加茂の特色が生かされた常設展示

民俗 資料館 だ よ り
行 所
2004.3.31
発 住
第 11号
加茂市民俗資料館
電
加茂市大字加茂2 2 9 - 1
FAX 0256-52-0089
話 0256-52-0089
加茂 の特色 が生 か された常設展示
加茂市民俗資料館長 中
滝
孝
明
民俗資料館 が下 条地 区か ら加 茂 山公 園内 に移 転 開館 して、今年 の11月で ち よう ど10年にな り
ます。 この 間、多 くの皆様 か ら当館 をご利用 い ただ きま して有 り難 うご ざい ます。
さて、加茂郷土 調査研 究会発行 の加茂郷土誌第13号に 「
歴史 をつ な ぐ子供 たちへJと い う詩
―― 子供 たちよ 君 たちは知 っているか ? 何 千年 も前 に
が掲載 されてい ます。その詩 には 「
生 きた我 々の祖先 が 食 物 を煮炊 きした土器 のか け ら そ れ を手 に し 彼 らの生活 を想 う とき
の驚 き」 とい う一 節 があ ります。 この計が掲載 されてか ら16年あ ま りが経過 しま したが 、そ の
間、加茂市 で も新 たな遺跡発掘調査 によ り多 くの上 器や石器 が出土 されて い ます 。
これ らの上器や石器 を含 め、当館 には現在 、約20,000点の収蔵品があ ります。館 内には、そ
の うち約 1,200点を常時展示 してお ります。展示 品 は、 これ ら出土 品 のほか 、加茂 の祭 り、歴
史、古文書 などか ら、建具 の製造 工程 や木 工の特産品、漢方薬 の製造器具、加茂縞 の機織 り機、
陣 ケ峰瓦、紙す き用具 な ど、加茂 の特色 を生か した、 しか もいず れ も日常 では見 る機会 のほ と
ん どない貴重 な資料 ばか りとなってい ます。 ど うか、皆様方 におかれ ましては、お気軽 に ご来
館 い ただ き、加 茂 の歴史 に思 い を馳 せ て い ただ きたい と存 じます 。
加茂 の文化財紹介
じ
黒水 日 苦神社 格 天丼絵 勝 山画
- 1 -
宮寄上の鉛鉱 山 と加 茂商人
加茂市文化財調査審議会委員 長 谷 川 昭
一
・
。
宮寄 上の小 乙川の上流 には、廃鉱 になった鉱道 選鉱場 選鉱 した後 のズ リ (鉱石屑 )を 積
み上 げ た場所 な どが あち こちに残 り、 かつ ての鉛鉱山 の繁栄 の跡 をとどめてい る。
宮寄 上村 で鉛 の鉱脈が発見 されたのは、江戸時代後期、安永 8(1879)年
ころで 、宮寄上村
の長左衛 門 と下 田郷森町村 の甚内 とい う者 で あ った と言 われてい る。
宮寄 上 村 内での鉱 山の試掘 を村松藩 が承認 した ものだが 、 はっ きりした場所 につい ては明 ら
かではない。
初 め は村松 町 の 酒屋小八 とい う商人 が村松 藩 の許可 を うけ て鉛 山 の経営 を請 け負 っていた
が 、寛政 9(1797)年
に地元 の農民 とい ざ こ ざをお こ し炭や薪 な どの購入 を止め られて、手 を
引 い た。そ の後、 三 条町倉 田屋七之助 ・村松 町扇屋儀右衛 門 らが経営 を引 きつい だことが 知 ら
れて い る。
にお きた 「
袖山出入」 とい われる七谷郷 と川内郷 (現村松 町)と の仙見川
上 流地域 の 山地 をめ ぐる境界争 い に七谷側が勝訴 してか らは、為之互 ・儀兵衛 ・九蔵 ・藤蔵 ・
文化 12(1815)年
新左衛 門 ら農民 によって続 々 と新 しい鉱 山が発見 された。
彼 らは経営 に も進 出 して いつた。宮寄 上の鉛鉱山は生 産量 の増加 によ り、村松藩 の ドル箱的
存在 にの し上が り、底 をつい てい た村松藩 の財政再建 の一助 となった。そ の功 によ り宮寄上村
の村役人 たちは村松藩 か らい ろい ろな恩賞 を与 え られた。
文化 10(1822)年 、鉛 山世話役 の新左衛 門 は肝煎格、同 じ く儀兵衛 は組頭格 に昇進、そ の後、
弘化 5 ( 1 8 1 4 ) 年 には為左衛 門 と藤蔵 が組頭
格 に昇進、儀兵衛 が給米 二斗 の支給 を受 けた。
め
認
ぴ ン
案 ケ線
儀兵衛 は鉛 山肝煎 に任命 されてい る。
鉛 鉱 山が もっ と も盛 んだ ったの は 、安 政 2
.
