終末ヒロイン 乙とZ - タテ書き小説ネット

終末ヒロイン 乙とZ
王様
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乙とZ
︻小説タイトル︼
終末ヒロイン
︻Nコード︼
N6007BT
︻作者名︼
王様
︻あらすじ︼
中国奥地に落下した隕石により﹁生活環境壊滅的超広域視程障害﹂
と呼ばれる謎の霧に包まれた世界。ゾンビが徘徊し文明社会が終わ
りを告げるなかで郊外にある学園女子寮でサバイバル生活を送るこ
とになった四人の少女たち。ホームセンターでDQN軍団に襲われ
たりはしたものの、少女たちは元気に仲良く女子寮の警備体制を強
化しつつ逞しく終末世界の日常を生きていた。少女たちがゾンビや
DQNたちとのサバイバルバトルを繰り広げるなかで、終末ヒロイ
ンとして覚醒していくさまを描くSF青春サバイバルホラー
1
プロローグ︵新︶︵前書き︶
※プロローグを新しく作り変えたので、以前のプロローグだったま
どかの寮日誌6日分は第一章・1の冒頭へ移動しました。
2
プロローグ︵新︶
街は沈んでいた。
見渡す限りの霧の底へと。
まるで水槽の中に白い絵の具を垂らしたみたいに、白く濃い霧は
何重もの層となって街中の隅々までを侵食していた。
白い闇。
まさにそんな表現が相応しい。
昼日向にも関わらず上空に輝く太陽の光は厚い層に遮られていて、
地上には曇天の日の朝焼けのように弱弱しい光しか届かない。
この街は死んだように静まり返っている。
いや、霧の中で微かに何かが蠢いていた。
低いうめき声と引きずるような足音が、霧の中から聞こえてくる。
人のようなそれは一体ではなく無数にいたが、この濃い霧がそれ
らの姿を白い闇の中へと閉じ込めていた。
そして四つの人影が同じように霧に紛れて道路上に乗り捨てられ
た車の列の間で身を潜めて、周囲の霧に神経を張り巡らせていた。
その四つの人影は見るからに小さくて、細くて、弱弱しく、そし
て異様だった。
全員が同じ赤色の学校指定のジャージを着て、その上から白色の
マントのようなポンチヨのような白い大きな布を纏っている。そし
て頭にはこれまた白色に塗られたバイク用のジェットタイプのヘル
メットを被っていた。
その四つの白い塊が車の影に隠れて固まっていると、周囲の霧と
同化してしまい判別が難しくなる。
3
そして四つの白いヘルメットの透明シールド越しに見える顔は皆
幼くて、十三歳から十六歳くらいの少女ばかりだった。彼女たちの
姿を異様に見せていたのはヘルメットの装飾にも理由がある。それ
ぞれにフェルト生地で作られたイヌ耳、ネコ耳、ウサ耳、一角獣の
角が付いているからだ。
更にその彼女達の傍らにはリヤカーが置かれていて、その中には
ステンレス製ドアやベニヤ板、アルミ缶などが雑多に積まれていた。
彼女達は車の陰で一列に並んで身を潜めていて、その並び方から役
割分担されていることが窺い知れた。一番先頭で松明を構えている
イヌ耳が斥候兼リーダーで、ネコ耳とウサ耳がリヤカーを担当、殿
の一角獣が後衛と言ったところか。
車の陰から半分身を乗り出して前方に広がる霧を注視していたイ
ヌ耳が、さっと片手で合図を出した。
﹁︱︱左斜め前方二つ﹂
﹁はい﹂
さすまた
その合図を元に殿の一角獣が持っていた刺又を地面に置いて、肩
にぶら下げていた弓と矢を構えると、今度はそれに合わせてウサ耳
が用意していたガムテープで矢に防犯ベルを巻き付けて、さっとヒ
モを引く。
と、同時に一角獣が浅い角度で矢を放った。
けたましいベルの音を響かせながら矢が霧の中へと吸い込まれて
いくと、一角獣はすぐさま同じように防犯ベルが巻き付けれられた
矢を、今度は同じ方向に高く放つ。
4
一方向の近くと遠くで防犯ベルの音がけたましく鳴り響いている
と、霧の中から聞こえていたうめき声や足音がその音に引き寄せら
れて移動して行った。
﹁前進駆け足︱︱﹂
イヌ耳が掛け声と共に車列を飛び出していき、その後をリヤカー
を引っ張るネコ耳とウサ耳、最後を一角獣が続いて霧の中へと消え
ていった。
5
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・1・改︵前書き︶
少し手直ししました。
おもに主人公まどかの描写中心です。
以降、改稿した場合はサブタイトルに改の文字を追加します。
※プロローグ変更に伴い、以前のプロローグだったまどかの寮日誌
6日分をこちらへ移動しました。
6
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・1・改
1
郊外の高台の上に第一さくら寮はある。
築三十年を越える二階建てでアールデコ調の古びた建物。外壁の
コンクリートは既に茶色く変色していたが、それが百人近くの乙女
が暮らす桜の園に一種独特の風情と風格をもたらしていた。
建物の正面にはテニスコート三面分ほどの中庭が広がっていて、
さらにその外側には高さ二メートル程のコンクリートで出来た塀が
敷地全体をぐるりと取り囲んでいる。そして塀の上には茨を模った
黒く塗られた鉄製の忍び返しが鎮座し、外からの侵入者に対して優
しい威嚇を発していた。
第一さくら寮はその名の通り、桜道女子学園の最初の寮で一番歴
史が古く、まだ全寮制ではなかった頃に他県などの遠方からも生徒
を受け入れるために作られた施設で、収容人数も決して多くはない。
それに場所が郊外にあることと、高台全体を覆いつくしている広
葉樹林によって街の中心部からは建物の屋根が辛うじて見える程度
なので、その存在を知っている者は学園関係者以外では稀であった。
そして高台の上にあるその他の建造物と言えば電力会社の鉄塔があ
るだけで、まさに陸の孤島といった感じである。
むしろそういう意味での話題性では、全寮制に移行してから駅の
近くに建設された近代的なマンション型の第二・第三寮が一手に引
き受けていて、下校時間時に寮の前の道路に出来る乙女達の行列は、
この街に住む年頃の少年達の間では知らぬ者が居ない程の日課行事
7
であり、青春の晴れ舞台の一つとなっていた。
しかしそれも六日前までのこと。
世界中を覆い尽くした未知の霧は、この街も同様に全てを白い地
獄の底へと引きずり込んでしまったから︱︱
記入者 花城まどか
第一さくら寮寮日誌
5月2日 土曜日
昨日、ヤマコ先生から臨時の寮長を言い渡された。
その後で寮長の安城先輩からこの寮日誌を託された。先輩は優し
い笑顔を浮かべて﹁花城なら大丈夫。安心して留守を任せられるよ﹂
と言ってくれたけれど、不安⋮⋮
はっきり言って寮長なんて柄じゃないし、面倒くさいからやりた
くない。
そもそも今までの寮生活だって決して中心的なメンバーではなか
ったし、幾つも存在する派閥にも属さず、かと言って孤立すること
もなく、目立たず無視をされず無難に過ごしてきた。
せっかく作り上げたその絶妙なバランスの上に成り立っている寮
生活を私は失いたくない。失うわけにはいかない。
と言うか、高等部の生徒が私一人しかおらず最年長の自分に自動
的に役割が回ってきただけで、安城先輩も気を使ってあんなことを
言ってくれたのは十分わかっている。 それにこの寮日誌もなにを書けばいいのかわからない。
そもそもこんな愚痴みたいなことを書いていいものなのかすらも
8
怪しいが、安城先輩の話によれば、別に教師に提出する必要もなく
ただ伝統として寮長職とともに引き継がれているのだそうだ。
とにかくここまでの部分はあとでマジックで塗り潰しておこう。
とりあえず。
最初の日誌ということでいま私︱︱私たちが置かれている状況を
簡単に記しておこうと思う。
今から二週間ほど前に中国奥地のパミール高原に幾つかの隕石が
落下した。
落ちた場所が高原地帯ということで大きな災害にはならなかった
けど、隕石が気化したと思われる白い煙がクレーターから噴出した
そうだ。延々と気化膨張を続ける白い噴霧は止むことは無く、あっ
という間に高原地帯を、周辺国を飲み込んで、一週間ほどで中国が、
ヨーロッパが霧の底へと沈んだ。
霧の中では電波障害の発生で通信網がダウンして、辛うじて海底
ケーブルを通じてひどく混乱している様子が伝えられるだけだった。
中国が霧の底に沈んで三日後。
日本にもついに海を渡って霧が到着した︵ほんとウザい︶
政府は具体的な対策を講じることもできず、この霧を生活環境壊
滅的超広域視程障害︱︱通称スーパーディストラクションデスモッ
グと命名するのが関の山だった。
私たちが通う中高一貫教育で全寮制の私立桜道女学園は無期限の
休校となり、市内に点在する三つの寮で生活していた約千名の全生
徒にも帰宅指示が出された。
但し、私のように家庭の都合が悪い場合や仕事で両親が海外に居
るような場合のみ、そのまま寮での滞在を認めらていて、この第一
さくら寮には現在私の他にもう一名の女子が残ることになった。
9
そして今日、この街もついに霧に飲み込まれてしまった⋮⋮
もう、いつまで続くのやら。
マジ憂鬱⋮⋮
5月3日 日曜日 記入者 花城まどか
管理人や食堂のおばさんたちは自宅待機を言い渡されているので
今は居ない。
その代わりにヤマコ先生が寮の管理を任せられていて、昨日私た
ちのために食料を置いていってくれた。
カップ麺が十個に菓子パンが五つ⋮⋮
いま街では食料品の買い占めが起きていて、これでも結構手に入
ったほうらしい。
ヤマコ先生は明日また来るときに食料を探してくると言って帰っ
て行った。
あ、それと帰る時に外出禁止をきつく言い渡された。なんでも道
路は車で溢れていて視界が悪いこともあって事故が多発しているら
しい。
その事を連絡しておこうと、さっきもう一人の寮生である中等部
の子の部屋へ行ってみたがノックをしても応答はなかった。
もしかしたら寝ているのかと思い、ドアに外出禁止が言い渡され
たことと、一度食堂で会って互いに自己紹介をしようと書いたメモ
を貼り付けてきた。
なんか寮長として一仕事やり遂げたって感じ?
なんてね。
10
5月4日 月曜日 記入者 花城まどか
今日もヤマコ先生が来てくれた。
本当は昼頃に顔を出すと言っていたのに、実際に来たのは夕方頃
だった。
ひどく疲れた表情をしていて顔色も悪かったけど、先生は疲れて
いるだけと元気なく笑っていた。
あと食料が手に入らなくて、自宅からお米を五キロとレトルトの
カレーを幾つか持ってきてくれた。
ヤマコ先生の話では街の様子がかなり荒れているらしい。生徒だ
けで暮らすにはもう危険すぎるということで、ヤマコ先生もしばら
くの間、寮に寝泊りすると言う。
しかもヤマコ先生だけではなく、市内にある他の二つの寮に残っ
ている五名の生徒と、そちらを管轄している大森先生とその家族も
この第一さくら寮に移ってくるって。
いきなりの急展開って感じだけど、なんだか賑やかな寮生活が戻
ってくるみたいで、少しだけワクワクしてきた。
もし上級生が居たら寮長の役職もやってもらおう。
ヤマコ先生は一旦自宅へ戻って荷物をまとめてから明日来ると言
って帰っていった。
その後で中等部の子にも一応知らせておこうと思って部屋へ行っ
てみた。ドアに貼り付けたメモはなくなっていたが、ノックをして
も返事もなにもなかった。
なんだか嫌な感じ。
もしかして無視をされているのかも。
だから寮長なんて面倒くさくてやりたくないのだ。
いまこの日誌を書いていると遠くから救急車や消防車のサイレン
11
が聞こえてくる。
カーテンを開けて外を覗くが、窓ガラスに霧が貼り付いていて何
も見えない。
でも明日からは賑やかになりそうだ。
5月5日 火曜日 記入者 花城まどか
結局、大森先生と第二・第三寮の女の子たちは来なかった。
ヤマコ先生も夜になってもこない︵泣︶
夜中の二時まで食堂で待っていて、知らない間にソファで寝てた
︵だから正確にはこの日誌は6日の早朝に書いてる︶
そう言えば、昨日の夜も遠くでパトカーや消防車のサイレンがた
くさん鳴っていて怖かったなぁ。
5月6日 水曜日 記入者 花城まどか
今日もヤマコ先生は姿を見せず。
大森先生も姿を見せない。
一体どうなってるの?︵怒︶
あともう一人の寮生である中等部の子と、いまだ会えていない⋮⋮
メモは見てくれているはずなのに向こうから会いにも来てくれな
ければ、こちらが部屋のドアをノックしても反応はなし。
私の部屋は二階で、彼女の部屋は一階にあるのだけれど、深夜に
廊下を歩く音や洗面所を使う音が聞こえてくる時があるので部屋に
居ることは間違いない。
もしかして寮長としても先輩としても頼りにされていないとした
12
らちょっとショック。いや、かなりショック⋮⋮
そもそも臨時の寮長なんてやりたくもないし、後輩と積極的に関
わるタイプではない私には重荷すぎる。
ああ、止めよう。考えても始まらない。
5月7日 木曜日 記入者 花城まどか
今日も待ち人来らず。
昨夜はサイレンの音もほとんど聞こえずに静かな夜だった。
街の状態も落ち着いてきたってことだろうか。
なんだかそのうちにヤマコ先生が﹁いやいや色々と大変でさぁ﹂
と、ひょいと顔を出しそうな気がする。
それと気がかりなことがもう一つ。
昨日の深夜に洗面所に居ると、階下から人の歩く音と玄関のドア
が開く音が聞こえてきたので、慌てて一階へ降りてみると、施錠し
たはずの玄関のカギが外されていた。
ドアを開けて外を覗いてみたら霧のせいで人影は確認できなかっ
たけれど、遠ざかっていく足音がはっきりと聞こえてきた。
中等部の女子は確実に外出禁止を破っている。
こういう時に私はビシッと叱るべきなのだろうか⋮⋮
単なる臨時の寮長なのに?
二人しか居ない寮生なのに、先輩風をふかすべき?
ああ、寮長なんて面倒くさいなぁ、もう!
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第一さくら寮の一階西側には食堂がある。あまり広くは無いが、
六人掛けのテーブルが所狭しと並んでいて、最大で百人が一同に食
事をとることが出来る。
その隅っこに設けてある談話コーナーのソファに赤いジャージ姿
のまどかがやや緊張した面持ちで座っていた。ベリーショートの髪
型と百六十センチの身長は遠目には少年のようにも見え、実際に街
中で間違われることもあったがそれはそれで本望だった。
若い頃にほんの一時期だけ広告のモデルをやっていたこともある
母譲りの細身の身体と、小学校時代に男子から﹁クモ女﹂と呼ばれ
る原因となった長いごぼうのような手足が、まどかは大嫌いだった。
今でこそ同級生に﹁モデル体型で羨ましい﹂などと言われたりも
するが、その度に母親に近付いていっているような錯覚に陥り、全
身から女らしさを剥ぎ取りたくていっそのこと坊主頭にでもしてみ
ようかと言う激しい衝動に駆られたりもする。
そして三年前の中一の秋。桜道女子学園に転校してきたと同時に
それまでずっと伸ばしていた自慢の髪をばっさりと切った。何もか
も切り捨てて再生を願っての断髪だった。
あれから自分はなにか成長したのだろうか⋮⋮
﹁はああああああああああああああああああああああああああああ
ああああ⋮⋮﹂
まどかはベリーショートの髪を掻き毟りながら長い長いため息を
ついた。
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自分の身体が女性らしく成長していくことを呪い全身にまとわり
つく女っぽさを消し去りたいと思う一方で、やっぱり小さなことで
ウジウジと女々しく悩んでしまう自分を嘆いての怨念まじりのため
息だった。
どうせならば﹁クモ女﹂よりも﹁水澄まし女﹂になりたい、とま
どかは思う。長い手足で水面を華麗に走り回るように、人の間もす
り抜けたい。水にも人にも情にも溺れて沈むことがなく、いろいろ
な物事を華麗にスルーしていきたい。
なのに。
﹁私は一体ここでなにをしているのだろう⋮⋮? ﹂
まどかは恨みがましく壁の時計を睨みつけた。
時刻は午前二時を少しまわったところだ。
つい二時間ほどまえの事。
今夜も中等部の後輩は真夜中にこっそりと外へ出て行った。
本当はその時に追いかけて行って止めるべきだったのかもしれな
いが、まどかにその勇気はなかった。
確実に相手は自分のことを避けている。それはドアに貼り付けた
メモが無視されていることからも明らかで、そんな相手に先輩風を
吹かすのは得意ではなかった。
しかし一方で、臨時とは言え寮長という職務に対して責任感のよ
うなものが芽生えていたことも確かで、自分が寮長を任せられてい
る期間に後輩がなにか危険な目に遭遇してしまうのも嫌だったし、
何よりもそのことで教師から叱れでもしたらやりきれない。
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それにルール違反を知っていながら見て見ぬふりをする自分自身
も嫌だ。
いや、それとも中等部の後輩がルールを破って要領よく生活をし
ているのに比べて、やりたくもない寮長をやらされた挙句に、律儀
にルールを守って一週間近くも缶詰生活をしている自分の中途半端
さに嫌気がさしていて、このもやもやした感情を誰かにぶつけたか
っただけかもしれない。
結局、まどかの出した結論は偶然を装って注意をしてみよう、と
いうことになった。
食堂で待ち伏せておいて、彼女が帰ってきたところを偶然を装っ
て玄関へ出て行く。そして少し驚いた顔をしつつ、年上らしく余裕
のある態度で優しい笑顔を浮かべて外出禁止を破ったことを嗜めて
あげよう。
その案は完璧に思えた。
いや、完璧と言うよりこれが一番無難だ。
まどかが中等部の後輩にそこまで気を遣うのには、他の生徒たち
が皆親元へと避難しているなかで、家庭の事情で寮に残ることとな
った二人しかいない寮生という奇妙な連帯感もあったが、もう一つ
理由があった。
しろがねつばき
銀椿︱︱
それが中等部の後輩の名前だ。
中等部在籍の二年生で、まどかはこれまで一度も会話をしたこと
はなかったが、寮生活の中ではちょっとした有名人で、第一さくら
寮に住む者で彼女の名前と顔を知らない人間は居ないはずだ。
16
彼女を有名にしたのはちょうど一年前のこと。
入学してまだ二週間も経たない頃に彼女は事件を起こしたのだ。
同じ部屋に住む先輩生徒への暴力事件だ。
まどかは事件の詳細をよく知らないが、先輩生徒にも非があった
として彼女は一週間の停学で済んだが、問題はその後に彼女が取っ
た行動だ。
彼女は教師たちに相部屋ではなく個室を要請し、希望が適えられ
ない場合は同じような暴力事件を引き起こすと恫喝したらしい。
勿論学校側はそんな特例は認められないとしていたが、結局はし
ばらくすると先輩生徒のほうが第二寮へと引っ越すこととなり、以
来彼女だけは相部屋が当然の寮生活で個室生活を送ることとなった。
当然彼女は寮のなかで悪目立ちする存在となり格好の陰口の対象
となった。特に高等部の一部の生徒たちが彼女の行為を許すまじと
ヒートアップしていたが、結局それも夏を迎える頃には自然と鎮火
していた。
その理由は銀椿は徹底して他者との交流を避けていたからだ。基
本的に学校へ行く以外は部屋へ篭りきりみたいであったし、部活動
にも参加せず、食事も人の少ない時間を見計らって窓際の席でいつ
も一人。食堂が混んでいる時には絶対に中へは入ってこない。学園
と寮を往復するスクールバスも利用せず、片道五十分をかけて自転
車通学をしていた。
そうした彼女の徹底した厭世的で人間嫌いな行動に、周囲も自然
とそういう人なんだと思うようになっていた。暴力事件のこともあ
り、下手に関わってキレられるといろいろと面倒くさい。
まさに触らぬ神に祟り無しというやつだ。
17
﹁あ∼、めんどくさっ⋮⋮ よりにもよってなんであの子と二人き
りかなぁ。ついてないと言うか⋮⋮﹂
まどかはジャージのポケットからスマートフォンを取り出す。そ
の時に銀色のライターがソファの上に転がった。ジッポライターだ
ったが、表面には見るからに手の込んだ十字架が彫られていて、純
銀製のボディが蛍光灯の光を受けて鈍い光を放っている。
まどかはさして気にもとめない素振りでライターを掴むと、慣れ
た手つきでキャップを開け閉めし始めた。
カチンカチンとジッポ特有の音が響き渡る中で、もう片方の手で
スマートフォンをいじっている。
着信履歴の画面には﹁お母さん﹂の文字がずらりと並び、一番最
後の着信は街が霧に包まれた前日の5月1日となっていた。
まどかは無言でその画面を見つめているだけ。知らない間に、ジ
ッポを握る手も固まったまま動かない。
不在着信の文字に、瞳の奥で暗い影が立ち上がりかけたが、それ
を認めぬかのように軽く息を吐くと画面を切りかえた。
留守電メッセージを知らせる画面では、5月1日の日付で一件の
録音を告げていた。
しばらくの逡巡のあとで、まどかは思い切ってスマートフォンを
耳に当てた。
と、同時に玄関の方からドアが開くときの軋んだ音が聞こえてき
たので、弾かれたようにソファから飛び起きて、スマートフォンと
ジッポをジャージのポケットに突っ込みながら玄関へと向かった。
18
﹁もしかして銀さんなのかなあああああああああああーっ!?﹂
まどかは出来る限りの先輩お姉さん風の作り笑顔を浮かべて食堂
を飛び出して行ったが、その倍の速度で後退り尻餅をついた。
いたたたた、と腰の辺りを摩っていると、食堂の入り口にすうっ
と人影が現れた。
その人影は見るからに異様な出立ちをしていて、白いエプロンに
まどかと同じ学校指定のジャージを着ていて、背中には登山用と思
われる大きなリュックを背負っていた。
そして頭には白いタオルを巻いていて、顔はバイク用のゴーグル
と大きな風邪用マスクで覆われている。なにに使うのか、片手には
身長よりも長い刺又、もう片方の手にはヌンチャクを持っている。
しかもそのヌンチャクは握っていない方の柄には無数の釘が刺さっ
ていて、なにやら赤黒い液体を滴らせていた。
そして何よりもまどかを一番驚かせたのは、白いエプロンやマス
クの全面に飛び散っている赤い液体で、それはぱっと見てもじっと
見ても血痕にしか見えない。
﹁し、銀さん⋮⋮だよね? どうしたのその格好⋮⋮ それにその
赤い染み⋮⋮﹂
動揺しているまどかを尻目に、銀椿と思われる異様な格好をした
人物は背負っていたリュックを床へ下ろした。
いや、下ろしたと言うよりも、持ちきれずに両手をすり抜けて落
ちたと言うべきか。
身長百五十センチほどの小柄な体に不釣合いなほど大きなリュッ
19
クは、鉄板に吸い付く磁石のようにドスンと音を立てた。
まるで中に漬物石でも入っているみたいだ。
そして持っていた刺又とヌンチャクを次々に床へ放り投げると、
頭のタオル、ゴーグル、マスクと外して、そのまま無造作に足元へ
投げていく。
そうして現れたのはまどかも知っている銀椿の顔で、ほっと安心
したのも束の間、今度はこの変わり者の問題児の奇行に新たな不安
が芽生えた。
まどかが半ば呆気に取られていると、銀椿がボソリと呟いた。
﹁トマトジュース⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁トマトジュースがありました。食塩無添加で低カロリーを謳った、
まさに完熟って感じでおいしそうなのが。それも二本。でも賞味期
限切れてました⋮⋮。頭きたので台所の食卓の上に並ばせてキャロ
ラインの餌食にしてやったんです。そしたらこのザマです⋮⋮﹂
と、銀椿は疲れ切った顔と声でそう説明すると、外したエプロン
を指で摘んで匂いを嗅いだ。
臭い、と顔をしかめてエプロンを傍らに放り投げると、両足を引
きずるようにまどかの横をすり抜けて食堂の奥へと歩いていく
。
﹁キャロライン⋮⋮?﹂
デス・オーケストラコンダクター
﹁その釘ヌンチャクの名称です。通り名は葬送鉄杭殺戮指揮者ミス・
キャロライン。キャロイン、挨拶は︱︱?﹂
20
﹁え⋮⋮?﹂
﹁嘘です。ミャンマーのチン族とアナル族と同じくらい百回中一回
くらいクスッとくるジョークです﹂
と、これまた疲れ切ってどうでもいい感じで言う。
まどかは床に転がるヌンチャクを一瞬でもまじまじと見つめてし
まった自分の馬鹿さ加減に赤面しつつも、気を取り直して銀椿の方
を振り返った
。
彼女は食堂の奥にある給水機から紙コップに冷水を注いで、ぐび
ぐびと喉を鳴らして飲んでいる。
ショートボブと言うよりもおかっぱ頭といったほうが似合いそう
な黒髪に、ジャージの上からでもわかる薄い胸と細い身体つきは、
どことなくこけし人形を連想させた。
しかし今目の前に居るこの後輩は全身からとげを生やしたこけし
人形だ。
﹁銀さん、今日はどこへ行ってたの? 私、ヤマコ先生からの言い
つけをメモに書いてドアに貼り付けておいたんだよ。あれ、読んで
くれたよね? あと何度も部屋へ行ったのに居留守使うのはどうか
なあ。それはちょっと共同生活するうえでのモラルに欠けてるんじ
ゃないかな⋮⋮?﹂
まどかは作り笑いを浮かべ、言葉を慎重に選びつつも取り合えず
言いたいことを言った。
あまりこういう口うるさいことを言うのは好きではなかったが、
21
彼女のどこか人を小馬鹿にした態度にカチンときていたのかもしれ
ない。
銀椿は水を飲み終えると、静かにまどかと向き合った。
意思の強さを感じさせる黒目勝ちな二つの目が真っ直ぐにまどか
を見ている。
一瞬だけ二人の間に張り詰めた空気が流れたが、それを壊したの
は銀椿だった。
彼女はすっと視線を逸らすと、また紙コップいっぱいに水を注い
で一気に飲み干した。
﹁⋮⋮先輩って、優しいのかのん気なのかよくわからないですね﹂
﹁銀さん、こういう言い方って好きじゃないけど、年上の先輩に向
かってそういうふざけた態度をとる気なら、さすがに私も怒るよ﹂
﹁︱︱米⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁人が居なくなった民家をまわって米二十キロとありったけの缶詰、
調達してきました⋮⋮。私の部屋にはそのリュックのなかの二倍の
食料があります。この一週間夜な夜な出掛けては家人が居なくなっ
た家へ忍び込んでかき集めてきたんです﹂
﹁な、なに言ってるの⋮⋮? それじゃあ泥棒じゃないのよ﹂
それを聞いた銀椿は、予想していましたと言わんばかりの顔で軽
く息を吐いた。
22
﹁泥棒⋮⋮。確かに泥棒です、私のしたことは。他人の家に忍び込
んで賞味期限の過ぎたトマトジュースに切れて、キャロラインで叩
き壊すなんて狂気の沙汰と自分自身でも思います。でも⋮⋮﹂
彼女はそこで黙り込むと、まどかの顔をじっと見つめた。
まどかはなにか嫌な気配を感じてつい後ずさる。
しかし銀椿は一気に間合いを詰めて、まどかの腕をむんずと掴み、
﹁先輩のその優しさや?気なところは言葉じゃ壊せませんから。私
と一緒に来てください﹂
そう言いながら、食堂を出て行こうとする。歩きながら床に転が
る刺又と釘ヌンチャクを片手で拾っていく。
﹁ち、ちょっと、行くってどこに? 銀さんどこへ行くつもりなの
?﹂
﹁すぐそこのコンビニまで付き合ってもらいます。あと先輩と言え
ど、夜道は絶対に騒がないでください。もし騒いだりしたらキャロ
ラインの餌食になりますよ?﹂
と、こけし人形のようなシルエットの後輩はまどかの目の前でぶ
るんと釘ヌンチャクを回して見せる。
微かな風圧がまどかのまつ毛を揺らし、トマトジュースの甘酸っ
ぱい香りがほのかに鼻腔の奥に突き刺さる。
本気とも冗談ともわからない無表情は一体なにを考えてるのか全
く読み取れず、まどかは涙目になりながらも、仕方なしにこの小柄
で変わり者の後輩のあとをついていかざるをえなかった。
23
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・2
2
三十分後︱︱
二人は寮から一番近いコンビニへと来ていた。
普通ならば、寮の前の坂道を三百メートルほど下り、合流する国
道を二百メートルほど歩くだけで時間にして十分ほどだ。
それなのにこれだけ時間が掛かったのは、まず霧が原因だった。
視界はせいぜい二メートルから五メートル。風の影響で刻一刻と
有効視程が変化していくと言った感じだ。
それに銀椿は極度に周囲を警戒していて、少しでも物音がすると
立ち止まって音がした方に刺又を構えてしばらく動かない。まどか
が何か質問をしようとしても片手で喋るのを制するか、無言のまま
何も答えない。
その殺気だった子猫のような横顔を見ていると、まどかはただ黙
って従うしかなかった。
それに彼女には申し訳ないが、彼女の緊張とは真逆にまどかはな
んとなくわくわくとしていた。
なんだかんだと言いながらも久しぶりの外出と言うこともあった
のかもしれない。それにこの濃い霧はお化け屋敷のなかへ入ったみ
たいな雰囲気もしていたし、後輩に唆されて外出禁止を破っている
という、背徳的な楽しさも少なからず感じていた。
しかし、それも坂道を降りるまでのこと。
24
国道へ辿り着くと、そんな気持ちは脆いガラスのように粉々に砕
け散ってしまった。
霧に沈む車道には放置された車の列が出来ていた。しかもドアや
トランクは開け放たれて、ほとんどのドアガラスやフロントガラス
が割れていて、中には炎上して黒こげになっている車まであった。
国道に沿ってコンビニへ向かう間も車の列は途切れることはなく、
次から次へと霧の中から乗り捨てられた車が姿を現した。しかも街
の中心へ向かう車線と、隣町へと続く車線の両方ともだ。
一体この車はどこまで続いているのか。
そして乗っていた人たちは今はどこへ⋮⋮
まどかはそんな疑問を口にしかけたが、ぎりぎりのところで踏み
止まった。
もし今それを口にしたのなら、これ以上先へは進めない気がした
からだ。
目の前を歩く小さな背中。両肩に力が入っているのが後ろからで
もわかる。
この変わり者の後輩は何かを知っている。そしてそれを自分にも
教えようとしている。
二人とも緊張した面持ちで無言のまま、霧の中を慎重な足取りで
先を急いだ。
そして見慣れたコンビニへ辿り着いたのだが、そこでまどかは霧
の中に幽かに浮かび上がる光景にまたしても言葉を失うことになっ
た。
寮生の憩いの場でもある見慣れたコンビニは、ドアとウインドウ
25
ガラスが無残に割れて見る影がなかったからだ。窓際に設置してあ
った本棚が外側に倒されて無数の雑誌がガラス片とともに駐車場へ
散らばり、その雑誌の上には沢山の足跡が付いていて、アスファル
トには血痕のような黒い染みも見える。
﹁⋮⋮私、街が霧に包まれた日からずっと夜な夜なこの近くを歩い
て回っていたんです。だって世界規模の霧なんてどう考えても変じ
ゃないですか。おかしすぎますよ、電波障害まで起きて外国とも連
絡が取れなくなるなんて。先輩知ってました? 電波障害だからケ
ータイや無線は使えませんけど、有線のネットは生きていて、霧に
包まれた国からも少なからず情報は発信されていたんです﹂
﹁そ、それなら少しだけ知ってるかも。霧は中国の化学兵器工場が
被災したのが原因だとかなんとかって⋮⋮﹂
﹁それじゃないです。こういう時にも悪ノリして適当なことを言い
ふらす人間は存在するんです。そして、そうしたいい加減で物見遊
山なネットの多くの連中のおかげで、何が真実でなにが真実でない
のか誰一人として判断できなかったんです⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも、どちらにせよ、霧の発生から全世界が飲み込まれるまでに
およそ二週間。余りにも展開が早すぎて、そして時間が足りません
でした。この街でも霧に包まれた最初の夜にはアレが発生して、爆
発的に広まったみたいですから。ほんと大したものです。もしこれ
が神様の仕組んだことならば、私はブラボーと叫んで感謝のキスを
してあげたい気分です﹂
そう言うと、銀椿はまどかのほうを振り向いて両手でピースサイ
26
ンをした。しかし顔は相変わらず能面のように無表情で、喜んでい
るのか嘆いているのかわからない。
いや、ダブルピースということは喜んでいると思ったほうがよさ
そうだ。
そして突然彼女は持っていた刺又で地面に転がるガラス片をたた
き始めた。
刺又が力強く振り下ろされる度にガシャン、バリンッとガラスが
割れる甲高い音が霧の駐車場にこだまする。
﹁し、銀さん、どうしたの急に⋮⋮?﹂
﹁外国から幾つかの警告文と動画がアップされていました。そのど
れもが同じ内容でした!﹂
銀椿は初めてまどかの前で感情を露にした。
喜びに弾む張り叫ぶ声、興奮して紅潮している顔。
テンポ良く刺又が振り下ろされるたびにガラス片がリズミカルな
甲高い音を上げていき、その中心で踊っているかのように見える変
わり者の後輩。
その姿はまるで悪魔を召還するための儀式を行っている魔女のよ
うだ。
そんな彼女の鬼気迫る行動に恐怖を感じて、まどかは自然と後ず
さっていた。
しかし、銀椿は突然動きを停止してまどかの方を見た。
いや、正確にはまどかの背後の霧を見ていた。
﹁︱︱先輩こっちへ!﹂
27
銀椿はまどかに駆け寄って腕を掴むと、コンビニの壁際へと連れ
ていく。そしてまどかを壁際に立たせると、自分はその前に立って
霧に向かって刺又を構えた。
﹁な、なに? 今度はいったいなんなの⋮⋮?﹂
﹁︱︱霧の中では無条件に死者は甦り生きた人間を襲う。襲われた
者も歩く死者となって、また人を襲う。先輩、これが霧に呑まれた
なに言ってるの⋮⋮? 全然意味がわからないよ⋮⋮﹂
新しい世界のルールです!﹂
﹁え?
まどかがそう呟くと同時に目の前の霧が人影を吐き出した。
スーツ姿の中年男性だったが、顔の右半分が獣に食いちぎられた
みたいに肉片がぶら下がっていて、ワイシャツは真っ赤に血に染ま
っていた。そして関節が固まってしまったみたいな引きずるような
歩き方に、低いうなり声。
さらにその後ろからは学生服を着た中学生男子や、コンビニの制
服を着た中年女性、男性警察官が次々と姿を現した。皆、顔や首筋
から流血していて、土気色の顔色に焦点の合っていないガラス玉の
ような目をしていて、両手を前に突き出しながらゆっくりと二人に
迫ってくる。
﹁先輩、これが現実です! 今までの世界は終わったんです! こ
れからは死者が歩き回る時代の始まりです! 世界規模の霧とゾン
ビ! なんて素敵な時代の幕開けだと思いませんか!﹂
銀椿は刺又で順にその歩く死体たちを霧の中へと押し戻しなから、
28
まるで歌うようにまどかに問いかけた。
しかし、まどかは叫ぶしかできなかった。絶望の悲鳴を。真っ白
な頭のなかで、なにかが確実に粉々に砕け散っていくのを感じなが
ら。
29
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・3
3
さきやまひめ
クローゼットの中で咲山姫は壁にもたれて静かな寝息を立てて死
んだように眠っていた。金髪のツインテールをした彼女のその姿は、
まるでクローゼットに仕舞われた西洋人形を彷彿とさせる。
すると微かに聞こえた物音に彼女の体がビクリと弾けて目を覚ま
す。
彼女の宝石のような碧眼には戸惑いと焦りの影が見え、暗闇の中
で固まったまま息を殺して耳を澄ましていると、また微かに階段の
軋む音が聞こえてきた。
そして姫は確信した。
どうやら寝ぼけているわけではないらしい。
﹁乙葉ちゃん起きて⋮⋮﹂
くりもとおとは
すぐ隣で自分の肩に頭を寄せて静かな寝息を立てていたポニーテ
ールの栗本乙葉に小声で話しかける。一つ年下で中等部に入学した
ばかりの乙葉は目を覚ますと、まだあどけない顔に人懐こい笑顔を
浮かべた。
﹁姫先輩、おはようござ︱︱﹂
姫は彼女の唇に人差し指を押し当てて言葉を遮った。すぐに事情
を察した乙葉の小さな身体がブルブルと震え始めて、姫にもその恐
怖と緊張が伝わってくる。
30
︱︱泣きたいのは私もよ。
そんな弱音をつい口に出しそうになりながらも、足元に置いてあ
った出刃包丁をすがる様に握り締めた。
いま自分たちがいるのは民家の二階のクローゼットのなかだ。階
段を上がってくる音がすると言うことは、屍人よりも生きた人間と
いうほうが確率が高い。
何故ならば屍人は高低差が苦手だから。
それがこの四日間のサバイバルで得た教訓であり知識だった。
屍人は平坦な場所でも動きが鈍いが、それが階段や坂道になると
更に動きは遅くなる。どうも死後硬直している間接や筋肉がうまく
動かないらしい。
だから仮の寝床もこうして二階の目立たないクローゼットの中に
したのだ。
しかし、問題はあった。いや、もしかしたらより深刻な状況にな
ったのかもしれない。
階段を上がってくるのが屍人でないとしたならば、必然的に生身
の人間ということになる。この民家に潜り込んだときに家の中に人
は誰も居ないことは確認している。
悲しい話だが、玄関のドアは無残に打ち破られていて一階の居間
や和室には激しく争った跡と大きな血痕があったので、きっと家族
の誰かが屍人になって残りの家族を襲ったのか、屍人の侵入を許し
てしまったのかのどちらかだろう。
とにかく姫と乙葉は寝床を求めてこの民家へ辿り着いたときに、
部屋中を歩き回って人も屍人も居ないことはチェックしている。
31
玄関には壊れたドアの代わりに食卓や食器棚を運んでバリケード
を作って、さらに亡くなった祖母から伝え聞いていたドーマンセー
マンと呼ばれる星型の印と格子状の印を記した半紙が貼り付けてあ
る。
屍人がこの印を避けるというのも、この四日間である程度の確証
を得ていた。
勿論念には念を入れて、いま隠れている二階の洋室のドアには鍵
もかかっている。
少なくとも動きの遅い屍人ならば窓から屋根伝いに逃げる余裕は
十分に取れる。
しかし、もし人間だったとしたら⋮⋮?
