Bulletin LC 2011 vol. 3 - 国際言語文化研究科 - 名古屋大学

名古屋大学大学院国際言語文化研究科 年報 2011
vol.
3
名古屋大学大学院国際言語文化研究科年報 Bulletin L&C 2011 vol.3
contents
02
巻頭言 「「三」年目の正直」前野 みち子
03
特集:G30 比較言語文化コースの魅力を語る——座談会
イベント紹介
10
・台湾映画祭 + シンポジウム「侯孝賢の詩学と時間のプリズム」星野 幸代
11
・国際シンポジウム「試練と可能性のメディア:それでも君はジャーナリストを目指すか 」中村 登志哉
12
・国際シンポジウム「マイノリティ状況と共生言説 II」六鹿 桂子
著作紹介
13
・松岡光治編『ギャスケルで読むヴィクトリア朝前半の社会と文化』矢次 綾
14
・Franco Algieri, Arnold Kammel(Hrsg). Strukturen globeler Akteure: Eine Analyse ausgewaehlter Staaten,
Regionen und der EU 中村 登志哉
15
・星野幸代・洪郁如・薛化元・黄英哲編『可視と不可視の間 台湾映画表象の現在』星野 幸代
16
・金相美著『韓国における情報化と縁故主義の変容』金 相美
い ま
研究報告・近況報告
17
・「サダキチ・ハートマンを求めて 」田野 勲
18
・「アブハズ語調査から考えたこと 」柳沢 民雄
19
・「師弟から同僚へ 」奥田 智樹
20
・「フランス国立図書館蔵『酒飯論絵巻』について 」伊藤 信博
21
・「インターンシップは受け入れ企業の人間も成長させる 」磯野 正典
退任教員挨拶
せきしょう
22
・「「瀬田の夕照」を眺めつつ 」八幡 耕一
23
・「国際言語文化研究科での日々を振り返って 」川口 直巳
新任教員紹介
24
・“Time and Space” Mark Weeks
25
・「蔵書調査のタイム・スリップ」ディラン・ミギー
26
・「言葉で悩む? それとも楽しむ!」楊 韜
27
2011年度オープンキャンパス・ポスター発表
28
・「韓国人日本語学習者の日本語アクセントに現れる母語の影響」稲田 朋晃
29
・
「非母語話者日本語教師の学習ビリーフとメタ認知的知識の特徴 ―PAC 分析を利用したカンボジア人日本語教師の事例研究―」片桐 準二
30
・「なぜ『空薫』における欲望する女たちが欲望の主体になれなかったのか ―『空薫』と『そら炷 続編』論」韓 韡
31
・「日本語学習者の不同意表明 ―日本語熟達度と語用論的能力の関係を中心に―」ピナンソッティクン ポラニー
32
・「日韓二字漢語の動詞および形容詞化の対照 ―語彙資料としての提案―」朴 善
33
・「江戸前期治世の道における「諫言」について ―藩の家訓書を通して―」賴 鈺菁
34
・
「Janet March に見られる Floyd Dell の女性観」小林 亜由美
35
・「原風景としての異郷体験 ―安部公房の満州、リービ英雄の台湾―」張 雅婷
36
・「Multiple Layers of Everyday Life: The Cinema of Edward Yang」鄧 筠
37
・「パブリック・ビューイング現象に関する考察」西尾 祥子
38
・「Fanny Mendelssohn Hensel ―19 世紀ドイツにおいて何が女性作曲家の自立を妨げたか ?―」米澤 孝子
39
・「日本滞在期における梁啓超の研究」李 海
40
・「女性文学を取り入れた日本人大学生のための英語教材開発」野村 るみ子
41
2010 年度提出修士論文題目一覧
43
2010 年度提出博士論文題目一覧及び要旨
44
・「王安憶の都市小説 ―上海へのトポフィリア―」杉江 叔子
45
・「チベット族における一妻多夫婚の形成理由に関する考察 ―中国雲南省迪慶藏族自治州徳欽県での現地調査に基づいて―」六鹿 桂子
「三」年目の正直
前野 みち子
(国際言語文化研究科 研究科長)
「三」という数字にはふしぎな魔力があ
「三」年目は、言うまでもなく、研究科長に
こうして、
「始める 」こと、新たなスター
る。それはカバラ数秘学などを持ち出すま
着任してからの「三」年目なのだから、
「始
トを切ることへの反省が一旦始まると、そ
でもなく、昔話や諺に繰り返し現われる定
まる 」かもしれない展開を不条理演劇のよ
の実現の困難さをひしひしと思い知らされ
型的思考パターンであり、おそらくは人間
うにひたすら待ちのぞむのではなく、心し
る。もともとは国際化などとは縁遠い、国内
の根本的な生存条件が生んだ共通感覚とも
て、任務の自覚をもって、
「始める 」べきな
向き、内向きの人間である。世代のせいもあ
深く関わっているかもしれない。三段論法
のである。
るだろうが、少なくとも大学の三四年生に
も弁証法も「三」を基調としている。大前提
なにを今さら、という声が周囲から聞こ
なるまで、外国は自分がその地に降り立つ
から出発して推論する定式にも、正-反の
えてきそうな気もするが、ともかく、物語
ことなど想像もできない、遙か彼方の別世
対立から合を導き出す定式にも、なにか人
は自分で紡ぎ始めるしかない。これまでの
界だった。ミーハー的なレベルでの関心は
間的なリズムと躍動が感じられる。それは
日々、
「始める 」ことに無自覚に過ごしてき
大いにあったが、それはいつまでも文字と
肉体的な運動のリズムとも呼応しており、
た二拍子の日常を脱けだして、足どり軽く、
写真(映像)だけが伝えてくれる世界のまま
一、二、三というかけ声や、ホップ、ステッ
三拍子のリズミカルで動的な世界へと踏み
で、古い小説に感じる確かなリアリティの
プ、ジャンプの三段跳び、そしてワルツの
入らなければならない。つまり、わたしの
ように、自分自身の現実ではない、現実であ
三拍子など、
「三」と関わる行為においては、
「三」年目とは、これまでできなかったこと
りようはずがない、と頭の片隅でいつも意
吸ったり吐いたりの呼吸に典型的な二拍子
を踏まえての、
「三」度目の正直なのである。
識しながら、それでも体ごと引き込まれる
の日常性と異なる、なにかしら自覚的な展
「三」年目にしてようやく本来あるべきス
ような四次元空間だった。
開や覚醒が目ざされている。
「三」番目、
「三」
タートラインに立った、立つことができた、
そんな若い頃から現在までの、かつては
回目に、さあ、いざっ、となにかが始まるに
ということなのかもしれない。では、なにに
予想もしなかった、そして今なお不可思議
しても、穏やかな、あるいは意表を突いた
向かってのスタートなのか。澄ました顔で
さを伴う世界のグローバルな展開を、確か
結末や結論、成果がもたらされるにしても、
公式に答えるならば、研究科の国際的な発
な 目 で 自 覚 的 に 捉 え な お す こ と、そ れ が
展を目ざしてのスタート。内心の声に正直
「三」年目に入った自分に言い聞かせている
歴とその更なる発展の可能性を秘めている。
に耳を傾けるならば、自分自身の発想の転
課題である。これまでのわたしは、研究科に
そう、秘めているはずなのである。
換を求めての、
「内」から「外」へ向かっての
学生を受け入れて教育することだけを念頭
それなのに、研究科長歴「三」年目も半ば
スタート。
においてきた。その内向きのエネルギーを、
に入ったわたしには、ふりかえってみても、
研究科長という危うくも覚束ない存在(あ
今や世界の大学・研究機関で教育・研究に
物語といえる物語も心おどる展開もない。
くまでも自身に即しての話です )は、それに
従事している、あるいは広く国内外で活躍
それどころかその展望すらもない、という
もかかわらず、研究科の外向けのイメージと
している多くの修了生たちにも振り向けて、
のはどうしたことか。
否応なしに結びつけられる。実際、好むと好
組織的で実質的なネットワーク構築を目
一年目はあたふたと日々の慣れない仕事
まざるにかかわらず、わたしはいまや毎日冷
ざすこと、在学生-修了生-教員のエネル
を日常化することで過ぎ去った。二年目に
や汗を流しながら、これまであまり意識して
ギーの集約と循環作用から、環境にやさし
入って少し落ち着いて周囲を見まわすこと
こなかった自分の外向けの顔を、研究科の
い有機土壌を作り出し、そこに大輪の花を
もできるようになったが、それも日々の仕
外顔に合わせて作り整える必要に迫られて
咲かせること……にわかエコ研究科長はそ
事に追われる日常のなかのわずかな余裕に
いる。というのも、わが「国際」言語文化研
のための具体的方策をあれこれ考えながら、
過ぎなかった。そもそも着任の原点で、み
究科はその設立当初から、国際化しグロー
見果てぬ夢を紡ぎ「始め 」ている。
ずからに課題を設け、その実現のためにス
バル化する現代社会で活躍できる、言語と
「そんな悠長な思案をしてるうちに、じき
タートを切ったわけではなかった。課題は
文化を基盤とする「国際人」の養成を宣言
に四年目に突入してまた吸ったり吐いたり、
すでに山のように眼前にあふれ、走りなが
してきたのだから。その上さらに、Nagoya
単純で日常的な二拍子を二回繰り返したら
ら考えるしかなかった、と思う。だから、わ
University への変身をめざす現今のわが名
もう任期満了、ってことになるに決まって
たしの「三」年目は、一年目と二年目をベー
古屋大学は、このような研究科の外向けの
る 」。誰ですか、そんな意地悪を言うのは?
「三」という数字はストーリーを、物語の履
・
・
スにしての展開ではありえず、いま、ここ、
顔が真実そのままの素顔でもあることを、
からしか始まりようがない。そして、この
日々いや増しに求めているからである。
2
特集
G 30比較言語文化コースの
魅力を語る——座談会
エドワード・へイグ
長畑 明利
G30 比較言語文化コース長
前野 みち子
国際言語文化研究科長
国際多元文化専攻
メディアプロフェッショナル論講座准教授
村尾 玲美
ディラン・ミギー
G30 比較言語文化コース特任准教授
国際多元文化専攻
アメリカ言語文化講座准教授
2011 年 10 月、これまで実施してきた質の高い教育を留学生にもより広く提供し、国際的に活躍できる人材を育
成するため、名古屋大学は外国人留学生及び帰国子女生を対象とした国際プログラム(Global 30 International
Programs)を開設します。国際言語文化研究科でも、大学院プログラムとして「比較言語文化コース」を設置し、今秋新
入生を迎えます。今回の L&C 巻頭企画では、このプログラムに参加する教員が集まり、その魅力について語りました。
長畑:お忙しいなか先生方に集まっていた
言文のアピールポイントとして、
「国際」と
ということなんですが、名古屋大学ではそ
だきました。今年の 10 月からいよいよ G30
いう名称がついてるということもあります
れぞれの大学院や学部に、英語プログラム
の英語コース(比較言語文化コース)が始ま
ので、やはり英語の授業がもっと増えるこ
を出すかどうか打診がありました。2 年前
るわけですけれども、今日は、そのプログラ
とが望ましいというような話をうかがって
に私が研究科長になって間もなくだったん
ム開始に先立って、授業を担当する何人か
いたこととも関係しています。その後、名古
ですけれども、そういう話が来ました。そこ
の先生と研究科長においでいただいて、プ
屋大学の国際化に関して、毎年、各研究科で
で、長畑さんとも相談して、やりましょうと
ログラムの魅力について大いに語っていた
いくつぐらいの授業が英語で行われている
いうことになり、英語で授業をしてくださ
だきたいというふうに思っています。この
かというような調査がありまして、それで
る方に手を挙げていただいたんですね。こ
英語コースというのは、英語だけで 30 単位
うちの研究科はもちろん英語のネイティブ・
れは教員全員にメールを出しまして、そう
を取得して修士論文を書き、修士号を取得
スピーカーの先生方がいらっしゃって、そ
したら、こちらから依頼するのではなく、そ
することができるというプログラムなんで
の先生方が大学院の授業を英語でやって下
ういうふうに手を挙げていただくという形
すけれども、まずはこのプログラムができ
さっているんですが、そういう授業をシス
るに至った経緯について、研究科長に少し
テム化するような試みはまだなかったんで
をとったにもかかわらず、すぐに一つのプ
ログラムが——つまり英語だけで 30 単位を
お話ししていただければと思います。
すね。それで、日本全体でも国際化国際化と
取得して修士論文を書くんですけれども、
前野:10 年ぐらい前に、たしか将来計画委
いうふうに言い出して、留学生 30 万人計画
員会で長畑先生とお隣になった時に、私の
という政府の計画も打ち出されて、2009 年
その 30 単位を取らせるためには、一定の授
業数がなくちゃいけないわけです ——そう
方から「国際言文で英語の授業を増やすと
には、Global 30 という言い方で、そういう
いうのができそうだなというぐらいの方が
いうか、そういうような計画ってあります
ような国際化の拠点になる大学に政府が肝
手を挙げてくださったので、あ、これはい
か?」と聞いたことがあるんですね。で、そ
煎りで予算をつけるということになりまし
けそうだ、ということで早速本部の方に申
れは当時の研究科長の平井先生から、国際
た。英語のプログラムを各大学ごとに出す、
し出て、それであっという間に決まってし
3
● 特集 ● G 30比較言語文化コースの魅力を語る——座談会
言語を研究することができる、そういう比
較言語文化コースというのが出来たわけで
すね。この 10 月から実際に授業を開始し、
入ってくる学生は研究を開始するわけです
けれども、このプログラムにどういう魅力
があるのかを先生方に語っていただければ
と思います。ヘイグ先生、どうでしょうか
ね?
