう人も近年すごく増えています。
だからぼくらの仕事も増える一方なんですよ﹂
﹁家賃を払わない人のために家主に代弁済する仕事って、ゑ無山さ
んとのトラブルがあるまで、その存在すら知りませんでした。だけ
ど家主にとってはなくては困る信用保証、という仕事ですよね﹂
追給はうなづいた。
﹁そのとおりです。ぼくらいろんな人にあってるけど、大体さっき
いった二種類の人に分けられます。ゑ無山さんは最初のタイプです
345
ね。払えずにすむなら払わないでおこうって。だからまめに電話連
絡や会社に行ったのですがああいうふうに着信拒否などやられると
こっちも強硬な態度をとりますね﹂
﹁やはり手こずりましたか﹂
﹁はは、ぼくらが会う相手っててこずる人ばかりです。それが仕事
ですから﹂
﹁協力していただいてありがとうございます﹂
追給は言った。
﹁それと、ですね。アレの父親の夜逃げ先の住所とかわかったけど、
ちゃんと教えようか。これからも裁判費用とか請求するなら必要だ
ろうと思うよ。払わない可能性大だから少額訴訟もありだろうし﹂
﹁少額訴訟?﹂
﹁そうですよ、次のステップです。裁判費用とかは書記官に申し立
てます。強制執行の費用は民間の業者が入ってますのでやはり民事
になります﹂
﹁面倒ですけどしなきゃいけませんね﹂
﹁ちゃんと回収したいならば、ね。動産執行もあれだとアリ、でし
ょう﹂
追給は業務上そういう言葉を使いなれているようだが壱案はまた
裁判か、とげんなりした。少額訴訟は文字通り﹁少額﹂ で簡単な
裁判で一日で終結するとはわかる。だけどまた﹁裁判﹂。ゑ無山は
出て行ってくれたけどまだ縁は切れていないのだ。
壱案は追給からゑ無山の父親の滞在先の住所をメモにしてもらっ
た。
﹁私が太田さんにこれを伝えるのは、前にも言ったようにあれの父
親が夜逃げしたので、うちが保証かぶったんです。太田さんとは別
件の契約ですけど、ゑ無山の父親ということで今後何らかの接触と
いうかかかわりもあると思いますので教えました﹂
﹁ありがとうございます。助かります﹂
メモの住所は東京だった。
346
﹁それはゑ無山の弟の住所です。ぼく現地に行きましたけど、大き
な家でしたよ。あの家を維持しようとしたらかなりのお金がかかり
ます。なのに、親子して家賃を払わず父親は夜逃げ、息子は強制執
行断行まで行きました。しかも同時期です。ここに何かのつながり
が感じられますがわかりませんでした。
こっちも一応プロなんですがお金の流れが把握できず正直苦労し
ています。裁判は全面勝訴ですが先日父親が会社に電話をかけてき
て、ぼくらにナイソデハ、フレンカラナ、お金は一銭もナイゾ、と
恫喝してきましたよ。親子して同類で同じことしてるんですな、実
に似たもの親子ですな﹂
﹁そのゑ無山の弟さんって、連帯保証人とかではないのですか?﹂
﹁いや、それが違うんですよ。だから困るんです。せめてと思って
現地で登記謄本もあげてきましたけど父親と別名義でした﹂
﹁どういうことでしょうか?﹂
﹁あの東京の一等地の大きな土地だって賃貸だったということです
よ。ゑ無山の父親の会社へ動産執行もかけたんです。だけどカラで
した。ぼくらは弟さんの銀行口座に資金を全部うつしたとにらんで
ますけど﹂
﹁じゃあ、弟さん名義の口座に動産執行をかけたら﹂
﹁それをしようとしたら、こっちが裁判途中に資金移動をさせたこ
と、つまり弟さんの詐害行為を立証しないといけません。それから
詐害行為取消権をもらうために、別に裁判をしないといけません。
そうすると弁護士の費用からして非常に高額になるし、時間もかか
ります﹂
﹁すごい手間がかかるのですね﹂
﹁そうです﹂
﹁その別件の裁判、詐害行為取消、信用保証会社のドッグとしてゑ
無山の弟さんに対してされるのですか﹂
﹁いや、そこまでするかといえば上司判断になるのですが、会社と
しては損なので、しないでしょう﹂
347
﹁つまり逃げ得?﹂
﹁そうなりますね、くやしいですけど、ゑ無山親子の思い通りにな
るわけです。こっちも債権取り立ての相手はゑ無山親子だけではな
いので、そういう仕事山積みだし、まず取れそうなところから、取
りやすいところから仕事するっていうのは基本中の基本ですので﹂
﹁はあ、わかっててするとゑ無山親子、ついでに弟もグルでという
のは、ズルイことこの上ないですね﹂
﹁父親から太田さんとこにはまず連絡はないかとぼくも思いますが
情報提供はお互い様ですので、何かありましたら今後ともよろしく
お願いします﹂
壱案もそれは同感だった。
﹁こちらこそよろしくお願いします﹂
頭を下げた壱案に追給はにっこりした。
﹁えーと、話しはかわりますが、ぼく、あなたのこと、もっと年上
かと思ってました。それでマンションも持ち家もいっぱい持ってる
金持ちの人って思ってました。だから若い人とわかって意外でした﹂
壱案は驚いた。年上はともかく金持ちではない。
﹁とんでもない。私の持ちモノって例のマンションの一室だけです
よ。ローン山盛りですし。ローンのこともあるので、あんなに一生
懸命請求したんです。仕事もただの公務員ですし。⋮⋮私もあなた
をもっと年上で怖そうな人かもと思ってました﹂
﹁ぼく、年は三十歳です﹂
﹁あらっ、じゃあ同じ年だわ! 私も来月三十歳になります﹂
﹁へえ、そうなんだー﹂
追給はいきなりタメ口をきき、白い歯をみせて笑った。
会社を辞したあと、壱案は川伝いに駅に向かって歩きながらため
息をついた。
﹁もう一回裁判するなんてなんて面倒な!﹂
帰宅後、家の郵便受けをのぞくと強制執行業者の葡萄から封書が
348
きていた。断行費用の追加額だわ。
費用支払い、払えないほどの高額だったらどうしようと恐怖にお
ののきつつ、壱案は開封する。読むなり十万円という金額が目に飛
び込み安堵した。
強制執行代金と鍵代金ですんでいるのだ。立ち会い料、代行費用
がゼロになっていた。壱案が断行に立ち会い、執行官が出してきた
書類に原告並びに債権者としてサインしたので、それで代行費用が
ゼロになっているのだろう。加えて引っ越し要員と二トントラック、
それと荷物の保管費用も移動手数料も無料になっていた。それで十
万円ぽっきりだった。
壱案は最初の見積もりが約五十万円だったのでそれを思えば安い
と思った。
壱案はゑ無山が自身の荷物移動ゼロでこっちも持ちだして引っ越
しのような荷物を移動させただった場合、五十万円の見積もりは出