山
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伊
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ヽ
6軒 を数 え、七谷郷 では一番多 か った。
,
の小売酒屋 は、嘉永 6(1849)年 の調 べ では弥
七 ・政八 ・藤四郎 ・幸治郎 ・喜之助 ・喜太郎 の
略鉛山鋪智 小家
や料理 を出す とい う娠 わいで あ った。宮寄 上村
宮寄 上 村 の鉱 山師 は多 くの金子 を抱 えて地元
の鉱 山に とどまらず他領 まで にその技術 の高 さ
は知 れ渡 っていた。天保 15(1844)年 7月 、大
白川新 田 (現入広瀬村 )の 大栃 山 の 山師総代が
-2-
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持
.拭 宮 調 や
、
・
ヽ
・
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供一
中韓
一
紳牌郭評ジ訓
ばい
車
れ等 を相手 にす る小 売酒屋 がで き、昼 間か ら酒
0
な く村松藩領外 か らも大ぜ い集 まって きた。 こ
鉛 山鈴
つ
鉱 山で働 く金子 (坑夫)に は近郷 ばか りでは
上高柳
品
評八
高 をほ こった とい う。 、
つ鉛 山 錦 r f i t
上戸 沢 ヽ
の鉛産出
( 1 8 5 5 ) 年 の ころで、 2 年 間 で7 , 5 0 0 貫
匂
鉛山 ( 加茂市史下巻 4 6 6 ベー ジ)
`、ョ′/
の地元相場 を当時嶽 の 山
幕府 に収 める鉛3 , 0 0 0 貫
師 と言 われていた宮寄上村 の為左衛門 と為之五 に
問い合 わせ、それに対 して 「
吹鉛売両二付直段 三
貫四百五十匁」 と答 えた文書が残 っている。
入広瀬の近世』
( 浅井賢三家所蔵 『
)
ここで産出 された鉛 は、加茂町 の倉 間屋治平 ・
紙屋虎吉 。若狭屋 ( 小柳 ) 喜 助 ・丸川屋 ( 小林)
松之 正 ・三 条 の吉井屋 乙吉 な どの商人 を通 して、
御用鉛 として佐渡 の金 山 に送 られ金 の精錬 に用 い
られたほか、女性用 のお 白粉や鉄砲玉 の原料 とし
需要が急増 して い た。
加茂市民俗資料館 に展示 されてい る 「
佐渡 ・御
用鉛J の 旗 は、鉛運搬船 に立てて加茂川 ・信濃川
を下つたものであろ う。
加茂町の商人、若狭屋 と松川屋 は宮寄上の鉛だ
けでな く、広 く県下各地 の鉛 の流通 にたず さわっ
脚 こ立てられ
え蕊岩鰍
謡離晶鑓嘉軽晶嘉
大訓
細
伽
,閲0貫 靴
脚
用鉛 として、 さ
らに江 戸 の鉛 問屋 十郎兵衛他 に290貫の鉛 を売 っ
て い る。若狭屋喜助 は、文化 ・文政時代 に加 茂町 に屋 敷 を持 ち、十 日町 の織物 問屋 で ある加賀
屋 との取引 があ り、毛織物や 白縮 の取引 をす る織物商人 で あ ったが七谷郷 の宮寄 上の鉛 山が 開
ロ
カ
茂郷土史」15)
発 され佐渡御用鉛 の納入や江戸 の鉛問屋 との取引 きを深 めた と思 われる。(「