ヘイグ:プログラムの魅力の前に、名古屋
の魅力についてお話しさせていただきます
と、われわれが立ち上げているプログラム
と似たようなプログラムは日本のいくつ
かの大学にあって、もうすでに九州大学の
Global 30 program は始まっているし、これ
から導入する大学もあるのですが、名古屋
大学、特に名古屋大学の国際言語文化研究
科のこのプログラムが導入されるメリット
をお話ししたいと思います。私は 21 年間名
古屋に住んでいます。この街は東京や大阪
のように大都市ではなく、小さすぎるとい
うこともない。交通は非常に便利ですし、日
本の真ん中に位置するため、東京や大阪へ
まった、ということでした。ですから、機が
まだ大分先だなと思っているうちにこの 10
は簡単に行けます。住みやすくて、便利で、
熟していた、ということもありますし、それ
月から始めることになった、という、そうい
比較的街に多くの緑が残されています。名
から国際言語文化研究科という名前をつけ
う次第ですね。
古屋大学の東山キャンパスには雑木林が残
て、そういう人材を育成するとしていた研
長畑:ありがとうございました。国際化は
されていますよね。それから、具体的な数字
究科の目的に則して考えるならば、やはり
今、必ずしも英語だけで進めていかなけれ
は分かりませんが、名古屋大学は日本の大
これは参加すべきだというところもありま
ばいけないということではなくて、国際言
学の中でも留学生受け入れランキングが上
した。それともう一つは、実際にそういうふ
語文化研究科も、英語以外の外国語、外国文
位にあり、実際、キャンパス内に非常に多く
うに、参加する部局に対して、そのプログラ
学・文化あるいは社会を研究されている方
の留学生を見かけます。
ムに必要な外国人教員を一人本部の方でつ
も多いですし、教育も行われているわけで
前野:10 年ぐらい前は 2 位だったんですよ。
けてくださるという、そういう話も魅力的
すけれども、日本以外の大学と様々なこと
ヘイグ:2 位だったんですね。
だったんですね。それで来ていただいたの
を共通にして、グローバルな視点で研究・
前野:今はちょっと落ちてきてますけどね。
がミギー先生なんですけれども。私たちの
教育をやっていく、そういうプログラムが
ヘイグ:そうですか、でも多いですよね。
研究科には二つの専攻、日本言語文化専攻
国際言語文化研究科の中にもあっていいで
で、私はロンドン大学出身ですが、どの授
と国際多元文化専攻がありますが、英語で
しょうし、名古屋大学をはじめとする日本
業においてもたくさんの様々な国籍の人と
授業ができる方は圧倒的に国際多元文化専
各地の大学にそういうプログラムがあって
一緒に勉強してきました。非常に国際的な
攻の方に多いわけです。ですけれども、外国
もいいというふうにも思います。そういう
環境でした。来日してはじめに受けた印象
人留学生を英語で教育するというプログラ
ことを念頭に、おそらく 10 年ほど前に当時
は、そのロンドンと比較すると日本の大学
ムの場合には、やはり外から日本に目を向
の平井研究科長が「英語で行うコースをやっ
は monocultural で、閉鎖的な雰囲気を感じ
けるときに全体として日本研究というもの
てみないかね 」というようなことを言われ
ました。でも名古屋大学は全然そうじゃな
がアピールできるようなプログラムの魅力
たのだと思います。そのときはできなかっ
いです。本当にたくさんの留学生が日本人
というのを作らないといけない。今、日言文
たんですけれども、そういう声が当時の研
の学生と交流する場がキャンパス内にいく
の言語の方では英語で授業ができる、つま
究科長から出たということも、大学の国際
つもあります。たとえば最近リフォームさ
り日本語を教育するとか日本語の言語学的
化、研究の国際化ということに鑑みてのこ
れた立派な「嚶鳴館」という国際レジデンス
なアプローチというような分野では、英語
とだったんだろうなというふうに思います。
があります。そこでは日本人の学生と留学
で対応できる先生方がいらっしゃるんです
それが 10 年ぐらい経って、国の方もいろん
生が一緒に住んでいて、毎月、多いときは毎
が、文化の方で英語で本当に日本について
な方針を出してきて、名古屋大学全体もそ
週、スポーツ大会などのイベントを通して
アピールできるような方が足りないという、
ういう方針を出してきて、それに呼応する
国際交流が行われています。ですから、名古
いないわけではないけれども足りない、と
ような形で、もともと国際言語文化研究科
屋大学の特徴の一つとして、留学生が大い
いうところがありまして、それではぜひそ
の中にあった国際化の意志というようなも
に歓迎されていることが挙げられると思い
ういうことができる方に来ていただきたい
のがこういう形で実現したのだろうと思い
ます。国際言語文化研究科もまさにそうい
なと考えました。そういう人事も含めて、大
ます。そのような経緯で、日本のことを研
う環境だと思います。学生の半数は留学生
体のコンセプトがあっという間に決まりま
究・教育する、そして同時に比較という視
ですし、かなり国際的な環境が出来ている
して、それから先生方のご協力を得て、まぁ
点をもって世界という視野でも文化や社会、
なと感じています。
4
このプログラム自体に焦点を絞ってお
を担当されます。自分たちの実務経験と理
村尾:言語系のコースなんですけど、5 人の
話しさせていただきますと、基本的に言語
論的な面をあわせて授業を行うことが出来
教員がいます。この言語系コースの魅力の
系コースと、文化社会系のコースの二つの
るので、非常に価値があると思います。
一つというのは、やはり強い教授陣かなと
コースが設けられています。それについて
長畑:今ヘイグ先生が言われたように、こ
のコースは文化社会系 —— 文化系とわれわ
いうふうに私は思っています、私以外なん
は他の先生たちがより詳しく説明してくれ
ですけれども(笑)。本当に国際的に活躍さ
るでしょうけれども、私自身は国際言語文
れは呼んでいるんですけれども ——のセク
れている先生方が揃っていまして、皆さん
化研究科の中でメディアプロフェッショナ
ションとそれから言語系のセクションの
一流の国際誌にばんばん論文を掲載されて
ル・コースに所属しているので、Global 30
二つに分かれるわけですけれども、文化系
います。日本にいて日本の学生または日本
のプログラムでもメディアについて担当さ
で教えられる先生の何人かは、もともとメ
語が話せる学生だけに教えている、知恵を
せていただくことになっています。メディ
ディアを専門とされていて、今ヘイグ先生
教授しているのがもったいないなと思うぐ
アは言語系と文化社会系の両方にまたがっ
が言われたように、メディアを考える上で
らいです。ですから、今回この英語コース
ているという感じがします。ですから、メ
は、言語の方にももちろんまたがって考え
が出来まして、海外からの優秀な学生が入
ディアはこのプログラムの第 3 番目の柱の
ていくことが出来るでしょうし、それから
学することによって、こうしたすばらしい
ような感じがします。このプログラムは教
文化社会の方には当然密接なつながりがあ
先生たちの知恵をどんどん海外にも出して
授群が合計 20 名、その 20 名の中で私と同じ
る。そういう領域なので、両方にまたがるよ
いけるのはすごくいいなと思っています。5
ようにメディアプロフェッショナル・コー
うな形で勉強していってもらうということ
人いると今言いましたけれど、その 5 人の
スに所属している先生は合計 4 名です。中
になるだろうということですね。関連して
分野のバランスが非常によくとれていると
村先生、河村先生、池側先生とヘイグです
言えば、このプログラムの一つの特徴は、授
思います。言語類型論がご専門の堀江先生
ね。メディアプロフェッショナル・コース
業選択が比較的自由であるということで、
は、日本語・英語だけではなく、世界中の言
の宣伝になるかもしれませんが、メディア
言語の方が主たる専門であっても、文化社
語の類型論的な言語の構造に非常に詳しい
プロフェッショナル・コースの特徴は、そ
会の方の授業をとることも出来ますし、も
先生なので、まさにこの比較言語コースに
のコースに所属している先生たちの一部に、
ちろん逆も出来るわけです。また、それだけ
ふさわしいなと思います。モリタ先生は社
実務経験の豊かさを持っている先生方がお
ではなくて、日本語の能力がある程度高い
会言語学ですし、玉岡先生は心理言語学の
られるということです。特に中村先生と河
場合は、このプログラム以外の日本語で開
方なので、心理言語学と社会言語学の両方
村先生は優秀なジャーナリストとしての業
講されている授業を受講することもできる
を押さえていますし、稲垣先生は第二言語
績・職歴をたくさんお持ちの上でメディア
わけですね。この研究科全体にも言えるこ
習得論の中でも普遍文法、言語理論をベー
プロフェッショナル・コースの教員になっ
とですけれども、そういう授業選択の自由
スとした研究をされており、さまざまな言
てくださっています。academic なノウハウ
度というのは、このプログラムの特徴の一
語に対応していらっしゃいます。私は第二
と実務のノウハウが融合して両立する先生
つだろうと思います。
言語習得研究なんですけれども、どちらか
たちが Global 30 コースの授業も担当するこ
言語系の方も充実した先生方がおられる
というと英語教育寄りで、もう少し教育的
とになったのです。河村先生は History of
んですけれども、どんな特徴や魅力がある
なこともできるということです。あと、ヘイ
Broadcasting(比較放送史)という授業を、
か、教えていただけますか。村尾先生、お願
グ先生は文化系と言語系と両方にまたがっ
中村先生はメディアと政治についての授業
いします。
ていらっしゃるオールマイティな先生です。
5
● 特集 ● G 30比較言語文化コースの魅力を語る——座談会
Comparative Approach to Media Discourse
を、私もちょうど言わなくちゃいけないな
グラムはすごく刺激的なものになるんじゃ
という授業で、ディスコース(談話)という
と 思 っ て い ま し た。Global 30 の 最 初 の 計
ないかと私も思っています。
また別の分野を教えてくださるということ
画が出た時にはそんなに言われてなかった
長畑:村尾先生は名古屋のご出身で、名古
です。このように、5 人いて、5 人がそれぞれ
んですけど、去年仕分けってありましたよ
屋のことはお詳しいんですけれども、ヘイ
得意とする分野が少しずつ違う、しかし非
ね。あそこで問題になったのは、拠点になる
グ先生が言われた名古屋の魅力に加えて、
常にグローバルで、なかなかバランスがと
大学だけが恩恵を受けるんじゃなくて、日
何かありますか?
れていると思います。
本全体の国際化に貢献するような形でなく
村尾:そうですね、ずっと名古屋にいると、
第二言語習得というと、日本語の習得や
ちゃいけないということが一つでした。そ
かえって名古屋のよさが分からなくなって
英語の習得といった具合に、特定の言語を
れからもう一つは、留学生を受け入れるこ
しまうことが結構あって、一度外に出ると、
対象にする場合もあるんですけれども、こ
とによって日本の学生が国際化するという
名古屋のよさが分かったりしますよね、お
の比較言語コースにいらっしゃる先生たち
ことがすごく大事な点で、そこのところに
そらく。私は東京に住んでいたことがある
は皆さん、さまざまな言語に対応ができる
もちゃんと焦点を当てるような形でお金を
のですが、東京は広すぎてどこへ行くにも
という点ですばらしいなと思います。今度
使いなさいという、そういう修正が入った
時間がかかり、また混雑していました。その
言語系で入ってくる学生さんや、来年度の
んですね。ただ、もちろん名古屋大学ではそ
点名古屋は 30 分もあれば地下鉄ですぐ移動
受験に関してコンタクトのある何人かの学
のことはもともと考えていたんです。名古
できますし、人ごみに悩まされることもあ
生さんの、それぞれの方のバックグラウン
屋の学生は大人しくて閉鎖的で、外に出な
まりありません。栄か名駅(名古屋駅)に行
ドを見ても、さまざまな言語が話せる、4 カ
さいと言っても出ないと言われていたので、
けば必要なものはすべて揃うと思います。
国語ぐらい話せるという方が結構いらっ
学内の日本人学生と留学生を完全にミック
長畑:私、今インドからお客さんが来てい
しゃいます。そのことは今いる日本の学生
スしてしまって、いやでも外国人と接して
てずっと案内してるんですけど、彼女に言
にとって大いに刺激になるんじゃないかな
コミュニケーションをとらなくちゃいけな
わせると、名古屋は食べ物が面白いと。
というふうに思っています。入ってきてく
い状況を積極的に作っていこう、優秀な学
前野:「面白い 」?
ださる学生さんに対する教育だけではもち
生を入れることによって今までの学生のレ
長畑:特徴のある食べ物が多いと。Nagoya-
ろんなくて、今いる院生のレベルアップと
ベルをより一層上げていこうということ
cuisine って言ってて、大変面白いと。他にも
いうものも私は実は期待しているんですね。
を、最初から目指していたんですね。ですか
いろいろあるけれど、特に印象深いのは食
すごく刺激になると思うんです、交流する
ら村尾先生がおっしゃってくださったこと
べ物だと言っていました。おいおいまた先
ことによって。今いる院生たちの意識がず
は、まさしくそのぴったりの内容なんです
生方には街の魅力も…
いぶん変わると思いますし、授業でも活発
ね。今まで留学生でも漢字圏の留学生がと
前野:この規模の街にしては物価が安いで
にディスカッションができるようになるよ
ても多くて、日本語が非常に達者な学生は
すよね。
うな気がするので、その点が大いに期待し
実に多いんですけれども、単に東アジアの
ヘイグ:家賃とかね。
ているところですね。
コミュニケーションだけではなくて、それ
前野:東京、京都とかと比べるとやっぱり
前野:今の村尾先生のおっしゃったこと
をもっと広げていくという点で、このプロ
生活にすごく便利で、それは物価が安いと
いうこともあって、留学生に向いてますよ
ね。
長畑:大体何でも揃ってて、ちょっと物価
が安くて、住みやすい。住みやすいというの
は、名古屋についてよく言われることなん
でしょうかね。それから、名古屋の周辺には
自然が豊かな場所がいろいろあって。
前野:そうですね。
長畑:名古屋からちょっと出かけていって、
いろんなところに行ける面があるのと、そ
れから近くに豊田という産業都市があって
ですね、その関係のモーター文化というか、
そういうものに魅了される人も結構いるよ
うですね。
今、言語系のお話をしていただきました
けれども、文化系と呼んでいるところでは、
日本を中心に授業を担当していただく先生
方のグループと、そちらも含めながら比較
という視点でグローバルな文化の展開、社
会の展開というようなことを授業でお話し
される先生方とがいるわけですけれども、
日本の方ですとたとえば、16 世紀からの日
本の文化史を概説される水戸先生、比較文
化・医学史がご専門で、特に病気といった
6
テーマで日本のことを語る福田先生、政治
理論がご専門で、近現代の日本の哲学的背
景について講義される布施先生、批評理論
やジェンダー、セクシュアリティ、それに
加えてポピュラーカルチャーも教えられる
松下先生、ご専門の地図学をベースにして
日本と海外の文化について講義されるポッ
ター先生、それから今回新たに名古屋大学
に来ていただいたミギー先生がおられるわ
けですね。日本研究、比較文学、文化研究を
中心に教えていただくことになっています
が、ミギー先生ご自身はこのプログラムで
どんな授業を担当して、学生にどんなこと
を期待しているか、お話しいただけますか。
ミギー:この度、名古屋大学の比較言語文
化コースの授業を担当することになり、た
いへんありがたく思います。今まではアメ
リカの大学で日本研究の授業を担当してい
たんですが、学生はすごく日本の文化(特に
漫画とアニメ)に興味があって熱心だった
んですが、海外で日本の文化について教え
る教師としては、やはり限られたこともあ
りました。しかし今回は、名古屋大学で授業
活動にも参加してほしいです。この間地下
ピックは「グローバル化とアメリカ研究の
を担当するということで、学生の日本文化
鉄の駅で、大きな弓を持っている留学生を
行方」というものでした。アメリカ研究とい
に対する理解と鑑賞をもっと深めることが
見ました。もしかしたら弓道部の人なのか
うのは基本的にはアメリカについて研究す
できると思います。例えば、来学期、
『源氏
もしれない。そういうことも一生に一度の
るものなんですけど、近年は、単にアメリカ
物語』を教える予定なんですけれども、今ま
チャンスですから、日本の文化・芸術に興
国内だけでなく、アメリカの外の文脈や外
で『源氏』を教えた時と違って、今回は本物
味のある人はぜひサークル活動に参加して
からの視点を取り入れて研究をする傾向が
の『源氏物語』の絵巻を紹介することができ
ほしいと思います。
出てきています。そうしますと、必然的に、
ます。今年の秋、徳川美術館で「源氏物語絵
長畑:そうですね、日本の学生と大いに交
比較的な視点が採り入れられることになり、
巻」の現存している部分が全部(徳川美術館
流してほしいですね。プログラムの紹介に
今回の基調講演にもそうした比較的な視点
と東京の五島美術館に所蔵されているもの
戻りますけど、文化系のグローバルという
からアメリカを論じるものがありました。
を合わせて )展示されるので、授業で『源氏
方のセクションにも、やっぱり色んな面白
また、参加した大学院生の発表にも比較的
物語』を読んだ後、本物を見に行けます。教
い先生がいます。笑いとか遊戯とか遊びと
な視点からアメリカについて語るものが多
師の夢みたいです。名古屋だけでそういう
いった視点から文化や哲学を一国だけでは
くありました。私はこの G30 のプログラム
ことができるんです。近くにある日本の文
なく複数の言語圏にわたって研究している
でも、そうした比較的な視点を取り入れつ
化財をいつでも見ることができるというメ
ウィークス先生がおられますし、それから
つ文学や文化や社会を語ることができると
リットをできるだけ生かしながら、より面
元々は近現代日本文学がご専門なんですけ
いいなと思っています。そういう時代にも
白い授業をしたいと思います。
れど、英語コースではアニメーション、特
う入っているのかもしれません。実際、
「名
日本の文化・歴史・社会・言語などにつ
に世界の芸術アニメーションに焦点をあて
古屋アメリカ研究夏期セミナー」では、これ
いて研究したい人でしたら、特にこういう
て授業をされる涌井先生、それから英文学
からアメリカ研究をやる人は最低 3 ヶ国語
分野で修士号を取得することを目指してい
をバックグラウンドとされる方ですが、検
ができないとだめだと言う先生もいました
る人でしたら、日本の大学で研究する価値
閲というキーワードでもって比較文学的な
し、一国、一言語でその研究をする時代では
があるでしょう。今までは日本語で教えら
視点から文学・文化を論じられる上原先生、
なくなってきているのかなというふうに思
れるプログラムの学生になるしか道がな
それから私はアメリカ文学が専門なんです
いました。それから、それとは別に、名古屋
かったんですが、G30 の場合、英語で授業を
けど、比較的な視点を踏まえて、特に 20 世
アメリカンセンターというところにサマー
受けたり、英語で修士論文を書くことがで
紀初めのモダニズム文学や芸術思潮を中心
インターンとしてアメリカの大学から来て
きます。英語の授業を受講しつつ、一方、日
に授業を行う予定です。
いる学部生がいるんですけれど、せっかく
本語の授業で日本語能力を高めながら研究
ちょっと話が逸れますが、先週の終りか
だからということで先日私の授業に来ても
を進めることができますので、すごくいい
ら今週にかけて「名古屋アメリカ研究夏季
らってお話をしてもらいました。その学生
チャンスだと思います。
セミナー」というものがありました。海外か
は多分アメリカの学生としては例外的な人
あと、学生生活についてひとこと話して
ら基調講演をされる先生を呼び、アメリカ
だと思うんですけど、非常に多くの言語に
いいですか。海外から来る留学生には、でき
と日本と環太平洋地域の大学院生を集めて、
興味を持っていて、父親がポルトガル系と
るだけ自分の国の仲間だけでなく、日本の
特定のトピックについてディスカッション
いうこともあって、ポルトガル語がニアネ
学生とも交流してほしいですね。いろんな
をするという催しなんですけど、今年のト
イティヴ、高校でスペイン語を学び、大学で
7
● 特集 ● G 30比較言語文化コースの魅力を語る——座談会
は日本語と韓国語を学んでいる。今、サマー
います。伝統的な内容に加えて、現代の漫画
南部生協の食堂でお昼ご飯を一緒に食べた
インターンとして日本で働いていて、秋か
の話もして頂けますし、さきほど出た『源氏
んですが、担々麺がうまいと言ってました。
らは韓国に留学するという人なんですね。
物語』の話もしてくれるという、そういう時
アメリカの大学のカフェテリアはピンから
アメリカ人は伝統的に外国語ができないと
代のスパンが長いっていうのもありますね。
キリまであって、おいしい所はすごくおい
言われているんですけど、そうでない学生
あと入試方法が日本の伝統的なものと違い、
しいんですけれど、彼女に言わせるとたい
がだんだん増えてきているのかなという印
書類審査と面接ですね。
ていはまずいんだそうです。私が留学して
象を持ちました。日本でもだんだんそうい
う風に ——まあ英語ひとつ習得するのに四
ヘイグ:面接は、海外居住の学生にスカイ
たときもすごくまずかった。それに比べる
プを使用できる環境があれば、日本に来る
と、ここの大学のカフェテリアはかなりな
苦八苦しているという面もありますけれど
も —— 母語の日本語をベースとしつつ、そ
ことなく面接試験を受験できるのですよね。
ものだと。実際キレイになりましたね。
長畑:そうですね、入試のときに名古屋に
前野:すごくキレイになったし、メニュー
わざわざ来る必要がない。それもこのプロ
も学生の希望を聞いてるんですよ。
それを私は「ジャパニーズプラス」と言って
いるんですけれど ——ジャパニーズだけで
グラムの魅力かもしれません。あと、10 月
ヘイグ:例えばハラール(halal)のメニュー
入学ですね。
があり、メニュー表にはわかりやすいよう
はダメで、それに加えたプラスの部分で、共
前野:そうですね。海外の方もブランクを
に「印」がついている。
通点のある人と語り合ったり、一緒になっ
置かずに割とスムーズにこちらに来られる。
長畑:そういう対応も進んでいるので、ア
てやっていくという世の中になっていくの
中国の大学も始まるのは 9 月で卒業は 7 月で
メニティという面でもよくやっているの
ではないかと思います。研究上も学問上も
すからね。
じゃないですかね。
そういう状況を見据えたプログラムが日本
長畑:それから少人数教育であるというこ
ヘイグ:あとはアカデミックな面で留学生
でも進展していけばいいと思いますし、こ
ともありますね。大きなプログラムではな
を支援することを考えると、アカデミック・
のプログラムはまさにそういうプログラム
いので学生数が少ない。それに対して、関係
ライティング支援室…
になっているんじゃないかと思います。こ
する教員の数は比較的多い。教員と学生と
前野:支援室ではなく、ライティングセン
のプログラムには、海外の文化や社会を研
の距離が割合近い、そういうプログラムだ
ター、Mei-Writing と呼んでますが。もちろ
究しておられる先生も、日本のことを専門
と思います。
んあそこは留学生も大丈夫です。
に研究しておられる先生もいます。日本が
ヘイグ:そうですね、統計的な数字は出て
ヘイグ:ええ、このプログラムでは授業は
専門の先生も海外のことにも目を向けてお
ないですが、教員と学生との人数のバラン
基本的に全部英語で行われ、あるレベルの
られる先生が多く、また、ひとつの領域に
ス が い い の も 魅 力 の 一 つ で す。毎 年 若 干
名—— 5、6 人でしょうか——を受け入れて、
英語能力が入学の基準のひとつになってい
閉じこもるのではなくて、複数の領域に携
わっておられる先生が多いと思います。母
それに対して 20 人ぐらいの教員がいる。
カーでなければ入学できないわけではない
語プラスアルファ、つまり、英語コースだけ
長畑:それに加えて、授業を担当しない先
んです。英語の母語話者ではない方は、入学
れどもイングリッシュだけではなくてイン
生 に も 協 力 し て も ら え る と 思 い ま す。あ
後も、英語について…
グリッシュプラス、あるいは中国から来る
とこの国際言語文化研究科だけではなく、
長畑:そうですね、英語による文章・論文
人であれば、チャイニーズプラスのプラス
キャンパス全体が、今名古屋大学全体で、留
の書き方を学ぶ授業を必修でプログラム内
の部分が英語になっているというような意
学生が学習しやすい環境を整えようとして
に設けています。それに加えて、名古屋大学
識でやっていってもらえるといいかなと思
いますので、建物も新しくなっていますし、
教養教育院にも留学生と日本人を対象にし
いますけどね。
図書館や事務も英語の対応が少しずつ進ん
たライティングセンター(Mei-Writing)と
この英語コースのそれぞれのセクション
でいます。
いう組織があるわけです。ライティングと
を紹介してもらいましたけれども、最初の
ヘイグ:耐震工事も。
プレゼンテーションの仕方について大学院
話に戻りまして、このプログラムの魅力に
長畑:耐震工事もなされていると思います。
共通授業とチュートリアルを提供している
ついてさらに付け加えていただければと思
たまたま先ほど触れたアメリカの留学生と
んですね。
れにプラスして外国語を習得していく ——
8
ますが、必ずしも英語のネイティブ・スピー
たらいいなと思います。
長畑:ほかに何か補足することはあります
か?