ていたので、そのうちの十万円を内金としてすでに入金していた。
そのため追加請求額は﹁ゼロ﹂ になっていた。
あれですんだのだ、よかった。ゑ無山は出て行ったのだ。出て行
ってくれたのだ。よかった、本当によかった。壱案は書面を見つめ
てじっとしていた。
週明けの月曜日には地方裁判所の執行官名で通知が来た。
債権者 太田壱案 殿
大阪地方裁判所執行官
通知書
一、平成二十×年︵執ロ︶ 第○○号 家屋明け渡し
債務者 ゑ無山ハカシは、完了により終局しましたので通知しま
す。
349
二、下記の書類を送付します。請書を提出する必要はありません。
○ 執行力ある正本 一通
○ 送達証明書 一通
三、本件の予納金の残額は保管金管理番号一二00○○○○で 金、一万四千二百円となります。
封書の中には上記のとおりの正本、送達証明書が返却されていた。
壱案はこうして自分の大切な判決正本等を執行官から返してもらっ
たのだ。別添でもう一つあった。家屋明け渡しの報告書というかな
んというか。執行調書︵断行︶ とある。執行の日時や、場所、執
行立会人などを詳細に書いたものだった。
執行の内容
一、本件執行の目的物件について同物件内に存在した目的外動産を
取り除いて空き家としたうえ、相手方の占有を解いて、これを受け
取りのために出頭した申立人、太田壱案にその占有を取得させた。
二、目的外物件︵目的内に存在した残置動産︶ の処置
人に退去後の換価価値ある残置動産はなく、塵芥物を廃棄した。
三、当事者の表示および債務名義の表示は別紙のとおりである。
四、本手続きにおける特記事項は下記のとおりである。
相手方不在につき、下記承認を立ち会わせ解錠の上室内に立ち入
り執行した。
執行に立ち会ったものなどの署名押印
申立人︵債権者︶ 太田壱案︵印鑑︶
立ち会い承認 強制執行業者 葡萄
以上 平成 年 月 日、大阪地方裁判所執行官︵印鑑︶
後は後ろのページに当事者目録、物件目録、物件地図や室内配置
350
図が続き最後のページで
﹁この謄本は記録により作成したものである﹂
とあり、その日時と 執行官名と執行官の印鑑、裁判所の割り印
みたいなのが続く。それを一冊に閉じられていた。
通帳確認すると残金も報告書のとおりの金額で返金されていた。
壱案はそれを見て本当に終わったのだと思い、また安くしていた
だいた強制執行業者の葡萄に改めて電話をかけて、御礼を言った。
壱案はこの通知書を眺めつつやっと終わったのだ、と感じた。
それで納戸の奥深くに隠してあったゴディバのとっておきのチョ
コレートを箱ごと開けて階下の両親の住む居間へもっていく。とっ
ておきのワインもついでにあけて、両親にふるまう。
両親も﹁ほんまにやっと終わったかー﹂ と喜んでグラスをあけ
てくれた。
壱案はこれらのものを、自分へのご褒美と御祝いをかねて思い切
りおいしくほおばった。それで明日の勤務後はあそこの超おいしい
ミルクレープといちじくタルトをワンホールで買って帰ろう、それ
でもう一回お祝いしようと思った。もうすでに十分肥っているし、
カロリーとってもいいだろう、別に。
翌日の夕方壱案はモモンガ司法書士事務所の梨元のところへ行っ
た。思えば一番最初の最初、ゑ無山の態度で悩んで職場近くの司法
事務所へ行ったら断られて、それで仕方なく入ったところだった。
この梨元先生もきさくないい人で壱案の善きアドバイザーとなって
くれた。この人もまたいてこそ、本人訴訟素人訴訟でも全面勝訴し
たのだ。
勝訴には終始悲観的だったが、いざ勝訴しかも全面勝訴をもらう
と﹁まれな判決ですな﹂ といいつつ、判決正本をみたがった。勉
強熱心、仕事熱心な司法書士さんなのだ。
壱案はここでもおいしいケーキ持参で御礼に伺った。ついでに裁
判の諸費用の請求の仕方を教えてもらうという下心もある。
351
梨元は持参のケーキを悪びれなく受けとり笑顔を見せた。
﹁とうとう追い出せましたか、おめでとう!﹂
﹁お世話になりました。で、裁判の諸費用の請求ですが、やりかた
とか教えてもらえますか﹂
﹁はいはい、それも自分でやるつもりだね﹂
﹁はあ、もちろん受講料というかアドバイス料は払います﹂
﹁いいよ、そんなの。じゃあ、ちょっとだけな﹂
梨元は裁判費用請求といっても種類があることを壱案に教えた。
葡萄のいうことと重なっていた。つまり、裁判自体にかかった諸費
用とそれ以後民間業者に支払った強制執行費用や家賃不払い、滞納
家賃の利子支払いは民事になるので新たに分けて請求すべきという
のだ。
まず裁判にかかった諸費用と言うのはつまり、訴え提起手数料、
裁判所に支払った印紙代や各種書類の作成、提出費用などなど、も
ちろん裁判当日の原告本人の旅費などもこれに含まれる。
壱案は全面勝訴をもらったので、これら諸費用は被告負担になる。
ここでもいるらしい
判決正本にも明記されているので、壱案はこれらの申立書を裁判所
に手数料 を添えて提出したら裁判所が被告に対して告知してくれ
るのだ。
﹁申し立て書って何の申立ですか﹂
﹁訴訟費用額の確定の申し立て書っていいましてね、裁判に携わっ
てくれた書記官のところでやるんです﹂
﹁あのう、そしたら砲大書記官さんに頼まないといけないのですね﹂
﹁裁判にかかわってくれた民事部の書記官にですよ﹂
﹁じゃああの砲大さんになるわ、あの人苦手なんですけど﹂
﹁そんなこといってる場合ですかね? まあ郵送でもいけますけど﹂
﹁はい、考えてみます﹂
壱案はゑ無山がお金をちゃんと支払ってくれない限りあの砲大書
記官とも縁が切れないのだ。ゑ無山には軽蔑と嫌悪感しかないが、
352
砲大書記官は怖い人という感覚がどうも根っこにあって苦手感大な
のだ。
梨元が教えてくれたことは司法でもきちんと決まっていることだ
った。
計算書にはきちんと明確に書き、ついで疎明証明といってその根
拠も提示しないといけないのだ。
一、訴え提起手数料、これは簡単で裁判所に最初に訴状提出した時
に請求されて貼り付けた印紙代をいう。
二、書類の作成および提出費用。
これもきちんと価格が決められている。︵以後書くのは平成二十
五年の時点での値段です。変動ありだと思われますのでご注意くだ
さい︶
● 立件申し立てち資料代が千五百円
● 準備書面代が千五百円
● 書証が千円
以上で三千五百円。
それで原告と被告の二名分で︵裁判所に提出した分は原告負担?
