“天”と“人の上”と“人の下”と 旧約単篇 創世記の福音 “天”と“人の上”と“人の下”と 創世記 2:7,ヨハネ 3:6,ローマ 14:4 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、余りにもよく知ら れて、みのもんたさんのクイズに出るくらいです。標語としても美しい言葉 ですが、あまり本気で受け止めている人は、いないのかも知れません。その 証拠に、大抵の場合、「ああ、あの人のように立派な仕事ができたら、私に も存在価値があるのに」とか、「こんな欠陥だらけの私は人間の屑だ」と考 えてしまいがちです。そんな場合に限って、「ろくでなしのあいつめ」とか、 「私は少なくとも、ああいう輩よりは価値がある」と自惚れるのです。人と の実績の差で、自分の価値を貶めて、人の醜さへの軽蔑で、辛うじて自分の 誇りを満足させてしまうのが人間です。今朝のスピーチの目的は、そういう 私たちの悲しさの根本にある原因を考えることで、聖書の福音に測光(サイ ドライト)を当てることです。 一言で言うと、「天は」と言うが、その「天」が欠落していること、「造 らず」とは言うが、「造られた」意識は無いこと、「人の」と言いながら、 その「人」の悲しさも、美しい可能性も見ていないことが原因です。そのた めに、この標語は「明日がある」の歌のように、ただ節を付けて口ずさむだ けの、自分とは無関係のものになったのです。 1.創世記 2:7 からのヒント さきほど朗読した創世記の言葉はこうでした。 主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。 人はこうして生きる者となった。 -1- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “天”と“人の上”と“人の下”と 土の塵をこねる神を想像する人は、「幼稚な神話よ」と笑います。でも、 この 2 行に込められた、人間の本質への洞察は鋭いものです。私たちが「土 の塵」を目で見て実感するのは、火葬場の台を引き出した瞬間ですが、あれ も「塵」の残り滓のようなもので、大部分はすでに大気中に散逸しています。 炭素、水素、窒素、ミネラル等です。ただそれだけのものが、せいぜい 60 年か 80 年、息をして、地上で何か価値ある活動をしているかに見えるのは、 「神の息」が吹き込まれて、「フースー」と肺をふいごにし、心臓をポンプ にしているからです。これを、さも自分で統御して「思想」を生み出し、「芸 術」を創造しているかに見える脳や人格も、実はパソコンの回路やメモリー とさほど変るものではないし、用が済めば「リサイクル」しようもない「塵」 に戻るのです。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、塵に命の息を吹き 込んだ「天」を知って、初めて意味を持ちます。その「天」は私にとってど んな方か、どんな目的を込めて、この数十年の短い間、ここに置かれたのか ……「天」にとって、あなたはどれだけ大事な存在なのか……それを知らせ に来られたのが、神の子イエス・キリストでした。 2.創世記 6:3 からのヒント 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人 は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。 ノアの物語の前置きに出る文章です。東海大学の石井教授はこの「百二十 年」という数字が、現代の科学の結論と一致すると感心されます。今朝は生 物学の話ではないので、「人は肉にすぎないのだから」の方に焦点を合わせ ます。「肉」はこの場合、罪との繋がりとか、倫理的な意味合いはあまり無 くて、人間の脆さ、悲しさ、弱さを描写した言葉です。神の手で「塵」から 創造されて、神の命の息を短い時間だけお借りして「息をしている」存在で -2- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “天”と“人の上”と“人の下”と す。最初のアダムの創造の所では、「生きて呼吸する者」でしたが、生きて いるとは言え、すぐ終わりが来る存在です。「神の救いを見るのは、その肉 なる者―しかも例外なくだ」(ルカ 3:6)という福音書の言葉は、清い優 れた人も無視される人も、有力者も無力者もすべてをひっくるめています。 「天は人の上に……」の背景です。 3.ヨハネ 3:6 からのヒント 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚 いてはならない。 イエスがニコデモに言われたこの言葉は、神に造られた「息をする存在」 としての人間には、その限界に留まらず、「新たに生まれる」可能性もある ことを教えます。ヨハネ福音書は「霊から生まれたもの」という表現で、こ の悲しい「肉なる者」に、新たに神が息を吹きいれて神の命でチャージする ―しかも恒久的にチャージなさることを示します。創世記の「その鼻に命 の息を吹き入れられた」と二重写しの場面です。 ヨハネ福音書を読んだ人なら、主からこの言葉を頂いた人が、イスラエル で最大の教師、聖人と言われる人物だったことを、記憶しているかも知れま せん。聖人も俗人も、人より優れた存在かに見える者も、人より劣って無価 値と見られる者も等しく、 「肉から生まれた肉なる者」なのです。そして「天」 の目には、どちらも上下なく同じ者として映っています。「天は人の下に人 を造らず」の背景が、ここにあります。