丸川屋松之豆 は、天保 15(1844)年 12月大 白川や小 出 の鉛 を佐州御用達 として買 い入れ て い
た。先祖 は (小林)彦 兵衛 といい越前 (福井県)の 出身 で屋号 を越前屋 と名乗 っている。 4代
彦作 の代 (宝暦 3年 沿)に 穀 町 に移 り、松之五 の作 の代 に松 川屋 に改 めた とい う。
小林家過去帳」
)
(関正平氏調査 ・小林昭郎氏所蔵 「
宮寄 上の鉛鉱 山 は明治 に入 り、出鉱量が減少す る とともに鉛価格 の下落が追 い うち をかけ、
程 な く表退 して いった。
加茂町 の鉛商人 たち も鉛 の流通か ら撤退 して いった も
の と考 え られ る。
しか し、宮寄 上の鉱 山技術者 の伝統 は県内各地 の鉱山
でその腕 を発揮 してい た。
大 正 7 ( 1 9 2 1 ) 年 七谷村宮寄 上の金山 師の親方 として、
安 中輝蔵 ・小 柳 政助 ・中野鹿蔵 ・中野太郎 ・佐藤熊大
郎 ・小柳慶次郎 ・安 中儀 三郎 らの名前が見 える。
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(「
自坑夫取立面状」
)
-3-
加茂町若狭屋運上鉛受 け取 り覚
(加茂市史下巻 466ペ ー ジ)
民俗資料館
平成 15年度 の歩 み
1日 入
館 者
平成1 5 年4 月
市 内
市 外
198
小 中学校
計
数
大
S
平成1 6 年 3 月
人
計
団体
831
1,029
7
538
206
744
736
1,037
1,773
15
22
2.資 料収集 の状況
本年度 は 6名 の方 か ら 7件 11点の ご寄贈賜 り御礼 申 し上 げ、紹 介 させ てい ただ きます。 こ
の他 に 自作 の玩具類 ・書籍類が多数寄贈 されて ます 。
く寄贈 ・寄託 品名 〉
・第 一 回支那事変特別 国庫債券 ・ る 三
号 分半利 国庫債券 ・ つ号 三分半利 国庫債券
・柳 こお り
。
・
冬用帽子付 きマ ン ト ・ 二重 膚 イ ンパ ネス
市場標柱
・五 十円銭升
・林切 り (マ グサキ リ)
・
十円銭升
・
黒塗膳
・llll田
村喜徳氏蔵書類多数
・
llll田
村喜徳氏手造 り玩具類多数
く寄贈者 ご芳名 〉
・塩谷 哲 男 氏
・
北沢仁太郎 氏
・
田村 幸 代 様
・近藤 徳 一 氏
・
梅回 智 明 氏
。
大塚 勇 松 氏
38レ
フ ァ レンス ・サ ー ビス 及 び ア ン ケ ー ト調 査 ( 民俗 資料 館 へ の 問 い 合 わせ )
レファレンス4 4 件、 ア ンケー ト ・調査 1 3 件
① レファレンス ・サ ー ビス
・「
加茂 の縄文時代 の遺跡について」
・「
青海神社、長瀬神社 の祭札 について」
・ 「岡の町出上 の古銭 について」
・「
加茂縞 とその色模様 の特徴 について」
。「
凧上 げの写真やその当時 の凧 に関す る写真 について」
。「
長時 に明治10年 ころの宣教師によるマ カロエの記録があ りますが、加茂 のマカロエ に
関す る資料 の詳細 についてお知 らせ ください」
。「
加茂祭 の御神幸 の中の傘鉾 の由来について」
。「
束又新 田と呼 ばれるところは何処 を指すのか」 そ
の他
ー
・