それも男だったらどうする⋮⋮?
姫の頬を緊張の汗が伝っていく。
四日前の出来事が脳裏に甦って、次第に呼吸が荒くなっていく。
四日前︱︱
郊外の田園部にある第一さくら寮へ避難することとなり、第二さ
くら寮に住んでいた姫と乙葉、そして第三寮の高等部の生徒三名に
教師の家族を合わせた計九名が、スクールバスで第一寮へと向かっ
ていた。
第一寮へは二十分足らずで到着するはずだったのに、道路は街か
ら避難する人たちの車で溢れかえっていてどれだけ待っても動く気
配を見せなかった。
そして悲劇は起きた。
32
やがて、霧のなかから暴徒と化した暴走族風の少年たちが現れて
バットや鉄パイプで車の列に襲い掛かり、運転手や家族を集団でリ
ンチしたり金品を奪い始めたのだ。
その血と快楽と欲にまみれた狼の群れはすぐにスクールバスの存
在に気付いて、下卑た笑みと血走った眼でバスのドアを壊して乗り
込んできた。
運転席に居た教師が鉄パイプで殴られながら、皆に向かって逃げ
ろと言ったのを最後に、姫はそれ以降のことはよく覚えていなかっ
た。
霧の中を乙葉の腕を掴んで無我夢中になって逃げ回り、気が付く
と路地裏に乗り捨てられた配送用のワンボックスカーのなかに居た
のだ。
その時に、寮から持ってきた祖母の形見である習字道具一式が入
ったカバンをしっかりと持っていた自分を褒めてやりかった。
そしてその車内で一晩を過ごしたが、姫はこの世が地獄に滑り落
ちたのだと思い知らされた。
車の中から沢山の屍人が徘徊するのを見かけ、沢山の悲鳴や怒号、
泣き声を聞いた。
時々、屍人は車体に身体をこすり付けるようにしてフラフラと通
り過ぎていくことがあり、確実に車内に居る姫と乙葉が目に入って
いるはずなのに二人を認識出来ていない姿を見て、姫は祖母の話を
思い出した。
幼少時、寝る前の御伽噺として聞かせてくれた祖母の数々の知識。
仏教や密教、道教の教えから悉曇文字や仏様の種類。ドーマンセー
マンの魔除けの印もその時に教えてもらった。
33
その中でも印象的だったのが、恨みながらこの世を去った人間が
怨念の力で甦るという中国の妖怪キョンシーの話だった。
動き回る死体を想像すると夜中に布団の中で丸まって震えること
もあったが、キョンシーは人の吐く息の匂いに引き寄せられるので、
キョンシーに出会った時には呼吸を止めてじっとしていればどこか
へ行ってしまうという教えを思い出すと不思議と落ち着いた。
得体の知れぬ化け物でも対処の仕方がある︱︱
その人の知恵というものの素晴らしさが恐怖を上回り、温かい安
心感に包まれた。
ドーマンセーマンも同じだ。
人は化け物や妖怪と対峙しても決して無力ではない。
ワンボックスの車内でそのことを思い出した姫は、祖母の形見の
習字道具でドーマンセーマンの印を書いてワンボックスに貼り付け
た。
それからは不思議と屍人は車に近づくことはなかった。まるで見
えない壁でもあるかのように、車から一メートルくらい離れたとこ
ろを通り過ぎていく。
そして朝を迎えると、霧の中を建物の壁伝いに第一寮を目指した。
姫も乙葉も寮がある方角をなんとなく知っている程度で正確な場所
は知らなかったが、今の二人には第一寮を目指すしか道はなかった。
しかし霧の中を屍人を警戒して前に進むのにはかなり時間を要し、
神経をすり切らせる行為だった。突如として目の前の霧から屍人が
ふらりと現れても、慌てずに呼吸を止めてじっとしていればやり過
ごすことは出来たし、もしそれが間に合わなくて屍人が襲い掛かっ
34
てきても、階段や坂道を使って逃げることで危機を脱することがで
きたが、時間ばかりが経過してなかなか前へ進めなかった。
それでも家人の居なくなった民家を見つけると仮の寝床として入
り込み、鋭気と体力を養って少しずつ前へと進んだ。
食料は民家に残されていたカップ麺やスナック菓子でなんとか賄
えていたが、張り詰めた緊張感のためかそれほど空腹は感じなかっ
た。
もっともそれは姫個人に限った話で、一つ下の後輩は日に日に憔
悴していくのが手に取るようにわかった。
霧に紛れて道路の端を壁伝いにゆっくりと歩き、なるべく人気の
ない路地を選び、時には畑の中を横切り、側溝に降りて膝まで水に
浸かりながら先を急いだ。
姫と乙葉が無事に生き延びられたのは運もあるが、その運を引き
寄せたのは祖母の遺してくれた知識であり、その知識を使うことが
出来た姫の機転であり、自分たちがただのか弱い中学二年生と一年
生の女の子であるという自覚からくる警戒心のおかげだった。
白く蠢く不気味な霧は屍人を生み出したが、同時にか弱き二匹の
子羊の姿を血に飢えた狼たちから隠してくれるという一面もあった。
姫はそのことにいち早く気付いて、最大限に利用した
。
それがここまで無事でいられた理由だ。
そして、姫は理解した。
血に飢えた狼は屍人ではなく、人間であると。
人間の、それも男こそが狼だ。
第二寮を避難することになったのも、寮内にイタズラや食料を求
35
めて入り込んできた男たちが原因だったし、スクールバスが襲われ
たのも同じだ。
姫はあの時の少年たちのギラギラした目を思い出してぞっとした。
女の子をただの快楽のはけ口としてしか見ていない、ねっとりとし
た暗い目つき。
そして今、階段をゆっくりと上がってくる足音は恐らく人間で間
違いない。
男か、女か。
一人か、複数か。
足音は階段を上りきって、隣の部屋へと入っていく。しばらく部
屋の中を歩き回る音が聞こえたが、やがてまた廊下を出ると、姫た
ちのいる部屋へと向かってくる。
ドアノブが動く音がするが、鍵がかかっていると知ってか一切の
音がピタリと止んだ。
ドアの向こうで何者かが息を呑んでいるのが、クローゼットの中
に居ても手に取るようにわかった。
乙葉がぎゅっと姫にしがみついてくる。
姫も出刃包丁をきつく握り締めながら、このままどこかへ行って
くれと願っていた。
しかし。
突然ガチャガチャガチャガチャガチャと狂ったようにドアノブが
回される音が鳴り響いたかと思うと、すぐさま激しくドアを叩きな
がら、
﹁おい、誰か居るのか、居るんだろ! カギ開けて出て来いやっ!﹂
36
と、男の野太い怒声が聞こえてきた。
その声が聞こえた瞬間、姫は弾かれたようにクローゼットから転
がり出た。
﹁ここから逃げるよ、早く!﹂
乙葉の手を引っ張ってクローゼットから引きずり出すと一目散に
窓際へと駆け出す。
﹁︱︱おい、ここに女が居るぞ! ビンゴだぜえっ!﹂
ドアの向こうで男の興奮した声が叫ぶと、階下から歓声や口笛が
聞こえてきた。どうやら仲間が居るらしい。
弾むように階段を駆け上がってくるいくつもの足音と、ドアを狂
ったように蹴り上げる音を背中に、姫と乙葉は屋根へと飛び出した。
逃走経路はあらかじめ確認してある。
二人は幼くか弱そうな外見とは別に、冷静沈着にそして素早い身
のこなしで軒先の下に止まっている車の屋根へと飛び降りると、手
を取り合って霧の中へと姿を消していく。
それはまさに生存本能に突き動かされて平原を疾走する草食動物
のような身のこなしだった。
37
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・4
4
食堂のソファに崩れるように座って、まどかはジッポライターの
炎を眺めていた。
昨夜︱︱と言っても数時間前のことだが、コンビニで見た驚愕の
事実が、今も鮮明に頭に焼きついていて離れない。
死体が生き返って、生きた人間に襲い掛かる。そんな映画みたい
な信じられない出来事を実際にこの目で見てしまった。コンビニか
ら慌てて戻ってくる時も、霧の中で何体かの歩く死人と遭遇したが、
その度に銀椿は刺又で冷静に対処して活路を開いてくれて、その小
さな背中はとても頼もしく、彼女が言うように自分がのん気だった
ことを思い知らされてやるせなかった。
そしてこれからのことを考えると絶望しか見えず、どんよりとし
た倦怠感に全身が支配されて何もやる気が起きない。
何をすればいいのかがわからない。
それでも柔らかに揺らめくオレンジ色の炎を眺めていると、ささ
くれだった気持ちも少しずつ落ち着いてくるようだ。
どんな時でも炎はまどかの精神安定剤であり、大切な心の拠り所
だった。
炎を見つめていると、やがて母と幼かったころの自分の笑顔がぼ
んやりと見えてきて、そして顔も覚えていない父親のシルエットが
二人を見守る姿が見えてくる。
それはかって自分が手にしていたはずの安らぎの園なのだろう。
38
父親の形見であり、母親の長年の愛用品でもある純銀で作られた
特別なジッポは、今は娘の手へと受け継がれて、もっぱら優しい妄
想を灯す発火装置として機能していた。
﹁もしかして先輩は不良娘さんなのですか⋮⋮?﹂
気が付くと、いつの間にか銀椿がソファの横に立っていた。言葉
とは裏腹に顔は大して驚いていない。相変わらずの無表情だ。いや、
さすがに眠たいのか、目がとろんとしている。
﹁銀さんほどじゃないわよ。座る︱︱?﹂
まどかがライターをポケットに仕舞って自分の横を指差すと、銀
椿は何も言わずにちょこんと腰掛けた。
てっきり断られると思っていたので、その以外な結果がまどかは
嬉しかった。やはり、こんな時だからこそ誰か話し相手が欲しい。
もしかしてそれはこの変わり者の後輩も同じなのだろうか⋮⋮
﹁という訳で、先輩にも昨夜の出来事を通じて世界の現状をわかっ
てもらえたと思いますが、それをふまえてこれからこの世界でどう
生きていくのか考えが決まりましたか?﹂
﹁どう生きていくって⋮⋮、やっぱりここで誰かの救助を待つしか
ないでしょ? 銀さんはどうするつもりなの?﹂
﹁私は行くあてもありませんから、ここに残ります﹂
と、きっぱりと即答する。そして、
﹁でも、救助なんてそんなものは当てにしたって無駄です。ていう
39
か、救助なんて来なくていいです。迷惑です。大迷惑です。私はこ
こで誰にも邪魔をされず、私だけの王国を作り自立したサバイバル
ライフを送るつもりですから﹂
それを聞いて、まどかは苦笑するしかなかった。変わっていると
言うかなんというか。所謂、中二病というやつだろうか。
﹁つきましては、寮長さまにこの地に王国を建立する許可と、いく
つかのご協力をお願いしたいのですが?﹂
﹁許可? そんなの好きにやればいいよ、寮長と言ってもただの臨
時なんだし。あとなんの協力かわからないけれど助け合いは必要よ
ね、二人しか居ないんだもん。で、なにを手伝えばいいの?﹂
どうせ部屋に篭っていてもやることはない。適当に身体を動かし
ていたほうが気が紛れるはずだ。
そんな軽い気持ちで答えたつもりだったが、まどかはすぐに後悔
した
。
銀椿の顔に珍しく笑みが浮かんだかと思うと、彼女は持っていた
二冊のノートをローテーブルの上に広げて、興奮した口調で早口で
まくし立てた。
どうやら確実に何かのスイッチを押してしまったらしい。
﹁︱︱このノートは、こっちの少し古くなっているほうが、兄と一
緒に作った終末世界サバイバルノートでして、中は核戦争後、大地
震、天変地異、ゾンビ発生、宇宙人侵略と様々な終末パターンごと
に五つのカテゴリーに分かれていて、それぞれの事例にあった心構
えから生活拠点となる基地の選び方や武器、食料の確保の仕方が書
かれている私のバイブルです。で、こちらがバイブルを基に第一さ
40
くら寮を生活拠点に設定して制作したサバイバル計画書になります。
まず私が悩んだのは、この生活環境壊滅的超広域視程障害と名付け
られた霧と、ゾンビの発生が同時に起きた点です。バイブルではこ
の二点は別々に書かれていて、同時発生は想定していませんでした
から。これでは盆と正月が同時に来てしまったようなものです。先
祖の霊を祀ればいいのか、新年を祝えばいいのか。でもそこは臨機
応変に二つの対処法の中から、実際の状況と照らし合わせて有用と
思えるものをチョイスして、それをもとに計画書を作成することで
解決しました。ようは先祖の霊と一緒に新年を祝えばいいというわ
けです。まず可及的速やかに対処しなければならないのが食料の確
保です。が、これはここ数日間、夜な夜な私がかき集めたものがあ
りますので、先輩と合わせた二人分で計算してもゆうに二週間はも
ちます。在庫としては米が三十キロ、レトルトカレーが七袋、乾燥
麺六袋、インスタントの味噌汁三食分、ツナ缶とサバ缶が二缶ずつ
に桃缶が一つ、その他スナック菓子類が五つです。あと寮敷地内の
自転車置き場横に防災倉庫が設置されていて、当然施錠されている
ので中は確認できていませんが、恐らく災害用の非常食などが備蓄
されていると思われます。先輩にはあとで寮長権限を行使してもら
い、カギのかかった管理人室のドアを壊して備蓄倉庫のカギを探し
てもらいたいと思います。また調理場と塀の間には井戸があり、普
段は使われていませんが災害時の飲料水確保のための細菌フィルタ
ー付きの手動ポンプが設置してあるのを確認済みなので、飲料水な
どの生活用水に関しても心配ありません。今のところ電気、水道の
ライフラインは生きていますが、恐らく数日内には機能しなくなる
と思いますが、以上の説明通り、ここに居る限り深刻な事態は回避
できると思います。ただガスについては当施設はプロパンガスを使
用しているので、炊く、焼く、煮る、沸かすについてはガス使用の
制限を設けつつ、緩やかに他の方法へ移行していけば何も問題はあ
りません。いまざっと説明したように、衣食住のうち食に関しては
当面クリア。飲料水生活用水もクリア。次いで衣服についても寮と
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いう建物の性質上から、各寮生が残していったものを代用すること
でこれもクリア。最大の問題は住です。人気のない目立たない山の
上に立ち、且つ周囲を高い塀に囲まれていることで対ゾンビに関し
てはベストな物件ですが、これが対人間となるとベストからベター
へ格下げせざるをえません。一番憂慮すべきは防犯体制の脆弱性で
す。いくら門や塀があっても人間ならば梯子を使って簡単に乗り込
まれてしまいます。本当ならば塀をあと二メートルは高くしたいと
ころですがこの人数では無理なので、まずは敷地内にあるスクール
バスを門の前へバリケード代わりに移動することと、侵入者を知ら
せる罠の設置、そして万が一敷地内に侵入されても建物内への侵入
は阻止するために、一階のすべての窓へバリケードを設置しなくて
はなりません。︱︱というわけで、先輩もお手伝いお願いします!﹂
﹁は⋮⋮マジでですか?﹂
﹁マジでです。先輩もさっき見ましたよね、あのゾンビたちを﹂
﹁見たことは見たけれど、でも⋮⋮﹂
﹁先輩、一緒に私たちだけの王国を作っていきましょう。先輩は優
しい人だから、先輩とならうまくやっていけると思います﹂
三十分後︱︱
ジャージ姿のまどかは玄関にいた。
昨日の銀椿同様に頭にタオルを巻き、エプロンに身を包んでいる。
何故ならそれが彼女の注文だったからだ。ただゴーグルは用意でき
なかったので代わりに伊達メガネで済ませているが。
下駄箱の横の姿見に写る自分の格好を見てため息をつく。
42
﹁私、なにやってんだろ? これがほんとにいますべきことなのか
⋮⋮?﹂
ふと鏡に写りこんでいる校訓に目がいき、後ろの壁を振り返った。
年期が入って薄汚れたフラスチックの板に書かれたさくら寮寮訓。
﹁常に誠実であれ。常に勤勉であれ。常に乙女であれ⋮⋮か。はは、
これが乙女かぁ?﹂
そう自虐的に笑っていると、同じく完全防備した銀椿が現れた。
﹁お待たせしました﹂
﹁ねえ、ほんとにこんな格好する必要あるの? ちょっと大袈裟っ
て言うか、変質者っぽくない?﹂
﹁大丈夫です。誰もそんな他人の格好を気にする余裕なんてありま
せん。それにゾンビに襲われた人がゾンビ化するということは、未
知のウイルスが直接感染や経口感染している可能性が高いですから。
たとえゾンビに噛まれなくても、ゾンビを殺すときの返り血が目や
口にかかるだけで感染するかもしれません﹂
﹁え? え? えええーっ、ゾンビを殺すなんて絶対無理無理無理
無理無理っ。やっぱり私いかない!
﹂
﹁そりゃゾンビと言えど、ついさっきまで生きてた人ですから抵抗
はありますけど、それでも生き延びるためにはいつかは通らなけれ
ばならない道です︱︱と、偉そうに言ってみても私も まだ経験は
ないんですけど。とにかく、夜な夜な外出していた私が、ゾンビを
43
一体も殺すことなく無事でいられたんです。大丈夫ですよ先輩﹂
﹁ほ、ほんとに⋮⋮?﹂
﹁はい。あとは慣れるだけです。それとゾンビは反射が鈍っている
のか、刺又で一押ししてやるだけで以外と簡単に転びます。たぶん
刺又を認識出来ていないのか、刺又を掴んで抵抗してくることもあ
りませんから。あ、これ先輩のぶんです﹂
そう差し出された刺又をまどかは渋々と受け取った。刺又は防犯
用にもともと寮内に設置してあったものだ。
﹁それなら大丈夫かな⋮⋮って気がしてきた⋮⋮と思いたい﹂
﹁それにゾンビは動きも鈍いですから。全力で走れば振り切れるの
は昨日のコンビニでも実証済みです﹂
と、こけし人形のようなシルエットの中二病の中二の後輩は自身
満々に言い切った。
44
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・5︵前書き︶
すみませーん。今回切りどころがなくて10000字超えています。
一気に読んでいただけると嬉しいです。
45
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・5
5
まどかと銀椿が向かったのはホームセンターだった。
国道を昨夜のコンビニとは正反対の方角へ五百メートルほど進む
と、チェーン店のホームセンターがある。最近増えてきている複合
商業施設にあるような巨大な店舗ではないが、必要最低限の品揃え
はあるといった感じの小さな店舗だ。
そこへ行こうと言い出したのは勿論中二病の変わり者の後輩だ。
彼女の話では夜な夜な街へ繰り出して空き家で食料を漁っていた
時に、ホームセンターへ行ってみたことが一度あるが、その時は十
数人の暴走族風の若者たちがたむろっていて霧に紛れて物陰から眺
めることしかできなかったらしい。
しかしさくら寮の防犯体制強化に必要な資材はホームセンターで
ないと手に入らない。市内には最近出来たばかりの巨大ショッピン
グセンターがあり、他にももう二件のホームセンターがあるが、そ
れらは寮からは距離があるのでよりリスクが高まる。
﹁でも、やはり向こうの方が品揃えが豊富だから一度で欲しいもの
が全て揃うかも⋮⋮﹂
と、余計なことを呟き始めたこけしに似た後輩の肩を叩いて、近
場のホームセンターを強く推したのはまどかだった。もう半分やけ
くそだった。
そして一時間ほどでホームセンターへ辿り着いた。
46
途中で数体のゾンビと遭遇したが、銀椿の言うとおり刺又で押し
てやると簡単にバランスを崩して倒れるか、霧の中へ押し戻すこと
が出来た。
それに加えて彼女の話では、どうもゾンビは音に反応して近寄っ
てくるらしいと言うので、歩くときは極力静かに歩き、数メートル
ごとに物陰で息を殺してゾンビたちが近寄ってきていないか気配を
探った。
おかげでいつもよりも時間は三倍近くもかかってしまったが、予
想以上に安全に辿り着くことができた。正直肩透かしを食らった感
じで、もしかして自分は必要以上に怯えていたのかもしれないと思
うと、まどかの気分も幾分かは軽くなった。
二人は駐車場に乗り捨てられている車の陰に隠れながら、霧の中
誰かいそう⋮⋮?﹂
に微かに浮かび上がる店舗の様子を伺った。
﹁どう?
﹁たぶんもう居ないみたいです。この間は店舗の前で焚き火をしな
がら店を出入りしたりバカ騒ぎをしていて、まさにDQNて感じの
お兄さんたちがたくさん居たんですけれど。﹂
なるほど。確かにシャッターは閉じられていたが、一箇所だけ不
自然に途中まで開け放たれている。
﹁⋮⋮それと先輩に話していませんでしたが、パニックになった人
たちが他の人たちに襲いかかるのを何度も見ています。ゾンビやD
QNだけじゃなく、私たち以外の人間も敵と思ってください﹂
﹁わ、わかった⋮⋮﹂
47
銀椿は背負っていたデイバックを下ろすと、中から黒いライフル
銃のようなものを取り出した。しかし映画やドラマで見かけるライ
フル銃とは形が微妙に違うのはまどかにもわかった。
オリハルコン・ソニックムーバー
﹁ライトクロスボウです。通り名は音速の狙撃堕天使のミセス・ゴ
ディバさんです﹂
と、銀椿は無表情の真顔でさらりと言ってのける。しかしなんと
なくこの変わり者のこけし少女との接し方がわかってきたまどかは、
﹁ゴディバさん、ちぃーす﹂と軽く会釈をする。
﹁でもすごいね、どうしたのそれ?﹂
﹁備えあれば憂いなしですから。もっとも連射が出来ないので大勢
に囲まれたらキャロラインのほうが頼りになりますけど。じゃあ、
行きます。絶対に私から離れないでください﹂
銀椿は慣れた手つきで弦を引いてアルミ製の矢をセットすると、
クロスボウを構えて中腰になって店舗に向かって駆け出した。
アスファルトの上をまるで滑るように音もなく走り、シャッター
に音もなくピタリと身を寄せると、半分だけ開いている箇所から店
内を覗きこむ。
そんな華麗とも言える軽やかな動きに対して、後に続くまどかは
ドタバタとぎこちない。
彼女の真似をしてそっと店内をのぞきこんで見るが、中は照明が
消えて薄暗くてよく見えなかった。
銀椿は身を屈めたままシャッターを潜り、風除室のガラスドアに
48
近づく。ガラスの一部が外側から割られていて、試しにそっとドア
を押して見ると、カギはかかっておらずドアがゆっくりと開いた。
彼女はまどかを振り返って一回頷くと、クロスボウの銃身に取り
付けてあるフラッシュライトを点灯してゆっくりと店内へ入ってい
った。それを見届けると、まどかは駐車場に広がる霧を見渡して誰
も居ないことを確認してから後に続いた。
店内はひんやりとした空気と静寂に包まれていて、その中を銀椿
が先頭になって一目散に店内の奥へ向かって突き進んでいく。フラ
ッシュライトの光の筋が暗闇を狂ったように切り裂いた。
そうして最初に二人が手に入れたのは組み立て式のリヤカーだっ
た。
﹁先輩、お願いします﹂
﹁わかった﹂
まどかがリヤカーを引き、銀椿が先頭を走りながら目的の品を次
々とリヤカーへ放り込んでいく。
工具一式、様々なサイズのクギやネジ、針金、釣り糸、防犯ベル、
結束バンド、懐中電灯兼用ランタン、乾電池、飯ごう、ドラム缶バ
ーベキューコンロ︱︱
変わり者の後輩の豪快すぎる万引きを見ていると、不謹慎だがま
どかの顔はいつしか笑顔になっていた。
リヤカーを引きながら、つい自分も目についたトイレットペーパ
ーやシャンプー、コンディショナーを積み込んでいく。頭の隅で警
察に捕まるのかなぁと疑問が湧いたが、むしろ早く捕まえにこいと
思った。
49
そうでないと、自分はどんどん箍が外れていく。どんどん悪い子
になってしまう。
﹁あ︱︱﹂
銀椿がある棚に差し掛かると、立ち止まってまどかを振り返った。
その手には見慣れたデザインの缶が握られている。
﹁ジッポのオイル缶、いります?﹂
﹁ありったけちょうだい!﹂
﹁了解しました﹂
と、彼女は両手いっぱいのオイル缶をリヤカーへ放り投げる。そ
れを見てまどかは両手を叩いて喜んだ。
﹁あ、後輩後輩。あれ見てあれ!﹂
今度はまどかがある物を見つけて一目散に駆け出した。そこにあ
ったのはワゴンに乗せられた十キロの米袋だった。ゆうに十袋はあ
る。
﹁お米だよお米。当然持ってくでしょ。こんなお宝を放っておく道
理なんてないもの﹂
まどかは嬉々として米袋を一つ、二つと積んでいく。
﹁二つが限度じゃないですか。それ以上だとリヤカーが重くなりす
ぎて危険です﹂
50
﹁うーん残念だけど、そうみたい。でも結構残ってるもんだねえ?
これならば一度戻ってまた取りに来たほうがいいんじゃないの?
これだけの数を置いておくのは勿体ないよ﹂
しかし窃盗団主犯の後輩は怪訝そうな顔で黙り込んでいる。
﹁どうしたの?﹂
﹁あのDQNたちここへなにをしに来たんだろ? あれだけの人数
が居て食料に目もくれないなんて⋮⋮﹂
銀椿は何か思いついたようにはっとすると、
ベース
﹁どこかへ行ってしまったのじゃなくて、ただ出掛けているだけ⋮
⋮? ここがあいつらの基地だとしたら、当然また戻ってくる︱︱
先輩、早くここを出たほうがいいかもしれません﹂
窃盗団主犯の唐突な警告にまどかの顔から徐々に笑みが消えて、
不安と恐怖で強張っていく。
二人はリヤカーを出口に向かって引き始めるが、米袋二十キロが
追加されたリヤカーは想像以上に重たかった。そしてようやくリヤ
カーを出口まで引っ張ってくると、半分だけ開いているシャッター
の向こうに広がる霧の中から人の話し声と足音が聞こえてきて、二
人は思わず顔を見合わせた。
まどかは隣にいる変わり者だが妙に頼り甲斐のある後輩に完全に
依存していたので、能面のように無表情というのが基本的大原則の
その幼い顔に、明らかな困惑と動揺と不安の色を見た時に底の見え
ない絶望を感じた。
51
司令塔から指示の出ないチームはその時点でもうゲームセットを
迎えたのと同じだった。
二人が思考停止したままその場で硬直しているうちに、目の前の
霧が一人、二人⋮⋮と次々と少年を吐き出していた。
先頭を歩いていた赤いバンダナを巻いた少年が、店内に居たまど
かと銀椿の姿を見つけて一瞬呆気に取られている。
口に咥えたタバコがポロリとこぼれ落ちていく。
それは少年の口元がニヤついていたからだ。そして絶好の獲物を
見つけた肉食獣のように両手を高く突き上げて歓喜の雄叫びをあげ
た。
﹁イェェェェェェーイ、俺サマ大勝利ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ
ぃぃぃぃぃぃぃぃ!﹂
リヤカーは捨ててください!﹂
あ、はい!﹂
﹁先輩、逃げます!
﹁え!?
弾かれたように店内の奥に向かって走り出した銀椿のあとをまど
かが一瞬遅れて追いかける。
しかし店内に怒涛のようになだれ込んできた少年たちの集団は、
一気に店内中に広がって二人の行く手を拒んだ。茶髪にスキンヘッ
ドで金属バットやゴルフのドライバーを手にした暴走族風の少年た
ちがニヤけた顔を浮かべて、奇声や歓声を上げながらジリジリと包
囲網を狭めてくる。
まどかと銀椿は背中合わせに周囲の少年たちを警戒しながら、出
口へと戻るしかなかった。
52
﹁なんだよなんだよぉ、女子狩りを終えてマイハウスに戻ってみれ
ジャンジ
ば、ここでも桜道の女子とか今日はどんだけラッキーデーなんだっ
ての。もしかして今日はオール設定6の日なのかぁ!?
ャンバリバリズッコンバッコンしろっていう神様の啓示かよこの大
漁具合は!﹂
そのハイテンションな喚き声に振り返ると、バンダナの少年がレ
ジ台の上に上がって興奮したように腰を振って仲間の少年たちと笑
っていた。
少年たちの人数はざっと数えて十五人。いままどかたちを取り囲
んでいるのが十人ほどで、歳も中学生くらいに見える。そしてバン
ダナ少年も含めてレジの周囲に固まっているのが残りの五人で、そ
ちらに居るのはみな高校生から二十歳前後に見え、立ち位置と年齢
からグループ内の上下関係が手に取るようにわかった。
周囲を取り囲む少年たちの威嚇にまどかたちはレジ前の広場へと
押し出された。しかしずっと隣では銀椿がミセス・ゴディバで威嚇
をしているので、少年たちも下手に手は出せないでいる。
その張り詰めた均衡を破ったのは、バンダナの少年だった。
﹁誰か事務所行って照明付けてこいよ。まだ電気きてんだろ?﹂
指図を受けて中学生組の一人が店内の奥へ走っていくと、しばら
くして店内の全ての照明が点灯した。
﹁おーい、なかに入っていいぞ﹂
と、バンダナ少年の合図でシャッターをくぐって更に五人の少年
53
が店内へと入ってきた。しかも後ろ手にロープで縛られた桜道女子
学園中等部の制服を着た二人の女生徒を引き連れている。
一人はブロンドヘアのツインテールの髪型をしたハーフの美少女
で、まどかにも見覚えのある少女だった。
日本人離れしたくっきりとした目鼻立ちの西洋人形のようなルッ
クスは学園内でも非常に目立つ存在の有名人で、他の学校の男子生
徒の間でファンクラブが設立されたとか、東京の出版社からティー
ン雑誌のモデルとしてスカウトされたこともあるなど数々の噂はま
どかの耳にも届いていた。
そしてもう一人は見るからに新一年生と言った感じの、まだあど
けなさが残るポニーテールの女子だった。百四十センチ台の小さな
背丈とやや丸みを帯びた輪郭が可愛らしい小動物を彷彿とさせる。
しかし彼女の方は足をケガしているのか右足を引きずっていて、
疲れ切っている表情もあってとても痛々しく見えた。
﹁⋮⋮たぶん第一寮に来る予定だった女の子たちだと思う。知って
る子?﹂
まどかは周囲を警戒しながら銀椿に小声で聞いた。
﹁いいえ。私、友達いませんから﹂
﹁おいおい、なにコソコソ喋ってんだよ。わかってんだぜ、そんな
大晦日のかーちゃんみたいな格好してても、おめえらも桜道女子な
んだろ? そのジャージはここいらじゃ有名だもんなぁ﹂
バンダナ男はレジ台を飛び降りると、まどかたちの方に近づいて
きた。
すかさず銀椿がクロスボウを向けると、バンダナ男は芝居がかっ
54
た動きで驚いてみせる。
特に君らみ
﹁子猫ちゃーん、そんな物騒なもの向けたらあぶねえだろ。なぁ楽
しくやろうぜ? こう見えても俺たち優しいんだぜ?
たいなウブそうな子にはボランティア精神でいろんな事を教えてあ
げたくなるんだよーん﹂
﹁ウザい﹂
銀椿はためらわず引き金を引いた。アルミ製の矢が頭上をスレス
レに掠めていき、バンダナ男は慌てて尻餅をついた。
﹁今度は当てる。そっちの二人はどうでもいいから私たちだけでも
見逃して﹂
そう言い終えた頃には、銀椿は二本目の矢を装填してバンダナ男
に照準をピタリと合わせていた。とても中二の女子とは思えない無
駄のない流れるような動きだった。
﹁お、おめえ∼、これがゆとりパワーかっ。こえーゆとりマジこえ
ー。当たったら死ぬんだぞ。もう少し考えて行動しろ。今頃両親は
泣いてんぞ。この不良娘。親不孝ビッチ!﹂
バンダナ男はどこまでが本気かよくわからないノリで罵り声を挙
げた。その態度はある意味余裕の現れだ。たとえ武器を持っていよ
うと、所詮相手はいたいけな女子だと思って舐めている。最終的に
その程度の武器では、この人数を相手に状況をひっくり返せないと
わかっているからこそのふざけた態度。
それはこういう修羅場を経験していないまどかにもわかっていた
し、きっと隣でイラついた横顔を浮かべている後輩もそれが原因の
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ように思われた。
﹁まあ、それくらいでやめておけシュウ﹂
と、後から入ってきた五人のなかの一人がバンダナ男に近づいて
行った。こちらの男は頭にサングラスを乗せていて、よく見ると顔
がバンダナ男と瓜二つだった。どうやら二人は双子らしい。
﹁でもよぉ、アキラ。あいつらも桜道女子なんだぜ。みすみす設定
6を見逃すのは勿体ねえよ。乗るしかねえだろ、このビッグウェー
ブに!﹂
シュウとアキラと呼び合う双子が会話している隙を見て、銀椿は
ポケットから何かを取り出してまどかに手渡した。まどかは見つか
らないようにそれをぎゅっと握り締めると、袖を引っ張って握りこ
ぶしを隠した。
この手の平に伝わる感触は⋮⋮
﹁そっちのお二人さん、悪かったな。おまえらはもう帰っていいぜ。
但しこっちの中学生は貰うからよ。ギブアンドテイクだ。文句ねえ
よな? 間違っても誰か助けを呼んでくるとか面倒くせえことはす
んなよ。世の中こんな風になっちまったけれど、お互いに約束だけ
は守ろうぜ。俺たちも出来れば穏便に過ごしたいんだ。それがお前
らを見逃す条件だ。いいな?﹂
と、提案してきたのはアキラと呼ばれていた少年だ。もう一人の
シュウと言う名のバンダナ少年はすぐ後ろで憮然な顔をしていたが、
二人の間ではもう話はついているらしい。
﹁それでいい。了解した﹂
56
﹁え︱︱!?
ちょ、そんな⋮⋮!﹂
銀椿の即答に、まどかは両目を見開いて口をパクパクとしていた。
反論したいがどう反論していいのかわからない。
すると、銀椿はこちらを恨めしそうに睨み付けていたハーフの女
子を指差して、
﹁あのハーフビッチはいい仕事をすると思う。学園一のヤリマンで
有名たったから。きっとお兄さんたちも大喜びすると思うアルよ﹂
と、響き渡るような大声で、しかも何故かインチキ中国人の口調
私はあ
で、まるで特売品の前でアピールする店員のように言い放った。
今なぁんつぅたぁ! 銀椿!
隣のクラスの有名な変人ぼっち女でしょ!?
﹁うぉい、ちょい待てや!
んたを知っている!