になるのか請求できない︶三千五百円×二で七千円。
これを聞いて壱案は思わず梨元に文句を言った。
﹁あの、これって安すぎませんか。あんなに時間をさいて書いたの
に﹂
﹁決まりですから。ついでにいいますと、ページ割増とかあります、
被告も一人とは限りませんし、だからかける人数制限とかもありま
すし、複雑な裁判になるほどすごく面倒なんですよ。だから裁判費
用は被告負担とはなっても、原告は請求しない人多いですよ。せっ
かく請求しても被告が知らん顔して払わない人も多いし、﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
﹁それで次いってもいいですか﹂
﹁お願いします﹂
353
三、訴状副本および第1回口頭弁論期日被告呼出状等の送達費用、
並びに判決正本送達、特別送達費用等
これも裁判所から明確に費用がわかっているのでそのまま書く
四、原告本人の出頭日当、旅費︵第一回口頭弁論、第二回口頭弁論、
判決日︶
五、催告所送付費用
六、訴訟費用額、確定処分正本送達費用
ざっと書くとこんな感じでそれぞれ証明書を添えて書記官に申し
立てると。それにしても準備書面代一通でたったの千五百円と決め
られているなんて知らなかった。安いというかなんというか。梨元
は補足説明もしていく。
﹁安い? 安いことないですよ。それと書面が何千ページあるとき
はもう少し高くはなりますがね。
裁判所が被告に通知してくれるのは以上ですね。それと強制執行
費用、家賃滞納料、二十数近くの内容証明郵便代はまず被告本人に
口頭で支払うようにいうのが普通ですが、あれだとまた無視して内
容証明とか出しても受け取らないでしょうし、郵便代とかもったい
ないですからいきなり少額訴訟でいいと思いますよ﹂
﹁はあ、また訴訟、ですね﹂
﹁元々、訴状自体がめんどくさいもんなんです。ちゃんと契約をど
っちか守らないか納得しないから裁判になるわけです。裁判官とか
は事情知らないからこっちが正しいということをきちんと証明した
方に勝訴くれるわけです。面倒でもゑ無山はああいう人ですし、訴
訟しても平気だったでしょ。
法的な根拠なかったら、ちゃんと裁判してなかったらまだあのマ
ンションにいすわっていると思いますよ、ぼくは﹂
﹁そうですね、本当にそうですね﹂
﹁以上、二つにわけらけられますが、あなたの場合はゑ無山の数々
の行為に精神的苦痛を受けたと損害賠償もおこせると思いますよ﹂
354
﹁えっ、ほんとですか﹂
﹁そういう訴訟おこされても平気な被告だと思いますけどね、はは。
でもゑ無山のせいで心療内科にかかって安定剤をもらいましたと医
者に診断書を書いてもらえば一発、ですね。まあそういう証拠を山
にしてもっていくんですよ﹂
﹁確かに眠れぬぐらい悩みましたけど、医者にかかるほどではなか
ったし面倒そうだしいいです。もしそれで何百万円も取れるなら考
えますけど勝訴しても払ってくれなさそうですし﹂
﹁動産執行もできますよ、どうしますか?﹂
﹁動産執行! そうね、その手があったか﹂
﹁被告の利用していた金融機関、わかりますかね?﹂
﹁あっ、わかりますわよ! じゃあ取れますね﹂
﹁金融機関と支店名がわかればいいですよ﹂
﹁支店名、わからないわ﹂
﹁えー、そうだったの?﹂
﹁はあ﹂
﹁じゃあできませんよ﹂
﹁そんなあ﹂
会話はそこまでで行き詰まり、壱案はともあれ梨元の事務所を後
にした。
申し立て請求は当然するつもりだ。書面代金安すぎるとは思って
も印紙代はバカにならない。執行官に支払った代金と言い総計で十
万円近くになったからだ。被告が契約書を守らなかったおかげで壱
案はものすごい迷惑がかかり、かつ裁判が終了して強制退去となっ
てもなおかつ迷惑がこんなにかかるのである。
壱案は梨元が言った動産執行のことが気になった。
動産執行というのは金銭的な支払いを無視もしくは拒否する被告
に対して強制的に口座凍結︵被告が自由にお金の引き出しができな
いようにすること︶ させて、そこから申し立てた原告がお金をと
355
ることである。
こういう裁判の結果で支払いが発生してもなお、ばっくれようと
する被告が多いがため、銀行もまた司法に協力して強制的に口座凍
結して払うべき金を支払わせることができるのである。
壱案は動産執行と言う言葉自体もはじめてならば、口座凍結とい
う言葉もはじめてだった。だけどこういう制度が確立しているとい
うことは、あくどいことが平気でできるゑ無山のような人種がある
程度いるだろう。そういう人種に対して銀行側も裁判の指示に従い、
凍結して申立人に協力してくれるのである。
壱案はこの制度を理解し、そして非常に助かると思った。この国、
日本は司法の国家でもある。つまり法治国家だ。それが壱案はうれ
しかった。そして被告、ゑ無山が利用していた銀行名は把握してい
る。名前と生年月日もわかる。この場合は口座番号は不要だ。 だが支店名が必要とは!