ルカ福音書の言う「神の救いを見る のは、その肉なる者、しかも例外なくだ」(ルカ 3:6)という、「すべて肉 なる者の救い」を見た人は、もう自分を「人の下」に置くことも、「人の上」 に上ることも、できなくなります。 -3- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “天”と“人の上”と“人の下”と 4.ローマ書 5:5 からのヒント 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊 によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 「天」が私を造られたという、重い事実を前にしました。その私は単に 70 年あまり「フースー」と息をするだけでも、神の息を吹き込まれて初めて存 在できたのです。それでも「肉なる者」に過ぎなかった私が「霊から生まれ」 て、生ける神の命で一杯に充填されているのですが、何を証拠に私はその確 信を持てるのか……。自分を無理に「人の上に」置く必要もなく、卑屈に「人 の下に」ある自分を悲しむ必要も無くなった理由は何か? それは、イエス・ キリストを通して愛を受けたからです。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注が れている」から、私は最大の尊厳と自信を持てる。これが、使徒パウロの信 仰でした。彼はまた、次の言葉も残しました。 「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿ってい るのだから、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿 っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」 (ローマ 8:11)。 《 結 び 》 私たちは人の批評で自信を持ったり、卑屈になったりはしません。もちろ ん、自分の仕事が誰かの役に立ち、自分の言葉が誰かの慰めになって喜んで いただける時は、誰しも嬉しく思います。私のようなへそ曲りでも、「いい 仕事してますねェ」と言われれば(それで少しも自分の値打ちが上がる訳で はありませんけれど)素直に喜びます。「誉めるな。値打ちが下がる。もっ -4- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “天”と“人の上”と“人の下”と と悪く言え」などとは申しません。 でも、いちばん気持ちよくて安心できるのは、相手が私を、ただの一人の 「ひと」として扱ってくれる時です。私の場合、勤め先の学院でも、米国人 の学院長以外は「上役」とか「部下」などいない世界で 46 年を勤務しました ので、少し年配の方も、年下の方も、単に同僚としてだけ接しました。超教 派の牧師会や、聖書学者の学会など「先生、先生」という世界にも、引っ張 りだされましたが、なるべく早めにご勘弁願って、接触を断ちました。「全 国大会」だけは義理もあって、抜けられませんでしたけれど、病気のお陰で、 消える言い訳もできました。 御近所の付き合いは、渉外係の人柄のお陰もあって、「オダはん、大型ゴ ミでっせ」と気軽に言ってもらえる間柄になっています。ただ、どこかの家 のお子さんに英語を教えたりしますと、名前だけ「先生」にされて、20 年経 っても元へ戻らなくなります。これは日本語を使う場合の「使用税」みたい なものでしょう。幸い、この界隈向こう三軒両隣は気の置けない人たちで、 私も肩肘張らずに、気楽な雰囲気を楽しめます。 9 月に金沢へ旅行しました時に、一日案内してくれた運転手さんが、兼六 園の外に出たところで、「お客さんたちは、お仕事は何ですか?」と尋ねま した。「お二人とも、黄門さんみたいに杖をお突きですが……」家内の義兄 は 80 歳近くても体格は良いし、堂々としています。不動産会社の社長と正直 に言っても、自然に聞こえたでしょう。私は怪我の後で杖を使っていました が、「お客さんの元の仕事、当ててみましょうか。大工の棟梁ですか?」と いう言葉に、つい、「私、語学屋なんです」と言いましたら、「ああ、外国 語なら私も少しは知ってますよ。英語はサンキュー、フランス語はメルシ」 と茶化しながら、半信半疑のようでした。少なくとも、あまり偉そうな印象 を与えないで、平凡に見えたのかな……それだけは、ちょっと嬉しくなりま した。 -5- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “天”と“人の上”と“人の下”と 「学び北新」の中国語の仲間は、私が西洋の語学を職業にしていたことも、 聖書の講義をしているのも知っているのですが、「織田さんを見てると、非 常に自由で自然に見える。いつも不思議な人だと思う」と評したのは、長年 大東市の職員をしている人でした。もっとも、だれにも良い印象を与えてい る訳ではないので、「織田はんは堅苦しい、付き合い難い人やなァ」という、 減点の批評もあって当然です。でも、少なくとも、この方だけでも、「自由 で自然な」普通の平凡な人と評してくれたのは、私には、最大の賛辞かと思 えました。 「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず。」これを建前でなく、 美しい標語でなく、自分の生き方として、目標にしてみたいのです。まあ、 平凡ではありますが、可愛らしい夢ではありませんか! これが少しずつでも 身に着くなら、信仰とは関わりの無い人たちが、あなたを「平凡な、ただの 人」として、個人として見てくれます。 