ヘイグ:対象となる学生に関してですが、
今年度の受験生を見ると、外国から応募し
てくださった学生ももちろんいますが、で
も日本国内から応募された方もいました。
それから、進路についてですが、このプログ
ラムで得た知識とか経験を得て、将来どの
道に進みたいかと考える時期が来たとき、
その後さらに研究していきたい場合には、
何らかのかたちで後期課程に進学できるで
しょうか。
前野:それは考えていきたいですね、積極
的に。そうしないと中途半端になってしま
う の で。日 本 の い ろ い ろ な 面 を た く さ ん
前野:ライティングセンターには、サマー
と、すっと、こう。留学生も、長期の休みに
知ったことで、前期課程修了の時点でも活
キャンプもありますよ。あと、日本語を勉強
はすっと帰る。そういう身軽さというのか
かし方ってあると思うんですけど、専門的
したいという学生さんには留学生センターが
な、国境に対する意識というのがかなり今
にやろうと思ったら、やはり博士まで必要
対応していますので、そこの授業を受けて、
違ってきていると感じますね。特に東アジ
ですよね。どういう風にすれば良いかとい
特に日本研究をするんだったら、是非日本語
アは今そういう感じが強い。海外の学会に
うことを考える必要はありますよね。
の力もアップさせてほしいと思います。
行っても大学院生がよく来ていて、日本や
長畑:通訳とか翻訳家になりたいなど、修
ミギー:修士課程の学生には一人一人に必
あるいは中国の学生が非常に増えている
士を出てそういう仕事につきたいというよ
ず指導教員がつきますので助かりますよね。
という印象があります。このプログラムも
うな人ももちろん対応可能ですね。それと
指導教員が研究と連携していて、定期的に
そういう新しい研究者、大学院生の意識に
は別にもちろんアカデミックな道、後期課
研究相談があるので、それも大きなメリッ
合ったものになっていくんじゃないかな
程に進んでいくのも大いに歓迎です。
トだと思います。
と思います。海外のプログラムとのコラボ
前野:学部では得られない内容の知識を修
長畑:そうですね。この研究科は基本的には.
.
.
レーションもやろうと思えばできるように
前野:そうですよね、研究科全体が…
なっていくと思いますし、いろいろなこと
士課程で習得して、それを職業に活かして
いく ——このプログラムの内容もそういう
長畑:学生指導を熱心にやるような研究科
がこのプログラムをベースにして、また、研
希望に添うようなものにしたいし、ここで
になっていると思いますけどね。
究科全体としても、今後動いていくんじゃ
勉強する人たちにはそうしたものを身につ
ヘイグ:この研究科の教員のほとんどが学
ないかなと思います。そういう意味では仕
けて、それを活かしてそれぞれの目指す職
部生の教養教育の言語科目を担当していま
事は大変かもしれませんが、可能性を秘め
業についてほしいなと本当に思っています。
すので、この国際言語文化研究科の本当の
ている分楽しみだなと思います。
これまでの英語対応でないコースにも、メ
特徴は、研究だけではなくて教育にも熱心
前野:今海外の大学とのプログラムという
ディアプロフェッショナル・コースと英語
であることだと思います。
お話をされましたけれども、すでに留学生
高度専門職業人コースというものがあって、
ミギー:あとは自由ですね。普通の伝統的
の方にはここで学位を取って、まあ博士の
対応はしてきてますけれど、この英語プロ
なコースよりも多岐にわたって、いろんな
学位ですけど、帰国して教員になるケース
グラムでも是非そういう方たちにも来て頂
ことができる。あながち日本だけじゃなく
がとても多いですね。だからすでに、特に東
いて、日本での 2 年間の勉強を活かした職業
て、結核の歴史を研究したいと思ったら福
アジア圏の中では、いろいろな大学で教員
についてほしいですね。例えば、自分の国の
田先生とともにそれを研究できるし、長畑
をやっている人たちがいて、そこの大学と
日本企業に就職するという場合も、やはり
先生のモダニズムの授業とか、本当にいろ
うちの研究科でということがすでに起り始
単に合弁会社とかそういうところにすぐに
んな分野、授業を受けられる自由があって、
めています。この流れはやはり私たち積極
ついてしまうというよりも、日本に実際に 2
好奇心を育成するような所だと思う。
的に作っていきたいなと思いますので、比
年間滞在してこういう所で勉強するという
村尾:先ほど長畑先生がおっしゃっていた
較言語文化コースで学んだ学生もその先の
のはすごく大きな蓄積だと思うんですよね。
ジャパニーズプラスとかチャイニーズプラ
博士の学位を目指す方がいたら、そういう
だからそれは是非そういう方たちにも来て
スっていうのは言語のことでおっしゃって
ような形で今後もこの研究科と繋がりを持
ほしいと思います。
いたと思うんですけど、言語だけじゃなく
ちながら、文化交流、学術交流だけでなく、
長畑:時間になりました。座談会はここで
て文化的なことも含めてジャパンプラスと
研究そのものも共同研究という形で生産的
終わりたいと思います。先生方、ありがとう
いうことになっていると思います。
にやっていけるようになるとよいと思いま
ございました。
長畑:私が大学院生だった頃に比べると、
す。いままでそういう点は、実際にはかなり
今の大学院生は、留学生、日本人に限らず、
増えているにもかかわらず、研究科全体と
行動力がありますね。私のところでアメリ
してはあまりケアしてこなかったので、こ
カ研究をやっている学生もすっと海外に
の新しいプログラムが始まることをきっか
行っちゃうんですね。学会があったりする
けに、そういうようなベースも作っていけ
9
An English translation of this panel discussion
on the new English-taught Comparative Studies
of Language and Culture program is available
on the Graduate School of Languages and
Cultures website.
イベント紹介
台湾映画祭 + シンポジウム
「侯孝賢の詩学と時間のプリズム」
星野 幸代 (国際多元文化専攻 ジェンダー論講座准教授)
侯孝賢監督のヴェネチア国際映画祭金
獅子賞受賞作『悲情城市』が 1990 年日本
公開された際、不勉強な学生であった私
は当時のデートスポット、日比谷シャン
テシネで鑑賞した。従来、中国関係の映画
(香港アクション映画を除く )は、もっぱ
ら怪しげな歓楽街にある池袋文芸座で上
映されるのが常だった。敢えて言えば侯
孝賢氏は日本で、もしくは国際的にもア
ングラな華人映画を、銀座・有楽町とい
う表通りに解放したといってもよいだろ
う。2011 年、愛知大学の黄英哲教授を通
じ、台湾文化建設委員会、財団法人自由思
想学術基金会、愛知芸術文化センターお
質問に答える侯孝賢監督
よび本研究科主催で、侯孝賢監督を名古
屋大学に迎えることができたのは誠に光栄である。
活発な質疑応答が交わされた。 まず 6 月 25日愛知芸術文化センターで『悲情城市』
『百年恋
ラウンド・テーブル「侯孝賢の詩学と時間のプリズム」開始
歌』上映、および侯監督と作家・朱天文氏を囲む座談会が行わ
とともに侯監督が到着したため、会場は異様な熱気に包まれ、
れた。会場は岐阜や三重からきた広い年齢層の熱心なファンで
質疑は監督に集中してしまい、侯監督は「私は今日は聴きに来
埋め尽くされ、侯孝賢監督の世代を問わぬ人気を証明してい
たんだが 」と苦笑していた。そのうち、学生からの質問を一つ
た。座談会は文学研究科の藤木秀朗教授が司会を務め、本研究
紹介しよう。
科より池側隆之准教授が映像制作の専門家として加わった。内
「研究する中で、自分の解釈と作者の意図とは一致しないの
容は本年度中に出版予定(後述)のためそれに譲るが、端々に
では、と迷うことがあります。これについてどう思われます
侯監督映画製作プロセスにおける朱天文氏との深いパートナー
か。
」侯監督は、世に出た作品の解釈は鑑賞者に任せるという
シップがうかがわれた。
趣旨の応答をした。間髪を入れず、マルシアーノ准教授が「私
6 月 26 日は本学文系総合館カンファレンスホールにて開催
は研究は一つの創作だと考えています。
」と発言すると、侯監
した。東京、京都からの参加者もあり、来場者は 115 人にの
督は大きくうなづき拍手を送った。
ぼった。
二日間のシンポジウム、座談会、講演の記録は、台湾文化建
基調講演として東京大学藤井省三教授は『百年恋歌』を取
設委員会の助成金により、2012 年初めに出版予定である。
り上げ、モデルとなった実在人物の背景を踏まえ、兵役、ビリ
準備段階から当日まで、本研究科修了生で現在台湾大学ポ
ヤード等に着眼しつつ映画を読み解いた。台湾大学張小虹教
スドク研究員の許時嘉さんの八面六臂の活躍、また現役大学
授は、最新の侯孝賢監督映画『レッド・バルーン』をドゥルー
院生・研究生の皆さんの惜しみない協力を特記したい。
ズ=ガタリの理論を駆使して分析した。いずれも一般から映
画研究者にいたるまで刺激的な講演であった。続いて台湾政
治大学の陳儒修副教授、ゲティスバーグ大学のジェームズ・
アデン准教授、カールトン大学のミツヨ・ワダ・マルシアー
ノ准教授がそれぞれ『悲情城市』
『珈琲時光』について分析し、
10
国際シンポジウム
「試練と可能性のメディア:それでも君はジャーナリストを目指すか」
中村 登志哉 (国際多元文化専攻 メディア・プロフェッショナル講座教授)
メディア・プロフェッショナル講座としては初めてとなっ
た今回の国際シンポジウムは、2010 年 11 月 26 日(金)午後 3 時
から 6 時までの 3 時間、文系総合館カンファレンスホールで開
催された。名古屋大学教育奨励費と国際言語文化研究科プロ
ジェクト研究費の助成を受けた「グローバル時代のジャーナ
リズム教育」プロジェクト(研究代表・中村)の一環である。
日豪韓 3 カ国の研究者が、グローバル化とデジタル化の進展に
伴うメディアの変容とその政治的・経済的・社会的影響につ
いて最新の分析を発表・討論した。
前野みち子研究科長による開会の挨拶の後、特に人文・社
会科学分野で世界的に高い評価を受けているメルボルン大学
からティモシー・マジョリバンクス准教授、韓国でメディア
右から中村、
マジョリバンクス、崔、春名の各氏(撮影・何思穎さん)
研究の拠点として有名な翰林大学からは崔英宰准教授、そし
て日本からは私・中村がそれぞれの国の現状分析と展望を発
表し、国内外のメディアでの経験が豊富な春名幹男・特任教
授に討論者としてコメントして頂いた。
インターネットの登場以来苦境が続く新聞などの伝統メ
ディアが生き残りのためにどんな変貌を遂げているか、各国
のメディア政策はどう変化したか、市民の政治意識や政治コ
ミュニケーションはどう変化したかなどについて報告された。
発表は基本的に英語で実施され、同時通訳が付された。中部地
方のほか仙台や東京、京都、広島からの研究者、本講座に協力
していただいている中日新聞社、日本放送協会(NHK)
、電通、
東海テレビのほか、朝日新聞東京本社、中部日本放送(CBC)
など在京・在名古屋の新聞社・テレビ局関係者を含む約 90 人
の参加を得て、予定時間を延長せざるを得ないほど活発な議
論が交わされた。本講座はメディア研究講座を持つ基幹国立
ほぼ満席となったカンファレンスホール(撮影・謝小建君)
大学の一角として、在名古屋の研究者やメディア企業関係者
の方々と密接な協力関係を維持するとともに、今後も本シン
ポジウムに続く取り組みを企画し、社会への成果還元を念頭
においた研究教育活動を展開していく所存である。
シンポジウムにおける発表論文および議論の詳細を収録
した本プロジェクトの報告書『Challenges and Chances for
Media: Does anybody still want to be a journalist?』
(英文、全
110 頁、名古屋大学刊)は 2011 年 1 月に刊行され、濱口道成総
長に提出された。
11
国際シンポジウム
「マイノリティ状況と共生言説Ⅱ」
六鹿 桂子 (国際言語文化研究科学術研究員、国際多元文化専攻 多元文化論講座、博士後期課程 2011 年修了)
本シンポジウムにおける田所教授
桂子は、
「チベット族における一妻多夫婚再燃の要因―雲南省迪慶
が長年御尽力されてこられた研究プ
藏族自治州徳欽県での現地調査に基づいて―」というテーマで、チ
ロジェクトは、現代社会における多
ベット族の一妻多夫婚の数の推移の背景に存在するものについて検
様なマイノリティを対象にそれぞれ
討を加えた。ついで、竹内愛氏は、
「ネパール・ネワール族農民カー
個別研究を進めながら、全体として
スト「ジャプ」女性たちによる地域結束活動―女性自助組織「ミサ・
マイノリティ―マジョリティ関係を
プッァ」をめぐって 」と題して、ネパールに居住する民族における
考察して、新たな共同性を構築する、
マイノリティ状況について発表し、次に発表されるナンダ・シン先
総 合 科 学 と し て の「比 較 マ イ ノ リ
生へとバトンをつないだ。
ティ学」を構築することを目指して
両日とも基調講演を行った先生方や発表を行った学生たちが、そ
いる。
の日のすべての発表終了後に壇上に一堂が会して、シンポジウムに
2011 年 3 月 7 日、8 日 の 両 日、名 古
参加された人たちからの質問に答える時間が設けられていたので、
屋大学文系総合館カンファレンス
参加者の方々からの熱心な質問に答えることで、尚一層検討が深
ホールにて開催された国際シンポジウム「マイノリティと共生言説
まったように感じた。さらに、今回は二日間にわたるシンポジウム
Ⅱ」では、初日は前野みち子大学院国際言語文化研究科長のスピー
であったため、二日目発表終了後であっても、関連することであれ
チに続き、まず主幹の田所光男、本研究科国際多元文化専攻多元文
ば、前日の発表に対する質問や、前日の発表をふまえた質問なども
化論講座教授より新しい総合科学「比較マイノリティ学」の構築を