壱案は別個に少額訴訟をおこしても、信用保証会社がゑ無山の父
親に対して行った動産執行には銀行口座がカラだったということは
忘れてはならぬと思った。
父親がそうならば、そしてゑ無山弟の協力があるならば、壱案も
また動産執行をかけてもゑ無山の口座がカラだったら無駄足を踏む
だけである。
いくら口座凍結しても金額がゼロであればゑ無山は痛くもかゆく
もないのである。となれば壱案がしかけた申し立ても苦労も水の泡
だ。
せっかくの司法もやはり悪人にとっては、すりぬける方法を考え
付いては実行する。
ゑ無山父親の場合は、自分名義の銀行残高はゑ無山弟に移したそ
うである。となれば徒労に終わった信用保証会社は弟に口座残高を
移し替えた時期やその証拠を立証してまた別個に詐害行為取消権の
356
申し立てを新たにしないといけないのである。
それには時間もかかるし、立証は難しい、というわけでここまで
くると会社組織としては手をひく↓ ゑ無山の勝利? となるわけ
だ。逃げる側にとってはうれしかろう。逃げるヤツは悪知恵を働か
せて逃げ切れるならとことん逃げるわけだ。
これもまた犯罪にならない。
ゑ無山父親もゑ無山本人も、そして手助けしたゑ無山弟も。
壱案は熟考の末、ゑ無山が利用していた大手都市銀行のフリーダ
イヤル相談電話を利用して聞いてみた。電話に出た相手はそういう
裁判に関与する話しはそちらで、と別の番号を提示された。壱案は
ふと思いついて資料持参で直接対面の上見てもらおうかと思い付い
たので面談での相談予約をした。
大手都市銀行の相談場所は本店の五階にあった。
一階は普段駅前や壱案の勤務先の官庁の出先支店のように通常の
金銭に出し入れにきたお客でごった返している。
壱案は入り口でにこやかに応接してきた行員に相談目的をいうと
奥のエレベーターに案内され先に五階のボタンを押してくれてドア
が閉まるまで丁寧にお辞儀をしてくれて見送ってくれた。
五階に到着するともうそこは一階の喧騒がうそみたいに静寂な空
間があった。壱案はいつもの業務の続きのように当然スーツ着用し
ていたが、それでも気後れがするような静かで緊張を強いられる空
間であった。そこで待ち構えていたようなフロア専属の行員に用件
をいうと﹁少しお待ちください﹂ とソファで待つように指示され
た。
壱案はそこに融資相談、金融相談とあり明らかに一般客ではない
スーツをぴしっと着こなした外国人客などが応接されているのを見
た。それで自分の相談することは設立会社の件でもなんでもなく、
単なる個人的な裁判の動産執行に関与する質問をしにきただけなの
に、こういう場所に通されてとまどっていた。
357
だがこれも経験だろう。壱案はゑ無山のような非常識な人間に出
会ったおかげで裁判も経験し、不動産明け渡しの執行はすでにして
いる。そして今度は動産執行をかける前の前哨戦として銀行に対し
て知恵を授けてもらおうかとやってきたのだ。
壱案はゑ無山が内容証明や裁判所の告知がいったぐらいであわて
てお金を払うタマではないことは百も承知、全然信用してない。
だからひとまず裁判所に裁判費用の申し立てや少額訴訟を起こす
前に銀行に聞いてみようかと思い立った。たったそれだけなのだ。
﹁太田さん、どうぞ﹂
背の高い眼鏡をかけた男性が奥の部屋からやってきて、カウンタ
ー越しに声をかけてきた。
﹁はい﹂
壱案は素直に立ち上がり、自分が来た用件をしゃべった。男性は
黙って最初から最後まで壱案の話しを聞き、持ってきた判決正本と
執行調書の中身を見ようともせず黙って眺めている。
﹁なるほど。それで支店名がわからないのと、詐害行為が疑われる
のでそれを事前に教えてほしい、と。
あなたがそう言われるのは、無用な手間暇をはぶきたいからです
ね﹂
男性は普段見掛けるような愛想のよい銀行マンという感じではな
く、無遠慮などっちかというと砲大書記官のような感じがあった。
もっとも砲大書記官よりもずっと年は若いけど。また悪気が全くな
いのもまた同じであった。
﹁結論から言いますとそれは不可能ですね。裁判所からの開示命令
が来ないとあなたがいかに勝訴した原告であろうと、うちは断らざ
るをえません﹂
﹁支店名は駅周りということはわかっているのですが﹂
﹁うちは最大手なので大町駅駅周りと言ってもすくなくとも五十か
所はあります。それを全部申し立てると開示並びに口座凍結費用は
358
一か所ごとの算定になるので、すごい金額になります。そして相手
側も必死なので口座を凍結されるのも事前に察知できますし、移動
はあります。結果、カラ振りも正直非常に多いです﹂
﹁はあ、そうですか。そういうメにあるのは何も私だけではないの
ですね、悪知恵にたけた人って多いんですね﹂
行員は片頬だけで笑った。彼はそういう相手の出方も熟知してい
るのだろう。ちなみに口座凍結費用は凍結できるできないに限らず
一口座当たり約二千円前後かかる。︵平成二十五年の時点での話、
裁判費用はまた別です︶
だから相手が口座を裁判に負けてもなお、悠長に預金を預けてい
る、もしくは口座移動の知恵もないのなら話しは変わってくるが、
ゑ無山の場合はすでに父親が弟を使って詐害行為をさせているなら
ゑ無山もそうしているだろうと推測できる。
壱案は自分ができるのはここまでだと思った。行員はこうして裁
判資料をもってきても何もできないだろう。法的な指示も権利も今