あんたなんか帰り道に
私たちをダシに自分だけ助かるなんてさすがよ! ぼっちで変人
だから他人の痛みなんてわからないのね!
ゾンビ食われて死ねばいい。いや、きっと死ぬ。神様や仏様はあん
たみたいなぼっちの変人は許さないから!﹂
ハーフ女子︱︱咲山姫は、出来る限りの大声で罵声を浴びせた。
それに対して銀椿がまたぽつり。
﹁⋮⋮黙れビッチ﹂
﹁死ねよ糞ミソぼっち!﹂
﹁⋮⋮腐れビッチ﹂
﹁こけしぼっちのくせに!﹂
57
﹁⋮⋮ハーフビッチ﹂
﹁年中無休ぼっち!﹂
﹁⋮⋮ヤリマンビッチ﹂
﹁来世もぼっち!﹂
この予想外の低レベルな罵り合いにまどかがオロオロしていると、
双子のシュウがぶち切れた。
﹁ああ、うるせえんだよ黙れハーフ! そっちのボウガンもそれ以
上挑発すんな! 俺らの気が変わらないうちにさっさと消えろバー
カ!﹂
その迫力ある大きな怒声に二人はようやく口を噤んだ。
銀椿は肩を竦めて息を吐くと、何事もなかったようにまどかを振
り返った。
﹁先輩、あの二人には尊い犠牲になってもらい、私たちは未来に向
ほんとに?
いいのかなぁこれ⋮⋮﹂
かって歩いて行きましょう﹂
﹁え⋮⋮!?
まどかの戸惑いをよそにすたすたと出口に向かっていく銀椿。
まどかは二人の中等部の後輩がいたたまれなくて思わず視線を落
とした。それに本当はリヤカーも引っ張って行きたかったが、それ
が許されるような空気でもなく、周囲の少年たちのいやらしい視線
にも耐え切れなくなり、後ろ髪をひかれる思いで銀椿のあとを追い
かけた。
58
そして銀椿を先頭に出口に向かってレジを通り抜けていく。
するとまさにレジを通り過ぎようとしたときに、まどかの目の前
で後輩の小さくて細い身体がいきなり真横へと吹き飛ばされた。
知らぬ間にレジ台の陰に隠れていた少年の一人が、彼女に体当た
りをしたのだ。
それを合図に数人の少年たちが怒声を上げながら床に倒れている
彼女に群がり、クロスボウを奪い取ろうとする。しかし銀椿は咄嗟
に装填してあった矢を外して放り投げると、一度空撃ちをしたあと
で抵抗することを諦めた。
﹁くそっ、壊れてやがるっ!﹂
クロスボウを手にした少年が舌打ちをする。近年のハイパワー化
したクロスボウは矢を装填せずに空撃ちをすると、ほとんどのモデ
ルが衝撃に耐えられず一発で弦の切断や滑車が破損して使い物にな
らなくなる。
勿論彼女が空撃ちをしたのはそれを見越した上でことで、少年た
ちにクロスボウを悪用されないための防衛策だった。
しかし少年たちからしてみればクロスボウの脅威がなくなったこ
とに変わりはない。少年たちは奇声を上げながら、銀椿の両腕を引
ねえなにする気なの。お願いやめてあげて!﹂
っ張ってシュウとアキラの前まで小さくて細い体を軽々と引きずっ
ていった。
﹁やめて!
まどかがそう叫ぶと、﹁黙って見てろ﹂と、周囲の少年から腰の
辺りを蹴り飛ばされて床に倒れこんだ。そしてその横に咲山姫と栗
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本乙葉の二人も縛られたまま連れてこられて床へ投げ出された。
頭にサンクラスを乗せたアキラがまどかたち三人を見て、残虐な
笑みを浮かべている。
﹁いいかぁ。おまえらもちゃんと見て学習しろよー。俺ら相手にふ
ざけたことするとどうなるかってな﹂
﹁たく、中坊のくせに舐めた真似してくれましたなぁ、おおっ!?﹂
シュウが銀椿の腹を思い切り蹴り上げた。くぐもった声を上げて、
彼女の細く華奢な身体が九の字に折れ曲がった。しかしシュウは容
赦なくまた腹部を目掛けて蹴りを放ち、床を転がって逃げる彼女の
背中を何度も何度も踏みつける。
周囲で円状になってニヤニヤと見守っている少年たちからやんや
やんやの歓声と口笛が沸きあがり、まどかたち三人は今にも泣きそ
う顔で悔しさと恐怖に唇をかみ締めていた。
その時、まどかは銀椿の視線に気付いた。シュウの蹴りから顔や
腹部を守るために、リノリウムの床の上で態勢を変えながら両手を
巧みに移動させてガードしている。その腕の隙間から彼女はまどか
を見ていた。
顔は苦悶の表情に歪んでいたが、その目は死んでいない。決して
まだあきらめたりはしていない。
その目を見て、まどかはようやく自分が託されたものの価値に気
付いた。これを使ったからと言ってこの最悪の状況が覆るのかもわ
からない。しかし、変わり者だけどこんな世界では頼りがいのある
後輩は、それを自分に託した。
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きっとそれはこうなることを最初から想定していたはずなのだ。
ならば使うのなら今。
どちらにせよ、彼女への暴力を止めさせるにはこの方法しかない。
その結果、少年たちの怒りの矛先が自分に向けられてもかまわな
い。
まどかは周りに立っている少年たちに警戒しながら、そっとポケ
ットから純銀製のジッポを取り出した。
﹁︱︱このっ、ちょこまか動くんじゃねえよ中坊が! おめえには
たっぷりお仕置きしたあとで俺たちののご奉仕の仕方を手取り足取
そしておめえは一生俺ら専属のパコ
り教えてやっからなぁ。俺らに逆らったことをヒィーヒィーと泣き
ながら後悔させてやっから!
パコJKとして生きろ。ああ、生きなさい!﹂
シュウは下卑た笑みを顔に張り付かせて、床の上を器用に身体を
滑らせて逃げ回っている銀椿を踏み付けようと、躍起になって追い
回していた。
周囲の少年たちもその下品で残虐な暴力ショーに夢中になってい
る。
まどかはそっとポケットからジッポを取り出して右拳から伸びて
いる導火線に火を点けると、躊躇することなくシュウに向かって投
げつけた。
まどかの投げたそれは白煙の弧を描きながら、シュウの胸板に当
たって足元へと落ちる。
その場に居た全員が何事かと息を呑んだ。まどかと銀椿の二人を
除いて︱︱
床に落ちると同時に火のついた百発の爆竹が、次々と耳をつんざ
く激しい音を立てて爆ぜていく。
61
﹁︱︱ちょ、だ、だれだよこんなもん投げるのは!﹂
シュウは足元で鳴り続ける爆竹の束に驚いて、まるで熱砂の上に
裸足で立っているみたいに足をジタバタと交互に上げ下げしている。
それを横目に見ていた銀椿は倒れた姿勢のまま、シュウの右足を払
いのけた。
そしてバランスを崩して床に倒れたシュウの上へ電光石火の間に
銀椿が馬乗りになると、どこに隠し持っていたのかその手にはいつ
の間にか彼女の顔よりも長いサバイバルナイフが握られていた。
周囲の少年たちが一瞬の出来事に呆気に取られていたが、すぐに
色めき立った。
﹁近寄ったら殺す。マジで殺す。タマキンぶっ刺す。全員を解放し
てこっちへ⋮⋮﹂
銀椿がボソッと呟いた。周囲の少年たちにその声は届いていなか
ったが、シュウが慌てて全員を制した。
﹁待て待て待て! お前ら動くな! このゆとり中坊、真剣にイカ
れてっから⋮⋮! あと女どもを解放してやれ!﹂
まどかは咲山姫と栗山乙葉に手を貸してやり、足早に銀椿のもと
へ向かった。
﹁さすが先輩です。爆竹グッドタイミングでした。あと背中にカッ
ターが入っていますから﹂
﹁わかった﹂
62
まどかは後輩のデイバックからカッターを取り出し、二人のロー
プを切ってやる。咲山姫は銀椿に何か言いたげな憮然とした表情を
していたが、最年少の栗本乙葉の心配のほうを優先した。
﹁乙葉ちゃん、大丈夫だった? どこかケガしてない?﹂
﹁姫先輩ごめんなさい、私が足を挫いちゃったから、こんな怖い目
に⋮⋮!﹂
乙葉はぼろぼろと涙を流しながら、姫にしがみついた。 それを忌々しそうに横目で見届けてからシュウは唾を呑みこむと、
引きつった笑みで銀椿を見上げた。
忍者かランボーかってんだよ、たく。とりあ
﹁⋮⋮へへっ、これで文句なしだろ? たいしたもんだよおめえは。
なんだ今の動きは?
えずもう俺たちの負けでいいからさ。な?﹂
しかし銀椿は無言でシュウを見下ろしているだけだ。
﹁銀さん⋮⋮?﹂
まどかは彼女の横顔を覗き込む。興奮して頭に血が上っているふ
うでもなく、葛藤に迷いが生じているふうでもなく、ただ無表情に
シュウを見下ろしていた。まるで、ただ時が過ぎるのを待っている
かのように⋮⋮
その様子にまどかたち三人と、少年たち全員が困惑して息を呑ん
でいた。
﹁お、おい、あれ︱︱!﹂
63
静寂を破ったのは、一人の少年の上ずった声だった。
少年が指差す方を全員がいっせいに注目した。
いつの間にか出入り口の風除室にはゾンビの姿が見えた。それも
一体どころではない。少なくとも十体以上。しかも更に次々と霧の
中から現れてシャッターを潜ろうとしている。
そして出入り口のドアは開け放たれたままだ。
﹁やべえよ!﹂
﹁なんだよ、あの数⋮⋮!﹂
少年たちの間に一気に動揺と恐怖が広まっていく。
﹁早くドアを閉めろ。あとバリケード作って食い止めるんだよ!﹂
アキラの号令で少年たちが一斉に出口へと駆けだした。もうまど
かたちにかまっている余裕はない。
そこでようやくまどかは銀椿の真意に気付いた。
先ほどハーフの後輩を挑発して大声で怒鳴らせたのも、爆竹を自
分に鳴らさせたのも全てはゾンビを誘き寄せるためだったのだ。
自分とまどかだけが助かればいいと口では言いながらも、少年た
ちが霧のなかをベラベラと喋り、無神経に足音を立ててぞろぞろと
やってきたのを見逃さず、クロスボウ一つで多勢対無勢はひっくり
返せないと理解しつつ、さらに二人の中等部の人質というイレギュ
ラーな要素にも対応しつつ、全員がこの場を無事に切り抜ける算段
を、あの短時間で、あの圧倒的不利な状況のなかで、瞬時に思いつ
いてそれを実行してみせたのだ。
64
﹁︱︱ほんとにあなた、なんて子なの!﹂
それがまどかの本心だった。
銀椿はサバイバルナイフの柄をシュウの鼻に叩き込むと、すくっ
と立ち上がった。その顔が少し赤らんでいて心なしか口許が緩んで
見える。どうやら照れ隠しでシュウを殴ったらしい。
そして足元で鼻を押さえて悶えているシュウには見向きもせず、
﹁まだ終わっていません。今のうちに裏口から外へ。先輩はリヤカ
ーをお願いします﹂
﹁わかった。あなたたちも一緒に!﹂
そう言ってまどかは傍らのリヤカーへ駆け寄り、その後を姫と乙
葉の二人が付いていく。
﹁乙葉ちゃんはリヤカーに乗って。先輩、私が後ろから押します﹂
﹁オッケー、行くよ!﹂
まどかが先頭でかじ取り役とけん引役を務めるリヤカーは、商品
棚の間を勢いよく店内の奥に向かって突き進んだ。
65
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・6
6
まどかたちを見送りながら、銀椿は商品棚へ駆け寄ってキャンプ
用の燃料アルコールや固形燃料、マッチを掴んでいく。そして今度
はレジ前の棚の一つ一つに順番に固形燃料を設置してその上からア
ルコールをぶちまけて火の付いたマッチを放り投げた。
入り口付近でゾンビたちと格闘していた少年たちは、突如として
背後数箇所から火の手が上がったので一気にパニックに陥った。
まさに前門の虎後門の狼状態に、少年たちの戦意が萎えていくの
が傍目にも見て取れて、一気にゾンビの大群が店内へ入り込むのを
許してしまう。
そこまで見届けると、銀椿はリヤカーを追いかけて店の奥へと向
かった。バックヤードへ続くドアを開けて在庫倉庫へ行くと、搬入
用出入り口でまどかたちが待っていた。
﹁後輩遅いよ。なにしてたの!?﹂
﹁すみません。ちょっと念には念を入れてトドメをさしておきまし
た﹂
その言葉をまどかは理解できていないようだったが、気を取り直
してリヤカーを引き始めた。
﹁もうとにかくこんな怖い場所からはとっとと逃げよう!﹂
66
﹁はい︱︱﹂
銀椿と咲山姫の二人も後ろからリヤカーを押すのを手伝い搬入用
出入り口を潜ろうとしていると、背後のドアが大きな音を立てて開
いた。
﹁てめえらだけ逃げようなんざ、そんなチョーシいいことさせるか
よっ! へへ、もっと遊ぼうぜ時間だけはたっぷりあんだかんよ、
な?﹂
振り向くと、鼻血で顔の下半分が真っ赤に染まったシュウが立っ
ていた。手にはフォールクラッシャーと呼ばれる先端が鋭利な刃物
になった鉄棒を持っていて床をガリガリと引っ掻きながら迫ってく
る。まさに手負いの獣のようにその両目は血走っていて、全身から
狂気と殺気を放っていた。
銀椿はそれがまるで自分の使命であるかのように無言でエプロン
を外すとシュウと対峙した。
﹁︱︱先輩たちは先に行ってください。私が時間を稼ぎます﹂
銀椿のその言葉に、まどかは一瞬戸惑いを見せたが、すぐに決断
した。
﹁絶対無理しちゃダメだよ。この先にある歯医者の駐車場で待って
るから﹂
そう言い残すと、まどかたち三人とリヤカーは霧の中へと消えて
行った。
67
﹁たく、おめえは中坊の女のくせにかっけーよ。なんだ、その場慣
れしたような余裕の態度はよぉ。ふん、この際おめえが何者かなん
てのはどうでもいい。もう完全にプライドの問題なんだよ。クソガ
キの女にここまで舐めたことされちゃケジメがつかねえんだよ。仲
間に示しがつかねえんだよ。てめえだけは殺してでも逃がさねえ。
ていうか殺す。全裸土下座の体制でその頭をかち割ってやる!﹂
そう叫びながらシュウはフォールクラッシャーを銀椿に向かって
全力で放り投げた。
二人の距離はわずか五メートルたらず。余程手元が滑らない限り
大きく外れるような距離ではない。先端の鋭利な三本爪が空気を切
り裂きながら銀椿の顔面に襲いかかった。
しかし銀椿はその場から微動だにせず、左足一閃でフォールクラ
ッシャーを蹴り上げて軌道を変えてみせる。
そしてフォールクラッシャーが彼女の背後の壁に突き刺さると、
マジあったまきた!
シュウは素っ頓狂な声を上げて頭をかきむしった。
﹁なんじゃそりゃあああああああああ!?
こうなりゃそのすかした顔を直接切り刻んでやんよ!﹂
シュウは半ばやけくそ気味にジーンズのポケットからバタフライ
ナイフを取り出して銀椿に襲い掛かった。
それに合わせて彼女は弾かれたように後ろへ大きく跳躍し、空中
でジャージのファスナーを全開にして着地と同時に片膝をついた。
ジャージの上着の下から現れたのはナイフ用のホルスターだ。両
方の脇の下にそれぞれ収納されている計六本のナイフは、先ほどの
サバイバルナイフとは違って、スローイングナイフと呼ばれる投擲
用の小ぶりなものだ。
68
︱︱お兄ちゃん、いまも近くに居て見ててくれてるんでしょ? お願い、力を貸して。椿はこんな素晴らしい世界を、お兄ちゃんと
二人で駆け抜けたかったよ。
椿は胸の前で両腕を交差させて両脇に伸ばすと、人差し指から小
指の間に一本ずつのナイフを挟んで、突進してくるシュウに向けて
一気に投げつけた。
勢いよく放たれた六本のナイフは空を切り裂き、まるで強力な磁
力に吸い寄せられるようにシュウの左右の太ももに綺麗に三本ずつ
突き刺さった。
と、同時にシュウは足元から崩れるように前のめりで倒れこむと、
自分の足に刺さった六本のナイフと銀椿の顔を交互に見た。その表
情はまさに鳩が豆鉄砲を食らったようなというやつだ。白黒させて
いる両目が一気に涙で滲んでいく。
﹁ちょ、おま⋮⋮マジかよ⋮⋮! や、やりやがった、マジでやり
やがったよこいつ! なんなんだよっ、おめえは一体なんなんだよ
! ふざけんなっ、生意気すぎんだろ、くそっ、こんなのってねえ
よ、かっこわるすぎんよ、ただ悪ノリしただけじゃねえか、なんで
ここまですんだよ! ああっ、いてえっ、かーちゃんいてええええ
えええええええええよっ!﹂
シュウは泣き喚きながら床の上をゴロゴロと転がりまわっていた。
その声を背中に聞きながら、銀椿は皆のあとを追いかけて霧の中
へ飛び込んだ。
69
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・7・改︵前書き︶
※気になった点といくつかの脱字の修正しました
70
第一章 終わりの始まりと全ての始まり・7・改
途中で追いついた銀椿共々、まどかたち四人は無事に第一さくら
寮へと辿り着いた。
ゾンビと追っ手を気にしながら視界の悪い霧の中をリヤカーを引
いて進むのは、かなりの体力と精神力の消耗を必要とし、まどかは
玄関のドアをくぐると、スニーカーを脱ぐのも忘れてそのまま廊下
にゴロリと倒れこんだ。他の三人も三和土の上に崩れるようにしゃ
がみこんで放心している。
皆、額に玉のような汗を滲ませてぜぇぜぇと肩で息をしていて言
葉も出ない。
まどかは天井の染みを数えながら、つい今しがた味わったばかり
の理不尽な暴力のパワーを反芻していた。
あの暴力の濁流に呑まれてしまった時に、自分たちのようなか弱
いただの女の子たちだけでは抗う術もない。確かに今回はみんな無
事だったが、今度同じような場面に遭遇したときに、次もうまく行
くとは到底思えなかった。
今回は非常に薄くて小さな幸運を、たまたま手にできただけだ。
死体が甦り、生きた人に襲い掛かるゾンビは当然怖いが、生きて
いる人間の暴力も同じように怖い。いや、ゾンビが撒き散らす恐怖
にタガが外れて、理性を失って暴走した人間の繰り出す暴力は、知
恵があり知識があり五体満足の身体がある分だけ、ゾンビよりも厄
介で恐ろしく思えた。
ゾンビは死んだ人間だが、生きている人間の中には肉体は生きて
いても人として何か大切なものが死んでしまった人間がいる。
もう世界の全ては﹁死﹂によって支配されてしまったのかもしれ
71
ない。
いつか自分の心も死んでしまうのだろうか。
しかし心が死んでも、非力な十六歳の女の子ではたかがしれてい
る。せいぜい同じように心が死んだ同じ年頃の少年たちに媚を売っ
て、暴力と死の恐怖から一時的に逃れるだけが精々だろう。
でも、そんな醜い女にはなりたくない。それじゃあ、娘を捨てて
男に媚を売ることで、自分の美と自分だけの幸せを手にしたあの女
と一緒ではないか⋮⋮
でも、こんな世界で自分はどうやって生きていけばいい。
自分たちはどうやって生き残ればいい。
見上げている天井が、ぐにゃりと曲がった。
暴力から解放された安堵と、未来への絶望と、女として生まれた
悔しさと、少女としての無力感がごちゃまぜとなって目からあふれ
出しそうになると、まどかはそれを認めぬかのように慌てて体を起
こした。
まどかが突然飛び起きたので、中学生組の三人が少し驚いたよう
に一斉に視線を向けた。
﹁ご、ごめん、驚かしちゃったね。なんでもないの。ちょっと考え
事してて⋮⋮﹂
と、まどかは口は噤んでしまう。
しかし胸の中にあるもやもやした思いは一向に消えない。消えな
いどころか後輩たちのまだ幼く、疲れ切っていて少しまだ脅えと興
奮が見える顔を見ていると爆発寸前にまで膨張していた。
72
﹁ううん、なんでもなくなんてない。みんなはまだ中等部で高等部
でもごめんなさい。私はほんとに寮長なんてガ
は私一人だけなんだ。私が一番お姉さんで一番しっかりしなくちゃ
いけないのに⋮⋮
ラじゃなくて、頼れるお姉さんてタイプでもないの。あんな理不尽
な暴力に晒されても抗う術を知らない。でもただ踏み躙られるか弱
い女として死んでいくなんて絶対にいや。みんなだってあんな怖い
思いは二度としたくないよね。私だってそう。だから私に何ができ
るのか全然わからないけれど、私はさくら寮の寮長として頑張って
みる。今までは臨時だったけれど本気で寮長職を頑張ってみる。全
然頼りないと思うけれど、私はみんなに約束する。私は弱くて頼り
なくて全然ダメな人間だけれど、逃げない。なにがあっても逃げな
い女になってみせます﹂
と、まどかは自分を鼓舞するかのように両頬をピチャンと叩くと、
半ば唖然とした顔でまどかの話を聞いていた咲山姫と栗本乙葉に向
かって手を差し出した。
それを見ながら銀椿がメガネをかけていないのにも関わらず中指
でメガネを直す仕草をしつつ、﹁今日が王国の建国記念日であり、
私たちの独立記念日⋮⋮﹂とボソッと呟いて一人で悦に浸っている。
﹁ようこそ我が第一さくら寮へ。私が寮長の花城まどかです。これ
からよろしくね!﹂
5月9日 土曜日 記入者 花城まどか
今日から第二寮に居た咲山姫ちゃんと栗本乙葉ちゃんの二名が、
この第一さくら寮で一緒に暮らすこととなった。
73
今日はホームセンターで酷い目にあって散々な一日だったけれど、
みんなが無事でいられて何よりだ。それに二人が来てくれたことで、
明日から少しは賑やかになりそう。
あとホームセンターから戻ってきてからもやることはいっぱいあ
った。
まずはスクールバスを門の前へ移動する作業。
これは車やトラックなどで門を突破されないためで、椿ちゃん曰
くマッドマックス2で見ましたからとのこと。運転の方も椿ちゃん
にしてもらったが、普通に運転していてビックリ。
当然車の運転は今回初めてだが、元々多少は自動車全般に関して
の知識はあったらしい。
でも知識があるからってそんなに簡単にできるものなのかなぁ。
ほんとに不思議な後輩だ。
そして釣り糸と携帯防犯ベルを利用した警備システムの設置。
これも銀椿ちゃんの案で、塀の上に釣り糸を張り巡らせて、糸に
引っかかると壁に設置してある携帯防犯ベルのスイッチが引っ張ら
れてベルが鳴るという仕組み。罠は等間隔ごとに独立していて、そ
こへホームセンターから大量に持ってきた防犯ブザーを一つずつ設
置していくことで、侵入者がどちらの方角から侵入したのかを瞬時
に判断できるようになっている。これも霧で視界が悪いのを補うた
めの対策。
それと平行して、管理人室のドアを壊して中から防災倉庫のカギ
を探す作業も行った。
こちらの作業は新人二人がメインでやってもらった。乙葉ちゃん
は足を挫いているので、無理はしなくていいよ∼、と声をかけてお
いたが、めちゃめちゃ可愛い笑顔で﹁先輩たちが働いてるのに休ん
でられませーん﹂て言ってた。いじらしい⋮⋮︵泣︶ 74
なんだか仕草や笑顔が愛くるしい小動物を見てるみたいでつい抱
きしめたくなる。
そして朗報!
防災倉庫のなかにあったのは、簡易型の発電機やテント、シャベ
ル、ビニールシートなどで、特に嬉しかったのが非常食と救急医療
セット!︵ジャジャーン︶
ちょうど今、打撲や捻挫をしている人間が二名居るので湿布はた
くさんあった方が助かるし、何よりも非常食が手に入ったのが大き
い。
正確に数えてはいないけれど、四人分だと非常食だけで朝昼晩三
食ずつ食べても、ゆうに二ヶ月近くはもちそうなくらいはあった。
これでここでの生活もなんとかやっていけそうな見通しが立って
きた。
明日からは窓のバリケード作りがあるので忙しくなりそうだ。
机の上に置いた乾電池式のランタンの灯りを頼りに、まどかは日
記を書き終えると軽く息を吐いた。
電気はホームセンターから戻ってきた時にはもう点かなくなって
いて、水道のほうはまだ出ているが、こちらも時間の問題なのであ
ろう。
そういう意味では銀椿の言っていたことは当たっていたし、今日
ホームセンターでこのランタンを始めとするいろいろな備品や部品
を持ってこれたのも正解だったのだ。
ほんとに変わっていて、おかしな後輩だ。
75
まどかはクスッと笑うと、忍び足でドアの前まで近付いていく。
日記を書いているあいだからずっと気になっていた廊下の足音。
部屋の前を行ったり来たりしていて、時々ドアの前でピタリと止ま
るので、ドアがノックされるのかなと思っていても静かなままで、
やがてまた廊下を行ったり来たりする足音が聞こえてくるという始
末。
それがかれこれもう十分は続いているだろうか。
まどかはまた足音がドアの前で止まるタイミングを見計らって、
思いっきりドアを開けてやった。
﹁うっさいんじゃボケ!﹂
と、ドスを利かした声で怒鳴りつけてやると、目の前には、涙目
で口をぽかーんと開けている銀椿が立ち尽くしていて、まどかは腹
を抱えて大笑いしながら彼女の腕を引っ張って部屋へと招き入れた。
銀椿をルームメイト用のベッドへ座らせると、まどかは向き合う
ようにして自分のベッドへ腰掛けた。
まどかの顔には自然と満面の笑みがこぼれていた。あれほど自分
を避けていた人間嫌いの後輩が自ら訪ねてきてくれたことも嬉しか
ったし、まだ中二で十四歳のくせに、まるで歴戦の戦士みたいな身
のこなしや考え方を無表情で淡々とこなす変わり者の後輩の、十四
歳で人間らしい表情を初めて見て取れたことも大きかった。
﹁あははは。冗談冗談だよお。︱︱で、どうしたの? 何か用? 蹴られたところが痛む? それとも眠れないの?﹂
そうまどかは聞いてみるが、彼女は昼間見せた戦闘マシーンかの
76
如くの勢いのかけらもなく、ただ下を向いてじっとしているだけだ。
﹁じゃあ寝ながら話す? ついでに今夜はここに泊まっていけばい
いじゃない。私も一人じゃ心細かったし、どうせそのベッドも余っ
てるんだしさ﹂
銀椿は肯定も否定せず相変わらず借りてきた挙動不審者のままだ
ったが、まどかがランタンの灯りを消してシーツにくるまるとよう
やくベッドの上に横になった。
まどかはしばらくの間、彼女が何かを話し出すのを待っていたが、
なかなか話そうとしないので適当に話を振ってみることにした。
﹁ねえ、今回はなぜ実家に帰らなかったの?﹂
﹁両親が嫌いなので⋮⋮﹂
﹁はは、私と一緒だ﹂
﹁先輩もですか⋮⋮?﹂
﹁うちは父親が早くに死んじゃってねえ、それでしばらく母子家庭
だったの。だけど小六の時に再婚することになって、それ以来なん
となくね。再婚相手の人ともそりが合わなかったし。で、気が付い
たら私は全寮制のこの学園へ厄介払い、てわけ﹂
﹁すみません、変なこと聞いてしまって⋮⋮﹂
﹁えー、そんな謝らなくていいよー。全然気にしてないし。ねえ、
それよりこれから椿ちゃんて呼んでいい?﹂
77
﹁え?
あ、はい⋮⋮﹂
﹁ありがと。私のことは世界で一番美しいまどか先輩って呼んでく
れればいいから。はい、じゃあ椿ちゃんのことをいろいろ教えてく
れる?﹂
﹁い、いろいろですか⋮⋮﹂
﹁そう。例えばほら、お兄さんが居るって言ってたじゃない? お
兄さんていくつ? どんな人なの?﹂
闇の向こうで空気が固まるのがわかった。地雷を踏んだと思い、
まどかが何か話題を探していると、温度を感じさせない声が静かに
聞こえてきた。
﹁⋮⋮私が一年前に起こした暴力事件の話は知ってますよね? あ
れ、実は昼間見せたサバイバルノートを笑われたからなんです。机
の上に出しっ放しにしたままお手洗いに行ってるあいだに見られて
しまって⋮⋮。でも、バカにされたり笑われたりするのなんて慣れ
ていましたから全然平気でした。一番許せなかったのは、兄のこと
まで侮辱したから⋮⋮﹂
﹁お兄ちゃんのことが大好きなのね。いいな、私ひとりっ子だから
男の兄妹がいるってどんな感じなんだろ﹂
﹁私は両親が年を取ってから生まれたので、兄とは十五も離れてい
たんです。だから私にとっては兄であると同時に父親でもある感じ
で、なんか不思議な関係でした。兄妹ケンカも一度もしたことあり
ませんから。いつもニコニコしていて私の言う事やわがままも聞い
78
てくれて⋮⋮。でも、兄は死んでしまったんです⋮⋮もうこの世に
はいません⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁自殺でした⋮⋮。兄は優しかったけれど、弱い人だったんだと思
います。大学を卒業してからも父親が経営している会社へは入らず、
毎日ブラブラして本や映画を見てばかりいて⋮⋮、当然両親と兄は
いつも口論していましたけれど、それでも私は優しい兄が好きだっ
たんです。夜中に二人で毛布を頭から被って、懐中電灯の灯りに照
らされながらたくさんの話を聞かせてくれました。宇宙の謎から深
海生物の話に人体の仕組み、見た映画や本の内容まで、とにかくい
ろいろなことを兄は楽しそうに教えてくれて、そして私はそんな不
思議なお話を聞くのが大好きで。あのノートもいつだったかの冬休
みの大晦日の日に、除夜の鐘の音色を聞きながら毛布を被って二人
で作り上げたんです。その数々の妄想は兄にとっては辛い現実から
逃れるためだけの、ただの現実逃避に過ぎなかったのかもしれませ
んが、私には大好きな兄の注意を惹ける絆でした。兄は本当にこの
世界に絶望していたんだと思います。よく生まれた意味がわからな
い、生まれる時代を間違えたと悔やんでいました。そしてその世界
の終わりを妄想するときの楽しそうな顔を見ていると私も嬉しくな
ってきて、この妄想が続けば続くほど広がれば広がるほど、兄に元
気を与えられると信じていました。ナイフの取り扱いを練習したり、
いろいろな武器を揃えたのもその一貫です。両親は私が兄の影響を
受けることを嫌っていたので、引き離すためにこの学園へ入学させ
たんです。十三歳の私は無力でした。親の決定をひっくり返す術が
ありませんでした。そして入学式の日に兄は逝ってしまった⋮⋮私
私は兄とこの新世界を旅すること
を残して、たった一人で。せっかくあれだけ待ち焦がれていた世界
の終わりがやって来たのに⋮⋮
が出来なくて本当に無念でやり切れません。︱︱あ、すみません。
79
ついこんな変な話を⋮⋮ でも自分でも兄も私も普通じゃないって
わかっていますから⋮⋮﹂
﹁ううん、そんなことないよ。むしろ椿ちゃんがそこまで自分を語
ってくれたことに感動してるくらい。それに思うんだけど、たぶん
この世の中には普通なんてどこにもないんだよ。みんなが一人一人
違ってて家族ごとにいろんな愛情や問題があるんだと思う。他人と
違ってることが当然で、それを他人が自分の尺度で計って間違って
るって言うのはどこか違うと思うんだ﹂
﹁⋮⋮それは、もし私が人を殺したとしてもそうなんでしょうか?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁今日ホームセンターで皆を先に逃がしたあとで、私はホームセン
ターに火を放ち、あのシュウと呼ばれていたDQNお兄さんにナイ
フを投げつけました。両足に刺さったのでそこへゾンビが来たり、
もしくは火の手が回ったりしてもたぶん自力で逃げることは困難だ
ったと思います。あのお兄さん、泣きながらお母さんと叫んでいま
した⋮⋮私、人を刺したのは今日が初めてです。ゾンビだっていつ
も刺又で追い払うだけで、まだ殺したこともありません。あのお兄
さんが死んだとしたら、間接的に私が殺したことになります。そう
考えるとなんだか急に怖くなってきて⋮⋮、あれだけ兄と夢見てい
た世界なのに、この新しい世界でも私の生き方は間違っているんじ
ゃないのかって考えると、もうどうしていいのかわからなくなって
きて⋮⋮﹂
﹁そっか。それがここへ来た理由だったんだ。椿ちゃん、私いま本
当に嬉しい。一人で抱えずにこうして話してくれたことに。椿ちゃ
んのしたことは間違ってないよ。ううん、ごめん。正直に言って私
80
にもなにが正しくてどれが間違っているのかなんて断言できない。
でも椿ちゃんのおかげで、私やあの二人は助かった。助けられたの。
誰も椿ちゃんを責めたり蔑むなんてしないよ。もし今日のことで椿
ちゃんが責められるような日が来れば私も戦うから。それだけは絶
対に約束するから信じて!﹂
﹁⋮⋮先輩ってやっぱり優しい人ですね。なんだかお喋りしたら気
分が少し楽になりました。あの⋮⋮そっちに移ってもいいですか?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
しかし椿は返事も待たずにまどかのベットへ入り込んだ。そして
少し照れくさそうに顔を半分毛布で隠したまま、
﹁先輩のことは⋮⋮私が絶対に守ります。守ってみせますから⋮⋮﹂
とだけ言うと、電池が切れたみたいに瞼を閉じて寝息を立て始め
た。
まどかはその不器用な後輩の寝顔を少し照れ臭そうに見つめなが
ら、おやすみと呟いた。
81
第二章 非日常のなかの日常・1・改︵前書き︶
今回から第二章へ突入です。よろしくです。
※誤字脱字直しました。が、もしまだ見かけたら掲示板コメント等
でご指摘いただくと助かります。
82
第二章 非日常のなかの日常・1・改
1
次の日の朝︱︱と言っても、もう正午に近かったが、まどかが食
堂へ降りていくと、姫と乙葉の二人はもう起きていてコーヒーを飲
みながらにこやかに談笑しているところだった。
﹁おはよー、二人とも早いねえ。昨日はゆっくり眠れた?﹂
まどかの声に気付いて振り向いた二人が、怪訝な顔つきでまどか
の左側を凝視した。
無理もない。
まどかの左腕にしがみつくようにしてぴったりと椿が寄り添って
いたからだ。そのさまはやたら警戒心の強いボディガードか、挙動
不審の背後霊かといったところだ。
﹁ははは⋮⋮﹂
二人の怪訝な視線にまどかは苦笑を浮かべるしかない。今朝目覚
めてからずっとこの調子で、洗面所へ行くのもパジャマからジャー
ジに着替える間もずっと後ろをついて回ってきて離れようとしない。
恐らく昨夜の会話で心を開いてくれたようだが、それ以外にどう
やら一人で階下へ降りていって姫と乙葉と顔を合わせる勇気はまだ
ないようだった。
まあ集団生活なので自分の殻に閉じこもっていられるよりかは、
こっちの方が多少はましのような気がするが、つくづく他人との距
離感が極端すぎる不器用な子だなぁとまどかは思う。
83
そこでまどかはふとテーブルの上に置かれたおにぎりに気付いた。
大皿の上に二十個ほどのおにぎりがびっしりと並んでラップが被せ
られている。
﹁すごい、どうしたのこれ﹂
﹁はい、私がお米炊いて作ったんですよぉ﹂
と、乙葉が元気よく手を挙げた。ジャージの上から白い割烹着を
着ていて、なんだか真っ白なムササビの子供みたいで愛くるしい。
あっ、いまお茶を炒れてきますから先輩たちも
﹁ふふ、この割烹着調理場にあったので借りたんですよ。先輩似合
っていますかぁ?