あり、日を跨いだシンポジウムでは、時としてその日のみで、全体
目指すという趣旨説明が行われた。
としてはまとまりのないものになりがちであるが、二日間のシンポ
「マイノリティ」をただ単に数が少ないという数量的な次元で把
ジウムがそれぞれの日ごとにまとまりがある上に、二日間を通すこ
握しているわけではなく、現在社会に生じているマイノリティ現象
とで相乗効果が生まれ、一層深い議論が行われたと確信している。
をできる限り広く視野に入れて考えたい。そのために自覚的な集団
必ずや次回( 2012 年 3 月開催予定)の国際シンポジウム「マイノリ
ばかりではなく、集団意識等を全くもたない人々も考慮することに
ティ状況と共生言説Ⅲ」に寄せられる期待は高まるであろう。
なると述べられた。
時間も押し気味で予定時刻より閉会も遅れたが、熱心な聴衆にも
このように、研究の枠組みとアプローチの方向として、マイノリ
恵まれたので、最後まで熱のこもったシンポジウムとなった。また、
ティの多義性についての解説がなされた後、それを受けて、初日に
長畑明利、藤井たぎる両本研究科教授が両日のシンポジウムの座長
は、フランソワーズ・リヨネ カリフォルニア大学教授、シーラ・
を務められ、全体として、マイノリティ状況から新たな共生を模索
ウォン モーリシャス大学上級講師、それに小池理恵 富士常葉大
するという 21 世紀世界の切実な課題について、極めて有意義な討論
学准教授が、多民族国家モーリシャスを対象に、クレオール性やコ
が行われた。
スモポリタニズムの観点から、マイノリティ共生の問題を追究し
以 上 の よ う に、社
た。また、二日目は、ナンダ・シン トリブヴァン大学准教授(ネ
会に存在するマイノ
パール)が、憲法起草中のネパールにおけるエスニック・マイノリ
リティ状況の検討と
ティの多様な運動について詳述し、徐冰 東北師範大学教授が、日
と も に「比 較 マ イ ノ
中衝突の原因を探求して双方のもつ「傲慢と偏見」の歴史を分析し
リ テ ィ 学 」の 推 進 に
た。二日目の最後には、布施哲 本研究科准教授が、
「現代のアソシ
とって不可欠な共生
エーション理論―エルネスト・ラクラウの “ ラディカルな民主主義 ”
言説の検討をするこ
について~」というテーマで、現代西欧のアソシエーション理論を
と で、新 た な マ イ ノ
分析しつつマイノリティ状況の未来を展望する講演を行った。 リティ―マジョリ
両日とも本研究科所属の博士後期課程学生による研究発表も行わ
ティ関係の構築に収
れた。学生のうち、最初に発表したイザベル・ビロドー氏は、
「翻訳
斂してゆくことが期
学における「マイノリティ」の概念」というテーマで、翻訳という技
待できる貴重な機会
術の側面から、マイノリティ状況を検討した。次に磯部美里氏は、
であった。
「自宅出産から病院出産へ-中国・西双版納タイ族の事例からみる
出産のマイノリティ状況とジェンダー」と題して、中国・雲南省西
双版納タイ族自治州に居住する少数民族のタイ族が出産する上で、
どのような状況にあるかを報告した。二日目に最初に発表した六鹿
12
著 作 紹 介
松岡光治編
『ギャスケルで読むヴィクトリア朝前半の社会と文化』
矢次 綾
(国際多元文化専攻 博士後期課程 2008 年修了、松山大学人文学部英語英米文学科教授)
『ギャスケルで読むヴィクトリア朝前半の社会と文化』
(以
で行っているように、ギャスケルが呈したのと真っ向から対
下、
『ギャスケルで読む 』と略記)はヴィクトリア朝の小説家、
立する見方を挙げたり、ギャスケル以外の人物の筆による一
エリザベス・ギャスケルの生誕 200 周年を記念して松岡氏が
次資料を提示したりするなどして、そのバイアスも含めて彼
企画したもので、30(村岡健次氏による「序章」を入れれば 31 )
女の立ち位置が明確にされている。これは、だからヴィクト
のトピックのそれぞれについて、海外の 3 人の研究者を含む
リア朝について理解するためのある種のフィルターとしての
31 人の研究者が執筆した論考を集めたものである。第一部【社
ギャスケルに欠陥があるというのではなく、一人の知的な人
会】
(「教育」、
「貧富」、
「階級」、
「国家」、
「自然」)、第二部【時代】
物を通してある時代を理解することの有用性を示唆している。
(
「科学」、
「宗教」、
「郵便」、
「子供時代」、
「レッセ・フェール」
)
、
「教育」の項でアラン・シェルストン氏が、ヴィクトリア朝に
第三部【生活】
(「衣」、
「食」、
「住」、
「娯楽」、
「病気」)、第四部【ジェ
ついて「現在我々が手にできる資料には、地域、ジェンダー、
ンダー】
(「女同士の絆」、
「女性虐待」、
「売春」、
「ミッション」
「父
、
そしてもちろん社会階級などの問題が絡んでくる 」ため透明
親的温情主義」
)
、第五部【ジャンル】
(「ゴシック小説」、
「恋愛
性が疑わしく、
「最も信頼できる資料は当時の個々人の生活を
小説」、
「歴史小説」
「
、推理小説」、
「演劇的要素」)、第六部【作家】
描いた記録だろう 」と指摘しているが、
「個々人の生活」もし
(
「自己」、
「言語」、
「出版」、
「ユーモア」、
「同時代作家」
)の六部
くはその断片こそ、ギャスケルが記録に残したものである。架
から成り、筆者も執筆者の一人として「歴史小説」の項を担当
空の人物について書いた小説であっても、その背後には彼女
した。
自身が経験したり、見聞きしたりした現実の生活があり、彼女
『ギャスケルで読む 』の特徴は、J・ヒリス・ミラー氏が「巻
の目を通し記録として再現されたものだ。このように信頼性
頭言」で述べている通り、
「ギャスケル作品に焦点を定めては
の高い資料になり得るギャスケルの著作と、彼女とは見方が
いるが、ヴィクトリア朝の社会と文化のすべてと関連づけて
異なる資料を同時に提示することによって、ヴィクトリア朝
所定のトピックを論じている 」点にある。例えば、章の主題が
の多面性が浮かび上がってくるのである。
「衣」であっても、特定のギャスケル作品における「衣」という
ヴィクトリア朝関係者ではない、ある研究者の方が『ギャス
ように限定的にトピックを論じるものではない。そのため、本
ケルで読む 』を「ギャスケルについてのあの分厚い本」と呼び、
、 、
書を通して読めば、ヴィクトリア朝前半の社会および文化全
「ギャスケルについてこんなに多くの話題があるのですね 」と
般に接し、当時についての理解を深められるようになってい
感嘆しながら、
『メアリ・バートン』以外の作品も読んでみた
る。もっとも、著者の一人ではなく読者として今回本書を読み
い、とおっしゃっていた。ギャスケルの生誕 200 周年を記念す
直して印象に残ったのは、同時代の多種多様な社会的、文化
るに相応しく、
『ギャスケルで読む 』は新たなギャスケリアン
的現象の多くにギャスケルがいかに真摯に向き合い、記録に
誕生にも一役買っているようである。
(溪水社、2010 年)
残したかということであった。小説家である以前にユニテリ
アン派の牧師の妻であり、母親でもあった彼女の知的エネル
ギーに圧倒された。
「コンディション・オブ・イングランド小
説の作家」というような一面的な捉え方をされがちなギャス
ケルだが、その懐は深く、フィールドは広い。
「女同士の絆」と
いった最近になって発展したプロコトルに依拠する話題でも
十分に論じられ得る。もっとも、本書で扱われたトピックの中
には、彼女が問題意識を持って記述し世に訴えかけようとし
たもの(例えば、
「売春」)もあれば、直接的な考察をしている
わけではないが、それに類する要素を著述物に取り込むこと
によって同時代の思想的、文化的傾向に対する彼女の反応を
示唆しているもの(例えば、
「推理小説」)もある。いずれの場
合にしても、本書を読めば、彼女が当時の傾向を自分なりに消
化し、彼女自身の表現へと昇華させたことがよく分かる。
『ギャスケルで読む 』では、例えば松村昌家氏が「貧富」の項
13
Franco Algieri, Arnold Kammel(Hrsg).
Strukturen globeler Akteure: Eine Analyse ausgewaehlter Staaten, Regionen
und der EU
中村 登志哉
(国際多元文化専攻 メディア・プロフェッショナル論講座教授)
世界規模でグローバル化が進展し、欧州では旧共産圏の中東欧諸
トの論争がある。特に、ドイツのハンス・マウルらは、日独両国に
国を含む形で欧州連合(EU)が拡大する中で、21 世紀の国際社会は
ついて、非軍事分野に特化するとするシビリアン・パワー論を展開
どのような姿を見せることになるのか。このような問題意識の下、
した。しかし、欧州とは違い、冷戦構造が残る北東アジアで、軍事・
欧州、日米、カナダの政治学者や外交官がウィーン郊外にあるオー
経済大国の道を着実に進む中国、核危機を弄ぶ北朝鮮に対峙する日
ストリア欧州・安全保障政策研究所(AIES)に集って進めた共同研
本は当時も今も難しい舵取りを迫られている。私自身は、政策の連
究の成果である論文 12 本を収めた本書は、同研究所による「AIES
続性に着目する一方で、1991 年の湾岸戦争をめぐって、軍事的貢献
欧州・安全保障政策叢書」第1 巻としてドイツのノモス出版から刊
を一切拒否し、財政負担だけを負った日本とドイツが「小切手外交」
行された。私自身は日本を担当し、再定義される日本の世界的、地
と厳しく批判されたことに象徴されるように、日本は地域秩序安定
域的役割を分析した章を執筆した。
のための国際安全保障への関与を強めていくことが不可避になるだ
この共同研究が開始されたのは 2008 年であった。その前年の
ろうとみている。潜在的なフラッシュポイントを朝鮮半島に抱える
2007 年にブルガリアとルーマニアが EU 加盟を果たし、想定される
北東アジアに対し、あるべき姿に向かって統合の歩みを進めている
拡大欧州の最終形が姿を見せつつある一方、アジアでも中国が軍事
欧州は当時、少し明るい陽射しが差し込んでいるように思われたも
大国、世界第 2 位の経済大国として台頭し、国際社会の在り様は急
のである。しかしその欧州も今はギリシャの財政問題に端を発する
速な変貌を遂げつつあった。このような状況を踏まえ、今世紀の国
不安が広がっている。いずれの地域も楽観的な予測が立てにくい様
相を見せているのである。
際社会において、主要国の米国、ロシア、中国、インド、日本、カナ
ダ、EU、中東と南米地域はどのような役割を担っていくのかについ
(Nomos Verlag, Baden-Baden, Germany, 2010 )
て分析することになったのである。分析の内容や手法は紙面の都合
もあるため別の機会に譲るが、興味深いのはこのようなグローバル
な視点に立った研究を、中欧の小国であるオーストリアの研究所が
実施している点である。
名画『第三の男』を引き合いに出すまでもなく、オーストリアは
冷戦期、永世中立国として東西両陣営の対話の窓口あるいは接点
として国際的に重要な役割を担ってきた。ところが、冷戦終結後は
EU へ加盟し、隣国の統一ドイツとの実質的な経済依存が深化し、
旧東欧諸国も EU へ合流するという中で、新たな独自の存在理由を
見出すことは容易ではなかった。国際社会における自国の居場所は
どこか。この共同研究は、オーストリアのそんな問題意識を背景に
しているように思われた。
同研究所はまた、EU の若手外交官や博士課程の学生を対象に例
年、その時々の最も旬な国際問題をテーマにした夏季セミナーを開
催している。われわれ共同研究者も 2008 年夏にウィーン郊外の古
城に一週間泊まり込んで議論を深める幸運に恵まれた。1990 年代
初頭にドイツに滞在していたころ、アジアのパートナーと言えば日
本であり、その存在感は際立っていたが、セミナーに参加する欧州
の多くの若者の関心は日本から、軍事・経済大国への道を進む中国
へと移っていた。予想していたこととはいえ、少し寂しい思いがし
たものである。国際政治学を扱う研究者としては、今後の欧州を背
負っていくことになる若い参加者から皮膚感覚としてこのような
フィードバックが得られることも貴重な収穫であった。
国際政治学では、冷戦終結後、日本やドイツはいずれ軍事大国へ
の道を歩み始めるとするリアリストに対し、反軍国主義の国内規範
ウィーン郊外の古城で、若手外交官や大学院生を対象に開かれた
夏季セミナーでの講義
を基に、それまでの政策の連続性を予測するコンストラクティビス
14
星野幸代・洪郁如・薛化元・黄英哲編
い
ま
『可視と不可視の間 台湾映画表象の現在』
星野 幸代
(国際多元文化専攻 ジェンダー論講座准教授)
本書を見たある恩師から、早速「台湾の映像制作を現在日本
には「他者」たる台湾が存在し、憎い\迷惑な隣人としての日
で研究することに、どのような意味があるのか?」という宿題
本がいる。それは敢えて言えば、大陸中国が照射する中国人、
をもらってしまった。台湾に関する単著論文は2,3 本しかな
日本人に似通っている。1 )と2 )の裂け目にまず気づき、そ
い筆者が目下の段階で出せる宿題レポートなど、所詮たかが
の成り立ちをたどること。現在「華流イケメン」に浮かれる日
知れていて恐縮だが、この場を借りて述べたい。
本では、それらに意味があると考えている。
その前に本書の由来を紹介しておく。本書は 2010 年本研究
むろん、台湾の映像の煥発する魅力は上述のような日本人
科主催の「台湾映画の現在」、関西学院大学での「台湾ドキュ
の躊躇など超越している。それは張小虹氏をはじめとする中
メンタリーの現在」、一橋大学での「東アジアの越境・ジェン
国語圏研究者の論考をぜひ参照されたい。
ダー・民衆――ドキュメンタリーと映画から見た日台関係の
最後に、編集段階では予想もつかなかった一篇の意義につ
社会史」、以上三つのシンポジウムの講演と報告による。シン
いて。呉乙峰監督は、1999 年 9 月 21 日台湾中部大地震の遺族
ポジウム開催から本書出版に至るまで、台湾行政院文化建設
に接し、彼らは「この傷をどのように癒していくのだろうか?