の自分にはないから当然だ。壱案は自分がクレオパトラとかだった
ら自分のいうとおりに動いてくれるだろうかと思った。でもそんな
のはただの夢想でしかない。
自分は一般庶民で何の特権ももたないごく普通の女である。賃借
人にみくびられまくっている普通の女。壱案はため息交じりに言っ
た。
﹁お話はよくわかりました。時間をさいていただきありがとうござ
いました﹂
行員は行儀よくほほ笑んだ。
﹁あの、ほんとに動産執行かけるなら時期もよく見たほうがいいで
すよ。一回の申し立てで一回、ですのでね。支店名ビンゴでも月の
終わりとか会社の金の動きを熟知したうえでないとほんとに口座凍
結して首尾よくお金が全額戻る方がめずらしいんで⋮⋮﹂
﹁そうですか﹂
その瞬間壱案は、はっとした。行員の目線に、である。
359
しまいかけた裁判資料や賃貸借契約を。
そしてゑ無山被告の会社名や会社住所をみている。
壱案はあうんの呼吸で無言でさらによく見えるように行員の目に
広げておいた。彼もまた無言で見た。メモも何も足らずにただ見て
いる。壱案もまた無言で見せた。
やがて彼はうなづいて会釈した。もういいのだ。
たぶんこの敏腕な行員は壱案がこの席を立つとすぐにゑ無山の会
社の口座とその動きを調べるだろう。もしここの銀行がゑ無山の会
社に融資をしているとすれば倒産の可能性がゼロではないからだ。
壱案はそれを無言で理解した。もとより被告ゑ無山に対する守秘
義務なんかないし、契約を守らず家主を愚弄するしか能のないゑ無
山になんか気をつかうはずはない。
壱案は収穫はゼロではあっても、銀行側が現時点では壱案に何も
してくれないのは予測してはいたものの、快く動産執行のありよう
を教えてくれたことと、最後の行員の仕事熱心さと壱案自身のさり
げなーい被告ゑ無山の会社名、住所の情報開示に気分よく帰宅でき
たのである。︵まあどうせ口座カラだろうけど︶
そんなこんなで壱案はゑ無山に対する裁判費用の申し立てや別口
の少額訴訟には躊躇していた。どうせ勝訴はもらえても支払う気は
ないだろうし、動産執行をかけてもきちんとお金が戻らない可能性
大なのである。ゑ無山の弟まで、でてきては壱案もお手上げである。
結局は厚かましい方が世の中上手にわたって生きていけるのかし
ら⋮⋮壱案はとても残念であった。もし私が某国の独裁者であった
らゑ無山一家なんかまとめて刑務所に放り込んでやる。そこまで腹
がたっていたが、そんなことは口に出して言えやしない。
だから思うだけで、胸の中にしまってはいたけれど。
裁判はよい勉強をした、と思ってこの時点であきらめるといいの
360
かもしれない。
だけどこれで終わりか、これで本当に終わりにしていいのか、と
いう迷いもまだあった。
お金が惜しい、というのもあるけど、このままゑ無山に逃げ切ら
せてもいいのか、犯罪にもならずのうのうと次の場所でも同じこと
をさせてもいいのか、そういう思いもあった。
そうしているうちにある夜の就寝前にふと思いついてゑ無山の会
社ブログを見た。強制執行断行以後は全く見てはいない。すでに退
去しているなら相手がどうしようが壱案にはもう関係ないからだ。
だけど退去こそしないといけないが、払うべき裁判費用や未払い
家賃︵判決確定後から強制執行断行日までの家賃が十万円以上未払
いのまま︶ 加えて断行費用、総計で三十万円を超えた。それを支
払ってもらわないといけないが、逃げ切れると高笑いしているかも
しれない。そう思って久々にブログを閲覧したのだ。
ゑ無山のブログはあいかわらずいい気なもので文法無視の英語表
記、そして哲学や男はこうあるべきという訓示めいた文面ばかりだ
った。
﹁あいっかわらず自分のことを偉いと思っているのだわ⋮⋮﹂
ツイッターも続いている。ゑ無山はツイッターでの壱案の家賃払
っての書き込みをどう説明したのだろうか、ヘンな女が勝手なこと
を書き散らしていたとでも言い繕っているのだろうか、と考えた。
日にちを新しい方から古い方へとクリックしつづけていったら、
ある文面のところで手がとまった。
私はGOD OF BIBLE︵著者注:どうやら聖書の神とい
いたいらしい︶
私は自由な意思、なんでもできる。︵著者注:万能者といいたい
らしい︶
今度新しい会社をたちあげる。車も当然外車で新車がいい。
361
父親が自分の子供に最初にプレゼントするのは﹁NAME﹂ で
ある。
壱案は思わず手をとめて文面をまじまじとみた。もとから世間を
上から目線で眺めているのは知っているがなぜそこまで言い切れる
のか不思議だった。
I am GOD ⋮
もしかしてホントに頭のおかしい人なんだろうか。だが自分の仕
上げたデザインの出来栄えをアップしている限りではそんな変なも
のではない。読者からのコメント欄は皆無だった。これは単なる自
己満足ブログなんだろうか。 父親は自分の子供に最初にプレゼントするのは﹁NAME﹂つま
り名前である。だからつけたものは子供の一生に責任をもたないと
いけない。子供に幸あれかしと尽くさないといけない。そして父親
は子供に尊敬されないといけない⋮⋮
訓示めいた文面がずらずら続く。読んでいるうちに壱案は腹がた
ってきた。あれほど只田弁護士に忠告されたのに、書き込みをした
くなってきたのだ。
﹁あの人がどういう人であるか私はわかっていていうんです!