どうぞ﹂
﹁ええ、自分でやるからいいよ、捻挫してるんでしょ?﹂
﹁大丈夫です。湿布とテーピングもしてもらっているし、だいぶ痛
みも引いてきましたから﹂
と、乙葉は片足を引きずりながら調理場へと行ってしまう。その
姿を見送りながら、姫がクスッと微笑んで肩を竦めてみせた。
﹁あの子の実家は地元で定食屋を何代も続けて営業している老舗ら
しいんです。たぶん動いていたほうが気が紛れるんだと思いますよ。
今朝も朝早くから起きて、一人で調理室の掃除をしておにぎりを作
っていたみたいだし⋮⋮﹂
﹁はぁ、最年少なのにしっかりしてるなぁ。私なんてお米も上手く
84
炊ける自身がないのに⋮⋮﹂
姫の説明にまどかは自虐的に頭を掻いた。そして椿と並んで姫の
対面側に腰をかけると、遠慮なくおにぎりをいただく。
適度に利いた塩の辛みと具のツナフレークのさっぱりとした香り
が口の中いっぱいに広がっていく。ここのところずっとカップ麺か
菓子パンだったので、久しぶりに味合うお米の香りと味が胃に染み
る。
﹁ああ、おいしいっ。やっぱり日本人はお米だねぇ﹂
と椿を見ると、少し猫背になって両手でおにぎりを頬張っていた。
無言だったが、口へ運ぶペースから察するに同意のようだ。
そのうち乙葉がお盆にお茶を四つ乗せて運んできてくれて、まど
かは何か思いついたように両手を叩いた。
﹁そうだ。昨日はなんだかんだと忙しかったから、四人でこうして
食事をするのって初めてだね。せっかく新しく二人も来たんだから
今からミーティングをしましょ。ヤマコ先生が置いていってくれた
お菓子もまだ残ってるし、それにまだお互いのこと名前くらいしか
知らないから、自己紹介も兼ねて。ね?﹂
もちろんまどかのその提案に反対するものなど誰もいなかった。
いろいろと他愛のない会話をしたあとで、午後から行う予定の一
階全ての窓にバリケードを設置するための作業手順と役割分担を話
し合った。
元々椿からの提案なのでなにか具体的な案があるのだろうと思い、
85
まどかは彼女から説明してもらうことにした。
椿は最初は非常に困った表情を浮かべていたが、俯いたままたど
たどしい口調で説明してくれた。
その椿の案はとはこうだ。
まず管理人室にあるマスターキーで各部屋に入り、設置してある
木製の組み立てベッドを解体して、それらのパーツを使ってその部
屋の窓を封鎖していく。また、余ったパーツについては玄関ドアの
補強に使いたいとのことだ。
そしてそれに伴って、四人の部屋も二階の一番奥へ移動したほう
がいい、という追加案も出された。これは一階の部屋は窓が封鎖さ
れて薄暗くなることと、防犯上の理由からだ。
それを聞いた姫が寒気を抑えるような仕草をしつつ口を開いた。
﹁ああ、思い出すだけで汚らわしいけれど、世の中がこんな風にな
ってすぐに第二寮で男が侵入する騒ぎがあったの。真夜中に廊下で
頭にパンティーを被って両手いっぱいに下着の山を抱えた男と鉢合
わせしたときには、ほんと世界の終わりを実感したわ。百歩譲って
まだ食料を持っていくってのならわかるんだけれど、こんな時にま
で下着なのかお前はって⋮⋮!﹂
﹁そ、それは災難だったねえ⋮⋮、じゃあ、やっぱりバリケード作
りは早くしたほうがいいみたいだね。みんな昨日の今日で疲れてる
と思うけど、安心して眠るためにももう一息がんばろうね﹂
﹁あ、そうだ。先輩これ書いたんですけどよかったら使ってくださ
い︱︱﹂
86
姫がなにか思い出したように、奥の食卓の上に広げられていた半
紙の束のなかから二枚取ってまどかに見せた。半紙にはそれぞれ墨
汁で星形と格子状の絵が描かれている。
﹁うん? なにこれ⋮⋮?﹂
そのまどかの問いに姫が説明しようとするよりも先に、椿が﹁ド
ーマンセーマン⋮⋮﹂とぽつりと呟いた。
﹁そう、これはドーマンセーマンという魔除けの印で、この半紙を
透明のビニール袋に入れるかラップでくるんで塀と建物に貼ってお
くんです。そうすれば︱︱﹂
姫が説明している途中で、椿が鼻で笑いながら口を挟んだ。その
口調には明らかな敵意が含まれている。
﹁そんなの効果があるわけない。いくらゾンビが本当に出現したか
らと言って、そんな安っぽいオカルト知識を持ち出して口を挟まな
いでほしいオカルトビッチ﹂
﹁あ、あんたまたビッチって言ったわねえ、それにこのドーマンセ
ーマンの効果は、私たちがここに来るまでの数日のあいだにしっか
りと実証済みよ。だいたいあなただって偉そうにしててもゾンビの
ことはなにも知らないんでしょ。まどか先輩がぼっちに優しい人だ
からって、なんか勘違いしてるんじゃなくて?﹂
﹁私は夜中に一人で出歩いて、ちゃんとゾンビの生態を観察してき
た。ゾンビは音に反応する。視力は見えていないに等しい。目が見
えないのにそんな魔除けはナンセンスだと言っているだけ﹂
87
﹁ブー、残念でした。ゾンビは音だけじゃなく人の吐く息の匂いも
感知しているの。それに私だってなぜこの印が効果があるのかは説
明は出来ないけれど、それでもそんな観察眼しか持ち合わせていな
い人に、上から目線で偉そうに長い時を経て紡がれてきた人の英知
を否定はされたくないわ﹂
﹁オカルトは英知じゃないし﹂
﹁オカルトじゃなしに陰陽道の一種よ。あと言い忘れてたけど、ゾ
ンビは高低差や段差が苦手なのは知ってたわけ?﹂
﹁⋮⋮し、知ってた﹂
﹁嘘よ。いま一瞬間があったし吃ってたじゃない﹂
﹁黙れビッチ﹂
﹁なによぼっち!﹂
姫は怒りを露に、椿は冷めた薄笑いを浮かべてにらみ合う。
まどかは突如勃発した聞き慣れない単語が飛び交う理解不能にし
て意味不明の言い争いに、ただその光景をはらはらとしながら遠め
それに元々二人
に見守るしかできなかったが、隣の乙葉はにこにこと笑顔で見守っ
ている。
﹁⋮⋮ねえ、あの二人なにを言い争っているの?
の間になんかあったの?﹂
﹁どうでしょうかぁ。私が思うにはたぶんただの同族嫌悪だと思い
ますよ? なんとなく言っていることが似てますし同じ十四歳だし、
88
ただ中二病をぶつけ合ってるだけだから、先輩もそう心配すること
はないですよ。じゃあ、お仕事に入る前の景気付けのお茶を炒れて
きまーす﹂
まどかはその言葉に妙に合点がいき、﹁おー﹂と唸って乙葉を振
り返った。その後ろ姿にはついリトル・ビッグママと呼びたくなる
空気が漂っていた。
恐るべし、割烹着姿の十三歳。
89
第二章 非日常のなかの日常・1・改︵後書き︶
お気に入り登録してもらえると嬉しいです。
90
第二章 非日常のなかの日常・2
5月10日 日曜日 記入者 花城まどか
新生第一さくら寮の初日だった。
朝は食堂でみんなで軽い朝食と、今日一日の作業分担の話し合い。
そこで椿ちゃんと姫ちゃんの間で一悶着あったが、その後は普通
に作業︵ていうかお互いに無視しあってたけれど、あれ以上仲は悪
くならないと思う。たぶん︶
バリケード作りは意外と捗り、今日一日で建物正面側全てが終了。
後ろ側も明日のうちには終わらせる予定。やっぱり四人居ると早い。
あとその作業中に気付いたこと。ベッドの木材パーツを窓にクギ
で打ち付けるときに、椿ちゃんの指示で四つ折くらいに畳んだタオ
ルをクギの頭に添えて叩いた。ふむ、確かに若干クギは叩き辛いけ
れど、かなり音が静かになった。これだとゾンビを引き寄せなくて
済むし、この前の不良少年たちみたいな面倒くさい連中にここの存
在を気付かれることもない。こういう細かいところに気付くのは、
さすがだなぁと感心。
あと問題となったドーマンセーマンという魔除けの印を、夕食後
に姫ちゃんと一緒に貼った。
全部で三十枚近く。すごい数だ。
姫ちゃんは、﹁そんなに気を使わなくてもいいですよ﹂とふてく
されていたけれど、私は、みんなが安全に暮らせる確率が高まるの
ならばキリストにもお釈迦さまにも手を合わせるの、と言ったら笑
91
ってくれていた。それにこれだけの枚数を書いてくれた姫ちゃんの
思いを無駄にしたくなかったし。
それと乙葉ちゃんが食事係に立候補した。一番年下だからなんだ
か面倒くさいことを押し付けているみたいで気がひけたけど、﹁私
に任せてください!﹂とくるみをねだるハムスターのような瞳に絆
されて承諾。他の二人からも異論は出なかったし。
あと部屋の引越しついでに、椿ちゃんが民家を回って集めていた
食糧も全て調理場へ移動したけれど、備蓄食料の在庫管理も乙葉ち
ゃんが責任を持ってやると言ってくれた。ほんと、なんだか楽しそ
うな顔をしてた。家事全般が好きなんだろうなぁ。ほんとに小さい
お母さんみたいで可愛らしい。
そして新しい部屋割りは二階の突き当たり奥が私と椿ちゃん、そ
の隣が姫&乙葉ちゃんに決定。椿ちゃん曰く、早いうちに緊急時に
備えて窓からロープを垂らすか、梯子を見つけてきて非常用の脱出
経路の設置をしたいとのこと。ホームセンター事件のあとだと、切
実すぎるくらいにその必要性がわかる。
あと引っ越してきた椿ちゃんの荷物を見てビックリ。
荷物のほとんどが様々な形をしたナイフ、スタンガン、特殊警棒、
バールのようなもの、パチンコ、ブーメラン、釘バットと言った物
騒なものばかり。
これを見ると、さすがに椿ちゃんと相部屋だった先輩が第二寮へ
引っ越して行った理由がわかった気がする。というかよくこれで月
一回の部屋チェックをパスできていたと激しく疑問。
最後に、ついさっき食堂でみんなで集まってお湯に浸したタオル
で身体を拭いて、順番に流し台で髪を洗った。なんだか修学旅行気
92
分というか、いかにも桜の園という感じで楽しかった。
それと書き忘れていたけれど、昨日から浴場のほうはお湯が出な
い。どうもお風呂場は電気温水器みたいで、通電していないとお湯
は無理みたいだ。このライフラインの統一感の無さは古い建物の宿
命か。
プロパンガスもいつまで持つだろうか。ホームセンターから持っ
てきたものの中には、バーベキュー用のコンロも含まれているので、
お湯を沸かすことも調理することにも問題はないけれど、やはり何
月曜日 記入者 花城まどか
かと不便で文明の力をしみじみと痛感中⋮⋮
5月11日
今日でバリケード作りも全て終了!
そして夕食&ミーティングの時に、乙葉ちゃんから井戸へ水を汲
みに行くのが怖いとクレーム。
井戸は建物横手のちょっとした広場にあって、調理場の勝手口か
ら直線で五メートルほどの距離。敷地内の隅っこで塀があるためた
だでさえ霧が溜まりやすいのに、風が止んでる時などは勝手口から
でも霧に隠れて見えない。確かに塀に仕掛けてある罠をかいくぐり、
知らない間に何者かが敷地内に侵入していることもゼロとは言い切
れないので、乙葉ちゃんが怖がる気持ちはよくわかる。
それで協議の結果︱︱と言うか、ほとんど椿ちゃんが、前もって
用意してあったみたいにアイデアをすらすらと出してくれた。ほん
と水を得た魚とはこのことだ。
93
そんな訳で一階の部屋から机と解体したベッドのパーツの余りを
運び出して、建物と塀の間にバリケードを設置。あと防災倉庫にあ
ったテントを使用して雨の日にも対応することに決定。これは早速
明日から。
あと姫ちゃんから、﹁わがままな注文とは重々承知したうえで﹂
と前おき付きで、﹁どうしても、いや、なるべくなら、出来ること
なら、お風呂に毎日入りたい﹂とクレームというか要望。
それはみんな同じ思いだったが、バーベキュー用コンロは一つし
かないし火力も弱く、そもそも一度にたくさんの水を沸かせる容器
もない。
さらに椿ちゃんからも、梯子かロープが欲しいと再三の催促。
椿ちゃんにはきつく外出禁止を言ってあって、今のところちゃん
と守ってくれている。
この外出禁止というのは、あくまで単独ではだめってことだ。や
はりホームセンターの件があってなるべく外出は控えたい。
しかし食料や物資を得るためにはどうしても外へ探しに行かなけ
ればならないわけで、そういう時はなるべく全員かもしくは複数が
好ましい、というのが私の考えだった。
というわけで明日は私と乙葉ちゃんが外のバリケード作り、椿ち
ゃんと姫ちゃんに必要物資の調達へ行ってもらうことにした。
最後まで椿&姫の二人はそっぽを向いて顔を合わせなかったけれ
ど大丈夫。
大丈夫だよね⋮⋮?
﹁あんたちゃんと見張っててよ、私はただでさえこれを引いていて
94
動きにくいんだから﹂
姫は憮然とした顔でリヤカーを引きながら、刺又を構えて少し前
を歩く椿に言った。
椿は周囲の霧に気を配りながら、﹁ドーマンセーマン⋮⋮﹂と呟
く。
﹁なに? まだなんか文句を言いたいわけ? 別にあんたに信じて
もらわなくてもいいわ。私は私がこの目で見たことを信じていくだ
けだから﹂
﹁⋮⋮貸して﹂
﹁へ⋮⋮?﹂
﹁持って来てるんでしょ、そのカバン﹂
椿は一瞬だけ振り向いて姫がぶら下げているショルダーバックを
見ると、また周囲の霧に視線を戻す。
﹁あら、信じる気になったわけ?﹂
﹁⋮⋮先輩が言うように、みんなの安全の確率が高まるものは何で
も試してみようと思っただけ﹂
﹁ほんとに先輩が大好きなのねえ﹂
と、姫は茶化すように言う。
﹁先輩は優しい⋮⋮﹂
95
つい挑発に乗ってくると思ったのに真面目な口調でそう答えられ
ると、姫はまるで自分がまどかに他意でもあるかのように捉えられ
てやしないかと焦った。
﹁ま、まあね。私、あの人のことはまだよく知らないけれど、それ
はなんとなくわかる﹂
そして姫はショルダーバックの中から半紙を取り出す。星形のセ
ーマンと格子状のドーマンが一枚ずつ描かれたものが合わせて十枚。
どちらを渡そうかと少し迷ったあとで、なんとなくドーマンを選ん
だ。今の気分はどちらかと言えばドーマンだ、と姫は一人で納得し
て頷いた。
﹁ほら。どうするの?﹂
椿は半紙を受け取ると、ウエストポーチからカムテープを取り出
して刺又の先端に貼り付けた。それを見て姫は納得したように頷く。
﹁そういうわけね。︱︱で、どっちへ行く? 私、この辺の土地勘
全然ないんだけど?﹂
二人は寮の前の坂道を下り、国道との合流ポイントへと辿り着い
ていた。
椿は周囲を取り囲む霧の壁を気にしながらも、ちらりと姫の方を
見てぽつりと呟く。
﹁⋮⋮言われてみれば、確かにいつも坂道を下りきったここから先
でゾンビとの遭遇率が高かった。そこに気付けなかったのは私の不
覚﹂
96
﹁うん?
ゾンビは階段や坂道が苦手って話? それは信じていい
わよ間違いじゃない。て、別にドーマンセーマンも嘘じゃないけれ
ど⋮⋮﹂
﹁やっぱりフィールドワークは大事。とくにこんな世界では⋮⋮﹂
思いのほか思いつめたような椿の横顔に、姫は気付かないふりを
してそっぽを向いて呟いた。
﹁そうね。それはほんとにあなたと同意見だわ⋮⋮﹂ ﹁先輩、お茶が入りましたよー、少し休憩しませんかぁ?﹂
まどかが一階の空き部屋から机を引きずるように運び出して、あ
らかじめ置いておいた台車の上に乗せ終えると、食堂から乙葉の軽
やかな声が聞こえてきた。
﹁わかったー、今行くー﹂
まどかは返事をすると、机を乗せた台車をゴロゴロと食堂まで押
していく。引き出しは全て抜いてあるので多少は軽くなっていると
は言え、少女の華奢な肉体ではかなりの重労働だった。額に玉のよ
うな汗がいくつも浮き上がっている。
台車を食堂の隅っこに置くと、まどかはふうーっと大きな息を吐
いて、首にぶら下げているタオルで汗を拭いながらテーブルについ
た。
97
﹁ほんとにすみません。お手伝いできなくて⋮⋮﹂
乙葉が恐縮した顔でお茶を差し出す。
﹁なに言ってんの。ケガ人に無茶はさせられないわよ。食事当番だ
ってやってもらってるのに。あ、でもこれを運んだら積み上げだけ
手伝ってくれる?﹂
﹁はい、勿論です﹂
と、乙葉はお盆を脇に挟んで両手で握り拳を作る。
建物横手にある空間は塀までの距離がちょうど机六つ分だった。
すでに六つは並べてあり、その上に積み重ねて置く分の机もすでに
五つは外へ出してある。先ほど試しに一人で机を積んでみようとし
たが、さすがに引き出しを抜いてあっても無理で、どうしても乙葉
の手を借りねばならない。
﹁でも無理はしなくていいからね。足に負担がかかるようだったら
すぐに言ってよ﹂
﹁やってみないとわからないですけど、もう痛みも腫れもほとんど
ありませんから。それから今日の夕食なんですけど、少し奮発して
もいいですか?﹂
﹁奮発? あ、あの二人のために?﹂
﹁はい。さっき防災倉庫の非常食が入った箱を開けて見たんですけ
れど、凄いんですよ。牛丼、ピラフ、カレー、パスタ、おかゆ、味
噌汁、シチューと、とにかくバリエーションが豊富で。しかも全て
98
お湯を注いだり温めるだけでいいらしくて。しかもしかもビスケッ
トやマフィン、ぜんざいまであるんですよぉ!﹂
﹁二人のためとか言って、乙葉ちゃんが食べてみたいだけじゃない
の?﹂
﹁うう、それもありますけどぉ⋮⋮﹂
﹁ははは。でもいいよ。そこは乙葉ちゃんに任せるから﹂
﹁ありがとうございますぅ﹂
﹁あとはあの二人が無事に仲良く戻って来てくれるだけだね。遠く
へは行かない、夕方までには戻ってくるって条件を付けてるから無
茶なことはしないと思うけど⋮⋮﹂
まどかは不安を飲み込むかのように緑茶を啜った。
99
第二章 非日常のなかの日常・2︵後書き︶
誤字・脱字など知らせていただけると助かります。
100
第二章 非日常のなかの日常・3
﹁⋮⋮面白い。不思議﹂
と、あまり感情を表に出さない椿が珍しく心底感心しているよう
な表情を浮かべて呟いた。
国道を歩き始めてからすでに三体のゾンビと遭遇していたが、そ
のどれもが刺又の先端に貼り付けたドーマンを近づけるだけで離れ
ていく。力ずくで刺又で押し返してやることもない。
姫は言葉少なにも魔除けの印の効果をしみじみと感じている椿を、
勝ち誇ったように満面の笑みで見ていた。ただ別に彼女に謝罪を求
めようとも、勝利の宣言をする気など微塵もない。ただ祖母が伝え
てくれた魔除けの印が、こうして実際に効果があると第三者の手に
より客観的に改めて確認できたことが嬉しかった。
やがて二人の前に霧の中から現れたのはホームセンターの建物だ
った。
﹁あれ、もしかしてここってこの前のところ⋮⋮?﹂
﹁そう﹂
﹁またここに入るの?﹂
﹁近くにはここしかないから。それに、もう一度見たかった⋮⋮﹂
﹁見たかった? なにを?﹂
101
﹁店が焼け落ちてしまったのかどうか。この前火をつけたから⋮⋮﹂
﹁はあ!? あ、あんたも無茶をするわねえ。でも、まあ、あの場
合は仕方ないと思うけど⋮⋮。けどあいつらがまだ居たらどうする
のよ!?﹂
﹁⋮⋮たぶん、もう居ない。大丈夫﹂
と、呟いて椿は入り口に向かってすたすたと歩いていくので、姫
は仕方なしに後を追いかけた。
﹁たぶんってあんたねえ!﹂
椿はシャッターの影に身を隠して中を覗き込み、人の気配が無い
のを確認すると、懐中電灯を手に薄暗い店内へ入っていった。姫が
そろりそろりとリヤカーと一緒にそのあとに続く。
そして姫は店内に入ってすぐに床が水浸しになっていることに気
付いた。
﹁床が水浸しになってるわ⋮⋮﹂
﹁それはスプリンクラーの水。あの時はまだ照明も点いていたから、
防火装置がきちんと作動したんだと思う⋮⋮﹂
﹁まさかそこまで計算して火をつけた︱︱て、わけないよね?﹂
姫のその質問に椿は答えず、とっとと前を歩いていく。そしてぐ
るりと店内を一周してリヤカーに載ったものと言えば、ハシゴ一つ
とジェットタイプのヘルメットが四つにロープ、あとは姫が始めて
見るような工具や部品だけだった。時間にしてわずか十分ちょっと。
102
﹁へ? もう終わり?﹂
危険な目にあうのは勿論嫌だったが、せっかくここまで来た割に
は肩透かしもいいところだった。それに肝心のお風呂が解決してい
ない。姫が不満そうにそのことを告げると、
﹁この間よりもかなり商品の数が減っているから、あまり長居はし
ないほうがいいと思う﹂
と、椿は一段低い声音で周囲を警戒するように囁いた。それを聞
いて姫は思わず中腰になって商品棚に身を隠すと、強張った表情で
椿に詰め寄った。
﹁あ、あいつらがまたここに戻ってくるってこと!?﹂
﹁この間の奴らかはわからない。もしかしたら他の生存者かもしれ
ないし。でもその生存者が優しい人間かなんてわからないから⋮⋮﹂
その言葉に姫は唾を飲み込んで頷いた。
﹁そ、そうね。早くここから出ましょ⋮⋮﹂
次に二人がやって来たのはホームセンターから二百メートルほど
離れたところにあるガソリンスタンドだった。
ここは国道沿いでも田んぼとガソリンスタンドしか建っていない
エアポケットのような場所で、元々見晴らしがよく風通しがいい為
か常に霧が風に流されていて、その為に視界がクリアとなって十メ
103
ートルほど先まで見渡せる。
﹁ねえ、今度はこんなところに来て何する気よ?﹂
姫のその疑問も、敷地の隅に置いてあった数本のドラム缶に近寄
っていく椿の後ろ姿を見て理解できた。
﹁ああ、ドラム缶風呂ね! でもガソリンとか入ってるんでしょ、
汚くない?﹂
﹁洗剤で洗えば大丈夫﹂
椿は一本ずつドラム缶を揺すって中身が空かどうかを確認しよう
としたが、全ての缶のキャップが外されていることに気付いた。恐
らく中身はもう全て抜かれてしまったのであろう。
椿が傍らに置いてあったドラム缶用の二輪リフトで空のドラム缶
を挟んでいると、どこからともなくこちらに近づいてくる足音が聞
こえてきた。それも一人ではない。恐らく二人はいる。
椿と姫ははっと顔を見合わせると、弾かれたようにサービス棟の
裏側へと走った。当然リヤカーとリフトは残したままだ。
二人が物陰に身を隠して足音が聞こえる方向の霧を息を殺して凝
視していると、姿を現したのは二十代半ばくらいのカップルだった。
二人とも背中に大きく膨らんだデイバックを背負い、両手に旅行カ
バンを持っている。どこかへ逃げるのか、それともどこからか逃げ
てきたのか。
二人は慌てた様子でガソリンスタンドの前の歩道を通り過ぎて行
104
くと、また霧の中へと消えていく。
その様子を息を呑んで見守っていた姫は、二人の姿が見えなくな
ると同時にほっと息を吐いた。安心感からか全身から力が抜けて、
その場にしゃがみ込んだ。
しかしすぐに女性の切り裂くような悲鳴が聞こえてきて、身体を
ビクンと弾かせた。
さっきのカップルが消えた方角から、男の名を狂ったように何度
も呼ぶ女の声と、ヒステリックに喚く男の声が聞こえてきて空気を
びりびりと震わせたが、やがて全ての音が消えて辺りは何事もなか
ったようにしんと静まり返った。
姫はやり切れないように耳を塞いでうな垂れた。しかし椿が何食
わぬ顔でドラム缶の方へ戻ろうとしたので、姫は思わず彼女の手を
掴んでいた。
﹁ち、ちょっと待ってよ⋮⋮!﹂
腕を掴まれた椿は無表情で﹁ドラム缶のとこへ戻らないと﹂と、
事務的な口調で呟く。
﹁す、少しでいいからちょっとお話しない⋮⋮?﹂
薄らと涙を浮かべて懇願する姫の姿に、椿は困惑したように固ま
ったままの状態でしばらく姫を見下ろしていたが、やがて遠慮がち
に静かに隣に座った。
﹁そ、そうだ。乙葉ちゃんがお茶を持たせてくれたのよ。飲むでし
ょ?﹂
105
椿がこくりと頷くと、姫はショルダーバックから水筒を取り出し
て蓋と内蓋にお茶を注いで、そのうちの一つを椿に手渡した。
そうしてしばらくの間、無言のままお茶を啜っていた二人だった
が、やがて姫が耳まで真っ赤にして笑っているのか引きつっている
のかわからない顔で口火を切った。
﹁あ、あのさ、あんたとはここ数日間いろいろあって酷いこと言っ
たり言われたりしたけれど、とりあえず今はその事はお互いに水に
流して聞いてほしいんだけど、あれ、どう思った? 出来たら素直
な意見を聞かせてほしいんだけれど⋮⋮﹂
﹁あれ⋮⋮? ドーマンセーマン?﹂
﹁そう! あ、でも別に私が正しかったとかそういうことじゃない
から。そういうことを言いたいんじゃなくて、その⋮⋮理屈を説明
しろって言われたら困るんだけれど、私はゾンビの発生はこの霧が
原因だと思ってて、ていうかそれでほぼ間違いないはずで、だけど
私はドーマンセーマンが効くのも実はこの霧のせいなんじゃないの
かって⋮⋮言ってる意味わかる、かな⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮全然﹂
と、即答する椿。
それを聞いて姫の顔が恥ずかしさで毛穴から出血しそうなほどに
真っ赤になっていき、ひくひくと引きつる頬を唇を力一杯にかみ締
めることで抑えようとしている。
﹁というのは嘘。実は私にも思い当たる節はある。上手く説明でき
ないけれど⋮⋮﹂
106
それを聞いて一転、姫の顔にぱあっと花が咲く。
﹁そ、それってどんなの? 絶対バカにとかしないから聞かせて、
お願い!﹂
﹁⋮⋮この前のホームセンターで。ううん、正確には街が霧に包ま
れてから。妙に思考がクリアになったと言うか、集中力が高まった
というか⋮⋮身体もよく動いて、自分が自分じゃないみたいで⋮⋮﹂
﹁一緒よ! 私もそう。なぜかドーマンセーマンが効くと思えて信
じて疑わなかった。なにかおかしいの。普段通りの自分のはずなの
に、思考が自分と違うというか。でもそれはちゃんと自分自身だっ
て確固たる自信があるっていうか。決して極限状態で疲れているか
らじゃなくて、なんか、その、脳みその中からもう一つの新しい脳
みそが出てきたみたいって言ったらわかる?﹂
﹁自分がどんどんアップデートされていくみたいな?﹂
﹁そう! まさにそれ!﹂
﹁それがこの霧と関係あると⋮⋮?﹂
﹁思わない⋮⋮?﹂
椿は腕を組んで目を閉じてしばらく考え込んだ。
﹁⋮⋮ずっと火事場の馬鹿力だと思っていた。極限状態のアドレナ
リンのせいであんなに身体が動いたんだって。確かに私はずっとナ
イフの扱いを練習していたし、格闘技もすこしだけ齧っている。で
も相手の蹴りをほとんどガードできて大怪我をせず、更に動いてい
107
る標的に百発百中で六本のナイフ全てを刺せるほどのスキルじゃな
いことは自分自身がよくわかっている。でも実際には違った﹂
﹁ううん。それで合ってる。基本はその火事場の馬鹿力なのよ。で
そうしたら私たちが漠然と抱いているもやもやとした疑問に説
もこの霧が馬鹿力にドーピング作用の役割を果たしているとしたら
?
明がつくと思わない!?﹂
﹁ドーピング作用⋮⋮﹂
椿の黒目勝ちな瞳の奥で微かに光が揺れた。
﹁⋮⋮うん、その考えは興味深い。この話を知ってる? 日本が霧
に包まれる前に海外からの情報で、霧の中では死んだ人間は無条件
にゾンビになるって。別にゾンビに噛まれていなくても病死や交通
事故死、自然死でもゾンビになってしまうということは、すでに生
きている人間のなかにゾンビ化を促すなにかが霧を媒介して侵入し
ているってことなのかも⋮⋮?﹂
いつしか椿も姫も熱を帯びた目で、互いに正面から向き合って話
に夢中になっていた。
﹁そうね。そしてその何かは死んだ人間をゾンビにしてしまうのと
同じように、生きている人間にも何かしらの影響を与えているとす
るならば⋮⋮?﹂
﹁卵か先かニワトリが先かの話じゃないけれど、霧には死者を甦ら
せるバクテリアか何かが含まれていて、霧の中で死んだ︱︱正確に
は霧を吸った人間を無条件に甦らせてしまう。しかし霧を吸っても
まだ生きている人間の体内にあるそれは、ゾンビを前にした人々の
108
そしてゾンビに対抗でき
恐怖だとか生存本能にも反応して、死者が甦るという生命の常識を
覆すのと同等の作用をもたらしている?
る能力が身体の中で生まれつつあるってこと? いや待って。そも
そも死ぬ間際だって人は死にたくないと思うはず。霧の中に含まれ
る何かはそうした人の思いや精神状態に反応してゾンビが生まれた
のかもしれない⋮⋮﹂
﹁それを聞いていま思いついたんだけれど、例えば今回みたいな大
きい隕石で地球規模の霧じゃなくても、もっと局地的な狭い範囲で
は昔から同じようなことが何度か起きていたと考えられない? そ
れが時が経つにつれて中国のキョンシーの言い伝えや、宗教者の奇
跡に形を変えていったとしたら。ドーマンセーマンにしてもそう。
人間はゾンビとの戦い方をすでに編み出して知っていたのよ!﹂
﹁そういえばNASAが数十億年前の隕石からDNAの基となる化
学物質を発見して、地球の生命の源となった物質は宇宙からやって
来たって説を読んだことがある。今回の隕石が原因の霧の中にも、
まだ人類が知らない未知の物質が含まれていたとしたら。もしかし
たら私たちは人類進化の転換期に立ち会っているのかもしれない⋮
⋮!﹂
椿は湧き上がる興奮を抑えきれないという感じで、深く息を吐く
と頭を抱えた。そんな彼女の姿を見て、姫は満足そうな笑みを浮か
べた。
﹁やっぱりあなたに話して正解だった﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁だって私とあなた、どこか似ているって思ってたの。それにこん
109
なバカげた話、まどか先輩に話しても鼻で笑われるに決まってるわ。
乙葉ちゃんにも身体の変化とかなにか気付いたことがないか、それ
となしに聞いてみたんだけれど全然ピンときてなかったし。もしか
して私一人だけの勘違いなのかと思ってた﹂
﹁それとも生きている人間に効果が表れるにはなにか環境とか条件
とかがあるのかもしれない⋮⋮﹂
﹁先輩にも聞いてみる?﹂
﹁どうだろ、先輩は優しいけれどのん気なところがあるから。それ
にまだ推測の域を出ていないから、もう少しはっきりとした確証を
得てからのほうがいいと思う﹂
﹁そうね、私もそう思う。じゃあしばらくは二人だけの秘密ってこ
とね﹂
姫はニコリと笑うと、すっと手を差し出した。
﹁これから私のことは姫って呼んで。私は︱︱椿でいい?﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
火曜日 記入者 花城まどか
椿は伏し目がちにためらいながらも、その手を握った。
5月12日
物資の調達に出かけた椿ちゃんと姫ちゃんの二人は、日が沈む前
110
には無事に帰ってきた。
そのあとで持ち帰ったドラム缶の洗浄と、花壇の仕切りに使って
いたレンガを利用しての簡単なかまど作り。ドラム缶風呂は井戸の
横へ設置する予定。一応霧のおかげで周囲からは見られる心配はな
いけれど気分的な問題で、お風呂は目隠し用のビニールシートで囲
おうと皆から意見が。防災倉庫にビニールシートがあるのでそれを
使おうと思う。
椿ちゃんと姫ちゃんの二人はすっかり打ち解けたみたい。今日出
かけた時に、なにかあったのかな?