② ア ンケ ト 調査
・にいがた バ リアフリー ガイ ドマ ップに る
係 調査
・健康増進法 の施行 に伴 う受動喫煙 の防止 について
,メ ディア リサ ーチ セ ンター 「
民俗資料館 だよ り」 デー タ提供
・平成15年度文化財保護強調週間 行 事等実施報告書
そ の他
-4-
`
ジ
4コ 館
外
活
動
①古文書講座
今年度 も顔 な じみの方 や始 めての方、多数 の方 々のご参加 をい ただ きま した。
熱心 な勉強会、 ご苦労 さまで した。受講者延べ 182名
○日日
寺 9月
2日
9月
各火曜 日 午
9日
9月
16日
9月
30日
10月 7日
後 7時 ∼午後 8時 30分
O会 場 加 茂市民体育館内 公 民館 第 1研 1参
室
○講師 加 茂市文化財調査審議委員
関 正 平 長 谷川昭一 九 山朝雄 溝 口敏麿 佐 藤賢次 各 氏
○内容 共 通 テ ーマ 『
江戸時代 の暮 らし』
第 1回 「 手習 いの手本」 満 口 微 麿 氏
・文字 の 「
読 み ・書 き」 出来 る ことが 知的広 が り、深 ま りで ある。
,日 常 生 活 での人 間同志 のかかわ り合 い に必要な文字。
,い ろはに∼ えひ もせ す ん 酒 代 米 代 茶 代 御 布施 金 銀銭
・互 いの連絡 姓 名 に多用 される もの 地 名 固 有名詞 等 々 を手本 とした。
第 2回 「 近世一 下条地区 の支配 を考 える」 佐 藤 賢 次 氏
・下条、天神林 の支配変遷 につい て一 下条村 は 中村 ・東村 ・西村 の三組 に分 け られ、
天神林村 は下村 ・上村 の二組 に分 け られた。
・慶長三年 よ り新発 田藩溝口氏領、の ち分家満口氏知行所、幕府直轄領 などとなっていた。
・寛 政九年 ころ、下条村 の生 活 が 困窮 に関連 し、質素倹約 の達 しが役所 か ら出た。
第 3回 「 加茂町 の秤座 につい て」 関
正 平 氏
・天 ケ沢 新 田の真柄仁兵衛 が江戸 の秤座守随彦太郎 での1参
行 を終 え、文政六年 に加茂
町 に秤座 を開設す る。 (市川浩 一郎家文書)
・慶応四年 に加茂町秤役所 の真柄 八郎左衛 門が 官軍 に秤役所 の謂 われや秤改 め 時 のや
り方等 を届 け、 以後 も業務 の継続 を願 い 出 てい る。
一 氏
第 4回 防 寸松藩七谷組 の年貢米売 り渡 し」 山崎家文書 長 谷川昭
・約束 の年貢米 を収 めることが 出来 ない場合 には、
庄屋、
村役人、
組頭 の責任 で収 めた。
・米 以外 の産物 を年貢米 の代 わ りに収 めた。和紙等
第 5回
「 後須 田村北潟 の水争 い」
丸山 朝 雄 氏
一
・鵜森組 後須 田村北潟村縄手出入熟談
済 口証文 の文書 を解 読 しなが ら当時 の
水争 い の様子 を具体的 に話す。
・水 は百姓 に とっては死活問題 で あ る。
,そ の水争 い も当事者 同志 には一 定 のル
ー ルがあ り、解決 に至 らない と きには
庄屋、組頭等がイ
中介 に入 り決着 させ た。
-5-
② 歴 史講演会
現代 では想像 もで きない、新発 回の F 殿様』に 「
御 目見」( おめみえ) す ることの大変 さ、
さらに、単独謁見の 「