ネットで相手を責める書き込みをしては絶対にいけません!﹂
壱案は﹁弁護士の忠告はわかっているけど、罪の意識なしで人に
どれほど迷惑をかけたかという思考能力なしで、のうのうと生きて
世間に対して説教するなんて非常識にもほどがある。私にはこいつ
を責める権利はあるわよ﹂ と思った。
それでまた壱案は書きこんだのだ、下記の文面を!
﹁ブログを見ましたが、どうしてそんなに偉そうなことばかり書け
るのでしょうか。一体自分は何さまのつもりで暮らしているのです
か。裁判費用や強制執行費用を内容証明でも受け取られずレターパ
362
ックで送付しましたよね? いますぐ請求額を払ってください﹂
不快な思いをこれ以上重ねたくなければ、ゑ無山の支払ってもら
うべき三十万円はあきらめたほうがよかったのかもしれない。だが
こいつは前のところでも同じようなことをしていたのだし、それで
勝ったとか思われるのはシャクだった。
郵便受けの裏のへこみ、大人のおもちゃの放置⋮⋮壱案はゑ無山
のせこい仕返しをも忘れてはいない。要はなめられているのだ。
ゑ無山へのコメント返信はすぐ返ってきた。新しいブログのアッ
プという手段で。
壱案の書き込みにゑ無山は新しくブログをアップするというやり
かたで応じてきた。壱案は見るなり、ショックを受けた。
ゑ無山の文面は以下の通りでいつものごとく英文である。あっち
her.
short
legs
も壱案がどうやら英語に堪能であることに気付いたようなのだ。
題名は騒音おばさん。
﹁親愛なるBUSU.
hate
PIG
with
私はある席でひどいBUSUを見た
I
手足の短い ugly
彼女はわめく。
彼女は私のツイッターにオカルトめいた書き込みをした。
だから警察に通報されて注意された。彼女はそれで書き込みをや
めた。
だけど今また私に書き込みをしてきた。
hate
her⋮ ﹂
だから彼女はまたあの騒音おばさんのように手が後ろにまわるだ
ろう。
PIG,PIG⋮I
壱案は去年のツイッター書き込みでの警察がからんだ騒ぎを覚え
ている。
363
一、ゑ無山が自分に都合の悪いことを全部隠して、警察に壱案の書
き込みで非常に困っていることを訴えた。
二、それもそして家賃滞納を全額振りこんでチャラにしてから、警
察に被害届を出した。
三、それも壱案は書き込みをしたのはわずか数日で只田弁護士に忠
告をされてすぐにアカウントを取り消したのである。それは只田弁
護士は知っているはずだし、ゑ無山は知っているはずである。なの
に、一か月もたってからゑ無山は事情を全く知らない警察に駆け込
んで壱案によるツイッター書き込みで名誉棄損をうけたと言ってき
たのだ。
四、結果的には壱案はゑ無山のことで法的な動きをする以前に警察
に相談していた記録があり、ツイッターでの書き込みをすでにやめ
ていること、被害届を出したゑ無山がうそをついていたことで警察
は当然受理されなかったがそれがきっかけで裁判することになった
のである。
裁判の結果は承知のとおり。
PIG =醜い豚 はあんまりひどいじゃないかと思う。
壱案は翌日ゑ無山が書きこんだブログを印刷して警察に行く。u
gly
たしかに自分は肥ってはいるが、もうちょっとやせれたらとかは思
うが、親しい友人や家族に言われるのと裁判でしか会ったことのな
い憎い被告に言われて揶揄されるのとはまたニュアンスが違う。
だが警察の見解は個人名の記載なし、殺してやるなどの文面では
ない、何より当事者同志だけにしかわからない悪口は名誉棄損には
ならないそうだ。
壱案はそれを聞いてすごすごと退散するしかなかった。女性の容
姿を揶揄するのは人としてどうかと思うが、逆にゑ無山からの反論
は﹁それしか言いようがなかった﹂と もいえる。
壱案には最初から最後まで全く落ち度がなく、自分が悪いのはわ
364
かっているはずである。だから壱案の容姿を嘲笑するしかなかった
といえる。
ゑ無山はどうしようもない男だが、壱案はさらにエスカレートし
て書き込みする気持ちはもうなかった。自分が全く悪くないのは自
分が一番知っているし、第一、裁判官もかかわってくれた人もみん
な応援してくれたではないか。
ただ対応した刑事は壱案に慰め顔で、こういう悪口は刑事事件に
はならないからこのくらいいいだろうっていう人は多いです。こう
いうことを続ければいずれ警察の世話になると思えばいいですよと
言ってくれた。
365
第三十章・後始末はできない
今日は日曜日。
いつもながら特にデートの予定もない休日の壱案。
だからやっと自分のものとなって戻ってきたマンションにいって、
ひなたぼっこでもしようかと思った。退去後の業者による清掃が終
わったのでそのチェックも兼ねている。
玄関先の郵便受けを見ると駅前マンションのせいか、いろいろな
商業施設の広告でぎっしりいっぱいになっていた。ピザやラーメン
屋さんの出前、スポーツ施設、スーパー特売、アウトレット、マン
ション売買の広告、いろいろあった。
それらをマンション玄関前の備え付けのゴミ箱に入れようとした
時、壱案ははっとした。
そこから元の住居人のゑ無山宛のハガキが一枚、ひらりと落ちた
のである。
﹁あらめずらしい、というか誤配?﹂
ゑ無山宛の郵便は退去後一切、配達はなかった。ここを仕事場に
していたらしいので、郵便関係はいち早く転居届を出したのだろう
と思っていた。だから誤配だと思ったのだ。
印刷されたハガキを何気なくめくってみた。
ゑ無山が自慢してやまない空手同好会本部からだった。年間友好
会員費用の一万円の引き落としができなかったため、○月○日まで
に振り込むようにと振り込み先指定で書かれてあった。
通帳に一万円もの残高もないんだ。
残高をわざとカラにしているのではないか、という疑念もあった。