水曜日 記入者 花城まどか
とにかく仲が良いのはいいことだ。
5月13日
朝から再三のドラム缶洗浄を繰り返したおげで、念願のドラム缶
風呂は正午すぎに完成! さっそく入ってみようと言うことで、みんなで順番に入浴。はぁ
極楽極楽。ほっこりとしていい気分。
そのあとで、椿ちゃんと姫ちゃんの二人から、毎日一時間だけの
外出許可を求められる。
理由を聞くと、物資を少しずつ集めるのと街の様子やゾンビの生
態を観察したいとのこと。
前者はともかく、後者が引っかかってOKしていいものか迷った
けれど、二人の熱意に推されて許可することに。
もしもこれで二人が危険な目にあってしまったとしたら⋮⋮そう
考えると、気分が落ち込んだ。
111
そして何か隠しているような二人の雰囲気も引っかかる。
神様、このままみんなが無事に過ごせて平穏な毎日が送れますよ
うに⋮⋮
112
第二章 非日常のなかの日常・3︵後書き︶
次回から三章へ突入します。引き続きよろしくお願いします。
113
第三章 開戦前夜 ︱進化する屍と燻る火種︱・1︵前書き︶
今回から第三章です。引き続きお付き合いください。
※サブタイにナンバリングと誤字修正しました
114
第三章 開戦前夜 ︱進化する屍と燻る火種︱・1
1 霧に沈む児童公園に椿と姫は居た。
今日は風がないため、いつにも増して霧が濃い。まるで邪悪な意
思でも持っているかのように深い霧の壁が二人の目前まで迫り、白
い闇の底へ絡め落とそうと小さく華奢な身体に纏わりついている。
﹁⋮⋮じゃあ、やってみる﹂
﹁OK﹂
椿は一歩前へ出た。両手には五本のスローイングナイフを握って
いる。姫は刺又を肩に担いで、わくわくした顔でその光景を見守っ
ていた。刺又にはドーマンセーマンが貼り付けてあったが、周囲の
安全よりも椿の一挙手一投足に注視している。
瞳を閉じて精神集中していた椿が、左足をすっと下げると、左手
で一本ずつナイフを投げていく。瞳を閉じたまま、精密な機械のよ
うに一定の間を取りつつ、五つの方向に向けて。
ナイフを投げ終えると、二人は待ちきれないといった感じで前方
へ駆け出した。
霧の中から現れたのはジャングルジムだった。その前面には家具
の引き戸が針金で括り付けてある。五つともサイズもバラバラで、
取り付けてある高さも様々だ。その全てにナイフが刺さっているの
を見て、姫が﹁すごい!﹂と感嘆の声を漏らした。
115
椿は一本ずつナイフを引き抜いていく。無言だったが、その表情
から興奮しているのがわかる。
これで十回目。毎回標的の位置を変えつつも、目を瞑ったままで
八割の確率で標的にナイフが突き刺さっている。しかも日に日に、
投げれば投げるごとに精度が高まっていく。
自分のなかで熱く蠢くマグマのような何かが、全身に少しずつ行
き渡っていこうとしているのを感じる。筋肉や神経の眠っていた力
が引き出されていくような全能感に心身ともに歓喜で打ち震えてい
た。
本物だ⋮⋮
椿は自分の手の平をまじまじと見つめて、ぎゅっと握り締めた。
次に二人は住宅街にやって来ていた。民家に挟まれた月極めの駐
車場。その道路に面した側にはフェンスが張られていて、中央部分
が出入り口となっている。出入り口のチェーンにはドーマンセーマ
ンが等間隔で貼られていて、二人は視線を合わせて頷くと、それぞ
れに持っていた刺又でフェンスやアスファルトをたたき始めた。
ガンガンコンコンと甲高い音が霧の中に響き渡ると、やがてそこ
ら中から引きずるような足音と低いうめき声が聞こえてくる。
姫の左手の霧の中から両手がにょきと姿を見せて、首筋から血を
流して土気色をした肌の中年女性が現れた。距離にして二メートル
ほど。中年女性は一直線に姫へと向かってくる。
﹁うひょ!﹂
116
姫が鬼ごっこでもしているように後ろへ飛び跳ねた。そして拍手
をしながら駐車場のなかへと誘導していく。その姿を視界の隅に捉
えながら、椿は次々と現れる数体のゾンビを刺又のドーマンセーマ
ンで霧の中へと押し戻しながら、じりじりと慎重に後退していく。
そしてアスファルトの上に這わしてあったチェーンを跨ぐと、素
早い動きでチェーンを掴んでフェンスのポールに設置してあるフッ
クへと引っ掛けた。
簡易結界の完成だ。駐車場の残り三方は民家がありフェンスもあ
るのでゾンビが入ってこれないのはあらかじめ確認済みだ。
﹁こっちは準備ができた﹂
椿が振り返ると、既に姫は乗り捨てられたワンボックス車のサイ
ドボディに、刺又でゾンビを押し付けていた。
﹁じゃあ代わる﹂
﹁うん﹂
椿が自分の刺又で中年女性を押し付ける。ゾンビは相変わらず刺
又には目もくれず、ただ音がする方へ、人の吐く息の匂いにつられ
てもがく様に両手を伸ばしていた。
力自体は大したことない。小柄な椿でも腰を落としてしっかりと
力をいれていれば、十分押さえつけていられる。
では、なぜこれだけ非力で知能も視力も認識力もないゾンビに人
々はやられてしまったのか。
117
その原因の一つは握力だった。異常に強い握力は一旦掴まれると
剥がすのは容易ではなく、椿は一人で夜な夜な街へ繰り出して街の
様子を伺っていた時に、大人の男性が腕や衣服を掴まれて引き剥が
そうとしているうちに、次々と現れたゾンビに襲われていったのを
見ている。
だから小柄な椿でもその点を注意しただけで生存確率がグンと上
がった。寮に防犯用の刺又が設置してあったという幸運もある。
﹁じ、じゃあ行くわよ⋮⋮﹂
姫はショルダーバックから半紙を取り出して、ゾンビの右側へ回
り込んでいく。
ゾンビが姫の呼吸の匂いに反応して両手を伸ばした。
﹁気をつけて!﹂
椿がわざと大きな声で言った。それは姫へ注意を促すと同時に、
ゾンビの注意をこちらに向ける意味もあった。 姫にも椿の意図が伝わったのか、小さく頷くと息を止めて左手で
鼻と口を覆った。
椿はまるで子犬でも呼ぶみたいにリズミカルに舌を鳴らして、ゾ
ンビの注意を引きつけている。
その音の鳴る方へ両腕を伸ばして無心に空を毟り取っている中年
女性の両腕の動きのタイミングを見計らって、姫は一気に右手でゾ
ンビの額の辺りを叩きつけた。
傍から見ている分にはまるで蚊でも叩いたようにしか見えなかっ
たが、ゾンビの額にはガムテープで半紙が貼り付けてあった。その
118
半紙には奇妙な形の文字が大きくいっぱいに書かれている。それは
姫が祖母の形見の習字道具で書いた梵字だった。
姫の話では、つい先日夢枕に祖母が立ち、懸命になにかを自分に
伝えようとしていたのだと言う。そこで彼女は祖母が自分になにを
伝えたかったのか思いを巡らせた。祖母が遺してくれた習字道具。
長年愛用していた立派な筆。これは形見分けではなく、祖母の遺言
のなかに書かれていて﹁相続﹂したものだ。
元々祖母は霊感の強い人間で、書道教室を運営するとともに密教
の霊符師としての顔もあったらしい。霊符師とは相談者を霊視して
相談内容にあったお札を製作することを生業としている者の呼称で、
その霊符作りには梵字が使われている。
梵字とは古代インドで生まれた文字で日本へは仏教とともに伝来
し、文字自体に霊的な力があると信じられ、その特徴的な形は一字
ごとに如来、仏、菩薩、明王、天などを表していて、姫は何故か幼
少期から祖母にこの梵字を教えられていたのだ。
つまり彼女にとっては、物質的に相続したものが愛用の筆と書道
道具であり、精神的に相続したものが梵字となるわけだ。
そして彼女の祖母が長年製作に携わっていた霊符は、元を辿れば
中国の道教と繋がりが深く、その道教には呪術で死体を操ったとさ
れるキョンシー伝説がある。
きっと祖母はそのことを自分に伝えたかったに違いない、という
のが姫の結論だった。
そして姫からあるアイデアを聞かされても、椿は一笑に付すなど
出来なかった。出来るわけがなかった。
119
ゾンビの額に霊符を貼り付けた姫が自分の背中に回りこむのを待
ってから、椿はゾンビを押さえている刺又をゆっくりと引き離した。
息を呑んでゾンビを見守る二人。
梵字が書かれた半紙で顔の隠れているゾンビは、両腕をぶらりと
させて立ったまま動かない。 椿は恐る恐ると刺又で地面を叩いてみる。
コンッ、コンッ。
ゾンビは動かない。
二人の顔が驚きと喜びに包まれていく。
コンッ、コンッ、コンッ、コンッ︱︱
姫も加わって今度は二人でもっと強く、さらに回数を増やして刺
又で地面を叩きまくる。
それでもやはりゾンビは動かない。
﹁︱︱やった、成功よ!、ゾンビを霊的な力で抑えることができた
の!﹂
姫が椿に抱きついてきゃっきゃっと飛び上がった。
しかし次の瞬間、ゾンビの顔面を覆う半紙がどす黒く変色したの
を椿は見逃していなかった。霊符が一気に塵となってぼろぼろと崩
れ散ってしまったかと思うと、同時に女ゾンビは唸り声を上げて両
手を前に突き出して二人に襲い掛かった。
﹁あぶないっ!﹂
椿は姫を突き放すと同時に歯を剥き出して突進してくるゾンビの
腹部を蹴り飛ばす。
女ゾンビの体は激しく車体に叩きつけられながらも再度二人に襲
い掛かろうとするが、体勢を立て直した椿がすかさず刺又で押さえ
120
込んだ。
椿のタイミングが少しでも遅ければ、二人のうちのどちらかは確
実にゾンビに捕まっていたはずだ。
まさに間一髪。
﹁そ、そんな途中まで上手くいっていたのに、どうして⋮⋮?﹂
青ざめた顔の姫はそれだけを呟くのが精一杯だった。
121
第三章 開戦前夜 ︱進化する屍と燻る火種︱・2
2
アキラは熱せられた金属板を押し付けられたような痛みに目を開
けた。一瞬どこに居るのかわからなかったが、すぐに自分がいま置
かれている状況を思い出して力のない息を吐き出した。
左手でベッドのヘッドボードをまさぐり、空のペットボトルの中
から半分ほど残っていたミネラルウォーターを探り当てると、二口
三口飲み干してから残りを顔と右手にぶちまけた。
水は生温かったが、右肘から右頬にかけて負った火傷を冷やして
くれて心地よかった。
しかし数時間置きに眠りから目覚めてはそんなことを繰り返して
いるので、着ているティーシャツも敷布団も乾く暇がなくじめじめ
として不快だった。
﹁くそっ⋮⋮!﹂
アキラは激しい怒りに打ち震えた。と同時に悔しさと情けさに胃
の辺りから熱いものがこみ上げてくる。
なぜ俺がこんな目に⋮⋮!
なぜシュウがあんな目に⋮⋮!
そもそも世界がこんな風になった時に一歩出送れたのがケチのつ
き始めだった。
街のあちこちで暴動が起き始めたのを目撃した時、自分たちもこ
122
の混乱が生み出す恩恵に与ろうと甘い汁を求めて、シュウや仲間た
ちと共に郊外にある大型ショッピングセンターへ向かったが、そこ
は既に迷彩服を着込んだグループに占拠されたあとだった。
そして要塞のような建物は攻略困難で、結局自分たちと同じ歳と
思しき連中にエアガンや投石、火炎瓶などで撃退されて泣く泣くシ
ョッピングセンターをあきらめることにした。
あのいかにもおたくっぽくて、普段ならば通りで出会ってもこそ
こそと避けて歩いていたような連中にいいようにあしらわれた一件
が、メンバーたちのリミッターを解除するきっかけとなった。
鬱積した怒りを一般市民にぶつけ、仲間たちと競うようにして暴
力への衝動はエスカレートしていき、そしてようやく手に入れた自
分たちだけの楽園が郊外にあるあのしみったれたホームセンターだ
った。
しかし女神はまだアキラやシュウを見捨てた訳ではなかった。
それがあの桜道女子学園の女生徒たちだ。
この街に住む十代の少年たちには圧倒的に光り輝く性のシンボル。
そのブランド力をまとった少女が四人も手に入った。手に入る寸前
だった。
しかし女神の羽衣に指がかかった瞬間、それが魔女の気まぐれな
悪戯だったと思い知らされた。
あのホームセンターからここまでどうやって逃げて来たのかほと
んど記憶がない。
気がつけば自分は右頬から右肘まで火傷を負っていて、足にナイ
フが刺さり全身の数箇所の肉をゾンビに食い千切られて瀕死のシュ
ウをショッピングカートに乗せて、駅近くの桜道女子寮までやって
123
来ていた。ついて来た仲間も一人だけだった。他のメンバーがどう
なったのかすらも覚えていない。
結局この女子寮にあの少女たちの姿は見えなかったが、そのまま
ここに住み着くことになった。いや、ほかに行く当てもなくここに
住み着かざるをえなかった。
空腹と喉の渇きと火傷の痛みではらわたが煮えくり返る。全身が
沸騰しそうに熱い。
﹁⋮⋮あいつらだけは絶対ゆるさねえからよぉ⋮⋮ぜってぇ見つけ
出してくしゃくしゃにしてやる⋮⋮!﹂
アキラは怒りまかせに手に触れるもの全てを殴り、また投げつけ
て暴れまわった。一頻り暴れまわると、電池が切れたようにベッド
に腰掛けて肩で大きく息をしながら、擦り剥けて血が流れている拳
を空ろな目で見下ろしていた。
すると部屋のドアがノックされて﹁アキラさん、俺です。涼太で
す﹂と聞こえてきた。そしてドアが開き、サッカーのユニフォーム
を着た長髪の少年が入ってきた。手には長期保存水と書かれたダン
ボールを持っている。
﹁すみません。遅くなって。どこ探しても水も食料もなくて⋮⋮。
でも、これ見てくださいよ。災害用のミネラルウォーターっす。こ
れ誰がくれたと思います。アキラさん、まじビックリしますよ!﹂
と、興奮した口調でまくし立てると、涼太はドアの方を振り向い
た。
アキラがその視線を追って行くと、そこに立っていたのはスキン
ヘッドのプロレスラーのような巨体の少年だった。
124
﹁よお、どうした兄弟、そんなしけた顔しやがって、おめえらしく
もねえじゃねえか! もしかしてクソゾンビにタマキンでも食われ
ちまったか?﹂
と、豪快に笑いながら人懐こい笑顔で部屋に入ってきた少年は、
アキラとシュウの中学時代の悪友で隣の市に住む氷川大悟だった。
﹁涼太に聞いたぜ、桜道の女どもにひでえ目に合わされたんだって
? そりゃ悔しいよな、悔しいに決まってる。こんな世の中になっ
ちまったとは言え、やっていい事と悪い事があるよな? そういう
身の程を知らず糞生意気に歯向かってくるふざけた女にはガツンと
お仕置きが必要だよなぁ? だからもう安心していいぞ兄弟、おれ
んとこのチームは三十人全員ピンピンしてっからよぉ。いつでもお
めえの力になれるぜ?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
いつの間にか大悟越しに見えるドアの向こうには十代の少年たち
の人だかりが出来ていて、アキラと視線が会うと﹁ちぃーす﹂と会
釈してくる。
幸運の女神はまだ俺を見放していない⋮⋮
アキラは声をあげて泣いていた。男泣きだった。
﹁まどか先輩、お掃除をしましょう﹂
と、乙葉が声をかけてきたのは、椿と姫の二人を見送ってすぐの
125
ことだった。二人の外出を認めて数日が経過していた。今のところ
毎日何事もなく帰ってきているが、やはり見送りの時にはいろいろ
な不安が胸を過ぎって憂鬱になってしまう。
そんな自分に気を使っての最年少の後輩の提案にまどかは快諾し
た。こんな世界でも掃除をするという考えが乙葉らしくもあり微笑
ましい。
とりあえず二人並んで廊下のモップ掛けをすることになった。
﹁そう言えば、乙葉ちゃんんちって定食屋やってるんでしょ? や
っぱ家事が好きなのはそこから来てるんだろうなぁ﹂
まどかにそう言われると、乙葉は人差し指を振りながら得意げな
顔を浮かべた。
﹁︱︱内で掃除せぬ馬は外で毛を振る、です﹂
﹁なにそれ? ことわざ?﹂
﹁はい。家でのしつけが悪い子供は外でしつけの悪さがわかってし
まうって意味らしいんですけれど、祖父の口癖でいつも口うるさく
言われてたんですよ﹂
﹁ああ、なんかそういうの憧れるなあ。私なんか人生の半分は母子
家庭だったから基本的にほったらかしだったし⋮⋮﹂
﹁でも家族が多いなら多いなりに悩みもありますよお。私の下に弟
や妹が四人も居て面倒も見なきゃならないし、すぐお店の仕事を手
伝えって言われるし、私は何のために生まれてきたんだろうって⋮
⋮﹂
126
﹁もしかしてそれが原因で実家に帰らなかった、とか⋮⋮?﹂
乙葉はしばらくの間を置いて、
﹁ははは、そうなのかな。そりゃ家族や環境に不満が無かったわけ
でもないですし、第二さくら寮での一人生活が始まってからすごく
自由を満喫してたのも確かです。でも私バカだから、あの日駅に向
かう途中で渋滞にハマって動けないでいる老人ホームのバスと遭遇
しちゃって。その老人ホームのバスは、この霧で物資と人員の不足
の恐れがあったので、隣の市にある同じ系列のより大きな老人ホー
ムで集中介護しようとして向かっていたんです。でも渋滞にハマっ
ているうちに何人かの人が気分が悪くなったとかで、コンビニの駐
車場で休憩しているところを出くわしたんです。私ボランティア部
だし、職員が付き添いでコンビニのトイレに並んでいるし、しかも
お店や駐車場は他のお客さんや車でごった返していて大変そうだっ
たのでなんだか放っておけなくて⋮⋮﹂
﹁まさか、それで⋮⋮!?﹂
﹁へへ、駅に着いた時にはもう電車が止まっていました⋮⋮。ほん
と私ってバカですよね!﹂
と、恥ずかしそうに頭をかく乙葉の目尻に輝くものを見つけて、
まどかは思わず最年少の後輩を抱きしめていた。
﹁家族の人、無事だといいね⋮⋮﹂
﹁ここへ来た当初は心配していましたけど、私たちだって子供ばか
りなのに無事なんだからって思うことにしました。先輩たちだって
127
家族のこと心配しているはずなのに、私だけ落ち込んでるわけには
いきませんから﹂
乙菜は泣き笑いの顔を浮かべると、胸の前でぎゅっと拳を握った。
廊下のモップ掛けを終えると乙葉はドラム缶風呂のお湯を沸かし
に行き、まどかは引き続き洗面所の掃除をすることにした。
ふと洗面台に写った自分の姿に気付いてまじまじと見つめる。よ
く母親に似ていると言われて、自分でもそう思う二重で丸みを帯び
た目と薄い唇。
﹁乙葉ちゃん、違うんだよ⋮⋮﹂
ついまどかは呟いた。絶望したような暗く掠れた声で。
先ほどの乙葉の言葉が烙印のように頭の中に焼きついていた。
︱︱先輩たちだって心配してるはずなのに。
ううん、そうじゃない。違うんだ。違うんだよ私の場合は⋮⋮
まどかはジャージのポケットから純銀製のジッポを取り出すと、
両手でそっと目の前にかざした。フタを開ける時の特徴的な金属音
と、微かに漂うオイルの匂いは、この儀式に欠かせない鐘の音であ
りお香の香りだった。
発火石と金属ドラムが擦れる音は、神を召還する拍手であり、こ
の一連の作法の末に神は目の前に降臨して、まどかの心を侵食して
いく闇を焼き尽くしてくれる。
顔を知らない父から、残された母を経て、娘の元へと受け継がれ
128
た唯一の幸せのかけら。もう永遠に完成することのないパズルの最
後のワンピース。
すべて焼けてしまえばいい。
この世界も、思い出も、涙も、自分自身も、すべて焼けてしまえ
ばいい。
激しく揺らめく炎に自分という存在の全てが呑みこまれていきそ
うになりながらも、まどかは炎から目を離すことが出来なかった。
炎が発するオレンジ色の光で目がちかちかと痛む。額と頬が熱を受
けてひりひりと悲鳴を上げ始める。
それでもまどかは炎から目を逸らすことも遠ざけることも出来な
い。
﹁せ、先輩あぶないですよ!﹂
そのヒステリックな声に全身がビクリと弾けて、同時に針の穴の
ように小さい一点へ集中していた全神経が四方へと霧散した。
純銀製のジッポはまどかの両手からこぼれて、カランと音を立て
て足元に転がる。
﹁ああ、危ない危ない﹂
まどかはまだ火の点いているジッポを拾って慌ててフタを閉める
と、声のした洗面所の入り口を振り返った。
﹁もう乙葉ちゃん驚かせないでよ。ビックリしちゃったじゃない﹂
﹁せ、先輩、いま天井まで届きそうなくらいの火柱が立ってました
よ。なにやってたんですか、危ないですよ⋮⋮﹂
129
﹁ええ、それはないない。このジッポにそんな火力なんてないから。
乙葉ちゃんが驚かすから⋮⋮﹂
﹁もしかして、今の炎に気付いてなかったんですか⋮⋮?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
真剣な眼差しで心配そうに覗き込んでくる乙葉に、まどかはそれ
火曜日 記入者 花城まどか
以上なにも言えなかった。
5月19日
何事もなく平穏な日々が続いている。みんなも無事で健康だ。
椿ちゃんと姫ちゃんの外出時間は途中から一時間から二時間へと
拡大した。ある日、二人が時間になっても帰ってこない日があり、
乙葉ちゃんとヤキモキしていると三十分遅れで戻ってきたことがあ
って、みんなで話し合って時間を延長することになったのだ。
正直に言うと、毎日そんなに出かける必要があるのかという疑問
と不満もあったが、二人が毎回少しずつ持ち帰ってくれる、ドラム
缶風呂とかまどで使う練炭や木質ペレットなどの燃料に大助かりし
ていることも事実だ。
とくに防犯砂利と言う、通常の砂利よりも歩く際に大きい音が鳴
る砂利を見つけてきてくれたことは大きい。今はこの砂利を塀に沿
って蒔いているので、万が一塀に設置してある防犯ベルが鳴らなか
ったとしても、早めに侵入者に気付けるはずだ。
130
二人の外出がこの寮生活に大きな恩恵をもたらしてくれているこ
とも事実なので、一概に二人の行動を否定できない。
だけど⋮⋮
131
第三章 開戦前夜 ︱進化する屍と燻る火種︱・2︵後書き︶
誤字・脱字などお知らせいただくと助かります。
132
第三章 開戦前夜 ︱進化する屍と燻る火種︱・3
3
夕食の後は、いつもみんなで集まってミーティングと言う名のお
喋りタイムだった。各自が思っていることや意見を述べる大切な時
間。
口火を切ったのは珍しく椿だった。
﹁前から心配していたんですけど、もしもの時に備えてそろそろ医
薬品を調達しておいた方がいいと思います﹂
﹁なんで? 防災倉庫のなかに医療用キットがあったじゃない。管
理人室に救急箱もあるし﹂
と、すぐさま姫が素朴な疑問を口にする。
﹁あれはただの救急キットで中には包帯や絆創膏、ガーゼくらいし
か入っていないし、救急箱の方も風邪薬と生理痛の痛み止めしか入
っていなかったから。それにこの手のものはストックはあるだけあ
っても邪魔にはならない﹂
椿は相変わらずあまり表情を顔に出さず、喋る時もボソッと話す
ことが多いが、皆もう慣れてしまっていた。現に一時期はどうなる
ことかと思った椿と姫の仲も思った以上にうまく行っている。この
二人は水と油という相容れない仲ではなくて、水と氷だったのだろ
う。同じ成分だが環境の違いで形が違っていただけで、基本は同じ
なのだ。
まどかがそんな事を考えながら二人の会話を聞いていると、突然
133
姫が振り返って、
﹁そう言えばまどか先輩、生理用品の予備欲しくないですかぁ?﹂
と、明け透けに聞いてきたので、まどかは飲みかけていたお茶を
噴きそうになった。
﹁た、確かにそれは必要だけど⋮⋮﹂
﹁ねえねえ、乙葉ちゃんも欲しいでしょ?﹂
姫は今度は乙葉に話を振る。本人にはまったく悪気のないところ
が、いつも元気な彼女らしい。
﹁わ、私は⋮⋮その、まだ⋮⋮なので⋮⋮﹂
乙葉がいまにも湯気が噴き出しそうなくらいに耳まで真っ赤にし
て俯く。しかし姫はそんなこと一向に気にしていないようだった。
﹁ねえまどか先輩、ここ女子寮だったんだからと思って、私一応空
き部屋を探して見たんだけど、そんなに集まらなかったんですよね
ぇ。たぶん無期限休校だからみんな実家へ持って帰っちゃったんで
すよ。こんな今の生活だと幾ら予備があってもいいくらいですよ?﹂
﹁ちなみにこの前ホームセンターへ行った時に確認しましたが、火
事の影響で使えそうなものはありませんでした﹂
と、椿が付け加える。
﹁⋮⋮確かに実は私もそれはずっと気にはなっていたんだけどね。
134
ねえ椿ちゃんここから一番近い薬局と言えばどこだっけ?﹂
と、まどかは椿を見ると、彼女は管理人室から地図を持ってきて
それをテーブルの上に広げて淡々と説明を始めた。
﹁ここから一番近い薬局は、コンビニの通りを駅の方に向かってい
く途中にある個人経営の店が一軒。でもここは火事で全焼している
のは確認済みなので、そうなると更にそこから二・五キロほど進ん
だ先のチェーン店が一番近いです。寮からだと三キロ半から四キロ
の距離になります﹂
﹁たった三キロと思うか、四キロもあると捉えるべきか。うーん、
この微妙なラインが絶妙すぎるな⋮⋮﹂
﹁まどか先輩、そんなに悩むことないですよ。私と椿の二人でダッ
シュで行ってダッシュで戻ってきますから。ね?﹂
と、姫はどや顔でどんと胸を叩いて椿に同意を求めたが、椿は首
を振り、
﹁さすがに四キロ弱の距離だとダッシュは無理。霧もあるのに﹂
﹁バカ、ただの例えよ例え。もう変なとこで真面目なんだから﹂
﹁それに街の中心により近くなるから、ゾンビや暴徒化した人間に
出くわす確率も必然的に高くなる﹂
その椿の発言を聞いて、まどかが意を決したように口を開いた。
﹁わかった。じゃあ今回は椿&姫の二人に加えて私も付いていくわ﹂
135
﹁え!?﹂と残りの三人が驚きの声を上げた。なかでも一際驚いて
それじゃあ私はどうなるんですかあ
いて涙目になっているのは乙葉だ。
﹁え!? え!? え!?
!?﹂
﹁一緒に来るか、ここで留守番しておくか、乙葉ちゃんが自分で選
べばいいよ﹂
そのまどかの返事を聞いて、乙葉はさらに困惑したようにテーブ
ルの上に突っ伏した。
﹁そ、そんなぁ、外はゾンビ、中は一人で留守番⋮⋮どっちも地獄
ですぅ⋮⋮!﹂
﹁私は留守番でいいと思う。ここに居れば九十九パーセントの確率
でゾンビに会わなくて済むし、万が一この前の不良グループみたい
連中が来ても、頑丈なバリケードがあって逃げる時間も十分稼げる
から﹂
と、椿が冷静に言うと、今度は姫が励ますような口調で乙葉の肩
を叩く。
﹁たぶんどんなに遅くても四時間くらいで戻ってこれると思うわよ。
お昼過ぎにここを出ても夕方には戻って来て、みんなで夕食食べて
るわ絶対に﹂
﹁うう、では私は留守番ということで⋮⋮。でもほんとにほんとに
早めに戻ってきてくださいよぉ! ウサギ同様に人間だって寂しい
と死んじゃうんです。特に私はそうですからね!﹂
136
乙葉の可愛らしく切羽詰ったように哀願する声と、まどかたちの
優しい笑い声が食堂中に響き渡った。
ベッドに入りランタンの灯りを消すと、暗闇の中から椿の声が聞
こえてきた。
﹁⋮⋮先輩、ほんとに明日は一緒に来るつもりですか?﹂
﹁そうよ。なに? 姫ちゃんと二人きりのほうがよかった?﹂
﹁まさか。私、ずっと寮からせいぜい一、二キロ圏内で動き回って
いたから、ほんとにその先の状況が読めなくて⋮⋮だから先輩がそ
ういう危険なところに行くのはあまり賛成できないというか⋮⋮﹂
﹁だから私も一緒に行くの。何があるのかわからないところに後輩
二人で行かせるなんて心苦しいもの。気持ちは椿ちゃんと一緒よ。
それに二人がなにをコソコソやっているのか気になってたしね﹂
﹁き、気付いてたんですか!?﹂
﹁当たり前でしょ。帰ってきてからも二人で何やらヒソヒソ話して
るし誰だって気付くわよ﹂
﹁別にやましいことじゃないんです⋮⋮ただ、なんて説明すればい
いのかわからなくて。でも明日は先輩にも見てもらえると思います﹂
﹁そう、それは楽しみにしておくよ。じゃあ、もう寝ようか。明日
137
は久しぶりに疲れそうだから⋮⋮﹂
﹁はい﹂
しかし、まどかは暗闇のなかでずっと天井を見上げていた。何や
ら嫌な胸騒ぎがしていた。ざらざらとした肌触りの黒い塊が胸の底
で蠢いていて、その晩はなかなか眠りにつけなかった。
アキラは氷川大悟を引き連れて、四階の廊下の一番奥の部屋へと
来ていた。後輩たちは三階の一室に集まって、﹁狩り﹂で手に入れ
た数人の少女たちを肴に連日の酒盛りで盛り上がっていた。
階下から聞こえてくるその楽しそうな騒ぎ声も、二人が居る廊下
の一番奥の暗がりでは別世界の出来事のようだ。
﹁⋮⋮ちょっとハメを外しすぎだな。あれじゃここにゾンビが集ま
っちまう⋮⋮﹂
﹁ああ、あとでキツく言っておく。それより本当にシュウに会って
大丈夫なのか⋮⋮?﹂
﹁俺の双子の弟だぜ? 別に噛みつきゃしねえよ﹂
アキラは意味深な笑みを浮かべると、持っていたカギでドアをそ
っと開けて、懐中電灯で中を照らした。
LEDの白色光に照らし出されたのは壁際に立っている一つの人
影だった。しかし両腕と胴体が太い鎖でぐるぐる巻きに巻かれてい
て、更に全身の衣服は出血痕で汚れている。
138
﹁はは⋮⋮ほんとにこれがシュウなのかよ。無様な姿になっちまい
やがって⋮⋮﹂
﹁そうでもないさ﹂
アキラは怒りと悲しみの混じった顔を歪ませて、懐中電灯を激し
く揺さぶった。八畳間ほどの広さの部屋の中に白と黒の光と闇が入
り乱れると、それまで置物のように立ち尽くしていたシュウが突然
怒り狂ったように、懐中電灯の光に向かって突進してきた。
﹁ひいっ!﹂
大悟のプロレスラーのような巨体が慌てて後退り、尻餅をついて
倒れこむ。しかしアキラは不敵な笑みを浮かべたままその場から動
かない。
よく見ると、シュウの体に巻かれている鎖の端は備え付けのベッ
ドの脚に括り付けられていて、その長さはドアのところまででいっ
ぱいだった。
﹁お、驚かすなよ、小便ちびりそうだったぞ⋮⋮!﹂
大悟が青ざめた顔にびっしょりの冷や汗を浮かべて、アキラの横
に並ぶと恐る恐るシュウを観察した。
部屋の間口目前にまで迫って低い唸り声を上げているシュウの口
には、大型犬用の首輪と思われる太い皮ベルトが巻かれていてがっ
しりと口に食い込んでおり、口の端からはいくつも涎が糸を引いて
垂れている。
﹁⋮⋮なあ不思議だろ。ここへ来た時は息も絶え絶えだったんだぜ。
そしてすぐに死んじまったかと思うとすぐに生き返ってきやがった。
139
だけどゾンビになってもなかなか頭をかち割る気になれなくてさ、
ロープで縛り付けておいたんだ。それがいつの間にかロープを引き
ちぎって歩き回るようになって、それどころか今じゃこうして光に
も反応するようになってやがる。成長してんだよ⋮⋮シュウは死に
ながらもちゃんと生きてるんだ⋮⋮﹂
﹁な、なに言ってんだよアキラ⋮⋮だって、どう見たってシュウは
ゾンビじゃねえか⋮⋮﹂
﹁ゾンビだからなんだよ!? 俺たちにゾンビのなにがわかるって
んだ!? ついこの前まで死んだらそれっきりの世界だったんだぞ。
誰もゾンビなんて信じていなかった。なのにこんな世の中になって
死人が生き返るのは信じられて、死人が成長するのは信じられない
道理なんてねえよ。現にこうしてシュウは成長してるんだ、俺の目
の前で!﹂
﹁でもシュウをこのままにしておくのかよ。なんか面倒くせえこと
にならねえか⋮⋮﹂
その言葉にアキラが振り向いた。もしかして怒らせてしまったと
思い、大悟は拳に力を込めて臨戦態勢をとった。二人の間に張り詰
めた空気が流れる。
一瞬の沈黙の後で繰り出されたアキラのジャブを大悟は右手で難
なくとガードしていた。そのアキラの左拳の指の隙間に一枚の紙切
れが挟まれている。
﹁⋮⋮なんだよ、これ?﹂
﹁昼間ここの管理人室で見つけた。桜道女子の教職員用の連絡網。
驚け、そこにはなんと女子寮が三つ書かれてやがった。桜道の女子
140
寮はここにある二つだけじゃなかったんだ。くそ、灯台下暗しつー
かなんていうか﹂
受け取った用紙を覗き込んでいた大悟の目にも暗い光が宿った。
﹁⋮⋮ほんとだ。しかもご丁寧に住所まで書いてあるじゃねえか!﹂
﹁ああ。あいつらと遭遇したホームセンターの近くだ。道理でこっ
ちはもぬけの殻だったわけだ。これで全てが繋がったぜ﹂
﹁どうする? 今から乗り込むか?﹂
﹁ふん、ここまでくりゃ慌てる必要はねえよ。それにあそこまで行
くのは、今の状況じゃ俺たちでもかなりしんどいぜ?﹂
﹁⋮⋮ああ、確かにそうだな﹂
大悟の顔が険しくなった。ここへ来てからすでに三人の後輩がゾ
ンビにやられている。自分たちを取り巻く世界の状況は日に日に深
刻で過酷な方へと向かっていた。
﹁だから今夜は前夜祭で盛り上がろうぜ。いつまで楽しめるのかわ
かんねえんだからよ﹂
アキラは振り返ると、濁った眼で空を睨み付けて唸り声を発して
いるシュウを見た。
﹁⋮⋮明日だ。明日にはあの小娘どもを食わしてやっからな。それ
が双子の俺がしてやれる供養だ。その後はちゃんと俺の手であの世
へ送ってやるよマイブラサー⋮⋮﹂
141
第三章 開戦前夜 ︱進化する屍と燻る火種︱・3︵後書き︶
次回より第四章突入です。引き続きお付き合いください。
感想、脱字等の報告はいつでも歓迎です。
142
第四章 墓場の乙女・1︵前書き︶
今回から第四章です。別名激闘編︵笑︶です。
ぶっちゃけ、このパートが書きたくてこの作品を始めたようなもの
なので
最後までお付き合いしてください。地味に張って置いた伏線も回収
しまくりんぐです。たぶんw
あと第四章については手直ししたい部分もあって、毎日更新はちょ
っと難しそうなので、二、三日に一度くらいのペースと思っていた
だけたら幸いです。
143
第四章 墓場の乙女・1
1
玄関ホールにはバイク用のヘルメットを被り白装束に身を包んだ
まどかと椿、姫が居た。
ジャージの上から着ている、首から膝の辺りまで覆いつくしてい
るマントと言うかポンチョ風の衣装は、椿がどこからか見つけてき
た白い布で作ったもので、霧の中で姿を見つかりにくくする為のも
のだと言う。もちろんそれはこの前のDQNグループのような連中
を想定してのことだが、万が一ゾンビにマントを掴まえられても、
ボタン一つ外すだけで脱ぎ捨てることが出来るので逃げ出す隙を生
み出せるかもしれないとのことだ。
更に以前椿と姫の二人がホームセンターから持ち帰ったジェット
式ヘルメットも保護色の白で塗り上げられている。
そして二つある刺又にはドーマンセーマンが貼られていて、それ
を持ったまどかと姫が列の真ん中と殿を担当して、先頭を弓を抱え
た椿が歩くことになった。
さらに医薬品や生理用品をなるべく多く回収してくるための大き
目の登山用リュックはまどかが背負い、椿と姫はそれぞれの荷物が
入ったショルダーバッグをぶら下げている。調達物資の回収につい
ては現地でショッピングカートなりカゴなりを見つけて、そのまま
持ち帰ってくることも考慮に入れてある。
そして準備が整いいざ出発となった段階で、心配そうな顔で見送
りに来ていた乙葉がすっと紙袋をまどかに差し出した。
144
﹁おむすびとお茶です。絶対に無理せず気をつけてくださいね﹂
﹁え? でも夕飯までには戻ってくるよ?﹂
﹁でもなにがあるかわからないですから持って行ってください﹂
﹁わかった。ありがと。かならず早めに戻ってくるからね。今日の
夕飯は皆でぜんざいパーティーを開こう!﹂
﹁はい!﹂
まどかが乙葉の頭を撫でると、椿と姫も心細そうな顔をしている
最年少の後輩にそれぞれ声をかけて、三人は第一さくら寮を後にし
た。
物陰に身を寄せて周囲の様子を伺いながら、霧に沈む国道に沿っ
て三十分ほど歩いていると、先頭を歩く椿がすっと左手を上げた。
その合図を元に、まどかたち三人は乗り捨てられた自動車の陰に
身を潜めた。もうこれで何度目になるのかわからない。
今日は風も弱く、有効視程はせいぜい3メートルほどと言ったと
ころか。
周囲を取り囲んでいる、まるで水槽の中に絵の具をぶちまけたよ
うな白く濃い霧の中からは、微かに何者かが歩く足音と低い唸り声
のような呼吸音が聞こえてくる。
﹁右前方にゾンビの群れ⋮⋮﹂
145
椿はそう呟くと、持っていた弓を右後方に向かって構えた。矢の
先端には携帯防犯ブザーがガムテープで括られている。
﹁いくよ﹂
と、まどかが防犯ブザーの紐を引っ張る。耳を劈く︵つんざく︶
百二十dBの電子音が鳴り響くと同時に、張り詰めていた弦がビュ
ンと空気を切り裂いて矢を放った。
電子音が矢と共に霧に吸い込まれていく。椿が立て続けに弓を構
えて、同じ方向に今度はもっと高く防犯ブザー付の矢を放つと、右
前方の霧の中から足音や唸り声がブザーの音につられて遠ざかって
いく気配が聞こえてくる。
﹁右前方クリア︱︱!﹂
と、椿は囁くと中腰の忍び足で車の陰から飛び出していく。その
後をまどかと姫も続いて、三人は霧に沈む国道を進んでいく。
まどかは昨夜感じていた胸騒ぎもなんのその自分でも驚くくらい
に気分は軽くなっていた。
椿が用意した対ゾンビ用の防犯ブザー付き弓矢の効果は明らかで
あり、ゾンビとの接触を前もって回避できていたし、たまにイレギ
ュラーで霧の中から現れたゾンビと鉢合わせすることもあったが、
そんな時には今度はドーマンセーマンの威力が最大限に発揮されて、
初めてその効果を目の当たりにしたまどかは、まるで真っ二つに割
れた海を突き進むモーゼの気分を味わっていた。
146
このペースならばあと一時間もあれば目的の薬局までたどり着け
るのではないのか。
そんな明るい見通しに気分も足取りも自然と軽くなっていく。途
中で誰かが走り去る足音や、男性の怒鳴るような声がどこからとも
なく聞こえてきて、物陰に息を潜めて様子を伺うこともあったがそ
れ以外は至って順調だった。
そして寮を出てから一時間半を少し回ったころには、まどかたち
三人は目的の薬局へとたどり着いていた。
チェーン店のドラッグストアは歩道に面して駐車場があってその
奥に店舗がある。乗り捨てられている車や倒れたまま放置してある
自転車の間を慎重に進んでいく。店へ近づくにつれて、地面のアス
ファルトにトイレットペーパーや買い物カゴが散乱し、その先に半
分だけ開いているシャッターが姿を現した。
まず最初に椿が懐中電灯片手に中の様子を伺って、中に誰も居な
いことを確認してからまどかと姫があとに続いた。姫はシャッター
をくぐると、ショルダーバッグからドーマンセーマンを取り出して
シャッターに貼り付けた。
店内は散々荒らされた後だったが、それでもまだ医薬品の方は食
料品の棚のようにすっからかんではなくそこそこ残っている状態で、
まどかと椿が医薬品をリュックに詰め込んでいき、姫が生理用品や
トイレットペーパーを買い物カゴへと入れていく。
﹁︱︱凄いわ、こんなに大量ならリヤカーを持ってくればよかった
ね!﹂
姫が嬉々として集めた商品は買い物カゴ三つ分もあり、それを見
147
た椿が呆れたようにため息をついた。
﹁⋮⋮あなた、それ全部持っていくつもり? 刺又はどうやって持
つの?﹂
﹁あら大丈夫よ。みんなが一つずつ持ってば、残りは刺又と一緒に
私が持てばいいんだから﹂
﹁でもそれじゃあもしもの時に反応が遅れるかもしれない﹂
椿と姫は表面上は冷静に見えながらも、自分の主張は決して曲げ
ないという空気を全身から発していたので、まどかが苦笑を浮かべ
て二人の間に割って入った。
﹁はいはい、そこまで。まだリュックに余裕があるから詰め込めば
カゴは一つにできるでしょ。それを真ん中を歩く私が持てば解決で
しょ。ね?﹂
その提案に椿が渋々と頷き、姫も肩をすくめて見せた。
﹁すみません。でも、みんなも必要なものだから⋮⋮﹂
﹁わかってる。はい、姫ちゃんも手伝って﹂
まどかと姫がリュックに商品を詰め込むのを横目に見ながら、椿
は懐中電灯で辺りを照らして警戒していた。それほど大きな店では
ないので、外から店内を覗いた時に中に誰も居ないことは確認出来
ていたが、店内をくまなく確認したわけではない。
現に店の奥の暗がりには中央にバックヤードへ続くドアと、そこ
148
から少し離れた右側に事務所のものらしきドアの二枚が見えるがそ
れらの中は確認していない。
椿はその二つのドアに交互に光を向けながら全神経を店内の奥へ
集中していた。
そして懐中電灯をバッグヤードのドアから事務所のドアへ移した
時に、LEDの白色光の反射の仕方に微妙な違いが生まれたことを
椿の視界は見逃さなかった。
慌てて光をバッグヤードのドアへ戻した時に、既にドアは開け放
たれて一つの人影が一直線に突進してくるところだった。
距離にして約七メートル。
﹁誰か居る!﹂
椿が正面を向いたまま、まどかと姫に向かって叫んだ。
懐中電灯に一瞬照らされた何者かは、白衣を着た男性だった。恐
らくこの店の薬剤師だ。しかし白衣は血痕で汚れ、男性の口の周り
も赤く血で染まっている。
﹁︱︱ゾンビが走っている⋮⋮!?﹂
椿の顔が激しい動揺に染まった。
﹁でもゾンビでしょ!﹂
姫が叫ぶ。同時に刺又を構えて立ち尽くしたままの椿の隣へ並び
立つと、椿も我に返って刺又を構えた。
二つの刺又の先端に貼られたドーマンセーマンが、ゾンビに向か
って突き出されると、二人の直前にまで迫っていた白衣のゾンビの
149
動きがピタリと止まった。
まるで目標を見失ったみたいにキョロキョロと周囲を見回してい
る。
しかし振り回していた両手が姫の持っていた刺又に触れると、そ
の拍子にがっしりと掴んで刺又を奪い取って放り投げた。
﹁しまった!﹂
その姫の声に反応したのか、白衣ゾンビが姫に向かって襲い掛か
る。
それを見て椿がすぐさま刺又をゾンビの顔の前へ突き出した。
しかし白衣ゾンビの動きは一瞬だけ躊躇したように止まっただけ
で、すぐさま低い唸り声とともに両腕を闇雲に振り回した。そして
刺又に触れてまた同じように奪い取ろうとしたが、今度は椿がぐっ
と腰を下ろして踏ん張った。
﹁こ、こいつ違う! 今までのゾンビとまったく違う! 刺又を認
識しているし、ドーマンセーマンの効果も弱い! 今のうちにここ
から逃げて!﹂
と、椿がまどかと姫に向かって叫んだ。懸命に刺又を奪われない
ようにしていたが、その小さい身体は右に左にへと振り回されてい
あんた置いていけるわけないでしょ!﹂
る。もはや堤防の決壊は時間の問題だ。
﹁バカ!