独御礼」( ひと りおんれい) は 緊張の極 みに達 したのでは。聴講者5 5 名
〇 日時 11月 8日 ω 午 後 2時 ∼午後 4時
○会場 加 茂市民体育館 内 公 民館 第 4研 1参
室
○講 師 加 茂市文化財調査審議委員 関
正 平 氏
O演 題 「 上 条 の庄屋 と新発 回の殿様」
,上条村 の肝煎 ・名主 と中沢家初代 上 条村名主 太 郎兵衛
・
新発 田藩主― 溝 口秀勝 ∼十 二代溝 口直正
・
寛政 上 知 と新発 田藩 の御 目見格
関 正 平 氏
幕府領庄屋 に御 目見格付与一 上 条村名主 中 沢太郎兵衛
・
文化十 二 年 九 月 上 条村庄屋 中沢太郎兵衛 の御礼登 日記― 御 目見 に至 る までの経過、
御 目見当 日、新発 田藩主へ の独御礼 の様子
。
そ の後― 御ネしの祝宴― 郡奉行 に土 産― 水原代官所 に挨拶― 上 条村帰着
③ 特 別歴史講演会
講師 は、高校生 ・大学生 の教育 に熟練 され、更 に新潟県史編 さんに携わられた斯界 の第
一人者である。聴講出来た こと、貴重な機会に感謝。聴講者53名
O日 時 16年 3月 13日働 午 後 2時 ∼午後 4時
○会場 加 茂市文化会館 小 ホール
○講師 郷 土史家 井 上 慶 隆 氏
○演題 「 近世越後 の庶民文化」― 近代 日本 を生み出 した教育 と学芸一
◎教育 ① 日本人の意識― 邑に不学 の戸 な く家 に不学 の人なか らしめん事 を期す。
②タト国人の眼一 ベ ル リ、ハ イ ンリッヒ ・シュ リーマ ン、 メーチエコフ
日本 の教育 の普及率 ・識字率 の高 さ (男女区別無 く)は 他 に類 を見ない。
③ 越後 の寺子屋一 巻町願正寺聞理 の 日記 ・中頭城清里村馬屋専福寺僧浄の 日記
④寺小屋の実情一机の配置 (個人の進度を尊重)
越後往来』明治八年作成、地
手本 (本版本一 『
名 ・産物が書かれていて国語 。書道 ・社会科の教
科書 を兼ねていた。高度な学問であつた。
⑤学塾での研学一 日本的儒学の形成 古 川茂陵 他
◎学芸 ① 文芸一 「
北越三雅集」詩三名、歌十二名、句八名
一神龍編 「
北越古今詩選」加茂人十二名 含 まれる。
②医家の系譜 と交際一竹山家 ・森国家 ・入沢家
香山竹山屯先生追憶之栞』によって作製)
(『
井上 慶 隆 氏
― 竹 山亨 (五代 目祐 卜)日 記 に母親 の実家 (加茂)の ことが書 かれて い る。
◎近代 へ の指向 藍 澤南城― 実証主義者 「
南城 山人三余集」 九
-6-
加茂市 の遺跡 平 成 15年遺跡発掘調査 につい て
加茂市教育委員会社会教育課主査 イヂ 蔑 g 秀
禾日
本年 の遺跡調査 は、学術調査 が 3遺 跡、開発事業 に関連 した試掘 ・確認調査 が 8遺 跡 を対象
に行 われた。
1.丸
所 在
山遺 跡 ― 旧石器 時 代 ―
地
加 茂市大字上大谷字中道
調 査 面 積 約1 4 2 ポ
調 査 期 間 平 成 15年9月 2目 ∼ 9月 25日
調 査 原 因 公 園整備計画に伴 う学術調査
調査 の概要 昨 年 の調査成果 を踏 まえ、遺跡の範囲 を明
確 にす ることを目的に段丘上全域 を対象 に23ケ所 の トレ