やっぱりとも思った。だけどこういうゑ無山がステイタスを感じる
ために参加している団体の会員費はきちんと支払はするだろう、従
業員のお給料だってちゃんと払ってるみたいだしとも。
366
壱案はその葉書をマンション前のポストに投函してやった。
実は実家父も同姓同名の近所の人がいてこういう誤配が時々ある。
なのでこういうのが来たら黙ってポストに投函して再配達してもら
うのだ。
強制執行業者は執行前にゑ無山が毎晩帰宅しているか、いやそれ
より前にちゃんと住んでいるかの確認をとるために郵便受けを訪問
の都度チェックしていたようだ。だから種々の督促状がありました、
等の報告を受けている。支払から逃げられそうなところは支払わな
いことにしているんだろう。きっと。電気代とかは逃げられるらし
いから。
壱案のマンションも逃げられそうだから、そうすると決めていた
に違いない。だからゑ無山にとっては敗訴は考えられなかっただろ
う。壱案も全面勝訴は考えられなかった。だけど全面勝訴だった。
それだけゑ無山はひどい賃借人だったと思われたのだ。
そして裁判費用や断行費用も壱案は請求書を仕上げてはいるが、
申し立ても少額訴訟も支払わないのは目に見えてるし、銀行口座も
カラの可能性が高いと指摘されてからずっと躊躇していた。
﹁はあ⋮⋮﹂
こういう人に支払ってもらうべきお金を請求するのは本当に気が
重い。ゑ無山はお金がなくて、払いたくても払えない人ではないの
だ。お金は少なくとも壱案よりはもっていて、払うべきお金は自分
で選択して、払わないと決めたら払わない人、なのだ。
壱案は信用保証会社の追給がゑ無山弟の口座に詐害させている可
能性が高いといっていたのを思い出して、ついでに住所氏名も書い
てくれたのを思い出した。それで一度ゑ無山さんの弟に連絡をとっ
てみようかな、と思い付いた。案外お兄さんのことを恥じてこっち
に迷惑をかけたことを恐縮して払ってくれるかもしれない、とも思
ったのだ。
それで壱案はマンションのがらんとした部屋に一人すわって、ゑ
無山の弟に電話をいきなり、してみたのである!
367
﹁はい、ゑ無山です﹂
﹁あ、あのう、ゑ無山さんですね。私は大阪の大町駅前のマンショ
ンを所有している太田と申しますが、あのう、被告のお兄さんと裁
判して勝訴したものです﹂
ゑ無山の弟の電話の声は訝しげだった。
﹁はあ?﹂
﹁それでお兄さんは強制執行断行までいきまして、退去していただ
きまして﹂
﹁それ、ぼくには関係ない話ですけど?﹂
ゑ無山弟は迷惑そうな声をだしそれを隠そうともしない。それで
も壱案はいうだけいってみようと思った。
﹁いえ、関係ありますよ、だってゑ無山さんの連帯保証人のお父さ
ん、そちらにいらっしゃるのでしょ?
いろいろな費用の支払いもしていただかないと﹂
﹁父は確かに一時ここに身を寄せてましたが、だがどこかにいなく
なったのです。その行方はぼくも知りません。つまり父とも兄とも
音信不通です。いろいろ封書や内容証明も来てますけどぼくには関
係ないから一切受け取り拒否しています﹂
やり口は兄弟揃って同じだから、きっと父親仕込みなのかしらね
? 壱案は皮肉に感じた。支払うべきお金のばっくれかたはきっと
父親が全部教えたのだ。
ゑ無山弟の職業は外資の超一流といわれる企業だけど、とても残
念に思った。
性格までは今は不明だけどもしかしてこの人も同じことができる
のではないかとも感じた。だがそれは根拠のない感情だ。
﹁あの、弟さん? 実はここの電話は信用保証会社から聞きました。
詐害行為のことも聞いています﹂
﹁⋮⋮こういう電話はやめてくださいガチャッ﹂
やっぱり予想通りだった。壱案は短い会話ではあったが、弟もグ
368
ルなんだと確信した。壱案は自分にできることはやりつくしたと感
じた。これ以上はどうやっても返金はしてくれないのだろう。壱案
からはどうみても家賃滞納は犯罪だが、犯罪ではないのだ。ゑ無山
家にとっては家賃滞納や強制執行はどこまでも犯罪ではなく、いか
にしてお金を払わずどこまで賃借できるかの勝負事の一つではない
かと感じた。東京都内の大きな家、一流外資勤務の弟、もちろんゑ
無山父も一流デザイナーの看板をおろさずホームページもそのまま
あって客を呼んでいる。壱案はこういう一家もいるのだと思うしか
なかった。
一般人の壱案のやれることはどうしても限りがある。また法律も
味方してくれるのはここまでなのだ。法律の壁がここにもあった。
法律でもってやれること、解決することは少ないのだ。全能ではな
いのだ。
壱案は気分を切り替えて、家具も置いてない清掃したてのマンシ
ョンの床にごろっと寝た。そしてその姿勢のまま次の賃借人をさが
すためにケータイで不動産屋さんを検索していたのだ。
そこへ折よく信用保証会社の追給から電話がかかってきてびっく
りした。
﹁えーと太田さんこんにちは。いい天気ですね、それであれからゑ
無山と何かありましたか﹂
壱案はがばっと起き上がった。そしてよくぞ聞いてくれましたと
思った。追給にゑ無山が書いたブログとさっき話したばかりの弟さ
んとの会話を言った。追給はいつも通りふんふんと聞いてくれる。
﹁短い期間でまたいろいろあったんですね、ブログは女性に対して
確かに卑怯なやりかたですね。失礼なヤツだけど個人攻撃もまた時
として有効だとおもったのでしょう。気にしないことですね。それ
でゑ無山への請求はもうしましたか﹂
﹁あれだと請求するだけ無駄かもしれないと思ってまだです﹂
﹁うーん、もうちょっと話を聞いてみましょうか﹂
369
﹁あっ、私今、当のマンションにいるんです。追給さんどっかいい
不動産屋さん知りませんか?﹂
﹁すぐ駅前に仲介業者のちゅー?するかい? があるんではないで
すか?﹂
この人は壱案とちゅー?するかい? の間に何があったのか知ら