姫が椿と一緒に刺又を握る。それを見てまどかも慌てて加わった。
﹁わ、私も手伝う!﹂
150
三人となったことで漸く力が拮抗した。しかし事態はなにも好転
していないことも事実だった。
﹁︱︱でもこれからどうするの!? こんな力比べをしてても私た
ちの体力が無くなる方が早いに決まってる!﹂
その姫の泣き言に答えたのはまどかだった。
﹁私に考えがある! 合図するから一斉に刺又を放して! いい?
行くわよ。せぇーのー、で!﹂
三人が同時にぱっと刺又を放したせいで、白衣ゾンビがバランス
を崩した。
そして、
﹁うああああああああああっ!﹂
と、まどかがやけくそ気味に叫びながら白衣ゾンビへと向かって
いく。そのまどかの無謀とも思える行動に、椿と姫の顔面から一気
に血の気が引いていく。
まどかはラグビーのタックルの要領で頭からゾンビへと突っ込み、
ジェットヘルメットの頭頂部をゾンビの腹部へ叩き込むと、ゾンビ
ともつれ合うようにして床へと倒れこんだ。
﹁い、今のうちに逃げて!﹂
まどかが起き上がりながら叫んだ。しかしゾンビががっしりと右
腕を掴んで放さない。掴まれたのが白のポンチョだけなら脱げば何
とかなったが、ポンチョの上からがっしりと手首を掴まれていてび
151
くともしない。
白衣ゾンビが自分の右手を目掛けて噛み付こうとしたのを見て、
まどかは咄嗟にヘルメットで頭突きを放った。
白衣ゾンビの鼻が折れ曲がり、どす黒く腐ったような鼻血を噴出
したがいっこうにひるむ気配を見せない。
まどかは無我夢中になってゾンビと自分の右手の間に頭を突っ込
んだ。ヘルメット越しにガリガリとゾンビが噛み付く音が聞こえて
くる。
﹁い、いや⋮⋮!﹂
まどかが死を覚悟した瞬間、ヘルメットの透明カバー越しに見え
ていたゾンビの顔に白い筋が走った。
それは奇妙な文字が書かれている長方形の半紙だった。それがゾ
ンビの額から口の辺りまでを覆っている。
そして一瞬遅れて、今度はソンビの頭頂部へ何かが激しく突き刺
さったかと思うと、返り血がまどかのジェットヘルメットのプラス
チックカバーを真っ赤に染め上げた。
﹁ひゃあっ!﹂
まどかは思わず身震いしながら叫んだ。
﹁先輩大丈夫!?﹂
と、姫の手を借りて起き上がると、まどかは床の上でぐったりと
しているゾンビを怖々と見下ろした。
152
﹁し、死んだの⋮⋮?﹂
﹁頭部を破壊するのはお約束ですから⋮⋮﹂
デス・オーケストラコンダクター
と、椿がゾンビの頭から葬送鉄杭殺戮指揮者のミス・キャロライ
ンを引っこ抜いて冷静な口調で答える。
﹁でも椿、そのキャサリンとか言う武器は周りをよく見て振り回し
なさいよ。今は私の霊符の方が早かったんだから無理にそれを使う
必要はなかったでしょ!? それにもし私の手に当たってケガでも
していたらどうすんのよ。しかも私まで返り血浴びちゃったじゃな
い!﹂
よく見ると姫もヘルメットやポンチョが血で汚れている。まどか
はヘルメットを脱いでまじまじとカバーに付いている血を見つめた。
これでもしヘルメットを被っていなかったらと思うと、背筋に冷
たいものが流れた。
﹁⋮⋮今のはキャロラインがバッグに引っかかってタイミングが遅
れたから。少し反省はしている。でもあなたのお札も三十秒しか効
果がないから、結局キャロラインは必要だった﹂
﹁ていうか、いい加減に私のこと名前で呼びなさいって言ってるで
しょ。いつまでも他人行儀なんだから。それに私だって練習の成果
で霊符の効果の時間は長くなってるわ。椿だって知ってるくせに﹂
﹁でもこのゾンビは他のとは違った。走るし刺又も認識していたし、
ドーマンセーマンも効果が薄かった。だからやっぱりキャロライン
は必要だった﹂
153
﹁はいはいキャサリン最強最強。これで文句ないんでしょ? 私だ
って霊符の効果をじっくり観察したかったのに!﹂
二人の口喧嘩なのか自慢合戦なのかわからない会話も区切りがつ
いたみたいなので、まどかは苦笑しながら疑問をぶつけてみた。
﹁も、もしかして、二人がコソコソしてた理由ってこれのこと⋮⋮
?﹂
﹁そうでーす。二人でゾンビ対策における効果的かつ有効な手段を
模索、実践してましたぁ﹂
と、姫がまるで年中バーゲンセールをしているお店を探していた
みたいに楽しそうな口調で答えたのとは正反対に、椿は姉にいたず
らが見つかった妹みたいにもじもじとしていた。
﹁⋮⋮せ、先輩には、その、なんて説明していいのかわからなくて
⋮⋮﹂
﹁別に怒る気はないよ。今だって二人が居なかったら危なかったん
だし⋮⋮。ただ、どうせ二人で危険なことしてたんだろうなぁと思
うとゾッとしただけ﹂
と、まどかが深いため息をついて天井を仰ぐと、姫がへへへっと
頭をかき、椿が俯いて恐縮している。
すると、突然出入り口のシャッターに何かがぶつかった音がした
ので三人が一斉に振り返ると、そこには男性警官とスーツ姿の女性
が立っているのが見えた。顔や着衣の汚れでゾンビとすぐわかる。
154
三人がいま立っている場所は、間に棚も何も無く出口から丸見え
なので、不良グループや暴漢だったら姿が見られた時点で面倒くさ
いことになっていたかもしれない。
まどかと椿は安堵と警戒心を滲ませた顔で身を固くしていたが、
姫だけが予想以上に驚きの表情を浮かべていた。
﹁そ、そんな⋮⋮シャッターにはドーマンセーマンが貼ってあった
のに⋮⋮どうしてなの?﹂
姫が震える声で呟いた。
そしてどうやら二体のゾンビは三人のことが認識出来ていないよ
うで、どこへ向かえばいいのかわからないと言った感じに、出口付
近でゆらゆらと立ち尽くしていた。
﹁たぶん私たちのことが見えてないから、今のうちに音を立てずに
裏口へ﹂
椿のその提案にまどかと姫が頷いた。椿が先頭になり腰を屈めて
バックヤードへ向かう。すると、一番最後尾で後ろ歩きになってゾ
ンビを警戒しながら二人の後についていた姫が叫んだ。
﹁ちょちょちょ、走った! また走ってるううううううううっ!﹂
その声にまどかが振り返ると、二体のゾンビがこちらに向かって
もうなんなのこいつらぁ!?﹂
全力疾走している姿が映った。
﹁ふぁっ!?
﹁早くこっちに!﹂
155
既にバッグヤードにたどり着いていた椿が呼んだ。その声に弾か
れたように駆け出すまどかと姫。
そして二人が転がるようにしてドアを潜ると、椿は素早く二枚の
ドアを閉めてコの字型のドアノブに刺又を突き刺した。
直後、鈍い音とともに二枚のドアが押されて開きかけたが、かん
ぬき代わりの刺又のおかげで何とか持ち堪えることができた。
ゾンビたちは獣のように唸りながら、ドアとドアの隙間から両手
を突き入れてまどか達に掴みかかろうとしている。それほど太くも
ない刺又では横からの圧力に長くは持ち堪えられそうにない。
﹁と、とにかく今のうちに外へ行こう⋮⋮﹂
まどか達は血の気を失った青ざめた顔で、足早にドラッグストア
を後にした。
156
第四章 墓場の乙女・2
2
乙葉はこれで何度目になるかわからない戸締りの確認を終えると、
廊下のモップ掛けを再開した。
一階の窓ガラスは全てバリケードで塞いであるので、人が出入り
出来るのは正面玄関と建物横にある調理場の勝手口、そして二階に
設置した非常用のはしごのみとなる。
塀には防犯ブザーを利用した侵入者感知用の罠が設置してあり、
外の井戸やドラム缶風呂がある小さな広場にもバリケードが設置し
てあるが、今朝皆が出かける前に一人になったら絶対勝手口ドアを
開けてはダメと、椿からきつく言われているのできちんと実行して
いた。
そして寂しさと不安を紛らわすために鼻歌を口ずさみながらモッ
プ掛けをしていると、ふと玄関ホールの姿見に映った自分の姿に気
付く。
白い割烹着に百四十センチ前半の背丈。やや丸みを帯びた輪郭は
母親を連想させる。母親はいつもこんな格好をして、店舗と居間と
台所を飛び交っていた。
あの忙しそうな、それでいて充実して幸せに満ちていた背中を思
い出すと、乙葉の心にぽつんと穴が開いてすべてがそこへ滑り落ち
ていってしまいそうな錯覚に囚われる。
乙葉はため息をついてその場に膝を抱えてしゃがみ込むと、つま
157
らなさそうに玄関のドアを見つめた。
皆が出かけてからもう三時間が過ぎている。戻ってくるとするな
らばまだ最低でも三十分はかかるだろう。
﹁乙葉さーん、今はのんきに落ち込んでる場合じゃないでしょー。
はい、あと一踏ん張り一踏ん張りぃ!﹂
乙葉は立ち上がると、自らを鼓舞するように胸の前で両手を握り
締めた。
この寮生活を維持するために危険と苦労を冒している先輩たちを、
せめて綺麗な場所で迎えて労を労いたい。
気を取り直してモップ掛けを再開すると、すぐに中庭の方から音
が聞こえてきた。
﹁え⋮⋮?﹂
考えなくとも、音の正体はすぐわかる。特徴的な甲高い電子音︱︱
防犯ブザーだ。
しかも鳴っているのは一つだけではない。玄関を中心にして左右
の方角から幾つもの電子音がけたたましく立ち上がっている。一つ
だけならば何かの弾みも考えられたが、これだけ同時に多数では偶
然とは考えられない。
侵入者︱︱それも複数だ。
﹁うそ、こんな時にどうして⋮⋮!﹂
乙葉の幼い顔から一気に血の気が引いていく。
その間にも塀に沿って蒔いてある防犯砂利の上を何者かが建屋に
向かってくる足音があちこちから聞こえてくる。
乙葉はモップを投げ捨ると慌てて階段へと向かった。
158
しかし甲高い電子音はいつの間にか裏庭でも鳴っていることに気
付いて足を止めた。
﹁ど、どうしよう⋮⋮﹂
一気に三百六十度全方位で鳴り出した防犯ベルから察して、侵入
者はかなり多いのではないのか。
いま二階の非常階段から外へ逃げても見つかる可能性が高い。
乙葉は踵を返すと、玄関隣の個室へと駆け込んだ。床の隅にはバ
リケード設置の時に余ったベッドのパーツが並べられていて、その
横にある机の下へ滑り込むと、机の幅よりやや小さいカーペットを
捲った。カーペットの裏側と四角形に切り取られた床の一部は接着
されていて、人が一人通れるほどの抜け穴が姿を現した。
ある時、椿が思い立ったように作ったパニックルームだ。パニッ
クルームと言っても、建屋の床下へと繋がっているだけだが今のよ
うな状況では作ってあってまさに正解だったと言える。
乙葉は床下へ入り込むと、片手でカーペットを掴んでその裏側の
蓋が床にはまるように引きずった。蓋がはまると自然にカーペット
が隠れ蓑になるという寸法だ。
高さが六十センチあるかないかの床下は薄暗く、乙葉は寝そべっ
たままあらかじめ床下に用意してあった非常用リュックの中身をあ
さって懐中電灯を取り出した。
するとそれとほぼ同時に玄関の方からドアが破られるような音が
鳴り響き、たくさんの足音と男たちの声が流れ込んできた。
159
ドラッグストアから三百メートルも離れていない地区図書館にま
どか達の姿はあった。
とにかくあの走るゾンビから逃れようと、国道沿いに広がる住宅
地の中を闇雲に逃げていて偶然ここへ辿りつき、玄関の窓ガラスは
打ち破られていたが中には人もゾンビも居なかったことから、一旦
ここで様子を伺うことになったのだ。
玄関には机やイスを積み上げてバリケードを作ったので、当面の
間は何者かに侵入されることもないだろう。
﹁⋮⋮もう寮を出てから三時間以上経っているのね。帰りが遅れる
から乙葉ちゃん心配するだろうな⋮⋮﹂
まどかは薄闇の中に浮かび上がる壁の時計を見つめて、ぽつりと
呟いた。椿と姫は各々が好きな場所に座っていて、心ここにあらず
といった感じにずっと押し黙ったまま考え事をしている。
﹁と、とにかく︱︱﹂
とにかく、なんだ? 刺又を二本とも失い、ゾンビの生態にも変
化が見られる中で、なんとか無事に、それも乙葉を心配させぬよう
一刻も早く帰れる方法を、自分は年長者として、先輩として、寮長
として不安に塞ぎこんでいる二人の後輩に示さなければならないの
ではないのか⋮⋮
しかしそんな知識も知恵も持ち合わせているわけでもなく、苦し
み紛れに口を出たのは、
﹁乙葉ちゃんが持たせてくれたお結びとお茶をいただきましょ﹂
160
という我ながら間抜けと思う提案だった。自分の不甲斐なさに泣
きたくなるのを堪えながら、まどかはやけくそ気味に笑顔を作った。
﹁ほ、ほら、二人ともこっちにおいでよ。まずは腹ごしらえしなく
ちゃ。お腹が空いてちゃいい考えも浮かばないわよ﹂
椿と姫はしばらく上の空だったが、まどかが紙コップにお茶を注
ぎ始めると引き寄せられるようにどちらからともなくテーブルにつ
いた。
まどかはアルミホイルをほどいて六つのおにぎりを二人の間に広
げると、そのうちの一個を掴んで食べ始めた。
﹁おいしいよ。ほら二人も早く﹂
まどかの再三の呼びかけに、二人もそろりそろりと手を伸ばして
おにぎりを口に頬張る。そのほっとしたような、どこか緊張がとれ
たような二人の顔を見てまどかは少し安心した。
﹁どう少しは落ち着いた? じゃあみんなでアイデアを出し合って
無事さくら寮に帰れる方法を考えましょ。これ以上乙葉ちゃんを心
配させるわけにはいかないんだから﹂
﹁⋮⋮じゃあ、まずゾンビの生態で気付いた点をいくつか﹂
そう切り出したのは椿だった。
﹁さっき遭遇した三体のうち、白衣のゾンビは明らかに懐中電灯の
光に向かって突進してきたと思って間違いないです。そして後から
来た二体。これは騒ぎを聞きつけてやって来たので、従来通り音に
反応して。でも店内の暗がりで私たちの姿を認識出来ていないよう
161
だったので、霧の中と外で人間を認識する方法に違いはあるのかも
⋮⋮﹂
﹁でも、あの後で突然走って向かって来たわよ?﹂
と、姫が疑問を口にする。
﹁うん。あの二体がやって来た時に、私たちは動いてもいなかった
し、懐中電灯も向けていなかった。でも動き出した途端に向かって
来たということは、ゾンビは一応ものは見えているけれど、視力が
極力弱いから光を向けたり動かなければ人間を認識出来ないってこ
とだと思う﹂
﹁じゃあ、霧のなかでは今まで通り音に気をつけて行動すれば大丈
夫ってこと? でもホームセンターで最後に乱入してきたゾンビは
皆動きが遅かったことない? 明らかにさっき見たゾンビはもっと
普通の人間みたいな動きだった。全力疾走もしていたし⋮⋮﹂
と、今度はまどかが疑問を口にすると、椿は深く息を吐いた。
﹁そこがわからないんです。たまたまさくら寮の周辺には動きの鈍
いゾンビしか居なかったのか、もしくはそれとも単に私たちだけが
ゾンビが早く動けるところを目撃していなかっただけで、元々ゾン
ビは早く動けたのではないのか。じゃあその条件はなにかあるのか
どうか⋮⋮なにもはっきりしないのに、今さくら寮に帰るのは自殺
行為すぎます。留守番の彼女には申し訳ないですけれど⋮⋮﹂
この世界になってから水を得た魚のように、異常とも思えるほど
の頼り甲斐を発揮していた後輩の弱気な発言に、まどかは思いのほ
かショックを受けていた。自分の空元気は単に事態の深刻さを理解
162
していないから出た浅はかな行動だったと思えてくる。
すると、同じように黙り込んでいた姫がはっと思いついたように
身を乗り出した。
﹁わかった! キョンシーよ!﹂
﹁キョンシー!?﹂
その聞きなれない単語にまどかが思わず聞き返す。
﹁そう、キョンシーって言うのは中国の伝説で、簡単に言うと怨霊
で甦った死者のことを指す古くからの言い伝えです。そのキョンシ
ーの言い伝えのなかに、キョンシーは長く放置しておくとやがて生
きた人間同様に髪や爪が伸びたり、中には霊力を宿すものまでいる
と言われているの!﹂
それを聞いて椿もはっと何か気付いたような顔をして身を乗り出
した。
﹁つまりゾンビは成長している⋮⋮!?﹂
﹁そう! ゾンビ発生の経過分布を考えれば当然人口密集地帯から
郊外へと広まっていったはずで、第一さくら寮の周辺で動きの鈍い
ゾンビしか居なかったのは、単にゾンビ成り立てで成長していなか
っただけと考えられないかしら!﹂
﹁そうか。だから街の中心に近づけば近づくほどゾンビが成長して
いるんだ! じゃあまだ今のうちならば郊外のさくら寮へ戻るのは
それほどリスクは高くない?﹂
163
﹁勿論ゾンビも移動するから一概に大丈夫とは言えないわ。でもド
ラッグストアへ向かっていた時の状況と、この街でのゾンビ発生か
らの経過時間を考えればまだ成長したゾンビは全域にまで広がって
いないと思っていいはず!﹂
﹁⋮⋮ずっと疑問だったんだ。さくら寮の女の子だけでも生き残れ
たのに、警察や軍隊があの動きの鈍いゾンビを制圧できなかったの
かって。時間の経過とともにゾンビが成長すると仮定するならば納
得できる。銃も催涙ガスも効かず死なない暴徒なんて誰も予想して
いなかったはずだから﹂
﹁そして成長の進んだゾンビにはドーマンセーマンが効かない。う
うん、効き目が薄い。でも原因さえわかれば対策できる。いえ、し
てみせるわ!﹂
椿と姫は興奮した口調で熱い視線を交し合うと、両手でがっしり
と互いの手を取り合った。
その会話にもノリにもついていけないまどかは、ただぽかーんと
二人を見上げているだけだ。
﹁な、なんかよくわからないけれど、とにかく寮には帰れるってこ
とかな⋮⋮?﹂
まどかがそう呟くと、二人が同時に振り向いて顔を寄せてきたの
で、まどかは驚きのあまりにイスから転げ落ちそうになったが、そ
んなことお構いなしに二人は機関銃のように喋り始めた。
ゾンビの原因はこの霧のなかに含まれている何かしらの成分であ
ること、その成分は生きている人間にも影響を与えていること、そ
164
してそれは椿の身体には主に身体能力の向上として現れていて、姫
にはドーマンセーマンに代表される霊力の向上として現れているこ
と。
そしてさらに椿は続けた。
﹁︱︱先輩はなにか身体の変化や、妙に勘が冴えるといった変化を
感じていませんか? どんなささいなことでもいいんです。小さな
サインを見落としていませんか? 私たち四人のなかでは先輩と栗
本さんだけが兆候が出ていない。でもこれは私の仮説ですが、栗本
さんに兆候が出ていないのは、月経が始まっていないことと密接な
ギフト
関係があるように思うんです。だってこの能力はか弱い女の子が弱
肉強食の世界を行き抜くために、神が与えてくれた能力であると同
時に、種の絶滅を回避するためにDNAに組み込まれた生存本能が
いものちから
引き起こした人類進化の兆しという奇跡だと思うから! これは現
代に甦った妹の力だと思うんです!﹂
その演説を姫は腕を組んでうんうんと頷きながら聞き入っていた
が、まどかには話が飛躍し過ぎていて納得どころか理解することも
出来なかった。椿の身体能力の高さも、姫のドーマンセーマンが実
際に効果があるのを目の当たりにしていてもだ。
﹁ご、ごめん。そういう話はよくわからない私⋮⋮﹂
と、まどかは苦笑で答えるだけで精一杯だった。
椿は少し落胆した表情を見せたものの、すぐに気を取り直して、
﹁とにかくあと一時間ください。一時間したら寮へ向かいましょう﹂
とだけ言うと、姫に向き直った。
165
ギフト
﹁︱︱私はもう自分の能力の全貌が見えかけている。それは一度得
ギフト
た知識を忘れない記憶力と、その知識を淀みなく発揮できる身体能
力。恐らくこれが私に与えられた能力。私は今から格闘技関係の本
を読んで達人になってくる。グズグスしているなら私だけ先のレベ
ルに行かせてもらう、お姫さま﹂
そう言われて姫の顔がカーッと真っ赤になったが、姫は何も言い
返さずただ下唇を噛んで椿を睨み返すだけだった。椿はそんなこと
お構いなしに懐中電灯を片手に本棚の迷路へと消えて行った。
姫は悔しさに顔を歪ませてまどかを振り返ると、
﹁先輩、私寝ます!﹂
﹁はあ!?﹂
﹁おばあちゃんに夢枕に立ってもらって、もう一度ヒントをもらう
んです。ドーマンセーマンだけでも効果が強まれば、みんな安全に
過ごせますから。絶対椿には負けないですから!﹂
と、姫はテーブルの上にゴロンと横になってしかめっ面のまま目
を瞑った。そしてぶつぶつと﹁私は負けない私は負けない﹂と呪文
のように呟いている。
その嵐のようなテンションの二人が静まると、まどかに訪れたも
のはずっしりとした疲労感ともどかしさだった。
しかしどう足掻いてもここで一時間の足止めを食うことはひっく
り返らないし、このゾンビが徘徊している霧の中を自分一人で帰る
こともできない。今はとにかく皆の帰りが遅いことを心配した乙葉
が無茶な行動にでないことを祈るだけだ。
166
もどかしい静寂を持て余して、まどかはジャージのポケットから
スマートフォンとジッポライターを取り出して机の上に並べると、
複雑な顔つきでそれを眺めた。
スマートフォンは乾電池式充電器のおかげで、停電してからもず
っとバッテリーは充電されていた。もう使い道もないのに、自分で
も女々しいと思っていた。
しかしこのスマートフォンは自分が背負っていかなければならな
い罪だ。こんな人間らしさを失ってしまう世界になる前の世界で、
最後の最後に人間らしさを失った証。それがこのスマートフォンだ。
あの日︱︱街が霧に包まれた日に、まどかは母親を捨てた。
母が嫌いだった。いや、嫌いになっていった。
父親が死んでから、女手一つで自分を育ててくれた母。毎日明け
方に勤め先のキャバレーから酔っ払って帰ってきても、かならず学
校へ行くのを見送ってくれて、すれ違いの時間を交換日記で埋めて
愛情を注いでくれた母。
しかし資産家の男性と再婚して母は変わってしまった。新しい夫
の顔色ばかりを伺い、何をするにしても娘よりも夫の事情と感情を
優先にし、まどかは抑圧したものを抱え込むようになっていった。
母親は母であると同時に女であるという事実を知り、それがどう
しても許せなかった。女は弱い。もうそこに自分を一人で育ててく
れた強い母の姿はなかった。
媚びた笑顔、本心を語らない唇、夫にすがるような目、その全て
が汚らわしく思えた。
新しい家庭でまどかの居場所はなくなっていったが、どうやった
らこのトンネルを抜け出せるのかがわからなかった。
167
そんなある日に養父が御膳立てした桜道女子学園への転入。級友
たちと別れたくはなかったが、その転入に母が何も反対しなかった
ことであの家に留まる理由は失われてしまった。
体のいい厄介払い。いつまでも懐かず不貞腐れた顔をしている娘
は、あの二人には目障りな重荷以外の何者でもなかったのだろう。
それ以来、まどかは一度も里帰りはしていない。
時折母が訪ねてきて、二人で買い物や食事をする事はあったが会
話は弾まなかった。むしろ、母子二人で暮らしていた頃よりも格段
に豪華で高級になったアクセサリーや衣服を身に纏い、確実に若返
って見える母に咽るような女臭さを感じてまともに顔を見ることが
できなかった。
だから、まどかは霧の被害が日本にも及び学園が無期限の休校を
決定したあとに、母親から掛かってきた電話にも一度もでなかった。
結局、電話が繋がらなくなるまでの間に、母から何度も着信があ
り、留守電にメッセージも残されていたがいまだにメッセージも聞
いていない。
母に捨てられたから、今度は自分から捨ててやっただけ。
だから、まどかは母親の声が聞きたくても、メッセージを聞けな
いでいた。聞いた瞬間に自己嫌悪で気が狂ってしまうと思うから。
まどかの指がスマートフォンのタッチパネルの上を行ったり来た
りしていると、椿が本棚の列から戻ってきた。
﹁もういいの? まだ三十分しか経ってないよ﹂
168
﹁はい。必要最低限の知識は仕入れましたから。あとは帰って読み
ます﹂
椿はそう言うと、持っていた三、四冊の格闘技関係の書籍をショ
ルダーバッグに詰め込む。
﹁な、なにぃー!?﹂
と、机の上で横になっていた姫が突然起き上がって、椿を驚きの
眼差しで見た。しかし椿はそんなことお構いなしに、バッグから取
り出した折りたたみのこぎりで机の脚を切ろうとしている。
﹁椿、なにする気よ?﹂
﹁松明を作る。刺又の代わりにゾンビや暴漢を威嚇できるかもしれ
ないし。だからあと二十分くらい寝ててもいい﹂
﹁ふん、お情けは無用よ。だいいちこんな所じゃ熟睡もできないわ﹂
姫はイスに移って、はあっと大きくため息をつく。ふと机の上の
おにぎりの残りに気付いて、
﹁もうこうなったらヤケ食いよヤケ食い。せめて体力だけでも負け
る訳にはいかないから。乙葉ちゃんの愛情たっぷりのお結びをいた
だき︱︱﹂
と、姫はお結びを両手で口に運ぼうとして、その姿勢のまま固ま
った。
﹁お結び⋮⋮両手で包む形⋮⋮結び⋮⋮結ぶ⋮⋮﹂
169
姫はおにぎりをアルミホイルの上に戻すと、ショルダーバッグか
ら書道道具一式と半紙を取り出して一心不乱にドーマンセーマンを
書き上げた。そして筆を置いて立ち上がると、
﹁臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!﹂
と、九字を唱えながら、それに合わせて両手の指を複雑に絡ませ
て九つの印を結んでいく。
姫が行った九字護身法は、中国の道教から生まれた呪力を持つと
される九つの漢字が日本に伝来し、密教や陰陽道に取り入れられて
発展していった呪法だ。
勿論まどかにそのような知識はなかったので、姫が突然意味不明
のお経のようなものを唱え始めたという認識しかなかった。
姫はテーブルの上に仁王立ちになると勝ち誇った顔で、松明作り
に精を出していた椿に半紙を突き出した。
﹁私ってばすごい間抜けだったわ! 神仏の加護を受けようとして
いるのに、大事な作法を忘れていたなんて。そりゃこんな礼儀知ら
ずの小娘に仏様は手を差し伸べてなんてくれやしない。でももう大
丈夫。お祖母ちゃんがずっと幼い頃から梵字と九字護身法を教えて
くれた意味も、夢枕で伝えようとしていたこともわかった。椿、あ
んたばっかにいい格好なんてさせないわよ!﹂
﹁⋮⋮グッジョブビッチ﹂
と椿はそれだけ呟くと、まどかの方を向いて﹁先輩、ライター貸
してください﹂と頼んだ。
姫がギャーギャーと椿に噛み付いているのを苦笑を浮かべながら
170
見つつ、まどかは椿にジッポを投げて渡した。
しかしすぐに、
﹁先輩、これオイル切れてます。点きませんでした﹂
と、ジッポを戻しにきた。
﹁あれ、そうだっけ?﹂
まどかは試しにカチンとジッポを点けてみると、普通にオレンジ
色の火が立ち上がる。
﹁やだ椿ちゃん、ちゃんと点くじゃない﹂
ギフト
﹁⋮⋮せ、先輩の妹の力はもしかして⋮⋮!﹂
椿の黒目勝ちな瞳が失くし物を見つけたようにまどかの顔を覗き
込んでいた。
171
第四章 墓場の乙女・3
3
床下に潜伏していた乙葉は、赤土の上を這って換気口まで移動し
て外の様子を伺っていた。
玄関は右手にあり換気口からは二メートルくらいしか離れていな
いので、時折少年たちが出入りをしているのが確認できた。少年た
ちの中にはホームセンターにいた双子に似た横顔も見えたので、恐
らくあの時と同じ不良グループなのだろう。
少年たちはいくつかのグループに分かれて行動しているらしく、
食堂で非常食を漁って味や食感の感想を笑いながら言い合う者もい
れば、廊下を走り回って各部屋を巡り下着や制服を見つけたと騒い
でいる者や、ドラム缶風呂に入っているらしい者まで居た。
全員で何人居るのか検討もつかない程の足音や笑い声が床板を通
して聞こえてきて、乙葉はみんなの大事な場所が、思い出が、土足
で蹂躙されていくことに溢れる悔し涙を我慢出来なかった。
しかし、いま泣いていても意味はない。
もしこのまままどか達が帰ってくれば、この不良少年たちの餌食
にされてしまうことは明白だった。
それを思うと違う意味での恐怖がこみ上げてきて、乙葉の小さな
身体は震えた。
しかし同時に腹の辺りから熱い使命感というか責任感のようなも
のがこみ上げてくる。
172
ドラッグストアまでの道のりは国道をまっすぐ行くだけだ。ここ
から脱け出して国道に沿って歩いていればまどかたちと鉢合わせす
る確率は高い。そしてあとはそのまま皆一緒に逃げればいい。
乙葉は換気口の鉄格子の隙間から外の様子を伺った。陽が沈んで
辺りはすっかり暗くなっている。正確な時間はわからないが、恐ら
く五時は確実に回り六時前後というところだろう。
まどかたちの帰りが遅れているのは不幸中の幸いで、今ならば全
てが間に合う。失うのは住み慣れた第一さくら寮だけで済む。
そんな思いが乙葉をじりじりと焦らせ、行動へと駆り立てた。そ
れに鉄格子の横の壁に貼ってある、恐らく椿が書いたと思われる﹁
止め具は全て外してあります﹂というメモにも背中を押された。
しかし思い立ってそっと鉄格子に指をかけて押して見るが、びく
ともしない。メモ書きの通りに金具は全て外されているので、錆か
建物自体の歪みのせいかもしれない。
乙葉は小さい身体を生かして狭い空間で器用に姿勢を変えると、
右足で鉄格子を押し出すように蹴ってみた。しかしやはり動かない。
そして今度は半ばやけくそ気味に連続で蹴ってみる。どうせ内履き
のスリッパしか履いていないので音はしない。足の裏が痛いだけだ。
何度か蹴っているうちに鉄格子の枠が外側へと動いていき、最後
はリュクサックをクッション代わりにして思い切り肩で押し出して
やった。
そっと鉄格子を地面に置いて、するりと中庭へと這い出す。周囲
に人の気配はない。建物の中から下品な騒ぎ声と笑い声が聞こえて
くるだけだ。
173
乙葉はリュックを掴むと中腰になって門を目指した。建物から三
メートルも離れれば姿は霧に紛れて見えなくなる。
足音を殺し、霧を掻き分けて門を目指した。
すぐに霧の中からバリケード代わりのスクールバスが現れて、バ
スを迂回して門へ辿りついた。そして鉄扉の閂を音を立てずに慎重
に外していく。背後の霧の向こうから聞こえる男たちの下品な声に
変化はない。
乙葉は鉄扉をそっと開けた。
しかし同時に防犯ブザーがけたたましく鳴り始めた。
その瞬間乙葉の小さな身体は弾かれたように坂道へ飛び出してい
た。
恐らく自分たちが侵入者対策として罠を設置していたように、不
良グループはまどかたちが戻ってきたらすぐわかるように扉に細工
をしておいたのだ。
背後から男たちの怒声と足音が聞こえてくる。
乙葉は前だけを見て無我夢中に霧の坂道を駆け下りた。
国道にまで出れば何とかなる。
右へ逃げたのか、左へ逃げたのか、それとも国道を横断したのか、
霧に紛れて姿を隠せば少年たちは絶対に見失うはず。
だから乙葉は力の限りに走った。
しかし左足のスリッパが脱げたかと思うと、一気にバランスを崩
した。
﹁きゃっ!﹂
小さい身体がアスファルトに叩きつけられて一度バウンドをして
174
から坂道を転げていく。
肘や膝や全身のあちこちがまるで火の中に飛び込んだみたいに熱
く、痛い。
それでも乙葉がふらふらと立ち上がって前へ進もうとした時に、
三人の少年に追いつかれた。
﹁ポケモンゲットだぜっ!﹂
﹁あうっ!﹂
一人の少年が繰り出した飛び蹴りと同時に乙葉の小さな体が吹き
飛ばされて地面を転がっていく。
そして乙葉が身体を捻じ曲げて苦しんでいると、もう一人の少年
が無造作に乙葉のジャージの襟を掴んで坂道を上に戻り始めた。
乙葉は少しでも抵抗しようと暴れるが、他の二人が怒声とともに
容赦なく脇腹や足を蹴りあげてくるので従うしかなかった。
抵抗する術もなく乙葉の小さな身体はアスファルトの上を引きず
られていく。
その様はまさに狼に捕らえられた野うさぎそのものだった。
︱︱先輩、ごめんない⋮⋮
汗と涙で霞む視界で、乙葉は霧の中に遠ざかっていく国道をぼん
やりと見ていた。
食堂には二十人近い少年たちが居て、その輪の中央の床に乙葉は
転がされた。
175
他の奴らはどこ行った?﹂
﹁まぁたおチビちゃんかぁ。よくよく縁があるつーかどん臭いつー
か。で、お前一人なの?