委員会の助成を受けた。
それとも、彼らはそもそもこの悲劇から抜け出すことができ
宿題レポートに戻ろう。筆者が学生時代、約二十年前には
ないのだろうか?」
( 193 - 194 頁)という問いから『生命(い
「点在」するのみだった日本人台湾研究者も一定の層となった
のち )――希望の贈り物』
( 2003 )を撮った。呉監督の製作
現在、日台双方による台湾研究は、疾うから反日 VS 親日とい
手記は、3・11 東日本大震災に即して読まれることになるだ
う二項対立から脱している。例として、本書収録、一橋大学の
ろう。
星名宏修准教授「『跳舞時代』の時代――台湾文学研究の角度
(あるむ出版、2011 年)
ダンス・タイムズ
(簡偉斯・郭珍弟監
から 」を紹介させていただく。
『跳舞時代』
督)は、日本の植民地統治下で虐げられる一方ではなく、モダ
ンな文化を享受した台湾人たちの存在を伝えるドキュメンタ
リーである。星名宏修氏は、これがモダンな大衆文化として一
律に表象される点に疑義を唱え、文学的資料に基づき地域・
階層による「不均等の現実」を考察している。いわば台湾側か
ら肯定的に描かれた植民地時代に対し、日本側から否定面を
照らし返している。
一方で、日本人の台湾イメージにはなおも二項対立が有効
なのではないか。一つは1 )“ わたしたちと同じ・親日的 ”、2 )
“ わたしたちと違う・反日\離日的 ”。1 )は、例えば 1980 年
代の侯孝賢映画、また本書に登場する『海角七号』
( 2008 )
『ヤ
、
ンヤン 夏の思い出』
( 2001 )もこの路線であろう。これらを
見る限り、アメリカナイズされた台湾社会、そこに生きる若
者たち、それ\彼らが抱える問題、いずれも日本や欧米社会
に近いように見える。しばしば日本植民時代の残滓が表象さ
れるものの、親日的な描写だ。そのため日本人は、後ろめたさ
を覚えながらも心地よく鑑賞する。しかし、2 )の映像作品群
は日本人をたじろがせる。例えば映画『無言的山丘』
( 1992 )
、
『一八九七』
( 2008 )、TVドラマ『孽子』
( 2003 )、ドキュメン
タリー『新宿駅、東口の東』
(楊力州・朱詩倩監督)など。そこ
15
金相美著
『韓国における情報化と縁故主義の変容』
金 相美
(国際多元文化専攻 メディアプロフェッショナル講座准教授)
本書は、社会心理学的観点から、韓国社会でしばしば議論さ
社会の頭であり、少なくとも 1980 年代までは問題無く機能で
れる縁故主義が、インターネット上のサイバーコミュニティ
きたルールである。それぞれの個人が自分の属しているセク
への参加とどのような関連をもつかについて実証的検証研究
ター内において一生懸命に動いてさえくれれば、日本社会が
をまとめた筆者の博士論文を元に刊行されたものである。
うまく運用できるだろうと言う信念も、強いて言えば、この安
韓国のアカデミーにおいても社会関係資本に関する研究が
心社会を構成する人々の社会心理である。しかし、グローバル
様々な分野において量的・質的蓄積が行われている。メディ
化、情報化の 21 世紀の変革の時代に置かれては、このような
ア学においてはサイバーコミュニティへの参加と社会関係資
「日本式」では上手く運用が出来なくなってきたと言われてい
本の関係性に関する議論が存在しているものの、実際にこの
る。特に、情報化の進展は、個々人が一つの組織だけでなく、
両者間の関係が明確に検証されたとは言い難い。この命題の
人々の数のように多数のネットワークに属する可能性が開か
回答を探るための有効な方法の一つとして、私的レベルの社
れ、情報共有の方式も変化した。
会関係資本である縁故主義的関係に注目する必要があると考
日本はこのような時代的変化に対する適応に脆弱であり、
えた。
変化のスピードも遅いという評価を受けている。このことは
本文に言及している通り、社会関係資本に関する楽観的展
すでに世界的競争力の低下、財政悪化、失業率及び犯罪率の増
望をそのまま韓国社会に適用することは危険である。韓国の
加と言った実証的数値として示され、国民の喪失感や虚脱感
家族愛や厚い人間関係は西洋の研究者の目には信頼に満ちた
を高めている。さらに、日本は他文化圏と比べ、犯罪率の低い
共同体に映るかもしれない。しかしながら、韓国の家族的人間
安全な国であるにもかかわらず、国民の治安に関する不安感、
関係は「圧縮近代」を通じて強化されてきた、位階的で集団主
近所に対する不信感が相当高い。一般的信頼、互恵性という規
義的性格の強い 「縁故共同体」 と表皮一体であり、このような
範、ネットワークの蓄積こそが、安心や安全を望む社会風土が
縁故集団が強くなればなるほど、分断され排他的・閉鎖的な
強い日本社会において万病の薬としての潜在力を潜めている
社会・文化になるといったアイロニカルな状況が生まれてし
のかもしれない。既存の『集団』という単位に埋没せず、新た
まう。 社会関係資本の理論を適用する際は必ず、当該社会の
に開かれた社会関係資本を構築するといった社会的運動が喫
風土をその出発点から考慮する必要がある。IT 強国と呼ばれ
緊の課題であると考える。
る韓国社会おいて、インターネットを中心とした高度の情報
社会関係資本の蓄積が地域社会における水平的で開放的
化社会への進行が、社会関係資本の蓄積を最大化し、真の意味
ネットワークの形成を促進し、信頼と互恵性の規範のもとで
の「幸福 (Well-being) 社会」に発展していけるか、という問い
豊かな人間関係及び市民活動における好循環を建設できる重
については以後マクロ・ミクロ的アプローチによる精緻な研
要なカギとなることと確信する。本書を通じて社会関係資本
究に取り掛かる必要がある。
に関する議論がより活発化・成熟化されることを強く望む。
上記同様の質問を日本のケースに当ててみよう。
(ミネルヴァ書房、2011 年)
日本はいわゆる「安心社会」から「信頼社会」への変換を求
めされている。その理論的道具として社会関係資本論を提示
したい。社会関係資本論は、政治学、経済学、社会学など他の
様々な学問分野における日本の研究者たちにとって十分魅力
的なドグマを内包していると考える。ここで言う「安心社会」
とは、従来の日本社会において、各個人が属していた単一集団
内の安心保障型の組織ルールが有効に作動する社会を意味す
る。すなわち、既存の集団形成の規範によって形成された人間
関係に安住し、その内部規律を守り、集団内の協力や信頼を
維持する社会である。このようなシステムは過去の日本経済
16
研究報告
近況報告
サダキチ・ハートマンを求めて
田野 勲
(名古屋大学名誉教授)
約一年半前から、サダキチ・ハートマン( 1867 − 1944 )という人
すべてをフォローするのが困難であることと、さらに、現時点では、
物について、断続的に、調査を行い、収集した資料を読みながら、
日本にも、アメリカにも、ハートマンに関する定本と言えるような
遅々としたペースではあるが、原稿を書き続けている。かれは 20 世
研究書も伝記も存在していないことであり、そのために研究が思っ
紀の初頭にニューヨークで「ボヘミアンの王」として名を馳せてい
たように進まないというのが実情なのである。
て、大いに興味を引かれてきたのだが、なかなか本格的な研究に取
たとえば『日本の芸術』
( 1903 年)は出版年を考慮すれば画期的
り掛かることはなかった。2 年前に、1910 年代のニューヨークに関
な業績だったが、それにしても、ハートマンはなぜこのような作品
する研究を発表したが、その後、なぜなのか分からないが、次にはサ
を書いたのだろうか。敢えて言えば、かれの体内に日本人の血が流
ダキチ・ハートマンの研究に取り組んで、その成果をなんとかまと
れていたからだったし、ヨーロッパを放浪中にジャポニスムの衝撃
めて形にしてみようと心に決めた。
を体感していたからだったのだろう。それでは、なぜこのような作
ハートマンは 1867 年に長崎の出島でドイツ人の父親と日本人の母
品を書くことができたのだろうか。かれは二度と再び故国を訪れは
親の間に生まれた混血児である。母親のオサダは出産後一年も経た
しなかったし、日本語を読むことも書くこともできなかったのだ。
ないうちに病死してしまったが、幸運なことに、父親のオスカー・
だがかれの作品を読んで、参考文献を見ればわかるように、かれは
ハルトマンはサダキチを見捨てることなくハンブルグの実家に連れ
日本に関する文献を可能な限り収集して、読破して、その膨大な情
帰って正式に嫡子として養育してくれた。それ以降平穏無事の生活
報を活用しながら書き上げているのである。それゆえ、われわれは
を営んでいたのだが、1882 年、かれが 14 歳の時に、父が再婚した義
E.F. フェノロサや J. ラファージやラフカディオ・ハーンらの作品を
母との確執が引き金となって、かれは突然アメリカに移住すること
読んで、それらの作品からの引用の出典を検証しながら、できるだ
になって、その結果、ボヘミアンとして波乱万丈の人生を送ること
け正確にテキストを読み解いていかなければならないのである。
になるのである。
こうした事情は『アメリカ美術史』
( 1901 年)においても変わらな
かれにとって 1884 年からの 10 年間はきわめて重要な時代であっ
い。われわれは美術館で作品を観たり、美術の研究書や画家たちの
た。先ず指摘しなければならないのは、かれがホイットマンと親し
画集を参考にしながら、テキストを読み進めて理解を深めていかな
く交流することになったことである。この時ハートマンは 17 歳であ
ければならない。だが誰しもが経験しているように、そうした作業
り、ホイットマンは 65 歳であった。当然ながら、かれはホイットマ
は必ずしも意図していた成果をもたらしてくれるわけではない。と
ンから大いなる刺激を受けて、詩について、文学について、そして、
ころでそうした研究にとって有効なツールがある。今更言うまでも
人生について深く思索をめぐらすことになった。と同時に忘れては
ないがパソコンである。これまでも画家の名前や作品名を知ること
ならないのは、かれがこの時期に何度もアメリカとヨーロッパの間
はできたが、それが具体的にどのような作品なのかがわからないこ
を往還していたことである。この間にかれはイプセンを遠目に見な
とが多々あった。だがこの有能なるパソコンを駆使すれば、画家の
がら芝居に熱を上げたり、マラルメやヴェルレーヌと付き合いなが
名前と作品名を打ち込むだけで、白黒ではなくて、カラーの状態で、
ら象徴主義について考えたり、アメリカ出身の画家ホイッスラーに
その作品がどのようなものなのかを確認することができるのだ。こ
会ってはジャポニスムに想いを馳せたりしていたのだ。
れは本当に画期的なことであって、その結果、われわれはテキスト
このような経験を基盤にして、ハートマンは 1890 年代から 1910 年
をかなり正確に読み込んで理解することができるようになっている
代にかけて、ボストンとニューヨークを拠点にして、新進の芸術家
のである。
ないし評論家として、大胆で多彩なる活動を展開することになった。
かくして、ぼくはこれまで試行錯誤を繰り返しながらサダキチ・
かれは詩を、小説を、戯曲を書き、美術や写真に関する評論を発表
ハートマンを追い求めてきたのであり、できることなら数年以内に
し、英語で短歌や俳諧を詠んでは出版したりしている。代表的な作
所期の目的を達成したいと願っているが、この先どのように展開し
品を列挙しておく。
『キリスト』
( 1893 年)、
『ホイットマンとの会話』
ていくのかは知る由もない。それだけ困難なのだということだが、
( 1895 年)、
『アメリカ美術史』
( 1901 年)、
『日本の芸術』
( 1903 年)、
『ホ
イッスラー研究』
( 1910 年)、
『短歌と俳諧ー日本の詩歌』
( 1914 年)な
どである。
できることなら、このハートマンをトータルに捉えて論じてみた
いと考えているが、そうした意気込みに反して、その作業は順調に
進展しているとは言えない。なぜなのか。二つの理由を挙げること
ができる。ハートマンがじつに多岐にわたる活動をしていたので
17
そうであるがゆえに、やりがいのある仕事でもあるのだろうと考え
ている。
アブハズ語調査から考えたこと
柳沢 民雄
(国際多元文化専攻 東アジア言語文化講座教授)
ここ十数年の間、北西カフカース諸語の一つであるアブハズ語
dE-l-ba-jt’ ‘she saw him/her’ の直接目的語を示す dE は him/her を示
Abkhaz の調査を行ってきた。アブハズ語はアブハジアで話されてい
し、自動詞の主語を表す接辞 d と同じである(schwa E は子音連続に
る話者数 10 万人の言語である。アブハジアは 1992 − 3 年のグルジア
よって現れる )。それに対して、l は she を示し、他動詞の行為者を表
からの分離独立の紛争を経て、現在は未承認国家としてロシアの影響
す。語根は ba ‘see’ である。訳の英文では主語は自動詞でも他動詞でも
下にある。今も南オセチアと並んでアブハジアはグルジアの火薬庫で
主格で現れ、他動詞の目的語は対格(直接目的語の格)で現れている。
ある。当然、日本はアブハジアを独立国家として承認していない。こ
印欧語の構造をみれば、例えば、ドイツ語からロシア語へ、さらに
のため私はグルジアに住むアブハジア人の婦人をアブハズ語のイン
古典ギリシア語やサンスクリットへと移行しても、複雑さの程度は異
フォーマントにお願いし、アブハズ語の動詞構造を中心に調査してき
なるが、そこには我々の馴染みのある言語の型が支配している。しか
た。以下、アブハズ語とはどのような言語かの一端を紹介し、この調
し印欧語からアブハズ語に移るとその風景は大分様子が違って見え
査を通じて得た言語についての考えを述べて近況報告とする。
る。このようなことから、能格言語の話者は対格言語の話者とは異な
アブハズ語は動詞が複雑な構造をしている。he gave it to her と
る世界観をもつのではないかという極端な考えがかつてあった。しか
いう英文は次のように動詞一語で表現される:i-lE-j-ta-jt’. i は it, lE
しアブハズ語に深く入り込み、かれらの言語を内側から眺めれば、そ
は her, j は he, ta は語根であり give を表す。jt’ は文を終わらせる接
の風景は印欧語の風景とはかなり違っているが、やはり普通の人の
尾辞である(E は schwa をここでは表す )。もう少し複雑な文である
住む風景であることがわかる。アブハズ語のような異類型の言語を
she could not say it to me もアブハズ語では一語で表される:it-lE-
話す人々の思惟は、その言語の影響を受けて我々とは異なっているの
z-s-a-m-hWa-jt’. i と lE は上と同じ接辞、z は可能法の接辞、s は I, a は
ではないかと思える経験を、インフォーマントとのかなり長い付き合
to, m は not, hWa は say を表す(W は前の子音の唇音化を表す。ま
いの中でも私はしたことはない。言語と思惟の関係は難しい問題を孕
た最初の文では IE, 二番目の文では a の上に stress が置かれる )。こ
んでいるが、そういったことを措くとしても、私に大きな感慨を起こ
れらの動詞形はアブハズ語ではごく普通に見られる。アブハズ語テ
させるのは、アブハズ語と上で引用したチヌーク語の類似である。系
キストにはかなり複雑な動詞形 i-shW-z-aj-ma-k’E-r-a-w-zaj も見られ
統と地域を異にする両言語をみてもわかるように、無限に変化してい
る。ここでは、i と語末の zaj によって what?, shW は you-Pl., z は可能
きそうな言語記号の集合方法を、人間の言語はある型に収斂させてい
法、aj は each other, ma は preverb という動詞語根につく要素、k’E は
る。これは、人間の言語にはある箍がはまっているということであろ
argue, r は must, a は copula, w は状態動詞の語幹形成接尾辞であり、
うか。あるいはフンボルトのいう ‘Eine Sprache’ を人間は基底として
意味は what is it that you-Pl have to quarrel about? となる。また、
もっているためであろうか。
Tom gave Mary a book という文はアブハズ語では、‘Tom’ と ‘Mary’
と a-shWq’WE ‘a book’ を上で述べた動詞形 i-lE-j-ta-jt’ の外に置くだ
けでよい(語順はある程度自由である )。アブハズ語の名詞は格標識
がない。
こういった一つの動詞に多くの形態素を付加する言語を複統合語
という。これは、世界の言語の中では北アメリカのインディアンの
言語に広くみられる。サピアの『言語』
( 73 頁)にあるチヌーク語の
例はアブハズ語と似ている:i-n-i-a-l-u-d-am ‘I came to give it to her’.