信仰者同士の間でも、お互いどんなに考えも異なり、性格も行動仕方も違 っていても、お互いの文化や、キリスト教のタイプの違いが、耐えられない くらい異質であっても、そういう相違とは拘わりなく、長年かけて、福音の 信仰だけで尊敬し合える強い友情が生まれることは可能です。これは経験か ら分かるのです。―アテネのマルコス・シオーティス氏から受けた愛、私 に福音を伝え新生の水に沈めた高藤孝夫氏への思い、天与の旧友飯島正久氏 との友情には、既に何度も語った通りです。 (2002/02/09) 《研究者のための注》 1.「武士道的なもの」が日本人にとって「虚しい誇りと差別の源になっている」という 私の「偏見?」の自己分析をしておきたいと思います。これはソクラテス、プラトン 以来の最も高貴な「ギリシャ道的なもの」をその道の最高のギリシャ人専門家から受 講した際にも、深い感動と同時に覚えた“No”でした。新約釈義の恩師 B 宣教師の印 -6- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “天”と“人の上”と“人の下”と 象的なコメントの中に、「ナザレのイエスの同時代の宗教者の中で最も真剣で高貴な 律法研究者は、ファリサイ派であった」という言葉がありました。ユダヤの最高の敬 虔派「ハシディーム」の流れを汲む同派は、イエスが指摘した「主の意図からの逸脱 と堕落」が無ければ、ヘブライズムの最高峰として歴史に残った筈であったと……。 新渡戸稲造の英文の名著の新しい優れた翻訳を「日本人の魂『武士道』」と題して世 に問うた山梨の飯島正久氏は、私にとつて五十数年来の「畏友」でありますし、「ギ リシャ精神がバルバロイの文化をいかに次元的に超越するか」を、自著をテキストに して教えたブルベリス教授はプラトン以来の「ギリシャ精神の精華」を私の魂の奥底 に刻みました。 2.私は上に挙げた先輩たちや友人たちの一人ひとりに、最大の敬意を持ち続けています。 その人たちが大事になさる「日本人の魂」を、また「プラトン以来の宝」を捨てたり、 その民族精神の精華を否定することを望んではいません。柳澤桂子さんには「般若心 経」の中心思想を、生きる限り大事にして頂きたいし、孔孟の思想と生き方に感動す る儒家にも幻を放棄して欲しくはないのです。それにも拘わらず私が、命の息吹で存 在を開始され、更にその同じ息吹を「風」として受けて「次の世にまで貫く生命力」 に繋がる存在としては、ヘブライの神聖もプラトンの色も付かない、ただ単に「肉な るもの」の立場に戻って恵みを受けるという「生の純人間の贅沢」に徹したい願望の 源は、嘗て中国の地で大和魂の力と高貴を教えられながら、同時に接種された「抗武 士道・抗民族的高貴・抗純粋理念」の「生涯の抗生体質」によるものであろうと推測 します。私はそれでこのまま平凡な「サルクス」また「バサール」rv'B' として だけの立場で神の前に立って、自分の義ではない「神の義」を裸で味わいたいのだと 思います。 3.上に述べた「最高の民族文化への抗体」の内在……という私の「偏見?」と結びつい ている「副作用?」の症状は、私が「使命感に燃え」たり「生き甲斐を持つ」ことへ のアレルギーです。外から見る人の目には、私がいつも何か一つの目標に向かって精 進し(語学でも新約文書の全巻通読と釈義でも)神と人の前に最大の努力を保持して (それで「立って」)きた姿が印象に残るそうです。確かに私自身が、ダマスコ以前 のサウロと同じように、誤って燃えていた時期もあったと考えます。しかし、パウロ の書簡を通して「異邦人のための福音」に触れて以来、「生き甲斐と使命感」追求の -7- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “天”と“人の上”と“人の下”と 情熱とその達成感や敗北の悲哀が、実は「自分の義」の確立に縛られて「神の義」の 受け止めを妨げると意識するようになり、「使命感と生き甲斐」と絶縁するよう、常 に意識しているのかも知れません。これは私特有の思考と生き方に属するもので、同 意しない方がおられて当然です。 4.「使命感も生き甲斐も持たない」生き方の私を生かしている力は、神が私をここに「呼 んで」その「お呼び」が私の今日の命の中に込められているという、その否定できな い真実にあります。「第1コリント書の福音」20 講の言葉を引用すれるなら、「各人 を神が召してこうされたように」(7:17) の動詞 (完了時称)の中には『すでに神が各人を召してしまわれた』神の行為と『現にあな たが何であるかは、その召しの結果として、またその召しの現われとしてここにある』 という、召された人の今の姿とが同時に表現されています。ギリシャ語の完了時称で は、過去の時点で終了した行為と、その結果としての現状とが二重写しになり、重点 は現在の姿にあります。」私はこの「神が私を呼んで現位置に置いている」ことを自 分の今日の生き方の動機また出発点として、自分に発する肉の使命感と生き甲斐の誇 りと恥を全面的に抹殺することで、神から一方的に受ける「神の義」だけを力の源に するよう、自分の拠り所をその一点に限定しているのだと自覚しているのです。私の 「使命感も生き甲斐も持たない生き方」の説明として、御理解いただけたでしょうか。 5.思想を生み出し、芸術を創造している脳や人格も、実は地の塵を材料に神の息で一時 的に生かされている事実の分析は、07 年 2 月 5 日の福音宣言「風が生み出す」の中で、 「千の風」と結びつけながら発表してあります。 -8- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
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