目の前に現れた少年に乙葉は見覚えがあった。スクールバスを襲
い、ずっと自分と姫の二人を執拗に追い掛け回していた不良グルー
プの双子の片方だ。しかし今は右頬から首筋、右肘と酷い火傷を覆
っていて、赤く爛れた皮膚が痛々しかった。
﹁し、知りません。ここには元々私一人しか⋮⋮!﹂
乙葉が唇を噛んでそっぽを向くと、すかさず平手打ちが飛んでき
て口の中に激痛が走った。どうやら舌を噛んでしまったらしい。み
るみるうちに鉄の味が口の中いっぱいに広がって、唇の端から赤い
筋が垂れて床に落ちた。
﹁ま、おチビちゃんが一人でここに隠れてたってことは、他の連中
はどっかへ出かけてて、おめえがいくらダンマリ決め込んでても、
ここに居りゃあそのうち自動的に全員と対面できるってわけだ。そ
うだろ?﹂
その火傷を負った少年︱︱アキラは、乙葉の髪を掴んで食堂の隅
へと引きずっていく。
﹁痛いっ、いや!﹂
乙葉が連れて行かれたのは車イスの前だった。鼻を突き刺す腐敗
臭と獣のような呻き声に、そろりそろりと顔を上げると、そこには
車イスに座り両腕を鎖に繋がれた青白い顔の少年が居た。真っ赤に
充血した両目からは血の涙が流れていて、口には太い皮ベルトが巻
176
かれていたが、今にも噛み千切られそうなほどに歪んでいる。
そのゾンビは明らかに乙葉を凝視していて、車椅子の上で狂った
ように暴れ出した。両腕に巻きついている鎖がガチャガチャと耳障
りな音を上げている。
﹁覚えているか、俺の弟を⋮⋮﹂
アキラはシュウの横に並び立つと、愛犬のペットでも撫でるよう
にゾンビの頭を撫でた。
﹁ほら、おめえを見て興奮してやがる。覚えてるんだよ、ちゃんと
おめえらのことを覚えてやがるんだ。シュウは死にながらも生きて
いる。おめえらクソ女に復讐したくて疼いてるんだ⋮⋮﹂
﹁い、いや⋮⋮﹂
乙葉は座ったままの姿勢で後ずさった。身体に力が入らない。そ
れが恐怖の為なのか、転んだ時の打ち身のせいなのかすらわからな
い。
そして背中に何かが当たったかと思うと、ふと身体が何者かによ
って抱き上げられた。乙葉を抱き上げたのはプロレスラーのような
巨体の持ち主︱︱氷川大悟だった。
﹁⋮⋮アキラ、お前には今まで黙ってたがうちは代々続く由緒正し
きロリコンの家系なんだ﹂
大悟のどや顔の宣言に、周囲の少年たちからやんややんやの歓声
と拍手が沸きあがった。大悟は乙葉を抱きかかえたまま、みんなの
歓声に会釈をして応えるとアキラと向き合った。
177
﹁ここへ来るのに、わざわざ下水を通りゾンビの居なさそうな裏道
を選んで一日掛かりで来たんだぜ。それでももう後輩が五人もやら
れちまってる。シュウに食わしちまう前に当然俺らが楽しむ権利は
あるよな?﹂
﹁へへ、勿論そのつもりだよ兄弟。クソ女をシュウに食わすのは全
員でたっぷりといじめてからだ﹂
﹁よーし聞いたなお前ら! 桜道の女子とヤレるチャンスはこれが
最後だぞ。残りの三人をぜってー逃がすなよ。もうそろそろ戻って
みんなごめんっ
くるだろうから気ぃ抜くなっ。あ、ただ俺だけはそのあいだに一足
早くこのロリータちゃんの初物頂いてくっから!
!﹂
大悟は少年たちの口笛と歓声を背に、乙葉をお姫様抱っこしたま
ま食堂を出て階段を上がっていく。乙葉は懸命にもがいたが、丸太
のような両腕にがっしりと掴まれていて逃げることができなかった。
﹁さぁて、どの部屋にしようかなぁ愛しのロリータちゃーん﹂
大悟は鼻歌を歌いながら、灯りがなく暗闇に包まれている廊下を
お気に入りの部屋を探して彷徨った。
その時、階下から声が聞こえてきた。乙葉の名を呼ぶ聞き覚えの
ある声。
﹁おーい乙葉ちゃんただいまぁーっ、いま帰ったよぉー!﹂
それはいつもと変わらない姫の元気な声だった。
178
﹁せん︱︱!﹂
先輩、逃げて!
乙葉の叫びは、大悟の大きなグローブのような手に口を塞がれて
掻き消えてしまった。
179
第四章 墓場の乙女・3︵後書き︶
脱字・誤字などお知らせしていただけると助かります。
180
第四章 墓場の乙女・4︵前書き︶
※誤字修正しました
181
第四章 墓場の乙女・4
4
話は十分ほど前にさかのぼる。
まどか達はさくら寮へ続く坂道まで戻って来ていた。地区図書館
から時間にして四十分ほど。道のりのほとんどが駆け足というマラ
ソン状態だった。
そこまで早く無事に戻って来られたのはパワーアップした姫の護
符と﹁動く結界﹂のおかげだった。この結界とともに移動しながら、
椿は防犯ブザー付弓矢を方々に射ち込むことでゾンビたちの接近を
事前に回避していた。
しかしここまで無事に戻ってこられたものの、坂道の途中に落ち
ていたリュックサックが一同を絶望の底へと叩き落した。
まどかがリュックサックを抱きしめたまま無言で佇み、姫が腕を
組んだまま霧に呑まれた坂道を睨みつけていると、やがて微かな足
音とともに寮の様子を伺いに行っていた椿が霧の中から姿を現した。
﹁︱︱どうだった!?﹂
と、同時にまどかと姫が詰め寄る。
﹁やはり私たちが留守の間に寮へ踏み込まれたみたいです。数は二
十人近く。ホームセンターに居た双子の姿が見えたのでたぶん同じ
グループです﹂
﹁あいつらほんとにしつこいったらありゃしない!﹂
182
姫が拳を叩いて吐き捨てるように言う。
﹁で、乙葉ちゃんは無事なの?﹂
まどかの質問に椿が無言で頷く。ほっと安堵の表情を浮かべるま
どかだったが、椿が繰り出した言葉に表情が固まった。
﹁でも一刻の猶予も許さない状況です⋮⋮﹂
﹁すぐに乙葉ちゃんを助けに行かなきゃ! 今の私たちなら乙葉ち
ゃんを助けたあとであいつら全員フルボッコの病院送りにして寮か
ら叩き出すのだって朝飯前でしょ、ね!?﹂
姫が腕まくりをしながら鼻息荒く椿に同意を求めたが、まとがが
間に割って入る。
﹁も、もちろん乙葉ちゃんは助けるけど絶対に無茶はしないで。み
んなが無事ならばさくら寮なんかどうだっていい。あいつらがあそ
こに住みたいって言うならばそうさせてあげましょ。私たちが我慢
してどこか他の場所へ移れば丸く収まるのなら喜んでそうしよう。
結局ああいう面倒くさい連中とは極力関わらず波風立てずスルーす
るのが一番なの。だから力尽くで寮を奪い返すなんて危険なことは
しなくていい。そんなことをしてもなんの得にもならないし、ただ
面倒ごとを抱えて疲れるだけなんだから。ねえ、そうでしょ?﹂
﹁そ⋮⋮そりゃ確かにまどか先輩の言うことも一理あるけど⋮⋮ でもあいつらの目的はさくら寮じゃなく私たち自身なんですよ? 実際あいつらはしつこく追いかけ続けてきてついには第一さくら寮
まで探し当てて乗り込んできた。こっちはスルーしたくてもしつこ
183
どこかでガツンとやってやらないとこの鬼ごっこ
く追いかけ続けてくる相手にそんなお花畑の理屈が通用するとは思
えませんけど?
はいつまでも続きますよ先輩﹂
﹁で、でもそれでも⋮⋮﹂
まどかは言葉に詰まった。確かに姫の言い分はもっともだったが
自分の考えも間違えてはいないという自負があった。
﹁つ、椿ちゃんはどう思う?﹂
﹁ノーコメントで。とにかく今は時間がありません。救出プランは
もう頭の中に出来上がっているのでそれを今から二人にも実行して
もらいます﹂
と、椿は目を伏せたまま淡々と答える。
心のどこかで椿なら自分の考えに賛同してくれると思っていたま
どかは、彼女のそのどこか余所余所しい態度に針が胸に刺さったよ
うな痛みを感じた。
一番肝心な時に集団としての意思の統一が図れていなかったこと
が浮き彫りになって、まどかは自分の力不足をかみ締めていた。
アキラがまさにこの一瞬を待ってましたと言わんばかりに、歓喜
に打ち震えながら後輩たちとともに玄関ホールへ飛び出すと、そこ
に居たのは一人の少女だった。
ブロンドのツインテールに日本人離れしたくっきりとした目鼻立
ちの美少女は、大股開きで立ち、腕を組み、足元に散らばる壊れた
184
ドアの木片とアキラたちを交互に睨み付けていた。そして防犯ブザ
ーを足元に投げて寄越す。
これ
﹁⋮⋮正門に変な小細工が仕掛けてあるかと思えば、私たちの大事
な大事なさくら寮のドアまで壊されてるんだけど? ねえ!
をやってくれちゃったのはあんた達のわけ!?﹂
ハーフの美少女︱︱姫は、二十人近い少年たちを前にしても一向
に臆する素振りを見せず、それどころか今にも怒りが爆発しそうな
勢いだった。
﹁あんたら、まさか乙葉ちゃんに手ぇ出してないでしょうねえ⋮⋮
!﹂
﹁おいおい、こりゃまた威勢のいいクソ女だなぁ。他の連中はどう
した? まさかおめえ一人が事態を察して、慌てて俺たちのチンポ
咥えに来てくれたのか?﹂
そうアキラが茶化すと、周囲の少年たちからどっと笑い声が起き
た。
﹁まあ苦情その他諸々のご意見は食堂で受け付けてやるからよ。そ
んなカッカッしてないで上がれよ、な?﹂
アキラの合図で二人の少年が姫に近づいて腕を掴もうとする。
﹁私に気安く触れないで!﹂
姫は一歩後ろへ飛び跳ねると、右手に持っていた長方形の霊符を
自分の左胸に貼り付けた。
185
﹁あんたら全員くしゃくしゃのぼろぼろにしてやるから⋮⋮!﹂
そして九字を唱えつつ九つの印を結び、ポケットから祖母の形見
の筆を取り出してアキラたちへ向けた。
しもべ
﹁さあ、私の可愛い死人たち、みんな出番よ!﹂
その声と同時に、姫の背後に見える中庭を覆う霧の中から音が聞
こえてきた。何かが地面を蹴る音。それも複数だ。
アキラたち不良グループが固唾を飲んで見守っていると、霧の中
から次々と現れたのは両手を前に突き出して、両足を揃えたままの
姿勢で飛び跳ねて前進してくるゾンビたちだった。数は十体。性別
は全て男性。年齢は少年から青年、中年と様々だ。そして全員の額
には姫が左胸に貼り付けている霊符と同じものが貼られていた。
その十体のゾンビがピョンピョン飛び跳ねるというコミカルな動
きながらも、まるで訓練された兵士のように姫をぐるりと取り囲む
ように整列すると、その円の中心部で姫が不敵な笑みをこぼした。
明らかに何かしらの意思が介在していることがわかるその動きに、
少年たちからどよめきが起きた。
﹁︱︱さあ、乙葉ちゃんを返してちょうだい! 逆らったら私のキ
ョンシー軍団が全員フルボッコにしちゃうわよ!﹂
キョンシーたちを引き連れた姫が不適な笑みを浮かべて玄関を上
がると、少年たちがクモの子を散らすように食堂の奥へ、廊下の奥
へと逃げ出した。
186
結局、大悟は適当に部屋を決めるとベッドの上に乙葉を放り投げ
てそそくさとチノパンツをずり下ろした。ベッドの上で怯えている
唸れ!
俺のフェアリー殺しの必殺マグナム
乙葉をにやにやと見下ろしながらポロシャツを脱ぎ捨てて、トラン
クスに指をかける。
﹁リミッター解除!
︱︱﹂
と、悦に浸りながらそこまで言いかけた時にドアがノックされた。
﹁︱︱て、おい、俺の決めゼリフ邪魔すんじゃねえよ、くそボケが
ぁ!﹂
大悟が怒鳴りつつドアを開けると、廊下の暗闇に立っていたのは
小柄でこけしのように細いシルエットだった。
﹁ん?﹂
突然そのシルエットがLEDライトを向けてきたので相手の顔が
見えない。と、同時に大悟は鋭い殺気を感じて、咄嗟に両手で下半
身をガードした。
金的。
相手の本気具合いが衝撃となって手の平をびりびりと突き抜けて
いく。
﹁て、てめえ⋮⋮何者だ!﹂
大悟が相手の顔面目掛けて右パンチを繰り出す。
しかし何者かはトンボ返りで軽くパンチを交わすと、そのまま連
187
続伸身後方宙返りで廊下の奥へと逃げていく。その間も懐中電灯を
口に咥えたままで、間合いを開けてからも白色光がぴたりと正確に
大悟の顔を捉えていて、相手の姿を直視できない。
しかしシルエットから相手が少女であることは大悟にもわかって
いて、その身のこなしも含めて彼の闘争心に火を点けた。
曲りなりにもこの辺りでは最強と恐れられた自負もある。格闘技
のようなかったるい事は習得する気もなかったので未経験だが、そ
もそも身長百九十五センチの恵まれた肉体の前でそんなものは単な
る遊戯に等しく、実際に空手やキックボクシング経験者で腕に覚え
のある者が挑戦してきても幾度となく力任せに粉砕してきた。
中学生の時に地元のやくざを半殺しにして逆にスカウトされたこ
ともある。
この肉体さえあれば怖いものなど何もない。
大悟は光に向かって突進した。一度相手を捕まえてしまえばそれ
で終わりだ。
終わりのはずだった。
大悟は自分の巨体が一回転して廊下の床に叩きつけられたのを理
解するまでに数秒を要した。
何者かが自分を見下ろしていた。口に咥えている光が眩しい。
﹁くそっ⋮⋮!﹂
起き上がると同時に左手に力が加わり、前方へぐいっと引っ張ら
れたかと思うと次は上へ引っ張られて、足元がフラついて体勢を整
える間もなくすかさず右へ引っ張られると同時に肉体が宙で一回転
して、気がついた時にはまた光が自分を見下ろしていた。
188
大悟は床を転がり間合いを取って立ち上がろうとするが、光が追
いかけてきたかと思うと次の瞬間にはまた身体が宙を舞って床に叩
きつけられてしまう。
暗闇の中から常に瞳孔に突き刺さる白色光に視界を奪われて、光
の乱舞と回転する自分の肉体に次第に平衡感覚が奪われていく。ま
るで宇宙空間で太陽の引力に翻弄される小さな塵だった。
そして大悟の胸の底から冷たい恐怖がこみ上げてきた。今まで味
わったことのない屈辱的な無力感。顔が見えない得体の知れない相
手に、得体の知れない技で肉体の自由が奪われていくという恐怖。
大悟は踵を返して階段へ向かって駆け出した。一人ではこの得体
の知れぬ何者かに対応できないが数で攻めれば好機は掴める。
が、そんな一縷の望みも一瞬にして潰えてしまった。
いつの間にか何者かは目の前に立ち塞がっていたからだ。いや、
大悟の視覚はしっかりとその何者かが自分の巨体を飛び越えて左の
壁を蹴ったかと思うと、次には右の壁を蹴って廊下の中央へと躍り
出ていたのを捉えていたが、その人間離れした身体能力を彼の常識
が否定していたのだ。
絶対逃れられない光の障壁。寸分狂わず自分を捕らえて離さない
白色光が、自分が格闘技術を持ち合わせていない、ただの筋肉の塊
に過ぎないと言うことを白日のもとへとさらけ出していく。
それは弱さを射抜く浄化の光。
大悟は精神的にも肉体的にも追い詰められて、やけくそでその光
に向かって突進した。
光が揺れ、天地が逆転したかと思うと、全身が何度も床に叩きつ
189
けられた。
自分が階段を転がり落ちて踊り場にいると気付いた大悟は、その
まま逃げるように階段を転がり落ちて行った。
﹁お、おい、誰か助けてくれ、上にめちゃくちゃ強いヤツが⋮⋮!﹂
廊下で四つん這いになって助けを呼んだ大悟の目に映ったものは、
ゾンビを従えて玄関を上がろうとしているブロンドのツインテール
の少女と、四方へ逃げまどう後輩たちの姿だった。
190
第四章 墓場の乙女・5
5
乙葉はベッドの上で震えながら、扉の向こうから聞こえてくる格
闘しているらしい激しい物音に集中していた。そしてその音が止ん
だと思うと、ドアが開いて姿を現したのは懐中電灯を持った椿だっ
た。
﹁椿さん!﹂
﹁大丈夫? 歩ける?﹂
﹁はい!﹂
乙葉は健気に笑顔を作り、いつものように胸の前で握り拳を作っ
て見せる。そしてそのまま椿に腕を引っ張られて廊下へ出ると、あ
のプロレスラーのような巨体の少年の姿はもう見えなかった。
椿にいろいろと質問をしたかったが、階下からは少年たちのヒス
テリックな騒ぎ声と忙しく動き回る足音が聞こえてくるので、そん
な悠長なことをしている暇はないと察し、乙葉は引っ張られるまま
に椿の後をついていく。
そうして連れてこられたのは廊下の奥にあるまどかと椿の部屋だ
った。
窓から下を覗くと、脱出用のはしごの下にまどかの姿があった。
﹁まどか先輩!﹂
191
﹁乙葉ちゃん大丈夫だった!? ごめんね、怖い思いさせちゃって
⋮⋮﹂
﹁早く下へ﹂
そう椿に急かされて乙葉ははしごを降りていこうとするが、椿は
廊下の方へと戻って行ってしまうので慌ててその背中に声をかけた。
﹁︱︱つ、椿さんは来ないんですか?﹂
﹁私はまだやり残したことがあるから。あとで合流する﹂
そう言ってドアを閉めて行ってしまった椿を複雑な顔で見送ると、
乙葉は慌ててハシゴを降りた。
﹁先輩、私⋮⋮﹂
まどかの顔を見て気が抜けたのか、乙葉の瞳からぼろぼろと大き
な涙の粒がこぼれ落ちていく。
﹁よく頑張ったね乙葉ちゃん。でももうひと踏ん張りだよ!﹂
まどかは乙葉の肩を元気付けるように抱きしめたあとで、はしご
を塀に立てかけて﹁行くよ﹂と塀を乗り越えた。
椿が一階へ降りていくと、玄関ホールを陣取っているキョンシー
軍団の中心で姫が啖呵を切るところだった。
192
﹁︱︱よくも私たちの神聖な桜の園を土足で踏み躙ってくれたわね
! 今すぐここから立ち去って金輪際私たちに関わらないと約束す
るのなら、この狼藉も水に流してやっていいわっ。しかしそれでも
ここに居座るってんなら地獄を見る覚悟はしなさいよ、今の私はめ
ちゃめちゃキレてるんだからっ!﹂
姫が言い終えると同時に廊下の奥と個室に隠れていた何人かの少
年たちが、情けない声を上げて玄関から中庭へと飛び出して霧の中
へと消えていった。
﹁お、おいお前ら⋮⋮! アキラっ、アキラどうするんだよ!?﹂
階段の下で呆然としていた大悟は逃げ出した後輩たちを見て我に
返ると、ふらふらと頼りない足取りで食堂の中へと駆け込んで行っ
た。
その姿を見届けながら姫と椿はコソコソと言葉を交わす。
﹁乙葉ちゃんは?﹂
﹁無事よ。いま先輩と待ち合わせ場所に向かっている﹂
﹁そう、よかった。で、先輩はさくら寮はもう捨てるって言ってた
けど、こいつらどうする⋮⋮?﹂
椿はその質問には答えずにすたすたと一人で食堂の中へと入って
いく。
﹁ですよねえ。さすが我がソウルメイト!﹂
と、姫は嬉しそうに指を鳴らして欽ちゃん走りでその後に続いた。
193
中にはまだ十人近い少年たちが居て、手にはそれぞれ金属バット
やバールのようなものを持ち、怯えた表情を浮かべながらもまだ戦
意が消えていない目で二人の少女を睨んでいる。
その中央に車イスに座って鎖で繋がれたシュウが居て、その後ろ
には隠れるようにしてすっかり怯えた顔をして巨体も形無しの大悟
と、いまだ怒りと悔しさに顔を歪ませているアキラが居た。
﹁な、なんなんだよおめえらは!? ゾンビを操るとかマジかよ、
普通じゃねえだろ⋮⋮!﹂
そのアキラの無念を感じ取ったかのように、車イスに縛り付けら
れているシュウが暴れ出した。痙攣でもしているみたいに身体を何
度も仰け反らせて鎖を解こうとしている。
そして遂には口に嵌められていた大型犬の首輪を噛み千切って、
凶暴な肉食獣のような雄叫びを上げた。
その迫力にアキラ以外の少年たちが恐る恐ると車イスから離れて、
固唾を飲んで遠めに見守った。
﹁ああ、わかるよシュウ。悔しいんだよな、あんな糞女どもに舐め
られて。俺も腸が煮え返るくらい悔しいよ。おまえなら、この状況
をひっくり返せるのかな⋮⋮﹂
アキラは絶望した顔でシュウの座る車イスを自分の方へと向けた。
﹁どうせ、こんな世界じゃ誰も生き残れっこねえさ。それならば⋮
⋮﹂
と、アキラはシュウの身体を縛り付けていた鎖の南京錠を外した。
そして鎖がじゃらじゃらと音を立てて床に落ちるとともに、シュ
194
ウはアキラの首筋に噛み付いていた。首の肉が食い千切られて鮮血
が噴水のように噴出して天井を赤く染め上げる。
その凄惨な光景に少年たちが悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、
シュウが俊敏な肉食獣かの動きを見せて次々と飛び掛っていく。あ
る者は首を捻じ切られ、ある者は貫手で心臓を貫かれ、ある者は顔
面の肉を食い千切られていた。
とてもゾンビとは思えない素早い身のこなしで一方的な殺戮が繰
り広げられて、一瞬にして不良少年たちは血の海に沈んでいた。
﹁ち、ちょっとどういうことなのこれ⋮⋮!?﹂
﹁わからない⋮⋮﹂
動揺している椿と姫の前で、少年たちを皆殺しにしたシュウが血
に染まった顔で二人の方を振り向いた。真っ赤な双眸から凶暴すぎ
る殺気があふれ出している。
﹁︱︱逃げて!﹂
危険を察した椿が叫ぶとほぼ同時にシュウが弾かれたように天井
へ飛び移ったかと思うと、天井を蹴って加速をつけて一気に二人の
前に躍り出てくる。そして姫を取り囲んでいた一体のキョンシーの
頭部を貫手で破壊して、そのまま姫の首筋に手を伸ばした。
﹁え︱︱!?﹂
その機敏すぎる動きに姫の肉体はまったく反応できていなかった。
しかし椿が電光石火の動きでシュウの脇腹に水平蹴りを放つと、
シュウの体が吹き飛ばされて食卓の上でバウンドして壁に叩きつけ
195
られた。
そのとてもゾンビとは思えない想像を超えた速さと身体能力に呆
然としていた姫が我を取り戻して筆を振ると、残りのキョンシーた
ちが二人の前に三重の壁となって整列する。
﹁︱︱こ、こいつなんなのよ!?﹂
﹁わからない。けど圧倒的に不利⋮⋮﹂
椿の言葉に、死体の海の中から殺された不良少年たちのうちの何
人かがゆらゆらと立ち上がりかけていることに姫も気付いた。その
中にはアキラと大悟も含まれていて、血まみれの青白い顔に真っ赤
に充血した瞳をギラつかせて低い唸り声を上げている。
そしていつの間にかシュウも立ち上がって二人に血まみれの歯を
むき出して威嚇している。腰を落とし、両手をぶらりと垂らしてい
るさまは獰猛なゴリラを連想させた。先ほど見せた跳躍といい、普
通のゾンビと違うことはその身のこなしからも一目瞭然だ。
しかも二人を更に絶句させたのはゾンビ化した少年たちもシュウ
のように四足歩行に近い姿勢でばらばらと散らばり、二人に襲い掛
かろうと様子を伺い始めたことだった。
全部で六体。見るからに今までのゾンビとは違う異様な空気を発
しているゾンビたちがじりじりと包囲網を縮めてくる。
﹁こりゃまどか先輩怒ってるかな⋮⋮?﹂
姫は泣き笑いの引きつった顔を浮かべた。
﹁でも集合場所に連れていくわけにはいかない。ここで食い止める
196
しか⋮⋮﹂
椿はジャージのファスナーを静かに開けながら呟いた。
﹁私が食い止めている間に、キョンシーを連れて一0一号室に駆け
込んで。早く!﹂
﹁わかった!﹂
姫がキョンシーを引き連れて廊下へ向かって走り出すと、それに
反応してゾンビたちが一斉に跳躍をした。
椿は後退しながら脇腹に仕込んであったスローイングナイフを、
人間離れした正確無比の動作で六方向に向かって同時に投げつけた。
しかも驚くべきことに六本のナイフは、高さもスピードもバラバ
ラに飛び掛ってくるゾンビたちの眉間を寸分違わずに正確に捉えて
いる。
二本のナイフが見事に空中でゾンビの眉間を捉えて脳みそを破壊
することで活動を停止させたが、残りの四本はかわされたり払いの
けられてしまい、そのまま四体のゾンビが猛然と椿に襲いかかる。
椿は透かさず両拳を腰に添えて体内の空気を一気に吐き出した。
吐き出される大量の呼気が声帯を揺るがして、椿の口から﹁ハァァ
ァァ⋮⋮ッ﹂と音が漏れていく。
空手や合気道で広く利用される複式丹田呼吸法で精神を一気に一
点へと集中させ集中力を高めると、アドレナリンが体内を駆け抜け、
体感時間の流れが急激に遅くなり、それと同時に視界がぐんと広ま
り、動体視力が暗闇の中でも四体の動きを捉えて離さない。
まず椿は襲い掛かる四体に自ら接近して一番先頭の少年ゾンビの
197
胸板を蹴って弾き飛ばすと、その反動を利用して後方宙返りで残り
の三体との間合いを広げて、続いて左から回り込んできた大悟の首
根っこを掴んで流れるような動きで合気道の回転投げを繰り出して、
右側から迫っていたアキラに向かって投げ飛ばす。二体が床にもつ
れ合って倒れた横で、最後は真っ直ぐに突進してきたシュウを、摺
り足の回転運動でひらりと交わして、そのまま遠心力を上乗せして
背中に中段蹴りを放って壁へと叩きつけた。
見事に四体の連続攻撃を捌ききると、椿は踵を返して一0一号室
へ向かって走った。部屋に飛び込むと同時にドアを閉めてカギをか
ける。
そして何か言いかけた姫よりも早く、
﹁そこにある工具を取って!﹂
と、ドアを押さえたまま言った。
姫から工具を受け取ると、椿はハンマーとクギを取り出して床に
放置してあるベッドの部品をドアに打ち付け始める。それを見て意
図を察した姫も手伝い始めるが、ドアは外側から激しく叩かれて今
にも壊れそうだ。
﹁もう、なんなのよあいつら!? 走るどころか人間の身体能力を
遥かに超えてるじゃない。それこそキョンシーの言い伝えのまんま
よ。そのうち空も飛べる奴が出てくるんじゃないの!?﹂
﹁笑えない冗談。でもゾンビの生態が少しわかった。成長には何段
階かのレベルがあって、成長したゾンビに噛まれるとそのまま成長
度合いも引き継いでいく。少々︱︱いえかなり厄介﹂
﹁確かにそれだとゾンビの爆発感染が押さえつけられなかった説明
198
が付くわね。時間が経つとともに手強いのが加速度的に広まってい
く。つまりこのパニックはこれからが本番ってことじゃない⋮⋮!﹂
﹁とにかく、ここからは別行動。あなたがここで囮になって私が外
に回って各個撃破する﹂
椿はベッドのパーツを全てドアに打ち付けると、机の下のパニッ
クルームへと潜り込んだ。
﹁各個撃破って︱︱そんなこと出来るの!?﹂
﹁出来なくてもやるしかない。たぶんバリケードは十分ももたない。
それまでに私が全部を倒せなかったら、その時は自分の身は自分で
守って﹂
それだけ言い終えると、椿の姿は床下に隠れてしまい見えなくな
った。
﹁な、なによ、かっこいいじゃない。ちょっと悔しい⋮⋮﹂
姫は親指の爪を噛みながらもどかしそうに呟いた。
椿は床下の換気口から中庭へ出ると、ショルダーバッグからキャ
ロラインを取り出してバッグを放り捨てると忍び足で玄関へと回っ
た。
暗闇の中にドアを激しく叩く音が響き渡っている。
玄関ホールを進み、廊下を右に曲がればすぐ一0一号室だ。スロ
ーイングナイフはもう持ち合わせていないので、必然的にキャロラ
199
インでの接近戦となる。
しかも相手は四体。身体のどこかを掴まれてしまった瞬間にジ・
エンドとなる苛酷な戦いだ。
しかし不思議と椿は落ち着いていた。
自分がここで頑張ることによって姫が助かり、ひいてはまどかと
乙葉の安全にも繋がっていく。
ギフト
そして今の自分にはそれを成し遂げることができる、神様から授
かった妹の力がある。
きっとその神様はお兄ちゃんの姿をしているに違いない。
そう思うと不思議と心は落ち着き、全身に温かい力が漲ってくる。
椿は壁際に沿って忍び足で玄関ホールの中ほどまで進むと、一気
にダッシュして廊下を曲がった。
まず一番最初に視界に飛び込んできた少年ゾンビの後頭部へ一気
にキャロラインを全力で叩き込む。
確かな手応えとともに足元から崩れ落ちる少年ゾンビ。
と、同時にドアの前にたむろっていたゾンビの配置を瞬時に把握
する。
ドアの前に巨体の大悟、そのすぐ後ろにアキラのゾンビ。
しかし事の元凶であるシュウの姿がどこにも見えない。
その刹那、頭上から降下してくる鋭い殺気を感じて、椿は後ろへ
と飛び跳ねた。
奇襲を察知していたのか、それとも一0一号室への侵入経路を探
していたのかわからないが、天井に張り付いていたシュウが目の前
に立ちはだかって両手を振り回して突進してくる。
200
椿は冷静にそれをかわしながら、一瞬の隙を突いて左手に大きく
跳躍をして壁を蹴ってシュウの背後へと回り込んだ。
しかし倒れている少年ゾンビの頭部からキャロラインを回収する
暇もなく、椿はそのまま手ぶらで階段を駆け上がるしかなかった。
背後からは追いかけてくる足音が二つ。
丸腰の椿には到底敵う数ではない。
しかしまだ残された道があった。自室に戻れば武器のコレクショ
ンがある。
二階に上がると、椿は全力で一番奥の部屋を目指した。
背後から物凄い勢いで接近してくる二つの足音。しかも明らかに
ゾンビの方が移動スピードが速い。
背中に獰猛な殺気の塊を感じて、椿は咄嗟に足からスライディン
グをすると、頭部ぎりぎりの高さを二体のゾンビが掠めていきもつ
れ合うようにして突き当たりの壁へぶつかった。
椿はドアノブを掴んで廊下の上を滑る自分の身体を止めると、そ
のままドアを開けて部屋の中へと転がり込む。
そして鍵をかけて枕の下からサバイバルナイフを取り出すと、今
ジャスティスホームランキング
度はベッドの下から木製バッドを引きずり出した。しかも先端に何
本もの釘が打ち込まれた釘バッドだ。通り名は真・撲殺魔烈棒のミ
スター・ボンズ。自分と兄の歳の数と同じ本数の五寸釘を絶妙なバ
ランスで打ち込んである、椿が夜な夜な丹精を込めて作り上げた必
殺の最終兵器。
ここが正念場だ。
椿は机の上に懐中電灯を置いて光をドアに向けると、すぐさまド
アへ駆け寄ってカギを外した。
ドアが勢いよく開いたかと思うと、シュウと大悟が雪崩れ込んで
201
くる。
計画通りに二体は机の上の懐中電灯の光に釣られて部屋の奥まで
突進していく。
ドアの影に身を隠していた椿はその瞬間を狙っていた。
がら空きの背後から巨体の後頭部を目掛けて一気に釘バットを叩
き込む。
が、すんでの所で椿の接近に気が付いたシュウが振り向いた弾み
で、大悟の立ち居地もずれてしまい、釘バットは頭髪と頭皮を少し
毟り取っただけで壁へと突き刺さってしまった。
フルスウイングで壁に突き刺さったミスター・ボンズはびくとも
動かない。
咄嗟に椿は釘バットを諦めてサバイバルナイフを構えた。
廊下へ後退しながら、襲いくるシュウの右腕を切りつける。
四本の指が宙に舞ったが、痛みを感じないゾンビの猛攻は止むこ
とを知らない。
四本の腕が椿を捕まえようと、次から次へと暗闇の中を縦横無尽
に襲い掛かる。
だが椿は巧みな体捌きとナイフ捌きで次々と腕をかわしながら同
時に指を切り落とし、身体を掴まれる危険を少しずつ排除していく。
そして一瞬の隙を突いてシュウの右手首と右肘を掴むと、独楽の
ような回転運動に巻き込んでシュウのバランスを崩しつつ、同時に
その体を利用して大悟の接近を寄せ付けずにそのまま床へと叩きつ
けた。
椿の頭の中では先ほどの図書館で得た合気道の知識が鮮明に刻ま
れていて、考えるよりも早く身体が長年の修行を積んできた格闘家
202
いものちから
のように反応していた。これこそが椿に与えられた妹の力の真髄で
ある。
二体の猛攻のバランスが崩れて退路が開けると、椿はまた自室へ
と駆け込んだ。そして走りながらイスを掴んで窓へ投げつけると、
続いて自分も一緒に窓の外へダイブする。
割れたガラスとともに軽い身のこなしで華麗に裏庭へ着地すると、
間髪入れずに調理場の勝手口へと向かって走った。
203
第四章 墓場の乙女・ファイナル︵前書き︶
作中にレ×プ︵未遂︶描写がありますが、極力表現・描写には気を
つけてソフト&マイルドに徹していますので、特に年齢制限は設け
てありません。予めご了承ください。
※脱字修正しました。
204
第四章 墓場の乙女・ファイナル
ファイナル
椿がパニックルームを出て行ってからまもなくすると、一0一号
室のドアを叩く音が少し弱まった。
どうやら物音から察して椿が二階へ何体かを引き連れていったら
しい。
﹁︱︱私が囮役じゃなかったの!?﹂
姫が悔しいような情けないような顔で天を睨んだ。
これ以上椿ばかりにかっこいいところを持っていかれるのはプラ
イドが許さない。これではこれから名乗る予定の死人使いのプリン
セス・プリンセスという通り名も形無しだ。
あいぜんみょうおう
姫は壁際で綺麗に整列している九体のキョンシーを見た。
キョンシーと自分が貼り付けている霊符の梵字は愛染明王を表し
ている。
愛染明王︱︱サンスクリット語でラーガ・ラージャと呼ばれ、恋
愛、縁結び、家庭円満を司る仏様。
図書館で正しい仏力の頼り方に気付いた後で、自然と湧き上がる
ように閃いた仏様の力の運用方法。
それは愛染明王の持つ天弓愛染と言う名の弓矢でゾンビと縁を結
んでもらい、さらに人の持つ本能を向上心に変える愛染明王の功徳
によって、ゾンビが人を襲うという本能を生者のために仕えるよう
に変換すること。
205
姫の狙いは見事に成功して、自身を愛染明王の化身とした死者を
操るネットワークは完成した。
しかし姫自身の力不足なのか、それとも他にやり方があるのか、
キョンシーの動きは一律一様で個別に動かす時には他のキョンシー
は休止状態となってしまう。また先ほどの食堂での出来事のように
姫自身の対応が遅れた時も、キョンシーはただのマネキン状態のま
まになってしまい、つまりは各個体が自律したスタンドアローンの
働きが出来ない。
もちろん姫からの指示が無い時でも、霊符が貼ってある限りは人
を襲わないキョンシー状態を維持できているだけでかなりの進歩が
あったことは認めているが、ゾンビの成長が計り知れないとわかっ
た今ではやはりこのままでは力不足だった。
所謂レベルがまだ低い状態のままでキョンシーとして操っている
このゾンビたちが、あの人間離れした動きをする高レベルのゾンビ
を相手にどこまで通用するのか。
そして愛染明王の仏力に頼ったゾンビ操縦法があのゾンビたちに
も通用するのか。
姫は大きく深呼吸をすると、そっとドアに近付いた。
ドアの前にはまだゾンビが一体残っていてドアはもう所々破れか
けている。
そして一際大きな裂け目からアキラが顔を突き入れて歯を剥くと
同時に、姫は死角から身を乗り出して愛染明王の梵字が書かれた霊
符をアキラの額を目掛けて貼り付けていた。
しかし無残にも霊符は一気にどす黒く変色すると、腐敗して崩れ
散ってしまう。
206
﹁くそっ、駄目か!﹂
ばん
ばそろ
マントラ
しゅにしゃ
こく﹂と愛染明王の真言を詠唱しな
ばさら
姫は残された一手に賭けて窓際まで後退すると、九字を唱えなが
ら九つの印を切っていく。
うん
まからぎゃ
﹁臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!﹂
じゃく
そして更に﹁おん
さとば
がら空中に筆で﹁操﹂と書いた。
九字に一字を足して十字とすることで九字の持つ霊力の効果を全
て十字目に特化したのだ。それはすなわち︱︱
﹁︱︱みんな行くよ!﹂
と、姫は叫びつつ持っていた筆でドアを指し示すと、壁際にいる
自分の位置までの空間をその筆で一直線になぞった。
するとそれまで置き物状態だったキョンシーたちが突如として顔
を上げたかと思うと、姫の目の前からドアに向かって綺麗に一列と
なって整列する。
しかもさらに驚くことには最後尾に立つ姫がパアンッと両手を合
わせて合掌をすると九体のゾンビも一斉に合掌をしたことだ。キョ
ンシーたちが姫の動きを寸分違わずに精密にトレースする、それこ
そが十字目の﹁操﹂の効果だった。
﹁天地と我と同根、万物と我と一体⋮⋮﹂
姫は合掌をしたままそう呟き終えると、今度は筆を口に咥えてフ
207
ァイティングポーズをとった。それに倣って一斉にファイティング
ポーズを構える九体のキョンシーたち。
キョンシーの列の先に見えるドアは既に剥がされていて、今にも
アキラがバリケードを破壊して部屋に侵入しようとしている。
﹁一番目!﹂
最後尾にいる姫がそう叫んで右パンチを繰り出すと、最前列の中
年キョンシーが同じ動作でアキラの顔面に右パンチを叩き込んで廊
下へと弾き飛ばした。
だがアキラは負けじと雄叫びを上げながらまたバリケードに張り
付きドアの裂け目に強引に頭を突っ込んできたかと思うと、先頭の
キョンシーの顔に食らい付いてそのまま両腕で頭部を掴んで引っこ
抜いてしまう。
しかし先頭のキョンシーが床に崩れ落ちると同時に、姫の﹁二番
目!﹂の掛け声とともに二体目のキョンシーが先頭に踊り出てまた
同じようにアキラを押し戻した。
姫の選択。それはキョンシーの順次運用による最終防衛ラインの
確立。部屋に一歩でも侵入されてしまえばもう逃げ場ない。そして
動きの鈍いゾンビをキョンシー化しても動きには制限があり、成長
が進んで高い身体能力を発揮するゾンビの前では赤子に等しい。
しかし個別に順次投入し部屋と廊下の境界線上にキョンシーによ
るバリケードを設置することで、このゾンビをここに引き付けなが
らも自分の身も守れるはず。
そうすれば必ず勝機が生まれる。
残されたチャンスは八回。
208
その間に必ず︱︱
ふと自分の中に椿への絶対的な信頼感が生まれていることに気付
いて、姫の口許は思わず緩んでいた。
椿は勝手口から調理場へ飛び込むと、流し台の上にあった据え置
き型の包丁差しを掴んで食堂へと駆け込んだ。
そして食堂の一角に陣取ると、食卓の幾つかを倒して周囲に壁を
作り、さらに自分の前の食卓の上に次々と包丁を刺していった。
サバイバルナイフと合わせて合計五本。
これが椿に残された武器だ。
椿は大きく肩で息をしながら暗闇を睨んだ。
やがて左手の勝手口から大悟が、右手の廊下に繋がる入り口から
はシュウが姿を見せる。しかし食堂の一角に陣取る椿を警戒してか
二体ともなかなか接近しようとはしない。
確実に仕留めるには椿でもためらってしまう微妙な距離だ。
シュウと大悟はゴリラのように両手を床についてウロウロとしな
がら、時折低い唸り声を発していて、それは何やら会話をしている
ようにも聞こえた。
ある程度の知能もあり、更にゾンビ同士で意思の疎通ができると
したならば相当厄介である。
椿は呼吸を整えながら、二体の一挙手一投足に全神経を集中して
いた。
一瞬たりとも気が抜けない膠着状態が続き、このまま永遠に続く
のではないかと思われたその時︱︱
209
最初に動いたのはシュウだった。
両手を使った四足歩行で地を這うように椿に向かって猛然と突進
してくる。
が。
椿は視界の右隅でその体が急停止したのと同時に、左隅に捉えて
いた大悟の影が動き出したのをしっかりと確認していた。
フェイントだ。
椿は左手のサバイバルナイフを大悟に向けた。
その刹那、視界右隅から急接近する黒い影。
ゾンビの移動速度を遥かに上回っている物体の急接近に、椿の反
応が一瞬遅れる。
そして全身に走る鈍い衝撃。
床に倒れこんだ自分に覆いかぶさる物体が、頭部が破壊されたた
めにゾンビ化せずに床に転がっていた不良少年の死体で、シュウが
それを蹴り飛ばしてフェイントを二重に仕掛けてきたと気付くより
も早く、椿は両足で立てかけていた食卓をそれぞれの方向へ力の限
り蹴り飛ばしていた。
大きく跳躍して椿に襲い掛かろうとしていた二体のうち、大悟は
命中して叩き落すことに成功したが、もう一つの食卓はシュウの脇
を掠めて飛んでいってしまう。
咄嗟に倒れたままの状態で死体を跳ね除けて、傍らの食卓を引き
寄せてガードする。
シュウの体が食卓にぶつかり、その重みと衝撃で四つの脚が砕け
て、その下にいる椿の上に天板ごとシュウが落ちてきた。
210
シュウが椿の顔に噛み付こうとするが、椿は天板ごと柔道の巴投
げの要領で投げ飛ばすと、床に散らばっていた出刃包丁を一つ掴ん
で立ち上がった。
まだ床に倒れているシュウの顔面に目掛けて包丁を振り下ろそう
とするが、突進してきた大悟の体を交わすことで邪魔をされてしま
う。
椿は後退しながら出刃包丁を咥えると、ジャージの上着を脱いで
自分の右腕に巻きつけた。
玉のような汗がいくつも頬をつたって落ちていく。呼吸も荒い。
体力が限界に近いことは椿自身がよくわかっていた。
だからこその最後の手段。
右腕を一本くれてやっても、それと引き換えに出刃包丁をどちら
かの脳天に突き刺してやる覚悟だった。
せめて一体でも多くゾンビを倒したい。
椿はジャージを巻いた右腕を突き出して、腰の辺りで出刃包丁を
構えた。
シュウと大悟は容赦なく弾かれたように一直線に突っ込んでくる。
その時、声がした。
玄関からここに来るはずのない聞き覚えのある声が︱︱
まどかは乙葉の手を引っ張って森の中を走っていた。
向かっている先は、寮から少し離れた場所にある電力会社の鉄塔
だった。その鉄塔を待ち合わせ場所として、乙葉の救出作戦は展開
されたのだ。
211
制限時間は三十分。
それがさくら寮へ突入する寸前にまどかが提案した妥協案だった。
不良少年たちが寮から出て行っても出て行かなくても、椿と姫は一
旦は鉄塔へ来るということになっていた。
寮から鉄塔までは十分とかからない。
まどかたちが鉄塔にたどり着いてしばらく待てば二人がやってく
るはずだ。
﹁あと少しで鉄塔だからね。頑張って乙葉ちゃん﹂
﹁で、でもあの人たちがさくら寮から出て行ってくれなかったらど
うするんですか!?﹂
﹁その時は四人でどこかへ行くの。みんなで安全に暮らせる場所が
他にもあるはずよ﹂
﹁だけどこんな世界じゃどこへ行っても同じです﹂
﹁え︱︱﹂
その言葉に気を取られたため足元の木の根っこに気付かずに、ま
どかの体が前のめりで地面に叩きつけられた。ジャージのポケット
からスマートフォンとジッポが飛び出して地面を転がっていく。
﹁いたた⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですか?﹂
212
﹁うん。でもね乙葉ちゃん、私たちは無力なんだよ⋮⋮自分たちで
自分たちの行く末を決められる力なんてありっこない。だから状況
と環境に臨機応変に対応していくしかないんだ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮でもそんなの悔しいです! 先輩は悔しくないんですか!?