ここで語頭の i は最近の過去を、n は I, 二番目の i は it, a は her, l は to,
u は話者から離れる運動、d は語根で give, am は語根の修飾要素で
arriving を表す。
またアブハズ語は能格言語である。これは自動詞の主語と他動詞の
インフォーマントの 故Anna Tsvinaria さん
直接目的語が同じ扱いを受け、他動詞の行為者はこれと対立するとい
う言語である。我々の馴染みのある印欧語は、能格言語とは異なり、
自動詞の主語と他動詞の行為者が同じ扱いを受け、他動詞の目的語は
これに対立する対格言語である。アブハズ語では格の関係ではなく
て、動詞内の人称接辞とその配置が能格のパターンを示す。例えば、
自動詞 d-ca-jt’ ‘he/she went’ の d は he/she を、ca は go を示す。他動詞
18
師弟から同僚へ
奥田 智樹
(日本言語文化専攻 応用言語学講座准教授)
私事になるが、今年の 4 月から 5 月にかけて、私のフランス
た同じ内容が念押しされているではないか。果たしてどうし
留学時代の指導教授である Irène TAMBA(イレーヌ・タンバ)
たものか。まあ、そこまで仰ってくださるなら、先生のお言葉
先生が客員教授として名古屋大学にいらした。フランスにおけ
に素直に従ってみようかと考えて、思い切って「ではお言葉に
る日仏対照言語学の権威であり、フランスの言語学界ではその
甘えて、これからは tu で呼ばせていただきます 」とお返事する
名を知らぬ者のない重鎮のお一人である。70 歳を超えられた
と、
「やれやれ、ほっとしました 」とのお答え。私もなぜかほっ
今も精力的に研究を続け、数多くの後進の指導にも当たってお
として、それ以後私たちは、
「Irène」
「Tomoki」で呼び合う間柄
られる。日頃の雑事にかまけて 5 年近くもご無沙汰をした不肖
になった。
の弟子は少なからず緊張したが、再会を楽しみにしているとの
もちろん、先生と私が師弟関係にあることは今後も変わらな
ご来日前のメールに心を強くして、春休み返上で名古屋ご滞在
い。私がこれまで先生から教えていただいたことは計り知れ
中のお世話を買って出た。名古屋ご到着の翌日に宿舎に参上
ず、私が研究者として今日までやって来られたのもこの先生が
し、昔と変わらぬお元気なお姿を拝見して一安心。しばし旧交
いてくださったからこそである。そのご恩は決して忘れること
を温め合った後、先生から「あなたが最近書いたものを読みた
はない。だがそのこととは別に、これからは私たちの関係も変
い 」とのお言葉があり、早速この数年間に書き溜めたものをい
わっていかなければならないのだろう。同じ社会的責任を負う
くつかお見せした。数日後に先生のもとに伺うと、拙稿を隅々
学者同士として、新たに同僚としての対等な関係を築いていか
まで読んでくださった上に、昔と同じように事細かにコメント
なければならないのだ。そんなごく当然のことに、私は二の足
が書き加えられていた。そしてその場で内容についての質疑応
を踏んでいたようだ。先生はそんな私の背中を押してくださっ
答が始まった。ふとパリの社会科学高等研究院における先生と
たのかもしれない。
の面談の光景が蘇り、留学時代にタイムスリップしたかのよう
さて、大学教員としての日常に戻れば、私も日本言語文化専
な錯覚にとらわれる。先生は私の書いたものを他にも読みたい
攻に着任してすでに 10 年近くになり、今では数多くの指導生
と仰ってくださり、私の春休み期間中だったことも幸いして、
を持つ身である。彼らは毎年多様な研究テーマを掲げて私のも
私は連日自分の論文やアイデアを記したメモをお持ちしては、
とにやって来る。そんな彼らに、的確な指針がなかなか示せず
先生と自分の研究について議論させていただけることになっ
悩んだこともあったが、それでも彼らの真面目さと熱意に助け
た。日本にいながらにして、ほとんど再留学にも似た貴重な
られて何とかここまでやってこられた。昨年度は初めて二人の
チャンスに恵まれたわけである。白状するが、この時期、午前
指導生に博士学位を授与し、自分の指導がようやく実を結んだ
中は私の指導生を自分の研究室に呼んで研究指導を行った後、
という手応えを感じることができた。その後しばらくして、こ
午後は私が先生の研究室に伺って、攻守所を変えて私の研究に
の二人からそれぞれ中国と台湾の大学で日本語教師としての
ついてご意見を仰ぐ、ということも何度かあった。
職を得たという嬉しい知らせを受け取った。彼らもまた私の指
そんな留学生活の擬似体験が始まって 1 週間ほど経った頃、
導生から同僚になったのだ。こうした、師弟から同僚へという
先生がメールで「私たちはもう同僚で友達なのだから、vous
営みの繰り返しがやがて大きな流れとなり、言語学・言語教育
(敬称)ではなく tu(親称)で呼び合いませんか 」と仰ってく
という一つの文化を支えていく。そしてその流れの中で自らの
ださった。私は自分の先生に対する言葉遣いが学生時代と何
存在意義を確かめられることこそ、学者人生の最大の幸せと
も変わっていないことに気付いた。特にメールの際には表
言っていいのだろう。私も自分の来し方行く末を改めて見つめ
現に細心の注意を払い、緩和語法を何度も用い、末尾は必ず
直し、同僚からも指導生からも学べることは積極的に学びつつ
「Respectueusement(敬意を込めて )」で結んでいたのだ。た
だ、いくら教員同士になったとは言え、今でも私にとって先生
は雲の上の存在。こういう場合、目下の者はそのお気持ちだけ
をありがたく頂戴し、実際に tu でお呼びすることは差し控え
るべきではないかと躊躇していたところ、数日後のメールにま
19
これからも歩んでいきたいと思っている。
フランス国立図書館蔵『酒飯論絵巻』について
伊藤 信博
(日本言語文化専攻 助教)
2009 年 9 月に始まった「フランス国立図書館写本室やフランス国
フランスにおける『酒飯論絵巻』のシンポジウムの
ポスター。2010年(伊藤も発表)。
内に所蔵される江戸時代における日本物語絵写本」研究プロジェク
トは、写本室蔵『酒飯論絵巻』を中心に、内外の人類学、民俗学、美術
史、文学などの多様な研究者と共に日本では美術史研究が中心であ
るこの絵巻の総合研究を行っている。
この研究に異なる分野の研究者が多数参加しているのは、日本に
2011年に名古屋大学および岩瀬文庫で開催された国際シンポジウム
『日本研究における内外の視点』での『酒飯論絵巻』に関する発表。
伝承される他の模本や海外所蔵模本との比較研究を共に行うこと
で、図像資料と儀礼資料の両者の知見を再統合して一体的に捉えよ
うとする研究を期待しているからでもある。
『十二類合戦絵巻』、謡曲『花軍』、狂言『菓爭』も同様である。
つまり、物語絵には談義書からの影響が指摘されるように、日本
このような作品は中国・明代にもあり、
「異類論争物」あるいは「争
において、多様な聖俗の儀礼と儀礼に結び付いた文化資料は、図像
奇類」と称されており、日本・中国ともに禅林での創作とされ、文化
と切り離して研究することは難しいと思われるが、海外所蔵の日本
的影響が指摘されてもいる。
文化資料の多くは詞書などが失われ、画のみの例も稀ではなく、そ
しかし、詞書においては、念仏宗、法華宗、天台宗の宗派間の論議
の関係を語る文脈が喪失してしまっているのである。そこで、日本
が重ねられてはいるが、他の「論争物」とは相違し、
「優劣争い 」が主
の文化における表象創造の可能性を内外の研究者と共に様々な視点
題となってはおらず、画の構成も「論争物」とは程遠い。むしろ、酒
から追究することで、従来の国際研究を一層高度化しようとしてい
と茶の争いに水が仲介する宋代写本『酒茶論』の構成に詞書上は近
るのである。
い。つまり、中庸を重んじる武士が「執着心をなくし、公平に現実を
さて、十六世紀に制作されたとされる『酒飯論絵巻』は狩野元信系
見極めることで、判断や行動をなす 」とする天台中道説を象徴して
諸本と伝土佐光元筆の系統とに大別される作品で、酒好きの貴族、
おり、争点が顕著ではないのである。
飯好きの僧侶、どちらも程々に好む、つまり、中庸を重んじる武士の
そして、第三段では節会毎の食材が毎日用意されているかのよう
三人がそれぞれ持論を展開する詞書を持つ一巻本の絵巻である。
に、一つの場面に描かれ、その豊かさを象徴する。画に描かれる食材
この絵巻はまた『下戸上戸絵詞』、
『三論絵詞』、
『酒食論』、
『上戸下
の豊かさや食器・茶道具・家具、食事・宴会が進行中の場面、飲食
戸之巻』とも呼ばれる。この絵巻は静嘉堂文庫、国立国会図書館、文
の結果としての「酔い 」の場面、厨房で働く人々に主人公と同じよう
化庁、愛媛県歴史博物館、茶道資料館、三時知恩寺、東京国立博物
に画面を費やしていること、食事を作る下男・下女の穏やかな表情、
館、岩瀬文庫など、国内では約二十の美術館や図書館が模本・版本
碁を打つ人物たちの伸びやかな様子、また僧侶の住房前で主人を待
を所蔵している。
つ従者ののんびりした顔などからは平和な生活を思い浮かべること
海外でも、ニューヨーク・パブリックライブラリー・スペンサー
ができる。
コレクション、チェスタービーティ・ライブラリー、大英博物館、フ
したがって、このような画が描かれる背景には、戦乱、飢饉、疫病
ランス国立図書館、ギメ美術館等が所蔵しており、内外どちらの模
で多くの人々が塗炭の苦しみを味わった室町後半の内乱もあると思
本・版本の制作年代も多岐に渡っている。
われるのである。すなわち、主人公と共に、それぞれの家でくつろぐ
なお、フランス国立図書館蔵本は詞書を欠き、画だけが残るが、茶
人々や働く人々が並置されるこの絵巻の構成からは、過去の苦しみ
道資料館本や文化庁本、他の海外蔵本を詳細に比較した結果、画の
から脱却し、貧富の差があっても、少しでも豊かな生活とささやか
繋ぎ紙の長さに共通点があることや色彩などの類似点から東博本に
な平和、一年を通じて平穏な日々を願う強い欲求が現れている。
一番近い模本であり、制作年代は江戸中期頃で、東博本より完成度
そして、
「酒」
・
「飯」と対立させることで、中庸が良いけれど、その
が高い作品である。
ような小さな争いが逆に平和であることの証拠であるかのように誇
僧侶の住房で三人が語り合う様子、貴族の住居での酒宴、僧侶と
張して構成しているようにも思える。
武士の食事や厨房風景の四段で構成されるこの絵巻には、食事や酒
また、第三段の詞書が一年の節会における食材を連記しているこ
宴、厨房での調理場面が綿密に描かれ、主題となっている点、詞書と
とから、年頭における五穀豊穣を祈る予祝儀礼のように、記される
画に関連性が少ない点がこの絵巻が制作された時代の他の絵巻には
食材が全て厨房に揃うよう祈願しているとも受け取れる。そして、
みられない特徴の一つである。
各季節を全て一つの絵巻に描くことで、空想的な世界を構成するの
また、それぞれの段に描かれる下男・下女達、従者の服装の柄や
も物語絵の特徴であり、特に第三段では詞書だけでなく、描かれる
背景に描かれる調度品のモチーフ、庭に描かれる植物、調理の材料
食材も全ての季節の食材を描くことからもこの絵巻が理想の生活や
などは冬、春、夏、秋と各段における季節を示している点またそれぞ
日常を描いているのだと考えられるのである。
れの家でくつろぐ人々や働く人々が主人公達と並置される画の構成
最後に、2011 年 7 月にフランス人研究者 10 名と共に茶道資料館本、
も特徴的である。
文化庁本、東京国立博物館本、静嘉堂文庫本を調査したおり、色の
この『酒飯論絵巻』の別称に「下戸・上戸」、
「酒・食」とあるように、
指示や食材の名を記した室町後期の制作と考えられる未調査の白描
二つの対照的な事物の優劣争いを主題とする物語は『餅酒歌合』、
『梅
(茶道資料館)と江戸後期のこれも未調査の白描(文化庁)を調査し
松論』など、室町時代にはかなり多い。
「御伽草子」の『虫歌合』、
『鴉
た。双方を比較することで、今後の研究の発展を期待し、研究を続け
鷺物語』、
『鳥歌合』、
『隠れ里』、
『鳥羽画巻物之内合屁戦』、
『墨染桜』、
ている。
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インターンシップは受け入れ企業の人間も成長させる
磯野 正典
(国際多元文化専攻 メディアプロフェショナルコース 博士後期課程 2005 年修了、テレビ局勤務)
今年もメディア業界への就職を目指す、各大学からのイン
多くの担当者が気付くのは、学生に指導することで、自分自
※ 1 地元校以外に東京の大学から
ターンシップ生を受け入れた。
身を振り返える機会を得て、逆に多くのことを学んだというこ
も参加者があり、総勢は 23 名で過去最多となった。
とである。
事前の書類審査と面接を経て参加した学生達は、8 月上旬か
「教えることは学ぶこと 」といわれる所以であろう。学生達と
ら9 月の下旬までの期間、それぞれの担当により約 10 日間の職
日々接することは、己の姿を鏡に映すことである。
場体験をした。
そして、いつしかマンネリや無感動に陥っている自身の姿に
テレビ局のインターンシップというと、放送に直接関わる部
唖然とし、何故 ? 何のために ? ここで働き、何をしようとしてい
署、特に番組制作現場が多いようだが、このインターンシップ
るかを改めて自問自答し、新たな気付きを得るのである。
は事業局が主催するもので、イベント現場が主な就業場所とな
インターンシップでは、このように受け入れる側の企業の人
る。
間にとっても、大きな成果をもたらすというメリットがある。
テレビ局における事業部門は、放送部門に次ぐ大きな収入源
学生と企業の人間が真摯に向かい合い、情熱を持って、時と
であり、番組との連動も多く、イベントも多種多様。また、地元
場所と目的を共有するインターンシップは熱く、人も大いに成
の様々な催事に関わることで地域貢献の役割も果たしている。
長する。
参加者には事業部門だけではなく、放送局の業務全般を幅広
く学び体験して貰おうという狙いで、放送業界に関する座学も
開講。
※ 1. 本インターンシップは社として受け入れているのではなく、部署ごとに
受け入れて実施している。
また、番組制作現場見学やクリエーティブな作業にも参加し
て貰い「目一杯感じる夏の業界体験」をコンセプトとした。 合わせて成果発表の場を設け、プレゼンテーション力も鍛え
るなど、まさに「目一杯の内容」を企てていた。
このインターンシップも3 年目を迎え、手探りではじめた頃
に比べると、内容・規模もさることながら、受け入れる側の我々
に意識の変化が生じてきたことは大変に興味深いことである。
特に直接の担当者が、学生から大いに刺激を受け、それを自
らの糧として大いに感化される姿を暫し目の当たりにする。
例えば座学で何気なく発した言葉に学生が反応し、これを反
芻することで己の自信にまで昇華した例がある。
その担当者は元々番組ディレクターだったが、イベントを担
当することで「テレビ番組では人々の関心を集めることはでき
るが、イベントでは本物の感動を伝えられる!」と学生たちに
語った。
一方的にコンテンツを送り届ける放送は、リアルタイムの反
応を受け取ることは難しい。しかし、イベントではそれが即座
にわかる。彼の言葉はその手ごたえと、やりがいについて表現
したもので、学生達の心をしっかりと掴んだのだ。
また、ある女性は「協力してもらっている業者の人が気付い
ていても、立場上言えない指摘を貰い、作業の効率化に繋がっ
た 」と報告、コミュニケーションの重要性を再認識したという。
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退任教員挨拶
せきしょう
「瀬田の夕照」を眺めつつ
八幡 耕一
(龍谷大学国際文化学部准教授)
現在の「瀬田の唐橋」(夕刻時)
© 滋賀県/滋賀文化のススメ
安藤広重「勢多夕照」(『近江八景』より)
名大在職時は国際言語文化研究科ならびに関連する部局の教職員
学近くのいわゆる「瀬田」と呼ばれる地域に家を借りることになりま
の皆様には大変お世話になりました。この場を借りて改めて御礼申
した。
し上げます。
瀬田は安藤(歌川)広重の名所絵揃物『近江八景』の一つ、
「勢多夕
名大で過ごした 4 年間、校舎の耐震化工事と重なったため研究室
照(瀬田の夕照)」で知られます。この浮世絵は、琵琶湖から流れ出る
は目まぐるしく変わりましたが、学生や先生方との交流にもとづく
唯一の河川である「瀬田川」に架かる唐橋(「瀬田の唐橋」)と、そこ
様々な経験は、私の(大学教員としての )キャリアの基盤を形成する
に射す夕陽の美しさを描いたものです。現在の唐橋は重要な生活道
ものとして、今後も不変の価値を有することになると思われます。
路として歩行者や車の往来(そして渋滞)も多く、私自身、通勤路で
本当にありがとうございました。
はないものの唐橋を頻繁に利用します。
名大での経験を踏まえて、2011 年 4 月から龍谷大学国際文化学部
名大在職時の後半は犬山市に住んでおり、木曽川と国宝・犬山城
にて勤務することになりました。この学部には学科が一つ(国際文
の眺め(特に対岸の各務原市側からの眺望)にいつも感嘆していまし
化学科)しかなく、学生は 2 年次からコースに分かれて学びます。私
たが、この瀬田川のゆったりとした流れもまた、同様かそれ以上の
は「芸術・メディアコース」に所属し、マスメディア論や情報文化論
ものがあります。あまり文学的ではない私は巧く表現できないので
などの授業を担当しています。教員の約半数が外国籍で、専門分野
すが、特に夕刻時は美しく、お世辞抜きで心を奪われる風景となり
も国際言語文化研究科以上に多様です。
ます。
国立大学から私立大学への異動ということで、日常の勤務を通じ
また、この瀬田川のゆったりとした穏やかな流れがちょうど良い
て様々な違いを感じることがあります。最初に圧倒されたのは入学
のか、関西地区の大学の漕艇部の多くが艇庫を付近に備えており、
式でした。入学式当日、私は今後同僚となる先生方に着任の挨拶を
日々ボートやカヌーの練習に励む姿も見られ、それがまた絵になり
しつつ、会場である体育館に溢れる新入生を眺めていました。私は
心癒されます(よく見ると本稿の写真にも川面にカヌーが二艇写っ
当初、
(同じキャンパス内にある社会学部・理工学部も含めた )3 学
ています。わかりますでしょうか )。
部の新入生全員がその場に集まっていると思い込んでいました。と
このように、現在は生活道路や風景の一部として機能する瀬田の
ころが眼前の新入生は国際文化学部だけ(一学年約 480 人)であると
知らされ、私学の規模というものを実感させられることになりまし
唐橋ですが、かつては京都と東国方面をつなぐ重要な存在であり、
「唐橋を制するものは天下を制す 」と云われたそうです。古くは 671
た。
年の壬申の乱で合戦の舞台になったとされ、また、架橋位置を現在
私自身、学部は私学でしたので、私学には固有の建学の精神、また
の場所に定めたのは織田信長とされています。こうした唐橋の歴史
独自のカラーがあって然るべきとは認識していましたが、宗教系の
を知るにつれ、その美しい風景の意味合いが私の中でより深みを増
大学は初めての経験となります(龍谷大学は浄土真宗本願寺派の大
学で、西本願寺に設けられた「学寮」以来、約 370 年の歴史がありま
すと同時に、戦国時代に象徴される名古屋とこの土地の繋がりが、
(僭越ながらも )名大と龍大という私の勤務先の繋がりに重なり、時
す )。それゆえ仏教、特に浄土真宗との深い繋がりもまた、私学に来
折不思議な感覚を覚えます。
たことを実感する大きな要素です。
研究も盛んな龍谷大学ですが、名大のような研究拠点大学と比較
例えば着任の辞令交付式は、厳かな「南無阿弥陀仏」の念仏と礼拝
すると、やはり学生の教育に主眼が置かれます。それゆえ名大で得
から始まりました。また、毎朝の勤行や各種法要が催されるほか、始
た経験を活用しながら、講義やゼミを通じて理論と実践、あるいは
業と終業のチャイムは仏教讃歌のメロディーとなっていますし、主
学生と社会そのものを上手くつなげられる、まさに瀬田の唐橋のよ
要な大学行事の際には、
「仏旗」と呼ばれる 6 色の大きな旗が掲げら
うな役割を果たせる教員であり続けたいと、美しい夕照を眺めつつ
れます。国立大学から異動した私にとっては新鮮なことばかりです
想うこの頃です。
が、こうしたことがまさに大学のアイデンティティとして日常的に
実践されています。
ところで龍谷大学には 3 つの学舎(キャンパス)があります。西本
願寺に隣接する大宮学舎(京都市下京区)、深草学舎(京都市伏見区)、
そして瀬田学舎(滋賀県大津市)です。私の所属する国際文化学部は
瀬田学舎にあるのですが、まだ子供が小さいこともあり、住居も大
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国際言語文化研究科での日々を振り返って
川口 直巳
(愛知教育大学教育学部現代学芸課程日本語教育コース助教)
私が大学院に行こうと思った理由は、大好きな日本語教師という
2011 年 4 月からは愛知教育大学の教育学部現代学芸課程日本語教
仕事を安定した職として一生続けていきたいと考えたからでした。
育コースで、将来日本語教師を目指す学部の学生に日本語教育を教
当時私は、日本語学校や市の主催する日本語教室、小中学校での外
えています。いきなり 1 年生の担任です。教育大学という事もあり、
国人児童生徒への巡回日本語指導などをやっておりました。将来の
学生が教育実習する小中学校に挨拶に行ったり、教育実習の研究授
ためにも、やはり修士号ぐらい取得しておこうと考えて 2000 年に名
業を見学したりする仕事もあります。また、愛知教育大学には、外国
古屋大学国際言語文化研究科に入学しました。ちょうど一人目の子
人児童生徒支援リソースルームというものがあり、ボランティア学
どもの妊娠が分かった時期で、自分自身どうなるのか想像もつきま
生を各学校に派遣したりする外国人児童生徒の教育支援をしていま
せんでした。入学式当日、指導教員の村上先生に子どもができたこ
す。私自身の研究に深く関係しており、毎週楽しくミーティングを
とを恐る恐る伝えた時、当然休学することになるだろうと考えてい
しています。
ました。けれど村上先生の言葉は想像とは違ったもので、笑顔で「お
国際言語文化研究科でのこれまを振り返ると、自分では考えても
めでとう!もちろん休学しないで頑張るわよね。」でした。この言葉
みなかった道にいつも進んできたんだなあと思います。博士後期課
を聞いた時本当に嬉しくて、子どもができたことで色々なことを諦
程進学や助教の仕事、愛知教育大学への就職、どれも修士課程入学
めなくてもいいのだと、不安ながらも研究生活を頑張ってみようと
の時には想像もしませんでした。けれど、少しも後悔はしていませ
いう前向きな気持ちになれました。村上先生のこの言葉があったか
んし、現在の仕事に就けたことも国際言語文化研究科での日々のお
らこそ、今の自分があると言っても過言ではありません。それほど
かげだと思います。そして、私はこれまで出会った人々に大変恵ま
私にとっては嬉しい言葉で、今に繋がる研究生活の第一日目をその
れてきたと強く感じます。家族はもちろん、指導教員の先生、国際言
ような言葉でスタートすることができ、とても感謝しております。
語文化研究科の先生方、事務の方々、院生の皆さん、現在の職場の
修士課程を終え、就職先も見つからなかったため、何となく博士
方々、友人、多く人に支えられてきました。私自身も人を支えられる
後期課程に進学しました。このまま大学院生を続けて、果たして博
人間になりたいと思っています。まだまだ修行は続きます!!!