ないのだ。だから壱案は﹁そこ以外のところがいいの﹂ とだけ言
った。
追給は﹁ははは、ゑ無山を紹介したから縁起がよくないんですな﹂
と笑った。それからちょっと改まった様子で追給は言った。
﹁あの、実はぼく家、そこからすぐ近いんです。今からそっちへ行
っていいですか。何かアドバイスできるかも﹂
壱案は承知した。それで駅前近くの喫茶店で待ち合わせした。
日曜日の昼下がりとて追給はスーツを着ず、ラフな格好をしてい
た。壱案もそうだった。会うのは二回目だが電話では数十回。だか
らそんなに緊張感もなかった。
駅前のカフェに入り双方ともケーキセットを頼んだ。壱案はウェ
イターのもってきたトレイからチョコレートタルトを頼み、それに
アールグレイティーをつけた。追給はトレイの上の種々のケーキを
吟味せず、この人と同じものを、とだけ言った。
それから追給は壱案を眺めて壱案にっこりした。その笑顔は壱案
の心をなごませた。それから二人でカフェの席からもよく見えるマ
ンションを眺めた。
﹁太田さんの持ってるのってあそこの最上階でしょ。強制執行まで
行きましたけどまずは取り戻せてよかったですね﹂
﹁そうですね、いろいろとありがとうございました﹂
﹁いいマンションじゃないですか、また人に貸すんでしょ﹂
﹁そのつもりですけど、今度はいい人に決まるといいなあって思っ
てます﹂
﹁売ることは考えてないんですか﹂
﹁いえ、売るなんて、貸す方がいいと思いますけど﹂
370
﹁そうですか、ぼくなら売りますがね﹂
﹁ええっ、じゃあ追給さんは売った方がよいと思ってるのですか﹂
﹁いやあ、近年家賃トラブルって年々増える一方なんですよ。だか
らぼくらの仕事も増える一方。
世の中みんなおかしくなってきたと思うんで⋮⋮少子化もあるし、
いいのはあと十年でしょう。不動産を維持するのはぼくはすすめま
せんね。まあ強制しませんけど﹂
﹁そうですか、でも今度は良い人に当たるよう、そして入居にあた
っての査定も厳しくしますし、連帯保証人も不動産屋にまかせず、
ほんとに連帯責任を負ってくれるかチェックしようと思ってます﹂
﹁売る気がないならやはり貸す。だけど査定を厳しく、ですか。そ
れは賢明ですね、﹂
﹁それで保証会社はドッグさんにします。追給さん担当で﹂
﹁ああ、ぼくを指名して? はははそりゃあありがとうございます﹂
壱案はチョコレートタルトをほおばった。ちょっと洋酒が効いて
いて本当においしい。タルト生地にナッツが入っていて大変香ばし
い。追給もおいしそうに食べている。
﹁ケーキって甘いばっかりじゃないんだ、これブランデーが入って
るな、おいしいな﹂
﹁そうですね、実は私ここのお店も入っての初めてですけど、おい
しいですね﹂
﹁ああ、ぼくもはじめてだ。だけどここのならもう一個ケーキ食べ
れるかもな。太田さん甘いもの好き? ﹂
壱案は笑った。
﹁私の体型を見たらすぐにわかるでしょ。甘いものは大好きです。
ゑ無山さんにはブログでPIGって書かれてしまったけど、仕方な
いわね﹂
﹁あいつはそれしか太田さんのことを、悪く言えなかったんですよ。
女性に対してそういうことを書けるってのは人間としても最低です
371
が、ああいうのは相手にするだけ無駄ですから気にしないことです
ね﹂
﹁ゑ無山さんってお金があるのに、どうしてそういうことをするの
でしょうか﹂
﹁要はジコチューなんでしょ。ルーズな性格に加えて、督促を受け
たら自分が非難されたと思って逆上するんですよ﹂
﹁あきらめた方がいいのでしょうね﹂
﹁法的には強いのですが、詐害行為取消権の訴訟も大変ですし、労
力を考えたらとここでみんなはあきらめますね。ぼくらの会社もそ
うだし、他の家主さんもそうでした﹂
﹁ゑ無山一家はそれをわかっているんだから大したもんですね﹂
﹁そうだね、他人の恨みをかってまで贅沢したいんだ、それで平気
な人種なんだろうね﹂
﹁⋮⋮﹂
壱案はため息をついた。追給はティーをすすりながら壱案をじっ
と見た。
﹁太田さん、まだ日は高いし、せっかくの日曜日だし。実はぼく車
で来たんだ、これからどっか遊びに行かない? もしひまだったら、
の話しだけど﹂
壱案はびっくりした。
﹁ええ、いいですけど、どうせヒマだし。でも追給さんはいいんで
すか、ご家族は?﹂
﹁ぼくは独身だよ、君もでしょ? ⋮⋮ぼくとじゃあ、イヤですか。
カレシがいるならあきらめますけど﹂
﹁いえ、とんでもない。彼氏もいませんし。ありがとうございます﹂
追給はにっこりした。
壱案は胸がほっこりとしてきた。タルトの甘さとティーの香り高
さ、そして追給の笑顔。こんなに安堵したくつろいだ気分になった
のは久々だった。
そう、裁判は終わって一段落がついたのだ。ちょっとぐらい打ち
372
上げ、という感じでドライブもいいかもしれない。追給さんのこと
はよくは知らないけど、こういう展開になるとは思わなかったけど、
人生わからないものだし、ちょっとぐらいは遊びにいってもバチは
当らないだろう。
壱案は身支度をした。追給は車をとってくると言って、先にレシ
ートをとり会計をすませて外に出た。
意外な展開になったが、裁判の話しもここまですすんだし、今度
はちょっとぐらいは女性らしい話しもいいなあって思ったのだ。
完
373
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0766cf/
土地明け渡し・本人訴訟の裁判実録小説……万引きは犯罪。だが家賃滞納は犯
2014年8月18日20時09分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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