みんなでせっかく作り上げてきたのに⋮⋮私、学園に入学したば
かりだし第一寮にもまだ少ししか住んでいませんけど、さくら寮に
は思い出も愛着もあるのに⋮⋮椿さんや姫先輩だってきっと同じ思
いだから⋮⋮ この先もずっと私たち女の子はゾンビに怯えて、男
子にも怯えて暮らしていかなければならないんですか!? どこか
そうしたら
新しい場所で暮らしても、世界がこんな風に壊れてしまったらきっ
とまた同じようなことはいつか絶対に起きますよ!?
私たちはまた誰かに追い立てられて住むとこを失くしちゃうんです
か!? そんなの悔しいです私⋮⋮悔しくて悔しくてやり切れない
です!﹂
と、堰を切ったように感情があふれ出した乙葉は、ぼろぼろと大
粒の涙を零しながら地面にしゃがみ込んで泣き始めた。
まどかはなんと声をかけていいのかわからず、それでもここに留
まっているわけにもいかず、散らばったジッポとスマートフォンを
拾うと立ち上がった。
﹁⋮⋮乙葉ちゃん行こう︱︱﹂
そう言いかけた時に、背後から落ち枝を踏む音とともに人が近付
く気配を感じてまどかは驚いて振り向いた。
霧の中から現れたのは自分と同じ歳くらいの髪を金髪に染めた少
年だった。着ているメジャーリーグのポロシャツは薄汚れていて所
々に血痕が付いている。
213
﹁はは⋮⋮やっぱこっちに逃げてきて正解だった。あいつらバカだ
からまた街の方へ逃げてったけど、もうゾンビなんかたくさんなん
だよ! だ、だから俺は人の居なさそうなこっちへ逃げてきたんだ
はは、ザマーミロだぜ。最後の最後に運がまわってきやがった﹂
⋮⋮ あいつらバカのくせに人のこといつもパシリ扱いしやがって
!
少年はひどく怯えた様子で訳のわからないことを口走っていて、
薄汚れたドブネズミのように落ち着きがなかった。
まどかがそっと目配せをして乙葉を立たせると、
﹁動くんじゃねえよぉ、糞ビッチが︱︱!﹂
と、持っていた飛び出しナイフで威嚇するが、自分で出した大声
に自分自身で驚いて周囲を警戒している。
まどかはその隙を逃さずに﹁逃げて!﹂と乙葉に向かって叫んだ。
まどかと乙葉は同時に駆け出すが、少年の手はがっしりとまどか
の左腕を掴んでいた。
約束の場所に行けば二人に会えるから!﹂
﹁まどか先輩!﹂
﹁行って!
乙葉は少しの逡巡のあとで、意を決したように半泣きの顔で霧の
中へと消えていく。
﹁へへ、あんな中坊はどうだっていいんだ。俺はおめえの方がタイ
プだからよ。まさかおめえまでゾンビを操れるとか言うなよ⋮⋮﹂
ポロシャツの少年はまどかの首に腕を回して抱き寄せると、ナイ
フでまどかの頬を叩きながらもう片方の手でまどかの胸を弄った。
214
﹁い、いや、やめて⋮⋮!﹂
しかし少年の鼻息はさらに荒くなっていき、まどかの足を引っ掛
けて押し倒すと上に覆いかぶさってジャージのファスナーを引き裂
くように開けた。
まどかは必死になって抵抗するが、少年の手が喉に食い込むよう
に押さえつけてくるので上手く逃げられない。
それでも懸命に体を仰け反らせて、足をジタバタとさせてもがい
ていると左頬に激痛が走った。
少年の平手打ちにまどかの身体は驚きと恐怖の余りに硬直してし
まう。すると少年は調子に乗って下卑た笑みを顔に張り付かせて、
乱暴にまどかのティーシャツをたくし上げると露になった腹部に貪
りついた。
まるで軟体動物が肌の上を練り歩いているかのようなおぞましい
感触にまどかはたまらずに顔をしかめる。荒い吐息とともに少年の
舌が上へ上へと移動してくるが、まどかは両脇をぎゅっと締め胸の
前で腕を交差させて恥ずかしい部分を守った。
すると少年の右手がすっとジャージのズボンの中へと入り込んで
くる。
全身に電流が流れるような羞恥心にまどかの頭は真っ白になり、
思わず少年の胸を突き飛ばすと四つん這いのまま地面を這ってその
場から逃れようとする。
そのまどかの初々しいリアクションが少年に火をつけたのか、﹁
子猫ちゃんかわいいー﹂と、気色の悪い猫撫で声を上げながら後ろ
から迫ってくる。
215
そして少年は後ろからまどかの両脚を抱きかかえると、ジャージ
の腰の部分に手を掛けて一気に剥ぎ取った。
夜霧の淡い光の中にまどかの白くすらりとした両脚がパンティー
一枚の露な姿で浮かび上がると、少年の瞳に淫靡で残虐な光が走り
抜けた。
﹁い、いやだ⋮⋮﹂
露になった下半身をジャージの上着で隠そうとしながら地面の上
を後ずさっていくまどかに、少年が堪えきれないという風に飛び掛
る。
まどかはヒステリックな金切り声を上げながら少年を叩きまくっ
て激しく抵抗するが、少年も負けじと何度も何度もまどかの頭や頬
を張り飛ばす。
いやだ。こんなのいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。
助けて。お母さん助けてよ。
まどかは心の中でそう何度も叫びながら止む気配を見せない少年
の鉄拳から顔を守っていた。痛みで両腕の感覚が麻痺していき、殴
られる度に頭が激しく揺さぶられて思考力すらも奪われていく。
真っ白になりかける意識のなかでまどかは母親の顔だけを思い描
いていた。
すると突然理不尽な暴力の嵐が止んだかと思うと、まどかの身体
の上に少年がぐったりとして倒れこんできた。
﹁まどか先輩⋮⋮﹂
216
その声に恐る恐る目を開けると、そこに立っていたのは木の棒を
持ったまま激しく嗚咽している乙葉だった。あまりの恐怖と奮い立
たせた勇気のためか、体が激しく震えていて歯がガチガチと音を鳴
らしている。
しかしまどかは自分を助けに戻って来てくれた後輩には目もくれ
ず、覆い被さっている少年をどかすと、一心不乱に脱ぎ捨てられた
ジャージのズボンに向かっていく。
そしてポケットからジッポとスマートホンを取り出すと、すがる
ようにスマートホンの画面を見つめた。
無性に母親の声が聞きたかった。聞きたくて聞きたくてしようが
なかった。
たとえその声が留守電に残されたメッセージだとしても、自分は
母親にとても酷いことをしたのだと謝りたかった。
いまそれが出来なければ自分は本当に孤独になってしまう。
そしてスマートフォンから懐かしい母親の声が聞こえてきた。
︱︱まどか。学校が閉鎖になったらどうするの? こっちへ帰って
くるのならば一度連絡をちょうだいね。あの人の機嫌が悪くなるの
も困るから。
﹁え⋮⋮?﹂
まどかは吸い寄せられるようにスマートフォンを顔に近づけて、
次のメッセージの再生ボタンを押していた。
︱︱あのね、あの人がね、この霧はすぐ収まるって言ってるの。だ
から無理して帰ってこなくてもいいって。お互い気を使うだろうし。
217
そっちに残るのならばお金を余分に送っておきます。
まどかの唇が震えていた。
︱︱まどか、明日から伊豆の別荘へ避難することになったの。あの
人がね、どうしてもって言うから。お金は送っておいたので一度電
話に出て。
﹁はは⋮⋮なんなのよ、これ⋮⋮﹂
まどかは泣き笑いの顔で呆然とスマートフォンを見つめていた。
自分が親を捨てたのではなかった。
捨てられたのだ。
この学園に転入させられた時と同じように。
自分はまた親に捨てられていたのだ。
まどかは怒りをぶつけるようにスマートフォンを地面に叩きつけ
た。
そう、お笑いぐさだった。
捨てられた腹いせに今度は捨ててやろうとした幼稚な企み。
しかしその行動の裏には、母が自分の犯した罪に気付いて懺悔の
涙を流し、もう一度母娘二人で暮らそうと迎えに来てくれることを
望んでいた気持ちがあったのだと思う。
いや、そんなことはとうにわかりきっている。
もう一度母と二人で暮らしたかった。
また昔のように、女手一つで自分を養ってくれながらも生き生き
としていて、何ものにも縛られず、自由で逞しくて優しくて綺麗な
母に戻ってほしかった。
218
そしてもう一度父の形見のライターを握り締めながら思い出話を
語ってほしかった。
そうでなければ電話が繋がらなくなってからも、ずっと罪の意識
からうじうじと悩むはずなどない。
本当は留守電には母が自分を捨てた愚かさに気付いて、涙ながら
に謝罪をしているメッセージが残されていることを期待していたの
だ。
だけど今日までずっとそれを確認するのが怖くて聞けないでいた。
でも結局自分は悲劇のヒロインを気取っていたただのピエロにす
ぎなかった。
みじめで。
滑稽で。
世界中どこを探しても居場所もなく、一人も観客の居ない劇場で
暗闇に向かってパントマイムを演じている哀れな道化師だった。
だからそんな自分を笑い、そしてそんな自分に泣いた。
なんのことはない。
世界は終わっていた。
もうとっくの昔に終わっていたのだ。
世界が霧に包まれてゾンビが現れるという、そんな大層な事件な
ど起きなくとも世界はとっくの昔に終わっていたのだ。
それはきっと自分がこの学園に捨てられたあの日から。
そしてサバイバル生活はその時から既に始まっていたのだ。
誰にも依存せず、強い心のままであり続けるという生存競争が。
なのに、そんな事実にすら気付かずに、もう手に入ることの無い
暖かな優しさをひたすらに求め、求めながらもそんな自分に気付か
ないふりをして、憎めばいいのか愛すればいいのか、忘れたいのか
219
忘れたくないのか、抱きしめてほしいのか抱きしめられたくないの
か、何一つとして心の整理のつかないまま、いつか来るであろう世
界の終わりと再生を心待ちにしていただけだった。
そして降って湧いたようなチャンスを前に自分が出来たことと言
えば、甘っちょろくて幼稚な愛情表現の裏返しだけだった。
もう世界は終わっていたというのに。
とっくの昔に世界は終わっていて、自分を置き去りにしたまま何
事もなく普通にこの星は回っていたというのに。
それをみじめと言わずして何を言う。
これを滑稽と言わずしてどれを言う。
そんな人生が、果たして生きていたと言えるのか。
生を謳歌していたと言えるのか。
若草のような瑞々しい時間を、風が導く級友との出会いを、輝け
る青春を謳歌していたと言えるのか。
自分は死んでいた。
生きながらも、死んでいた。
そうゾンビと自分は同じだ。なにも変わらない。
親に捨てられたさくら寮という人生の墓場で、死にきれず、生き
きれず、生と死の狭間にぶら下がって、ただ置き物のようにそこに
あっただけだ。
墓碑の下で心を腐らせながら、土の中から腕を突き出して、幸せ
の青い鳥を掴もうと叶わぬ努力をしていただけだ。
もう青い鳥を掴むことも、この手で握り潰すこともできやしない。
もはやその青い鳥の瞳には自分など写っていなかったのだから。
ああ、自分はいったい何のためにこの世に生まれてきた?
親に捨てられるためなのか?
220
ただ恨みを抱えるためなのか?
その恨みを誰かに知られるのがかっこ悪くて、作り笑いを浮かべ
て平気なふりをするためなのか?
不良少年に追い立てられて行き場をなくすためなのか?
行く当てもないのに、霧の迷路の中でまだ見ぬ楽園を妄想するた
違う違う違う違う!﹂
めなのか?
﹁違う!
まどかは泣き崩れていた。悔しさを地面に叩きつけていた。
そこでまどかはふと握り拳の中の感触に気付いて、そっと指を開
いてみる。
握り締めていたのは父の形見のジッポライターだった。知らぬ間
に握り拳に力が入っていたためか、手の平にはくっきりと十字架の
跡が付いている。 それは純銀製で手の込んだ十字架が掘られている母から父への初
めての誕生日プレゼント。今はもう失くしてしまった幸せの結晶。
﹁お父さん、なんで私は生まれてきたの⋮⋮?﹂
まどかは涙に濡れた顔を上げると、ジッポを持つ右手を突き出し
てカチンと火を点けた。
グラスファイバー製の芯に点った小さな火を目掛けて夜の冷気が
吸い込まれていくみたいに、シュボンという音とともに一メートル
ほどのオレンジ色の火柱が勢いよく立ち上がった。
その炎の勢いに乙葉が思わず息を呑んだ。
そしてまどかの左手は吸い寄せられるように炎の中へと消えてい
った。
221
﹁先輩、なにしてるんですか!?﹂
乙葉が血相を変えて駆け寄ると、慌ててまどかの左手を炎の中か
ら引っ張り出す。
そしてまどかの左手が手首のあたりから炎に包まれているのを見
て、乙葉は急いで炎を叩き消したが、その左手が火傷の一つも負っ
ていないことに驚きの声を上げた。
﹁せ、先輩大丈夫なんですか⋮⋮?﹂
﹁全然熱くない、熱くないんだよ乙葉ちゃん。私なんか燃えてなく
なっちゃえばいいのに、全然熱くないんだよ⋮⋮﹂
いものちから
ドラッグストアからの帰り道、椿と姫の二人に言われた言葉を思
い出す。
︱︱先輩の妹の力はもしかしたら火に関係があるのかもしれない
︱︱何か思い当たる節はないのですか
二人の真剣な眼差しを笑ってはぐらかしたものの、心当たりがな
いわけでもなかった。
サイン
日常の中の微かな前兆。それに気付いて意味を見出していくのも、
結局はその人間の心構え一つ。
サイン
ギフト
椿と姫は生に執着し、生き残ることに真剣だったからこそいち早
くその前兆に気付いて妹の力を手に入れていった。
それに比べて自分はどうだっただろう。
どれだけ生に無頓着だったことか。
どれだけ流されるままだったのか。
どれだけ生きていくことを心のどこかで諦めていたことか。
どれだけ心のどこかで死を願っていたことか。
222
まどかは乙葉を見た。とめどなく涙が溢れた。だが悲しいだけで
はなかった。胸の底からこみ上げてくる温かな気持ち。それに感情
が激しく揺さぶられていた。
﹁⋮⋮ずっとさくら寮は墓場だと思っていた。私はその墓場で生き
ているのか死んでいるのかわからないゾンビそのものだったの。波
風を立てず、心を見透かされず、平気なふりをして、普通に見られ
るように過ごしてきた。いつか私は氷みたいに温度を失くした生活
が普通になっていた。でも、そんな冷たい氷のトンネルの中でもお
父さんが生きていたころの思い出だけが熱を帯びていたんだ。ゾン
ビの私に熱い血潮と体温をもたらしてくれる、かけがえのない存在
だったんだ。ライターの炎はゾンビになってしまった私を、人間に
戻してくれるたった一つの生命の灯。いま炎の中から聞こえたの。
お父さんの声が。お父さんは、それでも生きていきなさいってずっ
とずっと私に語りかけてくれてたの⋮⋮﹂
まどかは立ち上がった。その顔はもう泣き顔ではなかった。
﹁ああ、乙葉ちゃん私はいま自分がどうすべきだったのかようやく
わかったよ。もう手遅れなのかもしれないけれど、私はもっとがむ
しゃらに生きるよ。生きるということにしがみ付いてみるよ。そし
てどんな手を使ってでも、私はここに居るんだと叫んでやる。私を
見て、私を迎えに来て、私を抱きしめろと叫んでやる。世界中にむ
かって叫んでやる。私の存在を思い出させてやるんだ。だから私は
さくら寮で生き続けなければならないんだ。だってあそこが世界の
終わりの始まりなんだから。あそこから再生をしなければ、私はい
つか昔の自分に踏み潰されてしまうに決まっている。さくら寮が人
生の墓場だとしても、死者が生き返るこんなあべこべの世界ならば、
その墓場こそが生者が生きる場所だ。全てが始まり生まれる場所な
223
んだ。だから私は帰るよ。お母さんに捨てられたあの場所へ。花城
まどかとして。第一さくら寮寮長として。あの場所へ帰って、この
新しい世界で新しい生活を始めるんだ!﹂
まどかは乙葉に手を差し出した。
﹁乙葉ちゃん帰ろう、さくら寮へ﹂
﹁はい︱︱!﹂
椿が右腕にジャージを巻きつけてシュウと大悟と対峙して、まさ
に二体の突進を受け止めようとしていたその時に、玄関から聞こえ
てきたのはまどかの声だった。
﹁椿ちゃん、姫ちゃん今どこに居るの!?﹂
﹁︱︱先輩!? 今ここへ来たらダメです!﹂
椿に向かって突進していた二体のうち、大悟が弾かれたように食
堂を飛び出していく姿を見て椿の顔が凍りついた。
しかし追いかけようとしたものの、シュウが腕に巻きつけたジャ
ージに食らいついて離さない。幸い歯は腕にまでは達していなかっ
たが、椿の身体を振り回そうとする顎と首の力が凄まじい。
﹁くそ、邪魔をするな糞ゾンビ!﹂
椿が焦りの感情を露にシュウの眉間目掛けて出刃包丁を振りおろ
した。
224
しかし咄嗟に右腕でガードをされてしまい、刃は鈍い音とともに
尺骨に当たって止まってしまう。
そしてここへ現れるはずのないまどかの登場で動揺していたのか、
出刃包丁での攻撃失敗の一瞬の隙を突かれてシュウの右キックが椿
の左膝を直撃していた。
電流が流れたような痛みが左足を駆け抜けて、一気に椿の体勢が
崩れていく。
そして左腕に噛み付いているシュウの暴力的なパワーが、彼女の
細く小さな身体を右へ左へと振り回し始めた。
そうなってはもはや蹂躙されるがままであった。
椿には最早その凶暴な怪力を食い止める術がなく、竜巻に飲まれ
た木の葉のように身体が宙に舞っては床へと叩きつけられた。
するとその時、視界の中に火の玉が飛び込んできた。
それが何者かの全身が火だるまとなって食堂のなかへ飛び込んで
きたと理解できるまでに数秒を要した。
床に倒れて燃える何者かは体の大きさからつい今しがた食堂を飛
び出して行った大悟と思われ、獣のような鳴き声を上げながら床の
上を苦しそうに転げまわっていた。
大悟の体はすでに黒く炭化していて一部が崩れ始めていたが、不
思議なことにその巨体を包み込む炎は、その勢いに反して床や天井
へ燃えうつる気配が全くなかった。あくまでも炎はその巨体だけを
燃やし尽くそうとするみたいに、執拗に大悟の体だけに絡み付いて
いる。
シュウが椿の右腕を放して、床でのた打ち回っている大悟に駆け
寄ろうとした時に、廊下がオレンジ色に赤く染まったかと思うと、
今度は上半身を炎に包まれたアキラが食堂のなかへ転がるように飛
225
び込んできた。
アキラは半身を炎に焼かれながらも威嚇するように入り口に向か
って唸り声を上げている。
そしてその入り口に姿を見せたのはジッポライターをかざしたま
どかだった。
﹁椿ちゃん大丈夫!?﹂
﹁︱︱パイロキネシス!。先輩、やっぱり⋮⋮!﹂
﹁まず謝っておく。ごめんね。私いろいろと間違えてた。私たちは
弱い存在だからって、ずっと流されるままでいいなんてこと決して
ないんだ。もう何かを失うのなんてごめんだよ。でもその為には人
や物事の間をすり抜けて逃げてるだけじゃダメなんだ。だから私も
戦う。ここが私たちの居場所なんだから。ここしか私たちは行く場
所がないんだから。︱︱椿ちゃん、私たちのさくら寮を奪い返すよ
!﹂
﹁はい、先輩!﹂
二人の会話をよそに、シュウとアキラが怒り狂ったように雄叫び
をあげてまどかへ飛び掛った。
しかしジッポライターの小さな炎が渦を巻きながら大きく燃え上
がったかと思うと、空中のシュウとアキラに襲い掛かって全身を飲
み込み、さらには炎の勢いで二体の体を押し戻して背後の壁へと叩
きつけた。
シュウとアキラは全身を炎に包まれながらもゆらりと立ち上がっ
た。
226
それを見てもまどかは臆することなく落ち着いていて、その瞳に
は静かな怒りに満ち溢れている。
そしてまどかの右手がジッポライターの炎の上でゆっくりと回転
し始めると、それまで小さな炎だったのが、右手の引力に引かれる
ように勢いを増してまるで生き物のように右手の動きに追随し始め
た。
それはまさに空中でとぐろを巻く赤く燃え上がる蛇のようでもあ
ったが、椿が目を見張ったのはその炎が見る見るうちに直径三十セ
ンチはあろうかという火球に成長したことだった。
﹁寮長としてこれだけは言っておくわ。第一さくら寮は男子禁制で
部外者は立ち入り禁止なの! そして害虫は見かけたら即刻駆除が
大原則!﹂
まどかが宙に浮かんでいる火球にふっと軽く息を吹きかけると、
火球はまるで空を切り裂く弾丸のようにシュウとアキラを目掛けて
飛んでいく。
﹁︱︱燃えてしまえゴミ虫﹂
その声に呼応するかのように火球は二体の間でピタリと停止した
かと思うと一気に収縮し、そして今度は一気に膨張すると二体を紅
蓮の炎の中へと包み込んだ。二体を飲み込んだ火球は激しく回転を
しながら炎の勢いを増していき、その周囲をプロミネンスが龍のよ
うに駆け回っている。
凄まじい熱風が食堂中を駆け抜け、熱気の塊が椿にも襲い掛かっ
たが不思議と恐れは感じなかった。
227
なぜならば、そのまどかが生み出した炎は彼女が念じた対象だけ
を焼き尽くすまどかの心の力なのであろうという確信があったから。
そしてその炎の暖かさこそが、彼女と初めて出会った時から感じて
いたまどかの優しさそのものだと気が付いたから。
シュウとアキラの体は半径三メートルの灼熱地獄の業火に焼き尽
くされて、一気に炭化して塵となって崩れていく。そしてそれに合
わせて炎の勢いも弱まっていき、やがて自然と消滅してしまった。
﹁ああ、ようやく終わったぁ。残りキョンシー一体、まどか先輩が
来なかったらマジでやばかったかも⋮⋮﹂
姫と乙葉が互いに体を支え合いながら食堂の中へと入ってくるが、
乙葉は食堂の惨状を見て顔を引きつらせていた。
﹁こ、これはかなり掃除のし甲斐がありますねぇ⋮⋮﹂
﹁大丈夫、椿ちゃん?﹂
まどかが椿に歩み寄って手を差し出す。
﹁私ね、椿ちゃんに一つだけ言っておくことがあった﹂
﹁なんですか⋮⋮?﹂
﹁実はね、私もこんな世界燃えちゃえばいいっていつも思ってた。
私たち似た者同士の普通じゃない子供なんだよ、きっと﹂
そう言って笑うまどかを見て、椿は照れ臭そうに、そしてどこと
なく嬉しそうに微笑んだ。
228
6月1日 月曜日 記入者 花城まどか
世界がこんなふうになってしまってから、今日で一ヶ月が経つ。
今のところあれから平穏な日々が続いている。
不良少年たちに乗り込まれて寮は大荒れになってしまい、そのせ
いでここ最近はずっと大掃除&大改修に追われて忙しい日々を送っ
ていた。
まず寮内には少年たちとキョンシーの死体が何体か残っていて、
その処理にはこまったけれど、結局中庭で火葬にして裏山へ埋葬し
てあげることにした。
その後で床や壁に飛び散った血液を洗い落とすのにも一苦労だっ
た。
こんなこと初めての経験だったし、精神的にもかなりきつかった
が、みんな黙々と作業をこなしていた。
いまここで命の尊さや人のあり方について思いを巡らせても仕方
が無い。
毎日は無常に流れていき、それでも私たちはどこかへ行く当ても
なくここで暮らして行かなければならないのだから。
そして今回の事件をきっかけに、外へ物資の調達へ行くのにはな
るべく四人揃って行動をするか、或いは留守番は必ず二人で行うこ
とにした。
最近は寮の前の坂道をゾンビが上がってきて徘徊していることも
あるので、念には念を入れておいたほうがいい。
229
そう言えば外出時に着用するヘルメットには、いつの間にかイヌ
耳ネコ耳ウサ耳一角獣の細工が施されていた。暇を見つけて姫ちゃ
んと乙葉ちゃんの二人でフェルトと綿を使って作ったそうだ。
それを初めて見た時の椿ちゃんが無表情のままお茶を噴出してい
たけど、一角獣はまんざらでもなさそうだった。
ギフト
そして私と椿ちゃん、姫ちゃんが手に入れた妹の力と名付けた不
思議な力。
なぜ乙葉ちゃんには兆候が現れていないのかなど、この力につい
てはまだよくわからない事のほうが多いけれど、少しでも生存確率
パイロキネシス
を高めるために力の探求に怠りはなかった。
いものちから
私の妹の力である発火能力と言う力は、どうやら自分が念じた対
象だけを燃やし尽くす力のようで、他にも自分で点けた火について
は離れていても火の様子が手に取るように感じられることもわかっ
た。
なので今は寮の周囲にかがり火をたいている。五十メートル位の
距離内であれば火が消えたことも、誰かがかがり火に近づいたこと
もわかる。
我ながら便利な能力を手に入れたと思うと同時に、寮生活の安全
度が増したような気がして嬉しい。
おや、そんなことを書いているうちに南東のかがり火に誰かが近
づく反応があったみたいだ。
ちょっと様子を見てこよう。
いま見てきたけれど誰も居なかった。
おかしいなぁ、確かに反応はあったのに。
そういえば昨日
230
了
231
第四章 墓場の乙女・ファイナル︵後書き︶
最後までお付き合いくださった方ありがとうございました。
※あとがきのようなものは活動報告のほうに投稿してあります。
232
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6007bt/
終末ヒロイン 乙とZ
2013年12月1日11時21分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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