士号を取得し就職できるのだろうかという不安がいつも付きまとっ
ていました。私の研究は、外国人児童生徒の第2 言語習得を含む
様々な教育問題です。当時小中学校で巡回日本語指導員をしていて、
日本語での教科学習についていけない外国人の子ども達を多く目の
当たりにし、研究が支援に繋がればと考えていました。自分の仕事
に直接関係のある問題が研究テーマだったからこそ、怠け者の私で
も博士論文まで書くことができたのだと思っています。2006 年 3 月
に何とか学位記をいただくことができ、その後 2008 年 3 月に日本言
語文化専攻の助教に採用され、今年の 3 月まで 3 年間お世話になりま
した。先生方や事務室の方々、院生の皆さんには大変お世話になり
ました。皆さんのおかげで 3 年間務めることができたと思っており
ます。本当にありがとうございました。
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新任教員紹介
Time and Space
Mark Weeks
(Asssociate Professor, Department of Multicultural Studies)
I was born in the city of Bristol in England, but I left there
and Australia, but when people ask me,“Mark, are you going
when I was five years old—not alone, of course, since I wasn’
home for summer?”I’m not sure how to answer. I’m English-
t even allowed to cross the road by myself at that time—but
born, but I don’t remember so much about England. When I
with my family. Where was my family going? Australia. And
return to Australia, even though many of the people I love are
I had no choice, since I wasn’t allowed to cross the road by
there, I don’t exactly feel like I’m the same person who was
myself, but to go with them to that mysterious southern land.
there last time—a weird, and sometimes wonderful, feeling.
Living in the far southwest of Australia I was soon allowed
I like Thailand but I’m not at all Thai. I like Japan and my
to cross the road by myself, not because I was an especially
Japanese friends, but when I fly back here, I can’t honestly say
intelligent and responsible child(I wasn’t), but because there
I feel like I’m“coming home”.
wasn’t much traffic. In fact, there weren’t many people—not
So, I wonder, is it possible to live without a home? Many
in my street, not in my town, not even near my town. The
people are asking that question in a world of dizzying
closest city to my town was two hundred kilometres away,
global traffic, which means I might not have a home but I’
and that city, Perth, was more than two thousand kilometres
m not homeless alone. It’s from this, I think, that one of my
from the next major city. Ocean stretched south to Antarctica
intellectual interests has grown: the ways we deal with change,
and west to Africa. Once you got past the trees and wheat
difference and speed these days. At the same time, I’ve been
fields to the north and east, desert sprawled out in silence to
exploring whether at the heart of our deepest laughter there
the aboriginal Dreamtime.
lurks a brief but somehow important silence, a stillness of
So we didn’t worry much about looking left and right for
some kind. Of course, this silent stillness could be an illusion; it
oncoming high speed traffic. And because the space was so
could be nothing more than my desire to return to the relative
wide, time itself seemed slow. It actually seemed to stop. Or,
peace of the far out global fringe of my childhood. But maybe
more precisely, time seemed to be something that started and
not.
stopped, sped up and slowed down, and then stopped again,
always returning to an underlying stillness, a carpet of silence.
Anyway, since then I’ve done nothing—except when I’ve
been lying on my back doing nothing, which is as often as I
can—but move. I’ve travelled through Europe and the Middle
East(standing beside busy roads hitchhiking sometimes),
lived in country towns and in cities, lived in Thailand twice,
and this is my second time in Japan.
So where is my home? I have passports for both the UK
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蔵書調査のタイム・スリップ
ディラン・ミギー
(G 30 比較言語文化コース特任准教授)
この度、グローバル 30 比較言語文化プログラムにおいて日本文学・
と、こういうものが薄暗い部屋において囲炉裏の残り火が照らす微か
文化の授業が担当できるようなチャンスを与えていただき、誠に有難
な光で読まれたでしょう。こういう風に想像力を使って、何らかのタ
く思っています。切磋琢磨する名古屋大学の新しい同僚方々に手厚い
イム・スリップを通して、調査している資料が昔いかに読まれたか、
待遇を受け、キャンパスの田園的な環境において楽しい日常生活を満
どういう環境で読まれたかということを考えずを得ないと思います。
喫しています。これからの三年間を目指して、できるだけグローバル
「清書」ばかりを大事にする学者は、シミや落書きを見逃すだろうが、
30 修士課程の大学院生、或いは学部の留学生のために楽しく学べるよ
これは残念だと思います。古い物を研究する場合は、当時の読書態度
うな教育環境を築きたいと思います。学生中心の授業にて様々な教育
を把握するには、例えば鰻蒲焼のタレがページに染み込んだ箇所で
手法を用いながら、日本文学ならではの魅力を生徒さんに紹介するの
さえ価値のある資料だと思います。ある日、ある読者が鰻を食べなが
が楽しみです。また、修士課程大学院生の指導者としては、指導生の
ら山東京伝の黄表紙を読んでいたという平凡な事実からも、少なくと
研究活動の熱心なサポーターになりたいです。
も、値段の安い黄表紙に対しての消費的な態度については何かが分か
るでしょう。
私自身も大学生になってから日本文学に魅せられたものですが、
2004 年に金沢大学で近世日本文学を研究し、2009 年にアメリカのプ
近世出版物における落書きを同じ目で見れば、様々な発見ができま
リンストン大学で博士号(比較文学――日本と中国)を獲得し、それ
す。面白いことに読者による作者や作品に対しての批評だけではな
からニューヨーク州立大学ニューパルツ校で教鞭を取りました。ほぼ
く、本を流通していた貸本屋(有料で本を貸す店)に対しての愚痴も
三年間、日本・中国・古代インド文学など、多岐に渡る授業を担当し
頻出します。例えば、この間、国立国会図書館に所蔵されている幕末
ていました。専門分野と言えば、江戸時代( 1603-1868 )の大衆文学(特
頃の読本を読んでいた時は、
「大惣ガタカイ」という書き込みを見つけ
に浮世草子・八文字屋本・黄表紙などの娯楽物)及び出版文化を中心
ました。
「大惣」というのは明治 31( 1898 )までに営業していた日本一
にして研究しています。出典研究よりも書誌学的、文学史的、或いは
大きな貸本屋でした。名古屋の城下町にあった(長島五丁目)この書
社会学的な研究だと言えるでしょう。近世読者はいかに当時の文学作
肆は割りと安い見料で本を貸していたと思われていますが、こういう
品を受容していたかということを問題にしながら、最近は、日本の各
大惣の客による見料に対しての文句も資料として取り扱わなければ、
図書館において幅広い蔵書調査を行い、版本における読者による落書
貸本屋と読者の関係についての歴史は不備になってしまうでしょう。
きや戯画の資料を集めています。研究対象としては、近世版本におけ
この蔵書調査の関連で、もう少し近世名古屋の出版文化に対しても
るシミにも興味があります。
興味を持つようになりました。今後は大惣だけではなくてそれほど知
書物が電子化されつつある現在においては、実際に本を手のひら
られていない知多村木米屋岡七、文林堂、廣屋久治郎、玉華堂などの
において、ページを指で捲って、そういう物質的な読み物との接触を
近世名古屋の書肆或いは貸本屋の歴史も研究したいと思います。そし
知らない人が増えているでしょう。電子化されたテキストと違って、
て、せっかく名古屋大学で日本文学の授業をとるグローバル 30 修士
本というのは有機的なものであり、歳月が経つにつれ、表紙の色が褪
課程の大学院生、或いは学部の留学生の為には、名古屋の特殊的な文
せたり、ページが黄んだりして、そして指紋、汚れ、唾、抜け毛、シミ
学史について勉強ができるように、研究と教育を繋げて今回の蔵書調
などの読者による痕跡が残ります。矛盾とは言えるでしょうが、現在
査で出土した一番興味深い近世読書のサブ・カルチャーと係わる資
はこういう汚れた古書の蔵書調査を行う場所はたいてい潔白で、螢
料を紹介したいと思います。
光灯が眩しい閲覧室ですが、二、三百年前の昔に遡れば、もしかする
25
言葉で悩む?それとも楽しむ!
楊韜
(国際多元文化専攻 助教)
院生時代から、名古屋大学のキャンパスを散策することが好
日本での生活は札幌で始めました。札幌の人々はわりと東京
きです。とくに、理学部や農学部辺り、文系の人があまり通り
弁に近い日本語を使いますが、ここでもやはり北海道方言とい
かからない東山寄りのエリアは、植物も多く季節の変化を感じ
うものに出会います。学食で初めて「ザンギ」と聞いた時、習っ
るところです。先日、真夏のキャンパスをぶらぶらしたら、工
てきた「唐揚げ 」と同じものだと知りませんでした。アパート
事中の道路に「自転車を引いて通過するよう 」との案内板があ
の大家さんが自分の孫が「メンコイ」という時、
「かわいい 」の
りました。一瞬、
「自転車を引く?」と不思議な感じがしました。
もう一つの言い方を知りました。その後、一時期「津軽弁」には
あとで友人に聞いてみたら、
「自転車を引く 」より「自転車を押
まって、青森出身の友人に習い、毎日「~んだべ 」と連発しまし
す 」のほうがより多く使われているかもしれないが、とくに不
た。もちろん、大学のアイヌ語講座にも挑戦したが、今は完全に
自然でもないとのことがわかりました。このようなことは、私
忘れてしまいました。
「内地」へいくということで、札幌から名
にとって日常茶飯事です。10 年以上日本に暮らしていますが、
古屋へ移りました。赤味噌の味に慣れるのは早かったのですが、
いまでも時々思いかけずに初耳の日本語と出会います。そして、
名古屋弁に馴染むのは時間がかかりました。最近になって、テ
このような表現を調べて意味がわかれば、いつも新しい収穫を
レビで名古屋弁を振る舞う市長を見て、何となく滑稽に見えま
得たようでとても楽しいです。
す。
「エビフリャー」は美味しいですが、食べるたびに大声で叫
私は、中国南部の長沙市というところで生まれました。
「一為
ぶ必要はないでしょう。
遷客去長沙、西望長安不見家」や「日落長沙秋色遠、不知何処吊
方言、そして外国語もそうですが、習得する過程において、新
湘君」のように、名詩人李白もよく詠った歴史のある町です。長
しい表現と出会うたびに、毎回新鮮に感じます。当然、不愉快な
沙は中国中南部に位置しますが、
「長沙弁」という方言が現地の
こともたまにはあります。たとえば、
「中国人はがめつい 」と言
人々に使われています。台湾出身の監督である李安(Ang Lee)
われたとき、意味がわからないと気にしないかもしれません。
の作品『飲食男女(Eat Drink Man Woman)』のなかで、
「梁母」
言葉の習得は難しいことですが、日常生活での小さい出会いを
というアメリカからの未亡人が始終「長沙弁」で話すのですが、
大事にして、勉強というより楽しみと思えば、意外に記憶に残
ユニークと感じます。しかし、この「長沙弁」は、中国の数多く
るかもしれません。その出会いのうしろには、必ず未知の文化
ある方言の中でもわかりにくいものの一つです。実は、主にマ
が存在します。日本の大学生に中国語を教えていますが、よく
ンダリンで教えられた小学校から市内の下町の小学校へ転校し
「難しくて、どうしたら上達できるかを悩む 」と聞きます。言葉
た時、初めて自分が「長沙弁」に精通していなかったことがわか
というものは生きていると思います。ですから、言葉の習得に
りました。当時少年でありながら初めて、
「言葉」というものが
関しては、覚えることに悩むより、常に楽しむように心がけた
いかに難しいものかと考えはじめました。そして、今となって
ほうが効率的かもしれません。
帰郷するたびに、
「あなたの長沙弁は、やはりまだまだだ 」と友
人に笑われます。
26
2 011 年度オープン キ ャ ン パ ス ・ ポ ス タ ー 発 表
稲 田 朋 晃
片 桐 準 二
韓国人日本語学習者の日本語アクセントに現れる母語の影響
非母語話者日本語教師の学習ビリーフとメタ認知的知識の特徴
―PAC 分析を利用したカンボジア人日本語教師の事例研究―
韓 韡
なぜ『空薫』における欲望する女たちが欲望の主体になれなかったのか ―『空薫』と『そら炷 続編』論
ピナンソッティクン ポラニー
日本語学習者の不同意表明 ―日本語熟達度と語用論的能力の関係を中心に―
朴 善 日韓二字漢語の動詞および形容詞化の対照 ―語彙資料としての提案―
賴 鈺 菁
江戸前期治世の道における「諫言」について ―藩の家訓書を通して―
小 林 亜由美
Janet March に見られる Floyd Dell の女性観
張 雅 婷
原風景としての異郷体験 ―安部公房の満州、リービ英雄の台湾―
鄧 筠
Multiple Layers of Everyday Life: The Cinema of Edward Yang
西 尾 祥 子
パブリック・ビューイング現象に関する考察
米 澤 孝 子
Fanny Mendelssohn Hensel ―19 世紀ドイツにおいて何が女性作曲家の自立を妨げたか?―
李 海
日本滞在期における梁啓超の研究
野 村 るみ子
女性文学を取り入れた日本人大学生のための英語教材開発
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2 0 1 0 年 度 提 出 修 士 論 文 題 目 一 覧
日本言語文化専攻
氏 名
石 田 佑 司
題 目
『身毒丸』における母子一体化 ―近親相姦願望に関する精神分析―
入 江 友 理
Can-do statements の記述に含まれる要素が自己評価に及ぼす影響 ―「聞く 」技能に焦点を当てて―
王 水 連
語彙的複合動詞「見~」の習得に関する一考察 ―中国人日本語学習者を対象に―
夏 芳 芳
中国人日本語学習者の褒め言葉に対する返答について
郭 思 言
宮沢賢治の童話における感情表現についての分析
黒 田 朋 斎
ベトナム中等教育機関におけるノンネイティブ日本語教師のビリーフ構造
小 山 友里江
質問表現の機能の男女差 ―初対面場面における日本の大学生を対象に―
笹 木 大 輔
温度形容詞の意味分析 ―「あつい 」
「つめたい 」
「あたたかい 」
「ぬるい 」を中心に―
三分一 エルネスト 篤