ンチ を設定 した。概 ね石器 は段 丘全域か ら出土 し、遺跡
丸 山遺跡位置図 S=1/25,000
の範 囲 を確認 で きた。 また、段 丘 最高所地点 にあ る18ト レンチ にて石器集 中地点 を検 出 した。
採集及 び出上 した石 器 は約 140点程 で 、彫刻刀形石器、彫器削片 、石刃、石核 、剥片 な どが あ
り、昨年出土 した石器群 と同様 な内容 で ある。
丸山遺跡調査風景
丸山遺跡石器出土状況
2 日 宮 ノ 浦 古 墳 ( 通称 熊 野 山 ) 。 福 島 古 墳 群 一 古 墳 時 代 ―
所 在
地
加 茂市大字下条字大滝、十万谷
調 査 面 積 約4 7 ポ
調 査 期 間 平 成15年11月29日 ∼平成 16年 1月 26日
調 査 原 因 市 史編纂事業 に伴 う学術調査
調査 の概要 古 墳 の規模、形、構築年代 を明 らかにす る
こ とを 目的に測量調査及び確認調査 を実施 した。宮 ノ浦
古墳 は丘 陵最高所 に単独 で立 地す る直径約20m程 の 円墳
と見 られる。 3ケ 所 の トレンチ か ら周溝 が検 出 された。
古墳群位置図 S=1/25‐
000
また、古式 上 師器 が数点出上 し、概 ね古墳前期 (4世 紀)頃 の首長墓 と考 え られる。福 島古
墳群 は宮 ノ浦古墳 と谷 ひ とつ 隔 てた丘 陵上 に立地 し、1∼ 5号 墳 の 5基 で構成 されて い る。や
は りいずれ も円墳 と見 られ、直径 15∼20m前 後 の大 きさである。 3号 、 4号 墳 にお い て周溝 を
-7-
確認 した。出土遺物 はない。宮 ノ浦古墳 、福 島古墳群 ともに見晴 らしの よい場所 を選 んで造 ら
れてお り、眼下 に存在す る集落 を意識 した奥津城 であつた ことが知 られる。
宮 ノ浦古 墳 墳丘
宮 ノ浦古墳 周溝
福島 2 号墳 墳丘
福 島 3 号 墳 周溝
3 日 開 発 に 伴 う市 内 遺 跡 試 掘 ・確 認 調 査
ほ場整備事業 に伴 い下条地区 の西吉津川遺跡 、馬越遺跡 、大 田遺跡、高柳地区 の城下遺跡、
寺下遺跡、伝下屋敷館跡、宅 地造成事業 に伴 い下条地区 の 中沢遺跡、林道拡幅工事 に伴 い上条
地 区 の割沢遺跡 が 調査 された。調査 は平成 15年 6月 ∼16年 3月 までで合 計 104ト レンチ 、約
726ポが調査 された。特 に馬越遣跡 か らは漆紙 付着 土 師器 や墨書土器 な ど平安時代 の遺構 、遺
物 が多量 に検出された。
馬越遺跡遺構検 出状況
馬越 遺跡 出土 土器
1編1案 1後 1記
平成 6年 よ り文化財調査審議委員 として加茂市民俗資料館 に ご指導、 ご鞭槌下 さい ま した
関谷之治先 生が 、平成 15年10月に永眠 され ま した。
今 回までの ご厚情 に心か ら感謝す る とともに、 ご冥福 をお祈 り申 し上げ ます。
今年度、第 11号発刊 に際 しては大 変 ご多忙 中 に もかかわ らず長谷川昭一氏 には玉稿 を賜 り
厚 く御礼 申 し上 げ ます。今後 一層 の ご理解 。ご協力 をお願 いす る次第 です。
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