江戸時代後期における湯屋の考察 ―『賢愚湊銭湯新話』と『洗湯手引草』を中心に―
塩 瀬 博 子
異文化交流を巡る人々 ―豊根村のサウジアラビア王国及びその留学生との交流を例として―
徐 香 丹
中国朝鮮族日本語学習者の促音挿入について
髙 木 都
初級日本語教育における依頼表現 ―タイ語を母語とする日本語学習者のための再検討―
張 紅 錦
現代日本における葬送に対する意識変化 ―自然葬を中心に―
蜂須賀 真希子
交流型日本語教室における学習者と日本語母語話者の相互行為にみられる「いきづまり 」の解決過程
朴 雪 梅
清末民初における中国人日本留学生と女性解放思想
MEESUWAN MONSICHA
単純動詞Xと「とり+単純動詞X」の意味分析 ―「とり落とす 」
「とり残す 」
「とり逃がす 」を中心に―
叶 茹
中国人日本語学習者における複合動詞「~直す 」の習得研究
ROSOGA CRISTINA
「違いがわかる」購買者から「違いを楽しむ」購買者へ ―ネスカフェ・ゴールドブレンドTVCMにおける伝統の創出―
国際多元文化専攻
氏 名
題 目
棚 橋 美知子
Réflexion sur le maternel chez Vautrin : D'après les points de vue de Rastignac et de Lucien
田 邉 悠 子
L'Antisémitisme et la liberté d'expression en France contemporaine
岩 村 隆 志
禅とイデオロギー
銭 亦 昕
TV コマーシャルに表象される国民文化の日中比較 ―Hofstede の権力格差次元をめぐる実証研究―
DAVAADORJ Odbileg
名古屋大学デジタル・インタラクティブ・マップの作成[コンテンツ制作]
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中 川 祐三子
The Development of the Hmong Community in Minnesota:The Resettlement Experience of the Host
Community and the Refugees
野 田 伊津子
ハヴェルの自伝的戯曲『Protest 抵抗』に関する考察
真 鍋 奈々恵
統一後の旧東ドイツ人の文化アイデンティティをめぐる表象の変遷
―映画『ゾンネンアレー』と『グッバイ,レーニン!』の分析を通じて―
米 澤 孝 子
Der Einfluss von Bildung und Assimilation auf die Töchter der Familie Mendelssohn
上 杉 俊 輔
フェイクドキュメンタリー「須田先輩」制作からみた演技としての自己表現[コンテンツ制作]
内 山 裕 幾
新たな地域コミュニティ創出への挑戦
―NPO 法人大ナゴヤユニバーシティネットワーク創設の記録―[コンテンツ制作]
小 川 祐 希
生きもの会議に学ぶ ―学校と COP10―
夏 菲
現代中国語の方向補語 “ 起来 ” について
金 智
在日コリアンは韓国ドラマをどう見ているのか
―韓国ドラマ視聴行動と民族的アイデンティティとの関係を中心に―
金 玲 玉
魯迅と胡適の結婚観
鄺 子 延
The Communication of Corporate Social Responsibilty in China:
A Comparative Analysis of the Chinese Web sites of U.S. and Japanese Enterprises
呉 悦
川端康成と沈従文における伝統への回帰 ―「古都」と「辺城」の比較を中心に―
薩 本 琢 磨
日本語の名詞形構造傾向と韓国語の動詞形構造傾向
島 本 昌 典
日本語母語話者のための韓国語教育
謝 璡
CEPA 影響下における香港映画の越境および「香港性」の変容に関する研究
鄒 明 波
現代中国語における介詞 “
鷲 見 佳 子
森村泰昌における擬態と茶化し ―「なにものかへのレクイエム」が放つ現代社会への問いかけ―
達 慧 晶
中国人留学生の異文化適応と SNS 利用行動に関する研究
TANAKA KAORU
日本におけるブラジル人児童生徒の読解力
趙 世 華
ドキュメンタリー制作から見た広州の国際都市構築の現状
―「広州に輝いている桜たち――広州日本婦人会」―[コンテンツ制作]
趙 玲
” について ―受身文と処置文への互換性を通じて
『ブロークバック・マウンテン』の映画分析
陳 悦
松本サリン事件の新聞報道にみる犯罪報道 ―メディアディスコースの批判的分析のアプローチから―
中 井 孝 子
Study of Chita by Lafcadio Hearn:The Sea in His Inner World
橋 本 亜 季
Die Stadt Berlin im Werk Erich Kästners:Über die fiktive Wirklichkeit im Roman “Fabian”
浜 島 清 美
ガバメント、ガバナンス、トランスナショナリズム
馬 小 叡
日本における中国人研修生の現状と日本語習得
Fatiyah
日本における熟練外国人労働者のスキル開発 ―JIEPA 第一陣インドネシア看護師の事例―
PORTES GUSTAVO
PEREIRA
Identity Formation and the Identification of Bragilian youths with Naruto Characters:A Jungian Approach
馬 嘉 文
映画『無言的山丘』における差別の連鎖と台湾人アイデンティティ
柳 晶
小曼のジェンダー観について ―人生と作品を中心に―
42
20 10 年 度 提 出 博士論文題目一覧及び要旨
氏 名
題 目
SAWETAIYARAM
Tewich
日本語の受身に関する習得研究 ―タイ語を母語とする学習者の場合―
呂 雷 寧
現代日本語における可能表現に関する研究 ―無意志自動詞を中心に―
水 野 道 子
公正原則と公共の利益 ―アメリカ放送メディアの考察を通じて―
王 閏 梅
梁啓超の近代観 ―思想的矛盾とその展開―
許 時 嘉
明治日本の文明言説と植民地統治 ―台湾統治をめぐって
許 征
京劇の韻白に関する音響音声学的研究
全 鍾 美
初対面場面における自己開示の研究 ―韓国人日本語学習者を対象として―
野 田 大 志
現代日本語における複合語の意味形成 ―構文理論によるアプローチ―
大 和 祐 子
中国人日本語学習者による日本語テキストの語彙の認知処理メカニズム
陳 相 州
コーパスを利用した日本語談話標識「でも」「だから」の使用に関する研究
楊 韜
上海におけるメディアと近代性(1926 ~ 1939) ―共同体、日常生活、ナショナリズム―
六 鹿 桂 子
チベット族における一妻多夫婚の形成理由に関する考察
―中国雲南省迪慶藏族自治州徳欽県での現地調査に基づいて―
斉 藤 信 浩
韓国語および中国語を母語とする日本語学習者の論理文習得のメカニズムに関する研究
―理由文と条件文の習得を中心に―
東 会 娟
日本語の縮約形に関する研究 ―日本語教育における会話能力育成の観点から―
磯 村 尚 弘
クロアチアにおけるマリア信仰とクロアチア民族主義
杉 江 叔 子
王安憶の都市小説 ―上海へのトポフィリア―
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王安憶の都市小説 ―上海へのトポフィリア―
杉江 叔子 (国際言語文化研究科学術研究員、国際多元文化専攻東アジア言語文化講座、博士後期課程 2011 年修了)
本論の第一部では、主に王安憶の作家としての生い立ち、作
述べている。新しい時代の変革によって弄堂は、旧上海の時代
家としての軌跡について論じた。王安憶は安徽省での下放と、
遅れの象徴として次々に取り壊されていった。王安憶は王琦瑶
江蘇省の文工団にいた約 8 年間を除いては、これまでの生涯の
の死を上海弄堂の消失に重ね合わせ、上海という都市の経験を
大半を上海で暮らしている。王安憶にとって上海を離れ経験し
表象したのである。
た下放先での過酷な体験が、上海を今までよりもっと思い出が
王安憶が『富萍』の前に発表した『悲慟之地』と『好婆和李同志』
詰まった親密な場所へと変化させたのであろう。こうした経験
の背景にあるのは、王安憶がもつ上海人に対する偏狭や差別意
が、過去の大切な経験と結びつき、王安憶は自分の生活感を作
識への疑問である。
『富萍』に登場する奶奶、富萍、富萍の舅舅ら
品に表現するようになった。1980 年代後半、王安憶は上海市民
は、蘇北出身の上海に出稼ぎでやってきた外来移民であり、そ
と外来移民との間に存在する葛藤を描いた『鳩雀一戦』を 1986
れぞれが上海で自分の生き方を模索している。故郷を捨てた富
年に、
『好婆和李同志』を 1989 年に発表している。これらは『富
萍は、蘇北の叔叔の家、淮海路の奶奶の雇い主の家、やっと探し
萍』や『上種紅菱下種藕』の布石といえる作品であろう。
出した閘北区の舅舅の家と、どこにも根付くことができなかっ
第二部では、王安憶の都市小説 4 編『香港的情与愛』
『長恨歌』
た。しかし、富萍は夫となる青年とその母に梅家橋で出会い、新
『富萍』
『我愛比爾』を通して、王安憶の上海への愛着をトポフィ
しい自分の故郷を上海周縁地帯の中でも非常に貧しい梅家橋で
リアの概念から検討し、作品の中にいかに表象されたのかを明
見つけた。王安憶はこのような富萍の選択を通して、ある特定
らかにした。
の場所に愛着をもち、そこに根付くことの重要性を描いたので
『香港的情与愛』の冒頭は、
「香港には大いなる偶然の出会い
はないだろうか。
があり、それは奇跡的な出会いである。」という王安憶の香港観
『我愛比爾』に関しては、阿三とビルとマルタンの関係につい
ではじまる。老魏にとって香港は、故郷に似た馴染みの深い場
て再解釈することから論じはじめた。阿三は中国や西洋の域を
所である「臨時の家」であった。老魏は逢佳と一緒に暮らすこと
超えた多様な価値観が存在する場において、自分の作品が認め
で「臨時の家」が「香港の家」になることを期待したが、
「香港の
られることを信じて絵を描き続けていたが、マルタンに否定さ
家」にはならなかった。老魏は香港の歴史を顧みて、香港の百年
れる。ビルの「政治上の西洋」もマルタンの「文化意義上の西洋」
の契約もあっという間に過ぎ去ったのだから、自分と逢佳の関
も、オリエンタリズムの独りよがりの解釈であり、阿三は二つ
係などとるに足らないと振り返る。王安憶が意図する老魏の「香
の西洋に破滅させられたのである。マルタンと別れた阿三は売
港の家」とは、老魏にとって心の拠り所となるトポフィリアを
春容疑で労改に送られる。阿三は労改で決して自己の罪を認め
意味するのではないか。つまり、老魏にとって香港は自分の故
ず、脱獄するのであるが、この脱獄はビルやマルタンとの過去
郷に似た場所であり、最初から老魏の「香港の家」であったと考
を肯定した阿三の意志であると解釈した。そして、
『我愛比爾』
察できる。一方、逢佳と一緒に香港に滞在していた一時期こそ、
に現れる柏樹の描写は、上海と白茅嶺労改という場所と、10 年
老魏の「香港の家」が「臨時の家」であった限られた期間であっ
間の過去と現在の時間の隔たりを一瞬にして埋め、阿三に特別
たと解釈したい。
な性質がしみ込んだ過去を思い出させ、ノスタルジアを抱く役
その後、王安憶が発表した『長恨歌』は、壮大な上海の風景で
割を果たしている。
ある弄堂の描写から始まる。上海の歴史の変遷を経験した弄堂
上述のとおり、本論では、王安憶が抱く上海へのトポフィリ
は、過去と現在の上海の結合点であり、この都市の底辺を形作
アが、作品の中にいかに表象されたのかを分析した。上海への
る存在そのものである。
『長恨歌』の主人公・王琦瑶の運命はミ
トポフィリアは王安憶の不変の確固たる精神となり、王安憶は
ス上海第三位に選ばれたことで、一夜にして変わる。その後、王
小説の背景として上海を選び、上海を書き続ける。
琦瑶は李主任の愛人となり、愛麗絲マンションを与えられるが、
李主任との死別によって王琦瑶は上海を離れ鄔橋で療養する。
鄔橋はどんな万事万物も引き受け、停止させ休止させる場所で
あった。回復した王琦瑶は上海に戻り、平安里の弄堂で様々な
人びとと殺害されるまでひっそりと暮らす。王安憶は「王琦瑶
こそ上海であり、彼女の形象こそ私の心の中の上海である 」と
44
チベット族における一妻多夫婚の形成理由に関する考察
―中国雲南省迪慶藏族自治州徳欽県での現地調査に基づいて―
六鹿 桂子 (国際言語文化研究科学術研究員、国際多元文化専攻多元文化論講座、博士後期課程 2011 年修了)
チベット族は、その婚姻形態のひとつとして、中国の他の地
ト族の調査)によって得られた資料をもとに、一妻多夫婚の形
域および他の文化圏においてもあまり例を見ない、一妻多夫婚
成理由を考察した。
を有している。本論文は、中国雲南省迪慶藏族自治州徳欽県に
本論文は、全体が 3 つの部分から成っている。第 1 の部分は、
居住するチベット系住民について調査することで、この婚姻が
第 1 章で一妻多夫婚の形成理由を先行研究に基づき考察をおこ
現在でも行われている実相を明らかにしつつ、この婚姻形態が
なっている。第 2 の部分は、第 2 章から 6 章にかけて、2002 年 4
選択される多様な理由を考察するものである。
月、2004 年 4 月、2006 年 4 月、2007 年 4 月、2009 年 11 月、2010 年
夫たちの関係によって、その種類が異なる一妻多夫婚の中で、
8 月それぞれ短期間の現地調査をおこなった徳欽県に居住する
最も多くおこなわれているのは、夫たちが兄弟である兄弟型一
チベット族の現存する一妻多夫婚(兄弟型一妻多夫婚)について
妻多夫婚であり、妻を亡くした父親が、成長した息子と共に 1 人
多方面な角度から考察をおこなったものである。第 3 の部分は、
の妻を娶る父子型一妻多夫婚、叔父と甥による一妻多夫婚に加
最後の第 7 章おいて、一妻多夫婚をおこなっている妻や夫たち
え、夫たちが親類関係にない友人同士による友人型一妻多夫婚
の心理的な面にまで深く掘り下げて考察している。
もある。
第 1 章では、これまでの先行研究により示されてきた一妻多
複数の夫たちで 1 人の妻を娶ることを可能にしているのは、
夫婚の形成理由についての仮説を整理し検討している。
チベット族の伝統的な考え方による。チベット族は、父方を「骨
第 2 章では、調査地に存在する一妻多夫婚は、どのような環境
(rü:`pa)」、母方を「肉(sha)」とし、同じ父親を持つ兄弟姉妹は
のもとで現在においても村民がおこなっているのかを知るため
同じ「骨(rü:`pa)」を持っているので、その兄弟を 1 組と考える。
に、B 行政村の地理的な面や歴史的な面での概況の考察と、そこ
よって同じ「骨(rü:`pa)」を持つ者同士の結婚を固く禁じている
に暮らす人々の生活全般について述べることで、村民の日常生
一方で、このような者同士で共有の妻と結婚することを、1 組
活からみた一妻多夫婚を示している。
(の兄弟)と 1 人の妻による結婚として認めている。すなわちこ
第 3 章では、B 行政村の村々における村民の状況と村に存在し
れが一妻多夫婚である。
ている一妻多夫婚の現状について考察している。
中国においては、1950 年に制定された中華人民共和国婚姻法
第 4 章では、村同士の地理的な距離もそれほど離れておらず、
( 1980 年と 2001 年に改正)があり、規定では一夫一婦婚が原則
村民の人口(人数や男女の人数差)
、世帯数、夫婦総数、生活基
である。法律上では、一妻多夫婚は違法な婚姻形態ではあるが、
盤などの村の状況が酷似している 2 つの村において、一方は以
チベット族の人々は一妻多夫婚に対して悪いイメージを持って
前から一妻多夫婚をおこなってこなかった村と、もう一方は現
いない。また複数の夫たちの共有の妻になる女性についても、
在でも一妻多夫婚をおこなっている村の状況から、この 2 つの
女性の社会的地位が低いために、このような結婚をするわけで
村を比較して、一妻多夫婚の形成理由を考察している。
もない。その根拠として、人々が一妻多夫婚夫婦のいる家庭に
第 5 章は、1 本の山道でつながった 3 つの村の関係から一妻多
対して、家族が仲睦まじく暮らし、家には労働力が多くあるの
夫婚がおこなわれる理由を考察している。
で、経済的に豊かになっていくと称賛していることや、一妻多
第 6 章の一妻多夫婚夫婦の事例は、徳欽県の隣の県である香
夫婚の妻は夫たちに分け隔てなく接し、家族をまとめることが
格里拉県の 1 つの村に存在しているもので、ここで示した一妻
できる賢く良き妻であると賞賛していることを挙げることがで
多夫婚の形成理由の特異性に注目している。
きる。これらの点から、一妻多夫婚はチベット族の生活の中か
第 7 章は、一妻多夫婚を形成する妻と夫たちに焦点をあてた
ら必然的に生まれてきた婚姻形態であると言ってよい。よって
検討をおこなっている。
現在においても、一妻多夫婚はおこなわれ続けているのである。
参照資料は、調査によって得られた一妻多夫婚夫婦の事例に
このように周りの人々から賞賛される一妻多夫婚ではある
おける家族構成図を示してあることからわかるように、事例の
が、チベット族の婚姻形態の中で大多数を占めるのは一夫一婦
多さが本論文の特徴の 1 つである。以上のように本論文は、チ
婚である。そのような一妻多夫婚を、人々は現在においても何
ベット族の一妻多夫婚の形成理由を中心テーマにおいて、論文
故おこなうのであろうか。その理由を明らかにするために、一
を構成している。
妻多夫婚についての先行研究を検討した上で、現地調査(中国
雲南省迪慶藏族自治州徳欽県 B 行政村の村々に居住するチベッ
45
名古屋大学大学院国際言語文化研究科 年報 Bulletin L&C 2011 vol.3
2011 年 10 月 15 日 発行
編集発行:就職・同窓会委員会
前野みち子(日本言語文化専攻比較日本文化学講座教授 / 研究科長)
藤井たぎる(国際多元文化専攻先端文化論講座教授 / 評議員・副研究科長)
田所 光男(国際多元文化専攻多元文化論講座教授 / 副研究科長)
池側 隆之(国際多元文化専攻メディアプロフェッショナル論講座准教授/講座主任)
伊藤 信博(日本言語文化専攻助教)
楊 韜(国際多元文化専攻助教)
〒 464-8601 名古屋市千種区不老町
URL: http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/
制作:西濃印刷株式会社
〒 500-8074 岐阜市七軒町 15 番地 TEL:(058)263 - 4101